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「父帰る」は、父帰ってきました。一緒に旅行に行きました。で?

「ラブレス」を観てきたんですが、この監督さんの1作目の「父帰る」を劇場で観ていました。昔の映画サークルのHPから、その時の記事を転載しておきます。当時も変な映画だなあって感想を持っていたようです。

2005年01月09日 横浜のシネマジャックでの鑑賞です。

少年アンドレイとイワン兄弟の家に長い間不在だった父親が帰ってきます。そもそもなぜいなくなって、どこに行っててなぜ帰ってきたのかは兄弟にはわかりません。そして、父親は兄弟を釣り旅行に連れ出します。でも、何かの用事を並行して片付けている様子。兄アンドレイは父親になじもうとしますが、弟イワンはどうもこの居丈高な父親になじめず、反抗ばかりしてしまいます。そんなこんなしながら、父親の目的地である島に3人は到着します。そこで遂にイワンの感情が爆発してしまいます。で、どうなるかって言うと.....。

ロシアの新人監督の映画ですが、2003年のヴェネチア映画祭でグランプリを取ったのだそうです。オープニングで海に飛び込む子供が登場しますから、季節は夏なのでしょうか。それにしては画面は寒々とした海辺の田舎町を映し出します。そして、ある日、兄弟の家に父親が帰ってきます。母親と祖母は何か事情を知っているようではあるのですが、それはあくまで語られず、何やら得体の知れない父親と兄弟の旅行へ物語は進んでいってしまいます。そこから先、物語は過去の事情を一切語らないまま、親子3人のドラマだけで進んでいくことになります。久々に再会した親子3人の楽しい旅行になると思いきや、親子3人の旅は妙な気まずさがつきまとっていまして、一触即発のピリピリした道中になってしまいます。父親はなんとか父の威厳を息子二人に誇示しようとするのですが、それはうまくいかないようですし、子供二人、特に弟は、父親に拗ねてみせるというよりは、憎悪を露にして、道中を険悪な雰囲気にしてしまいます。

オープニングは何かのイメージショットなのですが、その実体は不明です。そして、思わせぶりな演出はドラマの1シーン1シーンを意味ありげに積み上げていきます。その呼吸は普段観る娯楽映画の演出とは明らかに異なるもので、一応ロケ中心の映画なのに、舞台劇を思わせる映画になりました。主演3人以外にも登場人物はいるのですが、生活感も存在感もない描かれ方で、あくまでドラマは親子3人の葛藤にのみ焦点をあてているのです。でも、その3人に感情移入することを拒否するがのごとく、突き放した演出なので、観ている最中はお気楽にながめているわけにはいかず、観客はある緊張感を持って画面と対峙せざるを得なくなります。それでなくても、一触即発の道中ですからね。

親子3人の旅の行方は意外な展開を見せるのですが、様々な意外性を見せるところが、この映画の面白さになっています。物語は兄弟の視点から動かないものですから、父親の過去を垣間見せるシーンがあってもそれが何なのか一切わかりません。港で男たちと話し込んだり、島で箱を掘り出したりするのですが、その種明かしは最後までされないのです。へえ、こういう映画の作り方もあるんやねえとちょっと感心もするのですが、さらに意外な結末でダメ押しをしてくるのです。「何なんだこれは」というツッコミも拒否する決着は、本編で確認して頂きたいのですが、親子3人が様々な暗喩として描かれているらしいことは見えてきます。でも、物語としては3人の親子旅行の悲惨な結末でしかないのです。ただし、描き方が重々しいというか、勿体つけてるというか、思わせぶりというか、「含むところがいっぱいあるからそこを汲み取ってね」という感じなわけです。映画を観た後、プログラムを読んだら、監督のインタビューがあって、そこで、聖書やら、旧ソ連の崩壊とか色んなことを言ってるのですよ。へえー、そんなことまで言いたかったん?とも思うのですが、「親子3人、気まずい道中」をそこまで膨らますパワーは感じましたから、映画としてはよくできているのではないかしら。

オープニングの息苦しいような空気感は最後まで崩れません。1時間半、魂を別世界へ持っていかれたような気分になったのは事実でして、寒々とした重苦しい映像と、独特の間の演出、幻想的な音楽が、観客を日常とは別の世界へと誘うのです。こう書くと、「ミステリーゾーン」か「ウルトラQ」みたいですが、事実ちょっと似たような感覚もありました。観終わった後、スリラー映画やファンタジーを観たような、ある種の不思議を感じたのです。懐かしいような、あり得ないような、根源的な怖さを感じさせる何かがこの映画にはありました。そして、その何かがラストでは失われていくのです。ノスタルジックな郷愁も、好奇心をかきたてる不思議も、心かき乱す恐怖も皆失っていく子供たちには、重い現実だけが残されてしまう、そして、少年は大人になっていくのかもしれない、と思わせるあたりはうまいと思いました。でも、大人になるってことは、失うことばっかではないのですけど
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「ビザと美徳」は杉原千畝を扱った26分の短編です。この映画も記憶に値する映画としてご紹介。


「杉原千畝」の映画が公開されたということで、過去に同じように彼を題材にした映画があったことをご紹介です。この映画「ビザと美徳」は、私は1999年の8月、横浜のシネマジャックで「夜と霧」との2本立てで観ました。以下は、当時いた映画サークルのHPから転載しています。

1940年リトアニアの領事館には、ナチスドイツに追われたユダヤ人がビザをもらうために列を成していました。杉原総領事(クリス・タシマ)のもとには、日本からもう勝手にビザを出すことまかりならんのお達しが再三来ており、ついには、ベルリンへ出頭せよの電報が来ます。妻の幸子(スーザン・フクダ)は疲労からか3ヶ月の息子に乳も与えられない状況です。これまで、ユダヤ人たちのために不正なビザを発行してきた杉原も妻と3人の息子のことを思うと、これ以上の危険は冒せません。そして、これが最後のビザの発行だと、ユダヤ人夫婦を領事室に通すのですが......。

1998年のアカデミー賞で短編映画賞をとった作品だとのことで、てっきり記録映画だと思っていたのですが、26分の劇映画になっていました。以前、テレビでも取り上げられたことのある、杉原リトアニア総領事の物語です。この人は、1940年当時、リトアニアにいて、ポーランドから流れてくるユダヤ人難民にビザを発行し続け、2000通のビザで6000人の命を救ったと言われる人物です。彼は、ユダヤ人からの感謝と尊敬を受けたものの、その職を追われる羽目になりました。この映画はそういう人がいたことを忘れないために作られた映画とも言えそうです。そして、アメリカで、日系三世のクリス・タシマが監督・主演することで、不思議な距離感(バランス感覚と言い換えてもいいです)が生まれ、日本で作ったら、こうはならないだろうという映画に仕上がっています。

ドラマは1940年のある朝、日本からのベルリン出頭命令を受け、これ以上ビザは出せないとあきらめかかる杉原が、それでもやれるところまでやってやろうと思いを固めるまでの1エピソードを描いています。もともと舞台の一幕劇だったそうで、史実かどうかは怪しい気もするのですが、杉原が表情を変えず、寡黙に葛藤した挙げ句にある決断に至るまでを、短い時間の中で描ききった脚本と演出はなかなかのものです。また、ドラマを絞り切ったおかげで、誰もが、杉原の思いに共感できる作りになり、普遍的な愛のドラマとなり得ているのは、見事だと思いました。

主人公が日本で言う英雄というイメージから、かなり離れたキャラクターになっているのが興味深いところで、寡黙で礼儀正しく、愁嘆場を見せないというのは、ひょっとしたら、向こうの日本人のステレオタイプなのかもしれません。そして、その上に人物としての奥行きをつけたという感じなのです。奥さんに「ビザを出すと約束したのに」と言われて困ってしまうあたりは、なんだか英雄と呼ぶにはウジウジしているように見えますが、その見た目の下の強い意志を見せる瞬間が圧巻です。どちらかと言えば、一見普通の人がある特別な環境に置かれてしまって、その中で勇気ある決断をするというお話のように見えました。とりわけ善意の人間のようにも見えないし、かといって、悪いこともできそうもない、そんなキャラクターをクリス・タシマは好演しています。奥さんの方はなかなかにできた人物のようで、ビザ発行から手を引こうとしている杉原をなんとかその気にさせようとします。そのあたりの心の動きを監督としてのタシマは短い映画なのに、非常に丁寧にタメの演出をしています。もとが舞台劇だからかもしれませんが、ドラマとしては淡々として流れながら、テンションの高さはかなりのもので、26分が相当見応えのある時間となっています。

こういう形で日本の有名人が映画化されることはうれしいことだと思います。その一方で、こういう映画の作られる意味として、杉原という人がいたことを忘れないためというのは大きいと思います。実はこの映画を、「夜と霧」という記録映画と二本立てで観たのですが、どちらもこういう過去があったことを忘れてはいけないという視点が感じられました。「夜と霧」はナチスドイツの収容所の今(1955年)と過去を描いた記録映画で、かなりショッキングな映像もあるのですが、目をそらすことができない説得力がありました。「ビザと美徳」にも、記憶にとどめておくべきことがあるという視点が感じられました。ドイツと同盟国だった日本だけど、その中にも、ユダヤ人の命を救った人がいたということは、忘れたくはありません。もし、この先、日本がまたおかしな方向に進んでいくことがあったとしても、こういう人の存在は理性的な行動への大きな励ましとなるのではないのでしょうか。杉原が自信に満ちてビザを発行したのではなく、躊躇と葛藤の果てに、ビザ発行を続けるというところにも、この映画のお値打ちがあるようにも感じました。流されず、固執せず、熟考の果てに決断を下す、彼の姿勢は普遍的な人のあるべき姿のように思えた次第です。

この映画は、杉原のことを映画化しようと思い立ってから、日系など色々な人からの援助や出資によって、できあがった作品だそうです。そういう意味では、日本の杉原の存在をアメリカの人に知らしめたいという気持ちはあったようです。また、オープニングとエンディングの現在のシーン(本人ではなく、俳優さんが演じているのですが)がカラーで、メインのドラマ部分なモノクロというのは、「シンドラーのリスト」を意識させる構成になっているのが興味深かったです。福岡アジア映画祭実行委員会が配給しているということで、団体へのフィルム貸出しをしているようです。

「狩人と犬、最後の旅」はドキュメンタリーとして面白い構成、そして美しい絵。

テレビ放映されます「狩人と犬、最後の旅」はかなり好きな映画。別のHPにアップしていた記事を転載させていただきます。

カナダのロッキー山脈で狩を営むノーマン・ウィンター(本人)はそろそろ引退を考えています。大手企業の森林伐採が進み、生態系は崩れつつあり、彼の狩猟方法である罠を仕掛けることも難しくなってきていました。冬の狩猟シーズンに向け、町に買出しに出かけたノーマンですが、そこで、長年の相棒であった猟犬のナヌークを交通事故で失います。ナヌークは犬ぞりを引く犬たちのリーダー格でした。友人が代わりの犬としてメスのアパッシュを彼にプレゼントします。ノーマンはアパッシュにあまり期待していなかったのですが、氷の湖にはまった彼を助けたことで、アパッシュは一躍ノーマンにとっての特別な犬となります。そして、冬が終わり、春がきます。次の冬にノーマンは再び狩猟のために山に入ることになるのでしょうか。

冒険家としての名前もあるニコラス・ヴァニエがある時知り合ったノーマン・ウィンターという狩猟家に感銘を受け、彼自身を主人公にした映画を作ったのだそうです。ヴァニエが脚本・監督を担当していて、これはドキュメンタリーではなく、実際にあったことをベースにしたドラマなのだそうです。ちょっと考えるとややこしいですが、その昔、力道山や稲尾投手の本人が主演する映画があったそうですから、それと同じ類のものかも。さらにさかのぼれば、ドキュメンタリーと言いながら、相当演出の入っていたロバート・フラハティの「アラン」までたどり着くかもしれません。ともあれ、こういう作りの映画はまったくなかったわけではないのです。

映画はノーマン・ウィンターの日々の生活を淡々と綴っていきます。犬ぞりを使って移動し、罠を仕掛けて狩をする彼の日常はそれだけで、映画的な興奮があります。さらに、新しい犬アパッシュをめぐるエピソードが挿入されますが、ドラマチックな展開にはなりません。ノーマンは自分たち猟師の存在が生態系の維持に貢献しているという自負がありますが、企業の森林伐採による生態系の崩壊によって、その役割も終わろうとしているという達観もあります。もう、彼のような猟師はほとんどいないのです。監督のヴァニエは、その失われつつある生活や文化というものを映像に残そうとしているのかもしれません。

ドキュメント風な作りではありますが、その映像の作り方は完全にドラマとしての完成度を持っています。特にティエリー・マシャドのキャメラはシネスコのフレームを最大限に生かして、かつリアルな移動ショット、俯瞰ショットを切り取っており、極寒の山岳地帯の撮影ながら、素晴らしい映像になっています。山の急斜面を登っていく犬ぞりですとか、氷の張った湖のたたずまい、春の清流で鮭を狩る熊、狼の群れの夜間ショット、大自然を切り取るその視線は画家のそれに近いものがあります。ありのままというには、あまりにも美しい構図は必見と言えましょう。

また、主人公のちょっと饒舌なナレーションが気になったのですが、、主要人物(全て実在する人)は声を俳優によって吹き替えているのです。事実の映画化から始まった企画ながら、その映画化にあたって、最大限の創意工夫がされているのです。その結果、観ている方はあたかもそこにあることのように感じることができるのです。当初、本人が主演する映画ということである種の胡散臭さを感じていたのですが、実際に本編を観ると、なるほど、これがドキュメンタリーの一つの作り方なのだな、と納得させられるものがありました。

当然、そこには、作者の明確な視点が含まれていまして、ノーマン、そして猟師たちへの想いが映像に込められています。しかし、ヴァニエは彼らの生活をできる限り淡々と描くことで、そのメッセージに説得力を与えるのに成功しています。自然の中で、その一部として生きることは、確かに素晴らしいことかもしれないですが、今、全世界の人間がそんな生活をできるかというと、それは無理。人間が増えすぎたために、自然もいつかは淘汰されざるを得ないだろうという視線がこの映画には感じられます。ノーマンはもう今年が最後の狩りになるだろうと考えています。そして、町へ下りて職探しをしなくてはとも言います。人間と自然との共存なんてかっこいいことを言っても、実際の当事者たちはその限界を知っている、そんな切ない思いを感じさせておいて、ラストで、それでもノーマンの猟師としての暮らしはまだまだ続くという見せ方をして映画は終わります。それを希望と見るか、現実の先送りと見るか、色々と考えさせるものがありました。

でも、その一方で、あの美しい風景を一度、直接見てみたいものだという観光気分にもさせられる映画でした。ただ零下50度の世界にまで出かけて、死ぬ思いをするのだろうと思うとなあ

新旧の「怪奇大作戦」をテレビでやってましたので

このところ、映画に足を運べてなくて、テレビばっかの日々を送っているのですが、NHK-BSで「怪奇大作戦」の新旧並行放送をしているんですよね。

オリジナルは昭和43年、「ウルトラセブン」の後番組として日曜日の夜7時から2クール放送された、SF特撮ドラマです。超自然現象や科学犯罪を捜査するSRIという組織の活躍を描いたもので、的矢所長(原保美)、三沢(勝呂誉)、牧(岸田森)、野村(松山省二)、さおりちゃん(小橋玲子)の5人のチームに警視庁の町田警部(小林昭二)が絡むというもの。これが、なかなかの曲者でして、最初の4話の冒頭を並べてみると「怪人が壁を通過する」「蛾にたかられた男の体が泡を吹いて溶けてドクロになる」「タバコを吸おうとした男が火を噴いて焼死」「電話を取った男が火を噴いて焼死」と、休日の最後の団欒を飾るにはやりすぎ感ありあり。1話完結で、スリラーあり、SFあり、何だかよくわからない話ありとバラエティに富んだ内容でしたが、ウルトラシリーズほどは視聴率は稼げませんでした。私は放送当時は小学生低学年で、人が溶けたり燃えたりするのにはかなりビビッて観てました。

