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「アド・アストラ」を珍品と思ってしまう私は読みが浅すぎるのかしら。

アドアストラ

今回は、新作の「アド・アストラ」を川崎の川崎チネチッタ12で観てきました。大画面で大劇場の作りでして、低音スピーカーを増強した、LIVESOUNDというシステムでの上映です。こういう無料オプションのサービスはうれしい限り。ここで売り物のLIVEZOUNDの方はちょっと圧が強めでスペクタクル映画だとやややかましい印象になってしまうので、この低音増強サービスくらいがオヤジにはちょうどいいです。

国際宇宙アンテナで働いていた宇宙飛行士のロイ(ブラッド・ピット)は、作業中、サージと呼ばれる宇宙の電磁気嵐による事故に遭遇し、何とか無事に帰還します。帰還後、ロイは上官に呼び出され、極秘任務につくことになります。実は、世界中に犠牲者を出したサージは海王星から出ているというのです。かつて、リマ計画というプロジェクトで、ロイの父親であるクリフォード(トミー・リー・ジョーンズ)率いる地球外生命体の探査チームが海王星へ向かったきり行方不明となっていたのです。さらに上官は、探査チームがまだ生存していて、今回のサージの原因は彼らではないかというのです。このサージが何度も発生すれば太陽系全体をも危機に陥れるとも。16年前に死んだものと思っていた父親が生きているかもしれないという事実に驚くロイ。そして、父親の生存を確認せよという任務を負うことになります。彼はお目付け役で父の友人であるプルイット大佐(ドナルド・サザーランド)と共に月の裏側にある秘密の発射場に向います。体調を崩しプルイットはロイに任務を託し単身火星へと向かいます。火星の地下基地で父親にコンタクトをとるようにメッセージを読み上げるロイですが、ほどなくその任を解かれ地球への帰還命令が下ります。落胆するロイの前に火星基地の司令官であるヘレン(ルース・ネッカ)が現れ、リマ計画で起こった驚くべき事実を語り始めるのでした。

「アンダーカヴァー」「エヴァの告白」などで知られるジェームズ・グレイが、イーサン・グロスと共同で書いた脚本をもとにメガホンも取ったSF映画です。20世紀フォックスとレジェンダリーフィルムが共同で製作しさらに中国資本も入った大作でして、主演のブラッド・ピットもプロデューサーに名を連ねています。映像的にはリアルな近未来のイメージで描かれた「グラヴィティ」に近いタッチですが、主人公のモノローグがたくさん挿入され、スペクタクルやサスペンスの要素は少なめで、静かなタッチのドラマに仕上がっています。ベネチア国際映画祭に正式出品されたそうですが、それも何となくわかる、娯楽SFとは一線を画す、やや理屈っぽい人間ドラマということもできましょう。じゃあ、形而上学的、哲学的な小難しい題材を扱っているのかというと、そうでもない、普遍的な人間の葛藤を扱っているのが面白いところでして、そんじょそこらの人が思い悩むことを、宇宙空間で見せましょうというのはかなりケッタイな映画だと私は思いました。悪くはないし、いいところも一杯あるし、役者もいいんだけど、珍品なんですよ、これが。

主人公のロイは優秀な宇宙飛行士なんですが、あんまり人づきあいがうまくなく、妻(リブ・タイラー)ともうまく行ってません。いつも冷静沈着、感情に流されることなく物事を処理していくことを誇りにしているようなんですが、何か心の中に満たされない空洞を抱えています。仕事人間であり、地球外生命体なんいていうこの世の向こう側にこだわる父親の影響下にあるロイは、危険な仕事だからという理由をつけて人と深くかかわることを拒んでいるみたいなのですが、どうもそれも本意ではなさそう。今回のブラビはロイという人間を務めて普通の人として演じようとしている節があり、優秀で天才肌だけど近寄りがたかった父親を抱えた息子が、どうやって父親を乗り越えて、呪縛から解放されるのかというお話を丁寧に演じ切りました。そういう普遍的な親子、人間間の葛藤がメインなんですが、それを宇宙SFでやる理由は、凡人の私には理解できませんでした。この物語なら、SFでなくても、父親が天才作曲家でも、天才漫才師でも、ヒトラーであっても成り立つお話なんです。まあ、題材の組み合わせで意表を突きたかったのかも。あるいは、こういうドラマを多くの人に観て欲しいから、ブラピとSFを取り込んだとも言えそうです。SFとのミックスというと、私はオカルトとSFをミックスした「イベント・ホライズン」という珍品の佳作があったのを思い出しますが、ああいう異業種交流みたいな味わいがある映画です。宇宙旅行なのに主人公のプライベートがクローズアップされてくるのは「イベント・ホライズン」とちょっと似てるんでよね。(← かなり強引)

それでもSF映画としての趣向も盛り込んでありまして、火星へ行く途中、救難信号を受信した宇宙船へ向かったら、誰もいないというホラーミステリー的な展開ですとか、月面で基地へ移動中に略奪者に襲撃されるという西部劇風の趣向ですとか、お金をかけたリアルな見せ場になっているのですが、主人公のモノローグほどの重みが感じられることなく、車窓の風景みたいに流れていくのは演出が狙ってやっているのかしら。そういうアクション的な見せ場より、ロイが任務遂行の途中で何度も機械相手の心理テストを受けて、心理状態が閾値を超えると任務不適合にされちゃうとか、ほとんど表情を変えないロイに不意に人間的な葛藤が走るシーンなどの方が印象の残るのは、この映画が宇宙旅行よりも、インナートリップの方に重きを置いているからかしら。SF的だなと思ったのは、宇宙空間では、どんどん簡単に人間が死ぬところでして、広大な宇宙空間では人の命なんて儚いものだという無常観がSFっぽいかなって印象でした。

人間の精神の部分に重きを置いた映画なので、映像は全体的に暗めで地味。音楽はマックス・リヒターによるポストクラシカル音楽がメインで、さらに映画音楽のアンダースコア職人ローン・バルフェが追加音楽として参加(メインタイトルでちゃんとクレジットされています。)さらに追加音楽としてニューエイジのニルス・フラームまでクレジットされていまして、シンセとオケによる現代音楽が、あっちの世界というか精神世界というか哲学っぽい雰囲気で、ずっと鳴っているのですが、これはハッタリ演出ではないかいと思ってしまいました。そんな高尚な話ではなくて、「親の呪縛を克服する息子」「孤独を孤独と受け入れることで他人へ心を開く主人公」といった、ありがちでわかりやすいお話だと思っています。それを宇宙でやられると、「これって、2001年みたいな宇宙哲学を扱ったすごい映画なんだ」って思いがちなんですが、そういうお話ではないです。

ネタバレ上等で書いちゃいますけど、海王星まで行ったけど、地球外生命体は見つかりません。ひょっとしたら、その先へいけばいるのかもしれないけど、この映画の登場人物の中では、「結局、その向こうの世界へ思いを馳せてもそんなものはないんだよ」というところに落ち着くのです。何ていうのかな、ここでいう海王星は、宇宙の果てと同値であって、結局、宇宙の果てまで行っても、人間以外のものはいないんだからって悟って、人間に還ってくるって話なんですよ。あんまり科学的じゃないけど、個人の感情、個人の哲学の中ではそうクローズさせないと、ロイは人生を前に進めないみたいです。でも、どこかすっきりしないまま停滞しているのなら、科学的な検討よりもある一線での割り切りの方が大事だよっていうのは、ある意味、宗教に近いのかもしれません。そう考えると無慈悲に膨張する科学と、そこに一線を引いて人を導く何かという対立構造が見えてきて、意外と深い映画なのかもしれません。

演技陣では、ブラッド・ピットが普通の人を熱演しているのですが、普通の人を演じるとカイル・チャンドラーになっちゃうんだなあってのは発見でした。トミー・リー・ジョーンズは、その存在感だけでドラマを支えていまして、最後までよく読めないキャラを、主人公の視点から演じて見せたのはなかなかの曲者ぶりでした。また、主人公が地味な分、ルース・ネッカがその好対照キャラでインパクトありました。儲け役なのですが、地味なドラマの中で、彼女だけスポットライトが当たっているように見えるあたりは演出の計算なのかしら。ドナルド・サザーランドも渋い存在感でドラマを支えていますが、主人公も同じくらい渋いので、不思議なバランス感覚になっています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ヘレンがロイに語るところによると、海王星の宇宙船内で地球へ帰還したがった乗組員が反乱を起こした時、クリフォードは宇宙船の一部を閉鎖して、反乱を起こしてない乗組員も巻き添えにして、事態を鎮圧したというのです。ヘレンの両親は乗組員だったのですが、巻き添えでクリフォードに殺されたのだと。一方、核兵器を積んだ宇宙船が火星基地から海王星に向けて出発しようとしていました。ロイはヘレンの協力を得て、発射寸前の宇宙船に潜り込むことに成功するのですが、彼を殺せと指令された乗組員ともみあいになった結果、彼以外の乗組員は全員死亡。ロイは一人で海王星へと向かいます。海王星の軌道上のリマ計画の宇宙船を発見したロイが、乗り込んでみると、そこにはクリフォードが一人生き残っていました。反物質エンジンが故障して、サージを引き起こしていたようなんですが、クリフォードにも修理できないでいたみたいです。リマ計画の成果は、結局地球外生命体は存在しなかったということの確認でした。それでも、外宇宙にこだわるクリフォードを説得し、地球へ連れ帰ろうとするロイ。しかし、核爆弾のタイマーをセットして、宇宙服を着せて船外に出た時、クリフォードはロイから離れて宇宙空間の中へ消えていくのでした。呆然とするロイですが、一人で宇宙空間を漂い始めた時にふと思い立ち、自分が乗ってきた宇宙船まで戻ると、核爆発のエネルギーを利用して、海王星の軌道を脱出、地球へ向かいます。再び、有能な宇宙飛行士に戻るロイですが、何かが変わったようで、妻との再会もし、新しい人生が始まるようなのでした。おしまい。

それって、SF的にリアルなの?って思うシーンもあるのですが、クライマックスは親子の再会から別れの展開となり、ロイは父親を乗り越えて、その呪縛から解き放たれたように見えます。一人きりで海王星に向かう途中で、ロイは自分が孤独であることを再認識します。(孤独だよーってナレーションが入ります。)そこまで、極端な孤独にまで追い詰められないと自分の精神状態がわからないのかとも思ってしまうのですが、そんな孤独な彼が、外宇宙への夢が果ててしまった父親と再会するという出来過ぎな展開ではあるのですが、その結果、自分の身の回りに改めて心を向けるようになるという結末は意外と普通だねという印象でして、宇宙の果てまで行かないと見つからないものでもないよなあって思ってしまったのでした。それとも、もっと深い宇宙の哲学みたいなものが描かれていたのかなあ。でも、外宇宙には何もないんだよなあ、だからそっちへ思いを向けるよりは身近に目を向けなよって話って、うーん、これって自分でも読みが浅すぎるんじゃないかという気がしてきました。何だ、この納得できそうでできない余韻は?って思わせるあたり、やっぱり珍品だよなあ。。
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「主戦場」は日系アメリカ人監督の視点で従軍慰安婦問題を描いたドキュメンタリー、勉強になりました。

小さい文字主戦場
今回は、横浜の伊勢佐木町の唯一残る映画館、横浜シネマリンで「主戦場」を観てきました。8月ということで戦争に関するドキュメンタリーや映画をかけてくれる映画館ですが、お客さんは、私(←半分ジジイのオヤジ)よりも年長の方がほとんどです。映画館が年寄り向けのカルチャースクールになっちゃうのはもったいないよなあ。

