「リアリティ」は実際の犯罪捜査の尋問の再現なのに奇妙な感動があって見応えあり。

リアリティ

今回は、平塚のシネプレックス平塚5で「リアリティ」を観てきました。横浜の近所では上映してない映画が、茅ケ崎や平塚のシネコンで上映されていることがありまして、これもそんな1本。事件の事情聴取の記録を再現した映画だというくらいの事前情報でスクリーンに臨みました。

買い物の帰り、リアリティ(シドニー・スウィーニー)が家の前に車を停めると、車の窓をノックする男、そこにはカジュアルな恰好のおじさんが二人。二人はFBIだと名乗り、彼女に聞きたいことがあると言います。彼女が車を降りて、話を聞こうとするとさらに他の男たちも姿を現し、捜査令状があるので家を調べると言い出します。家に犬がいるので、外へ出し、どこか落ち着いて話ができるところへ移動しようということになり、彼女の家の奥部屋へと移動します。おだやかな口調で親しげに話しかけるFBIのギャリック(ジョシュ・ハミルトン)とテイラー(マーチャント・デイヴィス)が言うには、どうも彼女が機密事項の漏洩に関与しているみたいです。なかなか本題に入らない二人のFBI捜査官は、リアリティから何を聞き出そうとしているのでしょうか。

2016のアメリカの大統領選で、ロシアがトランプが有利になるようなネット工作をしたという事件は、ある女性からのメディアへのリークで公になったとされています。その女性がFBIに尋問された際の録音を書き起こして、そのまま再現した舞台劇「Is this a Room?」を作ったティナ・サッターが映画用の脚色をしてメガホンを取りました。映画は82分というタイトな尺で、彼女の家での尋問の様子を再現し、少しだけその事件についてのテレビ報道を見せるという大変シンプルな作りです。そんなシンプルな作りの中で、濃密な会話劇が行われる緊張感がまず見応えがあります。さらに、政治的な問題を織り込みつつ、事実と報道のギャップとか様々な事件の側面を見せ、そして、最後には奇妙な感動があるという不思議な映画でした。別に泣けたわけではないので、感動という言葉は適切なじゃないかもしれませんが、心を揺さぶる何かがありました。今年観た映画の中では、一番「すごい」映画かも。

最初に登場するヒロインはいかにも普通の女の子という感じです。ギャリック捜査官と犬についての会話をしているあたりの世間話の尺が結構長いのですが、彼がどこまで彼女の周囲を押さえているのは、そのことを彼女がどこまで気づいているのかといったところがサスペンス映画のごとく緊張感があって、目が離せません。あまりにも、普通の会話だからこそ、目が離せない緊張感が続くという面白さが見事でした。舞台よりも、カメラが登場人物に寄れる映画だからこそ、普通の会話での緊張感がより出たように思います。主要登場人物3人の会話だけで淡々と進んでいくのですが、常にどこか緊張感をはらんだ演出が続きます。特に要所要所で流れるネイサン・ミケイのシンセサイザーによる音楽が単調な会話の流れの中に不穏な空気を察知させたりするあたりが見事でして、最近の映画の中では、音楽を最大限に使い切った作品だったように思いました。サントラ盤は出ていないようですが、ネイサン・ミケイの名前は覚えておいた方がよさそうです。

捜査官は、あくまで任意だからということを強調し、リアリティから事実を聞き出そうとします。彼女が、彼女が国家安全保障局(NSA)契約社員でペルシャ語など中東の言語に精通していて、中東への空軍に従軍したいと思っていたのですが、なかなかその希望がかなえられないまま、中東情報の翻訳をしていたこと、そして、NSAの機密情報にアクセスする権限を持っていたことが尋問の中からわかってきます。若いのに、なかなかの野心家で勉強家らしいのですよ。(アメリカだとそういうのが普通なのかしら)二人の捜査官は、かなり事実関係を押さえた上で尋問しているようなのですが、「これはこういうことだろ」と決めつけた言い方をしないで、あくまで自発的な彼女の言葉を待ちます。彼女の言葉に対して、FBIが知っていることを小出しにするやり方で、追い詰めていくのですが、その際も、彼女が前言を翻すような言動をしても、その矛盾を突くようなことはせず、その新しい言葉をもとに更に話を進めるというやり方です。それも、彼女の家の中で行う尋問でして、必要以上にプレッシャーを与えることで、彼女の言葉を奪わないように気遣いをしているのですよ。へー、やけに紳士的で忍耐強いなあって感心。どうも、彼女を凶悪犯だとは考えていないようで、それでも情報リークした動機を聞き出したいみたいなんです。

会話は、声を荒げることなく、淡々と進むのですが、そのなかで、FBIの思惑や、リアリティが抱えている不満や苛立ちが透けて見えてくるのですよ。言葉のやり取りだけの映画なのに、その言葉の裏の部分が伝わってくるのが圧巻でした。二人の捜査官もあくまで職務を遂行しているのに、きちんと人間として描かれていまして、平静を装うリアリティも一人の人間として奥行きを感じさせます。実際の尋問記録を映像化しているのに、単なる事実だけでなく、人間ドラマの域にまで持って行ったティナ・サッターの演出は素晴らしく、すごく平易な会話の中で、人間をきちんと表現した演技陣もすごいと思います。特にリアリティを演じたシドニー・スウィーニーのずっとアップの絵での演技はマジですごい。



この先は結末に触れますのでご注意ください。(まあ、結末は報道されている事実が説明されるだけですが)



FBIの質問は、なぜを積み上げていくやり方で、リアリティがかなりまずいことをしたということ、しかし、それは利益やイデオロギーのためではないと思っていることを伝えます。最初は平静を装っていた彼女ですが、機密漏洩の話をされた時、自分から印刷した情報の話をして、そこを指摘されて、少しずつ動揺の色が見え始めます。最初は、情報の持ち出しは一切ないと言いきっていたリアリティですが、だんだんと印刷はしたかも、でも見たら廃棄ボックスに入れてるしになって、最終的に、印刷したものを隠して持ち出して、メディアへ郵送したことを自供するのでした。自分の家を出た彼女を別の女性捜査官が彼女に手錠をかけて連行します。ニュース画面が出て、彼女について典型的なリーク犯のように語られ、さらにリアリティが姉にペットのことを気遣う電話の録音が流れ、彼女が即裁判にかけられ、5年の懲役という重い判決が下り、再三の保釈要求は却下され、今は刑期前ですが、監察下に置かれた状態で暮らしているという字幕が出て、エンドクレジット。

ラストで彼女が罪状より重い量刑となっていること、この事件が外国による大統領選介入よりも情報漏洩の方にスポットライトが当たっているということを訴えてきます。映画で描かれるプライベートな行動に対するメディアや政府の取り上げ方がおかしいというのは、この映画のリアリティを見ていると、すごく腑に落ちました。事実は一つだけど、それに対する政府、メディア、司法の対応は何か偏向しているのですよ。それに、これがロシアのネットによる選挙に対する違法行為は、またこの先も起こり続けるであろうこと、それがアメリカのある人たちにとって利益になるらしいというところまで見えてきます。そういうヤバい深読みができる一方で、リアリティと捜査官のやり取りには、奇妙な感動がありました。事実に対する真摯なアプローチと言うのかな。もちろん、FBIの捜査官は自供を導くための細かいテクニックを使っているのでしょうけど、それは選挙候補のネット誘導による印象操作のような陰湿でも悪質でもなく、リアリティに本当のところを語らせることにフォーカスしていて、リアリティも捜査官に対して敵対心や恐怖心を持たずに会話しているところが、私にはツボだったみたいです。人と人との会話劇でいて、犯罪捜査でいて、そこにサスペンスはあるのですが、きちんと人に対する敬意が感じられるのに、それがネットやメディアに乗った時の扱いの酷さや歪曲や思い込みが何か不快なんですよ。この事件を、こういう形で切り取ることで色々なことが見えてくるという発見の多い映画でした。2023年のベストワン映画ですね、これは。
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「ぼくは君たちを憎まないことにした」はそのメッセージより、発した人間の心情に寄り添った映画でした。

ぼくは君たちを

今回は、横浜みなとみらいのキノシネマ横浜みなとみらい1で、新作の「ぼくは君たちを憎まないことにした」を観てきました。テロで家族を失った人が「君たちを憎まない」というメッセージを出した話は知っていましたので、どっかで少しでも共感ポイントがあるといいなあっていう微かな期待でスクリーンに臨みました。

作家のアントワーヌ(ピエール・ドゥラドンシャン)は妻エレーヌ(カメリア・フォルダーナ)と幼い息子メルヴィル(ゾーエ・イオリオ)との3人暮らし。2015年11月13日、エレーヌは夜、バタクラン劇場へコンサートへ出かけた時、イスラム国による同時多発テロに巻き込まれてしまいます。テロの一報を友人からのメールで知り、妻へ電話するのですがつながらず、エレーヌの兄弟も集まってきます。不安にかられて、負傷者の搬送された病院をまわって、妻を探し回りますが見つからず、そして、翌日、彼女の死を知るのでした。彼女の母親や姉と一緒に妻の亡骸を確認したアントワーヌは心を落ち着かせた時、ふと思い立って、テロリストに向けた「ぼくは君たちを憎まないことにした」というメッセージをネットに上げます。彼の投稿は多くの反響を呼び「ル・モンド」誌にも掲載され、彼は一躍時の人となります。彼は息子との暮らしを続けていきますが、妻の喪失感から感情を爆発させることもあります。しかし、息子のメルヴィルとの暮らしは少しずつ彼を前向きにしていくのでした。

2015年のイスラム国の同時多発テロで多くの犠牲者が出ました。フランスの国民は怒りと悲しみの感情の中で不安な日々を送ることになるのですが、そんな中で「テロリストを憎まない」という投稿は多くの人の注目を惹きます。この実話に基づいて、ヤン・ブラーレン、マルク・ブルーバウム、ステファニー・カルダンとキリアン・リートホーフが共同で脚本を書き、リートホーフがメガホンを取りました。映画は、テロのあった日の朝から始まり、アントワーヌやエレーヌの幸せそうな暮らしぶりを見せ、その夜、エレーヌと友人がコンサートに行くのをアントワーヌが見送ります。そして、メールやテレビでテロのことを知ったアントワーヌが妻を探しまわる様子を描き、彼女の死を知り、ネットに投稿するという流れになります。

妻が無差別テロで殺された時に「ぼくは君たちを憎まない」なんて、どういう心境だったら言えるんだろうというのが素朴が疑問でした。街には武装した警察や軍が厳戒態勢を取っています。また、どこかで市民が殺されるのかもしれない、そんな中で、冷静でよくできた文章を書けるのは、アントワーヌって聖人なのか変人なのか。そんな興味でスクリーンに臨んだのですが、このアントワーヌが聖人でもないし、プライベートはそれほどでもない人間なのが、意外というか、やっぱりというか。息子に対してはいい父親であろうとするのですが、妻の死のショックで酒に走って、息子に目が届かなくなるし、エレーヌの姉が葬儀とかいろいろと忙しくしても、アントワーヌはそういうことから逃げ回って役に立たない、しかもそのことを言われると偉そうに開き直る。気の毒ではあるけど、同情や尊敬を誘うタイプではなさそう。

