FC2ブログ

「アド・アストラ」を珍品と思ってしまう私は読みが浅すぎるのかしら。

アドアストラ

今回は、新作の「アド・アストラ」を川崎の川崎チネチッタ12で観てきました。大画面で大劇場の作りでして、低音スピーカーを増強した、LIVESOUNDというシステムでの上映です。こういう無料オプションのサービスはうれしい限り。ここで売り物のLIVEZOUNDの方はちょっと圧が強めでスペクタクル映画だとやややかましい印象になってしまうので、この低音増強サービスくらいがオヤジにはちょうどいいです。

国際宇宙アンテナで働いていた宇宙飛行士のロイ(ブラッド・ピット)は、作業中、サージと呼ばれる宇宙の電磁気嵐による事故に遭遇し、何とか無事に帰還します。帰還後、ロイは上官に呼び出され、極秘任務につくことになります。実は、世界中に犠牲者を出したサージは海王星から出ているというのです。かつて、リマ計画というプロジェクトで、ロイの父親であるクリフォード(トミー・リー・ジョーンズ)率いる地球外生命体の探査チームが海王星へ向かったきり行方不明となっていたのです。さらに上官は、探査チームがまだ生存していて、今回のサージの原因は彼らではないかというのです。このサージが何度も発生すれば太陽系全体をも危機に陥れるとも。16年前に死んだものと思っていた父親が生きているかもしれないという事実に驚くロイ。そして、父親の生存を確認せよという任務を負うことになります。彼はお目付け役で父の友人であるプルイット大佐(ドナルド・サザーランド)と共に月の裏側にある秘密の発射場に向います。体調を崩しプルイットはロイに任務を託し単身火星へと向かいます。火星の地下基地で父親にコンタクトをとるようにメッセージを読み上げるロイですが、ほどなくその任を解かれ地球への帰還命令が下ります。落胆するロイの前に火星基地の司令官であるヘレン(ルース・ネッカ)が現れ、リマ計画で起こった驚くべき事実を語り始めるのでした。

「アンダーカヴァー」「エヴァの告白」などで知られるジェームズ・グレイが、イーサン・グロスと共同で書いた脚本をもとにメガホンも取ったSF映画です。20世紀フォックスとレジェンダリーフィルムが共同で製作しさらに中国資本も入った大作でして、主演のブラッド・ピットもプロデューサーに名を連ねています。映像的にはリアルな近未来のイメージで描かれた「グラヴィティ」に近いタッチですが、主人公のモノローグがたくさん挿入され、スペクタクルやサスペンスの要素は少なめで、静かなタッチのドラマに仕上がっています。ベネチア国際映画祭に正式出品されたそうですが、それも何となくわかる、娯楽SFとは一線を画す、やや理屈っぽい人間ドラマということもできましょう。じゃあ、形而上学的、哲学的な小難しい題材を扱っているのかというと、そうでもない、普遍的な人間の葛藤を扱っているのが面白いところでして、そんじょそこらの人が思い悩むことを、宇宙空間で見せましょうというのはかなりケッタイな映画だと私は思いました。悪くはないし、いいところも一杯あるし、役者もいいんだけど、珍品なんですよ、これが。

主人公のロイは優秀な宇宙飛行士なんですが、あんまり人づきあいがうまくなく、妻(リブ・タイラー)ともうまく行ってません。いつも冷静沈着、感情に流されることなく物事を処理していくことを誇りにしているようなんですが、何か心の中に満たされない空洞を抱えています。仕事人間であり、地球外生命体なんいていうこの世の向こう側にこだわる父親の影響下にあるロイは、危険な仕事だからという理由をつけて人と深くかかわることを拒んでいるみたいなのですが、どうもそれも本意ではなさそう。今回のブラビはロイという人間を務めて普通の人として演じようとしている節があり、優秀で天才肌だけど近寄りがたかった父親を抱えた息子が、どうやって父親を乗り越えて、呪縛から解放されるのかというお話を丁寧に演じ切りました。そういう普遍的な親子、人間間の葛藤がメインなんですが、それを宇宙SFでやる理由は、凡人の私には理解できませんでした。この物語なら、SFでなくても、父親が天才作曲家でも、天才漫才師でも、ヒトラーであっても成り立つお話なんです。まあ、題材の組み合わせで意表を突きたかったのかも。あるいは、こういうドラマを多くの人に観て欲しいから、ブラピとSFを取り込んだとも言えそうです。SFとのミックスというと、私はオカルトとSFをミックスした「イベント・ホライズン」という珍品の佳作があったのを思い出しますが、ああいう異業種交流みたいな味わいがある映画です。宇宙旅行なのに主人公のプライベートがクローズアップされてくるのは「イベント・ホライズン」とちょっと似てるんでよね。(← かなり強引)

それでもSF映画としての趣向も盛り込んでありまして、火星へ行く途中、救難信号を受信した宇宙船へ向かったら、誰もいないというホラーミステリー的な展開ですとか、月面で基地へ移動中に略奪者に襲撃されるという西部劇風の趣向ですとか、お金をかけたリアルな見せ場になっているのですが、主人公のモノローグほどの重みが感じられることなく、車窓の風景みたいに流れていくのは演出が狙ってやっているのかしら。そういうアクション的な見せ場より、ロイが任務遂行の途中で何度も機械相手の心理テストを受けて、心理状態が閾値を超えると任務不適合にされちゃうとか、ほとんど表情を変えないロイに不意に人間的な葛藤が走るシーンなどの方が印象の残るのは、この映画が宇宙旅行よりも、インナートリップの方に重きを置いているからかしら。SF的だなと思ったのは、宇宙空間では、どんどん簡単に人間が死ぬところでして、広大な宇宙空間では人の命なんて儚いものだという無常観がSFっぽいかなって印象でした。

人間の精神の部分に重きを置いた映画なので、映像は全体的に暗めで地味。音楽はマックス・リヒターによるポストクラシカル音楽がメインで、さらに映画音楽のアンダースコア職人ローン・バルフェが追加音楽として参加(メインタイトルでちゃんとクレジットされています。)さらに追加音楽としてニューエイジのニルス・フラームまでクレジットされていまして、シンセとオケによる現代音楽が、あっちの世界というか精神世界というか哲学っぽい雰囲気で、ずっと鳴っているのですが、これはハッタリ演出ではないかいと思ってしまいました。そんな高尚な話ではなくて、「親の呪縛を克服する息子」「孤独を孤独と受け入れることで他人へ心を開く主人公」といった、ありがちでわかりやすいお話だと思っています。それを宇宙でやられると、「これって、2001年みたいな宇宙哲学を扱ったすごい映画なんだ」って思いがちなんですが、そういうお話ではないです。

ネタバレ上等で書いちゃいますけど、海王星まで行ったけど、地球外生命体は見つかりません。ひょっとしたら、その先へいけばいるのかもしれないけど、この映画の登場人物の中では、「結局、その向こうの世界へ思いを馳せてもそんなものはないんだよ」というところに落ち着くのです。何ていうのかな、ここでいう海王星は、宇宙の果てと同値であって、結局、宇宙の果てまで行っても、人間以外のものはいないんだからって悟って、人間に還ってくるって話なんですよ。あんまり科学的じゃないけど、個人の感情、個人の哲学の中ではそうクローズさせないと、ロイは人生を前に進めないみたいです。でも、どこかすっきりしないまま停滞しているのなら、科学的な検討よりもある一線での割り切りの方が大事だよっていうのは、ある意味、宗教に近いのかもしれません。そう考えると無慈悲に膨張する科学と、そこに一線を引いて人を導く何かという対立構造が見えてきて、意外と深い映画なのかもしれません。

演技陣では、ブラッド・ピットが普通の人を熱演しているのですが、普通の人を演じるとカイル・チャンドラーになっちゃうんだなあってのは発見でした。トミー・リー・ジョーンズは、その存在感だけでドラマを支えていまして、最後までよく読めないキャラを、主人公の視点から演じて見せたのはなかなかの曲者ぶりでした。また、主人公が地味な分、ルース・ネッカがその好対照キャラでインパクトありました。儲け役なのですが、地味なドラマの中で、彼女だけスポットライトが当たっているように見えるあたりは演出の計算なのかしら。ドナルド・サザーランドも渋い存在感でドラマを支えていますが、主人公も同じくらい渋いので、不思議なバランス感覚になっています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ヘレンがロイに語るところによると、海王星の宇宙船内で地球へ帰還したがった乗組員が反乱を起こした時、クリフォードは宇宙船の一部を閉鎖して、反乱を起こしてない乗組員も巻き添えにして、事態を鎮圧したというのです。ヘレンの両親は乗組員だったのですが、巻き添えでクリフォードに殺されたのだと。一方、核兵器を積んだ宇宙船が火星基地から海王星に向けて出発しようとしていました。ロイはヘレンの協力を得て、発射寸前の宇宙船に潜り込むことに成功するのですが、彼を殺せと指令された乗組員ともみあいになった結果、彼以外の乗組員は全員死亡。ロイは一人で海王星へと向かいます。海王星の軌道上のリマ計画の宇宙船を発見したロイが、乗り込んでみると、そこにはクリフォードが一人生き残っていました。反物質エンジンが故障して、サージを引き起こしていたようなんですが、クリフォードにも修理できないでいたみたいです。リマ計画の成果は、結局地球外生命体は存在しなかったということの確認でした。それでも、外宇宙にこだわるクリフォードを説得し、地球へ連れ帰ろうとするロイ。しかし、核爆弾のタイマーをセットして、宇宙服を着せて船外に出た時、クリフォードはロイから離れて宇宙空間の中へ消えていくのでした。呆然とするロイですが、一人で宇宙空間を漂い始めた時にふと思い立ち、自分が乗ってきた宇宙船まで戻ると、核爆発のエネルギーを利用して、海王星の軌道を脱出、地球へ向かいます。再び、有能な宇宙飛行士に戻るロイですが、何かが変わったようで、妻との再会もし、新しい人生が始まるようなのでした。おしまい。

それって、SF的にリアルなの?って思うシーンもあるのですが、クライマックスは親子の再会から別れの展開となり、ロイは父親を乗り越えて、その呪縛から解き放たれたように見えます。一人きりで海王星に向かう途中で、ロイは自分が孤独であることを再認識します。(孤独だよーってナレーションが入ります。)そこまで、極端な孤独にまで追い詰められないと自分の精神状態がわからないのかとも思ってしまうのですが、そんな孤独な彼が、外宇宙への夢が果ててしまった父親と再会するという出来過ぎな展開ではあるのですが、その結果、自分の身の回りに改めて心を向けるようになるという結末は意外と普通だねという印象でして、宇宙の果てまで行かないと見つからないものでもないよなあって思ってしまったのでした。それとも、もっと深い宇宙の哲学みたいなものが描かれていたのかなあ。でも、外宇宙には何もないんだよなあ、だからそっちへ思いを向けるよりは身近に目を向けなよって話って、うーん、これって自分でも読みが浅すぎるんじゃないかという気がしてきました。何だ、この納得できそうでできない余韻は?って思わせるあたり、やっぱり珍品だよなあ。。
スポンサーサイト



「主戦場」は日系アメリカ人監督の視点で従軍慰安婦問題を描いたドキュメンタリー、勉強になりました。

小さい文字主戦場
今回は、横浜の伊勢佐木町の唯一残る映画館、横浜シネマリンで「主戦場」を観てきました。8月ということで戦争に関するドキュメンタリーや映画をかけてくれる映画館ですが、お客さんは、私(←半分ジジイのオヤジ)よりも年長の方がほとんどです。映画館が年寄り向けのカルチャースクールになっちゃうのはもったいないよなあ。

日系2世のミキ・デザキが監督、撮影、脚本、編集、ナレーションを一人で行った、従軍慰安婦問題を扱ったドキュメンタリー映画です。私が知っている従軍慰安婦問題というと、1990年代に突然湧き上がって、いわゆる偏向メディアと言われる朝日新聞が取り上げ、韓国からも元従軍慰安婦が名乗りを上げ、国際問題にもなったが、いわゆる日本政府や日本軍が強制連行したかというとそのあたりは嘘くさくて、それでも性的被害者に遭った女性には日本政府としては謝罪の意を表したけど、結局、朝日新聞が従軍慰安婦についての報道に虚偽があったことを認めたという流れです。でも、虚偽報道を認めたときには、慰安婦問題は韓国や中国の日本バッシングの恰好の題材となっていて、アメリカにも従軍慰安婦像が建てられるようになっているという感じでしょうか。テレビニュースレベルの知識なので、深く知ってるわけではなかったので、従軍慰安婦問題についての映画ということでは認識を深めたいという動機でスクリーンに臨みました。

映画は、従軍慰安婦問題の経緯の字幕から始まり、日韓合意に至ったところで、後付けでその事実を知らされた元慰安婦の女性が、韓国の役人に抗議するシーンになります。そして、前半は主に、日本の右派の人間へのインタビューとなります。なるほど、元慰安婦の証言が後になった変わったり、日本側の証拠となる文書がなかったりといった話はどうやら事実らしいです。でも、右派へのインタビューの見せ方(特に編集)には、彼らをこの映画の中の悪役にしようとする意図が感じられ、「ああ、そういう立場ね」というのが見えてきます。でも、元慰安婦へのインタビューでお涙頂戴の展開になっていないのが面白い展開となります。さらに、慰安婦像を建てようという韓国の市民団体(これは微妙な表現ですね、プロ市民かもしれないし)のデモンストレーションとか、彼らへのインタビューを見せます。映画は、この一件への様々な切り口を明確に見せてくれるので、「ああ、そういう立場に立てば、そういう理屈になるなあ」というのをわかりやすく理解することができると言う点でよくできていると思います。また、作り手がアメリカ人という点で、アメリカ人の文化というか正義観が伺えるのも、面白かったです。私は、ミキ・デザキの見解には反対なのですが、筋道をわかりやすく表現しているところに彼の誠実さを感じます。まあ、その考え方は好きじゃないけど。

監督の視点は、まず慰安婦というのは性奴隷であるという議論には賛成らしいです。でも、性奴隷にされたのは誰のせいなのかというところは証明できないし、そこは重要視していません。さらに、従軍慰安婦像は、平和と祈りのモニュメントだから、設置を反対するのはよくない、むしろ設置すべきだという意見を持っています。一方、右派の人間も慰安婦の中に騙されたり強要されて慰安婦にさせられた女性がいることも否定していません。でも、右派の人間からすれば、慰安婦の悲惨な人生の原因が、大日本帝国と日本軍にあることは絶対に認めたくはないようです。ですから、慰安婦問題について、ちょっとでも疑義があるなら、それは信用するに値わずという立場をとっています。そこまでは、私も頭を整理してついていけたのですが、それ以外にも様々な視点や意図がこの問題には含まれているとわかってくると、結構厄介な話になってきます。

右派の池田水脈議員(この人、この映画ではさんざんな描かれ方をしてます。右翼は嫌いだけど、率直な意見を、極悪非道みたいに編集されているのはちょっと気の毒。)が、高齢の元慰安婦の証言はあてにならないという言い方をします。冷静に考えると人間の記憶はどこまで信用していいのかあてにならない部分もあるのですが、アメリカの公聴会で、その点を指摘して否定派の人間が、議長から「被害者の証言を否定するなんて、恥を知れ」と言われるシーンがすごく印象的でした。一度、被害者認定されるとその証言が真偽を越えて物凄く力を持ってしまうというのは、結構怖いものがあると思います。アメリカでは、過去の偽記憶から、親が、性的暴行の加害者として訴えられて敗訴するというケースが多発したそうで、それを覆すのはすごく大変なことらしいです。日本でも痴漢冤罪のパターンがありますしね。被害者は気の毒だけど、その気の毒さ加減が、加害者を特定する材料にはならないのですよ。でも、デザキ監督は、酷い目に遭った慰安婦の像を作って平和を祈るのはいいことだというスタンスを取ります。でも、日本人の私からすると、全ての性奴隷となった女性の代表が、日本によって強制連行された韓国人従軍慰安婦だと言われるのは釈然としないものがあります。だって、性奴隷の加害者の代表が日本だと言われると、うれしくないという身びいきの部分と、本当に日本軍が強制連行したかどうかははっきりしていないように思えるからです。それって、事実確認前のイメージ先行のネガティブキャンペーンだよねって思っちゃうのですよ。

また、この映画では、貧しさから身を売って従軍慰安婦になった女性であっても、いくら金をもらったかに関係なく、不本意な性行為をした女性は、全て性奴隷だという立場を取っています。これは難しいことになってきました。あの時代、日本軍が中国人を度胸試しで殺したり、女性をレイプしたという話は、私はあったこととして認識していまして、それって日本が向き合うべき恥だと思っています。でも、大昔からある売春という商売を奴隷と言い切るのは歴史的にどうなの?って思ってしまいます。日本軍の指示で、慰安所を作るように指示された韓国の業者が、未成年の女性を騙して慰安婦にしていたという場合、確かにかわいそうな境遇にある女性を抱きに行った兵士が後ろめたさを感じることはあっても、日本が直接責任を負うのかというとそれは違うように思うのですが、この映画では、発注者である日本軍が責任を負うべきだという議論なんですよ。そもそも公娼制度を敷衍した、公式の慰安所を作ってしまったところに、そういうことを言われる遠因があるのでしょうが、全ての諸悪の原因を、日本に集約させようとする慰安婦像を、素直に平和と祈りの像とは考えにくいです。そう思うのは、テレビで韓国での反日パフォーマンスを何度も観ているからで、慰安婦像も、そのパフォーマンスの一つとしか見えないということがあります。

慰安婦として悲惨な人生を送った女性がいたことは事実だと思います。その事実から、他の真実を導くにはやはり検証が客観的な視点が必要になると思います。でも、それってすごく難しいです。例えば、この映画に登場する右派の皆さんは、自分にとっての都合のよい事実を重視し、聞きたくない話は軽視するか、証拠不足を理由に否定しようとします。でも、これは右派も左派も人間なら誰しもやることだという認識に立たないと、真実には近づけないと思っています。特に過去にあったことの解釈には、自分の好み(倫理観とかイデオロギーとか)が入ることを踏まえて考えないと無自覚な偏見が含まれてしまいます。この映画でも、日本が実際に慰安婦に対してどこまで責任があるのかをはっきりと言わず、責任の所在を軽視しておいて、明らかに日本叩きに使われている慰安婦像を肯定している点では、右派の論理と大きな違いがないようにも見えます。

とは言え、従軍慰安婦問題の論点を整理してくれたという点で、この映画を高く評価したいです。まあ、右派や愛国者と言われる日本人にとっては不愉快な映画だと思いますが、それも、ある意味事実ですし。ただ、慰安婦像肯定派の論理の不備については当然言及していませんがら、そこはこの映画の中から読み取ることになります。また、デザキ監督は、慰安婦問題から、今の安倍政権や日本会議の改憲問題にまで言及し、かつての日本国憲法を復活させたい連中が、過去の日本の恥を隠したいから、慰安婦問題に対して否定的な立場を取り、否定的なキャンペーンや展開しているのだと言い、「憲法改正して、軍備拡張して、アメリカの戦争に巻き込まれてもいいの?」というメッセージで映画は終わります。ああ、なるほど、そういう話だったのかと最後に気づくことになります。要は、慰安婦問題がどこまで本当でどこまで怪しいのかという点はどうでもよくって、慰安婦問題を否定する日本の右翼が台頭している日本はヤバイですよというのが本筋だったようです。

この映画はドキュメンタリー映画ですが、明らかな政治的な意図を持った映画で、その意図に沿った形で、映像の選択、編集がされていますし、最後には、「慰安婦像を設置しようよ」キャンペーンの側面も出てきます。でも、そういうドキュメンタリーを偏向しているとは思いません。何の意図もなしに政治ドキュメンタリーなんて作れませんし、何も訴えない政治ドキュメンタリーなんて面白くないでしょうから。私は、この映画に、共感するところもありましたし、反対だと思うところもありましたが、でもこの映画、面白いかったです。特に、過去の事実を証明することの困難さを再認識できたのは大きかったです。当事者の証言だけでは、全体像は見えないんだなあって。

「誰もがそれを知っている」は誘拐サスペンスから、悪意あるメロドラマへ。

今回は新作の「誰もがそれを知っている」を有楽町のヒューマントラストシネマ有楽町1で観てきました。映画の日ということもあってかなりの混雑で、特にネット予約の発券機に大行列。私は当日券の列に並んでネット予約を発券してもらって大して並ばずに済んだのですが、早く窓口を開けるとか人を増やすといったプラスアルファの対応があるとありがたいです。

スペインの田舎町で結婚式が行われることになり、アルゼンチンに住んでいる花嫁の姉ラウラ(ペネロペ・クルズ)が子供二人連れて里帰りしてきます。家族や幼馴染で元恋人パコ(ハビエル・バルデム)との再会を楽しみ、結婚式も無事に終わるのですが、その後のパーティの夜、事件が起こります。ラウラの娘イレーネが気分が悪くなって部屋に戻った後、村全体が停電が発生、その後イレーネの姿が消え、ベッドにスペインで起きた誘拐事件の新聞の切り抜きが置かれていました。さらに、ラウラの携帯に「娘を誘拐した。警察に通報したら殺す。」というメールが届きます。ラウラは家族とパコに事態を知らせて、どうしようかということになります。犯人の見当はつかないし、警察に知らせることもできず、どう動いてよいかわからない状況に、身代金30万ユーロの要求メールが来ます。ラウラの義兄フェルナンドが友人の元警官に連絡を取って相談をかけると、犯人はラウラ達を監視しているようだから、身代金を用意しているふりをした方がいいと言います。そこで、パコが農園を売る相談を共同経営者にかけて、金集めをしているようにみせかけようとします。アルゼンチンから、ラウラの夫アレハンドロ(リカルド・ダリン)がやってくるのですが、何だか周囲は彼に疑いの視線を向けます。もともと、お金持ちだったらしいのですが、会社を潰して、ここ2年は無職だったというアレハンドロ。でも、かつては村の教会に寄付したりして、村では金持ちで通っていたことから、娘が誘拐されたらしいということになっているのですが、幼い弟でなく、15歳の娘が誘拐されたことに、元警官の男は疑問を指摘するのでした。果たして、娘は無事に帰ってくるのでしょうか。

「彼女が消えた浜辺」「別離」「ある過去の行方」「セールスマン」など、人間関係の機微をクールにそして重厚に描いてきたイラン人監督アスガー・ファルハディの新作で、この作品でも自ら脚本を書いて、メガホンを取っています。今回はこれまでの作品にようなイラン人は一切登場せず、スペインの村で起きた事件をスペイン人のキャストで描いています。プログラムによるとペルシャ語で書いた脚本をスペイン語に翻訳させて演出させたそうです。国際的メジャーなスペインの俳優であるペネロペ・クルズとハビエル・バルデムを主演に据えているところからも国際マーケットを視野に入れた映画だと思われ、スペイン、イタリア、フランスの資本が入った映画ですが、きっちりファルハディの映画に仕上がっているところはお見事でした。それでも、過去の作品に比べると、誘拐という非日常な犯罪がドラマの中心に据えられていていることもあり、「彼女が消えた浜辺」「別離」のような普通の人間の人生の中のリアルな息遣いを丁寧に拾った作りではなく、「ある過去の行方」「セールスマン」のドラマチックさをさらに拡大したような内容になっています。まあ、国際的セールスを狙う映画だと、イラン人の日常生活や倫理観を細かく描くよりは、ドラマチックな事件に立ち向かう普遍的な人間の姿を描いた方がとっつきやすいだろうなって気はします。

結婚式前日から始まる映画で、序盤はたくさんの登場人物の紹介に追われるので、若干しんどいところもあります。サスペンス映画であるので、登場人物や人間関係がわからないと面白みが伝わらない映画ではあるのですが、そのあたりの捌きは今一つかなって気がしちゃいました。でも、誘拐事件が起きて、ドラマが主要人物だけに絞られてくると俄然調子が出てきてドラマに引き込まれてしまいました。警察に通報できないので、娘を取り返すには犯人の要求に答えるしかありません。さらに犯人はラウラの周辺事情に詳しいので、身近な人間が犯人かもしれないというのがサスペンスにつながるのですが、映画は誘拐劇そのものよりは、誘拐事件の中で明らかになってくる過去の事情の方にフォーカスをあてて展開します。映画の構造として誘拐劇の結末よりも、登場人物が過去をどうするのかというところがメインになっていますので、誘拐劇として見ると、お話が完結しないことになるのですが、それでも映画は、余韻を持った結末を迎え、原題にもなっている「誰もがそれを知っている」の意味が見えてきます。この題名の意味は、映画の主題とは別のところで、舞台となっている村というコミュニティの不気味な余韻となってきいてきます。

最初は、年ごろの娘の狂言誘拐とも思われるのですが、持病の薬をそのままに姿を消しているところ、そして、村の停電が人為的に行われたことがわかってきて、犯罪の匂いが濃厚となり、誘拐された娘をどうすれば取り戻せるのかというところにドラマの重心が移動していき、さらにどうすれば身代金が払えるのかという話になってくるのです。ラウラの幼馴染であり、恋人でもあったパコは、彼の奥さんが訝しむほどに、ラウラの事を気にかけて行動し、身代金を肩代わりするようなふりまでしてくれます。観客からすると、ラウラがそこまでしてくれるパコに対してあまり遠慮がないように見えるのが気になります。さらに、ラウラの旦那が映画の前半登場しないことで、このダンナが犯人なんじゃないのという気になってきます。金持ちのような噂話が聞こえてきて、その後、最近2年は無職だというのがわかってくると、ますます怪しく見えてきます。ところが、物語はそういう誘拐ミステリーとは別の方向へシフトしていくのです。

演技陣では、母の覚悟と女の怖さの両方を演じ切ったペネロペ・クルズの演技が見事でして、彼女のつかみどころのない奥行きがドラマに複雑な余韻をもたらします。事態が進展しない状況下で、彼女はパコが身代金を肩代わりすることを期待し、実際に口に出して頼むようになります。また、そんな彼女を挟んで対峙するハビエル・バルデムとリカルド・ダリンが最後には、ヒロインに翻弄されるかたちになるのですが、そんな男女の在り様をファルハディの演出はクールに突き放して描いていまして、そこに救いのなさを感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、少しでも身に覚えのある人にはかなりきつい内容になっています。これまでのファルハディの映画では、どうにもならない人間関係を描いたものが多かったのですが、今回は、人間の意思がややこしい関係を作りだしますので、貧乏くじを引いた人は気の毒だよなあって後味になります。神の御業によるものなら、あきらめもつく結末なんですが、人間の意思が作りだした不公平さには、何だか納得いかないという憤りを感じてしまうのですね。このあたりの意地の悪い後味は劇場でご確認ください。

犯罪サスペンスとしてはきれいに着地しないので、そこを不満に思われる方がいらっしゃるかもしれません。それでも、私はこの映画楽しめました。極限状態になったヒロインが、妙にうまく立ち回って、事を収めてしまうところとか、それに振り回されて今の生活を破壊していまうパコの悲劇。やたら、神のご加護を持ち出すけど、結局いいとこどりしてしまうアレハンドロ。さらにサブプロットとして描かれるのですが、ヒロインたちが秘めていたつもりの秘密がコミュニティの噂で公然の事実になっていたというところも面白かったです。そう思うと底に悪意のある笑いを込めたメロドラマということもできそうですし、見方を変えれば、誘拐に端を発したブラックコメディという言い方もできましょう。でも、ハピエル・バルデムがきっちりシリアスに演じ切ったパコというキャラは明らかに悲劇のヒーローなのです。そういう多面性を持ったドラマなので、座りが悪い部分もあるのですが、色々な解釈の余地を楽しめれば、この映画への評価も上がるのではないかしら。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



実は誘拐されたイレーネの父親はパコでした。若い時に別れたパコとラウラですが、再会したとき、ラウラは子供を身ごもってしまいます。その時、ラウラの夫アレハンドロは酒に溺れて仕事も最低の時、ラウラは子供を堕ろそうとするのですが、それを知ったアレハンドロが、これを神の啓示と思って、彼女を止めて、生まれたのがイレーネでした。そして、彼女によって一度はアレハンドロは立ち直っていたのでした。それは、墓場まで持っていく秘密の筈ですが、村の噂で、そのことは周知に事実になっていました。だから、幼い息子ではなく、イレーネが誘拐されたのです。イレーネの両親が身代金が払えなくても、パコが肩代わりすると犯人たちは読んでいたのです。犯人はラウラの兄フェルナンドの娘ロシオの恋人たちで、ロシオ自身も一枚噛んでいました。パコは秘密を妻に打ち明けて、農場を売り払って身代金を作り、犯人の指定する場所へ持っていき、イレーネを取り戻します。パコに感謝して、ラウラとアレハンドロと子供たちはアルゼンチンへ帰っていきます。妻が出て行った家で、一人物思いにふけるパコ。一方、自分の娘の挙動のおかしさに気づいたロシオの母が、夫のフェルナンドを呼び止め、何かを話しかけている様子をロングでとらえたカットから暗転、エンドクレジット。

結局、誘拐は成功して、犯人はまんまと身代金をせしめてしまいます。フェルナンドの友人である元警官の推理はほぼ当たっていたのですが、結局犯人を特定できないまま、警察が関与することなく、事件は終結してしまいます。物語としては、娘の父親がパコであることは周知の事実のようになっていき、自然な流れでパコが身代金を出すことになり、それにより、彼は農場も妻も失ってしまうのでした。なるほど、アレハンドロ目線からすれば、これは神のご加護による奇跡に見えてますます信仰に走りたくなりそう。一方、ラウラからすれば、昔の恋人のおかげで家族を守れたというハッピーエンドになるのかも。彼女が、パコに対してあまり負い目を感じていないようなのが気になるのですが、これはある意味、家族を守るヒロインの強さという解釈もできると思います。じゃあ、パコは弱い被害者なのかというとそういうこともなくって、強い愛情と意思で娘の命を助けるのですが、そのことで報われることはなく、失ったもの大きさだけを痛感するラストは、何かフェアじゃない決着のようにも思えるのですが、そうなるしかないドラマの流れなので、ついてない男の悲劇となります。家族の結束が強まるラストと表裏一体の結末は、皮肉な笑いも感じさせるのですが、笑い飛ばさない真摯な演出が、一つの事件の多面性を描いた映画としての見応えを感じさせてくれます。

「ブラック・クランズマン」は娯楽映画の上にストレートなメッセージを盛りつけて見応えあります。


今回は新作の「ブラック・クランズマン」を川崎のTOHOシネマズ川崎7で観てきました。ウィークデーの最終回としては結構お客さんが入っていました。

1970年代、アメリカのコロラド州コロラド・スプリングスで、人種を問わない警官募集に応募して、初めての黒人警官となったロン(ジョン・デヴィッド・ワシントン)は、資料室勤務が不満で潜入捜査官を希望したら、黒人活動家の演説会に潜入する仕事を仰せつかり、学生活動家のパトリス(ローラ・ハリアー)と仲良くなります。その後、配属された情報課で、彼は何とKKK(クー・クルックス・クラン)の募集広告に電話して、白人のふりをして、潜入捜査をすることになります。電話ではOKでも直接会いにはいけないので、実際に会いにいくときはユダヤ人の警官フリップ(アダム・ドライバー)がロンのふりをすることになり、二人一役で黒人(後ユダヤ人も)差別主義者を演じて、KKKの支部に入り込むことに成功します。彼らの口ぶりからすると、どうもKKKが近々何かすやらかそうとしているみたい。一方、ロンが会員証の件で本部に電話したらKKKのトップであるデューク(トファー・グレイス)につながり、さらに信用を得ることになります。そして、黒人の集会の日、一方ではKKKの支部でも、デュークを招いての集会が行われていました。KKKの連中は何かやらかそうとしているようです。でも、ロンは上司の指名でデュークのボディガードをすることになっちゃいます。KKKの集会で浮いているロン、しかし、そこに不穏な動きが....?

「ジャングル・フィーバー」「マルコムX」「セントアンナの奇跡」などで知られるスパイク・リーが、実在した黒人警官の実録本をもとに、脚色し、メガホンを取りました。アカデミー賞の作品賞、監督賞、作曲賞などにノミネートされ、脚色賞を受賞しました。作品賞を「グリーン・ブック」がかっさらったので、リー監督が機嫌悪くなったというエピソードが報道されたりしています。「グリーン・ブック」と同じ黒人差別を扱った映画ではあるんですが、向こうがいい話のロードムービーなのに対し、こちらはかなり悪意のある実話ベースのコメディということができるのかな。でも、映画のオープニングは「風と共に去りぬ」の南軍のシーン、その後、差別主義者の何とかという教授(演じるのはアレク・ボールドウィン)が白人優位を訴えるシーンにつながります。本筋に入る前に、アメリカ南部の黒人差別って根が深いんだぜというところを見せるという、結構マジメな作りなのですよ。黒人警官が白人警官とのコンビで差別主義者を演じてKKKに潜入捜査をするってところはかなり笑える設定で、その展開はコミカルなんですが、映画が黒人の集会とKKKの集会をカットバックで描くシーンになると、突然トーンがシリアスになります。狂気のKKKと虐げられた黒人の歴史を語る様の両方をマジに盛り上げるのですよ。あらすじを追う部分は、笑いも入れてテンポよく展開する娯楽映画。でも、KKKと黒人を描く部分はマジシリアスという何と言うか映画の中であちこちの温度差が大きい映画に仕上がっています。

コメディかシリアスかと問われるとどちらかというとシリアスが上かもしれません。また、作り手のスタンスは極めて明快に黒人側に立っており、KKKはどこかが狂った人間という描き方になっていまして、集会で、KKKのメンバーが「國民の創生」を声援を上げて鑑賞するというシーンはどう見ても正気の沙汰ではない見せ方になっています。一方の黒人の描き方は、単なる被害者というステレオタイプでない奥行きを持った人間としてのキャラを与えられています。学生活動家のパトリスは警官は全部敵だという認識で、黒人警官であるロンと一線を越えることができません。一方で、ロンは警察署内の差別発言に耐えつつKKKをはめてやろうと画策し、それに協力する白人警官の姿もきちんと描かれます。中立なおまわりさんとしては、黒人活動家もKKKも度を過ぎた行動をされるのは困る。一応建前としては、黒人だろうが白人だろうユダヤ人だろうが市民なら守らなきゃいけない立場を全うしようとします。黒人を差別する酷い警官も登場しますが、それが警官の大多数だという描き方にはなってはいませんが、一方で、そういう困った同僚をなかなか告発するのも難しいという組織のよくあるパターンを見せます。日本だって、問題のある教師や公務員を内部から告発してやめさせるとかはできないので、転勤とかでお茶を濁したりしてますから、どこの国でも似たようなものです。

KKKは黒人差別だけでなく、他の有色人種やユダヤ人とか、自分たち以外は見下していて、特に台頭してきている黒人に対しては攻撃的になっています。そのメンバーには退役軍人どころか現役軍人も入っているのですって、白装束で集まって十字架を燃やしたりするくらいならまだしも、黒人の集会へテロ行為を仕掛けようとします。KKKメンバの奥方がやっぱり差別意識がすごくて、黒人を殺すことを悲願の達成と言っちゃうかなり狂ったキャラ。KKK側の人間の狂った顔しか見せないので、彼らが善意の市民の顔をもっているところを描かないのが面白いところです。映画の攻撃の的として描くためにそういう見せ方をしているということになるのですが、彼らの善意の市民としての顔を描いて、人間の業の深さを見せる深い映画にすることもできたでしょう。でも、そこまで人間の根源的なところまで踏み込むと、今そこにある黒人差別というテーマがぼけちゃうから、奥行きを感じさせないわかりやすい悪役にしているのだと思いました。映画の立ち位置が明快で伝えたメッセージがストレートに届く映画として、この映画、オススメできます。今だからこそ作らなきゃという気持ちが伝わってくるだけに、今が歴史的に前に進むのか逆コースへ行くのか分岐点にあると感じさせる、ある意味、怖い映画でもあります。

スパイク・リーの演出は面白おかしくテンポよくドラマを進め、シリアスなメッセージも重くなりすぎないようにきちんと娯楽映画の体でまとめることに成功しています。結末も痛快な後味を残す一方で、エピローグで最近の人種差別主義者のヘイト集会やデモなどの映像を見せ、大統領でさえその連中に与している事実で、観客をマジでビビらせる結末になっています。テレンス・ブランチャードの音楽が、メインとなるモチーフのバリエーションでドラマの要所要所を支えるという、20世紀の映画音楽の作りになっているのが、個人的にうれしかったです。クライマックスの盛り上げなど見事でしたもの。サントラ盤をゲットしてしようとしたら、ダウンロード版しかなかったのは残念でしたけど、とりあえずゲットしちゃいました。久々の映画音楽らしい映画音楽なんですよ。そういうのが古い人間なのかもしれませんけど。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



KKKの儀式が済んで女性も交えた食事会となりますが、その中過激メンバーのフェリックス(ヤスペル・ペーコネン)と奥さんのコニー(アシュリー・アトキンソン)が不穏な目配せをして、コニーが包みを持って姿を消します。それに気づいたロンは、彼女の乗った車を通報してマークさせます。コニーは黒人集会の場所に爆弾を仕掛けようとしますが、警官が動員されていることで断念、プランBとして学生活動家のリーダー、パトリスの家にその爆弾を仕掛けようとします。ロンは、彼女の家へ向かい、コニーを見つけて、彼女を取り押さえようとします。一方、起爆スイッチを持ったフェリックスたちの車もコニーの家へ向かいます。ロンとコニーがもみあいになっていると、そこへパトカーが到着するのですが、逆にロンを取り押さえてしまいます。そこへフェリックスたちの車が到着、ロンはパトリスに逃げろと叫ぶのですが、フェリックスは起爆スイッチを入れます。すると、コニーの車が傍にいたフェリックスの車もろとも大爆発。コニーは爆弾をパトリスの家に仕掛けかねていたところをロンに発見されたので、爆弾は彼女の車にまだあったのでした。そして、ロンとパトリスが飲んでいるところに黒人差別の警官が絡んでくるのですが、周囲で待機していた警官に逮捕されてしまいます。ロンはKKKのデュークに電話して、実は黒人だよーんってネタばらしして、みんなで大笑い。一方、ロンがパトリスと一緒に家にくつろいでいると、ドアの方から不審な音が聞こえてきて、二人が銃を構えてドアに向かうところで物語はおしまい。エピローグで現在進行形の差別主義者のヘイト集会やデモ、さらに差別反対のデモに車が突っ込むという実写シーン、さらにトランプ大統領がその差別主義者のテロに「両方悪い」とコメントするシーンが映り、エンドクレジット。

パトリスの家に爆弾が仕掛けられるシーンは、音楽のサポートもあって、大変盛り上がりまして、KKKの車が吹っ飛ぶシーンはサプライズなカタルシスがありました。痛快なオチかと思われるのですが、最後の実写ビデオで、今がヤバイぞというメッセージを突きつけてきます。刑事ドラマと実録モノとコメディを組み合わせたエンタテイメントの中に、ストレートな政治的メッセージを盛りつけた作りの映画で、個人的には盛りつけがボリュームありすぎな気もするのですが、こればアカデミー脚本賞をとったのですが、すごい映画なのでしょう。演技陣では、ロンを演じたジョン・デヴィッド・ワシントンが意外と薄めのキャラでドラマにうまくフィットしていました。デンゼル・ワシントンの息子だそうですが、黒人だけど薄めキャラというのは、他の黒人俳優が濃いキャラの人が多いので、こういう人は貴重な存在になるかも。またアダム・ドライバーは新作ごとに役者の幅を広げているのがお見事。パトリス役のローラ・ハリアーの知的美人ぶりは今後要チェックだと思いました。また、あまり奥行きを与えられない悪役であるKKKを演じたライアン・エッゴールドとヤスペル・ペーコネンも要チェックのバイプレイヤーです。

「グリーン・ブック」いい話なんだけど、黒人差別を題材にした映画としてはちょっとつらい部分も。


今回は新作の「グリーン・ブック」を、日本橋のTOHOシネマズ日本橋7で観てきました。ここはTCXという通常よりも大きなスクリーンサイズになっていて、その分、迫力が出ると言うのが売りみたい。追加料金はなし。これって昔の70ミリ上映に近いものがあります。70ミリっていうのは、フィルムがでかいので、その分、大きな画面に上映しても、画面が鮮明です。TCXは上映するメディアは普通のDCPなので、昔で言うなら、35ミリフィルムだけど、70ミリサイズの画面で上映する70ミリ方式上映が該当するのかしら。でも、TCXには70ミリほどのありがたみとかうれしさを感じないのが残念な感じ。

1962年のニューヨーク、ナイトクラブで用心棒をしているイタリア系のトニー(ヴィゴ・モーテンセン)は、店の改装のために一時的な失業状態。妻と二人の子供を食べさせるために職探しをしていた彼が、紹介された仕事は、ドン・シャーリー(マハーシャラ・アリ)というリッチな黒人ピアニストの運転手でした。黒人に対する差別意識を持っていたトニーは一度は断るのですが、それでもドンは、彼のトラブル解決能力を買い、給料増額の要求をのんだ結果。8週間のドンのツアーの運転手となります。彼のツアーは差別意識の色濃い南部の州を回るというもので、確かに色々と厄介なことが起こりそうな予感はありました。それでも、ドンは自らの意思でそのツアーに臨んでいるようです。腕っぷしと口先は達者だけど知性に欠けるトニーと、インテリでアーチストだけど黒人というドンが、アメリカ南部への演奏ツアーに出かけることになるのでした。

2018年のアカデミー賞で、有力候補とされ、最終的に作品賞と脚本賞と助演男優賞を受賞した人間ドラマの一品です。実在したクラブのマネージャと黒人ピアニストを題材にしたお話で、モデルとなったトニーの息子、ニック・バレロンガと、ブライアン・カリー、そして「メリーに首ったけ」「愛しのローズマリー」のピーター・ファレリーが共同で脚本を書き、ファレリーがメガホンを取りました。えげつない下ネタや差別ネタで過剰な笑いをとってきたファレリー兄弟の片方が黒人差別をネタに実録映画を作ったということで、尖った笑いの映画になっているのかなと思ったのですが、世間の評判はストレートに心温まる映画らしいというので、ちょっと「?」の気分でスクリーンに臨みました。で、これが本当にストレートな映画で、尖ったところがまるでない映画に仕上がっていてかなりびっくり。ラブコメの体裁の「愛しのローズマリー」でさえ相当な毒を盛り込んだファレリー監督、どうしたのかしら。

要は、黒人差別意識をもったイタリア系のトニーが、インテリ黒人ドンに雇われて、一緒にアメリカを巡るうちに、二人の心が通い合うようになるというお話です。行く先々で差別的な扱いを受けるのですが、最初はトニーが腹を立て、それをドンがいさめるのですが、最後の最後でその関係が逆転したところで二人の絆が深まる、とそんな感じ。未見の方には何のことやらでしょうけど、まあ色々あって二人が親友になりましたってことです。これまでの人生でまるで接点のなかった二人が一台の車で一緒に旅することで心を通わせるようになるという、よくあるロードムービーの定番の作りになっています。そのロードムービーの上に黒人差別をトッピングした感じ。メインはバックボーンの異なる二人のロードムービーでして、あくまで黒人差別はトッピングの扱いなんです。そのせいか、この映画がアカデミー賞取っちゃったものだから、黒人差別の描き方が表層的とかきれいごと過ぎると言う批判が出たんですって。

トニーとドンの二人のいい話なんだから、そんな本質的でない批判なんかどうでもいいやんというのももっともなのですが、私はこの批判にも一理あるなって思っています。それは、私が「私はあなたのニグロではない」を観ていたからです。この映画の中で、ハリウッド映画は白人のヒーローを祭り上げる一方で、ハリウッド映画の黒人は、白人にとって都合のいいものとして描かれてきたのだと言います。今回のドン・シャーリーも知的で、粗野なトニーにもやさしい、よくできた黒人として描かれています。特に白人にとって都合がいいところは、ドンが差別する白人を悪く言ったり、戦おうとしないこと。それどころか、南部アメリカでツアーをすることで黒人の地位向上を図っているようなのですよ。これって、差別する白人を変えようというのではなく、白人の価値観に寄せて行こうとしているわけで、白人からすれば自分の「差別感情という悪意」と向き合わずに済む、すごく都合のいい黒人さんなわけです。白人を悪く言わないどころか、他の黒人から浮いてる存在の自分を責めちゃったりもするわけで、白人の優等意識を突いてくることもない、謙虚で優秀な自虐黒人が、白人から「よい黒人」の称号をもらってハッピーエンドになる映画は、黒人差別意識を腹の中に抱えていると思われても仕方ないと、私は思うのですが、そこまで言うのは、うがち過ぎなのかしら。

さらに気になったのは、ドンがゲイで、それを引け目に感じているところ。どうも、トニーとドンの関係は、お金の上では、ドンが主で、トニーが従なんですが、実際の人間的な関係は、家族がいて世知に長けたトニーの方が優位に立っているのです。インテリ黒人ということで、アイデンティティが不安定で、孤独を酒で紛らわせるドンは、トニーのような存在の安定感がありません。ドンは、映画の冒頭では、黒人の頂点のような威厳のある存在なのですが、物語が進むにつれて、どんどんその地位が後退していくのですよ。純粋に、トニーとドンの二人の個人的な力関係を描いたお話なら、それでよいのですが、黒人差別をトッピングしてしまうと、個人的な力関係が、白人と黒人の力関係のサンプルのようになっちゃうのですよ。この映画、黒人差別を取っ払って鑑賞するのがいいように思います。差別する白人と差別される黒人の物語と考えると、これ白人に都合よすぎるんじゃない?って突っ込みが入っちゃうのですよ。

トニーを優位に置いた見せ方をしているのは、脚本にトニーの身内(息子)が参戦しているからかもしれませんが、やはり白人目線の映画を感じさせるところありました。それでも、主演の二人は与えられたキャラクターを熱演しています。自信満々のドンが時々見せる心細そうな感じとか、トニーの子煩悩な感じとか、タイプキャラにならない奥行きを感じさせるもので、二人のリアルな存在感がドラマを盛り上げました。それだけに、黒人差別というセンシティブな題材を扱いきれなかったところが惜しいと思ってしまいました。黒人差別を背景に押しやってしまうか、これまでのファレリーの映画みたいに差別ネタとして笑い飛ばしてしまった方が、不完全な二人の絆にドラマが集約されて、素直に楽しめたような気がします。作り手が黒人差別を描き切れると思って、正面から取り組んだものの、やはり白人目線から目をそらすことができなかったと言ったら、アカデミー作品賞に向かってひどい言い方かしら。

1950年代から、人種差別問題は色々と形を変えて、それでも良い方向へ進んできていると思うのですが、まだ完成形ではない現状を捉えた時代を象徴する映画として、存在価値のある映画ではないでしょうか。数十年後、黒人差別の歴史の中の一つのイベントとして、この映画のアカデミー賞受賞が語られるとき、この映画がどういう位置づけ評価されるのかが気になるところです。なぜ、そう思うのかというと、この映画と前後して、やはり黒人差別を題材にした「ブラック・クランズマン」という黒人監督による映画を観たからでして、この両者の関係が、未来でどう語られるのかなって。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ドンと、二人の白人弦楽奏者を加えたトリオによるコンサートは南部の観客にも拍手で迎えられるのですが、その一方で、ドンは南部の常識的慣習として差別的な扱いを受けます。警官からも、コンサートの主催者側からも、黒人に対する無造作な差別を受けることに、トニーは憤るのですが、ドンは彼をたしなめ、ツアーの無事な進行を優先させます。ドンがYMCAで若い白人と一緒にいた時に逮捕されてしまうと、トニーは警官を買収して何とかその場を切り抜けます。一方、警官のあまりにひどい職務質問にトニーが手をあげて逮捕されてしまったときは、ドンがケネディに直接電話をかけて、知事へ手を回して釈放にまでもっていきます。しかし、最後のコンサートの地のホテルで、レストランへ入ることを拒否されると、トニーの説得にもドンは譲らず、最終的にそのコンサートをすっぽかしてしまいます。そして、トニーの家のクリスマスディナーへ間に合うように、二人はニューヨークへむかうのですが、大雪のために車は遅れ、トニーもグロッキー状態で運転を続けられなくなっちゃうのですが、ドンがハンドルをとって、何とかトニーをクリスマスディナーに間に合わせるのでした。そして、トニーの両親兄弟も揃ったディナーの場に、ドンがワインを持って訪問します。ドンを暖かく向かい入れるトニー。ドンを見て一瞬は驚きながらも、歓迎するトニーの家族。そして、彼らの後日談と実際の二人の写真が出て、暗転、エンドクレジット。

途中のエピソードで、トニーが家族へ手紙を書くのですが、子供の絵日記みたいな文面に、ドンが文章を考えてやるというシーンがあります。届いた手紙を見て、トニーの兄弟両親が、その文才に驚くというのが笑いを取る一方で、最後に家を訪れたドンを迎えたトニーの妻がドンの耳元で「手紙をありがとう」と告げるシーンがいい感じでした。そういう意味で、この映画、すごくいい話なんですよ。きれいごとだとしてもいい話。それだけに黒人差別を正面突破しようとしたおかげでツッコミの入る余地を作っちゃったのは惜しいなあって思ってしまったのです。とは言え、コミカルな味わいもあり、誰が観てもいい話として楽しめる映画なので、オススメできる一編です。

「シンプル・フェイバー」は、70年代のアメリカのTVムービーを思い出させるミステリーの佳品。


今回は、新作の「シンプル・フェイバー」を横浜のTOHOシネマズ上大岡6で観てきました。アカデミー賞関係の映画に今イチ食指が動かなくて、こっちの方を優先しちゃいました。

ニューヨーク郊外に住む夫と死別したステファニー(アナ・ケンドリック)は、小学生の息子と二人暮らし。料理や生活情報の動画ブログを開いて、そこそこフォロワーがいる模様。父兄参加日に知り合った息子の同級生の母親エミリー(ブレイク・ライブリー)と知りあいになります。豪邸に住み、ハンサムな作家の夫(ヘンリー・ゴールディング)がいて、彼女自身はニューヨークのコスメ会社の重役らしいのです。夫の保険金で何とか暮らしているステファニーとはまるで住む世界の違うエミリーですが、なぜか二人は意気投合。ステファニーは、彼女に頼まれて、子供をあずかったりするようになります。そんなある日、ステファニーはエミリーに頼まれて、彼女の息子を家にあずかるのですが、その後、彼女から一切の連絡がなく、行方不明になってしまいます。彼女の夫ショーンに連絡して、警察にも捜索願いが出されるのですが、彼女の消息は不明。ステファニーはそのことをブログで紹介すると、目撃情報が届き、彼女の借りた車がミシガン州の湖畔で発見されるのでした。

ダーシー・ベルの小説「ささやかな頼み」を原作に、ドラマでに実績のあるジェシカ・シャーザーが脚本を書き「ブライスメイズ」「ゴーストバスターズ」のポール・フェイグがメガホンを取りました。コメディの監督というイメージがあって、ミステリーサスペンスものを撮るというのがちょっと意外性があったのですが、本編を観てみれば、なるほどコメディの監督が撮った映画なんだなあって納得しちゃいました。実際にはシリアスなお話なはずなんですが、どこか間を外したようなおかしさがあって、アナ・ケンドリックの陽性の魅力がこの映画に他のミステリーものとは違う面白さを与えています。その分、ドラマが軽いという印象になりましたけど、そこにちょっと懐かしさを感じました。(そこは後述)

冒頭で知り合ったステファニーとエミリーの関係がまずおかしい。ハイソで豪華で美しいエミリーと、ちょっとキャピキャピ入ったシングルママのステファニーのコントラストの面白さで、ドラマに引き込まれます。ミステリアスなエミリーに主導権を取られた感じになっちゃうのですが、ステファニーも彼女への憧れのきもちがあって、彼女の頼みを喜んで引き受けちゃいます。他の父兄からは、「まー、いいように使われちゃって」とバカにされたりもしてるけど、本人はそれほどのこととは思ってないみたい。一方のエミリーは、写真に絶対撮られたくないとか、どこかミステリアス。前半は二人の会話中心にドラマが進むのですが、境遇の違う二人がお互いに秘密を共有することで距離が縮まっていくのがコミカルな味わいだけどそこそこリアル。この二人の力関係の流れでドラマが一本作れそうなんですが、そこに警察も絡んだミステリードラマが乗っかってきて、「え?」という展開になります。

一応、警察は出てくるのですが、物語はずっとステファニーを軸に展開します。こういう作りのドラマって、その昔、70年代によくテレビで放映されていた、アメリカ製のテレビムービーの味わいがあって懐かしかったです。一般の市民が警察が関与するかどうか微妙なレベルの事件に巻き込まれる、ミステリーサスペンスが結構あったのですよ。それが、後になって日本の2時間サスペンスものにもつながるのですが、殺伐度もスリラー度もそこそこの感じで、普通の人のドラマが展開するってのが、昔、こういうの観たなあって感じなんですよ。劇場映画としての画面の豪勢さはありますけど、でもこじんまりまとまったミステリーとして、懐かしくも楽しんでしまいました。特にヒロインのステファニーがちょっとドジっ子ママなところがあるという親近感も、テレビ的というか、話に入り込みやすいのですよ。一方のエミリーが欠点のなさそうなミステリアスな美形というのも、出来過ぎのタイプキャストのような気もするけど、そこがまたわかりやすい展開につながっています。観客を謎解きやどんでん返しまで引っ張り倒すこともなく、後半のさくさくと展開するのも小気味よくて、軽いけど意外な展開もあって滅法面白い映画になっています。ホント、後半からクライマックスまで、一切、ドラマを溜めることなく、さらりと流したポール・フェイグの演出は、バックに流れるフレンチポップスと同様に、いい意味の軽さがうまく作用して、面白い娯楽映画にまとめあげています。

主演の二人はタイプキャストではあるのですが、そこをきっちりと演じ切ってお見事でした。アナ・ケンドリック演じるステファニーは、動画ブログを毎日更新しているらしいのですが、エミリーが行方不明になってから、彼女のことをブログで語り、情報を求めたりする、今風だけどちょっと軽そうな、人の好いママさん風なんですが、その後に「そっちも軽いのかい?」の意外な顔を見せますし、エミリーの裏のやさぐれキャラもきっちり演じ切ったブレイク・ライブリーも女優としてのうまさを感じさせました。そういう意味では、女優の演技で楽しませるコメディとして観るのも一興ではないかしら。後半のアナ・ケンドリックの素人探偵ぶりは、2時間サスペンスのよくあるパターンですし、2時間サスペンスですから、当然血生臭い事件も起きちゃうのですが、ちょっと懐かしい味わいもありつつ、ごひいきアナ・ケンドリックのかわいいヒロインを見ることができ、美女ブレイク・ライブリーの演技の幅も堪能できて、楽しい2時間弱を過ごせましたから、軽い期待とノリでスクリーンに臨めば、ちょっとツイストの効いたサスペンスコメディとして楽しめるのではないかと思います。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



行方不明だったエミリーは、湖から水死体で発見されます。DNAも腕の入れ墨も死体が彼女であることを物語っていました。夫と親友を失ったショーンとステファニーですが、葬儀を終えてすぐに二人はやんごとなき関係になってしまいます。そして、エミリーのいた豪邸にステファニーと息子は引っ越してきて、エミリーの息子も入れた4人の暮らしが始まります。でも、息子たちがエミリーを見たと言い始め、さらにステファニーにもエミリーと思しき女性から電話がかかってきます。エミリーの荷物を処分したクローゼットが元に戻っていたり、まるで超自然現象みたいな展開になってきて、ステファニーも「悪魔のような女」じゃないの?とショーンを疑いますが、ショーンもわけがわからない。警察は、エミリーに400万ドルの保険金がかかっていたことから、ショーンを疑っているみたいだし、急接近したステファニーへも疑いの目を向けてきます。そこで、ステファニーは単身、エミリーの過去を調査し始めます。亡くなった湖でのキャンプに参加していたらしいことを知り、アルバムを調べると、なんとエミリーは双子だったのです。そして、彼女の母親に会って話を聞くと、どうやらとんでもない娘だったらしいのです。双子は、家の火事の後、姿を消していました。それは、厳しい父親を殺すために二人が共謀して家に火を放ったのでした。エミリーは双子の姉と別れて、新しい人生を歩んでいたのですが、姉が金の無心をしてきたことから、彼女を自分の身代わりにして殺して、自分の保険金を手に入れようとしていたのでした。それもショーンには内緒で。

一方、エミリーに双子の姉がいることを知ったステファニーはブログで、彼女が生きてることをほのめかしたもので、エミリーも逃げきれなくなって作戦変更、ショーンに再度接近します。しかし、彼が思うように動かないとわかると、一計を案じて、全てショーンの計画だったという証拠を偽造して、彼を刑務所に送ろうとします。ショーンのお邸で三者会談となるのですが、ステファニーは銃を持ち出して、ショーンに向けて、エミリーに姉を殺したことを白状させようとします。でもエミリーは仕掛けられていた盗聴器を見抜いていて、それを壊して、改めて銃をステファニーに向けます。しかし、彼女のブラウスのボタンには小型カメラがしこまれていて、3人の会話はブログに実況されていたのでした。逃げ出すエミリーを追うステファニーですが、銃を向けられた時、ブログ読者である息子の同級生の父親が車で突っ込んできて、間一髪で命拾いし、エミリーは警察に逮捕されるのでした。ステファニーはその事件が縁で、探偵ブログを始めて、実際に探偵事務所を開いて事件を解決するようになるのでした。そして、20年の実刑をくらったエミリーは刑務所でそれなりに居場所を見つけたようなのでした。

エミリーが双子とわかってからは、ドラマのテンポが一気にアップして、エミリーとステファニーの対決ドラマの様相を呈してきます。ブログでエミリーを挑発するステファニーに対して、ショーンから攻め落とそうするエミリーの攻防が、クライマックスでは、ショーンを挟んで、両者が直接対決となります。とは言え、ストレートにサスペンスを盛り上げず、時間の省略や、間を外した場面転換などで、どこか軽さとコミカルさを持った展開になるのがおかしく、とぼけた味わいのエピローグまで行くと、やっぱりこれはコメディだったんだなあってことになります。もちろん、エミリーの姉殺しや父親を放火で殺すといった血生臭い事件もあるのですが、それでも全体はどこかコミカルな軽さがあるのは、まさに2時間サスペンスの味わいなんですよ。映画の宣伝文句を真に受けちゃうと物足りなさや展開の甘さを感じてしまうのですが、もともとそういうストレートな作りでないので、観る方もお気楽にスクリーンに臨んだ方が楽しめる映画です。そういう意味では、エミリー・ブラント主演の「ガール・オン・ザ・トレイン」と似たような売り方をしているのですが、あっちは、ブラックな笑いを散りばめたスリラーで、こっちは、犯罪を盛り込んだご近所コメディくらいの違いがあります。どっちも娯楽映画として、面白くできていますから、オススメしちゃいますが、変にずれた期待をしてスクリーンに臨むとせっかくの面白さを受け止め損ねちゃいますから、宣伝には気を遣って欲しいと思いますです。

