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乗り切れなくて歯痒い「スーパーマン・リターンズ」

実家の静岡の映画館、静岡オリオン座にて「スーパーマン・リターンズ」を観てきました。静岡で最大の映画館で、天井も高く、その昔は900席だったのを600席まで減らして、前後左右ゆったりと鑑賞できるようになっており、傾斜も十分で大作を観るならここで、という気分になる昔ながらの映画館です。地方都市でこれだけの規模の映画館が生き残るのは大変なことだと思いますが、シネコンなんかに負けないで頑張って欲しいと思います。

5年間、宇宙をさまよったスーパーマン(ブランドン・ラウス)が地球に帰ってきました。その5年の間にロイス(ケイト・ボズワース)は1児の母となっており、恋人と一緒に暮らしていて、クラークとしてはちょっとがっかり。でも、ロイスは何だかスーパーマンに未練があるみたい。一方、レックス・ルーサー(ケビン・スペイシー)は老富豪夫人を騙して資金を調達し、また新しい悪だくみにとりかかります。また正義の活動を開始したスーパーマンですが、果たしてルーサーの陰謀を阻止することができるのでしょうか。そして、スーパーマンとロイスは再び結ばれる日が来るのでしょうか。

「ユージュアル・サスペクツ」と「X-MEN」などで知られるブライアン・シンガーが「スーパーマン」の新作を監督しました。この人「ユージュアル・サスペクツ」や「ゴールデン・ボーイ」などで切れ味の鋭い小品で力量を見せるタイプかと思っていたら「X-MEN」を手がけて、ハイバジェットのコミックの映画化でも成功したというすごい人(だと思ってます)です。今回は、1980年の「スーパーマン2冒険編」の続編という設定ですが、善と悪の闘いをコミカルなエンターテイメントに仕上げたリチャード・レスター作品よりも、その前作である、リチャード・ドナーの「スーパーマン」のタッチに近いものがありました。ただし、全体をスーパーヒーローの再現にまとめたドナーの作品とは味わいはかなり異なります。

今回のスーパーマンは、楽しい娯楽編というよりは、スーパーマンとロイスの恋愛ドラマ、それもかなりひねくれた展開を見せます。その根底には、「X-MEN」で見せた「超能力=異形のパワーを持つ者の苦悩」というものがあるようです。スーパーマンを突き抜けたスーパーな存在ではなく、クラーク・ケントでないスーパーマンの人格を描いているのですが、私はこの展開にはのりきれませんでした。そこまで悩んだ割には映画は明確なカタルシスを提示せず、何となく続編への布石ばかりが目につくので、一本の娯楽映画を見終えたという気分にならないのです。もう少し、感情移入できるキャラがいればよかったのですが、誰もが中途半端に善人にも悪人にも徹しきれず、特にスーパーヒーローのファムファタールになっちゃったロイスには正直言って引いてしまいました。「こいつは何を考えとんねん?」と突っ込み入れたくなるような、魔性の女なんですもの。ところが、ケイト・ボズワースが普通のキャリアウーマンみたいな演技をするので、どうもしっくりときませんでした。

そんな乗り切れないドラマなんですが、シンガーの演出がうまいのか、2時間半を退屈しないで楽しむことができました。視覚的な見せ場も今イチなのになぜなのかなあって不思議に感じてしまいました。前作には、空を飛ぶってことが映像的な興奮を運んできたのですが、今回のスーパーマンの飛行シーンには飛ぶことそれ自体で興奮を呼ぶことはありませんでした。SFXの進歩が飛行シーンくらいでは視覚的興奮を呼ばなくなったのは確かにあるかもしれませんが、それだけではなさそうで、見せ場の飛行シーンのスピード感は素晴らしいものがあるのに、空を飛ぶこと自体の優雅さがないのですよ。例えば、ヒロインとスーパーマンが抱き合うと、いつの間にか空を飛んでましたっていう演出からして、この監督は空を飛ぶヒーローの快感には興味がないようです。