1980年代以降のビデオブームで再評価されるようになり、実相寺昭雄監督や岸田森がクローズアップされて、カルト的人気を得るに至りました。私も再見する機会があって、LDなんかゲットしたのですが、これが面白い回とそうでもない回の差が大きい、出来栄えにムラのあるシリーズだったことに気付かされました。結末に謎を残したまま完結しない話に面白いものが多く、私の個人的な好みを挙げると、ベストは「青い血の女」「かまいたち」「果てしなき暴走」となります。一般的には、実相寺監督の「京都買います」「死神の子守唄」などの評価が高いようです。ある程度、その時代を直接反映したドラマですので、怪獣モノに比べると色褪せやすい部分もあるのですが、それでも面白いものは面白いのですよ。脚本や監督はウルトラシリーズから連投のメンバーに加え、脚本に石堂淑朗、監督に小林恒夫や長野卓等が参加しています。

これが年号が改まってから、リメイクされてNHK-BSで放送されたのが「怪奇大作戦 セカンドファイル」でして、的矢所長(岸部一徳)、三沢(田中直樹)、牧(西島英俊)、野村(青山草太)、さおりさん(美波)というメンツで、45分枠で、3本作られました。そして、また間を置いて、2013年の10月から同じく45分枠で、「怪奇大作戦 ミステリーファイル」の放送が始まり、的矢所長(原田美枝子)、三沢(原田泰造)、牧(上川隆也)、野村(村井良太)、さおりちゃん(高橋真唯)のメンバーが怪奇な事件に立ち向かうことになります。オリジナル版は、お話によってSRIメンバーの誰かが主人公になったり、ゲスト出演者が主人公になったりしていたのですが、リメイク版は、明確に、牧が主人公というポジションになっています。まあ、オリジナル版でも牧中心のお話の評価が高かったので、それにならったのでしょう。

先日、オリジナル「怪奇大作戦」の「かまいたち」が放映され、前後して「かまいたち」のリメイクという形で「怪奇大作戦 ミステリーファイル」の「深淵を覗く者」がオンエアされました。同じ設定で、同じネタ、30分と45分という尺の違いがあるものの、時代背景の違いなど、なかなか面白いものがありました。


この先は話を比較するために両者のストーリーを一通り紹介しますので、未見でこれからのお楽しみに取ってある方はご注意ください。



オリジナルは、動機なき殺人者が社会の中に潜んでいて、それが突如、かまいたちで開いた傷口のような不気味な姿を現すという物語を寓意的に描いています。その犯人の平凡なたたずまいの怖さ、そして、SRIの牧が、なぜか彼の視線から、彼が犯人だと確信を持つ不条理さと、物語として怖いのですよ。そして、さらに女性の体が一瞬ゆがんだように見えてバラバラに吹き飛ぶという視覚的なショック。何しろ、ちぎれた首が川の中に落ちたところでタイトルが出て、出演者の名前が出てくると、カメラがパンして、川岸の隙間から、ちぎれたらしい手首がのぞいているというインパクトのある映像が続きます。


「怪奇大作戦」「かまいたち」(脚本 上原正三、監督 長野卓)
東京の下町、深夜に家路を急いでいた女性が橋の上にさしかかったとき、ごうっという風の音とともに、女性の体がバラバラにちぎれ、川の中にボチャン。痴情怨恨からの、鋭利な刃物による犯行と警察はにらむのですが、SRIは流しの犯行ではないかと疑います。次の犯行が起きたとき、これは真空状態を作り出すことによる「かまいたち」現象ではないかと、SRIは推理します。犯行現場に集まった野次馬の中に何か視線を感じた牧は、さおりちゃんに周囲の写真を撮るように言い、その写真の一枚に写った若い男に注目します。「この目は笑っている」牧は男を尾行するようになります。工場に勤める男は平凡で虫も殺さないいたちのような目をしています。SRIは彼を罠にはめるべくさおりちゃんを夜中に橋まで歩かせます。そして轟音とともにバラバラにさおりちゃん。野村が逃げる男を取り押さえるとやはり、牧がにらんだ工員でした。さおりちゃんは橋の寸前でリモコン人形と入れ替わって無事でした。バラバラになった人形がイビツに合体してヘコヘコ歩いていくのがまた不気味。牧や警察に「何でこんなことをしたんだ」と詰問される犯人は最後まで無言。その犯人の目にカメラが寄って、エンドクレジット。

どうやって犯人がかまいたち現象を起こす装置を作りえたのか、また、何のためにそんなことをしたのかは最後までわかりません。かまいたちでできた傷のように、突然社会の傷がぱっくりと割れて、狂気が飛び出したとでも言うべき怖い話です。色々と解釈の余地を残しながら、得体の知れない恐怖を秘めて物語は終わります。冒頭の人体バラバラのインパクトがすごいのですが、その先の結末もかなりすごい。ちょっとヒチコックの「サイコ」を思わせるところもあるのですが、あのノーマンのような普通の時の人間の魅力的な部分は一切なく、ひたすら普通というか平凡な男。そんな男を生み出した社会へと視線を投げかけているようなラストではあるのですが、あくまで匂わせる程度で、そういう言及は一切なく、この常識では計り知れない狂気に対する、牧の畏怖の言葉でドラマは終わるのです。

ショッキングなオープニングから、不気味なエンディングまで、長野卓の演出は30分枠の中でテンポよくストーリーをさばいて、後に不気味な余韻を残すことに成功しています。かまいたち発生装置をなぜ犯人が作ることができたのかもわかりませんし、なぜ立て続けに殺人を行ったのかもわからない。そんな動機なき無差別殺人という不条理な世界を、猟奇スリラーとして面白く描いたのはかなりすごいことだと思います。特撮による人間バラバラシーンはインパクトありましたし、こんなのを日曜夜7時にやっていたというのもすごい時代です。少年漫画雑誌も「アシュラ」などのエグい描写のものが増え、映画も血糊の量が多いエログロ系の映画が幅をきかせてきた時代を反映しているとも言えましょう。


さて、一方の「怪奇大作戦 ミステリーファイル」の「深淵を覗く者」も、冒頭は、オリジナルと同じところから始まります。

「怪奇大作戦 ミステリーファイル」(脚本 小林弘利、監督 鶴田法男)
、冒頭で夜道を急ぐ女性が誰かに尾行されているシーンから、橋の上で、風の音がして彼女はバラバラになっちゃいます。そして、手口を替えた第2第3の殺人が発生し、牧はその殺人方法をことごとく暴いていきますが、そこを逆に警察に疑われて逮捕されてしまいます。牧はどうも連続殺人者に近づきすぎたようなのです。そして、犯人の感情とシンクロしてしまったようで、それを的矢所長から「深淵を覗く者は、その闇に飲み込まれる」と忠告されます。オリジナルと同様に現場写真の中から、怪しいトラックを特定して、そのトラックを尾行し始めます。トラックの運転手である男はSRIに追い詰められたと観念すると、自らを高熱発生装置にかけて火柱となって絶命。結局、最後まで犯人の顔はわからないままなのでした。そして、警察がやってくると野次馬が集まってきて、携帯カメラでばしばし撮影しています。牧はその群集の中の一人に駆け寄ります。そして、牧のアップで「おまえなのか」と言うところでおしまい。

牧が自分と犯人がどこが違うのか、犯罪トリックを暴くことでその犯罪を楽しんでいる自分がいるんじゃないかと悩むところがオリジナルとの大きな違いでしょう。そして、犯人の顔を最後まで見せずに、ラストで群集の中にいる観客(視聴者)に向かって、「犯人はお前なのか」というところで、そのテーマの矛先をテレビの外に向けてくるのです。そういうメタ構造とも言えるドラマの趣向は面白くもあるのですが、何だか青くさい印象も受けてしまいました。学生映画のノリだと言うと語弊があるかもしれませんが、そこまで具体的に語らなくても、伝える方法はありそうなものじゃんというのが、オリジナルと比較しての感想でした。また、キーマンとなる牧のキャラクターも、オリジナルは思い込みと理性の両方にユーモアを加えた一人の人間として描かれているのですが、リメイク版の牧は何かやたらと思い悩むキザな文学青年っぽいので、逆に人間としての奥行きに欠けてしまいました。オリジナルの岸田森が演じた牧もかなりキザでお悩み深そうな感じはあったのですが、リメイク版の上川隆也演じる牧の方がその度合いが激しいのです。そういうところにも青臭さを感じてしまったのかも。

描写としては、人間がバラバラになる描写はありませんが、熱線を受けた被害者が一瞬で灰になっちゃうというシーンがあります。でも、オリジナルよりはおとなしい描写となっています。監督がJホラーの第一人者である鶴田法男だけに、ホラータッチの部分は、オリジナルよりも上々なのですが、何かこうセリフが説明的でリアリティがないのが残念。オリジナルにない切り口を持ったストーリーはいい線いってると思うのですが、最近のドラマ・映画によくある説明過多になっちゃっているように思います。これは、観客(視聴者)がバカになったのか、バカになったと思われているのかのどっちかでないかしら。


というわけで、どっちも面白く出来ているのですが、シンプルだけどかなり怖いオリジナル版に対して、テーマを明確にしたら饒舌になりすぎたリメイク版という風に色分けできるのではないかしら。私は、オリジナル版に強烈な印象を持っているので、どうしてもそっちに肩入れしてしまうところはありまして、動機なき無差別殺人の怖さがストレートに伝わってくるオリジナル版の方に軍配を上げてしまいます。リメイク版も、携帯カメラを掲げた野次馬の群れという現代ならではの見せ方をしている点は評価高いのですが、その語り口の饒舌さがどうもノリきれないのですよ。一番、それがよくわかるのが、タイトルの違い、「かまいたち」と「深淵を覗く者」、どっちにセンスを感じるかと言えば、ねえ。

オリジナルの「怪奇大作戦」はまだ、再放送されるようですから、機会があれば一見をオススメしちゃいます。ただ、玉石混交ってところはありまして、1本見てつまんないと思っちゃうのは早計ですよ。

映画の中で印象に残った食べ物のみなさん

今回は覚書の意味で、自分の観た映画の中での食べ物の記憶について書き留めたいと思います。と、いいつつも食べ物メインの映画って観たことないのですよ。「たんぽぽ」とか「バベットの晩餐会」なんてのは話に聞いたことはあっても、スクリーンで観る機会もなく、食べ物ウンチクを映画で得たことはありません。それでも、何年も映画を観ていると、食べ物が印象に残っている映画が何本かあります。でも、昔の記憶だけに怪しいところもかなりあるのですが。

その1本目は「殺人狂時代」で、主人公が殺そうとする相手に毒入りワインを飲ませるときに食事として出すスクランブルエッグ(だと思ってます)です。学生当時でしたので、スクランブルエッグが西洋炒り卵くらいの認識しかなくって、これってどういう食べ物だろうという興味深々でした。実際のスクランブルエッグは大学受験の時のホテルの朝食で初めて食べてちょっとだけ感動したという記憶があります。

その次は「ダーティハリー2」のハンバーガー。「ダーティハリー」と言えば、ホットドッグを食べながらの銃撃戦が有名なのですが、それより私にとってインパクトがあったのが、「ダーティハリー2」でハリーが家に帰って一人で食べるハンバーガーでした。なぜインパクトあったのかっていいますと冷蔵庫から食べかけ(?)のハンバーガーを出して、そのまま食べるところ。ええ?冷蔵庫のハンバーガーを冷たいまま食べるのってのが、なぜか印象に残ってしまって。でも、あれは本当はハンバーガーではなかったのかも。ある映画の本で、名のある人が「フレンチコネクション」でポパイ刑事がハンバーガーを食べながら張り込みしてたなんて書いてましたけど、実際観たら、どう見てもハンバーガーじゃなかったなんてこともありましたから。

その次あたりに食べ物の印象があったのが、「ジャグラー・ニューヨーク25時」の目玉焼きです。少女誘拐犯が犯行前にダイナーで目玉焼きにソーセージで鼻と口ををつけてケチャップをかけて、バンってつぶすシーンがありました。まず目玉焼きにケチャップというのが私にはお初だったので印象に残っています。また、その時ウェイトレスがやってきて「コーヒー温めなおしましょうか」って言うので、またびっくり。アメリカって、冷めたコーヒーを温めなおしてくれるんだーって、かなり感心。

次はつい最近BSでも放映されていた「シャレード」から、レバーのサンドウィッチ。冒頭で、ヘップバーンがウォルター・マッソーからダンナの死の説明を受けるところで、サンドウィッチをすすめられ、その片方がチキン、もう一方がレバーでした。レバーなんてものをパンにはさんで食べるのかって、子供心にかなり「????」となった記憶があります。瓶詰めのレバーペーストとのご対面は、かなり大人になってからでして、長年の疑問でありつづけたのでした。

そして、チキンつながりで、「爆走!キャノンボール」を挙げます。典型的なB級カーチェイスものでして、監督が「デスレース2000年」のポール・バーテルだったからか、1シーンだけスターになった後のシルベスター・スタローンがご祝儀出演しています。で、何してるかというと、「チキンは久しぶりだ」と言いながらケンタッキーフライドチキンを食べるだけ。で、どこが印象に残っているかというと、この映画で、ケンタッキーフライドチキンのバーレルを始めて見たのですよ。あんな大きな入れ物にチキンがどっさり入ってるなんてすごいなんて感心しちゃったのですが、あんだけ無造作にチキンが入ってたら下の方はつぶれてまずそうだよなあなんて思うようになったのは、うんと後の話です。

もっとちっちゃなインパクトで挙げるとすると、「アバランチ・エクスプレス」で悪役のマクシミリアン・シェルが外のカフェで寒そうにコーヒーを飲むシーンがあるのですが、そこで、初めてちっちゃい入れ物(ポーション)に入ったクリームを見て、これはすごいと思ってしまったのですよ。今や当たり前のスジャータタイプのミルク容器ですが、やはり最初は感心しちゃうのですよ。我ながら色んなところに感心しちゃうのは、貧しい子供だったのかなあ。「ALWAYS 三丁目の夕日」の当事者だったのかしら。

パスタというよりはスパゲティというのが性にあってるオヤジ世代の自分には、スパゲティが印象に残っている映画が何本かあります。「スクワーム」というミミズ大襲来の映画でスパゲティを食べるあざといシーンが登場したのですが、あんまり個人的にはインパクトはなかったです。やはり食べ物で発見があるシーンの印象が強く残ります。

そのスパゲティで印象に残っているのは、「ミリィ 少年は空を飛んだ」に出てくるヒロインの家の食事シーン。母子3人でソースのかかったスパゲティを無言で食べているのですが、これが何だかすごくまずそうなのですよ。見た目がソースドロドロで小汚いといったものではなく、白い麺に赤いソースで小奇麗ではあるのにまずそう。家庭の空気がうまくいってないという演出ではあったのですが、それまで、スパゲティにまずいものなしと思っていた自分にとって、こういうのもあるんだなあってのがインパクトありました。

逆にうまそうに食べてるのだけど、ホントにおいしいのかなと思ったのが、フランソワ・オゾンの「まぼろし」で登場する、ヒロインが失踪する前の夫と二人でワイン飲みながら食べるスパゲティ。これが、茹で上がったスパゲティにバターを絡めただけというシンプルなもの。へー、そういう食べ方もあるんだという発見があったのですが、自分では試す気力が湧いてこないメニューでした。亡き伊丹十三さんが、その食べ方がいかにうまいかという文章を書いてるそうなので、試す価値はあるのかも。

これは、どの映画だったか思い出せないのですが、登場人物が中華料理店でチャーハンを食べてるシーン。レンゲとかスプーンではなくて、箸でチビチビとチャーハンを口に運んでいるのにびっくり。あれじゃあ食べ終わるまでにものすごく時間かかるようなあって。皿から掻き込む文化はないだろうし、向こうでは、箸を使ってチャーハンを食べるのが標準マナーだったら、面倒くさくて頼めないなあって思ってしまったのでした。

その他にも色々な映画に登場してくるインパクト料理にオートミールがあります。言葉だけ知っていて、向こうでポピュラーな料理だというから、結構うまいものなんだろうなあと思ってると見事に期待を裏切られてきました。まあ、設定的に主人公が何も食べないという時に画面に登場するので、冷め切ったオートミールだからかもしれませんが、あれはどう見てもゲ○、日本で言うなら、しも○かれでしょうか。食欲げんなりキングはオートミールに決定でしょう。