じゃあ、なぜ「ぼくは君たちを憎まない」なんて文章を投稿しちゃったのか。目立ちたがりの物書きが逆張りしただけのことなのかというと、どうもそうではないらしい。テロのニュースを知ってから、不安と苛立ちの時間をずっと過ごしてきたアントワーヌですが、だいぶ待たされた後、妻の遺体に対面した時、すごく穏やかな表情になります。妻の死を確認して嬉しいわけはないのに、それまでの不安と苛立ちが和らいだ、そのタイミングが彼にそういう文章を書かせたという見せ方をしているのが面白いと思いました。そして、そのことが怒りの感情に走りそうになる彼の歯止めになっているのです。家族をテロリストに殺されて「ぼくは君たちを憎まない」なんて、偽善者か頭の変な奴じゃないかという突っ込みが出るところですが、この映画では、普通の人間でも、そういう文章を書きたくなるタイミングがあるんだよというのを見せてくれています。アントワーヌが、妻の死の悲しみを乗り越えて、こういう文章を書いたわけではないってところに納得とちょっとだけ共感してしまいました。

あー、この感じ、昔の映画で観たことあるなあって思い出したのは「セントラル・ステーション」という映画でした。大都市のターミナル駅で手紙の代筆をしているおばさんが、これまでロクでもない人生を送ってきたのに、なぜか魔が差したようにいいことをしてしまうというお話でした。人間、魔が差して、いいことをしちゃうことがあるというところにおかしさと感動がありました。この映画のアントワーヌとはまるで別の話ではあるのですが、人間どこか感情のエアポケットに落ちちゃう時があって、その時に良くも悪くも想定外のことをしちゃうことがあるんじゃないかという気がするのです。アントワーヌの投稿に感動された方には、ひどい言い方に聞こえるかもしれませんが、この映画に出てくるアントワーヌはよき夫、良き父親ではあるものの、その他については特別な人間ではないように思えます。良き家庭人ではある彼が、感情の隙間に陥った時に書いた文章によって、人を感動させ、自分もそのことによって覚醒したお話だと思えてしまったのですよ。

肉親を理不尽に殺された人間が、悲しみを乗り越えて、憎しみの連鎖を断つのは、並大抵なことではないと思います。それは世界の歴史が現在進行形で証明してしまっているので、「ぼくは君たちを憎まない」というのはある意味、きれいごとだと思っています。でも、そっちへ少しでも近づかないとテロや戦争はなくなりません。その中間地点にいる自分にとっては、この話は知っておいた方がよいことだと思います。でも、それは単なるきれいごとではなく、文章を書いた後もアントワーヌは悲しみと喪失感を乗り越えられていないところも知る必要があり、映画はそのことを見せることで、彼の言葉は自分たちと地続きの世界にあることを再認識させてくれます。そして、彼自身が自分の言葉とおりの感情を維持できなくて、自分を自分の言葉で戒めているというところも重要です。それを理解できないと、彼を偽善者だとか責めてしまうかもしれません。あるいは、言行不一致のダメ人間だとか言われそう。でも、ある人の人生とその人の発した言葉は、完全一致ではなく、微妙な距離感を保ちつつ、時には寄り添ったり、離れたりもしてるってことを理解すべきなんだと思います。自分のことだと「まあ、あの時はああ言ったけどさあ」って言い訳するのに、他人が同じ事をするとすごく不愉快に感じたり、責めたりしちゃうのは、気をつけないいけないと思わせる映画でもありました。

映画の中で、アントワーヌが地下鉄に乗っていると若い女性から「私もテロの時、劇場にいました。自分の想いをみんなに伝えてくれてありがとう」と声をかけられるシーンがありました。日本人の私からすると「ホントかよ」と思えてしまったのですが、もし、これがホントの話なら、そういう人もいるということを知る必要がある映画でもありました。映画は、息子と二人でコルシカ島へ旅行へ行き、木洩れ日の下でハンモックに揺られるアントワーヌの姿で終わります。すごく穏やかな時間ですが、彼の人生はここで終わりではなく、これからも山あり谷ありなんだろうなあって思いますし、息子に妻の死の詳細を伝えるときも来るでしょう。でも、彼の書いた文章には嘘はなかったし、彼はその言葉を胸に生きていくだろうというラストには、じんわりとくる感動がありました。先日観た「月」で、現実ときれいごとの対立構造に違和感を覚えた自分としては、その両方の狭間を行きつ戻りつするアントワーヌの姿に素直に納得と共感ができました。「ぼくは君たちを憎まない」というメッセージそのものより、そういう言葉を発した人の想いを受け取る映画だと思った次第です。

すんごい久しぶりに観た「ゴジラ対メガロ」はやっぱりZ級の味わいかなあ。

ゴジラ対メガロ

「ゴジラー1.0」の公開に合わせて、ゴジラ映画が色々テレビ放映されています。そんな中ですごく久しぶりに「ゴジラ対メガロ」を観てしまいました。

1973年の東宝チャンピオンまつりで公開されました。この前年に公開されたのが「地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン」でして、これは小学生だった自分には、結構ゴジラが苦戦したり、宇宙人の正体がゴキブリだったり、他作品からの流用とは言え、伊福部昭の音楽が大変かっこよかったので、結構評価は高かったです。その翌年の新聞広告で、1973年の東宝の公開映画ラインナップが並んでいまして、その中に「海底王国破壊作戦 ゴジラ対メガロ」という名前があったので、それなりの期待を持ってスクリーンに臨みました。観終わってみれば、「何だこれは?」って感じ。怪獣プロレスは仕方ないにしても、全体に安っぽすぎるだろう、特にジェットジャガーがロボットなのに意思を持つだけならまだしも、突然巨大化はないだろうと、小学生目線でもかなりの低評価になってしまいました。この前、評判がよくなかった昭和のガメラシリーズを今の目で観てみれば、色々頑張ってるじゃんっていい方に評価が変わったので、この映画も当時よりは評価が良くなるかもって期待もありました。

とは言え、この先はこの映画を良く言ってないので、そういうのが嫌いな方はパスしてください。

核実験の影響はゴジラのいる怪獣島にも影響を及ぼし、300万年の歴史を持つシートピア海底王国にも多くの犠牲が出てしまいます。シートピアの王は、自分たちの平和を脅かした地上人に対して報復を宣言し、地上に地割れを起こし、守護神でもある怪獣メガロを送り込むのでした。メガロを東京へ誘導する水先案内人として、市井の発明家である伊吹吾郎(佐々木勝彦)の開発した人型ロボットのジェットジャガーに目をつけて、彼の研究室に工作員が侵入し、吾郎と弟の六郎(川瀬裕之)を拉致し、シートピア海底王国へ連れ去ろうとします。しかし、二人を乗せたコンテナは、地割れへ行く途中のダムで、メガロに吹っ飛ばされて、二人は何とか難を逃れます。ジェットジャガーにナビゲートされて、街を破壊しながら進撃するメガロに対し、吾郎は電波でなく超音波を使って、怪獣島へ行ってゴジラに救援を求める指示を出します。怪獣島へ飛んだジェットジャガーはゴジラに事情を伝え、戻ってくると突然巨大化しメガロに向かっていきます。一方、シートピアの王は、Mハンター星に協力を仰ぎ、ガイガンがメガロの応援にやってきます。メガロとガイガンの攻撃を受けて、ジェットジャガーもグロッキー状態のところへ、ゴジラが現れ、2対2の怪獣タッグマッチが始まるのでした。

過去のゴジラシリーズで「キングコング対ゴジラ」や「怪獣大戦争」など多くの脚本を書いている関沢新一の原作を、「エスパイ」「惑星大戦争」の福田純が脚色し、メガホンも取りました。人類の核実験のせいで、北地区が壊滅状態になってしまったシートピア海底王国が地上への報復のために守護神メガロを送り込んだ、このあたりまでは記憶があります。でも、結末はどうなったんだかあまり記憶がなくて、そこも確認したかったのですが、そこに至るまで色々と発見がありました。

メガロが都市破壊をするシーンや防衛軍と戦うシーンはほとんど、過去の映画からの流用カットでまかなっています。当時の小学生の私でも、群衆の避難シーンは「モスラ対ゴジラ」だなあ、とか光線による都市破壊は「地球最大の決戦」のキングギドラの破壊シーンだとか気づいたのですが、今見直すとそんなもんじゃなくて戦車やレーザー砲は「怪獣総進撃」や「サンダ対ガイラ」から、ガイガンの格闘シーンは前作「ゴジラ対ガイガン」からの流用とか、とにかくオリジナルカットはダム破壊と原っぱでの怪獣プロレスシーンだけじゃないのって思ってしまいました。まあ、前の作品から特撮カットを流用するというのは、ガメラシリーズでもやってますし、本家円谷英二監督作でもあることなので、そこを目くじら立てることもないのですが、それでも流用カットの数が多いし、編集が雑。メガロ側は昼間なのに攻撃する方が夜なんていうカット割りでは、エド・ウッドのサイテー映画「プラン9」を笑えないよなあ。また、ゴジラの造形が目がくりっとした、すごく特徴のあるカワイイゴジラなので、他の映画からの流用カットだと、明らかにゴジラの顔が違うのですよ。あちこちから流用するのなら、もっと無難な造形にすればよかったのに。

また、ジェット・ジャガーが自分の意思で巨大化するのもやっぱり説得力なく、ラストで元のサイズに戻って意思がなくなるというのも、何かなあ。この類の嘘には、昔、江戸川乱歩や海野十三の子供向け冒険小説で育った世代としては、かなり寛容なはずなんだけど、なまじロボットがとかコンピュータがといった説明がついた分、かえってリアリティがなくなってしまいました。先日観た、昔のガメラシリーズの嘘には、暖かい視線で接することができたんだけど、こっちは引いちゃったんですよ。何が違うのかって聞かれると困るのですが、観客へのサービス精神の違いってことなのかなあ。ガメラの方が子供目線まで降りて作られてるので、子供気分で許容できちゃうって感じかしら。

ゴジラ、ジェットジャガー対メガロ、ガイガンのタッグマッチは、アングルからカメラワークまで、もう怪獣映画というよりは、カット割りの細かい怪獣ショー(又は、ウルトラファイトというか)になっちゃっています。着ぐるみの中の人の動きにしか見えないアクションは映画館の大画面でやるものではないと思いました。当時は、第二期ウルトラマンシリーズや仮面ライダーがテレビ放映されていたころで、そのテレビでやってることをまんま映画館でやらなくてもって子供心にも感じてしまいました。メガロの火炎弾によって、ゴジラとジェットジャガーが炎に囲まれるシーンは、絵面も怪獣の演技ももろ時代劇になってましたからね。ゴジラ映画の本によると、この頃はお金も時間もなくて、ダム破壊シーンに手間とお金をかけるのが精一杯だったんですって。