音楽は、オリジナルスコアはジョン・オットマンが担当していますが、前作のジョン・ウィリアムスのテーマを大幅に使っています。オープニングは昔のスリットスキャンの文字を再現したタイトルに、ジョン・ウィリアムスのテーマをフルに聞かせてくれたのですが、音楽に華がないのが気になりました。ボリュームを絞っているのか、オケに厚みがないのか、とにかくスコアは明らかにウィリアムスのそれなのに音楽の押し出しが弱いのが残念でした。

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「ユナイテッド93」は問題作と思って観ることをオススメ

今回は、自分ではホームグラウンドだと勝手に思い込んでいる藤沢はキネマ88にて「ユナイテッド93」を観ました。ここは、ちょっと変わったつくりの映画館で、ミニシアターっぽいけど、幕が開くと意外とスクリーンでかいじゃんというところです。座席の前後の隙間も比較的広くて観やすい映画館。

2001年9月11日、アメリカで同時にハイジャックされた旅客機がNYの貿易センタービルに突っ込み、また一機がペンタゴンに突っ込みました。その時、もう一機の旅客機ユナイテッド航空93便もハイジャックされ、ワシントンに向かって飛行していました。NYの惨状は電話によって、乗客にも知らされていたようです。そして、乗客たちは、ハイジャック犯に反撃にでます。そして、ユナイテッド93便は都市部の入る前に墜落し、乗客全員死亡という痛ましい結果となったのでした。

これは、かなりの問題作です。まず、飛行機の中で起こったことは想像によるもので、その根拠としては、機内の人員や乗客との電話などがあります。一方、航空局、軍、航空管制室などの動きはかなりリアルに再現され、その場にいた当事者の何人かは自分自身の役を演じているのです。つまり、想像に頼る部分と、かなり緻密な再現ドラマを組み合わせているのです。そして、この映画は全体がまるで事実を描いた再現ドラマのような見せ方をしています。やたらと揺れるカメラはまるで現場で撮影しているような臨場感を伝えてきますし、この映画の仕掛けを知らない人が観たら、実録映画だと思ってしまうかもしれません。でも、全員死んだはずの乗客や乗務員、そして機内の犯人の行動がどうやってわかったのかと考えれば、そこに創作が入っていることは間違いないのです。でも、ボケーっと観てると騙される、そこがこの映画が問題作である理由です。特に機内の会話は、台本よりは演技者に即興で言わせた部分もかなりあるらしいのですが、その即興の一言にまるで事実のような重みを感じてしまったら、それはやはり騙されているということになると思います。

戦艦大和の映画なら、そこに描かれることが創作によるドラマであることは大体の人は気付くでしょうけど、この映画がどこまでが事実でどこからが創作なのか、その境目がよくわかりません。映画は特定の誰かに寄り添うことなく、起きている事態を淡々と追っていきます。ドラマを排した展開は大変リアルではあるのですが、本当に乗客はハイジャック犯に反乱を起こして、操縦桿の奪い合いをしたのか、そして、それは美談となりえるのか、その辺のところがよくわからないのです。ただし、一方で、軍にせよ航空局にせよ、何が起こっているのかを把握できなくて、ずーっとドタバタしているだけというのが描かれます。こっちは多分、本当のことなんだろうなと思わせるリアリティがあります。でも、ここに創作が入る余地は? そう考えるとこの映画、どこを真に受けてよいかわからなくなってくるのです。ラストの字幕で、軍の危機管理に苦言を呈してるのですが、そこが言いたいところだったのかとも思えてしまう映画だったのです。

さて、ハイジャックを描いたサスペンスものとしては、前半から中盤にかけては出色の面白さと言えます。飛行機に乗り込んだ犯人がいつ行動を起こすのかというサスペンスと並行して、他の機のハイジャックの状況が刻々と描かれ、関係部署がまるで状況がつかめないままオタオタしていると、世界貿易センタービルに飛行機が突っ込んでしまう。それを見つめる管制室のメンバー、航空局では、CNNの画面を見つめて、でも、何が起こっているのか、突っ込んだのは旅客機なのかどうかも確認できないでいる、そういった緊迫感のあるシーンの連続が映画的な興奮をもたらすのです。そして、後半は舞台がユナイテッド93便に固定され、ハイジャックされた後の極限状況が描かれます。このあたりまで来ると、観てる方もテンションが上がってしまって、結末がわかっているはずなのに、乗客を応援しちゃっています。つまり、サスペンスものとして大変面白くできているのです。