「パペット大捜査線」はバカ下品な珍品と思ってたら、ラストは意外とまともで....。


今回は、川崎のチネチッタ4で、新作の「パペット大捜査線」を観てきました。ここは中劇場タイプながら、画面が大きいので映画を観たなあっていう充実感のある映画館。

人間とパペットが共存する世界。でも、パペットは二級市民というか、何かと差別されちゃっています。パペットのフィル(ビル・バレッタ)は、元警官でしたが、ある事件をきっかけに警官をやめ、今は探偵事務所を営んでいます。そんな彼のもとにセクシーなパペットのサンドラが自分の秘密を暴くと脅迫されていると言って、調査の依頼に来ます。その脅迫状の切り抜き文字に見覚えがあったフィルは、知りあいのアダルトショップに出かけて、エロ雑誌のロゴが脅迫状にあったことを発見するのですが、そこへ何者が侵入して居合わせた連中を皆殺しにします。さらに、フィルの兄も惨殺されたことで、90年代のテレビ番組「ハッピータイム・ギャング」の関係者が狙われたのでは?と警察も動き出します。かつての同僚の人間の刑事コニー(メリッサ・マッカーシー)と再び組まされて事件を捜査することになるフィル。すると本当に番組の出演者が次々に殺され、その現場に必ず居合わせるフィルは犯人として追われる身になっちゃいます。果たして、フィルは自分に向けられた疑惑を晴らして、真犯人を見つけることができるのでしょうか。

パペットというのは、操り人形のスタイルであるマリオネットとパペットの合成語です。日本だと、初めてパペットがメジャーになったのは、教育テレビで放送した「セサミ・ストリート」ではないかしら。カエルのカーミットとかクッキーモンスターなんてのが記憶にあるのですが、日本語吹き替えでない英語放送は、子供の私には敷居が高くて、たまにチラ見する程度でした。アメリカではパペットの番組や映画が色々と製作されたようですが、日本では「パペット放送局」が半年間放送されたくらいだったように思います。これは有名な歌手や俳優がパペットと一緒にバカをやるという楽しい番組でしたが、何か打ち切られ感が強かったのが残念でした。で、この映画なんですが、パペットと人間が共存する世界で、起きた犯罪ミステリーものということになるのかな。でも、やってることはすごぶる下品。冒頭のアダルトショップの描写ですとか、パペットのフィルとサンドラのセックスシーンとかも、くだらないを通り越して「バカじゃねえの?」のレベルになっています。パペット惨殺シーンにもリアルなスプラッター描写があります。でも、飛び散るのは血肉ではなくて、中の綿なんで、何かビミョーな変な感じ。また、パペットの世界の麻薬が砂糖だとか、パペットも子を持って、その子が成長するなんていう、完全に思いつきだけ並べたような世界観が、「やっぱりバカだねー」な面白さになっています。最近のアメコミ映画やハリ・ポタ系映画が、その世界観を真面目に描こうして、面倒くさいお約束を並べてきていることへのアンチテーゼとも思えるバカバカしさは、世界観の面倒な映画はスルーしちゃう私にとっては、すがすがしいバカらしさとして楽しめました。「スター・ウォーズ」以降、映画は世界観に縛られて枝葉末節を描き込むことが「良い事」とされてるのが、面倒くさいなあって思っていた私には、こういう「細かい事はいいんだよ」というスタンスがうれしく感じられました。ただ、やり過ぎ感もありまして、私はギリ持ちこたえましたけど、人によっては結構引いちゃうかもしれません。そういう意味では、万人向けの映画とは言い難く、珍品として楽しむことができる物好き向きの映画なのかなあ。でも、公開時に、興収3位まで行ったそうですから、一応メジャーな映画になるのかと思いつつ、「ホステル」が興収1位になっちゃう物好きの層の厚いアメリカだから、こういうある意味ゲテモノ映画も作れば当たるんだろうなあ。

映画の作りは冒頭は、フィリップ・マーロウか「チャイナタウン」を思わせる渋い探偵ものの味わいなんですが、舞台がすぐアダルトショップに行くので、そこから先は、もう何でもアリな映画になっちゃいます。パペットの惨殺死体とか、パペットのドザエモンとか登場しますし、女刑事のコニーは、銃で撃たれた時に、パペットの肝臓を移植して一命をとりとめたというわけのわからない設定ですし、「細かい事を考えてもムダ」という筋が一本通った(?)展開になっています。それでも、一応は連続殺人モノからのミステリータッチの展開になって、なぜかマトモに着地するのがまた変。最後までムチャクチャやるんかと思ったら、何かパワーダウンしちゃったような気もするのですが、後半は、フィルとコニーのバディものみたいな味わいで、悪趣味度は前半が10なら、後半4くらいと、変なバランス感覚があるみたい。つかみの部分で下品度を膨張させておいて、後半で普通の娯楽映画へ落とし込むという作りは、何だか妥協の産物だよなあ。バカで下品のまま最後まで突っ走ったその昔の「ズーランダー」みたいな映画の方が稀なのかな。それとも、最近の映画は複数の国の複数の会社が出資してるから、最後は万人向けにしとかないと、グローバルな商売ができないのかも。この映画も冒頭で中国の会社のロゴも出ましたし。

そんなわけで、パペットは登場するけど、笑いは下品で、世界観は思いつき、それでもラストでいい話にまとめようとする、かなりの珍品と申せましょう。私がここ数年で珍品と思った映画には「シンクロナイズド・モンスター」とか「聖なる鹿殺し」なんてのがありましたが、こちらの方がバカ度の高い珍品と言えそうです。エンドクレジットがメイキングになっているんですが、それによるとグリーンのスーツに身を包んだパペッターが3人がかりで1体の人形を操作してます。なるほど手作り感覚の職人芸で人形を動かして、そのパペッターをデジタル処理で画面から消してるみたいです。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



フィルとコニーは「ハッピータイム・ギャング」のかつての出演者たちに会いに行くのですが、その先々でみんな殺されてしまうので、ますますフィルの嫌疑は濃くなり、ついにはFBIに逮捕されてしまうのでした。隣の取調室で、フィルへの依頼者であったサンドラが嘘八百の証言をしていたのを見て、フィルはこいつが犯人だと確信。そもそも、彼女の脅迫状の文字を調査に行ったところから連続殺人が始まっているのですもの。そして、取調室で見えた彼女がアンダーヘアの色から、かつてフィルが誤って射殺した男の娘だと気づくのでした。全ての殺人は、父親を殺したフィルに復讐するためのものだったのです。コニーが一計を案じ、フィルを銃で撃って、病院へ運ぶ途中で脱走、高飛びしようとするサンドラを捕まえようとするのですが、サンドラはコニーを盾にとって逃げようとします、かつての誤射のトラウマが頭をよぎるフィルですが、今度は誤らずサンドラの頭を撃ち抜き、その結果、フィルは警察に復職し、再びコニーとコンビを組むことになるのでした。おしまい。

コニーを演じたメリッサ・マッカーシーが出しゃばり過ぎない脇役としてのコメディエンヌぶりがお見事で、どうしても表情の乏しくなるパペットのフィルとうまいバランスを取って、最後にはフィルと和解するキャラを好演しています。またチョイ役のエリザベス・バンクスや、フィルの秘書役のマーヤ・ルドルフといった個性の強い面々も、脇のポジションで目立ち過ぎない演技で、パペットのフィルをうまく立てているようです。彼女たちのような、大芝居のコメディ演技をする女優さんたちと、パペットを共演させて、パペットが霞まないように采配したヘンソンの演出は、この映画を暴発させないでうまく着地させることに成功しています。ただ、個人的には、最後までバカと下品を貫くのも、ある種の見識だと思ってまして、そういう意味では若干刺激が足りなかったかも。オードブルでとんでもないスパイシーな味付けをしてったのが、メインディッシュではまろやな無難な味付けになっちゃったと言ったら伝わるかしら。最近のハリウッドの映画製作費高騰のおり、全世界公開してモトを取る必要があるとき、最後で映画がとんがり続けるのは難しい時代になったのかもしれません。

「ギルティ」は舞台限定のサスペンスミステリーで意外な切り口から見応えあり、オススメ。


今回は、横浜のTOHOシネマズ上大岡4で新作の「ギルティー」を観てきました。ここは劇場の広さの割にはスクリーンの大きさが今イチなんですが、どっかでこういう映画館あったよなあって思いだしたのが、銀座シネパトスでした。あそこほど小っちゃい劇場ではないんですが、客席とスクリーンのバランスがそんな感じで。

警察の緊急通報司令室のアスガー(ヤコブ・セーダーグレン)は、市民からの緊急電話を受け付けるオペレーター。明日に何か控えていて、それが彼の気懸りみたい。そんな彼が受け付けた通報は若い女性からのもので、どうやら誰かに誘拐されているみたい。自分の子供に電話すると偽って警察に電話してきたみたいなんです。電話番号から、彼女の名前がイーベンであること、電話の基地局から、どうやら市の北部の高速上にいるらしいことがわかります。アスガーは警察本部に連絡して、パトカーが向かうのですが、イーベンが乗っている車を特定することができません。アスガーは思い切って、イーベンの家に電話すると、マチルドという6歳の女の子が出ました。マチルドが言うには、母親のイーベンを、別居中の父親ミケルが連れだしたというのです。アスガーはマチルドに弟のそばに行って、警察を待つように告げ、警察本部にイーベンの家へ警官を向かわせるように依頼します。イーベンには暴行の前科があり、ナイフを持っているということで、イーベンが危険な状況にあることがわかってきます。アスガーは相棒で非番の警官ラシードにミケルの家へ行くように頼みます。夜勤のオペレータと交代の時間が来たのですが、アスガーはそこに残り、事態を何とか収拾させようとします。マチルドからアスガーに電話があり、会話していると、電話の向こうで警官がやってきたことがわかります。しかし、アスガーはその警官の口から驚くべき言葉を聞くことになります。果たしてイーベンを無事保護することができるでしょうか。

デンマークのグスタフ・モーラーが脚本を書き、自ら初メガホンを取りました。カメラは緊急通報司令室を出ることなく、事件は、主人公の電話の向こうで展開します。アスガーが受けた緊急通信から、事件が始まります。設定としては、同様に緊急通報司令室のオペレータが誘拐された女性からの電話を受ける「ザ・コール」という滅法面白い映画と同じなんですが、こちらは、最後までカメラが緊急通報司令室を出ることなく展開するので、舞台限定ということでは、「リミット」「search/サーチ」に近い見せ方になるのですが、単なるサスペンス以上の重めの人間ドラマを設定していて、なかなかの見応えがあります。ただ宣伝文句の「犯人は音の中に潜んでいる」というのは、真に受けない方がいいです。電話の向こうの音から犯人がわかるというミステリーの要素はないですから。それでも、電話の向こうから聞こえる声と音だけで事件は描写されますので、想像力を働かせての映画鑑賞は、なかなかにスリリングです。ラストで、「ああ、そういう話だったのか。」という面白さもあり、劇場での鑑賞をオススメします。

その先の展開については、あまり語れないのですが、この映画のポイントは、主人公のアスガーがどんどん事件にのめり込んでいくこと。もともと、彼は緊急電話を受けるオペレータなので、警察本部へ事件を報告したら、後は向こうの仕事であり、アスガーは事件を捜査したり、犯人を捜す権限はないのです。にもかかわらず、彼は自分からイーベンの家へ電話して、マチルドと話をしたり、挙句の果てには犯人と思しきミケルにも直接電話をかけちゃったりして、かなりやりたい放題。彼の態度の中に、現場の警官よりも自分の方がこの事件をよくわかってると思っている節があるんですよ。だから、警察本部側のオペレータと言い合いになったり、かつての上司に何様な口を聞いて怒られちゃったりします。こいつ、警察組織の中でも浮いてる存在らしいということがわかってくると、電話の向こうだけでなく、アスガー自身も単なるミステリの探偵の立場ではなく、サスペンスの要素として、ドラマをかき回してきます。

モーラーの演出は舞台を緊急通報司令室に限定しても、ミステリーとしての展開の面白さと、ハラハラドキドキのサスペンスを両立させることに成功しています。また、ジャスパー・スパニングの撮影が、シネスコ画面で意外と落ち着いた絵作りをしていたのが印象的でした。特に舞台が限定されていると、画面が単調になるので、やたらアップを増やしたり、カットを細かくしたりして、観客を引っ張ろうとしがちなんですが、この映画では、引きの絵などオーソドックスな絵で役者の演技をしっかりと見せているのが見事でした。ほとんど一人舞台のヤコブ・セーダーグレンの演技でドラマが展開していくのですが、それでもサスペンスが切れないのは、彼の演技もさることながら、演出のうまさが光りました。この内容なら一幕ものの舞台劇にしても、面白いかも。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



イーベンの家に着いた警官は、血まみれのマチルドと、その弟の惨殺死体を発見します。それを知ったアスガーは、イーベンの身が危ないと、電話してきた彼女に、サイドブレーキを引いて車から逃げろと指示しますが、イーベンは逃げるのに失敗。ミケルによって荷台に閉じ込められてしまいます。それでも、アスガーは彼女の電話に、車が停まったらレンガでミケルを殴って逃げろと伝えます。しかし、その会話の中で「息子の中にヘビがいて、苦しんでいたから取り出した」と言い出します。どうやら、イーベンは精神に異常を来していて、息子を殺してしまい、それを知った元ダンナのミケルが彼女を精神病院へ送る途中だったのです。ミケルは弟の惨殺死体をマチルドに見せないために、弟の部屋へ行くなと指示してあったのですが、アスガーがマチルドに弟のところで警察を待てと言ったせいで、マチルドは弟の返り血で血まみれになっていたのです。イーベンは、アスガーの指示とおりにしてミケルの車から逃げ出します。よかれと思って暴走したアスガーの行動は全部裏目に出てしまい、頭を抱えるアスガー。実は、彼は容疑者の若者を射殺していたのですが、それを相棒ラシッドを巻き込んで正当防衛だと偽証していたのです。その裁判が明日に控えていた彼ですが、もう彼には嘘をつき続けることができなくなっていました。イーベンから電話がかかってきました。自分は息子を殺したのかと問う彼女は、自分の罪を認識していて、橋の上から身を投げようとしていました。何とかしてそれを思いとどまらせようとするアスガーは、息子を殺したのは事故だと説得します。そして、自分は人生がいやになって殺さなくてもいい若者を殺して、正当防衛だと嘘をついたと告白します。説得の途中で、アスガーの一報で手配されたパトカーがやってきて、間一髪のところでイーベンは保護されるのでした。事態の収拾を確認したアスガーは司令室を出て、誰かに電話をかけるのでした。その電話をかける彼のロングショットから暗転エンドクレジット。

アスガーのやったことは、ほとんど裏目に出て、事態を悪い方へと進めてしまいます。そのことを知って後悔するのですが、それまで警察本部への連絡もしないまま、自分の電話で事件を解決しようとしているあたりは、彼はかなりの問題警官です。でも、それ以上に若者を殺したことで、裁判にかけられるのが問題で、彼は嘘をついて殺人の罪を逃れようとしていたのです。それでも、彼は最後にはイーベンの自殺を止めることに成功したことで、自分の生きる意味をぎりぎりのところで見出したようで、人生やり直しをするのかな?というところで映画は終わります。一言で言ってしまえば、精神を病んだ母親が息子を殺し、それを知った元夫が彼女を精神病院へ連れていこうとしていたお話なのですが、アスガーがかき回してしまった結果、事態は悪化してしまいます。でも、最後の最後で、彼はイーベンの自殺を食い止めることに成功します。そういう意味ではハッピーエンドではあるのですが、彼は人生に絶望した結果、死ななくていい人間を殺していたのです。それでも、映画の後味が悪くならないのは、未来への希望が描けているからでしょう。アスガーの隠された秘密のミステリーと、誘拐事件のサスペンスを過不足なく描いていて、ドラマとしても見応えのあるものになりました。

「メリー・ポピンズ・リターンズ」を観て「画面がやかましい」と思ったのは、私がジジイになったからかしら。


今回は新作の「メリー・ポピンズ・リターンズ」を川崎の川崎チネチッタ1で観てきました。このスクリーンは劇場前3列は画面をムチャクチャ見上げることになる最低の席なんですが、日曜日で混雑ということもあって、前列にもお客さんが入っていまして、こういう鑑賞になるのをきちんと劇場が説明しているのか気になっちゃいました。私が知らずにシネコンでこんな席を取られたら、そのシネコンへは二度と来なくなっちゃうくらいの座席配置なんですよ、これが。ここを除けばすごくいいシネコンなので、もったいないような気がして。

1934年の大恐慌時代のロンドン。ガス灯番のジャック(リン・マニュエル・ミランダ)がガス灯を消しに回り、ロンドンに朝がやってきます。チェリー街にあるバンクス家では、妻をなくしたマイケル(ベン・ウィショー)が3人の子供と暮らしていましたが、自分の働く銀行から借りた借金の取り立てが来て、金曜日の真夜中までに金を返さないと家を差し押さえられると通告されます。でも、バンクス家には銀行の株券がある筈、そこで、マイケルの姉ジェーン(エミリー・モーティマー)も一緒になって家の中を探し回るのですが、見つけることができません。一方、朝ご飯を買いに出かけた子供たちが、凧に乗って空からやってきたメリー・ポピンズ(エミリー・ブラント)と一緒に家に帰ってきます。マイケルとジェーンは、子供の頃に家政婦として家にいたメリー・ポピンズとの再会にびっくり。だって、彼女、当時と全然変わっていないんですもの。彼女は、3人の子供をしつけるためにも私が必要だから、ここにいますねと宣言。借金で家を追い出されかけているマイケルに家政婦を雇う余裕はないのですが、メリー・ポピンズはそんなの意に介さず、子供たちをお風呂に入れるのですが、浴槽の中には広い海が広がっていて、子供たちはそんな不思議な世界にびっくり。さらに、子供たちが割ってしまった母親の思い出の壺の世界に入り込み、そこで、オオカミたちがバンクス家を乗っ取ろうとしているのを発見します。現実世界では、バンクス家で縁のあった銀行の頭取の甥っ子ウィルキンズ(コリン・ファース)が銀行を牛耳っていて、株券が見つからないことを知って、バンクス家を騙し取ろうとしています。子供たちが返済期限を延ばすようにウィルキンズに直談判に行っちゃうもので、銀行での立場も悪くなっちゃったマイケル激おこ。果たしてバンクス家は長く住み慣れた家を追われてしまうのでしょうか。

前作の「メリー・ポピンズ」から55年後の続編ですって。ジュリー・アンドリュース主演のオリジナルは、高校生の時に、静岡けんみん映画祭というイベントで鑑賞した記憶があります。もう細かいことは憶えていないのですが、子役たちの子供らしい動きとか、「チムチムチェリー」「鳩に餌を」などのペーソスを感じさせる楽曲が印象的でした。また、当時としてはアニメ画面に実写の人間を取り込むというのがすごい技術と言われてまして、その華やかな映像もインパクトがありました。今回は、前作をベースにしていまして、マイケルとジェーンは、子供の頃、メリー・ポピンズの魔法で様々な不思議な体験をしているのですが、それは今は忘れ去られているというか、少なくとも現実にあったこととして認識していないみたいなんです。このあたり、映画の頭に前作のダイジェストでもつけてくれないと、設定がわかりにくいと思うのですが、そのあたりを説明しないので、マイケルとメリー・ポピンスの関係が飲み込みにくい観客もいるのではないかしら。「ネバーランド」「ライフ・オブ・パイ」のデビッド・マギーの脚本は、メリー・ポピンズと子供たちの関係にフォーカスしていて、他の部分はあっさり流した感じでして、ロブ・マーシャルの演出も、過去の経緯には無頓着にお話を進めています。

画家だけど、生活のために父親が勤めていた銀行で出納係をしているマイケルが銀行に借金していて、その期限もわからなくて、週末に家を立ち退かされちゃうってのはずいぶんと呑気なお父さん。奥さんを亡くしてあたふたしてたのお察しするけど、お金のことを奥さんに任せっきりだったというのは、一家の長としてはちょっと情けない。子供たちは普通に育っているのでまあ良かったんだけど、こういう設定だとメリー・ポピンズが再びやってくる理由が今一つ希薄なんですよね。昔躾けた不甲斐ない父親を何とかするためにやってくるなら、わからなくもないんですが、今回は子供が乳母を望んだわけでもないし、押しかけナニーなので、お話の設定がわかりにくくなっちゃいました。前作のように、現実の厳しさだけで子供に接しようとする父親との対立といったお話の軸がないので、メリー・ポピンズの魔法が現実逃避にもならないし、単に子供を甘やかしているだけにも見えちゃうってのはひどい言いぐさかしら。うーん、何ていうのかな、メリー・ポピンズは、子供たちも含めた貧しい人々に夢と希望を与える存在だと、前作を観て思っていたのですが、今回は「何しに来たんだろう」って感じなんです。これは、私が年を取り、子供の心を失って「メリーポピンズ」を楽しめない大人になっちゃったのかもしれませんが、どうもメリー・ポピンズの存在感が感じられなかったのが残念。

後、すごく気になったところがありまして、映像がすごくやかましいのですよ。「NINE」ではシネスコの素晴らしい絵を切り取ったディオン・ビーブの撮影が、手持ちカメラを駆使して、臨場感を出すのはいいのですが、ミュージカルシーンとかが落ち着かない絵になっちゃって、歌やダンスに集中できませんでした。カット割りもやたら細かくて、アップからロングへさらにロングでもアングルを変えてと目まぐるしく変化するので、せっかくのダンスも歌も楽しめなかったんですよ。最近のジェットコースタームービーの編集テンポをミュージカルにそのまま持ち込んだという感じ。アクションシーンの勢いや臨場感を出すのに、細かいカット割りは有効なのですが、それをミュージカルのダンスシーンでやられると、観ている方は何だかムダに疲れちゃう。せっかくの群舞もじっくり見せてくれないし、1カットが短すぎて、何が映ってるのかわからないようなカットもあり、ロブ・マーシャル監督も、アメコミ映画に感化されちゃったのかと言ったら言い過ぎかしら。

さらに、マーク・シャイマンによる楽曲も前作に比べると印象に残るものが少なくて、「チムチムチェリー」「鳩に餌を」といったしっとりと歌い上げるものがなかったせいか、メリハリを欠いてしまったように思います。前作を観たのが30年以上前なので、思い出補正がかかっているのは認めちゃうのですが、何か物足りなくない?って思えてしまったのですよ。大恐慌時代と字幕に出るのに、貧しい人々は登場せず、お金に困っている筈のバンクス一家もでかい家に住んでいるし、何かこうフワフワしているんですよ。別に貧乏くさい映画を作れと言ってるわけではないんですが、前作にあった、お金持ちの子供たちと対照的に描かれる貧乏な市井の人の存在感がないのは、やっぱり物足りなく感じちゃうのですよ。

アニメと実写の人間の合成は当然のことながら、ものすごくスムースなのですが、どうせCGなんでしょって思うと、前作のような驚きを感じることは難しいです。でも、この映画に盛り込まれた趣向は、前作でやったことをスケールアップして見せようという意図が感じられます。また、前作をかなり意識したところがありまして、クライマックスで前作の主演のディック・バン・ダイクが特別出演したり、タイトルバックの絵は、前作の特撮を担当したピーター・エレンショーのマットペインティングを元に描いたと字幕が出たりします。さらに、アンジェラ・ランズベリーがご存命でラストで登場するのもうれしい趣向ですし、そういう作り手のサービスを楽しむこともできるのですが、でも、それなら前作をもっと説明してもいいんじゃないのと思うのですが、この映画はどういう世代をターゲットにしているのかなあ。

演技陣は、ヒロインを演じたエミリー・ブラントに歌って踊れる以上の魅力を感じられなかった(好きな方にはごめんなさい)のですが、脇の面々がなかなかよくって、ごひいきエミリー・モーティマーは時として、子供のような表情を見せるときがあり、それが前作とのつながりを感じさせる名演でしたし、ピーター・ファースが、大して悪い奴ではない男を、敵役のように演じて見せたあたりもお見事でした。ジュリー・ウォルターズやデビッド・ワーナーといったベテラン勢も手堅く脇を固めました。パパであるマイケルを演じたベン・ウィショーは、前作の男の子が大きくなったという設定に説得力を与える演技で好演していますが、その分、父親としてはどうなの?という部分が良くも悪くも曖昧になっちゃったのが残念でした。とはいえ、2時間10分という長さを感じさせずに一気に見せちゃうパワーのある映画なので、ご覧になってモトは取れる映画になっています。でも、メリー・ポピンズのお話で、2時間以上を一気に見せる必要はないんじゃないのという気もしました。こういうお話なら、もっとゆっくり読み聞かせるような演出でもいいと思うのですが、それだと若い子が退屈しちゃうからダメなのかなあ。何ていうのかな、ゲームのように次々と敵やイベントが登場しないと、観客がついてこれなくなってきているのかなって気もしてきて、ちょっと考えさせられてしまいました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



結局、株券は見つからないまま金曜日の夜を迎えてしまいます。荷造りをしてジェーンのアパートに引っ越すことになるバンクス一家。末息子が自分で修繕した古い凧を持ってくるのですが、そのつぎはぎをした紙がなんと探していた株券でした。でも、約束の期限が迫っていて、銀行へ12時までに持っていかないと家は取り戻せなくなっちゃいます。ジャックとその仲間が自転車をビッグベンへ走らせて時計の針を遅らせようとしますが、やっぱり間に合わない、間一髪メリー・ポピンズが空を飛んで時計の針を遅らせることに成功し、マイケルは、12時の鐘が鳴る前に、凧ごと株券をウィルキンズのもとに届けます。つぎはぎの紙を剥がして株券の形にするのですが、サインの部分の紙が見当たりません。もはやこれまでかとあきらめるマイケル達の前に、かつてのマイケルの父の友人であるドース氏(ディック・バン・ダイク)が現れて、甥っ子をクビにして、マイケル達の借金がかつての投資によって完済できることを教えてくれるのでした。全てが丸く収まってめでたしめでたし。一家そろって春祭りに出かけるとそこには風船売り(アンジェラ・ランズベリー)がいて、彼女が風船を渡すと、マイケルやジェーン、子供たちが空に舞い上がります。町の人たちも空に舞い上がるのでうsが、ジェンキンスだけは無理だったみたい。家に帰ってくると、桜の花が満開で、突然ドアが開いて桜吹雪が舞い上がります。その時が来たと認識したメリー・ポピンズは、再び空へと帰っていくのでした。暗転、エンドクレジット。

クライマックスは勢いで盛り上がるのですが、ジャックやその仲間が頑張って時計を遅らせようとしてダメかと思ったら、メリー・ポピンズが空飛んで、時計の針を止めるというのは、何だか拍子抜け。だったら、ジャックたちに頼らずに、最初からメリー・ポピンズ飛べよって思っちゃいました。株券のサイン部分が足りなくて、もう駄目だと思ったら、ドース氏の突然の登場で形勢逆転というのも、何だか都合よ過ぎ。脚本が息切れしちゃったような強引なハッピーエンドは、何だかうーんって感じ。ここも結末はあやふやになりがちな、ノンストップアクション映画みたいで、何か荒っぽいんですよね。細やかさが足りないって感じ。さらに、メリー・ポピンズが去っていくのも唐突で強引。最後まで観ても、今回、メリー・ポピンズは何しに出てきたんだろうってところはよくわからないまま。そういうところを一切気にさせない作りならいいのですが、この映画、そういうツッコミが出るくらいにはユルい展開なので、観た後味は微妙になってしまいました。私には、役者を楽しむ以外は楽しめるところの少ない映画だったのが残念。前述のようにせめて歌と踊りの部分が楽しめなかったのが痛かったですが、その辺りは好みの問題になりましょう。実際、他の方のレビュー拝見すると評判いいですからね。でも、私にはあまり相性が良いとは言えなかったようです。

「フロント・ランナー」は実録ものだけど、色々と考えさせられるところが多くて、ドラマとしても面白い。


今回は新作の「フロント・ランナー」を川崎のTOHOシネマズ川崎1で観てきました。ここはキャパの割に画面サイズもあり、シネコンタイプの座席配置ながら、観易い映画館になっています。2週目から1日1回の上映というのは、ちょっと扱い悪くないの? ジャックマンが来日してプロモーションしてたのに、アメコミ映画じゃないとこういう扱いなのは気の毒な気も。

大統領選挙で、有力候補と言われていた民主党のゲイリー・ハート上院議員(ヒュー・ジャックマン)は、積極的な選挙活動を行っていて、彼の革新的な政策は若い国民の支持を取り付けつつありました。そんな彼の弱点としてあったのが、長年連れ添った妻リー(ヴェラ・ファーミガ)との別居問題でした。そのことについて切り込んだワシントンポストの記者に激高したゲイリーは「自分を尾行したけりゃ尾行すればいい」と啖呵を切ります。一方ヘラルド紙の記者トムはハート議員はワシントンで女と会っているというタレコミを受け、ワシントンの自宅へ向かったところ、彼が自宅に若い女を連れ込むのを目撃。トムはカメラマンを呼んで張り込みを開始、写真を撮り、出てきたゲイリーからコメントを取ることにも成功します。女性の身元も確認できていない状況でしたが、ヘラルドはそれを記事として日曜版の一面に載せます。その結果、リーの別居先にはマスコミが押し寄せ、選挙事務所は対応に追われることになります。当の本人は、この事態をさほど重大視しておらず、政策の演説の内容の方が気懸りという状況に、選挙参謀のビル(J・K・シモンズ)は時代が変わって今はそれでは通らないと言います。一方で、厳密に裏を取らずに記事にしたヘラルド紙の姿勢も批判の的になりますが、ゲイリーはこのスキャンダルについての記者会見を開かざるを得なくなるのですが、その結果は彼の支持を取り戻す決定打にはならず、彼は大統領選立候補を辞退することになってしまうのでした。

1988年の大統領選挙の前哨戦で、有力候補のゲイリー・ハート上院議員に女性問題のスキャンダルが発覚し、立候補辞退に追い込まれた事件を映画化した実録ものの一編です。マット・バイの原作から、バイとジェイ・カーソンとジェイソン・ライトマンが脚色し、ライトマンがメガホンを取りました。ジェイソン・ライトマンという監督の名前はこれまであまりピンとこなかったのですが、この人「JUNO/ジュノ」「ヤング≒アダルト」「とらわれて夏」「タリーと私の秘密の時間」といった面白い映画をたくさん手がけていたのに、今回、初めて意識しました。目のつけどころの面白い人だけに、実録もの以上の面白さがあるかもという期待があってスクリーンに臨みました。その期待は裏切られず、発見のある映画に仕上がっています。ただ、題材的には地味ではあるのですが。

映画の前半は、ハートの選挙事務所や、ワシントンポスト、ヘラルド紙の会議室のシーンが続きます。たくさんの人間の会話の応酬のなかから、当時の状況が見えてくるという演出はなかなかにスリリングです。この映画は一応ゲイリー・ハートが主役ではあるのですが、彼が主役らしさを見せるのは後半になってからで、それまでは群像劇のように物語が推移していきます。多くの登場人物がそれぞれ印象に残るような演出が施されていて、その時代の空気と、作り手の伝えたいことがじわじわとあぶりだされるような構成になっているのが面白いというか、うまい映画です。ゲイリー・ハートがどういう政策を持っていて、どういう女癖だったのかといったことはほとんど描かれないので、女性でしくじった政治家のお話ではありません。それより、彼を追うジャーナリズムの方が丁寧に描かれていまして、この事件が、政治家がそのプライバシーによって資質を問われるようになる転機となったらしいのです。映画スターのスキャンダルを追いかけるパパラッチが政治家をターゲットにするようになり、政治家のゴシップが国民の興味と批判の対象になり始めた時代を記録した映画ということになるのかしら。

それまでの政治家はその政治能力によって評価され、その専門分野で秀でていれば、私人の部分で、政治家の資質を問われることはなかったのですって。ケネディ大統領が誰と浮名を流そうが、それによって大統領としての彼が否定されることはなく、ジャーナリズムもその切り口で彼を責めたてることはしなかったのに、ニクソンの時のウォーターゲート事件あたりから、公務以外の行動で、その品格を問われるようになったらしいというのが、この映画のセリフの端々からうかがえるのですよ。なるほど、大統領の犯罪をジャーナリズムが暴いた時、その政治能力だけで、大統領を評価できなくなる。さらに大統領選挙がイメージ戦争になってきたこともあるのでしょうが、政治家のプライバシーが報道の対象としての重みを増してきたときに起きたのがこの事件だということらしいのです。当のゲイリー・ハートは世間の流れの変化に気づいておらず、今までの考え方で女性問題を乗り切れると思っていたのですが、そうはならない。ワシントンポストの主幹も、昔ならハート議員の女性問題をスルーすることもできたが、今はウチだって書かなければ非難される時代になったのだと言います。

ハート議員は、演説で倫理道徳を説いていましたが、そのことと自分の浮気は別物として、矛盾しないで両立していました。それまではそれで通ってきたから、今度もどうってことないやと思っていたのですが、そのスキャンダルは、彼のスタッフや支持者の失望させるに十分でした。奥さんからボロクソ言われると、殊勝に反省の言葉を口にするハート議員ですが、記者会見では結構強気の発言をしちゃって墓穴を掘ってしまうのですが、なるほど、こういうあたりの公私の線引きが昔の不文律だったんだなあと納得するとともに、大統領が個人として犯罪に加担したウォーターゲートの影響が、ジャーナリズムのスタンスを変えたんだなあってのは、結構な発見でした。

また、この映画の中では、女性が印象的なポジションに配されています。議員の奥さんもそうですが、選挙事務所の女性スタッフですとか、ワシントンポストの副編集長といった面々が男性中心の社会に対する疑問を投げかける役どころです。さらに、ハート議員の浮気相手をきちんと描くことで、今と違う時代の空気を感じさせるのがうまいと思いました。新聞にスキャンダル記事が載っちゃうと、浮気相手のドナは議員の家に軟禁状態にされちゃいますし、ハート議員も選挙スタッフも彼女のことなんか気にも留めません。女性スタッフがそんなドナへの扱いに疑問を呈するところが大変印象的でした。男性スタッフのゲスな愛人扱いの視線に、ドナが憤るシーンとかは、20世紀ってのはそんなもんだったんだなあってのが伝わってきて、日本もアメリカも似たようなものだったんだってのはちょっとびっくり。そんな時代に比べたら、今の方がいい時代だと思う一方で、この映画では、その今に対しても疑問を呈しています。

この映画のプログラムを読むと、このゲリー・ハートという人は政治能力に長けていて、この人が大統領になっていたら、対ソ政策、中東政策、経済政策などで、もっとマシな対応ができていただろうにっていうメッセージがあるんですって。今のアメリカがこうなったのには、ハート議員のような有能な政治家をつまらないスキャンダルで潰してしまったこともあるんじゃないかってことらしいです。私は彼の政治家としての実績はよく知りませんし、この映画でもそこは描かれないので何とも言えないのですが、そんなの理想を説いて大統領になって現実を対処したら、妥協をいっぱいするだろうから、そううまくはいかないと、私は思ってしまうのですが、作り手には、ブッシュやトランプよりはマシだったんじゃない?って思いがあるみたいです。それっていわゆる「もしも」の世界ではあるので、事情をよく知らない私には「ふーん」って感じで、あまり響いてきませんでした。

それでも、プライベートなスキャンダルが、その人の本業の評価をも変えてしまうというところに疑問を呈しているところは、共感できるものがありました。誰だって長所と短所を持っているので、長所の部分を認めてその部分で活躍してもらわないと、人間を有効活用できないと思いますもの。仕事のできる人がよき家庭人でないからと言って、仕事の業績を貶めるのは、私はよくないことだと思っています。逆に仕事ができない人が、よき家庭人だったとき、仕事ができないという理由で全人格を否定されてボロクソ言われるのも変。でも、人は他人の噂が大好きで、悪い噂を見つけたら、それをみんなで寄ってたかってバッシングするのも好きというところもあります。昔なら、どんなジャンルでも、いわゆる「先生」と呼ばれる人には、とりあえず敬意を表して、その人の業績に頭を下げていたのですが、今は、平等意識が行き渡っているので、同じ人間としてアラ探しをすることが正当化されてきています。それはそれで、裏で悪いことをしている人を正当に評価することにつながるので、必ずしも悪いことではないのですが、でも、大きなことを為すときに、枝葉末節にこだわりすぎることの問題も改めて再認識させる映画になっています。だから、どうすりゃいいんだという明快な回答を出す映画ではないのですが、人間(ハート議員)にも物事(ジャーナリズムのあり方)にも長所と短所があるってことを再確認する映画として、この映画は一見の価値があると思います。

群像劇を支える演技陣はみな好演ですが、スキャンダルを記事する記者を演じたスティーブ・ジシスやワシントンポストの主幹を演じたアルフレッド・モリーナがよかったです。また、特に印象に残ったのは、選挙事務所の女性スタッフを演じたモリー・イフラムと浮気相手ドナを演じたサラ・パクストンで、この二人のシーンがあったことで、映画にぐんと重みと深みが出たように思います。ベイトマンの演出は、たくさんの人で物語を描く中で、人間をきちんと描き分けたところに演出力を感じました。普段は、脇でアクの強い演技をするJ・K・シモンズが群像ドラマのパーツとしてしっかり収まっているところに、監督の見識を感じました。色々細かいところも含めて見所の多い映画なので、機会があれば一見をオススメしちゃいます。

「バハールの涙」はハードな現実を女性目線で描いたところに不思議な味わいの女性映画。


今回は、東京での公開が終了間近な「バハールの涙」を銀座のシネスイッチ銀座2で観てきました。ここはその昔は銀座文化という名画座だった映画館でした。(その前身までは知らないです。)でも、今は椅子もいいし、スクリーン位置も高く、場内がフラットでも観易い映画館です。

フランスの戦争記者マチルド(エマニュエル・ベルコ)は、同じジャーナリストの夫の死を聞いたその直後、ISと戦うクルド人勢力の取材に出かけます。そこには女だけの部隊がいました。彼女たちはISに拉致されて奴隷として売られていたのを脱出した女性たちで構成されていました。その隊長であるバハール(ゴルシフテ・ファラハニ)は、ヤスディ教の信者で、イラク西北部のシンジャル山岳地帯で、夫と息子と暮らしていました。ある夜ISの襲撃を受けます。男たちはその場で殺され、女と子供はまとめて連れ去られ、女たちは性的虐待をされ奴隷として売られてしまったのです。しかし、クルド人自治区の代議士の尽力で、脱出することに成功したバハールは自由になった後、行方不明の息子を救出するために女性だけの部隊に参加したのです。前線での取材を続けるマチルドに、バハールはここの真実の伝えて欲しいと言います。そして、襲撃してきたISのメンバーから、ある情報を得て、作戦に移ることになるのですが......。

フランスの女性監督エヴァ・ウッソンがジャック・アコティの協力を得て脚本を書き、メガホンを取りました。2014年に起きたISによるシンジャル山岳部隊への侵攻をベースに、実際に存在する女性部隊を題材にしたドラマです。ISを扱った映画ですが、その蛮行よりも、拉致された女性たちによる部隊にフォーカスしているので、残酷シーンやショックシーンを前面に出したものではありません。ISの蛮行が描かれはするのですが、作り手の視点は、あくまで女性部隊にあります。男たちの部隊も登場するのですが、その影は薄くって、ISの刺激的な映像を出すことを極力避けて、映像的に美しい絵を切り取ったりしていることから、リアルな戦争映画とは一線を画す映画に仕上がっています。一方で、女性ジャーナリストの視点を盛り込むことで、これが現実にあったことだという見せ方をしています。

ISの蛮行については多くのメディアで語られていまして、イスラム教ってヤバい宗教なんじゃないのというイメージが広がったのも事実です。イスラム教は、女性をないがしろにしろとは言っていないのですが、男性が上位にあると明確に謳っているそうなので、その延長で女性を見下したり、支配することに抵抗がないのかなという気がしています。さらに、異教徒に対する否定的な教えと、女性蔑視が結びつくと、バハールのようなヤスディ教の女性なんて、煮るのも焼くのも好きにできるくらいに思えちゃうのではないかしら。これはムスリムに対する偏見かもしれません。でも、どんな宗教であれ、原理主義者は異教徒に対してムチャするってことは過去の歴史から見て容易に想像がつきます。一方で、この映画では、ムスリムが女性に殺されると天国に行けないらしく、その分、女性部隊を怖れているらしいのですよ。日本でも、男尊女卑は制度的にもずっとありましたから、女性に負けたり、屈することは恥だと思う文化があります。ただ、宗教のような人間の首根っこを押さえる文化ではなかったことが幸いして、女性の台頭に対する抵抗は、他の国よりも少なかったのかなって思っています。あくまで、程度の違いの問題ですが、国家神道が、男性優位を明確に謳っていたら、今の日本はもっと女性にとって息苦しい国になっていたんだろうと思います。戦前の国家神道の考え方は、まだ日本の文化として根深く残っていると考えるからです。(とは言え、国家神道ってのは実は新興宗教なんですが)

戦争状態になった時、男を皆殺しにし、女を奴隷にし、子供は兵士に洗脳するなんてのは、旧約聖書の世界みたいなんですが、それが現実に起こっているという怖さは堪らないものがあります。それを知ってもどうすることもできないという正直な諦観もあるのですが。一方で、当事者であり、実際に虐待された女性たちが、対ISの兵士として立ち上がるというのはすごいことだと思います。この映画でも、女性部隊の存在に肯定的であり、彼女たちの存在は、そこに暮らす女性たちの希望となるという見せ方をしています。日本だったら、母親が銃持って相手を殺しまくるのを肯定的に捉えることはないでしょうから、歴史や文化の違いを感じる一方で、現在進行形で女性が虐待され続けていることを知ることの重要性を感じさせる映画でもありました。弁護士だったバハールが銃を持って戦闘部隊の隊長になっているということからして、そこで何があったのかを想像するのは難しいことではありません。以前、民族浄化を扱った「あなたになら言える秘密のこと」という映画で、ヒロインはずっと傷を抱えたままでいたのですが、この映画のヒロインは自ら銃を取って戦う強い女性として描かれています。どちらがどうという話ではないのですが、どちらも現代の話であり、彼女たちを虐げた人々(男たちと言い切っていいのかも)がいたということの記録になっていると言う点で、存在価値のある映画になっています。その時に重要になるのがジャーナリズムの存在でして、マチルドは「ワンクリックされるだけでスルーされる」と自虐的に言うのですが、その事実を語り継ぐためのジャーナリズム引いてはメディアの重要性を説く映画にもなっています。「あなたになら言える秘密のこと」の中のキーワード、「「レイプ、虐殺、民族浄化、みんな、いつか忘れ去られる」がこの映画にも当てはまります。バハールたちの存在を、命がけで取材するマチルダのようなジャーナリストがいなければ、それはなかったことになってしまう。事実を記録することがどんなに歴史の中で重要なことなのかは、ネットと監視カメラで世界が筒抜けになってきた今だからこそ、見直す必要があるのではないかしら。さすがに戦地でカメラを回すことはできない私たちでも、それらの記録に目を向け、事実が曲げられたり、歪んだプロパガンダに使われないように監視することは必要だと思います。

主演のバハールを演じているのは「彼女が消えた海」のイラン人女優ゴルシフテ・ファラハニで、フランス映画 「チキンとプラム」などを経て、最近ですと 「パターソン」や「パイレーツ・オブ・カリビアン」にまで出ている国際女優ですが、強い意志を持った美人さんです。この映画でも、酷い目に遭ったけど、強い意志でそれに立ち向かう女性を、兵士と母の強さと女性の弱さを共存させたキャラで熱演しています。一方の女性ジャーナリストのマチルダは、取材時に片目を失い、夫も地雷の犠牲になり、フランスに幼い娘を残してきたという、記者と母の強さに合わせて夫を亡くした女性の弱さを抱えている境遇です。この二人の似たような境遇がお互いに共感するという設定になっています。ここはドラマとして、女性を前面に出し過ぎじゃないの?って男目線では思ってしまうのですが、でも、この映画は女性による女性のための女性目線の映画ですから、そうなるのは自然の成り行きでしょう。それが悪いかというとそうは思えませんで、大体、戦争を題材にした映画は、男性による男性のための男性目線の映画がほとんどですから、戦争に巻き込まれる人間の半分が女性だとするなら、こういう映画はもっと出てきてよいと思うからです。この映画のような視点の映画が少ないのは、ホントはバランスが悪いんじゃない?ってところに気づかされる映画でもありました。

ウッソンの演出は、戦闘シーンでも、男性監督とは一味違う演出をしていまして、戦況を俯瞰的に捉えるのでもなく、兵士目線でもなく、そこに居合わせた目撃者のようなカメラワークになっているのがちょっと新鮮でした。また、ISの男性であれ、友軍の男性であれ、どこか存在感が希薄なのが印象的で、男性を背景に押しやることで、虐げられてきた女性の戦士にフォーカスが当たるように見せた演出は、どこか寓話的な印象を与えてしまうところがあって、一長一短という感じでしょうか。



この先は、結末に触れますのでご注意ください。



襲撃してきたISの兵士を捕虜にしたら、彼から敵の本部は撤退していて、学校に自爆兵と子供たちが残されているというのです。そこで、バハールが連合軍の爆撃を待たずに攻撃すべきだと進言し、作戦が決行されることになります。マチルダもその作戦に随行することになります。女性部隊が先陣を切り、捕虜に先導させて地下道を進みますが地雷が爆発し、バハールの片腕だった兵士が死亡。地下道を抜けると敵兵士と市街戦になります。そして、一晩待機して、翌朝学校へ向かいます。犠牲を出しながらも、学校へ突入した彼女たちは、そこにいた子供たちを解放します。さらに、学校の上階へ向かったとき爆発が起こり、バハールもマチルダも吹っ飛びます。そこへバハールの息子が現れ、彼女は意識を取り戻します。作戦は終了し、負傷したマチルダはトラックに乗って国へ還ることになります。バハールは息子と一緒に彼女を見送ります。走るトラックの荷台のマチルダを長回しにで捉えるところにクレジットが被さって、暗転。おしまい。

戦場のシーンの要所要所で、バハールの回想シーンが挿入され、拉致されて、性的虐待を受け、奴隷として何度も売られたという過去がわかってきます。そして、クルド人の拉致女性を支援する女性議員へ連絡をとって、彼女の手引きで同じ境遇の女性と子供を連れて脱出することになります。イスラムの礼拝の時間を使っての逃亡劇はスリリングでありますが、ここも逃亡を助ける男性の影は薄く、一緒に逃げる女性や女性議員との絆の方が協調される演出です。男目線だと、つくづく男性の存在感が薄い映画なんですが、普通の戦争映画を女目線で見ると女性の存在感が希薄で、女性にとっては共感しにくいのかもしれないってことに気づかされる映画でもありました。女性映画ということになるんでしょうけど、なぜこの映画は女性映画なのか、そもそも女性映画って区別はそれ以外は男性映画なのか、って考えると、面白い発見のある映画だと思います。

「天才作家の妻 -40年目の真実ー」は夫婦の秘密についてのスリラーなのかな。グレン・クローズの演技がすごい。


今回は新作の「天才作家の妻 -40年目の真実ー」を、有楽町の角川シネマ有楽町で観てきました。以前、シネスコサイズの映画をビスタサイズの画面のままで上映していて、もうここは来ないと思っていたのですが、この映画はあまり上映館がなくて、仕方なく足を運んだのですが、シネスコサイズの映画は、きちんとシネスコサイズの画面で上映するように戻っていて一安心。渋谷のル・シネマや恵比寿のガーデンシネマはどうなってるのかなあ。

有名な作家ジョゼフ・キャッスルマン(ジョナサン・プライス)はスウェーデンからの電話に起こされます。そして、寝起きの彼にノーベル文学賞受賞の一報が届きます。妻のジョーン(グレン・クローズ)と共に受賞を喜ぶジョゼフ。二人は息子のデビッド(マックス・アイアンズ)を伴って、授賞式のためにストックホルムへと向かいます。行きの機中で記者のナサニエル(クリスチャン・スレーター)が声をかけてきますが、ジョゼフは伝記を書かせるつもりはないと追い返します。息子のデビッドは小説家なんですが、偉大な父親からきちんと認められていないのが不満みたいです。もともと、妻子持ちの教授と生徒の関係だった、ジョゼフとジョーンですが、恋に落ちた二人は結婚し、その後、ジョゼフの小説が売れて、一躍、現代文学の第一人者と呼ばれるようになったんですって。もともと物書き志望だったジョーンですが、当時の女流作家がまともな扱いをされない時代だったということもあって、ジョゼフの妻としてずっと彼を支えてきたのです。でも、ジョゼフは女癖がよくなく(そもそも、妻子がいたのにジョーンにちょっかい出したし)、ジョーンとの結婚後も何度も浮気を繰り返していたのですが、それをジョーンは耐えてきたのでした。それでも、ジョゼフはジョーンを必要欠くべからざる存在として認めていて、彼女も夫を愛していました。一人でホテルを出て行こうとしていたジョーンにナザニエルが声をかけ、バーへ飲みに誘います。伝記を書きたいナザニエルはジョーンに色々と聞き出そうとしますが、核心をはずして、うまくやりすごすジョーンですが、ナザニエルはジョーンにとんでもないことを言い出すのでした。

アメリカの作家メグ・ウォリッツァーの小説を、テレビの脚本で実績のあるジェーン・アンダーソンが脚本化して、スウェーデンの舞台・映画の監督であるビョルン・ルンゲがメガホンを取りました。文学者であるジョゼフとその妻ジョーンが、ノーベル文学賞の授賞式でストックホルムに行き、そこで起こる事件を描いたドラマでして、何年も連れ添ってきた夫婦の会話を中心に展開するドラマは、夫婦の間の秘密を軸にして、ミステリアスに、そしてスリリングに展開していきます。これが、大変面白くて見応えのある映画でした。主演の二人、特にグレン・クローズの演技がすごくて、色々と想像の膨らむラストまで、一気に観客を引っ張っていきます。一応夫婦愛はあるんですが、その先の想いの部分の見せ方はスリラーのようでもあり、クライマックスなんてゾクゾクするものがありましたもの。

映画の冒頭では、二人の関係は長年連れ添った夫婦として、そこそこ良好のように見えます。ノーベル賞受賞にはしゃぎ気味の夫に対して、冷静な妻ではあるんですが、あくまで夫を立てる妻のポジションであり続けます。それはストックホルムについてからも同じで、特には折り合いのあまりよくない夫と息子の間に入ったりといった良妻賢母ぶりを見せます。夫のジョゼフは、文学者としては立派なんでしょうけど、妻のジョーンが一緒でないとどこか心細く感じるところがあるようで、そんな夫にジョーンはうまく合わせているようです。若い頃は調子こいていたダンナが、年を取ったら、何だか頼りなくなって奥さんに依存しちゃうなんてのは、日本だとありがちな気がしてたのですが、アメリカの夫婦もそういう感じになるのかなってところが面白いと思いました。そこには夫婦の力関係みたいなものがあって、すごく社会的に立派な夫ではあるんですが、夫婦間でのステータスは実はそんなに高くないみたいなんですよ。そのあたりを、説明的にならずに、普通の日常会話のレベルから垣間見せるルンゲの演出は見事でして、その演出に応えたプライスとクローズの演技も素晴らしかったです。

妻のジョーンからしてみれば、過去の経緯から色々とたまっていたものがあったようで、そのイライラがノーベル賞の受賞で爆発しそうになるというお話なんですが、それまで夫婦関係はそこそこうまく続いてきたみたいなんですよ。何度も浮気を繰り返すダンナにそれを許してきた妻みたいな関係があったんですが、そこにずっと溜まっていたものが両方にあったらしいってことが後半わかってきます。奥さんが主人公の映画なので、お気楽なダンナだよなあってイメージが強いのですが、ダンナにはダンナなりの鬱屈があったということも見えてきます。だからって、浮気の言い訳にはならないから、やっぱりダンナに分が悪いのかな。ともあれ、長年ずっと当たり前のように続けてきた関係が、ノーベル賞受賞というビッグなイベントをきっかけに堰が切れてしまうのです。ノーベル賞受賞式までの数日間というドラマの中で、二人の積み上げてきた人生を垣間見せるという構成が成功していまして、要所要所に挿入される回想シーンも含めて、舞台劇を見るような濃密なドラマに仕上がっていて、見応えがありました。映画館でじっくり腰を据えて観て楽しむ映画だと思いますので、できるだけ劇場で鑑賞することをオススメしちゃいます。

ルンゲの演出は、主演二人の演技を捉える時、妻のジョーンを画面の中央に置いたり、ライトを強めにあてたりと、舞台劇のような演出をしているのが面白く、また文学者としての苦悩とか葛藤といったものを一切見せずに、回想シーンも含めて夫婦間の関係だけで映画を見せ切ることに成功しています。また、「アイズ・ワイド・シャット」の秘密クラブの音楽を手掛けて、一部の人に知られているジョスリン・プークがイギリス室内楽団を使って、マイケル・ナイマンを思わせる現代音楽で、画面を支えているのも印象的でした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



もともとは生徒と教師の関係だったジョーンとジョゼフだったのですが、実際に文才があったのはジョーンの方だったのです。ジョゼフは着想はいいのだけれどそれを文章に組み立てるのが苦手。才能もあるし、物書きとして身を立てたいと思っていたジョーンですが、1950年代は女性が作家として名をあげることが難しい時代でした。そして、ジョゼフの書いた小説に、ジョーンが感想のありのままをぶつけたら、ダンナ意気消沈。そんなジョゼフを励ます意味も込めて、彼の小説を自分がリライトすることを提案、するとその小説が売れ、その後もずっとジョーンがダンナのゴーストライターになっていたのでした。着想はいいけど、その先をものにできないダンナに替わって、ジョーンはずっとタイプの前で執筆活動をしていたのです。ジョーンとジョゼフの過去の小説を読み、記者のナサニエルは、ジョゼフの作品がその妻の手によるものだということを見抜いていました。ダンナの浮気への怒りこそが彼女の執筆のエネルギーであったのですが、ジョゼフの方も、自分のものでない作品で、文学者としてあがめたてまつられることに負い目を感じてはいました。でも、ジョゼフはいつしかその関係に慣れてしまい、ノーベル文学賞の受賞を素直に自分のことのように喜んでしまっていました。それもあって、スピーチで妻へ謝辞はやめてくれと、ジョーンはジョゼフに頼むのですが、晩餐会のスピーチでジョゼフは、ジョーンの内助の功を褒めたたえるスピーチをしたものだから、ジョーンは切れて、会場を去り、それを追ったジョゼフとホテルで大喧嘩となります。その喧嘩の最中にジョゼフは持病の心臓が悪化し、そのまま帰らぬ人となってしまいます。スウェーデンからの帰りの飛行機で、ジョーンはナサニエルに「あなたの思っているようなことはなかった。勝手なことを書くと只では済まさない。」ときっぱりと告げます。そして、息子に「家に帰ったら全てを説明するから」と言います。一体、彼女はどんな物語を息子に話すのでしょうか。飛行機の座席、一人ほくそ笑むジョーンから暗転、エンドクレジット。

後半の怒涛の展開が大変面白かったです。ジョーンが、スピーチで自分への謝辞は言わないでと何度も頼んだのに、ダンナは妻がいたから作品を書くことができたとしゃあしゃあと言ってのけます。このスピーチの最中のジョーンの憎悪に満ちた顔が最高でして、グレン・クローズの名演技が光りました。ダンナだって、妻がゴーストライターであること、自分が妻ほどの文才がないことを引け目に感じていたことは事実なのですが、その一方で妻がどういう思いでこれまでいたのかについては、まったく無頓着だったようなのです。そこへもたらされたノーベル文学賞のニュースに、我がことのように浮かれるダンナに、ジョーンの堪忍袋の緒が切れたというふうに見えました。こういう関係で夫婦やってたら、どっちかに無理がきて、いつかは破綻しちゃんだろうなあ。この夫婦の場合、最初は妻にゴーストライターをさせることに負い目や葛藤もあったのでしょうが、長年やってるうちにそれが当たり前になってしまって、とりあえず世間的には自分が文学者なんだと、ダンナ自身が信じ込んでしまったみたいなんです。それはなぜかと言えば、そう信じた方が、周囲にちやほやされても、無駄に劣等感に悩むこともないし楽だから。さらに、世間のくれる文学者というステータスがあった方が、女性にももてるから。そんな楽な方向へ流されて行ったとき、妻がどういう気持ちでいるのかは考えたくないというエゴイズムは、不愉快だけど理解できるものがあります。妻のおかげで、いい暮らしができて、女にもてて、ノーベル賞もらえる。それを素直に受け入れてどこが悪いのか?という感じは、凡人の私には何かわかるんですよね。でも、妻の方は、浮気性のダンナへの怒りを文学に昇華してきたわけで、それを当たり前のように扱われ、さらには物書きを支えるよき妻としての謝辞を言われたら、そりゃブチ切れるわな。そのあたりの長年に渡る夫婦の機微を、数日間のドラマで見せちゃうあたりは脚本のうまさでしょう。ダンナに対して愛情もあるし、だからこそゴーストライターもやり、よき妻を長年に渡って演じてきたのですが、さすがに今回は忍耐の限度を超えてしまったようです。

そんなダンナが、ポックリと逝ってしまったことは、ジョーンにとっては大変なショックではあるのですが、それは長年の、自分とジョゼフが共犯関係で作り上げた呪縛からの解放でした。単に一方的被害者であったなら、もっと早くにこの関係を終わらせることもできたんでしょうけど、自分から提案してゴーストライターになってしまったので、自分からそれを暴露することもできない、でも、そのことに夫は無頓着で女性と見ればちょっかいをだしている、そんなフラストレーションをため込んでいた状況から、彼女は突然自由になりました。ラストで、彼女は自分の人生を自分の言葉で生きていく決心を決めたように見えます。自分のついた嘘によって、身動きが取れなくなっていた彼女が、新しい一歩を踏み出すことは喜ばしいことではありましょう。もともとが正直者なのでしょうね、ジョーンは。だからこそ、自分のついた一世一代の嘘に人生を食いつぶされそうになっちゃったのではないかしら。これが、根っからの嘘つきだったら、自分のついた嘘をあっさり裏切って、ジョゼフのもとから去っていくこともできたでしょうに。そう考えると「ロースの秘密の頁」と同様の、すごく気の毒な人生を送った女性が、晩年に入ってやっと救いが見えてくるというお話なのかも。

「マイル22」はCIA特殊部隊のド派手アクションに目の付け所の面白さも。


今回は新作の「マイル22」を川崎の川崎チネチッタ1で観てきました。ここは、最前列は画面が見えないのですが、普段売ってるのかなあ、うっかり買っちゃったら、チネチッタに二度と来なくなっちゃうよなあ。車椅子席も反則すぎるし。

