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「突破口」は70年代の犯罪アクションでオッサン対決だけど面白い。


ブログの師匠pu-koさんの記事で「突破口」を拝見して、そういえばこれ録画したきりになってたなあってことで、テレビで鑑賞しました。1973年の映画というと、46年前の映画なんですね。でも、このころの映画って、テレビの映画劇場で色々観ているのですが、その中ではなぜか未見のままでした。

飛行機の曲乗り芸人だったチャーリー(ウォルター・マッソー)は、転職した農薬散布の仕事でも食い詰めて、女房のナディーン(ジャクリーン・スコット)も含めた4人で田舎の銀行を襲う、少額強盗をすることにします。田舎町の銀行の前に車を停めて、強盗に及び、現金と証券をせしめることに成功しますが、警官に車が盗難車であることを知られた結果、一人は警備員に撃たれて死亡、ナディーンも流れ弾を受けて亡き人となります。生き残ったチャーリーとハーマン(アンドリュー・ロビンソン)は、金を山分けしようと数えてみれば、75万ドルもありました。田舎の銀行にこんなに現金があるのはおかしいと、チャーリーはこれはマフィアの金だと気づきます。銀行重役のボイル(ジョン・バーノン)は、事態を収拾するために汚れ仕事の専門家モリー(ジョー・ドン・ベーカー)に金の回収を依頼します。警察は残った死体から犯人の身元を洗おうとしますが、思うようには進みません。一方、モリーは裏の調査密告網を駆使して、国外逃亡のための偽パスポートを作ろうとしたチャーリーを特定し、ハーマンのいるチャーリーの家にやってきます。チャーリーの方も自分のヤバイ状況を理解していて、何とか追手をまこうとするのですが....。

ジョン・リースの小説を、テレビ映画で実績のあるハワード・ロッドマンと「ダーティ・ハリー」のディーン・リスナーが脚本化し、「ダーティ・ハリー」「テレフォン」のドン・シーゲルがメガホンを取った犯罪アクションの一編です。オープニングは静かな田舎町の風景が映り、そこにタイトルとクレジットが被さります。そして、銀行の前に車を停めた老人とその娘が、パトカーの警官に車を駐車場へ移動させるように言われるところか始まります。一度は現場を離れたパトカーが車のナンバーを照会して戻ってくるのと並行して銀行強盗がカットバックされるところから、シーゲルの演出は快調で、舞台はずっと田舎町なんですが、カーチェイスも迫力あるし、その後の展開もうまい。最近の映画はライド感を狙って、とにかく細かくカットを割ることが標準になっちゃってますが、この映画の頃は、まだカット割りも見せ方もゆったりしていて、どこか余裕があるのが個人的には好きです。

ウォルター・マッソーという渋めのスターで、犯罪ものを作れた時代なんだなあってのがまず驚きというか感心。さらにマッソー演じるチャーリーが、男気はあるけど、それなりのワルになっているのが面白く、ひょんなことからマフィアに追われるようになった中年男をユーモアと凄みを交えて演じているのがうまい。冒頭で、撃たれて虫の息の女運転手を見捨ててしまうのですが、その後、彼女がチャーリーの妻とわかるあたりは、ハードボイルド感たっぷりの意外性がありました。一方、マフィアの金を横取りした自分たちがヤバい状況にあるのに、ムダにつっぱる若造ハーマンに見切りをつけるあたりの非情さもなかなかすごい。一方、チャーリーを追うモリーという男も、裏世界にものすごく顔が広いらしく、その有能な仕事ぶりに、周囲の人間も敬意と恐怖を示します。どうやら、犯罪者としてのプロである、チャーリーと、彼を追うモリーの対決ものの様相を呈してきます。でも、それだけではなく、他の登場人物にも、キャラと見せ場が与えられていて、最近のジェットコースタームービーとは一線を画す、きっちりとした小説を読む味わいのある映画になっています。

登場人物がそれぞれに印象に残る演出がされているので、田舎町の保安官とか、モリーが仕事の宿に紹介された売春宿の女の子、モリーに車を奪われる黒人とか、細かいところできちんとキャラが立っているのですよ。そうそう昔の映画は、テンポは今ほど早くないけど、脇のキャラが印象に残る演出がされてたよなあっていうのを思い出しました。だからこそ、60~70年代の映画をもとに「傍役グラフィティ」なんていう名著もあったんだよなあ。(これは、当時の洋画の傍役を出演した映画とともに列挙した本で、私はこの本のおかげで色々な俳優の名前を知り、脇役に興味を持つようになりました。)そういう小さな役の俳優の演技を束ねて物語を引っ張る作りが、当時の映画の定番でした。派手なアクションや爆破がなくても、役者のうまさと物語の展開で楽しめる映画があったんだよなあ。この映画は、いわゆるB級映画と呼ぶにはスタッフ、キャストは一級なのですが、田舎町の強盗の後始末という説明をすると、今の人はB,C級映画だと思っちゃうかも。でも、これはB級映画と呼ぶには丁寧でちゃんと作られているのですよ。テレビで観ても退屈するところのない2時間弱ですから、機会があればオススメしちゃいます。ちなみに、私も名前を知ってる面々では、シェリー・ノース、ノーマン・フェル、ウィリアム・シャラート、アルバート・ポップウェルといった名前が懐かしかったです。また、「ダーティ・ハリー」でシーゲル監督とコンビを組んでいるラロ・シフリンの音楽が、パーカッションを駆使してアクションシーンやサスペンスを盛り上げているのも聴きものです。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



チャーリーは75万ドルを隠し、ハーマンに家から出ないように言って、偽造パスポートの手配をしますが、パスポート情報を裏稼業の男がたれこんだことで、チャーリーの正体が割れてしまいます。その連絡を受けたモリーはチャーリーの住むトレーラーハウスへ向かいますが、そこにはハーマンしかいませんでした。ハーマンを脅して、金のありかを吐かせようとしたモリーですが、彼が何も知らないとわかるとあっけなく殺してしまいます。その一部始終を、チャーリーはトレーラーハウスの外に隠れて見ていました。チャーリーは、ボイルの秘書シビル(フェリシア・ファー)に接近し、ボイルに連絡して、75万ドル渡すから身の安全を保証しろと持ち掛けます。飛行場で、チャーリーを待つボイル。それを遠くからうかがっているモリー。チャーリーは複葉機でやってきます。そして、ボイルに抱きつき、不自然に親しげにするチャーリー。それを遠くから監視していたモリーは、ボイルとチャーリーがグルだったと信じ込み、車でボイルを轢き殺してしまいます。さらに、滑走する複葉機とのチェイスの末、複葉機は反転してチャーリーは動けなくなります。モリーに金のありかだと言って車のキーを渡すチャーリー。モリーがその車のトランクのカギを開けるとそこにはハーマンの死体と爆薬があってドッカーン。そして、車に乗って去っていくチャーリー。おしまい。

ボイルの秘書の家に押し入ったチャーリーは、ボイルに取引を持ち掛けた後、秘書とベッドでねんごろになってしまいます。当時は男と女がすぐベッドインしても、ありの時代だったのかな。そして、クライマックスは自動車と複葉機の地上チェイスというどこかのんびりした見せ場の後、チャーリーが最後の仕掛けでモリーを仕留めます。このピリっとした結末が何かかっこいいのですよ。恨みとか因縁といったものがないビジネスライクな殺し合いが、さくっと決まるあたりが小気味よい後味を残します。オッサンが殺しあう、殺伐としたお話なのに、どこかのんびりした味わいもあり、さらに面白くてかっこよくて、後味がいいってのはなかなかないですから、最近の見せ場のぎっしり詰まった映画にお疲れの方にオススメしちゃいます。

また、本筋と関係ないところに印象にのこるものを配してあるのも楽しい趣向になっていまして、ご覧になってないと何のことかわからないかもしれませんが、「強盗の車を目撃した少年」「牧場の前での会話」「ブランコの少女」「トレーラーハウスの大家のオバちゃん」「パスポート屋の女(シェリー・ノース)とモリーのやりとり」など、妙に心に残るシーンの多い映画になっています。最近は、こういう寄り道をしつつ、映画を面白く仕上げる監督がいないのかもしれません。或いは、観客がそういう寄り道を楽しむ余裕をなくしてきてるということなのかも。
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「美女と液体人間」はほどほどにまとめた娯楽映画として楽しい。こういう映画が作られた時代を懐かしむ感じ。


日本映画専門チャンネルで東宝特撮王国という企画で、毎月2本ずつ、東宝のSF映画を放送しています。HDリマスターということで、かなり画質もよくなっています。できれば、当時のパースペクタ・ステレオフォニック・サウンドを再現して欲しいのですが、これはニーズないだろうなあ。以前のDVDで当時の音を再現したトラックがありましたけど。

そんな中で、「美女と液体人間」を久々に観てみました。劇場で観たことがなくてビデオブームの時に初めて観た映画です。

ある雨の夜、銀行強盗の片割れが衣服だけ残して姿を消すという事件が発生します。富永捜査一課長(平田昭彦)は消えた三崎というギャングの立ち回り先として情婦の新井千加子(白川由美)というクラブ歌手をマークします。他のギャングも金を持って消えた三崎を追って千加子を監視しています。そんな彼女に接触してきた男を押さえて警察へ連れて行くと、その男は大学の助教授、政田(佐原健二)といい、富永とは大学時代の友人でした。政田は、富永を病院へ連れて行くと、被爆した漁船員の話を聞かせます。彼らは日本近海で操業中、ビキニ環礁の核実験後に消息を絶った第二竜神丸と遭遇したというのです。第二竜神丸に乗り込んだのですが、そこには人間はおらず、衣服が人間の形で残っているだけなのです。彼らを突然、液体状の何かが襲い、襲われた船員は溶けてしまいます。何とか生き残った船員が自分の船に戻ってみると、第二竜神丸の甲板に人間の形をした液体状のものがたたずんでいたと言うのです。政田は強い放射線を浴びたガマが液体状になり、他のガマを溶かしてしまう実験を見せ、核実験が液体人間を生み出したのではないかと、富永を説得しますが、ギャング事件で忙しい彼はそれを無視します。そして、千加子の勤めるクラブでギャングの一斉検挙を行った夜、そこに液体人間が現れ、ギャングや刑事、ダンサーを襲い、彼らを溶かしてしまいます。政田の師である真木博士(千田是也)は、第二竜神丸が日本近海から現れたことから、液体化しても人間としての意識が残っているのかもしれないと言います。液体人間の存在は世間の知るところとなり、真木博士の進言により、彼らが出現している一帯を封鎖し、下水と川へガソリンを注いて火をつけて焼き殺す作戦を実施することとなります。その作戦が開始されるころ、千加子は一斉検挙から逃げ延びたギャング(佐藤允)に誘拐されてしまい、政田が後を追いますが、見失ってしまうのでした。

昭和33年という私が生まれる前の映画でして、ちょうど日本の映画観客数がピークだった年に公開されています。「空の大怪獣ラドン」「地球防衛軍」などのSFスペクタクルが当たった東宝が、特撮を使った新しいジャンルを模索した結果作られた映画だそうで、この映画が当たったからでしょうか、変身人間シリーズとして「電送人間」「ガス人間第一号」が作られるきっかけになりました。大部屋俳優だった海上日出男が書いた原作を「空の大怪獣ラドン」「地球防衛軍」の実績のある木村武が脚本化し、「ゴジラ」「地球防衛軍」の本多猪四郎が監督しました。題名の「美女と液体人間」というのは、新東宝の大蔵貢製作の映画タイトルみたいで、かなり際物度が高い気がします。でも、映画の冒頭でキノコ雲が上がり、マグロ漁船遭難の新聞記事が出るあたりで、「ゴジラ」みたいな反核映画なのかなと思わせます。さらにタイトルバックは、夜の海で二隻の船がすれ違うもので、そこへ「美女と液体人間」というタイトルが出ると、「何なんだ、この映画は?」という気分になってきます。さらにバックに流れる佐藤勝によるテーマ曲がやたら元気で明るいマーチ調なのが、画面とのアンマッチがすごいのですよ。反核メッセージと美女に液体人間と夜の海のスリラー風画面に、明るいマーチですからね。ミスマッチの妙ということもできますし、観客の目を惹く要素を何でも盛り込んでやれという、貪欲なサービス精神の現れということもできましょう。冒頭3分だけだと、エロ、グロ、ホラーと反核メッセージという何でもあり映画だなという印象です。

そして、ドラマが始まると富永課長率いる刑事たちがギャングを追う、警察ものになります。行方不明のギャングの情婦として、タイトルトップの白川由美が登場します。きりっとした美人さんで、ギャングの情婦には見えないのは、計算ずくなのか、キャスティングミスなのか。ギャングの情婦のクラブ歌手なのに、清楚でマジメ風ヒロインになっているのが、妙なおかしさがあります。周囲の刑事やギャングや、彼女をギャングのスケ(情婦)として扱うので、そのミスマッチが変なの?って思っていると、液体人間を研究している政田が登場してきまして、学問バカの大学の先生と、ギャングの情婦が純愛路線の恋愛モードになってくるという、またすごい変な感じの展開になってきます。ギャング映画とSF映画を一本の筋にまとめるために、かなり変な展開をする映画ですが、そんな変な話を大真面目に作っちゃうところに、当時の映画界の勢いを感じることができます。今、こんな変な映画を作ったら、ボコボコに叩かれるか黙殺されちゃうか、オタクだけ喜ぶカルト化するかのどれかでしょうけど、これで変身人間の映画がシリーズ化されたのですから、当時の映画界も観客も余裕があったんだなって思います。これ、言い方を変えると、「踊る阿保に見る阿保」ってことになっちゃうのですが、それくらい作れる映画の間口が広くて、観客もその間口の広い映画を楽しめた時代だったと言えるのではないかしら。映画が斜陽化した後の1970年代に、この映画に相当する「吸血鬼ゴケミドロ」とか「海底大戦争」なんて映画も作られているのですが、よくて低予算のカルト映画という扱いしかされていません。「美女と液体人間」は際物、エログロの範疇とは言え、お金もかかってるし、作りもちゃんとしていますから、画面は安っぽくないし、娯楽映画としてもちゃんとまとまっていますもの。

核実験映像を頭に置いて、それと関係ないギャングと警察の闘うお話から、急に液体人間が回想シーンとして割り込んでくるというムチャな展開なんですが、それでも結構面白いと思って観てしまうのは、本多演出のうまさなのかなって気がします。この後、脚本と監督を入れ替えて作られた「電送人間」が映画としての面白さが今一つでしたから、娯楽映画としての立て付けがしっかりしているということになるのではないかしら。

見せ場となる液体人間のシーンは、「ゴジラ」の円谷英二の率いる特殊技術チームが担当しています。液体ガラスと呼ばれる流れるスライム状の材質を傾斜のついたセットに流して、生きているように見せたり、人間のスチルに液体を移動マスクで合成したり、着ぐるみの液体人間を半透明の幽霊のように合成するといった特撮に、溶ける人間をダミーヘッドの特殊メイクで作ったりと、色々な方法で液体人間を表現しています。また、冒頭の二艘の船の遭遇シーンや、下水や川へガソリンを流して火をつけるシーンで、ミニチュアを使っています。今のCGなら、もっとリアルな液体人間を作れるのでしょうが、こういう特撮のアラを観客の想像力で補って楽しむ映画もまた楽しいと思うところあります。それは特撮だとわかるけど、特撮とわかった上で、映画のお約束として受けいれて楽しむという感じは、チャンバラシーンで血しぶきが飛ばないけど、その殺陣の素晴らしさを味わうというのと似ているところがあります。リアルじゃないけど、そこは映画のお約束だから突っ込まずに、特撮技術や殺陣の素晴らしさを楽しむという感じが好きなんですが、今の若い人には伝わりにくいかも。限りなくリアルに近づけるCGが当たり前のご時世では、映画のお約束ってのが過去の文化になっちゃうのかもしれません。



この先は結末に振れますのでご注意ください。



警察は液体人間の潜伏していると思われる一帯を封鎖し、下水道と川にガソリンを流し、火を放ちます。ギャングは、千加子とともに下水道の中を逃げ回るのですが、そこへ現れた液体人間は、ギャングのみを襲って溶かしてしまいます。そこへ、千加子を追って現れた政田が彼女を救出します。追ってきた液体人間は、警官隊の火炎放射器によって焼き払われ、下水道の炎の中にたたずむ液体人間が確認されます。周囲一帯が炎につつまれる中、「原水爆で人間が滅んだ後、地球を支配するのは液体人間かもしれない」というナレーションが流れておしまい。

この映画を観たあと、ネットで検索したのですが、結構、この映画の評価が低いのは意外でした。際物映画ではありますが、そこそこちゃんとできてる映画なんだけどなあ。まあ、反核映画ではないし、エロと呼べるほどのエロティックなシーンもないですし、液体人間に溶かされちゃうシーンももっと見せてもよかったように思うから、グロもほどほどということで、そういう意味では全てにおいて中途半端なのかな。まあ、そこそこの感じが娯楽映画としてのまとまりとして、私は評価しちゃうのですが、そこは好みの問題でしょうね。私は尖った映画より、色々なネタをまろやかにまとめた映画の方が好きなので、この映画、結構評価高いです。でも、そういう自分の偏った好みにマッチした映画ではあるので、人様のオススメできるかというと、そこまではいかないという感じかしら。お好きな方はどうぞ、止まりかな。

「MONSTERS!!! オーケストラ・コンサート」はリーズナブルなお値段でフルオケの映画音楽が聴ける貴重なコンサート


今回は、錦糸町のティアラこうとうにて開催された、映画音楽のコンサート「MONSTERS!!! オーケストラ・コンサート」に行ってきました。奥村伸樹指揮のフィルム・スコア・フィルハーモニック・オーケストラによる演奏でした。このオーケストラはサウンドトラックを演奏するために結成されたアマチュアオーケストラだそうで、今回もかなりボリュームのあるメニューを、2,000円で楽しませてくれる、私のようなサントラファンには、大変ありがたいオーケストラでもあります。前回は「ファンタジー・フィルム・スペクタキュラー」を同じくティアラこうとうで聴いて、これは楽しいコンサートだったので、今回も足を運びました。今回のテーマはモンスターということでモンスターにまつわる映画とゲーム音楽のコンサートでした。

1、「SF交響ファンタジー第1番」
私のような伊福部昭とゴジラのファンには定番の1曲で、東宝のSF映画音楽のモチーフを緩急よく振り分けた盛り上がる曲です。曲のよさとオーケストラの元気な音がうまくシンクロしていて、個人的にはこのコンサートのベストだと思いました。クライマックスの「宇宙大戦争」のマーチ(アレグロってのが正しいそうですが、聞いた感じはマーチ)は、「シン・ゴジラ」のクライマックスで使われたので、若い人でも楽しめる1曲ではないかしら。「宇宙大戦争」と「怪獣総進撃」のマーチの掛け合いはやっぱり盛り上がりますもの。

2、「ポケットモンスター」より9曲メドレー
ポケモンは、さすがにオヤジは接点がなくて、初めて聞く曲ばかりで、それも劇伴音楽のブツ切り演奏ということもあって、「ポケモン」を観ている人には楽しいメドレーかもしれないけど、一見さんには、ちょっとしんどい感じでした。曲があまりピンと来ないというか、吹奏楽の課題曲みたいなんだよなあ、これが。ポケモンファンの方、ごめんなさいね。

3、「モンスターハンター」より3曲メドレー
ここから、男女のコーラスも登壇します。ゲームをやらない私には、モンハンも一見だったのですが、こっちは、明確なテーマモチーフから色々と発展していくという曲がまず聞きやすく、オーケストラのためにアレンジされていることもあって、聴き応えがあって楽しめました。演奏もここが一番力が入っていたという印象で、ダイナミックな音が耳に心地よい演奏だったと思います。

4、「エイリアン」よりエンドクレジット
ジェリー・ゴールドスミスのファンである私にとっての最大のお楽しみでした。リジェクテッドスコアだと紹介がありましたけど、映画を観る前にアルバム(当時はもちろんLPレコード)を聞いて感動した私にとっては、これがホントの「エイリアン」。ただ、過去の演奏でもトランペットソロが大変らしくて、これまでコンサートで4回聴いてうまくいってたのは2回しかありませんでした。今回もトランペットで息切れしちゃったのと、ラストの絞めが何だか発散しちゃったような印象になっちゃったのが残念。こんなこと書くと、サントラ老害って言われそうだけど、思い入れの強い曲にはつい辛口になっちゃうのですよ。

5、「ジョーズ」よりメイン・テーマ
コンサートで「ジョーズ」を聴くのは初めてでしたけど、やっぱりこの曲はいいなあって感心。コンサート用にアレンジされているようなんですが、最後の締めがこれもなんだか締まらない感じになっちゃってたのは惜しかったです。フェードアウトでもいいじゃんと思ったのですが、コーダにしないといけないお約束でもあるのかしら。

6、「ヒックとドラゴン」組曲
ジョン・パウエルというと私なんかはアクション映画でドコドコ鳴らす人というイメージしかないのですが、アニメ映画でもたくさんの実績があるようで、この「ヒックとドラゴン」もそんな一つですが、やっぱり元気な活劇音楽になっているのが楽しかったです。ダイナミックな動きに合わせたようにオケがうねる音作りからアニメらしさを感じることができます。前回の「ファンタジー・フィルム・スペクタキュラー」でも演奏されたのですが、前回の方が音がまとまっていたような気がしたのは、聴く座席の位置の違いなのかしら。

7、「美女と野獣」(2017年版)よりOverture
「美女と野獣」の序曲? ひょっとしてあのアニメの冒頭の語りのバックに流れた曲? ってすごく期待したのですが、これはアニメ版じゃなくて実写版の序曲でした。(って、私は実写版は未見なんですが) 期待が大きかっただけに、色々なナンバーのモチーフのコマ切れメドレーでがっかり。序曲ってより、長いエンドクレジットの後半に流れる曲って感じだよなあ、これ。

8、ミュージカル「オペラ座の怪人」より3曲
これは有名なミュージカルの名曲だけに、特に序曲に期待したのですが、これが何だか短くて今一つ。こういうのはオーケストラ用にアレンジして盛り上げて欲しかったわあ。その後、男声ボーカルを加えて「The Music of the Night 」をこれは十分な尺で聞かせてくれて、もう1曲。3曲めはあまり印象に残らなかったのですが、どのシーンの曲だったのかしら。

9、映画「シュレック」組曲
浜田雅功と藤原紀香という吹き替えコンビがまさかの好演を見せたアニメの佳作ですが、この音楽を手掛けたのが、「ヒックとドラゴン」のジョン・パウエルと、シリアスドラマの作曲家のイメージが強いハリー・グレグソン・ウィリアムスというのはちょっとびっくり。優雅なテーマ音楽から、アクションスコアへ展開していく組曲はなかなか楽しい音になっていまして、個人的には「ヒックとドラゴン」よりこっちの方が好きです。

10、アンコール
アンコールは、映画音楽の様々なモチーフをパッチワークのようにつないだ、これはこのオーケストラのテーマなのかな。さらにコーラスへのアンコールでモンハンのさわりを聴かせてくれたあと。次回コンサートの予告ということで、「スターウォーズ」のテーマを演奏して終わりとなりました。次回は、8月にジョン・ウィリアムス特集のコンサートですって。

楽譜の制約とか色々あるのでしょうけど、そんなことお構いなく言いたい放題書いてしまいましたが、サントラファンとしては、映画音楽を生演奏で聴かせてくれる機会があるというのはうれしい限りなので、また色々な企画をやっていただきたいなあって思います。今度は、ジョン・ウィリアムス特集らしいのですが、1人の作曲家に特定せず、色々なジャンル、作曲家の映画音楽に生で接する機会を作って欲しいなって思います。とは言え、リーズナブルな価格でいい演奏を提供しようとするとマニアックな選曲はできないってことは重々お察しできますから、難しいところです。ですから、半分はジョン・ウィリアムスやハンス・ジマーでも、残りの半分にバーナード・ハーマンやジェリー・ゴールドスミス、ラロ・シフリンなんかを混ぜていただけたらうれしいのですが。

「イメージズ」はサイコスリラーだけど、精神を病んでるヒロインを短絡的に狂人扱いしてるのが気になって。


今回は、映画ブログの師匠であるpu-koさんのブログで紹介されていた「イメージズ」をDVDでゲットして観ました。双葉十三郎氏の「ぼくの採点表」では、☆☆☆★ というあまり高得点ではありません。本文を読んでも、あまりついていけなかったという感じでして、どんな映画なのか気になりました。1972年の映画ですが、日本では劇場未公開だったようですが、それでも「ぼくの採点表」に載っているということは、試写会は行われたけど、お蔵入りになったということなのかな。

妊娠中の人妻キャスリン(スザンナ・ヨーク)は、童話を書いているのですが、変な女性からの電話を受けて、精神的にまいってしまい、郊外の別荘に夫のヒュー(ルネ・オーベルジョア)と一緒にやってきます。広々とした田舎の景色の中に、キャスリンはもう一人の自分の姿を見つけます。さらに、別荘に着いてみると、そこには飛行機事故で死んだ彼女の恋人であったルネ(マルセル・ボズフィ)が現れて、彼女に語りかけてきます。買い物に出かけたヒューが、知り合いのマルセル(ヒュー・ミレー)と娘のスザンヌ(キャスリン・ハリソン)を連れて帰ってきて、一緒に夕食を取ることになります。マルセルは、やたらとキャスリンにベタベタして、どうやら過去に二人は関係があったみたい。食後、マルセルが帰る段になったら、ヒューとマルセルが入れ替わっているではありませんか。一体、何が起こっているのかって、どうもキャスリンの方がおかしいらしい、そして、そのことに彼女自身も自覚があるように見えます。正気と狂気の境界線で微妙に揺れ続けるキャスリンが仕掛けたとんでもない行動とは....?

有名な監督さんだけど、私は、「三人の女」「バレエ・カンパニー」「今宵、フィッツジェラルド劇場で」くらいしか観ていない、ロバート・アルトマンが脚本を書き、メガホンも取った1972年の作品です。映画の冒頭から、変な電話に振り回されるヒロインがどっかおかしいと思っていると、突然、夫が死んだ恋人に変わり、次の瞬間には元に戻っている。ああ、これは心を病んだヒロインのドラマだなってわかってくると、今度は、ヒロインがヒロイン自身を見つめるシーンが出てくる。うーん、こうなるとドラマのどこまでが客観的事実でどこから先がヒロインの幻覚なのかわからなくなってきます。なぜ、ヒロインがそうなっちゃったのかは一切描かれないのですが、どうやらセックス絡みのトラウマを持ってるみたいだということがおぼろげに伝わってきます。過去には、色々あったけど、今はダンナであるヒューと平和に暮らすことが彼女の表向きの望みです。でも、過去の恋人の幻影が出てきて、会話しちゃうってことは、現在が心休まる状況ではないのかもしれません。

そんな状況が現実と幻覚が入り混じってキャスリンの周りで展開します。基本、ダンナは本物で、死んだ恋人は幽霊か幻覚ってことになるんだろうけど、冒頭のシーンで、ヒロインがメンタルやられてるってのが伝わってくるから、多分、幻覚。幻覚だけど、結構きちんとしゃべるし、痛がったり血を流したりする、かなりの存在感のある幻覚です。さらに、ダンナと友人のマルセルが入れ替わったりするあたりで、かなりヒロインの幻覚がやばい状況にあるのが伝わってきます。また、一方でもう一人の自分をあちこちで目撃するのは、ドッペンゲルガーか二重人格か、と、異常心理のてんこ盛りな展開は、ちょっとやり過ぎなんじゃないかなって気がしてきました。特に、鏡を使った映像をこれでもかと意図的に盛り込んでいるのも、何と言うか、盛り過ぎじゃないの?って気もしてきます。

こういう状況に追い込まれるヒロインなら、神経質で線の細いキャラクターになりがちです。この映画も冒頭は、そんな感じの繊細キャラなんですが、物語が進むにつれて、どんどんたくましく(ふてぶてしく?)なっていくのですよ。自分の身の回りで、あり得ない出来事が続発したら、先立つ感情は恐怖だと思うでしょ? でも、さにあらず、それらの超常現象をさらりとやりすごして、幻覚を笑い飛ばしちゃう。pu-koさんの記事を拝見したときに、これ、ひょっとして「呪われたジェシカ」みたいな、超自然ホラーなのか、サイコミステリーなのか曖昧な怖さを持った映画なのかなって期待したのですが、少なくとも超自然ホラーの要素はありません。でも、サイコスリラーとしては、「サイコ」でくくれるネタを全部乗っけましたという感じが説得力を欠いてしまったように思います。スザンナ・ヨークの生々しい存在感は、この映画にリアルな人間ドラマの味わいを与えていまして、そこに後半の展開の布石があったというのは、うまいキャスティングだったように思います。

色々な目配せを盛り合わせている点は、面白いと言えば面白いのですが、最後まで目配せだけで、種明かしをしないので、ドラマとしては弱いという印象を持っちゃったのは、私がこの映画を読み切れていないのかな。でも、この映画を観て思い出したのは、「サイコ」のラストで、精神科医が異常心理の説明をきちんとやったのは偉大だったなということでした。スリラーファンには、蛇足だとか説明過剰とか言われちゃう説明なんですが、これがあるから、全てのドラマのピースが収まるところに収まったのです。一方、この映画は、彼女の病状をとっちらかしたままのような気がしちゃったのですよ。昔は、こういうメンタル弱い女性は、それだけでホラーの対象となっていたのかもしれませんが、メンタルを病むのは当たり前になった現代では、きちんと病状を絵解きしてくれないと、ただの「キチガイ」括りになっちゃうのですよ。これは、時代の要請ってやつなのでしょうね。そう考えると、「サイコ」のラストの説明は、狂気を病気と定義しなおしたわけで、当時としては、未来を見通した画期的なことだったのではないかしら。

スザンヌ・ヨークが怪演したキャスリンというヒロインは、子供のための童話を書いていて、その童話の彼女による朗読がBGMのようにドラマのバックに流れます。童話の作者はヨーク自身だそうで、それをアルトマンが映画に採用したそうですが、この朗読によって、画面の彼女の他に、別の彼女がいるんじゃないかという印象が刷り込まれるのはうまい仕掛けだと思いました。まあ、これに鏡に映るヒロインとか、ヒロインの若い頃に似た女の子の登場とか、うまいけど盛り過ぎ感もあるんですけどね。また、キャスリンが、夜、夢なのか現実なのかわからない世界で、夫、死んだ恋人、夫の友人の3人と次々とセックスするというシーンが出てくるのですが、この性に奔放な女性は、キャスリンの過去なのか、隠された人格なのか、それとも彼女の願望なのか、はっきりとしないのですが、そういう生身の性を感じさせる肉感的なキャスリンに、スザンナ・ヨークはぴったりとはまりました。男を挑発する感じとか、アグレッシブななまめかしさがありまして、そこが怖いと言えば、怖いです。メンタル病んでるというと、ヒステリックになることはあっても、基本は弱弱しいイメージがあるんですが、その期待を裏切るおかしさは狙ってやってるんだろうなあ。

今年亡くなったビルモス・シグモンドのキャメラは、シネスコサイズの画面に沈んだ色使いで、荒涼としたロケーションをとらえて、独特の世界観を作り出しています。場所をどことか特定していないのですが、アイルランドでロケしたとのことで、その場所がわからない感じは、ひょっとして全てがヒロインの内的世界かもと思わせるところがあります。音楽を担当したのがジョン・ウィリアムスですが、ピアノの流麗な音楽から、ツトム・ヤマシタのパーカッションによる現代音楽に交互に切り替わるあたりに、ヒロインの二重人格のイメージを表現しているみたいです。視覚的にも、音楽的にも、サイコイメージの盛り合わせだよなあ、やっぱり。



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元の恋人ルネの幽霊(?)は棚の銃を持ち出して、キャスリンを挑発します。そんな彼に向かって半笑いで銃をぶっ放すキャスリン。胸を撃たれて血を流して倒れ込むルネ。でも、その後、何事もなかったように彼女は振舞うのです。さらに、やたらちょっかいかけてくるマルセルに、挑発するような視線を向けて近寄っていくキャスリンですが、背後にハサミを隠し持っていて、そのハサミでマルセルの胸を突き刺します。血まみれの死体と化したマルセルに、家に入ってきた犬は死体の匂いを嗅ぎつけます。でも、その後、家に入ってきたスザンヌは当然見つけていい筈の死体に気がつきません。スザンヌを家まで送ると、そこにはマルセルがピンピンしているではありませんか。じゃあ、スザンヌは誰も殺していないの? 家への帰り道、キャスリンは道を歩いている自分自身を見つけます。最初はやりすごすのですが、家に着いて、そこに転がっているルネとマルセルの死体を見て、再び道を引き返します。彼女の車のところへやってきたのは、もう一人のキャスリン。「なぜ、車に乗せてくれないの」と言う彼女に、「あなたを私の中から追い出したいの」と答えて、彼女をひき殺してしまうキャスリン。彼女が自分の家に帰ってシャワーを浴びていると、そこに現れたのはもう一人のキャスリンでした。「私が殺した筈なのに」と叫ぶキャスリン。そして崖下に死体となって転がっている夫のヒューが映った後、パズルをしている女の子(多分スザンヌ)が映り、スザンヌの声で童話が語られて、エンドクレジット。

ルネはもともと死んでるし、マルセルも死んでないという見せ方ですが、最後にヒューは本当に死んでしまったのでしょうか。どこまでが実際にあったことで、どこからがキャスリンの幻覚なのかはっきりしまいまま映画は終わってしまいます。確かにキャスリンとヒューが入れ替わるというラストの仕掛けは、その前に、ヒューとマルセルが入れ替わるシーンがあるので、一応の伏線はあるのですが、その結果として、ヒューが死んだかどうかはわからない。その曖昧さに面白さを感じられるかどうかで、この映画の面白さが違ってくると思います。幻覚の話なんて、他人の夢の話を聞かされるのと同じだから、何がどうなろうが、論理性の欠片もないんじゃないの?って思うと、まるでつまらない話だねってことになります。(他人の夢の話を聞かされてもつまんないじゃないですか、あれと同じ感じ。)

もう一つ、この映画でキャスリンが殺人を犯す理由を描いていないのが気になりました。あの「サイコ」でさえ、殺人の理由がおぼろげながら伝わってきたのに、この映画は、精神を病んだヒロイン=キチガイだから殺人も犯すよねという見せ方なのですよ。キャスリンは自分を悩ます存在を人生から取り除きたいのだというのは、本人がそう言うのでわかるのですが、なぜ取り除きたい=殺人になるのかは描かない。やはり、昔(1970年代ですが)の映画だと、精神を病んでいる=キチガイ=殺人鬼という図式がまかり通ってしまうのかなって気がしました。今のサイコスリラーでは、理由なき殺人を犯すキャラクターは人間として描かれていないことが多く、登場しても、ホラーのための道具みたいな扱いになっているように思います。あるいは確信犯的な快楽殺人鬼とかですね。この映画のような、精神を病んだ等身大の人間が、殺人鬼になっちゃうってのは、今の映画には見られなくなったパターンだなって気づかされてしまいました。そういう意味では、精神を病んだ人間に対する扱いが悪かった時代の映画なのかな。

「ファンタジー・フィルム・スペクタキュラー 2017」はジョン・ウィリアムスの渋い楽曲が聴きものです。


今回は映画音楽のコンサート「ファンタジー・フィルム・スペクタキュラー 2017」を錦糸町のティアラこうとう大ホールで聴いてきました。一昨年、三鷹で「ファンタジー・フィルム・スペクタキュラー 2015」を聴いて、選曲がおもしろかったので、今回もそこそこ期待するところありました。小林健太郎指揮のフィルム・シンフォニー・オーケストラによる演奏でした。曲数が多くて、なかなかのボリュームのコンサートでした。

前半は色々な作曲家の映画音楽、後半はジョン・ウィリアムス特集という構成になっています。今年でウィリアムスが85歳ということで、記念コンサートが海の向こうでも行われているんですって。とはいえ、私は、ジョン・ウィリアムスには、ジェリー・ゴールドスミスほどの思い入れはないので、やっぱりそこそこの期待かしら。

1、ユニヴァーサル映画ファンファーレ(ジェリー・ゴールドスミス)
映画会社のロゴのバックに流れる音楽というと、アルフレッド・ニューマンによる20世紀FOXのファンファーレが有名ですが、1997年に作曲されたという最近のロゴのバックの曲としてはかなりメジャーなのではないかしら。

2、キャプテン・アメリカ/ファースト・アベンジャー(アラン・シルベストリ)
アメコミ映画は興味がなくって、「ふーん」って聞き流しちゃいましたけど、威勢のいい音に仕上がっているのは、さすがシルベストリと感心。でも、この人のベストだと思っている「バック・トゥ・ザ・フューチャー」に比べると何か淡泊だよなあって印象になっちゃいます。

3、プレデター(アラン・シルベストリ)
1980年代、シルベストリの脂が乗りきっていたころのSFアクションの音楽です。この頃の映画がシルベストリの音と相性がよかったということも言えるのですが、パーカッションをフルにつかったインパクトのある曲は、、シルベストリ版「ターミネーター」とも言える出来栄えでした。オーケストラの演奏は、サントラのようなタイトな音になりきれておらず、ライブとしては面白いけど、テンション上がるサントラの再現という意味では今イチかしら。

4、ナイト・ミュージアム(アラン・シルベストリ)
ファミリー向けCGコメディとしてよくできていた映画を、シルベストリは端正な音をつけました。ファンタジックでアクションっぽいところもあり、コミカルな味わいはさすがは職人芸だと感心。きっちりオケを鳴らしますという音作りはこういうコンサートに向いてるのかもしれないけど、でも、どっか地味かもって気もしちゃって。

5、007ムーンレイカー(ジョン・バリー)
今回のメニューの中で一番期待していたのがこれでした。映画自体は未見でしたけど、007が一番ド派手アクションに走ったいわゆるバブル期の作品だったので、大掛かりなアクション音楽を期待したのですが、意外とおとなしめの楽曲ばかりだったのが、やや物足りなかったです。音としてはおなじみのジョン・バリー節ではあるので、安心して聴ける音楽ではあるのですが、それ以上のものではなかったです。

6、ヒックとドラゴン(ジョン・パウエル)
CGアニメとしては評判がよかったですが、私は未見の一篇。前回のコンサートですごく評判がよかったのでその再演ですと紹介され、曲が始まると、なるほどオケをフルに鳴らす元気のいい音楽で、楽しい演奏になってました。飛翔するドラゴンを描写した音で盛り上がるところが印象的でした。

7、ラスト・サムライ(ハンス・ジマー)
東洋風味にジマーのドラマチックなハッタリが乗った、彼の曲の中でも比較的メジャーな曲ではあるのですが、演奏的にはあまり盛り上がらなかったのは不思議でした。

8、パイレーツ・オブ・カリビアン3部作(ハンス・ジマー、クラウス・バデルト)
娯楽大活劇の音楽で、オーケストラをフルに鳴らす曲で楽しい演奏ではあるのですが、どっか盛り上がりを欠いてるという印象を持ってしまったのが残念。聴いてる私が中盤息切れしちゃったのかな。

これで前半終了。15分の休憩の後、ジョン・ウィリアムス特集です。

9、スター・ウォーズ:エピソードⅣ:新たなる希望(ジョン・ウィリアムス)
スター・ウォーズの最初の作品から、戦闘シーンの曲が演奏されました。コンサート用という感じがしないめりはりの効いた演奏で大変聴きごたえがあって盛り上がりました。映画の編集のテンポが音を聴いているとよみがえってくるのですよ。映像のイメージがスコーンと湧いてくる感じが見事でした。

10、ポセイドン・アドベンチャー(ジョン・ウィリアムス)
ちょっと意外な選曲ではありましたが、パニック映画のはしりともいうべき作品にドラマチックで重厚な音をつけています。ただ、コンサート用にアレンジされているのか、フレーズの繰り返しが間延び感を感じさせるところがあって、そこはちょっと残念でした。

11、タワーリング・インフェルノ(ジョン・ウィリアムス)
1970年代のパニック映画の頂点のタイトル曲は、飛行するヘリをバックに流れる大変かっこいい盛り上がるもの。これかなり期待してました。構成的にはかなり長いタイトルをそのまままるまる再現していて、そこはマルだったのですが、演奏が今一つテンポに乗り切れていないというか、コンサートライブの限界を感じさせてしまったのが残念でした。サントラ盤だとタイトな演奏が、コンサートだとめりはりが発散しちゃう感じになることが時としてあるのですが、今回はそんな感じでした。

12、JFK(ジョン・ウィリアムス)
地味な選曲ですが、静かでドラマチックな曲はなかなかの聴きごたえでした。トランペットソロが前面に出てくるのですが、演奏のせいか、ホールの音響のせいか、ホーンセクションが前面に出る曲だと、ストリングスが聞こえなくなっちゃうのが気になりました。ホーンセクションも、音量で攻めてくる一方で、圧が足りないという印象で、ホーンセクションが鳴る曲の印象がみんな今一つに聞こえてしまいました。

13、世にも不思議なアメイジングストーリー(ジョン・ウィリアムス)
スピルバーグ製作のテレビシリーズのタイトル曲。テレビシリーズらしい、ミステリアスにこじんまりまとまった感じが、劇場映画のウィリアムスとは別の味わいで面白かったです。昔、彼はテレビシリーズを相当手がけていますから、彼にとって特別な仕事ではないのでしょうけど。

14、宇宙戦争(ジョン・ウィリアムス)
恐怖SFにウィリアムスが現代音楽風のとがった音楽をつけています。個人的に、曲としても演奏としてもこのコンサートのベストというべきもので聴きごたえがありました。明確なメロディラインが出てこないけど聴かせるあたりがウィリアムスの底力なのでしょう。

15、マイノリティ・リポート(ジョン・ウィリアムス)
近未来犯罪SF映画ですが、ここではアクションシーンではなく、ストリングスメインの静かな曲をチョイスしています。映画のイメージを表現した曲ではありませんが、こういう曲もあるんだよ的な面白さはありました。

16、BFG:ビッグ・フレンドリー・ジャイアント(ジョン・ウィリアムス)
実写とCGアニメを組み合わせたファンタジーですが、ここでは、カートゥーンを思わせるアクションにシンクロした音作りをしているのが面白く、フルートを4台使う編成の面白さもあり、色々と実験的な音楽になっているので、聴きごたえがありました。これ、彼が80歳過ぎてからの作品ですからね、まだまだ現役なんだなあって。

17、レイダース失われたアーク(ジョン・ウィリアムス)
ノンストップアクションの走りじゃないかあ。とにかく面白い活劇映画を大作として作ろうとした映画に、ウィリアムスはめりはりの効いたオーケストラ音楽で、ドラマを目一杯盛り上げました。コンサートでは活劇シーンからクライマックスの盛り上り曲を一気に鳴らして楽しませてくれます。おなじみレイダース・マーチも演奏されるのですが、そのパートが短いのが残念かな。

18、遥かなる大地へ(ジョン・ウィリアムス)
アイルランド移民のお話なので、アイリッシュサウンドから始まって、ドラマチックな音になり、西部劇風音楽に盛り上がるという構成が楽しく、楽曲として聴きごたえがありました。コンサートの最後にこの曲を持ってきたのは大成功でして、オーソドックスなウィリアムス音楽を堪能できました。

アンコール1、SAYURI(ジョン・ウィリアムス)
映画としてはあんまりメジャーとは言い難いし、テーマ曲も有名じゃないんですが、バイオリンソロをフィーチャーした曲を、聴いてみれば、これいいねって感じになる小品といったところでしょうか。短い曲でしたけど、ウィリアムス特集には入れてほしい1曲ってことになるのかな。

アンコール2、インディ・ジョーンズ魔宮の伝説(ジョン・ウィリアムス)
ラストはやっぱり盛り上げたいということで持ってきたのが、悪趣味系ドタバタ活劇のテーマ曲。ボレロ調の導入部から、フルオケへの盛り上げで、コンサートの締めに、十分な満足感をもたらすことに成功しています。

というわけで、色々とケチをつけちゃうところもあるのですが、ジョン・ウィリアムスのなかなか聴けない楽曲をライブで堪能できたのが、うれしいコンサートでした。ただ、あまりお客の入りはよくなくて、ホールの前の方は空席が目立っていたので、来年もこの企画をやれるのかとちょっと不安になっちゃいました。かつての、戦争映画音楽のコンサート「男たちへ」がお客の入りが悪かったのを思い出しちゃいました。こういう掘り出し物系映画音楽のコンサートをもっとやってほしいのですけど、やっぱりサントラってマニアのものなのかなあ。

「伊福部昭百年紀 VOL5」は怪獣映画ファンにはうれしいコンサートでした。

今回は映画ではなく、映画音楽のコンサートです。渋谷の大和田さくらホールで行われた「伊福部昭百年紀 VOL5」へ行ってきました。「ゴジラ」「座頭市」などの映画音楽で有名な伊福部昭の生誕百年を祝って、昨年から彼の映像作品の音楽をコンサートで演奏するという企画がありまして、そんお第5弾ということになります。私は、この企画のVOL1,3,4を聴きに行ってます。SF、ファンタジー系映画を中心に演奏されるのが楽しく、今回もそこそこの期待をして行きました。これまで、ずっとこの企画で演奏してきたオーケストラ・トリプティークの演奏で、松井慶太が指揮をしています。これまでのコンサートよりやや編成が小さいのかなという気もしたのですが、なかなかに聞かせどころを心得た演奏で、コンサートを堪能できました。ゲストとしてゴジラシリーズ中期の特技監督の中野昭慶監督が、「クレヨンしんちゃん」のムトウユージ監督とプレトークを行い。中盤では、「ゴジラ」「キングコングの逆襲」の主演者である宝田明氏のトークがあり、彼のためのハッピーバースデーをオケと客席が演奏するという趣向もあり、この企画のファンにはうれしいイベントのおまけもありました。

演目は以下の5つの組曲でした。

1、「PR映画」組曲
伊福部昭は、純音楽以外では、劇映画や記録映画、さらに舞台のための音楽を書いているのですが、その中には企業PR映画のための曲も書いているのだそうです。そのPR映画のために書かれた音楽をまとめて組曲にしているのですが、もとのPR映画がどういうものかわからないので、彼のモチーフ集として聞きました。ある意味、珍しい選曲ということもできるのでしょうが、他の映画で聞いたモチーフもたくさん登場するので、映画のイメージを知らないと楽しめないところもありました。何しろ、多作の伊福部昭の映画音楽では、同じモチーフを色々な映画で使っているので、その映画を知っていてこそ楽しめるものが多いのですよ。まあ、自作のモチーフの流用ということになるのですが、私は、映画の中で最大の効果を出すのであれば、そういうことをしても構わないと思っています。ただ、アメリカのジェームズ・ホーナーが自作の流用をするとバカにしたような評論をする人が多いのに、伊福部昭にはそういうイチャモンをつける人を見かけないのは、フェアじゃないなあって思っています。やってることは同じなのに、扱いが違うのは、映画音楽界ってのは権威主義なのかなあ。


2、「大魔神」組曲
1966年に大映で、「大魔神」シリーズ3作が公開され、3本とも伊福部昭が音楽を書いています。その3本の中の第1作の音楽を組曲にまとめています。第1作は本編演出もあって、時代劇映画としてのカラーが濃い作品なのですが、音楽はオープニングから、低音楽器をフルに鳴らして、スケールの大きな恐怖映画の音を作り出しています。クライマックスでは、低音楽器とパーカッションを中心にオーケストラ全体を鳴らす音づくりで、目いっぱいの盛り上げを聞かせます。編成が大きくないことで、個々のパートが団子状態にならずに、各々が明確に主張してくる演奏になっているのが見事で、このコンサートの中で最も聴きごたえのある一品に仕上がっています。これまで、聴いてきたコンサートの中では、オーケストラ全体を前面に押し出して鳴らすという演奏が多かったのですが、その演奏にこのオーケストラ規模がうまくマッチしていたように思います。(私は音楽とかオケにくわしくないですから、あくまで素人の感想ということでご容赦ください。)

3、「キングコングの逆襲」組曲
面白い設定で、キングコングを東京で暴れさせたという点はよかったのですが、善玉対悪玉の人間ドラマがあまり面白く弾けなかったので、映画としてはまあそこそこという感じの「キングコングの逆襲」の音楽を組曲としてまとめたものです。個人的には、ゆったりとした南国ドラミングから始まるスケールの大きいタイトル曲とコングとヒロインが絡むシーンの曲が好きなので、そこを楽しみにして聞きました。

で、ここで休憩。伊福部昭の映画音楽コンサートなのに、前半では、一切マーチ(実際にはマーチではなく、アレグロって言うんですって)が登場しないことにびっくり。マーチなしでも、聞かせるんですよ。演目の随所にオーケストラ全体をぶん回す聴かせどころがあったってこともあるんですが、ガンガン音が前面に出てくるのが楽しく、こういう音楽があったから、子供のころ、怪獣映画が楽しかったんだよなあって改めて納得しちゃいました。

4、「怪獣総進撃」組曲
東宝がゴジラ映画に終止符を打つべく作った怪獣てんこ盛り映画の音楽です。(まあ、これがヒットしてゴジラ映画は続くことになるんですが。)子供のころ、この映画のソノシートを持ってまして、その中のドラマのバックにタイトル曲や東京襲撃シーンの曲が流れるのを擦り切れるほど聴いてたものですから、懐かしさもひとしお。とはいうものの、前半の重厚なフルオケぶん回し音楽に比べると、怪獣総進撃マーチは曲調も演奏もどこかお行儀がいいというか、小さくまとまった感じがしちゃいました。なるほど、ハッタリを効かせる音だと、この編成のオケがいい方に作用するんだけど、きっちり整った楽曲だと編成の小ささがそのまま音に出ちゃうという感じなのかも。後、追加されたキーボードの音がコンボオルガンとは違う音色でしっくりこなかったのも残念。

5、「伊福部昭 百年紀」組曲
最後の曲は、今のところの最新作「シン・ゴジラ」の中で使われた伊福部昭の音楽のメドレーです。鷺巣詩郎が音楽担当してるのに、既成の伊福部の曲をあちこちで使い、何とクライマックスまで、伊福部サウンドにしちゃった音楽演出には、古くからのファンである私なんかな文句タラタラなんですが、逆にオリジナルを知らない世代には「かっこいい音楽」として好評なようです。個人的には「メカゴジラの逆襲」のテーマ曲が生演奏で聴けるのがうれしかったです。また、このメドレーには、「シン・ゴジラ」に使われていない「宇宙大怪獣ドゴラ」のマーチも入っているのですが、当初の予定では、この曲もクライマックスで使われる予定があったらしいです。ともあれ、最後の楽曲ということもあるのでしょうが、演奏にも力が入っていまして、「宇宙大戦争マーチ」から「宇宙大怪獣ドゴラマーチ」へ展開して、「怪獣大戦争マーチ」になり、最後を「ゴジラVSメカゴジラ」のテーマ曲で締めるところが大変盛り上がりました。音作りがコンサート用というよりは、オリジナルをかなり忠実に再現した演奏になっているのが、うれしい聞き物でした。

