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「ボビー」はできばえよりもメッセージに魅かれるものあり

また、新作の「ボビー」をTOHOシネマズ川崎6で観てきました。ここの映画館の、映画鑑賞時の注意事項はアニメ形式になっていて、なかなか楽しいです。これ、二ヶ月に1回くらいネタを更新してくれるともっとうれしいのですが、やるかなー?

1968年6月4日ロスアンゼルスのアンバサダーホテルの朝は警報装置の誤作動から始まりました。この日は、大統領選のカリフォルニア州の予備選挙の投票日でした。ホテルの支配人はスタッフ全員に投票に行くようお達しをし、ロバート・ケネディの支援者グループは彼ボビーへの投票を呼びかけています。ベトナム行きを逃れるために結婚式を挙げる若いカップルもいれば、夫婦間がしっくり行ってない実業家の中年カップルや、ピークを過ぎた歌手とその夫、などなどホテルは様々な人のドラマを見せていきます。そして、その夜、ホテルにはカリフォルニア予備選で圧倒的有利が確定したボビー本人が現れて、勝利のスピーチをするのですが...。

俳優として有名なエミリオ・エステベス(私には「張り込み」シリーズの所帯持ち常識あり刑事が印象的)が脚本と監督を担当した映画で、低予算らしいのですが、製作総指揮にも名を連ねるアンソニー・ホプキンスを始め、シャロン・ストーン、デミ・ムーア、ウィリアム・H・メイシーなどのベテランから、イライジャ・ウッドやリンジー・ローハンといった若手まで、そうそうたる豪華キャストをそろえて、ある特別な1日の群像ドラマになっています。

ロバート・ケネディは、兄のジョンと同様、リベラルな言動で人気が高かった政治家ですが、兄と同様にその途半ばにして凶弾に倒れてしまいます。その日を描いているのですが、ケネディ自身はドラマの外の存在で、彼とは直接は関係ない様々な人々のドラマが並行して展開していきます。冒頭のニュースフィルムで、1968年当時の状況が語られます。ベトナム戦争は泥沼化し、黒人運動は高まりを見せていて、世界は暴力に満ちていることが実感できた時代です。まだ、ドラマの中でも、メキシコ人差別、LSD、チェコ民主化といったキーワードが出てきます。前半の淡々と様々な登場人物のドラマを見せていくあたりは、時代感よりも、普通の人々を描こうという姿勢が見えます。いわゆる時代を超えた普遍的なドラマがそこに展開するのです、その描き方はやや平板でして、「クラッシュ」なんかと比べると、ドラマとしてゆるい印象を持ってしまいます。

しかし、ラストで、ボビーが暗殺犯サーハンの銃弾に倒れ、その際に何人もの周囲の人間が巻き添えを食らってしまうところで、ドラマは一気にまわり始めます。バックには、ボビーの演説が流れます。人間はみな平等であり、差別と暴力は否定すべきだという彼の演説に、映像は銃撃の後の混乱の様を見せます。それまで、淡々と見せられてきた普通の人々のドラマが暴力によって、一瞬のうちに壊され、狂乱と混沌が巻き起こる様を映画はじっくりと見せます。

「同じ人間だから平等なんだ」「暴力は復讐の連鎖しか生み出さない」というボビーのメッセージを言いたいためにこの映画は作られているようです。そういう意味では、明確な政治的意図を持った映画です。でも、言ってることはまっとうで、かつ最近ないがしろにされているところを突いてると思います。つまり、時流に逆らうようなところがこの映画のポイントであり、でも、言われてみれば確かにそうだよねってところをボビーは説いているのです。そして、ラストのショックは、普通に暮らしていて人並みの悩みや葛藤に右往左往しているとき、突然の暴力がそれを無にしてしまう怖さを描いていると言えます。人種差別や、夫の浮気、ベトナム忌避など抱える問題のレベルは様々ですけど、暴力によって、ささやかな幸せも不幸もみんな踏みにじられてしまうという見せ方は、同時多発テロから即復讐の空爆に直結させた世論へのアンチテーゼと言ってもよいと思います。

豪華キャストは人数が多いので、全てのメンツに見せ場は与えきれてないのですが、その中でも、デミ・ムーアやイライジャ・ウッドが意外な存在感を示し、また演技の見せ場ということではクリスチャン・スレーターが点数を稼ぎました。さらに挙げるなら若手のメアリー・エリザベス・ウィンステッドがメチャかわいくて、色々公開作があるようなので、今後が楽しみです。

エミリオ・エステベスの演出は、前半から中盤が多様なドラマをさばくテンポが今一つだったのですが、それでも、この映画でこういうことを言いたいんだ、というのをラストで正面から言い切ったという点で評価できると思います。ドラマのうまさ、映画の緻密さとかから言えば、今イチな部分もあるけど、この映画の言わんとするところには耳を傾ける値打ちがある、そんな感じの映画でした。

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ダメ男、バブルに躍る!「幸せのちから」ってそんな感じ

また、新作の話です。藤沢オデオン2番館で「幸せのちから」を観てきました。264席の劇場としての作りは最高レベルのもので、天井高くて画面の観やすい音響効果良好な映画館はそうはないです。難を挙げるなら、ロビーが狭いところかな。でも、この映画館はお気に入りです。

医療機器のセールスマン、クリス(ウィル・スミス)は、商品の骨密度測定器が売れなくて家には在庫の山、共働きの奥さん(タンディ・ニュートン)はついに愛想を尽かして家を出てしまいます。何とか自分の息子を手元におくことは許してもらったクリスですが、家賃滞納で部屋を追い出されて、ホームレス状態。証券会社の任用試験を受けることにしたのですが、試用期間が半年あって、その間は無給、住むところも事欠くクリスですが、駅のトイレや教会などに寝泊りしながら、骨密度測定器を売りつつ、証券会社でも実績を上げていきます。そして、試用期間が終了する時、果たしてクリスは20分の1の本採用を勝ち取ることができるのでしょうか。

ウィル・スミスが、自分の息子を親子を演じることが話題になっていまして、感動が売りの映画らしいです。予告編もそんな感じでしたもの。ところが本編を観てみるとちょっと様子が違うのですね。ウィル・スミスのスター映画かと思ってたのですが、この話には、スターを持ってくる必要があったのだと気づくと、なかなか面白い視点が見えてきます。

これは、クリス・ガードナーという実在の投資会社の社長が若い頃に味わったどん底体験を映画化したものです。まあ、偉い人も昔の苦労話ということもできるのですが、大体「あたしも昔は苦労してねえ」なんて話は酒の席でも聞きたくないものです。ところが、この映画では、それを意外なほど淡々と見せて、アメリカンドリーム的クドさをおさえているのが面白いと思いました。イタリア出身のガブリエレ・ムッチーノ監督は、主人公にヒロイックなキャラを与えていません。だからこそ、娯楽映画に仕立てあげるために、ウィル・スミスというスターが必要だったと言えます。もう一つ、ウィル・スミスが必要だったのは、クリスがかなりダメな奴だからだと思ってます。

クリス・ガードナーって、骨密度測定器が売れるからって、借金して山ほどそれを買い込んで、これでひとやま当てようと思っていたのですが、そのアテがはずれて機械が売れなくて困ってるという、ことの後先をあまり考えてない奴らしいのですよ。これでは、奥さんに愛想を尽かされても仕方がないです。さらに、生活費もままならないにもかかわらず、6ヶ月間無償の試用期間がある証券会社に応募しちゃうといういい度胸。その上、そんな状況下なのに息子を引き取っちゃうし、でも、いざというときは、奥さんに子供のお迎えお願いですもん。確かに、主人公に運がないのはわかりますけど、でも自業自得みたいなところも結構あるんですよ。正直、こんなダンナに息子を預けちゃう奥さんの心理は理解しかねるものがありました。

そんな奴を主人公に感動の映画に仕上げてしまう、スティーブン・コンラッドの脚本とムッチーノ演出は見事です。主人公を極端に美化しないで、結構困った奴に描いている誠実さは評価したいです。それとも、この程度の奴でも、がんばればセレブな社長になれるってことを言いたかったのかしら。それはそれでアメリカン・ドリームといえそうですが、そういうメッセージは野心を持ってがんばってる人より、日々をかつかつと過ごして未来への希望もなくなっている人へ向けてのファンタジーみたいに思えてきます。と、いうところで、リアリティを薄める意味でも、スター、ウィル・スミスが必要だったのではないかしら。

細かいところに気付いちゃうと、ドラマとしての感銘が薄まっちゃうから、観客がクリスに共感できるように、スターを使ったのだと思ってます。そのあざとさを除けば、ドラマとしては面白くできてますし、子供を使って泣かせるシーンがなかったのも点数高いです。子供に演技の見せ場を作らないでサラリと流したセンスは買いです。

一時期、アメリカ映画でファミリーとしてのつながりにこだわる映画がたくさん作られましたが、今回の作品は、ファミリーへのこだわりはあまりありません。子供の存在は、主人公の試練の一つみたいな扱いでして、ホントなら、もっと親子の葛藤があっていい筈なのがあっさりと流されています。子供がほとんど親に文句言わないいい子なのです。ホントにこんな子いるのかな、というくらい親の邪魔にならない子供。唯一、教会に並ぶために急いでるときに人形を落としたシーンで親に逆らいかけるのですが、結局そこで親子の対立にはなりません。

ですから、ウィル・スミスが頑張って就職できてよかったねーってところだけ注目する映画なのかもしれません。後、もう一つ、就職先が株屋だというところが気になってまして、こういうバブルな職業のステータスを上げようとしてる節もあるのですよ。これまでの肉体労働(?)専門だったウィル・スミスも、金を左右に動かす仕事につくようになったってのは、アメリカもまだバブルなのかなって気がしてしまうのでした。