CIAの特殊部隊が、アメリカの住宅街の中にあるロシアのスパイの隠れ家(セイフハウス)を押さえようとします。作戦は順調に進んだのですが、相手の思わぬ反撃に、スパイの確保から殺害に指示が変更され、特殊部隊側にも負傷者を出しながら、そこにいたロシアのスパイ全員を射殺します。その後、チームはアジアのインドカーという国のアメリカ大使館で、盗まれたセシウムの捜査をしていました。チームリーダーのジェームズ(マーク・ウォールバーグ)は、セシウムのガセ情報をつかまされた同僚のアリス(ローレン・コーハン)をボロクソに言ったり、かなり精神的に危ない人みたい。とは言え、6万人を殺す兵器に化けるセシウムを早急に発見する必要がありました。すると、大使館にリー(イコ・ウワイス)というインドカーの警官が保護を申し出てきます。リーはアリスにガセ情報をつかませた男でしたが、今度は本当にセシウムのありかを記録したディスクを持ち込み、亡命させてくれたら、そのパスワードを教えるというのです。インドカー当局は身柄の引き渡しを要求してきます。ジェームズはオーバーウォッチ作戦を発動させ、リーを飛行場まで運んでアメリカへ送ろうとします。アメリカ国内の某所にマザー(ジョン・マルコヴィッチ)以下、作戦の指揮、誘導をするチームが集められ、リーの移動作戦を開始することになります。一方、その状況をロシアの哨戒機が監視していたのでした。

「キングダム」「ローン・サバイバー」などでヒネリの効いたアクション映画を作ってきたピーター・バーグ監督の新作です。「ローン・サバイバー」「パシフィック・オーシャン」など、バーグとは4本目のタッグとなるマーク・ウォールバーグが主演しており、リー・カーペンターとグラハム・ローランドによる原案をカーペンターが脚本化しています。CIAのこの特殊部隊は、国内外で時として超法規的な行動をとることもあり、その時は、国家機関の肩書を放棄して臨む(相手側からすればテロリストにも見えちゃう)という、どうも汚れ仕事の専門家みたいなんです。彼らの使うオーバーウォッチ作戦と言うフォーメーションは、ジェームズたち現地部隊を、3000キロ以上離れた場所で、遠隔的に指揮を執る部隊がいて、そこにいるマザー(ジョン・マルコビッチ)以下の面々がコンピュータを駆使して情報収集、情報提供、時には遠隔支援も行うのです。今回は盗まれたセシウムの捜査のために、ジェームズ達は東南アジアのインドカーという国のアメリカ大使館に身を置いていました。

ジェームズというのは、精神的に切れやすいものを持っているのか、いつも手にゴムバンドをはめて、それで気分を落ち着かせているようなところがあり、同僚に対する口の効き方も結構ひどい。でも、いざとなると的確な判断と射撃の腕で、危機を乗り越えてきたらしいのです。そんなジェームズ達の前に現れたのが、セシウムのありかが入ったディスクを持ったリーという警官です。何を考えているのかわからないけど、相当肝の据わった男らしいリーは、ディスクのパスワードを渡すから、アメリカへ亡命させろと言ってきます。インドカーの当局の人間は彼を引き渡せと言ってくるし、リーは大使館の医務室で、そこにいた男二人に襲われます。リーは驚くべき身体能力で逆襲に出て、二人を血祭にあげるのですが、どうもリーの持っている情報は重要らしいということになり、ジェームズのチームで、リーをアメリカに亡命させるため、大使館から飛行場まで移送することになります。ジェームズの依頼でスーパーウォッチ作戦のフォーメーションが敷かれ、チームは2台の車で大使館を出発します。しかし、彼らの行動や通信内容は筒抜けになっていて、早速、バイク集団の襲撃を受け、2台の車のうち1台は爆破され、メンバーの半分が死亡、それでも残った3人でリーを空港へ届けようとするのですが、次々と武装した追手がやってきます。

仮想国インドカーの首都は、コロンビアでロケされたそうで、街中で派手なカーチェイスや爆破シーンが登場します。その一方で、インドネシア映画「レイド」で世界的に名を知られるようになったリー役のイコ・ウワイスが重量級のアクションを見せています。特に、病院内での2対1のアクションは手錠をはめられているハンディマッチなのに、相手を最後には叩き殺すまでを迫力の殺陣で見せてくれます。冒頭の状況説明の後は、アクションシーンの連続でつないでいくという構成で、映画は最後まで一気に突っ走ります。ジェームズのキャラを丁寧に説明しておく一方で、リーのキャラがなかなか読めないというところは、ドラマの盛り上げに大きく貢献しておりまして、ムチャクチャ強いけどミステリアスな男が最後までサスペンスをつなぎます。脇役のロンダ・ラウジーやローレン・コーハンといった面々がきちんとキャラが描けているのは、95分の見せ場連続の映画にしてはうまいと思うし、アクション映画の定番をちょっと外した見せ方のうまさもあり、ピーター・バーグの職人演出はさすがですが、その一方で、ヒネリの効いた視点の部分もあり、組織と個人の関係をそういうふうに見せるかという面白さがありました。特殊メイクにハワード・バーガー率いるKNBイフェクツが参加しているので、若干バイオレンスはハードかな。(あくまで若干ですが)



この先は結末に触れますのでご注意ください。(未見の方は読まないでください)



次々にメンバーを失い、車を乗り換えて逃走しようとするもさらに車をぶつけられて、近くのアパートに逃げ込むジェームズ、アリス、リーの3人、何とか逃げ道を探すマザーたちですが、追手はさらに数を増し、はぐれたアリスは巨漢に追い詰められます。こんなことになったのもお前のせいだと詰るジェームズに、「アリスを助けよう」と申し出るリー。ジェームズは彼の手錠を外し、二人で協力して追手を倒し、アリスを助け出すことにも成功します。でも、予定の時間は過ぎ、離陸しようとする輸送機の前に、彼らの車が飛び出し、間一髪で、輸送機にリーを乗せることに成功し、アリスも一緒に帰国することになります。その直後、マザーはリーの正体がロシアのスパイに気づくのですが、全ては遅く、マザーのいたコントロールチームは敵による銃撃で全滅、輸送機もリーの乗っ取られ、アリス共々行方不明になります。そもそも、セシウム盗難事件から、ロシアが一枚噛んでいたのです。それは映画の冒頭で殺されたロシアの工作員の一人が18歳の少年で、その母親が政府高官だったのです。高官は、息子の敵討ちのために、彼を殺した関係者に復讐を試み、それはほぼ成功します。しかし、実際に息子に引き金を引いたジェームズだけが生き残るという皮肉な結果となり、ジェームズはリーに対して新たな闘志を燃やすのでした。おしまい。

極限まで追い詰められたジェームズたちにリーが加担して、追手をやっつけるシーンはなかなかのカタルシスがあるのですが、最後の最後でリーがロシアのスパイと判明して、関係者はジェームズを残してみんな殺されてしまいます。リーがドラマの中盤で、ジェームズに「なぜ、こんなことをする気になったのか。」と問うと「家族の敵だ。」と答えるシーンもありますし、冒頭のセーフハウスの死亡者の中に18歳の少年が混じっていたという、伏線もあったのですが、最後までそういうことを考えさせないテンション高いアクションシーンの連続で、最後までまんまと騙されてしまいました。非情な組織によって個人が犠牲になるというのは、よくあるパターンなのですが、今回は私怨を発端にした作戦で関係ない人間(特にインドカー警察の追手のみなさん)が犠牲になっていくという図式が面白く、そういう切り口で見せてくるかあってところが新鮮でした。組織の歯車として、淡々とミッションをこなしていた筈のジェームズが、次はリーを仕留めてやると意気込むラストも、妙に生臭い後味を残します。ともあれ、迫力あるバイオレンスアクションとして見応えがある映画ですが、その上に意外でシニカルなオチを持ってくるあたりは、一筋縄ではいかない映画に仕上がってます。派手な見せ場の作り方のうまいピーター・バーグ監督ですが、それだけじゃないぞとさらにもう一つ乗っけてくるあたり、彼の次に映画にも期待しちゃいます。

「バジュランギおじさんと、小さな迷子」はベタな泣かせ演出のコメディながら、そのメッセージはなかなか重厚。


今回は新作の(とは言っても2015年の映画なんですが)「バジュランギおじさんと、小さな迷子」を、川崎の川崎チネチッタ10で観てきました。ここへスクリーン位置が高めで、前の方に座ると画面を見上げることになるのが要注意の映画館。

パキスタンに住む口の聞けない6歳の少女シャヒーダー(ハルシャーリー・マルホートラ)が願掛けにインドのデリーに母親とやってくるのですが、その帰路で母親とはぐれてしまいます。彼女がたどり着いた町では、ヒンドゥー教のハマヌーン神のお祭りの真っ最中。そこに居合わせたハマヌーン神の熱烈な信者パワン(サルマン・カーン)の後を追いかけて彼の家にまで行ってしまいます。パワンは婚約者ラスィカー(カリーナ・カプール)のお父さんに結婚を認めてもらうために頑張っている大事な時。警察へ連れて行くも引き取ってもらえず、ラスィカーのお父さんの家に一緒に置いてもらうことになるのですが、名前もわからない彼女はチキンを食べるし、テレビに映ったパキスタンの国旗にキスするしということで、インドと敵対するパキスタン人であり、ムスリムでもあることがわかって、家を出されることになっちゃいます。でも、パキスタン大使館もビザも持ってない女の子を相手にしてくれません。旅行社でもパキスタンへ行くのは無理と言われるのですが、大金をはずめば裏ルートを紹介すると言われ、パワンとラスィカーは結婚資金をその女の子のために使うことにするのですが.....。

「タイガー 伝説のスパイ」などで有名なインドのカビール・カーンが共同脚本と監督を担当し、「ミモラ 心のままに」などで知られるアクションスター、サルマン・カーンが主演したコメディ仕立ての感動ドラマです。2時間39分と長い映画ではあるのですが、そこはインド映画、歌や踊りを随所に入れて、一気に最後まで見せてしまいます。最初は、迷子の女の子を助ける話だけで、2時間半以上あるの?とちょっと不安もあったのですが、これが王道の展開で、最後まで見せ切ってしまうのにはびっくりというか、なるほどパワーあるなあって感じ。で、インドで大ヒットしたというのもうなづける面白くて泣ける映画でした。「泣ける」というか「泣かせる」映画なのかな、泣きの箇所は、スローモーションや歌を駆使して、思いっきりベタに泣かせにかかるので、あざといと言えばあざといのですが、それ以上に太いテーマをぶち込んでくるので、多少の泣かせは許せちゃうところがあります。そのテーマというのが、宗教や国境を越える善意の絆という、まあ、ちょっと普段口に出すのはこっぱずかしいこれまたベタなもの。でも、実際に現在進行形で国家間では対立しているインド人とパキスタン人が、底抜け信仰バカのおかげで、相互理解の輪がつながっていくと言う展開は、なかなかに感動的なのですよ。

主人公のパワンは熱狂的なハヌマーン神(猿の恰好した神様)信者です。ハヌマーン神を徹底的に信じ、嘘や悪いことが大嫌い。でも、世間一般の人からすると、その度の過ぎた信仰と善人ぶりは、時にはバカにも見えちゃうところがあるんですが、それでも、迷子になった女の子を見捨てることができず、自分が半人前で、婚約者の父親の家に居候している状態なのに、その家に女の子を連れてきてしまいます。でも、彼女はチキンを喜んで食べることで、どうやら異教徒であることがわかってきて、さらにテレビで、インドとパキスタンの試合を観ていて、パキスタン勝利に喜んで踊っちゃうので、敵対するパキスタン人であることもわかっちゃいます。国の宗教も違うということで、これ以上面倒みきれないとパキスタンへ送り返そうということになるのですが、それもうまくいかなくて、パワンは一大決心をして、ビザもないのに自分で彼女をパキスタンにいる親の元に届けようということになります。

この映画、後半はいかにも21世紀的な展開となりまして、パワンと女の子に偶然知り合ったジャーナリストが彼らの映像をネットにアップすることで、インド、パキスタン両国民がパワンの存在を知ることになるのですよ。20世紀だったら、親元に届けられても、途中で野垂れ死んでも、関係者しかその事情を知ることはなかってでしょうが、ネット社会は、何億という人々に彼らの存在を知らしめるのです。クライマックスは、ベルリンの壁崩壊を思わせるような展開になるのですが、なるほど現代ならではの寓話なんだなあって感心しちゃいました。また、パワンが、ムスリムに助けられるシーンとか、恐る恐るモスクに足を踏み入れるシーンがするのですが、結局、親元の女の子を届けたいという気持ちは宗教を越えて受け入れられるという見せ方は心地良いものがありました。現実世界ではわからないけど、パワンの底抜けの善意に、インド人もパキスタン人も心を動かされるというのが、いい話なんですよ、これが。この映画で悪役として登場するのは、パキスタン側の為政者だけで、パキスタンの警察官も軍人も、個人の判断でパワンを助けようとするのがなかなか泣かせる展開になっています。そんな底抜けの善人パワンが、国家という組織をある意味出し抜いてしまうというカタルシスもあり、後味はかなりよかったです。ただ、演出はベタに泣かせにかかりますから、そこは若干うざいかも。

口を聞けない少女を演じたハルシャーリー・マルホートラがムチャクチャかわいいのもこの映画の点数を上げています。子供っぽさを失わないけど、どこか大人びたところもあるというバランス感覚が見事で、自分の意思が相手に伝わったときのうれしそうな顔が絶品でした。一方の、サルマン・カーンはもともとアクションスターだそうで確かにいかつい体をしているのですが、今回はちょっとトロい(学校を10年留年してるという設定)キャラだけど、信心深い善意のキャラを熱演しています。パキスタン側に拘束されてボコボコにされるシーンもあるので、ヤワ系の俳優だったらドラマが成り立たなかったかもしれないので、ヒーロー要素のあるカーンをキャスティングしたのは成功だったようです。タフで善人のバカは無敵だよなあって納得しちゃいましたもの、って言ったら怒られるかしら。

現代性のあるファンタジー要素もあるお話ですが、要所要所に歌と踊りが入るのは、インド映画の特徴なのでしょうね。この映画でもそういう見せ場がお約束のように挿入されるのですが、それでもムスリムの廊で延々流れる歌などは、ドラマの流れとシンクロして盛り上げ効果を出すといった使われ方もしていて、ドラマ展開のサポート役としても活躍しています。後、ベタな笑いとこれでもかの泣かせ盛り上げ演出がくどいけどとっつきやすくもあり、コテコテの人情コメディに乗せて伝わってくる結構重めのメッセージもあって、全体的には軽重、硬軟、何でもありの振り幅の大きい映画として楽しめるのでオススメしちゃいます。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



旅行者の男は、女の子をパキスタンには送らず、売春宿に売り飛ばそうとしていました。最後の別れをと、彼らを追いかけた行先がそういうホテルだったのを知ったバワンは大激怒、大暴れして、彼女を取り返して、自分でこの子を親元まで届けると二人で国境へと向かいます。国境越えのトンネルでパキスタンに入るのですが、パキスタン軍の国境守備隊長に、許可をくれと、わざと見つかるような行動を繰り返すバワン。そのしつこさに、呆れて入国を許してしまう隊長。でも、パキスタンの町で警官に見つかりインドのスパイと思われて拘束されちゃうのですが、女の子に危害が加えられそうになって、またしてもブチ切れて大暴れ。それを見ていたテレビカメラマンが二人に同行し、彼らの映像を放送局に売ろうとするが相手にされません。パキスタン人でも、パワンの目的を知ると助けてくれる人もいます。一方で、警察はインドのスパイとしてパワンを追います。テレビカメラマンは、撮った映像をネットに上げて、パワンの無実を訴えます。彼のカメラに偶然、女の子の母親が映り込んだことで、女の子の故郷が特定でき、そこへ向かうのですが、途中で警察の検問に会い、パワンは自分が囮になって、カメラマンと女の子を逃がし、女の子は母親と再会します。でも、パワンはパキスタン当局に拘束され、拷問で自白を強要されそうになるのですが、彼を逮捕した捜査官が裏付け調査でバワンの無実を知り、彼をインドへ送り返そうと、テレビカメラマンに頼んで、インド、パキスタンの両国の市民に、国境検問所に集まるように呼びかけます。国境の検問所には、両国から多くの人が集まり、守備隊の軍人も、バワンのために道をあけるのでした。インド側へ向かうバワンに、女の子がかけより「おじさーん」と声をかけ、振り返ったバワンが引き返して、女の子を抱き上げたところでストップモーション、暗転、エンドクレジット。

ラストの国境検問所のシーンはベタでこれでもかという演出がくどいと言えばくどいのですが、まあ、それまでに点数を稼いでいて逃げ切り勝ちといったところでしょうか。バワンが、インド人からもパキスタン人からもヒーローとしてコールされるというのは出来過ぎな気もするのですが、まあそのあたりは、私にとっては、映画の魔法としての許容範囲でした。登場した時は、足を引っ張るのかと思っていたテレビカメラマンが最後まで、バワンのために画策するというのには、意外性がありました。ともあれ、国籍、宗教よりも、人、その人柄だよね、という見せ方はうまいと思いました。人してよいことをすれば、どんな宗教の人でも受け入れられ、支持されるというのは、すごく重要なポイントだと思いますもの。違う神様を信じる人を、キリストもアッラーも許していないのに、それを人として受け入れようってのは、下手をすれば神の教えに背くことになりかねないけど、でも、人情として、いいことをする人を助けたいと思いますもの。国家間で対立があっても、人としては認めあうことで、お互いが人間として良くなることができるという見せ方もうまいと思いました。国境や宗教は、自分側と相手側を分別して、敵対させるものとして機能することがあるけれど、それに盲目的に従うのではなく、自分の目で、人間としての相手を見て、自分の良心で、判断することの方が大事だと言ってるのは、耳を傾けるに値するメッセージだと思います。それをコテコテの笑いと泣かせのドラマで示そうってところに、ちょっとミスマッチなおかしさも感じてしまいました。

「家へ帰ろう」はホロコーストを描いた映画の新しい切り口で発見がありました。


今回は川崎の川崎チネチッタ9で「家へ帰ろう」を観てきました。久しぶりに来たら、パンフレット売り場がサンドウィッチ屋になっていて、パンフレット買いたきゃ、外のショップに行けってことになっちゃってました。何だかむっとしたので、ショップのお姉さんに不愛想になっちゃいました。お姉さんは悪くないんだけどね、

ブエノスアイレスに住む仕立屋のアブラハム(ミゲル・アンヘラ・ソラ)は、かつてのホロコーストの生き残りです。老人ホームへ行くことになった前の晩、荷物をまとめ、一着のスーツを持ってヨーロッパへ旅立ちます。行先は、かつて少年の自分が住んでいたポーランドのウッチという都市。でも、アブラハムにとってポーランドはその国名を口にすることすらはばかられる遺恨の土地です。直接、ポーランドへ行く航空便のチケットが手に入れられなかったアブラハムは、とりあえずスペインへ向かい、そこから陸路でポーランドまで行こうとするのですが、マドリッドで泊まったホテルで持ち金全部を盗まれてしまいます。途方に暮れる彼ですが、スペインに住んでいる娘を頼り、そこで1000ユーロを借りて、列車でパリへ向かいます。でも、その先のドイツはどうしても通りたくない。パリの駅で知り合ったドイツ人の文化人類学者が彼のことを気にかけてくれます。彼女の真摯な態度にドイツに対する頑なな気持ちがちょっとだけ揺らぐアブラハム。彼が会いに行こうとしているのは、終戦時、収容所から逃げてきたアブラハムを、家に入れて介抱し、アルゼンチン行きの金を渡してくれた幼馴染ピオトレックでした。もう70年も音信不通だった友人に、アブラハムは再会することができるのでしょうか。

アルゼンチンのパブル・ソラルスが、彼の聞いた実話をもとに脚本を書き、メガホンを取りました。ブエノスアイレスに住むユダヤ人の老人が、老人ホームに入れられることになるのですが、その前日に、彼は自分がかつて住んでいたポーランドへ旅立つのです。ポーランドは、ナチスドイツに侵攻された被害者側の国である一方で、ドイツのホロコーストに加担したという加害者の顔も持っています。ポーランドに住んでいたアブラハムの家族は収容所送りになり、彼らの家は、使用人だった男のものにされてしまいます。命からがら自分の家に逃げ帰った18歳のアブラハムですが、使用人だった男に追い出されてしまうのですが、その息子のピオトレックは自分の部屋に彼をかくまい、アルゼンチンに住んでいたアブラハムの叔母の手紙といくばくの金を渡して、彼を送り出してくれたのです。ドイツもポーランドも口に出すのもはばかるアブラハムですが、幼馴染のピオトレックに、自分の仕立てたスーツを持って会いに行こうと思い立ったのでした。

第二次世界大戦を扱った映画が、記録映画、劇映画含めて、最近よく見るようになりました。当時を知る人が年齢的に限界がきているってことがあるのでしょうけど、この映画も現在を舞台にして、ホロコーストの傷跡を描いているという点では、「手紙は知っている」と通じるものがあります。主人公がホロコーストの生き残りの老人という点でも同じですしね。この爺さん、結構いけすかないところもあるし、老いから来る頑固さみたいなのもあるし、あんまり同情を誘うタイプではありません。病魔に侵された右足は切断するように医者から言われているし、そんな足を引きずって、アルゼンチンからポーランドまで一人で旅をしようというのですから、なかなか大変。でも、この映画では、自分の娘はともかく、たまたま出会った3人の女性が、彼を助けてくれるのですよ。旅の中で、そういう人に一人でも出会えたら、現実世界ではものすごく幸運なことだと思うので、立て続けに3人もの親切な人に出会って、旅を助けてもらえるというところが、映画の魔法という感じなんです。そうなるとファンタジーっぽいお話なのかと言うと、これが70年もトラウマを引きずってきた主人公のヘビーなドラマということになります。

映画のストーリーだけ言うと、老アブラハムが過去のトラウマのある土地ポーランドに旅をするというだけというシンプルなもの。その間にお金を盗まれたりといったトラブルや、過去のフラッシュバックに悩まされたりするという展開です。ストーリー的には、展開はあまりなくって、淡々としているのですが、脚本、監督のソラルスは、70年前のホロコーストの傷に悩まされる人がいるということ、そういう人たちのトラウマの深さを見せるのがメインという感じなんです。ですから、自分の命の恩人である友人に会うという部分は割と淡泊に描かれています。でも、ポーランドという言葉を口に出すことも拒否、ドイツを通過するのも絶対やだという頑ななじいさんの心の傷は、日本の戦争を生き延びた人の証言ドキュメンタリー映画には見られなかったもので、私には発見がありました。一方で、今の若い人々は、戦争やホロコーストを恥ずべき歴史としてある程度客観的に捉えているので、アブラハムの頑なさにはついていけないものがあり、旅先で孤立してしまうのですが、そこに前述の3人の女性が彼の痛みを受け入れて、助けてくれるのです。まあ、そういう人がいなかったらアブラハムはポーランドまでたどり着けなかったでしょうから、そのあたりが映画にファンタジーの味わいを加えていると言えましょう。

ミゲル・アンヘラ・ソラは、頑固で金にこだわるユダヤ人のアブラハムを飄々と演じています。個人的にはあまりお近づきになりたくないじいさんなのですが、そのじいさんの過去がわかってくると、恩人に会えるといいなあって思わせる演技が見事でした。後半はすっかり感情移入しちゃいましたもの。後、フェデリコ・フシドのオーケストラによる音楽がすごくいいのですよ。淡泊な展開のドラマをぐっと盛り上げるのですよ。ラストなんかは、半分は音楽のパワーで心揺すぶられて泣かされちゃいました。でも、サントラCDは出てないみたいなのが残念。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ドイツ人の文化人類学者の女性は、着るものを駅のホームに並べて、アブラハムがドイツの土地を直に踏まないように気遣ってくれます。そんな彼女のやさしさに、自分の足でドイツの土に足を踏み入れるアブラハム。そして、ポーランド行きの列車に乗るのですが、そこで過去の記憶がフラッシュバックして倒れてしまいます。気がつけばポーランドの病院のベッドの上にいたアブラハムに、看護婦の女性は、医師の進言で足を切らないようにしたことを伝えます。そんな彼女にこれまでの経緯を話して、恩人の町まで連れて行って欲しいと言うと、彼女は彼を車でその街まで連れて行き、恩人の住んでいた家を一緒に探してくれます。何とか路地の奥のその住所にたどり着くのですが、ドアホンを押しても答える人はおらず、近所の人も良く知らないみたい。アブラハムはかつて住んでいた家の地下室の入り口を見つけてそこへ行くと、上の窓の向こうにミシンを操る老人がいました。二人は目が会い、お互いが誰かを認識します。外に出てきた老人は幼馴染で恩人のピオトレックでした。抱き合って再会を喜ぶ二人。ピオトレックはアブラハムに「家へ帰ろう」と言い、家の中へ入っていく二人。路地奥からカメラが段々と引いていって、暗転、エンドクレジット。

ラストはどう処理するのかと思ったら、幼馴染が健在で、感動の再会というのは、かなりベタなんですが、そこに至るまでに、アブラハムに感情移入しちゃってるので、ああ会えてよかったと素直に泣かされてしまいました。(前述のように音楽の力も大きいのですが。)ホロコーストという過去があって、その過去が70年もその人の人生に影を落としているというヘビーなテーマを持った映画だけに、後味くらいはよくしないと、観客の心を惹きつけらないってところもあるんでしょう。やはり、これでアブラハムを放り出しちゃったら映画そのものの評価が変わっちゃいますもの。そういう意味では、エンタメ度を増したことで、現代につながるつらい過去を知ることができるけど、とっつきのいい映画に仕上がっています。ホロコーストについての映画は色々ありますが、こういう切り口もあるんだということで発見もあって、オススメしたい映画です。

「アイ・フィール・プリティ」は面白い視点の映画だけど女性から見るとどう映るのかしら。


今回は新春第二弾として、有楽町のヒューマントラストシネマ有楽町2で「アイ・フィール・プリティ 人生最高のハプニング」を観てきました。ここは小キャパのちっちゃな劇場で、シネスコサイズになるときは、画面が左右に広がると同時に上下には詰まるという懐かしいスタイルの映画館。

コスメ会社に勤めるレネー(エイミー・シューマー)は美人じゃないし、体型もぽっちゃりで、そんな外見がコンプレックスになっています。美形の集まる本社じゃなく、チャイナタウンの地下室でオンラインサポートという地味な仕事もつまらない。でも、仲良しの友人ヴィヴィアンとジェーンは、明るいキャラのレネーと楽しくやっています。そんなある日、ジムのフィットネスバイクから落ちたショックで、レネーは自分が絶世の美人に見えるようになっちゃいます。他の人からしたら何も変わってないのに、レネーは奇跡が起きて自分の外見が大変身したと思い込んじゃいます。コンプレックスは優越感に替わり、自分に自信を取り戻した彼女は、会社の受付に志願し、社長のエイブリー(ミシェル・ウィリアムス)の目に止まって、なぜか合格しちゃいます。ナンパされたと勘違いしたことから、イーサン(ラリー・スコヴェル)という彼氏も強引にゲットして、イーサンもどういうわけかレネーのことが好きになっていき、何だかいいことが次々に起こります。会社は、一般女性向けの化粧品を開発プロジェクトを立ち上げていて、レネーの的確なコメントがエイブリーの信頼を勝ち取り、彼女のプレゼン出張に同行するまでになります。でも、友人ヴィヴィアンとジェーンと一緒の合コンで、上から目線で下品なことを口走ってしまい、二人に絶交されちゃいます。自分が美人だと思い込むだけで人生が大きく変わってきたレネーですが、それによって得るものと失うものがあることに、彼女は気付いていないみたいなのでした。

「25年目のキス」「そんな彼なら捨てちゃえば」の脚本家コンビ、アビー・コーンとマーク・シルヴァースタインが、脚本を書いて、二人共同で初メガホンを取った、コメディの一編です。外見のコンプレックスに悩むヒロインが、頭打って自分が超絶美人に見えるようになるという設定で、一言で言っちゃうと勘違い女のドタバタコメディということになりますが、まろやかな味わいにまとめているのがうまい映画です。でも、これ、実際に外見にコンプレックスを持つ女性が観たら、どういう感想を持つのかすごく興味あります。下手をすれば、「やっぱり女性は見た目がよくないとダメなのかな。」って思われかねない部分もあり、ブラックコメディにも転ぶ可能性のあるお話なんですよ、これが。

映画の冒頭では、自分の見た目に自信のないレネーが委縮気味の日々を送っています。そして、「美しくなりたい」って願をかけると雷鳴がとどろき、翌日、ジムでフィットネスバイクから落ちたショックで、自分が絶世の美人に見えるようになっちゃいます。鏡の中を自分を見て驚きを隠せないレネー、だって人生のコンプレックスが突然解消しちゃったんですもの。でも、映画の中で、レネーの姿は何も変わらないので、見た目はただの勘違いでしかないのですが、どうやら彼女の中ではマジで美人になってるらしいのです。それまでは、美人はみんなから注目されていて、男からは声かけられてうらやましいなあって思っていたものですから、自分が美人になったら、急に変な自信がついちゃって、周囲に上から目線になっちゃうのですよ。その自信過剰な押しの強さが、イーサンという草食系男子と付き合うきっかけになり、一方で旧友との間に溝を作ってしまうのです。

さらに、見た目に自信がなかった頃はあきらめていた会社の受付嬢になることにも挑戦し、その押し出しの強さが社長のエイブリーの目に止まり、何とコスメ会社の顔として受付嬢の職をゲットしてしまいます。さらに、一般女性へマーケットを広げようとしている社長に、不美人だった頃の視点で、適格な指摘をしたものですから、社長の信頼を得て、新規マーケット開拓プロジェクトに抜擢されちゃうのですよ。不美人コンプレックスで凝り固まっていたころは、本社に足を踏み入れることさえストレスになっていたのですから、自分が美人だという勘違いがなかったら、受付嬢にもなれなかったし、社長から認められることもなかったわけです。そういう意味では、勘違いは彼女のキャリアにとってはいいことだったみたいです。でも、彼女が生まれつきの本当の美人だったらよかったのかと言うとそういう見せ方にはなっていないのが、面白いところです。

外見にコンプレックスを持っている女性がエステや整形できれいになるというテレビ番組(←「ビューティコロシアム」でしたっけ。)がありましたけど、あの番組を観て、劣等感に悩まされていた女性に自信がつくのはいいことだよなあって思っていたのですが、自信がつくのも一長一短なんだなあってのが、この映画からの発見でした。それに、化粧品会社の社長に認められるきっかけは、外見にコンプレックスのある女性目線のマーケティングを披露したからであって、トータルで考えると、不美人だったころの性格や経験が彼女を助けているのが見えてくると、「ひょっとしてこれ美人をこき下ろして差別する映画じゃね?」なんてうがった見方もできちゃうのですよ。まあ、この映画の言わんとするところは、見た目のコンプレックスから解放されたらいいよねってところなので、美醜の優劣を問うものではないのですが、そのあたり結構ギリギリな見せ方をしている映画ではないかしら。

ヒロインを演じたエイミー・シューマーは、美人だと思い込んだ後の自信過剰になっちゃうところで、嫌悪感を抱かせないぎりぎりのところを達者に演じこなしています。美人になった彼女の絵を観客に見せないので、単に勘違いしてる自信過剰女にしか見えないのですが、そこできっちり笑いを取って、いやなキャラにしないあたりのうまさは演出もあるのでしょうが、お見事でした。才能も美貌もあるけど声がバカっぽいのがコンプレックスになっている社長のエイブリーを演じたミシェル・ウィリアムスがちゃんとヒロインを引き立てながら笑いも取るあたりもさすが演技派女優の底力を見せてくれます。また、ローレン・ハットンがミシェル・ウィリアムスのおばあちゃん役として登場し、きっちりきれいな女性になっているのにはびっくり。

ラストはかなり強引な締め方をするので、トータルな映画としては今一つだったのですが、それでも、設定の面白さとその設定の長所短所をきちんと描いている点は面白い映画でした。人間は、美醜で判断されるべきではないというテーマがありつつ、個人の持つコンプレックスを乗り越えるだけでなく、受け入れるべきところもあるんだよという見せ方は、いいところを突いてると思う半面、それって結局堂々巡りなんじゃないの?と思わせるところもあって、意地の悪い見方をすれば、結構ツッコミどころの多い映画と言えそうです。でも、そこまでムキにならなくても、何となくハッピーエンドならいいじゃんというお気楽な見せ方にも、捨てがたい味わいがあります。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



社長のビジネスプレゼンの旅に同行したレネーですが、旅先のホテルで頭を打ったところで、自分が美人に見える魔法が解けてしまいます。結局、あるがままの自分に向き合ったレネーは自信喪失、そのままニューヨークに戻ってしまい、イーサンとも別れてしまいます。でも、社長が一般向け商品プロジェクトに、ジムで一緒になった飛び切り美人のマロリー(エミリー・ラタコウスキー)がプロジェクトのモデルに採用されると知って、その発表会に乗り込み、自分こそが、このプロジェクトにふさわしいモデルだとプレゼンしようとします。画面に映し出された自分の写真を見た彼女は、受付嬢になる前と後で、何も変わっていないことに気づき、改めて一般向け化粧品は、多くの普通の女性に希望を与えるべきものとぶち上げて、会場の喝采を浴び、社長からも感謝されることになります。そして、再度、別れたイーサンのアパートを訪れた彼女を、イーサンはやさしく受け入れるのでした。アパートの前で抱き合う二人の絵から、暗転、エンドクレジット。

結局、魔法は長く続かず、レネーは元の美しくない自分に戻ったことに失望しちゃいます。友人に謝りに行くのですが、何を今さらと言われてますます落ち込むレネー。まあ、そりゃそうだよね、友人からすれば、突然、上から目線でものを言うようになり、合コンでは自分たちを侮辱するようなことを平気で言うような女を友達とは思えないですもの。ところが、映画の魔法で、一般向けコスメの発表会に彼女たちも招いて、割り込んでプレゼンした結果、全てが丸く収まってしまうというのは、他にやりようがなかったんだろうなあとは思うけど、かなり強引。最後には、彼氏とも和解できてハッピーエンドになるわけですが、結局、彼女は美醜にこだわる自分から解放されたのかしら?ってところがちょっと微妙。プログラムの監督インタビューーによると、ラストでヒロインは自分自身を愛せるようになったんですって。確かにそうかもしれないけど、でも、化粧品のプレゼンを見ていると、やはり、彼女は美醜の呪縛から解放されていないようにも見えちゃうのですよね。確かに映画の冒頭でネガティブだったヒロインは、自分が美人だと信じ込んだ時に、超ポジティブになり、その魔法が切れた時、リバウンドで超ネガティブになっちゃうのですが、ラストで彼女はどのレベルに落ち着いたと思うべきなのかしら。これは、女心のわからないオヤジの意見より、ご覧になった女性の方のご意見を聞きたいところです。なぜかというと、このヒロイン、美人だと思い込んだ時、すごく並の器量の友人を見下したような、思いやりのない言動をしているので、ポジティブになればいいってわけじゃないという見せ方なんですよ。

美人は得することが多い世の中ですから、美に対する羨望や嫉妬があるのは仕方のないことだと思います。一方で、何の取り柄もないけど、見た目だけはいい女性の、唯一の長所を認めてあげる度量も欲しいと思います。美醜にとらわれすぎるのもよくないけど、コスメを全否定するのも大人げないとしたら、価値観の落としどころをどのあたりに置くのが一番ハッピーなのかなあって気分にさせる映画でした。

「マイ・サンシャイン」はロス暴動を外国人の視点から客観的に描いているのが新鮮。


2018年は年末に体調を崩して、映画館へも行けていなかったのですが、2019年は少し映画のピッチを上げたいと思ってます。というわけで、年明け第一弾は、新作の「マイ・サンシャイン」を有楽町のヒューマントラストシネマ有楽町1で観てきました。

1992年のロスのサウスセントラル。この年のロスでは、15歳の黒人少女が酒屋の女店主に万引きを間違えられて射殺されたラターシャ射殺事件と、黒人男性が複数の警官に暴行されるというロドニー・キング事件で揺れていました。前者では女店主が保護観察と500ドルの罰金という軽い処分で済んで、市民の不満が高まっていました。ミリー(ハル・ベリー)は、事情があって家族と暮らせなくなった子供を家に引き取って養っていましたが、生活は楽ではありません。親が逮捕されてしまったウィリアムスを引き取ってきたことを、長男のジェシーはあまり快く思いません。実際、素行もよくないウィリアムスは空腹の子供たちを煽ってスーパーで盗みをさせたりします。そして、キング事件で、告訴されていた警官4人が裁判で無罪の評決が出たその日、サウスセントラルは異様な空気に包まれます。市民と警官の衝突は暴動にまで発展し、少年を逮捕しようとした警官ともみ合いになったミリーは手錠をかけられてパトカーで連行されようとしますが、混乱の中でパトカーから手錠のまま降ろされます。子供の身を案じるミリーに近所のオビー(ダニエル・クレイグ)も協力します。一方、ウィリアムとその友人たちはパトカーに火をつけたり騒ぎを大きくし、一緒にいるジェシーは気が気ではありません。ミリーが、やっとのことで家に帰ってみれば、子供の何人かがテレビを観て街に出かけたというのです。子供の身を案じて、再び街へ出るミリーとオビーですが.....。

トルコ出身で、フランス、アメリカで育ったという「裸足の季節」のデニズ・ガムゼ・エルギュヴェンが脚本を書いて、メガホンを取った一編です。フランスで長く暮らしているのにフランス人扱いされない彼女が、パリで起こったパリ郊外暴動事件をきっかけに、ロス暴動を題材にした映画を作ろうと思い立ったのだそうです。実際にサウスセントラルで取材して脚本を書いたそうですが、どこか引いた視点で、ロス暴動を描いているのが、アメリカ映画とは一線を画す味わいになっています。フランスとベルギーの合作で中国資本まで入っている無国籍な映画ですが、そのグローバルな作りが映画にも独特な視点を与えていまして、ロス暴動の夜を幻想的な美しい映像で切り取ったり、警官側の恐怖と憤りもきちんと描いていたり、単に黒人目線でなく、歴史の1コマとしてのロス暴動を群像ドラマとして描いています。

映画の冒頭では、黒人の女の子が、酒屋の女主人に射殺されるというショッキングなシーンから始まるのですが、ここで、女の子が万引きしているようにも見えるあたりが、単なる無垢な少女が差別意識で射殺されたのではなさそうに感じさせるのが面白いと思いました。韓国人のおばさん店主に、少女が射殺されたことは事実なんでしょうけど、そこから様々な枝葉がイメージ付加されて、それらがまるごと事実となっていく感じが描かれているのは、当事者では描けない視点だとちょっと感心してしまいました。ロス暴動というのは、ニュースで知っていたのですが、そこの住人にとってどういうものだったのかは、よくわからなかったのですが、当事者になって暴動の先陣を切っちゃう人もいれば、わけもわからず巻き込まれた人もいて、その空気の尻馬に乗っちゃう人もいたようで、様々な立場な人がいた騒動だったという視点は、それまでの「警官による黒人差別に対する市民の反抗」という紋切型でない奥行きを感じさせるものでした。

また、ロス暴動を題材にした映画でありながら、シリアスな部分だけでなく、コミカルなエピソードを盛り込むことで、そこに住む人の生活感を出すことに成功しています。特に荒っぽい隣人を演じたダニエル・クレイグがちょっと場違いなキャラだけど、黒人住民対警官の図式の外のポジションで、騒動に巻き込まれるおっさんをコミカルに演じて見せたのがおかしかったです。一方で、暴動の当事者になるウィリアムやジェシー、そのガールフレンドのニコールといったキャラクターのシリアスなドラマが、ちょっとリアリティを外した寓話的な見せ方になっているのが印象的でした。その結果、暴動という突出した行動に出るのは一部の人間で、それを止めようとする人間もいるし、むしろその勢いに乗っちゃうお調子者の方が多いという、騒動の実相が見えてきます。何と言うのかな、全ての黒人市民が、全ての警官からひどい暴力を受けているような見せ方だと、実感が感じられないけど、この映画のように、突出した人間の行動に、多数の人間が引きずられちゃって、無法状態になっちゃうというと、自分の身近で起こり得る事件として、真摯に受け止めることができるのですよ。自分の事として感じられる方が、映画から学ぶ点が多くなるというのは、観る方の勝手な都合ではあるのですが、私個人としては、たくさんのことを感じ取れる映画の方がいい映画だと思っているので、そういう意味では、この映画の評価高いです。

ロス暴動という特殊な事件を、外国人の視点から見直すことで、こういうことがアメリカのロスだけでなく、どこででも、どんな理由でも起こり得る事件として描きなおした映画ということができると思います。そういう視点で描くことで、遠い世界に住む人も、人間としては、自分たちとそう大きな違いはないということに気づくきっかけになる映画ではないかしら。文化とか宗教とか貧困とかそういうのを超越して、人情と暴力を描いた映画なのかなって気がします。ずいぶんとざっくりした言い方になりますけど。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ウィリアムとニコールのカップルに嫉妬を感じていたジェシーは、無差別に白人市民を襲撃しようとするウィリアムを止めようとして、彼をガラスで刺してしまいます。虫の息のウィリアムを盗んだ車に乗せて、病院を探し回るジェシーとニコールですが、結局、ウィリアムは還らぬ人となってしまいます。ミリーは、子供たちが略奪されているスーパーで荷物を運び出しているのをテレビで観て、オビーと一緒に子供たちを連れ戻そうとするのですが、スーパーの前で警官に略奪者と思われ、街灯の柱に手錠でつながれてしまいます。ミリーとオビーは、協力して街灯のてっぺんまで登って手錠をくぐらせて、脱出に成功し、子供たちを連れて、家に帰ります。そこには、ジェシーの運転する車が停まっていました。中を見ると、ウィリアムの遺体があったのでした。車の中を覗き込むミリーの姿から暗転。この映画のための取材時に監督が知りあった少年の映像が映ります。この少年はその直後に理不尽な死を遂げていたのでした。さらに暗転してエンドクレジット。

幼い子供たちがテレビの略奪の報道を観て、自分たちもスーパーに行って、荷物を運び出しちゃうところは笑えるシーンではあるのですが、この騒ぎの実相を突いていて、笑うに笑えないという感じでした。映画の前半で、彼らがウィリアムにそそのかされてスーパーで食料を盗むシーンも登場するのですが、それって倫理的にまずいと思う一方で、治安がコントロールできなくなると、略奪が始まっちゃうのは文化なのかなあって気もしてきます。日本だったら、寄ってたかって店のものを持ち出すようなことは基本的に起こらないでしょう。でも、「衣食足りて礼節を知る」「貧すれば鈍する」という言葉がありますし、この先、日本でも貧困層が増えていけば、略奪文化が生まれていくのかなって危惧感はあります。(こういうことを言うと怒られちゃうのですが、私は「清貧」という言葉を信じてません。そういう人は突出した、ほんのごく一部の人間だと思ってます。)

「エンジェル、見えない恋人」は他人の夢を見ているようなケッタイな映画。


今回は新作の「エンジェル、見えない恋人」を川崎の川崎チネチッタ3で観てきました。ここは傾斜がきつくて、画面位置が高いので、うかつに前に座るとすんごい画面を見上げることになる要注意映画館。まあ、チネチッタの1,2,3はほぼみんな同じ作りで、満席になる映画はかけてはいけないスクリーンです。

ルイーズはマジシャンの夫が妊娠中に失踪してしまい、メンタルが壊れてしまったらしく、病院らしい施設に入れられるのですが、彼女はそこで自力で出産し、男の子を産むのですが、その子は透明で姿が見えません。エンジェルと名付けられた男の子はルイーズのもとですくすくと育ちます。彼は、窓から見える立派な家に住む盲目の少女に気づきます。母親から、誰とも話してはいけないと言われているエンジェル、そんなことをすればみんなが怖がるから。でも、ある日、彼女は施設を出て女の子に近寄ります。すると意外にも少女の方からエンジェルに声をかけてきます。声や匂いから誰かいるってわかるんですって。そして、その少女マドレーヌとエンジェルは仲良くなり、年月が流れ思春期を迎えると二人は恋愛感情を持つようになります。ラブラブな二人だったのですが、マドレーヌは目の手術をするために旅立ちます。そして、ルイーズも亡くなり独りぼっちになったエンジェルは、彼女の家で過ごすうちまた何年も経ってしまうのでした。そして、ある日、大人になって目の見えるようになったマドレーヌ(フルール・ジフリエ)が帰ってきました。自分の存在を知らしめたいエンジェルなのですが、なかなかそれができません。彼女もエンジェルを探すのですが、消息がわからず、ルイーズの墓に手紙を挟みます。すると、その手紙に返事が返ってきます。マドレーヌはエンジェルの望み通り、目を閉じて彼を待っているのですが...。

トマ・グンジグとハリー・クレフェンの共同脚本を、クレフェンがメガホンを取ったベルギーの映画です。「トト・ザ・ヒーロー」「神様メール」のジャコ・ヴァン・ドルマルがプロデューサーとして参加しているのが売り文句になっていまして、映画のポスターの宣伝イメージだと、透明な男の子と盲目の女の子の淡い恋物語みたいなのを売りにしているのですが、それは映画の前半だけで、後半は大人になった二人の結構エロい恋愛ドラマになります。最初からこういう話だとわかってたら、もう少し素直に映画を観られたのですが、何か騙された気分になっちゃったので、その分印象悪くなっちゃいました。だって、若者になったエンジェルが、マドレーヌの寝姿の胸をはだけたり、入浴中の彼女をのぞいたりと、昔風に言うと出歯亀というか痴漢透明人間、もう少し柔らかく言うと「イヤーン、のびたさんのエッチ!」みたいな展開となります。そういう話だと思って臨めば、ケッタイな珍品としての面白さがある映画です。

透明な主人公というから、ファンタジックなお話なのかなって思っていると、冒頭から、どうにも画面が暗い。病院らしい施設の一室に軟禁状態のルイーズとエンジェルの姿は、あの「ザ・ルーム」の誘拐された親子みたいです。母親のルイーズからして、尋常とは思えないキャラで、施設の部屋で産み落とした透明な息子をそこで誰にも知られないように育ててるって設定で、夫がいなくなって精神的に弱っていたところへ、透明な息子が産まれて、頭のネジが吹っ飛んじゃったって感じなのですよ。そもそも透明人間という存在がリアリティがありませんし、どうやらエンジェルは飲み食いも排泄もしないで、並の子供なみに育っていくんですよ。ルイーズの夢のお話かなとも思えるのですが、お話は彼女が死んでからも、エンジェルの視点で続いていくので、一応、これはあったこととして描かれているようなんです。ね、ケッタイでしょ?

目の見えないマドレーヌと透明なエンジェルが仲良くなる話は、チャップリンの「街の灯」みたいな微笑ましい展開でして、友たちのいない同士がお互いを大事に思うようになっていくあたりは、絵本を読むような味わいがあります。ただ、その前の母子の描写が暗くて冷たい画面で描かれるので、素直にハートウォーミングなお話だと受け入れにくいのですよ。そして、ローティーンくらいになってくると、キスもするしお互いを恋愛対象として見るようになります。そして、目の手術をすることになるマドレーヌ。あ、やっぱり「街の灯」みたいなお話になるのかなと思いきや、これが「シェイプ・オブ・ウォーター」のような異形の恋の生臭編になってくるのに結構びっくりでした。異形の恋というのは言い過ぎかもしれないけど、エンジェルは普通の人間じゃないですからね、存在はあっても目に見えない。そんな青年と美しい女性となって帰ってきたマドレーヌの恋は、どうなるのか。で、先述のような痴漢透明人間風のシーンあり、フルール嬢もスリムなボディをたっぷりと見せてくれまして、透明なエンジェルとのエッチシーンもあります。意外と脱ぎのシーンも多くて、深夜のテレビで偶然この映画見かけたら、大当たりだね、というくらいの映画になっています。エンジェルが自分が透明なのを知られないために、マドレーヌに目隠しするあたりは、ああそういうプレイもあったなって、「ナイン・ハーフ」思い出す人もいるかも。いや、事実、この映画の中ではそういうエッチしてますから。

もともとエンジェルはマドレーヌが好きですし、マドレーヌもエンジェルが好き。ですから、両想いではあるのですが、彼女はエンジェルが透明人間だとは知らない。で、エンジェルとしてもできる限り隠し通そうとするのですが、いつまでも目隠しプレイをしているわけにもいかないので、その正体を彼女に見せることになります。シーツを被っているエンジェルがいて、マドレーヌがそのシーツを取ると中身がない。私、こういうのん「ヘルハウス」で観ましたけど、他のホラー映画で似たシーンはいくらでもあるでしょう。で、マドレーヌ、ウゲゲの大ショック。でも、彼女もなかなかのタマで、あなたのことを見ないようにするわ、って、透明な恋人を受け入れようとします。ここまで、エンジェルって、マドレーヌが好きという以上のキャラを与えられていないので、どこかふわふわした存在感だったのですが、彼女も何だかつかみどころのないふわふわした存在に見えてきちゃいました。何かリアリティの感じられない二人のかなりケッタイな恋愛ドラマが後半は結構シリアスに展開するので、前半の薄暗いファンタジーという変な展開からは想像つかなくて、かなり意表を突かれました。

ストレートに1本の映画として観た時、こういう設定ならこうなるだろうなという、こちらの期待を変な方向へ裏切っていくので、そこを楽しめれば、面白い映画ということになりましょう。私には、面白いと呼ぶにはケッタイさが先に立ってしまいました。少年少女の淡い恋物語、透明人間編だという先入観がよくなかったのかしら。まあ、前半のルイーズの登場シーンの薄暗い陰気な映像で、普通の映画じゃないとは思ったのですが、そっちへ行くのかーという意外性が、私にとっては、快感というよりは、珍品感が大きかったです。全体をひっくるめて、不思議系ファンタジーと呼ぶこともできるのですが、腑に落ちるところが少ないので、変なものを見たという後味になっちゃうのですね。何と言うか、他人の夢の話を聞かされたような気分とでも言うのでしょうか。そういう味わいの映画だと思えば、それなりの味はあります。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



エンジェルは、書置きを残して、マドレーヌの前から姿を消します。(← 初めから消えとるやんけ、というツッコミは置いといて)マドレーヌは、自分の感覚を頼りにエンジェルを探します。そして、かつて彼と来た、彼の母親のいた小屋へやってきて、湖のほとりに隠れているエンジェルを見つけます(!?)。そして、湖に身を投げたエンジェルをマドレーヌは救い、幸運にもエンジェルは息を吹き返します。二人は改めて結ばれ、子供も生まれ(これが盲目でも透明でもない普通の子)、マドレーヌは透明なエンジェルと組んで、マジシャンと生計を立て、二人は幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。

結局、二人は一緒になってハッピーエンドになるんですが、そのどこかあっけらかんとした感じが、リアルじゃないというか、どこか映画で観たような話だなあって結末になります。このあっけらかんとした感じ、フランス映画で観たような気がします。というわけで、この映画、前でも色々述べたように、いろんな映画を想起させる部分が多いのですよ。ケッタイだけど既視感がある、ありえないけど観た事あるような、不思議な感じです。色々な映画を思い出すあたり、何ていうのかな、映画ファンの観た夢を映像化したような映画とも言えそうな気がします。他人の夢の話を聞かされるのは苦痛でしかないんですが、映画ファンの見た夢の話なら、多少の興味を持てるかもってところに、この映画へのとっかかりが見つかりそうな気がします。そんな風にこじつけてみたくなるあたりが、やっぱりケッタイな映画なのでしょう。これまで観てきた映画の中では、すごく特異で変な感じの映画でした。合理性はないし、ファンタジーのようで、画面は薄暗いし、純愛ドラマのようでそこそこエロい、悲劇のようで、結末はあっけらかんとしていて、いろんな映画の要素を全部乗せしましたって感じなのかなあ。とにかく、どのドラマのパーツもあまり真に受けない方がいいと思わせるあたりが、普通の映画ではありません。好きかと言われると、そこまで行かないし、駄作だと呼ぶには色々と感想が出てくる映画だし、まあやっぱり珍品なのかなあ。どっか、真に受ける部分があると、この映画の評価も決まるのでしょうが、そういうところが見つからなくて。

「ピッチ・パーフェクト ラストステージ」は音楽ネタ娯楽映画としてオススメできます。


今回は新作の「ピッチ・パーフェクト ラストステージ」を、TOHOシネマズ日比谷1で観てきました。TCXという、でっかい画面が売り物の映画館なんですが、劇場が大きければスクリーンもでかくなるよなあ。

バーデン大学のアカペラコーラスグループ、バーデン・ベラーズにいたベッカ(アナ・ケンドリック)たちは卒業して各々の人生を歩んでいました。後輩であるエミリー(ヘイリー・スタインフェルド)の開いた同窓会にかつてのメンバーが集まるのですが、現役ベラーズのパフォーマンスに圧倒されちゃいます。そんなOGのオーブリー(アンナ・キャンプ)から、軍の偉い人である父親のコネで米軍慰問団のツアーに参加してはという提案を受け、現状があんまりハッピーでないみんなはその話に乗ります。かくして、ヨーロッパの米軍基地を回ることになる元ベラーズのみなさん。そこには、他のバンドもいて、どうやら有名なDJギャレットの前座を選ぶコンペでもあるみたいなんです。そこで張り切るベラーズOGのみなさん。その一人太っちょエイミー(レベル・ウィルソン)の前にかつて家出した父親(ジョン・リズゴー)が現れます。過去は色々あったけど、仲良くしようという父親に一度はほだされるエイミーですが、父親は昔悪い事してお金を稼いでいたこともあって、足を洗ったという彼をそう簡単には信用できないのでした。一方、ベラーズOGは、基地を回るツアーを他のバンドと共に盛り上げるのですが、果たしてDJギャレットのお眼鏡にかなうのでしょうか。

第1作の「ピッチ・パーフェクト」は、大学アカペラ選手権を舞台にした、アナ・ケンドリック主演の青春ドラマでした。でも、脇のバーデン・ベラーズの面々のきつめのキャラと、アカペラコーラスの楽しさが加わって、よくできた娯楽映画に仕上がっていました。で、同じメンバーで続編「ピッチ・パーフェクト2」では、世界規模のアカペラ選手権にパワーアップ。ベラーズの面々がより前面に出て、前作の主演だったアナ・ケンドリックが後ろに下がって、集団ドタバタコメディに、さらにゴージャスなアカペラコーラスを乗せたパワフルな作品になったのですが、前作にあった青春映画の味わいが薄れてしまったのが、私には物足りなかったです。まあ、要は、アナ・ケンドリック目当てで観た1作目がよかったので、続編を観たら、今度は彼女の出番が減っていてがっかりという話でもあるんですが、青春ドラマは結構好きなので(「チアーズ」とか「ルーカスの初恋メモリー」とか ← 古い!)、音楽のパワーも感じさせるこのシリーズ、3作目にもそこそこの期待を持って、スクリーンに臨みました。

シリーズ全作の脚本を手掛けたケイ・キャノンと「グッド・ガール」「スクール・オブ・ロック」のマイク・ホワイトが共同で脚本を書き、ダンサー、振付師であり、ミュージックビデオやCMの実績のあるトリッシュ・シーがメガホンを取りました。今回は、大学を卒業してベラーズOGとなったベッカたちを主人公に、前作にあった色恋沙汰をばっさりとカットして、人生の岐路に立つ女子たちのドラマに仕上げています。と、言うと何だかマジメっぽい映画みたいですが、基本はベラーズOGのドタバタが中心でして、そこにベラーズのアカペラコーラスがバンドやラッパーと張り合うという趣向が新機軸となっています。前作で、ドイツチームの究極のアカペラコーラスを見せているだけに、今回、アカペラコーラス同士のコンペにしなかったのは、ある意味成功しているのですが、前2作を楽しんだ人間からすると、アカペラコーラスの比重が軽くなっているのは、ちょっと物足りないかも。また、今回、ドラマの中心をベッカとエイミーのダブル主演という形にしたのは、青春ドラマとドタバタコメディの両立という欲張った構成を成功させています。私は、前作よりも、アナ・ケンドリックの出番が増えていたのがとりあえずうれしい。でも、第1作のカップ芸は見せてくれなかったのは残念。また2作目から参加のヘイリー・スタインフェルドがかわいくて、彼女中心の続編ができそうな予感もして、まだ続くかも(?)という余韻も残しました。

アカペラコーラスというのは、ドラム、パーカッション、ギター、シンセなどの楽器も人の声で演じて、さらにボーカルもかぶせるというもの。若い女の子がダンスを加えて歌う様子は、楽しくて盛り上がります。とは言え、アカペラコーラスそのもののインパクトは1作目より薄れてしまっているので、さらにバンドと競うといった趣向でハードルを上げることになります。そう考えると、前2作を未見の方が初めてこの映画をご覧になった方が、アカペラコーラスがより新鮮でスゴい芸だと思えて、常連さんよりより楽しめるかも。リフラフという、歌を使ったしり取りと山手線ゲームをミックスしたようなゲームが毎回登場しますが、これなんかも音楽のパワーと楽しさを実感できる楽しい見せ場になっていまして、音楽ってやっぱりすごいねえってのを納得できる映画として、オススメ度高いです。音楽のパワーを感じる映画ということでは、今年は「マンマミーア2」がありましたけど、甲乙つけがたいという感じかなあ。お話としては、どちらも今一つ難があるんですが、音楽パワーで乗り切っちゃうところが似ているという感じかしら。

もう一方のドタバタコメディの部分は、無理やりぶち込んだ感もあるけど、そもそもレベル・ウィルソンの存在自体がリアル青春ドラマに無理やりぶち込んだキャラなので、まあ、こういう話もありなのかなって感じ。一応、親子関係がドラマの中に何度も登場するので、それなりに映画のテーマになっているのでしょうけど、そこがこなれていないのが泥臭さを感じさせるのはご愛敬。好みの問題ではあるのですが、ベッカがヒロインの青春コメディという作りの第1作が好きだった私としては、他の賑やかしの皆さんをほどほどに、ベッカのドラマを観たかったわけで、今回は、その部分もそれなりに作り込まれていまして、ベッカの成長とベラーズの絆が音楽で描かれるラストはぐっと来るものがありました。まあ予定調和ではあるんですが、娯楽映画として丸く収まるドラマは音楽の良さも加わって、いい感じの余韻を残します。