で、アンコールは「怪獣総進撃」のクライマックスか、最後の組曲の「怪獣大戦争マーチ~ゴジラVSメカゴジラテーマ」のどちらかを会場の拍手で決めるということになり、後者のフルオケぶん回しの盛り上げ音楽がアンコールとして選ばれたのでした。めでたしめでたし。

伊福部昭のSFファンタジー系の音楽は、この5つのコンサートで掘りつくした感があり、VOL6があるかどうかは、あまり期待できそうにありません。ただ、7/30に同じホールで「佐藤勝音楽祭」をやるんだそうです。山田洋次、岡本喜八、黒澤明作品の音楽に加えて、「ゴジラの逆襲」「ゴジラの息子」「ゴジラ対メカゴジラ」を演奏するんですって。どの程度お客さんが入るのか不安ですが、そういう企画をやってくれるのはうれしいです。でも、私は行かないかなあ。

「シンドバッド七回目の航海」はダイナメーションすごい、お姫様かわいい、シンプルでよくできてる。


先日、ブログの師匠pu-koさんの記事から、「妖婆 死棺の呪い」を観て、その素朴な味わいと豊富なイメージと視覚効果ということで、観たくなった映画が「シンドバッド 七回目の航海」でした。学生の頃、リバイバルされていて劇場で観る機会があったのですが、もう詳細は記憶の彼方。ブルーレイが廉価で入手したので、改めての鑑賞となりました。もともとの映画はスタンダードなんですが、このブルーレイはビスタサイズにトリミングされていたのはちょっと残念。とは言え、私が劇場で観たバージョンはスタンダードサイズの上下をトリミングしたシネスコサイズのバージョンでしたから、それに比べれば画面の蹴られは少ないのでした。

バグダッドの王子シンドバッド(カーウィン・マシューズ)は、チャンドラ国との平和条約を結びます。そして、チャンドラ国王の娘、パリサ姫(キャスリン・グラント)と婚約、彼女を連れてバグダッドへ戻る途中、水を食料を調達するために上陸した島で、巨人サイクロプスに遭遇、そこから逃げ出してきた魔術師ソクラ(トリン・サッチャー)を保護し、バグダッドへと帰ります。ソクラは、残してきた魔法のランプを取り戻すために船を出してほしいと、バグダッドの太守に直訴するのですが却下されます。すると、シンドバッドとの結婚を翌日に控えたパリサ姫に魔法をかけ、10センチの小人に変えてしまいます。ソクラがやったとは知らないシンドバッドは彼女を元に戻すためならなんでもするとソクラに申し出て、呪いを解く薬を作る代わりに、サイクロプスの島へ船を出すことになります。足りない船員は、死刑囚の中から集め、ソクラ設計のクロスボウを積み込んで、出帆するのでした。薬はソクラの邸で作るというので、ちっちゃくなったパリサ姫も同行することになります。しかし、囚人の船員が反乱を起こし、一度は船を乗っ取られるのですが、船は人の気を狂わせる悪魔の海に入り込み、そこでシンドバッドとソクラが形勢を逆転し、サイクロプスの島へと上陸します。姫をもとに戻す薬には巨鳥ロックの卵の殻が必要でしたが、そのためにはサイクロプスの住む谷を越える必要がありました。シンドバッドとソクラは二手に分かれて、ロック鳥の住処へと向かうのでした。

1958年のアメリカ映画です。ストップモーションアニメーションの名人として知られるレイ・ハリーハウゼンが立てた企画から、ケネス・コルブが脚本を書き、美術監督出身で「地球へ二千マイル」「妖怪巨大女」のネイザン・ジュランが監督しました。レイ・ハリーハウゼンのストップモーションアニメによる視覚効果は、ダイナメーションと呼ばれ、映画のメインタイトルでも、ダイナメーションという表示があります。人形のストップモーションアニメを実景と合成するもので、合成するためにブルーバッキングによるとラベリングマット合成や、リアプロジェクションが使われています。この映画はいわゆるB級映画として製作されたそうで、予算もそんなに多くないのですが、ストーリー、映像、音楽は後世に残るものとして、現代も語られているのですからすごい。

お話は、霧の中で船を進めるシンドバッドのシーンから始まります。その船にはチャンドラ国のお姫様が乗っていて二人は婚約してるという状況説明を、ちゃっちゃとさばくジュランの演出はなかなか見事。セットとかをたくさん作れないから、シンドバッドとパリサ姫の出会いとかチャンドラ国の様子は描かないで、船のセットから始めて、セリフに頼らない状況説明がうまいなあって新たな発見がありました。そして、島へ渡ったシンドバッドたちの前にサイクロプスが現れ、魔術師ソクラが魔法のランプを持って現れて、ランプの精ジニー(リチャード・アイアー)を呼び出して、バリヤーを作ってサイクロプスを防ぐのですが、逆襲してきたサイクロプスにランプを奪われてしまうのでした。ここで、うさん臭いソクラと魔法のランプを説明しきっちゃうのもうまい。なるほど、わかりやすくシンプルにお話を進めて、ダイナメーションの見せ場をどんどん見せようという作りが成功しているなあって感心。これが続編「シンドバッド黄金の航海」「シンドバッド虎の目大冒険」となるとストーリーが入り組んでくるので、この作品のシンプルな面白さが際立ってきます。

また、パリサ姫はシンドバッドにぞっこんの結構艶めかしい女性として登場するのですが、ちっちゃくなっちゃった後、メソメソしないで、元気一杯なのがドラマを湿っぽくせず、要所ではシンドバッドを助けたり、活躍するヒロインになっているのが面白かったです。また、魔術師ソクラは、慇懃無礼なところがある一方で実力もある悪役として丁寧に描かれていて、ドラマを支えています。一方のシンドバッドは絵に描いたような強い二枚目になっていまして、善玉悪玉が明快な作りは1958年の映画なんだなあって思わせる一方で、パリサ姫の元気キャラがこの映画のプラスアルファとしていい方向に働いています。

ハリーハウゼンのダイナメーションは、基本、人形のコマ撮りアニメーションなので、若干ギクシャクした動きにはなるのですが、その動きの見事さで、その辺の細かいところが気になりません。サイクロプスやドラゴンが、本当に、そこにいるかのような演出が施されていまして、動きの硬さは気にならないのですよ。「空の大怪獣ラドン」のクライマックスで福岡市が襲われるシーンでラドンの頭を支えるピアノ線がバレバレなんですが、ラドンのドラマに目を奪われて、そのピアノ線が気にならない(正確に言うと、見えてるのに見えない)のですよ。特撮のアラというのは、そのシーンが効果的に動いていれば、気にならないってことはあります。この映画でのコマ撮りアニメーションの弱点は、ハリーハウゼンのクリーチャーへの演出によってほとんど気になりません。ほんとに生き生きと動き回るクリーチャーの存在感が特撮のアラをカバーしちゃうのです。でも、CGを当たり前として育ってきた世代には、こういう映画はどう映るのか気になります。私の世代が「スーパー・ジャイアンツ」の特撮を観て、ちゃちいなあと思ったように、この映画を特撮レベルで切り捨てられちゃうのは残念だなあって気がします。(オヤジになって「スーパー・ジャイアンツ」を観たら、子供向け映画として結構面白く作られていたという発見があったのですが、それはまた別の話です。)

また、この映画が当時のB級映画としては、お金のかかるカラーで作られていたという点も特筆してよいと思います。衣装やセット、クリーチャーが華やかな色彩設計になっていて、大画面に映える色の美しさもこの映画の楽しさに大きく貢献しています。さらに、この映画を華やかにしているのは、バーナード・ハーマンによる音楽です。音楽学校の教材にも使われたというこの映画の音楽は、アラビアンナイトの世界を描写する中近東風の音楽に、活劇の要素を加え、場面によっては、フルオケで鳴らし、活劇シーンではパーカッションのみの音にしたり、クリーチャーをブラスで表現したりと、場面によって楽器編成を変えてダイナミックな音を聞かせてくれます。特に有名な骸骨とのチャンバラシーンの曲は、ブラスをパーカッシブに使い、さらに木琴とカスタネットを加えて、舞踊曲のようなタッチが見事にチャンバラとシンクロしています。この映画のサントラ盤は何度聞いても楽しい音で私の愛聴盤になっています。ネイザン・ジュランの演出は、物語の説明部分をコンパクトにまとめ、撮影の制約の多い特撮部分をたっぷりと見せて、かつ映像としての統一感を出すことに成功しています。それでも、合成カットは若干画質が荒れてしまうのはフィルムによる合成の限界でしょう。

ダイナメーションの見せ場としては、冒頭のサイクロプスの登場から、宴の場での魔術による蛇女、そして、ちっちゃくなったお姫様、さらに再度登場のサイクロプスに、ソクラの城の番犬ドラゴン、魔術による骸骨剣士、そして、クライマックスはサイクロプスとドラゴンの格闘シーンまであり、サービス満点の出来栄えはお見事。これが、ハリーハウゼンの他の作品や他のファンタジー映画に出てくる連中よりも、キャラクターが断然立っているのですよ。そのデザインのシンプルさもあり、動きの見事さもあって、この映画が他の映画とは違う一品として歴史に名を残しているのだと思います。未見の方には一見をオススメします。でも、どっちかというと1958年にこういう映画が作られたという映画史を知る意味でのオススメが大きいかも。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ちっちゃくなったお姫様が魔法のランプに入ると、そこにはランプの精ジニーがいました。彼は呼ばれたらその呼んだご主人の言う事を聞かなくてはいけないことになっていて、ずっとランプに閉じ込められていると、姫に言います。彼は自由になる方法と、ジニーを呼ぶ呪文を聞き出します。シンドバッドは、サイクロプスにつかまっちゃうのですが、姫の活躍で脱出し、ロック鳥の巣で卵の殻もゲットしますが、ロック鳥の巣に持っていかれちゃいます。そして、その隙にパリサ姫はソクラの城に連れ去られます。シンドバッドはランプの精を呼び出し、ソクラの城に案内させます。それはドラゴンに守られた洞窟の中にありました。ソクラはロック鳥の卵の殻を使って薬を作り、パリサ姫を元の体に戻し、ランプを奪い返そうとしますが、シンドバッドは船に戻るまでと拒否。するとソクラは魔術で骸骨を動かしてシンドバッドを殺そうとします。チャンバラの末、シンドバッドが勝利し、城を脱出しようとしたとき、ジニーが言っていた自由になる方法、火の中に放り込むというのをパリサ姫が思い出し、溶岩の中へランプを投げます。洞窟の出口まで来るとサイクロプスが襲ってきました。そこで門番のドラゴンを解き放つと両者は格闘となり、その隙に二人は脱出します。島の海岸まで逃げてくると、ソクラがドラゴンを連れて追いかけてきます。待機していたクロスボウを発射すると見事にドラゴンに命中。ソクラは倒れ込むドラゴンの下敷きになります。船に戻ったシンドバッドとパリサ姫の前にランプの呪いから解放されたジニーが待っていました。船室はサイクロプスが蓄えていた財宝でいっぱい。二人を乗せた船がバグダッドを目指すところでおしまい。最後のもう一回、コロムビア映画の自由の女神が出ます。

最後に、バグダッドへ戻ってからの二人の結婚式のシーンとかあってもよさそうなのに、そういうのを余計なものとしてカットして、バグダッドを目指す船のショットでおしまいというのもテンポの良いまとめと言えますし、描きたいところだけお金をかけるというB級映画のプロダクションとしてお見事ということも言えます。メイキングによると、バグダッドのシーンはスペインで撮影されたとのことで、セット撮影もスペインで行っているようです。とにかく、お金のかけどころを心得て、贅沢感のある映像が見事に華のある映画に仕上がっています。これは今観ても十分楽しいですし、映画史を知る意味でも観る価値のある映画だと思います。

「妖婆 死棺の呪い」はドラマチックじゃない民話調の語り口が楽しい素朴な味わい。


今回は、ブログの師匠pu-koさんの紹介記事にあった「妖婆 死棺の呪い」をDVDをゲットして観ました。1967年のソ連の映画なんですが、過去にテレビで放映されたことがあり、キネマ旬報のテレビで公開された映画の紹介記事を読んだことがあって、気になっていました。幼い頃、この話とそっくりな水木しげるのマンガを読んだことがあって、それもこの映画の興味につながっていたのですが、なかなか観る機会がありませんでした。今回、pu-koさんの記事を拝見して、それなら観てみようということになりました。

神学生のホマーは、学校が休みに入って、友人二人と旅に出ます。途中で夜になり、立ち寄った村の家に無理を言って泊めてもらいます。そこには、不気味な老婆が一人で住んでいて、寝ているホマーのところに老婆が現れて、彼に無言で迫ってきます。逃げようとするホマーの背中に乗る老婆、すると不思議なことにホマーの体は、老婆を背負ったまま空を飛んでいきます。着陸したホマーが老婆を棒でなぐりつけると、老婆は息も絶え絶えの美しい娘に変身します。ほうほうのていで大学まで逃げてきたホマーに、土地の名士からお呼びがかかります。瀕死の娘がホマーを指名して祈ってほしいと言ってるというのです。無理やり名士の家に連れていかれるホマーですが、既に娘は亡くなっていました。その娘とは老婆が変身した娘でした。名士はホマーと娘の関係をいぶかるのですが、とにかく教会で三日三晩の祈りをして欲しいと言い、それが無事に済めば大金をやるが、逃げたらただじゃ済まないと脅してきます。そこで仕方なく、ホマーは夜、教会で娘の遺体と二人っきりになります。チョークで聖なる円を書いて、その中で祈りの言葉を述べるホマー。すると娘が起き上がり、ホマーを探し始めます。円の中のホマーは見えないようで、いらだつ娘ですが、朝がやってきて、娘は棺の中に戻ります。二晩めの夜、目を覚ました娘の棺が教会の中を飛び回り、ホマーを探し回ります。髪が真っ白になってヘロヘロのホマーは、逃亡にも失敗、教会で最後の夜を迎えることになります。

ニコライ・ゴーゴリの原作を、アニメや特撮の名匠アレクサンドル・プトゥシコとコンスタンチン・エルショフ、ゲオルギー・クロバチョフが脚本化し、エルシェフとクロバチョフが監督し、プトゥシコが総監督として仕上げました。映画の冒頭で、「聞いた話をそのまま書き留めた」というゴーゴリの言葉がテロップで出ます。実際に、お話としては、論理性とか、因果関係がまるでわからない怪異譚になってまして、「遠野物語」のような民話的な味わいの濃いお話になっています。あの老婆は何なんだとか、本当の娘はどこへ行ったんだとか、後から理屈をつけても、意味のないことです。単なる不思議なお話は、全体を通した、どこかすっとぼけた語り口とうまくマッチしていまして、ドラマチックな要素がないことが、この映画を成功させていると思います。

主役のホマーは共感を呼ぶヒーローではなく、かなりいいかげんな不良神学生でして、そんなどこにでもいそうな若者が妖怪に目をつけられてひどい目に遭うというお話です。ホマーが禁忌に触れたとか、バチあたりな悪さをしたというわけでもないのですが、変な老婆にちょっかいを出され、空を飛び回らされ、逆襲したら娘に変身されちゃうという、まるで脈絡のない展開は、純粋に不思議としか言いようがありません。その後も、名士の娘が死の間際にホマーをご指名かけて、行ってみれば、死体が起き上がって襲ってくる。何の因果でというと、何の因果もなくて、たまたま妖怪に見初められちゃったのが運のつきというのは、理不尽だけど、それだけに作り話に思えないリアリティがあります。でも、こんな迷信そのもののお話が共産主義のソ連で作られたのは面白いと思います。

映画としては、カットによって映像のタッチが異なっていたり、ピントが合ってないカットがあったりして、技術的にどうなのってところもあるのですが、民話的なタッチがそんな稚拙な部分もありかなという気分にさせるから不思議です。合成カットで同じ人間を3人登場させたり、棺が宙を舞うシーンなどでも合成カットを使っているのですが、今の技術からすれば、つたなく見えちゃうところもあります。でも、それが素朴な感じで民話っぽく見えてきます。日本昔話で切り絵タッチのアニメを見せられると、何だか素朴っぽくていいなあって感じと同じで、今、観るから、この映画を民話として楽しめるというところがあります。CGばりばりのファンタジー映画を観ちゃった後だからこそ、この映画が余計目に楽しめるというのは、意外というか皮肉な発見でした。



この先は結末に触れますので、ご注意ください。



3日目の晩、聖なる円の中で聖書の祈りをとなえるホマーの前で、またしても娘は目を開きます。娘は吸血鬼や食人鬼といった妖怪たちを呼び出すと、教会のあちこちから妖怪たちがわらわらと現れます。それでも、円の中のホマーを見つけられない様子。娘は老婆に姿を変えてホマーを探し回ります。しかし、そこへ、ヴィーというドザエモンのテディベアみたいな妖怪が呼ばれてきます。ヴィーの重い瞼を持ち上げると、その眼にはホマーが見えるらしいのです。「ほら、そこにいる」というヴィーに妖怪たちは一気にホマーに襲い掛かります。そんな混乱の中で、朝が来て、妖怪たちは慌てて逃げ出すのですが、一部は逃げ遅れて教会にその屍をさらし、老婆はその姿のまま棺に横たわり、ホマーは息絶えていたのでした。

クライマックスの妖怪たちがぞろぞろ現れるシーンは、「妖怪百物語」や「センチネル」のクライマックスを先取りしたものとして、なかなかの迫力がありました。ホマーが死んじゃうのはびっくりでしたけど、そんな不思議な話でねという結末としてはありなのでしょうね。また、娘の死体が老婆になっちゃうってことは、結局、娘は魔女だったということになるのか、娘は魔女に体を乗っ取られていたってことになるのか、どう解釈しても筋道だてるのは無理みたいです。その理不尽さがこの映画の面白さなのでしょう。でも、伝説とか民話の世界にはそういう話もあるのでしょうね。「遠野物語」とか「まんが日本昔話」にも、そういうわけのわからない話がありましたもの。

で、このお話なのですが、私が昔、漫画雑誌(「少年キング」だったかな)に掲載されて、水木しげるの漫画に似ているのですよ。小学校低学年の頃の記憶なのであいまいなところも多いのですが、覚えているのは、若い僧が死んだ娘のために三日三晩の経を唱えることになるということ。夜になると娘がよみがえるが、魔法陣の中に入ってる僧を見つけることができない、最後の夜には妖怪が一杯現れる、その中の土精という妖怪のまぶたを持ち上げると僧の居場所がわかってしまう、僧は妖怪に襲われるがそのゴタゴタで妖怪たちは鶏の声を聴き損じて、日の光を浴びてミイラになってしまう、既に老僧となっている僧がそのミイラの由縁を語っていた、というところでしょうか。この漫画と映画はかなり共通点が多いことが今回確認できました。大きな違いは、水木しげるのマンガでは、主人公が死なないことでしょう。水木しげるは、海外の作品を自分のマンガに翻案していますが、このマンガは、原作を取り込んだのか、映画を取り込んだのか、どっちなのかしら。ともかくも、幼い頃からの疑問が一つ解決しました。ネットで検索すると、この水木しげるのマンガのタイトルは「死人つき」だそうです。

「戦場からのラブレター」は第一次大戦を生き抜いた女性の実録ドラマとして見応えあり、でも邦題はひどいよね。


今回は、日本では劇場公開されず、DVDスルーになった「戦場からのラブレター」をDVDをゲットしての自宅鑑賞となりました。そもそも、この映画を観ようと思ったきっかけは、ブログの師匠pu-koさんの記事を拝見したからでして、後、主演が旬のアリシア・ヴィキャンデルで、音楽がごひいきのマックス・リヒターで、DVDが1000円だったという3つの理由で食指が動きました。

1914年のイギリス、いいところのお嬢さんであるヴェラ(アリシア・ヴィキャンデル)は弟エドワード(タロン・エガートン)と友人のビクター(コリン・モーガン)と楽しい日々を送っていました。そして、ローランド(キット・ハリントン)と恋に落ちます。ヴェラは、大学に進んで物書きになりたいと考えていましたが、両親は彼女に幸せな結婚を望んでいました。そんな両親を弟が説き伏せ、ヴェラはオックスフォード大学を受験して見事に合格します。しかし、第一次世界大戦が始まり、大学進学予定だったエドワードもローランドも軍へ志願することになります。自分ののんきに勉強している場合ではないと考えたヴェラは自ら看護奉仕隊に志願し、ロンドンの病院で働き始めます。前線から休暇で戻ってきたローランドは、戦場での過酷な体験で我を失いかけていましたが、ヴェラはそんな彼を励まします。彼は、ヴェラに求婚し、次の休暇の時に結婚しようと約束します。そして、ヴェラのもとに彼がクリスマス休暇に戻ってくるという連絡が来るのですが.....。

ヴェラ・ブリテンの自伝的小説を原作に、ジュリエット・トウィディが脚本化し、テレビやドキュメンタリーで実績のあるジェームズ・ケントがメガホンを取りました。幸せな人生が待っていると思われたヒロインの前に戦争というものが立ちはだかるというお話でして、後年、ヴェラ・ブリテンは平和主義者としての活動を続けたのだそうです。両親がちゃんとしていて、弟も優秀らしく、弟はヴィクターを姉の彼氏と考えていたのですが、後から現れたローランドのことをヴェラは好きになり、二人はお互いに愛し合うようになります。それでもロンドンで二人きりのデートはできなくて、叔母さんが同行するという珍妙なデートシーンが登場します。これを見ても、彼女がいいところのお嬢さんらしいことが伺えます。DVDの解説だと、彼女の家は中流階級だと説明されているのですが、日本の中流とはかなりレベルの違う中流だと申せましょう。

二人が愛し合うようになるのと同時に国際情勢はきな臭くなっていき、ヴェラが大学に合格する頃には、イギリスはドイツと戦争状態となります。エドワード達も学業に励んでいる状況ではないと軍に志願していきます。エドワードも父親の大反対にあうのですが、ヴェラも一緒になって父親を説得します。戦争ってどういうものかという実感もなく、すぐに終わるだろうからという何の根拠もない言葉で父親を説得するヴェラ。しかし、戦争はどんどん拡大していき、ローランドもフランスへ出兵し、当初は弱視で不合格になっていたビクターも兵士として戦場へ旅立っていきます。そうなるとヴェラも勉強している場合じゃないと思い始め、従軍看護士としてまずロンドンの病院で働き始めます。休暇でロンドンに帰ってきたローランドに再会すれば、戦場で人格が壊れかかっています。この映画は、戦場とか野戦病院の状況が描かれますが、「プライベート・ライアン」のようなリアルなグロ描写はありません。そこを物足りないと感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、ドラマ重視の演出になっていまして、インパクトのある映像でドラマが霞まないようにしていると解釈しました。ともあれ、そんなローランドを励ますヴェラですが、彼女もこの時点では戦争そのものへの嫌悪感を持っているわけではありません。しかし、戦争は、ヴェラから色々なものを奪っていくのです。

「エクスマキナ」のロッド・ハーディの撮影が美しく、シネスコの大画面の引きのショットは映画館で観たいなあって思わせるものでした。やっぱり、家のテレビだと、映像のよさは半減、というか、よくわからないのですよ。この絵を劇場の大画面で見たらきれいなんだろうなあって想像しても、想像力だけでは補えきれないものがあります。やはり、映画は劇場で観ないと絵のよさはわからないというのを再認識させられました。マックス・リヒターの音楽は、幸福なヴェラのシーンで美しい旋律を聞かせ、後半の戦争に突入してからも、上品なタッチを崩さないで、ドラマの統一感を支えています。

後年の彼女は、平和主義者として活動したそうなのですが、ラスト近くで登場する政治討論会(みたいの)のシーンで、彼女が敵味方の問題ではなく戦争そのものがいけないことではないかという趣旨の発言をして、労働者階級の人々から「何、こいつ?」みたいに見られてしまいます。前線の野戦病院で、ドイツ兵の看護もした彼女からすれば、戦争の当事者でない銃後の人間が、戦争の勝ち負けを一喜一憂するのは、戦争の本当のところを知らない人々ということになるのでしょう。でも、銃後の人間をそういう括りで、ある意味見下してしまうのはいかがなものかとも思ってしまいました。政府のプロパガンダを真に受けて、充分な情報もないまま、肉親の死傷と、戦争の勝利のみを突きつけられたら、ヴェラのような見解を持つのは難しいでしょう。そう考えると、労働者階級の人々にとって第一次大戦というのはどういう戦争だったのかというところに興味が出てきました。一方で、戦争そのものの負の側面を小説として世に問うたヴェラ・ブリテンの功績も認めたいところです。現代は、情報化社会になって、市民がどういう情報を知っているのか、与えられているのかということの重要性が強く認識されるようになりました。単に、戦争賛成だから愚かであるとか、戦争反対だから左翼だとか、単純な決めつけはしない方がいいね、という世の中になってきました。今だからこそ、情報操作の視点から、この時代のお話を見直してみるのも意味のあることではないかと気づかされる映画でもありました。

演技陣はみなツボを押さえた演技で、当時の空気感を出すことに成功しています。アリシア・ヴィキャンデルは、今の活躍が納得の、力強いヒロインぶりが見事でした。戦争に翻弄されながらも我を失わない強さに説得力がありました。また、彼女の両親をドミニク・ウェストとエミリー・ワトソンが演じてまして、彼らもそういう世代になったんだなあってのにちょっとしみじみ。ヒロインを囲む男性陣の品の良さを感じる好演でドラマをささえています。ヴェラのことをずっと好きだったんだけど、ローランドと愛し合う彼女によき友人として接しようと努めるヴィクターを演じたコリン・モーガンが、そのいい人ぶりで泣かせます。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



クリスマス休暇でローランドの帰ってくる日に、彼の訃報が届きます。鉄条網修理中に狙撃されたそうで、苦しまずに死んだと言われるのですが、その後、ヴェラがその隊にいた兵士を探し出して話を聞くと、被弾後、何時間も苦しんで死んだのだと知らされます。ビクターは負傷して視力を失って、ヴェラのいる病院に運び込まれ、ヴェラは彼に一生付き添いたいと言いますが、ヴィクターはそれを笑顔で断り、数日後に帰らぬ人となります。弟のエドワードはフランスへ送られ、ヴェラも志願して、フランスの野戦病院の勤務につきます。重傷者たちが運び込まれる血生臭い仕事の中で、戦地を移動したエドワードが彼女のいる病院に運び込まれます。ヴェラは必至で看護して、エドワードは一命を取り止め、再び戦場へと向かうのでした。そして、彼女は実家へと連れ戻され、家事を取り仕切ることになりますが、再びロンドンの病院で働き始めます。そこへ、エドワード戦死の報が届き、彼女は、愛する弟、愛し合った人、彼女を愛した人全てを失ってしまいます。そして、終戦、彼女は大学へ戻りますが、戦争で傷ついた彼女の心は閉ざされたままでした。そんな彼女を後輩の学生が彼女の心を開き、新しい人生へと歩み出すのでした。おしまい。

戦争が愛し愛される者みんなを奪ってしまうという展開ですが、ラストでそれでも彼女は立ち直って、新しい人生と向き合うという結末は、悲惨なお話の中の希望となり、後味は悪くありません。波乱万丈のドラマを、2時間強の中できっちと語りきったジェームズ・ケントは職人的うまさを見せました。ヒロインに愁嘆場を演じさせなかった演出も、ドラマに骨太な味わいを加えていて、背筋を伸ばしたヒロインの成長談として、見応えのある映画に仕上がっています。それだけに、映画館で観たかったよなあ。

「ディーモン 悪魔の受精卵」の「神のお告げ」殺人の一つの答えとして面白いスリラー


最近、買った「新世紀SF映画100」という本の中で、「ディーモン・悪魔の受精卵」という映画が紹介されていたのですが、そういえば、この映画のDVDを買ったまま、まだ観てなかったなと気づいて、ようやっとの鑑賞となりました。廉価版のDVDで画質もよくないのですが、製作・脚本・監督がラリー・コーエンというところで食指が動いてゲットしたものです。

ニューヨークの白昼、発生した銃乱射事件。貯水塔の上にいる犯人の説得に刑事のピーター(トニー・ロー・ビアンコ)が向かいます。乱射犯の学生は「神に言われてやった」と言って、自殺します。そして、パレードの最中、行進中の警官が無差別発砲します。この警官も撃たれて死ぬ間際にピーターの前で「神に言われてやった」と言います。他の事件でも、神のお告げで人を殺したという男が現れますが、ニューヨーク市警はこのことを隠蔽しようとします。ピーターは科学記事の記者に情報を入れて、「神のお告げ」連続殺人事件をニュースにします。一方でピーターは乱射犯の学生が事件直前に一緒にいたというバーナード・フィリップス(リチャード・リンチ)という若い男を追います。フィリップスの家を訪ねるとその母親に殺されそうになったりしますが、処女懐胎で生まれたというフィリップスの正体はつかめません。ピーターには離婚調停中の妻マーサ(サンディ・デニス)と、つきあって3年になる愛人のケイシー(デボラ・ラフィン)が、その関係は清算できていませんでした。そして、怪しげな組織の男がピーターに接触してきます。どうやら、ピーターは特別な選ばれた人間のようなのです。そして、「神のお告げ」連続殺人の真相とは?

テレビの「インベーダー」「刑事コロンボ」の原案、「悪魔の赤ちゃん」「空の大怪獣Q」などで知られるラリー・コーエンが製作、脚本、監督を手掛けた1976年の超自然スリラーの一編です。このコーエンと言う人は、私には「セルラー」「フォーンブース」という電話を使った面白いサスペンス映画の脚本を書いた人として要注意なんですが、この人が監督した映画としては、その昔レンタルビデオで出ていた「スペシャル・イフェクツ」「パーフェクト・ストレンジャー」といった映画を借りて観ているのですが、監督作品はそれほど面白いかなあレベルのものでした。この映画も監督もやっているのでどんなものかなあと、期待そこそこで臨みました。

冒頭は、町中での給水塔という高い場所からの銃乱射シーンで、実際にあった事件をなぞった作りになっています。駆け付けたピーターが給水塔に登って、犯人を説得しようとしますが、犯人は「神に言われてやった」と言って塔から飛び降りてしまいます。同じような無差別殺人が連続して発生、犯人は「神に言われてやった」といって死んでいくのです。これは何か宗教的な動機があるのではないかと思わせるのですが、ニューヨーク警察は市民の動揺を恐れて、それを公にしません。映画の中盤では、「神のお告げ」連続殺人事件という記事が新聞に載ると、同様の模倣犯が現れる始末で、こういうネタは扱いが難しいという状況が描かれます。

一方で、捜査の中でバーナードという謎の若者の存在が浮かび上がってきます。ピーターが訪ねると母親がナイフで襲い掛かってくるのですが、階段から転落死。死体を調べると処女だったということで、バーナードは処女懐胎で生まれたのではないかということになってきます。そして、お話は謎の組織に映ります。オヤジたちが会議室で何やら相談しているのですが、彼らは神のよる指示で動いているようなのです。そして、その組織の一人がピーターを呼びつけて、神に協力するようにと言いますが、ピーターは拒否。すると組織の男は急に苦しみだして絶命。神は遠隔的に人を殺す能力があるみたいです。そんな神なるものが、連続殺人をプロモートするというのはおかしな気もするのですが、組織の会議で、神への恐怖で社会を支配するなんてことが語られまして、ちょっとだけ納得。でも、神と呼ばれるものはどうやら実在して、世界支配を企んでいるみたいなのです。やることがせこいのか、でかいのかよくわからない神なんですが、人を簡単に殺せるくらいのパワーがあるから、人間にとっては厄介な神様のようです。

映画はここから、アラアラな展開となりまして、そう来るかという決着がつきます。神様ってこういう奴なんだぜってのいうのを見せてくれるというと、大体想像がついちゃうかもしれませんけど、そんな感じです。今となっては、それほど目のつけどころが新しいわけではありませんが、映像イメージの斬新さと、低予算ながらの見せ方のうまさで、小さな予算ででっかい話を作り出すのに成功しています。善玉悪玉両方こなすトニー・ロー・ビアンコがミステリアスな役どころを好演しているほか、デボラ・ラフィンの美貌が拝めるのがうれしい映画でもあります。彼女、ほんときれいなのに日本で公開された映画が少ないんですよね。



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組織の男と会った後、地下鉄でもう一人の組織の男と遭遇します。彼は、神がいるという地下の焼却場へと連れていきます。そこには光り輝く中に何やら男の姿が浮かび上がります。どうやら、そいつがバーナードであり、神であるらしいのです。ピーターは焼き殺されそうになって、その場から逃げ出します。さらに処女懐胎の事件があったことを知ったピーターは、その老婦人を訪ねます。若いときに大きな船のような中に拉致され、そこでふわふわと宙に浮いているうちに処女懐胎したというのです。その時の回想映像が登場するので、ああ、これは、宇宙人のアブダクションだと観客は気づくことになります。超自然スリラーだと思っていたら、SFだったのです。そして、その処女懐胎で生まれたのが、ピーターだとわかります。ピーターは、妻と愛人が一緒にいる場所に向かい、二人に別れを告げ、再度、バーナードの住んでいたビルを訪れます。そこには、光り輝く中に神であるバーナードがいました。神は、ピーターは優性遺伝子を持っていたので人間に近く生まれたのだと言い、イエスもモーゼも同じように生まれたのだと言います。バーナードは劣性遺伝子で、二人で新しい人類を作ろうと、服をまくりあげると、彼の腹には女性性器のようなものがぱっくりと口を開けていました。ピーターはバーナードを殴りつけ、その首を絞めると、建物が火を噴いて崩れ始めます。ピーターは命からがらビルから逃げ出しますが、バーナードは炎に包まれるのでした。そして、ピーターはバーナード殺害に容疑で逮捕され、警察署の前で、取材のマイクを向けられます。「なぜ、殺したのか?」「神がそう言ったから。」ピーターの顔のストップモーションとなって暗転、エンドクレジット。

主人公が、ラストでバーナードに会う前に、ヤクザのもとを訪れ、そこで念力(←呼び方がよくわからない)を使ってヤクザを自殺させてしまいます。彼にも、神と同じく人を殺す力があったのです。結局、神は宇宙人であり、処女懐胎した神の子は、宇宙人によって誘拐された女性が受胎した結果生まれた宇宙人と人間のハーフだったというのです。映画の中では、神となる宇宙人は姿を見せないので、神が宇宙人だと断定はしてないのですが、アブダクションとインプラントによって受精した処女から生まれたピーターやバーナードが超能力を持っていることは明確に語られていまして、映画の回想シーンの宇宙船のイメージからも、まあ宇宙人が神だと言ってるようです。解釈次第では、タイムマシンでやってきた未来人が神ということもできますから、そのあたりは曖昧です。でも、神は人間と異なる遺伝子を持った生命体だと断言しているわけでして、そこは神の存在を否定した映画と言えそうです。

そういう神の存在を疑うドラマを、ニューヨークの一角で作ってしまったというところが、小さな予算ででっかい話ということになります。聖書と突き合わせると、ピーターの妻と愛人の存在も別の意味が出てくるのかもしれませんが、そこのところはよくわからないので省略。どっちかがマグダラのマリアになるのかなくらいで勘弁してください。全体としては、スリラータッチなのですが、フランク・コーデルの音楽だけはドラマチックにガンガン鳴ってまして、コーラスも交えて宗教音楽らしさを出しています。狂信的な人間が、「神のお告げ」で人を殺すという事件は実際に起こっていることを考えると、その中には、単なる人間の狂気だけでなく、こんな裏話があるのかもしれないと思わせるところはうまいと思いました。

「未知空間の恐怖 光る眼」は説明しきらない分、観客の想像力に恐怖をかきたてます。


今回はpu-koさんのブログで紹介されていた「未知空間の恐怖 光る眼」をDVDで追っかけ鑑賞しました。ごひいきジョン・カーペンターの「光る眼」のオリジナルなので、興味があったのですが、観るきっかけがなくって、ようやっとの鑑賞となりました。

イギリスの片田舎ミドウィッチの村で突然、村人や動物が意識を失って倒れてしまいます。連絡が取れなくなったのを不審に思った軍隊が向かうのですが、ある境界線を越えると意識を失い、ガスマスクをしても防げないという不思議な状況に手の出しようがありません。しかし、数時間後、また突然に村人も動物も目を覚ましました。村人のゼラビー博士(ジョージ・サンダース)も自分に起こった事の説明ができません。その後、村の女性全員が妊娠していることがわかります。それも、意識を失っていた時期に妊娠したというのです。博士の妻アンセア(バーバラ・シェリー)も妊娠を喜ぶ一方で、覚えのない妊娠に自殺を図る娘も出てきます。そして、通常より早い臨月から生まれた赤ん坊はみな普通より成長が早く、また、眼が光ると、人間を思い通りに動かすという特殊能力を持っていました。みるみるうちに成長した子供たちはみな金髪で光る眼を持ち、集団で行動し、村人から薄気味悪がられていました。博士は、彼らの知能の高さに驚き、研究の対象と考えていましたが、政府は、何とかしなければいけないと思っていました。ロシアでも、同じことが起こり、子供たちを軍で制圧しようとして失敗し、核ミサイルを撃ち込んで村ごと消滅させていました。人間の心を持っていないように見える子供たちと何とか心を通わせようとする博士ですが、果たしてうまくいくのでしょうか。

ジョン・ウィンダムの「呪われた村」を原作に、「タワーリング・インフェルノ」のスターリング・シリファントが脚色し、さらにジョージ・バークレイとウルフ・リラが加筆した脚本を、ウルフ・リラがメガホンを取りました。ジャンルとしてはSFホラーということになるのでしょうが、わざと詳細を説明しきらない構成が観客のイメージを膨らませる映画に仕上がっています。原作だと、宇宙人がミドウィッチの女性を妊娠させたということが明確に書いてあるそうなのですが、映画では、そのあたりから曖昧でして、村全体がある時間だけ一斉に昏睡状態になり、その後、女性たちが皆妊娠していたという事実のみが描かれるのですが、その理由ですとか因果関係はよくわからないまま物語は進んでいきます。なるほど、この程度の説明でも、観客には何が起きたのかが伝わるのだなあって感心しちゃいました。ただ、何のために子供たちが生まれたのかはわかりませんし、意識を共有する子供たちが、自分が何者なのか知っているのかどうかも不明です。3年ほどで、小学生くらいにまで成長し、集団で行動し、村でみんなをビビらせています。そりゃそうだ、普通の人間の発育じゃないし、眼が光ると人間をコントロールしちゃうし、今や、人間の心を読めるようになっているようなのです。このあたりのスリラー演出は、見た目は普通だけど、全員金髪で目が怖い子供が並んで道を歩いているだけで、ぞっとさせる怖さを運んでくるのが見事です。

どうやらわかってくるのは、集団昏睡の時間に女性たちに何者が受胎させたということ。そして、それは普通の子供じゃないということ。しかし、その出自は最後まではっきりしません。どうやら宇宙人が侵略してきたらしいということを匂わせるのですが、でも侵略の目的も方法も曖昧なままです。ただ種の異なる何者かが村に入ってきて、無言の力で村を牛耳ってしまうという見せ方はかなり怖い。そもそも侵略というのも当たっていないような気がします。でも、彼らのような子供が増えて、世界中がミドウィッチ村みたくなったら、それは人類にとって大きな脅威です。子供たちの正体がよくわからない故に底が見えない恐怖が伝わってくるあたりの演出はうまいと思いました。全てを説明しきらないけど、何か怖いことが起こっているというのを表現した脚本の功績かもしれませんが、SF色は弱めながら、ホラー色のかなり高い映画になっています。こういう感じのホラーSFはあまりなく、今観ても新鮮で、よくできた娯楽映画としてオススメ度高いです。



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金髪の子供たちは教会に集められ、ゼラピー博士が経過観察をすることになるのですが、そこへ村の男たちが松明を持って、彼らを殺そうとやってきます。しかし、男たちのリーダーは、子供の光る眼に我を失い、松明を落として火だるまになってしまいます。ゼラビー博士も事がここに及んで、彼らと意思の疎通をし、共感を得て、共存する道が不可能だと確信するようになります。博士は時限爆弾を持って、子供たちのいる教会へ向かいます。頭の中ではレンガ塀のことだけを考えるようにして、子供たちから心を読まれまいとする博士。子供たちはその心の壁を壊そうとします。レンガ塀が壊れてその先の時限爆弾が見えた時、教会は大爆発を起こし、燃え盛る教会の絵に「ジ・エンド」。

ジョン・カーペンターのリメイク版で、スクリーンにレンガ塀の絵が出てきて、何だこれはと思ったのですが、オリジナルの演出だったとは知りませんでした。子供たちに心を読まれないようにするために、レンガ塀のことだけを考えるというのを映像化していたとはなかなか見事な演出だと感心しちゃいました。とにかく、博士が子供ごと吹っ飛んじゃってお終いなので、結局、子供たちが何を考えて何をしようとしていたのかは不明なままのが、不気味な余韻を残します。見た目は似ているけど、人間とは種の異なる子供たちが、人間とどういう関係を築こうとしていたのかは、リメイク版の方ではもう少し説明があって、優秀な種が劣等な種を駆逐するとか、それが進化なのだと、子供たちは怖いことを言います。この映画では、そこまでは語られないのですが、彼らは自分たちを受け入れる里親を要求します。そして、家族を作っていくことで、新しい種を増やそうとしているのかなと匂わせる程度なのですが、その程度の奥ゆかしい見せ方の方が説明しきらないだけに余計目に怖い後味を残します。そういう意味では、この映画は、観客の想像力に働きかけて怖がらせる映画だと言えましょう。映画史に名を遺すだけのことはある映画です。

「ローラ殺人事件」は殺人ミステリーに恋愛映画としての面白さもあり、小品のようで見ごたえ十分。


部屋を整理していたら、未開封の500円DVDが出てきました。タイトルは「ローラ殺人事件」。監督は「バニーレークは行方不明」のオットー・プレミンジャーではありませんか。これはチェックしなくては。まあ、500円だけあって、画質ははっきり言って悪いです。アカデミー撮影賞を取った映像を堪能するには至りませんでしたけど、これはこれで楽しめました。

有名なデザイナーであるローラ・ハント(ジーン・ティアニー)が、金曜日の夜、自宅で散弾銃で惨殺されてしまいます。警察のマクファーソン刑事(ダナ・アンドリュース)が捜査のために関係者に事実聴取をしています。ローラを一流の女性に育てた有名な批評家ウォルド(クリフトン・ウェッブ)は、ローラが若いシェルビー(ヴィンセント・プライス)と婚約したことを苦々しく思っていました。婚約者のシェルビーはローラがいるにもかかわらず広告モデルのダイアンと浮気をしていました。ローラの叔母アン(ジュディス・アンダーソン)は、シェルビーに金を与え、彼の気を惹こうとしていました。それぞれに怪しいところはあるのですが、ローラを殺したとする決め手に欠けていました。ローラの家には、彼女の肖像画が飾ってありました。聞き込みによるローラの人柄とその美貌が、マクファーソンの心を捕えたのか、彼はその絵を購入しようとしていました。事件は犯人の決め手を欠いたまま、月曜の夜を迎えます。彼女の家では、マクファーソンがローラの日記や手紙などを調べつつ、犯人につながるカギを探そうとしていました。

1944年の映画ということですから、日本で言う戦時中の映画ということになります。ヴェラ・キャスパリーの原作を、サム・ボッフェンステイン、ジェイ・ドラットラー、ベティ・ラインハートが脚色し、「バニーレークは行方不明」「危険な道」のオットー・プレミンジャーが監督しました。前半は殺人事件の捜査もののように展開しながら、だんだんと被害者のローラという女性の存在感が増していき、彼女のヒロインの映画として収束していくというお話は、今なら2時間ドラマのネタになりそうなミステリーなんですが、ジーン・ティアニーの魅力と、ダナ・アンドリュースの刑事の扱いの面白さで、今でも劇場で鑑賞するに足る映画として成り立っています。

マクファーソンのウォルドに対する聞き込みで、殺されたローラという女性がどういう人だったのかというところが見えてくるのが前半でして、広告デザイナーとして、ウォルドに広告コメントを強引に求めてくるキャラとして登場するローラが、ウォルドの目に止まったことで、彼のセンスや人脈を味方につけて、広告業界でのし上がっていきます。でも、ウォルドは、嫉妬深くて、ローラの肖像を描いた画家が彼女に接近するとその画家を批評でこてんこてんにけなしたします。次に、彼女に接近してきたシェルビーに敵意を見せるのですが、シェルビーはローラと婚約し、来週には結婚すると言い出すのです。そこで、ウォルドはシェルビーについての調査書を見せて、こいつはこんな奴だぜ、さらにモデルのダイアンとか、ローラの叔母のアンとも関係があるんだぞと言って、結婚を思いとどまるように説得します。それが功を奏したのか、アンは週末に実家でじっくり考えると言っていたのですが、その夜に殺されてしまったのでした。ローラを演じるジーン・ティアニーが自立しているようで、どこかかよわげなところもあるヒロインぶりで魅力的でした。才能もあって押しの強さもあるヒロインだけに、現代だともっとタフなキャラになりそうなところを、どこか守ってあげたい感じに描かれている、その今風でないところが魅力があるというべきかしら。ファム・ファタール的な展開にもなるのですが、悪女でも蓮っ葉でもないヒロインぶりは、運命の女というのとは一味違う感じがします。複数の男心を翻弄するヒロインだけど、ワルじゃないってところは、原作や脚本に女性が参加しているせいかもしれません。

最初は狂言回し的なポジションだったマクファーソン刑事がドラマの中心になっていくあたりは意外性がありましたし、被害者として登場するローラの存在感がドラマの展開とともに増していくあたりはうまいなあって感心しちゃいました。プレミンジャーの演出は、何で前半で彼女のキャラクターを丁寧に説明するのかと思っていると、きちんと彼女がドラマのヒロインとなっていくあたりの手際が見事で、ミステリーとしても、一風変わったラブストーリーとしても見応えのあるものに仕上げています。また、デビッド・ラクシンによる、この映画のテーマ曲がなかなか有名で、色々な歌手が歌詞をつけてカバーしているんですって。私もこの映画のタイトルテーマを聞いたとき、どこかで聞いたメロディだなって思いましたから、映画音楽としてメジャーな曲なのでしょう。



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捜査の間にいつしか、ローラを愛するようになっていたマクファーソン刑事。死人に恋なんて変態じゃねえ?ってなるところですが、ローラの家で、彼女の肖像画を見つつ、うとうとしていた彼の前に突然死んだ筈のローラが現れます。実際に彼女は実家に帰って、シェルビーとの結婚について考えていたというのです。そして、彼女は自分の家のクローゼットにダイアンの服が入っているのを発見します。どうやら、犯行時間に、留守になっていたローラの家に、シェルビーとダイアンが入り込んでいたようなのです。そして、散弾銃で殺されたのはダイアンだったのです。散弾銃を顔面に食らい、ローラの部屋着を着ていたことから、ローラが被害者のように思われていたのです。ローラからシェルビーとの結婚は思いとどまると聞いて、顔につい笑みが出てしまうマクファーソン。それでは、ダイアンを殺したのは誰なのか。マクファーソンは、ウォルドの家の時計に隠し物入れがあるのを見つけ、ローラの家に同じ時計があることから、そこを開けてみると、散弾銃が隠されていました。嫉妬に狂ったウォルドが、ローラを殺すために彼女の家に行き、そこで間違えてダイアンを殺してしまったのです。それを確信したマクファーソンはウォルド逮捕に向かうのですが、ウォルドはローラの家に隠れて、再度ローラを殺そうと銃口を彼女に向けます。危機一髪のところで、逃げ出したローラは、戻ってきたマクファーソンの腕の中に逃げ込み、ウォルドは他の警官に撃たれて絶命するのでした。おしまい。

それまで、死んだと思っていたローラが突如マクファーソンの前に現れる展開には意外性がありました。まあ、これはジーン・ティアニーのスターバリューを私が知らないからかもしれません。知った人が見れば、タイトルトップのティアニーが死んだままでいることはあり得ないってことになるのかもしれません。それからが面白いのですが、そんなローラがマクファーソンに恋するようになっちゃうのですよ。後半の物語のツイストの後から、突然、ローラとマクファーソンが恋愛関係になり、お互いが少しずつ自分と相手の気持ちを確認しあうのを、短い時間の中でちゃんと見せるのには感心しちゃいました。別れ際に二人がキスするシーンの妙な説得力は、現代の映画では出せない味わいだと思います。ローラを、男を乗り換えてばかりいる尻軽女みたいに見せない演出もうまいと感心しちゃいました。ローラは惚れっぽいタイプだけど、男運がない女性という描き方になっていまして、果たしてマクファーソンと結ばれるのがハッピーなのかどうかは怪しいものなのですが、ミステリーの落とし方としては、これはありだと思いました。

いかにも堅物刑事として登場するマクファーソンが、いつしかローラを、それも死んでる彼女を愛するようになるという倒錯した愛情が、どんでん返しによって、今度は、刑事と容疑者の立場を超えた恋愛模様となり、彼女の無実が証明されるラストで、初めて二人がキスを交わすなんてあたりは、ひねった恋愛映画としても、きちんと成立していました。意外性のあるミステリー映画としてもきちんとしていますし、普通の映画の倍のネタを取り込んで、1時間半弱の映画にまとめているってのは、すごく完成度の高い映画ではないかしら。登場人物が少ないにもかかわらず、犯人探しミステリーのテイストもきっちり作り込んでありまして、ヒチコックの映画や「バニーレークは行方不明」のようなケレン味はないものの、娯楽映画としての点数はかなり高いと思いました。

「サスペリアPART2」は映像がきれいなのが好き、殺し方はえげつないけど。


このところダリオ・アルジェント初期作品をビデオで観てきたので、ここで、その集大成と呼ばれる「サスペリアPART2」をBDをゲットして観ました。でも、昔ゲットしたDVDと同じ画質なのでがっかり。この映画は映像の美しさが命なんだよ、金返せー。と、まだ無駄遣いをしてしまいました。

ローマでピアニストをしているイギリス人のマーク(デビッド・ヘミングス)は、ある晩、街を歩いていると、酔いつぶれた友人のカルロ(ガブリエル・ラヴィア)を見かけ、話をした直後、悲鳴を聞いて、女性が窓の前で殺されるのを目撃します。急いでその女性の部屋へ向かい、女性を助けようとしますが、犯人は姿を消しており、女性は殺されていました。殺されたのはヘルガという霊媒師で、殺される前に心理学会の場で、何か邪悪な存在を認識し、それを書き残すはずだったのですが、その文書は犯人によって持ち去られていました。現場に現れたジャンナ(ダリア・ニコロディ)と知り合いになるマークですが、ある夜、ピアノの前で作曲中のマークの家を何者が訪れます。子供の子守歌を聞かせて、近づいてくるのを、寸でのところでドアに鍵をかけると、その何者かは「お前も殺す」と脅して去って行きます。自分も狙われていると知ったマークは、ジャンナの協力を得て、事件の調査を始めます。ヘルガの知人の心理学者ジョルダーニから、子供の子守歌の聞こえる家について書かれた本があると聞き、その著者の家に向かうのですが、その著者は、先回りした犯人によって惨殺されていたのでした。その著書にある、家の写真から、問題の家を探し当てたマークは、その家に忍び込み中を調べると、そこには驚くべき秘密が隠されていたのでした。