後、アメリカ映画全般に言えることなんですが、映画の食事のシーンで登場人物が腹いっぱいモノを食べてるシーンにほとんど出くわしたことがありません。食事を中断したり、ワンプレートのちょっと盛りだったり、どうしたら、あの程度の食事で肥満大国になれるのかが不思議でなりません。デブが登場しても、大して食べてないのですよ。向こうの映倫は、肥満を促進する満腹シーンを入れてはいけないというコード規制があるのかしら。これ、ちょっと食い過ぎだから、R指定ね、とか。

そんな中で、ちょっと魅かれたのが、「Dearフランキー」に登場するフィッシュ&チップス。あんまり裕福じゃない家が舞台なので、高級なものじゃない、何せ、フライドフィッシュとフライドポテトが一緒くたに新聞紙にくるんであるのですから。でも、お祭りの屋台の食べ物って昔はそんな感じでしたし、子供の頃の惣菜屋のコロッケも新聞紙にくるまれていましたから、どこか懐かしい感じがして、新聞紙についた油の染みすらも、何か心魅かれるものがありました。アメリカ映画での無理やりな小食を見慣れていると、逆にこういう生活感のある食べ物が印象に残ってしまうのでした。

映画を観ていると食べ物が登場するシーンにそこそこお目にかかりますが、その中で印象に残るのはそう多くはないと思います。こういう食べ物があるんだとか、こういう食べ方があるんだという発見、それが自分でも食する機会がありそうなものは結構印象に残ります。実際にはおいしいだろうなあと思うのですが、この先、口にする機会はないであろう、キャビアとか、鳩や兎のローストなんてのは、あまり心に響かないのですよ。でも、一方で、「未知との遭遇」でUFOが出てくるのをポーカーしながら待ってる人たちのテーブルにケンタッキーフライドチキンの箱があったなんてことは覚えてますから、やはり食べたいものが記憶に残るのでしょうね。それが私の場合、安そうなものばっかりで。

いつの間にか変わっていること

映画を観てきて昔と違うことってあります。普通に映画を観てきて「そういえば」とふと思い出すことが結構あるんですよ。そんなこまごまネタを、いくつか挙げてみます。

「昔は、007映画の始まる前に、ユナイト映画のロゴが出ていたのだけれど、いつのまにかMGMのライオンが登場するようになってました。」

「昔の映画館では、2時間を超える映画では、必ずお尻が痛くなったのですが、最近は椅子がよくなったらしくて、お尻の苦痛を感じなくなりました。」

「昔の映画館では、コーラやジュースは瓶だったのですが、いつの間にか紙コップになってました。」

「映画館のスクリーンには幕があって、上映開始時に幕が開いているのですが、今は幕そのものがなくなってしまいました。」

「昔は、前に人が座ると画面が見えなくなっちゃうような作りの映画館が多かったのですが、最近は見やすい映画館が増えました。」

「コロムビア映画が、いつの間にか、コロンビア映画になってました。」

「昔に比べると、上映前に流れる映画会社のロゴが格段に増えました。」

「いつの間にか、プロデューサーの肩書きがつく人が10人くらいクレジットされるようになりました。」

「いつの間にか、日本語字幕は、画面右端に縦書きではなく、中央下に横書きになっていました。」

「昔の映画館の前には、ガラスのケースに映画の写真が貼ってあったのに、いつの間にかなくなっていました。」

「昔の洋画では、監督がクレジットされた後に、日本語字幕監修者の名前が出てましたけど、いつの間にか映画のエンドクレジットの一番最後に出るようになりました。」

「東宝マークの下の、東宝株式会社の文字がいつの間にか、明朝体からゴシック体になっていました。」

「いつの間にか、どんなジャンルの映画のも、視覚効果チームがクレジットされるようになっていました。」

「いつの間にか、どの映画館でも映画の上映前に、マナーの注意喚起を上映するようになってました。」

「昔は、映画のパンフレットはみんな大きさが同じだったので、専用バインダとかも売っていたのに、いつの間にか、サイズとか製本がバラバラになって保存しにくくなっちゃいました。」

「いつの間にか、ケータリングの人まで、クレジットされるようになっていました。」


「2本立てが体力的にしんどくなりました。」


こういう気づきはその人の年齢で違ってくると思いますし、他にももっとありましょう。他に感じていることでは、映画館の名前が昔の方が色々あって面白かったというのもあるのですが、こういうのはいくらでも出てきそうです。

「緯度0大作戦」で思い出したマイナー怪獣のみなさん

先日はビデオで「緯度0大作戦」を観たのですが、そこでは着ぐるみの怪獣グリフォンや大ネズミ、コウモリ人間とかが登場し、あまり活躍しないまま退場していきました。こういうみなさんは、ゴジラとかガメラと比べるとあまりにも地味でマイナーです。そこで、忘れちゃう前に、日本のSF・怪獣映画のマイナーキャラを集めてみました。好きな方には、こいつらみんなメジャーじゃないかと言われそうですが、まあ、そこはご容赦ということで。
 
1、ショッキラス:「'84年度版ゴジラ」


映画の冒頭で、難破船の中に登場する、放射能で巨大化したフナムシです。1シーンの登場でしかないのですが、キャッチーなネーミングのおかげか、今もマニアの間では親しまれている怪獣です。とはいえ、一般の方がどこまで知ってるかなーというレベルです。暗い画面でしか登場しないので、全貌がわかりにくいってところもマイナーな一因かも。
 
2、海蛇:「キングコングの逆襲」「竹取物語」
まあ、蛇ですし、名前だってカタカナじゃないですし、そのあたりがマイナーなのかしら。また、蛇形怪獣ってのは、ピアノ線の操演だとどうしても見劣りしちゃうってところもマイナー要因なのでしょう。ウネウネと動かすためには、CGか機械仕掛けのアニマトロニクスにしないといけないのですが、当時の技術では、これが精一杯というところなのかも。同様な意味で「海底軍艦」のマンダも蛇形怪獣で、正直あまり印象に残りにくいのですが、こっちは「マンダのいけにえにせよ」の決めゼリフでぐっとメジャー度が上がったようです。
 
3、ドゴラ:「宇宙大怪獣ドゴラ」


タイトルに名前が入ってる怪獣なのですから、マイナーというのもおかしいのですが、ドゴラの絵を描いてごらんといわれると、なかなか難しいんでないかいってところでマイナー怪獣に入れちゃいました。何回も変態するので、そのキャラが曖昧になっちゃう怪獣です。最初はゼリー状のブヨブヨ系なのですが、それがでっかいイカのような形になり、さらに結晶状になって、最後は石になっちゃうというもの。とりあえずは、イカみたいなスタイルで北九州市を襲うのが一番の見せ場になっているので、それがキャラということにもなるのですが、スクリーンではその全貌が見えるのが2カットしかなく、後は触手が漂っているという絵ばかりなので、イメージがつかまえにくいです。さらに、映画のポスターに登場するドゴラは、どう見てもスクリーンに出てきたものと同じには見えないということがあって、やっぱりマイナーかなあ。でも、こういう怪獣は珍しいので、個人的にはかなり好きです。
 
4、雪女:「悪魔くん」


雪女が怪獣というのもずいぶんなのですが、この「悪魔くん」に登場した雪女は、セリフもほとんどなくって暴れまわった挙句、巨大化して山荘を破壊しちゃうのですよ。どう見ても扱いは怪獣なんですが、見た目は雪女(でも、衣装は白いドレスなので、どっちかというと貞子みたい)というのは、画期的でもありました。まあ、「悪魔くん」ってのは掟破りの巨大化ってのが結構ありまして、円谷プロに低予算で対抗してたんだなあって感じでした。
 
5、グローブモンスター:「光速エスパー」
私にとっては「光速エスパー」という番組自体がマイナーなのですが、その中で珍しく登場した怪獣がこれ。ボクシングのグローブみたいのが、次元の裂け目から突然現れてビルを破壊したりするというもので、怪獣が都市破壊するというのが、ウルトラマンみたいだなあって、ちょっとだけうれしく思ったりもしたのですが、所詮はエスパー、やっぱりマイナー怪獣だよなあ。
 
6、大コウモリ:「ノストラダムスの大予言」
正確には怪獣ではなくって、放射能で巨大化したコウモリです。ニューギニアへ調査に出かけた丹波哲郎他のみなさんが遭遇する驚異の一つがこれ。こいつが現れた後、人食い人種やら放射能でボロボロになった先発隊のみなさんとか登場して、世紀末感バリバリの展開を見せてくれるのですが、この大コウモリの造形がショボいのですよ。顔の長い、ロクに羽も動かないのが滑空してくるのには失笑。この映画の前半に登場する大ナメクジとかは結構リアルに気持ち悪くできていたのですが、それに比べると見劣り感がすごい。蛇形怪獣と並んで、はばたき怪獣も操演がむすかしいのか、見劣りするものが多いです。モスラなんてのは、そんな中で奇跡的に成功しているのではないかしら。ラドンだってはばたき形ではなく、滑空形ですからね。
 
7、モッグス:「宇宙猿人ゴリ」


この怪獣はタイトルバックにも登場しますからメジャーといえばメジャーなのですが、ドラマの方には中盤に再生怪獣の一頭として登場します。再生ってお前初登場じゃねえかと突っ込み入っちゃうのですが、この怪獣はドラマ化される前のパイロット版に登場したのですが、本編に出す機会を逸したらしいのです。でも、タイトルバックに登場する中途半端な登場をして、その挙句に初登場が再生怪獣という扱いは、やはりマイナー。でも逆の意味で目だっているからメジャーなのかも。
 
8、ランホリンクス:「恐竜怪鳥の伝説」


制作費7億5千万円という振れ込みだけど、どうみても、その100分の1の予算で作ったんじゃないのと思わせるケッタイな映画。恐竜というのはプレシオザウルスで、怪鳥というのがランホリンクスなんですが、この主人公の出来栄えが映画のショボさを5割り増しにしています。ほとんど動かない人形が操演でピョコピョコ動くところは、出来の悪いマリオネットの如し。造型・操演を担当したのは、「獣人雪男」や「マグマ大使」などで名前だけは有名な大橋史典という人。首だけピアノ線の操演でフラフラ動く首長竜プレシオザウルスもなかなかすごいのですが、映画の後半に突然登場するランホリンクスのマイナー感の方が上かも。

もっともっと探せば出てくるのでしょうけど、有名だから自分も知ってるわけですから、マイナーではないのでしょうね。

サントラビギナーにはいい時代でした

今回はちょっとサントラの話をします。オヤジの昔語りで、最後は、最近の若い人は気の毒だねえというところに落ち着きますから、そういうのが嫌いな方はパスして下さい。

その昔、私が映画音楽に初めて接したのは、東宝チャンピオンまつりのゴジラ映画でした。「ババババーン」という迫力がすごいなあって思い、その次はテレビで観た「猿の惑星」、「何だ、この音楽は。今まで聞いたことないけど、すごいぞ」って、再放送された時はテレビをカセットで録音しました。この頃は、まだ誰が作曲家なのかなんて興味はなかったです。

最初にサントラ盤を意識したのは、1970年代、映画館で「イルカの日」を観たときでした。映画もよかったのですが、このテーマ音楽がものすごく美しくて、この曲を作ったのは誰なんだろうと思い、ジョルジュ・ドルリューなる舌を噛みそうな名前を覚えました。再度、この音楽を聴きたいと思ったとき、それをサントラ盤というレコードで聴けることを知りました。とは言え、中学生の小遣いでは、限界がありまして、購入したのは、シングル盤レコード。いわゆるドーナツ盤というやつです。A面が「イルカの日のテーマ」B面は「ノクターン」という曲。やっぱり聴き返してもいい曲はいい。これでサントラ盤に目覚めました。

次にサントラ盤を欲しいと思ったのが、ジェリー・ゴールドスミスの「チャイナ・タウン」。これはテーマ曲もよかったのですが、ドラマを支える現代音楽風の音がよくって、頑張って、LP盤をゲットしました。1970年代は、親にもらった小遣いで映画を観ていたので、そうはたくさんの映画を観られなかったのですが、その中に映画音楽の当たりが多かったです。そのヒット率は、ここ数年の映画の比ではありませんでした。ジェリー・ゴールドスミスの「カサンドラ・クロス」「オスロ国際空港ダブルハイジャック」にスケールのでかさを堪能し、「オーメン」の音楽の持つパワーに驚嘆していました。さらにアストル・ピアソラの「サンチャゴに雨が降る」の美しさに感動し、ラロ・シフリンの「燃えよドラゴン」「ダーティ・ハリー」のかっこよさにしびれました。これらの映画には、サントラLPが出ていて、小遣いのほとんどをサントラLPにつぎ込んでしまいました。

さらにクリスチャン・ゴベールの「白い家の少女」、エンニオ・モリコーネの「エクソシスト2」「オルカ」に心奪われ、バーナード・ハーマン「愛のメモリー」に圧倒されました。だんだんと作曲家の名前も覚えてきて、モリコーネ、ゴールドスミスといったごひいきができてきました。この人が音楽をやっている映画なら観てみたいという映画の選択方法も出てきました。そして、その期待が裏切られることは少なかったです。映画は今イチでも音楽でモトが取れるという観方ができるようになりましたから。思い出補正かもしれないことを承知で言いますが、当時の映画音楽は当たりが多かったです。シングル盤を買えば、A面にメインタイトル、B面が愛のテーマという割り振りになっているのが多くて、あの「オーメン」でさえ、愛のテーマがあったのですから、音楽が豊かだった時代ではなかったのかしら。「ロッキー」のテーマだって、初めて聞いたのは映画館の中ででした。

そして、さらにジャンルとしてのホラー映画の音楽に目覚めていったのですが、この頃のホラー映画の音楽は、まだまだ創成期でして、色々な実験的な音作りがされていました。ゴブリンとジョルジョ・ガズリーニの「サスペリアPART2」におけるプログレッシブロックとジャズの融合。シンセサウンドのはしりとなった、ジョン・カーペンターの「ハロウィン」とフレッド・マイロウの「ファンタズム」、ピアノとオケが美しくも怖いキース・エマーソンの「インフェルノ」(「チューブラーベルズ」は純粋な映画音楽ではないので別格扱いしてます)といった印象的なサウンドに接する機会を持てました。

さらに、映画を観る前にサントラ盤をゲットするという先買いを始めたのも高校生の頃です。最初に先買いしたのは、ジェリー・ゴールドスミスの「エイリアン」でした。SFだけどホラーな映画の音楽は、フルオケによる厚くて鋭い音にびっくり。音楽だけ聴いてもイケてると思いました。そして、大学に行くために上京してからは、輸入盤に手を出すようになりました。今のCDと違って、LPはでかい分、ジャケットのデザインのインパクトで思わず手が出てしまいます。そして、日本で公開されるかどうかわからない映画のサントラにも手を出すようになってしまいました。それでも、聴いてその素晴らしさに震えたクリストファー・ヤングの「屋根裏部屋の花たち」ですとか、ピノ・ドナジオの「デビルズ・ゾーン」、リチャード・バンドとクリストファー・L・ストーンの「プリズン」といったゲテもの映画の先買いが始まって、こうなるともう病気状態です。

ともあれ、そうなるに至った理由は、1970年代から1980年代にかけて、映画館で色々な音楽に出会えたからです。私の後の世代になると、「トップガン」「フラッシュダンス」みたいな主題歌の時代となり、そこから映画音楽への興味が始まった方が多いのではないかしら。ところが、21世紀に入ってからは、映画音楽が氷河期というと大げさですが、ちょっと停滞しているなって気がします。今の若い人がサントラファンになる機会があるのかしらって思うくらい地味な音が多いです。音楽的に悪くはないのですが、入門編になるような音楽が少ないような思います。私の頃ですと、先述の「イルカの日」とか「燃えよドラゴン」「追憶」あたりの音楽で、サントラの魅力に引き込まれていったのですが、そういう、サントラビギナーを引き付ける音が最近は少ないような気がします。特に、心を捉えるメロディが少ない、AKB48の曲の方がずっとキャッチーなメロディラインを持っています。最初から、サントラマニアを相手にするのではなく、普通の人をこっちの世界へ引っ張り込むメロディラインやアレンジを持った音楽を期待しているのですが、なかなか少ないような気がします。そういう意味で、期待している作曲家にはレイチェル・ポートマンとクレイグ・アームストロングがいます。そして、彼らの音楽を生かした映画が作られますように。