エンターテイメントとして大変面白く作ってあることに文句をつけることはできないですし、映画館で観るのなら、娯楽性は大変重要な要素です。ただし、面白いことが余計目に問題作としての側面を強めてしまうのは皮肉です。ハイジャック犯はコーランを唱えながら飛行機を目標に突っ込ませようとしますから、反イスラムのプロパガンダと思えてしまいますし、何の為の自爆テロかも映画の中では触れられませんから、単なるハイジャック犯以上のものには描かれていません。一方で、勇敢な乗客というコントラストは正直言って引いてしまうところがありました。そんな風に美化できる話ではないだろうに。ただ、ラストで危機管理不足に言及した字幕出ることで、脚本、監督はポール・グリーングラスは事件の美談化に名を借りて、国家防衛のもろさを書き残そうとしたのかな、とも思ってしまいました。ともあれ、この映画は推測も含めた虚実を取り混ぜた再現フィルムであり、ドキュメンタリーっぽい見せ方を拡大解釈すれば一種のフェイクドキュメンタリーということもできます。観る方がきちんと頭を整理して観なければならない映画であり、問題作という予備知識をもって臨んだほうがよいと思った次第です。

音楽のジョン・パウエルが前半のサスペンスに徹した環境音楽風の音で点数を稼ぎました。また、エンドクレジットで、この映画のほとんどがロンドンのパインウッド撮影所で撮影されたと出ました。アメリカ国内で撮影するのに何か問題あったのかなとも思ってしまいました。(単に安くあげるためにロンドンで撮影したのかもしれませんけど。)

「ザ・フォッグ」怖いか面白いか、どっちかはやってよ

またまた、新作です。渋谷のシアターNという最近できた映画館で「ザ・フォッグ」を観てきました。ビルの2階にある104席と72席の小さな映画館なんですが、残念ながら、スクリーン位置が低くて、前に誰かが座ったら、スクリーンが欠けてしまうような今風でない映画館。観客全員が後ろの人に気を使わないとかなりイライラしそう。とにかく、ベストポジションのない映画館ってのは珍しいです。

港町、アントニオ・ベイでは、かつての町の功労者4人の銅像の除幕式を迎えてにぎわってます。ある夜のこと、不気味な霧が海から迫ってきました。釣り船で楽しんでいた4人の男女が何者かに襲われ3人が死亡。生き残った男は霧が人を殺したといいます。ニューヨークからこの町に帰ってきたエリザベス(マギー・グレイス)はこのところ妙な夢にうなされています。そして、霧と殺人とその夢は何か町の創立と関係があるようなのです。19世紀、この町で一体何が起こったのか? そして、今、また何が起ころうとしているのか。霧の中には、怨念が復讐の刃を研いでいたのです。また、夜が来て、町に霧が迫ってきました。

1979年のジョン・カーペンター監督作品「ザ・フォッグ」は、いわゆる怨霊譚を港町、灯台、海からくる霧という要素を組み合わせて、一種ファンタジックに見せたホラー映画の佳作でした。それでも、日本ではヒビヤ有楽座での公開でしたから、ホラーブームの時とは言え、かなり扱いがよかったようです。今回のリメイク版は、カーペンターはプロデューサーにまわり、「スティグマータ聖痕」のルパート・ウェインライントが監督しています。オリジナル版は、かなり無理のあるストーリーを雰囲気で見せきっていたのですが、今回はそこにストーリー性を加えて、謎解きの要素も入れて、因縁話の部分を拡大しています。そのオリジナルからの改変が成功しているかというと、結局もっとわけのわからない話になってしまったという印象でして、これが1週でも全米トップになったというのはとても信じられない出来栄えになってました。