「サスペリア」「インフェルノ」のダリオ・アルジェントがベルナルティーノ・ザッポーニと共同脚本を書いて、メガホンも撮った、ジャーロ映画の頂点と言う人もいるくらいの評価の高いスリラー映画です。ローマのイギリス人マークが連続殺人に巻き込まれてしまうというお話でして、ラストで意外な犯人が現れるのですが、実はその犯人が映画の前半で顔を見せているという映画としてのトリックが話題にもなった作品でもあります。ミステリーというには、フェアな展開ではないのですが、殺しのシーンに趣向を凝らし、尺をたっぷりと取って、殺人シーンを見せ場にしていて、それが見ごたえがあるのがすごいというか、そういう映画なんです。1980年代に「13日の金曜日」以降に殺人シーンを見せ場にしたスラッシャー映画が流行るのですが、その先鞭をつけたとも言えます。まあ、1970年代のイタリアのジャーロ映画では、残酷な殺人シーンを見せ場にした映画がたくさんあったそうですから、パイオニアというわけではないようですけど。

学生の時、映画館でこの映画を観たときにすごく印象的だったのは、絵がきれいだったこと。クリアだけど潤いのあるシネスコ画面に残酷な殺人シーンが登場するのが大変インパクトがあった一方で、殺人シーン以外の絵は絵画を思わせる美しさもあって、この映画の撮影を担当したルイジ・クベイレルの名前はいやでも覚えてしまいました。ロングの絵とアップの絵の組み合わせも面白く、特に引きの絵の美しさは、血生臭い連続殺人とは対照的で、そのコントラストも見事でした。また、日本公開にあたっては、4チャンネルステレオ音響にするにあたり、オリジナルにない「ドカーン」「ビシャーン」といったショック演出の効果音をつけて、さらに観客を驚かそうとしています。さすが、東宝東和配給というべきでしょうか。当時の東宝東和は映画に色々なギミックをつけてお客さんを呼び込もうと頑張っていました。また、この映画自身も殺人シーンにギミックをほどこしていまして、なぜか子供の子守歌のテープを犯行前に必ず流すですとか、殺人前に人形が首つりにされていたり、機械仕掛けの人形がケタケタ笑いながら歩いて来たりと、何でそんなことする必要があるのと思うのですが、それによって殺人シーンが盛り上がるのですよ。アルジェントにもある東宝東和魂と言ったら、ファンの方には怒られちゃうでしょうね。

また、殺人シーン以外でも、オープニングの心理学会のシーンですとか、ゲイで飲んだくれの友人カルロですとか、問題の屋敷の管理人の不気味な娘ですとか、気になるアイテムを放り込んで、まがまがしい雰囲気づくりをしています。また、犯人の一人称カメラですとか、手とか目だけがアップになった犯人は映画の冒頭から登場し、犯人の存在感を示します。映画が犯人によって回っているという印象づけは、その分、主人公のマークの存在感を薄めてしまうことになるのですが、その演出がこの映画には、うまく作用したようです。姿なき殺人犯がドラマを引っ張るという構成は、アルジェントの「歓びの毒牙」「4匹の蠅」にもあった趣向なのですが、それがより顕著になったのがこの作品と言えそうです。

また、この映画では、音楽が大変有名になり、サントラ盤はベストセラーといたとなりました。音楽を担当したのジャズ畑のジョルジョ・ガズリーニと、プログレッシブロックのゴブリンです。テーマ曲や殺人シーンの曲は、ゴブリンによるものなので、ゴブリンの単独作品と思われがちですが、オーケストラによる劇伴音楽や、子守歌のテーマ、またゴブリンが演奏している曲の一部はガズリーニによるものです。(サントラ盤でも、A面はゴブリンの曲、B面はガズリーニの曲になっています。)テーマ曲は、チューブラーベルズの影響を受けているスリラーというよりはホラー映画の音楽に近いもので、キーボードとベースによるアルペジオから、ドラマチックに転調していくのが聴きものです。



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本の著者が殺された現場を訪れたジョルダーニは、そこにダイイングメッセージがあることに気づきます。浴室の湯で湯気があふれると鏡にメッセージが浮き上がったのです。しかし、そのジョルダーニも家で犯人の襲撃に遭い、殺されてしまいます。一方、子供の子守歌が聞こえる家が写真と変わっていることに気づいたマークは、夜、もう一度その家に向かいます。消えた窓があるところの壁を壊してみるとそこには死体が隠されていましたが、そこでマークは何者かに殴られて意識を失います。ジャンナに助け起こされたマークは、問題の屋敷が火に包まれているのを目にするのでした。屋敷の管理人の家に電話を借りに行ったマークは、そこの不気味な娘が屋敷にあったのと同じ絵を描いているのを見つけ、問い詰めると学校の資料室でその絵を見たというのでした。それは男が血を流し、子供がナイフを差し上げている絵でした。そこで、深夜の学校の資料室に忍び込んだマークとジャンナは問題の絵を見つけます。しかし、ジャンナはナイフで刺されてしまい、現れたカルロがマークに銃を向けるのですが、警察が現れ、カルロは逃走します。しかし、逃走中にトラックのフックに引っかけられたカルロは、トラックに引きずられ、最後は車にひかれて死亡。しかし、最初の殺人で、カルロと別れた直後に殺人現場を目撃したことを思い出したマークはもう一度、第一の殺人現場を訪れます。そこで、彼は現場の絵が何か変わっていたことを思い出します。それを確認すると絵と思っていたのは鏡でした。最初に現場に来た時、マークは鏡に映った犯人の顔を観ていたのでした。そして、そこに真犯人のカルロの母親(クララ・カラマイ)が現れます。カルロが子供の頃、夫から精神病院に行くように薦められていた彼女が、クリスマスの夜、カルロの前で夫をナイフで刺し殺していたのです。マークと母親は格闘になりますが、母親のネックレスがエレベーターに挟まったのをみて、マークはエレベーターのスイッチを入れると、ネックレスの鎖が母親の首を締め上げて、最後には切断。血の海にマークの顔が映っている絵でエンドクレジット。

要は、過去を知られたくないカルロの母親が、それに気づいた、もしくは関わった人間を手あたり次第に殺していったというお話でして、まあ、精神的におかしくなっちゃった人の行動なので、整合性が取れないのは仕方ないのかなってところに落ち着きます。絵だと思ったのが鏡で、最初の殺人シーンでマークが犯人の顔を見ていたというのは、事実でして、最初の殺人シーンを見直すと確かにカルロの母親の顔が画面に映っているのですよ。なかなか挑戦的なトリックを使っているなあって気がします。カルロの母親も映画の中で何度か登場してくるので、突然ラストで現れたキャラでないところはうまい采配だと思います。また、ラスト近くで、カルロが犯人だと見せるあたりは、ジャンナも怪しいかのような見せ方をしているので、二転三転の面白さがありました。この映画、双葉十三郎氏の「ぼくの採点表」では「☆☆★」しかもらえていなくて、かなり評価は低いのですが、視覚的なうまさと音楽は結構いい線いってると思う、好きな映画の一本です。ドラマとして一本筋が通っているのかというと、視覚聴覚を優先した結果、物語としての説得力は今一つではあるのですが、こういう見せ方の映画もあっていいかなって思う次第です。

「4匹の蠅」は、まずミムジー・ファーマーがきれいなサイコスリラー。


録画したままになっていた映画の中から、ダリオ・アルジェント監督の初期スリラー「私は目撃者」と「4匹の蠅」を観ました。どちらも連続殺人事件の謎を追ったものですが、「私は目撃者」はアルジェント自身がボロクソに言ってることから、今回は「4匹の蠅」を取り上げることにします。「私は目撃者」は2時間ドラマレベルの内容で、盲目の元記者と姪っ子の少女が事件に巻き込まれるという面白い趣向があるにもかかわらず、映像的にも演出的にも今一つの観がありました。「4匹の蠅」は「歓びの毒牙」からつながるサイコな犯人による連続殺人ものでして、ちゃんとそれなりの理由をもった狂った犯人の犯行という、「歓びの毒牙」から「サスペリアPART2」につながる流れの1本となっています。

ドラマーのロベルト(マイケル・ブランドン)は、金持ちの奥さんニーナ(ミムジー・ファーマー)と平和に暮らしていたのですが、ある日、彼は、自分を監視する帽子にサングラスにコートを着た髭の男がいることに気づきます。仕事中も移動中もずっとその男がつきまとってきます。仕事終わりに帰ろうとすると、そこにまたあの男がいます。ロベルトはその男を追っていくと、無人の劇場に入り込みます。そして、男を捕まえて詰問すると、何のことだ、俺は知らんと言い張り、さらにナイフを持ち出します。男とロベルトがもみ合っているうちに、男がナイフで刺され奈落へ落ちていきます。と、そこでカメラのフラッシュが焚かれ、何者かに殺人の証拠写真を撮られてしまいます。家に帰って、友人たちのパーティの後、その殺人シーン写真がレコードの間に挟まっていました。翌日の新聞には、身元不明の死体が発見されたという記事があり、さらに、彼のもとに殺した男の身分証が送られてきます。どうやら、写真を撮った人間はロベルトの身近にいるようなのです。彼は友人のディオ(バッド・スペンサー)に相談し、探偵ジャンニ(ジャン・ピエール・マリエール)を紹介してもらいます。探偵は独自の捜査で、犯人に近づくのですが、結局、殺されてしまいます。一体、誰がロベルトを罠にはめたのでしょうか。

「サスペリア」のダリオ・アルジェント、「スター・クラッシュ」のルイジ・コッツィ、マリオ・フォグリエッティの共同原案を、アルジェントが脚本化し、メガホンも撮ったサイコスリラーの一編です。何者かの罠にはまり、殺人現場を撮影された主人公が追い詰められていくというお話でして、主人公のロベルトという男があまり共感できるキャラクターになってなくて、むしろ奥さんのニーナの方の感情移入してしまう展開は、この手のサスペンスとしては意外な感じがしました。何しろ、人を殺しておいても、何だか被害者ヅラしているってのは、あまりいい印象が持てないですもの。さらに、奥さんのいとことねんごろになっちゃうのは、ヌードのサービスのつもりかもしれませんけど、ロベルトってろくなもんじゃないなって印象しか残りませんでした。それでも、退屈しないでお話についていけるのは、犯人側の描写をうまく小出しにして興味をつないでいくからでして、子供の頃、精神病院に入れられていた回想カットが挿入されるなどで、どこか精神に異常を来たした犯人だということが見えてきます。

その犯人の見せ方で、アルジェントは思い切ったことをやっていまして、冒頭で、犯人のサングラスとひげをつけた顔を画面にはっきり見せています。ですから、気がつく人なら「あ、こいつは」ってわかっちゃうかもしれません。そういう犯人の顔を映画の前半で見せてしまうという趣向は、「サスペリアPART2」でその発展形が見られるのですが、アルジェントの、ああいうことをやりたいんだなってところが透けて見えるところが面白いと思いました。タイトルである「4匹の蠅」というのは、後半の殺人の被害者の網膜に最後に映ったものを取り出して、犯人を探ろうという展開があり、その網膜に映ったものが「4匹の蠅」だったということで、これはなかなか面白い趣向だと思いました。ただ、4匹の蠅の映像が出てから、犯人が特定されるまでが呆気なさすぎたのは、勿体なかったような。

フランコ・ディ・ジャコモの撮影は、ロングとアップのコントラストでスリリングな絵作りをしていまして、謎解きよりも雰囲気重視のスリラーになっています。屋根裏部屋に逃げ込んだ女性が殺されるシーンでは、ホラー映画の演出になっていまして、階段を落ちていく被害者のカットは「サイコ」からのいただきになっていたのではないかしら。また、エンニオ・モリコーネの音楽は、美しいテーマと前衛的な音楽の組み合わせで、事件の異常さを適格に描写していました。

犯人は、異常者なんですが、そうなっちゃったのにはそれなりの理由があるというのがミソでして、犯人にとってのトラウマがあるきっかけで、殺意に変わって異常な殺人に手を染めるというのは、なるほどそういうこともあるのかなって気がします。しかし、トラウマに直結しない人間も、自分が犯人だとばれないようにするために次々に殺していくことになると、うーん、それってポリシーがずれてないかという気もするのですが、この映画では、それを主人公をさらに追い詰めるためにやっているという言い訳をつけて説明しています。まあ、それほどまでに、主人公に恨みのある人物の犯行ということになるわけですが、その理由が理不尽なところが、犯人が異常だという所以でして、精神的におかしくなった犯人による連続殺人という流れになるわけです。日本の2時間ドラマだと、大体は連続殺人事件ですが、その犯人には、人殺しをする同情すべき動機があるわけですが、やっぱり理不尽な殺人という見せ方をしていまして、精神に異常を来たした犯人というのはまず登場しません。むしろ、異常者を犯人にしちゃうのは、ドラマとして安直になっちゃうという印象があります。しかし、1970年ごろのイタリア映画には、異常者の犯人が多かったようです。このあたりはお国柄の違いなのか、時代の流行なのかはわからないのですが、精神分析的な映画があちらでは色々と作られたことは事実のようです。ロベルトが、サウジアラビアでの断首の処刑の夢を何度もみるあたりですとか、犯人の動機が明らかになるところに、精神分析的な要素が、この映画にもあります。



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劇場で殺されたと思われていた男は、おもちゃのナイフで殺されたふりをしていただけでした。しかし、その男も真犯人によって殺されてしまいます。また、真犯人に気づいて、金を強請ろうとした、ロベルトの家の家政婦も遊園地で殺されます。家政婦が殺されるシーンは、結構な尺をとって凝った映像と演出を見せ、殺しのシーンを見せ場にすることに成功しています。そして、さらに犯人にきづいたいとこも、ロベルトの家で殺されてしまいます。覚悟を決めたロベルトは家で真犯人を待ち受けていると、そこへ現れたのは、妻のニーナでした。ニーナの胸に蠅の模様の入ったペンダントがあり、それがゆれて、4匹の蠅となって、いとこの網膜に残っていたのでした。ニーナは父親から男の子のように振る舞うよう強制され、父親の意向に沿えないと彼女を精神病院へ送り込み、彼女を徹底的に精神的に追い詰めていたのです。父親の死後、病院を退院するのですが、その恨みは消えず、父親にそっくりなロベルトに出会ったことで、彼女の復讐のストーリーに火がついたのでした。ニーナは、とにかく父親の化身であるロベルトを徹底して苦しめて殺そうとしていました。ロベルトの腕と足を撃ち、とどめを刺そうとした時、ディオが現れ、ニーナはその場から逃走します。そして、車を走らせるニーナの前に突然現れたトラックを避けきれずに追突し、ニーナの首がすっ飛んで、車が炎上したところでエンドクレジット。ニーナがトラックに突っ込むシーンはスローモーションで描かれていて、そこにまた映像的なこだわりを感じさせるものでした。

父親に復讐するために、そっくりさんのロベルトと結婚したというところはリアリティがないのですが、論理性よりも、殺人シーンを面白く見せたいという演出なので、まあ仕方ないのかなという気もしますし、ミムジー・ファーマーがきれいなので、そのあたりでモトが取れた気分になってしまいました。この映画の、殺人シーンをさらに見せ場化し、犯人を見せちゃうトリックを強化したのが、「サスペリアPART2」になるわけで、そこへ至る過程の映画として観ても、なかなか面白い映画です。1本の映画として観てみれば、サイコスリラーとして、なかなか面白くできていまして、マジメなドラマだと思わなければ、ケレン味を楽しむ映画として、こういうのもありかなって気がしました。

「歓びの毒牙」はダリオ・アルジェントの初監督作として観るとなかなか面白い。


録画してあった映画を整理していたら、ダリオ・アルジェント監督の初期スリラー「歓びの毒牙」が出てきたのでチェックしてみました。

アメリカ人作家サム・ダルマス(トニー・ムサンテ)は、恋人ジュリア(スージー・ケンドール)とアメリカへ帰る予定でした。その頃、町では若い女性ばかりが3人連続して殺害される事件が発生していました。ある夜、町を歩いていたサムは、画廊の中で男女がもみ合っているのを目撃し、かけつけるのですが、ガラス張りの内扉と外扉の間に閉じ込められてしまいます。画廊の中では、女性が刺されて苦しんでいました。やがて警察が来て、刺された女性モニカ(エヴァ・レンツィ)は助け出されます。彼女は画廊の主人ラニエリ(ウンベルト・ラオ)の妻でした。サムは犯人を目撃していたことから、モロシーニ警部(エンリコ・マリア・サレルノ)から何度も尋問を受け、パスポートも取り上げられて出国できなくなります。サムは自分の目撃したものに何か不自然なものを感じていましたが、それが何なのかわからないこともあって、自ら事件の捜査に乗り出します。しかし、次の犠牲者が出て、さらにサム自身が命を狙われることになります。最初の犠牲者が勤めていた古美術商で、彼女が殺される日、女性が殺される図を描いた絵が売れていたことを知り、その絵が事件に関係あるとにらむのですが。

「サスペリア」のダリオ・アルジェントが脚本を書いて、監督もした連続殺人もの、いわゆるイタリアのジャッロ映画の1本ということになります。彼のとっての監督デビュー作でもありました。撮影は当時はまだ新鋭のヴィットリオ・ストラーロ、音楽はエンニオ・モリコーネが担当し、かなり映像スタイルに凝った映画に仕上がっています。「サスペリアPART2」にもつながる、黒手袋黒コートの殺人鬼が登場し、作り声で不気味なメッセージを送ってくるという趣向もこの映画で出来上がっていたことを知ることができます。

映画のオープニングでは、黒手袋、黒コートの殺人鬼が登場し、タイプで次の殺人プランを打ち、何本もあるナイフの中から、1本を選び出すシーンが登場します。そして、タイトルバックでは次の犠牲者となる女性が盗撮されているストップモーションのカットが続きます。私はジャッロ映画には詳しくないので、映画の冒頭から犯人が登場するというのは、よくあるパターンなのかどうかは知らないのですが、なかなかにインパクトがありました。シネスコサイズの画面は、画面の黒味をうまくつかって印象的な絵を切り取っています。

オープニングの画廊での犯人と被害者がもみ合うシーンは回想カットで何度も登場します。さらに、牧場のようなところで、女の子が男に刺されている絵も何度も登場し、それが何か事件のカギであるようです。ミステリーとしては、フェアとは言い難い展開なんですが、サイコキラーと思しき連続殺人犯が犯行を繰り返すスリラーとしては大変面白くできています。警察とサムに犯人から電話がかかってくるのですが、その二人が別人だったという謎、そして、サムへの電話のバックで何かがきしむ音が聞こえるというこれまた謎。いろいろな謎を散りばめながら、それらをきちんと刈り取るアルジェントの脚本は快調で、謎が謎を呼ぶミステリアスな展開もマルでして、結末の意外性も、この先のアルジェントの映画を彷彿とさせるものがあります。

1968年の映画ですが、その頃の映画らしい色彩と画面設計が独特な世界観を作っていまして、今の映画とは違う映像が却って新鮮に感じられるところもあり、ジャッロ映画ってジャンルがあったんだと知ることもでき、色々と発見のある映画でした。エンニオ・モリコーネの音楽も、ジャズタッチの音から、女性コーラスや喘ぎ声を交えた音楽で、どこか非現実な世界を作り出しています。モリコーネの映画音楽にはこういう前衛的なものがかなりありますが、それが非現実なサイコスリラーの中で大変効果的に機能して、犯人の異常性を表現しています。



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サムの友人が、犯人の電話のバックで聞こえるきしみ音の正体をシベリアに住む鳥の鳴き声であることに気づきます。それは、動物園の奥で1羽だけ飼われていたのですが、その近くに画廊の主人ラニエリの家があったのです。サムやジュリアが警察と一緒にラニエルの家に向かうと、ラニエリと妻のモニカがナイフを持ってもみ合っていました。警官と格闘になり窓から落下、今わの際に自分が犯人だと告白するのでした。その騒動の最中に、ジュリアと友人が姿を消していました。ジュリアを探して、その跡を追ったサムはとある部屋へたどり着きます。そこには、問題の絵が飾られていて、友人の死体がありました。ベッドの下にはジュリアが縛り上げられていたのですが、サムは気づきません。そこにあらわれた黒ずくめの男、その正体は、犠牲者だった筈のモニカだったのです。彼女は完全にくるっていました。サムは事件で不自然に感じたことを思い出しました。それは、女の方が男(ダンナのラニエリ)を刺そうとしてたのでした。その場を逃げ出したサムですが、画廊に出てしまい、そこの彫刻の下敷きになってしまいます。モニカは笑いながらナイフでサムを刺そうとしますが、そこへ警部が現れて、彼女を取り押さえます。縛られていたジュリアが警察に電話していたのでした。そして、テレビで精神科医がこの事件を説明しています。モニカは、10年前に変質者に襲われたことがトラウマになっていました。例の絵は、その事件にインスパイアされて描かれたものだったのです。その絵を古美術商で見かけたことから、そのトラウマが呼び起され、異常な犯行に及んだというのです。夫のラニエリはそれを知って止めようとしていたのでした。そして、アメリカ行きの飛行機に乗り込むサムとジュリアが映って、エンドクレジット。

過去の犯罪の被害者が、ある出来事をきっかけに異常な犯罪者になってしまうというお話で、精神分析的な要素が入っているのがミソということにもなりますが、その精神分析は、異常な殺人を説明するための方便でもあると言えましょう。しかし、犯人のトラウマが殺人に走らせるというものは、「サイコ」など山ほどあるわけで、イタリアではそのジャンルの映画が特にたくさん作られているようです。この映画はその1本として、結構面白くできていると思います。特に画廊での犯行のシーンの思わせぶりな見せ方(アングル、編集)には、それなりの凝った趣向が感じられました。

「トールマン」は幼児失踪の都市伝説を題材にして見応えあり。


夏場といえばホラー映画ということで、以前から気になっていた「トールマン」のBDをゲットしました。予告編や紹介記事ではどういう展開になるのか想像がつかなかったというのと、ジェシカ・ビール主演ということで食指が動きました。

シアトルから車で2時間のコールドタウンという寂れた田舎町では、子供の失踪事件が連続して発生していました。町では、子供をさらうトールマンがいるという都市伝説が真しやかに囁かれていました。そんなある日、亡き夫の後を継いで、診療所を開いているジュリア(ジェシカ・ビール)のもとに、知り合いの若い娘キャロルが運び込まれてきます。どうやら、流れ者との間にできた子供が臨月になっていたのです。逆子で生まれてきたのですが、ジュリアのおかげで無事に産声をあげることができました。家に帰るとベビーシッターのキャサリンが息子デビッドの面倒をみていました。そしてその夜、ジュリアが台所へ行くと、そこにはキャサリンが猿ぐつわを噛まされて転がっていました。そして、黒ずくめの男がデビッドを抱えて、家を出ていくのを発見。トラックで逃げようとする男をジュリアは追いかけて、トラックの後ろに飛びつきます。止まったトラックから男が降りてきたのですが、格闘の末、縛られてトラックの荷台に放り込まれます。それでも、縄をほどいて、運転台の男と格闘になります。トラックは横転して停止、そこから這い出してきたデビッドを、男が抱き上げて、いずこへと連れ去るのでした。後から気がついたジェシカは足跡を追うのですがそれは森の中に消えていました。道路でうずくまっているジェシカをシアトル警察のドッドが発見し、町のダイナーへ運び込みます。果たして、ジェシカはデビッドを無事に見つけることができるのでしょうか。

グロスリラー「マーターズ」で一躍有名になったフランスのパスカル・ロジェが脚本を書き、メガホンを取ったスリラーの一遍です。アメリカでは、1年で80万件発生する子供の失踪事件のうち、1000件が手掛かりのないまま迷宮入りになっているんそうで、そんな事実から、イメージを膨らましたお話になっています。昔は炭鉱で栄えた山の中の田舎町で、子供の失踪事件が頻発しているところから映画は始まります。子供をさらうトールマンがいるという噂が町の中に流れていました。いかにも寂れた町のたたずまいとか、そこでトレーラーハウスで暮らす人々が登場し、貧しさに満ちた景気の悪そうな町です。冒頭で運びこまれる娘キャロルの妹ジェニー(ジョデル・フェルランド)は、言葉はわかるのですが、自分からしゃべらない変わった子供ですが、ジュリアには心を開いていました。そんなある日、デビッドが黒服の男にさらわれてしまいます。ジュリアが犯人を追跡するシーンはなかなかにスリリングでして、トラックを追跡して、その後ろに飛びついて引きずられるところから、車内での格闘シーンなどは、アクション映画並みの畳みかけが見事でした。夜間シーンでも見やすい映像を切り取ったカマル・ダーカウイのキャメラも映画館で観る絵を作り出していました。夜の森の中でも、閉塞的でない、広い空間を切り取る構図になっていて、その落ち着いた絵作りは、安っぽいホラーとは一線を画す品の良さを感じさせました。

怪我をして道路にうずくまっていたジュリアは、町のダイナーに運び込まれるのですが、そこの女主人の部屋には、失踪した子供の写真を貼った祭壇があり、その中にデビッドの写真も入っていました。それを見て、その場を逃げ出すジュリアですが、ダイナーにいた町の連中は、彼女が逃げたことを知って、総出で彼女の捜索を始めます。ジュリアは、パトカーの後部座席に忍び込んで、ダイナーを脱出するのですが、パトカーは以前の炭鉱施設の前で止まります。そこには誰かいるみたいで、ジュリアが中に入っていくと、そこに現れたのは、誘拐されたデビッドでした。デビッドの誘拐の背後には町ぐるみの陰謀があったのでしょうか。

ロジェの演出は、ヒロインの目線に寄り添いながら、ミステリアスに展開します。子供の失踪の裏に、何か多くの人間が関わる陰謀があるかのような見せ方になってくると、都市伝説以上のものを感じさせます。トールマンなる都市伝説が実体を持った黒服の男として現れて、さらにそのバックに町の住民がいるらしく、警察も一枚噛んでいるとなって、孤立無援のヒロインが息子を探すというサスペンススリラーになってきます。そして、映画はさらにその先で、トールマンの意外な正体を観客に突き付けてきます。



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デビッドを追いかけたジュリアは不意に現れた黒服の男に殴られて、気を失います。黒服の男の正体は、息子が失踪して精神的におかしくなっていたジョンソン夫人(コリーン・ウィーラー)でした。そして、デビッドはジュリアの息子ではなく、ジョンソン夫人の失踪した息子で、ジュリアが洗脳して、実の母親の存在を忘れさせていたのでした。彼女は、息子を探して町の中を彷徨っていたときに、ジュリアの家に自分の息子がいるのを目撃します。夫人は、ダイナーの主人に相談し、息子を奪還することを告げ、もし息子がいなかったら自分を精神病院に入れてくれと告げて、ジュリアの家に向かったのでした。町のみんながダイナーでジョンソン夫人を待っていたら、ジェシカが運び込まれてきたのでした。夫人は、ジュリアを椅子に縛り付けて、なぜそんなことをしたのか問いただそうとしますが、隙を見てロープを外したジュリアは夫人を殴りつけて、デビッドを連れて家の帰ります。明け方になり、警官隊がやってくるとデビッドは姿を消していました。家の地下室を見ると、そこは地下に張り巡らされた大きなトンネルにつながっており、子供の捜索は困難な様子。大規模な捜査が行われましたが失踪した子供は発見できず、逮捕されたジュリアも真相を語りません。すると、今度はジュリアと仲のよかったジェニーが何者かによってさらわれてしまいます。さらった男は、ジェニーを老婦人に引き渡します。老婦人は、ジェニーに新しい名前と裕福な暮らしを与えます。そして、ジェニーは全ての事情を呑み込んだ上で、新しい自分として暮らすことを決意するのでした。

ジュリアは誘拐した子供を裕福な家庭へ斡旋していたのですが、それは金儲けのためではなく、貧困な家庭で貧しいまま一生を終える子供に新しい人生を与えたいからやっていたようなのです。そして、誘拐された子供たちはジェシカに洗脳されて、与えられた新しい自分を受け入れるようになっていたのでした。ただ、ジェニーだけはジュリアに洗脳されていなかったので、全てを承知の上で、人生の選択をしていたのでした。

それまで、ジュリア目線で展開していたドラマが実はジュリアが誘拐犯だったとわかるあたりはびっくりでした。このどんでん返しが映画の中盤であって、後半は、まったく状況が変わった中でドラマが展開していきます。ジュリアは、現代社会の中で、生まれによって人生がほぼ確定してしまうことに義憤を覚えていたようなのです。だからと言って、親から子供を誘拐すること自体は犯罪でして、ジュリアはそれを正当化することはせず、最後まで口をつぐんだままでいます。不遇な生まれの子供を裕福な家庭に渡す活動の是非はこの映画は語られず、スリラーの形式で、こんなことがあったらどうする?という見せ方になっているのは、問題提起としては面白いと言えますが、映画としては後味がすっきりしないので、エンタテイメントとしては減点ということになるのかも。と、言いつつ、この映画面白かったでした。前半のスリリングな活劇調から、後半は静かな人間ドラマへと変わるのも、意外性がありましたし、そのどちらのドラマもきっちりと作ってるので、映画としての評価は高いです。ごひいきのジェシカ・ビールも、確信犯としての誘拐犯を存在感ある演技で演じ切りまして、女優としての実力を見せてくれてまして、彼女のおかげで、ドラマの見ごたえが増したように思います。

「バニー・レークは行方不明」は当事者不在?のミステリーとしてはかなりの上出来。


今回は、本やネットの噂が気になっていた「バニー・レークは行方不明」のDVDをゲットしました。女の子が行方不明になるんだけど、その先に「ゴーン・ガール」にもつながる展開があるとか、期待するところ結構あったのですが。

アメリカからイギリスへ引っ越してきたアン(キャロル・リンレー)は、雑誌記者の兄スティーブン(ケア・デュリア)の上司の家に身を置いた後、アパートに引っ越すことになり、保育園に娘のバニーを預けに行きます。先生がいなかったことから、待ち合わせ場所の「1日目の部屋」へ子供を置いて、料理人の女に言づてをして、引っ越し荷物の受け取りのために新居へと移動します。そして、保育園の終わる時間に迎えに行ってみれば、バニーはおらず、保育園の先生の誰もそんな女の子は見ていないと言います。アンは、スティーブンを呼んで園の中を探し回るのですが、見つかりません。通報を受けた警察のニューハウス警視(ローレンス・オリヴィエ)が捜査を開始するのですが、アンがアメリカから来たばかりで、バニーを見た人間が誰もいないことから、本当にバニーが存在するのかを疑い始めます。一方、不慣れな土地で娘が行方不明になったアンがウソを言っているようにも見えません。果たして、この事件はどういう決着がつくのでしょうか。

イヴリン・パイパーの原作を、ジョン&ペネロープ・モーティマーがラストを変えて脚色し、「或る殺人」「危険な道」のオットー・プレミンジャーが監督しました。引っ越した先のロンドンで、保育園に置いてきた4歳の娘がいなくなります。娘を誰も見ていないというのです。自分の子供がいなくなったのに、その子供を見た人間がいないというと「フォーガットン」ですとか「フライト・プラン」といったサスペンス映画を思い出します。もし、周囲がみんな自分をだましていない限り、自分の方がおかしい、存在しない子供をいなくなったと騒いでいるのは自分の方ではないかという不安が生まれてきます。「フォーガットン」や「フライト・プラン」は、母親の視点から物語が進むので、母親の不安に感情移入しながら、ドラマが進んでいきます。この1965年の映画は、そこを客観的に描いているところで、同じ設定でも別のサスペンスが生まれました。

まず、映画の最初に登場するのは、アンではなくて、兄のスティーブンの方です。兄ということは、ドラマが進んで本人が自己紹介するまでわからなくて、最初はアンの夫か恋人だろうと思っていると、実はそうじゃないとわかり、アンがシングルマザーだということもわかってきます。アンは、バニーを保育園の部屋に置いてきたシーンから登場します。その後、先生が見つからないので、料理人の女性に娘のことを頼んで彼女は家に帰ります。家には運送屋が荷物を持ってきているので、娘の荷物も広げます。そして、娘を迎えに行くと、バニーはどこにもいないということになります。ここまで、娘のバニーは画面に一度も登場しません。アンはいかにも線の細い神経質タイプの女性なので、どこか変かもって印象を与えます。スティーブンは、バニーがいなくなったことに保育園に腹を立てて、あちこち探し回り、警察にも連絡します。でも、スティーブンが園長に、「アンは子供の頃、架空の友達を作って、バニーと名前をつけて遊んでいた」なんてことを言って、それがニューハウス警視に知れてしまい、バニーの存在が余計目に疑われちゃうことになっちゃいます。

ニューハウス警視は、この事件を最初は幼女失踪事件として捜査を始めるのですが、まずバニーの存在を確認しなければと思うようになります。スティーブンと警官がアンの新居に帰ってみれば、バニーの持ち物だけが全てなくなっていました。彼女の存在を裏付けるものがないのですよ。アンにしてみれば、娘がいなくなって大変なのに、警察はその娘が実在しないんじゃないかって疑っている、ということでかなりまいっちゃっています。観客もこのあたりになると、バニーが実在しないのではないかという気分になってきます。何かの事情で、アンは架空の娘をいるもんだと思い込んでいるのではないか。それに、妙に親密な兄との関係も関わっているのではないか。しかし、アンは、娘の人形を修理に出したことを思い出します。この人形で娘の存在を証明できると張り切るのですが....。

キャロリ・リンリーは線の細いヒロインを熱演していまして、実際にバニーが存在するのかどうか観客を不安にさせる演技で、ミステリーを引っ張っていきます。一方のローレンス・オリヴィエは、飄々とした演技で、英国人らしい警視を演じていまして、何を考えているかを表に出さない分、映画のミステリー度は上がったように思います。デニス・クープのモノクロのシネスコ画面が映画館で観るための絵になっていて、構図の切り取りが見事でした。何というか映像の情報量が豊かな構図というのでしょうか、こういう絵を見せてくれる映画は劇場で観たいよなあって気分になりますもの。ポール・グラスによるどこかのどかな音楽が、後半の展開の意外性につながりました。また、アンのアパートにあるどこかの部族の仮面や、深夜の人形修理屋の不気味な佇まいなどに、サイコスリラーっぽい味わいもあり、なかなか着地点が見えない作りになっているのは面白いと思いました



この先は結末に触れますので、未見の方は読み飛ばしてください。



アンは夜遅く人形修理屋を訪ねるとまだ店は開いていて、店主は預かり証を確認すると、勝手に取って帰っていいとアンに告げます。地下の人形置き場でバニーの人形を見つけたアンがそれを持って、1階へ上がるとそこにはスティーブンがいて、彼女を殴って失神させ、人形を燃やします。スティーブンは彼女を精神病院に担ぎ込むのですが、目覚めたアンは病院を脱出して、滞在していたスティーブンの上司の家に向かいます。一方、ニューハウス警視も、アン母娘の乗った船の記録を見つけていました。アンは、スティーブンが暖炉で、バニーの荷物を燃やしているのを発見します。さらに、彼は車のトランクからバニーを運び出します。スティーブンは、妹のアンに異常なまでの愛情を持っており、アンの愛情の対象となるバニーが邪魔になっていたのでした。目覚めたバニーをスティーブンが殺そうとするところを、アンが止めに入り、「一緒に遊ぼう」というと、幼児化したスティーブンもそれに同意します。何とか隙を見て、バニーを連れて逃げようとするアンですが、なかなかうまくいきません。しかし、幼児化したスティーブンと遊んでいるうちに、警察が現れ、スティーブンは逮捕され、アンとバニーは無事保護されるのでした。

車のトランクを開けると、そこにバニーが眠っていたというシーンはなかなかショッキングでした。それまで、バニーの存在があやふやだっただけに、実在するとわかるところでドラマの様相が一気にサイコスリラーへと変わっていきます。スティーブンの異常性については、保育園の園長が薄々気づいていたようで、他にも伏線は張られていたのですが、アンの方にも異常性が感じられる見せ方をしていて、ミスリードも成功していたように思います。クライマックスは、狂った兄から、娘を守ろうとするアンの奮闘が描かれていまして、バニーを殺そうとするスティーブンに「遊ぼう」と誘って、彼を幼児化させて、何とか隙を見つけようとします。最後は、娘を殺そうとするスティーブンに向かって「一緒に遊ぼう、でないと一生遊んであげない」と言い、スティーブンにブランコを漕がせているところに警察がやってきます。連行されるスティーブンをバックに、娘を抱いて歩いていくアンのアップから暗転して、エンドクレジットとなります。

クライマックスでは、ポール・グラスの音楽もホラータッチの現代音楽となり、サイコサスペンスとして見ごたえのあるものになっています。映画は、1日の中で、事件が発生して解決するまでを描いていまして、時間が経っていないので、スティーブンの画策したことのボロが出ていないことにも説得力があり、それでも警察側も船の乗客にアンとバーニーを見つける(スティーブンは1日後の船で来たとウソの情報を警察に言っていた。)というお手柄をあげてるあたり、そこそこ華を持たせていると言えます。クライマックスで、ヒロインはそれまでの線の細い女性というイメージから、強い母親として娘を守ろうとします。キャロル・リンリーの演技もその落差をうまく熱演していまして、彼女のキャラクターの変化がドラマの意外性にうまく機能していました。ケア・デュリアは、こういうキャラがうまくはまっていて、「あ、やっぱり」という感じになるのがおかしかったです。とはいえ、前半の落ち着いたミステリーがサイコスリラーに変わるという意外性をプレミンジャーの演出は、うまくさばいているので、私にとっては結構以外な結末となりました。

近年の「フライト・プラン」や「フォーガットン」に比べれば、ミステリーとしての落とし方はフェアですし、クライマックスの腰砕けもなく、最後までスリリングに展開してますから、当事者の実在を疑うミステリーものとしては、かなりうまくできてるのではないかしら。

「フッテージ」は冒頭の猟奇スリラーから意外な展開がトンデモ映画スレスレ。


前から気になっていたホラー映画「フッテージ」のDVDがアマゾンで1000円以下で売られていたので、ゲットしてみました。最近、劇場でのホラー耐性が著しく低下しているのもあって、この映画も劇場スルーしていました。

郊外のある家で、5人家族の4人が首吊りによって殺され、1人だけ娘が行方不明になっていました。そんな家にわざわざ引っ越してきたのがノンフィクション作家のエリソン(イーサン・ホーク)。この事件をネタに久々に一発当てたいと思っている彼は、妻のトレイシー(ジュリエット・ライランス)と息子トレバー(マイケル・ホール・ダダリオ)、娘アシュリー(クレア・フォーリー)には、家の事情を知らせていませんでした。屋根裏部屋をチェックしたエリソンは「ホームムービー」と書かれた箱を見つけます。中には8ミリ映写機と何本かのフィルムが入っていました。その1本を映写してみたら、最初はある家族の平和な風景だったのですが、その後に何と、この家で起こった首吊り殺人の一部始終が収められていたのです。他のフィルムを見てみれば、やっぱり家族団らんのシーンの後で、その家族が殺されるシーンが登場するといういわゆるスナッフフィルム。警察へ通報するのを思いとどまったエリソンはこの複数の殺人をネタに一発当てようと考えます。そして、さらにフィルムをよく見ると被害者以外に不気味な顔の男が映り込んでいるではありませんか。この不気味な男が一連の殺人の犯人なのでしょうか。しかし、フィルムケースに記された日付からすると、1960年代のものもあれば、2000年代のものもありました。本当に同一犯の犯行なのでしょうか。

C・ロバート・カーギルと「エミリー・ローズ」のスコット・デリクソンが脚本を書き、デリクソンがメガホンを取ったスリラーの一編です。殺人事件のあった家に引っ越してきた一家に不思議な事件が起こるというものです。主人公は未解決事件のノンフィクションを書いてきたライターですが、処女作以外は大した作品がなく、破産状態でした。ここらで起死回生の一発を放つ必要がありました。それだけに、屋根裏部屋のフィルムを見つけて大興奮しちゃいます。これはすごい大作の予感、てなわけで、夢遊病の息子の調子が悪化してもおかまいなし、妻が家の由来に気付いても、引っ越す気にはなりません。かなり、やな主人公なんですが、イーサン・ホークが悪役演技を抑えたことで、主人公として成り立つという作りになっています。

この映画の特徴は、とにかく画面が暗いこと。コメンタリーで監督が狙ってやったと言ってるのですが、昼間のシーンでも家の中は必ず暗いところがあって、ロケシーンも曇り空ばかりで、画面全体が明るくなるのは、8ミリフィルムのシーンのみです。さらに夜間シーンが多くて、そこにノイズ系のアンビエントミュージックがかかるので、全体のトーンもかなり不気味。息抜き的なシーンがほとんどありません。映画としては、前半はスナッフフィルムからだんだんと不気味な連続殺人が浮かび上がる展開で、後半がその謎解きという形になっています。前半では、この映画がサイコスリラーに転ぶのか、超自然ホラーに向かうのかがわからないので、どっちへ行くのかってところがサスペンスになっています。殺人フィルムを観ているのが、エリソンだけなので、そのフィルムが実在するのかどうかというところが、展開の分かれ道になります。

スナッフフィルムは、家族団らんシーンの後に、凄惨な殺人シーンが登場するというもので、かなりえげつない殺し方もあるのですが、グロ描写は控えめになっていて、日本でもPG12指定になっています。監督のコメントでも直接の描写を避けて、逆に恐怖を煽る手法をとったとのことです。それはいいのですが、とにかく暗いシーンから、音やら不気味な顔を出すというショック演出が多くて、やはり劇場鑑賞パスしてよかったなって感じの映画になっていました。暗いシーンの絵作りはシネスコの画面をうまく使って絵画的な絵作りをしているので、そこはよかったのですが、すごく暗いシーンからのショック演出は勘弁して欲しいなって思いました。「エミリー・ローズ」ではショック演出を控えていたデリクソンですが、コメンタリーによると、本人は結構ショック演出を入れるのが好きらしいのが意外でした。

スナッフフィルムからお話がはじまる映画というと「8mm」とか「ブラック・サイト」などいろいろあるので、それほど目新しいものではないのですが、その映像に謎解きの鍵を隠しているあたりは、発端としては上々なのですが、落としどころがあまり怖くならないのは残念でした。さらに、1時間50分の長さはちょっと長いかなという印象でして、物語の展開が遅いのが残念でした。闇にこだわったエピソード(含むショック演出)にこだわり過ぎたという感じで、後半の謎解きがあわただしくなったという印象があります。子役も含めて演技陣はみな好演していますし、ドラマとしてもきちんとしているのですが、主人公が夜中に目覚めると何かが起こるというパターンが多すぎるのは、減点かなあ。それがドラマを進める役に立ってないのが惜しいところです。雰囲気作りは悪くないのですが、中盤はすっぱり切ってもよかったような。

全編をノイズ系アンビエント音楽が鳴ってまして、音楽担当はクリストファー・ヤングがクレジットされているのですが、既成曲もかなり使われています。ヤングの曲はサントラ盤が出ているのですが、これも全編シンセサイザーによるアンビエント音楽で、メロディラインがほとんどない音作りは、彼にしては珍しいと言えましょう。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



フィルムの映った場所や年代から、本当に起こった事件なのかを、副保安官に調査してもらったところ、どれも実在した事件だとわかります。また、殺人現場に映りこんでいた紋章のようなものを、猟奇的殺人にくわしいジョナス教授(ビンセント・ドノフリオ)に調査依頼したところ、紋章はブグール神という子供を食べる邪宗の神だということがわかります。子供を自分の霊界に取り込んじゃうんですって。さらに、彼が見つけてきたブグールの絵はそれを持っているだけで命が危なくなると信じられていたのだそうです。ある晩、物音に気付いて家の中を調べるエリソンのまわりを不気味な顔をした子供たちがウロウロします。何かが家にいると確信した彼は、フィルムと映写機を焼き捨てると、殺人現場の家を引き払います。そして、元いた家に戻るのですが、そこにもまたフィルムと映写機の入った箱が置かれていました。その中には、カットされたエンディングというフィルムが入っていて、それをつないで見たところ、殺人シーンの後、行方不明になった子供がカメラの正面に映っているではありませんか。そこへ、副保安官が連絡があり、各々の殺人事件に犠牲者が、その前の事件の犠牲者の家に住んでいて、引っ越した後事件にあったというのです。つまり、殺人現場の家から引っ越したエリソンの一家も犠牲者の条件を備えてしまったのです。その事実を知ったエリソンは、自分の飲んでいたコーヒーに薬が仕込まれていたことに気付きます。しかし、時既におそく、次に彼が気付いたときは、縛り上げられていました。そこへ斧と8mmカメラを持った娘アシュリーが現れ、エリソンに斧を振り下ろすのでした。8mmのスクリーンには、不気味な顔をした子供たちがアシュリーを見下ろしいます。そして、アシュリーの背後にブグールが現れ、彼女を抱き上げて、スクリーンの中に入り込んで姿を消すのでした。

というわけで、サイコスリラーではなく、超自然ホラーでした。話のオチはトンデモ映画(「フォーガットン」みたいな)の一歩手前くらいにぶっ飛んだものではあるのですが、それまでのホラー演出で何とか帳尻が合ったという感じでしょうか。家族全員が子供一人除いて皆殺しという発端から、後付けしたような結末な気もします。神秘的な怖さよりも、即物的恐怖が先行していただけに、この結末は無理やり押し込んだという印象を持ってしまいました。ホラー映画としては、まっとうな作りをしているのは認めちゃうのですが、猟奇殺人が先行すると、超自然ホラーの展開がぎくしゃくしちゃうんだなってのは発見でした。そう考えると猟奇連続殺人と超自然ホラーを無理なく合体させた「エクソシスト3」はすごい映画だったのかもって、今更ながら感じてしまいました。

オーディオコメンタリーによると、この映画の制作費は300万ドルだったそうで、かなりの低予算だったようです。最近のハリウッド映画は、2000万ドル台でも低予算と呼ばれるようですから、かなり安く作られていると言えましょう。ですが、映像とか音響とか作りには低予算ホラーの安っぽさを感じさせなかったところは、デリクソンの演出力によるものでしょう。演技陣の好演もこの映画のランクを上げるのに貢献しています。それだけに、唐突な超自然展開はなんとかならなかったのかしら。それでも、劇場で観たら十分怖がれる映画ですから、ショッカー映画がお好きな方にはオススメです。ラストのダメ押しショックもありますし。

「ファンタジー・フィルム・スペクタキュラー 2015」は選曲のよさがうれしいオーケストラコンサートでした。


今回は三鷹市芸術文化センター、風のホールで行われた「ファンタジー・フィルム・スペクタキュラー2015」コンサートに行ってきました。約600席のコンパクトなホールでしたけど、天井の高さがあるので、オーケストラのコンサートにも対応しています。

榊真由の指揮で、東京ガーデンオーケストラの演奏で、ファンタジー映画の音楽を聴かせてくれるというコンサートです。このオーケストラは、音楽大学に通う学生さんがメンバーというもので、その音はプロに匹敵というのが売りです。私はオーケストラにくわしくはないのですが、金管の安定性と弦のユニゾンはプロの方に一日の長があるなという感じでしたけど、オリジナルスコアをたくさん使った曲の顔ぶれが楽しいコンサートでした。楽曲はファンタジー映画を中心に、目玉商品は生誕50周年記念の「サンダーバード」。ワールドプレミアもあるそうで、そこも楽しみでした。結構、若いお客さんもいれば、私と同年代の方もたくさん見かけまして、「ゴジラコンサート」に行ったメンツのナンボかがこっちにも来ているんだろうなあ。

1、「宇宙空母ギャラクティカ」 作曲スチュー・フィリップス
これはよくテレビで使われることも多い、宇宙SFのテーマ曲。こういうコンサートの冒頭にふさわしいファンファーレが聴きモノですが、オーケストラコンサートにありがちなメロディラインが不鮮明になっちゃうところがちょっと残念。シンプルなメロディだけに主旋律で押し切って欲しかったかな。

2、「ミッションインポッシブル」作曲 ラロ・シフリン
これは、テレビシリーズのジャズタッチではなく、オーケストラ用にアレンジされたもので、シャープな勢いはそのままにオケの厚みが加わって、2曲目という地味なポジションながら、演奏的にもかなり聴き応えがありました。

3、「ジェームズ・ボンドのテーマ」 作曲 モンティ・ノーマン
おなじみのテーマのオーケストラバージョン。これは色々なオケのカバー版を聴いているので、ああおなじみのという感じでした。

4、「007 スカイフォール」 作曲 アデル、ポール・エプワース
21世紀に入って、淡白になっちゃった007の主題歌で久々にドラマチックなテーマ曲となったスカイフォールを演奏。オケの演奏だとボーカルのメロディラインがぼけちゃうのがちょっと残念ではあるのですが、この曲をフルオケで聴けるのはうれしかったです。

5、「007は二度死ぬ」 より組曲 作曲 ジョン・バリー
これは、元の曲がオーケストラで鳴らすにふさわしい雄大な曲なんですが、アクションシーンの曲や、宇宙衛星強奪シーンの曲なども入れた組曲になっていまして 、前半の目玉商品になっていました。今のアクション映画にないのはこういう音楽なんだよなあってしみじみしちゃう曲の連続。演奏も見事でした。映画は、あんまり評判よくないのですが、今観るとスケール大きいし面白いんですよ。

6、「ハリーポッターと秘密の部屋」より「不死鳥フォークス」 作曲 ジョン・ウィリアムス
ハリ・ポタは興味ないので、「ふーん」で聞き流しました、どもすみません。

7、「SAYURI」より「会長さんのワルツ」「捨てられた夢」「さゆりのテーマ」 作曲 ジョン・ウィリアムス
なぜ、「SAYURI」がファンタジー?とも思うのですが、ジョン・ウィリアムスの佳曲として、ライブで聴けるのはうれしい限りです。ヴァイオリンソロとチェロソロが入るのですが、だからの選曲なのかな。

8、「サントロペ大混戦」 作曲 レイモン・ルフェーブル
これは、ドタバタコメディにふさわしい、元気のある音楽で、いわゆるライド感が楽しい一品。こういう音楽が最近の映画館で聞く機会が少ないのは、元気な音楽が少ないのか、そもそもコメディが劇場公開されないからなのか。

9、「グレムリン」より「チャイナ・タウン」「ギズモ」「グレムリン・ラグ」 作曲 ジェリー・ゴールドスミス
これは、かわいいギズモのテーマと、にぎやかなグレムリンのテーマが楽しい一品。映画そのものは結構ブラックな味わいもあるのに、ゴールドスミスは明るい楽しい音楽をつけました。ゴールドスミスの来日コンサートのアンコールで「グレムリン・ラグ」が演奏されたとき、会場が手拍子で大盛り上がりになったのも懐かしい思い出です。