アルバート・ウィットロックが気になる

先日、記事にした「センチネル」で気になったことを書きます。この映画、ユニバーサル映画なんですが、1970年代から80年代にかけてのユニバーサル映画では、特殊視覚効果(Special Visual Effects)としてアルバート・ウィットロック(Albert Whitlock)という人が必ずクレジットされているのです。実際にもこの人はマットアートでは有名な人でして、アルフレッド・ヒチコックの映画でも何度もクレジットされていますし、特殊効果課長(部長だったかな)だったということもあったのですが、とにかく、色々な映画で、一枚看板でクレジットされていまして、中には実際何やってんだろうなあって思う映画もあります。有名どころというと下記の映画があります。

「大地震」
地震の後の街のマットアートに煙や人間を組み合わせる合成カット多し。

「ヒンデンブルグ」
ミニチュアによる飛行船とバックの北極海、マット画による町並みとの合成などの仕事が彼によるものと思われます。ただし並記されている、特殊撮影効果のクリフォード・スタインとの分担は不明。

「マッカーサー」
前半の上陸作戦における、戦艦のマット合成。

「007 ダイヤモンドは永遠に」
クライマックスの人工衛星からのビーム放射のシーンが担当と思われ。

「ザ・カー」
クライマックスの悪霊のついた車の爆発炎上シーンのカット。

「グレイストーク -類人猿の王者- ターザンの伝説」
ターザンの両親が難破して、島に流れ着いた時の難破船との合成カットと、ラストの光溢れる森のカットが印象的。

「エクソシスト2」
ヴァン・ダー・ビーアスタジオと2枚看板なので分担が不明なのですが、イナゴの群れとかアフリカのシーンのミニチュアの岩場やマット画が、視覚効果によるものと思われます。


一方で、どこを担当しているのかよくわからない、あっても数カット、特に見せ場でもないシーンが多いものもあります。

「遊星からの物体X」
中盤の宇宙船を発見するシーンのマット合成2カットのみ。(印象的なオープニングはピーター・クランによるもの)

「パニック・イン・スタジアム」
前半で、ジャック・クラグマンがヤクザに脅されてビルの外に吊り下げられるシーン(スクリーンプロセスか?)のみ。他に視覚効果があるカットは見つけられず。

「キャット・ピープル」
動物園の外観を描いたマット画が3回ほど登場。

「センチネル」
中盤、ヒロインの恋人が訪れる大学の外観のマット画、1カットのみ。

「ブルース・ブラザース」
ラストでヘンリー・ギブソンの乗る車が宙に浮くシーン。(スクリーンプロセスか、ばればれ。)この他に、前半、ジョン・ベルーシに神託が降りるカットもひょっとして彼によるものか。

上記の映画では、彼はメインタイトルで一枚看板で出てくるのですが、その割には担当部分が少ないんではないかなって気がするのです。この他にも「メル・ブルックスの新サイコ(出演も)」「エクソシスト2」「砂の惑星」にも参加しています。

メインタイトルでの登場が多いので名前を覚えてしまったのですが、他の視覚効果マンと違って、あまり該当カットがないじゃんというので、逆に印象に残ってしまいました。いわゆる「スター・ウォーズ」以前の視覚効果マンとして、L・B・アボット、A・D・フラワーズなどと同様に有名な人だと思っているのですが、名前がでんと出る割に仕事が地味じゃんということですごく気になっています。もともと、マットペインターだった方だそうです。最後に映画館で名前を観たのは、シェリル・ラッド主演のB級SF「ミレニアム/1000年記」でのマット・アーティストとしてでした。(この映画、日本の宣伝では、SFXアルバート・ウィットロックという謳い文句でした。でも視覚効果は別の人が担当。)

「タワーリング・インフェルノ」の日本版プログラムにも視覚効果として名前があったのですが、アメリカのデータベース(IMDB)ではヒットしませんでした。やっぱり気になる人です。

さらに「別冊映画秘宝 東宝特撮総進撃」から覚書


「別冊映画秘宝 東宝特撮総進撃」のゴジラ以外のSFで覚えているところをまた書き記しておきます。思い出せるうちに書いておかないと記憶から消えそう。

1、「空の大怪獣ラドン」
九州を舞台にして、サスペンスタッチからスペクタクルへ展開していく構成が成功してます。劇場で古いフィルムで観たあと、DVDで再見してカラーの美しさを確認。ミニチュア特撮は所々にアラは見えても統一された世界観で、観ている最中は画面にのめりこまされます。特に中盤のジェット機が消息を絶つあたりの展開が見事でした。

2、「地球防衛軍」
宇宙人ミステリアンが富士の裾野を占拠して、子孫を残すために女性を誘拐するという侵略SFモノですが、全篇に見せ場を散りばめたスペクタクル映画として素晴らしい出来栄えでした。最終的に地球の科学力が、侵略者を力でねじふせるというのが、なかなかすごい話なんですが、そんな勢いのあるのが楽しい一編でした。

3、「大怪獣バラン」
前半の秘境モノの部分は中々面白かったのですが、後半、舞台が東京に移ってからはあまりに定番な展開が今見るとちょっとつらい。とはいえ、怪獣モノの典型のような展開は、「ウルトラQ」の先祖のようであります。そう考えると30分の「ウルトラQ」って番組の密度の濃さを再認識しちゃいます。伊福部昭の音楽が素晴らしく、メインテーマのコーラスがカッコよさは特筆もの。

4、「美女と液体人間」
キャバレー、美女、液体人間とエログロナンセンスの世界のようでいて、SFっぽい味付けをすることで、不思議なバランスの娯楽映画に仕上がりました。本多猪四郎監督のまっとうな作りによるところが大きいのかもしれません。でも、踊り子や刑事が溶かされちゃうシーンは結構ショッキングでしたから、ゲテものであることは間違いなさそう。クライマックスの液体人間焼却作戦のために避難する人々が提灯持ってるのが妙に印象的でした。

5、「電送人間」
これは、タイトルの設定にドラマがついていけなったという感じかなあ。連続殺人スリラーとしては悪くないと思うのですが、電送人間が単なるアリバイ作りの道具でしかなくて、更にそのための仕掛けがでかすぎてリアリティもなくなっちゃいました。ただのB級スリラーにしとけばいいのに、SFにしたらその分足を引っ張っちゃったって感じです。池野成の音楽が地味ながらよかったのが印象的でした。

6、「宇宙大戦争」
遊星人ナタールの地球侵略SFで結構評判がいいんですが、私には正直今イチでした。侵略者はすごい科学力を持っていて、人間を遠隔的に洗脳してコントロールしたりできるのに、地球から鳴り物入りで乗り込んでくるロケットに基地を破壊されちゃうのはマヌケ過ぎ。どうやら、月旅行をじっくり見せるところに重点が置かれていて、その周りにドラマを後付けしたような感じです。よく特撮の本で絶賛されている、ロケットと円盤の戦闘シーンも光線出しながらすれ違うだけですし、都市破壊シーンもミニチュアの粗さが目立ちました。宇宙船同士の戦いや都市破壊の絵は、2年後のニュー東映「宇宙快速船」(モノクロ映画で、特撮は矢島信男)の方が素晴らしかったように思います。

7、「ガス人間第一号」
気体化できる能力を駆使して悪事をするガス人間、愛する踊りの師匠に貢ぐのですが報われない悲劇。普通の若者がガス人間にされてしまう恐怖に悲恋ドラマを絡めて見応えのあるドラマに仕上がっています。ガス化する特撮も上々でクライマックスの破壊シーンがドラマ的に盛り上がるのが見事。ただ、ガス人間のキャラがちょっと作りすぎで、市井の人間がマッドサイエンティストによって運命を翻弄されるところを描ききれなかったのが残念。

8、「モスラ」
芋虫から我になる怪獣の映画だというのに、豪華絢爛な印象があって、破壊シーンの見せ場多し。このての怪獣映画には珍しく明快な悪役が登場し、その悪い奴がドラマを引っ張っていくというのはちょっとした意外性がありました。小美人(ザ・ピーナッツ)が歌で怪獣を呼ぶっていう設定がうまいなあって感心。神様っぽくて悪意がないけど、一般市民にすれば迷惑極まりないってところが、こういう映画のお約束なんだなあって気付かされる一編。

9、「妖星ゴラス」
ゴラスが地球に激突するから、地球の方を動かそうっていう、ものすごい前向きというか楽観的という発想の映画。とはいえ、冒頭で、死を目前にした宇宙船の皆様の「バンザーイ」のシーンがすごいインパクトありまして、ゴラスと対峙した乗組員が恐怖でボケちゃうとか、地球移動中のお正月が妙にのどかだったりと、細かいところも結構印象に残る不思議なSF。ともあれ、科学に対する信頼度がむちゃくちゃ高い時代の映画で、時代を知る意味でも面白い映画。

10、「マタンゴ」
主人公の回想で話が進んでいく人間不信のドラマなんですが、ラストで主人公の言うことも信用できないと思わせるあたりに人間不信のテーマが貫徹していて見事。子供の頃に観たときは、気付かなかった点が大人になって見直してからわかってきて、やっぱり怪獣映画じゃないな、これは。テレビ放映の時に怪獣映画だと思って観たら、「だまされた!」って子供心に思いましたです。

11、「海底軍艦」
ムー帝国が世界征服にやってきて、迎え撃つのは旧日本軍の秘密兵器海底軍艦。映画館で観た時は、スケールの大きさを感じまして、これはすごいと思いました。中盤の都市破壊は結構びっくりしましたし、ラストの火柱の迫力も印象的でした。大時代的なストーリーがスペクタクル映像とうまくマッチしていまして、空想科学冒険映画として点数高いです。

12、「宇宙大怪獣ドゴラ」
シンプルなストーリーで尺が埋まらなくなって宝石ギャングの話を無理やり乗せましたという印象。でも、炭素を食べて増殖する不定形生物という設定が面白く、他に同類の映画がないこともあってかなり好きな作品。都市で大暴れするという見せ場が作れない怪獣の割には、視覚的にインパクトのある絵が多く、作り手が色々と工夫して頑張っているのが伝わってくるのがマル。

13、「フランケンシュタイン対地底怪獣」
不死身の人工生命に無理やりフランケンシュタインの名前をつけました、で、やっぱり怪獣が出てこないといけないという興行的制約(?)をうまく乗り切って、異色のホラー風怪獣映画に仕上げましたという一編。心臓から人間の形に変身する過程をすっとばかしてるのはご愛嬌ですが、妙にセピアカラーな時代色が面白い一編。まあ、最初に観た劇場でのフィルムが退色してただけかもしれませんけど。特撮は秋田油田のシーンが素晴らしかった一方で、イノシシのミニチュアは何とも形容し難かったです。でも、クライマックスの炎が燃え盛るシーンは大迫力でした。


14、「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」
「フランケンシュタイン対地底怪獣」の続編ですが、ガイラがかなり怖くて印象的でした。生まれて初めて映画館で観た映画がこれだったので、それだけに印象が強いのですが、後年に見直して、怪獣対自衛隊を丹念に描いているのにさらに感心。怪獣映画に特化して、他のドラマを一切切り捨てたごとき展開は、こういう映画が一本あってもいいよねって感じ。二大怪獣が格闘しながら移動して、海の中まで行って最後うやむやになる結末は、プロレス中継で場外乱闘から時間切れになる定番パターンに継承されましたとさ。

15、「キングコングの逆襲」
子供の頃に劇場で観た時は、ふーんという感じだった(同時上映の「ウルトラマン」の方が楽しかった)のですが、大人になってビデオで見直しても、やっぱりふーんって感じでした。特撮的には素晴らしいってのもわかりますし、お話のスケールも大きいのですが、何かぐっとくるものがないのです。これは相性の問題なんでしょうけど、なぜなのかうまく説明できないです。東宝怪獣映画に対して期待するものとギャップがあるからかもしれません。

16、「決戦 南海の大怪獣」
イカ、カニ、カメが巨大化して、ゲゾラ、ガニメ、カメーバになりましたという映画。子供の頃に観たときは島の中だけで展開するお話を物足りなく思いましたが、後年、ビデオで見直して、そんなに悪くないじゃんと印象がいい方に変わりました。本多猪四郎の手堅い演出によって、シンプルな怪獣ものとしてこじんまりとまとまっています。また、怪獣のデザインがユニーク、かつ造型がよくできています。でも、全体に地味なんですよね。二人のヒロイン(高橋厚子、も地味にかわいいのがマル。

17、「日本沈没」
これは映画館が立ち見でも入りきれないという状況で観ました。関東大地震で、人々が水に火に追われるシーンがすごく怖かったです。70年代の終末観を大スクリーンにどーんと見せられたという感じでしょうか。一方で、日本列島の立体模型から煙が出てるという特撮カットには子供心にも失笑。2時間半の大作でも、同時上映「グァム島珍道中」が付いてるってのはいい時代でしたけど、その分、劇場が混雑すると回転が悪いから大変なことになります。

18、「ノストラダムスの大予言」
この頃、多感な中学生だった私は予言を信じて自分は40歳まで生きられないのかと思ってました。そして、この映画を観て、地球は公害で21世紀まで持たないと思ったりしてました。今、思うとバカなんですが、当時の空気を読み取って、地獄の未来図を作ったこの映画はある意味すごい。奇形、人食い、優性主義とかタブーをいっぱい盛り込んでいても、文部省推薦。あんなペテンに推薦状つけた文部省の黒歴史としても記憶しておくべき一編。

「別冊映画秘宝 東宝特撮総進撃」を読んで、ゴジラ映画総括(その2)


(その1)からの続きです。


16、「ゴジラ」(1984年版)
いわゆるリメイクになるんでしょうけど、第一作のような時代の空気を読み取れず、ただゴジラが出てくるだけの映画になっちゃっていて、かなりつまらない。秘密兵器スーパーXがフレームインするとテーマ音楽がかかり、フレームアウトすると音楽が消えるという、失笑演出には、おまえはチリ紙交換の車か、と突っ込んでしまいました。(当時の感想です。)武田鉄矢がうっとうしいとか、沢口靖子がゴジラより顔でかいとか、そんな印象しか残ってなくて。

17、「ゴジラVSビオランテ」
前作の続編で、植物怪獣という設定が斬新でしたけど、ゴジラ細胞をめぐるスパイ戦みたいのに乗り切れず、特撮が頑張っているという印象しか残りませんでした。ゴジラ細胞なんて、あれだけ暴れまわればいくらでも落ちてそうなのに。後、ラストで、自分の父親が死んだ直後なのに、彼氏とルンルンなスーちゃん(田中好子のスーちゃんです、念のため)に結構引いちゃいました。

→ と書いたのですが、下のコメントでご指摘いただきました。死んだのはスーちゃんのお父さんではなかったようです。劇場で、何て親不孝な娘だぷんぷんと怒ったのはとんだ空回りでした。記憶ってのはいいかげんなのか、私が特別いいかげんなのか、どうも失礼しました。

18、「ゴジラVSキングギドラ」
これ、面白かったです。タイムパラドックスを扱ったお話は、中盤のゴジラザウルスのあたりで失速しちゃうけど、また後半で盛り返しましたし。オープニングで、海底に眠るキングギドラの首のシーンが、クライマックス直前につながるあたりもお見事でした。チャック・ウィルソンの未来人が意外とかっこよかったり、その他大勢になりがちな防衛隊の皆様もそれなりに立っていましたし、大森一樹監督、前作より快調。一方でキングギドラの造型がメタボすぎるとか、東京都庁と並ぶと見劣りするといった特撮面が今一つという感じでした。

19、「ゴジラVSモスラ」
ゴジラとモスラが対決するのはともかく、登場人物に魅力がなさすぎで、ゴジラとモスラの対決シーンも「モスラ対ゴジラ」ほど知恵を絞った感がなくて、私には楽しめませんでした。登場人物が、卒業式の呼びかけみたいに、一人ずつ独り言を言う演出に辟易。おまえら、会話しろよと突っ込みたくなりました。コスモス(小美人)の合成が格段に進歩してるのはいいんですけど。