何が弱いかというと、まず絵になるシーンがないということが大きな弱点でしょう。オリジナル版は横長のシネスコ画面に怨霊が並ぶシーンとか、灯台の先のラジオ局へ行く道など、見た目の雰囲気作りに気を使っていたのですが、今回はそういう視覚的な面白さがまるで感じられないのですよ。見た映画館のスクリーンが小さかったからかもしれませんが、霧に囲まれる怖さ、闇の怖さが感じられないのでは、「ザ・フォッグ」の意味がないと思ってしまいます。一番、重要な霧の絵も、ローバジェットのオリジナルの方が怖い見せ方をしてくれました。霧というより異形の入道雲みたいなのがもくもくとやってくるので、神秘性がないのです。これは主観の問題ではあるのですが、雰囲気がないんですよ、霧の神秘みたいな感覚が。

また、今回はある種の謎解きの展開になっていますが、これが、非常にまどろっこしくて、その上、最後は全部を説明しきらないまま終わってしまうというかなりの手抜き。オリジナル版とは違うものを作ろうとする意欲は買いたいのですが、意あって力足らずというのが非常に大きいように思います。ジョン・カーペンターの映画は、マニアックなB級映画という風に思われがちですが、その実、観客を楽しませることができる職人芸に裏打ちされた娯楽映画である点があまり語られないのがいつも不満だったのですが、今回のリメイク版で、カーペンターがいかに娯楽職人であったかが再認識されるのではないかと思います。

特に趣向に工夫の後がないってのは痛いところで、亡霊がCGでわらわらと出てくるところは「パイレーツ・オブ・カリビアン」のパクリ以上のものでなく、また、それなりの意志を持って行動しているようで、そのやってることがムチャクチャなんです。オリジナル版では、怨霊は最初から最後まで理不尽な恐怖という存在でしたから、気にならなかったのですが、今回は、行動に筋道がありそうに見せ過ぎなのです。謎解きを中心にしてしまえば、謎が解けたら「あー、なるほど」という納得を映画の登場人物も観客もしたいところなんですが、それが中途半端なために、怖くもなければ、カタルシスもなく、映画は何となく終わってしまいます。よくわかったようなわからないような結末は脚本、監督ともに狙ったところみたいなんですが、それを面白く見せる力不足と言わざるを得ません。

演技陣に魅力があれば、それなりのドラマを引っ張れるのですが、ヒーロー、ヒロインのトム・ウェリンブとマギー・グレイスはテレビでは人気のある人らしいんですが、単体で映画を引っ張るには線が細すぎて、特にグレイスが運命を背負ったヒロインだというのには納得できません。ごひいきのセルマ・ブレア(実は彼女が出てるからこの映画に足を運んだのですが)が子持ちDJをきっちりと演じきったのが唯一の救いでした。市長とか神父といった脇役にせめてもう少し華を持たせてあげればいいのに、扱いがぞんざいなのも残念でした。また、グレアム・レベルの音楽はオーソドックスなホラー音楽としてそれは悪くないのですが、映画がスカスカなのでハッタリを効かせて欲しいところでした。

映画館で「Respect 川本喜八郎」を観られてラッキー

また、新作(なのかな)なんですが、出張先の京都みなみ会館で「Respect 川本喜八郎」を観てきました。ここは、古い作りの映画館なんですが、番組はミニシアター作品を細かく時間を分けて上映していました。床の傾斜が前に行くほど上がっているという作りなんですが、スクリーン位置が高いので、それほど気になることはありませんでした。

川本喜八郎は人形アニメーション作家として有名な人だそうで、彼の短編作品をまとめて上映するという企画ものです。「アサヒビールCM」「鬼」「道成寺」「火宅」「旅」「セルフポートレート」「いばら姫またはねむり姫」の7本をまとめて上映するというもので、あまり目にする機会のない人形アニメを鑑賞するいい機会となりました。

人形アニメというと、最近では「ウォレスとグルミット」が世界的に有名なのですが、川本喜八郎の新作「死者の書」が公開されたこともあって、彼の作品集を上映しようという企画になったようです。