10、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」 作曲 アラン・シルベストリ
娯楽映画の職人シルベストリの楽曲の中でも映画のテーマをきっちり表現している傑作だと思っているのがこの曲。SFであり、コメディでもあり、青春モノというのがきちんとテーマ曲で表現されているのがお見事。それに、映画のクライマックスがモロにこの曲で表現されているという曲使いのうまさに脱帽。元気のある若々しい演奏がこのテーマにふさわしかったです。

11、「ある日どこかで」 作曲 ジョン・バリー
私が一番好きなタイムスリップの方法を見せる恋愛ドラマの一編。オリジナルはストリングスでストレートに盛り上げるテーマなのですが、このコンサートではピアノソロから入ってストリングスへつなげていくという演奏でした。バリーの独特なストリングスが聴けなかったのはちょっと残念かな。でも、この曲を聴いて、この映画に興味を持ってくれる人ができたらうれしい演奏でした。

12、「ホビット:思いがけない冒険」より「とても真っ当なホビット」 作曲 ハワード・ショア
映画は未見なのですが、「ロード・オブ・ザ・リング」みたいな話なんだろうなと思っていたら、同じテーマが出てきて、なるほどなあって納得。この映画ってヒットしてるのかしら、なんて余計なこと考えてしまいました。

13、「ゲーム・オブ・スローンズ」 作曲 ラミン・ジャワディ
テレビ映画の音楽だそうですが、スケールの大きなドラマチックな音は、歴史ドラマみたいな感じがしました。きちんとフルオケで鳴らしても、音の厚みが感じられるのは、曲としてよくできているのでしょう。

14、「宇宙の7人」 作曲 ジェームズ・ホーナー
「スター・ウォーズ」のバッタモンに、20代のジェームズ・ホーナーが作曲したパクリ感満載のテーマ曲なんですが、30年の年を経て聴きなおしてみれば、そんな悪くないかも。ただ、厚いオケで鳴らしても、重厚さがついてきません。もともとチープなオケで演奏するのが前提で作られているところがあって、こういう曲もあるんだという発見もありますので、未聴の方は一度聴いてみてほしいです。1980年代のオケを使った映画音楽って面白いの多いのですよ。同じホーナーの「モンスター・パニック」とか、ハリー・マンフレディーニの「13日の金曜日」とか、ロバート・O・ラグランドの「ジャガーNo1」、リチャード・バンドの「死霊のしたたり」とかですね。

15、「アバター」より「アイ・シー・ユー」 作曲 ジェームズ・ホーナー
オケで「アバター」と言えば、ダイナミックな活劇音楽を連想するのですが、ここではストリングスのみで愛のテーマを奏でました。甘いテーマはこういう映画には付き物だと思っていたのですが、最近の映画では、愛のテーマのない音楽が増えてきています。それを物足りないと思うのはオヤジだけなのかなあ。

16、「スペース・バンパイア」 作曲 ヘンリー・マンシーニ
今回、一番楽しみだったのは、この曲を生オケで聴けることでした。パワフルなゲテモノSFにさらにパワフルなテーマ曲がついた稀有な作品です。フルオケで鳴らす音楽はこうなんだよなあという期待は裏切られはしませんでしたが、他の楽曲ほどにはオケの音が前面に出てこなかったのがちょっと残念というか不思議でした。ロンドン交響楽団のサントラに比べて、目の前の本物のオケの音の方が迫力を欠いた、なんて書くと怒られちゃうんだろうなあ。書いちゃったから、謝っときます。すみません。

17、「サンダーバード」より組曲 作曲 バリー・グレイ
今回の目玉商品で、メインテーマから、テレビの劇伴サントラ、映画版のテーマに、ラウンジ曲まで入れた豪華版です。テレビを知る人には、まさに映像が目の前に蘇る演奏で、オリジナルに大変忠実に演奏しているのが、うれしい企画でした。しかし、考えてみると、昔のテレビ映画の音楽を、これだけのオケの音で鳴らしていたのかとも思えてしまって、オリジナルのテレビ番組「サンダーバード」ってすごかったんだなあって再認識させられました。やはり、サンダーバードの発進シーンが圧巻でしたが、その他の曲も懐かしくも楽しい演奏でした。これは若い人にはピンと来ないんだろうなあ。

アンコール 1「ジュラシック・パーク」 作曲 ジョン・ウィリアムス
ラストの「サンダーバード」で大盛り上がりした後、意外や(?)アンコールもありまして、その1曲目が「ジュラシックパーク」のテーマでした。個人的には、「ジュラシック・パーク」は映画も音楽も「2」の方が元気があって好きなのですが、ここでは、「ジュラシック・パーク」の2つのテーマ・モチーフをつなげた曲で、オーケストラにふさわしい重厚な音を聴かせてくれています。

アンコール 2「サンダーバード」より「エンド・タイトル」
「サンダーバード」のエンドクレジットをさくっと演奏して、お開きとなりましたが、これで、トータルで約3時間のボリュームあるコンサートになっていたことに気付いてびっくり。オーケストラのみなさんお疲れ様でした。

こういう映画のファンタジー映画の音楽のコンサートってのは楽しいですが、あまりメジャーにこだわらないで、いい曲、面白い曲を演奏してくれると、聴きに来る方にも発見があって楽しめるのだろうなってのが発見でした。「007は二度死ぬ」とか「スペース・バンパイア」みたいな知る人ぞ知る曲がフルオケで聴けるのは、それだけで耳へのご馳走ですし、このコンサートで「ある日どこかで」や「サンダーバード」に興味を持つ人が出てきたら同好の士が増えてうれしいと思った次第です。

ゴジラ音楽祭で、映画の音楽生オケ演奏企画がよかったです。


記事にするのが遅くなりましたが、先日2015/1/18、NHKホールで上演されたゴジラコンサートに行ってきました。昭和29年の「ゴジラ」の音楽だけ抜いた版を上映して、そこへ東京フィルハーモニーオーケストラの生音をかぶせるというもの。昨年一度上演されて好評だったものの再演となります。去年の公演にも足を運んだのですが、なかなかに聴きごたえのあるものでした。1時間半強の映画に音楽は40分弱ですから、それほど音楽が鳴っている映画ではないのですが、実はこのオリジナルの「ゴジラ」は音楽の扱いがあまりよくなくて、当時の録音のクオリティだけとは言い難い問題点がありました。それは、クライマックスで主人公二人がゴジラ退治の新兵器を持って海に潜っていくシーンでして、音楽が鳴っているらしいくらいにしか聴き取れないのですよ。どうして、ここで音楽のボリュームを絞ってしまったのかはよくわからないのですが、明らかに音楽を殺す演出になっています。ゴジラのために書かれた音楽が、このシーンだけ明らかに手抜きだから、音量を絞られたとは思えなかっただけに、このクライマックスがすごく気になっていました。

オリジナルの音楽は、40人編成くらいのオーケストラによる演奏だったそうで、その倍くらいの人数で演奏するにあたっては譜面の書き直しが必要だったそうです。さらには、当時の譜面が残されていない曲もあって、それに対しては、今回の指揮者である和田薫氏が譜面への聴き起こしをしたのだそうです。当時は、映画は娯楽の王様で、製作本数も今とは比べものにならなかった時代の映画音楽の記録を掘り起して再現するのは大変だろうなあって改めて感心しちゃいました。

映画は「協賛 海上保安庁」というクレジットの後に東宝マークが出て、ゴジラの足音と咆哮が聞こえてタイトルが出ます、せり上がり式タイトルで「音楽 伊福部昭」と出るタイミングで、テーマ曲が始まり、そして、テーマがもりあがったところで「監督 本多猪四郎」と出て、海のカットになり、船上でのギターとハーモニカの曲から海が光るカットになって船が沈没するという展開になります。映像では何が起こったのかよくわからないシーンのバックに伊福部の緊迫感のある曲が見事に効果を上げています。目の前にオーケストラがいるので、どうしても音楽を意識して聞いてしまうのですが、そういういつもとは違う鑑賞環境が、その映画に新しい発見を与えてくれます。どういうシーンで無音になり、何をキーに音楽が鳴り始めるのかということを意識することで、音楽演出の視点から映画を楽しむことができました。例えば、有名なゴジラのテーマ(タイトル曲)は、実は人間側がゴジラを迎え撃つテーマとして使われているということが再確認できます。映画を一度観ただけでは、意識しにくいのですが、ゴジラのテーマは、自衛隊がゴジラ迎撃に出発するシーンや、ジェット戦闘機隊がゴジラに攻撃を仕掛けるシーンのバックに流れ、ゴジラを描写するシーンでは使われていません。ゴジラを描写する音楽は、ファンの間では「ゴジラの恐怖」として知られる、ゆっくりとした低音楽器中心の曲です。そして、災害描写のシーンでは音楽を流さない演出もされており、ドキュメンタリータッチのシーンと、ゴジラという空想世界のシーンを交互に組み合わせながらドラマのテンションを上げる演出がされています。

ゴジラ襲撃の夜が明けて、焼野原になってしまった東京を描写する静かな曲は、映画「ビルマの竪琴」にも使われている、鎮魂歌のような音で、負傷者が廊下にもあふれているで野戦病院のような病院を映し出します。悲惨なシーンであえて静かな曲を選んだ伊福部のセンスも見事ですし、このシーンは細かい演出が、見返した方が泣けるのですよ。そして、芹沢博士がゴジラ撃滅のための新兵器に使用を決意するシーンでも、音楽はキーとして使われています。それは、女学生たちの歌う「やすらぎよ光よ」のコーラスでして、その祈りにも似た歌声が芹沢博士の心を動かすというベタな演出がみごとにはまりました。辛気臭い演出ということもできるのですが、やはり音楽の力ってのはあなどれないのですよ。また、歌の歌詞が結構泣かせるのですが、映画の中だと完全に聞き取れないのが残念でして、当時の録音では仕方ないのかもしれません。それでなくても合唱の歌詞って聞き取りにくいですからね。

そして、主人公二人が潜水服に身を包んで海に潜るシーンがクライマックスとなるのですが、実際、このあたりは淡々とした演出であまり盛り上がりません。水中シーンばかりで動きに乏しいというのもあるのですが、ドラマとしては、芹沢博士が新兵器を使う決心をするところがピークみたいな描き方なのですよ。そして、その後のゴジラの息の根を止めるくだりは、長いエピローグみたいな感じなんです。特撮も東京破壊シーンに比べて地味だしチャチな印象を与えますし、このゴジラ撃滅シーンの処理はかなり控えめ。音楽もほとんど効果音に隠れて聞き取れませんし。ところがここで、大変ドラマチックな曲が鳴っていたというのが、この生オケ演奏での発見というか、この上演の目玉商品となっているのですよ。伊福部の曲は、野戦病院のシーンに流れた曲から始まり、結果的にゴジラと一緒に心中する芹沢博士をオーケストラで描写する音楽になっていまして、彼が帰らぬ人となるシーンとゴジラの死の両方を合わせて音楽はドラマチックに盛り上がります。オーケストラをフルに鳴らして、ゴジラと博士の死を悼む音作りになっているのですが、実際の映画では、この盛り上がる音がほとんど聞こえてきません。そして、ゴジラの死が確認された後、登場人物みんなが博士の死を悲しむあたりでようやく音楽は聞こえてくるようになりまして、映画の最後を描写して音楽もコーダとなります。

ここから先は憶測にしかならないのですが、伊福部の音楽は、ゴジラと博士の死を重ね合わせて、戦争の悲劇を、静かにしかし、かなりストレートに描写していまして、娯楽映画としては意気が上がらないものになっています。そこで、映画の娯楽性を上げるために、スペクタクルを前面に出すように、修正をかけたのではないかしら。でも、音楽はそこの悲劇性を正面から描写しているので、今回のように音楽を前面に出して、全部聞かせると映画はよりドラマチックになる一方で、ゴジラと博士のイメージがかぶってゴジラの巨大さとか怪物性が薄れてしまうということにもなりました。ゴジラオタクの私にしてみれば、そういう奥行の出るのはウェルカムなのですが、単純に怪獣映画を楽しむには、お話をややこしくしてしまっているとも言えますし、娯楽スペクタクルをより辛気臭くしてしまったとも言えましょう。そういう意味では、音楽のボリュームを絞る演出もわからないことはありません。

そんなわけで、この生オケ音楽による「ゴジラ」上映は、演出の発見があり、鑑賞の新しい視点を提供してくれたということで、意味あるものでした。最近、昔の映画を画質補正したり、音質をクリアするなどして、リニューアルするのをあまり好きではなかったのですが、こういう形で音楽を再現するのはありだと気付いてみれば、リニューアルによって新しい発見があるかもしれないかなって思えるようになってきました。画質がクリアになることでそれまで見えなかったものや演出が見えるようになる、音質のクリア化によって、オフのセリフの意味が聞き取れるようになることで、演出の意図が変わってくるってことがあるかもしれないかなって。

ともあれ、ゴジラファンであり、かつ伊福部ファンである私には大変うれしい企画でした。この次はこういう生オケ企画で「モスラ対ゴジラ」をやって欲しいのですが、あれはさすがにオーケストラの人が死んじゃうからダメなんだろうなあ。シティ・オブ・プラハ・フィルハーモニック・オーケストラの再録音みたいな企画でもうれしいんだけどなあ。

「恐怖の火星探検」はB級SFで低予算だけど、お話が面白いから楽しめます。


今回は廉価版DVDでゲットしました「恐怖の火星探検」を観ました。DVDのパッケージに「映画「エイリアン」の原点」ってサブタイトルに書いてあります。まあ、だから観てみようという気になったのですが。

火星探検ロケットが火星に着陸後、消息を絶ち救援ロケットが半年後に火星に着いてみれば、生存者カラザース(マーシャル・トンプソン)のみが発見され、彼は他の乗務員を殺した容疑で軍法会議にかけられることになります。そして救援機のヒューゼン艦長(キム・スポルディング)の監視下にカラザースは置かれ、地球へとロケットは飛び立ちます。しかし、その機内には、火星からの怪物が乗り込んでいて、貨物室に潜んでいました。カラザースは自分は誰も殺していない、火星の砂漠で砂嵐が起こったときにみんないなくなったのだと言いますが、救援ロケットの乗組員のほとんどは、その話を信じようとしませんでした。しかし、今度は救援ロケットの乗組員が一人二人と姿を消し始めました。ヒューゼンたちは、機内を捜索すると、一人の死体が通風ダクトから発見され、もう一人は別のダクトで虫の息なのが発見されるのですが、そこへ怪物が姿を現します。銃火器では歯が立たない怪物に、救援ロケットの乗組員もみんな殺されてしまうのでしょうか。

TVの「ミステリー・ゾーン」「宇宙大作戦」のジェローム・ビクスビーの脚本を「暗闇の悪魔 大頭人の襲来」「海獣の霊を呼ぶ女」のエドワード・L・カーンが監督した、1958年のモノクロのSF映画です。冒頭の火星のロングショットでチャチなミニチュアロケットを見たときは、これってダメSFじゃないのって思ったのですが、それは杞憂でした。特撮とか怪物の着ぐるみは、昭和33年のB級SFのレベルなのですが、それでもお話が結構面白くできていて最後まで飽きさせません。予算の都合もあるのでしょうが、火星で起こったことのシーンは一切なしで、主人公の口から語られるのみ。そして、宇宙船の外観もほとんど登場せず、舞台はほとんどロケットの中のみです。このロケットの中が5層構造になっていて、一番下に潜んでいた怪物がどんどん上の階へ上がってくるというのがサスペンスとなっており、人間側を単にやられるだけ、無駄に攻撃するだけにはなっておらず、どうしたら怪物を倒せるかと色々と画策するので、退屈させません。69分という短さですが、登場人物のキャラづけも一通りされていて、無駄のない描写と展開はなかなかに頑張っているという印象でした。演技陣が二流どころなのは仕方ないことと許容した上で、脚本と演出のうまさで、きちんと一本の映画として鑑賞するに足る内容になっています。ロケットの乗組員のキャラづけのドラマがくどくならない程度のさじ加減などは、娯楽映画としての点数高いと思いました。

ロケットには2人女性が乗り込んでいまして、年上の女性は乗組員の一人と夫婦で、若い方のアン(ショーン・スミス)はヒューゼンと恋人関係にあるのですが、アンの方がカラザースに惹かれ始めるので、ちょっとした三角関係になっちゃいます。また、兄弟の乗組員もいまして、その兄弟愛の部分もちょっとだけドラマに顔を出すなど、69分の映画にしては、なかなかに盛りだくさんでして、勿論、それぞれに深い突っ込みはないのですが、きちんと集団ドラマの体裁は整っていまして、このあたりは「エイリアン」につながっているところがありそうです。まあ、それより何より、宇宙からのモンスターが航行中の宇宙船で暴れまわる設定が「エイリアン」なわけでして、そのオリジナルと呼ばれるにふさわしいくらいのいいところを持った映画だと言えましょう。ウィルスに侵されて、正気を失った艦長がみんなの足を引っ張るシーンもありますし、いわゆる隔離された空間で起こる人間ドラマとしてありそうなものは一通り揃えてあるところも感心しちゃいました。「エイリアン」と同じ「だだっ広い宇宙空間に閉じ込められた」という設定がきちんと生かされているってところも点数高いです。この映画1本だけ観ても「ふーん、只の安いB級SFだね」と見過ごすところでも、傑作「エイリアン」の元ネタと思って見れば、結構作りが丁寧でよくできてることがわかるってのは面白いと思いました。安いB級SFでも脚本がちゃんとしてると面白いってのは、「地球最後の男」を観た時に思ったのですが、他にもそういう当たりの映画があるんだなあってのは発見でした。

一方の怪物は、人間型のヌイグルミ怪獣で、毛むくじゃらの手足、うろこ状の体に鬼みたいな顔がついてまして、まあゴリラとトロルにあいのこみたいな見た目です。ぶっちゃけ安っぽい作りなのですが、設定だけは丁寧でして、接触するとウィルスに感染してしまうという厄介なやつで、捕まえた人間から水分を吸収してしまうということで、吸血獣という別名も持っています。さらに怪力の持ち主で、出自は火星に昔いた原住民が退化した成れの果てだろうという解釈をされます。そういう手の込んだプロフィールの割には見た目が安っぽ過ぎるという難点はあるものの、それは言い換えれば、脚本がよくできているということになります。ラストで無敵の怪物をどうやってやっつけるのかというところも、B級らしさのない腑に落ちるものになっています。

そして工夫しているなって思うのは、ロケットの作りを5層構造にして最下層に忍び込んだ怪物が上にやってくるので、人間側もだんだん上の層へ追い詰められるという設定です。怪物の背後に回るために、一度、機内を出て、機外を伝って下の層へ下りるという作戦も使ったり、その下層のエアダクトから潜入するときは上のフロアで音を立てて怪物の気を引くとか、上下の構造をうまく使った展開にして、絵的にもわかりやすくしています。着ぐるみ然とした怪物が暴れまわるだけの絵なのに、お話として色々と手をつくしているのがいいところです。これだけのセットで、色々な展開を見せてくれるあたりは、日本での特撮ありきから発展したSF映画では作れないだろうなあ。似たような設定の日本映画だと「吸血鬼ゴケミドロ」がありますけど、怪物と人間の攻防戦の面白さは残念ながらなかったからなあ。(まあ、ゴケミドロは恐怖メインの映画だから趣向が違うのですが)



この先は結末に触れますのでご注意ください。



怪物は原子炉室に入り込み、そこで放射能を浴びるのですが、それでもダメージはなし。そして、いよいよ一番の上のフロアまで上がってきました。気がつくと、機内の酸素が予想外に減っていました。火星の薄い空気の中で生きてきた怪物は、肺活量がものすごくて、その結果、たくさんの酸素を消費していたようなのです。そこで、生き残った人間はみな宇宙服を着て、怪物を待ち、ハッチを壊して怪物が上がってきたところで、それまで足を引っ張っていたヒューゼンが自分の身を挺してエアダクトを開きます。船内の空気は一気に抜けて怪物は窒息死します。そしてヒューゼンも帰らぬ人となりました。

エアダクトを開くというのは「エイリアン」でも使われていましたが、この怪物はあっさりと窒息死してしまいます。結局追い詰められた人間が最後に一矢報いて勝利を収めるのですが、どことなく苦い勝利感になるあたりは不思議な味わいがありました。ラストは地球で宇宙局のスポークスマンが、軍法会議は不要になったこと、そして火星には友好的な生物のいない地獄の惑星だと言ったところで終わります。まあ、こっちから勝手に行っておいて、相手に好きなレッテルを貼るなんていい気なもんだと、今なら思うのですが、東西冷戦の時代だと、たとえ火星であっても、こっち陣営なのかどうなのかが気になっちゃうのかも。ともあれ、お金がかかっていないので、画面はチープではあるのですが、その割にお話がよくできています。B級でも知恵を使えば面白い映画は作れるという典型的な作品と言えましょう。

「フェイズⅣ 戦慄!昆虫パニック」はマジ怖いSF映画としてオススメ、後味ゾゾゾな映画です。


子供の頃、テレビの深夜映画で観て、よくわけがわからなかった「フェイズⅣ 戦慄!昆虫パニック」が安価なDVDで出ていたのでゲットしました。この邦題はテレビで放映された時と同じでして、今見れば「パニック」はハッタリ邦題でしかないのですが、昔の劇場未公開作品のテレビ放映時にかなりいい加減なタイトルがついていたなあってのを思い出しました。

宇宙で発生した異常気象(← 何じゃそりゃ、その字幕は?)のせいで、地球のアリに異常な行動が始まります。彼らはアリの種類を超えて、思考し議論し、何か行動を起こし始めます。砂漠地帯でのアリの異常な繁殖に気付いたハッブス博士(ナイジェル・ダベンポート)は、暗号専門家のレスコ(マイケル・マーフィ)を助手に指名して、不思議なタワー状の蟻塚が築かれた砂漠の真ん中に、政府のお金でドーム状の研究室を設営して、アリの観察を始めます。しかし、何も起こらず、政府からもそろそろ結果を出せとせっつかれたハッブスは蟻塚を破壊します。するとアリの動きがあり、近所の農場を持つ一家をアリが襲撃し、ドームにも攻撃をしかけてきます。ドームから散布された殺虫剤で一家の人間は娘ケンドラ(リン・フレドリック)を残して全員死亡。ケンドラは、レスコらにドームに保護されます。もう、これ以上は危険だから脱出すべきだと言い出すレスコに、ハッブスはアリとの闘いを楽しんでいるようであり、人間の英知がアリごときに負けることはないという自信があるみたいで、助けを呼ぶ気はありません。翌日、ドームの周りには台形状の蟻塚が囲んでいました。日光が反射してドームに当たる仕掛けになっていて、ドーム内の温度が上昇、業を煮やしたレスコは自ら無線で助けを呼ぼうとしますが無線が壊れていて、中を開けるとアリの死骸がいっぱい。さらに、アリはエアコンに入り込んでショートさせて、温度は上がり放題、コンピュータが作動しなくなります。レスコはアリが苦手とする音波を取り出して、それを大出力で放出して蟻塚のいくつかを破壊するのに成功しますが、エアコンが壊れてしまって、夜しかコンピュータが動かないなか、ドームの中にもアリは入り込んできました。果たして、ハッブスたちは生き残ることはできるのでしょうか。

アート・デザイナーであり、映画のタイトルデザイナーとしても有名なソール・バスが、「未来世界」のメイヨ・サイモンの脚本を演出したSF映画です。1974年の作品だと観た後で知ったのですが、なるほど、あの時代らしいペシミスティックなSFでして、観終わった後味は、「ぞぞっ」って感じ。こういう後味の映画は最近はまずお目にかかりません。社会派ドラマの厳しい結末や、恐怖映画のもやっとした怖さとは違う、もう八方塞り出口なしのスケールのでかい怖さなのですよ。1968年の「猿の惑星」もラストで大スケールの怖さを見せてくれましたが、この映画は、アメリカの砂漠の一画の数日間を描くだけで、宇宙スケールの怖さを感じさせてくれました。怖さという視点からすれば、これはすごい映画かも。後、リン・フレドリックというとびきりかわいい女の子をおがめる映画でもあります。

アリが色々と企んだり攻撃を仕掛けてくるというのを、実際のアリで見せてくるのです。アリのシーンはケン・ミドルハムによる、驚異的な接写撮影により、アリのどアップの映像が登場し、それを見事につないで、アリの演技を演出しています。多分、アリを刺激してそのリアクションを何千通りも試して、ドラマに合致する絵のみをピックアップしているのでしょうが、アリが整然とある意思によって動かされているように見えるのがすごい。一方の人間はたかがアリだとなめてかかっているので、観客は、おいおいそんなにのんびりしていて大丈夫なのかと突っ込みが入ってしまいます。アリの行動を丹念に見せることで、観客は不気味な怖さを感じるようになってきます。

アリたちは、個々の意思というものがなく、集団として一つの意思として動きます。ですから、各々の個体は自己を犠牲にすることもいとわず、通信機やエアコンに入り込んでショートさせてしまいます。その特攻の結果を別のアリが見届けるとそれが女王アリに届くようななのです。アリたちは、女王を中心に一つのシステムを形成し、その末端にいたる兵隊アリまでネットワークは張り巡らされているのです。さらに、その知性は人間の行動パターンを読んで、攻撃をしかけてくるのですよ。そうでなくては、人間側の急所である通信機やエアコンへのピンポイント攻撃を仕掛けられるわけがありません。女王アリを中心に末端の兵隊アリまでが一つの意思に統一されたシステムであり、システムを動かしている頭脳はものすごく冷静で賢いのですよ。極限まで研ぎ澄まされた全体主義社会を相手にしては、つまらない優越感とプライドに振り回されてる人間側にはどう見ても勝ち目はありません。

最初、ハッブス博士はトーテムポール状の蟻塚の群れの前に、研究用ドームを作り、観察をはじめますが、アリはなかなか動きを見せません。そこで、博士は蟻塚を破壊することで、何か動きがあるだろうと先制攻撃をかけてみるのですが、人間側が仕掛けたように見えて、実はアリ側にそう仕向られ、罠にはまったようなのです。どんどん、追い詰められていく3人ですが、アリは人間を直接傷つけるような攻撃は見せません。通信路を絶たれ、外に出ればアリの群れの直接攻撃をうけてしまう状態で、3人は研究ドームに籠城せざるを得なくなります。アリはドームの中にまで入ってきているのですから、3人を殺そうと思えば殺せるのに、なぜか温度上昇の攻撃を加えるだけで、コンピュータや食料を破壊することはしません。人間側は、今やアリに生かされているような状態です。アリは、3人をどうしたいのかがよくわかりません。レスコはそれを不気味に感じるのですが、博士はまだアリとの知恵比べが決着ついてないと思っているようです。

ソール・バスの演出は、ケン・ミドルハムのアリのシーンにサポートされて、じわじわと追い詰められていく人間(といっても3人ですが)の様子を淡々と描いていきます。アリのシーンが大変スリリングなのに比べると、淡泊な演出ではあるのですが、その人間とアリのドラマのテンションの差もラストの怖さへの伏線になっています。博士だちは、単に大量発生したアリの研究のつもりだったのですが、アリの方は全員一体となって人間側へ仕掛けてくるのが、観客に伝わってくるので、これは何かとんでもないことが起こっているのを、登場人物より先に知ることになるわけで、そこに生まれたサスペンスが見事でした。上映時間83分という短めの映画ですが、ムダな説明や人物描写を一切排して、人間対知的生物の、種の存続を賭けた闘いを、砂漠の一画の3人の人間だけで、コンパクトなドラマの中に描き切ったのは、メイヨ・サイモンの脚本の力があってのことだと思います。

博士を演じたナイジェル・ダベンポートはアリの知性に「おお、なかなかやるな」と余裕を見せているうちに追い詰められて逆上してしまう人間様の傲慢さを熱演しています。また、博士に振り回されて逃げ遅れてしまう気の毒なレスコを演じたマイケル・マーフィは、この映画の狂言回しとして驚愕の結末を見届けることになります。ケンドラを演じたのは、「さすらいの航海」「熱愛」の可憐なリン・フレドリックでして、ピーター・セラーズと年の差結婚して、40歳を前に夭逝してしまったある意味伝説の女優さん。この映画でも、この世のものでないキレイさがラストの衝撃に一役買っています。とにかく、話が面白く展開して、ラストで怖い映画ですので、一見をオススメしちゃいます。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ドームの中には3人。外へ出るための防護服は2着しかありません。険悪になる博士とレスコを見て、ケンドラは自分が犠牲になればいいと、一人で外に飛び出します。そして、アリにつかまってしまうケンドラ。一方、博士は女王アリのいる蟻塚を特定し、攻撃しようと、レスコが止めるのも聞かずに外へ飛び出し、アリの群れのえじきになってしまいます。一人残ったレスコは、防護服を着て、女王アリのいる蟻塚までたどり着き、中へ入ることに成功します。そこは竪穴になっていて、穴の底は広場のようになっています。その中心は砂場です。すると砂の中から人間の指が現れ、徐々に姿を現したのは、エンドラでした。両手をさしのべる彼女を抱きしめるレスコ。彼のナレーションで、結局、アリたちの目的は、レスコとエンドラだったと語られます。彼らは人間でないものに変えられて、アリたちの仲間にされてしまいます。その訳をいずれ知ることになるだろうとナレーションが語り、夕陽をバックにエンド・クレジット。

クライマックス、砂の中から、まず指が現れ、徐々に姿を現すエンドラの怖いこと。姿は、人間のままなのに、完全にこの世のものではなくなっているという絶望的な結末です。最後に、アリたちにとってのアダムとイブになったらしい二人が夕陽をバックに手を取り合ってるラストカットも不気味です。とにかく、これで人類は終わりだねってのが、見事に伝わってくるエンディングでして、予算はなくても、世界の終わりは作れるんだなあって感心しちゃいました。登場人物の中で、感情を顕わにするのが博士しかおらず、他の2人は淡々と事態に対応しているように見える演出が、薄っぺらい人間ドラマをうまく回避して見事でした。終末の始まりの目撃者という位置づけだったレスコが、最後まで感情的にならず、事態を冷静にナレーションするのが、その絶望感にリアリティを与えているのですよ。両親を失ったエンドラとか、逃げられたのに逃げそびれたレスコが、恨み言を言ってもいい筈なのに、そこをあえて押さえて、クライマックスでアリのドラマへシフトチェンジしたのがうまい。語り部の冷静な視点が、この映画に本気の怖さを運んでくるのですよ。最近の映画で、これだけ怖い後味の残る映画は観たことがなかったので、それがすごい新鮮でした。これが幽霊とか悪魔といった、人間らしさを持ったものが対象だと、相手側の怖さを理解できる余裕があるのですが、相手がアリで本当に何を考えているのかがわからないだけに、そのわからない部分と、砂の中から現れるエンドラのイメージが重なって、得体の知れない怖さを感じさせる映画でした。1960~70年代のペシミスティックなSF映画というと、人間が増え過ぎた世界(「ソイレント・グリーン」)ですとか、核戦争後の世界(「赤ちゃんよ永遠に」「猿の惑星」)といった、人間の愚かさが招いた世界の終末というのが多かったのですが、この映画は、人間なんてモノともしないアリによる世界の終わりを描いていて、その視点が大変目新しく、今、観ても古さを感じさせません。

「他人の顔」は今とは違う価値観で作られた人間の存在を問うドラマかな。


pu-koさんのブログで「他人の顔」の記事を拝見して、そう言えば録画したっきりで観てなかったのを思い出し、古いDVDを探してみたら出てきたので、初めての鑑賞となりました。これは「複製された男」につながるものがあるのかしら。

会社重役である主人公(仲代達矢)は工場での事故で顔に大火傷を負ってしまい、顔面包帯ぐるぐる巻きになってしまい、妻(京マチ子)との関係もぎくしゃくしていました。顔がないってことは、自分の存在がなくなったみたいとか、妙に持って回った考え方をするようになっちゃって、奥さんとしても扱いづらいことこの上なし。そんな彼が精神科医(平幹二郎)に紹介された、人間の肌そっくりの素材で作った仮面を見て、これで自分に新しい顔を作ってって言い出します。あんまり気の進まない医師でしたが、その仮面を被ってからの経過報告を入れることを条件に、仮面を作ることを承諾します。そして、できた仮面をかぶってみればあら不思議、元の顔とは似ても似つかない仲代達矢によくにた男が出来上がります。彼は、包帯だらけの顔の時に借りておいたアパートに、また新しい顔で別の部屋を借ります。そして、新しい顔を使って妻に近づき、口説こうというのです。一方、主人公の物語と並行して、顔半分に火傷の痕のある若い女(入江美樹)の物語が描かれます。彼女は精神病院で働いて、兄と二人暮らしをしています。気丈に振る舞いながらも、周囲の視線に心を痛めていました。さて、この二つの物語がどこで交わるのかと言いますと....え? 交わらないじゃん。


この先は結末まで一気に書きますのでご注意ください。


安部公房の原作を本人自ら脚本化し、華道家でもある勅使河原宏がメガホンを取った一編です。顔を失った主人公が対人関係が昔のように戻らないことを愚痴るところは確かに納得できるところがあります。秘書は自分を包帯ぐるぐる巻き男としか認識してくれないし、専務は彼と会話することがすごくストレスみたいですし、奥さんは彼と視線が合うことを避けているようです。新しい人間関係を構築するために、彼は医師に新しい顔を作って欲しいというのです。そして、自分が誰でもない人間になれたとき、そこで何をしようかというと、奥さんを口説こうというわけ。医師は、そりゃ厄介な三角関係になるからやめときなさいと止めるのですが、それでもやるという主人公。そして、渋谷の街を歩く奥さんに声をかけると、意外や簡単についてくるじゃありませんか。そして、アパートまで連れて来て事に及んでしまいます。でも、事があまり簡単に進み過ぎて、彼は逆上しちゃいます。そんな彼に、奥さんは最初からわかってていたと言います。そんなバカなと言う彼ですが、どうやら本当みたい。そして奥さんは彼から去っていっちゃうのでした。そして、通りすがりの女性に抱きついて、わざと逮捕される主人公。おれは誰でもないから逮捕されることもないとうそぶく彼を、精神科医が引き取りに来ます。二人で道を歩いていると、地下道からたくさんの人がゾロゾロと二人に向かってやってきます。でも、みんな顔がない。顔のない群衆をやり過ごした後、精神科医に仮面を返せと言われた主人公は、持っていた包丁で医師を刺します。医師の死体を見下ろす主人公、で、おしまい。

正直言って、わかったようなわからないような映画でした。顔を失った主人公が他人の顔を手に入れたとき、彼に何が起こるのか、奥さんをナンパしてあっさり成功して、でも奥さんは宣告ご承知で、仮面に頼る主人公が逆に愛想を尽かされちゃう。ストーリー的には割とシンプルなように思えるのですが、見せ方が妙に思わせぶりなのですよ。精神科医のオフィスの不気味な透明感ですとか、時々、挿入される顔に火傷の痕がある娘のエピソード。そして、アパートの管理人の障碍を持つ娘のエピソード、そもそも主人公のやけにシニカルで人をいらだたせる話し方からして、どっか変なんですよ。まるで舞台劇のようなセットとセリフ回しで物語は進んでいくので、妙な緊張感が映画全体を覆っています。

火傷のある娘は、精神病院の看護師をしていて、患者に抱きつかれたりする一方で、病院の外では、みんな彼女の顔を見たときに言葉を失ってしまいます。兄と二人暮らしで、「いつ戦争が始まるのかわからない」なんて会話をしています。そんな二人が海辺の町へ旅行へ出かけます。娘は寝ている兄に口づけし、二人は結ばれるのですが、明け方、娘は遺書を残して海に入っていきます。部屋の窓からそれを見た兄が叫ぶと、屠殺された牛に変身しちゃうのでした。そこで、娘のエピソードはおしまい。主人公の物語には関わって来ません。娘と主人公の共通点は、顔の火傷の痕です。でも、娘は主人公のように閉じこもっているわけではなく、その痕を隠そうともしないし、他人になろうとしているわけではありません。ただ、ラストで娘が兄に抱かれるところは、肉親を他人に変える儀式と見えないこともありません。娘が、自分を取り巻く人間を全て、他人に変えてから、死を迎えるのだとすれば、主人公がラストで、医師を殺して、誰からも他人になってしまうことも、死を意味しているのかもしれません。ひょっとして、自分のアイデンティティを失うことは死を意味してるってのは、ちょっと考えすぎかしら。

ラストで顔のない人間がぞろぞろ現れてくるところは、みんなが主人公のような「誰でもない他人」になってしまった世界を表していると思うのですが、これは、現代(1966年)はそういう時代なんだよって言いたいのかもしれません。そして、「誰でもない他人」ばかりの世界はグロテスクで恐るべき世界なのだと言いたいように思えてしまいました。でも、自分の周囲を見たとき、知り合いよりも「誰でもない他人」の方がずっとたくさんいるし、そういうのが当たり前だと思っているので、顔のない人間の群れって、それほどのインパクトないのですよ。

この映画が作られたのは、1966年ですから半世紀近く昔のお話です。どうも物語の展開にピンと来ないものがありまして、気になっていたのですが、文化が今と違うんだなってところに気付きました。今は昔より人間関係は希薄になっていますし、ネットの世界を考えると「誰でもない自分」の存在って身近なものになっています。主人公が失われた人間関係を取り戻したいというのは、あの頃は人間はみな他者との関係でしか自分を見つけられなかったんだなあって気がします。人はしがらみから逃れられない、逃れたいと思っても、孤独では生きられない、そんな時代だったのではないかしら。今は、しがらみから逃れるのは昔よりは簡単ですし、孤独は恐ろしいことでも恥ずかしいことでもない時代になっています。「自分探し」というのは、他者との関係を切り離して、自分の価値や生きる意味を見つけることです。「孤独」も「自分探し」も大したことではない、今のような時代では、顔を失った主人公の悩みがピンと来なくなっているのではないかしら。ブログやツイッターの無名性を考えると、顔のない自分にそれほどの嫌悪感を感じることもありません。映画のラストで、自由を求めれば孤独であるというセリフが出てきますが、今の日本では、もはや自由は求める必要を失い、誰もが孤独と隣り合わせで暮らしていると思えば、この映画の持つ空気を実感するためには、1966年の日本で暮らしてみる必要がありそうです。

この映画では、娘と精神科医が命を落とします。娘は精神病院の患者と兄とだけ人としての関わりを持っていました。主人公は精神科医にだけ思うところを伝えていて、関わりを持っていました。娘は社会との関わりを絶たれていて、主人公は精神科医以外の関わりを自ら絶っていました。そう思うと、娘と主人公は鏡の裏表のような存在で、娘の死は、社会全体の死を意味し、精神科医の死は主人公の社会的な死を意味してるのかもしれないと思いが及びました。ただ、そう考えるには、孤独は死に等しいものだという前提が必要でして、その感覚は、今(2014年)では理解するのが難しい感情なのかもしれません。今の人の方が、孤独への耐性がかなり強いのかも。

こんなことを考えちゃう理由としては、精神科医のオフィスがあの世というか死の象徴に見えたってことがあります。絵が描かれたガラスに仕切られた空間で、看護婦が岸田今日子ですからね。正確には、あの世というよりは、あの世の入り口みたいな感じでしょうか。そこにいる患者は、あの世へ行く前の亡者みたいに思えたのです。つまり、主人公はあの世の入り口で現世への未練を見せたのですが、現世もあの世も大差ないことに気付いてしまった、一方の火傷の娘はあの世への希望を持って死を迎えたという風に読めたのです。精神科医は、悪魔か天使みたいなもんですね。

まあ、考え過ぎなのは百も承知なのですが、色々と解釈するのも面白い映画だと思います。ネットで他の解釈を読んでみるべきだったかも。ムチャクチャ外してるって気がしてきましたが、まあ、それもご愛嬌ということで。

「女優霊」は怖いし、映画としてもよくできてる佳品、おすすめ。


「呪われたジェシカ」をDVD鑑賞した後、これも観ておこうと思ったのが「女優霊」です。かつて、劇場公開を観に行った時は、映写時ミスされ、さらに映写室に誰もいなかったという散々な鑑賞(今はなき「関内アカデミー2」、今も根に持ってるぞ)だったのですが、その怖さは鳥肌ものだった記憶があります。一度、レンタルビデオで再見したときは、カギとなる昔のフィルムの解像度がよくなくて、あんまり怖くなかったのですが、今回、DVDで見直してみると、初見のインパクトはないものの、よくできてるって感心しちゃいました。

新人監督村井(柳ユーレイ)のデビュー作の撮影が始まりました。主演女優黒川ひとみ(白嶋靖代)と村上沙織(石橋けい)のカメラテストを行いました。未使用フィルムを使って撮影した筈だったのですが、試写してみると、それは未現像フィルムだったようで昔のドラマの映像らしきものが映り込んでいました。和服の女性の後ろに映り込む影があり、どうも尋常な感じがしません。村井は過去にこのフィルムを見た記憶がありました。でも、未現像フィルムってことは多分お蔵入りになったドラマだろうってことになります。デビュー作の撮影は順調に進みますが、ひとみがセットの外の廊下で不思議な声を聞いたり、村井がロケバスの中のいるはずのない女性の姿を見たり、おかしなことが起こります。ひとみの事務所の社長がやってくるとセットの前で怯えたようになり、ひとみにお守りを渡して逃げ出します。そして、撮影が佳境に入ったとき事件が起こってしまうのでした。

「リング」のコンビ、高橋洋が脚本を書き、中田秀夫が劇場映画の初メガホンを取った作品です。「リング」から始まるJホラーブームの先駆的作品と言われ、ホラー映画としての評価が高く、また映画撮影現場を扱った作品としての出来のよさも評価されています。公開当時よりも「リング」公開以降に再評価された作品で、76分というコンパクトな時間の中で密度の濃い恐怖が作りこまれています。グロい描写はありませんし、じらしやショッカー演出もほとんどなく、それでも怖い映画に仕上がっているのが見事な一品です。

映画の冒頭はセットの模型の中に登場人物の人形が置かれているシーンで始まります。そのセットをのぞきこむ監督村井の顔が映り、映画セットの打合せのシーンだとわかります。実際ににっかつ撮影所を使って、その中に映画内映画のためのセットを作りこんで撮影しているので、リアルな映画撮影現場のお話が展開します。チーフ助監督、セカンド、カメラマン、撮影助手、スクリプターといった映画の作り手が丁寧に演出されていて、その細かい作りこみがドラマに厚みを与えています。そして、カメラテストの映像を試写するところから怪異が始まるのです。

昔のドラマのラッシュフィルムらしい映像がスクリーンに現れるのですが、このシーンを最初、映画館で予告編を観たときに鳥肌が立った記憶があります。昔らしい色調のフィルムで、和服の女性が映っているのですが、その首の後ろあたりに人影がチラチラと見えるのですよ。そして、その女性が何かを見て驚いた絵になると、その後ろで白い服を着た長い髪の女が体を揺すって笑っているのがまた不気味。その不気味な女にはピントがあっていないので輪郭はわかるのですが、顔のディティールはぼやけているのがまた怖い。そして、子供が狭い階段を上っていき細い廊下を進んでいくとドアがあって、そのドアが開いていくという絵になります。村井はこの映像を子供の頃見た記憶があり、試写係の六さん(高橋明)にそのフィルムの女優を調べてもらうように頼みます。

この昔見たことある怖い映像というのは、脚本家の高橋洋の子供時代の体験に基づくものだそうです。すごい印象に残っている映像なんだけど、それが何なのかを思い出せない感じ。そして、そのフィルムを見てから不思議なことが次々に起こります。不思議の理由がよくわからないのですが、何かおかしい、そしてその根源は撮影所にあるみたいなんです。映画撮影にまつわる怪談というのは、本でも読んだことあるのですが、人の想いがたまりやすいのか、そういう怪異の起こりやすい場所のようです。この映画は怪異の因縁話をしないで、フィルムに映り込んだ不気味な女が主人公の村井を取り込んでいくお話になっています。

映画の撮影現場がリアルに撮れているということでも、この映画の評価高いです。下っ端のディレクターの扱いですとか、新人監督とベテランカメラマンの関係ですとか、撮影現場で各人が各々の持ち場の動きを丁寧に見せていて、それが映画の現場での怪異にリアリティを与えています。

演技陣では、主演の柳ユーレイがきちんと映画監督に見えることにまず感心。また、今静岡県で2番目くらいの有名人石橋けいが演技力が未熟な若手女優を好演しているほか、助監督を演じたサブ、カメラマンを演じた大杉蓮がリアルな映画人を演じて存在感を見せています。白島靖代は、この映画でファンになったのですが、その後あまりテレビ映画でお目にかかる機会がないのが残念。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ひとみと男優の演技を撮影中、沙織が撮影所の照明が置いてある天井近くの場所から転落死するという事件が起こります。撮影は中断し、そのままお蔵入りかと思われますがラッシュを見た制作側の人間が何とか最後まで撮り終えるという判断をして、ラストシーンを撮影することになります。沙織の役には、代役を立てて、ひとみが男を毒殺するカットの撮影となります。その時、最後のセリフを言おうとしたひとみの視界に、死んだ沙織の顔が見え、ひとみは怯えた表情になってしまいます。そこへ、沙織の代役の女優が割り込んできて、演出を無視して高笑いを始めます。それは、昔のフィルムの映像の再現でした。さらにそのラッシュフィルムを確認すると、ひとみが部屋に入るカットの向こうに白い服を着た女性が映り込んでいたのでした。村井はみんなが帰った後のセットに戻ってみると、沙織が転落していた場所にひとみがいるのに気付き、階段を昇っていきます。その場所にいたひとみの姿は消え、これまでみんなを悩ませてきた白い服の女が現れて、村井を追ってきます。子供のように怯えて逃げ回る村井。古いフィルムにあった部屋に逃げ込む村井を女は追ってきて、村井を押さえ込むと、あのフィルムのように高笑いをあげます。村井はずるずると引きずられていずこへと連れ去られるのでした。そして、村井は行方不明となってしまいます。助監督と一緒に、ひとみが村井の部屋を訪れます。洗面所の鏡の前で「どこいっちゃったんだろうなー」と呟くひとみの背後に例の女が映り込みます。ひとみが何かに気付いたような表情をしたところで暗転、エンドクレジット。

ラストカットに映り込む女は初見のときは気づかず、再見したとき、「あ、こんなところに」と認識しました。一瞬ですぐエンドクレジットに入ってしまうので、一見だけでは気づかない人もいたのではないかしら。それだけに、気づくと怖いインパクトのあるエンディングになっています。結局、この女の正体は最後までわかりません。謎のフィルムについては、制作中止になったドラマのものだと説明され、映っていた和服の女優は撮影所で転落死していたことまでわかっています。しかし、そうすると村井が子供の頃見た記憶があるという話の辻褄が合いません。そのあたりに超自然ホラーの味わいがあるのですが、村井が、子供の頃の記憶を後で植え付けられて、異形の女に取りつかれたという解釈が一番ありそう。ただ、どういう解釈にも決定的な要素は描かれませんので、消化不良のまま、撮影所にいる魔物の存在だけが浮き上がるという構成はうまいと思います。因果関係がわからないだけに、不気味な後味が残る結末となり、この映画のホラー映画としての評価が上がったのだと思います。

刺激は弱めだけど、怖さはかなりのものです。ラストで不気味な女をアップで高笑いさせたところは見せすぎたと作り手も後で思ったようで、その反省が「リング」第1作のあの貞子の見せ方につながったのだそうです。Jホラーの枠を超えて、一本の映画として面白くできていますので、機会があれば、一見をおすすめします。

「呪われたジェシカ」の怪異は全て幻覚かも、ヒロインメンタル弱いし。


「たたり」「ヘルハウス」とホラー映画の名作をDVD鑑賞して、そういえば、これがまだだったというので「呪われたジェシカ」のDVDをゲットしてしまいました。この映画、その昔、小学生の頃、テレビの深夜映画で観て、怖さに震えたという記憶があります。見直してみて、さすがに、初見のインパクトはありませんが、確かにこれはうまい怖い映画だと再認識しました。

精神を病んで入院していたジェシカ(ゾーラ・ランバート)は、退院して静養も兼ね、片田舎のお邸に夫ダンカン(バートン・ヘイマン)と引っ越してきます。友人のウッディ(ケビン・オコナー)も農場を手伝うために一緒です。なぜか霊柩車で邸のある町に着くと、そこの住人は排他的なのかジェシカたちには冷たいようです。邸に着くと、そこには空家だと思って入り込んでいたバックパッカーのエミリー(マリクレア・コステロ)がいて、すぐに出ていくつもりが、ジェシカたちが引き止め、一緒に暮らすようになります。ジェシカは、謎の少女の姿や幻聴に悩まされるようになります。自分でも病気だという意識があるので、それが現実でないのかもという意識の板挟みになるジェシカ。4人で入江に水浴びに行くと、水の底に白い服を着た女性が現れ、ジェシカは引きずり込まれそうになりますが、他の3人にはそんな女性は見えていません。家の古道具を売り払いに行った時、骨董品屋から、そこの家の花嫁が入江で行方不明になって吸血鬼になったという伝説を聞きます。エミリーは最初はウッディと親しくなるのですが、その後、ダンカンにも色目を使っているようで、それがジェシカの精神を痛めつけます。ジェシカの前にまた少女が現れ、彼女についていった先には骨董品屋の死体がありました。その少女はダンカンにも見えていてつかまえてみると、彼女は口が聞けず、そして骨董品屋の死体も消えているのでした。果たして、ジェシカは正気を失っているのでしょうか。

ノーマン・ジョナスとラルフ・ローズの脚本を「カリフォルニア・ドリーミング」のジョン・ハンコックが監督したホラー映画です。公開当時はニューロティックホラーと呼ばれたこともあったようで、確かに神経症のヒロインが怖い目に遭うということでは、そういうジャンル分けもありそうです。全編をどこまでが現実で、どこからがヒロインの幻想なのかがよくわからない構成になっています。冒頭のヒロインのモノローグから、映画全体が回想形式になっていることがわかり、精神病院でヒロインが回想しているような味わいもあります。精神病院を退院したばかりのヒロインは精神的に不安定なところがあり、夫やウッディは彼女に気を使っているようなところがあります。それでも、気丈に振る舞おうとするジェシカなのですが、彼女のささやきかける声が聞こえたり、水中に人影を見たりとおかしなことが起こってきます。

この映画の面白いところは、ヒロインの精神が不安定なことを、当人、周囲の人間、そして観客も知っているというところ。この類のホラーでは、主人公が体験する異常な事件を実際にあったことのように描いておいて、最後に全部ヒロインの幻覚でしたというサイコスリラーに落とすものがあります。それは、ある意味、定番ともいうべきものになっているのですが、この映画では、最初から、これはジェシカの幻覚かもしれないという見せ方をしているところがユニークです。原題は「ジェシカを死ぬほど怖がらせよう」というもので、全てがジェシカの幻想かもしれないし、あるいは周囲の人間すべてが彼女を狂わせようとしているのかもしれない、いえいえ、ひょっとしてこの超自然現象はホントにあったことなんだと言うつもりかもしれないと、どうとでも取れる描き方になっているのですよ。そして、その見せ方はなかなかに怖い。入江で水中から女性が姿を現すシーンなどはっきりと姿を見せないだけに余計めに怖い。ジェシカが自分の精神状態に不安を抱いているという設定も効いていまして、これはどこまで本当のことなんだろうという観客の疑問とジェシカの抱く不安がシンクロするのがうまいと思いました。