20、「ゴジラVSメカゴジラ」
メカゴジラを対ゴジラ兵器にしちゃったという設定が、「うーん....」なんですよ。ゴジラと同じ形なら、五分五分にしかならないのに。そういう根本的設定を置いとけば、伊福部昭の音楽のかっこよさで、メカゴジラにぐんと重厚感が出て、日本初のドルビーデジタル音響の迫力もあり、結構面白く観ることができました。ただ、格闘シーンになると、メカゴジラの中の人の動きがモロにわかっちゃうのはかなり減点。ロボットに肉弾戦をさせる限界を感じてしまいました。ベビーゴジラは「REX」みたいで、ご愛嬌かな。

21、「ゴジラVSスペースゴジラ」
平成ゴジラの中で一番評判がよくない映画なんですが、ヒーローとヒロインがよく立っていて、ほのかなロマンスもあったりして、結構好きな作品です。山下賢章の唯一ゴジラ監督作品ですが、結構丁寧にドラマを積み上げていたように思います。ただ、モゲラの造型とかにやっつけ感があったり、特撮セットに低予算感が感じられて、あまり気が入ってないのかなって気はしてしまいました。

22、「ゴジラVSデストロイア」
これでゴジラシリーズ打ち止めということを意識して作られた作品。オキシジェンデストロイヤーが出てくるので、マッドサイエンティストものかというとそうでもなくって、ドラマ的に印象に残るところが少なかったです。デストロイアもちっちゃいうちは、「あ、これ怖いかも」と思わせるのですが、でっかくなると迫力なくなっちゃうんですよね。翌年公開の「ガメラ2」の群体レギオンにキャラ的に負けちゃったのは痛い。特に防衛隊の人が人間サイズのデストロイアにやられちゃうシーンがしょぼすぎで、ちっとは重装備しろよって突っ込みたくなりました。ラストでゴジラが「まだ、いるよーん」で顔を出すシーンには苦笑い。

23、「ゴジラミレニアム 2000」
4年のブランクの後、久しぶりのシネスコサイズのゴジラということで期待してました。北海道に現れるシーンは迫力あるし、謎のUFOが絡む展開にも期待したのですが、結局、怪獣対決ものになっちゃうのでがっかり。クライマックスで「ミレニアム」という文字がホントに出てくるところで失笑。宇宙人はクリスチャンだったのか。西田尚美だけかわいかったねーという映画でした。

24、「ゴジラ×メガギラス G消滅作戦」
この作品で女性が主人公になります。戦闘隊長辻森(田中美里)がゴジラ相手に頑張るという設定はいいのですが、対ゴジラ兵器としてブラックホール発生器をつくっちゃうってのがムチャ。どこにつながっちゃうのか運任せってのは科学者のやるこっちゃない。おかげで大昔のメガヌロンがこの世に出てきちゃうという、SFの設定が大雑把過ぎ。ちっちゃいのから群体になってゴジラを襲うってのを「ガメラ2」の5年後にやらなくてもいいじゃん。とはいえ、新鋭手塚昌明の演出は手堅いところを見せていて、奇をてらわないまっとうなゴジラを作ろうという意欲が感じられました。

25、「ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃」
ゴジラは太平洋に散った英霊の怨霊で、モスラ、バラゴン、キングギドラは護国聖獣だったという、これまでの設定を無視して作った番外編みたいな映画。ところがゴジラのこれまでにない容赦ない暴れっぷりと、黒目のない白目だけの不気味なルックスとで、怖い怪獣映画としての評価はかなり高いです。監督の金子修介にしてみれば、ガメラシリーズでやったことの焼き直しをゴジラでやってるってなもんですが、それがゴジラシリーズには新鮮だったということで、今も評価が高い一品です。同時上映のとっとこハムたろうを観に来たちびっ子には刺激強すぎたのか、劇場前に「この映画はお子様には刺激が強い云々」という張り紙がしてありました。二度ゴジラに殺されかかって、三度目にとどめをさされる篠原ともえが印象的でした。ガメラシリーズでオーソドックスな音楽をつけた大谷幸が、シンセを多様した実験的な音楽をつけてるあたり、ガメラチームがゴジラで遊んでみましたって感じがしちゃいました。でも、これまでにない面白さはありました。新山千春が泣かせる頑張りを見せましたし。

26、「ゴジラ×メカゴジラ」
時代に応えたからどうか、ツンデレヒロインの釈由美子がメカゴジラを操縦して、ゴジラに挑むというお話。前々作のブラックホール発生器と同様、今回は絶対零度光線というゴジラよりやばいんじゃないかという兵器が平気で登場します。今回のゴジラは脇役で、ヒロインとメカゴジラが主役になります。ヒロインは自衛隊の周囲から浮いた存在になっているんですが、その同僚らしい連中がまるでチンピラなのが情けない。一応、自衛隊のエリートの筈なのに、情緒不安定な切れやすいみなさんで、こいつらに最新兵器を使わせるのはキチ○イに刃物だよなあ。でも、ヒロイン中心のドラマで1時間半弱にさらっとまとめたセンスは買いです。手塚昌明監督の手堅い仕事だったと思います。

27、「ゴジラ×モスラ×メカゴジラ東京SOS」
冒頭で、小美人とモスラが警告にやってくるのですが、それはほとんど役に立たずにゴジラが上陸してきます。で、モスラがゴジラに立ち向かい時間を稼いでる間にメカゴジラを修理して、ゴジラにぶつけようというお話。主人公がゴジラの操縦士でなく整備士というのがミソなんですが、その分、彼をとりまく操縦士のチンピラ度は前作よりも高く、こんな奴らにこんな高いオモチャをあげてはいかんという気になってきます。特撮は、ここ数作のデジタル合成バリバリからミニチュア中心にシフトしていて、そこはなかなか見応えがありました。後、後半のメカゴジラの暴走する理由がわけわからんかったです。まさか、お前、ジェットジャガーの血を引いているのでは? ついでに、ヒロインの吉岡美穂が影薄過ぎ。ゲスト出演の釈由美子に完全に食われちゃってるんだもん。

28、「ゴジラ・ファイナルウォーズ」
全世代のゴジラファンに目配せしたつもりが全部裏目に出ちゃいましたという、シリーズ最高の珍品。アクション好きの北村龍平監督は一体何をしたかったんだろう。ゴジラが出てきて、小物を倒してラスボスまでたどり着く話なんですが、そのゲーム感覚は観る人が観れば面白いかもしれないです。ゴジラを知らない一見さんなら、怪獣のRPG映画としてそこそこ楽しめるかも。でも多少なりともゴジラ映画のファンには、「何でそんなことするの」の連続。戦隊ものロボットみたいにコテコテにデコレートされたガイガンなんて見たくねえよ。ラストでミニラを突然巨大化させんじゃねえ、宇宙人はチンピラじゃねえ、などなど突っ込みどころの連続。キース・エマーソンは呼ばれた仕事は選ばない人なんだから、まず呼ぶなよ。外国では、これはパロディ扱いで公開して欲しいもんです。「ねー、すごいでしょー、この展開、全部ネラってやってるんですよー、「マトリックス」でしょ、「ワイルドスピード」でしょ、「ゴジラ」も全部突っ込んでゴッタ煮にしたのー! ゴジラ版「ギャラクシー・クエスト」狙ったの、ホントだってばあ」てな感じで。

「別冊映画秘宝 東宝特撮総進撃」を読んで、ゴジラ映画総括(その1)


先日、本屋で見つけた本が「別冊映画秘宝 東宝特撮総進撃」というトクサツ映画本。記事がオタクというか偏見に満ちた本で、その分、突っ込みながら読んで楽しい一冊でした。そのトップに並ぶのが、世界にその名をとどろかすゴジラ。そう言えば、自分もゴジラシリーズは全部観てますので、忘れる前に覚えてるところを書き記しておきます。短縮版というのは、東宝チャンピオン祭りで観た版です。


1、「ゴジラ」(1954年版)
ベタな悲劇的展開を大マジメに作ったキワ物というのがすごい。何度観ても面白いのは本家の実力なのでしょう。特撮がチャチに見えるところもあるけど、合成作画の見事さは色褪せてませんし、クライマックスの静かな演出もマル。暗いお話だけど大ヒットってのは、「日本沈没」もそうですが、やはり時代の空気をうまく映画に盛り込んでいるからでしょう。

2、「ゴジラの逆襲」
東京に続いて、大阪が焼け野原になっちゃうのですが、あまり悲壮感がないのが、この映画の持ち味。大阪襲撃と、その後の展開がまるで別の映画みたいで、うまくつながっていないのがご愛嬌なんですが、脚本がドラマに山場を作り損ねてるって感じでした。ゴジラとアンギラスの格闘シーンがコマ落とし撮影のせいで、妙に生物感のあるリアルな動きになってるのが見所。

3、「キングコング対ゴジラ」(短縮版)
キングコング周りはコミカルに、ゴジラ周りはシリアスに見せる演出の妙。両方の怪獣に襲われる浜美枝のシーンはご都合主義満載なのに演出の勢いで納得しちゃうという不思議。氷山、軍事基地、ファロ島、東北本線、東京、那須高原、熱海と見せ場が一杯詰まっているのがうれしい娯楽映画の王道を行く一品。

4、「モスラ対ゴジラ」(短縮版)
ゴジラの顔が怖い。徹底して悪役してるゴジラにかかる音楽がまた素晴らしい。前作の怪獣プロレスとは違う、絡みにくいモスラとゴジラの戦いを趣向を凝らして見せ場に盛り上げる演出も見事。まさか、ゴジラが負けるとはというサプライズもあって、怪獣対決モノの最高峰ではないかしら。

5、「三大怪獣 地球最大の決戦」(短縮版)
4大怪獣登場の豪華版にように思わせておいて、キングギドラの暴れっぷり以外はあまり観るところなかったような。一見大作風だけど、一点豪華主義の怪獣映画。ヒロインの若林映子は、ドゴラの時のギャングの一味の方がお似合い。

6、「怪獣大戦争 キングギドラ対ゴジラ」(短縮版)
やっぱり、テーマ曲のマーチに尽きます。クライマックスで流れるシーンで大盛り上がり。今回はゴジラは脇役で、基本は日本限定の地球侵略SFになってます。円盤の現れる合成シーンの絵が素敵。ニック・アダムスも映画の中でうまく立ってるし、ゴジラ映画とは違うけど、結構面白くできてます。

7、「ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘」(短縮版)
南の島の革命軍みたいのと、ゴジラが戦うっていうのは、マカロニウエスタンのイタダキなのかしら。ヒロインの水野久美を黒く塗るセンスはどーなの? ともあれ、あまり印象に残ってないんですよ。福田純監督らしい軽さが映画のスケールとうまくマッチしていました。

8、「怪獣島の冒険 ゴジラの息子」(短縮版)
ラストで雪に包まれた島の全景の絵はよかったけど、ミニラはちょっとなあ。ゴジラの顔もこの映画はちょっと女性的なのがおかしい。カマキラス、クモンガのリアルな動きにびっくり。

9、「怪獣総進撃」(短縮版「ゴジラ電撃大作戦」)
小笠原の怪獣ランドという、これが最後だという切り札を出してきて、怪獣の存在を矮小化しちゃったのですが、お話は結構面白くできてます。ムーンライトSY3号が宇宙を煙を上げて飛んでいくのを、温かい目で見れればいいのかな。伊福部昭の音楽がバリエーションの大盤振る舞いという感で色々と鳴らせてくれました。

10、「ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃」
実は、劇場で初めて観たゴジラ映画がこれ。いじめられっ子の少年が夢の中で怪獣島に行き、ミニラと仲良くなるというお話。9大怪獣とポスターにあるのですが、そのうち3頭は1カットのみの出演で、ちょっとだまされた気分になった記憶があります。スケール的には一番ショボイ映画でしたが、この映画で、東宝チャンピオン祭が始まり、旧作のすごいのを観るようになりました。そういう意味では、私のゴジラ人生の、とっかかりになった映画です。

11、「ゴジラ対ヘドラ」
公害がブームになっていたころ、その公害の雰囲気をそのまま怪獣にしちゃったというヘドラの存在感が見事。硫酸で人が溶けちゃう、奇形の魚、ヘドロ攻撃で人が生き埋め、などなど、生々しい気色悪いシーンが出てくる出てくる。そんな、公害の権化ヘドラを満身創痍で倒すゴジラですが、ラストで、自衛隊に向かって、ガン飛ばすのが圧巻。ゴジラがヘドラの目をくりぬくという描写もかないインパクトありました。あの時代を知らない人には、キチャナイゴジラ映画にしか見えないんじゃないかな。

12、「地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン」
宇宙人による地球侵略モノですが、「怪獣大戦争」よりはぐっとスケールダウン。ゴジラの相棒にアンギラス、ガイガンの相棒にキングギドラを持ってきて、タッグマッチの構成ですが、キングギドラのキャラがでかすぎて、ガイガン霞み気味なのが今イチ。タイトル音楽とタイトルバックがすごくかっこいいので、何となくごまかされちゃうところもあって、小学生だった私には結構面白かったです。ゴジラとアンギラスが吹き出しで会話するアホなシーンもあまり気にならなくて、子供の目線って大人とは違うんだなあって改めて思いますです。

13、「ゴジラ対メガロ」
ゴジラとジェットジャガー、メガロとガイガンのタッグマッチなんですが、お話のスケールがチョーダウンしてるのが子供目線にもバレバレ。ロボットのジェットジャガーが理由もわからず巨大化するのには、かなり引きました。ゴジラも目がクリクリの最低の造型だったころで、まあ、ゴジラの最低作であることは確定。好きな人はいるようなんですが、Z級映画を楽しむノリではないかと。福田純監督も開き直って作ったのかなあ。

14、「ゴジラ対メカゴジラ」
沖縄が舞台というのが珍しく、侵略者モノというには軽いけど、お話が盛りだくさんで楽しめました。ゴジラの格闘シーンが一番派手なのもこの映画ではないかしら。前作よりも明らかにお金かかっているのがわかるのもマルでした。ただし、キンギシーサーを眠りから覚ますための歌「ミヤラビの祈り」で脱力。名匠佐藤勝が音楽担当しているのに、こういう音楽演出を許していいのかって。

15、「メカゴジラの逆襲」
第一作の「ゴジラ」の次に悲劇性の高いドラマでした。時代錯誤かと思える、悲劇、悲恋ストーリーを本多猪四郎監督が真正面から演出して、異色作として不思議な見応えがありました。まさに全篇に怨念がおんねん、って感じの展開が見事。脇役にいたるまでキャラが立つ丁寧な演出ぶりは、これに続くゴジラシリーズにはないもので、もっと評価されていいと思う映画です。メカゴジラの機械的な動きとか、徹底した破壊シーンなど特撮的にも見所の多い映画でした。


その2に続く →

昔と今で映画の泣かせどころが違う

最近、映画を観ていて泣ける、否、泣かされてしまうことが多いです。若い頃に比べて涙腺がゆるいんだなあって反面、最近の映画とかテレビが必要以上に泣かせを強調してるんでないかいって思うこともあります。昔の泣かせる映画ってのは、基本的に悲しいシーンで泣かせることが中心であり、何でもかんでも、泣かせてやろうということはなかったような気がします。そして、若い頃ってのは、まだ人間経験が浅いってこともあって、他人の悲しみに共感することもなく、その分、泣くこともなかったように思います。

私が物心ついて、初めて自分一人で観に行った映画は「イルカの日」というSFサスペンスなんですが、人間の言葉を覚えたつがいのイルカがかわいくて切ない展開となるお話。今なら、多分、感動の大作ってことになるのでしょうが、当時の私は人間の博士とイルカの絆に感動こそすれ、泣くことはありませんでした。泣くことは感動するってことは明らかに別物だったのですよ。

泣かないまでもホロリとする映画はありました。「ロッキー」で老トレーナー、ミッキーの協力の申し出を一度は断ったロッキーが、とぼとぼと帰るミッキーを追いかけて引き止めるところ、ここは観ていてウルっと来ました。「ロッキー」のラストは感動モノなんですが、ここでは泣く気分にはなれず、素直に感動にひたっていました。こんな感じで、高校生までは、本気で映画で泣いた経験はなかったように思います。