でも、お金と時間が足りないだけじゃないってところもありました。シートピアの守護神がカブトムシってのは何でやねんとか、シートピアの工作員がやたら弱いとか、細かい突っ込みどころが多いのもそうなんですが、それ以上にドラマとして変じゃないのってところが多くて。シートピア海底王国ってのは核実験の被害者なんだけど、そのことを地上人はほとんど知らない。多分、主人公もよくわかってない。また、中盤、主人公兄弟を拉致して、海底王国へ連れて行くというくだりになるんですが、結局、二人は海底王国へは行かなくて、そのまま怪獣タッグマッチの方へ話が行ってしまう。最後は、シートピア海底王国が地割れを塞いで、ダウンしたメガロはその地割れの中へ吸い込まれていくのですが、結局、シートピアがどうなったのか最後までよくわからなかったです。エンドマークが出て、「え、シートピアはどうなったの?}と見落としたのかしれないと15分くらい巻き戻してみたのですが、シートピアはどういうつもりで地割れを元に戻したのかは、一切説明がありませんでした。シートピアは負けを宣言したのか、「また来るぞ」といったん引き上げたのか、そのあたりも説明しないまま、何のフォローもなし。まあ、核実験の被害者であるシートピアが、ゴジラにボコボコにされたというのは、さすがに大きな声では言いにくかったのかもしれませんが、そこを工夫して見せるのがお話を作る人の知恵だと思うのですよ。お金や時間がないのはわかるけど、それと関係ないところでもダメじゃんってのが、素直な感想です。だったら、発端を核実験じゃなくして、シートピアを完全に悪役にするとか(「海底軍艦」みたいに)、いくらでもやりようがあったのに、何か作り手のうっちゃり感がひどいよなあ。

私は、ゴジラが反戦反核の体現者だとは思ってませんし、ヒーローになろうが、悪役になろうが、映画がそれで面白くなるのならどっちでもいいと思っています。ただ、お話が手抜きすぎるのは、ダメだよなあって思うわけです。結局、海底王国と人類の全面戦争の前哨戦として、両方の用心棒が闘って、人類の用心棒が勝ちましたってお話なんですが、観ている方はどっちに肩入れしていいのかわからないし、この結末は後味よくないし、ジェットジャガーは能面みたいなのにヘラヘラしてるしと、映画としてはひどいなあって評価になっちゃいました。4大怪獣タッグマッチを観るためだけの映画だと割り切ると、Z級がC級くらいに上がるとは思いますし、遊園地の怪獣ショーの豪華版を映画館で観られるアトラクションだと思えば、親子連れで楽しめるねって納得もできます。今、映画館でお笑いライブとか舞台挨拶の生実況をやったりしてますから、そういう映画じゃないものを映画館で観る走りだと思えば、時代先取り感はあったのかもしれません。

当時を思い返してみれば、東宝チャンピオンまつりを観に行くというのは、子供にとっては、学校の長い休みの時の楽しい一大イベントだったわけですから、4大怪獣を大画面で観られるイベントのどこが悪い、後になって大人目線で「映画としては云々」とケチつけるんじゃねえっていう意見もあるでしょうし、それはごもっともだとも思います。でも、他のもっと映画として出来のいいゴジラと同列に並ばれると、お前はそうじゃないだろって思ってしまうのも、ゴジラファンの一つの意見としてご容赦願いたいところです。

「私がやりました」はマジ度皆無のベタなコメディ。でも最近こういうのが少ないから貴重。

私がやりました

今回は新作の「私がやりました」を日比谷のTOHOシネマズシャンテ2で観てきました。ここはフラットな場内で、昔は前の席にちょっと大柄な人が座るとスクリーンが前の人の頭で欠けることもあったのですが、スクリーンの位置を上にずらしたのか、並の座高の人なら大丈夫くらいに見易い映画館になっていました。また、ここはTOHOシネマズの中で珍しくスクリーンサイズを上映サイズに合わせて変えてくれます。今回もビスタサイズから本編上映前にシネスコサイズに画面サイズが変わってちょっと感動。昔は当たり前だったことにささやかに感動しちゃう変な時代だわ。

1935年のパリ、売れない女優のマドレーヌ(ナディア・テレスキウィッツ)は役をあげるから愛人になれというプロデューサーを振り切って家に帰ると、滞納している部屋代の催促が来ていて、ルームメイトで弁護士のポーリーヌ(レベッカ・マルデール)が家主を追い出したところでした。結局、役ももらえず家賃も払えないと頭を抱える二人のところに刑事が訪ねてきます。マドレーヌを口説いたプロデューサがマドレーヌが訪ねた後くらいに銃で殺され、30万フランが奪われたというのです。部屋からマドレーヌの銃が発見されたことで、ラビュセ判事(ファブリス・ルキーニ)はマドレーヌが犯人と睨んで呼びつけます。しかし、マドレーヌは否定し、30万フランが葉巻入れから発見されたことから、彼女の容疑は薄まります。しかし、ポーリーヌと一計を案じたマドレーヌは、実は殺したのは私ですと名乗りでます。プロデューサーによって愛人になるように強要され、押し倒されて抵抗した時、机にあった彼の銃で射殺したのだと自白して、裁判となります。これで事件解決と判事も大喜び、そして、裁判となり、ポーリーヌは、か弱い女性が男に襲われて貞操の危機に瀕した時の正当防衛という論陣を張って、マドレーヌを弁護します。何でやってもいない殺人を自白しちゃったのかしら。

「スイミング・プール」「まぼろし」「すべてうまくいきますように」などで知られるフランソワ・オゾンが、ジョルジュ・ベル&ルイ・ヴェルヌイユの原作小説「Mon Crime」を脚色し、メガホンを取りました。1935年という時代を舞台に、大物プロデューサーのセクハラという今風のネタをきっかけに起きた殺人事件の顛末を面白おかしくまとめたブラックコメディの逸品です。オゾンの映画は、人間のありようをちょっと斜に構えた視点で描いたものが多いのですが、この映画は展開は一捻りあるものの、ベタなコメディの作りになっていまして。ラビュセ判事役のファブリス・ルキーニなんて吉本新喜劇みたいなテンション高いバカ演技で笑いをとります。殺人事件を扱ったお話なので、作り方次第ではクールでシニカルな笑いになるところをあえてコテコテの笑いへ持って行ったセンスが面白いと思いました。

マドレーヌとポーリーヌは、美人さんだけどお金がない。マドレーヌは女優だけどなかなか芽が出ません。大物プロデューサーの目に留まって役をもらえると思ったら、その代わりに愛人になれと押し倒されて、イライラマックスの状態だったのですが、そのプロデューサーが殺されてザマア見ろの気分。さらに、彼女に殺人の嫌疑がかかったことで、自分を殺人犯として世間に売り込もうとするのです。裁判では、ポーリーンが、か弱い女性が犯されそうになって、抵抗した結果、仕方なくそこにあった銃で相手を撃ったと論じます。もともとが1930年代の戯曲が原作だそうですが、当時としてもこういう視点で殺人が正当化されちゃう話が笑えるネタだったというのは驚きではあります。法廷シーンは、登場人物の大芝居っぷりもおかしく、リアリティをすっとばかした展開は、殺人をお題にバカコメディの笑いを運んできます。ヒロイン二人の「やってます」感満々の胡散臭いキャラも、きれいにお笑いにはまりました。殺人事件の裁判なのに、みんなふざけてる感じがおかしいのですよ。

で、正当防衛が認められて、マドレーヌは無罪放免。すると取材の申し込みが来るわ、映画出演の話が来るわで、一躍時の人となります。舞台でも主役をもらい、これでハッピーエンドになるかと思いきや、ポスターに名前と顔があったのにちっとも出てこないなあって思っていたイザベル・ユペールが登場して、さらにドタバタに輪をかけます。若いヒロイン二人はちょっと今風キャラ入っていてカワイイ感じなんですが、ユペールはコテコテの大阪のオバちゃんで登場して、ベタな笑いをひっぱります。フランソワ・オゾンの映画って、人間が持っている変なところを、隙間を引っ張り出すように拡大して見せるってイメージがありました。そこに作り手の悪意みたいなものが感じられて、面白さになっていたのですが、この映画では、その悪意を封印して、殺人事件を取り巻く人々を、「もー、みんなお茶目さん!」って感じで描いた結果、何ともケッタイなハッピーエンドとなりました。撮影や音楽はマジメな犯罪映画のタッチなので、そのギャップの笑いも乗っかりました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



無罪判決の後、豪勢なホテル住まいになったマドレーヌとポーリーヌ。そんな二人の前に変なおばさんが現れます。彼女は映画がサイレント時代の大女優オデット(イザベル・ユペール)でした。カムバックを夢見るもののそれもかなわず、お金もない彼女がかつての知り合いのプロデューサーを訪ねたのですが相手にされず、逆上して殺してしまったのです。ところがその殺人をマドレーヌに横取りされたので、その分け前をよこせ、さもないとこのことを世間にばらすと脅すのですが、若い二人はあっさり拒否。オデットは現場に居合わせた証拠も持っていて、ラビュセ判事にそれを突き付けて、自分がやったと言ったものの、もう今さらと相手にされません。しかし、マドレーヌとポーリーヌもこのままでは、まずいことになるかもと、マドレーヌの主演舞台の相手役に彼女を送り、さらに、マドレーヌの恋人の父親の会社がお金に困っているのを知って、マドレーヌのファンの富豪を使って、大口の融資をさせる一方で、オデットの存在を父親に知らせ、オデットに金を渡さないと、全てがオジャンになると吹き込んで、オデットに小切手を渡すことに成功します。マドレーヌとオデットの主演舞台は、二人で悪徳プロデューサーを撃ち殺すお話に代わり、二人は満場の拍手を浴びるのでした。めでたし、めでたし。

有名になったマドレーヌには言い寄る男もいました。そんな中に金持ちのパルマレードがいました。オデットに渡す金を作るために彼に色仕掛けで迫ってみると、意外や彼はマドレーヌのお願いを聞いてくれ、さらに妻一筋だからと手は出さないという変ないい人ぶり。彼のおかげで、恋人の父親の会社は再建の目処が立ち、その父親からオデットに渡す金を捻出できたという一石二鳥の落ちがつきます。あまりにもマドレーヌに都合よく話が進んで、あれよあれよという間の大団円となります。この映画、プロデューサーのセクハラですとか、女性差別といった今風の社会問題ネタを扱っているように見えるのですが、後半のいい加減かつご都合主義の展開で、そういうマジな部分も笑い飛ばしてしまうので、難しいこと抜きで面白かったねえって後味で劇場を後にすることができます。最近の映画の、ヒーローものでも、スパイアクションでも、主人公が悩んだり葛藤したりするのが、あまり好きじゃない私としては、この誰も悩まない、真面目な奴が誰もいない映画は、ある意味痛快で、大変面白かったです。今だからこそ、こういう映画がもっと作られて欲しいわあって、ほんと思います。だって、今、みんなマジ過ぎるんだよなあ。

「ゴジラ-1.0」はゴジラを脇役に置いて、感動的な展開もあるんだけど、人間ドラマが全体的に薄め。

ゴジラー1

今回は新作の「ゴジラ-1.0」をTOHOシネマズ川崎6で観てきました。昔ながらのつくりの劇場で大きさとしては中規模クラスになるのかな。シネコン風縦長のつくりで大画面傾斜きつめの作りよりは、こっちの方が好き。ウィークデーだからほとんど人いないし。