この先は結末に触れますのご注意ください。



何と、DJギャレットの目に止まったのは、ベラーズではなく、ベッカ一人でした。そして、DJギャレットから一人告げられたベッカは、チームで選ばれなかったことで、彼の申し出を断ります。一方、エイミーの父親はベラーズのメンバーを拉致して、エイミーに銀行口座から金を下ろすように脅迫してきます。ベッカとエイミーは、父親のクルーザーに忍び込み、ベッカは捕らわれメンバーを率いて、アカペラコーラスを演じて時間を稼ぎ、エイミーはクルーザーに爆薬を仕掛けます。コーラスのナンバーが終わった時、エイミーが乱入し、メンバーが海に飛び込むと同時に爆発が起こり、父親たちは逮捕されます。ベッカは、自分だけ選ばれて断ったことをメンバーに伝えますが、メンバーは各々が自分の道を進む時だとベッカを後押しします。そして、DJギャレットのイベントで前座で登場したベッカは、自分の声を重ねて伴奏を作り出すパフォーマンスを披露、そして、そこへベラーズのメンバーもステージに上がって、大盛り上がりのステージとなるのでした。めでたしめでたし。

後半の誘拐ネタはストーリー的に無理やり感が強くて、私はあまり乗れませんでした。エイミーがやたら強くて男たちをバッタバッタとやっつけるアクションも唐突で、何じゃこりゃの気分。ラストのナンバーは、ベッカのソロから、ベラーズのメンバーもステージに上がって盛り上げるナンバーはなかなかに感動的で、ここはよかっただけに、総合点としてはまあまあかなあ。前にも書いたように、ごひいきのアナ・ケンドリックがきちんと主演としてドラマを支えている分さらに点数上乗せという感じかしら。レベル・ウィルソンは面白さは認めるけど、その存在感がクドく感じられて、もう少し全体とのバランス取れよと思ってしまいました。コメディリリーフを全部彼女の押し付けたからそうなったということもできるのですが、個性派揃いのベラーズの面々がちゃんといるのですから、集団劇の面白さをもっと見せて欲しかったところです。とは言え、音楽のパワーで最後まで楽しめるので、エンタテイメントとしてオススメできます。また、控えめなポジションでも、その存在感を見せたヘイリー・スタインフェルドは、これまでのキャリアも含めて、硬軟どっちもいける女優さんみたいなので、今後も期待です。アマンダ・セイフライドのポジションあたりにはまりそうな器用さを感じる女優さんでした。

「search/サーチ」はパソコン画面だけで見せるサスペンスですが、娯楽度高くてオススメ。


今回は新作の「search/サーチ」を上大岡のTOHOシネマズ上大岡5で観てきました。このシネコンはキャパの割にスクリーンが小さいと文句を言ってきたのですが、さすがに最大キャパのスクリーンだとそれにふさわしい大きなスクリーンを備えてました。大画面の大劇場感のある映画館です。

大好きだった母親をガンで亡くしたマーゴット(ミシェル・ラー)は高校の1年生。今は父親のデビッド(ジョン・チョー)との二人暮らし。マーゴットが友達の家に出かけた日の夜中、デビッドに3回電話がかかってくるのですが、眠っていたデビッドは気付かなかったのですが、翌日、彼から電話してマーゴットは答えず、そのまま行方不明になってしまいます。でも、デビッドは、娘の交友関係を全然知らなくて、どうしていいかわからない。そこで、マーゴットのパソコンを開いて、アドレス帳や彼女のSNSから、彼女が友人とキャンプに行く筈だったのに来なかったことや、学校では一人でいることが多かったことなど、親の知らない娘の顔が見えてきます。警察に連絡したデビッドにヴィック捜査官(デブラ・メッシング)が連絡してきて、デビッドがパソコンから得た情報を確認しつつ、捜査を進めることになります。マーゴットは、母親から習っていたピアノの教室もやめてしまっていて、その月謝を貯金していて、そのお金を誰かに送金していたとか、別人のIDカードを偽造していたとか、色々な事実が出てきます。監視カメラに町を出ていく彼女の車が映っていたことからも、マーゴットはどこかへ逃げようとしていたのではないかと言うヴィック捜査官に、そんなことはあり得ないと強く否定するデビッド。動画をアップするサイトにも彼女は自分の姿をアップロードしていました。その中の湖の絵から、彼女はその湖へ向かったのではないかと気づいたデビッドがその位置を確認すると、監視カメラで車が確認された地点のすぐ近くだと判明するのですが、果たしてマーゴットは一体どこへ消えてしまったのでしょうか。

オープニングは、パソコンが起動されるところから始まり、そこに3人の家族がユーザ登録され、パソコンの画面上にビデオ撮影された映像が展開されていき、マーゴットの幼い頃から、母親が病気になって亡くなるまでの様子、そして今に至るまでの映像が流れます。と、この映画、全てパソコンの画面上で展開していくのですよ。チャットの映像、テレビ電話の映像、監視カメラの映像、Webカメラの映像、SNSの画面、YouTubeの画面にニュース映像と、パソコン上で見られるメディアの情報だけで、1本の映画を作ってしまったのです。セブ・オハニオンとアニーシュ・チャガンティの書いた脚本を、チャガンティが監督した、サスペンス・ミステリーの一編ですが、パソコンの画面縛りという趣向の面白さと、お話自体の面白さでアメリカでも高い評価を得たようです。確かにこういう見せ方もあるんだなあってのは発見でしたけど、その趣向にあぐらをかくことなく、サスペンス・ミステリーとしても、大変面白い映画に仕上がっています。パソコン画面上だけで展開するドラマを映画館の大画面で観る意味があるのかと突っ込み入りそうですが、これが意外や大画面で観る絵になっているのですよ。画面の大きな映画館の方がスクリーンにのめり込めて楽しめるのではないかしら。私は大画面で観てよかったと思った方でして、パソコンの画面上で見るだけでは、感情移入もドキドキハラも半減しちゃうような気がします。

ただ、パソコンの扱いについては若干の知識がないと何してるのかわからないところがありますから、スマホなりパソコンなりの基礎知識がないと、映画についていけなくなると思います。私は、仕事でもプライベートでもパソコンを使ってますから、画面で何しているかは大体わかるのですが、オペレーションがかなり速くて、そのペースに追いつくのは結構大変。誰もがついていけたのかなあ、スマホの画面であのスピードで見せられたら私もついていけなかったかも。でも、その動きは、デビッドの思考の流れそのものになっているのですよ。パソコン画面を使った一人称ドラマとしては、かなりよくできてます。前に、カメラが車の中から絶対に出ない縛りのサスペンス映画がありましたけど、この映画もパソコン画面から出ないという縛りの趣向が面白いです。でも、その中から、見えてくるものは結構怖いものがありまして、娘のことをまるで知らなかった父親が、娘のSNSのアカウントに入り込むことで、彼女のプライベートが見えてくる展開は、誰もが自分のアイデンティティをネット上の晒している時代なんだなあってのを痛感させられます。娘のアドレス帳から交友関係がわかり、チャット動画のログから彼女が何を考えていて、彼女と親しい人間が特定できて、投稿写真サイトのログから、彼女のよく行く場所を特定する、その過程はスリリングではあるんですが、今、パソコン操作するだけで人間そこまで丸裸にできるってのは怖い時代です。でも、そのことで、娘の行方を追えたわけですから、よくも悪くもこれが現代なんだなあって思わせる映画でした。でも、私自身は、ネットに接しているのはこのブログくらいですから、私が姿を消しても、探しようがないだろうと思うと、自分は時代に乗り遅れているのかもって気づかされる映画でもありました。

また、この映画が単にパソコン画面縛りの趣向だけで見せる映画ではないのがお見事で、行方不明の娘が誘拐されたのか、単なる家出なのかがわからないまま、父親の知らない娘の姿が見えてくると、父親が娘のことを理解しようとしてこなかったことが見えてきます。娘の行方と親子関係の両方のミステリーとして観客を引っ張っていきます。デビッドのキャラが等身大で感情移入しやすいので、色々な意味でドキドキハラハラしながら画面に引き込まれてしまいます。最初は娘の情報をパソコンから必死に集めて、電話で確認を取っていたデビッドですが、事態が事件性を帯びてくると、ヴィック捜査官にそういうのは警察がやるから何もしないでくれと言われちゃうあたり、ダメなところもあるお父さんを応援したくなる展開になるのも、うまいと思います。チャガンティ監督の演出は、映すものはパソコン画面だけですが、展開されるストーリーはまっとうな誘拐サスペンスで、力量を見せてくれています。ドラマとして最後まで楽しませてくれているので、オススメ度高いです。登場人物は、デビッドとマーゴット以外は、警察にヴィック捜査官と、デビッドの弟のピーターだけ。それだけで、たくさんの伏線を散りばめて、最後きっちり回収するという、これだけのお話に作り上げた脚本もお見事でした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



デビッドが特定した湖を調査したところ、水の中からマーゴットの車が見つかります。車の中には誰も乗っておらず、マーゴット失踪事件は公開捜査となり、多くの関係者のコメントがテレビやネットで流れるようになります。車の中の遺留物から、ピーターを疑ったデビッドが、チャットのログを調べると、二人はデビッドに隠れて会っていたようなのです。証拠のための隠しカメラを仕掛け、デビッドがピーターを詰問すると、マーゴットはピーターの持っていたハッパを父親に隠れてやっていたのでした。そこへ、警察から連絡が入ります。前科のある犯罪者が、動画サイトでマーゴット殺しを告白して自殺したのです。これで、彼女が生きてる希望は絶たれ、遺体が発見できないまま、マーゴットの告別式が行われる日、デビッドは葬儀社のHPに見た顔を発見します。それは、動画サイトでマーゴットの映像にコメントを入れていた女の子で、二人はネット上で親しくやり取りをしていたのです。ヴィック捜査官はその女の子のアリバイを調べたと言っていたのですが、その女の子はモデルで直接確認を取ると、警察が来たという話は知らないと言うのです。何かがおかしいと気づいたデビッドは、警察へ連絡し、ヴィック捜査官を拘束します。行方不明から5日たっていて、娘を谷底にいると知らされたデビッドに、ヴィックは水無しで5日は生きていないといいますが、一昨日に嵐がきていたことを指摘して峡谷を捜索すると、マーゴットが発見されます。彼女を谷底へ落としたのはヴィック捜査官の息子のロバートで、かなり前からマーゴットに目をつけていて、モデルの女の子のアイコンで女の子のふりをして彼女とネット上の友達となっていました。本当のことを語ろうと、夜に湖に行ったマーゴットに接触したが逃げられて追った結果、押し合いになった時、マーゴットを谷底へ突き落したのでした。息子からそのことを聞いた捜査官は、自らマーゴットの捜査担当に志願し、証拠をねつ造したり、握りつぶしたりして、息子の罪を隠そうとしていたのでした。そして、マーゴットのパソコン画面になり、父親とのチャットが画面上に展開します。今、音楽学校の試験結果を待っている彼女の壁紙は車椅子の彼女と父親の写真です。そして、デビッドの言葉「私はお前を誇りに思っている」の後、ちょっと間をおいて「母さんもそう思ってるよ」と出て、暗転、エンドクレジット。

後半の怒涛の展開はお見事でして、最悪の展開となったと思ったら、さらにどんでん返しがあって、それに加えて、驚きのハッピーエンドになりまして、観終わって、あ、よかった、面白かったという映画になっています。それまで、母親のことに触れるのを避けてきた父親と、母親のことを思い出すのが辛くてピアノをやめていた娘の心の溝が少しずつ埋まっていくのを数行のチャットのやり取りで見せたラストシーンもホントにうまい。また、パソコン上で示されてきた、写真や動画がパズルのピースのように、収まるところへ収まっていくカタルシスもあり、よく計算されたドラマです。でも、ゲーム感覚にならないのは、、登場人物のキャラが丁寧に描かれていて、画面はパソコンでも、ドラマは十分な奥行きのあるものになっていたことが大きいです。伏線回収のカタルシスは、最近観た「カメラを止めるな」に通じるものがあり、主要登場人物4人の低予算の映画でも、これだけの物語を面白く見せられるんだなあって感心しちゃいました。デビッドが娘のために父親として奔走してる、その裏で、ヴィック捜査官が母親として息子のために暴走していたという、親の愛の表裏一体の構成も見事で、ドラマとしての見応えも十分ありました。とっつきは、見た目の趣向で見せる映画なんですが、そこにきちんと人間ドラマとサスペンスとミステリーを盛り合わせて、娯楽映画として大変面白くできていました。確かに、現代のネット社会での、人間の在り様を見せた映画であり、今、2018年のネットと人間の関係を見せた、記録的価値のある社会派映画ということもできます。5年後には、ネットと人間の融合がもって進んでいるかもしれないし、若干の歯止めがかかっているかもしれない。その過渡期でもある、2018年を記録した映画としても、意味があると思います。とは言え、娯楽としてドキドキハラハラしていい気分で劇場を後にできる映画としての存在意義の方が私には大きくて、未見の方には、ネタばれしないようにオススメしたい映画でした。

「バッド・ジーニアス 危険な天才たち」はドキドキハラハラするけど、娯楽映画としてのカタルシスが薄くて苦手。


今回は、新作の「バッド・ジーニアス 危険な天才たち」を川崎の川崎チネチッタ11で観てきました。傾斜の大劇場の作りでスクリーンも大きめ、シネスコになるときは若干上下が縮まる作りです。

タイのバンコク、すごく勉強のできる女の子リン(テュティモン・ジョンジャルーンスックソン)が、有名な進学校に授業料と昼食料を学校負担といういい待遇で入学します。真面目なリンとは、真逆キャラのグレース(イッサヤー・ホースワン)という友達もできて、そこそこの学校生活を送るのですが、ある日、勉強がまるきりダメのグレースから勉強を教えてと泣きつかれて、勉強を教えるようになります。で、テストの日を迎えるのですが、頭真っ白になっちゃたグレースを見て、リンは答えを消しゴムに書いて彼女に渡します。そのおかげ成績も上がったグレースはそのことを金持ちの恋人パット(ティーラドン・スパパンビンヨー)に話したことで、パットやその友人たちへもカンニングの手助けを求められてしまいます。一人一教科3000バーツ払うという話に乗ったリンは、テストの答えをピアノを弾く指の動きで伝えることを思いつき、やってみたら大成功。そんなこを続けて、稼いでいたリンですが、成績は優秀で、同じ奨学生のバンク(チャーノン・サンティナトーンクン)と共に留学生の候補になるのですが、あるテストで、リンが答案を他の生徒に見せてたことを目撃され、そのことを密告されて、留学生の資格を失ってしまいます。一方、パットがアメリカ留学のためにSTICという国際的一斉統一試験に合格しなくてはならなくなり、さらに勉強を教えてることになっていたグレースも一緒に受験することになり、何とかしてくれと、リンは泣きつかれちゃいます。試験が、世界中で実施されることから、時差に目をつけた、大掛かりなカンニング作戦を思いつき、20人の顧客も集めて大金を儲けようということになるのですが、その実現には、バンクの協力も必要となります。しかし、彼はそういう話には乗ってきません。ところがある事件が発生して事態は変わってくるのでした。

2017年のタイ国内興収第1位となり、タイのアカデミー賞で12部門取って、各国の映画祭でも賞を取ってるんですって。アメリカのファンタスティック・フェスティバルで最優秀スリラー作品賞まで取ってるってのが解せないんですが、ともあれ、世界で結構評価の高い映画です。ナウタット・ブーンビリヤとタニーダ・ハンタウィーワッタナー、ワスドーン・ビヤロンナが脚本を書き、ブーンビリヤがメガホンを取りました。進学校に優待されて入学したリンというものすごく勉強のできる女の子が、友人にテストをカンニングされたことから、その彼氏や友人までカンニングさせることになり、結構お金も儲けるようになるというお話。最初は、そういうことをする気はなかったようなんですが、偉そうなことを言ってた学校が、親から何かと寄付金をむしり取っていたことを知り、そんなら私もと思っちゃったのか、思春期の反体制的ツッパリなのか、お金をもらってカンニングしてどこが悪いと言う気分になっちゃったみたいなんです。映画はその女の子の心の揺らぎよりも、むしろカンニングのサスペンスを中心に展開します。色味を排したクールな映像と、テンポのよい展開は、サスペンスものみたいな味わいでお話が進むのですが、ラストは結構意外なところに着地することになります。

ヒロインのリンはとにかく勉強ができる女の子ですが、離婚した父親と二人暮らし。堅物の父親なんですが、家にはあまりお金がない。ですから、あまり気の進まない有名進学校への転校の決め手も経済的な優待というところにありました。そんな彼女が、たまたま困っていた親友を助けたばかりに、有料でテストのカンニングを依頼されて、その話を割と簡単に受けちゃうところは面白いと思いました。かなりリスキーな話なのですが、こういうことがばれても、タイだと本人にそれほどのダメージにはならないかな。日本だったら、エリートコースの先の裕福な人生を想定するから、キャリアの傷になりそうなことにはあまり手を出さないです。サークルやSNSでバカをするお調子者を除けば、お金になるからと言って、カンニングに精を出す超エリートというのは、ギャグマンガでしか見かけないキャラかも。一応、わいろを取る学校への義憤めいたことも言うんですが、カンニングそのものへの罪悪感はほとんどありません。私の若い頃は、周囲では万引きへの罪悪感がすごく希薄だったんですが、リンたちにとってのカンニングも似たようなレベルのものなのかな。このあたりの微妙な倫理感とかエリート意識が、ちょっと面白いと思ったのですが、おっさんの私からすると、それがカルチャーギャップなのか、ジェネレーションギャップなのかがわからないのがちょっと悲しい。

カンニングのシーンは、スリリングな演出で、テンションあがります。次々に発生するトラブルにどう対処するのかというところが見せ場になっています。ただ、その盛り上がりがカタルシスにまでつながらないのは、リンのキャラをこっちがつかみかねていて、共感に至らないのですよ。これは、おっさんの私だからかもしれません。若い人なら、もっと素直にリンに感情移入できて、楽しめるのかも。また、ちょっと面白いキャラなのが、最初堅物秀才で登場するバンクでして、最初は真面目キャラなんだけど、友人のカンニングを先生にチクるあたりは、私世代的には、イヤなインテリタイプ。昔の、学園ドラマの典型的な敵役みたいなキャラなんですが、チンピラに絡まれて留学がパーになったあたりから、段々とやさぐれてくるのが、何だか気の毒な展開となります。共感しにくい一方で、なかなか一筋縄ではいかないキャラの成り行きもまた一興です。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



バンクは、留学試験の前日、ヤクザに絡まれて、ボコボコにされた挙句にゴミ捨て場に置き去りにされ、留学の機会を逃してしまいます。それもあってリンの計画に乗ってくるのですが、パットが口を滑らせたせいで、ヤクザがパットの差し金であることが判明、喧嘩別れとなってしまうのですが、結局、バンクは金のためにリンと一緒にシドニーでの試験に乗り込みます。リンの計画とは、シドニーで受験した結果の答えをスマホで、バンコクに送り、その答えを仕込んだカンニング鉛筆をその場で作って、他の受験者に渡そうというものでした。試験問題流出があったせいで、試験場は不正チェックでピリピリしていました。試験場にスマホを持ち込めないので、試験の休憩時間にトイレでメールを打つのですが、長い時間のトイレを疑われたバンクが試験官につかまってしまい、リンが一人で二人分の試験を解いて回答を暗記してメールすることになっちゃいます。リンも疑いの目を向けられながら何とか乗り切り、全問の答えを送信することに成功します。バンコクに戻ったリンに、バンクはもっとやって儲けようと脅迫してきますが、リンはそれを拒否。父親とともに全てを告白することを決意するのでした。その取調室にリンが入っていくところでフェードアウト、エンドクレジット。

シドニーでのカンニング作戦は、リンとバンクが試験の半分ずつを受け持って、回答を暗記してトイレでスマホから送信するというものでしたが、途中でバンクがつかまってしまい、一人でリンが全部暗記することになっちゃいます。さらに、リンも疑われて試験官に地下鉄の駅まで追跡され、それまでに答えを全て送信できるかどうかのサスペンスがなかなかに盛り上がります。やっとこ、うまいこと行ったのですが、リンは自分のやったことに後悔しちゃうってのが面白いと思いました。一方のバンクはこのビジネスでもっと儲けるんだと意気込むという展開は意外でした。事の発端を作ったリンが、結局自分の行動を悔い改めようとし、最初は真面目で完全にリンの計画に巻き込まれたバンクが、悪の道へ走ろうとする皮肉。ちょっと見、バンクが悪役に見えちゃうけど、そもそもリンやパットのせいで、こんな世界規模のカンニングに巻き込まれてしまったわけで、本当に気の毒。運が悪いってのはこういうことだよなあ。カンニングをリンにせがむパットやグレースには同情の余地はないし、ゲーム感覚で金儲けするリンにも共感できないし、金に寝返るバンクにも感情移入できなくて、お話は面白いけど、テンションが上がる展開にはなりませんでした。堅物のリンのパパの存在は、リンの良心を呼び覚ます救いになっているのですが、せめてバンクにもそういう存在を与えてくれないと、何か救いのない話になっちゃうのですよ。そう思う自分は、古い倫理観にとらわれているのかもしれませんが、十代の若者が主人公なだけに、こういう話をピカレスクロマンとしては楽しめなくって。

「かごの中の瞳」は夫婦愛のサスペンスとして面白い。これを善悪だけで判断できないのが余計目に面白い。


今回は、新作の「かごの中の瞳」をTOHOシネマズシャンテ2で観てきました。土曜日の夜の回でしたが、お客さんは30人ほどで、シャンテにしてはお客さん少な目な感じです。こういう映画にお客さんが入るとシネコンのラインナップもバラエティに富んでくるのになあ。

幼い頃の交通事故で失明したジーナ(ブレイク・ライブリー)は、成長してジェームズ(ジェイソン・クラーク)と結婚。今は、夫の勤め先であるタイのバンコクの高級アパートで二人暮らしですが、なかなか子供ができないのが悩みでした。彼女の視力は完全になくなっているわけではなく、ぼんやりと光や人影は認識できるもので、その治療のための通院もしていました。そして医師(ダニー・ヒューストン)から、左目は難しいが右目は網膜移植によって回復すると言われます。幸いにも網膜のドナーが見つかり、手術した結果、ジーナの右目は視力を回復します。初めて見る夫の顔や自分の住まい。でも、彼女は思わず口にした言葉は「想像していたものと違う」でした。そして、夫婦のセックスも受け身一方だったジーナがだんだんと変わっていきます。ジェームズは彼女のために、休みを取って、ジーナの姉夫婦の住むスペインへ旅行します。性や遊びに自由な姉夫婦とジーナはしっくりいくのですが、ジェームズは何だか疎外された感じ。髪の色もブロンドに染め、濃い化粧をして、女性として自由な美しさを得ていくジーナを見て、今度はジェームズの方が「何か違う」と感じるようになったみたい。そして、ジーナの視力がだんだんと衰えていくようになります。医師はそんな筈はないと言うのですが、せっかく新しい世界へ踏み出したジーナがまた元の世界へ戻ってしまう。果たして、ジーナとジェームズの夫婦関係はどうなっちゃうの?

ショーン・コンウェイと「チョコレート」「ワールド・ウォーZ」のマーク・フォースターが共同で脚本を書き、フォースターがメガホンを取った、ちょっとミステリー入った夫婦ドラマの一編です。この監督さん「ネバーランド」撮った後、007撮ったり、ゾンビ撮ったりと、フィルモグラフィーからは職人さんのようで、「チョコレート」やこの映画では結構作家性を前面に出したクセのある映画を撮る人です。この映画では、幼い頃に視力を失ったヒロインが、それなりに平和な夫婦生活を送っていたのですが、そこで視力がよみがえることで、夫婦の間に生じる波風を凝った映像と音響効果で描いています。まったり眺めるには、ちょっと尖ったアートっぽい作りで、夫婦の行き違いがかなりシビアに描かれます。挿入されるイメージカットもかなり多め、そして、ジーナ視線のぼやけた映像も何度も挿入されるのですが、前半はそういうジーナ視線の映像が多く、それがだんだんとクリアになっていくことで、ジーナの世界で光と色が広がっていくのを効果的に見せています。また、前半の描写で、視力が足りない分、彼女に聞こえる音を強調した音響効果がうるさいほどに使われるのも、彼女の世界が変わることをドラマチックに見せることに成功しています。

ヒロインのジーナの顔は事故の傷がちょっと残っているとは言え、かなりの美人さんですが、ダンナのジェームズの方はいい人風ですが、イケメンとは言い難い感じ。視力が回復したジーナがダンナの顔を初めて観た時「え?」という顔をするのはなんとなくわかる気もします。「どうしたの?」と言われて「想像してたのと違ってたから」と控えめに言われるのですが、ダンナからすれば、これは落胆のリアクションだなってのは伝わっちゃったのではないかしら。自分の住んでるアパートにも「想像してたのと違う」という感じを持ってしまいます。そして、おどおどと自分の姿を鏡で確認するシーンも印象的です。それまでに知らなかった世界が、自分の想像していたものと違ったと感じたとしたら? また、それまでは、多くをジェームズに依存していた生活が大きく変わってきます。依存する必要がなくなることで独立心も芽生えたことで、二人の性生活が大きく変わるという見せ方は、そういう切り口もあるだろうけどと思う一方で、深いところでわかりやすいなあって感心しちゃいました。そのことに驚きと若干の不快感を感じるジェームズの在り様もリアルで説得力がありました。さらに、子供ができない原因が、自分にあると医師に告げられたことで、ジェームズはそれまでの夫婦関係の優位がどんどん揺らいできちゃいます。そのことを妻に告げないことが、また後で話をややこしくしてしまうのですよ。

その二人に間に生じた溝は、二人でジーナの故郷であるスペインに旅行した時にさらに明確になっていきます。姉との再会で羽目を外し、姉夫婦と覗き部屋へ行くという時、ダンナは外で待ってるという構図。酔っ払いに絡まれたジーナを助けたのはジェームズじゃなくて、姉のダンナだったりするのです。それまで完全な保護者で、完全依存の対象であったダンナがそういうポジションでなくなると、ダンナ以外の人間が視界の中に入ってくるようになり、彼女はそういった人々にも好奇の目を向けるようになり、そういうダンナ以外の人間の視線を意識するようになります。幼い頃に視力を失ったことで、思春期とか大人になる時期を通過できなかったせいで、性的にも抑圧されていたように見えていたジーナですが、本当の彼女はそうではなかったらしいことも見えてきます。そんな変化は、堅物のジェームズにはうれしいことではなかったようで、ジーナから「昔の私の方がよかった?」と聞かれた時に、その答えに口ごもってしまいます。一方、ジーナは犬の散歩中に、それまでプールに来て言葉を交わしただけの若者ダニエルと知りあい、男として意識するようになります。

ところが、せっかく戻ったジーナの視力がまた弱ってきたことで、二人の関係性が元に戻ってはいきそうになるのですが、そこでもう一波乱起こることになります。前半は、イメージ中心の尖った映像をたくさん盛ったフォースターの演出ですが、後半は主人公二人の想いを丁寧に追う正攻法のドラマになっていきます。ヒロインを演じたブレイク・ライブリーはどこか引け目のある盲目の人妻から、視力を取り戻して最初は素直に喜んでいるけど、だんだん夫婦生活に疑問を感じるようになる感情の流れを見事に演じてまして、ただの美人さんじゃない演技力を見せてくれます。一方、「ターミネーター;新起動/ジェネシス」で最高に情けない役(観て確認して下さい)を演じたジェイソン・クラークは、奥さんが盲目の間はいい人でいられたのに、彼女が視力を取り戻したら、いい人だけではやってられなくなる若干気の毒な男を丁寧に演じて見事でした。マティアス・ケーニッヒスウィーザーの撮影は、ジーナの見える世界の絵作りにアートな雰囲気を出す一方で、実際に暮らしている二人のアパートの冷たい空気感など、映像でドラマをじっくりとサポートしています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ジーナは視力が弱まったことを医師に相談し、使っている目薬を検査してもらうと、どうもすり替えられてたらしいことが判明。そんなことをする人間は、ダンナのジェームズしかいないのですが、ジーナはそのことを隠して別に目薬をもらってさし続けます。そんな彼女がアパートから引っ越したいと言い出し、自分で新居を探してきます。ジーナが、ダニエルの家を訪ねると、彼は自国へ帰る準備をしていました。二人は衝動的に抱き合い、関係を持ってしまいます。彼女が家へ帰るとジェームズが待っていて、彼女に新居の契約をしたことを告げます。ある日、二人のアパートに泥棒が入り飼い犬が行方不明になってしまいます。そして、ジーナが妊娠したことが判明するのですが、ジェームズは、ダニエルと妻の関係を疑いながら、自分の不妊のことは黙っていました。ジーナは杖を持たないと歩けないようになってしまいますが、新居に引っ越して、新しい生活が始まるのですが、実は彼女は夫に隠れて目薬を使っていて視力は悪くなっていなかったのです。飼い犬についてのダニエルからの手紙を見つけたジーナは、ジェームズが犬のことを隠していたことを知り、一方ジェームズはジーナの隠していた目薬を見つけるのでした。近所の女の子との自作の歌を歌う発表会の場で、ジーナは、ジェームズへの想いのたけを歌いあげます。それを聞いて、会場を去るジェームズ。そして、生まれた赤ん坊のアップからジーナのアップになって暗転、エンドクレジット。

お互いの秘密と負い目を感じながら、駆け引きを続ける夫婦の姿は、なかなかにスリリングであるのですが、最終的に二人の別れのシーンは見せず、でも終わったんだろうなと思わせる結末は、どっちが悪いというよりは、運命の皮肉を感じさせるものになっていまして、何とも苦い後味が残るものでした。目薬を入れ替えるダンナはひどいのはもちろんなんですが、別の男の赤ん坊を産むヒロインはどうなのって気もします。ただ、ジーナが赤ん坊の父親が誰かという確信を持たずにそのままにしたという気もしますので、そこは微妙な感じです。それまで、当たり前だった、妻の独占状態が崩れてしまったときと、妻の自我がよみがえったのが同じタイミングだったのが不幸だとは思うのですが、女性目線かすれば、妻を一生檻に入れて飼おうとしたダンナから、何とか逃げ切れたヒロインの勝利の物語と言うこともできましょう。というよりは、女性の自立が正しくて、かくあるべきだという文化からすれば、ヒロインの勝利の方がまっとうな見方ということになるのかな。でも、それだけの見方だと、盲目だった妻を支えた夫の愛情と費やした時間は無意味ということになっちゃうから、ヒロインの勝利だけで割り切るのもやだなあってのが正直なところです。でも、女性からすれば、映画の冒頭の夫に依存と感謝だけのヒロインは、見ていて歯痒いものかもしれないという気もしちゃうなあ。とは言え、映画の最初の時点では、ジェームズにはそれほど責められるところないってところもあって、男と女を善悪とか倫理、社会通念で割り切るのは難しいよなあって思わせる映画でした。ブレイク・ライブリーの美人さん以上のキャラが見られたことで、今後の彼女の作品が楽しみになりました。

「カメラを止めるな」は観て元気になれるエンタテイメント、おすすめ。


今回は世間の評判がすごく高い「カメラを止めるな」を上大岡のTOHOシネマズ上大岡9で、ようやっと観てきました。夏からずっと継続的に公開されているのはすごいですよね。シネコンでのロングランって映画はなかなかないですもの。世間の評判の良さは知ってても、後半の展開を知らなかったのはラッキーな鑑賞でした。

廃墟の中で、低予算ゾンビ映画を撮影している現場です。ゾンビ化した彼氏を相手にした演技がなかなかできなくて、監督にボロクソ言われるヒロイン。撮影が休憩に入って、ヒロインと彼氏役とメイク係が雑談していると何か不審な物音が聞こえます。この廃墟にはゾンビが出る噂があるとかという話をしていると、外に出た助監督がゾンビ化したカメラマンに襲われます。ちぎれた腕が3人の前の転がってきて、ギャー。そこへカメラを持った監督が「これがリアルだあ、撮影いくぞ」と狂ったような大張り切りぶり。小道具の本物の斧で武装して逃げ出そうとするのですが、車のキーをゾンビと取り合っているうちに、ヒロインがゾンビに噛まれたみたい。それを見たメイク女史が目の色を変えて、斧を振りかざして彼女を殺そうとします。逃げ回るヒロイン、追うメイク女史、さらに追う彼氏。建物の屋根に逃げたヒロインを追った彼氏とメイク女史がもみ合い、斧はメイク女史の頭にグサリ。でも女史の逆襲で、彼氏もゾンビ化、果たしてヒロインは生き延びることができるのでしょうか。

これは、評判どおり面白かったです。何より、観終わって元気になりましたもの。安っぽい血しぶきが飛ぶ映画なので、万人向けとは言いにくいのですが、いかにも作り物めいているので、リアルな刺激は少な目です。まあ、全体が低予算なビデオみたいな作りになっていて、ツッコミどころも多いのですが、そのツッコミが後半で回収されるという「そうくるか」の展開になっているので、理屈っぽい映画ファンは、そのツッコミが回収される快感を楽しめますし、ライトなファンは素直にその展開に乗ることができます。「低予算を逆手にとった」という表現は、B級映画をバカにしているみたいで、私はあまり好きではないのですが、この映画は「低予算(という設定)を逆手にとって」、低予算で面白い映画を作ってるのがすごいなあって感心。この映画をほめる言葉は色々と出てくると思いますが、まず「面白い」「楽しい」映画ですから、ご覧になることをオススメしちゃいます。



で、ここから先はネタバレ上等で書き進めないと、映画も感想も書き残せないので、未見の方、ネタバレはまだ知りたくない方はパスしてください。



追い詰められたヒロインは、ゾンビ化した彼氏の首を跳ね、それを喜々として撮影していた監督も合わせて惨殺。建物の屋根に血で描かれた星型の絵の中心に立つヒロインを捉えたカメラが上へあがっていくと、そこへ「ワン・カット・オブ・ゾンビ」のタイトルとスタッフ、キャストのクレジットが出ます。そして、お話は1か月前に遡り、ゾンビチャンネルというテレビで、30分生中継でワンカットのゾンビドラマを作ろうという企画が持ち上がります。監督に指名されたのは再現ドラマでそこそこの腕前という評価の日暮(濱津隆之)で、クセの強い役者連を相手に本読みからリハーサルと進みますが、その間も妥協の連続で、監督のストレスもたまることたまること。そして、いよいよ本番の日になるのですが、監督役とメイク係役の俳優が事故を起こして来れなくなっちゃいます。今さら代役を探すわけにはいかないというので、監督役を日暮自身が演じることになり、メイク係を娘と一緒に見学に来ていた日暮の妻で元女優の晴美(しゅやまはるみ)が演じることになっちゃいます。そして、生放送は始まるのですが、カメラマン役の俳優が酔いつぶれちゃったり、メイク係役の晴美が、役に入り込み過ぎて暴走しちゃったりと、段取りは思うように進みません。でも、監督としては、放送を中断するわけにはいかないと頑張って、物語を進めていくのですが、果たして望むようなドラマに仕上がるのでしょうかというお話。

で、映画の後半は、冒頭のゾンビドラマが裏方込みで再現されるという構成で、そこに思い切り笑えるドタバタをぶちこんで楽しませてくれます。単に思うようにドラマが進行しないドタバタというだけでも楽しめるのですが、冒頭のドラマで感じた、色々なツッコミどころのタネ明かしがされるので、それがまたおかしいのですよ。何か変な演出だなあとか、演出意図が不明な間があるなあとか、カメラが倒れたままになってるところは意図的なのかなあとか、そういうのが、実は進行上のトラブルだったというのをテンポのよいドタバタで見せるのですよ。ワザとらしいセリフとか、場違いな会話とかも実は苦し紛れのアドリブだったとか、そういうメイキングを見るおかしさで笑いを取ります。カメラが横倒しになったままなのは、カメラマンがぎっくり腰になったからで、その後の絵が荒っぽくなるのは、撮影助手が代わりにカメラを担いだからというあたりのおかしさですとか、急に監督役になった日暮が、これまで振り回されてきた主役二人に、アドリブ入りでマジダメ出しをするおかしさは、映画好きには余計目に笑える展開になっています。

で、最後はみんなで生放送をやり遂げたということで、色々揉めていた連中が充実感溢れた顔で喜び合う。つまり、集団で、ものづくりのお話になっているのですよ。だから、ゾンビ生放送プロジェクトXなんです。だから、後味がいい。曲者が寄ってたかって、一つのことをやり遂げるというのが物語の柱にあるから、娯楽度が高い。その一方で、綿密に作り込まれた映像の仕掛けがとんでもなく楽しい。冒頭30分がラストで種明かしされながら再現されたときにもたらされるカタルシスは、他の映画ではなかなか見られないものです。だって、安いZ級ドラマに、上から目線で、突っ込んでいたつもりが、それが全部笑いの種で、そのネタに目一杯笑わされてしまっているという、このまんまと術中にはまってしまった奇妙な快感は、なかなかクセになります。すごい映画だとか、特別な映画だとか言うつもりはないですが、この映画、まず笑えて、最後のものつくりの部分でカタルシスがあるというところで、娯楽映画として大変よくできています。夏バテ気味で元気のなかった私も観終わって元気出ましたもの。こういう映画にもっとお目にかかりたいと思います。また、評判になったおかげで私も劇場鑑賞できたわけで、クチコミあなどりがたしという映画でもありました。

演技陣は無名な人ばっかなんですが、それぞれのキャラを好演していまして、儲け役ながら、ヒロインを演じた秋山ゆずきのかわいさが印象的で、最後にブチ切れた決め絵がなかなかにかっこよかったです。後、ホラー映画作りに現場を舞台にしたというところでは、「女優霊」を思い出しましたし、同じことを二度見せて、二度目でその種明かしをするというのは、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の1と2を思い出しました。色々なところで、映画ってつながっているのかも。

「スカイスクレイパー」はドウェイン・ジョンソンだからこその面白さで映画としてうまい。


今回は新作の「スカイスクレイパー」を川崎の川崎チネチッタ12で観てきました。ここは、ライブサウンドという低音増強の仕掛けが入っています。スクリーン前にスピーカーが増設されていまして、スクリーン8のライブザウンドほどの派手な音ではありませんが、こういうサービスはうれしいです。

かつてFBIの特殊部隊だったウィルは作戦中に片足を失いますが、それが縁で看護師のサラ(ネーヴ・キャンベル)と知りあって結婚、双子の子供にも恵まれて、今は危機管理のコンサルをしています。今回、ウィルは、香港にある世界最大のビル「ザ・パール」の保安監査という大仕事で、家族と一緒に香港に来ています。オーナーの大富豪シャオ(チン・ハン)から、保安システムアクセスのためのiPADを受け取り、仕事を紹介してくれたかつての同僚ベン(パブロ・シュレイバー)と外部の管制室へ向かいますが、その途中でiPADを奪われそうになり、さらにベンが彼に銃口を向けてきます。一方のビルには謎の男たちが地下室の壁を破って侵入。まだオープンしておらず、ウィルの一家しかいない居住区である、96階に火を放ちます。一方、ベンを倒したウィルの前に武装したシア(ハンナ・クインリヴァン)たちに襲われ、iPADを奪われてしまいます。シア一味は、制御室を襲撃し、奪ったiPADを使って保安システムに侵入して、防火システムを止めて、さらに空調システムを操作して火勢を煽ります。火災に気付いたサラは子供たちを連れて逃げ出そうとしますが、階下からの炎に上へ逃げるしかありません。警察に追われることになってしまったウィルは、何とかビルに入り込もうということで、隣の建築中のビルから、燃える「ザ・パール」は入り込もうとします。最上階にいたシャオたちは、ヘリで脱出しようとするのですが、そこにはビルに火を放った連中が待ち構えているのでした。

燃え盛る240階建てのビルでのサバイバルアクションを描いた映画です。香港が舞台ということで、中国資本が入っているのでしょうが、プロデューサーに中国人はいないようです。快作コメディ「ドッジボール」「なんちゃって家族」を監督したローソン・マーシャル・サーバーが、脚本を書き、メガホンも取りました。コメディ2作では、職人芸プラス変なセンスのおかしさを感じさせたサーバーですが、この映画では、荒唐無稽な設定をシリアスなアクション映画にまとめて、職人芸のうまさを見せています。

ドウェイン・ジョンソン主演の映画は「スコーピオン・キング」「ウィッチ・マウンテン」「カリフォルニア・ダウン」くらいしか観ていないのですが、人間味があって頼もしいヒーローを演じるといい感じの俳優さんだと思ってます。ムチャはするけど、バイオレンス上等ではないキャラというのが、子供向け映画に出ても安心して見ていられるところがあります。この映画でも、家族思いの良きダンナ、良きパパという設定がすんなり入ってきて、その家族のためにムチャやるところが、笑い半分、応援半分の気分で観られるところが、娯楽映画としての点数を上げています。設定からすると、「タワーリング・インフェルノ」と「ダイ・ハード」を足したような映画なんですが、「ダイ・ハード」部分も主人公のキャラのおかげで「ダイ・ハード」ほど殺伐としないのはうまいと思いました。また、燃えるビル相手の主人公のアクションで、その荒唐無稽な見せ場を、ドウェイン・ジョンソンのキャラで納得させてしまうというところも見事でした。さらに、実在しないビルを様々な角度から移動ショットで見せる映画なので、CGをフル回転させている映画なのですが、CGっぽさを感じさせない演出と撮影で、ドラマを盛り上げていまして、業火に追われる主人公たちに感情移入できてしまいました。主人公がムチャするという突っ込みどころはあるのですが、それをジョンソンのキャラで納得しちゃうと、ドキドキハラハラの連続から、最後にはきちんとカタルシスのある、王道の娯楽アクションに仕上がっています。私はこの映画かなり楽しみましたが、それは演出と撮影のうまさが大きく貢献していると思います。

舞台となるビル「ザ・パール」は、高さ900メートル以上もある220階建ての世界一の高層ビルです。保安設備も万全で、ウィルもその確認のために呼ばれています。ところがそのセキュリティを、悪者たちが割と簡単に破ってしまうのですね。保安システムに入り込むのは難しかったので、ウィルのiPADを奪おうとしたんですが、それ以外のところは荒っぽいやり方で、96階に火を放ち、制御室を占拠しちゃうのですよ。そのあたりをリアルにやると、真似されて、実際のセキュリティがやばいことになるから、まあ大雑把に見せざるを得ないところですが、そこから先は、主人公も悪者たちもかなり出たとこ勝負のノープランで、特にウィルはムチャするんですよ。燃え盛るビルに隣のビルから飛び込もうとするのですが、それをテレビカメラが追いかけていて、下の野次馬も含めてみんな固唾を飲んで見守っています。警察に追われているウィルの行動を訝しむ警察のウー隊長(バイロン・マン)たちが、段々と彼に肩入れしていくところがおかしく、段々と彼がヒーローになっていくところをコミカルに見せる演出は成功しています。とにかく、世界一のビルが燃えていて、そこで男が何かすごいことをしているということが、世界中に実況されているのです。しかし、事件の全貌は外部の人間にはほとんどわかりません。警察も、ウィルの妻子がビルの中にいることを知り、彼が家族を救おうとしているらしいことはわかるのですが、そもそもこの火災の原因が人為的なものらしいので、保安システムにくわしいウィルが一番疑われちゃっているのです。一方、ビルに入り込んだ男たちのトップのコレス・ボタ(ローランド・ムーラー)はシャオの知りあいらしく、シャオの持つお宝が目的のようなのでした。

演技陣では、私にとってはしばらくぶりのネーヴ・キャンベルが昔よりきれいになって登場したのがちょっとびっくりでした。彼女をスクリーンで観たのは「バレエ・カンパニー」が最後だったのですが、ケバいキャラから、お母さん役が似合うようになったんだなあって感心。でも、結構強くて、2度も格闘シーンがあるのはなかなかすごい。また、「アトミック・ブロンド」のローランド・ムーラーは悪の元締めとしては、徹底した悪党っぽさが足らなくて、ウィルと対峙しても勝てそうな気がしないのは、まあ仕方ないのかな。ドウェイン・ジョンソンとタメを張る悪党にするには、無茶苦茶強いワルにしないといけなくて、ドラマの中で浮いちゃいそうですもの。また、「沈黙の聖戦」で、スティーブン・セガールの相棒刑事だったバイロン・マンが、隊長に昇格して、ドウェイン・ジョンソンの影の相棒的なポジションになるのがおかしかったです。ロバート・エルスウィットの撮影は、CGとの合成カットをリアルに作り、実際の炎のエフェクトと、CGの炎に違いが出ない絵をコントロールしていて見事でした。(これは、撮影監督の仕事なのか、視覚効果スーパバイザの仕事なのか、素人の私には判断しかねるのですが。)



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ウィルは隣のビルから燃え盛る「ザ・パール」に飛び移るのに成功します。一方、コレス・ボタはシャオのお宝を奪おうとするのですが、最上階の保安システムが独立した部屋に逃げ込まれ、システムに詳しいウィルを捕まえて、ドアを開けさせようとします。炎に追われバラバラになったサラと子供たちですが、ウィルは、息子とサラに合流することに成功、二人を動作を停止しているエレベータに入れ、ケーブルを切ります。落下するエレベータで電磁ブレーキをかけることで、無事に下に降りることに成功するサラたち。一方、娘がコレス・ボタに人質に取られてしまい、シャオの部屋を開けざるえなくなるウィル。別の制御盤を操作することで、シャオの部屋へ入ることができたウィルは、シャオがコレス・ボタのマネーロンダリングの全ルートを押さえていて、その情報が狙われていることを知ります。ウィルはその情報のファイルをシャオから受け取り、娘を人質に取ったコレス・ボタのところに向かいます。シャオのトリッキーな動きからビルの最上階の球体の中で銃撃戦になります。そこは多数の映像パネルが張り巡らされた鏡の間のようになっており、虚像と実像の交錯する中での銃撃戦の結果、ウィルはコレス・ボタを仕留めることに成功します。しかし、火勢は最上階まで来ています。一方、地上では、サラの指摘から、コレス・ボタがパラシュートで脱出しようとしていることが判明、その着地地点へ向かうと、そこにはシアたちが待機しており、警官隊と銃撃戦に。その結果、シアの持っていたiPADを取り返したサラが保安システムを再起動させ、消火装置を作動させることで鎮火に成功。そして、家族と抱き合うウィル、で、めでたしめでたし。

最後は火に追われたウィルと娘が死を覚悟したところで、妻のサラが保安システムを再起動させて、彼らの命を救います。家族の絆のお話に落とすところは、「なんちゃって家族」につながるところがあるなあって気づいてみると、この映画の構成が「なんちゃった家族」とつながるところあるんですよ。なるほど、家族がまとまる映画というところでは、同じラインなんだなあって。

ともかくも、派手なアクションとか殺人シーンもあるんですが、家族が力を合わせて困難に立ち向かう映画として、面白くできていて、ホロリとさせるところもあります。ただ、その家長がドウェイン・ジョンソンなので、やることが桁外れなのが、おかしくて、でも、応援したくなるというところがうまい映画でした。派手なCGに登場人物が負けない絵を作ったロバート・エルスウィトの仕事がこの映画を大きく支えています。

「スティール・サンダー」を観て、低予算B級アクションファンとして何かしみじみ。


今回は新作の「スティール・サンダー」を大森のキネカ大森3で観てきました。座席数40の小さな映画館なんですが、こんな映画に意外とお客さんが入っていてびっくり。さらに、エンドクレジットが終わるまで誰も席を立たないのにさらにびっくり。きっと、ここは常連さんがたくさんいるんだろうなあ。

独房の中で目を覚ましたウィーラー(ジャン・クロード・ヴァン・ダム)は、隣の房のマルコ(ドルフ・ラングレン)から、そこが潜水艦の中にあるアメリカの秘密収容所だと教えられます。もともとウィーラーは、CIAの極秘情報の流出を追っていた諜報員だったのですが、その取引相手のメリッサ(コートニー・B・ターク)と一夜を共にした翌朝、武装集団に襲われメリッサは殺され、ウィーラーは薬を注射されて拉致されたのでした。彼を拉致したフェリス(パトリック・キルパトリック)は、彼が極秘情報を入手して第三国に売ろうとしているとし、情報をメリッサから確保したもののそれを解読する鍵を持っているウィーラーを尋問しようとし、そこにCIAのローズ(アル・サピエンザ)も乗り込んできます。潜水艦は元米軍のもので操縦室は元軍人が指揮していて、収容所部分がフェリスの指揮下に置かれているというものでした。乗務員として乗り込んでいたキャシー(ジャスミン・ワルツ)は、かつての教官であったウィーラーが監禁されているのに驚きます。フェリスはウィーラーを拷問して尋問しようとするのですがうまくいかず、ローズに説得させようとするのですが、ローズとその部下が発砲して、フェリスとその部下は死亡、収容所の看守たちもローズに買収されてしまいます。しかし、そのゴタゴタの隙をついて、ウィーラーは部屋を脱出して、潜水艦の中に身を隠します。その時、道連れにしたキャシーを仲間にして、外部との通信を図ろうとしますが、ローズたちは、ウィーラーを追い詰めていきます。

ジャン・クロード・ヴァン・ダム主演のB級アクション映画の一編です。一時期、ブルガリアで撮影される映画に出てばかりいて、「その男ヴァン・ダム」でそのことをグチっていたヴァン・ダムですが、この映画はスタッフの名前を見る限りはブルガリア製ではなさそう。だからと言って、予算が増えたとか、出来栄えが1ランク上がったのかというとそういうわけではなく、B級というよりは、C級という感じでしょうか。まあ、こんな映画を映画館で観たということを自慢したくなる映画という感じでしょうか。ちょっと昔なら、銀座シネパトスや新宿トーア、新宿東映パラス3あたりで公開されてたB級アクション映画、もっと遡れば、丸の内東宝や江東リッツなんかで公開されてたんでしょうけど、最近のシネコンでは、こういうB級アクションはなかなか公開されなくなっちゃったのは残念な限りです。タイラー・W・コニー、リチャード・スワイツァー、チャド・ロウによる原案を、ロウが脚本化し、撮影監督出の実績があるパシャ・パトリキが初メガホンを取りました。

舞台が潜水艦なので、いわゆる潜水艦映画のジャンルに入るのかなと思うと、「眼下の敵」「レッドオクトーバーを追え」なんかとは比較するのも気の毒な低予算映画でして、潜水艦という設定は、舞台を密室空間にするためだけに使われていまして、潜水艦同士のバトルといったものは一切ありません。映画の冒頭には、派手な銃撃戦があったりもするのですが、それもさっくりと終わって、舞台が潜水艦の狭い空間の中に移ると、映画は大きな盛り上がりもなく、淡々と展開していきます。アクションシーンもカット割りが細かすぎて、とてもアクション俳優の映画とは思えないですし、狭い空間では銃撃戦もあまり成立しないので、かなりこじんまりとした映画になっているのは、もともと大きな期待をしていなかったので、まあ、こんなもんかという感じでした。派手なアクションができないのなら、主人公と敵方との知的な駆け引きとかで盛り上げて欲しいところですが、それもほぼなし。パトリキの演出は、お話を破綻させなかったのが上出来というくらいのレベルなので、まあ、のんびりと眺める映画に仕上がっています。映画館だから付き合えるけど、DVDになったのを家のテレビで観るには退屈と言ったらひどい言いぐさかしら。こういう映画を楽しむためには、座席数40でも、映画館が必要なんだなあって改めて感じました。

ヒロインもB級感漂いますし、ジャン・クロード・ヴァン・ダムもアクション俳優というより、伝説の人みたいになっちゃってるので、彼やドルフ・ラングレンを知らない今時の人が観たら、「何で、このおっさんたちがヒーローなの?」って思っちゃうのではないかしら。晩年のブロンソン映画よりも、現役感がなくなっちゃってるように思えたのは、映画館で観る機会が少なすぎるからかなあ。ジャン・クロード・ヴァン・ダムのB級アクションでもリンゴ・ラム監督と組んだ「レプリカント」とか「ヘル」とか結構面白かったんだけどなあ。同じくB級アクションスターでもスティーブン・セガールの映画の方がクオリティは低くても安心して観てられるんですが、この映画はどっか落ち着きがないというか不安定なんですよ。ヴァン・ダムが無敵ヒーローじゃないのに、それほどピンチにもならないってところとか、悪役が突き抜けたワルじゃないってところとか、狭苦しい潜水艦の中で普通にアクションしちゃってるとか、全体にこじんまりしすぎて、突出したところがないってところが弱いのかも。

それなりに期待させて登場する謎の男、ドルフ・ラングレンもこれといった見せ場なくって、せっかくの不敵キャラを生かしきれないのは、何か気の毒でした。もっとサービス精神で見せ場を作ってくれよという気がするのですが、それはご予算の関係で許してもらえなかったみたいで、ラストの処理のあっけなさも含めて、うーん、こんな感じかあ、まあ、こういう映画を映画館で観れただけ、まあいいかって感じの後味になっちゃいました。一応、極限状況の主人公を描く、サスペンスアクションを目指したらしいことはわかるのですが、それを作る力量不足で、スター映画ということで不足分を補おうとしたけど、それでもまだ足りなかったという感じかしら。でも、こういう映画って、最近、劇場公開されることがないので、若い人には意外と新鮮に映るかもしれないですから、機会があったら、ご覧になってみてください。観た結果のクレームは受け付けますです。



この先は結末に振れますのでご注意ください。



ウィーラーは援軍として、マルコを房から出します。彼はドイツの特殊部隊の人間で、何だか知り過ぎた事情から閉じ込められていたようです。ウィーラーは、タンクのバルブを緩めて、司令室の人間が修理に来させ、その隙に司令室側に入り込むのですが、ローズもそこに乗り込んでいて、艦長は両者の言い分の違いに躊躇していると、ローズが銃をつきつけて潜水艦を接岸させようとします。そこへ、死んだ筈のメリッサが現れ、彼女もローズの一味だったことが判明。そこで銃撃戦になって、艦長や乗組員も死亡し、ウィーラーも撃たれますが、最後にはローズを射殺するものの、メリッサは艦から姿を消します。そして、キャシーは諜報員としてウィーラーと組んで情報流出の一件を追うことになります。また、メリッサと同じく艦から姿を消していたマルコは、逃亡して姿を隠していたメリッサに銃弾を撃ち込み、「借りは返した」とウィーラーに電話してきます。ウィーラーとキャシーのツーショットから暗転、エンドクレジット。

クライマックスは、青空の下にボートチェイスとか集団格闘といった見せ場を期待させる展開になるのですが、結局、潜水艦の司令室内の銃撃戦で終わっちゃうのは、かなり肩透かし感がありまして、ああ、お金のない映画なんだなあってしみじみ。昔のB級アクションものだと、田舎道のカーチェイスとかショットガンの銃撃戦をクライマックスに持ってきたりしていたのですが、そういうのどかな田舎アクションは作られなくなってしまって、それなりにハイテク風ドラマを低予算で作るもので、なかなか見せ場を作りにくくなっちゃったのかもしれません。そういうB級アクションの時代の流れを感じることもできる映画ですから、70年代くらいから映画を観ている方には、B級アクションもこんな感じになっちゃったというサンプルの意味でオススメしちゃいます。この主役二人は、25年前に「ユニバーサル・ソルジャー」というSFアクションもので共演しています。あの頃は、SFXを多用したアクション映画がたくさん公開されていまして、それなりの予算をかけたものが作られていたなあなんてのも思い出しちゃいました。ヴァン・ダムも「タイム・コップ」「サドン・デス」といった、スタローンやシュワちゃんのちょい下クラスの映画に出ていたんだよなあ。

というわけで何年も映画を観てきた方には、色々としみじみできる映画としてオススメしますが、「ジャン・クロード・ヴァン・ダム? 誰それ?」という若い方には、単品映画として楽しむにはしんどいところもあるので、オススメできないです。でも、このジャンルのスター俳優によるB級アクションは亡くなって欲しくないんですよね。最近ですと、そういうB級アクションスターとしてニコラス・ケイジが頑張っているので、彼が動けるうちに後継者が出てきてくれるといいなって思います。

「天皇と軍隊」は左右の立場を問わずオススメできる戦後の歴史の解説ドキュメタリー


今回は、2009年のフランス映画「天皇と軍隊」(日本封切 2015年)を横浜シネマリンで観てきました。マニアックなラインナップを組む映画館です。かつて、色々なドキュメンタリー映画を横浜シネマジャック&ベティで観てきましたが、最近は、ドキュメンタリーはこちらで上映されることが多いようで、そのあたりに番組の棲み分けというか劇場の色分けがされているみたい。劇場のカラーなんて、死語だと思っていたけど、横浜市の一角にはまだそれが残っているみたいです。

映画は終戦の時から始まります。アメリカ本国から、日本の統治を任されたマッカーサーに本国から与えられた指示はかなり曖昧なものでした。その曖昧さは柔軟さにもつながり、マッカーサーは日本政府を脅しながらも、彼の意思も交えてフレキシブルな対応をしていくことになります。中でも、彼は天皇を日本統治の重要なコマとして重用し、天皇も天皇制が維持されることで、彼に協力することになります。そして、マッカーサーは天皇の神格化をやめさせるとともに、戦争犯罪人として天皇を訴追しないようにし、東京裁判でも天皇の戦争責任が問われないように図ります。そして、天皇の言葉により、軍人たちは素直に武装解除し、国民も進駐軍に対する敵対活動は起こさず、大きな衝突もなく、日本の戦後処理は粛々と行われたのでした。新憲法も日本政府案に納得しないGHQは、若い将校や女性などを集めて、アメリカ人が憲法の草案を作成し、最終的にそれをベースにした憲法が議会で可決されることになります。ここで、象徴天皇、戦争の放棄、政教分離が明文化され、戦前の日本を軍国主義へ進めた要因を刈り取ります。ところが、朝鮮戦争の勃発により、日本への風向きが変わってきます。在日米軍が朝鮮に送られると、国内に日本人による警察予備隊と海上保安隊の立ち上げをマッカーサーは要求してきます。しかし、これはできたばかりの憲法の第9条に抵触することでもありました。

終戦から日本の戦後を整理して描いたドキュメンタリーです。パリに住み、欧州のテレビ向けドキュメンタリーを数多く手がけてきた渡辺謙一が監督していますが、スタッフはフランス人で、ナレーションもフランス語で日本人の話す言葉にはフランス語の字幕が出ます。監督が、日本の戦後の状況を、欧州の人にもわかる形で描いたドキュメンタリーということができます。監督の視点が日本人と距離を置いているので、言ってることにイデオロギーのバイアスがあまりかかっていない点が好感が持てました。言ってることが正しいかどうかは置いといて、初めて聞く人にもわかるように伝えようという語り口は、池上彰のテレビ番組と似たものがあります。核心には近づくけど直接手を突っ込んで感想を述べることは避けるという見せ方も、池上さんと似たところがあり、この映画は、右翼、リベラルの言い分を並列に並べて見せることで、観客に考える機会を与えようとしているのがなかなか面白いところです。そういう視点で、日本を語るというのは、外国で作る映画だからということもありましょうが、当事者感の出さないで、日本の戦後を描くドキュメンタリーというのは結構新鮮でした。そんな中で、今まで自分が気づいていなかった点が提示されるので、勉強になるし、面白い映画でした。誰が戦争で辛い思いをしたとか、原爆でこんな人生を送ったとか、そういう個人の視点は一切排して、マクロな視点で日本の戦後を眺めてみると、普段気づかないことが見えてくるのですよ。

まず、日本は全ての戦前を捨て去って、新しい戦後の日本をやり直したというのが、国民的な共通認識だと思っていたのですが、戦争責任者である天皇は責任を問われず、さらに戦前と同じ天皇が戦後もずっとその地位にとどまったというのは、かなり意外なことなんだということ。確かに、戦争に対して天皇が発言権を持ってなかったというのは、歴史の番組とかで語られるのですが、最終的なポツダム宣言受諾でご聖断をあおいでいるところからすれば、もっと前から、ご聖断で戦争の泥沼化を防いで、多くの命を救えたのではないかという突っ込みが入ってもおかしくないと思います。戦線拡大中は文句ないから沈黙の合意ではないかという突っ込みがあってもいいのでは? この映画に登場する神道家が「日本人には法律をいった政治システムを越えた天皇という存在と共存する」みたいな発言をするのですが、そういう人には、天皇の戦争責任を問うという行為自体が不遜で不敬なものになっちゃうのでしょうね。でも、外から見た日本の奇妙な点の一つみたいなんです。そして、戦前戦後を同じ天皇が即位し続けたということは、終戦で大転換があったというのは怪しいんじゃないのという突っ込みにも一理あるなという気がします。

また、マッカーサーが天皇に敬意をもって接したことを、昭和天皇ってこんな素晴らしいお人柄なんだよというエピソードで語られることが多いのですが、この映画では、両者の利益が一致したから、良好な関係が築けたという見せ方をしています。マッカーサーにとって、天皇は日本統治のために大変役に立つコマであり、そのコマを最大限に活用したし、天皇にとっても天皇制維持を支持してくれるマッカーサーがありがたい存在だったという見せ方は日本国内では絶対しないだけに、なるほどねえ、そういう見方もありだなあと感心しちゃいました。そこに感心できたのは、この映画が正しいとか間違っているという捉え方をせず、全てを力関係の中に位置付けているからでして、リベラルの言うことももっともだと思う一方で、右翼の言う事にも一理ある。後は、同じ思いを持つ人間を増やせば、それはマジョリティとなり、賛同する人が少なければマイノリティとなり、最終的にその意見はタブーとなって口にもしづらくなっちゃうというパワープレイなんだと、気づかされました。昔は、憲法改正はタブー扱いだったのが、今は誰でも話題にすることができます。昔は、平和主義とか平和という言葉を平気で使えたのに、今は使いづらい雰囲気になっちゃっています。そんな時代の流れの中で、過去の評価が変わっていくというのはよくあることだと思います。ただ、時代の空気に流されてしまうのも何だかなあと思う方には、この映画は一見をオススメします。右の人にも左の人にも言いにくいこと、そこを突かれると痛いところをちゃんと語っています。その上で、自分の共感できる方を選択することができます。

他にも、軍隊のあり方として、戦争をする軍隊、自衛する軍隊、国際貢献する軍隊という3つの顔を並べて論じるべきだというところも発見でした。単に、軍隊の存在にNOかYESかでは、議論できる時代ではないということなんですって。なるほど、憲法9条も言葉を補うという選択肢は必要なのかなあ。と、納得しつつも、私は、憲法9条を変えない方がいいと思っている一人です。私の観点は平和憲法かどうかってところではなく、過去の歴史を振り返れば、憲法9条変えない方がいいんじゃね、だって、今の憲法があるのに、自衛隊作ってここまで人も武器も増やしてきたわけでしょ? 政府は政策の前では憲法だって目一杯拡大解釈するんだから、ここで憲法で自衛隊を認めたら、もっと先のことまでやるのは目に見えてると思ってます。徴兵制まではすぐにやらないにしても、憲法が認めた自衛隊にもっとお金をかけるし、海外派兵もためらわないし、海外駐留軍だってやりかねない。だって、今の憲法で、ここまで自衛隊を大きくしたんだもん。これをゆるめたら、その先まで突っ走るのは容易に想像つくのではないかしら。政府の暴走の歯止めとしての憲法9条は大事だと思うわけです。80年前と日本人の性根が大きく変わってるとは思えないので、世界的な危機感をあおって、民俗的優越感を鼓舞すれば、戦前と同じメンタリティに簡単にはまっちゃうような気がしてまして、そういう気分の盛り上げの歯止めとして、今の憲法は大事にしておくべきではないかなあ。アメリカに押し付けられた憲法だから、日本独自の日本人のための憲法をなんて言いだしたら、変な気分で暴走しちゃうような気がします。日本人はそういう調子に乗る国民性だというのは歴史が語ってますしね。

後、日本国内では、戦争の被害者の側面だけがクローズアップされているけど、最近になって加害者としての日本というものが語られるようになってきたというサンプルとして、韓国の従軍慰安婦問題が取り上げられています。2009年という時期では、従軍慰安婦報道に虚偽のものもあったという朝日新聞の訂正もなかったころなので、日本国の犠牲者という見せ方になっていますが、結局、この従軍慰安婦問題に色々とウソが仕込まれていたことが判明して、日本人にとって戦争加害者という反省が逆に薄れてしまっているのが現状ではないかしら。実際のところ、中国や東南アジアで色々やってるのではないかという気もするのですが、旧日本軍兵士があまり大陸での蛮行を語らないこともあり、加害者としての日本というのは、最近の「日本バンザイ」「日本人偉い」の風潮の中で、だんだんとなかったことになりつつあります。これは怖いことだと思うのですが、語られない歴史を文字や映像に残すのは難しいようです。

映画の中では、右の人も左の人も、日本の戦後っていびつだって言う点では一致しているんですよ。色々なものを曖昧なまま白黒つけずにしちゃったものだから、右の人から見ても、左の人から見ても、何だかおかしいぞという感じ。そんな日本の戦後を象徴するのが、昭和天皇の存在(そのありよう)なのだという見せ方をして映画は終わります。私は昭和天皇に恨みもないですし、気の毒な時代を生きた人だとは思うのですが、その一方で、戦前戦後を同じ天皇が務めたということで、いかに人間宣言があったにせよ、戦前の国家神道は日本人の心に生き残り、そこに戦争の被害者意識が加わったことで、戦前を真面目に反省しないで、民主主義の上澄みだけ掬い取って、民主国家のような顔をしているのかもしれないと感じました。なぜ、そう思うかというと、戦前と戦後のメディアの振れ幅があまりに大きくて、普通の人間ではマジメに対処できなかったのではないのかなって気がするからです。ともあれ、色々と考えさせられるところの多い映画でして、右の方にも左の方にも何かを感じ取ってもらえる映画ではないかしら。オススメです。

「マンマ・ミーア ヒア・ウィ・ゴー」は色々突っ込みどころあるけど、音楽パワーで楽しめちゃうのがすごい。


今回は新作の「マンマ・ミーア ヒア・ウィ・ゴー」をTOHOシネマズ日比谷1で観てきました。ここはTCXというでかい画面が売り物の劇場です。昔で言うところの70mm上映ってことになるのかな。まあ、上映する素材は変わらないので、フィルム解像度が異なる70mm上映ではなく、35mmフィルムを70mmサイズに拡大上映した、70mm方式上映ってことになるのかも。でも、フィルムのように拡大上映しても映像が荒っぽくならないのはデジタル素材の強みなんでしょうね。

ギリシャのカロカイリ島で、亡き母ドナの遺志を継いだソフィ(アマンダ・セイフライド)が新しいホテルを開業しようとしています。支配人のシエンフエゴス(アンディ・ガルシア)たちがオープニングパーティの準備に忙しく走り回る中、ソフィは、ニューヨークでのホテル経営研修に参加している夫のスカイ(ドミニク・クーパー)と喧嘩しちゃって、ホントにここでホテル始めてうまくいくのかしらとちょっと不安。そんな不安を3人の父親のうち島に住むサム(ピアース・ブロズナン)に打ち明けるソフィ。他の二人の父親ビル(ステラン・スカルスガルド)とハリー(コリン・ファース)が他の用で来れないってのもちょっと寂しい。で、時間が遡って、オックスフォード大学を卒業した若い頃のドナ(リリー・ジェームズ)が、カロカイリ島にやってきて、ソフィの3人の父親とのなれそめが語られるのでした。人生の目的を探すために世界を旅していたドナがこの島へやってきて、すっかり島を気に入ってしまうのですが、それと前後して、3人の若者と知り合って、やることやってましたって、それって尻軽女(← ピー音入る)のビッチ(←さらにピー)でないかい?