静岡南街劇場の記憶

今回は昔の静岡の映画館のお話です。静岡南街劇場という、静岡駅の南口を出て右へちょっと歩いていくと見つかる映画館がありました。私が物心ついたときには、邦画のピンク映画ばっかりやってるという印象だったのですが、私が高校生の時、ほんの一時的に週替わりの洋画の名画座(最初は3本立て、後半は2本立てだったように思います。)になっていた時期がありました。

静岡新聞の新聞広告を見て「あれ?」と思ったのですが、当時は2本立て封切が学生1000円だったのが、割引券を持ってくと、学生が500円で3本観られるってのがちょっとうれしいということで、番組を選らんで5回ほど観に行きました。東京だと3本立ての名画座なんて珍しくもなかったのでしょうけど、静岡ではすごく新鮮でした。行ってみると、何だかコンクリートの一戸建て映画館で、なぜか右後ろの部分が盛り上がってるという変な作りでして、静岡としては斬新な企画だったのに、私が観に行ったときもあまりお客が入っておらず、1年もたなかったのではなかったのかなあ。

私が観に行った番組を思い出してみますと

「巨大生物の島」「シンドバッド黄金の航海」「グリズリー」
ゲテもの3本立てなんですが、これはどこを観ても楽しめるという3本立ての王道みたいな番組でした。レイ・ハリーハウゼンすごい、とか、グリズリーの音楽ええやんとかそんなところを楽しんでいました。

「続・荒野の用心棒」「星空の用心棒」「暁の用心棒」
生まれて初めて映画館でマカロニウエスタンを観た3本立てでした。どれもフィルムがボロボロで褪色してましたけど、「星空の用心棒」が面白かったという記憶があります。「続・荒野」が陰、「星空」が陽、「暁」がどっちつかずみたいな印象でした。

「悪魔の追跡」「軍用列車」「サンダーボルト」
アクション映画の3本立てで、これもクオリティ高かったですねえ。「悪魔の追跡」は典型的なB級映画のつくりなのに、今見てもよくできてると思いますもん。「サンダー・ボルト」は地味なローカル強盗もので、ラストが70年代の映画らしくしんみりしてるんですよね。

「黄金の7人 1+6 エロチカ大作戦」「アランドロンのゾロ」「アマゾネス」
これは、エッチ路線にアラン・ドロンを足しましたという感じの3本立てでしたけど、「ゾロ」が面白かったという以外には、あまり記憶に残っていません。

「続・青い体験」「新・青い体験」
「青い体験」といえばラウラ・アントネッリの完熟ボディに少年がメロメロになる映画、というはずなんですが、「新」の方は、田舎出の女の子が色男にだまされてエロ8ミリを撮られてしまうというお話。派手に脱いでくれるヒロインを演じたクー・スタークという女優さんがかわいいのですが、この人、後でイギリス王室のスキャンダルの方で有名になっちゃったんですよね。

と、まあこんな感じで高校生の私を楽しませてくれた企画も一時的なものでした。この時、「タクシードライバー」「真夜中のカーボーイ」「バニシング・ポイント」といった70年代の名作も上映していたようなのですが、記憶に残っている人っていらっしゃらないのでしょうか。

「雨月物語」に見る、昭和28年と今のギャップが興味深い

今回は旧作昭和28年の「雨月物語」を溝口健二特集として、恵比寿ガーデンシネマ2で観てきました。ここは、整理券の順番で入場するスタイルで朝一番にすべての回の発券を開始します。とにかく、当日早く行けば確実に早い入場が出来るという地元民有利の映画館になっています。今回はニュープリントによる上映とのことでしたが、フィルムの傷は否めず、デジタル補正して保存版を作って欲しいと思いました。

時は戦国時代、陶工の源十郎(森雅之)は焼いた瀬戸物で金を得たのに味をしめて、再度金を稼ごうと妻宮木(田中絹代)と子供を置いて、琵琶湖を渡って大溝の町へ瀬戸物を売りに行きます。そこで、若狭(京マチ子)という美しい女の家に招かれ、そこで若狭と契りを結んでしまいます。しかし、若狭はこの世のものではなく、源十郎をあの世へ連れ去ろうとしていたのでした。通りかかった老僧が源十郎の死相を見抜き、彼の体に経文を書くことで何とか若狭から逃れ、源十郎は故郷の家へと帰り着くのでした。それを、迎える宮木でしたが、その宮木も夫の不在の間に落ち武者によってその命を失っていたのでした。

上田秋成の「雨月物語」の2エピソード「浅茅が宿」「蛇淫の精」を基にした映画でして、忠実な映画化ではなく、現代風にアレンジしたというような注釈が冒頭に出ます。原作は、これこれこういう事がありましたというスタンスのお話でしたが、映画版は源十郎と宮木の陶工一家の絆を中心に据えた愛の物語として盛り上がる作りになっています。

映画では、宮木のモノローグが物語の中心であるかのように描かれますので、金と色の欲に迷った源十郎も、最後は一番大事なものに気づいて、自分のところに帰ってきてくれた、というハッピーエンドのような印象を与えます。一方、源十郎をとり殺そうとする若狭には、あまり同情は感じさせないいわゆる怪異現象の一部という見せ方になっております。まあ、今の感性で見るとそう見えるのかもしれません。製作当時の昭和28年の感覚からすれば、鎧から声が謡が聞こえてくるとか、経文に怖れをなす若狭の姿が「もののあはれ」を感じさせるものだったのかもしれません。

宮木と源十郎の夫婦と対照的に描かれるのが、藤兵衛(小沢栄)と阿浜(水戸光子)の夫婦で、もとから山っ気のある藤兵衛が武士になりたいがために都で阿浜と行きはぐれ、その間に阿浜は男たちに犯されて、娼婦に身を落としてしまいます。一方、ひょんなことで名将の首を手に入れ、武士として名を上げてしまった藤兵衛が、供を連れて立ち寄った宿で客をとっている阿浜と再会します。そこで、藤兵衛は阿浜に詫びて、侍をやめて国に帰ってくるという展開は、救いのないこの映画で、ささやかなユーモアと救いをもたらします。自分の分相応な欲を持って生きること、それは、上昇志向の行け行けどんどんとは違う、穏やかだけど腰の据わった選択です。

でも、一方で、分相応に生きることを否定する考え方もあります。つまり、人間が生まれで人生が決まってしまうってのは身分制度を肯定するものだから、分相応に甘んじろというのは、為政者にだまされているんだと言われると、そうなのかなって気もしてきます。藤兵衛は自分の現状に満足せず、戦乱の世に侍となって身を立てようとします。これって、バブルの頃の一攫千金と似たところがあります。この映画では、そんな一攫千金は否定され、分相応の穏やかな暮らしこそが価値があるという結論に至ります。昭和28年当時は、朝鮮特需の成金とかがまだ羽振りがよくて、それに対するアンチテーゼだと受け取れないこともありません。

分相応に生きるというのは、一時、バブルの時に否定されちゃったんだよなあってのを思い出しました。でも、これからの下流社会では、また、分相応に生きるというのが息を吹き返しつつあります。でも、それは「貧乏人は貧乏に生きろ」ということにつながるので、素直に賛成もできないんだよなあ。この映画で藤兵衛は滑稽で思慮が足りない男に描かれてますが、上昇志向を笑いの対象にするのは、貧乏人同士が足を引っ張り合う悪平等にもつながります。昭和28年当時、さらりと描かれたことが、今の時代にあてはめるといろいろと、考えさせられるところが多いことに気付かされます。

もともとが怪異譚なので、その雰囲気描写は見事です。湖を渡る船の幻想的な映像、朽木屋敷での若狭の舞の美しくも恐ろしい様など見所が多いです。しかし、一番の見せ場になるかと思った源十郎と宮木の再会シーンがさらりと描かれていたのが意外でした。まあ、意外性を狙ったのかもしれませんが、最初明かりのないあばら家へ帰ってきた源十郎が、裏手にまわってから正面に戻ると、今度は明りが灯っていて火の横に宮木が座っているというトリッキーな絵作りは、品のよい怪異を見せています。ラストは今の感覚からすると饒舌とも思える宮木の霊のモノローグで締め括られるのですが、ここまで説明しないと、宮木の霊が源十郎や子供のそばにいるということを伝えられなかったのかもしれません。人間は、死んだら成仏してあの世に行くもので、この世に未練を残す霊は幽霊とか怨霊の類だ、という感覚では、ラストはまことに不思議で歯切れの悪いものになります。私には、死んでも夫や子供を見守り続ける宮木の霊の存在をすんなりと受け入れることができました。そう考えると今の方が死後の霊が身近な存在なのかもしれません。だって、死んたのに遠くに行ってないってのはよく考えたら変ですもの。死後や霊の考え方も、当時と今ではかなり違うんだなってことが垣間見えるラストだと思います。昔なら、死んだお母さんはあのお星様になったのよ、って言うところを、いつもあなたの側であなたを見守っているのよ、って言うのは、ずいぶんと違う感覚だと思いますもの。

「チャップリンのサーカス」でデジャブ?