「アサヒビールCM」は、人形アニメで西部劇を演じて、それをさらに映画の予告編形式にして見せたりするCMです。そういえば子供の頃、アニメによるCMって今よりたくさんあったなあって思い出してしまいました。ミツワ石鹸ですとか、黒子さん白子さん、アンクルトリスなんてのがありましたけど、この作品は1本が長くて、スポットCMとして放映されることは少なかったのではないかと思われますが、そのクオリティはかなり高いものでした。アサヒビールのCMソング「あなたのビール、私のビール...」というのも今聞くと新鮮でした。モノクロ映像や、西部劇というパロディのモトネタから時代を感じさせてしまいますが、CMとしての作りは決して古臭いものではありませんでした。

「鬼」は今昔物語に材をとった、8分の人形アニメです。病に伏せる母親の人生は幼い頃からひたすら悲惨なものでした。夜、息子二人が鹿の罠を仕掛けに出かけます。鹿を待ち伏せしていると、弟が何者かに襲われ、兄が矢を射ると、そこには鬼の腕が残っていました。そして、家に帰ると片腕のない母親が血まみれでのたうちまわって息を引き取るという怪異譚です。兄弟の不思議な歩き方とか、文楽人形のような表情などが印象的でした。母親のまったく救いのない哀れな顔、そして、年を取りすぎた親は鬼になるというあまりな設定が、現代の価値基準では推し量れない重い後味を残します。

「道成寺」は、安珍清姫伝説を、19分の人形アニメにまとめたもので、人形アニメをさらに独特の背景に合成するという手法で、セリフは一切ありません。そのセリフのないのが、ストーリーをわかりにくくしてる部分があるのは事実で、仏像の件などは粗筋を知ってる私でもよく理解できないところがありました。旅の僧に惚れた娘が、僧の心変わり(?)に怒って蛇となって追いかける、道成寺の鐘の中に逃げ込んだ僧、大蛇は鐘に巻きついて炎を放ち、僧は灰となり、娘は人間の姿に戻って日高川に身を投げます。そこまで思いつめるのか、その執念と怨念には、もうお手上げです。人形アニメにした分、大蛇がかわいく見えてしまうところもあるのですが、その大蛇になる前の娘が怖いです。人間が演じたら笑っちゃうかもしれない表情が人形ならではの不気味さで迫ってくるのが圧巻でした。

「火宅」は、能の求塚をベースにした人形アニメでして、これもバックのアニメに人形を合成させるという手法で、独特の世界を作っています。旅の僧が訪れた求塚で、その由来を知ることになるというお話。二人の男に愛された美しい乙女、男たちは彼女を争い、彼女はどちらをも選びかね、そして、ついには乙女は川に身を投げる。その後、二人の男もお互いを刺し違えて死んでしまいます。乙女は死んでからも地獄の業火に苦しめられ続けます。彼女が何も悪いことをしたわけではないのに。旅の僧は、死んだ乙女の霊に招かれるように求塚の前で、一夜の幻を見、乙女の霊を供養するための経をあげるのですが、振り返ると周囲が全て真っ赤に燃え盛っているのでした。ラストもその真っ赤な中を僧が塚を去っていくというもので、残酷で理不尽な運命にいささかの救いも残してくれないのです。観世静夫のナレーションがこのドラマに重みを与えています。「鬼」「道成寺」「火宅」は不条理三部作と呼ばれているのだそうですが、人形で描かれることで、不条理さだけにスポットをあてることに成功しています。技術的な完成度は「火宅」が最も高いのではないかしら。

「旅」は現代を舞台にしたの前衛的きり絵アニメ。私には何だかよくわからなかったですが、よく昔の深夜番組で紹介された短編アニメってこんな感じだったなあって思い出しました。娯楽性はまるでなくて、1970年代の空気が感じられる一編でした。「セルフポートレート」は1分のクレイアニメのお遊びといったところでしょうか。「いばら姫またはねむり姫」は、岸田今日子原作&ナレーションで、チェコとの合作による人形アニメです。母親のかつての恋人と結ばれたヒロインが、それでも結婚して、めでたしめでたしになるというのを、皮肉っぽく描いたもので、セックスが前面に出てくるのがちょっと意外な感じでした。