骨董品屋から語られる、溺死した花嫁が吸血鬼になっちゃったという吸血鬼伝説が、だんだんドラマの前面に出てきますと、その物語のリアリティのなさが逆に怖さを増幅するのですよ。ヒロインの幻覚が、エミリーとダンナができてるとか、入江で死んだ花嫁を見ちゃったというのなら、想定の範囲内なのですが、唐突に現れる吸血鬼伝説が実体を帯びてくると、さすがにこれはヒロインの幻覚とは別物だよなあという気になってきます。ヒロインには変な趣味があって墓地の墓石に面白いデザインがあると、そこに紙を置いて写し取って部屋に貼っています。悪趣味な気もしますが、結構面白いデザインもあったりするので、わからないこともないけど、何しろメンタルに不安のあるジェシカがやっているので、やっぱり変。こういう危うげなヒロインの体験は一体どこまでホントなのかしら。

演技陣ではジェシカを演じたゾーラ・ランバートの熱演が光りました。疑心暗鬼になっちゃうのですが、さらに自分自身も信用できないという役どころにリアリティを与えています。エミリーを演じたマリクレア・コステロはどこか押しが強くてミステリアスで、ジェシカの神経を逆なでする女性を巧みに演じました。またオービル・ストーパーの音楽が通常の劇伴音楽の上にさらに不安なシンセサウンドを乗せるという二重音楽をつけることで、不気味な空気感を作り出すことに成功しています。特に心臓の鼓動のようなパルス音を駆使して、恐怖をもりあげています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



エミリーが溺死した後行方不明の花嫁にそっくりなことに気付くジェシカ。そんなジェシカをエミリーは強引に入江に連れて行き、隙を見て彼女を水の中に突き落とし、水の中に沈めようとするのです。そんなエミリーを振り切って、岸に上がると、水の中から、写真のままの服装をした花嫁(顔はエミリー)が現れ、ジェシカに近づいてきて彼女に噛みつこうとします。花嫁を振り切って自分の部屋へ逃げ込んで頭を抱えるジェシカ。その間、ジェシカを呼ぶ声がずっと聞こえています。そして時間が経過し、下へ降りてくるとそこには誰もいません。町まで出てみれば、町の連中はみな顔や腕に大きな傷ができていて、どこかおかしい。そこから逃げ出したジェシカはダンカンに見つけられ、家へ戻ると、ベッドに入ったダンカンの首にも傷があったのです。さらにベッドの横に、ナイフを持った花嫁や町の人々が集まったきます。部屋を逃げ出すジェシカ。逃げる途中の階段の横に置いてあったコントラバスのケースの中には、あのしゃべれない少女の死体がありました。少女はジェシカに警告しようとしていたのです。農薬を巻くトラクターに助けを求めるとそこには友人ウッディの死体がありました。フェリー乗り場まで逃げたジェシカがフェリーに乗ろうとすると、係員の顔には大きな傷がありました。そこで、岸部のボートで漕ぎ出すジェシカですが、その船に乗り込もうとする男を銛で突き殺してしまいます。その顔を見れば夫のダンカンでした。岸には花嫁と町の人々が佇んでいます。ボートの上でジェシカはこれが本当に起こったことなのかどうか、わからなくなっていくのでした。エンドクレジット。

ジェシカを死ぬほど怖がらせる話とは、昔、入江で死んだ花嫁が吸血鬼になって今も生きていて、田舎町の人間はみんな吸血鬼に噛まれて、その仲間になっていたというもの。その吸血鬼の大もとがヒッピーのエミリーに姿を変えてジェシカに接近してきたのでした。一応の説明は通るものの、唖の少女や骨董品屋が殺される理由はよくわかりません。殺されるのと、吸血鬼の仲間にされるのと二通りに犠牲になるパターンがあるってのもよくわからないところがあります。そういう非合理性をあえて、説明しきらないで見せただけというところにこの映画の面白さがあります。実際の吸血鬼の話だとしても、ジェシカの幻覚だとしても、どっちにしても腑に落ちない結末になっているのです。映画の冒頭から全てジェシカの夢だったというのなら、可能性はありそうです。理不尽で行き当たりばったりで、でもどこか符合性のある事件が続くと、これは誰かの夢の話だというのはおおいにありうる話です。でも、そうだとしても、何か変だよなあってところに落ち着くのがこの映画の面白さだと思います。

ヒロインが精神を病んでいて、不可解な現象が起きても誰も信用してくれないという映画では、名作「恐怖の足跡」が思い浮かびますが、ヒロインが怪異に取り込まれてしまう展開は似たものがあります。ひょっとして、ジェシカがすでに自殺していてこの世のものではないという解釈も可能かもしれません。「恐怖の足跡」は明快に一つの解答を示して終わったのですが、この映画では、何通りもの解釈が可能であり、結末が観客の手にゆだねられているというのが面白いと思います。真実をあーだこーだと空想してみるのもよし、刈り取らない伏線を散りばめた構成を楽しむもよし、色々な遊び方ができる映画だとは言えないでしょうか。子供の頃は、このはっきり説明しない結末がすごく怖かったというのを思い出しました。

「ヘルハウス」は幽霊屋敷ものの面白さでの筆頭です。


この前、DVDで「たたり」を観て、これと同じく今や古典となりつつある「ヘルハウス」をDVDゲットして見直しました。公開当時は「エクソシスト」公開の後、後追いオカルト映画みたいな扱いでの公開でしたけど、これは「エクソシスト」と比較されても困る毛色の違う映画でした。

1919年に建てられたその邸では、主人ベラスコが放蕩悪行の限りを尽くし、当のベラスコは邸に招待客27人の死体を残して姿を消していました。それ以来、この家はヘルハウスと呼ばれ、過去に行われた心霊実験では死者を出すなど、とんでもない場所としてその名をとどろかせていました。その邸を買い上げた新しいオーナーが、再度、邸の調査をさせるべく、物理学者バレット博士(クライブ・レビル)、心理霊媒フローレンス(パメラ・フランクリン)、物理霊媒ベン(ロディ・マクドウォール)を1週間邸に送り込むことにします。バレットは妻のアン(ゲイル・ハニカット)を同行します。ベンは20年前の実験の参加者で、唯一の生き残りでした。4人が邸の中に入ると、早速フローレンスが反応を示し、礼拝堂へは絶対に入れないと言い出します。そして、フローレンスは交霊を行い、そこでベラスコの息子のいると言います。息子の霊はフローレンスの部屋にも来て、彼女に救いを求めているようなのです。バレットはもともと霊魂の存在には否定的で、そこにあるのは意思のないエネルギーだと考えていました。ベンは前回の実験のトラウマから心を閉ざすことで無事にやりすごそうとしています。アンは、邸の雰囲気にあてられたのか、おかしくなってベンに言い寄るようになります。フローレンスは、邸の地下で鎖につながれた死体を発見します。これがどうやらベラスコの息子のダニエルらしいのです。その死体を埋葬した後も、ダニエルの霊はフローレンスにつきまとい、彼女の体を求めてきます。この邸で、4人は無事に調査を終えることができるのでしょうか。

「地球最後の男」「激突」や、映画、TVの脚本でも知られるリチャード・マチスンの原作を、マチスンが脚本化し、「ブラス・ターゲット」「星の国から来た仲間」のジョン・ハフが監督したホラー映画の一編で、ハフにとっての代表作になっています。幽霊屋敷として有名な邸に、物理学者と霊感のある人間が調査にやってくるというところは「たたり」と同じ趣向です。しかし、「たたり」が超常現象の絵解きをしないで、何か不思議なものとしてのみ描いたのに比べると、こちらは、人間と邸の攻防戦となっており、さらにミステリーの趣向も盛り込んだエンターテイメントに仕上がっています。同じ幽霊屋敷でも「たたり」は雰囲気で見せる映画ですが、こちらは、展開の面白さで見せる映画になっていまして、映画としての優劣はつけられないのですが、怖さなら「たたり」、面白さなら「ヘルハウス」に軍配があがります。

霊媒に心理霊媒と物理霊媒があるというのは、この映画で初めて知りましたが、その違いはよくわからないまま40年放ってあります。ともあれ、フローレンスは交霊を行い、当主の息子ダニエル・ベラスコの霊と交感します。バレット博士は、彼女の能力をインチキだとは言わないものの、心霊の存在は否定しています。霊媒であるベンでさえ、息子の霊について懐疑的で、彼女が邸に利用されているのではないかと危惧します。そして、息子とおぼしき死体が発見されることでフローレンスの主張は証明されることになります。

当主ベラスコは、SMとか死姦とか人肉食いまでやらかしたとんでもない奴だったらしく、吼える巨人と呼ばれる風貌だったそうです。そのエロオヤジの部分が、アンを夢遊病のようにしてベンを誘惑させます。また、埋葬された息子の霊はさらにフローレンスの肉体を求めてくるのです。フローレンスが彼に肉体を与えると、彼女の部屋で悲鳴が聞こえ、ベンたちが彼女の部屋に向かうと裸のフローレンスがベッドに倒れていました。その後、彼女は自分の中に息子が入り込んだと言い、誰かに操られたような言動や行動をとるようになります。一方、バレット博士は、この邸には電磁的な残留エネルギーがあって、それが超常現象を起こしていると考えていました。そして、リバーサーと呼ばれる巨大な機械を持ち込んで、逆のエネルギーを与えることで、残留エネルギーを沈静化させ、それにより霊と呼ばれるものをはらおうとします。そのことをベンやフローレンスに説明したとき、フローレンスが機械を壊そうとしたことから、自分の理論に確信を持ちます。そして、いよいよリバーサーを作動させることになります。

ジョン・ハッフの演出は94分という時間、4人だけの登場人物の中でサスペンスを盛り上げることに成功させています。シーンの冒頭に日時時刻を表示することでドキュメンタリータッチを演出しています。ブライアン・ホッジソンとデライア・ダービシャーによる電子音楽が、効果音の部分でも使われて、その無機質な感じがドキュメンタリーの雰囲気を盛り上げています。また、「恐竜の島」「スター・ウォーズ ジェダイの復讐」のアラン・ヒュームのキャメラは邸の不気味な空気感を見事に表現しています。これは、脚本の功績なのでしょうが、この映画では、心霊現象というものを、神の力を借りて解決しようとするフローレンスと、科学の力で解決しようとするバレット博士をバランスよく采配しているので、どちらの言い分も正しいように思えるところがうまいと思います。この邸には意思を持たない、でも強烈な残留エネルギーがあって、それが生きている人間を介して心霊現象となっているというバレット博士の言い分には結構説得力あるのですよ。それに比べると、繊細そうなフローレンスのベラスコの息子の霊の存在の方がどこか怪しい、彼女が邸に利用されているというベンの言い分も正しいような気がしてきます。このあたりは、キャスティングの妙もありまして、フローレンス役のパメラ・フランクリンは線の細い感受性の強い女性にうまくはまりました。一方のバレット博士役のクライブ・レビルは、心霊現象は否定しないけど、霊魂の存在を否定するという立場を冷静に演じて、説得力のある演技を見せてくれました。アン役のゲイル・ハニカットは邸に翻弄される人妻をエロチックに演じてみせました。前回の唯一の生き残りであるベンを演じたロディ・マクドウォールは、バレットとフローレンスのシニカルな観察者というポジションを演じて、うまいところを見せます。




この先は結末に触れますのでご注意ください。



機械を壊そうとしたフローレンスはバレットに殴られて気を失うのですが、その後、目を離した隙に姿を消し、バレットたちが気付いたときには、礼拝堂で十字架の下敷きになって死んでいました。彼女はダイイングメッセージに「B」という文字を残していました。そして、リバーサーの作動は実施され、作動後、邸内に戻ってみると、それまであった霊気がはらわれてることにベンは驚かされます。しかし、バレットが資料を記入していると、エネルギーを察知する計器が作動して爆発します。異常に気付いたアンとベンは礼拝堂で無残に殺されているバレットを発見します。ここで、これまでずっとおとなしくしてきたベンが、二人に死を無駄にできないと立ち上がります。そして、交霊の時のフローレンスの言葉や、ベラスコが邸を出たことがなかったこと、前回の実験で関係者が皆足を傷めていたことを思い出し、咆哮の巨人というベラスコの実体は身長コンプレックスの小男であることに気付き、礼拝堂で、ベラスコに向かってそれを暴いて見せます。「お前は、娼婦が産んだ只のチビの私生児だ」と言い放つベンを、強力な力が押し戻そうとするのですが、最終的に空気は静まり返ります。そこで、ベンが霊媒能力を発揮すると、礼拝堂の壁が壊れ、その後ろの隠し部屋が開きます。ベンとアンがその中に入ってみると、そこにはベラスコが生きているような姿で座っていました。ベンがナイフをベラスコの足に突き立てるとそれは義足でした。ベラスコは身長が低いコンプレックスから足を切って義足にしていたのでした。そして、隠し部屋は鉛で覆われていて、それにより、リバーサーによって息の根を止めることができなかったのでした。フローレンスのダイイングメッセージは全てがベラスコ一人による現象だという意味だったのです。バレット博士もフローレンスも真実に近づいていたのですが、もう一歩のところでベラスコによって殺されてしまっていたのでした。邸を出るベンとアンに日付時刻がかぶさり、エンドクレジット。

バレット博士が持ち込んだ科学技術の結晶であるリバーサーがかなりの効果をあげること、そして、ラストでベンがベラスコに勝つという展開に意外性がありました。誰が正しくて、誰が生き残るのかという展開の面白さで最後まで引っ張る展開が見事でして、この映画を一級の娯楽作品に仕上げています。霊魂はあるのかないのか、どこへ話を落としこむのかというところ、そしてどうすれば邸に殺されずに済むのかというところがスリリングで最後まで飽きさせません。超自然現象をあるものとして扱っていながら、ミステリーとしても十分に面白かったのですから、大したものです。

「たたり」は心理スリラーと心霊ホラーの並行2本立ての構成が見事


Jホラーの本を買ったら、そのルーツ的存在として紹介されていたアメリカ映画「たたり」をDVDで観ました。990円という値段はうれしいのですが、画質音質が今一つよくありません。映像的にも見所多い映画だけに廉価版ブルーレイとか出ないかしら。

ニューエングランドの片田舎にあるお邸は、90年前、当主の妻がそこへ来る途中に事故死、後妻もその邸で怪死、娘はそこの保育室で一生を過ごし、娘の死後、邸を引き継いだ村娘は首吊り自殺、その後は幽霊が出るといううわさがしきりで、三日と人が居つかないお化け屋敷になっちゃっていました。そのお邸に目をつけたのは、人類学と超常現象の研究家であるマークウェイ博士(リチャード・ジョンソン)で、滞在して超常現象の実験をしようと申し出ます。そして、過去に超常現象に遭遇したことのあるエレナー(ジュリー・ハリス)と透視力を持つセオドーラ(クレア・ブルーム)が邸に招待されます。そして、オーナーの甥っ子ルーク(ラス・タンブリン)が実験に立ち会うことになります。人間の感覚を狂わせるような微妙に歪に設計された邸に面食らう一同。エレナーは青春を母親の介護の費やして、なのに姉からは疎んじられ、精神的にちょっとまいっていました。そんな彼女はこの邸に期待するところがありました。ここは自分を待ってくれている、受け入れてくれる場所なのかも、マークウェイ博士とのロマンスがあるかもと。着いたその晩、謎のノック音がエレナーとセオドーラを悩まします。そして、翌朝、壁にはエレナーへ向けてのメッセージが書かれていました。一体、この邸には何がとりついているのでしょうか。

「くじ」のシャーリー・ジャクスンの原作を「アンドロメダ」のネルソン・ギディングが脚色し、「ウエストサイド物語」「スタートレック」のロバート・ワイズが監督したホラー映画の一編です。幽霊屋敷という設定で、登場する「丘の家」ですが、その正体は最後まで不明。ただ、尋常でないものがこの家にはいるのだというのを当時としても恐怖度の高い演出で見せます。ショック演出もちょっとだけありますが、何でもない映像に、テンション高い恐怖を刻み込むという演出で、ホラー耐性のない人が映画館で観たら、相当神経がまいっちゃうだろうなって映画に仕上がっています。上品な「悪魔のいけにえ」だと言ったら、ほめてることになるのか、けなしてることになるのか。同じく心霊的(心霊かどうかはっきりしてない)現象を扱った映画で「呪われたジェシカ」というのがありまして、それをテレビの深夜映画で観たときに震え上がった記憶があります。それと似た意味で、グロとかショックでないハイテンション恐怖映画として、この映画は記憶に値する一品に仕上がっています。見えないものを感じさせて、恐怖を盛り上げる演出は、Jホラーのアプローチと同じものがありまして、1963年のこのモノクロ、シネスコの映画がJホラーに多大な影響を及ぼしているというのは確かにうなづけるものがあります。

この映画は、邸そのものが具体的な意思表示をしてこないので、ドラマ的には、ヒロインであるエレナーの物語がメインとなってきます。母親の看病で青春を棒に振ったのに、母親が死んだ晩だけ呼ばれたのに答えなかったことを姉に責められ、挙句の果てに厄介者扱いされているという設定。かなり精神的に不安定な状態です。その弱さをつかれて、邸にとりこまれていくようにも見えますし、彼女が邸を選んだようにも見えます。彼女と邸が相思相愛という見方もできまして、そのあたりの関係を映画ははっきりとは描きません。ただ、彼女は定職もなく、母親が死んだ後は行くあてもない状況で、マークウェイ博士との間に勝手にロマンスを夢見ちゃうかなり痛くて悲しいキャラ。ワイズの演出は、彼女が精神的に追い詰められている状況をシビアに描いていまして、その突き放した感じが、大変クールな印象を与えます。ここで言うクールは冷静と冷淡の両方の意味を持ちます。そのスタンスが最後まで貫かれるので、後味は不思議と静かで、そして物悲しさを運んでくるものになっています。

邸の中で起こる超常現象は最近の映画のようなSFXバリバリの見せ場ではありません。どこかを叩く音が邸の中を移動していくとか、ドアが勝手に開閉したり、また廊下の一角が異常に寒かったりするという現象が起こります。また、エレナーの主観で、何者かに手を握られたり、子供の泣き声が聞こえたりするのですが、彼女の主観部分は幻覚かもしれないという見せ方にもなっています。でもエレナーが邸に一番心を開いているので、いろいろな異常体験をするという見方もできます。客観的に描かれる音とか温度などの超常現象と、エレナーが個人的に体験する超常現象が区別されて描かれていることで、この映画に対する様々な解釈が生まれてくるのですが、それはご覧になって判断していただきたいと思います。その一方で、客観的な超常現象は背景が想像できそうでよくわからないので、純粋に怖いです。普通の恐怖映画なら、その恐怖のバックボーンとなる物語があるものですが、この映画では誰の幽霊が出てくるとか、誰かの意思が働いているといった物語を与えてくれないので、とにかく何か得体の知れない事態が起こっているということしかわからないのです。そして、古びた邸の不気味な雰囲気、天使像などの調度品や図書室のらせん階段、廊下の鏡などがこの世ならざる空気を運んできて、それらがスクリーン上でアップになるだけで何か怖い。部屋の中が映し出されるだけで感じられる、恐怖の圧迫感みたいなものがすごいのですよ。グロもショックもないですが、やっぱり怖いもの持ってますこの映画。家のテレビでこれだけ映像の圧を感じたのですから、映画館だったらかなりすごいかも。

演技陣は、「サンゲリア」のリチャード・ジョンソン、「ダーク・ハーフ」のジュリー・ハリス、「サンダ対ガイラ」のラス・タンブリンなどが、それぞれに好演。オーディオコメンタリーによると、エレナー役の解釈で、ジュリー・ハリスとワイズの間で対立があったようですが、確かに色々な解釈が可能な役どころであり、物語であるように思えます。映画としては、基本的に心霊ホラーであるのですが、その一方で、邸にとりこまれていくヒロインのドラマは心理スリラーにもなっていまして、その両方をバランスよくさばいたワイズの演出が光る一編になっています。心霊ホラーをクールに描く一方で、ヒロインの心理をナレーションで丁寧に拾っていくことで、ホラーとしても心理スリラーとしてもよくできた作品に仕上がっています。これは、脚本のネルソン・ギディングの力も大きいでしょう。



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マークウェイ博士との間のロマンスを夢見ていたエレナーですが、そこへマークウェイ夫人がやってきて、エレナー撃沈。夫人は超常現象なんて全然信じない人で、一番の心霊スポットである保育室に泊まると言い出します。ずいぶんと強気な奥さんですが、博士もそれを止められません。そして、エレナーたち4人は1階の部屋に集まって寝ることになります。すると再び何かを叩く音が部屋に近づいてきます。今度は4人みんなが目撃者です。その何者かがドアの前に止まると、ドアが内側へ向かってものすごい力でゆがむではありませんか。マークウェイ夫人の身を案じた4人が保育室へ向かうとそこはもぬけの殻でした。そして、何かに憑かれたようになったエレナーは図書室の壊れかけた螺旋階段を上っていきます。彼女はマークウェイ博士に助けられるのですが、これ以上は危険と判断され、ここを立ち去るよう、マークウェイ博士に言われてしまいます。しかし、エレナーは自分には行くところがない、ここにいたいと言い返すものの、結局、車を運転して出て行こうとするのですが、そこでさらに邸の誘いがあったのか、木に車をぶつけて、エレナー死亡。そこは、かつての当主の妻が事故死した現場でもありました。かけよる、マークウェイ博士の前に行方不明だったマークウェイ夫人が現れますが、彼女はどこをどうやってそこに来たのか記憶がありませんでした。そして、エレナーを取り込んだ邸はひとときの満足を得たのか、再び静かに眠りにつくのでした。おしまい。

どういう結末になるのかと思っていたのですが、エレナーの死はある意味必然だったようです。でも、その死は必ずしも彼女にとって不幸だとは言えないという余地を残しているのが面白いところです。彼女は自分の望むように邸と一体化した。行くところのない不幸な人生の彼女にとっての、唯一のハッピーエンドなのかもと思わせるあたりに、ストレートな悲劇とも違う物悲しい後味が残りました。ともあれ、この1963年のホラー映画が今も記憶に残り、話題になるってのはすごいことだと思います。何千と作られるホラー映画の中でも特筆されるべき1本になっていることは間違いがないようです。それに、意外とこの映画と同系列のホラー映画を観たことがないということがあります。「呪われたジェシカ」には似たテイストを感じましたが、「たたり」のリメイクである「ホーンティング」は発端だけ同じで、中身は別物だという印象しか残りませんでした。幽霊屋敷を扱ったホラーでは「ヘルハウス」という傑作もあるのですが、そちらは悪霊と人間との対決という別アプローチの作品になっていまして、こういうシンプルな幽霊屋敷ものというのは意外と映画化しにくいのかもしれません。

「怪獣総進撃」はマジメな作りが今の目では新鮮。でも、子供目線には怪獣大盤振る舞い。


今、日本映画専門チャンネルでゴジラ映画を続々放送中で、懐かしくて何本か観ちゃいました。「キングコング対ゴジラ」は、スペクタクルの面白さが大画面で観るにふさわしい映画になっていましたけど、ゴジラとキングコングのプロレスは着ぐるみの中の人を感じさせるので怪獣っぽさが一歩後退しちゃっていました。「怪獣大戦争」は、ラスト10分までは侵略ものSFになっていて、ゴジラは最後に暴れるだけという感じでした。そして、「怪獣総進撃」を観てみれば、これが結構面白かったです。特撮ファンの評判としては、今一つなところもあるのですが、最後まで一気に観ちゃいましたから、娯楽映画としてはいい線いってるのかも。

地球をさんざん破壊したゴジラを始めとする10大怪獣は小笠原の怪獣ランドで、安全に制御されて飼育されていました。そんなある日、小笠原で異常事態が発生し、怪獣たちと研究員が行方不明になります。そして、怪獣たちは世界各地に出現し、都市を破壊しまくるのでした。月基地から、宇宙ロケット、ムーンライトSY-3号が急遽呼び出され、艦長の山辺(久保明)たちが小笠原へ向かうと、彼らを研究員の真鍋(小林夕岐子)たちが迎えます。研究員たちは謎のキラアク(愛京子)という女性を紹介し、キラアクの素晴らしい科学力を賞賛します。山辺たちは、研究員たちと撃ち合いになりますが、その中の大谷博士(土屋嘉男)を連れ帰るのですが、博士は隙を見て、窓から身を躍らせます。その死体から、電波発信機が発見され、研究員たちはキラアクによって操られていたことがわかります。そして、ついにゴジラが東京に現れ、さらにラドン、マンダ、モスラも現れ、東京はメチャクチャにされちゃいます。その怪獣の襲撃の間に、キラアクは富士山麓に基地を作っていました。キラアクは地球に永住権を求め、それに従わないのなら怪獣でもっと破壊しちゃうよって脅してきます。一方、地球の科学陣は怪獣を操る電波が月から出ていることをつきとめ、SY-3号が発信源を破壊するために月に向かうのでした。

怪獣ブームも沈静化した昭和43年に東宝がこれで怪獣映画に一区切りつけるべく作った作品です。「サンダ対ガイラ」の馬渕薫と本多猪四郎のコンビが脚本を書き、本多猪四郎がメガホンを取りました。円谷英二は特技監修という肩書きで参加し、特技監督は有川貞昌が担当しました。

怪獣映画のパターンには2種類ありまして、まず、怪獣そのものがドラマの中心にあって、それに付随して人間側のドラマが設定されるもの。「ゴジラ」「空の大怪獣ラドン」「キングコング対ゴジラ」などがこれにあたります。もう一つは、メインのドラマがあってそのドラマのパーツとして怪獣が使われているもの。「怪獣大戦争」「キングコングの逆襲」なんでのがこれに該当します。後者の方では、怪獣の絶対的な存在感が後退してしまうので、怪獣映画としては邪道扱いされることもあります。「怪獣総進撃」は、怪獣を使って地球征服をしようとする宇宙人キラアクと人類の闘いを描いたもので、後者に属するものになります。女性の姿をした宇宙人キラアクは、怪獣ランドの怪獣を操って、世界中を破壊するというスケールの大きなお話でして、ラドンがモスクワを襲撃し、ゴロザウルスが凱旋門を破壊し、ゴジラがニューヨークで暴れます。

怪獣は宇宙人の兵器として扱われて、これを脅しのタネにして、地球に定住しちゃおうというのがキラアクの目的です。リアルに考えると怪獣の破壊力よりもすごい兵器はいろいろあるわけでして、村と村の闘いならいざしらず、惑星間同士が闘う兵器としては怪獣はあまりリアルとは言えません。そこは目をつぶって、怪獣が暴れたら困るだろ?って脅しをかけるのが、この映画や「怪獣大戦争」のパターンです。リアルなSF世界というよりも、怪獣がある意味神格化されている、言い換えると怪獣のステータスがものすごい高い世界でのお話ということになります。ゴジラがスター扱いされるからこそ成り立つ物語と言えましょう。そういう意味では、この「怪獣総進撃」も立派な怪獣映画ということができます。地球征服のために怪獣を使うってのは、世界征服のためにショッカーが保育園の子供を誘拐するのと大差ないところありまして、そういうのがお約束として成り立つ世界でのみのお話なのです。この映画では、10大怪獣が登場しますけど、せめて1万頭くらいまとめて来ないと地球征服のリアリティは出てこないでしょう。でも、そうなると映画の絵としてはあまり面白いものにはなりません。怪獣は個々のキャラが立ってナンボのものですから、ゴジラがその他大勢のザコキャラになっちゃったら、そりゃやっぱりつまらない。だから、10大怪獣で地球を征服しちゃうくらいのスケール感に観客は無意識のうちに妥協することになります。

と、オヤジ世代にもなれば、色々と理屈つけちゃうのですが、子供の頃を思い返せば、怪獣がいっぱい出てくるのがうれしい。特に脇役のマイナー怪獣、アンギラス、バラゴン、バランあたりの出自を知ってるとちょっと優越感にも浸れます。私は封切り時は見逃して、後の東宝チャンピオンまつりで短縮版が「ゴジラ電撃大作戦」というタイトルで公開されたのを見ました。また、こういう映画の公開時は少年雑誌にスチル写真がグラビヤになったりするので、それもチェックして楽しんでいました。さらに、映画のドラマを数分にまとめたソノシート(若い人は知らないかもしれませんが、ペラペラのレコードと思っていただければ、って、ひょっとして、最近の若い人はレコードが伝わらないのかな。)も出まして、それをホントに擦り切れるほど聞き込んだ記憶があります。「怪獣総進撃」のソノシートは、声の出演に久保明と小林夕岐子が参加していまして、さらに伊福部昭による映画オリジナルの音楽が使われているという豪華版でした。夏休みといった長い休みの時期でないと、映画館には連れて行ってもらえませんでしたから、映画館へ行くことがビッグイベントであった、当時の自分からすれば、この映画は、本当の怪獣大盤振る舞いのごちそうだったわけです。

東宝の怪獣映画というのは、その多くを本多猪四郎が演出していたわけで、怪獣映画には、彼の演出カラーが大きく影響していたと言えましょう。その特徴は、大真面目ということ。ウソみたいな怪獣映画を茶化さず、斜に構えずにマジメなドラマに徹することで、一本筋を通していたという点は、重要だと思います。他の監督さんのゴジラ映画は、彼ほどマジメに徹しているものはなく、コメディ風味やケレン味を加えて、それぞれの映画の味わいにしているのですが、それがどこか邪道に見えてしまうくらい、本多監督の怪獣映画は王道まっしぐらの作りになっているのです。例えば、人間ドラマがあちゃらかしていると言われる「キングコング対ゴジラ」でさえ、個々のキャラクターはシリアスに行動しているのですよ。この「怪獣総進撃」でも、突っ込みどころは色々とあるのですが、登場人物がきちんとマジメにドラマしているので、突っ込む気にならずに最後まで映画を観きることができます。また、脇役に至るまで全ての人間がきちんと一本のドラマにまとめあげられていて、ドラマの脇道を感じさせないってところも大きいと思います。その分、ドラマに遊びや潤いがないということにもつながるのですが、それでも、そのまじめさが、東宝怪獣映画の独特の世界を作っていたのだと思います。SF映画とか怪獣映画ってのは、ウソをホントに見せる映画になるわけですが、観客を丸め込むのではなく、ホントの勢いで押し切る演出で見せたのは、ある意味卓見だったと思っています。第一作の「ゴジラ」の頃は、日本映画全体にそういうマジメタッチの映画が多かったってこともあるのでしょうが、映画が斜陽化した、昭和50年の「メカゴジラの逆襲」まで、同じトーンの演出を貫いたことは、記憶にとどめておいていいと思います。平成ゴジラになって、そのマジメ演出を踏襲したゴジラ映画はないと言っていいことからも、やっぱり特別なんだなあって思います。(強いて言えば、手塚昌明監督のゴジラ映画が、本多タッチに近い作りになっています。)



この先は結末に触れますのでご注意ください。



怪獣を操縦する電波の発信源を追って月に向かったSY-3号は、火炎攻撃をうけながら(月で火炎攻撃?なんて野暮なことは置いといて)強行着陸して、キラアクの基地を攻撃します。レーザーをバリアで破ると、女性の格好をしていたキラアクは金属の塊に変化し動かなくなります。キラアクの正体は生命を持った金属なのですが、その生命活動のためには高温が必要だったのでした。低温が彼らの弱点だったのです。電波の発信源を破壊した後、怪獣ランド側から、同じ電波を使って怪獣をコントロールし、富士山麓に総攻撃をかけます。キラアクはそこへキングギドラを送り込むのですが、ゴジラ連合軍に逆に袋叩きにされてしまいます。しかし、さらに炎の怪獣ファイヤードラゴンが現れ、怪獣ランドを破壊してしまいます。しかし、コントロールが解けたゴジラたちはそれでもキラアク基地を攻撃し、バリアを破られたキラアクは金属塊と化してしまいます。SY-3号がファイヤードラゴンを迎え撃ちます。激闘の末、冷凍弾によりファイアードラゴンは破れます、その正体は生物ではなくキラアクの円盤だったのです。そして、再び、怪獣たちは小笠原に集められ、怪獣ランドに平和が戻るのでした。

地球怪獣に袋叩きにされちゃうキングギドラは今観るとちょっとかわいそうにも見えるのですが、子供の頃は最強の怪獣にやっと打ち勝ったという風に見えまして、これまた大満足だった記憶があります。また、ファイヤードラゴンはあまり説明なく冷凍弾で破壊されてしまうのですが、ソノシートのドラマでは、高温のファイヤードラゴンに冷凍光線を浴びせると膨張係数の違いでバラバラになるという説明がされて、なるほどそういうものなのかあって感心したものです。怪獣の格闘シーンにかなりの尺を割いていて、怪獣を目一杯見せようとしていまして、そのサービス精神は子供にはうれしいものでした。当初は、これを怪獣映画の最終作としたのですが、意外とヒットしたからなのか、この映画以降も怪獣映画が公開されるようになり、それがリバイバル短縮版に、短編アニメを組み合わせた東宝チャンピオンまつりにつながります。それまでは、年に1本、新作のゴジラ映画が公開されてきたのが、春、夏、冬休みにゴジラ映画がマンガ映画と一緒に公開されるという夢のような期間が生まれることになります。私は「キングコング対ゴジラ」「モスラ対ゴジラ」「怪獣大戦争」「南海の大決闘」「ゴジラの息子」「怪獣総進撃」といった旧作の短縮版をチャンピオンまつりで観ました。さらに「オール怪獣大進撃」「ゴジラ対ヘドラ」「ゴジラ対ガイガン」「ゴジラ対メガロ」「ゴジラ対メカゴジラ」といった新作もチャンピオンまつりで「アタックNo1」「巨人の星」「パンダコパンダ」といったマンガ映画と一緒に観ることができました。うーん、今と比べると、子供にはいい時代だったのかも。

「ダーク・ハーフ」はサイコスリラー風で怖いところは結構怖い。


pu-koさんのブログの記事で、そういえば「ダーク・ハーフ」はその昔、観ようと思ってそのままになってたのを思い出しました。DVDが高価なので、中古ビデオをアマゾンで1円(送料別)でゲットして、鑑賞することにしました。

サッド・ボーモント(ティモシー・ハットン)は子供の頃、すずめの羽音が聞こえる幻聴に悩まされ、目が見えない症状で脳を調べたところ、脳内の双子の片割れが残っていたのでした。その片割れは脳の腫瘍として処理されました。成長した彼は、純文学の作家として、大学で講師をしつつ、妻リズ(エイミー・マディガン)と双子のかわいい娘(まだ赤ん坊)と平和に暮らしていました。しかし、彼はジョージ・スタークという別名でバイオレンス小説も書いていまして、ある日、そのことをネタにある男がサッドをゆすりに来ます。ゆすりに屈するのはイヤだと思ったサッドは自ら自分がジョージ・スタークでもあることを告白することにします。ピープル誌が彼の実家にやってきて、インタビューをして写真を撮っていきます。ハリボテのジョージ・スタークの墓の前の記念写真を撮ったカメラマンが何者かに惨殺され、その現場からサッドの指紋が見つかり、知り合いでもあるパンボーン保安官(マイケル・ルーカー)がサッドに事情聴取にやってきます。もちろん、サッドには覚えがないのですが、さらに彼をゆすりに来た男が殺されます。殺人現場に残された「すずめがまた飛んでいる」というメッセージは、サッドが無意識で原稿用紙に書いたのと同じ文章と同じでした。彼は自分の記憶が飛んでいることに畏怖を感じます。ひょっとして、自分が殺人を犯しているのだろうか。さらに彼にまたすずめの羽音が聞こえてきました。無意識でまた単語を書いてしまうサッド。その単語は次の殺人を示唆していたのでした。果たして、この連続殺人の犯人はサッドなのでしょうか。

ベストセラー作家であるスティーブン・キングの原作を、「ゾンビ」のジョージ・A・ロメロが脚色して監督もした異色スリラーの一編です。純文学の作家である主人公が、実は別名でハードなバイオレンス小説も書いていたのですが、それをオープンにして、バイオレンス小説家であるジョージ・スタークに終止符を打とうとしたところから、物語は始まります。まず、記事の取材時のカメラマンが殺され、その後、サッドをゆすりにきた男も殺されます。連続殺人ものの展開となるのですが、この殺人にサッドの無意識の筆記がシンクロしているというところがミソでして、サッド自身も自分の記憶の外で、何かしでかしてるのではないかという不安をぬぐいきれません。殺人の手口は猟奇的で、サイコスリラーのようでもあるのですが、少年時代の前振りに超自然的な味付けがあるためにホラー映画への予感もぬぐいきれないものがあります。

映画の冒頭、少年時代のサッドが文章を書く才能があったのですが、目が見えなくなったり幻聴が聴こえるという症状が出て、脳切開手術をすることになります。開かれた頭蓋の脳に何と目がついてるではありませんか。これが何と彼の双子の片割れで、何かの拍子で成長を初めて目と鼻が形になっているというのです。医師たちはそれを腫瘍として処置するのですが、その時、病院をすずめの群れが取り巻くという普通ではありえないことが起こります。とにかく、主人公には双子の片割れがいたということが、この映画の基本設定になっているようなのですよ。

演技陣は地味なメンツがそろっていまして、主演のティモシー・ハットンは演技力を見込まれてのキャスティングのようです。「フィールド・オブ・ドリームス」のエイミー・マディガンに、「レプリカント」のマイケル・ルーカー、「プリズン」のチェルシー・フィールド、「たたり」のジュリー・ハリスといった懐かしい面々が顔を揃えています。撮影のトニー・ロバーツ・ピアースは、深みのある映像を取る人ですが、ビデオではその映像のうまさまでは堪能できなかったのは残念。視覚効果はピーター・クラン率いるVCEが担当し、CGはビデオイメージ社が担当しています。すずめの群れを実写、アニメ、CGを使って描写しているようなのですが、1992年の映画なので、CGのすずめはやや見劣りしちゃうところあります。冒頭の脳の隙間から覗く目とか、すずめに襲われる人間の特殊メイクをエヴァレット・バレルとジョン・ビュリックが担当しました。

原作者のキングも別名で小説も書いているので、自伝的な趣もあるという解説があったのですが、他人として小説を書いていた主人公が自分を取り戻す時に起こったトラブルのお話と思えば、そういう解釈も成り立つのかも。ロメロの演出はありえない話を手堅くまとめています。中盤の殺人鬼が犯行を行うシーンはきっちり怖くできていまして、ショックとかじらし演出をしない、正攻法のホラー描写はなかなかに見応えがありました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



サッドのエージェントの奥さんが殺されるシーンで犯人はあっけなく姿を現します。それは、サッドに瓜二つだけど、髪型や服装が違う男。さらにエージェントもその男によって殺されます。犯人の正体は、サッドの暗黒面が実体化したジョージ・スタークだったのです。彼は、サッドがジョージ・スタークを葬ったときに実体化し、関係者を殺して回っていたのです。サッドが再びジョージ・スタークとして小説を書かせようとしているのです。サッドがジョージを葬った結果、現れたのですが、その実体は不安定で、ジョージの肉体は少しずつほころび始めていました。そこで、サッドが、ジョージとしての小説を書くことによって、本体を乗っ取ろうとしていたのでした。ジョージは、リズと娘を誘拐し、サッドの実家へと向かいます。サッドは、大学の友人から、ジョージの正体とすずめの意味を聞き出します。すずめは魂を招くものなのだそうです。サッドが実家に着くと、ジョージは娘をたてに書斎に向かい、サッドにバイオレンス小説を書かせようとします。その頃、家の外にはすずめの大群がやってきていました。ジョージもサッドに促されて鉛筆を握ると意外やどんどんと筆が進みます。すると、サッドの頭から血が滴り落ちてきて、ジョージが優勢に見えるのですが、隙を見てサッドがジョージの襲いかかり、二人は格闘になります。すると書斎の壁にいくつもの穴があいてそこからすずめが入ってくるではありませんか。壁が壊れて、すずめの大群はジョージの襲い掛かります。肉を食い尽くされ、骨もボロボロになった状態で、ジョージの残骸は空へ運ばれていきます。夜空の向こうに光の穴が見えてそこへすずめたちは吸い込まれていくのでした。おしまい。

一人二役のサイコホラーかと思っていたら、実際にもう一人の主人公が現れることで、超自然ホラーの様相を呈してきます。架空の作者であるジョージ・スタークが実体化するという部分で、ロメロの演出はマジメ過ぎるのか、ぶっとび展開の説得力を欠いてしまったように思いました。奥さんのリズや保安官がラストで役に立たなかったのはちょっと物足りなかったです。結局、ジョージは葬られる運命にあったという見せ方なので、どこで勝敗がついたのかが見えにくかったのは原作もそういう展開だったのかな。サッドが自由でワルなジョージにあこがれていて、それがジョージを実体化させるエネルギーになっているというところは面白いと思いましたが、そんな主人公の内輪もめのとばっちりで殺された皆さんはお気の毒だよなあ。まあ、因果応報とか勧善懲悪とは異なる理不尽ホラーなのですが、ラストはもう少し余韻というかエピローグをつけて欲しかったなあって気がしました。まあ、冒頭ですずめの大群を出して、ラストもそれで締めるあたりは、律儀な映画ではあると思いますし、怖いところはきっちり怖いのでホラー映画としてはかなりいいところ行ってるのではないかしら。

「空気の無くなる日」は今の時代だから見直す価値があるかも。


HDDの整理をしていると、未見の録画を発見することがありますが、そんな中に「空気の無くなる日」という映画がありました。昭和24年の映画だそうで、1時間弱の中篇映画で、劇場公開されたのは昭和29年ということでした。

明治42年の北陸のとある村でのお話。当時、ハレー彗星が地球に接近するというニュースが世間をにぎわわせていましたが、その村の小学校の校長が、郡役場で、その彗星が地球に接近する影響で、5月20日の正午から5分間だけ空気がなくなるという話を聞かされます。最初は、そんなバカなと思う校長ですが、郡のお役人たちの新聞片手の力説に説得されてしまいます。そして、学校に帰って、先生たちに話をするのですが、先生たちも半信半疑。それでも、空気のなくなる5分間を乗り切るための訓練をせにゃならんということで、生徒たちは桶の水に顔をつけて息を止める練習を開始します。その話が村中にひろまって、さらに空気のない5分間を乗り切るためには自転車のタイヤのチューブに空気をつめて、それを吸えばよいということになり、金持ちの地主一家は大金をはたいてチューブを買い占めてしまいます。貧乏人の家には当然行き渡るわけもなく、村全体が死を覚悟して20日を迎えることになります。最後の白いご飯をたらふく食べて、最後の時を迎えようとする貧乏人一家。一方、地主一家はチューブを抱えてその時に備えます。しかし、当然のごとく、正午を過ぎても空気はなくなることもなく、30分も過ぎた頃、みんなはこれがデマだったと気付くのでした。

岩倉政治の原作を、伊藤寿恵男が監督しました。製作は日本映画新社という会社で、特撮には東宝の特殊技術部が協力しています。実は、私、この話を子供の頃、本で読んだ記憶があります。小学校の図書室で借りた本で読んだのではないかと思うのですが、この話はこの映画が初見ではありませんから、原作はかなり有名な話ではないかと思います。田舎の「地球最後の日」ということになります。アメリカ映画の「世界最後の日」で、世間が暴動になっちゃうのと比べると、この映画はまことにのどか。自暴自棄になるといっても、家で酒くらって酔っ払うのが関の山というレベル。空気がなくなるという、みんな死んじゃう事件に対して、殺伐とならない展開は、現代の目で見れば、何だか新鮮に映ります。設定的には「日本沈没」みたいな天災パニック映画になるわけですが、主たる舞台は小学校で、最初はこの天災に、息が続けば乗り切れるかと期待するのですが、5分は無理とわかれば、もうあきらめちゃうのです。金持ちはタイヤのチューブを買い込んで、5分乗り切ろうとするのですが、そんなのは村で1軒だけで、後はみんなで死ぬしかないなあってあきらめちゃっています。ネットで情報が飛び交う現代に比べたら、人々は疑うことを知りませんし、流れたデマを糾弾することなく、空気がなくならなくてよかったねって言うラストは、なんだかんだと騒ぎ立てずにはいられない、私ら現代人の生き方を見直したくなると言ったら、うがちすぎかしら。この映画は、科学への啓蒙と明るい未来への展望を描いているのですが、その主眼とは別のところで勉強になる映画でもありました。

特撮カットはオープニングにあります。冒頭でナレーションが、この宇宙にはたくさんの星があって、その中に太陽と地球があって、引力がバランスをとっているおかげで、地球は安泰なのだと説明します。この宇宙のシーンはアニメーションのようです。そして、もし引力のバランスが崩れて地球が太陽から離れてしまったらというナレーションと共に、街が雪の中に埋もれてしまうようすを1カットで見せます。一方で、もしも太陽の熱量が増えてしまったらというナレーションと共に、街が炎に包まれて焼け跡になってしまうまでをまた1カットで見せます。マット画中心の特撮ですが、街の中を自動車が走っていますし、炎は実際の映像が合成されています。後、お話の序盤で、地球の空気が彗星に吸い上げられてしまう様子を、アニメと多重合成で見せてくれています。ラストで、この映画のような宇宙のバランスが壊れるようなことは当分起こりませんよとナレーションで説明され、映画を観た子供たちは、安心し、そして、宇宙や科学への興味を深めることになります。

村にデマを広めてしまうのは、小学校の校長を始めとする先生たちなのですが、実際のところ、自分たちの知識からすれば、5分だけ空気が(空気だけが)彗星に吸い寄せられてなくなっちゃうってのには、納得できていません。校長は、郡役場で、その話はおかしいって言うのですが、役人たちに「オレの話を信用できないのか」って説き伏せられてしまいます。デマっていうのは声のでかい人間が言い出したら広まらざるを得なくなっちゃうというのが面白く、現代でも教訓として使えると思いました。また、貧富の差が生死を分けるという展開の後、ラストで宇宙はバランスをとってるから、金持ちも貧しい人も等しく安心ですよって言うあたりの心配りもうれしいところです。昭和24年という時代は、戦後復興の頃で、民主主義がいいものだと言われていたころです。お金のある人もない人もみんな平等なんだよってのを口に出して恥ずかしくない時代だったんだなあってしみじみしちゃいました。昔は、まだまだ本音と建前が共存できたんだなあって。今は、お金持ちも貧しい人もみんな平等なんだなんて言い難い世の中になっちゃいました。全部ホンネじゃないといけないみたいなご時世は、なんだか希望がないんだよなあ。当時は、きれいごとを並べて、少しでもそれに近づけようという活気があった時代だったんだと思います。

登場人物の中では、チューブを買い占める地主とその子供、そして、チューブの値段を吊り上げる自転車屋は悪役ということになるのでしょうが、憎まれ役というほどにはなっていませんで、どこか滑稽な描き方になっています。映画全体がのどかな雰囲気なので、誰かを悪役にする必要がなかったのでしょうけど、誰かをクズ呼ばわりしなくてもすむ作りには、どこか時代の余裕を感じさせます。決して、昔の方がいい時代だったというわけではないのですが、今は同じ題材を扱っても、こういうのどかな映画は作れないだろうなと思うと、どこか気分的な余裕がなくなっているような気がします。それは前述の建前が言い難いご時世と重なっていると思います。

あらすじだけ追えば、大山鳴動鼠一匹という他愛ないお話なのですが、その描き方の部分で、現代という時代を見直す鍵があるように感じられて、今観るからこそ面白い映画だと言えるのではないかしら。

「伊福部昭 生誕100年 メモリアル・コンサート」はオケの音に惚れ惚れ。


今年は作曲家伊福部昭の生誕100周年ということで、彼の作品のコンサートがまとまって行われています。前回は、すみだトリフォニーホールで、彼の映画音楽のサントラにこだわったコンサートに行ってきたのですが、今回は、2014/2/27に行われた横浜みなとみらいホールの「伊福部昭 生誕100年 メモリアル・コンサート」に行って来ました。井上道義指揮の日本フィルハーモニー交響楽団の演奏で、マリンバのソロで安倍圭子が参加しています。コンサートは前半は伊福部の現代音楽、後半は映画音楽という構成になっています。

私はコンサートなんてめったに行ったことがありませんし、オーケストラを聴き比べたこともないのですが、今回の演奏は素晴らしいと(勝手に)感じました。音のパートごとのまとまりといったものは、前回のコンサートの企画オケとは一線を画すものがありましたし、音の粒立ちが見事で、オーケストラがまとまって体に降りてくるという感じで、音楽を実感することができました。

1、管弦楽のための「日本組曲」
4部からなる、日本の風景を音で描いた作品で、冒頭から、オーケストラが盆踊りを奏でるのですからびっくりです。第1部「盆踊り」でドンドコと盛り上がり、第2部「七夕」から第3部「演伶(ながし)」で静かなメロディとなり、第4部「佞武多(ねぶた)」でお祭り音楽になって盛り上がります。この曲を以前、CDで聴いたときは、「ふーん」と聞き流してしまったのですが、演奏のよさがあるのか、音楽が目の前に迫ってくる感じで、改めて、すごい曲だったんだと実感しました。和の味わいのオーケストラ曲なのですが、そこに日本人の根源的感情を呼び起こしてくるあたりが圧巻でした。

2、オーケストラとマリンバのための「ラウダ・コンチェルタータ」
1979年の初演のときから、安倍圭子によって演奏されてきた、マリンバとオーケストラの協奏曲です。オーケストラによる現代音楽とマリンバのどこか原始的な民族音楽を思わせる音が相互に音を奏でながら、ラストでは一体化した大きな音にまとまっていくという25分ほどの曲となっています。このコンサートでは打楽器が印象的な曲がたくさん使われていますが、打楽器の音に原始的というかシャーマニズムの空気が盛り込まれています。オーケストラの中で、マリンバ奏者が巫女さんみたいなポジションになるのが、コンサートならではの面白さだと思いました。今回のコンサートのピークはこの曲でしょう。

3、「銀嶺の果て」
休憩の後は、作曲家の池辺晋一郎と指揮者の井上道義の二人がMCとなって、ぐっとくだけた感じの映画音楽コンサートになります。とはいえ、二人のだだすべりのMCぶりは、せっかくの演奏の感興を削いでるような気もしちゃいました。この「銀嶺の果て」は、この前の伊福部のコンサートでも演奏されましたが、こっちの方は、タイトルとスケートのシーンのみをピックアップしています。緊迫感あふれるテーマから、イングリッシュホルンのソロになって、そのまま曲が終わってしまうというケッタイな構成になっていますが、そのソロこそがこの曲の目玉だったようです。ヒロインのスケートのシーンに、谷口千吉監督は優雅なワルツを要求したのに、伊福部が物悲しく聞こえるイングリッシュホルンのソロ曲をつけてきて、監督ともめてしまったそうで、そのエピソードが語り伝えられて、曲も有名になったそうです。