日系2世のミキ・デザキが監督、撮影、脚本、編集、ナレーションを一人で行った、従軍慰安婦問題を扱ったドキュメンタリー映画です。私が知っている従軍慰安婦問題というと、1990年代に突然湧き上がって、いわゆる偏向メディアと言われる朝日新聞が取り上げ、韓国からも元従軍慰安婦が名乗りを上げ、国際問題にもなったが、いわゆる日本政府や日本軍が強制連行したかというとそのあたりは嘘くさくて、それでも性的被害者に遭った女性には日本政府としては謝罪の意を表したけど、結局、朝日新聞が従軍慰安婦についての報道に虚偽があったことを認めたという流れです。でも、虚偽報道を認めたときには、慰安婦問題は韓国や中国の日本バッシングの恰好の題材となっていて、アメリカにも従軍慰安婦像が建てられるようになっているという感じでしょうか。テレビニュースレベルの知識なので、深く知ってるわけではなかったので、従軍慰安婦問題についての映画ということでは認識を深めたいという動機でスクリーンに臨みました。

映画は、従軍慰安婦問題の経緯の字幕から始まり、日韓合意に至ったところで、後付けでその事実を知らされた元慰安婦の女性が、韓国の役人に抗議するシーンになります。そして、前半は主に、日本の右派の人間へのインタビューとなります。なるほど、元慰安婦の証言が後になった変わったり、日本側の証拠となる文書がなかったりといった話はどうやら事実らしいです。でも、右派へのインタビューの見せ方(特に編集)には、彼らをこの映画の中の悪役にしようとする意図が感じられ、「ああ、そういう立場ね」というのが見えてきます。でも、元慰安婦へのインタビューでお涙頂戴の展開になっていないのが面白い展開となります。さらに、慰安婦像を建てようという韓国の市民団体(これは微妙な表現ですね、プロ市民かもしれないし)のデモンストレーションとか、彼らへのインタビューを見せます。映画は、この一件への様々な切り口を明確に見せてくれるので、「ああ、そういう立場に立てば、そういう理屈になるなあ」というのをわかりやすく理解することができると言う点でよくできていると思います。また、作り手がアメリカ人という点で、アメリカ人の文化というか正義観が伺えるのも、面白かったです。私は、ミキ・デザキの見解には反対なのですが、筋道をわかりやすく表現しているところに彼の誠実さを感じます。まあ、その考え方は好きじゃないけど。

監督の視点は、まず慰安婦というのは性奴隷であるという議論には賛成らしいです。でも、性奴隷にされたのは誰のせいなのかというところは証明できないし、そこは重要視していません。さらに、従軍慰安婦像は、平和と祈りのモニュメントだから、設置を反対するのはよくない、むしろ設置すべきだという意見を持っています。一方、右派の人間も慰安婦の中に騙されたり強要されて慰安婦にさせられた女性がいることも否定していません。でも、右派の人間からすれば、慰安婦の悲惨な人生の原因が、大日本帝国と日本軍にあることは絶対に認めたくはないようです。ですから、慰安婦問題について、ちょっとでも疑義があるなら、それは信用するに値わずという立場をとっています。そこまでは、私も頭を整理してついていけたのですが、それ以外にも様々な視点や意図がこの問題には含まれているとわかってくると、結構厄介な話になってきます。

右派の池田水脈議員(この人、この映画ではさんざんな描かれ方をしてます。右翼は嫌いだけど、率直な意見を、極悪非道みたいに編集されているのはちょっと気の毒。)が、高齢の元慰安婦の証言はあてにならないという言い方をします。冷静に考えると人間の記憶はどこまで信用していいのかあてにならない部分もあるのですが、アメリカの公聴会で、その点を指摘して否定派の人間が、議長から「被害者の証言を否定するなんて、恥を知れ」と言われるシーンがすごく印象的でした。一度、被害者認定されるとその証言が真偽を越えて物凄く力を持ってしまうというのは、結構怖いものがあると思います。アメリカでは、過去の偽記憶から、親が、性的暴行の加害者として訴えられて敗訴するというケースが多発したそうで、それを覆すのはすごく大変なことらしいです。日本でも痴漢冤罪のパターンがありますしね。被害者は気の毒だけど、その気の毒さ加減が、加害者を特定する材料にはならないのですよ。でも、デザキ監督は、酷い目に遭った慰安婦の像を作って平和を祈るのはいいことだというスタンスを取ります。でも、日本人の私からすると、全ての性奴隷となった女性の代表が、日本によって強制連行された韓国人従軍慰安婦だと言われるのは釈然としないものがあります。だって、性奴隷の加害者の代表が日本だと言われると、うれしくないという身びいきの部分と、本当に日本軍が強制連行したかどうかははっきりしていないように思えるからです。それって、事実確認前のイメージ先行のネガティブキャンペーンだよねって思っちゃうのですよ。

また、この映画では、貧しさから身を売って従軍慰安婦になった女性であっても、いくら金をもらったかに関係なく、不本意な性行為をした女性は、全て性奴隷だという立場を取っています。これは難しいことになってきました。あの時代、日本軍が中国人を度胸試しで殺したり、女性をレイプしたという話は、私はあったこととして認識していまして、それって日本が向き合うべき恥だと思っています。でも、大昔からある売春という商売を奴隷と言い切るのは歴史的にどうなの?って思ってしまいます。日本軍の指示で、慰安所を作るように指示された韓国の業者が、未成年の女性を騙して慰安婦にしていたという場合、確かにかわいそうな境遇にある女性を抱きに行った兵士が後ろめたさを感じることはあっても、日本が直接責任を負うのかというとそれは違うように思うのですが、この映画では、発注者である日本軍が責任を負うべきだという議論なんですよ。そもそも公娼制度を敷衍した、公式の慰安所を作ってしまったところに、そういうことを言われる遠因があるのでしょうが、全ての諸悪の原因を、日本に集約させようとする慰安婦像を、素直に平和と祈りの像とは考えにくいです。そう思うのは、テレビで韓国での反日パフォーマンスを何度も観ているからで、慰安婦像も、そのパフォーマンスの一つとしか見えないということがあります。

慰安婦として悲惨な人生を送った女性がいたことは事実だと思います。その事実から、他の真実を導くにはやはり検証が客観的な視点が必要になると思います。でも、それってすごく難しいです。例えば、この映画に登場する右派の皆さんは、自分にとっての都合のよい事実を重視し、聞きたくない話は軽視するか、証拠不足を理由に否定しようとします。でも、これは右派も左派も人間なら誰しもやることだという認識に立たないと、真実には近づけないと思っています。特に過去にあったことの解釈には、自分の好み(倫理観とかイデオロギーとか)が入ることを踏まえて考えないと無自覚な偏見が含まれてしまいます。この映画でも、日本が実際に慰安婦に対してどこまで責任があるのかをはっきりと言わず、責任の所在を軽視しておいて、明らかに日本叩きに使われている慰安婦像を肯定している点では、右派の論理と大きな違いがないようにも見えます。

とは言え、従軍慰安婦問題の論点を整理してくれたという点で、この映画を高く評価したいです。まあ、右派や愛国者と言われる日本人にとっては不愉快な映画だと思いますが、それも、ある意味事実ですし。ただ、慰安婦像肯定派の論理の不備については当然言及していませんがら、そこはこの映画の中から読み取ることになります。また、デザキ監督は、慰安婦問題から、今の安倍政権や日本会議の改憲問題にまで言及し、かつての日本国憲法を復活させたい連中が、過去の日本の恥を隠したいから、慰安婦問題に対して否定的な立場を取り、否定的なキャンペーンや展開しているのだと言い、「憲法改正して、軍備拡張して、アメリカの戦争に巻き込まれてもいいの?」というメッセージで映画は終わります。ああ、なるほど、そういう話だったのかと最後に気づくことになります。要は、慰安婦問題がどこまで本当でどこまで怪しいのかという点はどうでもよくって、慰安婦問題を否定する日本の右翼が台頭している日本はヤバイですよというのが本筋だったようです。

この映画はドキュメンタリー映画ですが、明らかな政治的な意図を持った映画で、その意図に沿った形で、映像の選択、編集がされていますし、最後には、「慰安婦像を設置しようよ」キャンペーンの側面も出てきます。でも、そういうドキュメンタリーを偏向しているとは思いません。何の意図もなしに政治ドキュメンタリーなんて作れませんし、何も訴えない政治ドキュメンタリーなんて面白くないでしょうから。私は、この映画に、共感するところもありましたし、反対だと思うところもありましたが、でもこの映画、面白いかったです。特に、過去の事実を証明することの困難さを再認識できたのは大きかったです。当事者の証言だけでは、全体像は見えないんだなあって。

「誰もがそれを知っている」は誘拐サスペンスから、悪意あるメロドラマへ。

今回は新作の「誰もがそれを知っている」を有楽町のヒューマントラストシネマ有楽町1で観てきました。映画の日ということもあってかなりの混雑で、特にネット予約の発券機に大行列。私は当日券の列に並んでネット予約を発券してもらって大して並ばずに済んだのですが、早く窓口を開けるとか人を増やすといったプラスアルファの対応があるとありがたいです。

スペインの田舎町で結婚式が行われることになり、アルゼンチンに住んでいる花嫁の姉ラウラ(ペネロペ・クルズ)が子供二人連れて里帰りしてきます。家族や幼馴染で元恋人パコ(ハビエル・バルデム)との再会を楽しみ、結婚式も無事に終わるのですが、その後のパーティの夜、事件が起こります。ラウラの娘イレーネが気分が悪くなって部屋に戻った後、村全体が停電が発生、その後イレーネの姿が消え、ベッドにスペインで起きた誘拐事件の新聞の切り抜きが置かれていました。さらに、ラウラの携帯に「娘を誘拐した。警察に通報したら殺す。」というメールが届きます。ラウラは家族とパコに事態を知らせて、どうしようかということになります。犯人の見当はつかないし、警察に知らせることもできず、どう動いてよいかわからない状況に、身代金30万ユーロの要求メールが来ます。ラウラの義兄フェルナンドが友人の元警官に連絡を取って相談をかけると、犯人はラウラ達を監視しているようだから、身代金を用意しているふりをした方がいいと言います。そこで、パコが農園を売る相談を共同経営者にかけて、金集めをしているようにみせかけようとします。アルゼンチンから、ラウラの夫アレハンドロ(リカルド・ダリン)がやってくるのですが、何だか周囲は彼に疑いの視線を向けます。もともと、お金持ちだったらしいのですが、会社を潰して、ここ2年は無職だったというアレハンドロ。でも、かつては村の教会に寄付したりして、村では金持ちで通っていたことから、娘が誘拐されたらしいということになっているのですが、幼い弟でなく、15歳の娘が誘拐されたことに、元警官の男は疑問を指摘するのでした。果たして、娘は無事に帰ってくるのでしょうか。

「彼女が消えた浜辺」「別離」「ある過去の行方」「セールスマン」など、人間関係の機微をクールにそして重厚に描いてきたイラン人監督アスガー・ファルハディの新作で、この作品でも自ら脚本を書いて、メガホンを取っています。今回はこれまでの作品にようなイラン人は一切登場せず、スペインの村で起きた事件をスペイン人のキャストで描いています。プログラムによるとペルシャ語で書いた脚本をスペイン語に翻訳させて演出させたそうです。国際的メジャーなスペインの俳優であるペネロペ・クルズとハビエル・バルデムを主演に据えているところからも国際マーケットを視野に入れた映画だと思われ、スペイン、イタリア、フランスの資本が入った映画ですが、きっちりファルハディの映画に仕上がっているところはお見事でした。それでも、過去の作品に比べると、誘拐という非日常な犯罪がドラマの中心に据えられていていることもあり、「彼女が消えた浜辺」「別離」のような普通の人間の人生の中のリアルな息遣いを丁寧に拾った作りではなく、「ある過去の行方」「セールスマン」のドラマチックさをさらに拡大したような内容になっています。まあ、国際的セールスを狙う映画だと、イラン人の日常生活や倫理観を細かく描くよりは、ドラマチックな事件に立ち向かう普遍的な人間の姿を描いた方がとっつきやすいだろうなって気はします。