アバの楽曲を使って、ギリシャを舞台にしたミュージカルを作って、大ヒットした「マンマ・ミーア」を、舞台の脚本家と演出家で映画化したのが、2008年なんですって。てことは、10年ぶりの続編ということになるのですが、前作からの登場人物の見た目がほとんど変わってないのがびっくり。当時20代だったアマンダ・セイフライドが30代になっているのに、前作と印象が変わらないってにはすごい、これが、ハリウッドマジックってやつかしら。映画の設定としては何年後なのかわかりませんが、ソフィのご懐妊エピソードが出てくるってことは映画の中では、10年のスパンはなさそう。で、大きなドラマチックな展開があるかというと、これがドラマ的な展開はほとんどありません。前作の前日談と後日談だけで、一本の映画を作ってしまったというかなり思い切った内容の映画です。前日談も経緯は前作で語られていますから、それを若い俳優で映像化しただけで、新事実が発覚するわけではありません。そんな思い切った内容の映画のストーリーを前作の脚本を書いたキャサリン・ジョンソンと、リチャード・カーティスと「マリーゴールドホテルで会いましょう」のオル・パーカーの3人で書き、パーカーが脚本化してさらにメガホンを取りました。

前作は、娘の結婚式に父親が3人もやってくるというお話をコミカルに描いて、その間にアバのナンバーを挿入していくというつくりで、それはそれで面白い趣向ではありましたが、私はあまり乗り切れませんでした。それは最初の楽曲ありきで、ドラマの中に強引にアバのナンバーを押し込んだ感があり、歌でドラマを語るミュージカルとしては今イチなんじゃないの?って感じてしまったのです。ロケーションがよくて絵がきれいなのは認めちゃうし、豪華キャストもいい感じなのですが、物語のリズムと楽曲の挿入されるリズムがうまくシンクロしてないような気がしちゃって、ミュージカルってこういうのじゃないよなって勝手な思い込みもあって、面白いけど堪能するまでには至りませんでした。その面白さはほとんど楽曲の良さによる部分だったという印象でした。今回はその続編ということでどうなるのかなあっていい方への予感はありました。

結論から言っちゃうと、前作のいいところはそのまんまで、前作で今イチだったところは今イチでした。楽曲の美しさ、キャストの良さはいい感じだった一方、楽曲シーンで戦隊ものみたいに細かくカットを割る編集には前作と同じ不満を感じてしまいました。で、母親の遺志を継いでホテルを始めようってところは、結構いい話なんですよね。アマンダ・セイフライドの頑張りとか、それを支えるピアーズ・ブロスナン、ホテルにやってくる母親の旧友などが、母親のドナを慕っているところが伝わってくるのですよ。セイフライドはこういう軽いドラマでいい演技を見せてくれまして、若手女優さんの中では、どんなキャラでも演じ分けるうまさはピカイチではないかしら。(← 単に私がファンなだけということでもありますが。)

それが過去のシーンになると、「ん?」となっちゃうのですね。もともと前作で、ソフィの父親が3人もいるという設定がありまして、ドナにも3人の誰が本当の父親かわからないというのがまあネタみたいに扱われていたんですが、今回は何でそうなっちゃったのかを再現ドラマにしちゃったのですよ。大学を卒業して、自分探しの世界旅行に出たドナは、ギリシャを訪問した時、立ち寄ったカロカイリ島をすっかり気に入っちゃうのですが、その短い間に、3人の若者と知りあいになり、次々とベッドインして、カロカイリ島に定住することに決めたら、どんどんお腹が大きくなってきちゃったというお話。これって、海外旅行に浮かれたお股のゆるいヤリ〇ンビッチってことじゃない? 前作では過去のネタとして笑える話だったのですが、それを実演で見せられるのは、ちょっとなあって思うのは、私が古風で保守的なのかなあ。さらに、この映画では、そういう行動を肯定的に描いているんですよ。うーん、ドナの親がこれ見たら泣くぞとも思ったのですが、クライマックスで登場するドナの親がシェールだったもんで、なるほどこの親にしてこの娘ありなのかなとちょっとだけ納得。でも、若いドナが男のお股を谷渡りする過去部分は、保守系オヤジにはしっくりきませんでした。女性の方がご覧になった時、ドナの若い頃のエピソードは、肯定的に捉えられたのかしら。まあ、映画はラストに勢いでドナを肯定的に見せ切る力技で、なんとなく盛り上げちゃうので、ぼーっと見てると、ああよかったよかったハッピーエンドって気分になるのですが、ちょっと落ち着いて考えると、普通の人なら、黒歴史になるところだよなあ。

演技陣では、名優の域に入るであろうコリン・ファース、ステラン・スカルスガルド、ジェリー・ウォルターズといった面々が軽いドラマでもきっちり画面を引き締めるのはお見事でした。若いビッチドナを演じたリリー・ジェームズは、健康的な太腿が印象的な女優さんですが、健康的キャラとやってることのギャップが今一つな感じでした。とまあ、ヒロインの若い頃に共感できれば、楽曲が魅力的ですので楽しめる映画だと思います。私のような、ミュージカル部分にカット割り細かいとか、ドラマとのバランス悪いといったツッコミを入れる偏屈オヤジでなければ、素直に楽しめる映画に仕上がっています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



若いドナは、島の誰も住んでいない廃屋を気に入って、そこに住みたいと思うようになります。町の食堂のバンドに雇ってもらえたドナに、食堂の女主人は、廃屋の持ち主は自分で、あんたなら家賃タダで住まわせてあげると言ってくれるのでした。さて、お話が現代へ戻ってみれば、ホテルのオープンパーティの前日、嵐がやってきてせっかくの飾りつけはボロボロで島へ来る船も欠航。がっくりと落ち込むソフィ。一方、最初はパーティ欠席の予定だったビルとハリーが予定変更してギリシャへやってきます。島へどうやって行こうと思案していると、若い頃にプロポーズを助けた漁師と再会、そして、漁師と家族もろとも連れて島へ乗り込んできます。たくさんのお客さんに、ソフィを始めホテルのスタッフは大歓迎。そして、その場で、ソフィのご懐妊が知らされるのでした。そして、9か月後、島の山頂にある教会へみんなが集まって赤ん坊の洗礼がされるのです。そこで、ドナ(メリル・ストリープ)が現れて歌い上げるのが、ソフィにだけは見えているみたい。エンドクレジットのバックは出演者がリレーで歌い踊るエピローグでめでたしめでたし。

なんとなくハッピーエンドの雰囲気へ持っていくのは演出のうまさでしょう。それまで、写真でしか出てこなかったメリル・ストリープが、教会で歌い出すシーンは結構感動的でして、リゾラバビッチの成れの果ての筈のメリルの歌がなかなか泣かせるのですよ。うーん、何だかんだ言っても、結局は音楽の力にはかなわないなあって気分になりました。音楽の力が、ドラマのアラとか、不満とかをみんな吹き飛ばしてしまう、なるほど、アバの楽曲ってすごいんだなあ。まあ、そのすごさあって「マンマミーア」というミュージカルが作られたわけですから、何を今さらな話なんですが、これだけ文句をつけた映画でも、それでも楽しんでしまったのは、音楽の力があったからなんだというのは発見でした。

「ミッション:インポッシブル フォール・アウト」は「トム様映画」だけど「トム様映画」として面白くできてます。


今回は新作の「ミッション:インポッシブル フォール・アウト」を、川崎のTOHOシネマズ川崎7で観てきました。大きめのスクリーンと大劇場の作りは大作を観るにふさわしい映画館になっています。

IMFのイーサン・ハント(トム・クルーズ)の活躍により、犯罪組織シンジケートの首領レーン(ショーン・ハリス)は逮捕されたものの、アポストルと呼ばれる残党でたちは世界中に散り、今度は核兵器テロを計画していました。彼らの狙うプルトニウム3個をかすめ取るミッションに臨んだイーサンですが、組織側の襲撃を受け、捕らわれたメンバーのルーサー(ヴィング・レイムズ)に気を取られているうちに奪われてしまいます。アポストルのカギとなる人物ジョン・ラークが、仲介者ホワイト・ウィドウ(ヴァネッサ・カービー)を仲介にプルトニウムを買い取るという情報をキャッチ。今度はレーンに成りすましてプルトニウムを奪うというミッションを仕掛けることになるのですが、CIA長官のスローン(アンジェラ・バセット)はそこへお目付け役としてウォーカー(ヘンリー・カヴィル)を同伴させるのでした。ジョン・ラークに化けたイーサンに、ホワイト・ウィドウの出したプルトニウムの交換条件は、移送中のレーンの奪取でした。護送警官皆殺しの計画を押し付けらたイーサンですが、当日、レーンの乗る車を川へ落とすことで、レーンの誘拐に成功します。一方、かつてイーサンに助けられて足を洗っていたと思っていたイルサ(レベッカ・ファーガソン)が割り込んできて、イーサンの危機を助けたり、レーンの命を狙ったり、彼女はどうやらMI6の指令で、レーンを追っているようなのでした。一方、CIAは、ジョン・ラークの正体はイーサンだという証拠を固めて、IMF長官ハンリー(アレック・ボールドウィン)に揺さぶりをかけてきます。アポストルはどこで核兵器テロを行おうとしているのでしょうか。イーサンたちは果たしてそれを阻止することができるのでしょうか。

トム・クルーズの「ミッション:インポッシブル」シリーズも今回は6作目、1作目から22年もたっているというのにはびっくり。4,5作目がかなり面白かったので、今回も期待するところ大でスクリーンに臨みました。前作と同じく「ユージュアル・サスペクツ」の脚本を書いたクリストファー・マッカリーが脚本を書いて、メガホンを取りました。レギュラーメンバーとして、ヴィング・レイムズとサイモン・ペッグは続投。前作からの引継ぎで、レベッカ・ファーガソン、ショーン・ハリス、アレック・ボールドウィンが参加、そして新しくヘンリー・カヴィルとアンジェラ・バセットが加わり、前作の続編という形で物語は進んでいきます。

冒頭の作戦で、プルトニウムの取引で、ルーサーが人質に取られ、彼の救出に気を取られ、プルトニウムを奪われてしまうという失敗を犯してしまうイーサン。核兵器テロを目論むアポストルを阻止するために、IMFは再びイーサンのチームを送り込もうとするのですが、CIAはそれにイチャモンをつけてきて、CIAエージェントのウォーカーをお目付け役に押し付けてきます。仕方なく、彼を連れてプルトニウムを仲介するホワイト・ウィドウに接触、そこでレーンとプルトニウムの交換という話になるのですが、ここから先はお話が錯綜して、ちょっと組織関係が見えないところが出てきます。レーンの誘拐に成功し、それを使ってどうするのかと思っていると、内部の裏切り者であるジョン・ラーク探しの方向へ話が進んでいきます。さらに、前作で悲劇のヒロインだったイルサが絡んでくるので、あれ?プロトニウムは?ホワイト・ウィドウは?と、私は筋を追いきれなくなったのですが、イーサンの前に次々に登場するピンチと反撃を見ているうちに2時間半余が過ぎてしまいます。

見せ場を派手につないでいく構成は、無敵のヒーロー、イーサン・ハントの映画になっていまして、その無敵ヒーローを敵方がどこまで追い詰めるかが、映画の本筋になっています。今回はチームプレイとか作戦の積み上げで敵を出し抜くという趣向は少な目でして、イーサンのスタンドプレイ中心という展開になっているので、前作を面白く思った方(私もですが)には、期待してるのとちょっと違うという感じになっちゃうかも。その分、イーサンの孤軍奮闘ぶりはすごいものありまして、スタントのかなりの部分もトム・クルーズ自身がやっているようです。ただ、最近のデジタル技術は顔の入替までしちゃうらしいので、本当にやってても、CG処理じゃない?って思っちゃうのは、アクション俳優やスタントマンの皆さんには気の毒なご時世になってきました。実際、この映画でも、エンドクレジットで、複数の視覚効果チームがクレジットされているので、ヘリにぶら下がってるのも、グリーンバックなんじゃない?なんて勝手に思っちゃうので、映画の宣伝映像やパンフレットで、「トム・クルーズ、こんなところも本人やってるんですよー」って頑張ってアピールしなくちゃならないのは、映画にとっていい時代になのかしら。その昔「大脱走」でスティーブ・マックイーンがものすごいオートバイスタントをやった時は、みんなすごいって思ったのかなあ。(そういうスタントの部分を映画のセールスポイントにはしてなかったのではないかしら。)

その結果、スパイアクションというよりは、「トム様映画」になっちゃったってところは否めなくて、チームプレイの部分が後ろに下がってしまいました。また、「トム様映画」の展開が、ノープラン出たとこ勝負になってるのも、物足りなく感じてしまいました。マッカリーの演出は快調なテンポで観客をぐいぐい引っ張っていくので勢いで楽しめちゃうのですが、それでも、核兵器テロを止めるってのが、ノープランでとにかく追っかけろってのは、トム様度高すぎかなあ。こっちとしても、ラストでトム様が負けるとは思ってないけど、そこに至るまでにいくつか伏線引いておいて、このシリーズならではの、ミッションのサプライズがあって欲しいって気がしました。前作では、アクションの最大の見せ場をタイトル前に持ってきて、クライマックスは、ミッションの仕掛けでサプライズを仕掛けてきましたが、今回、それが逆になっているので、そこは好みが分かれるところです。

アクションシーンは、かなり頑張って見せ場を盛り上げていて、特にカーチェイスで、イーサンの顔が映るように彼と一緒に走り回るカメラワークが見事でした。スカイダイビングとかヘリチェイスもすごい見せ場ではあるんですが、こちらにすごさの実感がないので、街の中を走り回るカーチェイスの方がのめり込んで堪能できるのですよ。今回、ヘリコプターをトム・クルーズ自身が操縦しているのが売り物らしいのですが、撮影方法に限界があるのか、あくまでヘリ同士の追跡劇にしかならず、乗ってる人が追いかけてる感じにならないのが残念でした。

演技陣では、唯一そのキャラが立っていたイルザ役のレベッカ・ファーガソンが印象的でした。前半、ハードボイルドに登場してクールなアクションが、イーサンたちと合流してからは、恋する女性の顔になっちゃうあたりがおかしくて、「トム様映画」ならではのポジションではあるのですが、そのツンデレぶりがかわいかったです。また、一緒にいるとトラブルしか招かないということで、愛し合ってるけど別れたイーサンとジュリア(ミシェル・モナハン)のカップルの後日談が描かれ、そのあたりはホロリとさせる展開となります。また、今回は音楽をリメイク版「ロボコップ」のローン・バルフェが担当していまして、これがなかなか頑張っていました。「ロボコップ」の時はオリジナルのフレーズを冒頭でちょっとだけしか聞かせず、後はモチーフが見えないアクション映画のパターン音楽でがっかりだったのですが、今回は、オリジナルのラロ・シフリンによるモチーフを大幅に取り込んで、昔のテレビ版のフレーズを最大限に生かして、ドラマを盛り上げるのに成功しています。偉大なオリジナルのフレーズがあって、それに太刀打ちできるモチーフを作れないなら、この映画のように、臆面もなくオリジナル曲をアレンジして鳴らす方がドラマへの貢献度は高いのですよ。おかげで、耳慣れたフレーズを重厚にアレンジした音楽で、ドラマを盛り上げるのに成功しています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



レーンを捕えたところで、イーサンたちはハンリー長官と合流するのですが、そこでイーサンたちは、FBIのウォーカーがジョン・ラークであることを暴きますが、そこへアポストルの追手がやってきて、長官はウォーカーに殺され、ウォーカーを追跡したイーサンは一歩のところで逃げられてしまいます。しかし、レーンにつけて追跡装置のおかげで、アジアの水源地近くの難民キャンプへと向かいます。レーンたちは、ここで核兵器テロを起こしてアジアの水を汚染しようという計画だったのです。そして、そこには別の男と結婚したジュリアが医師団として居合わせました。どこまで、イーサンにこだわるんだアポストルは?! そして、起爆装置は起動され、残された時間は15分、2つ連動している爆弾のうち1つは発見されますが、その時、起爆装置とともにヘリに乗ったウォーカーを、イーサンがもう一機のヘリで追います。連動する爆弾は起爆装置を解除した後に二つ一度にケーブルを切る必要がありました。もう一つの爆弾をイルザが発見しますが、レーンに殴られて縛られて万事休す。ベンジーがそこへやってきてレーンと格闘になるのですが、縛られたイルザも参加して何とかレーンを仕留めます。一方、イーサンは、ウォーカーのヘリから攻撃されて、こちらも万事休す。しかし、イーサンは自分のヘリをウォーカーのヘリにぶつけて、両方のヘリは墜落。墜落後、崖の上で、格闘となるイーサンとウォーカーですが、崖下に落とされたウォーカーは絶命、爆破1秒前に起爆装置の解除は間に合って、核兵器テロは回避されるのでした。再会を喜ぶ、イーサンとジュリアでしたが、彼らは再び別れる運命が待っていました。生け捕りとなったレーンは、ホワイトウィドウ経由で、英国MI6に引き渡され、これで、イルザもスパイ仕事から足を洗えそうな予感です。おしまい、エンドクレジット。

核兵器テロを寸前に食い止める話というと、ちょっと昔の「ピースメーカー」を思い出しました。あれも最後はずいぶんとご都合主義な結末になるのですが、今回はそれを上回るノープランな展開で、もう少し、知恵を使ったイーサン・ハントを見せて欲しいと思っちゃいました。出たとこ勝負でヘリにぶら下がって、それを乗っ取って、起爆装置のあるヘリを追うというのは、ちょっとムチャしすぎ。体当たりなんてしたら、墜落しちゃうじゃん、そしたら起爆装置もどっかいっちゃうじゃん、なんていうヤボな突っ込みをしてはいけません。だって「トム様映画」なんだもん。神のみぞ知る、のではなく、トム様の判断は、神の判断なんですから。これが、時に非情な007のやることならわかるんですが、情に厚いイーサン・ハントが「イチかバチか」をやるのは似合わないって思ってしまいました。そう思ったのは私だけかな。ともかくも、ラストはチーム一体となって、運を天に任せるという展開になるのは、ドキドキハラハラのアクション映画としては、よくできてるけど「ミッション:インポッシブル」ではないような。ラストの畳み込みの盛り上げとしつこさは、「ハムナプトラ」シリーズと「ダヴィンチ・コード」シリーズを思い出しましたが、何らかの影響を受けているのかも。

誰か一人を助けたいと思って行動することで、最終的に何万の命を救うことになるというのは、スパイ映画とは思えないエモーショナルな見せ方なのですが、そういうところもこれはスパイ映画ではなく、ヒーロー映画なのでしょうね。ゲーム的なスパイ映画を期待すると、筋肉バカ映画になっちゃっているので、大きな期待は禁物ですが、筋肉バカ映画を「トム様映画」までに、格上げしたマッカリーの脚本、演出は見事だと思います。娯楽映画としてはかなりハイレベルにまとまっていると思いますもの。でも、個人的には前作の方が好き。

「ウインド・リバー」はシリアスな題材を扱っていてドラマも見応えあるけど、重厚ハッタリ演出が何かしっくり来ない


今回は新作の「ウィンド・リバー」を有楽町の角川シネマ有楽町で観てきました。ここはTCGメンバーズカードも使えて結構いいなって思ってたんですが、今回の映画、シネスコサイズをビスタサイズのままで上映してがっかり。ビスタサイズのままシネスコサイズの映画を上映すると、暗い画面だと、どこからがシネスコのフレームかがわからなくて、作り手の見せようとしている画角が伝わって来なくなっちゃうんですよね。夏休みの屋外上映会じゃないんだから、ちゃんと上映サイズに合わせて、スクリーンサイズも変えて欲しいものです。こういう上映をされた「ル・シネマ」「恵比寿ガーデンシネマ」そして、この角川シネマ有楽町へは、ここでしか観られない映画の上映でもない限りは、足を運ぶ気にはなれないです。(でも、全部の映画館がそういう上映するようになったら、観にいかざるを得なくなっちゃうんだろうなあ。)

アメリカはワイオミング州のネイティブ・アメリカンの保留地ウィンド・リバー、野生生物局のハンター、コリー(ジェレミー・レナー)は娘エミリーの死を発端にネイティブ・アメリカンの妻とは離婚していました。保留地で牛が襲われたので、呼ばれたコリーは現地に入るのですが、そこでエミリーの親友だったナタリーの死体を発見します。彼女はレイプされた後、裸足で極寒の雪原を走った挙句、肺が凍って血を吐いた挙句、窒息して亡くなったのでした。保留地の部族警察長ベン(グレアム・グリーン)が、FBIの到着を待っていると現れたのは、防寒着も持っていない若い女性捜査官のジェーン(エリザベス・オルセン)でした。地の利がない彼女は、コリーに協力を仰ぐと、コリーもそれを素直に了承します。ナタリーの両親に娘の死を告げると、そこから彼女が恋人に会いに行ったという事実が判明します。そこで、ベン、コリー、ジェーンの3人で、死体からもっとも近い家にいるヤク中のやばい兄弟の家に向かうと、銃撃戦となり、一人は死亡、もう一人とそこに居合わせたナタリーの兄が逮捕されます。妹の死を知って慟哭する兄に、コリーは保留地に留まらずに軍や大学へ進む選択肢もあったのに、ここにいることを選んだんだろ?と語りかけます。その家から、走っていたスノーモビルの跡をたどったコリーとジェーンは、男の死体を発見します。それは、ナタリーの恋人であり、採掘場の警備員のマットでした。警官たちを連ねて採掘場へ向かうベンとジョーン。コリーは、山側からスノーモビルで採掘場へ向かいます。果たして、ナタリーを殺した犯人は見つかるのでしょうか。

「ボーダーライン」「最後の追跡」の脚本で知られるテイラー・シェリダンが、脚本を書き、自ら初メガホンを取りました。雪の中のインデアン保留地を舞台に殺人事件の捜査が描かれるのを骨太なドラマとして描き切っています。このインデアン保留地というのが特別な環境で、そのアメリカの暗部とも言うべき場所を描いた映画ということもできるようです。ただ、それはあくまで事件の背景として描かれるので、私みたいにアメリカ史に疎い人間は、映画のパンフレットで、インデアン保留地って何なんだろうって復習することになります。それは、ネイティブ・アメリカンの居住のために指定されたある意味自治区という扱いになっています。でも、実際は過酷な土地に彼らを追い込んだという見方もでき、彼らはその閉鎖された環境で、希望と未来を見失って暮らしているという見せ方をこの映画ではしています。また、そこへ流れ着く白人もみな訳ありらしく、主人公のコリーも何か過去を持った男であるような描き方になっています。ネイティブ・アメリカンの若者たちは、早く保留地から出ていきたいと思っているのに、それはままならず、鬱屈した感情を抱えながら、あるものは酒やドラッグに走ってしまうんですって。そんな状況にあった若い女の子ナタリーは、ある晩、レイプされた後、極寒の中を裸足で逃げ回った挙句、その寒さのために血を吐いて死んでしまったのです。

警察医は、殺人事件ではあるが、死因は殺人ではないと言います。FBI捜査官のジェーンは、これはレイプ殺人として認定して、きちんと捜査官を集めて犯人を検挙すべきだと思って、警察医と言い合いになってしまうのですが、それを警察長のベンが、警察医は味方なんだからとたしなめます。今回はレイプの跡があったことから、FBIが呼ばれたのですが、そうでなければ、保留地内の捜査組織へ事件は移管され、そうなったら事件の解明はまず期待できないらしいのです。ですから、お気楽出張気分でやってきたようなオネエチャンFBIでも頑張ってもらわないと、事件の究明におぼつかないのです。ところが、登場の仕方こそ、「なめてんのか、こいつ?」と思わせたジョーンが、ベンとコリーの協力を得て、頑張って捜査を進めていきます。地の利のない自分なので、コリーに応援をあおぐあたりもなかなかのやり手と言えましょう。極寒の地で、自分の命も危険にさらしながら捜査を進めるジョーンがなかなかにかっこよく、頼れるコリーとのコンビで、異色の犯罪捜査ドラマが展開していきます。

シェリダンの演出が、もろに「ボーダーライン」のドゥニ・ヴィルヌーヴのハッタリ演出に影響されてるところありまして、過度に重厚な音響効果ですとか、警察が車を連ねて現場へ向かうシーン、銃撃戦の痛そうなタッチなど、既視感ありありなのは、微笑ましくあるのですが、インデアン居留区というのは、麻薬無法地帯と同じくらいヤバいところだという印象を与えてしまうのは、どうなのかしら。このあたり、インデアン居留区のことを知らないから、どこまでが実際の雰囲気なのかわからないので、ハッタリ演出は、社会問題提起には逆効果なのでは?って気がしちゃいました。居留区という場所は、生活するには自然環境も経済的にも文化的にも過酷な場所らしいことは伝わってきました。若者はここを出たいと思っていてもなかなか実現できず、一方で食い詰めた白人が流れ込んでくる場所という描き方なんです。居留区に入った途端、アメリカの国旗が反対に掲げられていたり、ヤク中の家に聞き込みに行くと、すぐ銃撃戦になっちゃうとか、アメリカなんだけど、アメリカの法権力が及ばない、無茶苦茶治安の悪い、無法地帯みたいに見えちゃうのですよ。でも、映画が言いたいのは、そこじゃなかったというのが、ラストの字幕で具体的に説明されるので、うーん、この映画は何の話をしたかったんだろうという気分になっちゃいました。

この題材を、ヴィルヌーヴ風ハッタリ演出で見せる必然性はなかったよなあ。確かに、若い娘がレイプされて、雪原を逃げているうちに命を落としたという痛々しい事件の捜査ものではあるので、重厚な演出でドラマを進めるというのはわからなくもないのですが、何だかハッタリの方が前面に感じられてしまって。雪に覆われた静かな土地が舞台なのに、画面がやかましいので、何もない場所というより、人殺しがうじゃうじゃいる犯罪地帯に見えてくるのは、どっちがホントなんだろうってところが気になってしまうのは、娯楽映画としてはマイナスだと思います。社会派ドラマであって、娯楽映画ではないって言われそうだけど、クライマックスはきっちり娯楽映画のカタルシスが来ますから、もっと誠実な描き方があったように思えます。どこかバランスが悪い感じなのかな。ヴィルヌーヴは重厚ハッタリ演出を最後まで貫き通すパワーと勢いがありましたが、シェリダンは社会派としてのスタンスを捨てきれなくて、全体としてのバランスが悪くなっちゃったと言ったらひどい言いぐさかしら。ドラマとしての見応えを感じる映画ではあるんだけど、どっか何かしっくり来ないというのは、私が「ボーダーライン」を観ていたからかもしれません。雰囲気が似てると、ついつい比較したくなっちゃうんです。上記の2段落は、「ボーダーライン」未見の方には、ほとんど意味がなくて伝わらなかったと思います。ども、すみません。

ジェレミー・レナーは口数の少ない、過去のある男を熱演しています。でも、この人はこういうハードボイルドなキャラよりも、「メッセージ」の時のようなユーモアのある二枚目半の方がいい味を出してるようにも思えまして、こういう役ばっかりやって欲しくないような気もしちゃうのは微妙なところです。エリザベス・オルセンは「マーサ或いはマーシー・メイ」の頃から、いい感じに年を取って、一見若くて頼りなさそうで、実は有能な捜査官というキャラがきっちりとはまりました。彼女のキャラがドラマを引っ張っていくという難役なのですが、この先が楽しみな女優さんだと再確認しました。後、この映画には、4人のプロデューサーと20人近いエグゼクティブ・プロデューサーがクレジットされているのですが、その中に「あの」ボブ・ワインステインの名前もあるのですが、パンフレットの製作総指揮のところでは、ワインステインの名前はありません。こういう形でなかったことにするってのはありなのかなあ。アメリカの話を、日本のパンフレットで忖度するのも大きなお世話という気がします。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ジョーンがコリーになぜ捜査に協力的なのかを質問すると、彼は、ジョーンに娘のエミリーの死について話し始めます。コリーが妻と町のホテルに泊まり、エミリーとその弟だけが家にいることが分かった時、友達が集まってきて家はパーティ状態になり、さらにそれ以外の連中もやってきたらしいのです。翌朝、エミリーは行方不明となり、30キロ離れた場所で死体となって発見されました。遺体は動物による損傷が激しくて検死もできない状態でした。結局、エミリーの死の真相はわからないままになっていたのです。一方、採掘場へ向かったベンやジョーンたちの前に武装した警備員が現れます。彼らは、同僚のマットが行方不明だと言い、さらになぜかナタリーのことも知っていました。実は、事件の夜、ナタリーがマットのトレーラーを訪ねてきて、二人が抱き合っていると、同僚たちが帰ってきて、その一人が酔ってナタリーに絡んだことから、殴り合いとなり、その勢いで同僚たちがマットを殴り殺し、ナタリーをレイプしたのです。隙を見て、外へ逃げ出したナタリーは極寒の雪原を10キロも裸足で走り、最後は肺から出血して命を落としていたのです。その犯人である警備員たちと警官が一触即発になるのを、ジョーンが一度は収めるのですが、マットの住んでいたトレイラーの中から突然発砲があって、銃撃戦となり、ジョーンも撃たれ、ベンも銃弾に倒れます。警備員がジョーンにとどめを刺そうとしたとき、コリーが山の中から警備員たちを次々に狙撃します。最後に残ったレイプの主犯を、コリーは生かしたまま山の頂上へと運び、そこから下まで逃げられれば見逃すと言い、裸足の男を放り出します。男は100メートルも逃げないうちに血を吐いて絶命するのでした。全てが片付いた後、コリーはナタリーの父親の家を訪れます。父親は残ったヤク中の息子を警察に引き取りに行くところでしたが、しばらく娘のことを想いたいから、コリーに付き合ってくれといいます。コリーとナタリーの父親が並んで座っているロングショットに「インデアン居留区で失踪した娘の統計は一切取られていない」という字幕が出て、暗転、エンドクレジット。

白人のレイプ犯が、コリーに正直に話せば逃がしてやると言われ、「ここに来たのが間違いだった、娯楽も女もいない雪だけのところにずっといたら気がおかしくなる」と本音とも言い訳とも受け取れる言葉を叫ぶシーンが印象的でした。きっと、白人の住むところで何かやらかして、結果、流れ流れて、インデアン居留区で警備員の仕事にありついたと思しき犯人にとっても、この土地は忌み嫌われる場所だったようです。そんな場所を白人が線引きして、ネイティブ・アメリカンを閉じ込め、白人の吹き溜まりになっているという事実は、アメリカの今も続く黒歴史であり、それに終止符が打たれる日が来ないのではないかという見せ方は、見ていて切ないものがありました。

ラストのリアルな銃撃戦が迫力ありまして、警官隊がみんなやられて、撃たれたジョーンもトドメを刺されそうになったときに、コリーの狙撃銃の弾丸が、犯人たちを次々と仕留めるというのは、カタルシスのある見せ場になっていましたが、そんな派手な見せ場がこの映画に必要なのかなという気もしちゃいました。スノーモビルで雪山を滑走するコリーを上空から捉えたカットなど美しくもかっこいいのですが、そういう見せ場に目を奪われた後、最後に失踪者の統計も取られていないという字幕が唐突に登場すると、「え、そういうことを言いたい話だったの?」っていう驚きと若干の居心地の悪さを感じてしまいました。エミリーやナタリーのような失踪して遺体となって発見された女の子の記録がろくに残されずに処理されているくらい、居留区の治安や法システムはよろしくないということらしいのです。この映画では、ナタリーの死がすごくプライベートな事件として描かれてきたのですが、それは山のように起こっている失踪事件の一つに過ぎないってラストで言われても、その唐突な感じに戸惑いが残ってしまいました。取り上げた題材はいいところを突いてると思うけど、どこか見せ方が歪なのかなあ。重厚で見応えのあるドラマは隙がなくて見事なのですが、それが訴えたいメッセージっとうまくシンクロしないのが惜しいという印象が残ってしまいました。

「タリーと私の秘密の時間」はファンタジー風のいい話のようで、その背後の痛みはかなりシリアス。


今回は新作の「タリーと私の秘密の時間」をTOHOシネマズシャンテ1で観てきました。金曜日、初日の最終回ということなんですが、結構、お客さん入っていてちょっとびっくり。テレビとか紹介されたのかしら。キャッチーな要素はない映画なんですが。私は、シャーリーズ・セロンが好きで映画館に足を運んだのですが、彼女のファンがそれほどいるとも思えないし。

アラフォー女性のマーロ(シャーリーズ・セロン)は、3人目の子供が臨月で、産休に入ったのですが、息子のジョナが情緒不安定(多動症なのかな)で学校で問題を起こして、ちょくちょく校長に呼ばれてます。娘のサラは手がかからない子で、ダンナのドリュー(ロン・リヴィングストン)はよき夫ではあるのですが、育児については腰が引けてるところがあるみたい。そして3人目のミアが生まれてからがもう大変。夜中の5回起こされる一方で、ジョナが何かと手がかかってもうグロッキー。お金持ちの兄クレイグ(マーク・デュプラス)は、自分も使ったナイトシッターに頼んだらどうかと勧めてきます。夜中、授乳以外の赤ちゃんの面倒を全てみてくれるサービスで、もうギブアップ状態のマーロはナイトシッターを雇うことになります。やってきたのは、意外や若い女の子タリー(マッケンジー・デイヴィス)で、ちょっと不思議ちゃんなところもあるけれど、仕事は有能、さらに初日の夜中に家の中を掃除してくれるという、大当たりのシッターさんでした。タリーのおかげで、マーロは夜ゆっくり眠れるようになり、元気を取り戻した彼女は家事や育児にも積極的になり、家の中が明るくなっていきます。ある晩、ちょっと遅れてやってきたタリーは、マーロにマーロがかつて住んでいたニューヨークへ飲みに行こうと誘います。え? 赤ちゃんのミアを放っておいて? どうやらタリーには何か隠し事があるみたいなのでした。

「JUNO/ジュノ」「ヤング・アダルト」のディアブロ・コディが脚本を書き、それらの監督をしたジェイソン・ライトマンがメガホンを取りました。シャーリーズ・セロンは「ヤング・アダルト」で主演してますから、「ヤング・アダルト」のトリオが再結成ということになります。個人的に、「ヤング・アダルト」のシニカルな笑いに大ハマリだったので、この映画にも若干期待するところありました。「ヤング・アダルト」は、アラフォーでもビッチやってますという痛いヒロインが主人公でしたが、今回のヒロインはまっとうに結婚して仕事も持ってて、ダンナと子供にも恵まれてるという、前作とは真逆のポジション。彼女の3人目の子供の産休中に、育児にグロッキーになるヒロインを救うナイトシッターのお話です。

「ヤング・アダルト」のヒロインは、アラフォービッチでもスリムできれいでしたが、今回のヒロイン、マーロは美人さんではあるのですが、いわゆる中年体型で、デブじゃないけど脂がぼってり乗ってます。セロンはこの役のために18キロ増量したそうで、なるほど美人で魅力的だけど、若さの勢いの衰えたヒロインをリアルに体現しています。「アトミック・ブロンド」のアクションヒロインからの、子連れ主婦だもの。すごい女優さんだと改めて感心。この作品でプロデューサーも兼任しているところから見ても、企画を選ぶ審美眼がすごいのでしょうね。息子が落ち着きがなくて、学校で結構迷惑な子供になっています。昔なら、育ちの悪い問題児で片づけられるところですが、今はそういう状態を表現する言葉が増えたこともあって、何か他と違う子とか精神的な病状として扱われることが多くなりました。この映画では、私立の学校に通わせていたけど、あまりに手がかかるので、専属の教師を自費で雇ってつけてくれって言われちゃいます。まあ、その子にだけ先生の時間が取られちゃうのは他の子にとっては迷惑な話であって、学校の言いぐさももっともなのですが、それほど裕福ではないマーロにはできる話ではありません。後は障害のある子どものあるクラスに入れることになっちゃうのですが、それも潔しとできないマーロとしては余計目にストレスがたまっちゃうのでした。さらにサラが生まれたことで、夜中に5度起きなきゃならない生活が始まっちゃいます。ダンナは「何とかしてあげたいけど、自分は何の役にも立たないから」って、手伝ってくれるわけではない。客観的に見ると、結構ひどいダンナだと思うのだけど、マーロはそんなダンナには不満はないみたいで、むしろ自分の力の至らなさを責めてるようにも見えます。ダンナのドリューってのは、見た目も言動も紳士で、マーロに接する態度もやさしいので、そんなダメ夫に見えないのが面白いところです。ただ、くたびれて寝室に帰ってくる嫁の横で、ゾンビシューティングゲームに夢中というのが、無神経さを感じさせまして、そのリアルなダンナぶりを演じたロン・リヴィングストンの演技が見事でした。

そして、夜だけやってくるナイトシッターというのを雇うということになります。私は未婚シングルなので、なるほど大変だよなあ、息子の問題で昼間神経すり減らして、夜中は赤ん坊の世話では、いつか壊れちゃう。ナイトシッターという選択肢があってよかったね、と思うのですが。これ、実際に何人も子供を育てた実績のあるお母さんが観たらどう思うのだろうというのが、ちょいと気になりました。「ナイトシッターなんて甘え、母親になるってのはそういうことなんだし、誰もが通ってきた道なんだから。」なんて言われちゃうと、この映画の基本設定がチャラになっちゃうのですよ。この映画の発端に、世の母親の皆さんは果たして共感していただけるのかしら。「自分は何とか乗り切れたけど、この映画のヒロインみたいに追い詰められたら、ナイトシッターのお世話になるのもありかも。」くらいに寛容に思っていただけたらいいなあ。

さて、夜になってシッターがやってきます。タニーという女の子で、どう見てもマーロより若い20代のスリムな女性。ちょっと変わったところもあるんですが、娘はすぐなつくし、授乳時には、マーロのベッドまで来てくれる。朝になってみれば、散らかっていた家の中がきれいになってるし、このタニーというシッター、只者ではありません。久しぶりによく眠れて気分も上々のマーロ。若いタニーに若干の不安もあったのですが、是非彼女に続けてもらいたいと思うようになります。タニーが来てくれるようになって、それまで冷凍食品メインだったのが、自分で料理するようになるし、気分屋の息子へのイライラも収まってきて、家族中の空気が変わっていきます。タニーのおかげで、全てがいい方向へ進んでいくのは出来過ぎの展開にも思えるのですが、タニーが来る前の荒れた一家の空気を丁寧に見せているので、マーロが元気になっていくのがうれしい展開になっています。この出来過ぎというところがミソでして、ちょっとファンタジーの雰囲気もあるのが、後半への布石になっています。

子供を育てるのは、メンタルに大変だなあってのは、未婚の私にも理解できます。また、生まれたばかりの赤ん坊の面倒をみるころが体力的に大変だというのも、実感はないけど想像はできます。普通の家庭よりも、ちょっと大変な状況にあるマーロが壊れそうになるのには共感しちゃいました。ダンナがやさしいだけで、役に立ってないってところも気の毒感がありました。ちょっと面白いと思ったのは、事業に成功して金持ちになった兄夫婦の存在でして、この兄がナイトシッターを勧めるのですよ。成金っぽい登場の仕方をするので、紳士的なダンナに比べて、いやな奴なのかなと思っていたら、この成金兄貴の方が、妻のことを真剣に考えてるらしいってのが伝わってくるのが、ドラマの面白いアクセントになっています。この映画の中で、ダンナのドリューは決して悪役に描かれているわけではないのですが、ラストのラストで、それがドラマをミスリードする仕掛けになっていたと気づかされると、結構、ヘビーで苦い後味が残る結末になっています。未見の方には何のこっちゃなお話ですし、この結末の受け止め方は人それぞれでかなり異なるものになると思いますから、あくまで個人の感想と思ってください。とにかく、シッターさんのおかげで明るくなった一家がどうなるのかというところは、劇場でご確認いただきたいと思います。

コディの脚本はミステリータッチのものだったのかもしれませんが、ライトマンはそのミステリー部分を見えにくくして、でも伏線は張っておくといううまい演出で、この映画をヒロインを巡る一つの寓話のような描き方をしています。でも、その船底一枚下は地獄だというサブプロットもきちんと伝わってきますので、その地獄の切実度の感じ方の個人差によって、かなり後味に差が出てくる映画だと言えそうです。決して、悲劇的結末を迎える映画ではありませんし、一家のこの先に、充分な希望を感じさせる映画ですから、あまり身構えてスクリーンに臨む映画ではありませんし、音楽の印象的な使い方や、笑えるツボもあり、素直に楽しめる部分も多い映画です。その一方で、人は最終的に誰に頼ればいいの?という視点に立つと、若干の切なさも残る映画と言えるのではないかしら。色々な人がご覧になって、感想を語り合うのにふさわしい映画でして、映画鑑賞サークルの鑑賞会に向いていそうな感じです。うーん、結末を語らないと、何を言っても隔靴掻痒になっちゃうところがもどかしいですが、未見の方にはご覧になることをオススメしちゃいます。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



タリーに誘われて、結局マーロも娘を置いて、ニューヨークへ出かけちゃいます。二人で酒を飲んでいると、タリーはもうナイトシッターは続けられないと言い出します。せっかく家の中がうまく行くようになってきたのに急にいなくなられても困るというマーロですが、タリーはもう来られないというばかり。なんとなく気まずい気分になった二人、タリーが運転しての帰り道、酔いのせいもあってついつい眠り込んでしまったタリーは、運転を誤って川の中へ突っ込んでしまいます。川に沈んだ車の中に一人のマーロを、人魚のタリーが助けにやってくるのでした。病院に担ぎ込まれたマーロですが、尋常でない疲労と睡眠不足が重なっていました。そのことを医師に知らされて驚くドリュー。タリーというのはマーロの旧姓で、実はタリーという女性は実在していなかったのです。精神的に追い詰められたマーロは、実在しないナイトシッターを心の中で作り上げ、そのタリーが完璧に振舞ったというのは、実はマーロが裏でそうしていたのです。病室のマーロの前に、別れを告げにくるタリー。ドリューは、マーロにこれまで自分が家庭に向き合ってこなかったことを詫びるのでした。また、マーロの新しい一日が始まるのでした。おしまい。

ハッピーエンドのような雰囲気で終わる映画ではあるのですが、結局、誰にも頼れなくなったヒロインが、もう一人の自分に完璧を託して、事態を乗り切るという、見様によっては、ヒロインの地獄の日々を描いたお話でもあります。もう一人の自分の頑張りで、メンタルの元気は取り戻したものの、ヒロインの体が物理的限界に達して、タリーがもう存在できなくなり、そこまで行って、やっとダンナがヒロインの苦悩に気づくというのは、ヒロインかなりかわいそう。特に、家じゅうが散らかり放題で、食事の冷凍ピザやファストフードばっかという状況下であっても、マーロが完璧な自分を実現しようと葛藤していたのかと思うと、痛々しいものがあります。

追い詰めらた人間がもう一人の人格を作りだすというのは、サイコスリラーでは使い古されたルーチンではあるのですが、そのルーチンをホームドラマに持ち込んで、ハッピーエンドへ持っていくというのはかなり新鮮な印象でした。でも、ウソを楽しむサイコスリラーでなく、リアルな人間の葛藤としての二重人格を描いた結果、その追い詰められた痛さが前面に出てきたという感じなんです。映画はホームコメディの体裁をとって、その痛さをかなりわかりにくくして、実在の有無にかかわらず、タリーによってマーロが救われたという見せ方をしています。そういう見せ方に嘘はないのですが、タリーが現れる時、その裏でマーロが身を削っていたと思うと、やっぱり痛い映画だよなあ。ダンナが悔い改めることで、未来への希望がつながるのですが、カミさんがそこまでしないと、気がつかないのかよっていう突っ込みは入ってしまいました。まあ、それは、赤ん坊を育てたことのないシングルの男目線だからそうなるのかもしれません。女性だったら、他のところへ突っ込み入るかもしれませんし、前述のように、乳児の相手をするのに他人に頼むなんてという突っ込みが入った方がいらっしゃるかもしれません。ただ、色々な視点からの、この映画へのツッコミを語り合うことで、育児についての相互理解が深まる映画なのかもという気がしちゃうのでした。だから、映画鑑賞サークルみたいな色々な世代の人がいる場所での、鑑賞会の題材として、いいのかなって。

「オーシャンズ8」は豪華キャストで無駄のないシンプルで楽しい犯罪コメディ


今回は久しぶりの劇場での映画鑑賞ということで、軽く楽しめるものをということで、TOHOシネマズ日比谷5で「オーシャンズ8」を観てきました。ここはシネコンなのに、映画のチラシが置いてないという不思議な感じのところ、それともどこかに置き場所があるのかしらん。

死んだダニー・オーシャンの妹デビー(サンドラ・ブロック)は、5年の刑期を終えて仮釈放にこぎつけました。壁の向こうで5年間練りに練った計画をかつての相棒ルー(ケイト・ブランシェット)に持ちかけます。その計画とは、カルティエの地下金庫に眠る1億5千万ドルのダイヤのネックレスをいただこうというもの。メトロポリタン美術館のメットガラというセレブのパーティにそのネックレスを持ち込んで、そこで偽物とすり替えようという作戦です。セレブ女優のダフネ(アン・ハサウェイ)にそのネックレスをつけさせるように話を持ち込んで、パーティの場で彼女の首からネックレスをいただこうということで、まず落ち目のファッションデザイナーのローズ(ヘレナ・ボナム・カーター)を取り込んで、彼女の元の送り込みます。そして、さらにメンバーにジュエリー職人のアミータ(ミンディ・カリング)、ハッカーのナイン(リアーナ)、スリのコンスタンス(オークワフィナ)に、盗品のさばき屋タミー(サラ・ポールソン)をスカウトして、いよいよ構想5年の大作戦がスタートするのでした。

ジョージ・クルーニーの「オーシャンズ」シリーズのスピンオフというべきもので、元のシリーズの監督スティーブン・ソダーバーグはプロデューサーとして参加。「ビッグ」「デーブ」「カラー・オブ・ハート」などちょいとひねりの効いたハートウォーミング作品を手掛けた実績のあるゲイリー・ロスが女犯罪集団の原案を書き、それをオーシャンズの設定にアダプテーションして、ロスとオリビア・ミルチが共同で脚本化して、ロスがメガホンを取りました。前シリーズのメンバーは、デビーに助言するルーベン(エリオット・グールド)がちょっと顔を出すだけで、後は前作のしがらみのない新しい映画になっています。登場するメンバーがなかなかの豪華キャストで、それぞれの持つ特技を生かしたドラマ展開で、素直に楽しめる映画に仕上がっています。集団犯罪ものとして、スマートにテンポよくまとまった映画でして、変な因縁話やどんでん返しといったサプライズを盛り込んでいないので、ドラマとしての深みはないけど、2時間弱の時間を最後まで楽しませてくれるライトコメディとして、この映画、点数高いです。実は私、前の男オーシャンズシリーズは、犯罪部分のプロットがモタモタしていて、あまり好きじゃなかったので、今度の女版の方が楽しめました。男オーシャンズは内輪受けというか楽屋オチ的なおかしさに時間を取り過ぎて、メインの犯罪部分が盛り上がらなかったという印象があって、今回の犯罪のプロットにドラマを絞り込んだ作りの方が好きです。それにオヤジの私からすると、おっさんたちのイチャつきよりは、女性陣のキビキビした犯罪ものを観る方が楽しいですもの。

ゲイリー・ロスは、前作との違いを意識した作りをしているようで、女性チームは仕事はマジで遊びを入れずに取り込みますし、暴力沙汰はフェイクもなしで、完全に宝石を盗むというお話に特化しています。何ていうのかな、チームに馴れ合い感がなくてプロが集まって、スマートに大仕事をするというのを余計なものを削いで見せたという感じなのですよ。そういう意味では、キャラの描き込みは浅いですし、一応デビーが主人公だけど、クライマックスは完全に集団劇になっていますし、あえて誰かがヘマをするといったわざとらしいアクシデントも入れず、構想5年の宝石すり替え作戦をさくさくと見せたあたり、物足りないと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、私はその素直な展開を楽しみました。それは、キャラの薄さを役者陣のキャラと演技でうまくカバーしている部分も大きいと思います。

サンドラ・ブロックだけ、自分をはめて刑務所に送った画家への復讐というサブプロットを持っているのですが、それも作戦のピースに収めてしまって、へんにドラマチックな盛り上げとかを見せない演出で、全体のトーンを壊していません。他の演技陣の必要最低限のセリフで、キャラを浮き立たせることに成功していて、クライマックスの個々の行動に無駄や遊びがない見せ方は、脚本のうまさなのだと思います。集団ドラマで全員が脇役みたいなポジションだけど、それぞれに見せ場を設けて、各々がきちんと引き立つようにしているのは、演出のうまさでしょう。名優と言っていい、ケイト・ブランシェットやヘレナ・ボナム・カーターが出てくるだけでそのキャラやドラマの立ち位置が見えてくるあたりはさすがだなあと思いましたもの。儲け役とは言えリアーナの天才ハッカーぶりとか、煙に巻かれたアン・ハサウェイのきょとん顔など、役者の良さがうまく生かされていてお見事だと思いました。

そんな映画ですから、人間ドラマとしての盛り上がりとか、大どんでん返しといった趣向はなく、さらっと楽しめる仕上がりは好みが別れるかもしれません。でも、夏バテで、ヘビーなドラマに食傷気味な私には、ピタリとはまったので、この映画の評価はかなり高いです。その気になれば、まんまとしてやられる男連中のドラマをもっと広げるとか、死んだ兄との関係をもっと見せるとか、犯罪のステップにもっとトラブルを盛り込むこともできたでしょう。でも、それをやらずに必要最低限の要素で2時間弱の娯楽映画にまとめたゲイリー・ロスのセンスはかなりいいと思います。無駄な部分を思い切って刈り込んだという印象ですが、男オーシャンズで不満だった部分が全ていい方に改善されているという点でも好きですね、この映画。

後、個人的に面白かったのは、余談ながらプログラムに載っていた、主演女優陣の対談記事。「私たち、すごく仲良く撮影したのよー」の行間から、女優間のピリピリした緊張感が伝わってきて、撮影は大変だったんだろうなあってのがおかしかったです。ホント、サンドラ以外は、脇役のコンペみたいな作りの映画ですから、登場する秒数、カット数で色々と思うところあるんだろうなあって。でも、ロス監督のコンペの采配はかなりフェアなものではなかったのかしら。一つ間違えるとオーシャンズチームなみに目立ちかねないダコタ・ファニングをさらりと使い流したあたり、監督もかなり気を遣った後が見えましたもの。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