4、「大魔神」
「大魔神」のテーマを、その怖さの迫力を前面に出した演奏で聴かせてくれました。荒ぶる神様を描写するのに、低音金管を増量した楽器構成での演奏になっていまして、わざと音をはずすくらいに金管を力いっぱい鳴らしているのも、オリジナルの迫力を再現した演出だったのではないかしら。3部構成で、メインタイトル、エンディング、そして大魔神が暴れまわるシーンの曲となっています。サントラでは、流れるような静かな曲だったエンディングがコンサート用にメリハリあるドラマチックな曲になっているのが印象的でした。

5、「ビルマの竪琴」
前回の伊福部コンサートでは、「ビルマの竪琴」の演奏はなかったのですが、「ゴジラ」の中の、「帝都の惨状」のシーンの曲で、この旋律を聴いています。ほぼ、同じ曲でして、伊福部昭の映画音楽は、いわゆる使い回しが多くありました。彼の作曲した映画の膨大な本数からすれば、全部オリジナルは無理だと思いますから、それは仕方のないことだと思います。同じ旋律から、「ビルマ」だ、とか「ゴジラ」だ、と思う人がいるのは面白いと言えば面白いことだと思います。ストリングスのユニゾンのまとまり感、美しさに、オーケストラの実力を感じさせる演奏でした。

6、交響組曲「わんぱく王子の大蛇退治」より前奏曲~オープニングタイトル~アメノウズメの舞
伊福部がアニメを手がけたことで有名なこの作品は、プレスコという音楽を先に録音するやり方だというMCの説明がありました。果たして全部そうだったのかは疑問なのですが、アメノウズメの舞の部分は先に音楽を取り、それに合わせた実写の舞を撮影し、それに合わせてアニメートしたと何かの本で読んだことがあります。アメノウズメの舞では、オーケストラの最後列にパーカッションが7,8人並んで和楽器も交えて、豪華な音を奏でています。コンサートの後半の楽曲の目玉商品はこれでしょう。

7、「ゴジラVSモスラ」
映画としては大して面白くなかった「ゴジラVSモスラ」ですが、ここで演奏されたのは、ゴジラモティーフのメドレーともいうべきもので、いわゆる定番パターン。モスラの「聖なる泉」がオーケストラで聴けるというところが、この曲の目玉でしょう。バックにプロジェクションマッピングで「ゴジラVSモスラ」のシーンが登場するのですが、バックにはパイプオルガンがデンと控えているので、その両脇しか映らないので、あんまり効果なかったような。それよりも、フルスロットルで鳴らしまくるホーンセクションの頑張りが見たかったです。プロジェクションマッピングで場内が暗くなっちゃったのがなあ。

8、アンコール「シンフォニア・タプカーラ 第三楽章」
最後に指揮者の井上道義が伊福部とアイヌのことを語り始めると、オケが勝手に演奏を始めるという趣向で、タプカーラ交響曲の第三楽章が演奏されました。アンコール曲としては、大変盛り上がる曲でした。グダグダMCのせいで、時間が押してしまったのか最後があわただしくて、アンコールの盛り上がりとしては今イチだったかな。

そんなわけで、日フィルの演奏がじっくり聴けた1曲目と、凝った音の構成が楽しかった6曲目が印象に残るコンサートでした。やっぱり、オケがいいと曲の格が上がるんだなあってのが実感できたのは収穫でした。

「伊福部昭 百年紀 コンサートシリーズ VOL.1」のサントラへのこだわりが新鮮。


2014年は作曲家伊福部昭の生誕100周年ということで、彼に関するイベントがいくつもあるようです。そんな中の一つ、「伊福部昭 百年紀 コンサートシリーズ VOL.1」に行ってきました。2014/2/1/ すみだトリフォニーホール で行われた映画音楽のコンサートです。

伊福部昭という人は純音楽の人ですが、それ以外にもバレエ音楽、舞台音楽、映画音楽などを書いています。特に大変たくさんの映画に曲を提供していまして、「ゴジラ」を初めとする東宝特撮映画の作曲家として、映画ファン、怪獣ファンから人気の高い人。1970年代後半、日本の映画音楽がレコード化される企画があり、その中の「伊福部昭の世界」というアルバムがヒットしたことから、彼の作品のレコード化が進み、彼のSF映画の音楽をまとめたSF交響ファンタジーが東京交響楽団で演奏され、その後、彼の音楽のアルバム化、コンサートなどが行われてきました。

そんな中で、今回のコンサートが特別なのは、演奏されるのがコンサート用に編曲されたものでなく、映画音楽のサントラのスコアをそのまま演奏するというところ。映画で使われたのと同じ編曲で、映画ごとの組曲として演奏されるのです。曲は映画の登場順に並べられ、映画を知っている人は、その映画を追体験できるようになっており、知らない人も映画音楽ってのがどういうものかを感じることができます。今回、演奏された楽曲は「銀嶺の果て」「ゴジラ」「海底軍艦」「地球防衛軍」、そして国鉄記録映画3本をまとめた「国鉄」となります。齋藤一郎指揮の若手音楽家から成るオーケストラ・トリプティークが演奏しています。このコンサートのために集められた100人を擁する大構成のオーケストラです。

1、「銀嶺の果て」組曲
谷口千吉監督、三船敏郎主演の犯罪ものの映画らしいです。これが、伊福部昭が最初に映画の音楽を手がけた作品なのですが、冒頭のテーマ曲から、テンション高い活劇音楽で聞かせてくれます。後年、この旋律が「空の大怪獣ラドン」の追跡シーンに使われたので、そっちの印象が強いのですが、映画の冒頭にこの曲が鳴ったら、そりゃ画面に引き込まれるだろうなって思う、つかみの音楽としては満点。その後の静かなテーマや追跡シーンの曲もうまいと思わせる音なのですが、何と言ってもテーマ曲のインパクトがお見事。静かな曲はストリングスをバックにオーボエやファゴット(かな?)といった低音木管がメロディを奏でるもので、この低音木管の演奏が素晴らしかったとのも印象的でした。

2、「国鉄」
国鉄の記録映画に伊福部昭は音楽を提供していまして、「つばめを動かす人たち」「雪に挑む」「国鉄~21世紀を目指して」の3本の音楽をまとめて、1つの組曲にしたものです。これは、彼のモチーフの見本市のような曲になっていまして、ああ、あの映画の曲が、この映画の曲がと色々と思い出される楽しい1曲になっています。ただ、映画で使われた通りに編曲しているので、細切れの感は否めませんで、パッチワークと言うか、カタログみたいな曲になっちゃいました。もともとそういう趣旨のコンサートなので仕方ないところがあるのですが、他の曲に比べると統一感が今一つという感じになっちゃうのかな。でも、初めて伊福部昭の音楽を聴く人の入門編としてはおすすめできます。自然と、それに挑む人間というテーマを明確に感じ取れる曲が並んでいますから。

3、「ゴジラ」
本多猪四郎監督による昭和29年の東宝映画「ゴジラ」はその後に続く、SF映画、怪獣映画、特撮映画の3ジャンルのエポックとなりました。「ゴジラ」のテーマは有名なのですが、意外とオリジナルに忠実な編曲、演奏がなかったため、まず、メインタイトルからして新鮮な感動がありました。曲は映画の中で使われた順に並べられていまして、大戸島の神楽も入っていますし、大戸島の嵐の夜の襲撃シーンから、フリゲート艦隊のマーチなど、映画を知るものにとっては、テンションあがる曲構成になっていまして、ゴジラ東京上陸から、アナウンサーの最期、ジェット戦闘機攻撃のシーンの曲まで、怪獣映画らしい重厚な音を聞かせた後、帝都の惨状を描写する静かな曲から、エンディングへ一気につないでしまう構成も見事でした。きちんとコーラスも入って「安らぎよ、光よ、とくかえれかし」の歌も聴けます。映画の中で、一番情感の盛り上がる「帝都の惨状」と「エンディング」をつなげたことで、音楽としてのテンションが上がりまして、結構ぐっとくるものがありました。

この間に休憩、その後、ゲストとして、LP「ゴジラ」のプロデューサー西脇氏と、特技監督の川北氏の挨拶がありました。全体の司会を担当した井上氏の司会ぶりが大変よかったです。伊福部昭への過度な賞賛もなく、映画への思い入れもない淡々とした語り口ながら、伊福部昭や映画の簡潔な説明で、このコンサートで初めて伊福部やゴジラを知る人にもポイントが伝わるのが好感が持てました。


4、「海底軍艦」
本多猪四郎監督による昭和38年の東宝映画です。海底ムー帝国が、地上を攻撃してきたのに対し、旧日本軍の空飛ぶ潜水艦轟天号が立ち向かい、ムー帝国を滅ぼしちゃうというSFものです。音楽としては、SFというよりは、ムー帝国を表現するアジアンテイストな曲と、轟天号を描写する重厚なオーケストラサウンドが聴きものになっており、戦闘シーンに流れるアップテンポの轟天号のテーマで盛り上がれる楽曲になっています。これも映画で使われた順に曲が並んでいるようでして、メインタイトルの重厚なテーマモティーフが戦闘シーンでは、編成を落としたアップテンポのものになり、さらにクライマックスはフル編成を目一杯鳴らす音になると、聴いてる方もテンションが上がってくるのですよ。ミリタリー色の濃い音楽ですが、普通の戦争映画よりもぐっとメリハリのある燃える音になっているのは、超兵器という空想の世界を描写する音楽として、自由度が高いというかハッタリが効いたからではないかしら。曲の最期は映画のエンディングで、ムーの最期にちょっとだけシンパシーを感じさせつつジャーンと終止形になります。

5、「地球防衛軍」
同じく本多猪四郎監督のよる昭和32年の東宝映画。宇宙人ミステリアンが富士の裾野に基地を作って、女性を誘拐しちゃうのですが、世界が一つになった地球防衛軍の攻撃により倒されるというSF映画です。通称「地球防衛軍マーチ」と呼ばれるメインテーマが有名でして、この組曲の中でも何度も登場します。実際にはマーチではなくアレグロというのだそうですが、確かに行進のテーマというにはテンポが大変速く、緊迫感ある戦闘シーンのバックに流れるのにふさわしい曲となっています。「海底軍艦」よりはミリタリー薄めのSF濃いめの音作りになっています。個人的に聴きモノだったのが、メインタイトル。低音のホーンとストリングスによる不協和音のような現代音楽でして、ちょっとホラー風味も出していまして、メロディで聴かせるこのコンサートでは異彩を放っていました。まさか、コンサートの演目にこの曲が聴けるとはという驚きもあり、ステージの右半分(低音楽器部)だけから音が出ているってのも異様な面白さがありました。

ここまでで、予定プログラムは終了。ところがこの後にまさかのアンコール曲が演奏されました。こういうコンサートでアンコールってあんまりないのでは?

6、「交響組曲 ゴジラVSキングギドラ」
1991年公開された大森一樹監督の東宝映画「ゴジラVSキングギドラ」に伊福部昭が音楽を担当し、それと同じくして発表されたコンサート用の曲です。モティーフ的に耳新しいものはなかったのですが、映画のサントラとはまた一味違う、独特のテンポの反復音楽になっていまして、なかなかの迫力ある音に仕上がっていました。コンサート用の曲だからでしょうか、編成の大きさが、曲の迫力にダイレクトにつながっているという印象でした。

15分前後の曲が6曲と、なかなか聴き応えのあるコンサートでした。「ゴジラ」にしろ「地球防衛軍」にしろ、有名なテーマモティーフはコンサートで演奏されてきてはいるのですが、オリジナルサントラの音にこだわったコンサートというのはこれが初めてなのではないかしら。CD音源用の録音もしていたようなので、CDが出るかもしれませんが、「SF交響ファンタジー」とはまた別の味わいがありますので、そのときは買いだと思います。

「黒猫の怨霊」は結構面白いオムニバス怪奇映画。


今回はたまたまDVDを衝動買いしてしまった、ロジャー・コーマンのアラン・ポーシリーズの一つ「黒猫の怨霊」を観ました。コーマンのAIP時代の作品であり、この作品を日本で買い付けた大蔵映画は、短縮版にして添え物扱いしたそうで、何やらいわく因縁がありそうな映画です。もともと3つのお話をつなげたオムニバス映画で、それがエピソードごとにバラで映画館でかかったらしいのですが、どこまで本当なのかしら。でも、この怪談映画みたいな邦題はいかにも時代を感じさせてくれます。

エドガー・アラン・ポー原作の3つのエピソードが入ったオムニバス映画です。

「怪異ミイラの恐怖」
ローク(ビンセント・プライス)の妻モレッラ(レオナ・ゲージ)は娘レノーラ(マギー・ピアース)を産んだ直後に、娘への恨みの言葉を残して死亡。ショックを受けたロークは赤ん坊のレノーラを手放すのですが、26年後、レノーラはロークの邸へとやってくるのです。荒れ果てた邸に驚くレノーラの前に現れた父は酒びたりにすさんだ暮らしをしており、その一室にはモレッラのミイラが横たわっていました。結婚に失敗し病気で余命いくばくもないレノーラとロークは和解するのですが、その夜、モレッラの亡霊がレノーラを襲い、娘を殺してしまいます。娘の死にショックを受けるロークの前にモレッラが生きている姿で現れ、彼の首を絞めます、もみあううちにろうそくの火がカーテンに燃え移り、燃え盛る炎の中で、モレッラに絞め殺されるローク、カメラが引くとそれはレノーラの姿に変わっていたのでした。

「黒猫の怨霊」
働きもしないで、妻アナベル(ジョイス・ジェイムソン)に酒代をせびるダメ男ヘリングボーン(ピーター・ローレ)は、ワインの品評会に乗り込んで、利き酒の名手ルクレイシ(ビンセント・プライス)と互角に争い、知り合いになります。フォルトゥナートを家に招いたところ、彼とアナベルがねんごろになってしまいます。それを知ったヘリングボーンは、妻とルクレイシを殺し、地下室の壁の中に塗りこめてしまいます。ヘリングボーンはアルコールの幻想からか殺した二人の亡霊に悩まされるようになります。酒場で妻がいなくなったことをほのめかす言動をしたことで、警察が彼のもとを訪れます。警官たちが地下室に降りたとき、壁の中から猫のうめき声が聞こえてきます。警官が壁を壊すと二人の死体が見つかります。ヘリングボーンは死体と一緒に家で飼っていた黒猫も壁の中に閉じ込めてしまっていたのでした。

「人妻を眠らす妖術」
余命いくばくもないヴァルデマール(ビンセント・プライス)は、死の苦痛をやわらげるために、カーマイケル(ベイジル・ラズボーン)の催眠療法を受けていました。ヴァルデマールは、自分の死んだ後の妻のヘレン(デブラ・パジェット)を若い主治医に託そうとしていて、ヘレンも主治医を憎からず思っていました。カーマイケルは、催眠療法の代償として、臨終の際での催眠実験を申し出ていて、ヴァルデマールも了承していました。そして、臨終の時がきて、カーマイケルが死の直前のヴァルデマールに催眠術をかけた結果、肉体は死んだのに魂は生き残ってしまいます。カーマイケルは実験を続行して、死を望むヴァルデマールに「妻の後のことはカーマイケルに任せる」と言わせます。そして、カーマイケルがヘレンに無理やり抱きつこうとしたとき、死体のヴァルデマールが動きだし、カーマイケルに襲い掛かります。そして、そこにはカーマイケルの死体と、腐乱したヴァルデマールの残骸が残されたのでした。

エドガー・アラン・ポー原作の怪奇映画シリーズの4作目でして、製作・監督はロジャー・コーマン、脚本は「激突」「ヘルハウス」のリチャード・マチスンが担当しています。パテカラー、パナビジョンというのは当時としてはハイグレードだったのかどうかはわかりませんが、映像的にはB級感がなく、なかなかに見応えがある映像になっていました。全てのエピソードにビンセント・プライスが出演していまして、彼がこの映画の一つの売りであることが伺えます。オムニバスということで、個々のエピソードはテレビの30分番組の長さでして、ストーリーとしてのボリュームは今一つながら、それぞれに味わいのある作りになっています。個々のエピソードの邦題がゲテもの度高くて、中身と若干ギャップありです。こういうネーミングが新東宝から引き継がれた大蔵映画のセンスなのでしょうね、きっと。

「怪異ミイラの恐怖」は、死んだ奥さんの理不尽な怨霊が、主人公と娘を死に至らしめるという典型的怪談です。奥さんの死体を墓に入れずに26年も部屋のベッドに置いてるってところが古風な猟奇趣味を感じさせるものの、それ以外は、最近のホラー映画でもよく目にする趣向でして、怨霊の擬似主観ショット(何で擬似かというと怨霊の姿もフレームインしてるから)ですとか、死体が別の人物に入れ替わる、ラストで怨霊が抱きついたと思っていたら、主人公が息絶えたとき、それは娘だったという見せ方など、ものすごく既視感がありました。ということは、こういう演出が最近のホラー映画(含むテレビ)でも、よくやられているということになります。まあ、遡ればもっと有名な古典があって、コーマンがそれをなぞったのかもしれないのですが、とにかく今風な見せ方になっているのが面白いと思いました。一気呵成に畳み込んで決着をつけるあたりは30分弱のオムニバスにしてはかなり密度の濃い内容と言えましょう。このあたりはマチスンの脚本の功績なのかな。でも、「怪異ミイラの恐怖」じゃあ、ミイラ男の映画みたいだよなあ。純粋な(そして迷惑な)怨霊のお話ですので、もう少しネーミングセンス欲しいわあ。

「黒猫の怨霊」は、ポーの「黒猫」が原作ですが、DVDの解説によると「アモンティラードの樽」と「おしゃべり心臓」も加えたお話になっているんですって。まあ、甲斐性なしの主人公が奥さんに浮気されて、奥さんと間男ともども殺したら、猫にしっぺ返しを食らうと言うお話です。全編をコミカルなタッチでまとめていまして、ピーター・ローレとビンセント・プライスの演技を楽しむ映画になっています。中盤でワインの利き酒競争があるのですが、タイトルでこのシーンのテクニカルアドバイザーが一枚看板でクレジットされていたのはちょっとびっくり。また、レス・バクスターの音楽も、このエピソードだけは、カートゥーンを意識した音作りをしており、どこか間抜けな味わいが楽しい一編になっています。あの陰鬱な原作とはまるで違うイメージで映像化しているのが面白く、奥さんを演じたジョイス・ジェイムソンのおっとりしているようで、抜け目なさげだけど、やっぱり抜けてるみたいなおかしさが印象的でした。殺人コメディなので、ブラックユーモアという言い方もできるのですが、ブラック部分があまり感じられないのが不思議な一編と言えましょう。

「人妻を眠らす妖術」は邦題はまるで的はずれな、奇妙な味のホラー。原作は「ヴァルデマール氏の症例」という短編です。原作は未読なのですが、催眠療法で死者の魂を現世に縛り付けちゃおうというえげつない実験のお話でして、体は死んでも魂は死ねない主人公が、「早く楽にしてくれー」って嘆くという、こっちの方がブラックコメディの味わいでしょうね。この実験をするカーマイケルという催眠療法士がヴァルデマールの奥さんに横恋慕して、襲いかかろうとすると体は死んでる筈のヴァルデマール氏が動き出して奥さんを助けようとするある意味、愛の物語。動き出したら急に腐敗が始まったのかドロドロに溶けて行くという描写が、この映画の一番のホラー的趣向になっていますが、泥絵の具を塗りたくったメイクなのがご愛嬌です。カーマイケルを演じたベイジル・ラズボーンの無表情な胡散臭さが見事でして、映画の撮影当時も催眠術っていかがわしいイメージがあったのかなってのが伺える内容になっていました。よく、催眠術で記憶を遡ると前世まで行けるなんて言いますが、それが本当なら(私は信じてないけど)、前世で死んだ時点で遡りをストップさせると、死んだ状態になっちゃうのではないかしら。それなら、この映画のような実験も可能かも。まあ、厳密には映画とは逆パターンで、体を生きたまま、魂をあの世に送るってことになるのでしょうけど。これまた、催眠療法シーンのテクニカルアドバイザーが1枚看板でクレジットされていました。

3つのエピソードそれぞれに趣向を凝らしてあって、純粋な悲劇の第1話、コミカルな味わいが際立つ第2話、ブラックなおかしさの第3話と、同じパターンの恐怖譚になっていないあたりはうまいと思いました。1時間半をきっちり楽しませてくれる怪奇映画として点数高いと思います。劇場公開時はバラして添え物扱いだったそうですが、3本立ての末席にこういう映画が当たったら結構得した気分になれそう。最近のホラー映画とは違う、怪奇映画というジャンルがあったんだなってのを確認できました。

「ブラッド・クリーク」はホラー、サスペンス、活劇として面白くできた、ワンプレート料理の味わい。


今回は、pu-koさんのブログに紹介記事のあった「ブラッド・クリーク」をDVDでゲットして鑑賞となりました。この映画に興味を持ったのは、ジョエル・シューマカーが監督という一点だけだったのですが、これ面白かったです。意外と面白いというよりは、想定内の面白さということになりましょう。この監督さんは青春ものや、サスペンス、バットマンやオペラ座の怪人まで撮っている職人さんでして、どんな題材でもアベレージ以上の作品に仕上げるので、彼の名前は、娯楽映画としては信頼のブランドになります。脚本が弱かった「ブレイクアウト」でも娯楽映画としては及第点を取っちゃうところがすごい人。

1936年のアメリカの片田舎タウン・クリークで農場を営むドイツ移民一家に、ナチスの歴史学者ヴィルト(マイケル・ファズベンダー)がやってきます。彼は、その家の納屋にあるルーンストーンを調査したいというのです。ナチスはルーンストーンによる黒魔術で不死を得ようとしていたのです。家の娘の前でヴィルトは死んだ小鳥を蘇らせてみせます。そして、時は移って現代のタウン・クリーク、救命士をしているエバン(ヘンリー・カヴィル)は兄のビクター(ドミニク・パーセル)が行方不明でした。2年前、二人で湖に釣りに出かけたとき、何者かに連れ去られてしまったのです。ビクターは死んだものとして葬式も済まされていました。ところがある晩、ひげぼうぼうのビクターがエバンの前に現れます。彼はエバンに武器の準備をさせます。兄の失踪に責任を感じていたエバンは、事情がよく呑み込めないままビクターに同行することになります。行方不明になった河畔からさらに2時間歩いた農場の前にやってくるビクター。なぜ農場を襲うのかと聞くエバンにシャツをめくって見せるビクター。その背中にはひどい傷跡がついていました。一家の主人が出ていったのを見て、銃で家に押し入るビクター、出てきた主人の息子と格闘になり、エバンが息子を銃で撃ちます。家の中に老女と17歳の娘リーズ(エマ・ブース)がいました。二人の古い写真を見たエバンはびっくり。だって日付が1940年だもの。いったい、この農場で何が起こっているのでしょう。実はこの農場は映画の冒頭でヴィルトが訪問した家だったのでした。

「にコル・キッドマンのインベージョン」のデヴィッド・カイガニックの脚本を「フォーリング・ダウン」「オペラ座の怪人」のジョエル・シューマカーが監督しました。映画の冒頭はモノクロ映像で、1936年のアメリカの片田舎にドイツ人歴史学者と称するヴィルトがやってくるところが描かれます。この部分が大変丁寧に撮影されていまして、どういう映画だろうと思っていると、ルーンストーンですとか死んだ小鳥の蘇生のシーンが登場して、超自然スリラーなんだなってわかったところで、お話は突然現代に飛びます。現代にお話が飛んでからも、まず救命士のエバンの生活、兄の失踪への負い目などを丁寧に描いています。ドラマの前提部分をきちんと描いておいて、メインドラマの部分が動き出すと今度は勢いで見せ切る構成、演出が成功していまして、90分という短めの時間の中に中身の詰まった一編に仕上がっています。

1930年代、黒魔術に傾倒したヒトラーは、ルーン文化の象徴ルーンストーンを調査させるために、9人のナチスの研究者をアメリカへと送り込みました。その一人が凄みある二枚目のヴィルトでした。家の娘の前で死んだ小鳥を甦らせてみせるヴィルト。どうやらルーンストーンのパワーを得ると不老不死の能力が身に付き、さらに死者を甦らせることも可能となるのです。ヴィルトが生きながらえるためには、人の生血が必要でした。そして、誘拐されたビクターはヴィルトのディナーとして毎日血を吸われ続けていたのですが、そこから何とか逃げ出してきたのです。そして、監禁されていた農場に復讐にやってきたというわけ。納屋の中には、ビクターの後釜の男が縛り上げられていました。イバンはその男を助け出します。そして夜がやってくると、地下室から怪物と化したヴィルトが姿を現します。どうやら、これまでは、農場の一家がヴィルトへ生血を与えつつも、外へ出ないように封印してきたようなのです。ルーン文字があちこちに書かれた農場の壁や家のせいで、怪物は農場の外へは出られず、また家の中へも入ってこられなかったのです。一方で、農場の一家はヴィルトの黒魔術によって不老不死となり、1940年から年を取らないまま、ヴィルトに犠牲者の生血を提供してきたのでした。

ビクターが姿を現して、武装して農場へ向かうあたりはミステリータッチで、一体何が起こったのか見当がつかないのですが、農場についてからは、ビクターの背中の傷とか、縛り付けられた男など猟奇的な匂いがしてきて、さらに怪物化したヴィルトが登場すると、家の内外を舞台にしたアクションものの味わいも加わるという、かなり盛りだくさんな映画に仕上がっています。シューマッカーの演出は、ミステリーの興味で観客をガンガンと引っ張りつつ、アクションシーンもストレートに盛り上げまして、ゴアなシーンもかなり出てくるもののそこをサラリと流して猟奇色を控えめにして、王道娯楽映画に仕上げることに成功しています。ビクターたちと怪物の攻防戦をドラマのメインに据えたことと、事情説明を最小限に留めて、ドラマを滞留させなかったのが成功の一因でしょう。怪物がルーン文字の書いてある場所には入ってこられないとか、飲めるのは生血だけで死人の血は飲めないといったゲームのルールも有効に作用していますし、一方で怪物が殺した動物や人間を次々と甦らせて、自由に操って攻撃してくるので、スリルと緊迫感のある攻防戦が展開します。

農場の一家は、ルーン文字によって怪物を農場に封印することに成功してきましたが、黒魔術によって怪物の僕にされているので、怪物に生血を提供するための生贄をさらってきていました。ビクターもそんな生贄の一人だったわけです。ビクターはイラク戦争からの帰還兵であり、エバンはそんなビクターに引け目を感じていまして、さらに失踪時に「助けてくれ」という声を聞きながら見つけられなかったという負い目もあったという設定が、主人公兄弟の行動にきちんと反映されていて、尋常じゃない展開に説得力を与えている点はうまいと思いました。90分というタイトな時間でもそういう人物描写を削らないシューマカーの演出は評価できると思います。

怪物の狙いは、農場に封印された状態からの脱出にありました。月食の夜に儀式を行い、額の第三の眼が開くと無敵キャラになるらしいのです。そして、この夜がその月食だったのです。ただ、その儀式には生血をたくさん必要とするため、家の中にいるビクターたちに攻撃を仕掛けてきているのでした。問答無用で始まる怪物と主人公たちの攻防戦にもちゃんと意味があることが説明されて、腑に落ちるあたりは脚本のうまさなのでしょう。最小限の説明で、不気味な世界観が浮かび上がると、ドラマとしても奥行きを感じさせてくれます。

映画の半分以上は夜間シーンなのですが、ダーコ・スヴァクの撮影は不自然なくらいに差し込む光を入れることで、独特の映像美を作り出すことに成功しています。ヴィルトが変身した怪物は、人間の姿で顔に呪文やマークが浮彫りになっているというもので、特殊メイクとCGの両方を使って表現しています。特殊メイクは「インディペンデンス・デイ」「サイレント・ヒル」のパトリック・タトポウロスが担当しています。マイケル・ファズベンダーはタイトル3枚目ながらも、冒頭でした素顔がわからず後は特殊メイクでの出演となってます。ゴアシーンも特殊メイクとCGを併用しているようですが、アクションシーンの中で、クイックショットでサラリと見せるので、そこだけが突出しない演出になっていて、ドラマの流れを妨げていません。デビッド・バックリーの音楽はシンセも使っていますが、ドラマ部分はノースウェスト・シンフォニアを使った活劇音楽中心でして、なかなかにメリハリのある音をつけています。



この先は結末に触れますので、ご注意ください。(まあ、ほとんど書いちゃいましたけど)



このままだと、ヴィルトの第三の目が開いてしまい、そうなると全ての封印が解かれてしまって世界が大変なことになる。奴にとっては、彼の肉親の血が毒なのだとのこと。そして、彼は肉親の骨で作ったよろいを持ってきていて、それを着るとヴィルトを威嚇することができ、これを突き刺せば、毒となって倒せるかもしれないのです。既に月食は進み、ヴィルトの第三の眼は開きつつありました。ビクターが納屋まで走って骨のよろいを奪い、エバンは自分の体に傷をつけ、そこに骨の粉をすりつけて、リーズに鐘を鳴らさせます。それがヴィルトへ生贄を差し出す合図だったのです。ヴィルトはエバンの傷口から生血を吸うのですが、それは毒の粉入りだったのでウゲゲとなるものの、エバンに襲い掛かり、骨の剣を突き刺そうとします。そこへビクターが駆けつけ、鉄条網でヴィルトの首を引きちぎり、エバンが奪った骨の剣で眼を突き刺して、ヴィルトの息の根を止めるのでした。それと同時に暴れまわっていた死体はおとなしくなり、不老の魔術が解けて娘のリーズは急激な老化から息を引き取ります。ビクターとエバンは全てを焼き払い、元の生活に戻るのですが、ヴィルトの書類から後8箇所にルーンストーンがあって、ナチスがヴィルトみたいなのを送り込んでいたことを知ったエバンは、モンスターハンターとして旅立つのでした。

クライマックス前に、ヴィルトがわざとビクターを逃がしたのだと言います。ビクターなら、復讐のために農場にやってきて封印を解くだろうことを予測した上での行動で、その目論見は9割方成功するのですが、ビクターが弟エバンを連れてきて、想定以上の反撃に出たものですから、結局やっつけられちゃうというお話。不老不死というのは、いわゆる魔術が効いている間だけ有効なので、魔術のパワーが失せると死んじゃうらしいです。そして、ルーンストーンという石は不老不死を実現する魔力を持っていて、古くから伝えられている手順で儀式を行うことで不老不死が実現するらしいのです。しかし、最近のヴァンパイア映画にみるように不老不死になっても気苦労はたえないようですから、不老不死になった後の生活設計は必要だなって思わせる映画ではありました。アメリカの田舎の農場に封印されて不老不死なんて、そりゃつまらないでしょうし。

コンパクトにまとまった感じもしますが、ホラーとしてもサスペンスとしても及第点はクリアしていると思いますし、活劇映画としても上々の仕上がりではないかしら。

「ビフォア・サンセット」で「ビフォア・ミッドナイト」の予習してみました。


公開中の「ビフォア・ミッドナイト」を観たいと思っているのですが、「恋人までの距離」「ビフォア・サンセット」の続編ということで、多少の予習は必要かなと思っていたのですが、「ビフォア・サンセット」がBSで放映されていたので録画して、予習しようということになりました。

9年前にウィーンで出会って、恋に落ちたジェシー(イーサン・ホーク)とセリーヌ(ジュリー・デルピー)ですが、お互いに連絡先も交換しないまま別れて、9年がたちました。ジェシーは、二人の一晩のことを小説にして、それがベストセラーとなり、そのプロモーションでヨーロッパを旅行していました。パリの本屋でインタビューを受けていると、そこにセリーヌが現れました。飛行機の時間まで、パリのカフェや街を回りながら語り合う二人。どうやら、二人はウィーンでの再会を約束していたらしいのですが、セリーヌが祖母の葬儀のためにウィーンに行けず、ジェシーだけ一人ウィーンで待ちぼうけを食らったらしいです。それも9年前のこと、ジェシーは、教師の奥さんと5歳の息子がいました。一方のセリーヌは、環境保護団体で活動していて、報道カメラマンの彼氏がいました。最初は旧交を温めるという感じだったのですが、ジェシーにしてみれば、再会の約束をすっぽかされたことが気になっていますし、セリーヌにとっても、彼との一日は忘れがたい特別な日となっていたようです。最初のうち、お互いに相手が幸せにやっているのだと思っていたのですが、徐々に本音が出てくるようになると、どうも、それぞれにお悩みを感じているようです。それでも、二人の距離は縮まらないように見えながら、飛行機の時間が迫ってくるのでした。

「スクール・オブ・ロック」「ファースト・フード・ネイション」のリチャード・リンクレイターが監督した「恋人までの距離」の9年後の続編です。リンクレイターと主演二人が共同で脚本を書いています。「恋人までの距離」は未見なのですが、冒頭でちょっとだけ説明していますので、お話がわからなくなることはありません。この映画は、書店でのインタビューの後、二人がカフェや街を歩きながら会話するのをリアルタイムの時刻経過で描く、77分の小品です。30代の男女が9年ぶりの再会ですから、お互いに状況が大きく変わっていることでしょう。そんな9年の距離を感じさせる会話から始まり、そしてお互いの近況を交換し、とあるよなあ、そういうのっていう関係が、二人の会話だけで描かれていきます。お互いの連絡先も交換しないまま別れた二人、男はその時のことを小説にしてベストセラーとなり、パリに本のプロモーションにやってきたときに、かつての彼女と再会する。これって、どう考えてもありふれた再会ではありません。もう冒頭からロマンチックな予感がひしひしなんですが、意外や、二人の会話は淡々としたところから始まります。同窓会で再会したときみたいな感じなんです。

セリーヌとしては本の中に自分が出てくるのは不思議な気分だとは言うのですが、そのシチュエーションが会話の中心に出てきません。ジェシーの方も、再会するために小説を書いたんだみたいなことを言うのですが、二人の間に9年のブランクを一気に飛び越えた恋の炎がメラメラ、という展開にはならないのです。運命的な再会で始まるのに、会話の中身はあくまで、9年前の過去を持っている男女の普通のテンションの会話なのです。このテンションは映画の最後まで変わらないのが面白いと思いました。冒頭の設定で期待させるほどには、ドラマチックな展開もなく、二人の仲良しさんな会話の中から、お互いの9年間の人生が見えてきます。と言っても二人の人生はそれほどドラマチックなものではなく、むしろ平凡。小説家と環境活動家というちょっとシャレた肩書きの割りには普通の人生を送ってきたことがわかってきます。セリーヌは貧困とか環境というキーワードに敏感に反応するところはありますが、それが彼女の人生の全てというわけではない分別が感じられますし、ジェシーも小説家としての顔を見せることはありません。

そんな仲良しさん同士の会話から、舞台がカフェを出て、遊覧船へ乗り込むあたりから、二人の今に対する悩みが会話の中に出てきます。話題がセックスの方にシフトしていくのですが、その流れの中で、ジェシーが奥さんとセックスレスに近い状態であることが見えてきます。そもそも、奥さんと結婚したのは成り行きに対して責任を取ったという形らしいのですよ。ずっと心の中にあったのはジェシーだったんだけど、責任感というか義務感から結婚したみたいなことを言うのですよ。ずいぶんと奥さんに対して失礼な話だとは思うのですが、9年ぶりに会ったジェシーに話を盛ったのかもしれません。一方のセリーヌは、色々な男と付き合ったのですが、みんなうまくいかない。どの男も、君のおかげで愛を知ったと言って彼女から去っていくんですって。だから、そんな別れた男であるジェシーがよき家庭人みたいに登場したのには、心おだやかじゃなかったらしいのですよ。どっちも、相手のことが今も特別な存在らしいってところが見えてきます。でも、二人が見つめ合ってブッチューといった展開にはならないのですよ。あくまで、二人の会話は恋愛の当事者にはならないのです。でも、お互いにまだ想いあってるのが伝わってくるのが伝わってくるのは演出のうまさなのでしょう。

ジェシーはセリーヌを家まで送ります。そこで、彼女が書いたという歌を聞かせてくれというジェシー。そこで、ギターを取り出して愛の歌を歌うセリーヌ。「もう飛行機の時間じゃない」というセリーヌから、暗転、エンドクレジット。結局、二人の感情が盛り上がらないうちに終わってしまうので、これはどう読めばいいのかなという気分です。でも、この続きができたのだと知ってると、これはそっちへ行くんだろうなってのが、納得できる終り方になっています。これ一本だけ見れば、普通の会話の中に恋愛要素を細かく刻んで盛り上げた、よくできたパウンドケーキのような映画だと言えると思います。単純な構成でドラマ要素はありませんが、その中から滲み出る恋愛や人生のピースを味わえれば、かなりはまる映画ではないかしら。

長回しの1カット撮影のように見せつつ、要所要所にカット割を入れて、移動する二人の行くところにエキストラを配した演出は、かなり作りこまれた感がありまして、自然な会話の一方で、映像には舞台劇のような緻密さが感じられるあたりが面白いと思いました。

「宇宙大怪獣ドゴラ」はどうしても嫌いになれない、というか、好き。


お正月のメジャーシネコンでやってる映画はどれも興味を引かないもので、家で録画してそのままになっていた「宇宙大怪獣ドゴラ」を観ました。1964年の夏の公開とのことですので、東京オリンピック直前で日本中が盛り上がっていた頃の映画です。

外事課の刑事駒井(夏木陽介)は、連続ダイヤ強盗の事件を捜査していました。一方、強盗団は、宝石店のダイヤを強奪中、突然、体が宙に浮き上がり、何者かにダイヤを横取りされちゃいます。結晶学の権威宗方博士(中村伸郎)のところにやってきたマーク・ジャクソン(ダン・ユマ)というダイヤモンドブローカーが、強盗団と接触を持ち、どうやらマークは何やら企んでいたようです。マークを尾行していて、宗方博士と知り合いになった駒井は、事件についての相談をかけます。一方、日本上空で人工衛星の遭難事件が相次いでいました。駒井と宗方の秘書昌代(藤山陽子)を家に送る途中、不気味な鳴き声と共に、石炭置場の石炭が宙に吸い上げられていきます。日本上空の放射能の濃いところで宇宙細胞が突然変異し、炭素をエネルギーとする怪物となり、ダイヤや炭鉱を襲っていたのです。強盗団がダイヤ輸送車を襲撃するのですが、そこにもドゴラが現れ、通りがかった石炭トラックが襲われます。駒井は、ダイヤ輸送車が襲われなかったことを不審に思い、マークを問いただすと、マークはダイヤ強盗団を捜査中のダイヤGメンだと正体を明かします。一方、炭鉱地帯である九州はドゴラ襲撃に備えて厳戒体制となり、宗方博士も北九州へと向かいます。なぜかマークも北九州へ向かい、駒井は彼を追って九州へ向かうのでした。

「地球防衛軍」の丘美丈二郎の原作を、「キングコング対ゴジラ」の関沢新一が脚色し、「ゴジラ」「マタンゴ」の本多猪四郎が監督しました。この映画が公開された、1964年は、田中友幸製作、円谷英二特技監督による特撮映画がコンスタントに作られていた時期で、ゴジラ+SF+時代劇+戦記ものと、年に3~4本の特撮映画が公開されていたいわゆる特撮黄金期の一編です。特撮映画というのは、東宝にとってもドル箱であったのですが、そんな中では、この「宇宙大怪獣ドゴラ」は思うほど観客を集めず、ゴジラも出ていないことから、あまりいい扱いはされてきませんでした。

先に書いたあらすじから、ドゴラの話とダイヤ強盗の話がゴチャゴチャしてると感じられた方もいらっしゃるかもしれませんが、この映画、ダイヤ強盗団の話とドゴラの話がほとんど噛み合わないまま、並行して描かれています。ドゴラの話だけを抜き出せば、冒頭でアメーバ状ドゴラに人工衛星が襲撃され、石炭置場の石炭が吸い上げられ、北九州市にイカ状のドゴラが現れ、自衛隊の攻撃によりイカ状ドゴラが細胞分裂して結晶状ドゴラに変態し、そこで地蜂の毒がドゴラに効くことが判明、自衛隊が地蜂の毒を量産してドゴラに放射すると、ドゴラが岩石状になって落下するのでした。めでたし、めでたし。

これだけの話だと1時間半持たないと思われたのか、ドゴラとは直接関係のないダイヤ強盗と、それを追う刑事の話をくっつけた脚本は、かなり苦労の後が伺えました。そのかなり無理してる脚本を、本多監督は、お話が破綻しないように何とかまとめあげたという感じです。そういう意味では、1本の映画としての出来栄えは今一つというところに落ち着きます。とにかくかわいい藤山陽子とか、強盗団の色っぽいアネゴの若林映子といった女性陣とか、じいちゃん博士の中村伸郎のコミカルな味わいなど、演技陣のがんばりは伝わってくるものの、主役である駒井が、ドゴラの正体究明とか弱点発見とかに関わってこないので、怪獣映画のドラマとしてはかなり弱体と言えましょう。特撮もゴジラシリーズほどの予算をかけていないのか、大都市破壊がないので地味な感じになっています。

でも、この映画、個人的にはかなり好きなのですよ。どこがいいのかというと、ドゴラという怪獣の設定と、その視覚化に手間をかけているからです。この怪獣、まず宇宙空間にホタルみたいにポッポッって現れ、アップになるとブヨブヨのアメーバ状の姿が見えます。次に現れるのは、東京の石炭置場を襲うシーンでここでは空に不気味な雲のような形でいわゆる静止画と吸い上げられる石炭の描写の切り替えしで表現されています。次は、北九州市に巨大なイカのような姿で現れます。ここが一番怪獣らしい登場の仕方をします。空から触手がわらわらと降りてくるショット、イカ状ドゴラが空で揺れるショットなどは、操演による人形が使われていますが、要所要所ではフルアニメが使われています。若戸大橋が触手で吊り上げられて破壊されるシーンがミニチュア特撮の一番の見せ場になっています。そして、結晶体になると、今度は丸いプラスチック板みたいになってちょっとチャチになっちゃいまして、それが最後は地蜂の毒で水晶みたいになって、最後に岩になってしまいます。こういうつかみどころのない怪獣ってのは、日本だとこのドゴラだけなのですよ。そこがまず珍しいってところがあります。

さらに、ドゴラの見せ方も、クイックショットばかりなので、ゴジラみたいにじっくりと見せてくれなくて、ぼーっと見てると、イカ状ドゴラの全体像は見逃しちゃうかも。さらに、ドゴラがやってることは石炭を吸い上げることだけなので、そのシーンだけはやけに登場するのですが、それに比べて、ドゴラが石炭をどうやって吸い込んでいるのかは、イカ状ドゴラの時だけしか明確にわかりません。アメーバ状や結晶状のドゴラがどうやって石炭を吸い込んでいるのかも見せないという、非常にコンセプトが曖昧な怪獣なのです。いったいこいつの正体は何だろうと思っていると、いつの間にか岩になって落下して映画が終わっちゃうという、説明不足というか、細かいところを決めないで作っちゃったように見える映画なのです。アメーバ状の時は単体は小さいのに、石炭をものすごい勢いで空に吸い上げるってのは、どうなってるの?とか、石炭を空へ吸い上げるような怪獣がわざわざダイヤなんてちっちゃいものを狙うのかしらとか、突っ込みどころは山ほどある怪獣なのです。

でも、私としては嫌いになれない。作ってる方も見切り発車しちゃったような怪獣なのに、他の映画にない不定形怪獣というコンセプトがこの映画を日本の怪獣映画の中の唯一無二の存在にしているのです。そのチャレンジは成功したかどうかは置いといて、記憶するに値すると思います。また、伊福部昭の音楽もミュージックソーを用いた浮遊感のある音で、ドゴラを的確に描写していて、ものすごい多作の時期の仕事なのに頑張ってるなあってところでも点数上がっちゃうのです。そもそも、ゴジラで稼いでいるときに、こんな得体の知れない怪獣の映画を作るってのは、チャレンジだったと思います。この企画が通ったってことも当時としてはかなりのチャレンジだと思いますし、やっぱり好きなんですよ、この映画。

「世界の終り」は1時間というコンパクトな時間なので、イメージが広がって楽しめたのかな。


体調すぐれず映画館へ行く元気がないなあってときに、ジョン・カーペンターの「世界の終わり」をAMAZONで見つけてゲットしちゃいました。これは、「マスターズ・オブ・ホラー」というケーブルTVの企画で、ホラー映画監督が1時間程度の長さで1エピソードづつ作るというのもの。ダリオ・アルジェントやトビー・フーパー、ジョー・ダンテといったそうそうたる面々が参加し、この「世界の終わり」もそのシリースの1本です。このシリーズでは、鶴田法男の監督した「ドリーム・クルーズ」が1時間半に再編集されて、劇場公開されました。日本でもひっそりと公開されたのですが、これはなかなか面白かったです。

自殺した恋人アニーの父親から借金して始めた映画館の経営は火の車状態のカービー(ノーマン・リーダス)は、ある日、映画収集家のデリンジャー(ウド・キア)の屋敷に招かれます。デリンジャーはカービーにある映画のフィルムを探してほしいという依頼をしてきます。それはバゴウィックという監督の「世界の終わり」という映画です。シッチェス映画祭で一度上映され、その時に映画館で暴力沙汰が起こって上映禁止となり、その結果フィルムも失われた筈だったのですが、それが1本だけ残っているというのです。10万ドルで探してくれというデリンジャーに20万で引き受けるカービー。彼はアニーの父親から20万ドルの借金の返済を迫られていたのです。カービーは「世界の終わり」の評論を書いた男を訪ね、バゴウィックのインタビューテープを手に入れます。そのテープを聴いてから、彼にアニーのイメージがフラッシュバックするようになります。パリの知人のアーカイブを訪ねて、フィルムを探そうとしますが、そこにフィルムはなく、バゴウィックの遺品を持っている収集家を紹介されます。そこを訪れたカービーは収集家の男に椅子に縛り付けられます。そして、彼が乗ってきたタクシー運転手の首をはねる収集家の男。こいつも映画を観ておかしくなったのか? またしてもフラッシュバックが起こり、気付いた時、収集家は血塗れで倒れていました。カービーは男からフィルムへの糸口となるバコヴィック監督の未亡人の居場所を聞き出し、カナダへと向かうのでした。

「世界の終わり」という伝説の映画は、観客をおかしくしたという都市伝説を持っていて、その映画は1本だけフィルムが現存しているというところから始まります。収集家のデリンジャーという金持ちは、映画に登場した天使の羽を部屋に飾っているというくらいその映画にのめり込んでいるようです。さらに奥の部屋には、映画に登場したという天使そのものが背中の羽をもがれて鎖につながれていたのでした。こいつは俳優なのか、それとも人間以外の何者なのか。デリンジャーという男は普通の人間ではなさそうです。一方のカービーは、恋人のアニーとドラッグに溺れて、その立ち直りのために彼女の父親から20万ドルを借りて、映画館を始めるのですが、その矢先にアニーはバスタブで手首を切って自殺したのです。そのことを負い目にしていました。そして、映画を探し始めたカービーに、次々に怪奇な事件に遭遇するというのがメインストーリーとなります。

ドリュー・マクウィーニーとスコット・スワンのオリジナル脚本を、ジョン・カーペンターが監督しました。2005年の作品ですので、「ゴースト・オブ・マーズ」と「ザ・ウォード」の間に作られたもので、彼は「マスターズ・オブ・ホラー」のシリーズで2本を演出していますが、この「世界の終わり」の方が評判がいいらしいです。1時間の枠の中で、ホラーとそのバックグラウンドとなる世界観を描くことにかなり成功していると言えましょう。「パラダイム」や「マウス・オブ・マッドネス」のように小さな事件ででっかい物語をほのめかすというコストパフォーマンスのよい作りは、ここでも健在でした。劇場映画の大風呂敷に比べれば、時間と予算のせいかこじんまりとまとまったところもあるのですが、それでも、謎の映画の断片シーンなどの悪夢のイメージはなかなかのリアリティがありましたし、残酷シーンもかなりのインパクトがあり、さらに全編に緊張感を持続させたあたり、職人的なうまさを見せてくれます。

この映画の原題は「Cigarette Burns」といい、これは、フィルムの交換時期を知らせるパンチマークのことです。「世界の終わり」を探し始めたカービーに時々パンチマークのイメージがフラッシュバックして、その中にアニーが現れたりするようになります。このパンチマークというのは、上映技師にその巻の終了することを知らせるためにフィルムの隅っこに現れるものでして、最初のマークが出て数秒後にもう一回出たところで、次のフィルムをセットした隣の映写機をスタートさせるという流れとなります。シネコンになって、フィルムを巻ごとに映写するのではなく、全部をつなげてでっかいリールで一挙に上映するようになって、パンチマークを意識した上映は少なくなり、さらにデジタル化によって、パンチマーク自体が消滅してしまいました。2005年というと、日本ではまだフィルム上映だったのですが、アメリカでも、フィルム上映がメインだったのかしら。ともあれ、フィルムの収集とかパンチマークを扱った映画としては最後の方に位置づけられるでしょう。これから、こういう題材が扱われるとしたら、ノスタルジーの対象となるでしょうから、そういう意味で貴重な映画といえるかも。

カービーが訪ねた評論家は、その映画を1回だけの映画祭での上映会で観ていました。その上映の結果、4人の死者が出て、映画館の廊下が血の海になったといいます。その暴力沙汰は、たまたま発生したのではなく、バゴウィック監督がそうなるように意図的に映画に作りこみをしていたというのです。ブルース・リーの映画ややくざ映画を観て、劇場を出た後、テンションが上がっちゃう人がいたのは事実だそうですが、そのパワーアップ版というべき映画らしいのですよ。そして、コレクターたちがその映画を追い続けているのだそうです。まるで悪魔が作ったような映画らしいのですが、その映画で、天使が残酷な扱いをされているらしいことがわかってきます。その映画に出た天使はデリンジャーの邸に監禁されているというケッタイなお話。

色々な設定が交錯するのですが、メインとなるストーリーはシンプルです。でもそのディティールは不合理なことばかりで、腑に落ちる説明もありません。上映会の時の映写技師だったカービーの友人の指は火傷で固まっていました。バゴウィックの遺品コレクターの男はタクシー運転手の首を切り取り、それを部下の男たちが撮影しています。ここはアルカイダの人質の惨殺映像につながっているようなのですが、それにしても、ドラマの流れとしても唐突で、かなりショッキング。最近の残酷メーク市場をほぼ制圧しているハワード・バーガーとグレッグ・ニコテロ率いるKNBイフェクツグループが腕を振るっていまして、この他にクライマックスとか天使の特殊メイクで見事な仕事をしてくれています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