それぞれの面白さはあるのですが、やはり不条理三部作が見応えがあり、こういう映画を劇場で観ることができてよかったと改めて思いました。テレビの画面でも確かに見ることができるのですが(DVDも出てますので)、やはり劇場で観るのでは、その映像の迫るところ伝わるところが違うと思った次第です。

読書気分で「美しい人」

新作映画です。今回は、渋谷のル・シネマ1で、「美しい人」を観てきました。109のBUNKAMURAの5階にある典型的ミニシアターです。整理券順に入場する自由定員制です。床の傾斜が微妙で、前にちょっと座高のある人が座ると画面が切れることがあり、もう少しスクリーン位置を上げてくれるといいのですが。

刑務所で模範囚として早く娘のもとに戻りたいサンドラ(エルピディア・カリーロ)。スーパーマーケットで偶然に昔の恋人と再会して心ゆれる人妻ダイアナ(ロビン・ライト・ペン)。長い間、父との確執を持ち続けてそれを何とか克服したいホリー(リサ・ゲイ・ハミルトン)などなど。9人の女性の人生の一瞬を切り取りながら、人間のつながり、ありかたを考えさせる、映像の連作短編集。

ロドリゴ・ガルシア監督作品だそうですが、この人の映画は今回が初めてです。ただ、豪華キャストとオムニバス形式というのに惹かれて映画館へ足を運んでしまいました。本編を観て、さらに驚かされたのは、各々のエピソードが1シーン1カットで撮られていたことです。そこで、リアルな女性の息遣いを感じさせる映画に仕上がっています。各々のエピソードには、共感できるもの、全貌が読みきれないものなど様々なのですが、それらの物語の見せ方のうまさを堪能できる映画ではあります。長回しの1カットに様々な想いを凝縮させた女優陣の演技も見ものなのですが、主演女優だけでなく、脇役として、エイダン・クイン、ジョー・マンテーニャ、イアン・マクシェーンといった渋めの男優陣も見逃せません。

「美しい人」という邦題は、「9 lives」という原題に比べると、装飾過多というか、ハッタリ効かせ過ぎです。映画そのものは、9人の女性の生きている断片を飾らずに描いていますので、そこに「美しい」という形容詞が入る余地は残念ながらありません。また、描かれるエピソードも観ていて痛いものが多いです。特に、両親の間に立って感情を押し殺すサマンサ(アマンダ・セイフライド)のエピソードや、夫の看病に疲れて、一夜のアバンチュールに踏み出そうか葛藤するルース(シシー・スペイセク)のエピソードなどは、かなり重い内容になっています。

じゃあ、重い内容だと不快になるのかというと、そうではなくって、このあたりに短編小説を読む面白さがあります。様々な人生を積み重ねた女性のほんの10分間を見せることで、その女性への様々な想いを巡らすことができ、その女性たちへの愛おしさ、あるいは拒否反応までを感じることができる。そういう想像の余地をたくさん残していることが、観客に一種の快感を運んできます。物語の隅から隅まで語りきって観客を楽しませる娯楽映画もいいのですが、想像の余地を残すこういう映画も娯楽映画だと思うわけです。後は、観る方がこの映画をどこまで娯楽として楽しめるかということにかかってきますが、読書気分で観ると楽しい映画だと言えそうです。また、観る人それぞれの立場によって印象に残るエピソードも違ってきますから、観た後の評価はそれこそ十人十色になる映画です。

私の中では、かつての恋人とスーパーで再会して、心が揺らいでしまう、ロビン・ライト・ペンのエピソードが印象的でした。ああいう恋愛に縁のない人間にしてみると、どうしてあそこまで感情が不安定になってしまうのかが見当がつきかねるってところが面白く感じられてしまいました。これって、他人の不幸は蜜の味に近い感想なのかもしれません。また、物語の構成そのものの面白さということでは、グレン・クローズとダコタ・ファニングのエピソードが面白く、演技のうまさに惹かれたのはシシー・スペイセクでした。