結婚式前日から始まる映画で、序盤はたくさんの登場人物の紹介に追われるので、若干しんどいところもあります。サスペンス映画であるので、登場人物や人間関係がわからないと面白みが伝わらない映画ではあるのですが、そのあたりの捌きは今一つかなって気がしちゃいました。でも、誘拐事件が起きて、ドラマが主要人物だけに絞られてくると俄然調子が出てきてドラマに引き込まれてしまいました。警察に通報できないので、娘を取り返すには犯人の要求に答えるしかありません。さらに犯人はラウラの周辺事情に詳しいので、身近な人間が犯人かもしれないというのがサスペンスにつながるのですが、映画は誘拐劇そのものよりは、誘拐事件の中で明らかになってくる過去の事情の方にフォーカスをあてて展開します。映画の構造として誘拐劇の結末よりも、登場人物が過去をどうするのかというところがメインになっていますので、誘拐劇として見ると、お話が完結しないことになるのですが、それでも映画は、余韻を持った結末を迎え、原題にもなっている「誰もがそれを知っている」の意味が見えてきます。この題名の意味は、映画の主題とは別のところで、舞台となっている村というコミュニティの不気味な余韻となってきいてきます。

最初は、年ごろの娘の狂言誘拐とも思われるのですが、持病の薬をそのままに姿を消しているところ、そして、村の停電が人為的に行われたことがわかってきて、犯罪の匂いが濃厚となり、誘拐された娘をどうすれば取り戻せるのかというところにドラマの重心が移動していき、さらにどうすれば身代金が払えるのかという話になってくるのです。ラウラの幼馴染であり、恋人でもあったパコは、彼の奥さんが訝しむほどに、ラウラの事を気にかけて行動し、身代金を肩代わりするようなふりまでしてくれます。観客からすると、ラウラがそこまでしてくれるパコに対してあまり遠慮がないように見えるのが気になります。さらに、ラウラの旦那が映画の前半登場しないことで、このダンナが犯人なんじゃないのという気になってきます。金持ちのような噂話が聞こえてきて、その後、最近2年は無職だというのがわかってくると、ますます怪しく見えてきます。ところが、物語はそういう誘拐ミステリーとは別の方向へシフトしていくのです。

演技陣では、母の覚悟と女の怖さの両方を演じ切ったペネロペ・クルズの演技が見事でして、彼女のつかみどころのない奥行きがドラマに複雑な余韻をもたらします。事態が進展しない状況下で、彼女はパコが身代金を肩代わりすることを期待し、実際に口に出して頼むようになります。また、そんな彼女を挟んで対峙するハビエル・バルデムとリカルド・ダリンが最後には、ヒロインに翻弄されるかたちになるのですが、そんな男女の在り様をファルハディの演出はクールに突き放して描いていまして、そこに救いのなさを感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、少しでも身に覚えのある人にはかなりきつい内容になっています。これまでのファルハディの映画では、どうにもならない人間関係を描いたものが多かったのですが、今回は、人間の意思がややこしい関係を作りだしますので、貧乏くじを引いた人は気の毒だよなあって後味になります。神の御業によるものなら、あきらめもつく結末なんですが、人間の意思が作りだした不公平さには、何だか納得いかないという憤りを感じてしまうのですね。このあたりの意地の悪い後味は劇場でご確認ください。

犯罪サスペンスとしてはきれいに着地しないので、そこを不満に思われる方がいらっしゃるかもしれません。それでも、私はこの映画楽しめました。極限状態になったヒロインが、妙にうまく立ち回って、事を収めてしまうところとか、それに振り回されて今の生活を破壊していまうパコの悲劇。やたら、神のご加護を持ち出すけど、結局いいとこどりしてしまうアレハンドロ。さらにサブプロットとして描かれるのですが、ヒロインたちが秘めていたつもりの秘密がコミュニティの噂で公然の事実になっていたというところも面白かったです。そう思うと底に悪意のある笑いを込めたメロドラマということもできそうですし、見方を変えれば、誘拐に端を発したブラックコメディという言い方もできましょう。でも、ハピエル・バルデムがきっちりシリアスに演じ切ったパコというキャラは明らかに悲劇のヒーローなのです。そういう多面性を持ったドラマなので、座りが悪い部分もあるのですが、色々な解釈の余地を楽しめれば、この映画への評価も上がるのではないかしら。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



実は誘拐されたイレーネの父親はパコでした。若い時に別れたパコとラウラですが、再会したとき、ラウラは子供を身ごもってしまいます。その時、ラウラの夫アレハンドロは酒に溺れて仕事も最低の時、ラウラは子供を堕ろそうとするのですが、それを知ったアレハンドロが、これを神の啓示と思って、彼女を止めて、生まれたのがイレーネでした。そして、彼女によって一度はアレハンドロは立ち直っていたのでした。それは、墓場まで持っていく秘密の筈ですが、村の噂で、そのことは周知に事実になっていました。だから、幼い息子ではなく、イレーネが誘拐されたのです。イレーネの両親が身代金が払えなくても、パコが肩代わりすると犯人たちは読んでいたのです。犯人はラウラの兄フェルナンドの娘ロシオの恋人たちで、ロシオ自身も一枚噛んでいました。パコは秘密を妻に打ち明けて、農場を売り払って身代金を作り、犯人の指定する場所へ持っていき、イレーネを取り戻します。パコに感謝して、ラウラとアレハンドロと子供たちはアルゼンチンへ帰っていきます。妻が出て行った家で、一人物思いにふけるパコ。一方、自分の娘の挙動のおかしさに気づいたロシオの母が、夫のフェルナンドを呼び止め、何かを話しかけている様子をロングでとらえたカットから暗転、エンドクレジット。

結局、誘拐は成功して、犯人はまんまと身代金をせしめてしまいます。フェルナンドの友人である元警官の推理はほぼ当たっていたのですが、結局犯人を特定できないまま、警察が関与することなく、事件は終結してしまいます。物語としては、娘の父親がパコであることは周知の事実のようになっていき、自然な流れでパコが身代金を出すことになり、それにより、彼は農場も妻も失ってしまうのでした。なるほど、アレハンドロ目線からすれば、これは神のご加護による奇跡に見えてますます信仰に走りたくなりそう。一方、ラウラからすれば、昔の恋人のおかげで家族を守れたというハッピーエンドになるのかも。彼女が、パコに対してあまり負い目を感じていないようなのが気になるのですが、これはある意味、家族を守るヒロインの強さという解釈もできると思います。じゃあ、パコは弱い被害者なのかというとそういうこともなくって、強い愛情と意思で娘の命を助けるのですが、そのことで報われることはなく、失ったもの大きさだけを痛感するラストは、何かフェアじゃない決着のようにも思えるのですが、そうなるしかないドラマの流れなので、ついてない男の悲劇となります。家族の結束が強まるラストと表裏一体の結末は、皮肉な笑いも感じさせるのですが、笑い飛ばさない真摯な演出が、一つの事件の多面性を描いた映画としての見応えを感じさせてくれます。

「ブラック・クランズマン」は娯楽映画の上にストレートなメッセージを盛りつけて見応えあります。


今回は新作の「ブラック・クランズマン」を川崎のTOHOシネマズ川崎7で観てきました。ウィークデーの最終回としては結構お客さんが入っていました。

1970年代、アメリカのコロラド州コロラド・スプリングスで、人種を問わない警官募集に応募して、初めての黒人警官となったロン(ジョン・デヴィッド・ワシントン)は、資料室勤務が不満で潜入捜査官を希望したら、黒人活動家の演説会に潜入する仕事を仰せつかり、学生活動家のパトリス(ローラ・ハリアー)と仲良くなります。その後、配属された情報課で、彼は何とKKK(クー・クルックス・クラン)の募集広告に電話して、白人のふりをして、潜入捜査をすることになります。電話ではOKでも直接会いにはいけないので、実際に会いにいくときはユダヤ人の警官フリップ(アダム・ドライバー)がロンのふりをすることになり、二人一役で黒人(後ユダヤ人も)差別主義者を演じて、KKKの支部に入り込むことに成功します。彼らの口ぶりからすると、どうもKKKが近々何かすやらかそうとしているみたい。一方、ロンが会員証の件で本部に電話したらKKKのトップであるデューク(トファー・グレイス)につながり、さらに信用を得ることになります。そして、黒人の集会の日、一方ではKKKの支部でも、デュークを招いての集会が行われていました。KKKの連中は何かやらかそうとしているようです。でも、ロンは上司の指名でデュークのボディガードをすることになっちゃいます。KKKの集会で浮いているロン、しかし、そこに不穏な動きが....?

「ジャングル・フィーバー」「マルコムX」「セントアンナの奇跡」などで知られるスパイク・リーが、実在した黒人警官の実録本をもとに、脚色し、メガホンを取りました。アカデミー賞の作品賞、監督賞、作曲賞などにノミネートされ、脚色賞を受賞しました。作品賞を「グリーン・ブック」がかっさらったので、リー監督が機嫌悪くなったというエピソードが報道されたりしています。「グリーン・ブック」と同じ黒人差別を扱った映画ではあるんですが、向こうがいい話のロードムービーなのに対し、こちらはかなり悪意のある実話ベースのコメディということができるのかな。でも、映画のオープニングは「風と共に去りぬ」の南軍のシーン、その後、差別主義者の何とかという教授(演じるのはアレク・ボールドウィン)が白人優位を訴えるシーンにつながります。本筋に入る前に、アメリカ南部の黒人差別って根が深いんだぜというところを見せるという、結構マジメな作りなのですよ。黒人警官が白人警官とのコンビで差別主義者を演じてKKKに潜入捜査をするってところはかなり笑える設定で、その展開はコミカルなんですが、映画が黒人の集会とKKKの集会をカットバックで描くシーンになると、突然トーンがシリアスになります。狂気のKKKと虐げられた黒人の歴史を語る様の両方をマジに盛り上げるのですよ。あらすじを追う部分は、笑いも入れてテンポよく展開する娯楽映画。でも、KKKと黒人を描く部分はマジシリアスという何と言うか映画の中であちこちの温度差が大きい映画に仕上がっています。

コメディかシリアスかと問われるとどちらかというとシリアスが上かもしれません。また、作り手のスタンスは極めて明快に黒人側に立っており、KKKはどこかが狂った人間という描き方になっていまして、集会で、KKKのメンバーが「國民の創生」を声援を上げて鑑賞するというシーンはどう見ても正気の沙汰ではない見せ方になっています。一方の黒人の描き方は、単なる被害者というステレオタイプでない奥行きを持った人間としてのキャラを与えられています。学生活動家のパトリスは警官は全部敵だという認識で、黒人警官であるロンと一線を越えることができません。一方で、ロンは警察署内の差別発言に耐えつつKKKをはめてやろうと画策し、それに協力する白人警官の姿もきちんと描かれます。中立なおまわりさんとしては、黒人活動家もKKKも度を過ぎた行動をされるのは困る。一応建前としては、黒人だろうが白人だろうユダヤ人だろうが市民なら守らなきゃいけない立場を全うしようとします。黒人を差別する酷い警官も登場しますが、それが警官の大多数だという描き方にはなってはいませんが、一方で、そういう困った同僚をなかなか告発するのも難しいという組織のよくあるパターンを見せます。日本だって、問題のある教師や公務員を内部から告発してやめさせるとかはできないので、転勤とかでお茶を濁したりしてますから、どこの国でも似たようなものです。

KKKは黒人差別だけでなく、他の有色人種やユダヤ人とか、自分たち以外は見下していて、特に台頭してきている黒人に対しては攻撃的になっています。そのメンバーには退役軍人どころか現役軍人も入っているのですって、白装束で集まって十字架を燃やしたりするくらいならまだしも、黒人の集会へテロ行為を仕掛けようとします。KKKメンバの奥方がやっぱり差別意識がすごくて、黒人を殺すことを悲願の達成と言っちゃうかなり狂ったキャラ。KKK側の人間の狂った顔しか見せないので、彼らが善意の市民の顔をもっているところを描かないのが面白いところです。映画の攻撃の的として描くためにそういう見せ方をしているということになるのですが、彼らの善意の市民としての顔を描いて、人間の業の深さを見せる深い映画にすることもできたでしょう。でも、そこまで人間の根源的なところまで踏み込むと、今そこにある黒人差別というテーマがぼけちゃうから、奥行きを感じさせないわかりやすい悪役にしているのだと思いました。映画の立ち位置が明快で伝えたメッセージがストレートに届く映画として、この映画、オススメできます。今だからこそ作らなきゃという気持ちが伝わってくるだけに、今が歴史的に前に進むのか逆コースへ行くのか分岐点にあると感じさせる、ある意味、怖い映画でもあります。