カービーはカナダのバンクーバーにバゴヴィック監督の未亡人を訪ねます。そのアパートに行くまでのエレベーターの中で、恋人アニーに遭遇します。監督は引きこもって自分の映画を何度も観ていたそうで、その挙句に奥さんと心中を図り、奥さんだけ生き残ったというのです。そして、問題のフィルムは未亡人が保管してきたのですが、もう手放したいと思っていたと、あっさりカービーにくれちゃうのでした。そして、カービーは、デリンジャーの邸にフィルムを届け、デリンジャーは大興奮で映画の上映を始めるのです。その直後、カービーはデリンジャーの呼び出しを受けて再び邸を訪ねます。すると、デリンジャーの執事が傷だらけの体で現れ、「お前があの映画を持ち込んだな、お前は映画を観たがっている」とワケのわからないことを言って、ナイフで自分の両目をえぐります。上映室に行ってみれば、映写機の横にデリンジャーが歓喜と苦痛の表情を浮かべています。彼は自分の腸を映写機に巻き込んで命を絶ちます。そこへ、アニーの父親が現れ、カービーに銃を向けるのですが、なぜか再び「世界の終わり」の上映が始まります。不気味な映像が続き、それに見とれている二人の前に、スクリーンの向こうから、血塗れのアニーが現れ、父親に抱きつきました。その幻想が消えたとき、カービーは父親がアニーに異常な愛情を抱いていたことに気付き、彼を殺して、自分も銃で自殺するのでした。執事は天使に鎖の鍵を渡し、天使は、「世界の終り」のフィルムを抱いて、カービーの死体に「ありがとう」と言って退場。おしまい。

映画のプロデューサーが誰なのかは最後までわからず、これがどうやら悪魔、というか人間の悪の根源らしいということが示されます。この映画を封印することで、囚われていた天使が解放されるという結末らしいのですが、その辺のところは雰囲気で解釈するしかありません。映画を観ていたカービーと父親がアニーの幻覚を見るというのも、この映画が観客を過去の自責の念に直面させるという風に思えたのですが、これまたいくらでも解釈できそうです。映画を観た観客の阿鼻叫喚を、4人だけで再現したあたりにコストパフォーマンスを感じましたけど、その内、3人は自傷行為に走るというのが面白いと思いました。暴力沙汰というのは、ホントは殺し合いではなく、自殺で死者が出たのかもしれません。評論家は観客を破壊すると言ってましたが、人間の破壊の仕方は色々ありますからね。デリンジャーの死ぬ直前に自分は過去に悪いことをやってきたという告白をしますから、この映画を観ることで、自分の過去の罪に向き合わされ、その先に来るであろう地獄への道を知り、絶望が自らの命を絶つという見方もできましょう。罪人に罪を実感させ、地獄へと導くフィルムを、天使が持ち帰るというのも面白そうという気がしたのですが、キリスト教にくわしくないので、その意味を理解するには至りませんでした。悪魔が作った映画が、人間の罪の意識を増幅させて、人類を滅ぼそうとするのを、天使が最小の犠牲で押しとどめたようにも思えましたが、このあたりは、その人の持つ信仰によって解釈が変わってきそうです。

演技陣はウド・キア以外は知らない人ばかりですが、皆好演しています。このDVDには、カーペンターにインタビューしているのですが、作った当人が「世界の終り」みたいに人間を破壊する映画なんてあり得ないと言い切るあたりがおかしいと思いました。またビハインドシーンでは、残酷シーンの撮影現場の和気藹々とした雰囲気が面白かったです。考えてみれば、ホラー映画の残酷シーンはそのカットのみ切り取れば滑稽なものかもしれません。それが編集、音響によって怖くなるのではないかなって気がします。セリフよりイメージを増幅させることで恐怖を描いてきたカーペンターにしては、この作品は会話の多い映画でして、会話の中にさまざまな含蓄を持たせているのですが、映画の世界観は、ちょっとだけ登場する「世界の終り」の映像の方に込められているように思いました。宗教映画とスナッフフィルムをいっしょくたにしたような映像がなかなかに不気味なのですが、カーペンターは実在しない映画をかなり適当にそれらしいイメージショットを積み上げて作ったと語っていました。

まあ、悪魔と天使の間で、人間同士が殺し殺されるお話のようでして、やっぱり人間の本性なんて悪でしかないのねーというペシミスティックな展開は、なかなか面白かったです。天使と悪魔の闘いとは言え、その力が及ぶのが映画と映画に関係した人間だけというところが、小さくまとまってしまったとも言えるのですが、その分、短編小説を読むようなピリっとした仕上がりになったように思います。あまり、細かいところまで説明しきらないで、なんとなく雰囲気で流した演出は、1時間の長さにふさわしく、長編映画であれば、もっとシーンの説明をしないと途中で観客は置いてきぼりにされちゃうでしょう。

「サブウェイ・パニック」は今観ても十分面白い、オススメの逸品。


映画館に行けてないので、埋もれていたLD(レーザーディスク)の「サブウェイ・パニック」を観ました。でかいディスクで場所も取るし、今のブルーレイはおろかDVDにも届かない画質と音質ですが、それでも当時はVHSのビデオよりは高品質だということで、マニアはビデオよりこっちを買っておおすごいと思っていました。当時の20インチのブラウン管テレビでは、ビデオとLDの差ははっきりと識別できましたから、それで十分と言えば十分なのでしょう。最近のデジタル放送でHDリマスターした映画を録画すると、その映像の鮮明さに驚かされるのですが、これが当たり前になっている若い人には、LDなんて低画質でかさばるだけのものにしか映らないでしょう。ちなみに「サブウェイ・パニック」はシネスコサイズの映画なのですが、このLDは左右をカットしたスタンダードサイズになっています。いわゆる昔のテレビ放映と同じやり方です。昔のシネスコ映画のテレビ放映時は、タイトル部分だけを左右圧縮画面のまま放映し(映像やタイトル文字は縦長になります)、本編に入るとシネスコ画面の左右をカットした画面になります。当然、オリジナルより狭い画面の上映となります。さらに、昔のテレビは画面の丸みのせいで、スタンダードサイズの映画でも画面が全部映らなくて、シネスコサイズの映画だと画面の半分弱を覗くような感じになっちゃってました。

ニューヨークの地下鉄、ペラム行き1時23分発鈍行列車が4人組の武装集団にハイジャックされてしまいます。彼らは先頭車両を切り離し、そこに乗り合わせた乗客17人と車掌を人質にとって、ニューヨーク市に100万ドルを要求してきました。地下鉄公安局のガーバー警部補(ウォルター・マッソー)が犯人との窓口となり、犯人側のリーダーであるミスター・ブルー(ロバート・ショウ)との交渉にあたります。犯人グループはお互いは色の名前で呼び合い、地下鉄運転のできて風邪でくしゃみばかりしているミスター・グリーン(マーティン・バルサム)、冷静なミスター・ブラウン(アール・ヒンドマン)、かなりアブないミスター・グレー(ヘクター・エリゾンド)という面々。1時間で金を持ってこないと人質を1分ごとに1人ずつ殺すと伝えてきます。ヘタレなニューヨーク市長が助役にせきたてられて、金を出すことに合意して、現金を犯人の要求する古い紙幣で揃えるのに時間がかかり、とても間に合いそうにありません。ガーバーが説得してもミスター・ブルーはビタ1分譲らないと冷ややかに言い、金を積んだパトカーが銀行を出発したときにはタイムリミットにはどうにも間に合いそうにありません。果たして人質の運命は? そして、地下鉄をジャックした犯人は、金を受け取った後、どうやって逃げようというのでしょう。

ジョン・ゴーディの原作を、「シャレード」「料理長殿ご用心」のピーター・ストーンが脚本化し、「マッカーサー」「ザ・マン 大統領の椅子」など一癖ある映画(「ジョーズ4復讐編」も含めて)を作っているジョゼフ・サージェントが監督した、犯罪サスペンスの逸品です。1974年の公開当時は、パニック映画がブームだったので、この映画ですとか、優れたサスペンスものであるリチャード・レスター監督の「ジャガー・ノート」もパニック映画として売られていました。でも、この2本は今でも見劣りしないサスペンス映画の名作として評価されると思います。両者とも、ある限定空間の人質、そして犯人との交渉、随所に盛り込まれたユーモアと、題材としては別ものですが、どちらも共通した面白さを持った作品です。

「サブウェイ・パニック」の面白さは、地下鉄を乗っ取ってどうやって逃げ切るつもりなのかというミステリーと、身代金のタイムリミットのサスペンスにあります。そして、登場人物の隅々にまでキャラクターづけされているのですが、キャラ描写が映画を滞らせずにスリリングに流れていく演出のうまさ。そして、ニューヨーク市が全面協力した街中や地下鉄のロケの絵の迫力。その上に、演技陣の力量がドラマをリアルな肉付けをしていて、娯楽映画としての点数が大変高いです。タメの演出を一切せず、ストーリーをテンポよく運んでいるのに、ライド感よりもサスペンスと駆け引きのドラマの面白さが際立つのが見事です。サスペンスの中に挟みこまれるユーモアの、まさに緊張と緩和のうまさ。テレビの月曜ロードショーで初めて観てから、何回も見返しているのですが、やはり面白いってのはすごいと改めて感心しちゃいました。たまたま出会ったタイミングが感受性の強い中学生のときだったからかもしれませんが、この頃観た映画は、今もって特別な映画になっています。「サブウェイ・パニック」「ジャガー・ノート」「イルカの日」「キャリー」「チャイナタウン」といった映画に中学生時代に出会ったことは、その後の映画鑑賞の嗜好に大きな影響を与えているのですよ、これが。

問題の地下鉄は駅と駅の間に止まっていまして、その前後を武装した警官隊がとり囲んでいる状態でした。札束を積んだパトカーは途中で事故を起こしてしまい、タイムリミットには間に合わなくなったのですが、ガーバーはとっさの機転で「金が駅に着いた」と犯人側に告げ、寸でのところで犠牲者を出さずにすみます。そして、警官二人が地下鉄の線路を列車に向かっていくのですが、待機していた狙撃班がなぜか発砲し、銃撃戦となって、ミスター・ブラウンが腕を撃たれてしまいます。ミスター・ブルーは車掌に金を取りに行けと線路に下ろして、機関銃で彼を殺してしまいます。そして、警官隊は金を列車に届けて、彼らは無事に帰されます。そして、さらにミスター・ブルーはガーバーに列車の線路の前を全て空けて、信号も青にしろという要求を出してきます。果たして、犯人たちは何を企んでいるのでしょうか。

金を作って、列車まで運ぶところが中盤の見せ場になっています。銀行で、金を勘定して束ねていくモンタージュに、デビッド・シャイアのビートの聞いたジャズサウンドがかぶさると、サスペンスとテンションが上がる上がる。そして、パトカーで金の入った袋を運んで市内を爆走するシーンがリアルにドキドキハラハラさせるのですよ。パトカーの運転手コンビとか、列車まで金を運ぶ警官コンビとかが丁寧に描かれているので、当事者目線でのドキドキハラハラと時折挟まれるユーモアをたっぷり楽しむことができます。一方で、ハイジャックされた列車の中でのピリピリした空気もきっちりと伝わってきます。ガーバーやミスター・ブルー、その他の登場人物の会話の面白さも映画を単なるサスペンスだけでない、人間ドラマに仕上げています。特に映画の中で徹底的にコケにされる市長関係者の会話が面白く、奥さんが「18人の身代金は払うべき、そうすればあなたにも見返りがあるわ、18票の」というあたりのおかしさは、絶品でした。ここで登場する市長はドンくさい小心者で、側近から市民からバカにされている設定でして、ニューヨーク市が全面的に協力していて、これだけ市長をコケにできるあたりは、感心しちゃいました。犯人説得して市民への点数稼ぎをしようという助役に「連中が私に銃を向けたらどうする。」「どうして連中がそんなことを?」「だって、彼らもニューヨーク市民だろ?」というやりとりも笑えました。



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金を手に入れた4人は25万ドルずつを自分の上着の中に入れ、信号の準備が整う前に列車を動かし始めます。カーバーはそれを威嚇だと思っていると、また駅の間で列車は止まり、4人は列車に何やら細工を始めます。市警の警部から、犯人が列車を走らせて飛び降りて逃亡する可能性はないのかと聞かれたガーバーは「運転席のハンドルに一定の力がかかっていないと列車は止まるのでそれはない」と答え、彼も現場へと向かいます。やっと全信号が青に変わり、列車は動きだすのですが、そこには4人は乗っていませんでした。彼らの細工とはどうやら自動停止装置の解除だったようです。それに気付いたカーバーは、列車が途中で止まったところへ戻ります。一方、列車の中には私服刑事が乗り込んでいて、列車が発車時に飛び降り、地下の通路から逃げようとするミスター・ブラウンを射殺します。また、銃を持って地上へ上がろうとしたミスター・グレーをミスター・ブルーが射殺。さらに刑事を殺そうと近づいたとき、背後からカーバーが現れ、銃を捨てたミスター・グレーは線路と集電軌道をまたいで感電自殺してしまいます。列車は前方が全て青信号なので、止まることなく暴走し、環状線まで入ったところで赤信号に引っかかり、やっと停車し、人質は無事でした。結局、金を持って逃げおおせたのはミスター・グリーンだけでした。カーバーは犯人の中に元地下鉄運転手がいると見抜いて、不祥事でクビになった運転手を一人一人あたってアリバイを聞き出そうとします。3人目に訪れたのがミスター・グリーンでした。ミスター・グリーンは夜勤で今まで寝ていたと証言し、カーバーもそれを一度は信じるのですが、ドアを閉める直前、ミスター・グリーンがくしゃみをし、それを聞いたカーバーが再びドアを開け、何とも言えない表情でカメラ目線で暗転、エンドクレジット。

ミスター・ブルーとカーバーが無線でやり取りをしていて、その間にミスター・グリーンが何度もくしゃみをしていたのが最後の最後で伏線として回収されるオチが見事でした。またラストカットのウォルター・マッソーの表情がまた絶品でして、シャレた終わり方の映画としてもかなり得点が高いです。また、犯人の地下脱出トリックもなかなかに考えられたもので、信号を青にして前方を空けろと言って、警官隊が配置されている現在位置から、離れるために列車を移動させたと見せかけ、その移動した地点で列車を降りて、列車だけを暴走させようというもの。なるほど、全ての信号が青になる前に、警官隊の配備された位置から、少しだけ移動させるってのは、彼らにとっては自然な行動ですが、そこにトリックを仕込んであったというのは、うまい展開だと感心しちゃいました。

つい最近、リメイクされているのですが、リメイク版の方は未見です。でも、オリジナルの面白さにはかなわないだろうなあって予感はあります。それは、最近の映画がジェットコースター風のライド感で突っ走るものが多いので、オリジナルのような小技を積み上げていく映画は期待できないからです。何か、最近の映画は昔に比べて大味だよなあって思うことが多いのですが、これは単なる思い出補正なのかしら。

「マウス・オブ・マッドネス」は入れ子構造のホラーで面白い作りで楽しめます


最近、ジョン・カーペンターの「マウス・オブ・マッドネス」のブルーレイが出て、それがそこそこのお値段だったので、ゲットしてみました。1994年の映画で、私はこれ公開当時、劇場で観ています。もう20年近く昔の映画だったんだってところにびっくり。

精神病院にかつぎこまれた保険調査員ジョン・トレント(サム・ニール)は、なぜここに連れてこられたかについて語り始めます。有能な保険調査員だったトレントは、ある日、白昼に斧を持った男に襲われます。その男は警官に射殺されます。出版社の社長ハーグロウ(チャールトン・ヘストン)から、行方不明になったベストセラー作家サター・ケーン(ユルゲン・プロフノウ)探しの依頼を受けます。彼の書いた小説はどれもベストセラーになり、多くの読者はその本に取り込まれたようになっています。トレントを襲ったのは、ケーンのエージェントでした。トレントは本の表紙から舞台となっている町の位置を割り出し、編集者のスタイルズ(ジュリー・カーメン)と共にケーン探すために車を走らせます。途中で自転車に乗る謎の老人を目撃した後、真っ暗闇に入った車はいつの間にか空を飛び、気がつけば小説の中の町、ホブス・エンドに着いていたのです。人気のない町、走り回る子供、そして小説の中に登場するホテルに向かえば、老女主人が彼らを迎えます。フロントに飾っている絵の人物がいつの間にか動いていることにスタイルズは気付きます。どうやら、この町はおかしなことになっているようです。

映画プロデューサーとしての仕事が多いマイケル・デ・ルカの脚本を、ジョン・カーペンターが監督した終末ホラーの一編です。カーペンターは「遊星からの物体X」「パラダイム」とこの映画を終末映画の三部作として認識していまして、どれも世界の隅っこで起こった事件から、世界の終末が始まるというお話になっています。この作品では、ベストセラーのホラー作家、サター・ケーンの小説が人を狂わせていくというお話を、ジョン・トレントの恐るべき体験として描いていきます。ラブクラフトの世界観をベースにしているというのですが、私はラブクラフトの小説は読んだことがないので、まるっきりおニューのストーリーとしてこの映画に臨みました。劇場で観たときはかなり込み入った話だなあって思ったのですが、見直してみれば、意外とシンプルなストーリーだったということに改めて気付かされました。どうも、あちこちに登場するギミックのせいで、複雑なストーリーだという印象を持ってしまったようです。物語は、精神病院で主人公が回想するシーンで始まり、ケーン探しの依頼を受け、実際に存在しないらしい町に向かったら、いつの間にかその町にいて、そこでひどい目に遭うというもので、世界観はでかいけど、お話そのものはコンパクトでして、「パラダイム」と同じくちっちゃいスケールででっかい話という作りは、低予算を有効に使う、カーペンターのうまさが光る一品となっています。

主人公のジョン・トレントはケーン探しを依頼されたときは、彼の小説に興味はなかったのですが、読んでみたら結構面白いことに気付きます。でも、所詮はコケおどしのホラー小説でしかないと思うのですが、一方、彼の小説を求めて暴動騒ぎまで起こったりして、世間は彼の小説を単なるホラー小説以上と認識しているようです。そして、編集者スタイルズと小説の町、ホブス・エンドを見つける旅に出るのですが、そこからは、理屈で説明できない変なことが続発、すれ違った自転車の少年が数分後には老人となってまたすれ違ったり、車がいつの間にか空を飛んでいて、夜中だったのが一気に真昼間のホブズ・エンドにいたり。論理性がゼロの世界では、おかしな事ばかり。立派な教会があって、そこに向かえば、町の男たちが武装して登場、子供達を返せというと、教会の中から行方不明のサター・ケーンが現れます。こうなることをスタイルズは知ってたみたいで、ジョンが問い詰めると、この町に来てからのことは、彼の未完の原稿に書かれていたんですって。彼の小説って予言なのか?

ホブズ・ヒルでは、子供達がどこかへ連れていかれて、親たちはそれが教会にいるケーンのせいだと思っているようで、実際、子供達が化け物のようになって登場してくるので、それは当たっているのですが、だからと言って、トレントが町の人と一緒にサター・ケーンと闘うと言ったお話には展開しません。この町で起こる不気味な事件を列挙していくという描き方で、これが現実の世界なのか、トレントの悪夢なのかがわからなくなってくるという展開になります。原稿を読んでおかしくなったケーンの代理人はなぜトレントを襲ったのか、サター・ケーンの正体は何者なのか、そういう謎をはらんで、映画は奇妙なところに着地します。小説の内容が現実世界を浸食してくるというお話と同様に、さらに映画の内容が観客の世界を浸食してくるのですよ。そこに、怖さと奇妙なおかしさが同居することになり、映画としては、かなり奇妙な味わいが残る一品となっています。

後半は、地獄のモンスターまで登場するというサービス度の高い展開になりまして、ブルース・ニコルソン率いるILMと、今や特殊メイクの第一人者となったKNBイフェクツグループが、低予算ながら効果的なショットを作り出しています。撮影のゲリー・B・キッブは、カーペンター映画の常連ですが、シネスコ画面をうまく使って、カーペンターの意図をよく汲んでいるようです。音声解説が、カーペンターとキッブによるものなのですが、カーペンターがキッブに「ここはどういう照明で撮影したの?」という質問をあちこちで入れて、それにキッブが専門用語を交えながら答えるパターンが随所に登場します。観ている方はどうってことないようなショットでも、色々と苦労してるんだなあってのが伺えるのと、そういう苦労をキッブに語らせるカーペンターっていい人かも思わせるところが微笑ましかったです。音楽はカーペンターとジム・ラングとの共作になっていますが、当然カーペンター色の強いシンセサイザーメインの音になっています。全編に渡って効果音のようにシンセの音が鳴っているような音作りになっています。

カーペンターお約束のショック演出、カメラのすぐ前を人を横切るカットなどが、いつもの彼らしさを出していますが、お話の得体の知れない度は、彼の作品群の中でもピカ一でして、それはマイケル・デ・ルカの脚本に負うところ大なのでしょう。論理的には破綻しているお話なのですが、雰囲気で見せきる力技はカーペンターらしさと言えましょう。面白い映画でした。


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夜、吸い寄せられるように町の教会に向かったスタイルズは、そこでケーンに会い、残りの原稿を一気に読まされて、そこで世界の終わりを見ることになります。トレントが町の大通りに行くと、そこには顔の崩れた町民が武器を持って彼を追ってきました。その中にはスタイルズの姿がありました。車でそこから逃げ出そうとするのですが、いつの間にか町の大通りに戻ってきます。トレントは町民を正面突破しようとするのですが、その先にいたスタイルズを避けようとして車をぶつけて失神。気付けば教会にいて、ケーンから、「お前は私の物語の中の登場人物なのだ」と告げられて愕然とするトレント。そして完成した原稿をトレントに渡すケーン。スタイルズと一緒に逃げようとするトレントですが、自分は結末を見てしまったから帰れないといいます。実世界へ向かうトンネルを走るトレント、その背後からあの世の怪物が群れを成して追ってきます、と気付いてみれば、とうもろこし畑の中の道にトレントはいました。自分につきまとってくる原稿を焼却して、ハーグロウにところに向かい、それまで体験した事実を告げるトレント。しかし、ハーグロウは、原稿はずっと前にトレントが持ってきて出版したといいます。さらにスタイルズなんて編集者は知らないと言うのです。トレントは、スタイルズがケーンによって物語から消されたのだと言いますが、ハーグロウには相手にされません。町では、ケーンの小説を求めて、多くの人が書店に列を作っていました。そこに現れた目が座っちゃってるトレントは、本屋から出てきた若者に斧を振り下ろし、精神病院に連れてこられたのです。

そして夜中、トレントが病室にいると、外から悲鳴が聞こえ、ドアの窓で不気味な影が蠢きます。朝、トレントが病室を抜け出してみれば、そこはめちゃめちゃに荒らされ、ラジオでは、顔の歪んだ暴徒と化した市民が人を襲っているというニュースが流れています。どうやら、ホブス・エンドで起こった異変は世界規模に広がっているようなのです。町に出たトレントは路地に張られたケーンの小説のポスターを見つけます。その破れ目を剥いでみると、そこにはケーンの小説「マウス・オブ・マッドネス」のポスターが現れ、表紙を飾っているのはトレントの顔だったのです。ジョン・トレント主演「マウス・オブ・マッドネス」を上映している映画館に入ってみれば、そこで上映されているのは、これまでの映像、つまりジョン・カーペンター監督、サム・ニール主演の映画「マウス・オブ・マッドネス」は、サター・ケーン原作、ジョン・トレント主演「マウス・オブ・マッドネス」だったのです。映像を観て泣き笑いの表情になるトレントのアップ、暗転、エンドクレジット。

サター・ケーンは邪悪なものの預言者であり、彼の書く小説のように世界は破滅するのです。トレントはその物語の登場人物でしかなかったのです。つまり、彼の経験は、邪悪なものに操られたサター・ケーンの筆によるものでしかなく、この映画「マッド・オブ・マッドネス」は、邪悪なものがサター・ケーンに託した小説の一部だとオチがつくあたりに、この映画の面白さがあります。ここが、小説がトレントの世界を浸食し、さらに観客の世界を浸食してくるという所以でして、その結果、観客の世界も終末へと向かっていくのだという大風呂敷の広げっぷりはなかなかのものがありました。最終的にケーンのバックにいる邪悪なものの正体はよくわからないのですが、地獄の向こうからやってくるらしいので、神とタイマン張れるくらいの大物らしいです。

前半は、全てがジョン・トレントの幻覚だったという夢オチの解釈も可能なのですが、ラストでこれは全て現実であり、そして小説の中のフィクションでもあるという見せ方は、観客を混乱させるのですが、そこを面白いと思えれば、色々なイメージのひろがるお話であります。ちっちゃい予算ででっかい話としては、かなり成功しているのではないかしら。

「地球爆破作戦」の理性的にもたらされる平和の発想が面白い


今回は、DVDで「地球爆破作戦」を観ました。以前から気になっていた映画だったのですが、DVDがアマゾンで1000円をきっていたので、手が出ました。1970年のアメリカ映画でして、今、観ると古さは否めないものの、面白い映画に仕上がっていました。

アメリカで極秘開発されていた巨大な防衛コンピュータ、コロッサスがいよいよ本稼動することになりました。大統領(ゴードン・ビンセント)と開発者のフォービン博士(エリック・ブレードン)はコロッサスの稼動をアメリカ中に宣言します。しかし、その直後、コロッサスは他のシステムを発見したとメッセージを出します。それは、同時期に稼動したソ連の防衛システム、ガーディアンでした。コロッサスは、ガーディアンとの接続を要求します。フォービンがそれを許すと、コロッサスとガーディアンは通信を始め、コンピュータ間の特殊な言語で会話を始めます。何かおかしいと感じ始めた米ソ首脳は、回線の接続を指示しますが、接続を切られたコロッサスは通信の再開を要求。それを拒否したら、米ソから核ミサイルが発射されます。あわてて、米ソから回線を再開させ、ソ連のミサイルは迎撃に成功しますが、タッチの差でアメリカのミサイルはソ連のコンビナート地区を破壊してしまいます。核兵器を押さえたコロッサスとガーディアンは、それを使って、両国政府にどんどん要求を出してきます。ガーディアンは、モスクワ攻撃で脅して、開発者を殺させ、コロッサスはフォービンを24時間監視の状態におきます。何とか、コンピュータを出し抜こうと画策する研究者や政治家、軍部。しかし、人の命を奪うことに何のためらいのない、コンピュータには、泣き落としも嘆願も意味はありません。果たして、世界はコンピュータの軍門にくだってしまうのでしょうか。

D・F・ジョーンズの原作を、「ペーパー・チェイス」「チャイナ・シンドローム」の脚本監督をしたジェームズ・ブリッジスが脚色し、「サブウェイ・パニック」「ジョーズ4 復讐篇」のジョセフ・サージェントがメガホンをとりました。スペクタクルで見せる大作ではありません。ただ、コンピュータ室や、管制室のセットは手がかっていることがわかり、雰囲気描写は見事でした。コンピュータへの指示は音声で可能。コンピュータの意思表示はディスプレイに示されるので、一応会話の形で意思疎通できるようになっています。コンピュータはあちこちにあるデータを吸い上げてどんどん賢くなっていき、さらにソ連の軍事コンピュータとも接続して、人間に対して命令を出すようになってきます。コンピュータの暴走というSF設定を丁寧に描くことでそれなりのリアリティがあるお話になっていまして、コロッサスというコンピュータが防衛システムを全て牛耳ってしまうという設定を気にしなければ、結構怖くて面白い映画になっています。1970年代には、まだそれなりにコンピュータに信頼感があったようで、外部から侵入してくるハッカーの心配もなく、人為的バグによる暴走といったリスクもない時代の映画だということはできます。何しろ、大統領がテレビでコロッサスの発表をするとき、コンピュータは人間のように迷ったり間違ったしないと満面の笑顔で言い切ります。映画は、大統領を思慮の浅いバカオヤジという描き方はしていないので、このコンピュータへの信頼感は時代の空気だったのかもしれません。パソコンなんてものがない時代、一般市民がコンピュータがどういうものかよく知らない時代でしたから、コンピュータからSF的な発想を膨らます自由度はかなり高かっただろうということが伺えました。

コロッサスは、自分の要求が受け入れられないと、自分がコントロールしている核ミサイルを何のためらいもなく発射しちゃいます。その一切の駆け引きをしないクールさは、人命尊重とかよりも、自分が世界を掌握することを優先していて、そのやり方に一切の妥協がない、究極の合理性ということが言えます。コンピュータが合理的に決断するというのは、そういうふうにプログラミングされているからですが、コロッサスはどんどん知識を吸収するとともに、プログラムを自分で増殖させることもできるし、記憶容量を増やすこともできるみたいなんです。でも、面白いのが、システムとして巨大化するコロッサスが要求するものが、関係者を監視するためのマイクやカメラ、そして、言いたいことを人間に伝えるための音声システム。頭脳はすごいけど、手足がないから、それを人間に要求してくるのです。それを作らないとまたミサイル発射しちゃうぞって脅しをかけてきますから、誰も逆らえません。ソ連側も自分側のガーディアンシステムがコロッサスとつながってしまって、同じような状況になってしまい、コンピュータを相手にアメリカと共闘せざるを得なくなっていました。東西の冷戦のせいでコンピュータに防衛を任せた結果、コンピュータが頭に乗ってきたきたので、冷戦どころではなくなっちゃうという皮肉な面白さはあり、コロッサスとガーディアンがそういうことをするのは、それなりに論理的な理由があるというところが面白い映画になっています。

ジョセフ・サージェントの演出は、静かにそしてスリリングにドラマを運んでいきまして、ロバート・ワイズの「アンドロメダ」やシドニー・ルメットの「未知への飛行」と似た雰囲気があります。ドラマチックな展開はないけど、じわじわと事態が悪い方向へ向かっていく感じがうまく出ていたように思います。演技陣は地味なメンツばかりで、主演のエリック・ブレードンもヒーローキャラとは一線を画していまして、理性的で合理的な思考をするのですが、事件の張本人という認識はあまりないみたいです。事態の収拾には、このくらい冷静な方がいいのかもしれないけど、そのクールさはコンピュータと似たようなもんだなって思わせるところがおかしかったです。音楽がミシェル・コロンビエだったのは意外性がありました。また、視覚効果でアルバート・ウィットロックが参加していて、作画合成カットが随所に登場します。



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コロッサスの動きを封じようと、データのオーバーロードを発生させようとした研究所員は、コロッサスに事前に察知され、コロッサスは研究員を処刑せよと命令、結局彼は銃殺されてしまいます。そして、さらにミサイル基地を爆破させ、多くの死者を出して、もう誰も逆らえないことの念押しをします。そして、テレビで全世界に向けてメッセージを発します。もう、今、コロッサスはガーディアンと一体化して、全世界は自分の支配化に入るように。もともと、自分は戦争をなくすために作られたので、それを実現するためにこういうことになった。人類は多少の不自由をこうむることにはなるが、それは最終的によりよい生活につながるのだと言います。テレビ放映後、コロッサスはフォービン博士に君には特別な扱いをしようと言い出しますが、フォービンは絶対に従わないと言い切るのでした。おしまい。

コロッサスのやろうとしていることは、多少の犠牲を伴いながらも、世界を平和に統治するというものでした。人間一人一人の人権や命なんか問題ではなく、人類という一塊をどう扱うかという考え方しかありません。全体主義と共産主義の典型のような考え方で、それが世界平和への合理的な実現方法だという見せ方にしているのが面白いと思いました。実現のためには、脅迫や粛清をやむを得ないという割り切りが怖いのですが、これが東西冷戦の時期に作られたことを考えると、コンピュータの反乱という設定を使った反共映画だということもできると思います。でも、考え方次第では、最小限の犠牲で、戦争をやめさせたとも言えます。人類の作った破壊兵器を使って、見せしめとして何千何万の人も殺すというのは、ある意味合理的とも言えましょう。その後も、「ターミネーター」とか「イーグル・アイ」という同趣向の映画が作られていますから、コンピュータが、反乱を起こすというネタはまだまだ続くのかもしれませんが、この映画のように、リアルと荒唐無稽をバランスよく取り込んだ映画ってあまりないと思ってます。

「ノーマッズ」はスリラーからホラーへの展開が面白い。差別ネタだけど。


押入れの中を整理していたら、昔買ったLD(レーザーディスク)が何枚も出てきました。その中の1枚で観た当時、印象が強かった「ノーマッズ」を見直してみました。日本ではDVDは未発売ですが、アメリカ版はあるようですから、そのうち発売されるかも。

ロザンゼルスの病院、ある夜、急患で運び込まれた男は、大怪我をしていて、フランス語で何かわめいていました。当直の医師アイリーン(レスリー・アン・ダウン)は彼を診察しようとすると、突然彼に襲い掛かり、その耳もとで不思議な言葉をささやいた後、事切れるのでした。男の正体は、文化人類学者のジャン(ピアーズ・ブロスナン)でした。その日から、アイリーンは幻覚を見るようになります。どうやらジャンの記憶を追体験しているようなのです。彼女はどんどん様子がおかしくなり、病院で倒れた後、姿を消してしまいます。ジャンの記憶とは、奥さんのニキ(アンナ・マリア・モンティセリ)と一緒にロスへ引っ越してきたところから始まります。それまでは、世界中を回って、各地の原住民を研究してきたのですが、今度は教授として腰を落ち着けることになります。彼の近所には、レザー服を着た、不良グループみたいのがウロウロしているのですが、家に落書きしたりする結構迷惑なみなさん。ジャンはある夜思い立って、彼らを尾行して写真に収めます。そしてわかったことは、彼らは定住せず、仕事もせず、暴力をふるう、放浪民(ノーマッズ)だということでした。そして、彼らは、ジャンの生活を脅かすようになってきます。そして、ジャンの最後の言葉の意味は「彼らは存在しない。イヌアトなのだ」でした。イヌアトというのはエスキモーの伝説の悪霊なんですって。

「ダイ・ハード」「プレデター」などで知られるジョン・マクティアナンが脚本を書いて演出もした、1986年の作品です。ジャンルとしては、オカルト風スリラーということになるのでしょうが、今の視点で言えば「都市伝説もの」という括り方もできる内容になっています。今はエスキモーという呼び方はしないで、イヌイットと呼ばれる皆さんの間に伝わる、イヌアトという悪霊がいて、それは災難をもたらすものだということが映画の中盤で語られます。しかし、本当にそうなのかどうかというところはよくわからない作りになっています。映画は、基本はジャンの物語として展開するのですが、その見せ方がジャンが死んだ後、アイリーンが追体験した幻覚として描かれるので、どこかあやふやな感じでして、さらにジャン自身の体験もどこまでがホントでどこから幻覚なのかよくわからない話なので、どこまで真に受けていいのかがわからないのですよ。一応、ミステリー仕立てで展開するのですが、結局、どういうことなのかは説明しきらない結末は、消化不良とも言えますし、不気味な余韻を残しているとも言えます。

まず、登場するノーマッズはレザージャケットを着た5人の男女で、これって当時はよくいたんじゃないのって思わせる風体のみなさん。バンに乗って移動しているようで、彼らは定住せず、仕事せず、社会参加せずに悪いことしてるってのを、ジャンは発見するのです。文化人類学的に、彼らは放浪民なのだというのです。そこまでは、何となくわからなくもないのですが、その後、彼らがジャンの家にふっと現れたりすると、超自然的な展開になってくるのです。「仕事もせず、家に帰らない、不良どもは、実は実体のない悪霊なのだ」という都市伝説みたいな話になってくると怖い展開になってきます。彼らのバンに追われたジャンが逃げこんだ廃屋には、老いた修道女がいて、あなたは深入りしすぎたから、すぐに逃げた方がいいと言い出します。しかし、その修道女はいつの間にか首をつっていて、動転したジャンが気付けば、家の前で車の中にいました。外に出れば、ノーマッズのトップの男が彼を見つめていました。ジャンは近づいてきた男をスパナで殴って殺してしまいます。しかし、翌朝、家の前を見ると男の死体は消えていました。

一方、姿を消したアイリーンが目を覚ますと、そこはジャンの家。奥さんのニキはアイリーンを気遣いますが、彼女が夫しか知らないことを知っているのでびっくり。アイリーンが逃げなきゃと言って、荷造りして家を出ようとすると、そこには例の連中にたくさんのバイカーもやってきて、家を壊し放題。屋根裏に二人は逃げ込みます。

バイカーの皆さんの見た目は「マッドマックス」に出てくる暴走族という感じ。こういう連中が実は放浪する悪霊なんだよって言うのは、怖い都市伝説でもありますし、こういう発想から、ジプシー差別とかが生まれる社会の怖さも感じさせるものがあります。でも、後者の方は、映画が意識しているとは思えず、身近なところに異形のものが潜んでいる恐怖を描くことに重きを置いているようです。マクティアナンは、怖い映画を作る設定として、社会的なはみ出し者が悪霊だというネタを持ってきたのですが、それが差別ネタでもあることには無頓着なようで、それは結末でも見てとれます。そうは言っても、当時は今よりも、ホラー映画がメジャーへの登竜門となっていた時代でして、そこに文化人類学といった知的なノリを入れて、大風呂敷を広げた世界観を作り上げたハッタリは、若手映画作家のメジャーデビュー作として成功しているのではないかしら。

ミステリータッチのスリラーとしての作りはうまく、繊細というか精神的にあぶなそうなヒロインの設定も成功しています。レスリー・アン・ダウンは当時「スフィンクス」でも、繊細すぎなヒロインを演じて、ドラマに危うい気分を醸成するのに成功しています。また、ビル・コンティの音楽がシンセ主体の不気味なスコアを書いて、この映画を支えています。「ロッキー」で有名なコンティですが、「イヤー・オブ・ザ・ガン」「背信の日々」などのホラータッチのシンセスコアでも実績があり、ここでもミステリーにホラーの空気を上乗せするのに貢献しています。



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ジャンはあの連中から逃げ出そうとするのですが、結局つかまってボコボコにされた挙句に病院に運び込まれたのでした。一方、アイリーンはジャンの家で、新聞の切り抜きを見つけます。そこには、例の5人組のトップの男が修道院で自殺したという記事が載っていました。どうやら、あの連中は生きていない、存在していない人間らしいです。その後、5人組プラスバイカーの皆さんに襲撃されるのですが、彼らは、屋根裏部屋まで、アイリーンとニキを追い詰めた後、いずこへと姿を消すのでした。二人は逃げるべく車を走らせるのですが、彼らの車の前を1台のバイクが追い抜いていきます。そして、止まったバイクの男が顔を上げるとそれはジャンだったのでした。おしまい。

夢かうつつかというお話が最後で、超自然ホラーとしてのオチをつける構成はよくできていまして、あまり説明しきらないのも、不気味な余韻を残すのに成功します。連中は、実在しない人間の顔を借りて、過去から未来に向けてずっと放浪し続けるのだという設定は、最近の映画では、吸血鬼伝説のパターンとして使われています。バイカーの設定は、近作の「ヴァージニア」のヴァンパイアでも見ましたから、ヴァンパイアも都市伝説の一つなのかなって気付かされました。

「生れてはみたけれど」は暖かいほのぼの感が現代には新鮮。


今回は、pu-koさんの「大人のための絵本 生れてはみたけれど」の記事を拝見して、そう言えば録画したままになってるなあって気づいて、改めて観て見ました。サイレント映画なのですが、ところどころに昔風の音楽を入れたり、字幕のセリフをナレーションで読んでみたりと、ちょっとばかり趣向を付け加えていました。

東京郊外へ引っ越してきた4人家族、小学生の兄弟は腕白盛りで、近所の子供とも折り合いが悪く、そのせいか学校もさぼっちゃうという困ったガキども。それでも、近所の子供たちとは友達となり、学校へも行くようになりますが、ある日、お金持ちの友達の家に活動写真をやるというので招かれます。その家は、お父さんの会社の専務の家で、上映された映像に、会社でおどけた顔をてうけまくるお父さんの姿がありました。それまで偉いと思っていたお父さんのそんな姿に兄弟は大ショック。家に帰ってお父さんを非難するのです。お父さんは生活のために会社に行ってるのだからと説明しても、幼い二人は理解できません。偉くなれと言ってるお父さん、全然偉くないじゃん。泣きながら眠りにつく兄弟に、お父さんは、自分のようになってくれるなとつぶやきます。翌日もぷんぷんの子供たちですが、でもそこは親子。何となくおさまるところにおさまります。そして、一緒に駅に向かう途中で、その専務さんがいました。子供たちの手前、専務と目を合わさないようにするお父さんに子供たちは「専務さんに挨拶しなくてもいいの」と促します。そして、専務の子供に「きみのお父さんは、うんと偉いんだよね」というと、専務の子は「きみのお父さんの方が偉いよ」と答えます。学校へ向かう子供たちを映しておしまい。

小津安二郎監督の初期の作品だそうで、サイレント映画としての評価が高いとのこと。私は小津作品を観た事がないので、晩年の作品との比較もできないのですが、1時間半の作品で、これといった事件がほとんど起こらないのに最後まで見せきってしまうあたりのうまさには感心しちゃいました。昭和7年ということですから、まだ戦争の影はなく、昭和恐慌で不況の時代です。ドラマらしい部分はラストのお父さんの威厳がなくなっちゃうところの親子げんかくらいでして、それまでん、兄弟ふたりの日々のスケッチが続きます。子供たちの演技がドラマチックでないところが自然で、今の目で見ても、あるある感があります。

子供たちの中にも力関係があって、最初は新参者の兄弟は一番下になるわけですが、けんかっぱやいのか、段々と序列の上になっていきます。その中で専務の息子は身なりもいいし、家もお金持ちなのですが、だからと言って、それを鼻にかけているようなところはありませんから、のどかな子供たちの風景が展開します。それはきれい事かもしれません。どの時代だって、いじめはあったでしょうし、貧富の差も今より明確でしょうから、それなりにせちがらい子供関係があったのかなって気はします。ともあれ、この映画の中では、なんとなくうまくいく関係が描かれます。これは大人の関係、親子関係も同じでして、後半で親子関係で若干の波風は立ちますがそれもささやかな諍いとして収束していきます。今、子供や親子の関係の映画を作ったらもっと様々な葛藤を持ち込むところですが、そのおだやかな描き方に時代を感じます。一応はコメディなのでしょうけど、私にはそれよりもほのぼの感の方が印象に残ってしまいました。

ちょっとだけ時代を感じさせるのが、父親が息子の寝顔を見て「おれみたいなヤクザなサラリーマンになってくれるな」というところと、子供たちのなりたいものが「大将だ」というところ。やっぱり、当時、偉くなるものというのは、軍人さんのトップなんだなあって納得なんですが、「ヤクザなサラリーマン」というのは言葉の意味合いが今とは違うとは言え、サラリーマンってのはあまりいい仕事ではないのかも。映画のタイトル「生れてはみたけれど」というのは、偉くなりたいという希望を持っても、そんなにうまくはいかないよというシニカルな視点が感じられますが、映画の内容はそんな感じじゃないのですよね。タイトルのつけ方に苦労したのかなって思っちゃいました。

映画づくりの部分としては、カット割とか、オーバーアクトにならない演技は今の映画として見ても遜色ありません。サイレント映画だから、喜怒哀楽が大げさになるとかと思いきや、子供の演技も自然で、映画としてのうまさを感じました。今の映画の方がやたらと喜怒哀楽が大きくて愁嘆場を売り物にしていますから、こういう映画を観ると新鮮に思えてきます。市井の人のちょっとした日々を描写する映画ってのは今作ってもヒットしないでしょうね。泣けない映画は映画じゃないってご時勢ですし。

「キル・リスト」は思わせぶりで説明不足だけど結構面白い。


今回は、pu-koさんのブログで紹介されていた「キル・リスト」をDVDで観ました。1500円という値段にどうしようかなあとも思ったのですが、一味違うスリラーということで食指が動きました。

ジェイ(ニール・マスケル)はこの八ヶ月間仕事をしてなくて収入がないことを妻のシェル(マイアンナ・バーリング)から責めたてられ、夫婦仲は険悪で幼い息子のサムも両親のことが心配です。ある日、友人のガル(マイケル・スマイリー)とフィオナ(エマ・フライヤー)夫婦がやってきたときも、喧嘩しちゃいます。ガルは、ジェイに仕事の話を持ってきたのですが、それは殺しの依頼でした。ジェイとガルは殺し屋として生計を立てていて、シェルもそれを知っていました。重い腰を上げて依頼者のもとにガルと共に向かうジェイ。依頼者はジェイの手をナイフで切りつけ、その血と自分の血を合わせて血判状みたいのを作る変な奴。そして、最初のターゲットに指名された神父を殺しに出かけるのですが、銃口を向けたジェイに神父は「ありがとう」と言うんですよ。次の標的は図書館司書。これがとんでもない幼児虐待ビデオを作って売りさばいてる奴で、義憤にかられたジェイは司書をボコボコにして、ビデオの元締めを聞き出し、司書も元締めも皆殺しにしちゃいます。司書はジェイに向かって「自分が誰なのか知っているのか」と意味深なことを言い、最後には「ありがとう」と言い、ジェイに殴り殺されるのでした。この一連の仕事がおかしいと気づいたジェイは次の仕事をやめたいと言いますが、依頼主はそれを許さず、やらなきゃ家族ごと皆殺しだと脅します。そして、仕方なく次の標的である議員の家に張り込んでいると、そこへ松明を持った異様な集団が現れるのでした。

イギリスのベン・ウィートリーとエイミー・ジャンプの脚本を、ウィートリーが監督したスリラーです。冒頭は、仕事をしてなくて金がないことで奥さんと揉めているジェイの姿が描かれます。どこか精神的に病んでいる感じがするジェイですが、息子のサムにはやさしいお父さんみたい。そんな無職のオヤジの家庭内のいざこざが妙なテンションで描かれます。冒頭から漂う異様な雰囲気は、ウィートリーの演出のうまさもあってか、なかなかに快調。お話が見えてくるにつれて、その正体がわかってくるのですが、そこに至るまでをハッタリを効かせて、映画にただものじゃない感を与えています。

ジェイはもともとは兵隊上がりで、仕事のできる殺し屋だったようで、キエフでの仕事で何か失敗をしたらしい。ガルはそんなジェイの腕を信頼して仕事の話を持ってきたのですが、今回はジェイの様子が何かおかしい。殺人の痕跡を一切残さないというのが彼らプロのやり方なのですが、最初のターゲットである神父を殺すときはそれがきちんと守られます。神父を殺す部屋には予めビニールシートが敷かれ、そこへ現れた神父をジェイが一発でしとめるという次第。これはうまく行くのですが、死ぬ間際に神父がジェイに「ありがとう」と言い出すところで、おかしな空気になってきます。次のターゲットである図書館司書の仕事では、ターゲットである司書をすぐに殺さずに拷問して、幼児虐待ビデオの元締めを聞きだして、そいつらまで殺しちゃうのです。司書も金槌でボコボコにして殺すというプロにあるまじきやり口。そして、司書もジェイに向かって「ありがとう」と言い残すので、不気味さが増してきます。さらに、仕事先のホテルの窓からジェイが外を見ると、ガルの奥さんであるフィオナが手を振っているので、またこれが気味が悪い。このフィオナという女性は仕事が人事部だそうで、組織の中で不要になった人間をリストラするのが仕事だと言います。

どうもこの仕事はおかしいと気づいたジェイは手を引こうとするのですが、それは許されず、最後のターゲットである議員の郊外の豪邸に二人は向かいます。すると、そこに松明を持った異様な集団が現れるのです。ここまで来ると、これは、あっちの話なんじゃないのと気づかされるのです。

この後は論理性よりも、雰囲気でお話は突っ走りまして、ラストまで観て、「そういうことなの?」と思っても、腑に落ちないことが一杯残るという結末になっています。それでも、映画としては面白くできていまして、観客をうまく引っ張って、結末まで飽きさせない展開は見事だと思います。特に、観客をミスリードするのではなく、伏線をきちんと張って、落とすべきところへ落とす流れになっているのは感心しちゃいました。その上で、「ありゃ何だったんだ」という部分を結構残しているあたりは脚本のうまさなのでしょう。



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松明を持った異様な集団はどうやら宗教団体らしいです。全裸のものが半分くらいいて、みんな小枝を束ねた面をかぶって顔を隠しています。そして、松明の輪ができたその真ん中に縄がつるされ、若い女が自ら首を吊って死ぬのを、みんなが見守ります。どうやら、この団体の中では死は恐ろしいものではなく、イニシエーションの儀式の扱いみたいなのです。それを見ていたジェイが逆上したのか、集団に向けて発砲。何人かは仕留めるのですが、とにかく多勢に無勢。地下道に追い詰められてしまい、相棒のガルは地下道でナイフで刺されて死亡。何とか脱出に成功したジェイはシェルと息子が隠れているところへ向かうのですが、そこへ例の集団がやってきます。シェルに銃を渡して、集団のもとへ銃を持って向かうジェイですが、背後から殴られて気絶。気づいたときには、集団の中心にいて、木の枝の面を被らされていました。そこへ同じ覆面をしたせむしの男が現れて、ナイフを持って彼に襲い掛かります。ジェイはそのナイフを奪い取り、男の背中をめった突きにして仕留めます。すると、周囲の連中が面を取ると、依頼者やフィオナの顔が現れます。そして、せむしの男の面を取ると、妻のシェルの顔が現れ、ほくそ笑むシェルの背中には息子のサムが背負われていたのでした。おしまい。

どうやら、邪教の集団の特別な存在として見込まれたジェイが、その神的な存在になるための儀式として、一連の殺人を行ってきたようなのです。そして、殺される方にとっては、集団の生贄的な意味合いがあるようで、名誉なことのようなのです。そして、最後に自分の子供を殺すことで、ジェイは特別な存在となったというのが結末らしいです。らしいですというのは、まるっきり説明がないからです。でも、この類の映画、「ウィッカーマン」とか「悪魔の追跡」を観ていると、何となくそういうことなんだろうなってのが見えてきます。特に、映画の前半で、ジェイの家に来たフィオナが家の鏡の裏に、魔法陣のような文様を刻むシーンがありまして、あれがきっと宗教のシンボルなんだろうなってことがわかるようになっています。(このマークのネタは、フジテレビのフェイクドキュメンタリー「放送禁止」で観たことあります。)とはいえ、映画の中で明快に説明してはいないので、こういう解釈もできるというレベルです。ラスト近くで、シェルは銃で迫ってくる邪教集団の連中を何人も撃ち殺すシーンが登場しますので、これは上記の私の解釈では説明しきれていません。

ある程度、こういう話のパターンを知っていると腑に落ちるところがたくさんあるのですが、初めてこのパターンの話に触れると、説明が足りなさ過ぎて何のことかわからない映画になっちゃうように思います。そういう意味では、かなり不親切な映画だと言えましょう。それでも面白く作ってあるのは認めちゃいますし、色々と宗教的なキーワードを散りばめてあり、ウサギを食べるシーンが2度登場するといった思わせぶりな趣向も入れてあります。私にはウサギの意味がわからなかったのですが、知ってる方がご覧になれば、何か意味のあるエピソードなのかもしれないです。最初に依頼者に掌をナイフで切られてできた傷はキリストの聖痕とイメージが被りました。ジェイが選ばれた人間であるという印があの傷ではないのかと。

映画の冒頭が、無職のダンナが金の話で妻に責められるシーンというやけに所帯じみたものなのですが、そこからお話がテンション高いまま、どんどんおかしな方向へと進んでいくので、観ている方は何だこれはと思いながら引きつけられてしまいます。そして、引き付けた挙句に突き放すというかなり意地の悪い映画なので、好き嫌いが出ると思います。それでも、奇妙な味の一編として記憶に値する映画だと言えましょう。