これが大学生になると、俄然、涙腺がヤワになってきます。ただのB級災害映画「シティ・オン・ファイア」という映画がありました。クライマックスは消防士たちが、人々を逃がすために放水のアーチを作るシーンがあって、ここでなぜか泣けてしまったのですね。感動作というには程遠いどっちかというとチープな大作もどきの映画だったのですが、皆でよってたかって人を助けようとするシーンには涙腺のスイッチが入ってしまいました。この後も無名の人がみんなで誰かを助けようとするシーンのある映画にはすこぶる弱くて、「デイライト」「ボルケーノ」「E.T.」などの映画でそういうシーンがあるとポロポロ泣かされてしまいました。いわゆる無名の善意とか、無名の一生懸命とか見ると、涙腺のスイッチが入ってしまいます。そんな理由の涙なので、人に見られるのは、むちゃくちゃ恥ずかしかったです。

そして、就職して、オヤジ化していくにつれて泣かされた映画は数知れず、大泣きさせられた映画の中には、「ジャックナイフ」(ロバート・デ・ニーロ主演のベトナム帰還兵のお話)「8月のレモネード」(ご近所仲良しの子供のお話)「クレヨンしんちゃんオトナ帝国の野望」(これは有名ですね、泣きの分野では)「ジャック・サマーズビー」「この子をさがして」「美女と野獣」(ディズニーアニメの)「ビヨンド・サイレンス」「ルディ 涙のウィニングラン」などなど、挙げていくとキリがありません。

しかし、最近の映画が「泣き/泣かせ」を売りにしたものが多いわりには、あまりこれというものに当たっていないのが不思議です。ここ数年の映画で泣かされたというと「ルワンダの涙」「ヴェラ・ドレイク」など数えるほどしかありません。また、若い頃とは泣きのポイントが変わってきて、最近は「人間の弱さと向き合うシーン」で泣かされることが多くなりました。若い頃は、自信過剰のところもあって他人の弱さに無頓着だったのですがが、この年になって自分の限界がわかってきますと、自分の弱さも他人の弱さも見えてくるようになり、そこが心の琴線に触れるようになってきたようです。

若いときは自分に自信もあるし、未来への希望もあるせいか、映画を観て泣くことは少なかったのですが、最近の若者向けの邦画が泣きを売りにしていて、観たお客が「泣けましたー」なんていうのがコマーシャルになるご時世は、私のようなオヤジにはちょっと理解できないものがあります。私も年を取るにつれて涙腺のスイッチが変わってきていますから、今の若い人の涙腺のスイッチが、私のそれとは違うことは理解できるのですが、どうも釈然としません。例えば、最近のテレビで小学生が大なわとびの勝った負けたでびいびい泣いてるのを観ると「子供はそう簡単に泣くもんじゃない、意味もわからんくせに」と突っ込みを入れたくなります。涙の相場が下がり止らずって感じなのかしら。あるいは、涙ってのは、昔は一人流すものだったのが、みんなで共有するようになってきたってことなのかもしれません。それって集団ヒステリーにつながるヤバい兆候じゃないの?って思うのはオヤジの考え過ぎと思いたいのですが。

「マタンゴ」の人間不信は今見直すとスゴさを再認識

ゴジラのことばっか書いてきたのですが、今回は同じ怪獣ものでも1963年公開の「マタンゴ」を取り上げてみます。初めて観たのは子供の頃、家の白黒テレビででした。サブタイトルが「恐怖のきのこ怪獣」とあったので、きのこの怪物がビルを壊して大暴れするのかと思ったら、これが大違い。男女7人がヨットでバカンスと洒落こんだところ、嵐にあって、海をさまよった挙句、どこともわからない島に流れつきます。どうやら無人島らしいのですが、直近の問題は食料と水、水は簡単に発見できたのですが、食料は他の難破船にあった缶詰以外はあまり豊富にありません。自生するイモや海亀の卵などを探す毎日。ただ、その島の奥には不気味なきのこが群生していました。食料と女を巡って仲違いを始める男たち、そして、そのうちの一人がきのこを口にしてしまいます。そのきのこには幻覚効果があっていい気持ちになっちゃうのですが、それと同時に体がどんどんきのこになっちゃうのです。難破船の船員もきのこ食ってきのこ人間になっちゃったのです。島の奥から、ゾンビのごとき、きのこ人間がやってきます。最後に残った二人の男女ですが、女性がきのこ人間に連れ去られてしまいます。それを追って森の奥に入ると、きのこ化しつつある連中やら、完全にきのこになっちゃったのやらに囲まれてしまいます。半狂乱で逃げ出した男はヨットに飛び乗って漂流した後に救助されるのですが、精神病院に送られてしまうのでした。

え、何これ? 怪獣ったって人間の大きさのきのこが不気味な声をあげながら人間を襲うだけやん、舞台も無人島で登場人物も7人だけ、期待とはずいぶん違うと小学生だった私は思ったのですが、後にこの映画が高い評価をうけていると知って、大人になってから、シネマジャックで再見することができました。フィルムの状態もよかったこともあり、いわゆるホラー映画としての「マタンゴ」を鑑賞することができました。

この映画、ウィリアム・ホープ・ホジスンの「闇の声」をベースにSF作家の福島正美と星新一が原案を書き、それを東宝SFの常連、木村武が脚色し、特撮を円谷英二が担当し、東宝SFを数多く手がけた本多猪四郎が監督しました。冒頭で病室の窓辺に立つ主人公(久保明)のモノローグから始まり、彼の回想という形でドラマは進行していきます。男5人に女2人の一行が嵐にあって無人島にたどりついてそこで生活を始めるのが前半です。この中でキーになるのが歌手のアサミ(水野久美)でして、主人公以外はみんな彼女を狙い始めて、彼女を巡って男同士の諍いが起こるのです。えーとこのボンボン(土屋嘉男)はいざとなると頼りにならず、臨時雇いの漁師がパワーを発揮するのですが、欲をかきすぎて自滅。主人公は倫理感で行動するのですが、こういう生きるか死ぬかのところでは、その誠実さが何だかマヌケに見えてしまいます。そして、一人、また一人ときのこを食べてしまいます。食べていい気持ちになる代物ですから、食べ始めたらやめられない、そしてきのこ化するのが止まらない。この島に流れ着いたら、きのこになるのが正しいあり方で、人間でいる方がマイノリティになってしまう、だったら、きのこも人間も大差ないじゃないというところまで行き着いてしまいます。人間不信になりそうなお話なんですが、それをラストでダメ押しをしてきます。



この先は結末に触れますのでご注意ください



主人公は、自分の好きだった女性とあの島できのこになるべきだった、でも最後まで自分はきのこを食べなかったと、後悔の言葉を言うのですが、振り向いてみれば、彼の顔半分はきのこになっていたのです。最後の理性の砦だった主人公をも裏切る幕切れは、人間不信をさらにダメ押しするのでした。彼は最後まで人間であったかのようなつもりで自分の体験を語っているのですが、彼がきのこを食べていたのだとしたら、その話の信憑性も微妙なところになってしまいます。世界が不信に満ちているかのように語る主人公も、そんな世界の一部であるかのように見せる結末は見事でした。これが1963年の夏休みの怪獣映画として若大将と一緒に上映されていたのですからすごいです。こういうペシミスティックなストーリーは70年代の「ノストラダムスの大予言」の空気を先読みしてるとも言えます。というより、あの時代で何でこんな映画作ったの?って訊きたくなるようなお話でした。

ちなみに原作は、ある夜、航海中の船に小さなボートがやってきて、乗組員が姿を見せずに食料を乞うという、静かで不気味な海の怪談というお話になってます。それが映画化されるにあたってマタンゴのドラッグ性とか、現代社会における人間不信といった脚色されたようです。

1984年版「ゴジラ」は誉めるところなくって

ゴジラ映画も備忘録を2本書いてみたのですが、ゴジラシリーズの節目になる映画が他にあるかなというところで、1984年の「ゴジラ」を挙げたいと思います。この映画、「ゴジラ FINAL WARS」が出るまで、「観てズッコケ度」1位の座をキープしていました。ですから、この先、この「ゴジラ」に思い入れのある方は読み飛ばしてください。決して誉めてはおりません。


嵐の夜の漁船が遭難し巨大な生物が目撃されます。新聞記者の牧(田中健)はゴジラが蘇ったのではないかと思い、生物学者の林田(夏木陽介)の意見を仰ぎます。とか何とかしているうちに原子力発電所にゴジラが現れます。三田村首相(小林桂樹)はゴジラ対策としての核兵器の使用を拒否するのですが、今度はゴジラは東京に上陸し、銀座を通過し、新宿副都心へと進んできます。自衛隊のスーパーXがカドミウム弾によってゴジラの動きを止めるのですが、ソ連が誤射したミサイルが新宿上空で爆発して、またゴジラが元気になっちゃいます。林田と牧は、ゴジラの帰巣本能を刺激する音波によって、ゴジラを三原山まで誘導します。そして、ゴジラは噴火口の中に落ちていくのでした。

1984年の「ゴジラ」は、1975年の「メカゴジラの逆襲」(これは意外な佳作で特撮シーンも迫力あってかなり好き)で打ち止めになっていたゴジラシリーズを再開させようとしたものです。世間的にも怪獣ブーム再燃の兆しもあって、かなり期待されていた映画です。これまでのゴジラ映画と異なるビスタサイズ、ドルビーステレオというフォーマットでお正月映画として公開されました。設定は、1954年の「ゴジラ」の続編ということで、その間のゴジラ映画はなかったことにされちゃいました。これは、いわゆる設定リセットという技なんですが、これ以降のゴジラ映画で濫用されるようになる走りというべきものでした。

オープニングの嵐の海のシーンはミニチュア特撮、立体音響効果もよくって期待させるものがありました。これは、第一作の「ゴジラ」と同じオープニングなんですが、水を使った特撮は、オリジナルより迫力ある見せ場になっていました。そして、ゴジラが現れて、暴れて、秘密兵器(超音波と火山)によって退治されるという主な流れも、第一作と同じ。主人公と恋愛関係になるヒロインが登場するのも同じです。このヒロインは今の方がきれいな沢口靖子が演じてまして、本筋と絡まないけど、出番が結構あるというのが不思議でした。スクリーン上では、ゴジラより彼女の顔の方が大きいので、ゴジラよりも目立っていたかも。

そこから、ゴジラが原発を襲うシーンになるのですが、原子炉を引っこ抜いて放射能を吸収するというのにはびっくり。ゴジラはこれまで放射能を撒き散らす存在ではありましたが、放射能が好物だというのは新趣向、というか、何か変だぞとこのあたりから気付いてきます。ゴジラが東京に上陸すると、オープニングのリアルな特撮から、ミニチュア然としたテレビ特撮になっちゃいます。第一作では画面を暗くしてミニチュアのアラを見せないように頑張っていたのですが、やけにクリアな画面が空気感を出せないで、ゴジラの巨大感も感じられないのです。特に新幹線を襲うシーンは失笑ものでした。

その上、自衛隊の秘密兵器の名前がスーパーXというのにも、ズッコケてしまいました。他にもう少し、それらしい名前があるだろうと思うのですが、こいつが、登場すると、スーパーXのテーマ曲が高らかに鳴り響くのですが、フレームアウトすると音楽が消えて、またフレームインするとまた音楽が流れ出すという、まるで自分でテーマ曲流しながら飛び回っているみたいでした。

と、ツッコミどころ(まだ他にもあるけどキリがないので)はいっぱいあるんですが、ゴジラのキャラが立ってないってのは痛いところでした。もっとゴジラの怖さの理論武装をしてくれたらよかったのかもしれませんが、通りすがりの酔っ払いが暴れまわってトラ箱に入れられるようなお話なので、ゴジラにシンパシーを感じることもできず、ラストにカタルシスを感じることもできませんでした。

観た当時はこんな感じでダメポイントをあげつらっていたのですが、今になって思い返してみますと、この「ゴジラ」のコンセプトは、第一作のリメイクだったということに気付かされます。リメイク、それも直球勝負の。第一作のポイントは一通り押さえていますもの。オープニングは同じだし、恋愛模様あり、反核ネタは首相の非核三原則行使になり、オキシジェンデストロイヤーは超音波とスーパーX。でも、結局、リメイクは間の抜けたものになっちゃってます。それは、橋本幸治の演出がダラダラしてたからではないか、と、今では思ってます。だって、展開がタルいんだもん。

そんなわけでリメイクに失敗した新ゴジラの路線変更という意味で「ゴジラ対ビオランテ」は新機軸をいっぱい盛り込んだということで、記憶に値する映画になり、以降の新ゴジラシリーズが展開していくことになります。結局、トータルのゴジラシリーズの中で、1984年版「ゴジラ」は鬼っ子的な存在になってしまい、以降、「ゴジラ」第一作をリメイクしようなんて無謀なことを封印した、という点において存在価値のある映画になったように思います。(← いやー、やっぱりずいぶんな言いようだわ、こりゃ)

「ゴジラ対ヘドラ」を、けなさず、持ち上げずに書くとこんな感じ

「ゴジラ」のことを書かせてもらったのですが、ゴジラシリーズの中で、第一作と比肩しうる存在であると言われる「ゴジラ対ヘドラ」についてもちょっと書かせていただきます。私はこの映画をリアルタイムで観ておりまして、東宝チャンピオン祭りにもかかわらず気色悪いのを作ったなあって印象でした。

富士市の田子の浦の近所で、オタマジャクシのような魚が網にかかりました。放っておいたら乾いて炭のようになってしまったのですが、炭のかけらを水に入れると、ちっちゃなオタマジャクシになって泳ぎ始めるではありませんか。もうひとかけら水に入れると、それもちっちゃなオタマジャクシになって、驚くべきことに二匹のオタマジャクシは合体して一回りおおきなオタマジャクシになったのです。タンカーがオタマジャクシの巨大な怪獣に破壊され、次にはドロドロのヘドロのような怪物が上陸して煤煙を吸いさらに大きくなっていきます。ゴジラが現れ、その怪物ヘドラと戦うのですが、1ラウンドめは逃げられてしまいます。そして、ヘドラはまたUFOのような形で空を飛び、硫酸の霧を撒き散らし始めます。人間側でも策を考え、熱線で乾燥させれば動きを封じることができると、富士の裾に巨大な電極を2枚向かい合わせに設置し、その間にヘドラを誘導して乾燥させようという作戦に出ます。そして、より一層大きくなったヘドラとゴジラの死闘が富士の裾野を舞台に展開するのでした。

ゴジラシリーズも終止符のつもりで作った「怪獣総進撃」がヒットしたので、過去フィルムをたくさん流用した「オール怪獣大進撃」を作った後、その次の作品として、当時の話題だった公害を題材にして、坂野義光と馬渕薫が共同脚本を書き、坂野義光監督第一回作品として世に出したのが「ゴジラ対ヘドラ」でした。映画の公開前に漫画雑誌のグラビアでこの映画の紹介を見た時は、ヘドロからヘドラじゃああまりにも安直だなあって、いい印象を持ちませんでした。それに怪獣の見た目も気色悪いというか汚いというか、どうにもルックスに難ありでした。それでも、東宝チャンピオン祭りは長い休みの唯一の定番お出かけだったので、映画館へは何となく足を運びました。

のっけから「水銀。コバルト、カドミウム~」という主題歌に「何じゃこれは、こんなのゴジラじゃない」とずっこけたのですが、その後も、それまでのゴジラ映画にあったスケール感とかSF臭さというものが一切出てこない展開に「???」の気分になってしまいました。ゴジラとヘドラが戦うとヘドロの飛沫が飛んで、マージャンしてた連中を殺してしまうとか、ボディペインティング(風)したおねえちゃんが出てきたり、酒とクスリで幻覚を見たりと、何だかおかしな展開ばっかり、これのどこがゴジラ映画なのかと思っていると、ゴジラの登場シーンの音楽が違う(伊福部昭から真鍋理一郎に代わっていた)し、ヘドラの硫酸を浴びた人間が骨になっちゃうシーンまであって、何だかいつもの期待をことごとく裏切ってくれるので、前半だけでかなり不安になってきました。