戦争末期、敷島(仲木隆之介)は特攻隊で飛び立ったものの、飛行機の故障を理由に大戸島の飛行場に着陸しますがそこを巨大な恐竜のような怪物が襲撃。彼が機関砲の引き金をひくのをためらっているうちに、彼と整備兵の橘(青木崇高)以外全員死亡。橘に責められながらも、日本に戻れば、彼を見送った父母は空襲で亡くなっていました。ある日、街で出会った赤ん坊を連れた女、典子(浜辺美波)と知り合い、彼女は敷島の家に居ついてしまいます。典子も空襲で家族を失い、その際見ず知らずの母親から赤ん坊を託されていたのでした。大戸島の夢でうなされ続ける敷島ですが、給料のいい機雷除去の仕事を得て、血のつながらない3人の生活が立つようになっていきます。機雷除去の木造船の乗組員、秋津(佐々木蔵之介)、野田(吉岡秀隆)、水島(山田裕貴)と、海に残された機雷を爆破していきます。そんな時、太平洋で巨大生物が発見され、それが日本へ迫ってきていました。米ソの緊張から、米軍は日本を防衛する行動をとれない状況で、廃棄前の戦艦が日本へ向かうことになり、それまでの時間稼ぎに敷島たちの船に、巨大生物を足止めの命令が出ます。しかし、米軍の戦艦の残骸を見て、これは無理だと思う4人ですが、そこへ現れたのが大戸島で見た怪物がさらにでっかくなった奴。機雷をぶつけて爆破させるのですが、そのくらいではびくともしない怪物。何とか間に合った戦艦も、怪物の放った光線で木っ端みじん。そして、大戸島の伝説からゴジラと名付けられたその怪物は東京に上陸してくるのでした。

「ALWAYS 三丁目の夕日」「永遠のゼロ」などで知られる、山崎貴監督が自ら脚本を書いてメガホンを取り、白組を率いてVFXも担当した、ゴジラの最新作ということになります。戦争直後の昭和25年にゴジラが日本を襲うという、オリジナルの「ゴジラ」の前日談ではない並行世界のお話ということになります。まあ「シン・ゴジラ」でもオリジナル関係なくやりたい放題やったわけですし、こういう設定リセットは過去のゴジラ映画でも何度かやっていますから、珍しいことではありません。この映画は、元特攻隊の生き残りでトラウマを抱えた主人公がどう人生を再生するのかという話に、ゴジラが絡むという感じでしょうか。まあ、過去にも、ゴジラが主役とは言い難い映画はありました。「怪獣大戦争」とか「ゴジラ×メカゴジラ」は物語的にも演出でもゴジラは脇役扱いですからね。この映画はタイトルは「ゴジラ-1.0」ですが、ゴジラが主役じゃないってのは変だと言われそうですが、「ジョーズ」の主役は鮫かと言われたら違うよなあ、とまあ、そんな感じで。

映画の冒頭で、ゴジラが登場するので、これはゴジラ出ずっぱりの映画かと期待させるのですが、そこから先は復員してからの主人公のトラウマの日々がかなりの尺で描かれます。昭和20年から25年あたりまでの時期に当たるようで、その間に典子と一緒に住むようになり、お金に困って機雷除去という危険な仕事に就くことになります。山崎貴の脚本・演出はメッセージ的な部分を全て登場人物にセリフで語らせるスタイルを取っていまして、時として説教くさかったり、無理やり言わせてる感があるのは残念。そんな語り過ぎの登場人物の中では、近所のおばさんを演じた安藤サクラがセリフ少なめの儲け役でした。ここまでの展開で、死に損なった上に他人の死の責任も負った主人公を設定するために、この時代を選んだというところは納得できました。現代の日本を舞台に生と死の際々にいる人間を設定するのは無理があります。さらに飛行機乗りで銃器を操れるという設定だと、舞台をこの時代にしないと無理だよなあって、そこは感心しました。でも、尺が長いという印象は残りました。「マタンゴ」で、物語にキノコが登場するまでの尺くらいありましたもの。(←マニアにしか伝わらない。)

ちっちゃな木造船で機雷除去をしていた敷島たちが怪物の足止め要員にされちゃうところから、やっとゴジラが絡んできます。海に深海魚が浮かんでくるとゴジラが近い印で、敷島たちの周囲にも深海魚が浮いてきて、いよいよゴジラが登場します。船にある機雷をぶつけてみても動じることなく、船を追ってくるゴジラはかなりの迫力。最後の機雷を口に放り込んで、機関砲で撃つ(← あ、ジョーズ?)とちょっとはダメージがあったみたいだけど、すぐに傷が再生するという、もう不死身じゃん、こいつ。そして、もうこれまでと言う時に、騎兵隊のごとく登場する戦艦もゴジラの光線により大爆発。何とか逃げられた敷島たちですが、ゴジラは容赦なく上陸してきます。真昼間の銀座を逃げる人々を踏みつぶしながら進むゴジラ。銀座へ働きに出るようになった典子も電車に乗っていてゴジラに襲われ、逃げまどいますが、駆け付けた敷島に助けられます。しかし、戦車隊の攻撃に怒ったゴジラが光線を発すると、大爆発が起こり、典子はその爆風に飲まれてしまうのでした。

海のシーンでゴジラのすごさを存分に見せる演出は成功してまして、これでは誰も太刀打ちできまいと思わせる迫力がありました。その後、唐突に銀座に現れるシーンも見応えありましたが、都市破壊の図としてはやや物足りない感じもしちゃいまして、光線一発で周囲が焼け野原になるところは怪獣というよりは大量破壊兵器みたいな見せ方になっています。ヒロインが主人公をかばって爆風に飲まれちゃうのは、トラウマに悩む主人公を不幸のどん底に落とし込みます。そのトラウマ克服の機会が同僚の野田から持ち込まれるのでした。

前半から中盤にかけては、とにかく主人公を追い込んでいくお話で、それが一応ラストのカタルシスにつながる展開は、面白かったのですが、山崎貴の演出は意外と平坦。登場人物のセリフの抑揚でしか、ドラマの強弱をつけられない感じが今一つ映画としての面白さにつながらなくて、そこが残念でした。セリフに重心を置きすぎる演出だと、その場でセリフを喋っていない人が演技してないように見えちゃうので、シーンとしての情感とかが伝わってこないと感じてしまったのです。セリフでは語り過ぎのようで、ドラマとしての盛り上げを欠いたというのはひどい言い方かしら。

主人公のトラウマ克服の過程はなかなかに感動的ではあるのですが、ドラマとしての広がりを感じられなかったのですよ。多分、これはセリフ重視の演出に加えて、脇役の扱いがよくなかったのかも。結局、敷島は、全て自分の中で抱え込んで、自分の中で完結しちゃってるように見えたのです。せっかくのヒロインも主人公の不幸ダメ押し要員にしかなっていませんし、機雷除去の同僚3人も主人公に何か影響を与えたようにも見えず、敷島一人が自分のせいで他人の死を招き、そのトラウマから自分一人で脱出してヒーローになってるってのが、何か物足りなくて。「ゴジラ×メカゴジラ」の釈由美子嬢も似たような境遇だったけど、周囲の励ましとか善意によって立ち直る展開だったので、この映画の場合、敷島一人だけ、ちょっと強すぎって感じで共感を呼ばなかったのかも。

ドラマの抑揚で言うなら、音楽演出も何か変でした。音楽は佐藤直紀のオリジナルと、伊福部昭の既成曲を組み合わせているのですが、オリジナルの方がシンセを使ったハンス・ジマー風のスピリチュアル寄りの音なのに、伊福部昭の勇壮な盛り上げ曲で、これが交互に流れるので、聞いてる方の精神状態の上げ下げが激しすぎるというか、映画が情緒不安定になっちゃっているのですよ。伊福部昭の音楽は、過去のゴジラ映画のモチーフを無造作に並べた感じだけど、でも明快なモチーフがあるので映像が素直に盛り上がります。それに比べると、佐藤直紀の音楽は、モチーフが前面に出てこない今風の描写音楽なので、これを一本の映画の中で使うこと自体に無理があったのかなって気がします。音楽としての統一感がないと、映画のカラーが落ち着かない感じになっちゃうのですよ。それを狙ってやっているとしたら、この映画、私とは相性が良くないのかも。

今回のゴジラは、少なくともこの映画の中では、神格化も擬人化もされていない、恐竜の無茶苦茶強い奴という扱いです。出現の理由も語られませんし、東京を目指す理由も不明(これはオリジナルの「ゴジラ」も同じですけど)。オリジナルの「ゴジラ」のようなバックボーンを感じなかったのですが、これはこれでありだと思いました。体が傷ついても、あっという言う間に修復しちゃうとか、一発で周囲を焼け野原にしちゃう光線技とか持ってるのは、怪獣以上の存在(← 超獣?)ですけど、ドラマの中心ではない、主人公を引き立てる脇役のポジションを全うしてるので、こういう扱いは新しいかもって思いました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



3万人の犠牲者を出して、海に消えたゴジラですが、いつまた上陸してくるかわからない状態です。米軍は軍事行動を行えないというところで、旧日本軍の有志が集まって、民間人の手でゴジラに立ち向かおうということになります。かつて軍の技術者だった野田がゴジラを倒す作戦を提案します。それはゴジラをフロンガスで包み込むことで急激に海底1500メートルまで沈み込ませ、圧力差で葬ろうというのです。さらにそれでダメなら風船によって、急激に浮上させて、二重の圧力差攻撃で仕留めようというもの。それでゴジラを倒せるかという確信はありませんでしたが、多くの有志がその作戦に参加することになります。敷島は飛行機を要求し、それによってゴジラを深さ1500メートルの地点まで誘導すると宣言。倉庫に眠っていた震電という幻の戦闘機が引っ張り出されます。敷島は、大戸島の生き残りの橘を探し出し、彼に震電に爆弾を仕掛けることを依頼。ゴジラの口に飛び込んで爆発させようとします。ゴジラを海に沈める作戦は、上陸したゴジラを橘がうまく相模湾へ誘導し、フロンガスを破裂させてゴジラを1500メートルの海底に沈めることに成功します。しかし、ゴジラはまだ死んでおらず、今度は緊急浮上させようとしますが、ゴジラが風船を食い破って浮力が足らず、船を連ねて引き揚げるのですが、ダメージを受けたゴジラが光線を吐きかけたところへ、敷島の飛行機が突っ込み、ゴジラの頭が吹っ飛んで、本体は沈んでいきます。敷島は口に入る直前で脱出して無事でした。橘が震電を整備した時にパラシュートと脱出装置をつけていたのでした。そして、東京へ戻ると典子が生きていたという電報が届いていました。病院で再会する敷島と典子。めでたしめでたし。

軍隊でも自衛隊(当時はまだないですけど)でもない民間人でゴジラを倒そうという話になるのが、なかなかすごい。うまくいくかはわからないけど、とにかくやらないとまた犠牲者が出るという展開で、敷島はここでゴジラと心中することが贖罪になると考えるのですが、橘の計らいもあって、彼はゴジラを倒し生還するのでした。クライマックスはなかなかに盛り上がって感動的なんですが、橘が飛行機を整備しているときに操縦席を見つめるシーンがあるので、脱出装置の仕掛けが読めてしまうのはちょっと残念。また、帰ってきたら、死んだと思った典子が生きてましたという唐突な展開は、ちょっと引きました。生きててよかったんだけど、何か見せ方が安くない?って気がしちゃいまして。

