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「蟻の兵隊」は一度は観ておくべき映画

今回は横浜のシネマベティでドキュメンタリー「蟻の兵隊」を観てきました。一時、閉館状態だったのですが、その後、変則的に上映を再開、いよいよ本格的に上映スケジュールが出てくるようになりました。こういうドキュメンタリーを上映会ではなく、興行の枠で上映してくれるのは大変ありがたいことです。「ヒバクシャ」「リーベンクイズ」といったドキュメンタリーをかつてここで通常興行で観たことがあります。こういう上映が増えてくれるとうれしいです。

80歳になる奥村和一は、終戦後も上官の命令で中国にとどまって、中国国民党と共に戦いました。そして、捕虜となり帰国した彼らは終戦以後は勝手に国民党のために戦ったとされ、日本政府は補償対象とせず、彼らが日本軍の司令官の命令で、終戦後も兵士として中国に残された事実を認めようとはしません。戦後60年が過ぎ、事実を知る証人の多くはこの世になく、司法は彼らの訴えをろくに審議もせず控訴棄却としたのでした。

戦争当時、奥村氏は初年兵だったそうです。その奥村氏が80歳というのですから、今のいわゆるお年寄りと呼ばれる人の多くは戦争を知っていても、兵士として戦った人で存命の方はごくわずかなのではないのでしょうか。いったい戦時中、中国で日本軍は何をしてきたのか、これまであまり語られることがない歴史の闇の部分にスポットをあてた映画ということになります。

この映画の中で語られる物語は二つあります。まず、終戦後、日本へ帰還するはずだった兵士を「祖国復興のため」という名目で中国に残留させ、国民党につかせて共産党と戦わせた日本軍司令官がいたこと。奥村氏は彼らによって終戦後も日本軍人として戦わせられた一人です。さらにひどいことに帰国したら、今度は、終戦後の戦闘行為は自らの意志で行ったこととされ、軍人恩給ももらえなかったのです。これは国が彼らを裏切ったことになります。そしてもう一つの物語は、中国で軍事教練の仕上げとして、中国人の刺殺訓練があったということ。奥村氏は初年兵として、銃剣で縛られた中国人を度胸試しとして殺したのです。

奥村氏は自分がそこにいた経験から、中国での軍事行動を侵略戦争だと言い切ります。彼は、自分は、当時、初年兵という下っ端であったこともあって、戦争の全貌を知りえなかったことが心残りになっており、中国へ再び渡り、自分たちの行為が中国人にとってどういうものだったのか、どういう経緯で自分が中国国民党に売られてしまったのかを知ろうとします。この中で、かつての中国国民党の参謀だった老人に会うのですが、彼が「日本軍と中国国民党の間に密約があったのは事実だが証明はできない。今はもう歴史として見るべき問題ではないか」と淡々と語るところが大変印象的でした。日本人なら、こういう考え方はまずしないでしょうが、こういう達観も一つの考え方としてはありなのかもしれないと気付かされました。かつて、日本軍に強姦された女性が、奥村氏に対して「自分のしたことをご家族に話してもよいのではないですか」と静かに語りかけるシーンなど、「中国人の考え方は共産党の反日プロパガンダに染められている」という日本での見せ方はホントかなあと思わせるものがありました。

奥村氏は大変強い人で、自分のした残虐行為にも向き合いながら、それでも自分たちを売り飛ばした日本軍とそれを認めない日本国への怒りをあらわにします。特に印象的だったのは、自分は、度胸試しをやらされただけだが、これで戦争が長引いたり勝っていたりしたら、新兵たちに度胸試しを強要する立場になっていただろうと語るところでした。彼は自分が戦争というシステムの中に組み込まれていけば、虐殺も強姦もやっていただろうと思っています。だからこそ、戦争はいけないと語る、彼の言葉は重いです。大東亜戦争を負けた戦争だから悪い、勝てばよかったという風潮が最近起こってきています。そんなことはない、戦争の実相を語り継いでいれば、そんな発想にはならないはずなのに。少なくとも、終戦直後は日本は負けてよかった、勝っていたら軍国主義がますます強くなっていただろうという考え方が主流でした。終戦による左翼思想の復活だけで、そういう考えが強まったわけではなく、戦争の実態を知っている人々の想いが、どんな戦争もいやだという空気を作っていたのだと思います。

結局、奥村氏らの控訴は棄却されてしまいます。これを認めれば、日本はポツダム宣言受諾後も軍事行動をしていたのを認めることになるから、関係者の死を待って、事実を葬ろうとしていると、奥村氏は言います。私からすろと、もっと単純に「役人はミスしない、政府は間違いをしない」というウソをつきとおそうとしているだけのように思えます。日本という国を悪く言いたくはないけれど、この一件については、弱いものを虐げている国だと言えるでしょう。やったこととして日本人拉致を認めた北朝鮮よりも、恥を知らないと言われても仕方ないかも。ともあれ、この映画は、一度は観ておくべき映画だと思います。日本国と日本人の加害者としての顔を知らないで、特攻や大和に涙するだけでは歴史を半分しか知らないことになると思うからです。

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スクリーンサイズの記憶

また、昔の話です。私が映画を観始めるようになった1970年代の後半ってのは、映画の主流はビスタサイズでした。実際、ビスタサイズにもヨーロピアンビスタとアメリカンビスタがあるとか、スタンダードが真四角に近かったりする劇場があるとか、そういう詳細なお話は、森卓也氏などの本に譲るとして、私が学生時代に意識していたスクリーンサイズの話をさせていただきます。

そんな大げさなことではないんですが、「スタンダードサイズを観ると得した気分になる」ってのが、当時の私にはありました。当時、キネマ旬報という雑誌を読んでいたのですが、その映画紹介の記事には、スクリーンサイズも載っていたのです。そして、そこで、スタンダードと書かれているのに映画館でビスタサイズで上映されているものが結構あったのです。映画館は何でもかんでもビスタで上映する、スタンダードの映画をスタンダードで上映するのは良心的な映画館だと思っていました。実際、静岡名画座で「軍用列車」を観たときは、スタンダードだったのですが、その後、静岡南街劇場で観たとき、ビスタサイズの上映だったので、余計目にそういう思いを強くしていました。

当時の記憶をたどると、スタンダードで上映されていたのは、静岡名画座で「溶解人間」と「スパイダーマン」「ネットワーク」「海外特派員」「そして誰もいなくなった」「ドラキュラ・ゾルタン」「恐竜百万年」、静岡有楽座で「ローリング・サンダー」「スピード・トラップ」、静岡ミラノで「ナザレのイエス」「カバーガール」などがあります。昔の映画を上映するときは大体はスタンダードで上映していたようですが、静岡東映パラスで「ローマの休日」のリバイバルを観た時はビスタサイズの上映で、「あれ?」と思いました。また、キネマ旬報で、スタンダードと謳っていた「タクシードライバー」を静岡名画座で観たときはビスタサイズだったのを憶えています。一方、静岡小劇場で「ビッグマグナム77」が上映されたとき、もともとビスタサイズのものをスタンダードで上映したため、画面の上下にマスクが入るカットが散見されました。どうも、スタンダードとビスタサイズはどっちかに固定して上映していた劇場が結構あったようです。

以降、横浜に出てきてからは、新作をスタンダードで観ることはほとんどなくなりましたが、この間、横浜ニューテアトル「ヨコハマメリー」を観たときは、スタンダードサイスでの上映でした。ただ、最近はスタンダードというのが、ビスタサイズの両端にマスクをかけることでスタンダード上映というのもあるらしいです。つまりビスタサイズのマスクで上映すると、スクリーン上にスタンダードサイズの画面が出るらしいですから、一見してわからない仕掛けのようです。リバイバルされた「ファンタジア」は横浜東宝エルムでスタンダードで上映されていたのですが、あの辺りからそういう話が聞こえてきたように思います。

また、昔はシネスコサイズの映画の予告編はシネスコサイズで上映されていたのですが、それがいつしか、全て予告編がビスタサイズに統一されるようになっていました。1990年代の映画の予告編はシネスコサイズの映画はみな両横をカットしたビスタサイズの予告編でした。上映する方からすれば、マスクやレンズを換える手間が省けるのかもしれません。そして、最近では、シネスコサイズの映画の予告編はビスタサイズの上下をマスクした形で上映するようになりました。全部映るからいいのかもしれませんが、映画館でビデオの画面を観ているようであまりいい気持ちはしません。さらにシネスコサイズの映画の本編前にシネスコサイズの予告編が付いてくるようにもなりました。シネコンで観ていると、ドルビーのロゴの後に予告編が始まることが多くなり、あれはたぶん本編プリントの頭に予告編が最初からついてきてるのではないかと思っています。その場合、シネスコサイズの画面の両端にマスクがかかった形でのビスタサイズの上映なんてのも登場してます。まあ、映画館ならではのきれいな画面で観られれば文句はないのですが、合理化ってのは進んでるだなあってのが実感です。