マルチ画面で公害に関係する人々のコメントを流したりする趣向といい、いつものゴジラとは展開の仕方がまるで違うのです。当時小学生だった私にはまだ理解できていなかったのですが、これが演出の違いというものだったのです。後半も自衛隊はほとんど活躍せず、都市破壊もなく、富士の裾野の広場でゴジラとヘドラが闘うシーンがかなり長時間続くのです。ここで、ゴジラは片目をつぶされ、ヘドロまみれにさせられて、踏んだり蹴ったりの目に遭います。また、サプライズとして、ゴジラが空を飛んだり、一度は乾燥して死んだと思ったヘドラが一回り小さくなって逃げ出すなどのシーンがあり、さらに、ゴジラが乾燥したヘドラの目玉をえぐり出すという描写まであって、小学生の私には、もうお腹いっぱいというか、「何で、そこまでやるのかなあ」ってブーイング気分。正直に言って、東宝チャンピオン祭りを期待して観に来た子供には、トラウマになっちゃうような映画でした。前作のミニラが少年としゃべる「オール怪獣大進撃」とは落差ありすぎですもん。ただ、世間で公害だ光化学スモッグだと騒がれていたのは事実で、暗い未来予想図が想定される時代でもありました。(これにトドメを刺すのが2年後の「ノストラダムスの大予言」なのですが)また、この映画、子供ながらに安い(お金がかかってない)印象を受けたのも事実でして、何だか気色悪くてビンボ臭い映画だなって思ってしまったのでした。

この映画がカルトになっていると知ったのは、ずいぶん後のことでして、「へー、あんな映画も再評価されるんだ」と不思議に思ったものです。これも機会あって二十歳過ぎてから、再度、劇場で観ると、なかなかホラー映画っぽいなあ、とか、ミニチュアセットもないのに巨大感があるのはすごいとか、初めて観たときとは別の印象を持てるようになりました。クライマックスで、主人公の少年とボディペインティングもどきのお姉ちゃん以外、若いものは全滅しちゃうのもシュールじゃんとか、まあ、ちょっとだけ背伸びした感想を持つにいたり、やっぱりこれもありかなって思うようになりました。

それは、ゴジラシリーズの他の作品に比べて違うというところの評価が変わったからです。子供の頃は、定番をことごとく外すと不満だったのか、それってユニークじゃんという評価になったということです。ユニークって評価も安直って言えば安直なんですが、こういうのが背伸び視線というのかもしれません。ともあれ、当時の公害をゴジラ映画に取り込んで、ちょっとポップでサイケな映画を作ったんだなあって納得しました。(ポップ、サイケって表現も何だか浅薄ですみません)特に特撮においては、ヘドラのおぞましい質感が他の怪獣を圧倒する迫力で、動きの重厚さ、巨大さが、他のゴジラ映画よりも見事な出来栄えだったのです。

「ゴジラ」の怖さがある意味、高尚な怖さだったのに比べると、ヘドラの怖さは今そこにある怖さであり、身近な生活感のある気味悪さだったように思います。ホントにヘドロやスモッグが身近にある状態で作られた映画ならではの、タブー感みたいなものもあり、子供にはとっつきがよくなかったのだと思います。今、見直してみれば、70年代カルチャーの一端が伺える映画として楽しめる一遍ですし、ゴジラシリーズの中で、子供を主人公にしておきながら、小さいお友達に背を向けているという点で再評価できると思います。

「ゴジラ」は怪獣映画の異端というか番外編ではないかと

昭和29年の作品ですが、「ゴジラ」は映画史に残る名作と言えるのですが、さすがに生まれる前の映画をリアルタイムでは観られません。でも、ビデオで観て、シネマジャックで劇場鑑賞もできましたので、映画の記憶として鮮明に残すことができました。いわゆる特撮本ですとか、ゴジラ本で詳細に解説されている映画ですが、実際に観ると、特に劇場で観るとその印象は強烈なものがありました。

貨物船「栄光丸」がSOSを出して消息を絶った後、捜索のために向かった船も消息を絶ちます、大戸島には、捜索に向かった船の船員が漂着するが、嵐の夜に上陸した何者かによって命を絶たれてしまいます。生物学者の山根博士(志村喬)ら一行が大戸島に調査に向かうとそこに巨大な足跡を発見し、足跡からは放射能を検出します。そして、山の向こうから巨大なトカゲのような生き物が姿を現します。巨大生物は大戸島の伝説よりゴジラと命名され、対策本部が設置されます。ゴジラは東京に上陸し、放射能火炎をはき、東京を火の海にしてまた海へ去ります。帝都の惨状を見かねた山根博士の娘恵美子(河内桃子)は彼女の知人である芹沢博士(平田昭彦)がオキシジェンデストロイヤーという最終兵器を発明したことを対策本部に告げ、戦争使用を危惧する芹沢博士を説得します。そして、自ら海底に眠るゴジラへオキシジェンデストロイヤーを仕掛けた後、自分の命も絶ち、オキシジェンデストロイヤーの製法と共に海底に沈んでいったのです。



黒地に白文字でゴジラとタイトルが出て、スタッフ、キャストが横書きで縦に流れていきます。ゴジラの咆哮が聞こえた後、伊福部昭によるゴジラのテーマがかかります。もとは、バイオリン協奏曲の中で聞かれる旋律ではあるのですが、この映画を特徴づける大変インパクトがありました。また、この映画はモノクロでして、今観たとき、映画から受ける印象の半分くらいはモノクロだからこそというところがあります。

オープニングは貨物船の遭難から始まるのですが、テンポがあって、しかもリアル。救出に向かった船も消息を絶ち、船員の家族がかけつけるシーンなど、今のゴジラ映画では絶対見せてくれない人間からの視点がきちんと描写されています。大戸島で火をたいて、船を気遣う島民たちのところに流れついた船員たちという展開から、嵐の夜に何かが島を襲うシーンのサスペンス。海や嵐といった水が絡むミニチュア特撮シーンは決して上手とは言えないのですが、ドラマの中では、問答無用の迫力で迫ってきます。

そして、調査団が大戸島に乗り込むことになるのですが、その前にこの映画のタイトルトップの宝田明演じる尾形と恵美子の登場シーンがあります。どうやら二人は恋仲らしいという設定もここで示されます。

そして、ゴジラが初めて姿を現すシーンから、対策本部へとドラマは展開し、ゴジラは核実験により眠りを覚まされた怪獣ではないかということになります。大戸島陳情団が登場したり、大作という印象はないのですが、細やかな描写が光る演出になっています。村田武雄、本多猪四郎による脚本の功績もあるのでしょうが、本多猪四郎の演出が光っています。

とうとう、ゴジラが東京に上陸するのですが、ここも他のゴジラ映画にはないリアルで怖い描写が続きます。東京大空襲をイメージしているという説もあるのですが、そういうことを一切知らない私でも十分に怖がることのできるシーンになっていました。印象的なシーンを挙げてみますと、逃げる人々にゴジラの放射能火炎が吐きかけられるところ、逃げ場を失った親子が「もうすぐおとうちゃんのところへ行くのよ」のシーン、人が隠れている地下道の上にビルの瓦礫が降ってくるところ、テレビ塔の上で実況中継をしているところへゴジラが現れタワーを倒すシーンのアナウンサーの絶叫。これらのシーンはよくバラエティ番組で「ゴジラ」という映画を紹介するときに、そのシーンだけ切り出して見せられることがありますが、そこだけ見ると笑いが出てしまうことが多いです。確かにオーバーアクトにも見えるシーンが笑えてしまうのは、さもありなんとも思うのですが、実際に映画館の暗い中で見せられると、これが怖くて腹に応える出来栄えなのです。この他にも路地に倒れこむように逃げ込む人々の後ろをゴジラが歩くというカットもあって、人間の生活がゴジラによって蹂躙されるというシーンがリアルなスペクタクルとして描かれています。

海へ逃れようとするゴジラにジェット機による攻撃が始まります。隅田川を渡って避難していた人々から、ジェット機に声がかかります。これでゴジラが倒せるかと思いきや、ゴジラは攻撃をものともせずに悠々と海に逃れます。ここまでのゴジラ東京上陸シーンは特撮の最大の見せ場になっているのですが、ゴジラを立てながらも、人間側の描き方も丁寧に見せて、東京が怪物に蹂躙される様をファンタジーでなく、リアルにヘビーに描くことに成功しています。ゴジラが去った後、被災者の少女から放射能反応が出るシーンをそっと織り込んであるところや、避難病院の描写など、くどくならない演出がリアリティを感じさせるドラマを支えています。

当時の批評で、「ゴジラ」はSFなのにやたらと辛気臭くて夢が感じられないというものがあったそうです。確かにその評は正しいけれど、的を外しているように思います。もともと、古代の怪獣が核実験によってよみがえり、都市を破壊して、最後に核兵器をしのぐ超兵器によって倒されるお話です。この物語にSF的な味わいがあるとすれば、後半に登場する超兵器とそれによる怪獣退治にあるのですが、この部分で超兵器を否定的に描いているので、怪獣退治によるカタルシスはこの映画にはないのです。超兵器を実在する核兵器とオーバーラップさせ、その発明者の博士がゴジラと超兵器と心中するというストーリーは、ファンタジーというより反核映画のそれに近いものがあります。その一方で怪獣の都市破壊というスペクタクルを見せて娯楽映画としての工夫も凝らされているというところが、この映画の立ち位置ではないかしら。

ドラマとしての見せ場は、恵美子が芹沢にオキシジェンデストロイヤーの使用を説得するシーンです。自分は核兵器以上のものを発明したと悩んでいる彼に、ゴジラによる惨状を訴えるシーン、丁度その時、テレビで犠牲者の鎮魂のための歌を女学生が歌っているという出来すぎ展開もあって、彼は一度だけの使用を決意します。今、「出来すぎ」という言葉を使いましたけど、ドラマのテンションが高いので、観ている方は、実際は「出来すぎ」を感じずにドラマに引き込まれるようになっています。

そして、ゴジラ退治のクライマックスになるのですが、これがはっきり言って地味です。海底にいるゴジラに潜水服で近づいてオキシジェンデストロイヤーを仕掛けるというものですが、ここで盛り上げないのが、SFらしからぬ展開と言えますし、反核映画の部分を語りきった後のエピローグだということもできます。最後の「このゴジラが最後のゴジラとは思えない」というセリフは、続編への種まきという見方もできますが、核実験や兵器競争がまだ続いていくというメタファーとも言えます。

テレビ番組で、数カット見ただけでは、この映画の全貌はわからないと思います。何しろ、怪獣映画というジャンルが成り立つ前に作られた映画なので、定番とかパターンがないので、今の怪獣映画よりも自由に作られている映画だと思います。そして、これ以降に作られた怪獣映画で「ゴジラ」のパターンをもとに作られている映画がないってのも面白いところです。怪獣映画のパターンを盛り込んだオリジナルは続編「ゴジラの逆襲」でして、そのパターンは「キングコング対ゴジラ」で確かなものになったのだと思います。それだけに、「ゴジラ」はシリーズ番外編とも言うべき内容の映画に思えてしまうのでした。

「乱気流 グランドコントロール」にたまたま入って大泣きさせられました

ちょっと昔の映画ですが、「24」でおなじみのキーファー・サザーランドが意外にもいい人を演じた映画がありました。1998年、銀座シネパトス2で観た「乱気流 グランド・コントロール」がそれです。今は亡き松竹セントラルで「ウィっシュマスター」というゲテ物映画を観た後、ちょうど時間が合ってたので入ったのですが、これが大当たりでした。

過去に自分のミスで航空機の事故を起こしたことのあるジャック(キーファー・サザーランド)が、大晦日のフェニックス空港に是非手伝って欲しいと頼まれ、しぶしぶながら航空管制官としての仕事に出向きます。レーダーを画面を見ると事故の時の記憶がよみがえるジャック。でもその日の管制官室は、研修明けの新人まで管制業務にかりだされるほどの人手不足状態。さらに電源が落ちたり、ストレスで切れちゃう管制官が出ちゃうなどのトラブル続き、果たして無事に新年を迎えられるのでしょうか。

もとはテレビムービーらしいのですが、日本では劇場公開(と言っても銀座シネパトスなんですが)された一品でして、予算はあまりかけらないのか、ドラマはほとんど航空管制室で展開します。ここで言う航空管制官というのは、空港の周辺の空の整理屋みたいなもので、旅客機の高度や方位を修正させつつ、着陸順に並べて、誘導し、実際の着陸については、管制塔に制御を渡すという仕事のようです。大変なプレッシャーにさらされる仕事です。その上、この夜は飛行機がラッシュ状態です。

監督のリチャード・ハワードは、そのあわただしい航空管制室の一晩を細かいところまで気を配った演出を見せ、時に対立し、時に協力しあう航空管制官たちの姿を控えめだけど、リアリティのある演出で見せています。管制室にベテラン(ブルース・マクギル)中堅(ロバート・ショーン・レナード)新人(クリスティ・スワンソン)そして新任チーフ(ケリー・マクギリス)という面々をそろえて、キチンとキャクターが与えられているのに感心してしまいます。

ジャックは最初は不安で仕方なかったのが、だんだんと昔の調子を取り戻してきます。新人と何となくいい感じで恋愛未満を演じたり、中堅管制官と対立したりもしますが、彼も自信を取り戻していきます。しかし、最後に管制した旅客機が行方不明になってしまい、彼に過去の悪夢がよみがえってきます。ここで管制官が色々な形でジャックをサポートするのが泣かせます。特にジャックがブライドと自分への不信に葛藤するところが、ぐっとくるものがありました。管制室のみんなが、彼の誘導が間違っていないようにと願っているところにもホロリとさせられました。

この映画を取り上げたのは、その頃に一番泣かされた映画だからです。キーファー・サザーランドがやさしさと不安を抱えた主人公を熱演していまして、そこがまた泣かせるのですよ。脇役に悪人を設定していないところが、またリアリティを運んでくるという展開が見事でした。地味な公開で、お金もかかっているようなところはないのですが、映画としての満足感の高い映画でした。一部では「グラコン」の略称で評判になっていた映画です。

[ラスト・レター」は美しい絵と音楽とヒロインにひたれます。

若い頃は今ほど涙もろくなかったのですが、それでもホロリとさせる映画はありました。1981年に観た「ラストレター」もそんな一本です。静岡ミラノ(現ミラノ1)で、「クリスタル殺人事件」の添え物の扱いでした。

山の中の障害のある子供たちの施設に新しい教師として赴任したヒロイン(デボラ・ラフィン)は、子供たちとすぐに仲良くなります。しかし、いつも一人でいる車椅子の少女(ダイアン・レイン)に気付いたヒロインは彼女から少女に語りかけるようになります。そして少女がプレスリーのファンだと知って、ファンレターを書くように勧めます。でも、返事がなかなか来なくて、「あー、悪いこと言っちゃったかな」と思うヒロインなのですが、....というお話です。

この映画、ラジー賞の脚本賞と主演賞をとっているのですが、そんなの関係なく、この映画は大好きです。まず、ヒロインのデボラ・ラフィンがきれい。泣きそうになる顔がまた絶品(←言い方下品)で、透明感のある美しさが、バックの自然とうまくマッチします。ダイアン・レインはまだ十代前半だろうと思うのですが、障害のある子供を地味に演じています。

この映画は、ぶっちゃけ死病映画なんですが、それを感じさせない展開が見事なのです。彼女が施設の子供たちと打ち解けるあたりも、ごく自然でした。また、厳しい院長、やさしい先輩教師、人懐っこい同僚教師といった脇役がヒロインを暖かく見守るポジションを好演していて、みんな好感度大なんですよ。

プレスリーファンの少女に、ファンレターを書かせるのですが、返事はなかなか来ません。そこでもドラマチックな展開は一切ありません。プレスリー側の人間を描くこともできたのに、ドラマを山の中の施設に限定しています。また、ヒロインに好意を抱く先輩教師のエピソードをふくらますこともできたのに、あくまで、大自然をバックに、ヒロインと少女だけの映画にしているのがいさぎよい演出だと思いました。監督のガス・トリニコスはよく知らないのですが、ひたすら二人のドラマにこだわった演出で、悪く言えば善意の人間ばかりのきれい事の映画だとも言えるのですが、それを勝る美しさを感じさせる映画に仕上げています。リチャード・H・クラインの撮影、ジョン・バリーの音楽がまた美しく画面をささえ、死病映画なのに、死病映画のお約束を全てとっぱらって、ひたすら美しい映画に仕上げたのです。心の洗濯になる映画もまた珍しいです。観る人によっては、上っ面だけの中身のないドラマだと思われるかもしれないのですが、私は見事にはまってしまいました。

たまにはこういうのに当たりたいなと思わせる映画でした。

「クラス・オブ・1994」は、痛快SFバイオレンス映画、かな?