この映画、2時間ちょっとあるのですが、その中でゴジラの出番はかなり控えめでした。画面にゴジラが出てくる尺が少ないだけじゃなく、ゴジラの脅威とかゴジラのバックボーンとかが語られる尺もあまりなかったのです。映画の半分以上は、敷島個人の罪の意識の葛藤なので、敷島の戦争の始末記を描いた映画と言ってもいいかもしれません。ただ、そう言っちゃうとドラマが薄めでして、生と死の間で感情が揺さぶられているのは、他の登場人物も同じはずなんだけど、そこは一切触れないのが物足りなく感じてしまうのですよ。ヒロインの典子もラストでは菩薩様のようにニコニコしてるだけで何か生身の人間感がなくて、敷島だけ人間で、後の人はバックの書割りみたいな位置づけになってたのは、何だかなあって思ってしまったのです。バランスの問題なのかもしれなくて、演出が敷島だけの肩入れしすぎたから、他の人があんまり描かれずに、その結果、ドラマとしての味わいが薄くなったって感じかなあ。後はセリフ周りかなあ、例えば、野田が「あいつの戦争はまだ終わってないんだ」って言うなら、結構泣かせるセリフになるのに、「自分の戦争はまだ終わってないんです」って当人が言うと何か浅く聞こえちゃうんだよなあ。(←これは私の好みの問題なので、そこはご容赦ください。)ゴジラを中心に据えないゴジラ映画を作った意欲はすごく感じたのですが、その代わりに中心に置いた人間ドラマの方がちょっと物足りなかったって言ったら、ファンに怒られちゃうのかなあ。

新作ゴジラ前に昭和ガメラ5本がテレビ放映。懐かしくもしみじみ。

大怪獣ガメラ
バルゴン

2023年の夏は、秋のゴジラ新作の露払いの意図なのか、怪獣映画がたくさんテレビで放映されました。特にCSとかでも放映される機会の少ない、昭和のガメラがまとまってテレビで放映され、きれいな映像で観ることができました。当時は子供だった自分ですが、東宝チャンピオンまつりにはよく行ってたのに、ガメラは1本しか観てなくて、何かマイナーなイメージがあります。でも小学館の学習雑誌とか少年マガジンの口絵(雑誌の頭のカラー写真が並ぶところ)にはガメラが結構掲載されていました。その写真は映画館の前に飾られるスチル写真がほとんどだったんですが、東宝のゴジラに比べて、ガメラのスチルは、デザインがものすごくかっこよかったです。こんな画面が観られるなら映画館行きたいと思ったものです。ただ、ガメラのスチル写真って、デザイナーがスチル用の作ったものがほとんどで、実際の本編ではそんなかっこいいカットはないと知ったのは、ずっと後のことでした。

今回まとめて放送されたのは、昭和ガメラ7本のうち、5本目までという変則的な放映でした。以下に記します。

「大怪獣ガメラ」
シネスコ、モノクロの映像が懐かしい、1965年のガメラ第1作です。核実験の影響で目覚めたガメラが日本に上陸して暴れ回り、どう攻撃しても倒せないから、地球から追っ払っちまえという、ぶっ飛んだお話です。東宝の特撮怪獣映画に比べると特撮に関しては若干の見劣りは感じるものの、冒頭からガメラを登場させて、お話をどんどん展開させる、高橋二三の脚本のうまさもあって、怪獣映画の面白さを一杯盛り込んだ楽しい映画に仕上がっています。亀なんだからひっくり返せば大丈夫と思ってたら、ジェット噴射で空を飛ぶといった趣向の面白さ、ガメラよりさらにでっかいロケットというインパクトある設定など、映画館で初めて観たら、かなり点数高いのではないかしら。

「大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン」
1966年、大映が「大魔神」との2本立で、ゴールデンウィークにぶつけたかなり力の入った作品です。南洋にオパール探しに行って持って帰ってきたのが実はバルゴンの卵だったというお話で、メインの人間ドラマはそのバルゴンの周りで展開し、ガメラは宇宙から帰ってきました以外の設定やキャラを与えられていません。人間側に極悪非道な悪役を設定したせいで、田中重雄監督の本編と、湯浅憲明監督の特撮がうまくバランスとれていない感じ。この映画についての本を読むと、子供は人間ドラマの時は退屈して場内を走り回っていたそうで、この後、子供を退屈させないガメラ映画が次々に作られていくことになります。それでも、湯浅憲明監督は、怪獣の生々しい生物描写を丁寧に描き、また東宝特撮でもあまりやっていない、長めの1カットで怪獣のアクションを見せたりと、かなり手間のかかったことをやっています。シネスコの横長画面をフルに使った絵作りも見事で、大作感のある怪獣映画に仕上がっています。

「大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス」
公開当時に父親に連れて行ってもらって劇場で観た唯一のガメラ映画。子供を主人公の一人に据え、そしてガメラは人間の味方だということをはっきりと見せた作品です。高速道路を作る技師が主役で、立ち退き金を吊り上げようとする村の人々と対立している構図から、高度成長期の日本を垣間見ることができるという面白さもあり、悪者怪獣ギャオスはものすごく強いんだけど、日光に弱いという弱点を持っていて、そこを突いて倒そうとする人間側との攻防も見応えがありました。ミニチュアワークを駆使したガメラとギャオスの闘いは、東宝の怪獣ものとは違うバリエーションを見せて、エンタメ度が高い映画に仕上がっています。この映画の同時上映が衣笠貞之助監督の「小さな逃亡者」でしたが、ほとんど記憶に残っていません。

「ガメラ対宇宙怪獣バイラス」
製作費が前作の半分以下になって、完全に低予算感が見える映画ですが、興行的には、京都撮影所の「妖怪百物語」との特撮2本立で結構当たったんですって。日本人とアメリカ人の子供二人のコンビが宇宙人に拉致されてしまい、少年二人が人質に取られた人類が宇宙人に降伏しちゃうという紙芝居のようなお話。ガメラも宇宙人に操られて、都市を破壊します。拉致された宇宙船の中で少年二人の活躍でガメラは解放され、宇宙怪獣バイラスと対決します。ガメラの都市破壊とかガメラの記憶を探るシーンは前の3作のフィルムを使って尺を稼いでいます。子供向けと割り切ったお話は、今はそれなりに評価されていますけど、当時はどうなったのかしら。スチル写真が少年雑誌に掲載されたのですが、ガメラとバイラスが取っ組み合って、霞が関ビルに突っ込む絵とかあって、「かっこいい、観たい」と思いながら観に行けなかった記憶があるのですが、そんなシーンはどこにもなく、クライマックスは重量感を欠くギニョール(要は人形ですね)のガメラとバイラスが海中と空中で闘うという、スケール感が感じられないものでした。今、観ると、イカみたいな形のバイラスと四つ足怪獣のガメラを闘わせるのに、色々工夫の後が見られて、そういう意味でちょっとだけ感心しちゃう映画でもあります。東映まんがまつりや東宝チャンピオンまつりに対抗した、大映のお子様向け番組ってことになるのでしょう。

「ガメラ対大悪獣ギロン」
前作のバイラスに続いて、日米少年二人が空飛ぶ円盤にうっかり乗り込んだら、別の星に連れて行かれて、そこの宇宙人に食べられそうになるというお話。ガメラはどう絡むのかというと、少年を救うために円盤を追いかけて、宇宙人の惑星までやってきて、そこの宇宙人の操る怪獣ギロンと闘うというもの。昔、NHKで夕方にやっていた少年向けSFドラマの年齢層をさらに落として怪獣を絡ませた作りで、お話だけだとまさに紙芝居。紙芝居らしく、少年たちがピンチになるところもきちんとあって、最後はきっちりめでたしめでたしとなります。前作よりさらに突き抜けたお子様向けの映画に仕上がっていまして、最近の子供向けドラマがやたら小難しい話に走っているのを見ると、この映画の潔さには感心しちゃいます。一方で、当時の映画の雰囲気を反映したのか、ギャオスが手足を切り裂かれるという子供映画にしては残酷なシーンもあり、今とは違う感覚で作られている映画ではあります。同時上映は妖怪シリーズ3作目の「東海道お化け道中」ですが、こっちはそれほどお子様向けに徹し切れていない(「妖怪百物語」の方がお子様へサービス度が大)ので、あまりバランスの良い2本立てとは言えない感じです。

これらのガメラが敵怪獣と対決するシリーズで感心するのは、どうにも格闘に向かない体型の怪獣同士を知恵を絞って戦わせているところ。怪獣プロレスとよばれる怪獣同士の格闘ものは「キングコング対ゴジラ」が最初でピークだったのですが、大映のガメラシリーズは、まず御大ガメラが甲羅を背負ってるので、動きづらくて格闘に向かない。さらに四つ足トカゲ型のバルゴンやギロンもがっぷり四つに組み合うのは不可能。ギャオスは腕にあたる翼が関節なくて曲がらないから格闘不可。バイラスに至ってはイカ型の怪獣ですからね。それでも、弱点を設定したり、着ぐるみ格闘が無理なら、ギニョールによる動きでそれらしい絵を作ったりと、あの手この手を使って映画を盛り上げています。昭和40年代は、只でさえ映画は斜陽産業でしたし、今のように、怪獣映画に大人のお客を呼び込むのが難しかった時代ですから、その中でこういう映画が生まれたんだなあってしみじみししゃう連続放送でした。

「月」は命の尊厳の映画には思えませんでした。過酷な労働環境で人が壊れる話かなあ。

月

今回は、相模原の障碍者施設殺傷事件を題材にした「月」を川崎チネチッタ9で観てきました。このシネコンでは中くらいの大きさの劇場で、シネスコになる時は、上下に画面が縮むのですが、きちんとスクリーンサイズをシネスコに変えてからの上映となります。最近のシネコンは、画面サイズ固定のままでの上映が多いなか、頑張って続けて欲しいです。

東日本大震災を題材にした小説で賞を取ったこともある堂島洋子(宮沢りえ)は夫の昌平(オダギリ・ジョー)と二人暮らし。森の中にある障碍者施設で働き始めます。彼女の息子はうまれつき心臓の病気があり話すこともできないまま、3歳で亡くなっていました。その心の癒えない傷を抱えた二人は、どこか気を使いながらもお互いを支えあっていました。人形アニメ作家でなかなか芽が出ない昌平もマンションの管理人として働き始めます。洋子は施設の職員陽子(二階堂ふみ)と仲良くなり、さとくん(磯村勇斗)という職員が入所者のために紙芝居を作っているのを目撃します。でも、他の職員はどうせ入所者には理解できないんだから余計なスタンドプレーをするなと冷ややかです。入所者の中には、暴れたり奇声を発したりするものもいて、職員がケガをすることもあれば、逆に職員が入所者に暴力を振るったり、部屋に監禁したりということも行われていました。洋子は病院で妊娠を告げられます。40代の高齢出産であり、亡くなった息子のこともあって、産むかどうか躊躇する洋子。「本当のことが隠蔽されているんです」というう陽子。さとくんはだんだん元気がなくなっていき、「障碍者は心がない人間なら死なせるべきだ」とヤバイこと言いだします。そして、一度は精神病院へ収容されるのですが、2週間で退院。そして、その夜、彼は鎌や包丁をたずさえて施設へ向かうのでした。