今回は、会社の出張のついでに、岡山のシネ・クレール石関にて「チャップリンのサーカス」を観てきました。初めての映画館でしたが、49席のなだらかなスロープのあるミニシアターで、画面はシネパトス3より大きいくらい。ドルビーデジタルが入っていて、ミニシアター系の映画をいろいろと上映しているようでした。かつて、横浜にも関内アカデミーがあったっけなあってのを思い出してしまいました。ただ、見易さは、シネ・クレールの方が断然上ですが。

浮浪者(チャールズ・チャップリン)は、スリに巻き込まれて、警官から逃げ回っているうちに、とあるサーカス団に逃げ込みます。お客に全然受けないサーカスだったのですが、浮浪者と警官の追いかけっこが観客に大うけ。浮浪者はサーカス団に雇われることになりました。最初はピエロで使おうとコントをやらせてみるのですがまるでダメ。一度はクビになったものの小道具係として再度雇われます。彼が道具を運ぶさまがまた観客に大ウケ。そんな彼は曲馬乗りの娘と仲良くなります。でも、彼女は綱渡りの男に一目惚れ、そんな綱渡り野郎に嫉妬心がメラメラと燃えるのですが、そんなある日、彼は綱渡りの代役をやる羽目になってしまいます。これで、彼女にいいところを見せたいのですが、果たしてうまくいくのかしら。

1928年の映画で、当時はサイレントだったものを、1970年にチャップリン自身が音楽をつけたサウンド版でした。音楽はかなりドラマにマッチしてドラマチックにつけられており、単なる伴奏音楽以上のものになっていましたから、サイレント版で観たらかなり印象が変わるかも。ラストの余韻もサイレント版だとすっきりしすぎて、ペーソスが少なめになっちゃうかも。オープニングの主題歌のちょっと物悲しい節回しもサウンド版ならではの導入部になっていまして、ラストのハッピーエンドとのコントラストが明快になり、さらには、物悲しさがヒロインから主人公へと移っていくという趣向も明確に伝わってきました。

主人公の浮浪者はチャップリンの典型パターン、ちょび髭、山高帽、ステッキというスタイル。冒頭の警官との追いかけっこから、スピード感のあるお笑いが楽しい見せ場になっています。特に鏡の間でのドタバタは、固定アングルで最大限の意外性を演出していまして、感心してしまいました。オーソン・ウェルズが「上海から来た女」でこれをパクったとは言いませんが、仕掛けの使い方のうまさはチャップリンの方が上ではないかしら。

そして、サーカス団に舞台を移してからのドタバタでは、採用試験での細かい笑いがおかしかったです。道化師がコントをまず演じて、チャップリンがそれをなぞろうとしてメチャクチャにしてしまう、というのを繰り返すのです。もともとの笑劇を、さらに壊すことでの笑いを呼ぶってのは、ちょっと見、難しそうなんですが、それでも見事に計算された群舞を見るようなこのシーンは、チャップリンの一人芝居でない分、余計目にその完成度に感心させられます。

また、繰り返しギャグということで、何かというとチャップリンを追いかけまわす馬の存在がおかしかったです。そのほか、動物を使った笑いも多く、特に猿に噛まれながら綱渡りをするシーンは圧巻でした。ライオンとの絡みは、当時としても可能なマスク合成を使ったのかと思ったのですが、実際に至近距離で演技をしていたようで、また感心。綱渡りシーンは、最初は命綱をつけているという設定で、実際に針金が見えてるんですが、その後、それがはずれてしまい、チャップリンは命綱なしで綱渡りをする羽目になります。カメラが、チャップリンと観客席を同時に捉えると、その下に安全ネットもないことがわかります。うーん、すごい、すごいけど危ない。最近の特殊効果であれば、命綱や安全ネットをデジタル処理で消したり、あるいはチャップリンそのものをCGで表現するかもしれませんが、当時はそのまんまやってるのですから、危険なことこの上ない。確かに、危険な方が迫力はあるんですが、やはり、安全性の高まっている現代の方がいい時代なのだと思います。特殊効果、視覚効果の進歩が、演技者やスタントマンを危険から守ってるって考えたいです。

さて、クライマックスは、サーカスをクビになって、また浮浪者になった主人公の前に、曲馬乗りの娘が現れて「私を一緒に連れてって」というくだりです。これまで、さんざんドタバタをやっていた主人公が一転、綱渡りの二枚目を呼んで二人を結婚させてしまうのです。そして、夫婦になった綱渡りの男と娘がサーカスに復帰して、サーカス団が街を去っていくシーン、最後の車に乗るはずだった主人公は、サーカスの一向を見送り、また一人で、トボトボと歩き出すのです。サーカス団が何台もの馬車で移動していく様がなかなか印象的で、馬車が去った後、一人ポツンとたたずむ主人公の姿が切ない後味を運んできます。うーん、笑いの後のペーソスにまた感心。古典的名作だろうが、初めて観る映画の感想だから、こんな感じになるのもやむなしということでご容赦の程を。

今、こういうドタバタを大真面目にやってる人って、志村けんくらいしかいないんではないかしら。この「サーカス」の趣向や呼吸は、志村けんのコントでよくお目にかかりますもの。また、若い男女を結び合わせて、自分は一人で去っていくというのは、寅さんですね。昔の映画を観ていて楽しいのは、こういう既視感にもあります。この場合は、志村けんのコントや寅さんなんですが、そっかー、そいつらの原点がこの辺りにあるのかーってのが、楽しい発見になります。たまには昔の映画も観てみるもんだねえって気分になりますもの。

「カンバセーションズ」は仕掛けがなくてもいいとこ突いてるし、ヒロイン好き。

また、新作の「カンバセーションズ」をシネスイッチ銀座1で観てきました。ここは昔は銀座文化と言ってたんですが、音がよくなかったんですが、デジタル音響にしてから音は良好、座席配置も互い違いにするなど改善がされてきた映画館です。後、もう少しスクリーン位置が高いといいのですが。ちょっと座高のきつい人が前に座るとつらいのですよ。

ニューヨークの結婚式の会場で、出会った男(アーロン・エッカート)と女(ヘレナ・ボナム・カーター)。女は花嫁の付き添い人、男は花嫁の兄らしいのですが、会話の途中から、二人は旧知の仲で、思わぬ再会をしていることがわかってきます。今、男には若いダンサーの恋人がいて、女にはロンドンに心臓外科医の夫と3人の連れ子がいて、次の日の早朝の飛行機で帰る予定です。そして、二人はホテルの女の部屋と向かいます。ベッドをともにするのですが、そこに時間の経過を感じてしまう二人、それでも男は、何かをつなぎとめようとするのですが。

ハンス・カノーザ監督の第二作で、東京映画祭で審査員特別賞を受賞した作品です。シネスコ画面を2つに分割し、常に2フレームの画面で展開するという珍しい構成の映画です。会話の切り替えしを一気に見せたり、回想ショットを同時に見せたり、やや見ていて疲れる映画ではありました。会話のリアリティは感じるのですが、そこに感情移入できるまでは、やや忙しい印象でした。お話は中年男女の機微のいいところを突いてるし、役者もいいので、こんな仕掛けはなくても、十分面白い映画に仕上がったのではないかという気がします。映画の仕掛けを飲み込むまでに若干時間がかかったのもマイナス点でした。

元はちょっとだけ夫婦だった二人が思わぬ再会を果たしてしまい、ベッドをともにするのですが、そこに昔とは違う時間の経過を実感します。男は肉付きよくなってるし、女は肌が乾燥気味、そんなリアルな会話は、おかしさよりも、結構きっついなあって感じが先に立ちます。時間が二人を変えてしまう、それは肉体的なものだけなのかしら? ここで、男と女で微妙な違いを見せます。男は懸命に過去との共通点を探し、そこにこだわろうとするのですが、女は過去にそっけない素振り。そして、男は今の彼女と何だか気まずい予感の朝を迎え、女は家族の待つロンドンへと向かうという結末はかなり意地の悪さを感じさせます。

劇的再会に、男はいろいろと小細工したり、妙にロマンチストぶったりするのですが、それって何だかこっけいで幼い感じがします。女が、少年と年増女みたいだというのはさもありなんという気がしましたもの。この二人、同じ38歳という設定なので、同じ年なら、男の方が子供だねって話なのかもしれません。一般に子供時代は、女の子の方がおませさんなんですけど、いい年こいても、その関係が変わらないのだしたら、男ってアホで気の毒な動物です。女のダンナが45歳の心臓外科医で、良好な夫婦関係らしいですから、そのくらい男が年上でないと安定しないのかしら。

映画は、ダブルフレームで一つの出来事を描いているのですが、時にずれてパラレルワールドになるところが面白かったです。男の願望が映像化されてるようなのですが、結局、現実に引き戻されるのが男性観客としてはおかしくも悲しいです。昔はよかった、今は多少体は違えど昔のようになれるはずというロマンチック願望はなんとなくわかるものがあるんですが、女の方にそういう素振りの片鱗もないのが見事というか、男がこっけいに見えてしまうのです。そんな男女のちょっとしたニアミスを小話というか短編小説を読むような味わいに仕上げています。84分という上映時間もこの内容にふさわしいボリュームと言えます。

この映画はダブルフレームの仕掛けよりも役者のよさに負うところが大きかったようです。男を演じるアーロン・エッカートは、かっこつけ少年の心を持つ中年男を軽く演じて見せました。この軽さが肝心で、妙にシリアスにならない演技がこの映画にライトな味わいを与えています。さらに、女を演じたヘレナ・ボナム・カーターが素晴らしく、年齢相応のリアリティを自然な形で演じきりました。この人はホントに演技で美しく見せる人だと思っているのですが、この作品でも、少年の心を惑わすに十分な美しさと、人間的な奥行きを見せています。年齢を感じさせる体型でも、顔に小じわがあっても美しいという、まあ私がファンだからそう感じるのかもしれませんけど。

「Gガール 破壊的な彼女」は女性からすると溜飲下がる映画なのか?