1990年の作品で「クラス・オブ・1999」と言う映画を横浜の相鉄ムービル4で観ました。この頃になると大きな映画館のほとんどにドルビーステレオの装置が設置されていました。

この映画は「処刑教室」という学園バイオレンスドラマの続編にあたります。前作はあまりの非行生徒に我慢ならなくなった教師が逆襲に出て皆殺しにしちゃうという、ある意味、痛快アクション映画でした。でも、物語そのものは前作とはつながっておらず、前作よりもさらに暴力がエスカレートしている学校が舞台というところだけつながっています。

1999年、高校の周りは無差別発砲地区になっていて、校内も荒れ放題。そんな高校に3人の新任教師がやってきます。この教師たち、校長が呼び寄せたロボット教師で、体中に武器を仕込んでいたのです。不良グループは次々に血祭りにあげられ、はぐれ狼の主人公は生き残った不良たちと一緒にロボットと戦うのですが、果たして勝ち目はあるのか?

前作の「処刑教室」の原題は「Class of 1984」でして、この前作では、教師が善玉で生徒が悪者、でも最後は先生堪忍袋の緒が切れちゃって、大逆襲という展開だったのですが、1999年になると、もう生徒も先生も悪党揃いで、悪玉同士の大戦争になっちゃいます。1984年はまだリアルな学園ものバイオレンスという趣もあったのですが、今回は、機関銃などを体内にしこんだ重装備殺人ロボット教師が生徒を殺しまくるという、もうSFバイオレンスになっちゃています。そして、バイオレンスの部分がさらにショーアップされているのですよ。まあ、一応、不良グループが非道な教師に立ち向かうという設定ではあるんですが、正直言って、「どっちもやれやれ」状態で、子供の頃不良にビクビクしていた私としては、ロボット教師に肩入れしながら観てしまいました。どんどん、暴力がエスカレートするのが妙に興奮させる映画なのです。クライマックスは「ターミネーター」をパクッていて、骨組みだけのロボットが追いかけてくるというサービスぶりです。

また、脇役が意外に豪華で、校長がマルコム・マクダウェル、ロボット設計の責任者ステーシー・キーチ、殺人ロボットの一人がパム・グリアで、校長が敵役の総元締めかと思いきや、設計責任者のほうが余計目に狂っているってのが、意外性もありました。

もちろんB級ではあるのですが、派手な爆発、アクション、血糊と見せ場を連ねて飽きさせない面白さは、監督のマーク・L・レスターによるものでしょう。この人「小さな恋のメロディ」のマーク・レスターとは全然別人なのですが、前作「処刑教室」や「コマンドー」「炎の少女チャーリー」などで娯楽映画職人の腕を見せてきた人で、この映画でも、ムチャクチャな設定、展開をきっちり娯楽映画として楽しませることに成功しています。まあ、大人目線だと、クソガキどもを皆殺しという痛快アクション映画になりますし、最後は主人公の生徒が勝つから、少年ヒーローものという見方もできるという、うまく考えた映画だと思いました。同じ、学園バイオレンスでも「バトル・ロワイヤル」は設定が胸くそ悪くて大嫌い(なので未見)なのですが、こっちの方は楽しめてしまうのでした。

「地獄のモーテル」はブラックコメディ風変態ホラー

80年台というのは、結構ホラー映画が公開されていまして、ホラーブームとか呼ばれていたのですが、基本的には「13日の金曜日」タイプの連続殺人鬼モノが多かったです。生意気な若者が犠牲者になるというのもお定まりのパターン。そんな中でもへんてこだったのが、この「地獄のモーテル」でした。私は、この映画、千葉県は本八幡駅前にあったビルの中の小さな映画館、八幡シネマ1で観ました。

アメリカは田舎町にあるモーテルHelloでは自家製ベーコン、ハムが評判でした。しかし、そのベーコンの材料は人の肉だったのです。モーテルの主人とその妹は、その町を通りがかる人をつかまえて土の中に埋めて、食べ頃になると刈り取りをしていたのです。しかし、主人の弟である保安官が不審を抱いて調査を始めるのですが.....

この映画を紹介するとき、ホラーものかカニバリズム(「食人族」の類)ものか微妙になっている本を見かけるのですが、直接の人食いシーンはありませんし、人の肉はさばいた後の肉塊がロングでちょっとだけ見えるだけですから、カニバリズムというよりは、ブラックコメディ風変態ホラー映画というのがふさわしいと思います。

この当時「恐竜の島」「地底王国」「アトランティス7つの海底都市」といったB級特撮ファンタジーを演出していたケビン・コナーが監督しています。実際にあったらかなり怖い話なんですが、映画の中身はどこかのどかでコミカルです。モーテルの主人の妹がデブで甘いもの食べまくりの変なキャラだったり、主人と保安官で恋のさやあてをしたりという具合です。しかし、中盤以降に出てくる人間牧場の描写は結構怖いものありました。畑の中にいくつもの布袋がありまして、それがモソモソと動いているのです。そして、袋を外すと声帯を切られた人間の頭が現れて出せない声で「ガアガア」言うのですよ。文字とおりの人間ペキンダックというわけで、さらに変な光で催眠状態にして畑から引っこ抜くという場面もあり、かなり悪趣味な見せ場になっているのです。

そして、最後は、チェーンソーを使った殺し合いになるのですが、その時、片方が豚の仮面を被っていたりして、これもどこかおかしいんですが、モーテルの主人がラストでまた変なこと言うので、笑っていいのか悪いのかという気分にさせられます。

とはいえ、こんなストーリーをそこそこ面白い映画にまとめたコナーの演出は評価されていいと思います。直接描写が少ない分、想像させるグロになっているのは、映画としてうまくできてると思いましたし、後にも先にもこれと似た映画はないという意味でも面白いです。実際、旅人がへんな町に迷い込んで酷い目に遭うというのはよくある設定なんですが、それを酷い目に遭わせる方を主人公にしているという点が面白さのポイントなのではないかしら。グロが行き着く先で笑いをとるのではなくて、登場人物がおかしくて笑いを取っているという点でも、なかなか類似品がないのですよ。

「ある日どこかで」はすごくロマンチックな映画です

「アイ・アム・レジェンド」の原作者リチャード・マシスンが、原作・脚色を担当した「ある日どこかで」を静岡ミラノ(現在の静岡ミラノ1)で観ました。同時上映は、オリビア・ニュートン・ジョン主演の「ザナドゥ」でした。

これは知る人ぞ知る、恋愛映画の一本なんですが、ただの恋愛映画ではありません。主人公(クリストファー・リーブ)を謎の老女と出会います。そして、気晴らしのために宿泊したホテルでそのホテルのギャラリーに展示されていた1枚の写真に目を魅かれます。かつて、このホテルを訪れた女優なのだそうです。そしてつかれたように彼女をことを調べ始めるうちに、60年前の宿帳に自分の名前を発見するにあたって、主人公はある仮説にとりつかれ、この仮説を実現してしまうのです。

彼は彼女に時空を飛んで逢いに行ってしまうのです。おー、タイムスリップものかと思う間もなく、60年前の世界に飛んだ主人公は、彼女と出会い、彼女もそれを運命の出会いと感じます。そして束の間の愛しあう時間があって、ある偶然が二人を引き離してしまうのです。現在に戻された彼はそのまま彼女を思いながら命を燃え尽きさせ、過去に取り残されたヒロインは悲劇女優として名を成すことになり、最後で二人は天国で結ばれるというお話です。



この先はネタばれがありますのでご注意ください。



この映画は恋愛ドラマとしてのテンション高いのですが、それよりも、過去へ旅立つための方法がとんでもなくロマンチックな方法でした。私は、その時間旅行の方にロマンを感じてしまいました。

過去へ旅立つためにすることは、上から下まで60年前のものをそろえて、それらを身に着けてベッドに横たわること。それだけで過去へ行けるというのは、これまでのタイムマシンというのとは概念が全く異なる、大変ロマンチックな時間旅行です。このやり方で過去へ行くことに成功するのですが、ズボンのポケットに現代のコインを持って行ってしまいます。主人公がそれに気付いたとき、彼は現代へと引き戻されてしまいます。思わず「あーっ」といってしまうショックシーンなのですが、そこから、この時間旅行は道具ではなく信じる心で成り立っているということがわかって余計目に泣ける設定になっているのです。

恋愛映画の部分が運命的な恋という感じで当時学生だった私にはピンと来なかったのですが、この時間旅行の方法には、なんかいいなあって思わせるものがありました。こんなロマンチックな時間旅行は他で見たことないですもん。この映画、二人の純愛、美しい音楽(作曲ジョン・バリー)とかが話題になったのですが、もう一つ注目したいポイントがこの時間旅行だと思いました。

「夕暮れでベルが鳴る」はリメイク版とはかなり違う

昨年公開された「ストレンジャー・コール」の元ネタとなっている「夕暮れにベルが鳴る」は、1981年の公開で、私は、まだ東京楽天地があったころの江東リッツで鑑賞しました。かなり大きめの映画館でしたけど、私が観に行く映画のときはいつもガラガラでした。

オープニングは、子守をしているヒロイン(キャロル・ケイン)のところに「子供の様子を見たかい」という電話がかかってきます。それが何度もかけてくるので、ヒロインが不審に思って警察へ電話すると「それは、家の二階からかかっている、すぐに逃げろ」と言ってきます。その時すでに2階の子供は惨殺されていました。ヒロインは外に逃げ出して無事であり、犯人は逮捕されます。ここまでの冒頭部10分を1時間半に広げたのが「ストレンジャー・コール」です。

ヒロインをすんでのところで助けた刑事(チャールズ・ダーニング)は7年後に私立探偵を開業していたのですが、惨殺事件の犯人が精神病院を脱走したと知り、犯行の再発を止めるために、彼を殺そうと追跡を始めます。一方の犯人は行くアテもなく、救世軍の世話になったり、娼婦の家に転がり込んだり、ミジメな中年男にしか見えないのです。そして、ヒロインは結婚していて2児の母になっているのですが、犯人は再びヒロインの家を狙ってやってきます。

この映画は、冒頭のインパクトの後、逃げ回る犯人とそれを追う探偵のドラマがかなりあったように記憶してます。ヒロインよりも、チャールズ・ダーニング扮する探偵が錐を持って、犯人を追い詰めていく件の方が印象に残っています。脚本・監督のフレッド・ウォルトンはこれ以降の評判は聞かないのですが、この作品は、オープニングをサスペンスフルにまとめ、中半は登場人物のキャラをうまく見せて、ラストでまた冒頭の再現になるのかというサスペンスをつなぎます。

当時はこういうノースター、ローバジェットの映画が映画館チェーンの枠で拡大公開されていました。この映画はその中でよく出来た面白い映画だったのですが、あまりヒットはしていないのが残念です。批評的にはあまりよくなかったのですが、私は好きな映画です。

「オーメン」は怖い娯楽映画でした

「オーメン」を劇場で観たのは中学生の時で、朝8時半の回をねらっていったのですが、既に静岡オリオン座の前には長い行列ができていました。

アメリカ大使のロバート・ソーン(グレゴリー・ペック)は、妻(リー・レミック)が死産した子供の代わりに養子をとります。その子ダミアンがすくすく成長するにつれて彼の周囲で様々な事件が発生し、ロバートはダミアンの出生の秘密を探り始めるというお話です。とびっきり怖い映画というのではないのですが、展開の面白さに引っ張られて最後まで一気に見せられてしまいました。リチャード・ドナーの演出は見せ場を押さえて、職人芸的なうまさを見せて、恐怖の見せ場をうまく割り振って、退屈させません。悪魔の聖歌隊というべきジェリー・ゴールドスミスの音楽も素晴らしかったです。

物語としての面白さは脚本によるところ大でしょう。脚本のデヴィッド・セルツァーは、「ルーカスの初恋メモリー」の脚本・監督を担当した人ですが、黙示録や666といったアイテムを示しながらも、明確に悪魔の正体を見せずに、破滅へ向けての予兆という位置づけで恐怖シーンをつないでいるのがうまいと思いました。キャスティングからすれば、地味なスリラーかと思われる題材を恐怖の見せ場をつないで見せた、というのが画期的だったと思います。とはいえ、画面は沈んだ色調でまとめられていて、ギルバート・テイラーの撮影が見事でした。全体に寒々とした空気が画面から伝わってくるのもテイラーの功績と言えましょう。また、グレゴリー・ペック以下の俳優陣もみな適役適所でして、主人公と一緒に謎を追うカメラマン役のデビッド・ワーナー、ソーン家の乳母になるビリー・ホワイトローが映画の怖さに一役買っています。

「エクソシスト」で日本でも、オカルトブームが盛り上がり、その勢いに乗る形で公開された映画ですが、内容的には、手堅い娯楽映画に仕上がっていまして、そのタイトルが、西川のりおのギャグになっていたことも記憶にあります。また、当時のテレビで映画のシーンが紹介されることが多かったのですが、その紹介番組で一番の見せ場を見せてしまっていたので、驚いた記憶があります。テレビで映画のCMを積極的に流すようになってきた頃でして、そのTVスポットが大変よくできていまして、まさにそそるCMになっていました。

このころの静岡では、まだ2本立てが普通だったので、この映画にも同時上映がついてました。それは、ジェームズ・コバーン主演の「スカイ・ライダーズ」というハングライダーを使った冒険アクションでした。こっちは、まあまあの出来だったという記憶しかないです。

「ブレードランナー」ってそんなすごい映画なのかしら

最近の映画ではなく、昔観た映画の記憶を書き留めていきたいと思います。

「ブレードランナー」は私が大学生だったころに公開された映画で、評判は高かったのですが、あまり食指が動かなくて、その後出たビデオをレンタルして鑑賞しました。レンタル料が800円くらいしていた時代です。

オープニングはまず時代設定を説明する字幕が出て、その後、ブレードランナーであるデッカード(ハリソン・フォード)のモノローグで物語が始まります。脱走した4体のレプリカントを追っていくという話なんですが、ラスト、最後の一人ロイ(ルトガー・ハウアー)と対決するシーンが素晴らしいという評判でした。でも、私の観た印象では、女性レプリカントを容赦なく殺すデッカードのハードボイルドタッチの方が印象に残りまして、ラストの理屈っぽいのは、どーもなあ...って気分でした。確かに美術や視覚効果は素晴らしいと思いましたし、追跡シーンも迫力あったのですが、それだけでは、並のSFアクションだよなあ。でも、当時はこういうSF映画はなかったので、先駆者としての価値は十分あると思いました。

それから10年後「ブレードランナー ディレクターズカット 最終版」という映画が劇場公開されました。今度は劇場で観ようと、今は亡き銀座セントラルへと足を運びました。中身はオリジナルと大きな違いはなかった(私の尺度では)のですが、オープニングのデッカートのモノローグがなくなっているのと、ラストの飛行シーンが、黒地に白文字のシンプルなエンドクレジットになっていたくらいが相違点と言えそうでした。実際に最終版を観た感じでは、やはり女性レプリカントが殺されるシーンの方が印象強くて、特に雑踏の中で射殺されるジョアナ・キャシディ扮するレプリカントがインパクトありました。ラストのロイとの対決は何だかグズグズしているようで「ふーん」てな感じでした。一方、大画面で観るSFXは見事でして、手の込んだ美術も含めて、映画館で鑑賞するための絵になっていまして、視覚的には大満足でした。

そして、昨年、「ブレードランナー製作25周年記念 アルティメット・コレクターズ・エディション」という5枚組のDVDが発売されましたが、その中には、何と5バージョンの「ブレード・ランナー」が収録されているというのでビックリ。特に買う気も起こらなかったのですが、ちょっとだけ違う5バージョンを買って観る人がいるのかなあって気がしてしまいました。買う人よりも、売る方がいい度胸していると言うべきでしょうか。最初のオリジナルを劇場まで足を運んでくれた観客に対してずいぶんと失礼な話じゃないかと思ってしまいました。

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Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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