「舟を編む」の石井裕也が、障碍者施設殺傷事件に基づく辺見庸の小説「月」を脚色し、メガホンを取りました。障碍者は心がないから、死なせるべきなんだと言う犯人。そして、それは社会のためであり、みんなも望んでいることだと信じているようなのです。実際の犯人は裁判で死刑が確定していますが、その事件に至るまでの経緯を、職員の洋子と陽子の目を通して描いています。2時間半弱のドラマは、演技陣の熱演もあって見応えのあるものでした。観て愉快な気分になれる映画ではありませんが、直近の事件であり、障碍者施設というデリケートな題材の映画だけに、深く突っ込みを入れるというよりは、事件の背景への一解釈を描いたものと考えて方が良さそうです。「心がないなら殺しても構わない」というさとくんと「それは認めない」という洋子が対峙するシーンがクライマックスになっていますが、その中から、命の尊厳とは別の顔が見えてきました。私は障碍者に対する知識も経験もないので、それについて言及はできないかなって思ってます。

それより、印象に残ったのは「人は何のために生きてるんだろう」という部分でした。何かを成さない人間は生きてる意味がないのか、劣等感と嫉妬を抱えて生きていかなきゃならないのか。陽子は、小説家として成功した洋子に嫉妬を感じて、自分の才能のなさを愚痴ります。昌平の勤め先のマンション管理の先輩は「おまえはだからダメなんだ」って職歴もなくアニメを作ってる昌平をバカにしてかかります。こういうことが当然のことのように描かれているのが、すごく不思議だったのです。人は普通に生きてる時、「自分は何のために生きている」なんて考えないと思っていまして、そんなこと考えるのは、結構追い詰められたヤバイ時なんじゃないのかなって。そう思った時、障碍者施設って、結構メンタルが追い詰められる職場なんじゃないかって気がしたのです。入所者との意思疎通も難しいだろうし、感謝されることも少ないし、汚い仕事もあるし、さらに給料も安い(映画の中で、さとくんが給料17万って言ってましたが、夜勤もあってそれじゃ安いよなあ)のでは、自分だったらメンタルやられるなあって思いますもの。今や、普通の会社でさえ、メンタルケアの仕掛けを作ってきているのに、こういう施設の職員のケアってされているのかなあ。何て言うのかな、きつい仕事の割に、社会的にも経済的にも報われていないってのは、労働者として搾取されているんじゃないかって気がしたのです。

そんな労働環境で、さとくんが変な優生思想を持ったのは、障碍者を毎日相手にしていたからではないかなって気がしたのです。どこかで、そのストレスというかうっぷんを晴らす場所なりタイミングがないと、大変なことになるんじゃないかしら。洋子には昌平という夫がいて、今は断筆状態だけど小説を書くということもありました。さとくんには、同棲している彼女もいたし、ボクシングジムにも通っていたようなんですが、それでも「障碍者を安楽死させなきゃ」ということにどんどんのめり込んでいきました。洋子とさとくんがどこが違うんだろうと思っていると、二人が障碍者を死なせるべきかどうかで対峙したときに、その違いが見えてきたように思いました。さとくんは、「心がないなら人じゃない」「人じゃないものを金をかけて生かしておく意味がない」と言い、洋子は「それは認めない」と食い下がります。それに対して「自分だって、妊娠したときに堕ろそうとしたじゃないか。障碍者が生まれたらいやなんでしょ。それと同じ。」と食い下がります。こういうさとくんは、完全に洋子を論破してマウントを取っているように見えます。その論理を破ることができない洋子ですが、「それでもあなたを認めない」と言い切ります。

さとくんの論理は「一度でも、誰かを死ねばいいと思ったら人殺しと同じ」という理屈で、ちょっと考えたらおかしいことはわかるのですが、洋子を勢いでねじ伏せようとします。相手の考えの一番反論しにくいところを突くディベートのテクニックなのでしょうけど、これをやられると多くの人は怯んでしまって、論理のすり替えに反論できないまま、相手に屈服してしまうことがあります。要は、さとくんは自分の言ってることが正しいかどうかはどうでもよくて、洋子をマウント取って屈服させたいだけじゃないかな。そして、洋子を屈服させることができれば、自分の正しさポイントが上がると思ってるんじゃないか。そんな気がしたのです。ディベート(議論)で勝ったとしても、それは正しさを証明したことにはならない、ただ相手を負かしただけというのが、さとくんは理解できていないようなのです。さらに、さとくんの言うことに一理あると思う人も、議論で勝てないから、相手の言うことを正しいと勘違いしているのではないかしら。洋子は、彼の論理に反論することなく「私はそれを認めない」と言い続けます。その時の彼女が私には美しいと思えました。さとくんの論理に真向から反論することができないけど、でも自分はその論理を受け入れないときっぱり拒絶するのです。「あなたの言ってることは筋は通っていて、間違ってはいないかもしれない。でも、私はそれに賛成しない。」というのが、私にはこの映画のキモのように思えました。ある程度、人生経験を積んだ人は、こういうことができると思いますが、若い人だと一度論破されたら、相手が正しいと受け入れてしまう人が多いのではないかって気がしたのですよ。

論破された後、相手の論理を自分の言葉で組み立てなおすと、綻びが見えてくることがあります。でも、その場ではそこまではできないから、一見もっともらしい話だと、議論に屈服した途端、相手の意見を認めてしまった、正しいことと受け入れてしまったと勘違いしてしまう。これは恐ろしいことだと思います。そうならないためには、議論ではなく、自分の感情、意見を語るのがあるべき姿ではないかということを、この映画のシーンは教えてくれているように思います。洋子を屈服させ、マウントを取ることで、自分の正しさの養分にしようとした、さとくんですが、ここではそれに失敗します。それでも、さとくんは「障碍者を安楽死させる」ことを刃物で実行に移します。私はここに何の説得力も感じず、狂気の沙汰だと思いました。そう思うに至ったのには、さとくんと洋子の会話で、さとくんの相手の弱点を突く議論の仕方にイラってして、一方の洋子の毅然とした姿に感動したからかもしれません。

映画は、さまざまな対立構造や、対照をなすものをドラマの中に配置していますので、様々な切り口で色々なことを考えたり、語ることができる映画だと思います。ただ、この映画は、障碍者施設や障碍者施設殺傷事件の一つの断面図を見せているに過ぎないので、この映画から、誰かや何かを攻撃することは早計にすぎる可能性が大なので、やめておいた方がよいと思います。特に、この映画に、相対するものとして何度も登場する「きれいごと」と「現実」というキーワードには要注意と思いました。人間、ほとんどの人が「きれいごと」と「現実」の間を行ったり来たりしていて、どっちかに寄せてしまうことはまずありません。もしも、どっちかに寄せてしまってる人がいたとしたら、その人の精神は壊れてしまっているのではないかしら。「きれいごと」ばかり目にしている人は時として「現実」に直面してその重みを知るでしょうし、「現実」に悩まされ続けるひとは「きれいごと」の中に心の安らぎを見出すこともあるでしょう。姑さんの介護をしているお嫁さんが韓流ドラマに夢中だってことだってありましょう。私は、この映画の中で、さとくんや陽子が「きれいごと」を非難するような発言を何度もするのを、「きれいごと」を必要としている人の叫びなのかもしれないと感じました。まあ、このあたりは人それぞれの感じ方ということでご容赦ください。

石井監督は、洋子にも、さとくんにも、昌平にも深入りすることなく、パズルのピースをうまく映画の中に散りばめているように思います。どのピースを拾ってつなげていくかで、見え方がかなり変わる映画だと思います。人によって、まるっきり逆の結論や感じ方ができそうな映画って、なかなかないですから、誰かと一緒に観て、語り合うにはちょっとリスクがあるかも。

「扉の影に誰かいる」は懐かしい映画。今、こういう映画が作られないことで評価が上がっちゃうミステリーの小品。

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BSのテレビで「扉の影に誰かいる」を観て、懐かしくなってしまいました。子供のころ、荻昌弘氏が解説する「月曜ロードショー」で観ましたが、まだ子供だったせいか、あまりよく理解できなくて、印象が薄かったのですが、監督が知る人ぞ知る「白い家の少女」のノコラス・ジェスネルってこともあって、見直したら面白いかもって予感で録画しました。

夜明け前、精神科医のローレンスは緊急手術を終えて、家に帰ろうとすると、海岸で見つかった記憶喪失の男(チャールズ・ブロンソン)が運び込まれてきます。普通なら病院に収容するところなんですが、なぜかローレンスは男を自分の家に連れて行きます。男には一人暮らしだと言い、部屋で休ませるローレンスですが、実は、家には妻のフランシス(ジル・アイアランド)がいました。朝になり、ロンドンの兄のところに出かけるというフランシスを送り出し、家政婦にも週明けまで休暇を与えるローレンス。起きてきた男に、彼の持ち物だといって、手紙とフランシスのヌード写真を見せます。どうやら、ローレンスは、男にでっちあげの記憶を植え付けようとしているみたい。男は、写真の妻を寝取られていて、浮気相手と妻は一緒にいると、吹き込まれて、どうやらそれを信じてしまった様子。そこへ訪ねてきた警官によると、精神病院から逃げ出した男がいて、海岸で若い女性の死体が発見されたとのこと。一方、フランシスは兄のところではなく、浮気相手のところへ行っていて、ローレンスはそのことも相手が誰かも承知していました。謎の男に偽の記憶を吹き込んだローレンスは何か企んでいるようですが、彼は何をするつもりなのか、そして、それは上手くいくのでしょうか。

1971年のフランス映画。ジャック・ロベールの小説を、ロベールとマルク・ベーム、ニコラス・ジェスネルが脚色し、ジェスネルがメガホンを取ったミステリーサスペンスの一編です。自分は子供の頃、テレビの「月曜ロードショー」で吹き替え版で観まして、今回もその吹き替えが使われたようで、ブロンソンの声を森山周一郎を、パーキンスの声を西沢利明が充てていまして、なつかしさもある一方で、当時は気づかなかった面白さを堪能できて、うれしい鑑賞となりました。ブロンソン主演の映画かと思っていると、彼は脇役で、でも演技力が必要なポジションというところがまず面白く、バーター出演かと思っていたジル・アイアランドが重要なキャラを意外なほど好演していてビックリ。彼女の存在感がドラマを締めるのですよ。

映画の冒頭は脳手術の様子を見せます。これを執刀していたのが、ローレンスでして、脳外科医かと思っていると、精神科医でもあるらしい。脳関係全部やってますってことなのかな。そこに連れてこられた身元不明の男、記憶喪失らしい男を家に連れ帰った先生だけど、この得体の知れない男にやけに親切に接すると思ったら、それには裏がありましたというお話。チャールズ・ブロンソンが一応タイトルトップなんですが、実際の主人公は、アンソニー・パーキンスが演じる先生の方。実はきれいな奥さんのフランシスがいるけど、彼女が他の男と浮気しているらしいってところも前半で見せてしまいます。一方、ローレンスは、男を奥さんの目に触れないようにして、彼女を家から送り出した後、フランシスの写真や、浮気のラブレターを見せて、男にはきれいな奥さんがいて、でも彼女が他の男と浮気していると信じ込ませようとします。男の方もまんまとその仕掛けにはまってしまいます。ローレンスが男を使って何か企んでいるってことがすぐわかる展開でして、時間の経過とともに物語の全貌が自然と見えてくるってのは、ちょっと新鮮にも映ります。最近の映画は、色々なものを観客に見せないまま、展開していく映画が多いってことになるのかな。この映画の方が観客はドラマそのもの、役者の演技を楽しむことができるって利点があります。何だかはっきりしないまま観客を宙ぶらりんのまま進む映画って、感情が煽られるだけで、映画そのものを楽しめてないってことなのかも。