「トランスアメリカ」は色々と勉強になります

今回は新作で横浜ニューテアトルで「トランスアメリカ」を観て来ました。伊勢佐木町に残る数少ない映画館(2006/08には伊勢佐木町東映が閉館してしまうので、関内、伊勢佐木町の映画館は、こことシネマリンだけに
なってしまいます。)でして、地下を入るとすぐ映画館、ロビーもないし、スクリーンも小さいし、座席数も118というこじんまりとした映画館です。デジタル音響もない映画館ですが、何となく雰囲気が好きでして、ここでこんなミニシアター系映画を公開してたってのはうれしい発見でした。

性同一性障害のブリー(フェリシティ・ハフマン)は、最後の性転換手術をあと1週間先に控えていました。そこへ、NY警察から、自分を父親だという若者が逮捕されたという連絡があり、精神科医の勧めもあって、仕方なく、その息子トビー(ケヴィン・セガーズ)に会いに出かけます。とは言え、ルックスは既に女性のブリーは、自分が父親とは言い出せず、教会から来たとウソをついて、ロスへ行くという彼に同行することになります。ドラッグをやり、男娼もしていたトビーとの道中で、果たして二人は親子として和解することができるのでしょうか。

性同一性障害というのは、生まれつきの病気であり、ゲイとは違うらしいのですが、そのあたりのところはなかなか難しいみたいです。もともと、心には女性と男性ってものがあって、その女性の心が男性の体(あるいはその逆)に宿ってしまっている状態が性同一性障害なのだそうです。心の性別というのが理解できないと、それを実感することはできないみたいなんですが、とりあえず、そういう人がいて、その存在が社会的に認知されてきていることは知ってたほうがいいみたい。

ともあれ、女性に改造中であるブリーですが、そんな彼女に息子がいたというのは、まさに青天の霹靂なんですが、この映画は意外にも、そういうドラマチックな部分をさらりと描いています。まあ、そもそも男だった主人公が自分のメンタルな状態に気付いて、肉体的に変化しようという設定も、かなりドラマチック(というか非日常的)なんですが、それも日常の延長線から描こうというところにこの映画の面白さがあります。その尋常でなさがあると、ハンサムな息子トビーが男相手に体を売ってるとか、俳優志望というのがポルノ男優だったりするのも、驚くにはあたらないなあって気分になってきます。

私のような小市民からすれば、かなり異常な設定ではあるのですが、その展開がしごくマトモというのが面白いと感じました。そんな中で、トビーがブリーに恋愛感情を持ってしまうという「げげっ」という展開もあるのですが、結局は、収まるところに収まっていく。この妙な安定感はどこから来るのだろうと不思議に感じてしまったのですが、基本は人間そう大差はないよね、ってところに落ち着くのではないのかしらん。一見、異常に見える登場人物や、彼らの関係が、結局は普遍的な人間関係に収束していくのです。他人に様々なラベルを貼って、異形のものとして排除しようとしても、結局は人間、想うところに大差はないのです。これをアメリカ横断道中の中で見せようというあたりに、9.11テロ以降の映画だなって感じさせるものがあります。ラストはものすごく普通で、ドラマチックなところがまるでありません。それを物足りないと思う自分の中に、ある種の差別意識があると気付かされると、「ああ、してやられた」という気分になります。

主演のフェリシティ・ハフマンは実は女性なのですが、男性が演じるよりも、さらにセクシュアリティを感じさせないあたりが、監督の狙いだったのかもしれません。後半、ブリーが実家へ戻ってからのドタバタが浮ついた印象になってしまったのが残念です。まあ、多少はそういうドタバタもないと退屈しちゃうような展開ではあったので、娯楽映画としてはマルなのでしょう。この映画の予告編は、本編の見事なダイジェストになっているのですが、予告編からは、差別されるかわいそうな性同一性障害者というイメージが伝わってきてしまうから不思議なものです。本編を見れば、彼らも自分も同じようなもんだというのが伝わってくるのですけどね。