パーティの夜、チームの面々は美術館のあちこちに散って、行動を開始します。ナインは、トイレ前の防犯カメラに死角を作り、パーティのメインのスタッフとして潜入していたタミーが全体をコントロールし、コックに化けたルーがダフネのスープに薬を混ぜ、ダフネがトイレに行って吐いてるところをボーイに化けたコンスタンスが介抱するふりをしてネックレスを奪います。デビーが死角からダフネのボディガードをブロックし、うばった宝石は下げるトレイの中に放り込み、それを受け取ったアミータが分解して、メンバーに配布します。一方、ネックレスの紛失で、パーティは中断となり全員の身体検査が行われますが、会場の水槽の中からタミーが偽のネックレスを発見して元へ戻すのでした。一方ネックレスの一番大きなダイヤを受け取ったデビーはそれをかつて自分を裏切ったクロード(リチャード・アーミテイジ)のポケットに放り込みます。返却時にネックレスが偽物とばれるのですが、どこですり替わったのかは警察もわかりません。ダフネがそれほどバカじゃなくて事件の全貌に気付いたと察したデビーは、ダフネをチームに紹介した彼女も共犯として取り込んでしまいます。オーシャンズ兄妹と旧知の保険調査員フレイジャー(ジェームズ・コーデン)が事件に乗り込んできて、パーティ会場にデビーがいたことを知り、疑ってみるもののカメラの映像では彼女にはアリバイがありました。一方で、デビーの方から、フレイジャーに接触し、この事件で宝石の一部が誰かから見つかったらどう?と持ち掛け、フレイジャーもデビーの復讐に一役買うことになるのを承知でその話に乗ります。クロードの部屋からネックレスの一番大きな宝石が見つかり、彼は逮捕されてしまいます。しかし、それではチームの分け前が大きく減ってしまうことになります。でも、実はパーティ会場が紛失騒ぎで閉鎖された隙に、デビーとルーは、他の宝物展の宝石をごっそり偽物とすり替えていたのでした。そして、一人頭3000万ドル以上の分け前を得て、チームはそれぞれに散っていくのでした。兄の墓の前で、「見せたかったわ」と話しかけるデビーの姿から暗転、エンドクレジット。

ダフネがオーシャンズの一味になるというのは想定内でしたけど、最初から仲間ではなく、盗まれた後にチームに入るというのはちょっと面白いと思いました。また、犯人を元恋人に押し付けるために、ネックレスの一番大きなダイヤを渡してしまった後、他にも色々盗んでましたというのは、ささやかなオチとしてOKという感じでしょうか。この映画、女性が主人公の現代の映画ではあるのですが、彼女たちがドラマの中で、女性である必然性がないってところが、ちょっと面白いというか意外でした。虐げられた女性が権力のある男性の鼻をあかすといった構造になっていないのですよ。たまたま、信用できるメンバーは集めたら女性ばっかだったという感じの作りになっていて、彼女たちが女性だから大変な想いをしているとか差別されているといったドラマを一切見せないあたりは、マイノリティブームのハリウッド映画にしては、あっさりした作りになってて、それもこの映画に無駄がない一因になっているのだと思いました。とまあ、お気楽に楽しむには最適な一編です。個人的な好みとしては、ケイト・ブランシェットのかっこ良さと、アン・ハサウェイのきょとん顔を堪能しましたが、女性の方がご覧になると、また別の視点が見えてくるかもしれません。

「ガス人間第一号」はゲテモノSFと悲恋もののバランスがよくて見応えあり。


日本映画専門チャンネルの「東宝特撮王国」という企画で放映された「ガス人間第一号」を観ました。最初に観たのは、関西で放映されたバージョンの孫コピーのビデオでした。当時は、特撮映画を地上波で放映された版で初めて観るということが多かったです。それだけ、地上波で放映されることが多かったんですが、今は、昔の日本映画が地上波で放映されることはまずなくなってしまいました。当時は、1時間半枠の放映だと正味70分で、オリジナルからかなりカットされてしまうので、2時間枠放映がうれしかったという記憶があります。新東宝の映画なんてのも、東京12チャンネルの午前中の枠で結構放映されてたんですよねえ。

銀行強盗が発生し、逃走車を岡本警部補(三橋達也)の乗るパトカーで追跡すると、山の中のとある屋敷の近くで逃走車は転倒。でも、運転手は姿を消しています、屋敷には、日本舞踊のトップと呼ばれる春日藤千代(八千草薫)が爺や(左卜全)と二人で住んでいました。そして、さらに二件目の銀行強盗が発生、現場の金庫室は鍵がかかっていて、中で倒れている支店長が鍵を持っていました。どうやって犯人は、金庫室から出て行ったのかが問題となります。岡本は、どうにも藤千代が気になって調べ始めると、彼女が最近すごく金回りがよくなり、踊りの発表会も開くと言う情報を入手します。一方、警察に犯人から予告電話が来て、警察が張り込むのですが、犯人は別の銀行を襲い、結局逮捕されてしまいます。盗まれた万札が藤千代の家から発見されることから、逮捕された西山との関係が取りざたされるのですが、そんなところへ、水野(土屋嘉男)という男が警察へ出頭してきます。銀行強盗の真犯人は自分だと言います。そして、どうやって金庫室から抜け出したかを関係者の前で再現すると言い、事件現場に集まった関係者の前で、彼はガス状に変化し、金庫を開き、支店長と刑事を殺して、姿を消します。藤千代は警察に留置されることになるのですが、水野は再び警察に現れ、留置場の看守を殺して、全ての房の鍵を開けたことで、警察署は大混乱。でも、ガス人間相手に警察は対抗手段がありません。新聞社の設定した会見の場に水野は現れ、自分の過去について語ります。図書館の職員をしていた彼に声をかけてきた佐野博士に雇われ、博士の研究室に行くと、何かの機械に入れられ、目が覚めるとガス人間になっていたというのです。佐野博士は人間改造の人体実験を何度も行っていたのです。ガス人間になった水野は藤千代と付き合うようになり、彼女のパトロンとなっていたのです。警察は、水野を逮捕することもできず、どうやれば彼を葬ることができるのかを検討し、藤千代の踊りの発表会を使って、ある作戦を立てるのでした。

「美女と液体人間」「電送人間」に続く変身人間シリーズの第3弾として、昭和35年に公開されたSFスリラーの一編です。「地球防衛軍」「美女と液体人間」の木村武が脚本を書き、「ゴジラ」「空の大怪獣ラドン」の本多猪四郎がメガホンを取りました。特撮部門のトップとして、「ゴジラ」「空の大怪獣ラドン」の円谷英二が特技監督としてクレジットされています。エログロな際物感を意外にまじめにまとめた「美女と液体人間」から、犯罪サスペンスはともかく設定を生かしきれなかった感のある「電送人間」から、今度はガス人間ですからね。前の2本とは違う要素を持ってくる必要があったのでしょうが、そこへガス人間と日舞の家元がいい仲になるというケッタイな設定を持ち込みました。いわゆるミスマッチ感を狙ったのでしょう。未来感覚のSF映画に日舞の家元という取り合わせ、それが大時代な悲恋ものにまとまるあたりは、木村武の脚本がうまいのでしょう。本多猪四郎の演出も、緩急をつけながらも高いテンションで最後までドラマチックに盛り上げることに成功しています。この映画として、前後して「宇宙大戦争」を撮っているのですが、あの間延びしたSF大作(ファンの方すみません、でも劇場で観ても見劣りしちゃって。)に比べて、こっちの方が断然いいのですよ。脇役に至るまできちんとキャラが立っているし、サスペンスの盛り上がりと、日舞の静謐な感じのコントラストも映画の面白さに貢献しています。思い切って大マジメな悲恋ものに仕上げたのは見識だと思いましたし、一方で主人公にコミカルなキャラを与えていたり、全体のバランスがよいのですよ。確かに細かいツッコミどころは探せば見つかるのですが、映画にうまく乗れれば、アラが気にならずに1時間半弱を楽しむことができます。まあ、細かいところは映画の魔法だと思ってヤボなことを言わないのがオススメです。

ドラマは、主人公の岡本警部補が連続強盗犯の捜査をしていくうちに、日舞の家元、春日藤千代が何か怪しいと思うようになるところから展開していきます。藤千代を演じる八千草薫が若くて大変美しいのですが、ドラマの中では相当な年で年齢不詳だということになっています。岡本警部補がまだ新任の警部補で、ベテランから若造扱いされ、若手からは一目置かれるというポジションになっていて、それがきちんとドラマの中でわかるようになっているのはうまいと思いました。また、登場する警察の面々がそれぞれの顔とキャラを与えられているところは点数高いのではないかしら。1時間半弱の尺の中で、脇役まで丁寧に描けている点が、結構私のお気に入りです。

ガス人間の描写も当時としてはかなり頑張っているのではないかしら。アニメのガスはややチャチにも見えるのですが、煙を動かしたり、合成したカットはかなりリアル。また、ガス人間の顔がガス状に歪むカットは初めて見るとかなりのインパクトあります。「本当にあった呪いのビデオ」で時々登場する人間なのか何なのかよくわからないような映像があるんですが、その得体の知れなさに通じるものがありまして、顔のようで顔でない感じが結構怖いのですよ。

ガス人間はもともとは普通の若者だったのですが、マッドサイエンティストに騙されて、人体実験されてしまい、その結果、ガス人間になっちゃったというかわいそうな人。でも、自分のパワーに覚醒しちゃったら、惚れた女に入れ込んで、強盗殺人を犯すという、道を踏み外しちゃった人でもあります。この映画では、そのガス人間の悪の部分を、うまいこと恋愛ドラマでコーティングすることで、報われない愛の悲劇にまとめあげているところがうまいというか、かなりすごい。ガス人間にされちゃったところまではシンパシーを呼ぶのですが、そこから先は嫌悪感しか湧かない筈のガス人間に、恋愛悲劇のヒーローをやらせるというあたりに、昔の時代劇かやくざ映画のピカレスクなヒーロー像を思わせるところがありました。また、警察側のリアルな演技に対して、ガス人間や藤千代に時代がかった大芝居をさせて、異世界の恋愛ドラマを力技で押し切った演出は見事だと思います。乗れない人には「なんじゃこりゃ」な展開かもしれませんが、私はこのドラマに素直に乗れて、ラストは結構盛り上がりました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ガス人間と藤千代の関係は大きなニュースになり、世間の好奇の目が注がれることになります。また、ガス人間を騙ったり、ガス人間の偽被害者が現れるなど、警察もこのままガス人間を野放しにはできず、彼を拘束できないのであれば、彼を殺すしかないという結論に達します。一度は中止となった藤千代の発表会は、ガス人間が金を回して開かれることになります。一方で警察側はチケットを全て買い占め、会場に無臭性のガスを充満させ、会場ごと爆破しようという作戦を立てます。無人の会場で舞い踊る藤千代とそれを見つめるガス人間。藤千代と爺やの二人が舞台にいることから、岡本警部補は彼らを連れ出そうとしますが、拒否されてしまい、3人を会場に残したまま、爆破のスイッチが入れられますが、配電盤が何者かにこわされていて点火しません。そして舞いが終わり、舞台を降りる藤千代と抱き合うガス人間、しかし、藤千代の手に握られていたライターから点火し、大爆発が起こります。なぜ爆発したのかわからない警察や群衆の前に、ガス人間がはい出してきます。そして、会場の入り口の前で人間の姿でこと切れるのでした。その死体に上に花輪がかぶさってエンドマーク。

今の感覚だと、警察のやり口はかなり非情で、ガス人間を殺す作戦を立てるとか、この機会を逃すことはできないと、藤千代や爺やを道連れにするもやむなしいというあたりは、結構すごいものがあります。一方で、そういう選択をするのも仕方ないし、警察として、苦渋の決断でやるんだというところをきっちり見せるのがうまく、そういうびをドラマの流れを妨げないように見せた演出は見事だと思います。また、今作ったら、ガス人間に生死を曖昧にするだろうところを、彼の絶命シーンをきっちり見せた演出も好きです。また、ガス人間の死を見せることで、藤千代の死も確信させて、心中劇として終わるところで、結構な盛り上がりました。藤千代がガス人間をどう考えていたのかは、直接語られることはなく、彼女の「どうしようもないんです」というセリフで察するしかないんですが、まあ運命として受け入れるしかないという古風な女性の姿が見えてきます。岡本警部補の恋人である新聞記者が、いかにも現代のビジネスガールとしてと登場するので、その古風な佇まいが際立つことになりました。登場人物のキャラ設定と配置がしっかりしているので、悲恋心中ものとしてもちゃんと観られる映画になっていて、一方で、ガス人間という設定をきちんとドラマに生かされているので、映画としての満足度が上がりました。

「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」は面白いし泣かせるし、映画としてすごくよくできてる。オススメ度は今年一番かも。


今回は新作の「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」を日比谷のTOHOシネマズシャンテ1で観てきました。TOHOシネマズ日比谷が目と鼻の先にできたのですが、今のところ健在。上映する映画も棲み分けがされているようで、スカラ座やみゆき座をなくしても、ここは残すつもりがあるのか、それとも先が見えてるから変えないのか?

1973年、全米女子テニスチャンピオンのビリー・ジーン(エマ・ストーン)は、次期大会の優勝賞金で男女で8倍の差があることに憤っていました。友人のグラディス(サラ・シルヴァーマン)と共に女子テニス協会を立ち上げるビリーですが、全米テニス協会のトップ、ジャック(ビル・プルマン)は、彼女たちを除名しますが、フィリップモリス社をスポンサーに新たに選手権を立ち上げます。そんなビリーたちの努力で選手権ツアーの観客を集めることに成功します。ビリーには女子テニスの状況に理解のある夫ダニー(オースティン・ストウェル)がいましたが、美容師のマリリン(アンドレア・ライズボロー)と知りあい深い仲になってしまいます。遠征先で、ダニーとマリリンがニアミスしたことから、ビリーは調子を乱し、決勝でライバルのマーガレットに敗れてしまいます。一方、かつての男子テニスのトッププレーヤーだったボビー・リッグス(スティーブ・カレル)は表舞台から遠ざかっていて、もう一花咲かせたいと思っていました。妻のプリシラ(エリザベス・シュー)に経済的に支えられつつ、ギャンブル依存症の治療も受けていた彼は、ビリーに試合を申し込み、男性対女性の構図で世間の注目を集めようとします。彼の意図がわかっていたビリーはそれを断るのですが、マーガレットが試合を受けて、結果惨敗してしまい、テニス界の男性優位の裏付けることになってしまいます。ジーンはボビーに逆に試合を申し込み、全米が注目する中で、男子テニスと女子テニスの雌雄を決する再戦が始まるのでした。

実際にあったテニスの男女マッチをもとに、「フル・モンティ」「スラムドッグ$ミリオネア」のサイモン・ボーフォイが脚本を書き、「リトル・ミス・サンシャイン」「ルビー・スパークス」のヴァレリー・ファリス&ジョナサン・テイトンがメガホンを取りました。1970年代、男女平等が大きな流れになってきていて、ウーマンリブという言葉がまだ現役だったころ、男女で大きな格差のあったテニス界で、その平等を求めたビリー・ジーン・キングの実話に基づいたお話です。テニス界の男女平等を強く訴えて女子テニス協会を立ち上げたビリーと、テニスの男性優位を前面に出して対決を挑んだボビー・リッグスの試合は、男女平等の流れの中で大きな事件だったようなのです。その試合をクライマックスにしながら、この映画では、ビリー、ボビー本人やその周囲の人々を丁寧に描くことで、人間ドラマとして大変、見応えのあるドラマに仕上がっています。ビリーは人妻なのにレズの恋人ができちゃうし、ボビーはテニスプレイヤーとしては実力者だけど、ギャンブル依存の山師という、大変ドラマチックな展開になっていて、彼らを取り巻く様々な人々の想いがラストの試合に集約していくという構成が素晴らしい。ファリスとデイトンの共同演出にもドラマとしての隙がない、見事なドラマでして、泣かせるシーンもありますし、映画としての満足度が大変高い作品になっています。テニスに対して知識も興味もない私でも大いに楽しみ、堪能できました。今のところ、今年のベストワンと言えるのではないかしら。スポーツ根性ドラマでもありますが、夫婦のドラマでもあり、恋愛ドラマの要素もあり、そこに実録社会派の要素も取り込んで、過不足なくまとめているのはお見事です。

1970年代というのは、アメリカでも男女格差があった時代で、テニス大会で、男子の女子の賞金の差が8倍もあったんだそうです。ビリーたち女子選手は観客動員では引けを取らないのに、どうして差があるのかと、全米テニス協会のトップであるジャック・クレイマーに直談判するのですが、男子の方がパワーもスピードも勝るし、男子は家庭も支えているしなどと、うまくはぐらかさられてしまいます。あー、男性優位社会なんだなあ、言い訳するほどボロが出るけど、最終的には「じゃ、そういうことで」で押し切れる時代だったんだというのが伝わってきます。子供の頃、ウーマンリブという言葉を聞いて、単なる流行だと思っていたのですが、それが流行だけに終わらなくて、今の社会へつながっているんだってわかると、現代史の勉強にもなる映画です。もっと前なら、不平等な状態に反旗を翻す女性もいなかったわけですから、その時代の過渡期の中で、頑張る女性の物語ということになりましょう。

一方のボビーは、女性差別主義を振りかざすタイプではないのですが、もう一度世間のスポットライトを浴びたいと思った時に、自分を男性優位の旗頭にして、女子のトップとテニスの試合をするというアイデアを思いつきます。まあ、ボビー本人も男女の間には、越えられない壁があって、55歳の自分でも、女子のトップに負けることはないという自信はありました。ギャンブル依存症のセラピーに通いつつ、奥さんの会社でデスクワークでくすぶっている自分に満たされない日々を送っていた彼が、女子テニスチャンピオンとの試合で再度表舞台に出るということで、周囲が引くくらい張り切っちゃうあたりがおかしくもペーソスを感じさせるところに、ドラマとしての奥行きが出ました。奥さんの方もボビーのことを愛してる一方で、女性に嫌われキャラを喜々として演じてスポットライトをあびるダンナに愛想が尽きてくるというところがリアルでした。そんな彼女がラストでボビーと視線を交わすところにしみじみとした夫婦愛も感じさせて、見応えがありました。また、ボビーのことを尊敬しているけど、やっぱりついてけないなあって距離を置く息子のエピソードにもホロリとさせるところがあり、登場人物の各々にきちんとドラマを感じさせるうまさは演出の采配なのだと思いました。

また、ツアーの最中に、ビリーが美容師のマリリンといい仲になっちゃうというのもどうやら実話らしくて、それまでストレートな人妻だったヒロインが、そっちに一歩踏み出しちゃうのも、このテーマのドラマには出来過ぎな展開だと思いつつ、それを拒絶せず礼賛せずの絶妙のさじ加減で描いた采配に感心しちゃいました。当時としては差別されてたであろうゲイのスポーツウェアデザイナー(アラン・カミンブ)をドラマの中にうまく混ぜ込んだりして、単なる男女差別だけでなく、LGBTまで盛り込むという欲張った構成なんですが、それを全体のドラマの中で突出しない形で見せるセンスに感心。何と言うのかな、色々な要素をてんこ盛りにしているようで、きちんと出るところ引くところをうまく刈り込んだ演出が大変見事だと思いました。植木職人が、枝葉をうまく刈り込んで、植木を芸術の域まで高めているという感じなのですよ。

さらに演技陣の良さも作品に大きく貢献しています。見た目いかにも色気のないアスリート(本人にそっくりだそうですが)を、いつものスターの華を隠して演じ切ったエマ・ストーンがまず素晴らしく。相手役のスティーブ・カレルも単なる三枚目の敵役以上の存在感を見せ、悪役と呼ぶには人間味のあるキャラを熱演しています。そういう意味では、映画の中で悪役を一手に引き受けることになるビル・プルマンも、女性に対する差別感を持つ男以上のキャラを与えられていて、その存在感を見せました。出る映画によって別人に見せるアンドレア・ライズボローがこの映画では、ちょっと尖ったレズビアンの女性をドラマの中で突出しないギリギリのラインで演じ切りました。儲け役とは言え、ビリーの理解ある夫を演じたオースティン・ストウェルも、ビリーとの試合を受けるというビリーとの電話のやり取りで泣かせるところを見せ、その他の登場人物にも丁寧にキャラクターを采配した演出でみんなが引き立つようになっているのは感心。

撮影には時代色を出すためにフィルムを使ったそうで、エンドクレジットでコダック社の名前が出てきます。クライマックスの試合のシーンなどで効果を出しているようで、デジタル処理によるフィルムっぽさというのには限界があるみたいなんです。また、ニコラス・ブリテルが最近の映画には珍しくオーケストラを使った重厚な音楽を鳴らして、ドラマに厚みを与えることに貢献しています。当時の音楽もあちこちに挿入されるのですが、それ以上にダイナミックに鳴らしたブリテルの音楽が印象的でした。ともあれ、映画館で観るにふさわしい満足度の高い映画になってますから、機会があれば鑑賞をオススメしちゃいます。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



マーガレットの完敗を見て、何か吹っ切れたビリーは、マリリンとも距離を置き、試合に向けての準備に没頭します。一方のボビーは、メディアサービスをして試合への期待を盛り上げることに専念し、ビタミン剤を特別の調合させたりもするのですが、練習はほとんどしない状況で、彼の息子はそんな父親に若干の不安と失望を感じます。直前までインフルエンザでダウンしていたビリーは、ほとんどメディアへの露出をしないで試合に臨みます。試合の直前、マリリンが駆けつけビリーの髪をセットし、ビリーは試合に臨みます。試合は、最初は余裕を見せていたボビーの実力に本気を出さざるを得なくなりますが、時既に遅く、ほぼ一方的な試合になって、ビリーが勝利を収めるのでした。試合を終えて、一人控室で涙するビリー。一方、控室で落ち込むボビーに奥さんが訪れます。心を落ち着けたボビーがみんなの前に姿を現したところで暗転、後日談の字幕が出てエンドクレジット。

後日談で、その後、ビリーが男女平等の運動家として活躍したこととかが語られます。驚いたのは、あのダンナと離婚していたこと。一方のボビーは奥さんと別れずに添い遂げたそうですから、人生わからないものです。映画としては、まずテニスの男女マッチをクライマックスに置いたことで、スポーツ映画としての骨格ができて、そこへ男女差別やら、夫婦愛やら、同性愛といった枝葉を過不足なく盛り込んで、最後にきれいに刈り込んで、娯楽映画としても社会派映画としてもバランスのとれた映画に仕上げたという感じでしょうか。笑いあり、泣かせどころもたっぷりで、ドラマとしての奥行きもあり、映画としての満足度が高かったです。

「私はあなたのニグロではない」を観て、自分の差別意識の根っこに気づかされました。


今回は新作の「私はあなたのニグロではない」を有楽町のヒューマントラストシネマ有楽町2で観てきました。小さい映画館なんですが、有楽町駅から近いという地の利もあって、よく通う映画館です。

アメリカの黒人作家でアメリカだけでなくヨーロッパを転々として執筆及び講演活動をしていたジェームズ・ボールドウィンの1979年の遺稿をベースに、アメリカの黒人差別の歴史にスポットを当てたドキュメンタリーです。描かれる時代は1950年代の公民権運動の高まりからルーサー・キング牧師の暗殺までを中心に、当時のニュースフィルムやテレビ番組、講演記録フィルムに、白人文化を代表する映画やTVショーの映像を並べ、黒人差別の根深さについて語っていきます。ナレーションは全てボールドウィンの文章や講演での発言で構成されており、サミュエル・L・ジャクソンが静かな語り口であたかもボールドウィンがナレーションしているような気にさせる見せ方になっています。キング牧師やマルコムX、さらにブラックパンサーの映像も登場して、差別する白人と差別される黒人の対立の歴史が描かれていきます。そんな中でショッキングだったのは、学校へ行こうとする黒人の女の子に寄ってたかって罵声を浴びせたり、唾を吐きかけたりする白人の学生の姿でした。そっかー、子供のうちからそういう風に仕込まれてしまうんだなあってのは、理屈では理解できても、現実にあったと認識するにはしんどいものがありました。

日本人の私からすると、黒人は白人と同じ見慣れない外人さんという括りに入りますので、好奇の対象だったり、未知の恐怖の対象になることはありますが、差別の対象になることはありません。ですから、差別する方の気持ちも差別される方の気持ちにも、想像がつかなくて、共感のしようがありません。私自身に差別意識が全くないと言い切れないのですが、少なくとも人種差別については、どうにもピンと来ません。所謂、生まれによって人は差別されるというのとは別の次元の話なんですよね。そもそも同じ人じゃないじゃんという意識、そのあたりが理解できないので、人種差別を扱った映画とかドキュメンタリーってどうにも他人事というか、実感も共感も湧かないのですよ。でも、ボールドウィンは差別される黒人としての立場の他に、差別する白人を分析する第三者的な視点を持っているのが、彼が白人からも支持された理由なのかなって思わせるところがありました。

白人はなぜ黒人を差別するのか、そこには黒人に対する優越感と恐怖がないまぜになった感情があるようなのです。さらに、白人は差別する対象を必要としたのだとも、ボールドウィンは言います。なるほど、黒人がいたから差別したのではなく、白人が差別する対象を必要としたときに、そのお手頃な相手が黒人だったというのには、驚きと納得を感じてしまいました。そういう感情なら、日本人でも持ち合わせているし、そうなると黒人差別の根っこは他人事ではなくなってくるのです。だって、日本人だって、自分より劣る存在を見つけて差別したり、いじめたりすることはよくあることですもの。民族的なマイノリティだったり、或いは部落民だったり、貧乏人だったり、女性だったり、自分の優位を保つために、差別の対象を見つけ出すことに、我々日本人もやぶさかではありませんでした。それを、差別される側から、理性的に論破されるのは、かなり耳に痛いし、神経にも障ります。女性差別に異議を唱えた女性が、大変な人生を歩んだというのはドラマにもなりますし、そこで彼女を理屈で押さえ込もうとする男たちの発言は、黒人差別を正当化する白人の発言と根っこは同じものだと思っています。

この映画の中で、ボールドウィンは、黒人対白人の二項対立から一歩引いた視点で、黒人差別を語っているのがユニークで、それは黒人サイドからはお高くとまっていると非難されるリスクを負いつつも、論理的な思考のできる白人の共感を得ることもできたのではないか、と言う見せ方をしています。言い方を変えると、自分の発言によって身の危険を感じていたボールドウィンが、その当事者感を押さえて、評論家的視点で黒人差別を語ったというのが、すごい人だったのかなという気がするのです。現代は、ネットで自分の意見を自由に発言できるので、「当事者感を欠いた、評論家的発言」ってのは安直で薄っぺらいと、ボロクソ言われることが多いのですが、当時のボールドウィンがそういう立場をとるってことは、すごく大変で勇気の要ることだったんだろうなという想像はつきます。

何しろ、暴力はもちろん、命の危険まで感じながら、言論活動を続けるってのは大変なこと、私みたいなヘタレには絶対にできない勇気と度胸と知性による行動ですから、そんなボールドウィンに羨望と尊敬の両方を感じてしまいました。彼の言ってること全てを鵜呑みにする気は毛頭ないのですが、この映画の中で語られる彼の発言には、なるほどと納得させられるものが多く、その発言によって身の危険を感じたからこそ、アメリカの外で活動を続けたというところにも共感できました。そういうボールドウィンという人間を描いたドキュメンタリーという側面と、黒人差別の現代史という側面の両方を描いた映画になっているのですが、両方を描くという欲張った構成というのが意外と成功しているのが発見でした。ボールドウィンの言動を、歴史ドキュメンタリーの部分で補足するという関係がうまくバランスが取れてるのですね。そういう意味で、面白いと思ったのは、ハリウッド映画が白人が望む世界を描き続けてきたというところでした。白人のヒーローがマイノリティの悪役をやっつけることでカタルシスが得られるという、ヒーロー像の描き方への指摘はなるほどと思わせるところがありました。また、白人と黒人が登場する映画においては、黒人は白人に都合がよい人格者のように描かれるというのも面白い視点だと思いました。当事者からすると「そんな奴いねえよ」という黒人でないとハリウッドの映画には出られなかったというところは、今はリベラルを代弁する立場のハリウッドも昔は差別の一端を担っていたんだということがわかります。ジョン・ウェインに代表されるアメリカンヒーローたちがこの映画に何度も登場し、一方で黒人のステレオタイプキャラは当の黒人からは拒否反応を起こさせるものだったんですって。まあ、ハリウッド映画に登場する日本人のステレオタイプも知っているので、そこはそんなにムキになるところなのかなって気がしますが、固定されたヒーロー像というのは、いいところ突いてるって感心しちゃいました。

白人は自分の優位を維持するために、黒人のイメージを作り出し、その中に彼らを押し込めてきたという見せ方は、なるほどという発見がありました。頭の働く白人が、黒人を制度や法によって、自ら望む枠の中に押し込めると、バカな白人は、黒人は最初からそんなものなんだと信じ込んでしまう。大多数の愚かな白人が、理屈じゃなく生来の権利として、黒人を貶めて、彼らを愚かと決めつけ、反抗すればボコボコにして当たり前の精神状態になってしまう。今は、黒人は劣等だと正面きって言う人は少なくなっていると思っているのですが、アメリカ全体がそんな感じなのかは私にはわかりません。最近の映画を観ても、黒人差別を過去の黒歴史として距離を置いて見るまでには至っていないように思えます。そういうところを本気で知りたいと思ったら、実際にアメリカ中を回って見るしかないのですが、実際のアメリカ人だってそんなことしてないだろうから、本当のところなんてでかいアメリカだとなかなかわからないんだろうなあ。

それでも、この映画を観て、歴史の復習と、黒人差別を色々な視点から見ることができましたから、観る価値のある映画だと思います。そして、我々の中にも、優越感を満たす何かを作りたい気持ちがあるということに、向き合う機会になるのかも。だって、海の向こうの黒人差別が、日本人でも理解できる言葉で説明できちゃうってことは、黒人差別の根っこは我々と地続きだってことですもの。耳に痛い嫌な話としても、知っておいていいことだと思います。まあ、ジェームズ・ボールドウィンや、この映画の監督が、日本人の本性をえぐるためにこの映画を作ったわけではないですが、日本人も観て学ぶところのある映画になっちゃったという感じかしら。

「告白小説、その結末」ポランスキーの語りのうまさと、最後を説明しきらないアサイヤスのタッチが融合していてかなり面白い、楽しめます。


今回は新作の「告白小説、その結末」を有楽町のヒューマントラストシネマ有楽町1で観てきました。ここはいつ来ても混雑している映画館なんですが、ラインナップが揃っていることと、映画1本を1000円~1300円で観られるTCGメンバーズカードの存在が大きいと思います。このカードがなかったら、横浜在住の私が、通勤定期があるとは言え、そう足繁くここまで足を運ぶことはないですもの。

人気小説家デルフィーヌ(エマニュエル・セニエ)は、精神を病んで自殺した母親と自分を題材にした小説が大ヒットします。人気文芸評論家である夫フランソワ(ヴァンサン・ペレーズ)とは愛ある別居状態。彼女の出版イベントではサイン会に長蛇の列、それに疲れて、サイン会を打ち切った彼女の前に、エル(エヴァ・グリーン)と名乗る女が現れサインを求めます。一度はサインを拒否したデルフィーヌですが、サイン会の後のパーティで再会し、自分の話を聞いてくれるエルに好感を持つようになります。新作にとりかかったもののスランプ状態のデルフィーヌに、エルは彼女を助けようと色々と気を遣ってくれるようになります。精神病の家族の本で金儲けしたと責める手紙に精神的に参っていたデルフィーヌにとって最初はありがたいものでしたが、段々とエルはデルフィーヌの行動を監視し指図するようになります。大家に部屋を出てけと言われたエルを、デルフィーヌは自分の部屋に住まわせることにもなっちゃいます。新作は、完全にフィクションで行きたいと思っているデルフィーヌに、エルは自分の真実を書くべきだと強く言ってきます。友人や編集者に、執筆に集中したいから連絡を取らないでくれというメールを勝手に出したりするエルはどっかおかしい。そう気づいて、一度は彼女を部屋から追い出すのですが、アパートの階段を転げ落ちて骨折してしまい、そんな彼女を心配して来てくれたのは、やはりエルだったのです。彼女の提案で、執筆のための田舎家で、二人でしばらく過ごすことになるのですが....。

デルフィーヌ・ド・ヴィガンの小説「デルフィーヌの友情」を原作に、「アクトレス 女たちの舞台」のアリヴィエ・アサイヤスと「ゴーストライター」「毛皮のヴィーナス」のロマン・ポランスキーが共同で脚色し、ポランスキーがメガホンを取りました。オープニングで、小説家の視点で、サイン会の様子が描かれます。サインに疲れたデルフィーヌの前に現れる謎の美女エル。彼女は、有名人のゴーストライターをしていて、彼女のファンだと言います。デルフィーヌの小説を、まるで自分のために書かれたようだと言うあたりは、ちょっと危ないファンの「ミザリー」的な展開を予想させます。しかし、この映画は、小説家と熱狂的ファンの異常な関係という方向へは進みません。いや、見方によってはそういう解釈も可能かもしれないけど、どっちかというと小説家にあこがれるエルが、デルフィーヌを取り込んで同化しようとする「ルームメイト」に近い映画と言えそうです。まあ、それだけ過去に似たような設定の映画があるということになるのですが、ポランスキーは、ミステリーサスペンスのスタイルで物語を引っ張っていき、結末は観客の好きなようにつけていいよという、解釈の余地を残すという演出をしています。まあ、人によっては、この展開なら結末は一つで解釈の余地はないとおっしゃるかもしれませんが、私は複数の解釈を許す映画だと思っています。

ヒロインのデルフィーヌは人気作家で、愛ある別居のダンナとの関係も良好、子供二人も手を離れて優雅な一人暮らし。。ただ、母親が精神病で入院し最終的に自殺しており、それを私小説の形で出版したら大当たりしたことが彼女にある種の後ろめたさがありました。だからこそ、無記名の手紙で「病んだ肉親を売って、金儲けするゲス女」とか言われちゃうと結構精神的にダメージを受けちゃう。何者かが彼女の名前でフェイスブックを立ち上げて、そこに同じような誹謗中傷の書き込みがされて、彼女が知らないうちに炎上しちゃったりしているのです。そんな時、彼女の前にあらわれたのがエルという、有名人のゴーストライターをしている女。エルは、最初はデルフィーヌのファンとして接近してきて、精神的に疲れている彼女を支えるかのように見えるのですが、「私があなたの最高の理解者よ」なんて言い出して、段々と彼女の行動を拘束していくようになります。このあたりの語り口のうまさは、ポランスキーの職人芸とでも申しましょうか、どんどん物語に引き込まれてしまいました。先が読めそうで読めないさじ加減がうまいのですよ。ありがちなようでそうでもなさそうな感じ、うまく説明できないのですが、ここは劇場でご確認いただきたいところです。

デルフィーヌが持ち歩いていた創作メモがエルと会った直後になくなったり、クローゼットの中の彼女の若い頃の創作メモが誰かに読まれた後があったり、どうやらエルは彼女のことを調べ上げていることが伺えます。そこまでして何をしたいのかが、なかなか見えてこないのですが、フィクションを書きたいというデルフィーヌの構想を否定して、デルフィーヌ自身の事を書くべきだと言い張ります。自分のことを書いて、肉体精神ともにボロボロになったデルフィーヌはもう自分のことを書く気はないので、そんなエルをうとましく感じるようになります。このままでは、エルの思うように小説を書かされる羽目になるのではないかと、彼女の存在が不気味に感じられるようになります。観客としてはデルフィーヌがそう思う前から、この女ヤバいぞとわかっているので、いつ、彼女がエルを切るのかが、サスペンスの要素となります。

ところがここで急展開、デルフィーヌは事故(これはエルは無関係)で、骨折してエレベーターのないアパート生活が困難になります。エルに助けてもらって彼女と一緒に田舎家の別宅で、執筆活動を継続することになります。エルも自分の執筆活動があるからと部屋に引きこもるようになります。一方で、デルフィーヌは、小説の題材としてのエルの存在を再認識します。幸いと言うべきか、エルはそれまであまり語りたがらなかった自分の過去を語り始めます。母親が自殺していたり、山岳案内人と結婚したものの、そのダンナも自殺(ここがはっきりしない)したとか、なかなかな人生を歩んできたことがわかります。彼女に気づかれないように、エルの話から物語の構想を記録し始めるデルフィーヌ。これが成功すれば、あの威圧的なエルを出し抜くことができるのですが、果たして成功するのでしょうか。

ほとんど、デルフィーヌとエルの二人芝居で成り立っている映画でして、その駆け引きで見せる映画になっているのは、「毛皮のヴィーナス」と似た構成ということができるかも。さらに、「アクトレス 女たちの舞台」「パーソナル・ショッパー」のオリヴィエ・アサイヤスのタッチがかなり感じられるお話になっていまして、白黒がはっきりしない曖昧なまま進むドラマと、そのドラマの柱にぽっかりと穴を空けたまま終わるあたりの後味は、アサイヤスの映画っぽいなあって感じがしました。一方で、これをサイコスリラー的に解釈すると、ポランスキーの「反撥」「水の中のナイフ」が見えてくるあたりは、この映画、一筋縄ではいきません。アサイヤスやポランスキーの過去の作品を知らなくても単品として十分に楽しめる映画ではありますが、彼らの過去の作品を観ていると、余計目に想像の裾野が広がる映画でもありました。

デルフィーヌを演じたのはポランスキーの奥さんでもあるエマニュエル・セニエでして、人気作家にしては、言動がどこかふわふわしていて頼りなげなキャラクターを好演しています。一方の謎の女エルを演じたエヴァ・グリーンは、冒頭から腹に一物ある凄みを感じさせる女性として登場し、どんどんデルフィーヌの生活を侵食していくのをパワフルに演じました。エヴァ・グリーンのような完全無欠の美女(そう思うのは私だけ?)が、醸し出す凄みには、どこかリアリティと一線を画した部分もあって、「ミザリー」のキャシー・ベイツのような突き抜けた怖さまで達しないのですが、それこそがこの映画のカギなのかもしれないと思ったのは観終わった後でした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



デルフィーヌがアメリカへ出張中のフランソワへ電話すると、彼は妻の言動が誰かに支配されているみたいだと心配します。田舎家の執筆活動は順調に進んだように見えるのですが、エルがネズミにおびえて、殺鼠剤とネズミ捕りを買ってきて、それを地下室に置いた直後から、デルフィーヌは熱を出して寝込んでしまいます。どうも食中毒みたいなんですが、エルの方は何ともない、エルはスープやココアを強引に飲ませようとするのですが、デルフィーヌは拒否。気づけば、エルについて書いた創作メモは破り取られていました。ある夜、フランソワの友人のレイモンがデルフィーヌを探しに来て、声をかけるのですが、半死半生のデルフィーヌはそれに応えることができないまま、彼はまた去っていきます。「このままでは殺されるかも」とデルフィーヌは田舎家を抜け出し、下の村へと逃げるのですが、途中で道の側溝に落ちて気を失ってしまいます。そして、翌日、道路工事のトラックに発見されたデルフィーヌは、病院に運ばれます。気がついた彼女はフランソワから、自殺しようとしたのかと問われてびっくり。彼女の体から殺鼠剤の成分が見つかったというのです、さらに驚いたことに、編集者宛に新作の原稿が届いていたというのです。それはまたベストセラーになったようで、サイン会が行われています。何人もの人間が彼女にサインを求めます。と、急に周囲の風景が変わってエルがサインを求めてきます。一体何が起こったの。そして、本のタイトル「この物語は事実に基づく」がクローズアップされて、おしまい。エンドクレジット。

ラストは死にそうになったヒロインがエルと対決するのかと思いきや、彼女が家を抜け出して助けられたところで、一区切りついてしまい、エルの存在は不問にされたまま、映画は終わってしまいます。うーん、これはいわゆる一人二役というか、二重人格トリックのミステリーだったのかなと思わせる結末になっています。ラストで唐突に再び現れるエルを見ると、思い返すと最初のエルの登場もドラマの流れを遮る唐突なものだったよなあって気づかされ、こいつは実際は存在しないんじゃないかという気分になったところで、一気にドラマは幕を閉じてしまいます。「この物語は事実に基づく」という捨て台詞を残して。結局、種明かしはされないのですが、エルは、執筆のスランプに追い詰められたデルフィーヌが、自分の心の中で作り上げた架空のゴーストライターだったのかなと思わせる結末に思えました。そして、結局、デルフィーヌは自分の全て(過去とか創作ノートとか)をゴーストライターに与え、新作を彼女に書いてもらったということではないかしら。それは単にデルフィーヌの中でのお話でして、実際、エルも彼女なので、エルが書こうが、デルフィーヌが書こうが、デルフィーヌの作品であることに間違いはありません。それでも、デルフィーヌは、ゴーストライターに書いてもらうことで、精神的にずいぶんと楽になり、自殺寸前のところで思いとどまったのだと考えると、私には腑に落ちました。エルが実在したと仮定した解釈もきっと可能ではないかと思うので、これはあくまで私個人の解釈ということになります。どっちにしても、ゴーストライターのエルは、デルフィーヌと一体になり、デルフィーヌに成り代わろうとしたというところは同じだと思います。そして、最終的に、デルフィーヌの乗っ取りには失敗したのだと。でも、次回作でまた、デルフィーヌがゴーストライターを必要としたとき、今度こそ、エルに本体が乗っ取られちゃうのかも。

映画の前半、デルフィーヌの夢の中で、デルフィーヌの母親が彼女の仕事机に座り、彼女のパソコンを手に取って思い切り投げると、向いのビルのエルのいる部屋までそれが飛んで行って、エルごと部屋を破壊しちゃうというシーンが登場します。これが、エルがデルフィーヌと一体だということを示しているとおもったのですが、それは、メタファーではなくて、本当に文字通り同一人物だったということになるのではないかしら。決して、わかりにくい映画ではないですし、展開も面白いし、演技陣もうまいのですが、それでも説明しきらない結末は、苦手な人がいるかも。それでも、私はこの映画楽しみましたし、このやり方は「パーソナル・ショッパー」や「アクトレス 女たちの舞台」のアサイヤスの語り口だよなあって、楽しんでしまいました。やっぱり、お話の語り部職人として、ポランスキーはうまいよなあって感心する一編でした。

「女と男の観覧車」アレンの演出もいいけど、何よりケイト・ウィンスレットを見る映画、彼女素晴らしいです。


今回は新作の「女と男の観覧車」を川崎の109シネマズ川崎2で観てきました。こういうミニシアター系映画をシネコンでかけてくれるのはありがたい限り。ミニシアターより大きなスクリーンで観られるというメリットもありますし、と書いて気がついたのですが、もう「ミニシアター」という言葉は死語になっちゃってるのかな。最近の若い人に「ミニシアター」なんて言っても、「何それ?」ってことになっちゃってたりして。

1950年代ニューヨークのコニーアイランドの遊園地で回転木馬の係をしているハンプティ(ジム・ベルーシ)は、元女優で今はウェイトレスをしているジニー(ケイト・ウィンスレット)と再婚しましたが、その連れ子のリッチーはあちこちに火をつけて回る問題児。そんなハンプティの元に別れた娘キャロライナ(ジュノー・テンプル)が転がり込んできます。キャロライナはイタリア人のギャングと結婚して、警察と取引して組織の情報をリークしたために、ギャングから命を狙われていました。そんなヤバい女をかくまうのに気が乗らないジニーですが、長年不仲にあったハンプティはそんな娘を許し、ここまでギャングも追ってこないだろうと、彼女を家に住まわせることにし、ジニーと同じ店でウェイトレスを始めます。一方、ジニーは海の監視員ミッキー(ジャスティン・ティンバーレイク)と浮気をしていました。昔、女優をしていて、バンドのドラマーと結婚したものの、彼女の浮気で破局し、女優の仕事も失い、生活にも困っていた状況でハンプティと知りあって結婚していたという経緯もあり、ダンナへの感謝の気持ちはあるもの、自分の人生はこんなもので終われないと思っていたジニーにとって、若いミッキーの存在は新しい人生への希望でもありました。でも、ミッキーはキャロライナの方も気になっていたのでした。

ウッディ・アレンの新作です。今回も彼が脚本と監督を兼任し、名女優ケイト・ウィンスレットと初タッグを組みました。遊園地でウェイトレスをしている四十女の悲喜劇を重厚に描いて見応えのあるドラマに仕上げました。アレン映画のいつものシニカルな笑いは控えめに、長回しを多用し、ウィンスレットの芝居をじっくりと見せる、舞台劇のような作りになっています。冒頭で監視員のミッキーが観客に向かって、ドラマの開始を宣言し、この後も彼が観客に語りかけるシーンが登場します。いつものナレーションに替わる存在になるんでしょうけど、余計目に舞台劇のカラーが出る演出でした。ビットリオ・ストラーロの撮影が「カフェ・ソサエティ」と同様、時代色を出しながら、隅々まで細やかでクリアな映像になっているのが見事で、これまでのアレン映画の柔らかい映像とは異なるビジュアルは、役者で引っ張る映画にふさわしいものになっています。

今回のヒロインであるジニーは、いつものアレン映画のようなセレブでもおしゃれでもない、ややくたびれた四十女です。昔、女優をしていて、そこそこのところまで行ったらしいのですが、看板女優まではたどり着けないまま、ドラマーと結婚、子供もできたものの、浮気して夫は失踪、仕事もなくなったという過去がありました。過去にはちょっとだけスポットライトを浴びたことがあるんですが、今は、遊園地の食堂のウェイトレスで、遊園地の射的場の上の部屋に夫と息子、3人で暮らしています。そんな人生に絶望しかなくて、死んでしまいたいと思っていたときに偶然知り合ったミッキーに夢中になります。劇作家志望の大学生で夏のバイトで監視員をしているミッキーは、元女優の四十女のジニーにとっては王子様みたいな存在なのかも。ミッキーの方も、ひと夏の遊びと割り切って、人妻を翻弄しているのかと思いきや、結構マジメにジニーの事を考えているようです。

そんな時に、ダンナの娘キャロライナが転がり込んできます。親の反対を押し切って、ギャングの若造と結婚した挙句、警察に逮捕すると脅されて、組織の情報を証言したものだから、ギャングに命を狙われているというのです。怒りまくるハンプティですが、それでも娘はかわいいので、家に住まわせ、宝くじの賞金で夜学に通わせ英語教師にしてやろうとします。このハンプティというおっさんも釣りばかりしていて、酒乱の気があって、ジニーにきつくあたることがあるけど、彼女に禁酒を言い渡されると殊勝にそれに従うあたり、根は悪い人ではなさそう。一方の娘のキャロライナはちょっと見かわいいんだけど、変な男を好きになるバカっぽい娘で、悪意はないけどどんくさいキャラクター。そんな若いキャロライナに、ミッキーの気持ちが傾いてしまうものですから、ジニーとしては嫉妬の炎がメラメラということになります。そのストレートな嫉妬ぶりは、見栄を張ったところがないのが潔いということもできるのですが、若い学生に入れ込んだ四十のババアというのは痛い光景とも言えましょう。そう言いつつもジニーは元女優ということもあって、きれいで美人さんなのが、なかなか先の読めない色恋ドラマとなります。

アレンの演出は登場人物に長ゼリフを目一杯しゃべらせるのを長回しの移動ショットで追うという演出で、役者の演技力をフル回転させています。特に、ケイト・ウィンスレットとジム・ベルーシには長めの大芝居をさせて、その役者パワーで映画を引っ張っていくあたりは、演出力と演技力の見事な合体になっていまして、こういう形で見応えのある映画は少ないので、結構新鮮に映るのではないかしら。特に、後半、追い詰められたジニーがミッキーにうったえるシーンの長回しは見応えのあるものになっていて、鬼気迫る壊れヒロインをシンパシーも込めて演じ切ったのが見事でした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



キャロライナを探すギャングたちは、ハンプティの居場所も押さえてコニーアイランドにもやってきます。一度は、ハンプティがとぼけて、ギャングもそれに騙されて、引き上げていくのですが、再度、やってきたとき、キャロライナの店の主人がデートに出かけた先の店の名前をギャングに伝えてしまいます。すれ違いに店にやってきたジニーは、そのことを知り、キャロライナを助けるべく、彼女がミッキーとデートしている店に電話をかけるのですが、そこで魔が差したのか、次の言葉が出なくて、電話を切られてしまいます。そして、店の前で、ミッキーと別れたキャロライナはそれっきり姿を消してしまい、警察に届けてもその消息はわかりません。自分の家で、舞台のドレスを着込むジニーの前にミッキーが現れて、彼の推理した真相、ジニーがキャロライナを見殺しにした事実を指摘します。最初は自分とよりを戻しに来たんでしょうと余裕のジニーでしたが、ミッキーに真相をつかれると、言動がおかしくなっていきます。ミッキーが去り、ハンプティが戻ってきて、様子のおかしいジニーに「別れないでくれ」と泣きつきます。そんな夫にあさっての方を向いてブツブツとつぶやいているジニーから暗転、エンドクレジット。

前半で何とかやりすごした追手のギャングが再び現れ、今度はキャロライナの居所が知られてしまいます。ジニーはその前に、彼女がミッキーとデートすることを知っていて、さらに運よくというか、運悪くというか、ギャングの追手を見かけてしまうのでした。そこで、ジニーがデートの店に電話をかけるのですが、ギリギリのところで沈黙してしまうところが圧巻で、今なんとかしないとキャロライナが殺されちゃうのがわかっているのに、女としての衝動が勝ってしまうあたりの説得力が見事でした。その後、その真相を突いてきたミッキーに壊れてしまうジニーが何だかかわいそうな女に見えてしまうところはアレンの演出のうまさなのでしょう。やってることは最悪の結果を知っての上で、それを招いているのですから、どう責められても許されるものではないのですが、そんなジニーにシンパシーを感じさせるあたり、「ブルージャスミン」でも、最後に壊れてしまったヒロインを突き放しきれないのと同じヒロインへの想いがあったように思います。でも、その突き放しきれない視線があるからこそ、この映画は奥行きと見応えを持ったということもできましょう。残酷な結末がドラマの見応えと共に何とも切ない余韻を残します。ケイト・ウィンスレットという女優さんは、色々なジャンルの映画をこなしますが、どれを取っても彼女を観ているだけでモトの取れる演技を見せてくれます。この作品では、作品そのものも素晴らしく、さらに彼女の演技が見事で、大変見応えがありました。

「ピーター・ラビット」は面白さと楽しさだけでテンポよく突っ走るのがお見事、オススメ。


今回は新作の「ピーター・ラビット」を川崎の川崎チネチッタ5で観てきました。字幕版での鑑賞ですが、こういう映画は吹き替え版のみ上映の映画館も結構あって、字幕版を楽しみたい身としては困っちゃうのですが、吹き替え版で観るってのはテレビで観るのと同じじゃんという考え方は古い世代ってことになってきているのかなあ。

舞台はイギリスの湖水地方、ウサギのピーター(ジェームズ・コーデン)は三つ子の妹フロプシー(マーゴット・ロビー)、モプシー(エリザベス・デビッキ)、カトンテール(デイジー・リドリー)、そして従弟のベンジャミン(コリン・ムーディ)と木の根の中の家で仲良く暮らしていました。彼らはマクレガーおじさん(サム・ニール)の庭の畑に忍び込んでは野菜をかっぱらってました。マクレガーはピーターの父親をパイにして食べちゃった親の仇です。時には捕まりかけるけど、隣家の画家ビア(ローズ・バーン)が彼らをかばったり助けたりし役てくれていました。そんなある日マクレガーが心臓発作で倒れて亡くなります。そして、家と畑を相続したのがデパートをクビになったばかりのトーマス(ドーナル・グリーソン)でした。彼は家も土地も売り払うつもりで、やってくるのですが、家の中はピーターたちがやりたい放題。動物たちを追い出したトーマスは塀の戸に鍵をかけ、電気鉄線を張り巡らします。ピーターは電線に仕掛けをして逆襲に出るなど、トーマスとピーターの闘いはどんどんエスカレート。一方で、ビアとトーマスが仲良くなっていくので、ピーターとしてはさらに面白くない。トーマスはウサギよけの爆薬を買い込んで、彼らの家を破壊しようとするのですが、ピーターも只では引っ込まないで、その裏をかいていくのですが、両者の諍いはとんでもない結末を迎えてしまうのでした。

ビアトリクス・ポターの有名な絵本「ピーター・ラビット」を、ロブ・ライバーとウィル・グラックがが現代の物語にアレンジして脚本化し、グラックがメガホンを取りました。まあ、ピーター・ラビットだけでは、観ることもなかったのですが、ごひいきローズ・バーンが出ていることと、グラック監督の「ステイ・フレンズ」「アニー」が面白かったってことで食指が動きました。ピーター・ラビット以下、キツネやブタにハリネズミといった動物たちはCGアニメによるリアルじゃない擬人化キャラで描かれていまして、そこに実写の人間が絡むというもの。私は原作を未読なので、ほのぼの系のお話なのかなと思っていたのですが、ピーターはいたずら好きで、トーマスへの攻撃もかなりえげつない。そのドタバタアクションは、「トムとジェリー」のそれに近いものでして、それをCGと実写で派手にやるものですから、ほのぼの系とはかなり違う味わいです。

ピーターはとにかくマクレガー家のものは全部自分のものだと思い込んでるところがあります。その昔、ピーターたちが遊んでいた場所にマクレガー家ができたからというのがその根拠らしいのですが、そこに種をまいて野菜を育てたのはマクレガー家の皆さんなので、それを全部もらってOKというのは理不尽と言えば理不尽。マクレガーおじさんは、野菜泥棒であるウサギたちを敵対視して、追っ払ったり時にはつかまえて食べちゃったりしてきた経緯があるみたいです。うさぎ目線に立てば象徴的なモンスターであるマクレガーおじさんなのですが、この映画は、人間側のドラマを並行して描くことで、人間とウサギが、お互いどっちもどっちな関係になってくるのですよ。ライバーとグラックの脚本は、マクレガー家とウサギを「トムとジェリー」のようなシリアスにならない敵対関係にして、両者の攻防戦で中盤は突っ走ります。トーマスもピーターも美人のビアにはいい顔したいけど、でもお互いはいがみ合ってるというのが笑えるドタバタになってます。でも、段々、トーマスとビアが仲良くなっていくと、そこにラブコメ要素が入ってきます。ラブコメ部分が意外と定番の展開になっていまして、出会いからラブラブ、仲違いからの和解というのを結構マジメに作り込んでいます。

映画の前半は、トーマスとピーターの抗争劇がメインとなっていて、中盤は、そこへラブコメが並行して描かれ、後半ラブコメ中心にシフトするという構成が成功しています。グラックの演出は会話とアクションのテンポがよくって、お話がトントン進むのが心地良く、しんみりさせる設定も勢いでサラリと流して、面白くて楽しい映画にまとめています。言い方を変えると、面白さと楽しさのみピックアップして、他の要素を切り捨てたという感じでして、なるほど、ピーターラビットというメジャーな題材を使って、純粋にエンタメに絞り込んだ作りにしたセンスはすごくいいって思います。クライマックスでは映画ならではの、リアルとファンタジーの融合もしちゃうし、この映画、かなり面白いです。ラブコメとしても、根はいいやつらしいんだけど、野心家でかつ暴走するトーマスと、かわいいヒロイン風だけど天然キャラのビアのカップルは、普通のラブコメより、かなり濃いキャラ設定がされていて、ピーターラビットにインパクト負けしないあたりのバランス感覚も見事です。喜怒哀楽をくっきり見せるCGアニメのキャラクターを前にして、トーマスとビアが霞まないというのは、グラック監督の采配が見事だからでしょう。CGキャラがカートゥーンをやっているのに、人間側がテンポの速さやテンションの高さで負けてないってのは、かなりすごいことだと思いますもの。

CGの動物たちは、ウサギ以外にも、キツネやアライグマにブタやカエルまで登場して賑やかに画面を彩るのですが、本筋にはあまり絡んでこなくて、これは子供の観客のためのサービスなのでしょうね。大人が楽しいラブコメ部分だけでなく、子供も楽しめるように色々と趣向を凝らしているところは評価したいです。教訓とか説教臭さなく、面白楽しいに特化して家族向けの映画に仕上げているのですから。鳥たちがコーラスガールのように登場して、ミュージカル風のシーンも登場し、そこに邪魔が入って歌が中断するというギャグを繰り返す趣向も楽しく、色々なネタを盛り込んで、それをスマートに配置して、アップテンポにさばいてるのが点数高かったです。演技陣としては、声優陣に結構知った名前があって、こんなところにも出てるんだデイジー・リドリーとか、この人の出る映画は外れがないよなあって再認識したサム・ニールといった面々が印象的でした。また、ドーナル・グリーソンのハイテンションなコメディ演技のうまさも発見でして、役者のよさも映画の面白さにかなり貢献しています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



畑でピーターたちと爆弾使って追跡劇をしていたトーマスですが、ピーターの巣に仕掛けた爆薬の起爆スイッチをピーターに奪われてしまいます。ところが、ピーターがスイッチを押してしまい、巣が爆発して、その上の木が倒れ、ビアの家を壊してしまいます。トーマスがウサギたちをいじめた挙句にビアの家まで壊したということで、ビアは激怒して、トーマスとしても言い訳ができず、傷心のトーマスは、ロンドンに戻って元のデパートで働くようになります。一方のピーターは、さすがにこれまでのことを反省し、ビアとトーいマスを仲直りさせようと、ベンジャミンを連れて、ロンドンのデパートに乗り込んで仕事中のトーマスを言葉で説得し、トーマスは家を去ろうとしていたビアを引き留めます。そして、トーマスの家を買いに来た夫婦をピーターが追い払って、ビア、トーマス、そして動物たちは仲良く暮らすようになりました。めでたしめでたし。

クライマックスで、ピーターがトーマスを説得し始めちゃうのはびっくりでしたけど、これが映画の魔法ってやつだねって納得。ラブコメとしても、トーマスが去ろうとするビアを引き留めるシーンをきっちり見せています。カートゥーン、動物アニメ、ミュージカルにドタバタにラブコメとネタを大盛りにして、面白いところをうまく選り抜いた映画としてオススメ度高いです。原作を読んでる人には、どう映るかはわかりませんけど、原作を知らない私は大変楽しめました。子供も楽しめる映画ですが、日本のアニメのような、家族愛とか感動といったものがない分、子供にも新鮮に映るのではないかしら。