で、徐々に明らかになってくるのは、フランシスの浮気相手を殺そうという計画です。謎の男に、浮気されたダンナと信じ込ませ、家に浮気相手を呼んで、男に殺させようというわけです。どこから、そんな風になったのか、最初からそのつもりだったのか、男の上着のポケットの拳銃を見つけた時からなのか、そのあたりははっきりしないのですが、そこをはっきりさせなくても、ドラマは流れていくし、気にもならないってところは演出のうまさなのでしょう。わかりやすく展開させているのに、全部説明しているわけではないってところがうまいって言えば、そういう気がしませんかしら?そして、ローレンスはフランシスの兄を家に呼び、浮気相手を家に来させるように段取りします。一方で、警察が家にやってきて、精神病院から男が脱走したこと、海岸で女性の死体が発見されたことを告げます。序盤から中盤にかけて、ミステリの振りと刈り取りがきちんとされてるのですが、最近の若い人にはこれが物足りなく映るのかなあ。私は、この映画の展開が好きです。



この先は結末に触れますのでご注意ください。


男は、ローレンスの話をすっかり信じ込み、自分の妻の浮気相手を殺す気満々です。そして、ローレンスの思惑通り、浮気相手が家にやってきます。ローレンスは隠れて、男の応対させようとします。ところが、妻のフランシスも一緒についてきたのです。男がフランシスを妻のように扱うので、彼女が不審に思い、おかしな状況になってきますが、男が発砲して浮気相手は死亡、逆上するフランシスの服を破いて、抵抗する彼女の首を絞めたところで、ローレンスが出てきて「この女の妻はお前じゃない。お前の妻を知りたきゃ海岸へ行ってみろ。」と男に告げると意外や男は「そうだ、海岸だ。俺はどうなるんだ。」呆然とする男をローレンスは追い出します。男は海岸をさまよっているとパトカーのサイレンが近づいてきます。一方、フランシスはローレンスの企みを全て知り、警察を呼ぼうとしますが、ローレンスは証拠がないことで無駄なことだと言い返します。しかし、フランシスに責められて動揺したローレンスは最終的に男の病状について録音したテープを差し出します。弱弱しい声で許してくれというローレンスに対して、許さないと言い返すフランシス。二人のアップのカットバックが繰り返されるところへエンドクレジット。

殺人シーンよりも、その後のローレンスとフランシスのやり取りの方がドラマのクライマックスになっていまして、結局、完全犯罪を企んだローレンスが敗北するという結末のバックにドボルザークの新世界が流れて、不思議な余韻を残します。このシーンで服がボロボロのフランシスが妙にエロチックなのが印象的でして、浮気した妻であり、愛人を殺された女の艶めかしさと凄みをジル・アイアランドが好演しています。この人、ブロンソンの奥さんということで女優としての評価があまりされていないところもあるんですが、この映画とか「正午から3時まで」などで、いい演技を見せていて、生きているうちにもっと色々な映画に出て欲しかったと思います。フランスの海辺の田舎町というロケーションもよく、一方でドラマはほとんどローレンスの家の中で展開する舞台劇のような作りなんですが、主演の3人は各々のキャラを好演し、ミステリーの小品としてかなりいい線いってると思います。ニコラス・ジュスネルという監督は、この後の「白い家の少女」でも、枠組みはミステリーでも、ストーリーより登場人物の演技でドラマを引っ張る演出をしていましたが、この映画でも、主役3人のドラマとして映画をまとめあげています。こういう限定した登場人物のミステリーというと「探偵/スルース」「そして誰もいなくなった」などたくさんありますが、ゲーム的な面白さより、人間ドラマとしてまとめてる映画は少ないように思われ、この映画はそういう貴重な1本ということで、もっと評価されていいように思いました。

「ドミノ」は宣伝文句は置いといて二転三転の展開が楽しめますし、ちゃんとヒーローが立つ映画です。

ドミノ

今回は新作の「ドミノ」を横浜のTOHOシネマズ上大岡8で観てきました。ここは座席の配置に対してスクリーンが小さくて奥まったところにある映画館。横浜ブルク13みたいに、でっかいスクリーンが目の前にあるところとか、作りは劇場によって色々なんですが、ベストポジションが違いすぎるので、座席予約するとき、結構悩んじゃいます。

刑事のダニー(ベン・アフレック)は、公園で娘を誘拐されたショックから抜け切れていません。ある日、銀行で強盗事件が進行中という電話があり、ダニーは相棒のニックス(JD・バルド)と一緒に現場に向かいます。警察車で銀行周辺を監視しているとある男(ウィリアム・フィクナー)の動きがおかしい。彼に睨まれた女性は突然服を脱ぎ始め、護衛の警官もおかしい。ダニーはその男を追って銀行に入り、標的とされているらしい貸金庫を開けるとそこには「レブ・デルレーンを探せ」と書かれた娘の写真がありました。そこへ警官が現れて発砲し、金庫を奪います。それを受け取った男を追うダニー。他の刑事と一緒に男を屋上へ追い詰めると、刑事はダニーに銃を向け、最後は刑事同士で撃ちあって死亡、男は逃亡。電話してきたのは占い師のダイアナ(アリシー・ブラガ)で、彼女を訪問すると、そこにも例の男が現れます。ダイアナが言うには男は「ヒプノティック」と呼ばれる超能力者で、相手の目を見ると相手の脳を自由にできて、認識から行動、記憶まで変えられるらしいのです。政府系の組織がそういう能力を持つ人間を集めていたのですが、突出した能力を待った男、レブ・デルレーンがその能力を悪用し始めたんですって。ダイアナも元組織のメンバで、ヒプノティックの能力を持っているのですが、なぜかダニーにはそのパワーが通じないそうな。ダニーとしては、行方不明の娘を見つける糸口とあるレブ・デルレーンを捕まえようとするのですが、相手も自分の命を狙っているようです。周囲の人間を自由に操って、ダニーを狙ってくるレブ・デルレーン。ダニーは果たして娘を見つけることができるのでしょうか。

「デスペラード」「スパイキッズ」「シン・シティ」などで知られるロバート・ロドリゲスが、自身の原案から、マックス・ボレンスタインとロドリゲスが共同で脚本を書き、彼がメガホンを取りました。宣伝は、やたらとどんでん返しとか「開幕5秒でもうあなたは騙されている」とか、意外な展開を強調してくるので、こういう映画は、ネタばれが出回る前にと初日に劇場に足を運びました。大体、意外な結末を強調する映画って面白いんですけど、そこを強調した宣伝されると、その面白さが半減しちゃうんですよね。「シックス・センス」とか映画が始まる前に「結末を話さないでね」とかメッセージが出たりしましたが、そういう売りはホントやめて欲しい。観客をうまくミスリードして満足度を上げるのならともかく、この宣伝だと、その意外な展開の上にどれだけ面白さを盛れるかという話になっちゃって、観る方のハードルがあがって、お客にとってのお楽しみからすろと、いいことないんだよなあ。

映画は精神分析医の前で、娘の誘拐事件について語るダニーの姿から始まります。娘は公園で18歳の男に誘拐されたのですが、逮捕された男に誘拐時の記憶が一切なく、結局、娘の生死は不明のままになっていました。そんな状況で、銀行強盗の貸金庫に娘の写真があったので、その犯人を追い始めるのですが、そのレブ・デルレーンなる男は、他人を自由にコントロールする恐るべき能力を持っていたというお話です。一方、レブの方のダニーを狙っているみたいでして、ダニーはレブと同じ能力を持つダイアナと一緒に逃げ回ることになっちゃいます。人の脳をまるまる乗っ取る能力ってのがすごい。そういうのが敵だったらまず勝ち目はない。じゃあ、何とかそいつの弱点を見つけるとか、能力の抜け穴を探すとか、そういう展開にはならず、主人公とダイアナは、警察も自由に操るレブから逃げ回ることになります。

ヒプノテイックという英語は、催眠術という意味があるんですが、この映画のヒプノティックは、単に相手の目を見るだけで一瞬で術をかけたり、死ぬまで術が解けないなど、普通の催眠術とはレベル違いの強力なもの。さらに、レブは幻覚を見せることもできるらしく、自分が構築した世界に他人を引っ張り込むことができるんですって。ダニーも逃げ回る途中で実際にありえない世界を見せられるので、もう勝ち目なしって感じ。それでも、ダニーは、ダイアナの昔の伝手を頼って、レブの狙いと娘の居場所を探そうとします。かつての彼女の師匠ジェレマイア(ジャッキー・アール・ヘイリー)や組織のハッカーだったリバー(ダイオ・オケニイ)を訪ねていくのですが、そこにもレブは手を回してくるのでした。

レブやダイアナが睨むと相手が思い通りになるという、いわゆるSF映画の展開ですが、レブの狙いがわからず、娘との関係も不明、娘の居場所もわかりません。その謎の部分が後半、明らかになってくるというミステリの展開になってきまして、そこで二転三転していくところが盛り上がりました。勢いで見せきる感じではあるのですが、結構ハラハラしますし、レブにどう太刀打ちできるのかという興味もあって面白かったです。尺が94分というのも高評価でして、最近の長尺化に逆らって、この長さでも、これくらいのお話を盛り込めるという、作り手の気概を感じました。宣伝文句のどんでん返しというのとはちょっと違うと思いますが、けっこうぶっ飛んだお話ではあるので、観終わっても8割腑に落ちるものの、2割は??って感じになります。私はあまり細かいことをこだわらないで映画を観るのですが、こういう見せ方に仕掛けのある映画は、前のシーンを遡って解釈し直すことになるので、それなりの論理性を求めてしまいます。

ベン・アフレックは珍しくミステリアスというか、何かあるぞこいつというキャラになっているのが意外でした。これまでも数々の映画で、独特の容貌で尋常じゃない人間を演じてきたウィリアム・フィクナーが、絶対的なパワーを持つレブを怪演しています。相手役のアリシー・ブラガも何かあるぞというキャラになっているので、なかなか感情移入できないお話になっているのは狙いなのか、こういう謎多い映画の限界なのか。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