新作の「Gガール 破壊的な彼女」を日比谷みゆき座で観て来ました。ここはかつてスカラ座2と呼ばれたミニシアターだったのが、旧みゆき座の閉館とともに格上げになった映画館です。やや縦長のスロープのある座席は快適なのですが、スクリーンが小さいせいか、真ん中あたりでもかなり遠くにスクリーンを観るような感じになります。かと言ってあまり前に行くとスクリーンを見上げる形になるというなかなかベストポジションがとりにくい映画館です。

ニューヨークの正義を守るスーパーヒーロー(英語でもヒーローって言ってた)Gガール(ユマ・サーマン)は今日も大活躍です。そんな彼女も普段は展覧会の企画をするキャリアウーマン、ジェニーという顔を持っていました。そんなジェニーに声をかけたのが建設会社に勤めるマット(ルーク・ウィルソン)。二人は意気投合したのですが、ジェニーは猜疑心が強くて嫉妬深いといういわゆる地雷系の女性だったのです。これはたまらんと別れ話を切り出そうにも、相手はスーパーパワーのGガール。普段は正義のために日夜戦っているのですが、男女の仲は別物らしくて、かなり悪質なストーカーになっちゃいます。そこへ現れるのが、Gガールの宿敵ベッドラム、彼女を無力にするために協力しろと脅されて、彼らの利害が一致するのですが。

Gガールというスーパーヒーローという設定は、スーパーマンと同じで火事やら銀行強盗とかが発生すると、空を飛んでやってきて超人パワーで事件を解決します。そして、普段は黒縁メガネをかけた地味なキャラという設定まで同じ。ただし、Gガールは女性でそれもかなり困ったちゃんなタイプだったというのがこの映画の見所になります。こうなると、昨年の「スーパーマン・リターンズ」を思い出すのですが、スーパーマンも結構色気づいてたのですが、Gガールはもっとすごい、いわゆるスキ者ですね、彼女。しかし、一度思い込んだら情が厚いというか、とても嫉妬深くて猜疑心が強い。確かに24時間、事件が起こると飛んでいかなくちゃならないのですから、ストレスはかなりたまりそう。その辺のところをスーパーマンは運命とか義務感で乗り切っていたのですが、こちらのGガールは出自は地球、アメリカの田舎のオタク系のメガネっ娘が隕石の放射線を浴びたおかげで得た能力を使っての人助け、これはもう完全にボランティアの世界。もともとが、思い込みの強い女の子がスーパーヒーローやってるわけで、プライベートに戻れば、それがモロに出てしまう。さらに悪いことにプライベートにもスーパーパワーを持ち込むものだから、相手の男はかないません。さらには、矛先が彼の女友達にまで及んでしまうのですから、たまったものではありません。

ライトなコメディで実績のあるアイバン・ライトマン監督は、スーパーヒーローが嫉妬心の塊だったら?というネタで、無難に楽しめる一本の映画に仕上げました。もう少し、スーパーヒーローならではの悲哀が出てもいいんじゃないかとも思ったのですが、強引なハッピーエンドをさらりと見せるセンスはなかなかうまいと思いました。美形っぽいけど、地味で神経質そうな女の子と付き合ったら、エッチにはすごく積極的で、すごいかなと思う間もなく、その神経質さが嫉妬心や征服欲として現れてくるという、まあ、典型的な地雷女のパターンなのですが、これをスーパーヒーローでやるという仕掛けはなかなかうまく行ってます。

ヒロインを演じるユマ・サーマンがGガールのかっこよさは勿論、ブチ切れジェニーの方もリアルに好演していまして、色恋沙汰についてはまるで単純で子供みたいなキャラを楽しそうに演じています。相手役のマットを演じるルーク・ウィルソンが、意図的に平凡な男のキャラになっていて、いかにも並の男、という感じを出して好演しています。Gガールの宿敵となるベッドラムというのが実は彼女とは高校の同級生で、どっちもモテナイ者同士の連帯感を持っていたのが、隕石の放射線を浴びたジェニーだけがかっこよくなってしまって、ベッドラムは置いてきぼりをくってしまったという悲しい過去があったのです。ですから、ベッドラムが彼女に対してはかなり屈折した愛憎入り混じった感情を持ってまして、それでGガールから超能力を奪おうと画策するのでした。

一方、マットもジェニーに嫌気が指したとき、それまで単なる仕事仲間だったハンナ(アンナ・ファリスがかわいい)への恋愛感情に改めて気付きます。まあ、こいつも自分勝手なやつではあるんですが、ハンナと相思相愛になってくるので、ジェニーはますます逆上するという寸法です。こんなことされたらかなわないってのを、普通の人ではできない能力でやらかすので、ついにマットは職も失ってしまいます。何だかテレビの「こたえてちょーだい」の再現ドラマみたいになってくるのですが、ライトマンの演出は、あくまで普通の嫉妬深い女性のやりたいと思うことを、Gガールの能力でやっちゃってるという見せ方をしているので、「正義のヒーローがそんなことしていいのかよ」といった倫理的な葛藤は一切発生しません。むしろ、薄情な男に捨てられた女性が見たら拍手喝采するんじゃないかと思ってしまいましたもの。移り気な浮気男にこれくらいのことをやってやりたいと思う女性は結構いらっしゃるのではないのかしら。

そんなこんなで、もともと宿敵でも何でもなかったジェニーとベッドラムが納まるところに納まってハッピーエンドになるんですが、それにさらにおまけをつくところがおかしいです。バットマンにロビンができるような結末はライトマンらしいまるくおさめたという感じです。毒がありそうで毒に走らないライトマンのセンスはお気楽に観るには丁度いい具合でして、これを物足りないと思えば、ファレリー兄弟の映画とか、「サウスパーク」を観ればいいわけでして、このくらいの落としどころの映画がコンスタントに作られて欲しいと思います。ま、セックスネタが多いから親子で観る映画じゃないですけど、デートコメディとしては結構点数高いです。

明るく楽しい「DOA デッド・オア・アライブ」

新作の「DOA デッド・オア・アライブ」を、有楽町スバル座で観て来ました。ここは歴史ある昔からの映画館で、完全にフラットな場内で、かつてはスクリーンが低くて前の人の頭が邪魔になる映画館の典型だったのですが、その後、若干スクリーンを上げて、以前よりは観やすい映画館になっています。映画館の雰囲気そのものは大変いいので、もう一回りスクリーンを小さくして、もっと観やすくしていただきたいものです。しかし、この映画、シネパトス系の映画なんだけど、スバル座で上映ってのがちょっと不思議です。うーんと前なら、ニュー東宝シネマ1か、丸の内東宝あたりで上映する映画なんでしょうけど、それらの映画館がなくなっちゃうとスバル座で上映する羽目になるんでしょうね。スバル座が気の毒なような。

世界の格闘技のエキスパートを集めた賞金一千万ドルのトーナメントDOA、そこには、女子プロレスラーのティナ、大泥棒クリスティ(ホリー・バランス)、日本の北上山地のかすみ姫(デヴォン青木)、その家臣ハヤブサ(ケイン・コスギ)といった面々が集められていました。かすみは、前回の大会で消息を絶った兄ハヤテを探すために一族を裏切っての参加です。主催者のドノヴァン(エリック・ロバーツ)は何やら彼女らの体にちっちゃい機械(ナノボット)を送り込んで、何かたくらんでいるみたい。そして大会が始まり、ティナ、かすみ、クリスティ、ハヤブサがベスト4に勝ち残るのですが、そこでついにドノヴァンはその正体を現します。果たして、彼らは生き残ることができるのでしょうか。

もともとは香港映画で実績を積み、「リーサル・ウェポン4」「トランスポーター」のアクション監督でも有名で、「クローサー」という佳作も手がけているコーリー・ユンが、アメリカ資本で香港スタッフを使って作った一品です。もとが格闘ゲームだそうですが、ゲームには全くくわしくないのでどこまでゲームに忠実なのかはわかりません。まあ、かすみ姫のぶっとんだ設定がゲームなのかなというくらいで、後はテンポのよい香港アクションという印象でした。ワイヤー・ワークやCGを積極的に取り入れて、ありえないアクションを次々と繰り出して、さらに出てくる女性陣5人の水着姿もたっぷり拝めて、最後は大屋台崩しもあるという、サービス精神あふれる作りは点数高いです。いつの間にか終わっているという1時間26分という短さもいいです。

こういう映画を手堅く面白く作るってのは結構な職人芸が必要でして、特にアクション主体になる映画をドラマでダレないようにするになっているのは、結構感心しました。多分、編集でだいぶ刈り込んだのではないかしら。香港映画によくある泥臭い笑いもなく、また、アクションシーンも舞台をリング、室内、浜辺、竹やぶなど場所の特性を生かしたものになっており、特にジェイミー・プレスリーのアクションがかっこよく決まりました。ヒロイン3人というと、チャーリーズ・エンジェルを思わせるのですが、主演3人の役者の格の違いは致し方ないものがあり、キャラを描き込むことより、ひたすらアクションシーンをつないでいきます。色恋沙汰もありそうな予感があったのですが、最後はそういうのを一切すっとばかして大団円としてしまう潔さは評価したいところです。

昔の香港アクションは出演者の体技をいかに隅々まで見せるかという視点で、撮影し、極力カット割りを排して、その生の演技の凄さで観客を魅了したのですが、最近の映画はリアルタイムよりやや早めに見せるくらい細かくカットをつないでいく傾向があります。まあ、ワイヤーやCGが普及してしまうと、生の体技のリアリティが薄れてしまっているので、個人技より、構成、SFXなどを組み合わせたアクション全体で楽しませようとしています。

こういう明るく楽しいちょっぴりエッチな映画ってなかなか公開されなくなっちゃいました。たまにもう少し安いアンディ・シダリスの映画とかがテレビ東京で放送されますが、劇場にかかることはめったにありません。それだけに劇場公開されたことを素直に喜びたいと思います。「ルワンダの涙」みたいなヘビーな感動もいいんですが、映画館は、泣いたり感動するだけの場所じゃないですからね。水着のおネエちゃんをかっこよく見せるためにワイヤーやらCGを贅沢に使うってのがいいんですよ。

「あなたになら言える秘密のこと」という邦題ほどは甘くないので注意

新作でまた、「あなたになら言える秘密のこと」という長ったらしいタイトルの映画をTOHOシネマズ川崎7で観て来ました。今日(2007/02/11)の「不都合な真実」が朝一番で全回売り切れでした。何かあったんかしら。私が初日に観たときはガラガラだったのに。