スパイク・リーの演出は面白おかしくテンポよくドラマを進め、シリアスなメッセージも重くなりすぎないようにきちんと娯楽映画の体でまとめることに成功しています。結末も痛快な後味を残す一方で、エピローグで最近の人種差別主義者のヘイト集会やデモなどの映像を見せ、大統領でさえその連中に与している事実で、観客をマジでビビらせる結末になっています。テレンス・ブランチャードの音楽が、メインとなるモチーフのバリエーションでドラマの要所要所を支えるという、20世紀の映画音楽の作りになっているのが、個人的にうれしかったです。クライマックスの盛り上げなど見事でしたもの。サントラ盤をゲットしてしようとしたら、ダウンロード版しかなかったのは残念でしたけど、とりあえずゲットしちゃいました。久々の映画音楽らしい映画音楽なんですよ。そういうのが古い人間なのかもしれませんけど。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



KKKの儀式が済んで女性も交えた食事会となりますが、その中過激メンバーのフェリックス(ヤスペル・ペーコネン)と奥さんのコニー(アシュリー・アトキンソン)が不穏な目配せをして、コニーが包みを持って姿を消します。それに気づいたロンは、彼女の乗った車を通報してマークさせます。コニーは黒人集会の場所に爆弾を仕掛けようとしますが、警官が動員されていることで断念、プランBとして学生活動家のリーダー、パトリスの家にその爆弾を仕掛けようとします。ロンは、彼女の家へ向かい、コニーを見つけて、彼女を取り押さえようとします。一方、起爆スイッチを持ったフェリックスたちの車もコニーの家へ向かいます。ロンとコニーがもみあいになっていると、そこへパトカーが到着するのですが、逆にロンを取り押さえてしまいます。そこへフェリックスたちの車が到着、ロンはパトリスに逃げろと叫ぶのですが、フェリックスは起爆スイッチを入れます。すると、コニーの車が傍にいたフェリックスの車もろとも大爆発。コニーは爆弾をパトリスの家に仕掛けかねていたところをロンに発見されたので、爆弾は彼女の車にまだあったのでした。そして、ロンとパトリスが飲んでいるところに黒人差別の警官が絡んでくるのですが、周囲で待機していた警官に逮捕されてしまいます。ロンはKKKのデュークに電話して、実は黒人だよーんってネタばらしして、みんなで大笑い。一方、ロンがパトリスと一緒に家にくつろいでいると、ドアの方から不審な音が聞こえてきて、二人が銃を構えてドアに向かうところで物語はおしまい。エピローグで現在進行形の差別主義者のヘイト集会やデモ、さらに差別反対のデモに車が突っ込むという実写シーン、さらにトランプ大統領がその差別主義者のテロに「両方悪い」とコメントするシーンが映り、エンドクレジット。

パトリスの家に爆弾が仕掛けられるシーンは、音楽のサポートもあって、大変盛り上がりまして、KKKの車が吹っ飛ぶシーンはサプライズなカタルシスがありました。痛快なオチかと思われるのですが、最後の実写ビデオで、今がヤバイぞというメッセージを突きつけてきます。刑事ドラマと実録モノとコメディを組み合わせたエンタテイメントの中に、ストレートな政治的メッセージを盛りつけた作りの映画で、個人的には盛りつけがボリュームありすぎな気もするのですが、こればアカデミー脚本賞をとったのですが、すごい映画なのでしょう。演技陣では、ロンを演じたジョン・デヴィッド・ワシントンが意外と薄めのキャラでドラマにうまくフィットしていました。デンゼル・ワシントンの息子だそうですが、黒人だけど薄めキャラというのは、他の黒人俳優が濃いキャラの人が多いので、こういう人は貴重な存在になるかも。またアダム・ドライバーは新作ごとに役者の幅を広げているのがお見事。パトリス役のローラ・ハリアーの知的美人ぶりは今後要チェックだと思いました。また、あまり奥行きを与えられない悪役であるKKKを演じたライアン・エッゴールドとヤスペル・ペーコネンも要チェックのバイプレイヤーです。

「グリーン・ブック」いい話なんだけど、黒人差別を題材にした映画としてはちょっとつらい部分も。


今回は新作の「グリーン・ブック」を、日本橋のTOHOシネマズ日本橋7で観てきました。ここはTCXという通常よりも大きなスクリーンサイズになっていて、その分、迫力が出ると言うのが売りみたい。追加料金はなし。これって昔の70ミリ上映に近いものがあります。70ミリっていうのは、フィルムがでかいので、その分、大きな画面に上映しても、画面が鮮明です。TCXは上映するメディアは普通のDCPなので、昔で言うなら、35ミリフィルムだけど、70ミリサイズの画面で上映する70ミリ方式上映が該当するのかしら。でも、TCXには70ミリほどのありがたみとかうれしさを感じないのが残念な感じ。

1962年のニューヨーク、ナイトクラブで用心棒をしているイタリア系のトニー(ヴィゴ・モーテンセン)は、店の改装のために一時的な失業状態。妻と二人の子供を食べさせるために職探しをしていた彼が、紹介された仕事は、ドン・シャーリー(マハーシャラ・アリ)というリッチな黒人ピアニストの運転手でした。黒人に対する差別意識を持っていたトニーは一度は断るのですが、それでもドンは、彼のトラブル解決能力を買い、給料増額の要求をのんだ結果。8週間のドンのツアーの運転手となります。彼のツアーは差別意識の色濃い南部の州を回るというもので、確かに色々と厄介なことが起こりそうな予感はありました。それでも、ドンは自らの意思でそのツアーに臨んでいるようです。腕っぷしと口先は達者だけど知性に欠けるトニーと、インテリでアーチストだけど黒人というドンが、アメリカ南部への演奏ツアーに出かけることになるのでした。

2018年のアカデミー賞で、有力候補とされ、最終的に作品賞と脚本賞と助演男優賞を受賞した人間ドラマの一品です。実在したクラブのマネージャと黒人ピアニストを題材にしたお話で、モデルとなったトニーの息子、ニック・バレロンガと、ブライアン・カリー、そして「メリーに首ったけ」「愛しのローズマリー」のピーター・ファレリーが共同で脚本を書き、ファレリーがメガホンを取りました。えげつない下ネタや差別ネタで過剰な笑いをとってきたファレリー兄弟の片方が黒人差別をネタに実録映画を作ったということで、尖った笑いの映画になっているのかなと思ったのですが、世間の評判はストレートに心温まる映画らしいというので、ちょっと「?」の気分でスクリーンに臨みました。で、これが本当にストレートな映画で、尖ったところがまるでない映画に仕上がっていてかなりびっくり。ラブコメの体裁の「愛しのローズマリー」でさえ相当な毒を盛り込んだファレリー監督、どうしたのかしら。

要は、黒人差別意識をもったイタリア系のトニーが、インテリ黒人ドンに雇われて、一緒にアメリカを巡るうちに、二人の心が通い合うようになるというお話です。行く先々で差別的な扱いを受けるのですが、最初はトニーが腹を立て、それをドンがいさめるのですが、最後の最後でその関係が逆転したところで二人の絆が深まる、とそんな感じ。未見の方には何のことやらでしょうけど、まあ色々あって二人が親友になりましたってことです。これまでの人生でまるで接点のなかった二人が一台の車で一緒に旅することで心を通わせるようになるという、よくあるロードムービーの定番の作りになっています。そのロードムービーの上に黒人差別をトッピングした感じ。メインはバックボーンの異なる二人のロードムービーでして、あくまで黒人差別はトッピングの扱いなんです。そのせいか、この映画がアカデミー賞取っちゃったものだから、黒人差別の描き方が表層的とかきれいごと過ぎると言う批判が出たんですって。

トニーとドンの二人のいい話なんだから、そんな本質的でない批判なんかどうでもいいやんというのももっともなのですが、私はこの批判にも一理あるなって思っています。それは、私が「私はあなたのニグロではない」を観ていたからです。この映画の中で、ハリウッド映画は白人のヒーローを祭り上げる一方で、ハリウッド映画の黒人は、白人にとって都合のいいものとして描かれてきたのだと言います。今回のドン・シャーリーも知的で、粗野なトニーにもやさしい、よくできた黒人として描かれています。特に白人にとって都合がいいところは、ドンが差別する白人を悪く言ったり、戦おうとしないこと。それどころか、南部アメリカでツアーをすることで黒人の地位向上を図っているようなのですよ。これって、差別する白人を変えようというのではなく、白人の価値観に寄せて行こうとしているわけで、白人からすれば自分の「差別感情という悪意」と向き合わずに済む、すごく都合のいい黒人さんなわけです。白人を悪く言わないどころか、他の黒人から浮いてる存在の自分を責めちゃったりもするわけで、白人の優等意識を突いてくることもない、謙虚で優秀な自虐黒人が、白人から「よい黒人」の称号をもらってハッピーエンドになる映画は、黒人差別意識を腹の中に抱えていると思われても仕方ないと、私は思うのですが、そこまで言うのは、うがち過ぎなのかしら。

さらに気になったのは、ドンがゲイで、それを引け目に感じているところ。どうも、トニーとドンの関係は、お金の上では、ドンが主で、トニーが従なんですが、実際の人間的な関係は、家族がいて世知に長けたトニーの方が優位に立っているのです。インテリ黒人ということで、アイデンティティが不安定で、孤独を酒で紛らわせるドンは、トニーのような存在の安定感がありません。ドンは、映画の冒頭では、黒人の頂点のような威厳のある存在なのですが、物語が進むにつれて、どんどんその地位が後退していくのですよ。純粋に、トニーとドンの二人の個人的な力関係を描いたお話なら、それでよいのですが、黒人差別をトッピングしてしまうと、個人的な力関係が、白人と黒人の力関係のサンプルのようになっちゃうのですよ。この映画、黒人差別を取っ払って鑑賞するのがいいように思います。差別する白人と差別される黒人の物語と考えると、これ白人に都合よすぎるんじゃない?って突っ込みが入っちゃうのですよ。

トニーを優位に置いた見せ方をしているのは、脚本にトニーの身内(息子)が参戦しているからかもしれませんが、やはり白人目線の映画を感じさせるところありました。それでも、主演の二人は与えられたキャラクターを熱演しています。自信満々のドンが時々見せる心細そうな感じとか、トニーの子煩悩な感じとか、タイプキャラにならない奥行きを感じさせるもので、二人のリアルな存在感がドラマを盛り上げました。それだけに、黒人差別というセンシティブな題材を扱いきれなかったところが惜しいと思ってしまいました。黒人差別を背景に押しやってしまうか、これまでのファレリーの映画みたいに差別ネタとして笑い飛ばしてしまった方が、不完全な二人の絆にドラマが集約されて、素直に楽しめたような気がします。作り手が黒人差別を描き切れると思って、正面から取り組んだものの、やはり白人目線から目をそらすことができなかったと言ったら、アカデミー作品賞に向かってひどい言い方かしら。