訪ねたジェレマイアは既にレブに乗っ取られていました。そして、町中の人々に追われたダニーとダイアナは、倉庫に追い詰められ、そこにレブと警官も現れます。しかし、ダニーの怒りの視線に警官はレブの方を連れ去っていきます。どうやら、ダニーもかなり強力なヒプノティックだったようです。そして、ハッカーだった男リバーの隠れ家へ向かい、そこで、彼のコンピュータを操作したダニーは、ダイアナが今も組織側の人間であり、彼女が実はダニーの妻であったこと、そして、娘のミニーも強力なヒプノティックだったことを知ります。と、そこでダニーが気づくと、彼はリバーの隠れ家ではなく、組織の建物の中にいました。周囲には赤い制服の組織のメンバーがいて、その中には、ダイアナや同僚のニックスの姿もありました。ダニーは娘を誘拐されたのではなく、彼が娘を誘拐して4年もの間どこかにかくまっていたのでした。組織は、娘の能力を軍事目的に使おうとしていました。一方、それを望まず普通の娘として育てようとしたダニーが娘を隠したのです。そこで、組織は娘が誘拐されたという偽の記憶を植え付けて、ダニーから娘の居場所を引き出そうとしたのです。映画の最初の部分から全て、組織の施設の中のセットで演じられていたのでした。その記憶の引き出しも12回やって、全部失敗。そこで、再度、ダニーの記憶をリセットしてやり直しとなります。そこで、何かを思い出したように車を走らせるダニー。それを追う、レブや組織の面々。彼が行き着いた先は武装したエバレット夫妻の家で、そこには成長したミニーがいました。そこへやってくるダイアナやレブと武装した組織のみなさん。しかし、ミニーのパワーによって同士討ちを始める組織のみなさん。そして、ダニーの力でダイアナの記憶が戻ります。彼女とダニーが、娘を組織から守るために、組織を壊滅させる計画をたて、ダニーは娘を誘拐し、彼女の計画の記憶を消して、組織側の人間として行動していたのでした。そして、組織のメンバー皆殺しをして、去っていく親子。エンドクレジット。で、その後、実はレブだけは死んでおらず、ヘリで親子を追っていくのでした。おしまい。

レブとかダイアナといった名前も、組織が作ったドラマの中の名前でホントは別の人でして、そういう意味では誰が誰やらって話なんですが、そういう入り組んだ構造を、ロドリゲスの演出はわかりやすくさばいています。並外れた能力を持つ娘を守るためには、組織を丸ごと潰さないとダメだという計画を立てて、夫婦で組織を騙したという結末は、個人対組織の戦いという意味で、なかなかに爽快でした。それだけに、エンドクレジットの後のおまけは大減点。ラストに出てくるハラ・フィンリー演じる娘がなかなかのインパクトある(美形の意味で)ヒロインだっただけに、贅沢な扱いだなあって思っただけに、これ、悪役を生かしたことで、続編ありってことだよねえってガッカリ。エンドクレジット後にサプライズを仕込むのもいいんだけど、それなら、全部夢オチでしたとか、結局ダニーが乗っ取られていて、組織へ戻っていくとか、とにかく、お話に決着をつけて欲しかったです。悪の親玉が死なずに主人公たちを追っかけてくでは、お話終わってないじゃん。

後、クライマックス、主人公の超能力娘を組織が武装して車を連ねてやってくるシーンって、これ「炎の少女チャーリー」まんまでした。オマージュなのかパクリなのか、でも劇場で「なぜ、ここでこれを?」って思っちゃいましたから、同じ事感じた方は結構いらっしゃったのではないかしら。その後、スーツ着た連中が次々やられちゃうシーンも既視感ありありでしたからね。そういう意味では、他にも色々な映画からの引用があったのかな。

「オペレーション・フォーチュン」テンポ良くって、ちょっと笑えるスパイアクション、それ以上は要らないのでOK。

オペレーションフォーチュン

今回は新作の「オペレーション・フォーチュン」を新宿のTOHOシネマズ新宿11で観てきました。ガイ・リッチー監督とジェイソン・ステイサム主演のコンビということで、「リボルバー」みたいな意味不明な映画だったらやだなーって不安もありましたが、評判がよいので劇場に足を運びました。

100億ドルの値がつくという何かが強奪されました。ハンドルとよばれるそのものの正体がわからないまま、イギリス情報局長官のナイトン(エディ・マーサン)は、エージェントのネイサン(ゲイリー・エルウェス)のハンドルの回収を命じます。ネイサンはこれまでにも何度も使ったことのある凄腕の請負人オーソン・フォーチュン(ジェイソン・ステイサム)をチョイス。とにかく金のかかる男だけど、仕事の腕は一級。そして、JJ(バグジー・マローン)、アメリカ人サラ(オーブリー・プラザ)でチームを組み、ハンドルにつながるハードディスクを運び人から奪うためにマドリッドに向かいます。しかし、空港でオーソン以外のチームもハードディスクを狙っていました。同じく政府の別部署の下で動くマイクのチームで、大人数で荒っぽいやり口でハードディスクを奪いにきて、争奪戦の末、マイクがディスクを奪取してしまいます。ディスクの取引場所にネイサンが運び人のふりをして乗り込み、受取人が武器商人のグレッグ(ヒュー・グラント)であることを確認。彼に接近するために、彼が大ファンである映画スターのダニー(ジョシュ・ハートネット)を不倫ネタを使って巻き込み、グレッグが主催するチャリティパーティに乗り込んでいくのでした。どうやらグレッグはハンドルの大取引の仲介役らしく、彼を押さえておけば、ハンドルを回収できそうな感じなんですが.....。

「スナッチ」「シャーロック・ホームズ」等で有名なガイ・リッチーが、アイヴァン・アトキンソン、マーン・デイヴィスと共同で脚本を書いて、メガホンも取った、スパイ・アクションの一遍です。スパイ・アクションと言えば、007シリーズやミッション・インポッシブルがシリーズものとして有名ですが、最近は、やたら尺が長くなって、主人公の因縁話になって、本来のスパイものの面白さがなくなってきていました。そんなところへ、この作品の登場となるのですが、世界あちこちにロケして、派手なアクションを展開する王道の作りで、2時間弱にまとまったところは、最近のスパイアクションへの不満を払拭する面白さがありました。007で言うなら「007は二度死ぬ」を現代に持ってきたような荒唐無稽さとバカバカしさが楽しく、ヒーローが無茶苦茶強いところは、ジョン・ウィックかスティーブン・セガールみたいで、お金をかけたB級アクション映画という形にまとまっているのがよかったです。主人公が過去の因縁に引っ張られてあーだこーだ悩む映画ばかりの時代に、ライトでリッチな味わいの一遍として、この映画、評価したいです。そこが、世間の評判としては低いみたいなんですが、私のような年寄りには最近の主人公キャラ掘り下げってのはドラマのぜい肉にしか思えないので、お気楽アクションとしては、こっちが正解に思えてしまうのですよ。

お話としては、とにかくサクサクと進んでいくところがよく、大きなピンチもないまま、ラストまでテンポを落とさない構成が成功しています。お気楽に観るには込み入ったストーリーなんですが、そこを丁寧に説明しないで、テンポを優先しています。後から考えると「なぜ?」の嵐になるのですが、観ている間は気にならないで2時間弱を楽しめましたから、ムキになって筋を追うよりも、ぼーっと眺めてるのがオススメかも。ちゃんと痛そうなアクションシーンもあるし、CGバレのないリアルなカーチェイスもあるし、派手な爆破シーン(これはCGか)もあって、娯楽映画として、いいところをうまくつまんであって、盛り付けはラフだけど、味は上々という感じ。ネットとかの評価は低いけど、これは、ガイ・リッチーのファンが、彼らしくないと機嫌を悪くしているだけじゃないのかなあ。シリーズものでない単品の映画で、登場人物をきれいに描き分けていて、ものすごい死人が出てるのに陰惨にならずに、ラストを恋愛ネタで締めるあたり、中堅娯楽職人のいい仕事だと思いますです。

一応、ミッション・インポッシブルのようにチームで行動するんですが、オーソンの行き当たりばったりな感じは、イーサン・ハント的なオレ様度高めですが、イーサンみたいなシリアスさは皆無。ジェイソン・ステイサムのこれまでやってきたキャラを煮詰めたというか、役者のキャラにただ乗りしてる感じは、スター映画ということもできるのでしょうが、その安直さも楽しめれば、メインのストーリーだけで十分満足できます。一方でちょっとしたヒネリとして、武器商人を演じたヒュー・グラントと巻き込まれ映画スターのジョシュ・ハートネットが面白いスパイスとなりました。また、シャープなアクションと妙にチマチマしたお笑い風展開がいい感じに絡んで、ドラマとしての深み一切なしで、世界の危機がライトに展開しているのが、全体に妙なおかしみを運んできます。オーソンがちょっとピンチになっても、次のカットでは時間が経ってて、オーソンは無事。で、ちょっとだけ回想シーンになるけど、別にびっくりするような展開もなく、難なくピンチを脱しちゃうオーソンの姿。このヤマ場を外した妙な編集はあちこちで見られ、どうやらピンチからの脱出をわざと外した演出と編集しているみたい。でも、ちょっとひねってあってカッコいいでしょといった小洒落た感じはなくって、ノリとテンポだけってところが潔い。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ターゲットであるハンドルの正体もAIだとあっさりわかり、それを100億ドルで買おうとしている人間がいるので、その取引を押さえようと、グレッグの弁護士を尾行したら、それがバレで追跡劇になってしまい、オーソンは弁護士を殺してしまいます。そこで、顔がばれてないからということで、オーソンが弁護士のふりをして取引の場に乗り込んでいきます。しかし、そこでマイクの一味が武装したヘリとジープで乗り込んできて、ハンドルを奪って関係者皆殺し。マイクは今回は政府サイドの指示ではなく、独自に動いてるらしい。オーソンは、取引をぶち壊されたグレッグのところへ行って、手を組もうと言い出します。マイクの黒幕はグレッグに仲介を依頼した実業家コンビでしたが、このままでは、グレッグも仲介料を取り損ねるので、オーソンの申し入れを受け、マイクと実業家コンビのいるタワーへ、大好きなダニーと一緒に乗り込んでいき、仲介料を払わないと家族がひどいことになるぞと脅しをかけます。一方でオーソンも武装してタワーの護衛を次々に倒して潜入。実業家コンビには脅しが効いて、仲介料が振り込まれて、グレッグたちは退散。しかし、マイクたちはコンピュータを押さえたことで、実業家コンビと内輪もめになり、タワーの上では銃撃戦となります。そこへ、乗り込んだオーソンですが、周りは死体だらけ、生き残っていたマイクが襲い掛かるのですが、結局オーソンに倒され、ハンドルを奪ったオーソンはJJとサラを従えて、ネイサンのもとにそれを届けるのでした。そして、グレッグは映画界に進出し、ダニーの新作の撮影現場で、二人でラブラブ状態でおしまい。

オーソンのチームがどういうプランで何をしようとしているかは一切説明しないまま、本番シーンだけ見せて、「ああ、そういうことだったのね」とわかる仕掛けになっています。これって、意外と難しい見せ方だと思うのですが、ガイ・リッチーの演出は勢いで「そういうことだよ」ってねじ伏せてきます。でも、その「そういうことだよ」って後からでもわかることは重要でして、行き当たりばったりに見えるオーソンの行動も理由があるんだよって見え方になるのがうまいと感心。荒っぽいけど雑じゃない作りが何だか面白かったです。最後にグレッグとダニーがラブラブになっちゃうのですが、ここはLGBTに日和ったというよりは、単なる思いつきにしか見えないところが楽しいオチになりました。最近のスパイアクションものが、イヤガラセのようにヘビーなお話ばっかりの中では、貴重な、中身スッカラカンでノリの軽さがうれしい一品でした。でも、最近は主人公が悩まないと評価が低くなるご時世だから、万人向けの映画じゃないのかも。でも、アクションシーンとかちゃんとしてるんよ、変なオチをつける癖あるけど。
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Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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