工場につとめるハンナ(サラ・ポーリー)は難聴で人付き合いもあまりよくありません。上司にすすめられた休暇先で、看護婦を探してる男に「私が看護婦だ」と志願します。海底油田の施設での事故で火傷を負った男ジョゼフ(ティム・ロビンス)が移送できるようになるまでの看護です。ですが、ハンナはジョゼフの前で本名もコーラと偽り、自分のこともほとんど話しません。一時的な失明状態にあるジョゼフは何とか彼女の心を開こうとします。油田施設は事故のためほとんど人がおらず皆が孤独を楽しんでいるようなところもある不思議な場所で、ハンナにとっても心地よい場所だったようです。それでも、少しずつお互いのことを語り始める二人。ジョゼフには事故にまつわる人に言えない秘密がありました。そして、ハンナにも人に言えない秘密があったのです。

「死ぬ前にしたい10のこと」のイザベル・コイシェ監督が、同じくサラ・ポーリーを主演に据えた傷ついた心の癒しと愛の物語です。こう書くと甘いラブストーリーのようですが、お話の構成から、その本質が見えてくるのはラスト近くですし、その本質はかなりヘビーなものになっています。冒頭、無表情に工場で働き、ライスとチキンとリンゴの弁当を味がないかのように食べる彼女の姿が、冷え冷えとした空気の中で描かれます。そのバックに幼い女の子のナレーションが入ります。姿を見せずにハンナのことを語っているので、ハンナには、別居してる子供か、年の離れたペンフレンドでもいるのかなと思わせるのですが、その正体はわかりません。ハンナが休暇をとって海辺の町へ出かけても、そこの空はどんよりと曇っていて、油田施設へ移ってからも、その沈んだ空気感のまま、物語は進んでいきます。

看護婦として仕事を始めてからも、最初のうちは極めて事務的にジョゼフに接します。ジョゼフの携帯のメッセージを盗み聞いたりもするんですが、あまり、看護すること自体への思い入れもなさそうです。そんな、彼女がジョゼフの食べ残した料理をむさぼるように食べるシーンがあり、意識的に感情を押し殺していることがわかってきます。そして、人のよい料理人や海洋調査員と仲良くなっていくあたりから、冒頭の工場のシーンとは、彼女の表情が変わってきます。辺鄙で四方を海に囲まれた閉塞された場所、しかし、そこに彼女の心を癒すものがあったようなのです。あまり人のいない孤独になれる場所で癒される彼女の秘密はなかなか明らかになりません。そんな彼女に、ついにジョゼフが、火傷の原因となった事故で親友が死んだのは、自分が原因だったということを伝えます。その持って行き場のない罪の意識をどうすればいいのか、ジョゼフはその気持ちをストレートにハンナ(彼にとってはコーラ)に伝えるのでした。


ここから先は、映画の結末に触れますのでご注意ください。(私にはサプライズな結末でしたので。)


ジョゼフが搬送される前日、ハンナは自分の過去を語り始めるのですが、これが何ともすさまじいものでした。クロアチア人である彼女は、ボスニア紛争のとき、クロアチア兵によって捕らえられレイプ、拷問を受けた生き残りだったのです。彼女の親友や多くの女性がハンナの前で殺され、ハンナ自身も体中にナイフで傷をつけられ塩をすりこまれたというのです。服を脱いだハンナの全身に残る傷跡のショック、そして、ジョゼフはそれを直接見ることはなく(まだ失明しているので)、その体に触れることで愕然とするのです。それまで、心を押し殺してきたハンナが堰を切ったように泣くシーンは、ジョゼフと観客を打ちのめします。このシーンで一切の回想シーンやカットバックをいれずに、サラ・ポーリーの語りだけで見せきった演出は見事でしたし、彼女の演技も圧巻でした。まるで本当の被害者に話を聞いているような臨場感は劇場でご確認ください。

翌日、ジョゼフが病院に運ばれるのを見送って、ハンナは姿を消します。ハンナの荷物が残ってたことから、それをたよりにハンナを探すジョゼフは、ハンナのカウンセラーの女性インゲにたどり着きます。そこで、ハンナのような女性がたくさんいて、筆舌に尽くしがたい体験をしたこと、多くの人々が殺されたなかで自分が生き残ったことに大きな罪の意識を感じていることを、ジョゼフは聞かされます。それでも、彼女に会いたい、お互いが相手を必要としているから。このあたりの展開は、ドラマの本筋と若干はずれるのですが、ここで重要なキーワードが出てきます。それは、「レイプ、虐殺、民族浄化、みんな、いつか忘れ去られる」ということです。だからこそ、また繰り返されてしまう。インゲは、ビデオテープを取り出して、「ここに彼女たちのすべてが記録されている、そんな残酷な記録を忘れない、忘れさせないために記録している」と言います。

人は過ちを繰り返す、歴史の中で何も学んでいないのか、否、学んではいても学んだことを次の世代へ継承できていないのではないのでしょうか。日本の大東亜戦争は、少なくとも昭和40年代までは、過ちであり、繰り返してはならない、戦争はいけないことだということが言われてきました。しかし、本当に戦争を知っている世代がいなくなってきて、歴史の教訓は継承されていないのではないかという気がしています。ここで、インガが言っていることは、ビデオテープのことだけでなく、この「あなただけに言える秘密のこと」という映画そのものを指しているように思えたのです。確かに民族浄化や集団レイプのことを前面に出して糾弾している映画ではありません。でも、この映画で、そういう歴史的事実をベースにしており、歴史を語り継ぐこともやっているのです。甘い邦題でうっかり観てしまった観客は、究極の愛のドラマに感動しつつも恐ろしい歴史の1ページを垣間見ることになります。

工場に戻ったハンナですが、いつも同じメニューだった弁当にバリエーションが出たりして、少しだけ以前と何かが変わったようです。一方のジョゼフは、工場帰りのハンナを呼び止め、ハンナに自分と一緒に生きようとプロポーズします。最初は拒絶するハンナですが、自分を知った上で受け止めようとするジョゼフの心に応えます。ジョゼフも自分の心の中にある親友への贖罪の意識があり、一方のハンナの生き残ったことに対する贖罪の意識とあい通じるものがあったのかもしれません。だからこそ、ハンナも自分の秘密をジョゼフに話す気になったのかなと解釈しました。乗り越えるべきハードルを考えると、単に惚れてる愛してるだけでは成り立たない関係なのです。

冒頭から登場する幼い子供の声のナレーションは、彼女の心の中の別人格の声だったようです。ラストでナレーションはもう自分がハンナに会う(出てくる)ことはないだろうと言いますが、それでも、一生消えないであろう心の傷をハンナは抱えたまま生きていくことになります。冒頭の凍りついたような日常からすれば、ジョゼフと出会ったハンナはハッピーエンドを迎えたように見えます。でもコイシェの演出はラストで不安定な絵を見せることで「めでたしめでたし」というカタルシスを与えてはくれないのでした。

主演二人の演技ももちろんよかったのですが、その他の脇役もみな素晴らしい演技でドラマを支えました。登場人物が10人ほどしかいないのですが、出番の少ない人間も含めてみなそれぞれに奥行きのあるキャラクターが設定されていました。油田施設の絵をアップやロングでとらえた絵の美しさも印象的で、映画全体に一幅の絵を見るような趣がありました。ただし、さらっと観るにはヘビーな絵ではありますが。

「ルワンダの涙」の涙の味は苦いけど必見

新作から「ルワンダの涙」を観て来ました。109シネマズMM横浜6での上映ですが、ここは、とっとと開発してくれないと周囲に何もないし、新高島駅のすぐ上だけど、みんな横浜駅から歩いてるという半端な立地でして、今日も入場窓口はモタモタしてるし、他のシネコンに比べて見劣りするところ多いです(2007/02/10現在)。

1994年のルワンダ、カソリック教会の技術専門学校の講師としてやってきたイギリス青年ジョー(ヒュー・ダンシー)は元気一杯で生徒と仲良くやっていました。校内には、ベルギーの平和維持軍が駐留していて、最近のツチ族とフツ族の対立の監視を行っていました。ある日、大統領暗殺から、ツチ族に対する虐殺が本格的に始まります。クリストファー神父(ジョン・ハート)は学校を避難民のために開放しますが、平和維持軍は彼ら自身の自衛のためにしか武力を行使できず、学校を取り囲むナタで武装した民兵に手を出せないのでした。安保理は、平和維持軍に対して撤退を命じます。学校に避難していた1500人のツチ族を置き去りにして。

「ホテル・ルワンダ」という映画は、1994年のルワンダ虐殺を題材にして、その中で多くのツチ族の命を救った英雄的なフツ族のホテルマネージャーにスポットをあてたものですが、こっちは当事者ではなく、そこに居合わせた外国人の目を通して、この事件を描くとともに、居合わせた部外者の視点から、贖罪と希望を描いています。観客は、主人公であるジョーやクリストファー神父の視点でドラマを体験することになるのですが、マイケル・ケイトン・ジョーンズの演出は、観客にジョーの体験した極限状況を追体験させることに成功しています。その結果、この映画は感動的ではあるのですが、同時にかなり苦い後味を残す映画にもなってしまいました。


この先は映画の結末に触れますのでご注意ください。(どんでん返しがあるわけじゃないですが)


国連の平和維持軍は、この虐殺に関与することを望んでないし、そういう命令も受けていないので、直接に民兵との戦闘や難民の救助をすることができません。彼らはあくまで両部族が友好的に行動するのを見届ける立場でしかないのです。「こういう状況になっても何もしないのか」と神父に問い詰められても軍人としての彼らは駐留している学校を防衛する以上のことはできないのです。この映画の原題は「Shooting Dogs」というもので、国連軍の司令官が「死体を食う犬を撃つことを皆に伝えてくれ」というのに神父が「犬が発砲してくるのか。発砲して来ない犬は撃てないだろう。そんな、ルールにしばられているのはおかしいと思わないか。」と詰め寄るシーンからつけられています。平和維持軍は命令に従うなら犬を撃つこともできないのです。