1950年代から、人種差別問題は色々と形を変えて、それでも良い方向へ進んできていると思うのですが、まだ完成形ではない現状を捉えた時代を象徴する映画として、存在価値のある映画ではないでしょうか。数十年後、黒人差別の歴史の中の一つのイベントとして、この映画のアカデミー賞受賞が語られるとき、この映画がどういう位置づけ評価されるのかが気になるところです。なぜ、そう思うのかというと、この映画と前後して、やはり黒人差別を題材にした「ブラック・クランズマン」という黒人監督による映画を観たからでして、この両者の関係が、未来でどう語られるのかなって。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ドンと、二人の白人弦楽奏者を加えたトリオによるコンサートは南部の観客にも拍手で迎えられるのですが、その一方で、ドンは南部の常識的慣習として差別的な扱いを受けます。警官からも、コンサートの主催者側からも、黒人に対する無造作な差別を受けることに、トニーは憤るのですが、ドンは彼をたしなめ、ツアーの無事な進行を優先させます。ドンがYMCAで若い白人と一緒にいた時に逮捕されてしまうと、トニーは警官を買収して何とかその場を切り抜けます。一方、警官のあまりにひどい職務質問にトニーが手をあげて逮捕されてしまったときは、ドンがケネディに直接電話をかけて、知事へ手を回して釈放にまでもっていきます。しかし、最後のコンサートの地のホテルで、レストランへ入ることを拒否されると、トニーの説得にもドンは譲らず、最終的にそのコンサートをすっぽかしてしまいます。そして、トニーの家のクリスマスディナーへ間に合うように、二人はニューヨークへむかうのですが、大雪のために車は遅れ、トニーもグロッキー状態で運転を続けられなくなっちゃうのですが、ドンがハンドルをとって、何とかトニーをクリスマスディナーに間に合わせるのでした。そして、トニーの両親兄弟も揃ったディナーの場に、ドンがワインを持って訪問します。ドンを暖かく向かい入れるトニー。ドンを見て一瞬は驚きながらも、歓迎するトニーの家族。そして、彼らの後日談と実際の二人の写真が出て、暗転、エンドクレジット。

途中のエピソードで、トニーが家族へ手紙を書くのですが、子供の絵日記みたいな文面に、ドンが文章を考えてやるというシーンがあります。届いた手紙を見て、トニーの兄弟両親が、その文才に驚くというのが笑いを取る一方で、最後に家を訪れたドンを迎えたトニーの妻がドンの耳元で「手紙をありがとう」と告げるシーンがいい感じでした。そういう意味で、この映画、すごくいい話なんですよ。きれいごとだとしてもいい話。それだけに黒人差別を正面突破しようとしたおかげでツッコミの入る余地を作っちゃったのは惜しいなあって思ってしまったのです。とは言え、コミカルな味わいもあり、誰が観てもいい話として楽しめる映画なので、オススメできる一編です。

「シンプル・フェイバー」は、70年代のアメリカのTVムービーを思い出させるミステリーの佳品。


今回は、新作の「シンプル・フェイバー」を横浜のTOHOシネマズ上大岡6で観てきました。アカデミー賞関係の映画に今イチ食指が動かなくて、こっちの方を優先しちゃいました。

ニューヨーク郊外に住む夫と死別したステファニー(アナ・ケンドリック)は、小学生の息子と二人暮らし。料理や生活情報の動画ブログを開いて、そこそこフォロワーがいる模様。父兄参加日に知り合った息子の同級生の母親エミリー(ブレイク・ライブリー)と知りあいになります。豪邸に住み、ハンサムな作家の夫(ヘンリー・ゴールディング)がいて、彼女自身はニューヨークのコスメ会社の重役らしいのです。夫の保険金で何とか暮らしているステファニーとはまるで住む世界の違うエミリーですが、なぜか二人は意気投合。ステファニーは、彼女に頼まれて、子供をあずかったりするようになります。そんなある日、ステファニーはエミリーに頼まれて、彼女の息子を家にあずかるのですが、その後、彼女から一切の連絡がなく、行方不明になってしまいます。彼女の夫ショーンに連絡して、警察にも捜索願いが出されるのですが、彼女の消息は不明。ステファニーはそのことをブログで紹介すると、目撃情報が届き、彼女の借りた車がミシガン州の湖畔で発見されるのでした。

ダーシー・ベルの小説「ささやかな頼み」を原作に、ドラマでに実績のあるジェシカ・シャーザーが脚本を書き「ブライスメイズ」「ゴーストバスターズ」のポール・フェイグがメガホンを取りました。コメディの監督というイメージがあって、ミステリーサスペンスものを撮るというのがちょっと意外性があったのですが、本編を観てみれば、なるほどコメディの監督が撮った映画なんだなあって納得しちゃいました。実際にはシリアスなお話なはずなんですが、どこか間を外したようなおかしさがあって、アナ・ケンドリックの陽性の魅力がこの映画に他のミステリーものとは違う面白さを与えています。その分、ドラマが軽いという印象になりましたけど、そこにちょっと懐かしさを感じました。(そこは後述)

冒頭で知り合ったステファニーとエミリーの関係がまずおかしい。ハイソで豪華で美しいエミリーと、ちょっとキャピキャピ入ったシングルママのステファニーのコントラストの面白さで、ドラマに引き込まれます。ミステリアスなエミリーに主導権を取られた感じになっちゃうのですが、ステファニーも彼女への憧れのきもちがあって、彼女の頼みを喜んで引き受けちゃいます。他の父兄からは、「まー、いいように使われちゃって」とバカにされたりもしてるけど、本人はそれほどのこととは思ってないみたい。一方のエミリーは、写真に絶対撮られたくないとか、どこかミステリアス。前半は二人の会話中心にドラマが進むのですが、境遇の違う二人がお互いに秘密を共有することで距離が縮まっていくのがコミカルな味わいだけどそこそこリアル。この二人の力関係の流れでドラマが一本作れそうなんですが、そこに警察も絡んだミステリードラマが乗っかってきて、「え?」という展開になります。

一応、警察は出てくるのですが、物語はずっとステファニーを軸に展開します。こういう作りのドラマって、その昔、70年代によくテレビで放映されていた、アメリカ製のテレビムービーの味わいがあって懐かしかったです。一般の市民が警察が関与するかどうか微妙なレベルの事件に巻き込まれる、ミステリーサスペンスが結構あったのですよ。それが、後になって日本の2時間サスペンスものにもつながるのですが、殺伐度もスリラー度もそこそこの感じで、普通の人のドラマが展開するってのが、昔、こういうの観たなあって感じなんですよ。劇場映画としての画面の豪勢さはありますけど、でもこじんまりまとまったミステリーとして、懐かしくも楽しんでしまいました。特にヒロインのステファニーがちょっとドジっ子ママなところがあるという親近感も、テレビ的というか、話に入り込みやすいのですよ。一方のエミリーが欠点のなさそうなミステリアスな美形というのも、出来過ぎのタイプキャストのような気もするけど、そこがまたわかりやすい展開につながっています。観客を謎解きやどんでん返しまで引っ張り倒すこともなく、後半のさくさくと展開するのも小気味よくて、軽いけど意外な展開もあって滅法面白い映画になっています。ホント、後半からクライマックスまで、一切、ドラマを溜めることなく、さらりと流したポール・フェイグの演出は、バックに流れるフレンチポップスと同様に、いい意味の軽さがうまく作用して、面白い娯楽映画にまとめあげています。

主演の二人はタイプキャストではあるのですが、そこをきっちりと演じ切ってお見事でした。アナ・ケンドリック演じるステファニーは、動画ブログを毎日更新しているらしいのですが、エミリーが行方不明になってから、彼女のことをブログで語り、情報を求めたりする、今風だけどちょっと軽そうな、人の好いママさん風なんですが、その後に「そっちも軽いのかい?」の意外な顔を見せますし、エミリーの裏のやさぐれキャラもきっちり演じ切ったブレイク・ライブリーも女優としてのうまさを感じさせました。そういう意味では、女優の演技で楽しませるコメディとして観るのも一興ではないかしら。後半のアナ・ケンドリックの素人探偵ぶりは、2時間サスペンスのよくあるパターンですし、2時間サスペンスですから、当然血生臭い事件も起きちゃうのですが、ちょっと懐かしい味わいもありつつ、ごひいきアナ・ケンドリックのかわいいヒロインを見ることができ、美女ブレイク・ライブリーの演技の幅も堪能できて、楽しい2時間弱を過ごせましたから、軽い期待とノリでスクリーンに臨めば、ちょっとツイストの効いたサスペンスコメディとして楽しめるのではないかと思います。



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行方不明だったエミリーは、湖から水死体で発見されます。DNAも腕の入れ墨も死体が彼女であることを物語っていました。夫と親友を失ったショーンとステファニーですが、葬儀を終えてすぐに二人はやんごとなき関係になってしまいます。そして、エミリーのいた豪邸にステファニーと息子は引っ越してきて、エミリーの息子も入れた4人の暮らしが始まります。でも、息子たちがエミリーを見たと言い始め、さらにステファニーにもエミリーと思しき女性から電話がかかってきます。エミリーの荷物を処分したクローゼットが元に戻っていたり、まるで超自然現象みたいな展開になってきて、ステファニーも「悪魔のような女」じゃないの?とショーンを疑いますが、ショーンもわけがわからない。警察は、エミリーに400万ドルの保険金がかかっていたことから、ショーンを疑っているみたいだし、急接近したステファニーへも疑いの目を向けてきます。そこで、ステファニーは単身、エミリーの過去を調査し始めます。亡くなった湖でのキャンプに参加していたらしいことを知り、アルバムを調べると、なんとエミリーは双子だったのです。そして、彼女の母親に会って話を聞くと、どうやらとんでもない娘だったらしいのです。双子は、家の火事の後、姿を消していました。それは、厳しい父親を殺すために二人が共謀して家に火を放ったのでした。エミリーは双子の姉と別れて、新しい人生を歩んでいたのですが、姉が金の無心をしてきたことから、彼女を自分の身代わりにして殺して、自分の保険金を手に入れようとしていたのでした。それもショーンには内緒で。

一方、エミリーに双子の姉がいることを知ったステファニーはブログで、彼女が生きてることをほのめかしたもので、エミリーも逃げきれなくなって作戦変更、ショーンに再度接近します。しかし、彼が思うように動かないとわかると、一計を案じて、全てショーンの計画だったという証拠を偽造して、彼を刑務所に送ろうとします。ショーンのお邸で三者会談となるのですが、ステファニーは銃を持ち出して、ショーンに向けて、エミリーに姉を殺したことを白状させようとします。でもエミリーは仕掛けられていた盗聴器を見抜いていて、それを壊して、改めて銃をステファニーに向けます。しかし、彼女のブラウスのボタンには小型カメラがしこまれていて、3人の会話はブログに実況されていたのでした。逃げ出すエミリーを追うステファニーですが、銃を向けられた時、ブログ読者である息子の同級生の父親が車で突っ込んできて、間一髪で命拾いし、エミリーは警察に逮捕されるのでした。ステファニーはその事件が縁で、探偵ブログを始めて、実際に探偵事務所を開いて事件を解決するようになるのでした。そして、20年の実刑をくらったエミリーは刑務所でそれなりに居場所を見つけたようなのでした。

エミリーが双子とわかってからは、ドラマのテンポが一気にアップして、エミリーとステファニーの対決ドラマの様相を呈してきます。ブログでエミリーを挑発するステファニーに対して、ショーンから攻め落とそうするエミリーの攻防が、クライマックスでは、ショーンを挟んで、両者が直接対決となります。とは言え、ストレートにサスペンスを盛り上げず、時間の省略や、間を外した場面転換などで、どこか軽さとコミカルさを持った展開になるのがおかしく、とぼけた味わいのエピローグまで行くと、やっぱりこれはコメディだったんだなあってことになります。もちろん、エミリーの姉殺しや父親を放火で殺すといった血生臭い事件もあるのですが、それでも全体はどこかコミカルな軽さがあるのは、まさに2時間サスペンスの味わいなんですよ。映画の宣伝文句を真に受けちゃうと物足りなさや展開の甘さを感じてしまうのですが、もともとそういうストレートな作りでないので、観る方もお気楽にスクリーンに臨んだ方が楽しめる映画です。そういう意味では、エミリー・ブラント主演の「ガール・オン・ザ・トレイン」と似たような売り方をしているのですが、あっちは、ブラックな笑いを散りばめたスリラーで、こっちは、犯罪を盛り込んだご近所コメディくらいの違いがあります。どっちも娯楽映画として、面白くできていますから、オススメしちゃいますが、変にずれた期待をしてスクリーンに臨むとせっかくの面白さを受け止め損ねちゃいますから、宣伝には気を遣って欲しいと思いますです。

「パペット大捜査線」はバカ下品な珍品と思ってたら、ラストは意外とまともで....。


今回は、川崎のチネチッタ4で、新作の「パペット大捜査線」を観てきました。ここは中劇場タイプながら、画面が大きいので映画を観たなあっていう充実感のある映画館。

人間とパペットが共存する世界。でも、パペットは二級市民というか、何かと差別されちゃっています。パペットのフィル(ビル・バレッタ)は、元警官でしたが、ある事件をきっかけに警官をやめ、今は探偵事務所を営んでいます。そんな彼のもとにセクシーなパペットのサンドラが自分の秘密を暴くと脅迫されていると言って、調査の依頼に来ます。その脅迫状の切り抜き文字に見覚えがあったフィルは、知りあいのアダルトショップに出かけて、エロ雑誌のロゴが脅迫状にあったことを発見するのですが、そこへ何者が侵入して居合わせた連中を皆殺しにします。さらに、フィルの兄も惨殺されたことで、90年代のテレビ番組「ハッピータイム・ギャング」の関係者が狙われたのでは?と警察も動き出します。かつての同僚の人間の刑事コニー(メリッサ・マッカーシー)と再び組まされて事件を捜査することになるフィル。すると本当に番組の出演者が次々に殺され、その現場に必ず居合わせるフィルは犯人として追われる身になっちゃいます。果たして、フィルは自分に向けられた疑惑を晴らして、真犯人を見つけることができるのでしょうか。

パペットというのは、操り人形のスタイルであるマリオネットとパペットの合成語です。日本だと、初めてパペットがメジャーになったのは、教育テレビで放送した「セサミ・ストリート」ではないかしら。カエルのカーミットとかクッキーモンスターなんてのが記憶にあるのですが、日本語吹き替えでない英語放送は、子供の私には敷居が高くて、たまにチラ見する程度でした。アメリカではパペットの番組や映画が色々と製作されたようですが、日本では「パペット放送局」が半年間放送されたくらいだったように思います。これは有名な歌手や俳優がパペットと一緒にバカをやるという楽しい番組でしたが、何か打ち切られ感が強かったのが残念でした。で、この映画なんですが、パペットと人間が共存する世界で、起きた犯罪ミステリーものということになるのかな。でも、やってることはすごぶる下品。冒頭のアダルトショップの描写ですとか、パペットのフィルとサンドラのセックスシーンとかも、くだらないを通り越して「バカじゃねえの?」のレベルになっています。パペット惨殺シーンにもリアルなスプラッター描写があります。でも、飛び散るのは血肉ではなくて、中の綿なんで、何かビミョーな変な感じ。また、パペットの世界の麻薬が砂糖だとか、パペットも子を持って、その子が成長するなんていう、完全に思いつきだけ並べたような世界観が、「やっぱりバカだねー」な面白さになっています。最近のアメコミ映画やハリ・ポタ系映画が、その世界観を真面目に描こうして、面倒くさいお約束を並べてきていることへのアンチテーゼとも思えるバカバカしさは、世界観の面倒な映画はスルーしちゃう私にとっては、すがすがしいバカらしさとして楽しめました。「スター・ウォーズ」以降、映画は世界観に縛られて枝葉末節を描き込むことが「良い事」とされてるのが、面倒くさいなあって思っていた私には、こういう「細かい事はいいんだよ」というスタンスがうれしく感じられました。ただ、やり過ぎ感もありまして、私はギリ持ちこたえましたけど、人によっては結構引いちゃうかもしれません。そういう意味では、万人向けの映画とは言い難く、珍品として楽しむことができる物好き向きの映画なのかなあ。でも、公開時に、興収3位まで行ったそうですから、一応メジャーな映画になるのかと思いつつ、「ホステル」が興収1位になっちゃう物好きの層の厚いアメリカだから、こういうある意味ゲテモノ映画も作れば当たるんだろうなあ。

映画の作りは冒頭は、フィリップ・マーロウか「チャイナタウン」を思わせる渋い探偵ものの味わいなんですが、舞台がすぐアダルトショップに行くので、そこから先は、もう何でもアリな映画になっちゃいます。パペットの惨殺死体とか、パペットのドザエモンとか登場しますし、女刑事のコニーは、銃で撃たれた時に、パペットの肝臓を移植して一命をとりとめたというわけのわからない設定ですし、「細かい事を考えてもムダ」という筋が一本通った(?)展開になっています。それでも、一応は連続殺人モノからのミステリータッチの展開になって、なぜかマトモに着地するのがまた変。最後までムチャクチャやるんかと思ったら、何かパワーダウンしちゃったような気もするのですが、後半は、フィルとコニーのバディものみたいな味わいで、悪趣味度は前半が10なら、後半4くらいと、変なバランス感覚があるみたい。つかみの部分で下品度を膨張させておいて、後半で普通の娯楽映画へ落とし込むという作りは、何だか妥協の産物だよなあ。バカで下品のまま最後まで突っ走ったその昔の「ズーランダー」みたいな映画の方が稀なのかな。それとも、最近の映画は複数の国の複数の会社が出資してるから、最後は万人向けにしとかないと、グローバルな商売ができないのかも。この映画も冒頭で中国の会社のロゴも出ましたし。

そんなわけで、パペットは登場するけど、笑いは下品で、世界観は思いつき、それでもラストでいい話にまとめようとする、かなりの珍品と申せましょう。私がここ数年で珍品と思った映画には「シンクロナイズド・モンスター」とか「聖なる鹿殺し」なんてのがありましたが、こちらの方がバカ度の高い珍品と言えそうです。エンドクレジットがメイキングになっているんですが、それによるとグリーンのスーツに身を包んだパペッターが3人がかりで1体の人形を操作してます。なるほど手作り感覚の職人芸で人形を動かして、そのパペッターをデジタル処理で画面から消してるみたいです。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



フィルとコニーは「ハッピータイム・ギャング」のかつての出演者たちに会いに行くのですが、その先々でみんな殺されてしまうので、ますますフィルの嫌疑は濃くなり、ついにはFBIに逮捕されてしまうのでした。隣の取調室で、フィルへの依頼者であったサンドラが嘘八百の証言をしていたのを見て、フィルはこいつが犯人だと確信。そもそも、彼女の脅迫状の文字を調査に行ったところから連続殺人が始まっているのですもの。そして、取調室で見えた彼女がアンダーヘアの色から、かつてフィルが誤って射殺した男の娘だと気づくのでした。全ての殺人は、父親を殺したフィルに復讐するためのものだったのです。コニーが一計を案じ、フィルを銃で撃って、病院へ運ぶ途中で脱走、高飛びしようとするサンドラを捕まえようとするのですが、サンドラはコニーを盾にとって逃げようとします、かつての誤射のトラウマが頭をよぎるフィルですが、今度は誤らずサンドラの頭を撃ち抜き、その結果、フィルは警察に復職し、再びコニーとコンビを組むことになるのでした。おしまい。

コニーを演じたメリッサ・マッカーシーが出しゃばり過ぎない脇役としてのコメディエンヌぶりがお見事で、どうしても表情の乏しくなるパペットのフィルとうまいバランスを取って、最後にはフィルと和解するキャラを好演しています。またチョイ役のエリザベス・バンクスや、フィルの秘書役のマーヤ・ルドルフといった個性の強い面々も、脇のポジションで目立ち過ぎない演技で、パペットのフィルをうまく立てているようです。彼女たちのような、大芝居のコメディ演技をする女優さんたちと、パペットを共演させて、パペットが霞まないように采配したヘンソンの演出は、この映画を暴発させないでうまく着地させることに成功しています。ただ、個人的には、最後までバカと下品を貫くのも、ある種の見識だと思ってまして、そういう意味では若干刺激が足りなかったかも。オードブルでとんでもないスパイシーな味付けをしてったのが、メインディッシュではまろやな無難な味付けになっちゃったと言ったら伝わるかしら。最近のハリウッドの映画製作費高騰のおり、全世界公開してモトを取る必要があるとき、最後で映画がとんがり続けるのは難しい時代になったのかもしれません。

「ギルティ」は舞台限定のサスペンスミステリーで意外な切り口から見応えあり、オススメ。


今回は、横浜のTOHOシネマズ上大岡4で新作の「ギルティー」を観てきました。ここは劇場の広さの割にはスクリーンの大きさが今イチなんですが、どっかでこういう映画館あったよなあって思いだしたのが、銀座シネパトスでした。あそこほど小っちゃい劇場ではないんですが、客席とスクリーンのバランスがそんな感じで。

警察の緊急通報司令室のアスガー(ヤコブ・セーダーグレン)は、市民からの緊急電話を受け付けるオペレーター。明日に何か控えていて、それが彼の気懸りみたい。そんな彼が受け付けた通報は若い女性からのもので、どうやら誰かに誘拐されているみたい。自分の子供に電話すると偽って警察に電話してきたみたいなんです。電話番号から、彼女の名前がイーベンであること、電話の基地局から、どうやら市の北部の高速上にいるらしいことがわかります。アスガーは警察本部に連絡して、パトカーが向かうのですが、イーベンが乗っている車を特定することができません。アスガーは思い切って、イーベンの家に電話すると、マチルドという6歳の女の子が出ました。マチルドが言うには、母親のイーベンを、別居中の父親ミケルが連れだしたというのです。アスガーはマチルドに弟のそばに行って、警察を待つように告げ、警察本部にイーベンの家へ警官を向かわせるように依頼します。イーベンには暴行の前科があり、ナイフを持っているということで、イーベンが危険な状況にあることがわかってきます。アスガーは相棒で非番の警官ラシードにミケルの家へ行くように頼みます。夜勤のオペレータと交代の時間が来たのですが、アスガーはそこに残り、事態を何とか収拾させようとします。マチルドからアスガーに電話があり、会話していると、電話の向こうで警官がやってきたことがわかります。しかし、アスガーはその警官の口から驚くべき言葉を聞くことになります。果たしてイーベンを無事保護することができるでしょうか。

デンマークのグスタフ・モーラーが脚本を書き、自ら初メガホンを取りました。カメラは緊急通報司令室を出ることなく、事件は、主人公の電話の向こうで展開します。アスガーが受けた緊急通信から、事件が始まります。設定としては、同様に緊急通報司令室のオペレータが誘拐された女性からの電話を受ける「ザ・コール」という滅法面白い映画と同じなんですが、こちらは、最後までカメラが緊急通報司令室を出ることなく展開するので、舞台限定ということでは、「リミット」「search/サーチ」に近い見せ方になるのですが、単なるサスペンス以上の重めの人間ドラマを設定していて、なかなかの見応えがあります。ただ宣伝文句の「犯人は音の中に潜んでいる」というのは、真に受けない方がいいです。電話の向こうの音から犯人がわかるというミステリーの要素はないですから。それでも、電話の向こうから聞こえる声と音だけで事件は描写されますので、想像力を働かせての映画鑑賞は、なかなかにスリリングです。ラストで、「ああ、そういう話だったのか。」という面白さもあり、劇場での鑑賞をオススメします。

その先の展開については、あまり語れないのですが、この映画のポイントは、主人公のアスガーがどんどん事件にのめり込んでいくこと。もともと、彼は緊急電話を受けるオペレータなので、警察本部へ事件を報告したら、後は向こうの仕事であり、アスガーは事件を捜査したり、犯人を捜す権限はないのです。にもかかわらず、彼は自分からイーベンの家へ電話して、マチルドと話をしたり、挙句の果てには犯人と思しきミケルにも直接電話をかけちゃったりして、かなりやりたい放題。彼の態度の中に、現場の警官よりも自分の方がこの事件をよくわかってると思っている節があるんですよ。だから、警察本部側のオペレータと言い合いになったり、かつての上司に何様な口を聞いて怒られちゃったりします。こいつ、警察組織の中でも浮いてる存在らしいということがわかってくると、電話の向こうだけでなく、アスガー自身も単なるミステリの探偵の立場ではなく、サスペンスの要素として、ドラマをかき回してきます。

モーラーの演出は舞台を緊急通報司令室に限定しても、ミステリーとしての展開の面白さと、ハラハラドキドキのサスペンスを両立させることに成功しています。また、ジャスパー・スパニングの撮影が、シネスコ画面で意外と落ち着いた絵作りをしていたのが印象的でした。特に舞台が限定されていると、画面が単調になるので、やたらアップを増やしたり、カットを細かくしたりして、観客を引っ張ろうとしがちなんですが、この映画では、引きの絵などオーソドックスな絵で役者の演技をしっかりと見せているのが見事でした。ほとんど一人舞台のヤコブ・セーダーグレンの演技でドラマが展開していくのですが、それでもサスペンスが切れないのは、彼の演技もさることながら、演出のうまさが光りました。この内容なら一幕ものの舞台劇にしても、面白いかも。



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イーベンの家に着いた警官は、血まみれのマチルドと、その弟の惨殺死体を発見します。それを知ったアスガーは、イーベンの身が危ないと、電話してきた彼女に、サイドブレーキを引いて車から逃げろと指示しますが、イーベンは逃げるのに失敗。ミケルによって荷台に閉じ込められてしまいます。それでも、アスガーは彼女の電話に、車が停まったらレンガでミケルを殴って逃げろと伝えます。しかし、その会話の中で「息子の中にヘビがいて、苦しんでいたから取り出した」と言い出します。どうやら、イーベンは精神に異常を来していて、息子を殺してしまい、それを知った元ダンナのミケルが彼女を精神病院へ送る途中だったのです。ミケルは弟の惨殺死体をマチルドに見せないために、弟の部屋へ行くなと指示してあったのですが、アスガーがマチルドに弟のところで警察を待てと言ったせいで、マチルドは弟の返り血で血まみれになっていたのです。イーベンは、アスガーの指示とおりにしてミケルの車から逃げ出します。よかれと思って暴走したアスガーの行動は全部裏目に出てしまい、頭を抱えるアスガー。実は、彼は容疑者の若者を射殺していたのですが、それを相棒ラシッドを巻き込んで正当防衛だと偽証していたのです。その裁判が明日に控えていた彼ですが、もう彼には嘘をつき続けることができなくなっていました。イーベンから電話がかかってきました。自分は息子を殺したのかと問う彼女は、自分の罪を認識していて、橋の上から身を投げようとしていました。何とかしてそれを思いとどまらせようとするアスガーは、息子を殺したのは事故だと説得します。そして、自分は人生がいやになって殺さなくてもいい若者を殺して、正当防衛だと嘘をついたと告白します。説得の途中で、アスガーの一報で手配されたパトカーがやってきて、間一髪のところでイーベンは保護されるのでした。事態の収拾を確認したアスガーは司令室を出て、誰かに電話をかけるのでした。その電話をかける彼のロングショットから暗転エンドクレジット。

アスガーのやったことは、ほとんど裏目に出て、事態を悪い方へと進めてしまいます。そのことを知って後悔するのですが、それまで警察本部への連絡もしないまま、自分の電話で事件を解決しようとしているあたりは、彼はかなりの問題警官です。でも、それ以上に若者を殺したことで、裁判にかけられるのが問題で、彼は嘘をついて殺人の罪を逃れようとしていたのです。それでも、彼は最後にはイーベンの自殺を止めることに成功したことで、自分の生きる意味をぎりぎりのところで見出したようで、人生やり直しをするのかな?というところで映画は終わります。一言で言ってしまえば、精神を病んだ母親が息子を殺し、それを知った元夫が彼女を精神病院へ連れていこうとしていたお話なのですが、アスガーがかき回してしまった結果、事態は悪化してしまいます。でも、最後の最後で、彼はイーベンの自殺を食い止めることに成功します。そういう意味ではハッピーエンドではあるのですが、彼は人生に絶望した結果、死ななくていい人間を殺していたのです。それでも、映画の後味が悪くならないのは、未来への希望が描けているからでしょう。アスガーの隠された秘密のミステリーと、誘拐事件のサスペンスを過不足なく描いていて、ドラマとしても見応えのあるものになりました。

「メリー・ポピンズ・リターンズ」を観て「画面がやかましい」と思ったのは、私がジジイになったからかしら。


今回は新作の「メリー・ポピンズ・リターンズ」を川崎の川崎チネチッタ1で観てきました。このスクリーンは劇場前3列は画面をムチャクチャ見上げることになる最低の席なんですが、日曜日で混雑ということもあって、前列にもお客さんが入っていまして、こういう鑑賞になるのをきちんと劇場が説明しているのか気になっちゃいました。私が知らずにシネコンでこんな席を取られたら、そのシネコンへは二度と来なくなっちゃうくらいの座席配置なんですよ、これが。ここを除けばすごくいいシネコンなので、もったいないような気がして。

1934年の大恐慌時代のロンドン。ガス灯番のジャック(リン・マニュエル・ミランダ)がガス灯を消しに回り、ロンドンに朝がやってきます。チェリー街にあるバンクス家では、妻をなくしたマイケル(ベン・ウィショー)が3人の子供と暮らしていましたが、自分の働く銀行から借りた借金の取り立てが来て、金曜日の真夜中までに金を返さないと家を差し押さえられると通告されます。でも、バンクス家には銀行の株券がある筈、そこで、マイケルの姉ジェーン(エミリー・モーティマー)も一緒になって家の中を探し回るのですが、見つけることができません。一方、朝ご飯を買いに出かけた子供たちが、凧に乗って空からやってきたメリー・ポピンズ(エミリー・ブラント)と一緒に家に帰ってきます。マイケルとジェーンは、子供の頃に家政婦として家にいたメリー・ポピンズとの再会にびっくり。だって、彼女、当時と全然変わっていないんですもの。彼女は、3人の子供をしつけるためにも私が必要だから、ここにいますねと宣言。借金で家を追い出されかけているマイケルに家政婦を雇う余裕はないのですが、メリー・ポピンズはそんなの意に介さず、子供たちをお風呂に入れるのですが、浴槽の中には広い海が広がっていて、子供たちはそんな不思議な世界にびっくり。さらに、子供たちが割ってしまった母親の思い出の壺の世界に入り込み、そこで、オオカミたちがバンクス家を乗っ取ろうとしているのを発見します。現実世界では、バンクス家で縁のあった銀行の頭取の甥っ子ウィルキンズ(コリン・ファース)が銀行を牛耳っていて、株券が見つからないことを知って、バンクス家を騙し取ろうとしています。子供たちが返済期限を延ばすようにウィルキンズに直談判に行っちゃうもので、銀行での立場も悪くなっちゃったマイケル激おこ。果たしてバンクス家は長く住み慣れた家を追われてしまうのでしょうか。

前作の「メリー・ポピンズ」から55年後の続編ですって。ジュリー・アンドリュース主演のオリジナルは、高校生の時に、静岡けんみん映画祭というイベントで鑑賞した記憶があります。もう細かいことは憶えていないのですが、子役たちの子供らしい動きとか、「チムチムチェリー」「鳩に餌を」などのペーソスを感じさせる楽曲が印象的でした。また、当時としてはアニメ画面に実写の人間を取り込むというのがすごい技術と言われてまして、その華やかな映像もインパクトがありました。今回は、前作をベースにしていまして、マイケルとジェーンは、子供の頃、メリー・ポピンズの魔法で様々な不思議な体験をしているのですが、それは今は忘れ去られているというか、少なくとも現実にあったこととして認識していないみたいなんです。このあたり、映画の頭に前作のダイジェストでもつけてくれないと、設定がわかりにくいと思うのですが、そのあたりを説明しないので、マイケルとメリー・ポピンスの関係が飲み込みにくい観客もいるのではないかしら。「ネバーランド」「ライフ・オブ・パイ」のデビッド・マギーの脚本は、メリー・ポピンズと子供たちの関係にフォーカスしていて、他の部分はあっさり流した感じでして、ロブ・マーシャルの演出も、過去の経緯には無頓着にお話を進めています。

画家だけど、生活のために父親が勤めていた銀行で出納係をしているマイケルが銀行に借金していて、その期限もわからなくて、週末に家を立ち退かされちゃうってのはずいぶんと呑気なお父さん。奥さんを亡くしてあたふたしてたのお察しするけど、お金のことを奥さんに任せっきりだったというのは、一家の長としてはちょっと情けない。子供たちは普通に育っているのでまあ良かったんだけど、こういう設定だとメリー・ポピンズが再びやってくる理由が今一つ希薄なんですよね。昔躾けた不甲斐ない父親を何とかするためにやってくるなら、わからなくもないんですが、今回は子供が乳母を望んだわけでもないし、押しかけナニーなので、お話の設定がわかりにくくなっちゃいました。前作のように、現実の厳しさだけで子供に接しようとする父親との対立といったお話の軸がないので、メリー・ポピンズの魔法が現実逃避にもならないし、単に子供を甘やかしているだけにも見えちゃうってのはひどい言いぐさかしら。うーん、何ていうのかな、メリー・ポピンズは、子供たちも含めた貧しい人々に夢と希望を与える存在だと、前作を観て思っていたのですが、今回は「何しに来たんだろう」って感じなんです。これは、私が年を取り、子供の心を失って「メリーポピンズ」を楽しめない大人になっちゃったのかもしれませんが、どうもメリー・ポピンズの存在感が感じられなかったのが残念。

後、すごく気になったところがありまして、映像がすごくやかましいのですよ。「NINE」ではシネスコの素晴らしい絵を切り取ったディオン・ビーブの撮影が、手持ちカメラを駆使して、臨場感を出すのはいいのですが、ミュージカルシーンとかが落ち着かない絵になっちゃって、歌やダンスに集中できませんでした。カット割りもやたら細かくて、アップからロングへさらにロングでもアングルを変えてと目まぐるしく変化するので、せっかくのダンスも歌も楽しめなかったんですよ。最近のジェットコースタームービーの編集テンポをミュージカルにそのまま持ち込んだという感じ。アクションシーンの勢いや臨場感を出すのに、細かいカット割りは有効なのですが、それをミュージカルのダンスシーンでやられると、観ている方は何だかムダに疲れちゃう。せっかくの群舞もじっくり見せてくれないし、1カットが短すぎて、何が映ってるのかわからないようなカットもあり、ロブ・マーシャル監督も、アメコミ映画に感化されちゃったのかと言ったら言い過ぎかしら。

さらに、マーク・シャイマンによる楽曲も前作に比べると印象に残るものが少なくて、「チムチムチェリー」「鳩に餌を」といったしっとりと歌い上げるものがなかったせいか、メリハリを欠いてしまったように思います。前作を観たのが30年以上前なので、思い出補正がかかっているのは認めちゃうのですが、何か物足りなくない?って思えてしまったのですよ。大恐慌時代と字幕に出るのに、貧しい人々は登場せず、お金に困っている筈のバンクス一家もでかい家に住んでいるし、何かこうフワフワしているんですよ。別に貧乏くさい映画を作れと言ってるわけではないんですが、前作にあった、お金持ちの子供たちと対照的に描かれる貧乏な市井の人の存在感がないのは、やっぱり物足りなく感じちゃうのですよ。

アニメと実写の人間の合成は当然のことながら、ものすごくスムースなのですが、どうせCGなんでしょって思うと、前作のような驚きを感じることは難しいです。でも、この映画に盛り込まれた趣向は、前作でやったことをスケールアップして見せようという意図が感じられます。また、前作をかなり意識したところがありまして、クライマックスで前作の主演のディック・バン・ダイクが特別出演したり、タイトルバックの絵は、前作の特撮を担当したピーター・エレンショーのマットペインティングを元に描いたと字幕が出たりします。さらに、アンジェラ・ランズベリーがご存命でラストで登場するのもうれしい趣向ですし、そういう作り手のサービスを楽しむこともできるのですが、でも、それなら前作をもっと説明してもいいんじゃないのと思うのですが、この映画はどういう世代をターゲットにしているのかなあ。