「男と女、モントーク岬で」男女のお互いを理解しあえない関係を丁寧に描いて見応えがあります。


今回は新作の「男と女、モントーク岬で」を有楽町のヒューマントラストシネマ有楽町2で観てきました。土曜日の夜の回のこの映画館としては珍しくガラガラでした。やっぱりこういう大人の恋愛映画ってお客が入らないのかなあ。好きなんですけどね、こういうジャンル。劇場公開されずにDVDスルーにはなって欲しくないのですが。

北欧出身の小説家マックス(ステラン・スカルスガルド)は、新作のプロモーションのためにベルリンからニューヨークにやってきました。ニューヨークには出版社で働く妻クララ(スザンネ・ウォルフ)がいて、夫婦なのに久々の再会です。彼の小説は自分の過去の恋愛をモチーフにして作っているので朗読会でそのくだりをマックスに朗読されるとクララとしては心境は複雑。マックスのかつての師匠でパトロンだったウォルターが朗読会に現れ、マックスはかつてのニューヨークの恋人レベッカ(ニーナ・ホス)の連絡先を聞き出します。今は弁護士をしている彼女のオフィスまで押し掛けて、本と朗読会の招待状を渡すマックスに、レベッカの対応は冷ややか。酒の勢いで自宅にまで押し掛けちゃうマックスですが、そこでもうまくあしらわれてしまいます。ところが、レベッカの方から週末にロングアイランドへ行くのだが、一緒にどう?というお誘いが来ます。ロングアイランドの先端にあるモントークはかつて二人で旅行に出かけた思い出の地でした。そこへ行こうという彼女にはどんな意図があるのでしょうか。クララという奥さんがいるのに、わくわく気分で出かけるマックスってどうよ......。

ドイツの名称フォルカー・シュレンドルフが、「ブルックリン」のトルム・コビーンと共同で脚本を書き、メガホンも取った、大人の恋愛映画です。私はこの人の映画は学生の時「ブリキの太鼓」を観たのですが、さっぱりわけがわからず、その35年後に「シャトーブリアンからの手紙」「パリよ、永遠に」を観て、ヘビーな内容の映画を退屈させずにかつ面白い視点で切り取る監督さんという印象でした。向こうでは巨匠の扱いだそうですが、80歳を目前にして恋愛映画を撮ったというのはちょっとした意外感があるんですって。(これは、プログラムからの受け売り)そういう裏話は置いといて、私は主演の二人がステラン・スカルスガルドとニーナ・ホスという渋いご贔屓名優だったということで食指が動きました。ニーナ・ホスは「東ベルリンから来た女」が無茶苦茶かっこよかったですし、スカルスガルドは「奇跡の海」「ディープ・ブルー」と硬軟、主役も脇役もこなすうまい役者さん。この二人を主役にした恋愛映画ってどんなものなんだろうってところにまず興味出ました。

映画の冒頭は、マックスの一人語りで、それが自作の小説の朗読会だとわかります。彼の小説は自分の経験に基づいてる私小説な味わいが強いものらしく、彼は過去のレベッカとの恋愛もその小説に盛り込んでいました。彼は基本はドイツにいるんですが、奥さんのクララはニューヨークで出版の仕事をしているという何だか変則的な夫婦関係。17年前に別れたきりになっているレベッカに連絡を取って再会しようとするのは、マックスとしては、あわよくば焼けぼっくいに火をつけたいのか、単に元カノとの旧交を温めたいのか、そのあたりがどうも前者の方に見えるのですね。一方のレベッカは何を考えているのかが今一つわからなくて、こればミステリーの要素となってドラマが進んでいきます。

レベッカがマックスを週末の旅行に誘ったことから、ドラマは新しい展開となります。それまでマックスにそっけなかったレベッカに何か心境の変化があったのでしょうか。彼女の気持ちもマックスになびき始めたのか、それともマックスをいっちょ弄んだろかと思い立ったのか。女性ってのはよくわからないよねえって映画になってきます。その一方で、マックスの方のあわよくばという気持ちはすごくわかりやすい、自分に都合のいい成り行きを期待するよくある男のパターンです。優柔不断じゃなくて、すべてを自分の都合のいい方に強引に解釈して、その解釈を相手にも押し付けちゃうという、いわゆるズルい男。自分の過去を小説に取り込んで、相手のことを自分のいいように解釈して、それが客観的な事実であるかのように書いて、自己満足して、それでお金も稼いじゃうってのは、それ自体、結構ズルいと思ってしまうのですが、言葉を扱うアーティストとしては、そういうのが許されるみたいなんですよね。同じことをブログやインスタに書き連ねたら、思いやりの足りない個人情報流出野郎と言われちゃうんだろうけど、紙の上の活字にしたら、芸術の一部として許容対象になるってのには、私は納得いかないのですが、マックスはそれで身を立てて社会的な地位を築いていて、さらに元カノに会って、あわよくばやり直したいと思っている。これって、結構恥ずかしいことだと思うのですが、それを否定しないで、そういう男がいてねというお話にまとめているのは面白いと思いました。男っていくつになっても、社会的な地位を得ても、恥ずかしい存在なんだよっていう映画と解釈すると、そんなダメ男を否定しないシュレンドルフってどういう人なのかなって興味がわいてきます。

演技陣は主演二人は適役適演で、芸術家だけどエゴイストで俗なオヤジをステラン・スカルスガルドが存在感のある演技で熱演していて見事でした。一方のニーナ・ホスは、思い込みが強そうで、何か過去を持つ女性をサラリとリアルに演じ切りました。よく考えるとヘヴィなヒロインなのに、決して重すぎないキャラクターはある意味、男にとって都合のよい女とも解釈できます。そう思うと一見男と女の恋愛へ対する接し方を細やかに描いているように見えて、男にとって究極の都合のいい女はこれだというのを、男目線で描いた映画ではないかしら。結局、マックスの思うようにならないのに、それが彼にとってのベストの着地点になるという都合の良さは女性の眼から見るとどう映るのかすごく興味あります。ご覧になった女性の方の感想を伺いたい映画ですね、これは。

シュレンドルフの演出は、マックスを中心にテンポよくドラマをさばいて、要所要所にアートっぽい空気を漂わせながら物語で引っ張る映画に仕上げています。また、ポストクラシカルで名をあげて、多くの映画音楽を手掛けるマックス・リヒターの曲をドラマの要所で使っています。この映画のために書かれたものではなく、既成曲のようなのですが、それがドラマに共感できる感情の揺らぎ感を与えるのに成功しています。リヒターの音楽のおかげで、登場人物の感情の動きがこちらに入ってきやすくなりました。すごく心に入り込んでくる、共感しやすい音楽が流れると、ドラマも受け入れやすい気分になるってのは結構不思議。映画の中の音楽の力はあなどりがたいと思うのですが、最近の映画だと、音楽の力がないがしろにされているような気がして、なんかもったいない。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



レベッカがモントーク岬へ出かけた理由は買いたい家を見に行くためでした。でも、行ってみたら誰もいない。仕方なく、家の管理者に明日会うアポをとり、レベッカは近所のホテルに泊まると言い出します。実は妻との約束があったマックスですが、自分も特に用がないからと、かつて二人が泊まったホテルに宿をとり、当時は行けなかったレストランで食事し、部屋へ戻った二人は自然に抱き合うのでした。翌日、家の内覧を済ませたレベッカは、マックスに、マックスと別れた後のことを語り始めます。彼と別れて傷心の彼女はある男と出会い愛し合うようになります。彼は弁護士でお互いの将来を見据えた関係だったのですが、ある日その彼が心臓発作で急死し、彼女の心には大きな穴が空いてしまい、それは一生埋まることはないと告白します。一方のマックスは昔のように体を重ねたことで、あの日が蘇ったのだと思い、離婚するからもう一度やり直そうと持ち掛けます。そんなマックスに、今の自分は失った彼氏の抜け殻だと言います。改めて、マックスに別れを告げるために、ここへ来たのだと。マックスとしては、そんな話を素直に納得はできないけど、レベッカの言葉に嘘はないことはわかっていました。そして、モントーク岬をあとにする二人。マックスは、奥さんのクララに謝罪し、何とか許してもらいます。そして、またドイツへと向かうマックス。それを見送るクララ。元の生活に戻るレベッカ。17年間の空白は、そこに何もなかったことを確認して、未来への時間が動き出すのでした。おしまい。

レベッカが泊まると言い出した時、マックスとしてみれば、それを彼女の誘惑だと解釈するのは無理もないと、男目線で思ってしまいました。そして、ベッドを共にしてしまえば、焼けぼっくいに火がついたとしか思えないのですが、レベッカは他の男が忘れられないのでした。男が、自分の都合のいい方に、物事を解釈しちゃうわがままさんだとしたら、女は体は許しても、心は別の男の中で死んでいるという矛盾を力業で押し通す面倒くさい人。どっちもどっちの関係の中で、二人は結局、元さやに戻ることはありませんでした。でも、マックスにとっては、奥さんのクララを捨てずに済んで、それなりのハッピーエンド。レベッカにとっても、自分の過去の清算を思わぬ形で実現できたので、これもやっぱりハッピーエンド。何か、納得いかないところもあるけど、全ては元の場所に収まり、二人の過去の記憶はちょっとだけ整理され、ちょっとだけ遠い過去へ押しやられて、少しずつ朽ち果てていくんだろうなという予感で映画は終わります。きっとこの話も熱が冷める前に、マックスが小説化するでしょうね。そういうことで商売してきたんだからこの人。自分の人生を切り身にして干物に加工して売ってるようなものだと思うのですが、そういう生き方って結構不幸なのかもしれないなあって感じさせる映画でした。でもその不幸にふてぶてしくあぐらをかけるのがマックスのような男であり、レベッカは過去の不幸を自分の中で抱え込み続けるのです。マックスは表現者であるので、言葉を弄して自分を美化することができ、自分の過去すら、言葉によってコントロールできちゃうのですが、レベッカは、表現する術を持たないので、喉に引っかかっても、呑み込めるその日まで咀嚼し続けることになります。何だか耐える女性の姿のイメージが見えてきたような気がします。表現者のアドバンテージについて気づかさせる映画とまで言ったら、さすがにうがちすぎでしょうね。でも、面白い映画でした。その面白さの大きな要素となっているのは、役者の演技だと思います。二人の名優が、男と女のドラマの様々な顔を見せてくれます、というとちょっとほめ過ぎかな。

「ワンダー 君は太陽」を障害者が差別と闘う映画かというとそれだけじゃない、オススメ。


今回は、新作の「ワンダー 君は太陽」を横浜のTOHOシネマズ上大岡3で見てきました。日曜の早朝の回にしては意外とお客さんが入っていました。予告編では、生まれつきの障害で顔が普通じゃない男の子が学校に入って頑張るというお話だなという印象でした。うーん、かわいそうな子のお話というのはちょっと苦手かもという予感がありました。普通と見た目が違う人間への差別をテーマにしていたらちょっと重いよなあって気もしていまして。

10歳のオギー(ジェイコブ・トレンブレイ)は、母親イザベル(ジュリア・ロバーツ)と父親ニール(オーウェン・ウィルソン)、そして姉ヴィア(イザベラ・ヴィドヴィッチ)と暮らす男の子。ただ、彼は生まれつき障害があって、何度も手術を受けた結果、普通の顔ではありません。小学校の高学年になる機会に学校に通わせた方がよいというイザベルの勧めで、オギーは学校に通い始めることになります。学校ではお坊ちゃんジュリアンはやたらオギーに絡んでくる一方で、奨学金で学校に通っているウィルは、オギーに理科の答案を見せてもらったことがきっかけで仲良くなります。一方、父母の愛情がオギーに注がれた分、手のかからないお姉ちゃんとして扱われてきたヴィアは、疎外感を感じていました。幼馴染のミランダ(ダニエル・ローズ・ラッセル)から急に冷たくされて落ち込んでるヴィアに家族の誰も気づきません。オギーも、学校では目に見えた嫌がらせはジュリアンくらいでも、他の大多数の生徒からはばい菌扱いか、無視されちゃうことに心を痛めていました。せっかく仲良くなったジャックも、実は校長先生に言われて仲良くしてたことがわかって、大ショック。それでもサマーという女の子が友達になってくれるし、理科の授業は楽しいしと学校に通い続けます。ミランダも演劇クラスをとったことで、ジャスティン(ナジ・ジーター)というボーイフレンドができて元気を取り戻していきます。でも、オギーやヴィアが仲たがいしてしまったジャックやミランダにもそれなりの事情があり、仲直りできたらいいなあって思っていたのでした。一人一人の想いが交錯したとき、そこにささやかな奇跡(ワンダー)が生まれるのでした。

全世界で800万部を売り上げた、R・J・パラシオの小説を、実写版「ウォール・フラワー」「美女と野獣」のスティーブン・チョボスキーと「LIFE!/ライフ」のエビッド・ホバーマンとスティーブン・コンラッドが脚本化し、チョボスキーがメガホンを取りました。生まれつきの障害のせいで、顔が普通の人と違う少年オギーが、初めて学校に通うようになってからの1年間を描いたドラマです。他人とは容姿が異なる主人公ですから、学校でのいじめとか差別といったものは当然出てくるのですが、いじめや差別に負けない主人公の強さを描くドラマではありません。むしろ、そういうハンディを持った少年を中心に据えて、彼とその周囲の人間の群像ドラマのように描いているのですよ。これはちょっと意外でもあり、その意外性から思わぬ感動を呼ぶという作りになっていて、いじめ差別vs主人公という二項対立じゃない構成は、映画として奥行きとリアリティと希望に満ちたものになっています。仲違いから和解へ向けた流れなんて、ちょっと出来過ぎなようにも思えるのですが、でも素直に感動できましたから、これはチョボスキー演出のうまさか、よほど私が単純かのどちらかなのでしょう。

いじめが最近よく問題になりますけど、私が知ってる限り、昭和の軍隊とか、戦後の学校とかにいじめはあったのは間違いないです。だから、日本人のDNAに「いじめ」という名の「上から目線の異分子排斥」がきっちり書き込まれているのだと思ってます。その一方で、よく、学校側がいじめの調査をしたが、いじめはなかったという報告をしているのを見ると、「嘘つけ!」って思っちゃいます。自然体でいれば、「いじめ」は発生する。意図的に(かつ理性的に)自分の自然体に逆らわないといじめは抑止できないと思っているからです。まあ、日本人のDNAは自分がそうだから何となくわかるけど、よその国はどうなんだろうと気になることもありました。で、この映画では、アメリカにも自然発生的な差別やいじめがあるよねというのを垣間見せていまして、ああアメリカも似たようなものなんだなという発見がありました。この映画は、いじめをリアルに描いたり、いじめを糾弾する映画ではないのですが、オギーがばい菌扱いされる、みんなから気まずさの後に目を逸らされるなんてことが自然に描写されています。ドラマチックでなく「自然に描写される」というところがミソでして、そういうことは普通にあるみたいなんですよ、やっぱり。じゃあ、そういう差別やいじめの意識をどうしたら根絶できるのかなんていう、でかい命題に、正面突破を試みる映画ではありません。そんな差別やいじめの周辺に普通の人の普通の嫉妬や普通の善意を丁寧に描くことで、ちょっとだけ希望を感じさせようという映画だと私は解釈しました。

この映画、要所要所に登場人物の名前が出て、そこからしばらくその人物に焦点をあててドラマが語られるのですよ。最初に登場する名前はもちろん、オギー、そしてその次に登場するのが、姉のヴィアというのがちょっと意外で、でもなるほどうまいなあって感心しちゃいました。弟がかわいくて大好きなヴィアですが、オギーが両親の関心を一身に集めている現状にあきらめつつも、少しは自分の方も見てほしいという感じ、何だかすごくもどかしくて切ない感情に共感できちゃうのですよ。さらに、ドラマは、ディアの元親友ミランダや、オギーと仲違いしちゃうジャックにもスポットをあてて、彼らの心情を丁寧に描いています。そうすることで、誰もが悪意だけで行動しているわけではなく、ささやかな善意があっても諍いは発生する、だからこそ、その善意によって関係が復旧する可能性があるという見せ方になっているのです。だから、同じ気持ちでも、うまくいくときと行かない時があり、だからこそ、善意を信じることに希望を持てるという見せ方には、ホロリとさせるものがありました。特に、ヴィアとミランダの仲違いから和解への流れの展開には泣かされちゃいました。

演技陣は適役適演でして、強いジュリア・ロバーツとどっか頼りなげなオーウェン・ウィルソンの夫婦の力関係がおかしく、特殊メークしたジェイコブ・トレンブレイの自然な演技もよかったです。特によかったのはよくできた姉を熱演したイザベラ・ヴィドヴィッチは今後の活躍が楽しみな女優さんです。また、主人公の同級生を演じた面々も皆好印象でして、唯一の悪役の存在感を見せたジュリアン役のブライス・ガイザーも後半で自分の行動を後悔するところで共感を呼ぶ演技を見せ、それまで主人公をばい菌呼ばわりしていた級友たちと仲良くなっていくのをドラマチックにしないでなんとなくそうなっていくという演出が好感を持てるというか、リアルに共感できるところがありました。見た目に障害のある主人公なので、ドラマの主眼もそっちへ行きがちかと思いきや、オギーも含めた様々な人の想い、善意も悪意も嫉妬もひっくるめて、さらに、それらの感情のすれ違いも含めて、丁寧に描き、最終的に普通の人々の善意への希望にまとめ上げたのは見事だと思います。確かにリアリティを問うなら、出来過ぎの物語であることは認めちゃうのですが、それでもこの映画が嫌いになれないのは、物語に登場する正の感情にも負の感情にも共感できたということがあります。自分と地続きの感情を持った人間が完全とは言えないけど、でも最後に自分の善意に自信を持てる結末ってのはうれしい映画なのですよ。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



演劇クラスのオーディションの結果、ミランダが主役の座を射止め、ヴィアはその代役となり、公演時には裏方に回ることになっちゃいます。ミランダは両親が離婚してから、家庭が荒れていて、自分をヴィアの境遇だと偽ったらサマースクールで人気者になってしまい、それからヴィアと距離を置いていたのでした。それでも、ミランダはヴィアと和解したくてそのきっかけを探していました。演劇の発表会の日、事情を知ったイザベルとニールはオギーを連れてミランダの応援に行きます。そのことを知ったミランダは仮病を使って、代役のヴィアに主役を演じさせるのでした。一方、理科クラスのコンクールでオギーと一緒に発表することになったジャックは自分の言動を詫びて、二人は仲直りし、巨大な針孔カメラを作って、見事コンクールで優勝するのでした。一方、クラスの集合写真からオギーを削除したり、ひどい悪口メモを書いたりしていたジュリアンは停学になってしまいます。でも、校長の前で反省の顔を見せるジュリアンに彼の両親は息子は悪くない、転校させると息巻いて、彼は学校から姿を消すのでした。学期末の野外授業で、上級生に絡まれていたオギーとジャックを他の級友たちが助けたことで、オギーを中心にクラスはよりまとまるのでした。修了式の日、校長はその学年の一番の生徒の賞にオギーを指名するのでした。みんなの前に出てトロフィをもらうオギーの背中を映したカットから暗転、エンドクレジット。

障害を持ったオギーが理科の成績がトップだということ、両親がそこそこ裕福で、両親と姉にオギーへの愛情と理解があったことなど、かなりオギーは障害を持っていても恵まれた環境にいることは確かです。ジャックやジュリアンがオギーと同じ障害を持ってしまったとしたら、この映画のような奇跡の展開にはならなかったでしょう。そこに映画の魔法があることは認めた上で、でもいい話をいい感じにうまくまとめてるってところは好きな映画です。確かに顔に障害のある子どもが学校へ行って大変な思いをするお話ではあるのですが、それだけじゃないもっと普遍的な人間の善意や悪意について考えさせられる映画としてオススメしちゃいます。

「レディ・バード」は高校3年の女の子の1年間を描いた愛すべき小品、青春ものなのに大人向け映画になってるのが面白い。


今回は、新作の「レディ・バード」をTOHOシネマズシャンテ1で観てきました。目と鼻の先にTOHOシネマズ日比谷があってどうなるかと思ってたのですが、まだ閉館にはなってないのですが、そのうちなくなっちゃうのかな。今は上映作品で棲み分けをしているようです。まあ、東宝系劇場でミニシアターがないことから、ここはミニシアター系の専門館として生き残って欲しい気もしますが、見やすさだけから言えば、シャンテ1だけ残れば、2と3は要らないかな。

カリフォルニアのサクラメントに住む高校3年生のクリスティン(シアーシャ・ローナン)は、自分のことを「レディバード」と呼ばせてました。母親(ローリー・メトカーフ)は娘にきつく当たることも多く、医師で夜勤も多く忙しい日々、一方の父親(トレイシー・レッツ)はクリスティンにやさしいけど会社ではリストラ寸前。養子の兄ミゲルとその恋人ジュリーも同居していて二人はスーパーのレジ打ちをしています。彼女の通う高校はガチガチのカソリック校で、レディバードは学校内のミュージカルに参加するようにシスターに勧められ、内申書のためということもあってオーディションに出て、コーラスとして参加し、主演の男の子ダニー(ルーカス・ヘッジス)と仲良くなります。サクラメントを出て進学したいと思っているのですが、母親からそんなお金はないときっぱり言われちゃうレディバード。父親に頼んで奨学金の手立てをするのですが、その父親が会社をクビになってしまいます。一方ある事件がきっかけでダニーと気まずくなったレディバードは今度はバンドをやってるイケメンのカイル(ティモシー・シャラメ)にロックオン。自分から接近して彼女のポジションになることに成功、彼に処女を捧げるのですが、カイルが童貞だと勘違いしてたことで何か気まずくなっちゃいます。結局、レディバードにとって大事なのは、色恋に励んでいた時に疎遠になっていた同級生のジェリー(ビーニー・フェルドスタイン)だと気づくのでした。そして、彼女にもサクラメントを旅立つ日が来ます.....。

「マギーズ・ブラン」「フランシス・ハ」「20センチュリー・ウーマン」などで印象的な演技を見せ、脚本家としても評価されていた才女グレタ・ガーウィグが脚本を書いて、初メガホンを取りました。彼女自身がサクラメント出身だそうで、自伝的な映画なのかというと、レディバードの物語は基本創作で、でもガーウィグの故郷への想いが反映されているんですって。(プログラムのインタビュー記事によるとそんな感じ)94分という短めの尺の中に小さなエピソードをたくさん詰め込んで、うまく刈り取ったという感じの映画になっています。女子高生のスケッチ風の映画ではあるんですが、そこに女の子の微妙な意識とか恋愛観、母親との葛藤といったものが大盛り状態で積み上げられていまして、ライトなドラマですが、中身がぎっしり詰まっているという感じの映画に仕上がっています。大きなドラマチックな展開のない女子高生の映画が、アカデミー賞の作品賞に監督賞・脚本賞さらに主演・助演女優賞と主要5部門にノミネートされたと言うのは結構すごいことだと思います。マイノリティやゲイ、女性差別といったものを前面に出さない普通の女子高生の映画をちゃんと評価するってところはアメリカってあなどれないと思いました。まあ、オスカーの授賞式では、女性監督の監督賞ノミネートが久しぶりですごいという持ち上げられ方をしていたので、そういう視点からのご祝儀ノミネートがなかったとは言えないかも。それに女性監督にしては、若くて美人さんですしね。

映画は細かいエピソードを連ねて、ヒロインの高校3年生の1年を描いています。その中で柱となるのは、レディバードと母親の関係です。娘からしてみれば、やたらとお金の話ばかりする口うるさい母親で、きっと自分のことを嫌っているに違いないと思っちゃっています。母親としては、娘のことが心配で仕方なくて、つい物言いがきつくなってしまう、余計目に娘はかたくなになっちゃうという悪循環。そんな母親やサクラメントという土地から離れたいという気持ちが強いレディバードなんですが、色恋沙汰も楽しいし、親友との関係も大事。18歳で処女というのはアメリカだとマイノリティなのかなって気もする一方で、厳格なカソリックの学校だとそういう女の子も結構いるのかなって気もするし、サクラメントってのはいわゆる都会とは違う田舎なのかなとか色々と考えさせるところありました。ニューヨークへ行きたいというのは、日本の地方都市(甲府とか高崎とか、例えが不適切?)の女の子が東京に出たいというと同じ感じなのかなあ。でも、一方で彼女の兄とか同級生のようにここを出ないと決めてる若者も登場するので、考えることは人それぞれだとは思うのですが、20世紀のアメリカ映画に出てくる女の子はみんな田舎から都会に出たいと言ってたような気がするのですが、時代が変わってきたのかしら。それとも昔の映画の田舎の女の子はステレオタイプばっかだったのかも。

トラブルを起こしたりもするけれど、レディバードの存在感はすごくリアル、そして、共感まではいかないけど、すごく納得できるものがあります。仲良かったダニーが男の子とキスしているのを目撃してショックを受けるけど、すぐに次のターゲットを見つけて自らアプローチをかけるあたりも微笑ましくておかしくて、かわいいねえって思っちゃうのですよ。自分がオヤジだからそう思うのでしょうけど、こういう若い女の子の映画を観て「かわいいねえ」って感じるようになる自分にびっくりする一方で、だからこそ、この映画の母親に共感もできちゃいます。18歳にもなって「背伸びした少女」というのもどうかと思うのですが、「背伸びした18歳の少女(?)」を「かわいいねえ」と愛でる映画になっているのですよ。若い女の子が主役の映画なんですが、日本の若者向けに作られた広瀬すずや土屋太鳳が出る映画とは明らかに違うのは、この大人から見た女の子という視点で描かれているところだと思います。大人の視点と言っても、自分の若い頃を見る想いなのか、自分の子供を見る想いなのか分かれるところなんですが、この映画は、その両方を欲張っていまして、若さへの共感とノスタルジーを両立されているのがうまいと思います。うん、うまいって言葉が一番あてはまるかな。

舞台が2002年というイラク戦争真っ只中ではあるのですが、そういう時代はあくまでテレビ画面の中にとどまっていてドラマの前面に出てくるものではありません。ですから、時代を感じることなく、観客の思う時代にヒロインをあてはめることができます。カソリック校という保守的な環境も想定できる時代の幅を広げて、年の行った人もそこそこ若い人も彼女の境遇に共感できるのではないかしら。そういう作りのうまさは、エピソードを細かくして積み上げたところにも感じられまして、94分という短めの尺なのに、ドラマとしての満足感が高い映画に仕上がっています。あちこちに笑いの要素も加えて、シリアスにならないところもうまく、決しておちゃらけた映画ではないのですが、ヘビーになったり誰かを悪役にすることなく、人生の1ページを真面目にかつさわやかに描くことに成功しています。青春ものに、笑えるエピソードを入れるとシニカルな空気になりがちなんですが、この映画では、素直に笑えて共感できるものになっているのも点数高いです。

ヒロインを演じたシアーシャ・ローナンは「ハンナ」とか「天使の処刑人 バイオレット&デイジー」で変化球ヒロインを巧みにこなす人ですが、「つぐない」「ブルックリン」のようなドラマチックヒロインで評価されている女優さんという認識でした。でも、今回は変化球でもドラマチックでもない、等身大ヒロインを熱演してアカデミー賞にノミネートされたということで、その懐の深さを再認識させられました。同じくオスカー候補になった母親役のローリー・メトカーフはうつ病持ちでリストラされたダンナを抱えて医者として家計を支える肝っ玉かあさんをリアルに演じて見事でした。やたらと「ウチはお金がないんだから」と連呼するお母さんですが、娘のことはかわいくて仕方がない感じですごく共感できました。その他の演技陣も振れの小さいドラマの中で、きちんと見せ場を割り振られているのは、ガーウィグの演出のうまさなのでしょう。



この先は結末に触れますのでご注意ください。(でも想定範囲内の決着ですので)



プロムの夜、迎えに来たカイルたちは友達の家へ行くと言い出します。そこで、レディバードはカイルと別れて何となく疎遠になっていた親友のシェリーの家に行き、彼女を誘ってプロムに行きます。二人でプロムを楽しんだ彼女は改めて親友との絆を感じるのでした。当初はサクラメントの大学へ進学することになっていたのですが、補欠合格していたニューヨークの大学へ通えるようになり、父親に頼んで申請しておいた助成金ももらえることになり、彼女はニューヨークへ向かうことになります。そんなこと全然聞いてなかった母親は、彼女と口を聞こうとしません。それでも、娘に向けての手紙を書いては捨ててはしているみたい。そして、ニューヨークへ旅立つ彼女を空港まで送る母親、父親はゴミ箱から拾い集めた手紙の束を娘のカバンにそっと忍ばせるのでした。ニューヨークでの生活を始めたレディバードは、自分をレディバードと呼ぶことをやめます。そして新しくできた彼氏が無神論者なのに驚いたりしながら、少しずつ都会の暮らしに慣れていきます。そんなある日曜、教会を訪れた彼女は、自宅へ電話します。留守電に彼女は母親へメッセージを残します。自分が一番感動したことが免許を取って自分の街を走ったことだと語るもうレディバードじゃないクリスティン。そして、自分の街の素晴らしさに改めてきづいたと留守電に残し、電話を切り、歩き出すクリスティンから暗転、エンドクレジット。

母親の想いをさらっと伝える父親のかっこよさとか、空港で万感の想いで娘を見送る母親の姿とか、すごくあるある感があるけど、でもささやかな感動もあります。そして、自分の故郷への想いを新たにするあたりもありがちだけど、何だか気持ちのいいラストになっています。ヒロインの1年間を描く映画の中で、ドロドロしたものをあえて持ち込まず、でもドラマとして薄くならないのは、うまいと思います。自伝的な作家性を前面に出しているようで、ガーウィグ監督、きっちり娯楽職人の腕を持った人ではないかしら。

「恋するシェフの最強レシピ」はヒロインがかわいい王道ラブコメ、キスシーンもないけど笑えてほっこり。


今回は東京の上映は終了している「恋するシェフの最強レシピ」を横浜 伊勢佐木町の「横浜シネマリン」で観てきました。横浜ニューテアトルが5月で閉館してしまうので、伊勢佐木町最後の映画館になっちゃう。ラインナップがなかなかクセがあってしょっちゅうは足を運べてはいないのですが、頑張って欲しい映画館です。

大富豪のルー・ジン(金城武)は、大変なグルメで味にうるさい男でした。彼が上海のホテルを買収するためにやってきます。でも、このホテルの料理は彼の口に合わないレベルのものばかり。困った支配人は若手女性シェフのションナン(チョウ・ドンユイ)に料理を発注。そして、彼女が作ったパスタは、ルー・ジンを唸らせ、彼はしばらくそのホテルに滞在することになります。実は、ションナンは、間違えてルー・ジンの車に傷をつけてたということがあって、顔は知っていたのですが、お互いにホテル王とシェフだということは知らないまま、ルー・ジンはシェフに色々な料理を発注し、ションナンはその要望に見事にこたえていくのでした。そして、お互いの存在を認識したとき、そこにホテル王と雇われシェフ以上の感情が芽生えていくのでした。

最近、ちょっとお疲れ目なので、ライトな映画を観たいと思って、ラブコメなんかいいなと思ってたのですが、邦画の女子高生ものには食指がピクリとも動かず、ハリウッドラブコメはまるで劇場で公開されていない中で、横浜でこの映画が上映されているのを見つけました。ただ、金城武主演の中国ラブコメじゃあなあって今イチだったのですが、相手役のチョウ・ドンユイが「サンザシの樹の下」のヒロインだったので劇場まで足を運びました。あの映画の時の彼女って美人じゃない素朴キャラがかわいかったのですよ。で、これが映画として面白くて、チョウ・ドンユイを見る映画として堪能しちゃいました。彼女すごいわ。色々と登場する料理の数々も楽しく、グルメ映画としてもいい線いってるかも。シュイ・イーメンとリー・ユアンの脚本を「ウォーロード 男たちの闘い」などで編集を担当してきたデレク・ホイが初メガホンを取りました。映画のオープニングは、ホテルの買収に上海へやってきたルー・ジンの車に、友人の浮気男の車と間違えて落書きしちゃうシーンから始まります。お互いの正体を知らないで最悪の出会いをするという

ホテル王のルー・ジンは資産350億ドルというものすごいお金持ち。そして大変なグルメで、今回買収しにやってきた上海のホテルでも自慢の料理を試食するのですが、全部気に入らない。そこで支配人は女性シェフのションナンに、ルージンがチェックアウトする寸前に何か料理を作ってくれと依頼。そこで彼女は、各種のスパイスを使った巫女のパスタを作って、ルー・ジンを魅了します。そして、彼はその後の予定をキャンセルして、ホテルに留まり、彼女に次々にオーダーを出します。そんなルー・ジンですが、夜食に食べるのは日本の出前一丁。でも、その作り方にはむちゃくちゃこだわりがあって、秒単位でだんどって作るんですよ。中国だと日本よりインスタントラーメンのステータスが高いのかな。それとも変な人というキャラづくりになっているのかしら。

変則的ではありますが、いわゆる主人と使用人の関係にある二人なんですが、そこから結構意外というか、強引な展開になります。ションナンがホテルを休んだ日、ルー・ジンは、材料を持って彼女の家を訪ねてきちゃいます。そこで彼女の作った料理を満足気に食べるのですが、それをきっかけに、ルー・ジンは昼間はホテルで、夜はションナンの家に押しかけてきて、彼女の料理を食べるようになり、ションナンもかなりグロッキー気味。最初は、食事は一人でしかしないと宣言していたルー・ジンですが、いつしかションナンと食卓を共にするようになり、ある日は毒キノコでラリってしまった二人が晴れているのに、相合傘で外を徘徊してバスにまで乗って、でも二人はすごく楽しそう。そんな幸せな日がずっと続くのかと思っていたのですがという展開はラブコメの定番を押さえています。

金城武は、実業家の父親にその後を継ぐように資産家の英才教育を受けた男を堅実に演じて、ヒロインを立てる脇役的なポジションを好演しています。一方のションナンは、腕に可愛い系のタトゥーを入れた、美人じゃないけどキュートな女の子になっています。そんなキャラに、チョウ・ドンユイがまさにはまったという感じで、表情豊かなヒロインを観ているだけで楽しくて癒されます。ルー・ジンが大好きでたまらないという感じ、彼と一緒にいるときの幸せそうな顔とか、とにかく彼女を観ているだけでモトが取れる映画になっています。ラブコメですが、キスシーンすらないのにこれだけのラブラブ感を出したデレク・ホイの演出も見事でした。正直、内容の濃い映画ではありませんし、ドラマチックな展開もないのですが、明るいカラフルな映像とテンポのよい編集で、最後まで見せ切るあたり、娯楽映画としての点数はかなり高いのではないかしら。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ルー・ジンはホテルを買収して世界クラスのものに変えるため、レストランの従業員を総入替すると発表し、ションナンもクビになってしまいます。ションナンはロンドンに住む彼を訪れるのですが、そこにはルー・ジンの専属シェフ(リー・チーリン)がいました。彼女はションナンより全然美人でシェフ経験も長く。傷心のションナンは、上海へ帰るのですが、そんな彼女を忘れられないルー・ジンは、上海へ再び現れ、彼女の前に現れます。それをうれしいけど、最初は拒否して逃げ回るションナンですが、最終的に二人は和解。ルー・ジンは彼女のアパートの近所で一番夕日がきれいに見える部屋へ連れて行き、椅子を並べて夕日を眺めるのでした。少しだけ椅子を寄せて夜までずっと寄り添う二人の姿から暗転、エンドクレジット。

結局、ビジネスとして、ルー・ジンはションナンを解雇しちゃうのですが、やっぱり彼女が忘れられない。一方のションナンも、ルー・ジンが大好きでいるという関係なので、まあハッピーエンドは予想がつくのですが、ラストで二人は抱き合うんじゃなくて、並んで座って夕日を見るというのが、何かほのぼのしていい感じのエンディングなんですよ。椅子を並べて二人座っているのを後ろから取った絵がすごく微笑ましい感じ。前半はもっと生臭い展開になるのかと思いきや、ラストをほのぼので落としたので、映画全体がまろやかな味わいになりました。二人がお互い大好きなんだけど、仕事や日々の暮らしの方を大事に考えて、恋愛を最優先してないってところも好感が持てました。室内のシーンが多いのですが、映像が明るくて色が賑やかだったところもラブコメらしい絵になっていて、点数高かったです。ともあれ、ヒロインが可愛いので、未見の方はビデオ化されたらチェックしていただきたいです。

「ザ・スクエア 思いやりの聖域」は私には悪趣味に走り過ぎに見えちゃって、切り口は面白いのですが。


今回は新作の「ザ・スクエア 思いやりの聖域」を有楽町のヒューマントラストシネマ有楽町2で観てきました。予告編は面白そうだったのですが、カンヌ映画祭でパルムドールを受賞したということがちょっと気懸りでした。これまでも、カンヌ映画祭で賞を取った映画とは相性がよくなかったことが多かったので。

スウェーデンの現代美術館で「ザ・スクエア」という企画が立ち上がります。4メートル四方の仕切りを作って「そこでは全ての人が平等の権利を持ち、公平に扱われる」というコンセプトで現代社会の問題をあぶりだそうというもの。美術館のキュレーターであるクリスティアン(クレス・バング)はその企画を成功させようと広告代理店と会議を重ねています。ある日、彼は街中で携帯と財布を盗まれてしまいます。GPSで携帯が貧困層の住むアパートにあることを発見、「お前が盗んだことを知ってるぞ、返さないと大変なことになる」という脅迫状を、アパートの全戸の郵便受けに放り込みます。その脅迫状が功を奏して盗まれたものは回収できるのですが、その脅迫状のせいで親から泥棒扱いされた少年に付きまとわれることになっちゃいます。クリスティアンの周囲では、色々と面倒な事が発生します。広告代理店が企画の宣伝のためにトンデモない映像をアップしたことから、クリスティアンは窮地に追い込まれることになってしまうのでした。

「フレンチアルプスで起きたこと」という皮肉っぽい映画を作ったリューベン・オストルンドが脚本を書いてメガホンも取った一品です。国立美術館の学芸員(キュレーター)を主人公にして、何だか居心地の悪いエピソードを並べて、見ようによっては社会に対する問題提起、言い方を変えると不愉快さを煽る映画に仕上げています。「フレンチアルプスで起きたこと」は家庭の中の気まずいエピソードを通して人間関係のもろさを面白悲しく描いた映画でした。前作はその気まずさはあくまで家族という小さなコミュニティにとどまっていたのですが、今回はそれを社会全体に押し広げて、身の回りの気まずい感じのエピソードを並べて、全ての人にとって居心地のよくない映画になっていまして、前作同様、後味は微妙なものになっています。

そもそも「ザ・スクエア」は、社会の不平等とか差別への問題提起なんですが、それを主導するクリスティアンたち美術館側の人は、貧困層とは一線を画す富裕層というところに観ていて居心地の悪いものがあります。何しろ町の中には物乞いがいっぱいいるのに、その一方でクリスティアンは、貧困層を何か怖いと感じている富裕層の一人なんです。財布と携帯を盗まれた時、携帯のあるアパートまで特定できたところで、全部の部屋に脅迫状を出しちゃうってところが、日本人の私にはまずびっくりでした。まず警察へ届けないってのは、スウェーデンのお国柄なのか、警察がちゃんと動いてくれないからなのか、まずここが不思議。さらに、全部の部屋へハッタリで脅迫状を出すってところがまたびっくり。無実の人に脅迫状出すってことに罪の意識がないみたいなんですよ。これってスウェーデンって階級社会なのかとも思ってしまったのですが、その国には国ならではの事情や文化があって、日本基準で善悪を決め付けられないところもあるんですが、その結果、無実の子供が親に怒られて、ゲームや外出禁止にされてしまうので、一応はよくないことだという描き方はされています。

この他にも、美術館でのインタビュー中に精神障害の男がでかい声を張り上げて、下品ワードも連発してるのに、病気なんだから仕方ないと排除しないところの気まずさとかが面白かったです。男には女性の連れがいるのですが、その女性は男を連れだすことはせず「病気で、こういう場所はストレスがかかるんで」なんて言い訳しているのですよ。病気なら周囲の人はみんな我慢すべきだというのは極論だと思いますが、赤ん坊がギャン泣きしているのと同じなんだから、連れが外へ連れ出すべきと思ってしまうのですが、これも、日本的な発想で、スウェーデン基準の落としどころはどうなのかはわかりません。こういう気まずさの国際基準ってのはないですからね、日本なら周囲に迷惑をかけるときは自分の権利を若干放棄することが普通にありますが、あくまで弱者の権利を通す文化もあるかもなあって思いながら観てしまいました。どっちにもいいところと悪いところがあって、私は日本人なので、日本流に慣れているので、そっちを取ってしまうのですが、このシーンとかスウェーデンや他のヨーロッパ諸国でどう受け取られているのかは興味あるところです。

この他にも、パーティの余興で登場したモンキーマンが暴走して、周囲が気まずくなった挙句、そいつが女性に襲いかかったので、みんなでよってたかってやっつける(殺しちゃったのか?)ところも、何かギリギリまで余興として受け入れようとするところの気まずさが何かおかしい。一応、場の空気を考えて、丸く収めようと思ってるんだけど、限界を超えて爆発する感じはすごく共感できるので、このエピソードのような露悪的な描き方をするのには、ちょっと悪趣味だよなーって感じてしまいました。

後、気になったのは、後半、家までやってきた濡れ衣の少年が階段から落ちて「助けてー」と叫んでるのに、このクリスティアン、最後まで助けに行かずの放っておくところ。そこまでクズだと、徹底してていいかなと思ってたら、なぜか反省のビデオレターを送るのですよ。そこで、一応、全戸に脅迫状を送り付けた自分の罪を詫びるんですが、全ての根源は社会にあるんだとか言い出すんですよ。いやいや、社会の問題ではなくて、倫理とか善悪の問題でしょうって思うのですが、それって「貧乏人が万引きするのを、社会のせいにする」のと一緒だよなあって気づくと、社会が原因だというのも全否定できないんですよね。そんな感じで、きれいにすぱっと割り切れないエピソードが延々と登場するので、各々に一々まじめに考えだすと、不快感だけが残っちゃう。そこそこに真に受けて、ある程度、客観的に眺められれば、言わんとするところが見えてくるって感じです。他人事のように冷ややかに眺めないと楽しめない映画だとも言えるかも。

この映画の中で目立つのは、街に物乞いがいっぱいいるということ。スウェーデンってそんなに物乞いがいるのと思って、ネット検索したら、スウェーデンで物乞いが多いのは本当で、ルーマニアなどで差別されたロマ人がスウェーデンに流れ込んでいるらしく、教育も受けてなくて仕事にもつけないのだとか、そのあたりの事情はもう少し歴史を紐解く必要がありそうです。ともあれ、この映画に登場する物乞いはマジでスウェーデンの社会問題であり、後、サイフ泥棒の住むアパートの人々がいて、さらにその上にクリスティアンみたいな富裕層がいる、その間にも中間層とかあったりしたら、かなりの階級社会なのかも。スウェーデンというと福祉が充実した先進国というイメージがあったのですが、それって結構表層的な見方なのかなって思っちゃいました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



広告会社の若造二人は何を血迷ったのか、スクエアの広告映像としてホームレスの女の子がスクエアの中で爆発するというとんでもないプロモ映像を作ってYouTubeに流したものだから、美術館が非難の的になってしまいます。確かに映像のチェックを怠ったこともあって、クリスティアンは記者会見で謝罪し辞職することになっちゃいます。チェック不足の反省の弁を述べたら今度は記者たちに「それって表現の検閲ではないのか」と突っ込まれてもう大変。職を失ったクリスティアンですが、娘二人を連れて、例のクレーム少年のアパートを訪ねます。しかし、その子供を見つけることはできませんでした。うーん、こんな感じで終わっていいのかな。

面白かったのは、少女爆発ビデオを作って非難され、そのことを謝ったら今度は「表現の検閲をするのか」って因縁をつけられちゃうところ。現代美術館なんだから、時には先鋭的なとがった表現もアートとして取り込まなきゃいけないけど、そういう芸術とは違う下世話な判断基準を無視することもできない。そういうと世間とアートの板挟みという話になるんですが、そこがポイントじゃなくて、要は下手に出た人間にはとこどん因縁をつけて追いつめる人間(メディアかな?)のえげつなさの方がこのエピソードのキモだと思いました。今のテレビのワイドショーの、相手の弱みを見つけたら難癖つけて貶めるというパターンでおなじみなんですが、こういうのって、すごく人間として情けない。テレビのコメンテーターとかが、誰かがよくないことをした時に、そいつが謝っても非難し、開き直っても非難する。相手が悪いんだから、自分がどう相手を非難するのも自由だし、自分にはその権利があると思ってるのが、すごく見苦しい。床屋政談なら罪がないのですが、メディア側の人間だからという理由で、当事者でもないのに、公の場所で、相手を非難するのが私は嫌いなんですが、それが日本もスウェーデンも大差ないってところは発見でした。ネット時代のおかげで、誰もが上から目線で人を非難できるようになったということの功罪については、マジメに考えた方がいいような。だって、テレビのコメンテーターが、自分の言ったことが間違ってましたって謝ってるの見たことないのですが、正しいことだけ言ってるとは到底思えないですもん。と、まあ、色々な気まずいエピソードを並べて、気づきや発見を導く映画ではあるのですが、見せ方はうまいというよりは挑発的で悪趣味な感じでした。もっときれいな語り口で、同じ気まずさを伝えることができるように思ったのですが、そう感じたのは私だけかしら。

「パシフィック・リム アップライジング」は続編としてきっちり面白くできてます。あくまで続編という括りではベストかも。


今回は新作の「パシフィック・リム アップライジング」を日比谷のTOHOシネマズ日比谷10で見てきました。新しくできたばかりのシネコンですが、ここは、キャパも100席もない小さめスクリーンですが、真ん中よりちょい前くらいがスクリーンに対峙したときにベストポジションになるのは珍しいと思います。

あの前作から10年、怪獣の都市の復興が進んでいました。あのペンタコステ司令官の息子ジェイク(ジョン・ボイエガ)は、防衛軍を去り、廃棄イェーガーの部品泥棒の手引きとかして自堕落な生活を送ってました。そんな部品泥棒のいざこざから怪獣孤児のアマーラ(ケイリー・スピーニー)と知り合います。彼女はイェーガーの部品から自作小型イェーガーを作ってましたが、防衛軍に没収され、彼女はイェーガーのパイロット候補生となり、一緒に逮捕されたジェイクは、ネイサン(スコット・イーストウッド)とともに、強制的に候補生の教官になる羽目になります。とはいえ、シャオ産業のドローン・イェーガーの開発により従来のパイロットは不要になりつつありました。シドニーで開催された新しいイェーガーの導入会議に、謎のイェーガーが乱入してきて大暴れした結果、義姉マコ(菊池凛子)はジェイクのんエーガーが現れます。激闘の末、謎のイェーガーを倒してみれば、それを操縦していたのは、人間ではなく怪獣でした。10年前にプリカーサーの異次元とつながるトンネルは破壊した筈なのに、どこから怪獣が現れたのか。怪獣のスペシャリスト、ハーマン(バーン・ゴーマン)は、この怪獣が地球上で作られたとして、かつての盟友ガイズラー博士(チャーリ・デイ)に協力を求めるのですが、彼は、シャオ産業で社長のリーウェン(シン・ティエン)の元で新しいイェーガーの世界配備を進めていたのでした。

前作の「パシフィック・リム」は、ギレルモ・デル・トロの怪獣オタク魂爆発の楽しい映画でしたけど、世界的なヒットに至らなかったようです。それでも、続編が作られるのは、それなりの成績だったということなのかしら。中国資本が入って、中国の基地が舞台になったり、中国人ヒロインも活躍するお話になっています。でも、クライマックスは東京から富士山という日本が舞台になっているのはちょっとビックリ。欧米の人からすれば、極東の日本なんて、地球の裏側ですからね。モンド系観光映画みたいな趣の映画になっているのかしら。

テレビシリーズで実績のあるスティーヴン・S・デナイトに、エミリー・カーマイケル、キーラ・スナイダー、T・S・ノーリンが共同で書いた脚本を、デナイトがメガホンを取りました。前作で侵略者プリカーサーが怪獣を送り込んでくる海底の割れ目を塞ぐことに成功し、世界には一応の平和が訪れていたのですが、謎のイェーガーが襲撃してくることで、その平和が破られるところからお話が始まります。主人公のジェイクは、防衛軍をやめて遊び呆けていたのですが、部品泥棒で逮捕されたことで、防衛軍の教官に無理やりさせられて、早くやめたいと思っていたのですが、謎のイェーガーによって、義姉のマコが殺されたことで本気出すようになるというお話。本気出してからは、一気に見せる怒涛の展開で、デナイトの演出は、有無を言わせず勢いで盛り上げることに成功しておりまして、あっという間の地球の危機となって、それを防ぐために、ジェイク、ネイサン、後、訓練生がイェーガーに乗って、怪獣に決戦を挑むという展開です。1時間50分というそこそこの尺の映画ではありますが、ドラマが動き出すと後は一気にラストまで突っ走るので体感時間は結構短め。

続編としてはかなり面白くできていると言えるのではないかしら。ただ、前作のような怪獣映画に対する思い入れは薄れたようで、怪獣の動きとかビルの壊れ方といったものは最近のアメコミ系CGの動きになってるように感じました。これは偏見なのかもしれないけど、ギレルモ・デル・トロ(今回はプロデューサーとビジュアル・コンサルタントとして参加)の思い入れの部分は、他のCGスペクタクルと一線を画す個性になっていたと思うのですよ。CGだけど、手作り感風の見せ方にこだわるという部分は、ある意味ダサいんですが、そこが面白いと感じられるところがありました。今回の方が映像のデジタル感が強くなったという感じかなあ。まあ、それでもクライマックスはロボットの闘いと司令室のカットバックとか、怪獣映画っぽい盛り上がりがあって楽しかったから、結構頑張ってるのかも。

登場人物が若手中心で、年長者の押さえのキャラがいないので、ドラマの構成上、座りが悪いという印象になっちゃいました。強いては菊池凛子がそういうポジションみたいになってたので、そういうところに彼女はまだ若いだろうって思っちゃいました。若造ばっかの集団ドラマってのは最近の傾向なのかな、「スターウォーズ」のオビ・ワンのようなポジションが作劇上不要になってきているのかしら。最近の戦隊モノや仮面ライダーにも、そういう年長者が三枚目的な役どころになってきているような。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



新しいイェーガーの配備が整っていよいよ作動となるのですが、動きがおかしくなり、世界中の基地で新イェーガーが暴れ始めちゃいます。かつての闘いで怪獣とシンクロしていたガイズラー博士が精神をプリカーサーに乗っ取られて、イェーガーに細工をしていたのです。基地は破壊され、多くのイェーガーが失われます。新しいイェーガーが海底の時空の歪みをこじ開けて3体の怪獣が地上に現れ、日本へと向かいます。ハーマンとリーウェンの活躍でプログラムを書き換え、悪のイェーガーは動きを止めますが、怪獣は富士山へ向かっています。富士山を噴火させて地球上の生態系を破壊しようとする怪獣を阻止するため、ジェイクとネイサン、そして訓練生パイロットが3体のイェーガーに乗り込んで日本へと向かいます。イェーガーは怪獣相手に善戦しますが、3体の怪獣がさらに合体して巨大な怪獣になって富士山へ向かいます。ジェイクとアマーラは最後の1体のイェーガーで爆弾を抱えて怪獣に突撃を仕掛けます。自爆かというところにリーウェンの操縦するアマーラの手作りイェーガーがジェイクとアマーラを救出し、怪獣は噴火口の手前で爆弾くらって絶命。富士山の雪原で生還を喜び合うジェイクとアマーラから暗転、エンドクレジット。

悪役風に登場したリーウェンが後半で大活躍するあたりは、中国資本の映画だからこその大サービスなのでしょう。なら、クライマックスは落ち目の日本じゃなくて、上海あたりでやった方がよかったのかなという気もしましたが、中国には怪獣が人類滅亡のためのモニュメントがなかったせいか、でっかい火山のある富士山に華を持たせることになったのかな。かなり小奇麗な近代都市になっている東京でのイェーガーと怪獣の闘いはなかなかの盛り上がりを見せますし、ヒーロードラマとしてもきっちりと作ってあるので楽しめました。あの映画の続編としては、大きなサプライズはなかったですが、無難に面白くまとめたという点は評価できると思います。でも、その分、次に期待にするものはなくて、これで一区切りかなあって思わせる結末でした。ここは難しいところで、新しいでかいネタをぶちこんで、前作のファンを置いてきぼりにしなかったのは偉いと思う一方で、きっちり後日談で締めましたという感じになるあたりの過不足のなさは、満足感はあるけど、大満足まではいかないのかな。思い返すと「ジョン・ウィック2」もそんな感じだったですが、実はそれが正しい続編のあり方なんですよね。

「アンロック/陰謀のコード」は監督の手堅い演出と二転三転するストーリーがいい感じで好き。


今回は、新作の「アンロック/陰謀のコード」を、横浜上大岡のTOHOシネマズ上大岡6で観てきました。この映画、私、まるっきり白紙状態で臨んで、その二転三転するストーリーでかなり高い評価となりました。ですので、この映画をご覧になる予定の方は、以下の記事を一切読まずに、劇場に行くことをオススメします。



ロンドンで囮捜査中のCIAエージェントのアリス(ノオミ・ラパス)は尋問官と有能でしたが、パリでの爆弾テロの犯人を尋問したが、結局犯行を阻止できず、24人の犠牲者を出したことがトラウマになっていました。過激派の指導者ハリルが、英国でのテロ実施の指示を使者ラティーフへ託したという情報を得たCIAは、ラティーフを拉致して、実行犯への指令を変更させようとしていました。アリスは、CIAのサッターから、ラティーフの尋問をせよという指令を受け、気が進まないまま部屋の一室に監禁されているラティーフから、実行犯を信用させる合言葉と指令の内容をほぼ聞き出すことに成功します。しかし、そこへCIAから電話がかかってきて、ラティーフの尋問をするよう指示がきます。しかし、既にラティーフを尋問中のアリス。ここの自称CIAの連中は何者? 気付いたサッターたちと銃撃戦となり、ラティーフは流れ弾で死亡。何とか逃げ延びたアリスは、元上司のエリック(マイケル・ダグラス)のもとを訪れ、自分がはめられたことを説明するのですが、そこにも追手が現れて、エリックも殺されます。そして、エリックの元妻のアパートへ逃げ延びるのですが、そこにはちょうど空き巣に入ろうとしていたジャック(オーランド・ブルーム)と遭遇。アリスはCIAのヨーロッパ部門長ハンター(ジョン・マルコビッチ)に連絡を取って応援を依頼するが、そこへロンドン警察の特殊部隊が現れ、連行されそうになるのですが、ジャックが彼女に加勢して、脱出に成功します。元海兵隊員と名乗るジャックは、アリスへの協力を申し出て、二人でハリルのいるレストランに潜入、ハリルに事情を話して事実を確認すると、彼が言うには彼が使者に託した指令はテロの中止でした。どうやら、その中止指令を、実行指令に変えて実行犯に伝えようしている連中がいるらしいのです。アリスの友人でもあるMI5のノウルズ(トニ・コレット)へ協力を仰ぐアリスですが、使者と実行犯が接触する時間が迫っていることがわかるのでした。果たして、生物兵器によるテロを阻止することができるのでしょうか。

ピーター・オブライエンの脚本を、「ネル」「エニグマ」「ボディ・バンク」のマイケル・アプテッドが監督したサスペンススリラーの一編です。過去にテロ阻止に失敗した尋問官であるヒロインが再び無差別生物テロに巻き込まれるというものでして、98分という最近の映画としては短めの尺の中で、二転三転するストーリーで最後まで楽しませてくれる娯楽映画の佳作です。「ネル」「エニグマ」「ボディ・バンク」で優れたストーリー・テラー以上の腕前を見せていたアプテッド監督が、ここでは手堅い娯楽職人に徹して、映画館で観るお値打ちのある映画に仕上げています。彼の過去の作品群からすれば、もっと登場人物の奥行きをつけた人間ドラマにすることもできたような気もしますが、役者をそろえて見せ場も渋めにして、それで合格点以上のエンタテイメントまで持っていった手腕はなかなかのものと申せましょう。手堅く面白い映画を作る監督ということで、私の中では、ジョエル・シューマッカー、ロジャー・ドナルドソン、サイモン・ウェストと並ぶ信頼の職人監督の一人になっています。

オープニングは、テロの実行指令が使者に伝えられ、CIAの本部では、この事実を嗅ぎつけていて、オートバイに乗っている使者を路上で拉致するという荒業を見せます。本部では、使者の尋問をしなくちゃいけないけど、尋問官がリタイア状態のアリスしかいないという話になり、アリスがCIAのエージェントに呼び出されて、尋問することになるというのは、テロを扱ったサスペンスの流れとしては極めてスムースというか、アプテッドの演出も手際よく導入部を語っていくのですが、尋問の途中でCIAのホットラインからアリスに電話がかかることで、アリスを呼びだした連中が偽物だとわかって、おー、びっくり。殺される寸前で脱出に成功した彼女は、アメリカのCIA、イギリスのMI5、そして、彼女をハメた謎の連中から追われる身になってしまいます。元上司のところに逃げ込んだものの、そこにも追手が現れ、元上司が指定した隠れ場所には、変な男が空き巣に入っている。最初の尋問のところから騙されていたとなると、出てくる連中がみんな怪しく見えてくるという展開ですが、アプテッドの演出は、変に思わせぶりところを見せないで、ヒロインの周りで起こる出来事をストレートに綴っていくので、素直に物語に乗りやすく、その分、先の展開が読めない映画に仕上がっています。

ヒロインのアリスは、尋問官としてはかなり有能で、大の男と渡り合える腕っぷしの持ち主でもあります。一方で、自分が解決できなかったテロ事件の24人の犠牲者の記憶を常に引きずっているというキャラ設定は、男性ヒーローにはよくあるけど、女性キャラでは珍しいかも。大体、腕っぷしの強い女性という設定のハードボイルドヒロインは、過去のトラウマに悩まされたいしないですから、そういう意味では結構珍しいタイプのヒロインと言えるかも。脇を固めたマイケル・ダグラス、オーランド・ブルーム、トニ・コレット、ジョン・マルコビッチといった面々はみんな怪しく見えるので、どいつが裏切って、どいつがヒロインの味方なのか最後まで読めないところも面白かったです。ここでもアプテッドのもったいつけない演出が功を奏していて、おー、こいつが裏切るのかーって素直に楽しむことができました。普通のドラマのセオリーをちょっとだけ裏切る展開もうまいと思いました。このちょっとだけというのがミソでして、基本は王道娯楽映画の作りで、尖った演出をしないで、意外な展開を見せるというのは、やっぱり年季を積んだ職人芸ではないかと思うわけです。若い頃にシリアスなドラマを撮ってきて、70歳過ぎて、こういう娯楽映画をきっちりと面白く作れるってのはすごいよなあって素直に感心しちゃいました。