そして、ついには国連軍は国連安保理からの命令で撤退を余儀なくされます。その撤退シーンがクライマックスになるのですが、ジョーは軍の車に乗り込み、神父は残って、乗せられるだけの子供をトラックに乗せて脱出させようとします。撤退前、国連軍の司令官に避難民のリーダーは「ナタで殺される前にせめて我々を銃殺してくれ、ダメなら子供だけでも銃殺してくれ」と懇願します。ジョーと仲の良かった少女マリーは「私たちを見捨てていくの」と詰め寄ります。「すまない」といいつつジョーは車に乗り込みます。観ているのがつらくなるシーンの連続なのですが、映画は事実に沿った形で展開していきます。

しかし、ラスト、奇跡的に生き残ったマリーとジョーはイギリスで再会します。彼女が「なぜ、私たちを見捨てたの?」と尋ねると、ジョーは「死ぬのが怖かった」と答えます。このシーンの真摯さにまた泣かされてしまいました。その一言には映画としての贖罪と希望と祈りが込められているように思えたからです。きれいごとでないまま映画は終わりますが、不快感を残す映画ではありません。事実と向き合い、それを語り伝えることの重要性を映画は訴えてきます。エンドクレジットに実際にこの虐殺から生き延びた人が映画のスタッフとして参加していると写真入りで紹介されるところでまた泣かされてしまいました。それは、あんな虐殺の中で生き延びた人がいるという事実が心の琴線に触れたからです。最近、「泣くこと」がある種のブームだそうですが、韓流ドラマでなく、こういう映画で泣くのがいいかもしれません。ただし、その涙に恋愛の甘さはなく苦い涙になっちゃうのですが。

映画の中で、ルワンダ人の議員は、「ルワンダ人のことはルワンダ人でやる」と言い切りますが、その「こと」とはツチ族を根絶やしにすることでした。映画を観ていて、恐ろしいと思ったのは、「ホテル・ルワンダ」を観たときと同じく、「それまでの隣人をゴキブリだとして、ナタで殺しまくる」という点でした。統治政策上、ツチ族とフツ族を差別したことから民族間の対立が深まったそうで、フツ族のツチ族へ対する憎悪は直接彼らだけで作られたのではなかったという点は大変重要だと思いました。今、日本でも似たようなことが起こりつつある予感があるからです。まさか、国内で虐殺が起こるとは思っていませんけど、現在進行しつつある格差社会は、持てるものと持たざるものを明確に分け、どちらかに生まれたらそれは変わることがない社会です。つまり、それは「勝ち組族」と「負け組族」といったある2つの部族ができ、「勝ち組族」が一方的に優遇されることから、両部族に対立が生じてくることも想定できます。さらには、「勝ち組族」からすれば「負け組族」は人間じゃないみたいなことにもなりかねないのです。最近のテレビの北朝鮮報道を目にすると、北朝鮮の人を同じ人間として扱ってない視点が感じられて、ぞっとすることがあります。ルワンダで起こった統治政策に端を発する部族対立は、決して他人事ではないと思います。同じ民族だから、同じ人間だから、まずはその時点で平等だよね、ということが格差社会では当たり前ではなくなってしまう怖さがあるのです。その当たり前の平等を、政治が奪ってしまったのが、ルワンダの悲劇の一端なのですが、似たようなことを最近、身近に感じるようになってきているのが不気味です。

もし、この映画を観て、フツ族こそ残酷でゴキブリ以下の連中だ、と思ってしまうのは危険です。映画の中でも、神父が「学校の外で我々を威嚇している連中を神は愛しているのか」と問われて「人は時としてよくないこともするが、神はすべての人間に愛を注いでいる」と答えます。それがきれいごとでないと思いたいです。むしろ、我々も同じ人間として、集団でフツ族のような行動を取る可能性を持っているのだから、行動に気をつけろと思うべきなのでしょう。

映画としては、一見の価値、いやそれ以上にお見逃しなきようにオススメしたい映画です。

2006年の映画ベストテンを

2006年はあまり映画館に例年ほどには映画館へ足を運べていないのですが、キネマ旬報のベストテンも出たようですし、個人のベストテンを作ってみました。洋画中心に観ているので、邦画は入っていません。まあ、観た本数の割りには当たりの多い1年でしたので、それなりにベストテンだとは思っています。順位はかなりいい加減というか、甲乙つけがたいものがありました。

第1位 上海の伯爵夫人
ロシア革命で亡命してきた伯爵夫人が上海で酒場の女給になっているという発端から展開する非常に濃密で大人の愛の物語。映画を観たという満足感が一番高い映画だったのでこれをベスト1にします。扱っている題材そのものは決して目新しいものではなく、古風でもあるのですが、それをきちんと料理してみせたジェームズ・アイボリーは見事だと思います。演技陣も素晴らしかったです。

第2位 クラッシュ
オスカーの作品賞をとった映画だけあって、やっぱりよくできてます。群像劇ということでは、やはり脚本家出身のジョン・セイルズの「希望の街」を思い出させるものがあるのですが、これもやはり映画館での満足度が高かったです。頑張ってもうまくいかない人間関係を淡々と見せるあたりのシビアな味わいがピリっとした映画に仕上げています。

第3位 ウォレスとグルミット野菜畑で大ピンチ
今年の一番楽しかった映画がこれ。毎度のことながら、クレイアニメーションでパロディとアクションをマジにやっちゃうところがすごい映画。クライマックスの畳み込みの見事さは、他のアクション映画にも見習って欲しいものです。一方で、イギリスらしいシニカルな笑いもきっちりと押えていて、さらに、ホラータッチの部分はきちんと怖いという至れり尽くせりの映画。


第4位 ホテル・ルワンダ
民族間の対立から100万人の虐殺を生んだルワンダ内戦の、わずかな希望の部分にスポットを当てた映画です。でも、そこから導かれる勇気と善意には胸を打つものがありました。異民族間の対立と意図的なアジテーションがとんでもない虐殺につながった事実を知ると同時に、勇気の使い方を教わったような気になる映画です。

第5位 親密すぎるうちあけ話
恋愛ものということで一番面白かったのがこれでした。偶然の出会いから始まるなんだかおかしくて、ちょっとSMチックな恋の顛末は、役者のうまさもあってなかなかの見応えでした。恋の顛末ってのは、確かに駆け引き的な要素が大きいのですが、ボタンの掛け違いのような関係で展開する恋愛模様がなんとなくハッピーエンドになるおかしさは、若い人にはわかりにくいかも。

第6位 心の棘
死んだ亭主の生まれ変わりという少年に翻弄される未亡人のお話なんですが、一応はミステリーとしての仕掛けがあり、そして、最後はヒロインがどんどん壊れていってしまう悲劇的な展開となります。これが、妙に心に残る映画になってるのですよ。題名の通り、心にひっかかる棘のような映画でした。ニコル・キッドマンの美しさ自体がミステリーっぽいのかな。

第7位 16ブロック
犯罪ものということでは、「ファイヤー・ウォール」とか荒唐無稽な「トランスポーター2」「センチネル陰謀の星条旗」など佳作の多い年でしたが、リチャード・ドナーの職人芸が冴えたこの逸品を推します。役者のよさと、「人間いつでもやり直せる」という前向きなメッセージで、いい感じの娯楽映画に仕上がっています。

第8位 ヒストリー・オブ・バイオレンス
「16ブロック」が「人間いつでもやり直せる」というお話なら、こちらは「人間は暴力の呪縛から逃れることができない」というヘビーな内容を持ったバイオレンス編です。日常生活に潜む暴力の芽、そして、一度は捨てた筈の衝動が蘇る一瞬の怖さ。ラストの長回しで暗示される暴力の連鎖こそが題名にもある暴力の歴史なのでしょう。とにかく怖くて、でも面白くできている映画でした。

第9位 2番目のキス
コメディということでは、「ピンクパンサー」とか「もしも昨日が選べたら」「ナニー・マクフィーの魔法のステッキ」などが面白かったのですが、やはり、ドリュー・バリモア嬢のこの作品に軍配があがります。日本公開のあまりの扱いの悪さへの判官贔屓もあるんですが、とにかく、毒のファレリー兄弟が監督しているのに映画は、ドリュー色に染まっているというのがすごいなあってことでベストテン入りです。映画としても面白かったんですよ。

第10位 サイレント・ヒル
今年はあまりホラー映画を観てないんですが、この映画はグロはあってもショック少なめの、雰囲気で見せるホラーになっているということで点数高いです。クライマックスのスプラッタ描写の後にラストの悲劇的な余韻が大変よかったです。クリストフ・ガンズ監督のセンスを感じたのでここに挙げておきます。僅差で「エミリー・ローズ」が落ちてしまいました。


ベストテン以外で気になった映画は、ドラマとしての厚みを感じた「ナイロビの蜂」「父親たちの星条旗」「グッドナイト&グッドラック」、視点の面白さに引き込まれる「サンキュー・スモーキング」「ある子供」「スパングリッシュ」、画面の美しさが印象的だった「狩人と犬、最後の旅」、ラストのちょっと不思議な余韻で「太陽」「胡同のひまわり」「ブロークン・フラワーズ」といったものがありました。

そして別格ということで、この2本が特別賞です。

「蟻の兵隊」
敗戦後も中国で戦争をさせられていた日本軍人がいたというドキュメンタリーです。大陸で日本軍が何をし、何をされたのかがわかるという題材の貴重さもあるのですが、ただ、それだけにとどまらず、当事者である奥村和一氏を単に美化せず、その内面にまで踏み込んだ映像の力が大変に見応えのある映画になっています。根っこのところで日本軍人である奥村氏の言動を映像に残したという点でも出色のドキュメンタリーであり、また、一人の人間の中で二つの思想が葛藤しているのを実物で見せたという点でも貴重な人間の記録だと言えましょう。