「エクソシスト2」はあの映画の続編と思わなければ意外と楽しめて、発見もあります。


前回、「「エクソシスト」のブルーレイの記事を書いたのですが、続編である「エクソシスト2」のDVDを観ました。まだブルーレイは出ていないようですが、DVDが1000円を切る値段だったので、食指が動きました。この映画、公開当時に映画館で観ているのですが、最初のバージョンが評判悪くて、若干尺が短い再編集版が日本公開されたと聞いています。私の住んでいた地方では当然2本立てで「新・青い体験」というヌードありのちょいとエッチな映画が同時上映でして、高校生の私には、そっちの方がインパクトあった記憶があります。今回、DVDで再見すると、当時ティーンであったリンダ・ブレアーが、ノーブラスケスケ衣装でナイスバディ(ややポチャ)を披露していたという発見がありました。タイトルトップがリチャード・バートンでなく、リンダ・ブレアだったってのにもびっくり。

悪魔つき事件から、リーガン(リンダ・ブレア)も高校生となり、シャロン(キティ・ウィン)と一緒にニューヨークで暮らしています。定期的に通う病院の小児病棟で、博士(ルイーズ・フレッチャー)の治療を受けていました。一方、メリン神父(マックス・フォン・シドウ)の愛弟子であるラモント神父(リチャード・バートン)は、メリン神父の死についての調査を枢機卿(ポール・ヘンリード)から命じられます。メリン神父は悪魔祓いの最中に死んだことから、悪魔側に異端者ではないかという疑惑をかけられていました。脳波をシンクロさせて、相手の心理の奥を共有しようというシンクロナイザーという機械を使い、はリーガンの悪魔つきだったころの記憶を探りだそうとします。すると、リーガンには、善のリーガンと悪のリーガンという二つの人格がいるようなのです。さらに彼女の夢の中に、若い頃のメリン神父がアフリカでコクモというシャーマンの少年に取り付いた悪魔をはらっている様子が現れてきます。その悪魔の名はパズズといい、リーガンにとりついた悪魔と同じ名前でした。ラモント神父は、リーガンの中にまだ悪魔が留まっている危険な状況であると判断し、コクモというシャーマンが彼女を救うカギであると、単身アフリカへと向かい、メリン神父の足跡を追います。リーガンは小児病棟の自閉症の少女に言葉を発せさせたり、特殊な力を持っていることがわかってきますが、それこそが悪魔に目をつけられた理由でもあるようなのです。果たして、パズズとの闘いにリーガンやラモント神父は勝利することができるのでしょうか。



この映画はストーリーを小出しにする書き方では説明仕切れない映画なので、結末まで全て語っていますのでご注意ください。



ウィリアム・グッドハートの脚本を「脱出」「未来惑星ザルドス」のジョン・ブアマンが監督しました。一作目は、ウィリアム・フリードキンの都会的でクールな演出が、大都会の片隅で起こった超自然現象の顛末をむちゃリアルに描いたものでした。その続編を作るにあたり、前作とは全く異なるアプローチをしたことから、公開当時の評判は散々でした。当時、映画館で観た時は、何だかわけがわかんないけど、すごい感じがするという曖昧な印象だったのですが、こうして30年以上を経て改めて観てみてもその印象はあまり変わりませんでした。

前作では、リーガンにとりついた強力なパワーを持つ何かと、神の支援を得たメリン神父のガチンコマッチという印象でした。まさに理屈じゃなくて力対力の対決という感じ。その結果、ガチンコマッチに敗れたメリン神父の後を引き継いだカラス神父が、相手の力を逆用した回転エビ固めみたいな技で辛くも勝利を得たのです。ところが、まだ悪魔はリーガンの中でくすぶっていたのでしたという展開が、まず嫌われまして、「それじゃカラス神父のあの捨て身の返し技が無意味になり、前作の結末を否定するものだ」というブーイングがありました。それはそうだよなあ、信仰を失いかけていたカラス神父のあの逆転技が意味なしにされちゃうのはひどいと思いますもの。

また、前作では、リーガンがたまたま悪魔に魅入られてしまったという見せ方で、そこに誰にでも起こりうる悪魔憑きの怖さが表現されていたのですが、本作では、リーガンは特殊な能力を持つ未来を担う当別な存在という位置づけにされちゃいます。そして、その特別な存在であるリーガンに神と悪魔の両方が目をつけたというお話になってるのですよ。ですから、肩がぶつかってヤクザに因縁つけられたみたいな前作とは、モノがまるで違う映画になっているのです。さらに、ブアマンの演出は善と悪のイメージショットを多用し、夢と現実の境界も曖昧にした見せ方で、善である神と悪である悪魔の対立というでっかい宗教画みたいなイメージを、映画の中に展開させてきます。特に重要なのが、悪の象徴であるイナゴです。コクモという少年は畑を襲うイナゴを滅ぼす能力を持ったシャーマンで、その能力ゆえに悪魔に目をつけられるのですが、メリン神父によって救われるのです。そして、今のコクモはイナゴの改良の研究を進めている研究員です。彼の言うところでは、羽をこすりあわせることでイナゴが凶暴化してそれが伝染していく、その凶暴化を止めるための良いイナゴを増やそうとしているのだとか。

イナゴの主観ショットや、イナゴの群れが畑を襲うショットなどが登場するのですが、クライマックスではジョージタウンのかつての事件のあった家がイナゴの大群に襲撃され、家が吹っ飛んでしまうというあり得ないシーンが登場します。イナゴは悪の象徴であり、善のリーガンがイナゴを滅ぼすという見せ方なのですよ。そして、良いイナゴが増えることで、悪い凶暴なイナゴはその力を失うという構図です。善と悪の闘いをわかりやすく絵解きしたという言い方もできますが、イメージの見せ方に凝ってしまったせいか、ハッタリ先行のわけのわからん勢いだけある結末になっちゃいました。また、クライマックスでは、かつての悪魔祓いの行われた部屋にラモント神父とリーガンが向かうとそこにもう一人のリーガンがいて、ラモントを誘惑し、彼にリーガンを殺させようとするシーンが登場します。ここでも、リーガンの中に善と悪が並立して存在するという見せ方でして、第一作の「無垢の存在である少女に邪悪な力がとりついた」という図式とは異なる、善と悪の正面切っての闘いという絵が見えてきます。

リーガンは自分の特殊な能力や、他の人とは違う運命をある程度理解しているようで、その上で、ラモント神父に協力するのです。善と悪の狭間でフラフラしているラモント神父に比べるとリーガンは自分の立ち位置をしっかり見据えています。そして、彼女の中の(悪じゃなくて)善なるものが、彼女に過酷な未来をもたらすであろうというところまで達観しているようなのです。ラストで、彼女はその過酷な運命に向かって旅立っていきます。ラモント神父は彼女を支えるために付き添っていくのです。これは、殉教者の受難の旅立ちという解釈もできるのではないかしら。

で、信仰心のかけらのない私からしますと、こういう絵解きの仕方も面白いかもって気がして、結構楽しんでしまいました。クライマックス前に、悪の方になびきかけた(らしい)シャロンが、炎に包まれるというシーンがあり、黒こげの彼女が息を引き取る前に信仰に再び目覚め、神父から神の許しの言葉をもらうというくだりは、劇場で観たバージョンではなかった(劇場版では、シャロンは炎に包まれてそのまま退場)もので、全ては神の御心だよねっていう見せ方は、勉強になりましたです。まあ、勉強になったからと言って、そういう神様と契約するつもりにはなれないのですが。ともあれ、善と悪の闘いが過去から未来へとずっと続いていて、そこに選ばれし者がいるのだという見せ方は、宗教のありようとして面白いと思いました。神と悪魔はずっと(自転車操業で)闘っていてもらわないと、困るみたいでして、休戦協定を結ばれたり、和解してもらったら、宗教とか信仰心の持って行き場がなくなるみたいなんです。冒頭で、メリン神父が悪魔サイドについたのだと非難され、彼の書籍が発禁処分になったという話が出てくるのですが、とにかく敵は強い方がいい、身近にいた方がいいってのは納得しちゃうところがあります。そういう敵を想定することで、教会は結束し、多くの信者を動かす力を得るのですから、悪(らしきもの)を見つけると、はりきってボコボコにしようとするんだなあって。新興宗教の常套句である「信じないと地獄に落ちる」という脅し文句と同じく、人を恐怖で動かすには悪魔ってのはうってつけの存在なのかな、と。

特殊メイクは前作から引き続いてディック・スミスが担当していますが、リーガンのメイクも前作よりはおとなしめでして、見た目よりは彼女の内面の闘いを描こうという意図が感じられました。視覚効果は「大地震」「ヒンデンブルグ」のアルバート・ウィットロックと「フラッシュ・ゴードン」のヴァン・ダー・ビーア・フォトがクレジットされています。ミニチュアやアニメ、作画合成など、視覚効果は前作よりも多めでして、イメージ重視のカットを作るために必要だったと思われます。前作では、オーエン・ロイズマンの撮影が、セット撮影も含めて、全編がロケのようなリアル感を出していましたが、今回のウィリアム・A・フレーカーの撮影は、色使いやセット撮影に幻想的な味わいを加えて、内面への旅という感じ(インナートリップ感)を出すことに成功しています。エンニオ・モリコーネはこの映画のために素晴らしいスコアを書いているのですが、映画の中ではあまりうまい使われ方をしていません。モリコーネ自身このスコアがお気に入りだとインタビュー記事で読んだことありますが、その音楽を堪能したいと思われる方はサントラ盤の購入をオススメします。

もう30年以上も前の映画の記憶なのですが、DVD版の方がシャロンの出番が多かったように思います。また、リーガンとラモントが旅立っていくというエピローグは劇場版ではなかったような。このエピローグは、善と悪の闘いを語る上で重要なシーンで、これがあるおかげでテーマが明快になったように思います。一作目は間違いなく傑作だと思っているのですが、この続編はかなりケッタイな映画だという印象でした。傑作の続編としては、期待を裏切るものであるのですが、まるっきり別ジャンルとして考えれば、これはこれで悪くないかもという気がしました。ただ、悪魔つきというローカルでパーソナルな出来事から、アルマゲドンまで大風呂敷を広げたのは、ハッタリきつめかなあ。

「サイコ」は大技と小技の組み合わせが見事な、結構えげつないスリラー。


「ヒッチコック」の題材になっている「サイコ」を録画しておいたのを観ました。デジタル放送になって、映画は市販のDVDよりもHDDやブルーレイに録画した方が画質がいいんですよね。映画によっては、サラウンドステレオになったりして、DVDの映画が安売りしてるわけだと納得。

不動産会社に勤めるマリオン(ジャネット・リー)は会社の金4万ドルを持ち逃げして、恋人のいる町へと車を走らせ、その途中で脇の街道に入ってモーテルに泊まることにします。モーテルのオーナー、ノーマン・ベイツ(アンソニー・パーキンス)は、マリオンにやさしく接しますが、離れに住んでいる母親が変な人らしく、マリオンに食事を出そうとするノーマンに罵声を浴びせ、彼女にもそれが聞こえてしまって、微妙な雰囲気。ノーマンは母親は病気だからと言うものの、ちょっとマザコンの気があるみたい。部屋に戻ったマリオンはシャワーを浴び始めるのですが、突然入ってきた女性にナイフにめった突きにされて絶命。そこにやってきたノーマンは母親の仕業と思い込み、殺人現場をきれいにして、彼女の死体を車に乗せて沼に沈めてしまいます。マリオンの持ち逃げ事件は金さえ返せば警察沙汰にしないということで、私立探偵のアーボガスト(マーティン・バルサム)が調査を始めます。彼は、マリオンの妹ライラ(ベラ・マイルズ)を尾行して、恋人サム(ジョン・ギャビン)を訪ねたところを押さえますが、二人が持ち逃げの共犯でないことをわかると、二人にも調査状況を連絡するようになります。アーボガストは、マリオンが周辺のモーテルに身を隠しているとにらんで、モーテルをしらみつぶしに当たっていき、ノーマンのモーテルにたどり着きます。ノーマンはマリオンが泊まったことを認めたものの、次の日の早朝に出て行ったといいますが、その口ぶりにどこか不審なものを感じたアーボガストはさらに調査するとライラに連絡した後、消息を絶ってしまうのでした。

ヒッチコックの映画の中で1番のヒット作だそうです。サスペンスの神様という地位を確保したヒッチコックがショック演出とホラー風味のスリラーのうまさを見せた一品です。実在した猟奇殺人犯エド・ゲインをもとに、短編スリラーや映画脚本もたくさん手がけているロバート・ブロックが書いた小説「サイコ」を原作に、TVの「アウター・リミッツ」のプロデューサーとしても知られるジョセフ・ステファーノが脚本を書きました。当時としてはかなりセンセーショナルな内容だったそうで、確かに今のホラー映画にも見かけるショック演出や、意外な展開が見事で、かなり刺激的な映画に仕上がっています。

私はこの映画を子供の頃、テレビのゴールデン洋画劇場で観ていまして、結末は知っていたのですが、それでも、展開の面白さや凝った演出を楽しめました。特に、冒頭に登場して、ずっと主役だったマリオンが映画の中盤であっけなく殺されて退場しちゃうという構成は今見ても新鮮でした。また、細かいところにいくつもの小さいサスペンスを仕込んで、ドラマのテンションを下げずに、観客をぐいぐいと引っ張っていく演出が見事でした。ストーリーそのものは、意外とシンプルなものだったというのも発見でして、ミステリー要素は少なくて、サスペンスとショックを積み上げる作りになっているのですよ。有名なシャワールームの殺人シーンは全裸のヒロインがナイフで惨殺されるという、エロとグロというかなりセンセーショナルなものでしたが、そこに凝った構図と細かいカット割りで芸術的とも言える作り込みがされています。モーテルの背後の高台に建つノーマンの家のロケーションも素晴らしく、その窓に老婦人の影が見えている絵が不気味だけど美しいのですよ。アーボガストが殺されるシーンでも、縦横にカメラを移動させ、プロセスショットでアーボガストが階段を落ちていくカットを作りだすなど、凝った見せ方は、単なる安物ホラーとは一線を画しています。

その一方で、殺人シーンの血の見せ方ですとか、殺人現場の後始末を丁寧に見せるあたりに、猟奇殺人映画の味わいがありまして、単なるスリラー以上のエグさを感じさせてくれます。次作の「鳥」でも目をえぐられた死体をどっかんと見せたりのですが、リアリティというよりはケレン味として、わざとそういうものを見せるあたりの悪趣味さがこの頃のヒッチコックにはあったように感じられました。でも、前半の横領して逃げるヒロインの描写の細やかな描写は見事でして、感情移入はできないけど、でも悪役じゃないという距離感で、サスペンスを盛り上げているあたりは、職人的なうまさがありました。大きなハッタリをかます一方で、細やかな職人芸を積み上げることで、他にどこにもない「サイコ」ができているんだなあって感心しました。

また、この映画のホラータッチを支えているのが、バーナード・ハーマンの音楽でして、ストリングスのみの音楽で、アップテンポなメインタイトル、どんよりとしたマリオンの描写音楽、そして耳障りな殺人シーンの音楽の3パターンを組み合わせることで、不安とショックを見事に描写しました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。(一応)



アーボガストの失踪は、何かが起こったからだと確信したライラは直接ノーマンとその母親に会おうと言い出しますが、サムはそれを押しとどめて、自分がモーテルに向かいますが、ノーマンには会えず、離れの家にいた母親にも声をかけたが応えがなく、サムとライラは保安官助手の家に相談に出かけます。アーボガストが母親に話を聞くと言い残したことを説明すると、保安官助手は驚いた顔をして、ノーマンの母親は10年前に、恋人を毒殺して自分も毒を飲んで死んだと言います。「母親が生きているだとしたら、墓の中にいるのは誰だ?」

翌日、サムとライラは夫婦を装ってノーマンのモーテルに向かいます。サムがノーマンを引き付けてる間に、ライラはモーテル裏のノーマンの家に入り込みます。そして、家の中を探していると、ノーマンが帰ってきたので、地下室に隠れます。地下室にはさらにその先に小部屋があり、ライラが入ると、そこには老婦人が座っていました。母親だと思ったライラが老婦人の肩に手をかけると、すーっと振り向いたそれはミイラでした。そこへナイフを持って飛び込んでくる女装したノーマン。しかし、彼を追ってきたサムが何とか彼を押さえつけます。そして、警察署では、関係者の前で、精神科医がノーマンの状況を説明しています。ノーマンは母親と恋人を毒殺したのです。それから、彼の中に母親の人格が生まれ、時として彼は母親となり、時には会話を交わしていたというのです。彼は自分が母親を殺したという現実から逃避するためにも、母親を生きた状態にしておく必要があったと。そして、今や、ノーマンの人格は失われ、そこにいるのは、見た目はノーマンでも、中身はノーマンの母親でした。沼の中から、車が引きあげらるカットで「ジ・エンド」。

今や、二重人格とか一人二役のトリックは珍しくもなく、ある意味定番になっているのですが、この作品の製作当時は、それほどポピュラーではなかったのか、ノーマンの正体が判明した後のエピローグとして、彼の二重人格について、かなり丁寧な説明がされています。まあ、一人二役をラストのショックに持ってきて、それを匂わす演出をしてこなかったこともあって、最後にきちんと説明する必要があったのでしょう。母親とノーマンが口論しているところを聞かせたり、ノーマンが母親を抱き上げて運ぶカットを俯瞰で見せたりというトリッキーな演出も当時としては観客をミスリードすることができたのでしょう。ただ、子供の頃にテレビで観たときにも思ったのですが、母親の声が全然ノーマンの声じゃない中年女性の声なのは反則だよなあ。

「バトルガンM-16」はトンプソン監督ブロンソン主演の底辺ランクかなあ


DVDで追っかけている晩年のブロンソン映画、今回は「バトルガン-M16」を観ました。「狼よさらば」に始まるデス・ウィッシュ・シリーズの4作目にあたります。

かつての必殺自警市民のポール・カージー(チャールズ・ブロンソン)は今は元の建築家の仕事に戻り、子連れの彼女カレン(ケイ・レンツ)もできて、落ち着いた暮らしをしていました。しかし、の娘 が売人にもらったヘロインで急性中毒を起こして死亡。カージーは、娘に麻薬を渡した売人を撃ち殺します。そんな、彼に新聞社の社長ネイサン・ホワイト(ジョン・P・ライアン)が接触してきます。今、街を牛耳ってる麻薬組織2つを一気に壊滅させて欲しい。武器と情報は渡すから、やり方は好きにしての申し出。で、大した葛藤もなく、これを引き受けたカージーは、両組織のメンバーを次々に殺して、組織間の対立を煽り、共倒れにさせようと画策します。ヤクの売人や殺し屋、さらには組織のイヌになっていた悪徳警官を葬り、麻薬の精製工場に一人で乗り込んで、皆殺し&爆破というやりたい放題。組織のボス、ザカリアス(ペリー・ロペス)は、これはおかしい、この一件には黒幕がいると気づくのですが、カージーの前にはもはやなす術がないのでした。

ゲイル・モーガン・ヒックマンの脚本を、「必殺マグナム」「ナバロンの要塞」のJ・リー・トンプソンが監督しました。もともとは、ただの建築家だったポール・カージーが暴漢に奥さんを殺されて、自警市民に目覚め、街のワルを殺していくという、社会派の映画だったのですが、2作目の「ロサンゼルス」で殺人の葛藤から吹っ切れて、3作目の「スーパー・マグナム」で完全に悪を成敗する殺しのプロになっちゃっていました。3作目はストリートギャングとの戦いだったのですが、今回は敵もスケールアップして麻薬組織の皆さんを相手に大立ち回りを演じることになります。対立する二つの組織を手玉に取って、行くところに死体の山を作るブロンソンの暴れっぷりは、その後に続くスティーブン・セガールの先鞭をつけたと言ってもよく、その無敵ぶり、無表情ぶり、非情っぷりはなかなかのものです。1時間半ちょっとをボケーっと観るぶんにはそこそこ面白い映画に仕上がってはいますが、クオリティ的には大幅にダウン。当時のブロンソン主演トンプソン監督の一連の映画の中でも、最低の出来栄えになっちゃっています。

完全武装して麻薬組織に挑むブロンソンがあまりに無敵すぎて、どこまでマジメなのかよくわからない展開になっているのです。とにかく、ブロンソンが出たとこ勝負なのに、正体もばれないで、麻薬組織があたふたしちゃう展開は、全体的にものすごく大味。建築家として事務所を持って仕事しているはずなんですが、そんなことよりも、麻薬組織を成敗する方に時間も手間もかけまくり、どう見ても、自警市民というレベルではなくて、殺しのプロフェショナルという仕事ぶりでして、そもそもの設定はどっかへすっ飛んじゃっています。まあ、設定はないがしろにしても、お話が面白ければいいのですが、そのあたりは無難というか、そこそこの仕上がりなのですよ。J・リー・トンプソンという監督さんは、どんなお話でも一定のレベル以上に仕上げる職人さんでして、細かいところに色々気配りがあって、派手なシーンでもどこかリアリティを感じさせる演出をする人だったのですが、この映画では、ひたすら大味に荒っぽいストーリーをさばくだけで、彼らしさが全然感じられない映画になっちゃっていました。

このシリーズは関係者の生き残れない度が高いのが特徴なのですが、今回もその皆殺し度がハンパなくって、ラストの処理はちょっとやりすぎというか、頭使わない娯楽アクションの枠を逸脱しちゃってました。これでカタルシスを感じる人はあんまりいないんじゃないかなあ。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



無敵のカージーは二つの組織の連中を次々と殺しまくり、そして、両方の組織が、どうもおかしいぞと会談の場を設けたところにも乗り込んで、両方に撃ち合いさせて共倒れにした挙句、生き残ったボスの息の根を止めてしまいます。この無法、無敵っぷりはセガール映画を想起させますが、こっちの方が先なので、セガールのルーツとも呼べるかも。トンプソンの演出はバイオレンス映画として描きたかった節もあるのですが、ひたすら殺しまくる主人公はヒーローというのはきついものがありました。さて、戦果の報告に社長の家に行けばそこにいたのは別人でした。カージーは麻薬組織のもう一つのボスにだまされていたのでした。しかも、が誘拐されてしまい、その引渡し場所に重装備で赴くカージー。そこは、ローラースケート場の地下駐車場でしたが、そこで撃ち合いとなり、さらに銃撃戦はスケート場にまで拡大して、パニック状態。そこへ銃で武装して、次々と悪党のみなさんを撃ち殺していくカージーは、まるで徘徊する乱射魔のごとし。そして、を盾にしたボスを追い詰めるのですが、何とボスが を撃ち殺してしまい、カージーはボスを銃でふっとばし、恋人の死体に目もくれず、そこを静かに立ち去っていくのでした。おしまい。

恋人があっけなく殺されちゃうのもびっくりですし、その彼女に一瞥もくれずに立ち去るカージーも悪い意味ですごずぎました。ハードボイルド路線を狙ったのかもしれませんが、そこに至るまでの大味演出と展開は、バカ娯楽映画なので、そこで急にシリアスになっても、却ってバカの上塗りになってしまったようです。まあ、珍品と言えば珍品ということになるのでしょうが、なまじ、トンプソンとブロンソンというそれなりの名を成した人が絡んでくるだけに、その珍品度がアップしちゃったように思います。まあトンプソンとブロンソンのコンビの映画では、「KINJITE 禁じ手」というもっとケッタイな作品もあるのですが、映画としては、これよりはマトモに仕上がっていまして、やっぱりこれが最低ランクなのかな。

ちょっと細かいことになるのですが、この映画の音楽としてクレジットされているのは、ポール・マッカラム、ヴァレンタイン・マッカラム、ジョン・ビシャラットの3人でして、二人はマッカラムという苗字からして、ブロンソンの奥さん(ジル・アイアランド)の元のダンナとの間の子供ではないかと思われます。彼らが書いたジャズタッチの音楽は正直軽すぎて映画を支えるのには無理があったようで、別に音楽コンサルタントとして「真夜中の野獣刑事」「」のロバート・O・ラグランドがクレジットされています。そして、映画の活劇部分では、ジェイ・チャッタウェイ作曲の「地獄のコマンドー」が使われ、サスペンス部分では、ラグランドの「真夜中の野獣刑事」が使われていました。要は映画の肝心な部分の音楽は、他の映画からの流用に差し替えられてるのですが、それでも映画音楽としては安っぽい感じに仕上がってしまったのは残念でした。

「殺人鬼」はブロンソンの刑事ものとしてヒネリの効いたサイコスリラー


チャールズ・ブロンソンの晩年の映画をまた一本、1983年の「殺人鬼」をDVDで鑑賞しました。実も蓋もない放題ですが、これはマイナーメーカーからビデオソフトが発売された時のタイトルで、テレビの日曜映画劇場で公開された時は「真夜中の野獣刑事」のタイトルで、こっちの方が知られているのではないかしら。

ある男が映画館に入って女の子二人連れにちょっかいかけます。そして、トイレに入って、窓から抜け出し、公園でカーセックスのカップルを全裸で襲い、ナイフでメッタ刺しにした後、また服を着て映画館に戻り、ちょっかいかけた女の子にまた声をかけます。これでアリバイは成立、全裸殺人鬼ウォーレン(ジーン・デイビス)はいわゆる粘着質の変質者で目をつけた女の子にしつこく声をかけたり、振られると逆恨みするような男。ケスラー刑事(チャールズ・ブロンソン)は若手のマッカーン刑事(アドリュー・スティーブンス)と共に捜査にとりかかり、被害者の日記に出てくる男を一人ずつ確認するうちにウォーレンに尋問することになります。ケスラーは、ウォーレンの様子からこいつが犯人だと確信するのですが、決定的な証拠が見つかりません。そして、被害者の血液を鑑識から盗んで、ウォーレンに服につけるという証拠捏造をしてしまいます。ウォーレンは殺人罪で逮捕され、裁判にかけられることになりますが、証拠捏造かもと疑いを持ったマッカーン。果たしてウォーレンは有罪になるのでしょうか。

「荒野の7人」のウィリアム・ロバーツが脚本を書き、「キングソロモンの秘宝」「愛はエーゲ海に燃ゆ」のJ・リー・トンプソンが監督しました。チャールズ・ブロンソンが刑事を殺人鬼を追う映画なのですが、アクションシーンは皆無で、サスペンス主体のサイコスリラーになっています。銃撃すら、一発しかありません。いかれたサイコな殺人鬼と、法を逸脱する刑事の闘いを描いた異色編として記憶に値する映画に仕上がっています。

女性にねちねちと絡んで、邪険にされると、それを根に持って殺人に至るというキチガイぶりを他の映画では見たことないジーン・デイビスが熱演しています。タフガイでもなく、知的でもない、リアルなサイコっぷりは、どこかにいそうな怖さがあります。その一方で、ブロンソンの刑事っぷりはベテランらしいところはあるのですが、スターらしさのない普通の役どころなのですよね。そんなブロンソン演じるケスラー刑事がウォーレンが犯人だと確信して何とか有罪に追い詰めようとするのですが、やることが証拠捏造だとか、彼の職場に嫌がらせの写真を貼るとか、かなりえげつない。映画の冒頭で、犯人がわかっているので、ある意味安心して観ていられるのですが、これが冤罪だったらたまらんよなあという刑事ぶりです。ケスラーには看護学校に通う娘ローリー(リサ・アイルバッヒャー)がいまして、ウォーレンが彼女に目をつけて、変態チックなイタズラ電話をかけてくるので、娘を想う親心として、まあその気持ちはわからなくもないと思わせるところはあります。

トンプソンの演出は、両者のキャラを丁寧に演出し、102分のドラマを飽きさせずに見せてくれます。犯人が痕跡を残さないために殺人現場に全裸で現れるというところが新趣向でしょうか。後、無造作に裸のシーンが多いのですが、これもリアルな演出と納得できちゃうところがあります。最近の映画のような派手な見せ場はありませんが、それなりに楽しめる映画に仕上げていまして、ラストの処理の一捻りもあって、見終わって一本の映画を観た満足感はあります。主人公の刑事が証拠捏造しちゃうという展開もかなり意外性がありましたし。



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マッカーンに証拠捏造を問われたは、法廷で自分が証拠捏造したことを告白し、ウォーレンは不起訴処分となり、釈放されてしまいます。刑事をクビになったケスラーは、ウォーレンをつけまわし、職場にもいられないようにしちゃいます。それに怒ったウォーレンはケスラーの尾行をまいて、ローリーのいる女子寮に全裸で現れます。部屋に押し入ってローリーのルームメイトを次々に殺害、何とか部屋を脱出したローリーをさらに全裸で追跡するウォーレン、追ってきたケスラーに間一髪助けられるローリー。そこへ駆けつけてくるパトカー、銃口を向けるケスラーに向かってウォーレンは「俺は精神異常なんだ、俺の中で声が聞こえるんだ。いつかまた戻ってきてやる」とうそぶきます。警官に拘束され、連れて行かれそうになるウォーレンが「そうはさせん」とズドンと一発。両手を挙げて立つケスラーを警官たちが取り囲むロングショットから暗転、エンドクレジット。

ローリーのルームメイトが次々に殺されていくところはなかなかテンション高い演出で見応えあります。クライマックスでケスラーに向かってウォーレンが「俺は異常者だから、罪には問われない」というあたりもリアリティがあり、そんなウォーレンに対して、最後の最後に銃を発射するというのは、なかなかよくできたドラマだと思います。しかし、ルームメイト3人が殺されているので、苦い結末でもあります。ウォーレンを犯行へと追い詰めたのはケスラーだと言えるあたりも、ケスラーは単なるヒーロー刑事ではありません。そんなキチガイを野放しにする法と、その法を破ることで、傷口を広げた刑事と考えると、意外と社会派の香りもしてきます。トンプソンの演出はそういう問題提起よりも、サイコスリラーとしての部分に重きを置いているようですが、ひねりの効いた刑事ドラマとして、なかなかいい線いってるのではないでしょうか。

「必殺マグナム」はかっこ悪いブロンソン映画として結構面白い。


古いDVDからさらに、チャールズ・ブロンソンの1986年の「必殺マグナム」をチョイスしました。ビデオ化のためのお披露目公開みたいにちょっとだけ劇場公開されました。ちょっと一捻りした刑事ものの一編です。

刑事マーフィ(チャールズ・ブロンソン)はこのところついてません。嫁はよそに男を作って家出、その男の店でストリッパーをしている嫁を見てため息ついてるマーフィ。酒屋で買い物していると、小娘に車を盗まれ、車は大破、泥棒娘には急所蹴られて逃げられちゃう。そんな情けない状態のマーフィをジョーン(キャリー・スノッドグレス)という謎の女が狙っていました。車で嫁をストーキングしていたマーフィは後ろから殴られて失神。その隙に、嫁と間男がマーフィの銃で殺され、彼の車が現場で目撃されて、マーフィは逮捕されてしまいます。罪を認めて4年くらい服役すればとか弁護士に言われてさらにがっくり。そんなマーフィですが、留置場で看守の隙をついて脱走することに成功。ただ、その時、彼の車を盗んだアナベラ(キャスリーン・ウィルホイト)と手錠でつながれていたものだから、親子より年の離れた二人が一緒に逃避行ということになっちゃいました。最初は、お互い毛嫌いしていた二人でしたが、一緒に逃げた先のマーフィの元同僚の家で、ちょっとだけいい感じになりますが、その元同僚がジョーンによって殺され、アナベラも殺人の共犯にさせられてしまうことで、一緒に行動せざるを得なくなります。濡れ衣を着せたのは、マーフィに弟を殺されたアフィアのビンセンツォ(リチャード・ロマナス)だと思いこんだマーフィは、ビンセンツォを脅しまくったところ、どうやら彼ではなさそう。でも、これでマフィアにも追われることになっちゃいます。同僚刑事の情報でマーフィを狙っているのはジョーンらしいという情報を得て、彼女が逮捕されたときの検事を訪ねたところ、検事は既に殺されていて、さらにアナベラが誘拐されてしまいます。ジョーンの指定場所へと向かうマーフィは、その場所を警察に告げるのですが、その場所へやってきたのはヴィンセンツォたちでした。中ではジョーンがボウガンで待ち伏せしています。果たして、マーフィとアナベラの運命は?

ピークを過ぎたブロンソンが当時の新興勢力キャノンフィルムで主演した刑事アクションの一編です。ゲイル・モーガン・ヒックマンの脚本を、「ナバロンの要塞」「リーインカーネション」「猿の惑星 征服」など、どんなジャンルでもきっちりこなすJ・リー・トンプソンが監督しました。いわゆるタフガイイメージの強いブロンソンですが、今回はものすごい冴えない役柄でして、逃げられた奥さんがストリップしてるクラブでため息ついてる、酒びたりの刑事です。奥さんのことを同僚にからかわれて殴りあいになっちゃうとか、いわゆるダメキャラを演じて、これが結構はまっているところがおかしいです。普通のヒーローだとダメキャラで登場しても、どこか筋が一本通っているところがあるものですが、このマーフィにはそんな感じがありません。生意気な小娘がちょっと健気なところを見せても、それを邪険にあしらっちゃうあたりは、まさに偏屈なじいさんなんですが、そういうキャラをリアルに見せるあたりが、トンプソン演出の妙なのでしょう。

ブロンソンの敵はジョーンというサイコキラーとビンセンツォというマフィアです。ジョーンは映画の冒頭から登場しているのですが、クライマックスの直前まで主人公は彼女の存在を知らず、ビンセンツォにはめられたと彼のマンションの乗り込んで脅しまくるんですが、どうやら当てが外れたらしいと気付きます。そうところも普通のサスペンスものの常道をはずしている変なリアリティがあります。マーフィは映画の主人公でありヒーローでもある筈なのですが、どうにもカッコよくないし、事件の解決へ向けてもドタバタしてばかりです。映画の冒頭でかっこ悪い主人公というのは、よくあるパターンなのですが、マーフィの、ほぼずっとかっこよくないってのは珍しいのではないかしら。一つ味わいを変えたらコメディになっちゃうところを、スターとしての顔を立てたいブロンソンと、マジメにサスペンススリラーを演出するトンプソンが、不思議な味わいの映画に仕上げています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



クライマックスでは、アナベラを助けるためにジョーンの待つホテルへ乗り込み、そこへ警官隊がやってくる手筈だったのですが、電話に出た刑事がビンセンツォの手先手だったせいで、マフィアのみなさんがやってきます。そこを何とか返り討ちにして、アナベラを助け出すことにも成功したかに見えたのですが、アナベラはジョーンのボウガンに撃たれてしまいます。ここで、マーフィが逆上、ジョーンとの一騎打ちになるのですが、斧で腹を切られちゃいます。で、もみあってタックルしたら、ジョーンがぶっとんでエレベータの先にぶら下がって「助けて」と言うジョーンに、マーフィは不敵な笑みで「レディ・ファースト」と言って、ジョーンは地上に叩きつけられるのでした。救急車に収容されたマーフィの横で、もそもそと動き出したのがアナベラ。彼女は何と生きていたのです。お互いに憎まれ口を叩き合う救急車が去っていくところでフェードアウト、エンドクレジット。

いわゆるB級アクションということになるのですが、小娘と冴えない刑事のバディムービー的なおかしさもあって印象に残る一編となりました。ブロンソン映画の中でも、もっともかっこ悪い主人公の映画ということになりますが、トンプソンの丁寧な演出によって、とびっきりじゃないけど、結構面白い作品になっています。ちなみに原題は「Murphy's Law(マーフィの法則)」でして、必殺でもないし、マグナムも出てきません。

「メッセンジャー・オブ・デス」は1980年代のブロンソンのB級映画として楽しめます。


さらに古いDVDの中にチャールズ・ブロンソン主演の「メッセンジャー・オブ・デス」を見つけて久々の鑑賞となりました。いわゆるブロンソンが落ち目になってから作られたアクションスリラーの一編です。

アメリカはデンバー。敬虔なモルモン教一家に何者かが銃を持って現れ、主人を除く家族全員を射殺します。警察署長ドイル(ダニエル・ベンザリ)は市長選挙に出馬すべく、参謀のフォックス(ローレンス・ラッキンビル)とともに選挙活動を始めようとしていました。新聞記者のガー(チャールズ・ブロンソン)は事件を記事にして、さらに調査を進めていきます。生き残った一家の主人は、父親への伝言をガーに託します。彼の父親ウィリス(ジェフ・コーリー)は、モルモン教徒のコミュニティのリーダーで、殺したのは自分の弟ゼイナス(ジョン・アイアランド)だと言います。別の州に住むゼイナスの農場を訪ねたガーは、ゼイナスから殺したのは自分ではないといいます。ウィリスたちは復讐のために武装した、ゼイナスの農場へ向かいます。先回りしたガーは、このことをゼイナスへ知らせると、ゼイナスの子供たちと、ウィリスたちの間で銃撃戦になってしまいます。一度はガーが間に立って戦闘をやめさせるのですが、何者かがゼイナスを撃ち、再び銃撃戦となりウィリスも撃たれて死亡。その帰り道ガーは、コロラド水道会社のトラックに襲われ、間一髪のところで車から脱出します。どうやら、ウィリスとゼイナスの兄弟に殺し合いをさせようという連中がいるようです。果たして、事件の黒幕は?

1970年代のマネー・メイキング・スター、チャールズ・ブロンソンも1980年代は往年の集客力はなくなっていましたが、それでも主演映画は製作されていました。イスラエルのメナヘム・ゴーランとヨーラム・グローバスが率いるキャノンフィルムで何本か作品を残しました。そんな1本がこの「メッセンジャー・オブ・デス」です。レックス・バーンズの原作を、ポール・ジャリコが脚本を書き、J・リー・トンプソンが監督しました。トンプソン監督はもともとはイギリスの人ですが、晩年はブロンソン映画の監督として「セント・アイブス」「ホワイト・バッファロー」「太陽のエトランゼ」などの作品を残しました。トンプソンは、スリラー、アクション、スペクタクルにSFまでさまざまなジャンルを手がけていまして、どんなジャンルも手堅くまとめる手腕はもっともっと評価されてよいと思います。

1980年代のブロンソン映画はどれも高い評価を受けたものはないのですが、それでもトンプソンの手堅い演出のおかげで、それなりに楽しめる娯楽映画には仕上がっています。今のセガールのような感じなのですが、映画としてのクオリティはこちらの方に軍配があがります。また、相手役の女優に愛妻ジル・アイアランドのほかに、1970年代に活躍した女優を連れてくるという特徴があり、「太陽のエトランゼ」ではドミニク・サンダ、「スーパー・マグナム」ではデボラ・ラフィン、「地獄で眠れ」ではテレサ・サルダナ、「バトルガンM16」ではケイ・レンツ、そして、この作品では、「あの空に太陽が」のマリリン・ハセットと「イルカの日」のトリッシュ・バン・ディーバーがブロンソンの相手役を演じています。アクションものの常として、これらの映画での女優の扱いはあまりよくないのですが、それでも当時のレベルで懐かしいと思える面々が顔を並べているのは、なかなか楽しかったです。

この映画は、オープニングは田舎の家に謎のトラックがやってくるというもの、家の前では子供たちが遊んでいるのですが、トラックの様子がおかしいので、家の中へ入って異常を母親に伝えます。すると、トラックから降りた男が散弾銃を構えてゆっくりと家に入ってきて女性3人を惨殺。そして、子供たちが逃げ込んだ部屋のドアを開けた男は中に向かって散弾銃をぶっ放す。このあたりの展開のスリラータッチはなかなかにお見事。トンプソンのリアルな演出がなかなかに怖いシーンに仕上げています。この後、この一家がモルモン教の一派であることがわかり、一家の主人の父親にガーが会いに行くと、そこはモルモン教徒のコミュニティで、父親は預言者と呼ばれるコミュニティのリーダーだったという展開は、モルモン教を扱ったシリアスなサスペンススリラーを期待させるのですが、モルモン教という設定は前半しか登場せず、その先は、ものすごいもってまわった金儲けが動機の殺人だったことがわかってきます。

もうブロンソンの60代後半で、派手なアクションはできないのですが、にもかかわらず、このガーという新聞記者がやたら強く、銃を持った殺し屋に反撃してボコボコにしちゃうというのはちょっと無理しているかも。それでも、中盤の主人公たちの乗った車が山道で2台のタンクローリーにはさまれるシーンはかなりがんばっていて、迫力ある見せ場になっていました。こういうところをしっかり見せてくれるセンスは買いです。

大した結末でもないので書いていまいますが、ゼイナスの持っている土地には豊富な水源があり、コロラド水道会社がその土地を買収しようとしていたのですが、ゼイナスは土地を売ろうとはしなかったことが発端だったのです。犯人は、ゼイナスの仲の悪い兄ウィリスの子や孫を殺し、兄弟を仲違いさせて土地を掠め取ろうとしていたのです。何で、土地買収にそんな手の込んだことをやってるのかは不明でして、原作があるんですけど、そっちもこんな話なのかしら。そして、兄弟同士の銃撃戦の後、殺し屋コンビの片割れガーに情報を買えと持ちかけてきます。しかし、ガーが新聞社に電話しているすきに姿が見えなくなり、トイレで刺されて死体となっているのを発見します。そこへ、もう一人の殺し屋が現れ格闘となるのですが、ガーの方が強くてそのまま逃亡。コロラド水道会社のオーナー夫婦も呼ばれた署長の市長選出馬パーティが開かれ、ガーも招かれます。すると、そこに殺し屋が現れガーに銃を突きつけますが、ガーはあっさりと殺し屋をボコボコにして、パーティの招待客の前に突き出し、黒幕は誰か言えと脅します。殺し屋が黒幕だと指差したのは、水道会社のオーナーではなく、署長の選挙参謀のフォックスでした。彼は、水道会社のもとのオーナーであり、売値で会社を買い戻せるという契約をしていたのでした。署長の持っていた銃を奪ったフォックスはもはやここまでと自分の頭に向けてズドン。一同唖然、ガーがカメラ目線の決め顔して暗転、エンドクレジット。

モルモン教にはくわしくないので、どこまで偏見入ってるのか、フェアに扱っているのかわからないところもありますが、いわゆる邪教的な扱いになっているのは事実です。前半のスリラータッチとか、モルモン教といった設定は後半で全然生きてこないというお話なので、何だかなあって後味になっちゃうのですが、それでも、1本の娯楽映画としてはまとまってるってところで及第点のレベルになっているのは、トンプソンの手堅い演出のおかげなのでしょう。こういうジャンルの映画が劇場公開されることが少なくなってしまいましたが、派手さそこそこ、見せ場あり、サスペンスありのスター映画ってなかなか作られなくなっちゃいました。今では、スティーブン・セガールがそのポジションになるのですが、作品のクオリティがC級レベルなので、物好きの観る映画になっちゃっているのが残念。ニコラス・ケイジもサスペンスもののスター映画に出ているのですが、映画に大作感が出ちゃうところに、ブロンソンとはまた別の味わいになっちゃうのですよ。

1988年の「邪願霊」はJホラーの源流の一つとしてかなり面白い


今回は古いDVDの棚を見ていたら「邪願霊」を発見したので、久しぶりに観てみました。オリジナルビデオの50分の作品です。内容的にはいわゆるJホラーの源流に位置づけられるもので、その後の映画に与えた影響もあると評価されています。

アイドル佐藤恵美のキャンペーンプロジェクトをレポートすることになったテレビスタッフの記録映像を再編集したというテロップが出ます。レポーターの沢木恭子がプロジェクトメンバーに取材していきます。プロデューサーの川西、作詞家、ボイストレーナー、そして恵美自身へのインタビューから、アイドルの売り出しの取材テープが紹介されていきます。「ラブ・クラフト」という曲を売り出そうとしているのですが、その作曲家が不明ということで、沢木はその裏話をレポートしようとしますが、関係者はそのことをあまり語ろうとしません。そして、恵美の宣材写真に霊のようなものが写っていたり、ジャケット写真撮影中に照明が落ちてきたりと不可解な事件が発生していきます。沢木に、作曲者の情報を渡すと言ったディレクターは、彼女にビデオを渡した直後に乗った自動車が爆発して死亡。渡されたビデオにはホテルのベッドの女性の姿と川西の声が入っていました。「ラブ・クラフト」はあるコンクールへの参加曲で、その作曲者の女性は自殺していたことが判明します。そして、プロモーション撮影の現場で恐ろしい事件が発生したのです。

1988年の作品でして、当時のファッションやサウンドが妙に懐かしい気分にさせる冒頭です。何本ものホラービデオ、テレビのウルトラマンシリーズを監督した石井てるよしが演出し、その後の学校の怪談(OV)やウルトラマンシリーズなどの脚本を書いた小中千昭が構成(脚本)を担当しています。冒頭で、レポーターの沢木がヌードモデルやグルメレポートをしている映像が入り、入院中の彼女を望遠でとらえた映像に「あの事件は霊の仕業だと思いますか」という電話インタビューの声がかぶさり、彼女に何かが起こったことが示されます。登場するアイドル佐藤恵美は実際にレコードも出していたアイドル歌手でして、これは本当にあった話として進んでいきます。




この先は、このビデオが、心霊フェイクドキュメンタリーであるという前提で話を進めていきますのでネタバレが嫌いな方はパスしてください。



取材時に撮影したビデオには謎の女性があちこちにフレームインしているし、録音中の恵美の背後に不気味な影が見え隠れしたり、どうも尋常でない事態が発生しているようですが、関係者は何かを隠しているみたいです。レポーターの沢木には何か霊感があるようで、他の人に見えないものが見えているみたいです。作曲者の女性がプロデューサーの川西に捨てられたらしいってことが見えてきます。そして、プロモーションビデオの撮影を倉庫で行うことになるのですが、撮影中の恵美に異常が起こり、彼女の体があり得ない方向に曲がって絶命。機材が倒れてきたり、火が燃え上がったり、現場は大混乱。プロデューサーの川西はその場を逃げ出すが見えない力によって悶死。そんな中で、沢木は誰かに向かって話しかけているみたい。

その後、謎のビデオテープが発見されます。そこには、プロモビデオの撮影現場での映像が入っていたのですが、カメラが存在し得ない視点から撮影されていました。そして、現場の映像と謎の映像を編集した映像が流されます。そこでは、倉庫の中を飛び回っている視点の映像が入っていて、最後に沢木が謎の視点に向かって「もう、これ以上はやめて、子供だって川西さんの子じゃないでしょ?」。そして、現場のカメラの視点に戻ると、取材ディレクター(竹中直人)が沢木をカメラの前から抱きかかえるようにフレームアウト。そのまま回っているカメラが倉庫の映像の2階の隅の映りこんだ女の映像がアップになっておしまい。

このJホラーの源流であり、フェイクドキュメンタリーとしてもフロンティア的存在だったそうで、確かに今のJホラーにつながる要素があちこちに散りばめられています。以下に列挙してみます。

1、実在するアイドルを使うことでリアリティを出す。これは、「ノロイ」や「POV」などでも使われている手法です。その他の登場人物も全て実在するという設定で、リアルな演技を見せています。


2、取材VTRを再編集しましたという構成で、それが別番組のために撮影されたものだという設定。これは、フェイクドキュメンタリーでよく使われる手法で、「スナッフ」「食人族」から、「パラノーマル・アクティビティ」まで使われています。心霊ものでこの方法を使ったのは当時としては目新しかったのかも。

3、撮影したVTRに不可解な人影が写りこんでいた。最初は、スルーして流して後で、ここにいたと再度見せるという趣向。これは、心霊写真では使えなかった手法で、心霊動画だからこその新機軸。「もう一度ご覧いただこう」のパターンです。この作品では、真昼間の映像に霊を映りこませている点がユニークで、それまでの心霊映像は夜というパターンをくつがえすことで、余計目に怖さを運んでくるところが面白かったです。

4、実在するアイドルを殺しちゃうという設定。ここがフェイクドキュメンタリーならではなんですが、「え!」と驚く一方で、フェイクだと気付く人は気付くポイントになっています。

5、どこからか出てくる謎のビデオテープ。「リング」とか「本当にあった呪いのビデオ」など、こういう設定は非常に多いです。誰かが撮影したとか、どこからか送られてきたテープとか、出自の不明な映像媒体に異様なものが映っていたというのはあちこちで使われている定番になっています。

6、ありえない視点からの映像。いわゆるPOV(point of view)ってやつですが、この映画でも、謎のビデオの映像がそういう視点で取り込まれています。これは遡れば、5人で遊びに行ったときの写真で、5人写った写真が出てきたというものの延長線にあります。「邪願霊」では、空中を飛び回る霊の視点という映像になっていますが、昨年の映画「POV」でほぼ同じ映像が登場してびっくり。

7、登場人物の中に霊感が強い人間がいて、その人の行動が実際の霊現象に向けての伏線になっているという構成。この作品では、主人公であるレポーター沢木がその役割を担当しています。

8、クライマックスで、ドキュメンタリーから逸脱するという趣向。この作品では、クライマックスの大混乱がとても1台の取材カメラで撮影しているとは思えないこと。それまでは、リアルな取材映像の作りをきちんと守ってきたのが、クライマックスではあえてそのリアリティをはずして、ドラマの映像に変えるという演出をしています。最後までリアルでやりきれとは思うのですが、実在するアイドルを殺しちゃったりしているので、あえてネタばらししているのかなって思ってます。前半、声とか後姿だけで登場するディレクターが、クライマックスで画面の正面にきて、竹中直人だったというオチも、意図的にやっているようです。

その後のJホラーや心霊ビデオで見られる趣向がいろいろと盛り込んである点はすごく評価高いです。構成の小中千昭が、ホラー映像でよく使う趣向をまとめて、小中理論と言ったりするそうですが、その中のかなりのパターンがこの作品には盛り込まれています。幽霊の画像がぼんやりとしていて、口がわかる程度で目鼻がわからないのが、急にアップになるところとかはかなり怖い。こういうのに慣れてない人が見たらかなりトラウマもの。具体的にグロテスクというのは違って、わけのわからない怖さをもってこられると、耐性のない人にはかなりこたえるのではないかしら。特殊メイクを使って、アイドルの腕があり得ない方向に曲がるシーンも初めて見たらかなりショック。車に人が乗り込んでから爆発するまでを1カットで見せるのも見事。前半を見せない怖さで引っ張っていって、クライマックスで一気に見せる恐怖に転ずる演出もうまいです。

「エクソシスト」を今観てもそんなに怖くないのと同様、同じような趣向の映画やビデオを観た後では、恐怖のインパクトはそれほどでもないのですが、それでも、結構怖いですし、よくできてるビデオだと思います。ドキュメンタリーをリアルに見せるために、アイドルのプロモーションを前半で丁寧に見せたり、一方で霊の正体を説明しきらないあたりのさじ加減など、こまやかな作りが光ります。

後、怖さとは関係ないのですが、出てくるアイドルの佐藤恵美がいかにも80年代のアイドルとしてかわいいのと、「ラブ・クラフト」がなかなかの佳曲であるのが、ホラーにリアリティを与えています。
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einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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