演技陣は、ヒロインを演じたエミリー・ブラントに歌って踊れる以上の魅力を感じられなかった(好きな方にはごめんなさい)のですが、脇の面々がなかなかよくって、ごひいきエミリー・モーティマーは時として、子供のような表情を見せるときがあり、それが前作とのつながりを感じさせる名演でしたし、ピーター・ファースが、大して悪い奴ではない男を、敵役のように演じて見せたあたりもお見事でした。ジュリー・ウォルターズやデビッド・ワーナーといったベテラン勢も手堅く脇を固めました。パパであるマイケルを演じたベン・ウィショーは、前作の男の子が大きくなったという設定に説得力を与える演技で好演していますが、その分、父親としてはどうなの?という部分が良くも悪くも曖昧になっちゃったのが残念でした。とはいえ、2時間10分という長さを感じさせずに一気に見せちゃうパワーのある映画なので、ご覧になってモトは取れる映画になっています。でも、メリー・ポピンズのお話で、2時間以上を一気に見せる必要はないんじゃないのという気もしました。こういうお話なら、もっとゆっくり読み聞かせるような演出でもいいと思うのですが、それだと若い子が退屈しちゃうからダメなのかなあ。何ていうのかな、ゲームのように次々と敵やイベントが登場しないと、観客がついてこれなくなってきているのかなって気もしてきて、ちょっと考えさせられてしまいました。



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結局、株券は見つからないまま金曜日の夜を迎えてしまいます。荷造りをしてジェーンのアパートに引っ越すことになるバンクス一家。末息子が自分で修繕した古い凧を持ってくるのですが、そのつぎはぎをした紙がなんと探していた株券でした。でも、約束の期限が迫っていて、銀行へ12時までに持っていかないと家は取り戻せなくなっちゃいます。ジャックとその仲間が自転車をビッグベンへ走らせて時計の針を遅らせようとしますが、やっぱり間に合わない、間一髪メリー・ポピンズが空を飛んで時計の針を遅らせることに成功し、マイケルは、12時の鐘が鳴る前に、凧ごと株券をウィルキンズのもとに届けます。つぎはぎの紙を剥がして株券の形にするのですが、サインの部分の紙が見当たりません。もはやこれまでかとあきらめるマイケル達の前に、かつてのマイケルの父の友人であるドース氏(ディック・バン・ダイク)が現れて、甥っ子をクビにして、マイケル達の借金がかつての投資によって完済できることを教えてくれるのでした。全てが丸く収まってめでたしめでたし。一家そろって春祭りに出かけるとそこには風船売り(アンジェラ・ランズベリー)がいて、彼女が風船を渡すと、マイケルやジェーン、子供たちが空に舞い上がります。町の人たちも空に舞い上がるのでうsが、ジェンキンスだけは無理だったみたい。家に帰ってくると、桜の花が満開で、突然ドアが開いて桜吹雪が舞い上がります。その時が来たと認識したメリー・ポピンズは、再び空へと帰っていくのでした。暗転、エンドクレジット。

クライマックスは勢いで盛り上がるのですが、ジャックやその仲間が頑張って時計を遅らせようとしてダメかと思ったら、メリー・ポピンズが空飛んで、時計の針を止めるというのは、何だか拍子抜け。だったら、ジャックたちに頼らずに、最初からメリー・ポピンズ飛べよって思っちゃいました。株券のサイン部分が足りなくて、もう駄目だと思ったら、ドース氏の突然の登場で形勢逆転というのも、何だか都合よ過ぎ。脚本が息切れしちゃったような強引なハッピーエンドは、何だかうーんって感じ。ここも結末はあやふやになりがちな、ノンストップアクション映画みたいで、何か荒っぽいんですよね。細やかさが足りないって感じ。さらに、メリー・ポピンズが去っていくのも唐突で強引。最後まで観ても、今回、メリー・ポピンズは何しに出てきたんだろうってところはよくわからないまま。そういうところを一切気にさせない作りならいいのですが、この映画、そういうツッコミが出るくらいにはユルい展開なので、観た後味は微妙になってしまいました。私には、役者を楽しむ以外は楽しめるところの少ない映画だったのが残念。前述のようにせめて歌と踊りの部分が楽しめなかったのが痛かったですが、その辺りは好みの問題になりましょう。実際、他の方のレビュー拝見すると評判いいですからね。でも、私にはあまり相性が良いとは言えなかったようです。

「突破口」は70年代の犯罪アクションでオッサン対決だけど面白い。


ブログの師匠pu-koさんの記事で「突破口」を拝見して、そういえばこれ録画したきりになってたなあってことで、テレビで鑑賞しました。1973年の映画というと、46年前の映画なんですね。でも、このころの映画って、テレビの映画劇場で色々観ているのですが、その中ではなぜか未見のままでした。

飛行機の曲乗り芸人だったチャーリー(ウォルター・マッソー)は、転職した農薬散布の仕事でも食い詰めて、女房のナディーン(ジャクリーン・スコット)も含めた4人で田舎の銀行を襲う、少額強盗をすることにします。田舎町の銀行の前に車を停めて、強盗に及び、現金と証券をせしめることに成功しますが、警官に車が盗難車であることを知られた結果、一人は警備員に撃たれて死亡、ナディーンも流れ弾を受けて亡き人となります。生き残ったチャーリーとハーマン(アンドリュー・ロビンソン)は、金を山分けしようと数えてみれば、75万ドルもありました。田舎の銀行にこんなに現金があるのはおかしいと、チャーリーはこれはマフィアの金だと気づきます。銀行重役のボイル(ジョン・バーノン)は、事態を収拾するために汚れ仕事の専門家モリー(ジョー・ドン・ベーカー)に金の回収を依頼します。警察は残った死体から犯人の身元を洗おうとしますが、思うようには進みません。一方、モリーは裏の調査密告網を駆使して、国外逃亡のための偽パスポートを作ろうとしたチャーリーを特定し、ハーマンのいるチャーリーの家にやってきます。チャーリーの方も自分のヤバイ状況を理解していて、何とか追手をまこうとするのですが....。

ジョン・リースの小説を、テレビ映画で実績のあるハワード・ロッドマンと「ダーティ・ハリー」のディーン・リスナーが脚本化し、「ダーティ・ハリー」「テレフォン」のドン・シーゲルがメガホンを取った犯罪アクションの一編です。オープニングは静かな田舎町の風景が映り、そこにタイトルとクレジットが被さります。そして、銀行の前に車を停めた老人とその娘が、パトカーの警官に車を駐車場へ移動させるように言われるところか始まります。一度は現場を離れたパトカーが車のナンバーを照会して戻ってくるのと並行して銀行強盗がカットバックされるところから、シーゲルの演出は快調で、舞台はずっと田舎町なんですが、カーチェイスも迫力あるし、その後の展開もうまい。最近の映画はライド感を狙って、とにかく細かくカットを割ることが標準になっちゃってますが、この映画の頃は、まだカット割りも見せ方もゆったりしていて、どこか余裕があるのが個人的には好きです。

ウォルター・マッソーという渋めのスターで、犯罪ものを作れた時代なんだなあってのがまず驚きというか感心。さらにマッソー演じるチャーリーが、男気はあるけど、それなりのワルになっているのが面白く、ひょんなことからマフィアに追われるようになった中年男をユーモアと凄みを交えて演じているのがうまい。冒頭で、撃たれて虫の息の女運転手を見捨ててしまうのですが、その後、彼女がチャーリーの妻とわかるあたりは、ハードボイルド感たっぷりの意外性がありました。一方、マフィアの金を横取りした自分たちがヤバい状況にあるのに、ムダにつっぱる若造ハーマンに見切りをつけるあたりの非情さもなかなかすごい。一方、チャーリーを追うモリーという男も、裏世界にものすごく顔が広いらしく、その有能な仕事ぶりに、周囲の人間も敬意と恐怖を示します。どうやら、犯罪者としてのプロである、チャーリーと、彼を追うモリーの対決ものの様相を呈してきます。でも、それだけではなく、他の登場人物にも、キャラと見せ場が与えられていて、最近のジェットコースタームービーとは一線を画す、きっちりとした小説を読む味わいのある映画になっています。

登場人物がそれぞれに印象に残る演出がされているので、田舎町の保安官とか、モリーが仕事の宿に紹介された売春宿の女の子、モリーに車を奪われる黒人とか、細かいところできちんとキャラが立っているのですよ。そうそう昔の映画は、テンポは今ほど早くないけど、脇のキャラが印象に残る演出がされてたよなあっていうのを思い出しました。だからこそ、60~70年代の映画をもとに「傍役グラフィティ」なんていう名著もあったんだよなあ。(これは、当時の洋画の傍役を出演した映画とともに列挙した本で、私はこの本のおかげで色々な俳優の名前を知り、脇役に興味を持つようになりました。)そういう小さな役の俳優の演技を束ねて物語を引っ張る作りが、当時の映画の定番でした。派手なアクションや爆破がなくても、役者のうまさと物語の展開で楽しめる映画があったんだよなあ。この映画は、いわゆるB級映画と呼ぶにはスタッフ、キャストは一級なのですが、田舎町の強盗の後始末という説明をすると、今の人はB,C級映画だと思っちゃうかも。でも、これはB級映画と呼ぶには丁寧でちゃんと作られているのですよ。テレビで観ても退屈するところのない2時間弱ですから、機会があればオススメしちゃいます。ちなみに、私も名前を知ってる面々では、シェリー・ノース、ノーマン・フェル、ウィリアム・シャラート、アルバート・ポップウェルといった名前が懐かしかったです。また、「ダーティ・ハリー」でシーゲル監督とコンビを組んでいるラロ・シフリンの音楽が、パーカッションを駆使してアクションシーンやサスペンスを盛り上げているのも聴きものです。



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チャーリーは75万ドルを隠し、ハーマンに家から出ないように言って、偽造パスポートの手配をしますが、パスポート情報を裏稼業の男がたれこんだことで、チャーリーの正体が割れてしまいます。その連絡を受けたモリーはチャーリーの住むトレーラーハウスへ向かいますが、そこにはハーマンしかいませんでした。ハーマンを脅して、金のありかを吐かせようとしたモリーですが、彼が何も知らないとわかるとあっけなく殺してしまいます。その一部始終を、チャーリーはトレーラーハウスの外に隠れて見ていました。チャーリーは、ボイルの秘書シビル(フェリシア・ファー)に接近し、ボイルに連絡して、75万ドル渡すから身の安全を保証しろと持ち掛けます。飛行場で、チャーリーを待つボイル。それを遠くからうかがっているモリー。チャーリーは複葉機でやってきます。そして、ボイルに抱きつき、不自然に親しげにするチャーリー。それを遠くから監視していたモリーは、ボイルとチャーリーがグルだったと信じ込み、車でボイルを轢き殺してしまいます。さらに、滑走する複葉機とのチェイスの末、複葉機は反転してチャーリーは動けなくなります。モリーに金のありかだと言って車のキーを渡すチャーリー。モリーがその車のトランクのカギを開けるとそこにはハーマンの死体と爆薬があってドッカーン。そして、車に乗って去っていくチャーリー。おしまい。

ボイルの秘書の家に押し入ったチャーリーは、ボイルに取引を持ち掛けた後、秘書とベッドでねんごろになってしまいます。当時は男と女がすぐベッドインしても、ありの時代だったのかな。そして、クライマックスは自動車と複葉機の地上チェイスというどこかのんびりした見せ場の後、チャーリーが最後の仕掛けでモリーを仕留めます。このピリっとした結末が何かかっこいいのですよ。恨みとか因縁といったものがないビジネスライクな殺し合いが、さくっと決まるあたりが小気味よい後味を残します。オッサンが殺しあう、殺伐としたお話なのに、どこかのんびりした味わいもあり、さらに面白くてかっこよくて、後味がいいってのはなかなかないですから、最近の見せ場のぎっしり詰まった映画にお疲れの方にオススメしちゃいます。

また、本筋と関係ないところに印象にのこるものを配してあるのも楽しい趣向になっていまして、ご覧になってないと何のことかわからないかもしれませんが、「強盗の車を目撃した少年」「牧場の前での会話」「ブランコの少女」「トレーラーハウスの大家のオバちゃん」「パスポート屋の女(シェリー・ノース)とモリーのやりとり」など、妙に心に残るシーンの多い映画になっています。最近は、こういう寄り道をしつつ、映画を面白く仕上げる監督がいないのかもしれません。或いは、観客がそういう寄り道を楽しむ余裕をなくしてきてるということなのかも。
プロフィール

einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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