「2番目のキス」は面白いのにこんな扱いなんて

また、新作ですが、渋谷のアミューズCQNという映画館で「2番目のキス」を観てきました。比較的新しくできた映画館のようで、ビルの7階にある小さめのスクリーンが3つ。さらにその中でも、最小の座席数60のシネマ3での上映でした。ちっちゃなスクリーンに一応のデジタルサウンドで、傾斜付き座席はなかなか見易いのですが、ドリュー・バリモア主演、「メリーに首ったけ」のファレリー兄弟監督の映画が、東京でたった一館、こんなスクリーンで上映なんて何かとんでもないひどい映画なのかと思ってしまいました。(銀座シネパトスよりも扱いが悪い。)

ビジネスコンサルタントとして勝ち組キャリアウーマンのリンジー(ドリュー・バリモア)はあまり男性運がよくないみたい。もうすぐ30に手が届くということで、若干焦り気味でもあった彼女に学校の先生ベン(ジミー・ファロン)がアプローチしてきます。これまで付き合った男どもとは一味違う庶民的で善意の持ち主であるベンにリンジーも惹かれます。でも、そんないい人がこれまでシングルだったのは何か訳ありかもという友人の忠告は見事にヒット。彼は、野球チームレッドソックスの筋金入りのファンだったのです。亡き叔父からもらったシーズン全部の特別席から、声援を送るベン。シーズン中はレッドソックスが全てに優先。そんなベンはリンジーを傷つけてしまい、リンジーはベンに別れを告げます。そして、ベンはある決心をするのですが、果たして二人の恋はハッピーエンドを迎えることができるのでしょうか。

まず、ベンの少年時代が回想形式で描かれるのですが、向こうでも、野球チームのコアなファンはいわゆる一般の人とは違う、ある種のオタク扱いされているのがわかります。レッドソックスのキャンプ地に出かけてバカ騒ぎしてる連中です。チームの歴史も細かいところまでよく覚えていて、話題のタブーとかもあったりして、傍目には、「迷惑じゃないけど変な人たち」です。家の中もレッドソックスだらけ。最初のうちはそんなベンに、まあ好きなことがあるのはいいわ、位に寛大に構えていたリンジーですが、自分よりもレッドソックスが大事だとわかってきて、とうとう大喧嘩してしまいます。

ベンをまずいい人として登場させて、二人のいいカップルぶりを見せるあたりがうまいです。でも、レッドソックスの事になると、何を置いても優先してしまうというファン心理をジミー・ファロンが嫌味になる手前で演じきったあたりは見事でした。別に自分がファンであることをリンジーにも強要するわけでもなく、一応は恋人には誠実であろうとするのですが、土壇場でボロが出てしまう。そんなベンに、もう一緒にやっていけないと思ってしまうリンジーの気持ちも理解できます。ベンが箸にも棒にもかからないような男なら、リンジーだって、ここまで傷つくこともなく、とっとと別れていただろうにと思わせるあたりは、結構リアルな恋愛映画になっています。

破局から、クライマックスまでの展開もなかなかうまく、ヒロインが自分の昇進のスピーチから、ベンの気持ちに気付くあたりが、大変微笑ましい盛り上がりを見せます。球場全体を巻き込むドタバタはやり過ぎじゃないのという気もするのですが、これが「みんなハッピー」のラストにつながるあたりはやっぱりうまいなあって感心してしまいました。よく、考えるとこれでこの先うまく行くのかなとも思うのですが、そんな疑問を忘れさせてくれる幸せな余韻は、娯楽映画はかくありたい、映画をお金払って観るのなら、こういう気分で映画館を出たいよねと思わせるものでした。

ドリュー・バリモアのラブコメというと「ウェディング・シンガー」「25年目のキス」「50回目のファーストキス」などがあるのですが、どれも、普通目のヒロインなのに、どこか周囲の人をいい人にしてしまう魔力(魅力)があるというものが多く、その結果、周囲も含めてハッピーエンドのなるというパターンが非常に心地よいコメディになっています。この映画でも、そのパターンを踏襲していまして、ヒロインを中心に周囲がいい感じの関係になっていくのをさりげなく見せています。そういう意味では、ファレリー兄弟というよりは、ドリュー・バリモアの映画になっていると言えそうです。

プロフィール

einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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