ウルトラステレオの記憶

またまた、昔の話になります。映画の音響というと、今やデジタルドルビーステレオが標準となりつつありますが、その前の映画の音響の標準は、アナログのドルビーステレオでした。その前の光学モノラルの音に比べたら、ステレオだしノイズは少ないしということで、ドルビーステレオだということが映画、映画館の売り文句になった時代もありました。

そんな中で、いつの間にか現れて消えていったシステムにウルトラステレオというのがありました。日本に初お目見えしたのは、シスベスター・スタローンの「コブラ」ではないか(予告編でそう謳っていたので)と思われるのですが、その実態は当時はよくわかっていませんでした。調べてみれば、基本はドルビーステレオと同じく光学トラック2本から、前面3チャンネル、サラウンド1チャンネルを取り出す方式で、ドルビーステレオの映写機でステレオ音響が再生でき、かつライセンス料がドルビーより安いという代物だったようです。ウルトラステレオ方式で録音された映画は、ドルビーステレオの映写機で上映してステレオ効果が得られるということでした。

私が初めて、ウルトラステレオに遭遇したのは、静岡ピカデリーで「悪魔のいけにえ2」を観たときです。特に音がすごいという印象は持たなかったのですが、「ウルトラステレオ」という名前のインパクトはかなりありました。その後、映画館でウルトラステレオ録音の映画に遭遇する機会は意外と少なく、ジョン・カーペンターの「パラダイム」、レニー・ハーリンの「プリズン」、ドワイト・リトルの「オペラ座の怪人」といったホラー映画、「ザ・プレイヤー」「ストリートビル 秘められた街」「家族狂想曲」といったメジャーじゃない映画ばかりでした。最後に劇場で観たウルトラステレオの映画は、ブライアン・シンガーの処女作「パブリック・アクセス」でした。

その後、ウルトラステレオの再生装置があると知ったときは驚きでした。山形のフォーラムというミニシアターに行ったとき、ドルビーステレオでなく、ウルトラステレオのロゴが劇場の入り口に貼ってありました。今は改装されて、全館ドルビーデジタルの劇場になっていますが、ウルトラステレオの再生装置が日本でも使われてようです。他にも探せば出てくるかもしれないです。

今は見かけないウルトラステレオですが、最近、よく日本映画で、ドルビーステレオでなく、DTSステレオ録音の映画をよく見かけます。メジャーじゃない単館系映画でよく使われているようなので、これも使用権料が安いから使われているのではないかと思っています。昔のウルトラステレオのポジションにあるのが、DTSステレオではないかと思っています。新聞広告で、劇場名の上にドルビーのマークが出なくて、単にステレオとだけ表示しているものがあり、それは多分DTSステレオ録音なのではないかしら。

ブロンソンの記憶

ちょっと昔の話です。私が本格的に映画を観始めたのは、1970年代の後半からです。その頃、スターとしての地位を確保していたのが、アラン・ドロン、クリント・イーストウッド、ロバート・レッドフォードといったところで、チャールズ・ブロンソンもその一人でした。

ところが私はブロンソンの映画を観始めたのは、どちらかというとピークを過ぎた頃からでして、初めて劇場で観たのが、アリステア・マクリーン原作、トム・グライス監督の西部劇「軍用列車」でして、それ以降、機会があればチェックするようになりました。映画館で見逃したのは、テレビの月曜ロードショーでよく見ていました。「ホワイト・バッファロー」「愛と銃弾」「チャトズ・ランド」「メカニック」「マジェスティック」「正午から3時まで」なんてのを荻昌弘氏の解説で楽しんでいました。後、「真夜中の野獣刑事」は淀川長治氏の日曜洋画劇場ですね。

でも、映画館で直接観る機会があったのは以下のものでした。

「軍用列車」
西部劇で列車サスペンス、ジル・アイアランドがヒロイン。定番のサスペンスアクションなんですが、ジェリー・ゴールドスミスのテーマ曲のカッコ良さ、人質の頭を打ち抜くスペシャルイフェクト、脇のエド・ローターがかっこいいなど、枝葉末節の部分の記憶しか残ってないです。クライマックスの雪のシーンがきれいでした。静岡名画座と静岡南街劇場でなぜか2回観ています。

「セント・アイブス」
ブロンソンが小説家という設定のミステリーで、脇に豪華キャストをそろえ、ヒロインがジャクリーヌ・ビセットというのも異色でした。J・リー・トンプソン監督との初顔合わせにしてコンビ最高作ではないかしら。意外な展開というよりも、出てくる顔ぶれを楽しむ映画という感じでしょうか。ラロ・シフリンの軽いけどシャープなジャズタッチの音楽が全体の雰囲気を見事に表現していました。エンドクレジットがブロンソンのドアップをバックに流れたってのが印象的でした。静岡カブキで観ています。

「テレフォン」
ドン・シーゲルが監督したスパイアクション。静岡東映パラスで観たのですがこれが面白かったですねえ。ソ連のスパイが、あるキーワードを聞くと破壊活動を起こすようにマインドコントロールされていて、反逆者がそのキーワードと共にアメリカに潜入したため、ソ連軍の少佐が破壊活動を阻止するためにCIAと協力して反逆者を追うというもの。少佐がブロンソン、反逆者がドナルド・プレゼンスで、派手な破壊シーンで見せ場を作って、クライマックスは田舎街の酒場でのギリギリのサスペンスという娯楽映画の逸品。女優陣が、相手役のリー・レミックを初め、タイン・デイリー、シェリー・ノースといったある意味豪華な一編。特に、この映画のタイン・デイリーはチャーミングでした。

「太陽のエトランゼ」
今は亡き丸の内松竹(マリオンができる前)でひっそりと公開されたのを観てきました。ブロンソンとトンプソン監督コンビの作品でして、相手役にドミニク・サンダ、敵役にジェーソン・ロバーズにフェルナンド・レイという豪華な顔合わせの一品。海に沈んだ財宝を巡るサスペンスアクションでして、舞台となる島のセットなど結構お金がかかっていそうな映画でした。学生の頃に観たのですが、ああ、こういうジャンルの映画もあるんだって、妙に感心した記憶があります。今、映画評やビデオ評を読むと散々な言われ方されてますが、映画館で観たときは結構楽しんだという記憶があります。

「ロサンゼルス」
これは東京のどっかの名画座で観たのですが、オープニングの暴行シーンがものすごくインパクトありました。それ以降のお話はあまり印象に残ってなくて、主人公があまりピンチにもならずに次々と犯人を殺していくというくらいの記憶しかないです。また、タイトルで1枚看板で出る、アンソニー・フランシオサやJ・D・キャノンといった渋いメンツが1シーンずつ、しかも主人公に全然絡んでこないじゃんというところが気になってます。音楽がジミー・ペイジでオープニングの曲なんかすごくかっこよかったのですが、サントラ盤を買ったら、変なボーカル付でがっかりインストゥメンタル盤は出ないのかしら。

「地獄で眠れ」
東京ではロードショー公開されず、地方で二本立ての併映作として公開されたもの。静岡有楽座で観ました。ブロンソンとトンプソンコンビの映画でもかなりの珍作と言えるのではないでしょうか。南米の拷問スペシャリスト、ドクターを殺すために、元殺し屋ブロンソンが立ち上がるというもので、オープニングのホラータッチから、中盤はアクションものになり、ラストがまた怪奇映画風になります。作りとしてはバイオレンスアクションものということになるのでしょうけど、同じ南米ものでは「太陽のエトランゼ」ほどお金がかかっておらず、それでもストーリーを手堅くまとめたトンプソン演出が光る小品だと思うのですが、これも世間の評判は散々でした。


この後は、公開されても、近場の劇場には来ないことが多くなり、「インディアン・ランナー」が劇場での見納めになりました。「スーパーマグナム」「トップレディを殺せ」「メッセンジャー・オブ・デス」「バトルガンM-16」「必殺マグナム」「禁じ手」はビデオで観たのですが、こういう犯罪アクションものは家のテレビではきちんと評価できないと思うに至りました。「メッセンジャー・オブ・デス」や「必殺マグナム」なんかは劇場で観たら結構面白いんじゃないかと思いましたが、その機会に恵まれずに残念に思います。

ブロンソンの後継者というわけではないのですが、アクション映画、しかも主演作品ばっかりということでは、ジャン・クロード・ヴァン・ダムやスティーブン・セガールを挙げることができます。ヴァン・ダムは「タイム・コップ」以降、拡大公開されたことありませんし、セガール作品も「電撃」の後は、もっぱら銀座シネパトスを主戦場としています。それでも、劇場公開されることを喜ぶべきなのかもしれませんけど。

娯楽映画として得点高い「ザ・センチネル 陰謀の星条旗」

今回も新作の「ザ・センチネル 陰謀の星条旗」を、川崎チネチッタ1で観てまいりました。川崎チネチッタは改装されてからは観やすい劇場になったのですが、この1、そして、2,3だけは別格みたいでして、ベストポジションが後ろ3列くらいで、前から3,4列目でも相当画面を見上げることになり、前2列はとても映画鑑賞できないという作りなんです。たまたま他の映画館のつもりで、うっかり前の席を指定してしまうと大変なことになります。

大統領夫人の警護を務めるシークレットサービスのピート(マイケル・ダグラス)はこともあろうに大統領夫人(キム・ベイジンガー)と不倫関係にあります。そんな折、大統領暗殺計画が進行していて、シークレットサービスの中に内通者がいるということで、調査班のデビッド(キーファー・サザーランド)が乗り出してきます。ピートとデビッドには過去に何か確執があったようです。一方ピートは不倫写真を送りつけられ、脅迫者の指示とおり行動せざるを得なくなり、デビッドから疑いの目を向けられ、ついには、ピートは逃亡者になってしまうのでした。果たして、大統領暗殺計画を阻止できるのでしょうか。

マイケル・ダグラスとキーファー・サザーランドというオヤジコンビに、キム・ベイジンガー、エヴァ・ロンゴリアという女優陣が絡む、ホワイトハウスを舞台にした犯罪サスペンスです。「24」ですっかりタフないい人になったサザーランドと濃いオヤジのダグラスの二人を中心に置いたことでドラマはほとんどこの二人の周辺だけで展開することになるんですが、テレビでの実績のあるクラーク・ジョンソンの演出は、主役二人をうまく立てて、一見、混乱しそうな暗殺陰謀ものを手堅くそして、面白くまとめることに成功してます。

主人公二人とも、完全なヒーローというには、オッサンなんですが、オッサンならではのカッコよさがありまして、時には、子供っぽいところも見せて、ちょっとお茶目さんだったりすると、これが余計目にカッコよく見えたりもします。とはいえ、それはごく一部の特権オヤジの話でして、私のような並以下のサラリーマンオヤジには縁のない世界ですから、オヤジ復権とはならないってところがつらいところです。まあ、でもこの映画のオヤジ二人はよく動き回りますし、困っても泣きを入れないタフさがあります。と、こんなことをクドクド言うのも、この映画は、サスペンスとかミステリーの部分にはあまり力点を置いていないのですよ。むしろ、オヤジ二人がこの状況下でどう動くのかというのを丹念に追っているのです。確かに大統領暗殺という陰謀とともに連続殺人は起きるは、身内に敵が紛れ込んでいるは、と設定は普通のサスペンスものなんですが、それらの設定よりも、オヤジ二人が引き立っているのです。二人のキャラにドラマが寄っていくおかげで、ピートの恋人である大統領夫人や、デビッドの相棒になる新人捜査官(エヴァ・ロンゴリア)も光る存在になっているという具合です。

ドラマのリアリティを追うと、ラストで大統領が機銃掃射を受けて危機一髪なんてちょっと考えられませんし、ファーストレディとボディガードの情事なんてのもホントかよとツッコミ入れたくなるのですが、それらの設定はあくまで、主演二人の背景でしかないというのが面白いところです。さらに、アクションシーンも手抜きなく、特に中盤のショッピングセンターでの銃撃戦はなかなかの迫力でしたし、オープニングのシークレットサービスの日常を描写するシーンもなかなかにスリリングでした。

ただ、こういうドラマ構成になると悪役側の影が薄くなってしまうのはやむを得ないところでして、この犯人たちの動機や暗殺してどうするってのがよくわからないのが、ドラマとしての弱点になります。でも、そんなことは本筋ではないという作りになってて、気にならないのは事実でして、このあたりに娯楽映画のさじ加減というものを感じました。

この映画に登場する大統領はまことに影が薄い存在でして、行動言動ともに中庸を行くという感じでした。また、犯人側の正体も旧KGBというのが、何を今更の感がありまして、現代の政治状況を反映させることを意識的に避けた作りになっています。そのせいか、あまり政治的な色も見せず、オヤジ二人大奮闘のドラマに仕上がっていて、娯楽映画の佳品として、結構好きな一品です。

結構痛い「カポーティ」

また、新作の「カポーティ」を川崎チネチッタ1で観て来ました。前にも書いたように、後ろ3列がベストポジションというかなり変な作り(チネチッタは1から3は同じ作り)なんですが、それはさておき、上映前にかながわニュースをやっていたのがちょっとうれしかったですね。何しろ、シネコン以外の映画館がバタバタ閉館しているので、シネコンでこれやってくれないと、かながわニュースもなくなっちゃいますもの。でも、同じシネコンでもやったりやってなかったりするのは何か事情でもあるのかしらん。とりあえず、ガンバレ、かながわニュース。

「ティファニーで朝食を」で知られるトルーマン・カポーティ(フィリップ・シーモア・ホフマン)は、カンザスで起きた一家惨殺事件に興味を持ち、ニューヨークポストの肩書きで取材に乗り込みます。そして、犯人の二人組みが逮捕され、その片方であるペリー(クリフトン・コリンズJr)に彼は自分自身の影を見出し、彼を題材にノンフィクション小説「冷血」を書き上げます。地裁では、死刑判決を受けた二人でしたが、カポーティからの弁護士の紹介などもあり、上告、死刑延期となってくると、今度はカポーティがそのストレスに耐えられなくなってきます。彼のやったことはこの事件にとってどんな意味があったのでしょうか。

事件の起きたカンザス州の荒涼とした風景にまず圧倒されます。そこで起きた猟奇的な一家惨殺事件は、ニューヨークの上流社会に身を置く、カポーティにとって大変好奇心をそそる題材でした。都会人というよそ者の視点で、田舎の殺人事件を見下ろすがごとく取材していく彼の姿は、はっきり言って、やな奴に見えます。おしゃれで甲高い声で話すゲイの小男は、作家として高い評価を受け、話も面白い男です。そんな彼が、この事件の犯人と知り合いになったことは、彼にとって不幸の始まりだったようです。

当初は、犯人の中に垣間見える凶悪犯らしからぬ人柄に興味を惹かれ、彼を題材に本を書こうと思い立つのですが、その犯人の若者ペリーがだんだんとカポーティの心を侵食し始めるのです。それは、阻害された幼年期を持つペリーへの共感であり、さらには愛情へとも変わっていきます。しかし、結局のところ、彼への興味は、物書きとしての衝動と好奇心の産物でしかなかったようです。本を書き上げれば、そこで一区切りがつくはずのものでした。しかし、その一区切りとは、事件の決着、即ち犯人二人が処刑されるところにありました。しかし、彼は、当事者に感情移入しすぎていて、事件の決着に冷静に直面できなくなっていたのです。

映画の中では、最初はやな奴に見えていたカポーティがだんだんと精神的に追い詰められていく様子が描かれています。「最初はやな奴」という書き方をしましたが、彼の「やな奴」という印象は最後まで変わりません。ただし、その追い詰められる感情の痛みの部分は伝わってきます。それは、ある意味、彼の良心の声とも言えましょう。でも、その良心は彼を責め苛み、追い詰めていきます。結局、何の救いを得られずに、彼は本を書き上げるのですが、それが彼の文筆家としての人生に大きな影を落としてしまうことになります。

ヘビーな内容の映画ではありますが、一方では大変面白い映画に仕上がっていました。ダン・ファターマンの脚本と、ベネット・ミラーの演出は、まず猟奇殺人事件をドラマの中心に据えて、徐々にドラマの焦点をカポーティに絞り込むという構成になっていて、単なる作家の伝記映画ではない、ミステリーとしての面白さも加えて、観客を退屈させません。殺人事件の話だと思って観始めるのですが、ラストでは、いつしかカポーティと同じ視点に立っている自分を発見することになるあたりの構成は見事だと思いました。後味の悪い結末なんですが、それでも、映画にいい意味で「してやられた」という気分になりましたもの。

脇を固める演技陣も充実してまして、カポーティの恋人や友人を演じたブルース・グリーンウッド、キャスリーン・キーナー、クリス・クーパーといった面々が見事にドラマを支えています。ルックスや声に特徴のあるカポーティをホフマンが熱演しすぎるとドラマから浮いてしまうところを、周囲の役者陣がおさえにまわったという感じでしょうか。また、終始寒々とした空気を表現したアダム・キンメルのカメラと、マイケル・ダナの音楽も見事でした。

「カオス」は題名で損してないか?

新作ですが、今回は銀座シネパトス2で「カオス」を観て来ました。相変わらずの映画館なんですが、この「カオス」や「氷の微笑2」などでは、他のミニシアター系映画館とチェーンを組むといったことをやっており、これがどう出るのか興味あるところです。この「カオス」もシネコンで上映しているところもあります。

シアトルの銀行で強盗事件が発生、犯人グループは人質をとって銀行内に立て篭もり、交渉役に、誤射事件で停職中のコナーズ刑事(ジェイソン・ステイサム)を指定してきます。コナーズの指揮のもと突入する警官隊、しかし、それを見越したかのように爆発が起こり、犯人は姿をくらまし、結局、何も盗まれていなかったことが判明します。犯人はコナーズに恨みのある人間らしく、若手のデッカー刑事(ライアン・フィリップ)はこの事件には何か裏があるとにらんでコナーズとともに捜査に乗り出すのですが、次々に犯人と思しき連中の死体が発見されていきます。果たして、事件の真相は?

何も盗られていない銀行強盗というと、今年は「インサイドマン」という佳作がありましたけど、今回の「カオス」は事件を追う若いデッカー刑事の視線で謎解きを中心にドラマが展開していきます。脚本・監督のトニー・ジグリオは、設定、キャスティングともにいいところを押えているので、相当面白い映画になる期待がありました。

ここから先は結末に触れる部分がありますのでご注意下さい。


タイトルバックは、ある人質事件の顛末が描かれていまして、人質を誤射してしまったことから、一人の刑事が解雇され、もう一人が停職処分ということになります。全てはこの事件から始まっていることがわかります。ここから既にドラマのミスリードが始まっているのですが、観ていて気付かせないあたりの構成はうまいと思いました

犯人とコナーズの会話から、カオス理論が飛び出すのですが、これが正直言って唐突でして、ここをデッカーが気にするのも、実はミスリードの仕掛けの一つだったようです。ミステリーとしては、登場人物と観客を二重にだますテクニックを使っているのは、なかなかうまいと思いました。また、謎解き部分では、ポイントになるシーンを再度カットバックで見せるなど、2時間サスペンスなみの親切な作りになっているのも、のんびり観る娯楽映画としてはマルです。また、オープニングの銀行爆破シーンや中盤の街中のカーチェイスなどアクションの見せ場もきちんと盛り込んであって、全体的に手堅くまとめたという印象が大きいです。

ただ、手の込んだ仕掛けの割には、殺人のやり方が粗っぽかったり、動機の部分が曖昧だったりと、物語としての厚みにかけ、「おお、びっくり」の展開の割には、「騙される醍醐味」が少ないのが残念でした。主演二人に、犯人役のウェズリー・スナイプス、警部役のヘンリー・ツェーニーなど、ベストのキャスティングなのに、こんなもんなの?という後味になってしまったのは、結局、カオスのようで、カオスじゃないじゃんという、映画全体がフェイクのように見えてしまったからかもしれません。特に、もともと何の想定外の事態が起きなかった場合、この犯人の行動プランがどういうものだったのかがわからないので、「全部、想定内やったんやないの?」とツッコミをいれたくなってしまいます。

「カオス」なんていう大上段に振りかぶったタイトルを除けば、二転三転するサスペンスとしてなかなか楽しめる佳作と言えます。また、出番は多くないながら、ジャスティン・ワデルを初めとする女性陣(鑑識の女刑事や実行犯の愛人など)が皆魅力的なのが印象的でした。音楽が意外やトレバー・ジョーンズでして、シンセのビートの効いた音と、オケ(エンドクレジットではロンドン交響楽団とあり)の両方をフルに鳴らして、ドラマを盛り上げています。

「タッチ・オブ・サウンド」

今回は新作から若干外れますけど、下高井戸シネマにて「タッチ・ザ・サウンド」というドキュメンタリーを観て来ました。ここは、いわゆる地域密着の名画座的な、こじまりとしたミニシアター風の作りで、ゆったりとしたスロープが見易い映画館です。デジタル音響こそ入っていませんが、アナログのステレオ感も十分でして、時々、横浜からここまで足を運んでしまいます。

世界的に有名な打楽器奏者(パーカッショニスト)エヴリン・グレニーは、幼いころに発症した聴力障害を克服し、今度、ドイツで新しい作品を作りにやってきます。彼女はスコットランド出身で、今はイギリスに居を置き、ニューヨークや日本にも演奏にやってきています。そんな彼女の精力的な活動をカメラは追っていきます。そして、彼女にとっての音とは何か、彼女を音楽へと駆り立てるものは何かが見えてきます。

エヴリン・グレニーという名前はかつてマリンバの演奏者として聞いたことがありまして、その時のプロフィールに聴力障害ありという記述を見て、へえー、聞こえなくてもできるんかいな?と思いました。実際のところ、彼女は完全に聞こえないのではなく、補聴器があればカバーできる程度の難聴のようで、でも彼女は補聴器に頼らないで音楽活動を続けています。単に楽器を演奏するだけでなく、何でも叩いて楽器にしてしまう、生活の中のあらゆる音から音楽を聞き取っていく、アーチストとしての彼女は、まさに天才的なセンスの持ち主と言えましょう。

この映画では意識的に生活の中のノイズを拾っています。空港や街角の音、正直言って、やかましいです。確かに映画の中では、それらのノイズをボリューム上げて流してきますから、そういう風に感じるのもやむをえないのですが、それらの音は実際に日々の生活の中にある音なので、単にやかましいだけでなく、「こんなに色々な音に囲まれて暮らしているのか」と再認識させられます。こんなやかましい中で暮らしているってのは、精神的におかしくならないのかなあって、映画とは直接関係ないところが気になってしまいました。

ただ、映画の後半で、日本のお寺が出てきて、静寂を象徴するシーンが登場するのですが、そこで、「静寂と音は相反するものではなく、静寂というのは最も大きくて重い音だ」というナレーションがかぶさりますので、耳障りな街頭ノイズもそれに比べれば小さいのかな。日本でも結構ロケしていまして、大阪の携帯電話の呼び込みやパチンコ屋とかの音が流れてくると、やっぱりやかましい。それをやかましいと感じられることにほっとしてる自分もいまして、音ってのは、聴く人によって感じ方様々なんだろうなあって実感しました。イヴリン自身はこれらのノイズに囲まれて暮らすことをどう思っているのかは語ってくれません。音は生命を宿していて、全ての生命には音があるということは伝わってくるのですが、現代の騒々しい音に囲まれた生活に生命の鼓動を聞き取ることができるのかどうか、私は疑問に思います。静寂には、耳も心もオープンにしたいと思う一方、耳をふさぎたくなるような音の中で暮らしている自分には、イヴリンに聞こえている音が聞き取れていないと感じてしまいました。

彼女が学校で難聴の女の子に打楽器を教えるシーンがありまして、そこで、音を耳からだけではなく、体全体で感じるようにと説きます。どこかに手を触れることで、音の振動を拡大して感じ取ることができる。「観客は、耳からしか音を聴けないけど、私たち演奏者は体全体で音を感じることができるのよ」という彼女の言葉にはなるほど感心させられるところがありました。でも、やはり映画の中の街のやかましさに引いてしまうと、この映画の言わんとするところから遠ざかってしまうような気がしました。それは、自分が終始観客の立場にあり、耳でしか音を聴いていない、聴けていないからかもしれません。

プロフィール

einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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