「ヨコハマメリー」
一人の娼婦を題材にしたドキュメンタリーながら、そこから浮かび上がってくる、戦後の横浜の姿。一人の人間を掘り下げるのではなく、一人の人間に焦点をあてることで、その周囲の人間、そして街の姿を描くという、「蟻の兵隊」とは逆のアプローチをした作品です。ラストシーンでため息の出る感動が得られる映画はそうはないです。

さらに、映画1本まるごとでなく、特定部分に注目したピンポイントベスト5をあげます。

第1位「ユナイテッド93」の面白すぎ
9.11同時多発テロの映画化なんですが、映画の半分は生存者のいない旅客機内の描写でして、ここは交信内容からの推測で語られ、一方の当局側の描写は当の本人を連れてきてリアルに再現しているようなのです。つまり、信憑性のレベルがかなり異なる素材を二つくっつけて、目一杯ドキドキハラハラさせる面白い映画を作ってしまったのです。同時多発テロのようなデリケートな題材を、ウソとホントの境目がまったくわからない娯楽映画に仕上げるってのはどうなの?と思ってしまいました。これ観たら、イスラム教はヤバい宗教に見えるし、アメリカ人はみんな死を怖れぬ勇敢な連中に思えてくるし、事件を冷静に受け止めるのに邪魔になる映画ではないのかしら。相当な問題作ですよ、これは。「ワールド・トレード・センター」は作り手の良心を感じましたけど、こっちには、職人芸のうまさを感じてしまいましたからね。でも、この題材で発揮していいのかよ。

第2位「幻遊伝」のアイドル映画の味わい
田中麗奈主演の台湾映画です。お話としては、過去に行っちゃったヒロインがそこで恋に冒険に、という他愛のないものなんですが、ここで田中麗奈をきっちり清純アイドルとしてたてているのが、大変印象的でした。日本ではアイドルというよりは女優のイメージが強い田中麗奈も、こうしてアイドルっぽく見せると結構かわいいんだなあって妙に新鮮に感じました。ラストのちょっと胸キュンな味わいもいかにもアイドルっぽくって。でも、彼女もう25なんだよなあ。

第3位「サンキュー・スモーキング」「ワールド・トレード・センター」のマリア・ベロ
2006年の映画では、ヒロインというより脇の女優陣に魅力的なキャラが多かったです。「ピンクパンサー」「マッチポイント」のエミリー・モーティマー、「トランスポーター2」のアンバー・ヴァレッタ、「MI:Ⅲ」のマギー・Q、「ナニー・マクフィー」のケリー・マクドナルド(かわいい!)、「スパングリッシュ」のティア・レオーニ(好き)、「ロシアン・ドールズ」のオドレイ・トトウ、「地獄の変異」のパイパー・ペラーボ、「もしも昨日がえらべたら」のケイト・ベッキンセール、「幸せのポートレート」のレイチェル・マクアダムス、「リトル・ミス・サンシャイン」のトニ・コレットなどが印象的でしたが、中でも、マリア・ベロが平凡な主婦、胡散臭いキャリアウーマンの両方の顔を見せて魅力的でした。(彼女は、他にも「ヒストリー・オブ・バイオレンス」や「アサルト13要塞警察」でも重要な役どころでいい演技を見せてました。)後、「美しい人」「スタンド・アップ」のシシー・スペイセクは別格で素晴らしかったです。また、脇のオヤジベスト3ということでは、「16ブロック」のデビッド・モース、「心の棘」のダニー・ヒューストン、「スタンド・アップ」「サイレント・ヒル」のショーン・ビーンを挙げます。

第4位「美しき運命の傷跡」のラストのオチ
ほんのささいなアクシデントから人生を大きく振り回される姉妹の重厚でシリアスな映画です。ドラマとしては大変見応えがあってベストテンに入ってもおかしくない出来栄えでした。でも、この映画、色々あった結果、最後の母親の一言(筆談なんですが)に全てぶっとんでしまうようなおかしさと怖さがありました。

第5位「シャーロットのおくりもの」の蜘蛛の巣を張るシーン
生命の輪をわかりやすい形で描いた映画も大変よかったのですが、特にその中で、蜘蛛のシャーロットが巣を作るシーンは映像とダニー・エルフマンの音楽の相乗効果で、そこだけで感動モノのシーンになっていました。

「ダーウィンの悪夢」は題名にワナがあるので注意

新作の「ダーウィンの悪夢」を川崎チネチッタ2で観て来ました。日曜とは言え、結構なお客さんの入りでした。最近はドキュメンタリーが普通の映画館でかかるようになりました。「華氏911」以降の傾向でしょうか。まあ、その昔を思えば「世界残酷物語」「グレートハンティング」「ジャンク」なんてのが大々的に公開されてはいたのですが、最近のドキュメンタリーはああいうモンドものでない社会派が主流です。

アフリカ、タンザニアのヴィクトリア湖沿岸では、ナイルパーチという魚がたくさん採れるので、漁業、及びその加工産業が盛んで、加工された魚は飛行機でヨーロッパや日本へと出荷されています。もともとナイルパーチはヴィクトリア湖には生息していない肉食魚だったのですが、誰かが放流してから爆発的に増殖し、そして、それはヴィクトリア湖の生態系を壊し、既存の種は減少してきています。さらに、魚をアフリカから運ぶ飛行機は、アフリカへ武器を運び込んでいることがわかってきたのです。

この映画の予告編を観たとき、金になる魚を放流したことによる生態系破壊を描いたものだと思っていました。「ダーウィンの悪夢」という題名(原題も同じ)がいかにも、種の進化の流れを破壊しているような印象を与えます。しかし、実際にこの映画を観てみると、そこに住む人々の貧しく荒んだ暮らしが延々と流されるので、ちょっと意表をつかれてしまいます。

映画は、加工された魚を運ぶ飛行機が着陸するシーンから始まります。そして、魚の加工工場や、輸送機のクルーに体を売る女性、ストリートチルドレンが映しだされます。もともと、貧しい人々の住むところに、金になる魚がもたらされた結果、内陸の貧しい人々も含めて、その魚を採る仕事や、工場で加工する仕事に流れこんできます。それでも、慢性的な食料不足は続いていて、継続的が食糧支援が要請されています。高級白身魚のナイルパーチはそこに住む人々には高価過ぎて、外貨獲得のために外国へと売られていくのです。そういう、経済の構図はアフリカに限ったことではなく、また、生態系云々の話とも関係はありません。でも、貧困が子供や若者から希望を奪っている様子が、淡々と描かれていきます。加工された魚の残り、頭や骨の部分が集められ、油で揚げたものがそこに住む人々向けに出荷されています。その加工後の魚が積み上げられているところは、異臭で覆われているようで、アンモニアで咳き込む作業者や、ガスで片目を失った女性もいます。

この地区の漁業試験場の門番をしてる男は、「軍隊に入れば金がたくさん手に入る。だからみんな戦争を望んでいる」と平然と語ります。食料を奪い合い、プラスチック溶剤でラリってる子供たちを見ていると、そう思うのもやむなしという気になってくるのが怖ろしいです。そして、その貧しさから逃れられる戦争のための武器弾薬がアフリカに不正に運び込まれ、内戦に使われているというのです。そして、ナイルパーチをアフリカから輸出する飛行機がその往路の荷物に武器を運んでいるというのです。怖ろしい需要と供給の輪がこれで出来上がってしまうという状況を見せることで映画は終わります。そして、「ダーウィンの悪夢」とは、ヴィクトリア湖の生態系の破壊ではなく、人間の適者生存を指していると気づかせられるのです。弱肉強食という単純な対立構造ではないのが余計目におぞましいのです。

フーベルト・ザウパーというドキュメンタリー作家が監督、構成、撮影の3役をこなしています。飛行場の管制室、加工工場、ホテル、スラムと様々な場所で様々な人に精力的にキャメラを向けることで、貧困と飢餓の実相に迫っています。ただ、構成的に、武器密輸の話にたどりつくまでが長いので、アフリカの貧困を飢餓のドキュメンタリーかと思ってしまうところがあります。ナイルパーチという魚の見た目がグロテスクなせいかもしれませんが、上映国でナイルパーチの不買運動が起こったとプログラムに書いてありましたが、確かにこの映画の前半は説明不足で、観客をミスリードしているところがあります。話の発端のナイルパーチという魚の話がインパクトあるもので、アフリカの普遍的な貧困、飢餓、荒廃の図式がぼけてしまったのが残念です。最後でやっと「ダーウィンの悪夢」と恐るべき需要と供給のリングが見えてくるのですが、もっと早くからそこを中心に据えた構成にしたほうが訴えるものが大きかったように思います。

とはいえ、日本人の私にとって、ショッキングなシーンがありました。それは、魚の加工工場から出荷される白身魚の切り身が、そこらへんのスーパーのパックに入っているものと同じだったことです。確かに映画の中でも、日本で出荷されていると語られるのですが、現物を見せられると、あの暴力と飢餓の腐臭に満ちた場所と、自分たちが地続きであることを再認識させられたのが、結構ショックでした。あの怖ろしい需要と供給のリングに自分も一枚噛んでいるのだと思うとやりきれない気分になります。だから、どうすればよいのかという答えは映画では出してくれませんし、それは簡単に出せるものではないと思います。ただ、今、こういうことが地続きの世界で起こっているということは知っておかないといけないな、という気分にはなりました。私は知らないことは罪だとは思っていませんが、知る機会から逃げないことは必要だと感じました。映画としては、どうかなあーと思うところあるのですが、スーパーで売ってる白身魚の切り身パックと、その残骸で飢えをしのぐ人々(その過程で片目を失う人もいる)が、地続きの存在であることを知ったという意味で、個人的に価値のある映画になりました。

「フリーダムランド」はテーマてんこ盛り


新作の「フリーダムランド」を新宿武蔵野館2で観て来ました。かつてのシネマカリテにでかい名前をつけたものだという気がしますが、1フロアに3つの小さな劇場がある典型的ミニシアターです。2はちょっとだけ傾斜のある84席の劇場で、天井の低い空間で、前の人の頭でスクリーンがぎりぎり欠けないところまでスクリーンを上げているので、かなり小さいスクリーンになっています。

黒人の多く住むアームストロング団地の一角でカージャック事件発生の知らせを受けたロレンゾ刑事(サミュエル・L・ジャクソン)は、被害者であるブレンダ(ジュリアン・ムーア)のいる病院に向います。両手を血だらけにして放心状態だった彼女は、突然盗まれた車に自分の4歳になる息子が乗っていることを思い出して半狂乱。ブレンダの兄が刑事だったこともあって、警察は大部隊を団地に向わせて団地全体を封鎖させてしまいます。住民と警察の間で一触即発の状況の中、ロレンゾはブレンダから事件の全貌を聞き出そうとするのですが、どうも何かを隠している様子が見受けられます。一方、行方不明の子供を探すボランティア団体がロレンゾに協力を申し出てきますが、どこをどう探してよいものか。果たして、ブレンダの息子は無事に発見されるのでしょうか。

最初は自動車強盗事件だったのが、子供の誘拐事件に発展していき、団地全体が封鎖されてしまいます。警察による戒厳令みたいなものです。そこに人種間の差別問題も加わり、事態がどんどん悪い方へ進んでいきます。監督のジョー・ロスはプロデューサーとしての実績が大きい人で、監督作品では「アメリカン・スイート・ハート」を観ているのですが、あまり記憶に残っていません。原作者のリチャード・プライスによる脚本は、若干テーマを盛り込み過ぎな気もしましたが、今問題にすべき内容を的確に物語に取り込んでいます。その多彩な切り口は観客によって、映画の印象がずいぶんと変わるのではないかと思われます。

前半の団地の封鎖シーンは、9.11同時多発テロを思わせます。それまでにも黒人が被害者の事件は何度も起こっているのに、こんなに警察が来たことはなかったというあたりが印象的です。白人の刑事の甥っ子が行方不明ということで、警官隊が団地を取り囲んでしまうという異常な状況、そして、警察はこうしておけば住民の中から犯人、もしくは密告者が出るだろうという読みがあります。それにしても人権もへったくれもない警察のやり口には、黒人差別が明らかに感じられます。日本で同様のことが起こることはないと思いたいですが、対新興宗教、対朝鮮総連などで同様の事態にならないとは限らないなという想いが頭をよぎりました。一度、この状況になってしまうと事態を穏便に済ませることが不可能なことはちょっと考えればわかるのですが、それでも勢いでやってしまう展開に、9.11同時多発テロの影を感じさせます。

でも、それだけではなく、ブレンダの息子が誘拐されたという話にも疑問の余地が出てきます。どうも、ブレンダが何かを隠しているみたいなのですが、それが何なのかはよくわかりません。ジュリアン・ムーアがちょっと病的でやつれたキャラで登場し、そのキャラがずっとそのまんまなのが気にかかります。通常の誘拐された子供を想う母親にしては、その言動、行動が観客の共感を呼ばないあたりが気になりました。このあたりで映画はミステリアスな趣になるのですが、ドラマはミステリーよりも、普遍的な母と子の関わりに踏み込んでいきます。


この先は結末に触れますのでご注意ください。


この映画のミステリーはヒロインであるブレンダのキャラでした。息子がいなくなったにしては取り乱しているように見えず、でもロレンゾの追求にはあからさまな拒否反応を見せます。普段から人から注目されることもなく、注目されるときはトラブルを起こして厄介者扱いされるときだけ。そんな、劣等感と孤独にさいなまれていた彼女にとって子供は大きな救いになっていたのです。これって、日本でも同じような母子関係ってありそうな気がします。このブレンダも子供が全て、子供が自分の人生の救いだったのに、それがうとましく思えてしまうときが来る、それが彼女のわがままが原因だとすると、その葛藤は相当なものになります。後半になって状況がわかってくると、彼女の不自然な言動や表情のなさに納得できるあたり、うまいもんだと感心してしまいました。「フォーガットン」と同じ子供の母親なのに、まるで別人に見えるあたり、彼女の演技力を実感できました。

育児疲れの母親が壊れてしまった話とも受け取れるのですが、ラスト、ロレンゾに「好きよ」というところで、彼女の孤独が際立ちました。それまで、育児スクールの先生として、それなりの人望があった彼女が、実は愛情に飢えていて、その孤独と枯渇を自分の子供だけでは埋められなかったという悲劇は、日本でもありそうな話です。ブレンダは確かに人間として不完全で欠点もあるんですけど、それは彼女が特別な存在というわけでなく、どこにでもあるレベルのものです。ごく普通の母親が孤独の中で最悪のボタンの掛け違いをしてしまう悲劇は普遍性の高いものだと思いました。その個人的にクローズする事件が、暴動にまで発展してしまうという二重の悲劇なのですが、そこまで描ききれなかったのがちょっと残念でした。

さらに、親子関係のやり直し、行方不明の子供たちといったサブプロットも盛り込まれていて、それぞれ手抜きなく描かれてはいるのですが、メインの2つのテーマにやや霞んでしまったようです。まあ、これは観る人によって感じるところは様々とは思うのですが。

観れば面白いじゃん「世界最速のインディアン」


また、新作です。川崎チネチッタ6で「世界最速のインディアン」を観てきました。ここはスタンプカードを出していて、5回観ると次がタダになります。祝祭日はダメだけど、土曜日は大丈夫というのがありがたいです。特に入会手続きとかが不要なのも好印象のシステムです。

1960年代のニュージーランドの片田舎、1920年のマシンでオートバイのスピード記録を作ってきたバート・マンロー(アンソニー・ホプキンス)は、もういい年なんですが、目下の夢はアメリカのボンヌヴィル平原のレースにでること。ところが狭心症で倒れてしまい、これは急がねばと一念発起して、家を抵当に旅費を工面してアメリカへと渡ります。船ではコックをやり、アメリカに着いてからは中古車を買って一路ボンヌヴィルへと向います。色々な出会いがあって、何とかレースに間に合うのですが、事前申し込みがしてないから参加できないと言われちゃいます。それに、マシンはつぎはぎだらけだし、パラシュートも安全装置もないから無理だといわれるのですが、わざわざ地球の裏側からやってきたのにという人もいて、何とかテスト走行だけは許可されるのですが、果たしてレースに参加できるのでしょうか。

バート・マンローという実在の人物の物語を、ニュージーランド出身のロジャー・ドナルドソンが脚本を書き、演出も担当しました。ドナルドソンの映画というと「カクテル」「スピーシーズ」「13デイズ」「リクルート」硬軟どんなジャンルも手堅くまとめる職人監督のイメージがありました。その娯楽職人としての腕前は、本作でもいかんなく発揮されていまして、じいちゃんがアメリカに旅してレースに出るだけのお話を観ていて楽しめる娯楽映画に仕上げています。

このじいちゃんがいい歳して、住宅地の中で、小屋みたいな家に住んでて、庭は雑草がぼうぼうで朝からバイクをブンブンふかすという結構迷惑なジジイってところから始まります。それでも、隣家の子供とは仲いいし、それなりの人気者で、近所の連中も彼のアメリカ行きのためのチャリティ・パーティとかやってくれますし、迷惑かけてる隣人一家との関係もそこそこいい感じです。若い暴走族みたいな連中もつっぱったクチを叩きますが、いざというときは彼のことを応援してくれます。オールドミスのガールフレンドもいるし、そんな一筋縄ではいかないじいちゃんをアンソニー・ホプキンスが楽しそうに演じています。腹に一物あるとか、人に言えない過去があるといった複雑なキャラでないけど、奥行きと人間的魅力を感じさせるあたり余裕の演技と言えそうです。

アメリカに渡ってからもホテルフロントのニューハーフと仲良くなったり、立ち寄った先の未亡人とねんごろになったりと、社交的で、エロいじいちゃんぶりが楽しい展開を見せます。難しく考え込まず、何となく周りを巻き込んで自分の思うように事を進めてしまう天性のキャラに観客もいつの間にか、このじいちゃんのペースに巻き込まれてしまうのです。悪人を1人も登場させず、人間関係での葛藤を一切描かない、ドナルドソンの脚本がうまいのでしょう。ニューハーフのフロントや、中古車屋のオヤジ、ヒッチハイクするベトナム休暇兵、ネイティブアメリカンのオヤジなど、主人公と関わる人間がみんないい人に見えてくるのが、主人公の人間としての奥行きの反映であるように感じられるのですよ。

レースに出場できなくなるかもしれないという展開も、それをドラマチックな見せ場にせず、あくまで楽天的なじいちゃんのペースで話を進めていくのです。でも、実際に走って記録を作ったり転倒したりするシーンはきちんと盛り上がるので、ドラマとしての満腹感はちゃんとあるのです。この映画、実在のすごいレーサーの実話というある種の偉人伝的な映画ですが、観ていて最期まで楽しめるってのは、作りが丁寧でうまいってことなのでしょう。笑いもあるけど、誰かを貶める笑いではないですし、映画として上品にまとまっています。

観ていて2時間余があっという間に過ぎて、観た後も、「ああ、面白い映画を観たなあ」という気分で映画館を後にすることができました。役者もいいし、シネスコ画面の風景もきれいだったし、個々のエピソードも楽しかったし、と色々と誉めどころ多いのですが、観る前は、予告編やタイトルだけでは、面白そうに感じませんでした。退屈な映画かも、なんて思っていたのですが、いい意味で裏切られました。せっかくの面白い映画なんだから、もっとうまく宣伝すればいいのにと思います。実際、観てみれば満足度高いですもの。

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einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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