じゃあ、単なるお気楽映画かというと、ドラマ部分にはきっちりシリアスネタも盛り込んでありますし、組織の非情さですとか、敵方の悪辣ぶりも丁寧に描いているので、ドラマが軽くなりません。今風のギリギリアクションも盛り込んであるのはご愛敬としたいくらい、ドラマ的には古風な作りになっているのではないかしら。そのあたりが若い人には、物足りないとか詰めが甘いとか思われるかもしれないけど、私はこういう映画好きです。映画館で観るエンタテイメントってのはこういうものだとずっと思ってきたからです。この映画に比べたら、新しい「トゥームレイダー」なんて、まだ青いよねって思っちゃいます。(あっちの映画は、ヒロイン萌え映画としては、こっちより勝ってますけど。)



この先は結末に触れますのでご注意ください。



使者と実行犯の落ち合う場所がMI5の捜査から判明し、それがアリスにも伝わります。それを知ったところで、それまで彼女と行動を共にしてきたジャックが豹変、アリスを殺そうとします。ジャックもアリスをハメた連中の一味だったのです。格闘の末、エレベータに押し込まれるアリスですが、そこに乗り合わせてきた男の連れた猛犬を使って反撃、地下でさらに格闘になるのですが、猛犬の男がジャックを撃って逆転。使者と実行犯の落ち合う場所で待ち伏せしたアリスとMI5ですが、そこへ現れた実行犯は偽者で、使者のキーワードを聞き取られてしまい、さらにMI5の中に敵が紛れ込んでいて、逆に狙撃される始末。何とか逃げのびたアリスは、偽者を追跡し、たどり着いた先にいたのは死んだ筈の元上司のエリックでした。エリックは政府の危機管理を強めるために生物テロを実行させようとしていたのでした。使者のキーワードによって誤った指令が伝わり、ビッグゲームのスタジアムに仕掛けられた生物兵器が散布されようとしていました。その時限装置を起動させるエリックとそれを阻止しようとするアリスは格闘になり、最終的にエリックはビルから落下、散布3秒前に時限装置を停止させることに成功します。さらに、逃亡した実行犯を追ったアリスは、チェコですれ違いざまに実行犯の動脈を裂きます。仕事を終えたアリスを迎えるハンターの車で去っていくところでおしまい。

あらすじだけだとこんな感じですが、結構細かい展開をしまして、黒幕がエリックとわかってからも、最初にアリスに銃を向けられたエリックが反撃して、テロの現場近くのビルへ移動して、そこで時限装置を起動させると、追ってきたアリスと格闘になり、さらにエリックの部下も銃撃やら手榴弾を投げたりと色々とやってくれて、ヒロインのピンチを盛り上げます。とは言え「アトミック・ブロンド」のようなスーパー・ヒロインでないところが、そこそこのリアリティと淡泊な感じになるところもあって、もっとガンガン盛り上がらないともの足りないと思う方もいらっしゃるかもしれません。でも、1970年代からこの類のB級アクションやサスペンスものを観てきた私には、たまには、このくらいが丁度いいと感じました。最近のマックス振り切る感じのアクションもテンションが上がって悪くないのですが、その一方で、ほどほどの大衆食堂感も捨てがたいものがありまして、この映画は、高級じゃない素材を使って、おいしく作った日替わり定食みたいな味わいが、私はかなり好きです。

「女は二度決断する」はドイツのある現実を問題提起する映画でしたけど、私には手に余る感じでした。


今回は、新作の「女は二度決断する」を、川崎の川崎チネチッタ2で観てきました。他のシネコンでプログラムを買うと「これでお間違いないでしょうか。」って言ってくるんで、イラっとくることあります。「初めて買うんだから知らねーよ、お前が間違えなきゃいい話だろ。」って腹の中で(たまに口に出して)言ってるんですが、チネチッタでプログラムを買うと「〇〇はこちらになります。」って渡してくるのです。やっぱりチネチッタは一日の長があるなあって感心しちゃいます。(これって、クレーマーになるのかな、でも、間違ってるかどうか判断する根拠はこっちにはないのに、念押されるのがやな感じなのですよ。)

ドイツ、ハンブルグで、カティヤ(ダイアン・クルーガー)は、トルコ系移民ヌーリ(ヌーマン・アチャル)と結婚し、息子ロッコも生まれて、3人で幸せに暮らしていました。しかし、ヌーリの事務所の前で爆弾が爆発、その場に居合わせたヌーリとロッコは死亡。カティヤは爆破前に事務所を訪れていて、そこを出た時、自転車を置いた女のことを覚えていました。ヌーリは麻薬の密売で前科があったことで、警察は犯罪組織とのトラブルから捜査を開始します。絶望のどん底の追い込まれたカティヤは自殺未遂まで図るのですが、警察の捜査から、事務所前の自転車の荷台の箱が爆弾だったことが判明し、カティヤの証言にもとにした似顔絵から、ネオナチの夫婦が逮捕されます。夫婦の家から爆弾の材料や少量の爆薬も発見され、裁判に臨んだカティヤですが、事件当時、彼らがギリシャのホテルに泊まっていたという証言が出て、さらに夫婦の家に身元不明の指紋が見つかったこと、さらにカティヤが事件直後に麻薬をやっていたことが拡大解釈されて、その証言の信ぴょう性がないと判断されてしまいます。ギリシャのホテルのオーナーが極右政党の支持者でナチとの関連も指摘されるのですが、アリバイを崩すまでには至らず、法廷は、ナチの夫婦に証拠不十分で無罪を言い渡してしまいます。弁護士は上告するようにカティヤに言うのですが、彼女は果たしてどう出るのでしょうか。

俳優出身で「50年後のぼくたちは」のハーク・ボームが、「愛より強く」「ソウル・キッチン」のファティ・アキンと共同で脚本を書き、アキンがメガホンを取った犯罪サスペンスの一編です。物語はフィクションですが、実際に起こったNSUというドイツ人の極右組織による、トルコ人への連続テロ事件をベースにしています。この時、ドイツ警察がトルコ人の犯罪組織の犯行だとして捜査を進めたことが人種差別として、後に糾弾され、メルケル首相が遺族に謝罪するまでに至ったという事実があるんですって。(これは、プログラムからの受け売り)そういう事実の部分を、フィクションのドラマに盛り込むことで、今のドイツの状況への批判と希望を描いた映画でもあるみたいです。ヒロインのカティアが青い目の白人だということも、トルコ人差別への一石になっているそうで、単なる爆弾テロの映画ではないらしいのですが、そのあたりは私もプログラムの解説を読むまでは全然理解できていませんでした。まあ、知らないことを知る機会になりましたから、観て勉強になる映画でした。

カティヤは、酒や煙草も結構やりますし、体中に入れ墨入れてて、麻薬もやるし、品行方正なヒロインではありません。警察から、トルコ系犯罪組織の内輪揉めを疑われ、ネオナチの仕業ではないかと言っても黙殺されて、憤りと絶望のあまり、手首を切っちゃうあたりはかなり悲惨。どうも彼女自身、若い頃色々あったみたいで、ヌーリとの家庭を築いたことで、ようやく幸せを手に入れたらしいのですよ。裁判で、麻薬をやっていたことを被告の弁護士から指摘されて、証言の信ぴょう性が下がっちゃうのは気の毒ではあります。

この映画で印象的だったのは、裁判で、被告夫婦の父親が、息子がネオナチだと知って、息子を告発する側の証人として証言するところです。息子は恥ずべきことをしたという認識があるのはわかるのですが、父親が息子を犯罪者として告発するなんて、ドイツではそういうことがあるのかなあって不思議でした。こういう時、父親が息子を告発しても、擁護してもボコボコに叩かれると思うので、日本だったら沈黙を守るんじゃないかなって思うのですが、裁判で息子がネオナチだと証言するんですよ。成人した息子の行動は息子の責任であり、親の責任を問うということはドイツではないんでしょうね。息子の罪でも告発するのが、市民としての義務なのかも。もちろん親子の情はあるんでしょうけど、どっちを優先するかってところで、日本とドイツは違うんだろうなあ。

ファティ・アキンの演出は、ヒロインの絶望を淡々と追っていきます。裁判の部分は、それなりの盛り上がりはあるんですが、結果的にカタルシスはないまま、後半は、ヒロインの行動をまた淡々と描いていきます。結末もカタルシスはなく、何かやるせない気分になる映画ですので、元気のない時やお疲れ状態の方にはオススメできません。それでも、観終わって感じる何とも言えないわだかまりは、物事を考えるきっかけになるのではないかしら。映画は結末よりも、そこに至るまでの、ドイツの今を描こうとしたところがあり、そういう意味では、「はじめてのおもてなし」にも通じるところがあるのではないかと。ダイアン・クルーガーは世界をまたにかけて活躍する女優さんですが、ここでは、絶望が怒りに変わっていくヒロインを熱演していて、彼女の存在感がドラマに厚みとパワーを与えています。怒りの果てに、彼女が見せるのは、諦観なのか無常観なのか、劇場で確認していただきたいです。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



無罪判決が出た後、カティヤは単身でギリシャへ向かいます。ネオナチ夫婦を泊めたという極右オーナーのホテルに出向いて、オーナーに追いかけられたりしますが、逆に彼を尾行して、ネオナチ夫婦が海辺のキャンピングカーに身を隠しているのを見つけ出します。ホームセンターで肥料を買い込んで、夫と息子を殺したのと同じ爆弾を作るカティヤ。朝のジョギングに出かけたネオナチ夫婦を確認して、爆弾をキャンピングカーに仕掛けて、二人が帰るのを待ち受けるのですが、何を思ったのか爆弾を持って帰ってしまいます。弁護士から、控訴するんだろとの電話に、もう疲れたと答えるのですが、それでも、控訴のサインのために明日の朝来るようにと言われて、一応行くと言います。ホテルに帰ると、夫と息子の動画を見て物思いにふけるカティヤ。翌日、また朝のジョギングからキャンピングカーに戻ってくるネオナチ夫婦。すると画面の向こうから近づいてくる影が映り、ピントが合うとそれはカティヤとわかります。背負っていたバッグを前に抱えて深呼吸するとキャンピングカーに乗り込みます。その直後に車は爆発を起こすのでした。おしまい。

ネオナチ夫婦に爆弾を仕掛けて、一度はためらったカティヤが、最後は夫婦もろとも自爆するという結末はかなりビックリ。復讐に走るところまでは想像がついたのですが、一度ためらったので、爆弾は使わないんだろうなと思わせての、ドッカーンですから、何とももやもやしたものが残る結末でした。テロ行為は許されない、でも法治国家では証拠不十分では裁けない、では復讐は許されるのか、自分もろともならOKなのか、簡単に答えの出せる問題ではないのですが、そこを顧客にぶん投げて終わるのは、かなり意地の悪い映画なのかも。憎しみの連鎖を止めたという言い方もできなくもないのですが、ヒロインの中でこれでOKなのかというとそうも見えない。何をしても、彼女が救われることはないという見せ方になっているので、彼女以外のところに、少しは希望の種を見せてくれてもいいような気もします。誰にも答えの出せる問題ではないと思うものの、問題提起はありだとしても、こういう形で顧客に投げつけるのは、やり方がきついって思った次第です。題材としても、ドラマとしても面白い、見応えがある映画なのですが、観客にもう少しやさしくてしてもいいのではないかしら。

「ウィンストン・チャーチル」は歴史認識を意識して観ると色々と発見があります。


今回は、新作の「ウィンストン・チャーチル」を川崎の109シネマズ川崎8で観てきました。金曜日の夜の回としては、地味な映画の割に結構な入りでした。

1940年5月、ヒトラー率いるドイツ軍はベルギー、かへ侵攻してきていました。イギリスでは、これまでドイツと宥和政策をとってきたチェンバレン首相の内閣に不信任案が出どされ、与党と野党が一緒にあって挙国一致内閣を作ることとなりました。保守党としては、色々と問題あるけど、野党の信頼の厚いウィンストン・チャーチル(ゲイリー・オールドマン)が選ばれ、国王ジョージ6世は渋々ながら、宮殿で彼を首相に任命します。着任したチャーチルは議会での演説で、ドイツとの徹底抗戦を煽り、チェンバレンや首相候補だったハリファックス卿は、外交という選択肢を一切語らないチャーチルに不安を抱くのでした。英国陸軍30万がダンケルクでドイツ軍に包囲されて危機的状況にある中、チャーチルはラジオ放送で英国が優勢であるかのような演説を行い、国王やハリファックスたちからさらに反感を買ってしまいます。ムッソリーニを仲介としてヒトラーと交渉の席に着くべきという他の閣僚に対して、そんなことをしたら歴史ある国家が消滅する突っぱねるチャーチルは、民間船を徴発して、ダンケルクへ兵士救出に向かわせるダイナモ作戦を指示しますが、ベルギーは陥落し、フランスもドイツの手に落ちることは見えています。自分がやろうとしていることに迷いが生じてくるチャーチルですが、国王は彼の家を訪ね、今後彼を支持することを約束します。そんな中で、チャーチルは地下鉄に乗り込み、市民の意見を聞き、あくまでドイツには屈しないことを、閣僚や議会に対して演説し、国民の支持を得ることに成功するのでした。

「博士と彼女のセオリー」のアンソニー・マクカーテンが脚本を書き、「つぐない」「ハンナ」のジョー・ライトがメガホンを取りました。1940年の5月という時間を限定して、そこに歴史の分岐点があったんだよというお話でして、特殊メイクによってチャーチルに変身したゲイリー・オールドマンの熱演により、アカデミー賞では、メイクアップ&ヘアスタイリスト賞と主演男優賞を受賞しました。物語の見せ方の独特のセンスを感じるジョー・ライト監督だけに、実話を映画化するというところで期待するものがありました。そして、観終わってみれば、映画の仕掛けと見せ方に、ちょっと怖い映画かもと思ってしまいました。

まず、この映画の仕掛けの一つが、特殊メイクでチャーチルのそっくりさんを作ってしまったということ。アカデミー賞を取り、タイトルで一枚看板で名前が出るという扱い(これ日本版だけじゃないよなあ)の辻一弘の仕事は素晴らしいものがあり、チャーチルのルックスで、ゲイリー・オールドマンの演技をさせることに成功しています。そして、1940年の5月という期間限定で、歴史の大きな転換点を、どこまでリアルなのかはわからないけど、ドラマチックに描くことに成功しています。その一方で、チャーチルが地下鉄で市民の声を聞くというシーンは、何だか講談のエピソードみたいで、あまりリアリティが感じられません。そもそも、思いっきり見た目を本人に寄せるという趣向自体、何だか紙芝居的な演出のように思えます。つまり、役者の演技よりも、物まね感の方が前面に出ちゃうのですよ。そう思うと、チャーチルの人間像の迫るというより、その時代にチャーチルがどう関わったのかというのが、ドラマのキモなのではないかしら。

チャーチルがどういう人間だったのかは史実に基づいて描かれているようですが、プログラムを読む限り、この頃のチャーチルが何を考えていたのかは、回顧録でも空白になっているようなんです。ですから、彼が自分のしていることに確信が持てなくなって悩んじゃうなんてのは、ドラマの脚色かもしれないですし、実際に史実どおりでない部分もあるのではないかしら。ともあれ、その当時、ナチスドイツがヨーロッパを武力侵攻していて、英国では、ヒトラーに対して割と大目に見てきたチェンバレンが首相の座を追われて、強硬派のチャーチルが党を越えた挙国一致内閣のトップに立ったということのようです。で、ダンケルクに英国陸軍が追い詰められて、このままだと多くの若者が犠牲になるというとき、他の官僚は、ドイツとの和平交渉をすべきとチャーチルを説得するのですが、彼は断固拒否し、カレーにいる部隊を時間稼ぎの囮として使い、その間に民間の徴発船を使って、兵士を輸送するという作戦を取ります。チャーチルはカレーの部隊へ、救援は行かないと電報を打ち、カレーは陥落し、最終的にダンケルクから多くの兵士を救出することに成功し、英国は戦況を立て直すことに成功するのです。映画は、そこまでは見せず、英国議会で演説したチャーチルが与党野党の両方から喝采を浴びるところで終わります。映画の最後で、彼の議会での演説を聞いたハリファックス卿が「彼は、言葉を武器にして戦場に乗り込んだのだ」と言うのですが、これを聞いたとき、演説で人心をつかんだヒトラーと同じじゃないかと気づかされました。ヒトラーもチャーチルも方法論的には同じことをしていたんだなあって。

映画は、そこに至るまでの、銃後の政治のやりとりを中心に展開するのですが、結果論からすれば、イギリスはドイツとの和平交渉をしなくてよかったということになり、チャーチルは正しかったということになります。でも、政府の中で、彼を支持する人間はおらず、孤立無援の状態で、徹底抗戦をうたったのが偉いという見せ方になってまして、それは国民の声に沿ったものだったということも語られます。ラジオ放送で国民を鼓舞するために戦況の報告で嘘をついたことも、結果オーライ的な見せ方になっています。太平洋戦争で、日本軍が嘘の戦況報告をして、国民を鼓舞し続けたことは、今は恥ずべきこととして認識されていますが、これ、もし日本が勝っていたら、嘘で国民を鼓舞したことは偉業としてみなされたのではないかしら。さらに、言うなら、もしヒトラーが勝っていたら、「アドルフ・ヒトラー チャーチルから大英帝国を奪った男」なんて映画が作られて、意外とお茶目な素顔のヒトラーを名優が演じていたかもしれません。その時は、チャーチルは引き際を見誤って、敗戦のイギリスの復興を30年遅らせた男という位置づけになるのでしょう。

映画の冒頭で、英国議会を俯瞰でとらえて、だんだん下へ降りていくという凝ったカットから始まるのですが、これは最初は神の視点で物語は始まるという意味らしいです。そして、カメラが地上に降りてきたとき、物語は、最終的に戦勝国となったイギリスの視点で語られているということを表現しているように思います。後、印象的な俯瞰カットは、イギリスから見捨てられたカレーの部隊長が要塞で上を見上げるとカメラがぐんぐんと上がっていって俯瞰ショットになり、そこへドイツの爆撃機が爆弾を投下して要塞を破壊するというシーンがあります。これは、カレーの部隊の死については、イギリスは何も言い訳ができない、神の判断を仰ぐしかないということを表現しているように見えました。

そう考えるとこの映画は、チャーチルを客観的に、偉い人、正しい人として描いているのではないらしいということに気づかされます。オープニングで、映画は神の視点ではなく、戦勝国イギリスの視点で描かれていると宣言され、その中で後付けでチャーチルを持ち上げているお話なのです。監督が、意図的にそうやっているのかどうかはわからないのですが、最終的にチャーチルを批判的には描けないという制約の中で、偉人チャーチルというのは、戦勝国の理論で正当化されることを示したというのは、結構すごい映画なのかもしれません。この映画では、悪役っぽいポジションになるハリファックス卿も、その結果次第では、多くの英国の若者の命を救った苦悩する英雄として、歴史のその名を遺したのかもしれないのです。

歴史というのは本当に不思議なもので、常に過去も今も変化を続けていて、今から見た第二次世界大戦の評価は、あくまで今現在のものでしかなく、それがこの先、ひっくり返されない保証はないのです。歴史修正主義なんていう、難しいイデオロギーを持ち出さなくても、歴史は常に修正され続けています。その中で、2010年代の歴史認識を表現した映画として、この映画は位置付けられるように思います。

作り手としては、チャーチルという人間そのものに興味を持って、この映画を作ったように見えるのですが、チャーチルという人間を完全に客観的には描けなくなって、現在の歴史認識との相対的な関係を描くことになったのではないかしら。徹底抗戦を叫ぶタカ派なんだけど、その姿勢が結果的にイギリスを救ったのだから、それを偉いことだと言い切ったら、客観性を失うというジレンマをこういう見せ方で着地させたというのは、かなりすごい映画なのかも。奥さんに頭が上がらないとか、秘書との信頼関係とか、人間的なキャラクターを肉付けしてはいるのですが、政治家としてのチャーチルとは、まるっきり別の世界のような見せ方に私には見えましたもの。何ていうのかな、この映画の中のチャーチルって、一人の人間として、集約できてないように見えたのですよ。家庭のキャラ、秘書に対するキャラ、政治家としてのキャラとかを描いているものの、政治家としてのキャラは歴史認識の変化とともに変わって見えるものだから、全てのキャラを同じレベルで描けなかったというふうに感じちゃったのです。うーん、言葉が拙くて、うまく伝わらないのが情けない。

「ペンタゴン・ペーパーズ」はヒロインドラマとしての見応えでオススメ、面白いです。


今回は新作の「ペンタゴン・ペーパーズ」を、できたばかりのTOHOシネマズ日比谷1で観てきました。TCXという大きめスクリーンの劇場でしたが、昔の映画館の70ミリ画面に相当するのかとも思ったのですが、どんな映画でも大きなサイズということで、35ミリの上映から、70ミリに変わるわくわく感はないんですよね。

1965年、マクナマラ国防長官(ブルース・グリーンウッド)はベトナムを視察し、その戦況を戦場でリポートしたエルズバーグは状況の悪化を彼に伝えますが、マクナマラの公式見解は「飛躍的に進展している」というものでした。これに義憤を感じたエルズバーグは、ベトナム戦争にまつわる極秘資料を持ち出してコピーを取ります。その文書はニューヨーク・タイムズの記者シーハンに渡り、1971年にその一部がタイムズに掲載されます。政府は国家の安全保障を脅かす行為として、タイムズに記事の掲載差し止めを求めます。それを見て、先越されて悔しのって思ったのが、ワシントンポストの編集主幹ベン・ブラッドリー(トム・ハンクス)。部下に何とか文書を入手しろとハッパをかけます。ちょうどその時、ワシントンポストの社長キャサリン・グラハム(メリル・ストリープ)は、同族会社をやめて、持ち株公開をしようとしていました。銀行は会社の株に思うほどの値をつけず、投資家や銀行の顔色を伺っている状況でした。父親から新聞社を継いだ夫が若くして亡くなって、その後を継いだキャサリンは、それまで普通の主婦だったのが、急に社長になったこともあり、女性でかつ実績のない社長ということで、社会的な信用はあまり高くありませんでした。一方、ベンの部下で編集局次長のバグディキアンは、かつてエルスバーグと同僚だったことから、彼がリーク元だと見抜いて、彼に接触して、文書の入手に成功します。しかし、タイムズと同じニュースソースで文書を記事にすれば、法廷侮辱罪になる危険があり、それはワシントンポストの存在すら脅かすものだったのです。ベンは断固として、掲載すべきと言い切りますが、他の役員は反対します。最終的に社主であるキャサリンの判断に委ねられることになるのでした。

実話に基づくお話でして、初めての映画脚本になるリズ・ハンナと「スポットライト 世紀のスクープ」のジョシュ・シンガーが脚本を書き、「リンカーン」「ブリッジ・オブ・スパイ」のスティーブン・スピルバーグがメガホンを取りました。「大統領の陰謀」の前日談みたいなお話でして、「大統領の陰謀」でジェーソン・ロバーズが貫禄で演じた編集主幹のベン・ブラッドリーをトム・ハンクスがコミカルで人間味のあるキャラで演じ切りました。いわゆるスクープのすっぱ抜きもののように思っていたのですが、実際に先にスクープしていたのはニューヨーク・タイムズでして、ワシントン・ポストは地方紙の立ち位置で、それを後追いしたのです。ですから、邦題の「ペンタゴン・ペーパーズ」というのだと、ニューヨーク・タイムズのお話の方がふさわしいってことになります。原題の「The Post」と言うとおり、ワシントンポストのお話になっているのは、そのスクープよりも、女性社主であったキャサリン・グラハムにフォーカスしているからでして、観ているうちに、あれ、これ宣伝している内容とちょっと違くね?と気付くことになります。

キャサリンは自殺した夫に代わって46歳でワシントン・ポストの社長になりました。どうやらそれまでジャーナリストでの実経験はなく、経営者としての信用を勝ち得ようとしている時期に、このペンタゴン・ペーパーの事件にぶちあたることになります。決して、イケイケの辣腕女性社長というわけではなかったようで、取締役会長のフリッツや編集主幹のベンにサポートされながら頑張っていたようです。そんな彼女が社の存続をかかわる決断に迫られるというのがメインのお話なのですが、スピルバーグは文書のスクープの関わる部分をかなり膨らましてスリリングなサスペンスとして見せて、娯楽映画としての肉付けをしていて、ヒロインの成長物語と、ジャーナリズムがアメリカの正義を守ったというお話を映画の両輪として描くことに成功しています。どんな題材でも面白く作っちゃうスピルバーグのサービス精神は、この映画でも十分に発揮されていまして、正義を守るジャーナリズムという説教臭くなりそうな題材に、女性社長のドラマをかぶせて、さらに女性の社会進出まで散りばめるという欲張った内容を、多くの笑いも交えたエンタテイメントとして仕上げています。

また、新聞各社が対権力で連帯する構図とかが見えてくるのがなかなかかっこよく、機密保護法を盾にとる政府に対してジャーナリズムが報道の権利を盾に闘いを挑み、それを裁判所が中立の立場でジャッジするというのが、民主主義のあるべき姿として描かれるのは見事です。ジャーナリズムが権力に及び腰になったり、裁判所が政府寄りの判決を下すようになっちゃダメだよというメッセージが伝わってくるのですが、今、映画にそういうメッセージを込めるというのは現実がやばい状況にあるからということも言えましょう。それって日本も同じでして、政府を批判すると反日だってネットでバッシングされちゃったりするご時世はやばいと思いますもの。昔の新聞やテレビは基本は政府に批判的な姿勢をとって、権力を監視していたのですが、今はそういう姿勢を取ると反日メディアと言われちゃう時代になったのは、権力が国民をうまくマインドコントロールしているからではないかしら。メディアの言う事を鵜呑みにしないというのは、メディアリテラシーとして重要です。メディアリテラシーなんて言葉がなかった昔より、いい時代になったということになるのですが、メディアが嘘つきなら、それと対抗するお上の言うことは正しいみたいな空気になっているのは、同じメディアリテラシーとしておかしな話なのですが。

また、この映画では、当時の女性がまだ、男性から一歩引いた立ち位置にいるのが普通だったということも描かれています。新聞社でも女性は政治よりもゴシップや文化系のネタを担当させられていたり、夫婦で会食しても、その後はダンナ同士、奥さん同士に別れ、ダンナは政治の話をして、奥さんはゴシップトークに花をさかせるのが定番みたいなんです。そんな中で、キャサリンは、リーク文書を記事に掲載するかどうか、男たちと向き合って、やりとりし、決断を下すというのは、当時としては珍しかったということのようです。1970年代にウーマンリブ活動が活発化するのですが、なぜそうなったのかというと、それまでは、女性は男性と対等に扱われていなかったという歴史があったということになります。そういう現代史としても、この映画は面白くできていますし、今さら、その歴史を再確認する映画が作られたということ自体が歴史の1ページとして記録されるべき出来事と言えそうです。様々なマイノリティの権利が拡張されてきた現代で、男女同権を改めて見直してみれば、当たり前のようで当たり前でなかった部分が見えてきたのではないかしら。

では、この映画は政治的に中立と言えるのかというと、そこにはきちんと映画としての視点が入っているようで、ここに登場するニクソンは徹底的に悪役になっているのに対し、マクナマラに対しては国民を欺いたけど、苦悩する人間として登場し、人でなしという描き方にはなっていません。ですから、この先、もう少し、歴史認識が成熟したとき、ニクソンの描き方がフェアじゃないって言われる時が来るかもしれないなって少しだけ思いました。

演技陣はスターと呼べるのは、主役の二人だけなんですが、その他に観たような顔ぶれが登場してまして、サラ・ポールソンとかマイケル・スタールバーグ、ボブ・オデンカークといった面々が印象的な演技を見せます。特に儲け役ながら、記事の掲載に反対しながらもキャサリンを立てる取締役を演じたトレイシー・リッツの腹芸が見事でした。また、メリル・ストリープが単なる強い女性ではなく、悩み、熟考しながら、一歩ずつ歩みを進めていくキャサリンという女性をリアルな存在感で演じ切ったのがお見事でした。ヤヌス・カミンスキーの撮影は、ベトナムのシーンが「プラベート・ライアン」のノルマンジーと同じ画調だったのがおかしかったです。一方で、新聞社のセットを縦横に動き回るカメラが見事でした。新聞社のセットはよくできてると思う一方で、「大統領の陰謀」のセットはすごかったんだなあって改めて認識しちゃいました。ジョン・ウィリアムスの音楽は、全体的に控えめで、ドラマを歌い上げずに支える音になっています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



文書の入手元がニューヨークタイムズと同じなら、罪の問われる可能性が大きいと知った、役員たちは記事の掲載を差し止めようとベンと口論になり、最終的にキャサリンの判断に委ねられることになります。彼女は、この記事によって兵士に危険が及ぶことがないことを確認した上で、掲載にゴーサインを出します。ワシントンポストの記事は、当然政府に睨まれて掲載差し止めの処分が下りますが、他の新聞も追随する記事を掲載していくことに、ベンたちは元気づけられるのでした。最終的に判事のジャッジは、ニューヨークタイムズもワシントンポストも罪に問いませんでした。これはジャーナリズムの勝利と言えます。そして、民主党ビルに何者かが侵入しているところで暗転、エンドクレジット。

クライマックス後で、ベンが、キャサリンの記事掲載の判断の重さを、妻に指摘されて驚くシーンが印象的です。単にアメリカやジャーナリズムの正義を守る決断だけではなく、会社の経営者として、役員、記者、従業員全ての人生を、自分の決断に賭けていたと言われ、ベンが改めて、キャサリンへの感謝の念を表するあたりが圧巻でした。最終的にヒロインのドラマに集約させた脚本と演出は成功していると思います。正義とか義憤とか、語るのは簡単ですが、行動を決断することの重さにスポットライトを当てたことに、この映画の奥行きがあると思います。事件を追うドラマを期待していたのですが、ヒロインのドラマの方に見応えがあって、面白い映画でした。

「ラブレス」を観てどう感じて、どう解釈するかは、あなた次第です。


今回は新作の「ラブレス」を川崎のチネチッタ7で観てきました。そこそこ大きなスクリーンで、ミニシアター系が観られるのはうれしい限り。ミニシアターで観たら印象が違う気がする映画でしたし。

ロシアの大企業のサラリーマンであるボリス(アレクセイ・ロズィン)と美容サロンのマネージャであるジェーニャ(マルヤーナ・スピイヴァク)の夫婦には、12歳の息子アレクセイがいますが、今二人は離婚協議中。ボリスには妊娠中の恋人マーシャ(マリーナ・ヴァシーリエヴァ)がいて、一方のジェーニャにもアントン(アンドリス・ケイシス)という恋人がいました。離婚にあたって、ボリスもジェーニャもアレクセイを引き取るつもりはなく、そのことで大げんかとなります。それを影で聞いていて、静かに涙を流すアレクセイ。ある日、ボリスとジェーニャの二人ともが恋人のところに泊まりに行った日、アレクセイが姿を消します。次の日に帰ってきたジェーニャが学校から2日間登校していないという電話を受けます。そのうち帰ってくるだろう、と言うボリスの言葉に、ジェーニャは怒って、警察を呼びます。でも、警察も子供の家出くらいではすぐに動いてはくれません。そこで、市民ボランティアによる捜索救助団体にアレクセイの捜索を依頼することになります。捜索チームのリーダーの指示で、ジェーニャの母親を訪ねてアレクセイが行っていないかどうかを確認するボリスとジェーニャですが、そこにはアレクセイはいませんでした。アレクセイの友人への聞き込みから、彼らの秘密基地があることがわかります。それは、森の中の廃ビルの地下室で、ボランティアの捜索隊はビルと周辺の捜索を開始するのでした。

「父帰る」「裁かれるは善人のみ」などで知られるアンドレイ・ズビャギンツェフが、オレグ・ネギンと共同で脚本を書き、メガホンを取りました。中流階級のマンション暮らしのボリスとジェーニャの夫婦の息子アレクセイが行方不明になってしまうというお話です。厳しい母親に育てられたジェーニャは、いつも家を出たいと思っていました。そこで、ボリスとの過ちから妊娠し、大して愛してもいなかったし、子供も望んでいなかったのに、家庭を築きたいと思っているボリスの言葉の乗って、結婚したという過去がありました。望んだ子供でもないアレクセイにあまり愛情を感じていないジェーニャ。そのことは、アレクセイにも伝わっていたようです。ボリスに対しては愛情の欠片もなく、恋人のアントンに初めて愛を感じたなんてことを言ってのけます。一方のボリスは何を考えているのかよくわからないところがあって、ジェーニャには愛情を感じてはいないものの、離婚したことがキリスト教原理主義の社長にばれるとクビになるのではないかということが気懸りでした。二人とも、アレクセイの気持ちなんてこれっぽっちも思いやることはありません。そのことは、アレクセイが行方不明になってからも変わらないのでした。

のっけから、離婚後の子供の押し付け合いから始まるので、何かひどい話だなあって思ってると、そのけんかを当の子供が聞いてて泣いてるってところでもうドン引きな展開。それじゃあ、家出したくもなるよなあって思いますもの。 ダンナの方は「母親が引き取らないと世間体が悪いぞ」なんて言って、アレクセイをカミさんに押し付けようとするかなりのクズ。一方のカミさんの方は、元から子供なんて欲しくなかったのにアンタに説得されて産んだ子供で愛情なんて感じてないというひどい女。まあ、個人的には、世間体重視のダンナの方がクズに見えるんですが、これは男女で感じ方が違うかもしれません。まあ、どっちもクズだよねで片づけることも可能なんですが、子供が自分の未来の妨げになると言いきっちゃうメンタリティには気になるものがあります。そもそも離婚で子供の取り合いになった時は母親が有利だと聞きますから、ひっくり返せば、子供の押し付け合いになったときは、母親が不利になるのは想像がつきます。でも、考えようによっては、それって女性差別なんですよね。性別による役割の押し付けですもの。それに、母親が子供に愛情を感じないなんてあり得ないという理屈もうさんくさいものを感じてまして、この映画のカミさんのように考える人がいても驚くにはあたらないと私は思います。そういう人間もいるんだと受け入れることが、「違いを受け入れる」社会なんですよね。母の愛は無上の愛なんて持ち上げる一方で、それがないと最低のクズみたいに言われるのは、女性差別だよなあ。

でも、愛情の対象と見なされない子供はかわいそうでしかありません。親の愛情をまともに受けられなければ、まともに育つのは難しいと思いますもの。でも、愛情があって当たり前というのは、どうなんだろうという気もします。ジェーニャ自身が母親から厳格に育てられ、今は関係が最悪だということから考えると、彼女が十分に親の愛情を受けて育ったわけでもなさそうで、それはそれで気の毒です。ジェーニャがアントンに愛情を求めるのは、自分が十分に愛し愛されているという実感をずっと持てなかったからのようで、彼女の言動や行動は褒められたものではないけど、一応筋は通っています。一方のボリスは、家庭という器へのこだわりはありますが、家族への愛情が本当にあるのかというとこれが疑わしくて、マーシャを妊娠させたのも、マーシャへの愛というよりは、一度は失敗した家族の構築を一度リセットして始めからやり直したいという気持ちの方が強そうなんです。完全な人間はいないというのは、誰もうなづくところですが、母親としての愛情が欠落しているというのは、認めがたいと言われることが多いと思います。この映画でも、ボリスは卑怯にも「母親が子供を引き取らないなんて、調停員や世間の心証を悪くするぞ」と言ってのけます。でも、完全な人間がいないのなら、母性が欠如した女性がいるからといって全人格的に否定されちゃうのはフェアじゃないというところに気づかされる映画です。

ボリスもジェーニャもアレクセイも愛情を求めているけど、欲している相手に与えることができない歪な状態です。ズビャギンツェフの演出はその有様を大変突き放した視点で描いているのですが、突き放したら、こういう人間だっているから仕方ないだろって感じになってきたのが不思議な後味になりました。誰だって、幸せになる権利はある、少なくとも幸せになりたいと思う権利がある、その時、自分の子供が邪魔だと思うことは、あるかもしれない。それが子供を傷つけることはあるかもしれない。自分の幸せのために、子供を殺したらさすがに非道だということになるけれど、相手に押し付けることなら、幸せを求める手段としてありなのかも。でも、この映画では、結果的にボリスとマーシャがアレクセイを殺したことになるのかもという見せ方で、やっていいことと悪い事の境界を曖昧に見せています。その境界線上に立たされたことを改めて認識したボリスとマーシャは、自分自身と向き合わされる、そんなお話のように私は解釈しました。解釈したというのは、この映画、はっきりしないことが多すぎて、観客にぶん投げてる部分がかなり多いのですよ。観る人によって様々な解釈が可能な映画ですので、ご覧になって、私の解釈って違うんじゃね?って突っ込みいただけたらうれしいです。

行方不明の子供を探すボランティア団体というのがこの映画では重要な働きをします。日本だと行方不明の子供の捜索というと、警察や消防団が捜索隊を組んだりしますけど、ロシアでは警察が人手不足なのか、捜索救助のためのボランティア団体があるんですって。彼らは行方不明の子供の捜索のノウハウを持っています。周囲の聞き込みをしたり、フォーメーションを組んで、ローラー作戦で捜索したりと、すごく手慣れた感じです。ロシアでは、行方不明になって捜索対象になる人が多いのかしら。日本でも高齢化社会で、おじいちゃんの行方不明が増えてきそうだから、捜索救助のボランティア団体とかできてくるのかも。

果たして、アレクセイは見つかるのか。生きているのか、死んでいるのか。それは本編を観て確認していただきたいのですが、様々な解釈の余地を残した結末は、色々と考えさせられる映画になっています。ただ、ボリスにしても、ジェーニャにしても、幸せを求めるのは難しそうだなあという苦い後味が残ります。ただ、彼らの在り様を他人事として切り捨てられるか、自分と重なるところがあるかで、映画の意味合いがかなり変わってきます。私はシングルオヤジで、子供好きではないので、妊娠して堕胎する決心つかないうちに、好きでもないダンナに何となく丸め込まれて結婚しちゃった人生を後悔しているジェーニャの気持ちはかなり共感できちゃいました。この子さえできなかったらもっと愛する人と幸せになれたのに、現実の不幸からやっとやり直しのスタートラインに立ったのに。そういうジェーニャってかわいそうだよなあって。アレクセイが一番かわいそうなのはその通りで、その原因であるジェーニャなんですが、それでも同情できちゃったのですよ。それに比べるとボリスの方は、私にはクズにしか見えなくて。でも人によっては、ボリスに多少の共感を感じるかもしれません。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



アレクセイと友人の秘密基地とその周囲を捜索した結果、アレクセイの上着が発見されますが、ついに本人は発見されることなく、捜索は暗礁に乗り上げてしまいます。その後、損傷の激しい死体が発見され、ボリスとジェーニャが確認します。無残な死体を前にして、この死体はアレクセイじゃないと否定する二人ですが、激高して泣きじゃくるジェーニャと床に座り込んで慟哭するボリス。そして、2年後、マーシャと結婚したボリスは生まれた子供とマーシャの母親と狭いアパート暮らしをしています。一方、アントンと結婚したジェーニャはアントンの高そうな部屋でテレビを観ていますが、幸せそうにはみえないのでした。昔住んでいたマンションの近所の風景が映り、アレクセイを探すビラが映ります。そして、学校帰りにアレクセイが木に引っ掛けたリボンがアップになり、暗転、エンドクレジット。

損傷のひどい死体がアレクセイだったのかどうかは、映画の中でははっきりと描かれません。でも、死体を見たボリスとジェーニャの動揺ぶりは只事ではありません。彼らは否定したものの、結局、その死体がアレクセイだったという解釈も可能な結末になっています。ただ、私には、二人にとって死体はアレクセイではなかったのではないかと思いました。その死体はアレクセイではないけど、その死体を見た時、もうアレクセイは生きていないことを二人は確信したのではないかしら。だからこそ、二人とも、息子の死の実感に打ちのめされたのではないかと。そして、死の実感は、彼らが息子を殺したという罪の意識へとつながったというふうに解釈しました。

ただ、その罪の意識が彼らをずっと苛み続けたかどうかが、エピローグを観ると微妙な感じなのです。息子の死を記憶の奥にしまい込んで封印したように見える一方で、ラストカットでは、アレクセイの存在感をアピールしてくるのです。アレクセイがずっと二人の記憶の底につきまとうとは思えないのですが、それでも、二人が求める幸せは手に入らないだろうなあという予感で映画は終わります。それは、アレクセイの呪いかもしれないし、もともとどう転んでも二人は幸せになれない運命なのかもしれません。監督は最後まで、ボリス、ジェーニャ、アレクセイを突き放した視点で描いていて、その結果、どうにもならない人間の業には、逆らうこともできないし、取り返しもつかないと語りかける映画になっているように思いました。どうあがいても、そうなっちゃうんだから仕方ないと考えると、私がジェーニャに感じた同情も、ボリスに感じた不快感も、人間の業の前では意味をなさないということになるのかな。うーん、救いがない話だなあ、これ。

「ワンダーストラック」は不思議なご縁を描いた、絵本の読み聞かせのような映画でした。


今回は新作の「ワンダーストラック」を川崎の川崎チネチッタ6で観てきました。ここは、チネチッタの他の劇場より音がでかいような気がするのですが、劇場ごとにセッティングに差があるのかしら。

1977年、ミネソタ州に住む12歳のベン(オークス・フェグリー)は母エレイン(ミシェル・ウィリアムス)を交通事故で亡くして叔母の家で暮らしています。彼は父親の記憶がなかったのですが、母の部屋の引き出しから見つけた「ワンダーストラック」というニューヨーク自然博物館の紹介本に、キンケイド書店のしおりが挟まっていてそこに「愛を込めて ダニー」と書かれているのを見つけます。その直後、彼は落雷のショックで聴力を失い、病院へ運び込まれます。彼は、病院を抜け出して、自分の父親を探そうとニューヨークのキンケイド書店を目指すのでした。1927年のニュージャージー州に住む生まれついての聾唖の少女ローズ(ミリセント・シモンズ)は、父親との関係が悪く、女優リリアン・メナヒュー(ジュリアン・ムーア)の写真や記事をスクラップしていました。思い立った彼女は家を出て、一人ニューヨークへと向かいます。そして、ニューヨークに着いた彼女はリリアンがいる劇場へと向かうのでした。

「ヒューゴの不思議な世界」のブライアン・セルズニックの小説を原作に、彼自身が脚色し、「キャロル」「エデンより彼方に」のトッド・ヘインズが監督しました。絶対あり得ないって言う話ではないけれど、ファンタジー色の濃いお話になってます。童話の世界って感じですね。二つの時代のドラマが並行して描かれていくのですが、かなり頻繁に時代をあっちこっちに行くものですから、前半はとっつきにくいものがあるんですが、ベンとローズのお話がシンクロし始めるあたりから、映画も調子が出てきます。ベンが落雷で難聴になっちゃうところで、おや、ローズと同じ境遇になるの?って気づき、二人が故郷を離れてニューヨークへ向かうあたりで、この二人には特別なつながりがあるのかもと思わせるのです。1927年の世界はモノクロでサイレント映画のスタイルで描かれていまして、効果音も音楽で表現しています。一方の1977年の世界は、いかにも70年代映画の色調のフィルムタッチで描かれています。どちらも時代を感じさせるセットや群衆の衣装やメイクなどかなり手間をお金をかけていまして、CGスタッフだけでなく、ミニチュアイフェクトのチームもクレジットされていまして、時代感のある映像作成に成功しています。

ニューヨークに着いたベンは、道路で財布から金を抜かれてしまい一文無しになっちゃいます。それでも本が売られたらしいキングストン書店へ行くと、そこは閉鎖されていました。その時、声をかけてくれたジェイミー少年の後をついていくと、行先はニューヨーク自然史博物館。一方のベスは大女優リリアンのいる劇場までたどり着くのですが、そこでぞんざいな扱いをされたもので、兄の絵葉書にあったニューヨーク自然史博物館へと向かうのでした。というわけで、二人がニューヨーク自然史博物館に集まる時、二つの物語のシンクロ度マックスになります。博物館を中心にした不思議なお話と言えば「ナイト・ミュージアム」シリーズを思い出すのですが、もう一つの「ナイト・ミュージアム」という言い方もできそうです。

映画は、1927年と1977年という2つの過去を同じレベルで描いているのが、私には意外というか、もうそんな時代になってしまったんだなあってしみじみしちゃいました。1977年は自分が生きてきたついこの間のことだと思っていたのですが、確かに40年前なんだよなあ。1977年ってのは過去の1つの時代であり、1927年と同じ歴史の1ページ扱いになっちゃったんだ。今の人には「ペンタゴン・ペーパー」と「ウィンストン・チャーチル」は過去の歴史の映画と言うことで同じジャンルの映画になっちゃうんでしょうね。自分も年を取ったというのをこういうところで認識するとは。

トッド・ヘインズの演出は、お話を中心に語る作りになっているので、登場人物のキャラは正直あまり存在感がありません。強いて言えば、ベンの亡くなった母親を演じたミシェル・ウィリアムスがちょっとの出番でインパクトを残すのですが、これは彼女が物語のパートを全て結びつけるキーパーソンだからで、リアルな人物像を描き出そうという意図はなさそうです。そのせいか、ベンとかローズに生身の存在感がなく、絵本の枠におさまったキャラという感じになっています。それが悪いわけではないのですが、映画を観始めて、そういう作りの映画に気づくまでに、何か物足りなさを感じてしまったのです。最初から、動く紙芝居の作りだと知っていれば、もっと素直に楽しめたなあと思ってしまいましたから、私とこの映画はあまり相性がよくないのかも。2つの時代を往ったり来たりしながら、一つのドラマに収束するという作りは面白かったですから、手の込んだベッドサイドストーリーと知っていれば、かなり楽しめるのではないかしら。自然博物館という舞台も魅力的でしたし。

また、この映画で特筆すべきは、音楽でして、特に1927年のパートは現実音が全て音楽で表現されていて、既成曲も使われているのですが、カーター・バーウェルの音楽がカートゥーン劇伴音楽として大変面白い音楽をつけています。また、ドラマチックなスコア部分も彼らしいうまさで厚みのある音が見事でした。デビッド・ボウイの「スペース・オディティ」などの既成曲が時代色を出すのに使われています。特に「ツアラトゥストラはかく語りき」のクロスオーバーバージョンが印象的でした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。




ローズが会いに行った大女優リリアンは、ローズの離婚した母親でした。母親恋しさに会いに行ったのに、邪険に扱われて傷心のローズは、兄ウォルターの勤める自然史博物館へと向かうのでした。警官に不審に思われて追いかけられたりもするのですが、無事ウォルターに会うことができます。両親からはひどい仕打ちをされているローズですが、ウォルターだけは彼女にやさしく接するのでした。一方、ベンは、父親が博物館のスタッフであるウォルターに博物館の奥の秘密の部屋に案内されます。友たちのいないウォルターはベンに友達になって欲しいと思って、色々と気を遣ってくれます。でも、ベンは父親捜しが最優先なので、キンケイド書店の移転先を聞き出すとウォルターから逃げるように博物館を出ていくのでした。ベンが移転先の新しいキンケイド書店へ行くと、そこには主人と聾唖の老婦人がいました。ベンの持っていた「ワンダーストラック」の本を観て驚く二人。老婦人は、彼に向かって「ベンなの?」

老婦人はローズで、店の主人は兄のウォルターだったのです。ローズはベンをクイーンズ美術館へと連れて行きます。そこにはニューヨーク全体のミニチュアがありました。ローズはウォルターの計らいでニューヨークの聾学校に通い、そこでダンナと出会い、息子ダニエルが生まれます。彼女は、博物館に勤めるようになり、さらに息子も同じ場所で働くようになります。ダニエルはミネソタ州の展示を作るために現地に調査に出かけ、そこでエレインと出会い結婚してベンが生まれるのですが、ダニエルは心臓に持病があって、そのせいで若くして亡くなっていたのでした。ローズがそこまで説明したとき、落雷がありニューヨーク大停電が起こります。しかし、ベンを尾行してきたウォルターがカメラのフラッシュでベンとローズを誘導して、二人は外に出ることができました。星空を眺めるローズ、ベン、ウォルターの3人の姿から暗転、エンドクレジット。

結局、ローズはベンのおばあちゃんだったわけですが、その二人が同じようにニューヨークに家出してきて、自然史博物館へやってきたことで、お互いの人生がつながったというわけです。ローズもここへ来なかったら、自然史博物館で働くこともなく、息子のダニエルが同じ場所で働くこともなかったわけですから、まあ不思議なご縁のお話ということができます。最後はめでたしめでたしということになり、絵本の結末にふさわしい終わり方と言えましょう。ただ、舞台となった1927年と1977年という時代へのノスタルジー以上のものは感じられず、今の時代に通じるものがなかったので、語られたお話以上のものにならなかったのは、ちょっと物足りなかったです。良くも悪くも絵本の読み聞かせのような映画でした。

「ハッピーエンド」は変な映画でしたけど、スマホカメラとSNSに発見があったので私にとってはマル。


今回は新作の「ハッピーエンド」を角川シネマ有楽町で観てきました。映画の日だというのに、お客さんは30人もいなかったような。まあ、他に色々映画が公開直後だからかなあ。まあ、この映画が大混雑だったら、それはそれで怖いけど。

母親が薬物過剰で入院した13歳のエヴ(ファンディーヌ・アルドゥアン)は、母親の別れたダンナ(まあ父親ってことですが)のトマ(マシュー・カソビッツ)の元に一時的に住むことになります。フランスのカレーの大邸宅で、父ジョルジュ(ジャン・ルイ・トランティニアン)とその長女アンヌ(イザベル・ユペール)とアンヌの息子ピエールと同居してまして、トマには再婚した妻アナイス(ローラ・ファーリンデン)と生まれたばかりの息子ポールがいます。何しろお邸なので住み込みの使用人ラシッド一家もいるという、いわゆるブルジョアな一家なのでした。エヴは、スマホで動画を隠し撮りしてはSNSにアップしているようで、実は母親の薬物の過剰摂取も彼女が仕組んだことなのです。でも、そんなことはおくびにも出さず、大人しい娘を演じているエヴ。でも、この一家、みんな秘密を持っているみたいで、トマは変態チャットを妻に隠れてやってるし、ピエールは酒に走りがちでメンタル弱そう。ジョルジュは夜中に車を走らせて、自損事故を起こして、車椅子生活になっちゃいます。どうやら、彼は死にたがっているみたいで、通いの床屋に銃をくれと言ったりしてます。アンヌは父から譲られた建設会社を経営してますが、現場で事故が起こってこちらも大変。映画はそんな一家を淡々とスケッチしていくのでした。

「愛、アムール」「ピアニスト」「白いリボン」のミヒャエル・ハネケが脚本を書いて、メガホンも取った一編です。あるブルジョア一家を描いて、彼らの問題を浮かび上がらせているということもできますが、小さなエピソードをつないだコラージュのような味わいもある一編。誰が何してどうなってという物語としての展開はほとんどありません。ただ映画が進むにつれて、彼らの抱える秘密がだんだん観客に伝わってくるという仕掛けです。そういう意味では、ドラマチックな展開とか意外な結末なんてのは期待しない方がいいです。居心地の悪い発端から、ずっとそんな感じで映画は最後まで進みます。カタルシス?とんでもない。笑い? うーん、人によっては笑えるのか。泣ける? こんな映画を映画館で観ちゃったことに泣ける人はいるかも。「聖なる鹿殺し」のような「何じゃこりゃ」な珍品ではありませんし、この監督の「愛、アムール」みたいに「えらいものを観てしまった」と後悔するほどのヘヴィな話でもありません。でも、人間の変なところ強調してくる映画なので、娯楽度を期待しない方がいいですし、会社帰りの気分転換にはオススメできない映画です。

オープニングが、縦長画面で、どうやらある女性の寝る前の洗面所の姿を盗撮しているみたいです。時々、画面にコメントが出るんですが、これはどうやらSNSにアップされた映像のようです。場面が変わると、今度はハムスターに抗うつ薬入りの餌を食べさせるシーンになります。ハムスター動かなくなっちゃったけど、死んじゃったのかな。そして、ソファで横になってる女性の絵になり、「救急車呼ぼうかな」なんてコメントが入ります。これが、映像の女性の娘エヴが撮ったものだったのです。どうやら、彼女、自分の母親に一服盛ったらしいのですよ。そのおかげで、彼女は別れていた父親の住むお邸に転がり込むことになるのでした。でも、エヴがなぜ母親を殺そうとしたのかは、最後までよくわかりません。ただ、彼女が母親を嫌っているらしいことは、映像のコメントから察することはできます。でも、嫌ってるくらいでそこまでやるかということになるのですが、この映画は、彼女の心の闇に光をあてることはしません。ただ、事実として、そういうことがあったと見せるだけです。この映画は全部そんな感じです。エヴの父親トマが浮気相手と変態チャットをするのも、どういう経緯なのかは描かれません。また、物語と関係なく挿入される若い男のSNSらしき動画も意味不明です。エヴがそういうのを見て楽しんでるらしいくらいの位置づけにしかならないのですが、やっぱりよくわからない。ただ、どうもこの映画の中心にいるのは、エヴらしいのですよ。彼女の周りで起こったエピソードが羅列されていくという作りになっています。そうなると、この映画、SNSを題材にした映画ということになるのかしら。

と、言いつつ、この映画のパンフレットの監督インタビューを読むと移民問題を扱った映画として作ったなんて出てくるので、「へえ?そうなの。」って結構ビックリ。だって移民の話なんて、ジョルジュ家のお邸の使用人一家と、後、最後のパーティにピエールが割り込ませようとした黒人のみなさんくらいなんですもの。また、舞台がカレーで、ジョルジュ一家がブルジョアだというのも、意味があることなんですって。フランスが階級社会だとは知らなかったのですが、そういう意味合いも含んだドラマのようです。でも、映画の上っ面だけをなめた感じだと、この映画のポイントは、現実とカメラを通した映像のギャップなのかなって感じられたのでした。

映画の後半で、ジョルジュは、孫のエヴにとんでもない過去を告白するのですが、その時、自分が窓の外を見ていたら、大きな鳥が小鳥を引き裂いて食べるのを目撃したという話をします。鳥の動きを描写した後、それがテレビの映像として映されたなら、何の事もない映像なのに、直接見たら、震えがきたというのです。あ、これはあるなって思いました。ネットの動画なら、かなり残酷なことも平気で観ることができるのに、それを直接見せられたらかなわないってのは大変説得力があります。どちらも事実なのに、カメラやパソコンを通して見るとダメージが少ないってのは、説得力のある事実だと思いました。ハムスターが毒殺される映像だって、スマホのカメラを通しただけなのに、メンタルな刺激はだいぶソフトになります。それは、過酷で残酷な現実を、映画やテレビを通して見せられると、鑑賞に耐えるものになるというのと似ているような気もしますが、ネットから得られる映像って、映画やテレビよりずっとお手軽でリアルで臨場感があります。それを直接見たり触ったりするのは耐えがたいけど、ネット動画としてなら、鑑賞に堪える、場合によって好き好んで見るものに変わるという感じはすごくわかるような気がします。この映画の面白いのは、ラストでも、今の話を裏付けるようなシーンが登場するのですが、裏返すと過酷で直視できない現実から逃避するためのフィルターとしてのカメラやSNSがあるのかなって気がしてくるのです。とんでもない映像にカメラを向けるのは、そのとんでもない現実を直接受け止めるのではなく、うまく逃げて回避していることになるのではないかということに気づかされるのです。

受け入れがたい現実に直面した時の、一時の避難場所として、自分と対象の間にカメラを置くってのは、カメラ携帯ができたから実現できた自分を守る手段なのかもしれないって気づくと、最近の若い子がSNSに動画をアップするのは、そのことで現実との摩擦をうまく回避しているのかもしれないという気になってきます。インスタ映えなんていうのも、現実を気持ちいい方向へ歪める行為なわけで、その逃げ場としてのSNSの存在価値って結構あるんじゃないの?って気がしてくる映画なのです。

私は移民問題とか家族の秘密といったことから、この映画から何かを得ることはできませんでしたけど、SNSとカメラの存在理由の一つを示している点は、観てよかったかもって気分になりました。また、変態チャットは静かなエロ会話ということになるのでしょうけど、これがパソコンに残っちゃうことで、トマは娘に変態チャット野郎だと知られてしまとnいます。これもベッキーの不倫事件で、LINEのログが大っぴらになっちゃったことを思い出しましたが、今は何をしても後が残る世の中になっちゃったんだなあって。トマは愛人にこれからはチャットしたら、後を全部消さなくちゃいけないって言うんですが、意識して自分の足跡を消さなきゃならないなんて面倒くさい世の中になったものだと実感。街を歩けば監視カメラに自分の姿が残っちゃう。自分の跡が残ることがデフォルトになった時代を生きてるんだなあって気づくと、自分が子供の頃からすれば想像を絶する時代になったと改めて驚かされます。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ジョルジュはエヴに、自分が病気で先のない妻の首を絞めて殺したことを告げます。さらに、そのことを少しも後悔していないと。アンヌが恋人と結婚することになりお披露目のパーティを開いて、知人、友人がレストランに集まります。すると、息子のピエールが嫌がらせみたいに黒人移民の友人を連れてきて、場の空気がおかしくなります。その空気を察したジョルジュはエヴに外へ出ようと言い、彼女に車椅子を押させます。レストランの外の道は、坂になっていてそのまま海まで続いていました。途中までエヴに押させていたジョルジュは自力で海の中へ入っていきます。それを呆然と見守るエヴ。すると彼女は思い出したようにスマホを取り出して、海の中のジョルジュを撮り始めます。そこへ気づいた大人たちが走ってくるところで暗転、エンドクレジット。

ラストで自殺しようとするジョルジュをスマホで撮影するエヴを心を亡くした少女と表現することもできましょう。でも、考えようによっては、別の顔も見えてきます。自分の祖父が祖母を絞め殺していたという事実は、幼いエヴには呑み込むには大変ヘビーなお話です。さらに、その祖父が自殺しようとしているなんて、もう彼女のキャパシティを超える出来事です。そんな受け止めきれない現実から、何とか逃げ出すために自分と祖父の間にカメラを置いたんじゃないかしら。みんな誰にも直視したくないもの、避けて通りたいものがあるとき、それをカメラを通すことで、現実感を薄めて、自分の痛みを和らげるのです。昔は、動画のカメラなんて、誰でも持ってるものではなかったから、そういう逃げ方はできなかったけど、今は、そうやって過酷な現実を少しだけ遠ざけて、傷を浅くすることができる。これってスマホの動画撮影機能が先にあって、後付けの知恵になるのでしょうけど、自分を当事者でなくしてしまうテクニックとしてあなどれないものがあると思います。この映画が、そういうことを語ろうとしているとは思えないけど、でも現実逃避ツールとしてのスマホの動画カメラ、そしてSNSの新しい効用は、私にとって、この映画からの発見なのでした。
プロフィール

einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR