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結構ハラハラさせる「ハッピー・フィート」

今回も新作の「ハッピー・フィート」を川崎チネチッタ10で観てきました。ウィークデーの最終回とは言え、お客さんが10人くらいしかいないのが寂しい限りでした。春休みなのに、子供は日本語版しか観に来ないのかな。

南極の皇帝ペンギンは心の歌で愛情を伝え合うんですって。ところが足から生まれてきたマンブル(イライジャ・ウッド)はオンチだけどなぜかダンスが得意、でも、みんなとは違うマンブルは群れを追われてしまいます。そして、ダンスが得意なイワトビペンギンたちと知り合って仲良くなるんですが、そこで、マンブルはエイリアンの存在を実感します。どうやら、最近のエサの魚の減少は彼らが原因らしいのですが、そこで、マンブルは彼らに接触して魚の減少を食い止めようと思い立つのですが、どこへ行けばエイリアンと遭遇できるのかしら。

あの「マッド・マックス」のジョージ・ミラー監督が「ベイブ」シリーズに続いて、今度はフルCGのペンギンの世界に挑戦しました。アニメっぽいキャラでなく、かなりリアルなペンギンのキャラが、さらにミュージカル仕立てで歌い踊るという今までにないスタイルの映画になっています。そして、これがアカデミー賞の最優秀アニメーション賞をとってしまったのですから、只の映画ではなさそうという予感はありました。

舞台は南極なんですが、この部分のCGもデフォルメはなくリアルな氷原、リアルな空気感があります。それをバックに既存のナンバー、新しいものからオールディーズまでがペンギンたちの心の歌として歌われるのです。リアルなプロポーションのペンギンが歌い踊るってのは、モーションキャプチャーを駆使して、短足のペンギンに人間のようなステップを踏ませることに成功しています。オープニングで生まれたばかりの赤ん坊ペンギンたちが登場するんですが、これも基本はリアルなのが、かわいいのですよね、その中のマンブルは音痴だけどタップダンスの才能があって、何かあるとタップを踏んじゃって周囲から浮いてしまうのです。

周囲から白眼視され、意気消沈のマンブルがイワトビペンギンの5人組と知り合って、自分の才能を認められ、元気を取り戻す展開がなかなかにコミカルに描かれます。以降、すっとコメディリリーフとして登場する5羽のペンギンがよくしゃべるブラザーズなのが楽しく、ロビン・ウィリアムスを筆頭とする声優陣のうまさもあって、彼らがドラマを弾ませます。そして、自信を取り戻したマンブルが自分の群れに戻って恋人のグロリア(何とブリタニー・マーフィが意外とはまって好演)にダンスで求愛するシーンが見せ場になります。このダンスが群れ全体の群舞に展開するシーンはミュージカルとしてのパワーがあって、縦横に動き回るキャメラワークも含めて、素晴らしい見せ場になっています。

この先は結末に触れますので、未見の方はご注意ください。



その後、ちょっと唐突に魚の減少の話が持ち上がって、その原因を探しにマンブルと5人組が旅立つあたりから、映画のカラーが変わってきます。せっかく、マンブルを追ってきたグロリアを追い返してしまうあたりから、何か変だなって気分になってくるんですが、巨大な漁船が大量の魚を採っているシーンが出てくるし、ついには、マンブルは人間につかまって動物園に送られてしまうという「ええ?!」という展開になってきます。このあたりの描写はかなり絶望的に描かれまして、これでアンハッピーエンドになるんじゃないかとハラハラしてしまいました。このあたりのマンブルへの徹底した容赦ない扱いに「マッド・マックス」「イーストウィックの魔女たち」のジョージ・ミラーの匂いを嗅ぎ取ったのですが、ここで、彼のタップダンスの才能が人間たちの耳目を引くのに成功するのです。

そして、エイリアン(人間)にアブダクション(誘拐)されたマンブルは発信機をインプラントされ(つけられ)て群れに帰ってきます。そして、踊ることで、エイリアンとコンタクトを取れることをみんなに伝え、彼らに踊るように言うのですが、長老たちはそれを拒否し、伝統の歌で踊りを封じようとするのです。エイリアンと遭遇した異端者マンブルのダンス文化を受け入れるかどうかというところがクライマックスとなり、ついには「ここは踊ったほうがよさそうだ」ということになります。マンブルの発信機を追ってきたヘリから人間が出てくるシーンで、またハラハラしてしまいました。踊るペンギンという見世物になっちゃうんじゃないかって。

しかし、物語は怒涛の展開を見せ、彼らの餌場の漁を削減するという人間の譲歩によって、ペンギンは魚を得ることに成功します。うーん、ハラハラさせておいて、思い切り善意の結末を持ってくるなあって、ちょっと感心しちゃいました。前半は異端と言われた主人公が自分を取り戻すというやや教訓的なありがちな物語なんですが、後半は、「西遊記」と「未知との遭遇」みたいなお話になりまして、いわゆるエコロジーの寓話になっていくのですが、ファンタジーというにはリアルな展開を本気でやってしまうのはすごいと思いました。それでも、ペンギンたちから見て、エイリアンは救世主ではなく、対等な関係に描かれるあたりの細やかさは評価したいと思います。

とはいえ、何と言っても見所はペンギンのかわいさと、ダンスの動きの見事さにあります。また、声優陣にウッド、ウィリアムス、マーフィにヒュー・ジャックマンとかニコル・キッドマンといった有名どころを使っているのに、それがあくまでキャラクターの声として浮きあがらなかったのは、演出の妙でしょうか。また、シネスコ画面いっぱいに現れるペンギンの群れのロングショットは圧巻ですし、既成曲のナンバーだけでなく、ジョン・パウエルによるオリジナルスコアもドラマチックで素晴らしいもので、劇場の大画面、大音響の環境で観るための映画になっています。

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「筆子その愛 天使のピアノ」は苦手なネタだけど、映画はマル。

今回は、新作の「筆子その愛 天使のピアノ」を閉館間近の藤沢オデオン一番館で観てきました。176席の劇場とは思えない天井の高さと立派なスクリーン、舞台も挨拶ができるくらいきっちりと作ってあるし、それにきれい。寂れた映画館が閉館していくのにはある程度仕方ないものも感じるのですが、こういうバリバリ現役のステキな劇場が閉館してしまうのは、寂しいよりも納得できない感情の方が強いです。そうは言っても赤字では経営は続けられないですから仕方ないのでしょうけど。

明治の初め、洋行帰りの渡邊筆子(常盤貴子)は父の薦めで結婚し、彼女自身は当時としては初の女学校でフランス語の教師となります。子供にも恵まれたのですが、その長女は知的障害を抱え、次女三女は幼くして病になくなったのです。若くして夫が病死した後、静修女学院の校長として新たな人生を歩みだそうとする彼女は、孤女と知的障害児のための学校を経営する石井亮一(市川笑也)と知り合い、彼の学校に娘を預けることになります。そして、二人は結婚し、彼女も夫の経営する滝乃川学園で教師として働くようになります。しかし、病弱な長女はその命を永らえることなく亡くなります。それでも彼女は火災や戦争を乗り切りながら、子供たちを社会へ送り出し続け、昭和19年、83歳でその生涯を閉じたのでした。

正直言いまして、私は子供が苦手です。独身だからかもしれませんが、子供をあまりかわいいとは思わないのです。さらに、私に身近に知的障害者がいないことから、その当事者や家族の感情というのもよく理解していません。さらに偉人伝って胡散臭いという先入観を持っているという、まさにこの映画に対する三重苦を抱えて、スクリーンに向き合うこととなりました。

映画は、筆子という女性の一生をダイジェストに見せたもので、色々なエピソードをつないだものになっています。最初は、フランス留学とか鹿鳴館のシーンが出てきたりして、このヒロインがすごくいいところのお嬢さんであることが描かれます。いいところのお嬢さんがそのまま女性の権利を守ろうみたいなことを言い出すあたりが、今時のお嬢さんとは違う、文明開化の頃のお嬢さんということになるのでしょう。華族女学院の講師になるというのも所謂「選ばれた人」ということになるのでしょう。その辺のお方とは氏素性が違うのです。そんな彼女の娘が知的障害、白痴と言われて絶望するところから、ドラマが回り始めます。世間から白眼視されても、娘を手元に置いてしつけ育てようとするのは、それまでの最先端を行ってた彼女からすれば、ずいぶんと決心の要ることであったと思われます。また、そんな子供を抱えられるだけの経済的な余裕もあったようです。生涯、彼女に仕えるサトを傍に置くことができたのですから。

夫と死別してから、石井亮一と知り合い、尊敬の念を持って魅かれていくという過程が、あっさりと描かれるのですが、この映画、どうも筆子の人間像を描くことにそれほどの関心がなさそうで、それよりも、知的障害の子供たちの部分に重きを置いているのです。障害のある娘さんを持つ監督の山田火砂子は、ドラマの流れに関係なく滝乃川学園の授業を延々と見せたり、障害児のテンポに演出のテンポを合わせているようなところがあり、「筆子わが愛」なんていうベタなタイトルが実はフェイクで、本当は子供たちを見せる映画にしたかったのではないかと思わせる演出ぶりなのです。ヒロインの常盤貴子は熱演は認めるものの、年を経るに従って人間的厚みが出るといった役どころではなく、最初から最後まで天使のようにあり続けるので、演じどころがなかったように見えます。ただし、最初から最後まで「美しい筆子先生」を演じきっていますから、彼女なしでは成り立たない映画であることは間違いありません。

人間だから、もっと自我とか欲とか葛藤とかあってもいいよねと思うのですが、そこは彼女に「自分の学校では、無償の愛を実践したい」と言わせて封印してしまうのです。これでは、人間としての筆子に迫ることはできないです。ご主人の石井先生も同様で、孤女や障害児のために献身的に生きた人としか描かれませんので、人間的な魅力は出てこないのです。一方、要所要所には泣かせるシーンもありまして、最近、年のせいか涙腺のゆるい私は何度も泣かされてしまいました。それらは、残念ながら局所的に泣かせるシーンであって、大きなドラマの流れを作るものではないのですが、サトが筆子の再婚を許して欲しいと筆子の父親に直訴するシーンですとか、元手配師の男が救援物資を体を張って運んでくれるシーンなんてのは、やっぱり泣けちゃうわけです。

じゃあ、2時間を泣かせときれいごとだけ言って終わってるのかっていうとそうでもないところが、この映画の微妙な味わいになります。実際、障害のある子供たちとかが出てくるシーンがリアルに美しいのですよ。健常者の子役も混じっているのは承知の上で、子供たちのシーンが何だかいい感じです。そして、知的障害はあっても情緒に障害があるわけじゃないってところが見えてくるのです。あまり、障害者のことを知らない人には、それだけでも、この映画を観る意味があるのではないかしら。

実際に知的障害を持つ子供が、この学園を卒業して、社会人として暮らしているというエピソードをやけに丁寧に撮っているのも、そういうことを知って欲しいという作り手の思いがあるからでしょう。ここもきれいごとなんですが、それだけ世間に障害者の負のイメージが出回っているから、彼らの社会生活がうまくいってることもあるんだよってことを伝えたいように思えました。

筆子は戦時中に83歳でなくなっていますが、その生涯は決して幸せなものだったようには見えません。戦時中の食糧難で子供たちの食べ物を十分に得られない状況下では死んでも死にきれないものがあったのではないでしょうか。そう考えると、ドラマを筆子に重心を置きすぎると、一生苦労しっぱなしの湿っぽい偉人伝になってしまうところを、映画の構成でうまく救ったと言えるかもしれません。全体的に地味な演技陣は子供の前に負けてる感じですが、それでも常盤貴子の美しさが映画の中で輝いていまして、彼女の美しさにも救われた(うまく騙された?)と言えます。

映像が映画館で観るための絵になっていること、渡辺俊幸の音楽がよかったこともあり、個人的には敷居が高かったものの、映画館で観てよかった映画になっていました。このヒロインを扱ったドキュメンタリー映画があるということなので、そちらも観てみたい気分になりました。何しろ、どういう経緯で結婚する気になったのか、興味あったのですが、そのあたりこの映画では語られませんでしたからね。だって、相手に尊敬の念を持って結婚する気になるなんてある意味最高の結婚ですが、普通そんなの「ありえねー」ですから。

アートシアターミラノの記憶

昔の映画館のお話です。東京ですと、映画館ごとにステータスとかそこで上映する映画の特色があったことはよく知られています。今はシネコンが増えて、映画館のステータスはミニシアターでしか感じられなくなりました。静岡でも、私の学生時代は、まず静岡名画座と小劇場が安い値段で旧作を上映していました。後、もう一つ、現在の静岡ミラノ1はアートシアターミラノという名前で、今で言うならミニシアターのような位置づけで、アート系の映画をたくさん上映していました。今なら、静岡シネギャラリーがそういう映画を一手に引き受けて、静岡の映画文化を守っているところがあるのですが、静岡シネギャラリーと違うところは、静岡ミラノが普通規模のキャパとスクリーンを持った映画館だったということです。

当時の静岡市の洋画封切館は、オリオン座、有楽座、東映パラスがあったのですが、それらの上映作品に独特のカラーはなかったように思います。そんな中で、ミラノでは、フランス映画、イタリア映画、また、旧作の上映を積極的に行っており、他とは一味違う映画館としてのステータスを持っていました。他の劇場に比べて照明も落としているし、椅子も深く座る背もたれの大きなもので、やや古臭いけど、どこか高級感を漂わせていました。ビルの4階という立地も何だか奥まった映画館という独特の雰囲気を持っていたように思います。

私が観た作品では、ルイ・マルの「鬼火」、ビスコンティの「家族の肖像」「ルードウィヒ神々の黄昏」、フェリーニの「女の都」といった封切作品、また昔の映画では、ジーン・ケリーの「カバーガール」、オーソン・ウェルズの「上海から来た女」、デビッド・リーンの「ドクトル・ジバコ」などがあります。全部がアート系作品というわけではないのですが、他にも女性向け作品もミラノで上映されることが多かったように思います。「さすらいの航海」「郵便配達は2度ベルを鳴らす」といった格調高そうな映画もここで上映されていました。また、「ザ・チャイルド」「キャリー」といったホラー映画もここで上映されることで、映画のステータスが上がったような気がしました。これは、今で言うなら、どうってことない映画でも、ミニシアター単館公開だと洒落た映画のように思えてくるって感じですね。

シネコン化が進むと、複数の映画館で封切り直後は大劇場、観客が減ってくると小さい劇場へムーブオーバーしていくという興行になり、映画館に上映作品のカラーを持たせることができなくなってしまいました。劇場の稼動効率を考えると致し方ないことではあるのですが、映画館の特色がなくなるのはやっぱり残念なことではあると思います。某掲示板では、静岡ミラノ2(旧並木座の2階席を独立させた映画館)の評判がよくないのですが、あの小さいスクリーンと狭い場内も、特色の一つだと思えれば、映画鑑賞の楽しみが増えるのではないかと思うのですが、最初に映画を観たのがシネコンだったりすると、この感じは伝わりにくいかもしれません。

「炎の少女チャーリー」は映画も音楽も、もっと評価されていいような


1970年代、プログレッシブ・ロックの雄として名を馳せたタンジェリン・ドリームはメンバーを変えながら、1970年代後半から1990年代にかけて多くの映画音楽を手がけました。日本で劇場公開された作品が少ないのですが、そんな中で、この「炎の少女チャーリー」は映画としてもかなりメジャーな部類に入る一本です。スティーブン・キング原作、子役時代のドリュー・バリモアが主演している映画は、世間的評価はあまり高くないのですが、職人監督マーク・L・レスターが膨大な原作を手際よくまとめ、ジョージ・C・スコット、マーティン・シーンなどの豪華キャストもあって、私は結構お気に入りの一本です。

当然、全曲がシンセサイザーによるタンジェリン・ドリームの音になっていまして、まずアルバム1曲め、煙がたなびくタイトルバックに流れる「Crystal Voice」がクールさと暖かさの両方を持った名曲でして、このタイトル曲が映画の全体のトーンを決定付けていると言っても過言ではありません。また、エンドクレジットに流れる「Charly the Kid」も同じ曲調ながら、ハッピーエンドにふさわしいメロディを持った音になっています。この2曲はいつものタンジェリン・ドリームの音らしからぬタッチになっていまして、当時参加していたデビッド・シュメーリングの作品ではないかと思われます。(シュメーリングの単独CDでこれと似たタッチの曲あり)

その他の曲は、無機的なシンセサイザーサウンドでSF映画らしい世界観を音楽で表現していまして、彼らのオリジナルアルバムとして聴いても楽しめるものに仕上がっています。その中では、サスペンスを強調した「The Run」の緊張感、チャーリーの発火能力の実験シーンに流れる「Burning Force」はドラムの盛り上げが印象的です。クライマックスの火の玉飛び交うスペクタクルのバックに流れる「Flash Final」では、音楽をむしろ抑え目にしていて、低音のリズム部の反復によるミニマルミュージックのような音作りから、じわじわとパーカッションが増えていくことで盛り上げる手法が大変効果的でした。

タンジェリン・ドリームはこれ以外では、「ザ・キープ」という伝奇ホラーに素晴らしいスコアを提供しているのですが、これはなぜかアルバム化されていません。その他「ザ・ウェーブ」「ニア・ダーク」など劇場未公開作品で印象的なスコアを書いていますが、ゴブリンやキース・エマーソンのような派手さというかハッタリに欠けるせいか、映画音楽のタンジェリン・ドリームという呼ばれ方をされることは少ないようです。

個人的には、「恐怖の報酬」で初めて彼らの音楽に接したのですが、単にブンブンうなってるだけじゃんという印象しか持てませんでした。ところが、この「炎の少女チャーリー」を劇場で観て、そのタイトル曲を聴いたとき「おお、これはすごい」と思って、以降、タンジェリン・ドリームの名前をチェックするようになりました。

「天国の日々」はテーマ曲を聴いてるだけで泣けてくる


今年やっとオスカーの名誉賞を受賞した映画音楽の巨匠エンニオ・モリコーネですが、この「天国の日々」で初めてオスカーの候補になりました。受賞は「ミッドナイト・エクスプレス」のジョルジョ・モロダーで、何だか納得いかない気分になったことを覚えています。映画は、テレンス・マリック監督、若いリチャード・ギア主演で撮影の美しさが巣晴らしい作品でした。

まず、彼の音楽が聴けるのは、農場で朝、麦の刈り取りが始まるシーンからで、静かなオーケストラがシンプルなメロディを奏でるのでるが、これが胸にぐっと迫るものがあるのです。静かな曲なのに心の琴線に触れるのは、さすがにモリコーネです。テーマ曲がフルに演奏されるのはエンドクレジットなのですが、映画の中でもそのバリエーションが小さな編成でギターやフルートがメロディを奏でますが、やはり最後に流れるテーマ曲が圧巻です。やさしいメロディが、ストリングスによって、胸を打つ、音楽だけで泣ける名曲に仕上がっています。

ドラマチックなスコアは、イナゴの大群が麦畑を襲うシーンで聞かれます。不協和音に独特のリズムが加わって、ここは定番のモリコーネサウンドが聞けます。しかし、それだけ他の音楽がモリコーネの定番とは一味違っているということでしょう。静かな音楽が中心で完全にアメリカ映画の音になっているのです。その中でメインテーマのやさしいメロディの美しさが胸を打ちます。映画も感情を抑制した作りになっているのですが、音楽もいい意味で抑制が効いていて、最後に思い切りテーマ曲を聞かせる構成も見事でした。

「オーメン 最後の闘争」は音楽の素晴らしさで映画を救ってます


ジェリー・ゴールドスミスは、「オーメン」でアカデミー作曲賞を受賞しました。「アベ・サンターニ」はまさに悪魔の賛美歌として有名ですが、その一方で愛のテーマの美しさも印象的でした。その後、二作目「オーメン2 ダミアン」を担当し、三作目も彼が作曲し、ライオネル・ニューマンがロンドンのナショナル・フィルハーモニック・オーケストラを指揮しています。「ダミアン」では悪魔をあおる曲ばっかりで今一つだったのですが、この「最後の闘争」では、神父たちが暗殺者としてダミアンを付け狙うという設定のせいか、終幕の大風呂敷を広げたストーリーのせいか、歴史劇と宗教音楽を足し合わせたような重厚でスケールの大きな音作りになっています。

タイトルは工事現場で発掘されたメギドの短剣が神父のもとに届くまでを描いたもので、そのバックにコーラスとオケを目一杯鳴らすメインテーマが素晴らしい導入部になっています。今回は悪魔と共に神の側も音楽で表現していて、かつダミアンも単なる悪魔の子ではない多くの信者を抱えた悪魔のトップクラスなため、頂上対決的な盛り上げがされています。

中盤の聞かせどころは天文台の惑星直列シーンでの神のテーマが盛り上がる部分と、狐狩りシーンでのメインテーマを聞かせるところが圧巻です。殺人シーンでは、シンセも加えたテンポの速いスリリングな音も登場するのですが、やはりじっくりと重みのあるテーマ演奏に聴き所がたくさんあります。ナションル・フィルによる演奏も素晴らしく、劇場公開時にはドルビーステレオでこの音楽が大迫力で鳴ってくるのが、それだけで興奮させるものがありました。CDもホールでのライブ演奏のような録音になっていて、CDとしての聴き応えも十分でした。

絵的には製作費が切り詰められてる感じがするのに、物語のテンションが落ちないのは、ゴールドスミスの音楽があったからでしょう。他の人間がやったら、ここまでハッタリと格調の高さを併せ持つスコアは書けなかったと思います。「オーメン」ほど高い評価が得られていないのが不思議でならない素晴らしい音楽です。

「ホリデイ」は娯楽映画の王道プラス役者のよさを引き出した演出のうまさ

また、新作の「ホリデイ」を日劇3で観てきました。ここは横に長いような劇場でスクリーンが大きいので後ろから3列くらいがベストポジションになっている映画館で、フラットな座席配列ながらスクリーン位置をそこそこ高くしてあって余程座高の高い人間に前に座られない限りは大丈夫。

彼氏の浮気でブチ切れ気味のLAのアマンダ(キャメロン・ディアズ)、長い間思い続けた相手が婚約して落ち込み状態のロンドンのアイリス(ケイト・ウィンスレット)、この二人がインターネットで知り合い、クリスマス休暇をお互いの家を交換することになりました。ロンドンの片田舎で時間を持て余すアマンダの前にアイリスの兄グラハム(ジュード・ロウ)が現れ、勢いで二人はベッドを共にしてしまいます。一方、アマンダの豪邸で大はしゃぎのアイリスの前にアマンダの元彼の友人マイルズ(ジャック・ブラック)と知り合いになんとなくいい雰囲気になりますが、果たして二人のお家交換は実を結ぶのでしょうか。

「ファミリー・ゲーム」「ハート・オブ・ウーマン」のナンシー・マイヤーズ監督の最新作です。恋愛コメディの脚本などでも実績のある人で、今回は脚本も兼任して、ちょっとひねった設定のラブコメをまろやかに仕上げています。いかにもアメリカ映画らしい笑いと恋を盛り込んで役者のよさを存分に引き出しています。

アマンダは映画予告編製作会社の社長で結構セレブなキャリアウーマン、一方のアイリスは新聞社に勤務するマスコミ関係者、この二人がそれぞれに恋の痛手を負い、気分転換のためにお家交換するという発端から、マイヤーズ監督は二人の女性を細やかに演出して見せます。どこかリアルで、でも笑える二人のキャラクターが好感を持てる形で描かれます。アマンダは初対面の男をベッドに誘うような女性なのに軽薄に見えないのは演出がうまいのでしょうか。また、アイリスのお上りさんぶりが田舎ものっぽくならないのもよかったです。

アマンダが一時の恋人と割り切った筈のグラハムにだんだん本気モードで魅かれていく過程にも無理がありませんし、友達モードのアイリスとマイルズの関係も微笑ましいものがあります。また、ラブコメによくある勢いでハッピーエンドにならないで、きちんと恋愛のプロセスを積み上げているのにも好感が持てました。口当たりは軽いラブコメながら、物語としては骨太になっているのは、マイヤーズの手腕だと思います。二つの恋愛を同時進行で描いていまして、アマンダとグラハムの関係はドラマチックで人生の先まで考えた葛藤があります。一方のアイリスとマイルズは友人から関係が深まっていく様子を割りとあっさりと描いて、双方の違いを明確にしてあるのもうまいと思いました。

ドラマとしての比重はアマンダとグラハムの方にかかっていまして、一度も泣いたことのないアマンダが自分の感情に素直に向き合うところがドラマの山場になっています。このあたりのシリアスへの展開の呼吸もうまいもので、別れ、葛藤、引き返してという恋愛映画の王道を行く一方で、引き返してみれば彼も...というおかしさは、女性監督らしい視点だと感心してしまいました。アイリスとマイルズの関係は友人から始まり、友達以上のものになっていく過程をさらりと見せて、運命じゃない恋愛の一つの形を嫌味なく描きました。

この二組のカップルを演じた役者がみないつもとちょっとだけ違う役柄を演じて、各々の演技の幅を広げているのも印象的でした。コミカルな恋愛ものでは実績のあるキャメロン・ディアズにちょっとシリアスな恋をさせて、彼女に出世作である「ベスト・フレンド・ウエディング」を思い出させる演技を引き出させていますし、シリアスな二枚目の多いジュード・ロウに素直な毒のない、いい男を演じさせてプラスアルファの魅力を感じさせます。ドラマチックなヒロインが多いケイト・ウィンスレットが伸び伸びと等身大の恋する乙女を演じたのもちょっとした発見ですし、コミカルなキャラの多いジャック・ブラックがちょっとシャイないい人になっているのも変化球でした。役者のタイプキャラに終わらないドラマ作りのうまさは評価されていいと思います。

また、元恋人役にエドワード・バーンズとルーファス・シーウェルという芸達者を持ってきたのも点数高いです。チャラチャラしたキャラを、極端にやな奴にならない存在感ある演技で、ドラマを支えています。また、ハリウッドの老脚本家(エリ・ウォラックが好演)のエピソードが箸休めのような味わいになり、2時間を越える長さを感じさせない娯楽作品(むしろ、エピソードを刈り込んだ印象が残るくらい)に仕上がっています。

音楽はハンス・ツィマーがクレジットされていまして、軽いラブコメというよりは、もっとキメの細かいドラマチックなスコアになっていて、テーマが印象に残るように使われているのも、いつもと違うツィマーらしからぬ音になっていました。サントラCDを見ると、ほとんどの曲がツィマー単独でなく、ローム・バルフェ、ライランド・アリソン、アフリ・オーバーソン、ヘイター・ペレイラ、ヘンリー・ジャックマン、イモジン・ヒープとの共作になっているのですが、多くの人間が絡んだ分、バラエティとメリハリがついたということもできそうです。

アメリカ映画のうまさを色々と盛り込んで、笑いもあるし、恋もあり、ちょっとホロリとさせられるという娯楽映画の王道を行く作品です。こういう映画をもっと観たいと思いますし、こういう映画にお客がたくさん集まるといいなあって思わせる映画でもありました。ナンシー・マイヤーズ作品はこれからも要チェックのようです。

「ラスト・キング・オブ・スコットランド」は、人食い大統領の映画ではないです

新作の「ラスト・キング・オブ・スコットランド」をTOHO川崎シネマのプレミアスクリーンで観てきました。椅子はゆったりとして豪華な劇場ではあるのですが、隅っこまで座席があるので、あんなところにプレミア料金で座らされたらかなわないという気もします。座席も真ん中あたりだけに設置すればいいのに。まあ、今回は通常料金でのプレミアスクリーン上映だったのですが。

大学を卒業したスコットランド人の青年医師ニコラス(ジェームズ・マカヴォイ)が、海外派遣先に選んだのはアフリカのウガンダでした。そこではちょうどクーデターによってアミン大統領(フォレスト・ウイテカー)が就任したばかり。ひょんなことから、アミンと知り合ったニコラスは彼の屋敷に呼び出されて、彼の主治医にされてしまいます。ニコラスのストレートな物言いを気に入るアミン、ですが、アミンは猜疑心が強く、魅力的な笑顔と演説の裏で多くの人民を虐殺していました。ニコラスの忠告から大臣が一人行方不明になったのを知り、この国を去ろうとするニコラスですが、アミンはニコラスを手放しません。さらに、ニコラスがアミンの第二夫人と関係を持ってしまったことから、彼の狂気は直接ニコラスへも向けられていくのです。

アミン大統領というと、政敵を次々に殺して「人食い大統領」という異名を持った男というイメージがあります。その昔、「エンテベの勝利」という映画で悪役であり、「食人大統領アミン」という映画も作られたほどの悪名を馳せた人物です。そんな男を、白人の側近の視点から描いたのがこの映画です。まず最初に登場するのは集会所での演説シーンで、ここで彼のカリスマぶりがよくわかります。頭がきれて大衆の心を捉えるのに長けているのですが、そんな彼をニコラスの同僚医師の奥さんサラ(ジリアン・アンダーソンが印象的に好演)が「前の大統領の時も最初は同じ、その後すぐに国庫を自分の財布にした」とクールに諭すのですが、ニコラスはアミンの持つパワーに引かれていくのです。

この映画の中では、アミンの人柄の部分は実はあまり描かれていません。人心をつかむ術はすばらしいものがあり、そして、恐ろしく猜疑心が強く、子供のような気分屋です。彼のそういうキャラクターは、ニコラスという部外者の視線を通して描かれるので、本当に彼が何を考えて、何を信じていたのかをこの映画から読み取ることは難しいです。ただ、恐ろしい虐殺を行う独裁者がそれほど我々と異なった人間ではないことは伝わってきます。普段、泣き顔か困った顔専門のフォレスト・ウイテカーが演じているのが意外でしたが、得たいの知れない不気味な男をあくまで正気の人間として演じています。

アミンの人柄は今一つわからなかった一方で、ニコラスのキャラクターへの突っ込みはかなり辛辣と言えます。地球儀を回してルーレットのように選んだウガンダ、そこでの医療活動にあまり熱心ではなく、サラからも「この仕事に向いてない」と言われてしまうニコラス。彼は自分でも冒険気分が半分というだけに、アミンから主治医として、豪華な病院、住居をあてがわれると嬉々として、それに乗ってしまい、さらにはアミンの第二夫人と関係を持ってしまって、彼女が妊娠するとアタフタしてどうしようもなくなるという軽率な男でもあります。そして、さらにスコットランド人であることから、英国に対する偏見があるのですが、それと逆に今度はウガンダ人を見下したようなところがあり、そんな彼の意識と行動が、事態を悪化させる要因にもなっているのです。大統領の側近になってしまったらもう当事者なのに、あくまで部外者のつもりだったところに、ニコラスの、というよりは白人のいやらしさを感じます。嫌な奴として登場する英国の弁務官の方が嫌な奴なりに自分の分をわきまえているのですが、ニコラスはそのあたりの分別をわきまえるには若すぎたのでしょうか。

そして、その軽率さに対して、ニコラスは手痛いしっぺ返しを食わされることになります。このあたりの描写がかなりショッキングなのですが、映画はそれまでのタッチを変えることなく、殺人、拷問シーンを見せます。善意の人間の命と引き換えにニコラスはその命を永らえることに成功しますが、そこで背負うものはあまりにも重いものがあります。ニコラスの命を助ける医師が「アミンの悪行を世界に伝えて欲しい」と言うのですが、それは彼が外国人だからその価値があるというだけで、同じ行動をウガンダ人が取ったのであれば、とうにニコラスの命はなかったでしょう。

ケビン・マクドナルドの演出は、虐殺を行ったアミンよりも、それを他人事のようにして自分たちの利益を追った白人を糾弾しているように見えました。映画の後半、アミンが絶対的な悪として描かれれば描かれるほど、ニコラスのいやらしさが浮き立ってくるからです。しかし、それにも増して、アミンは残虐で恐ろしい男でした。なぜそうなったのかは映画では明確には語られません。ただ、貧困の中から成り上がった立身出世の人であり、それゆえか、なかなか人を信用できず、猜疑心が強くなり、それと権力が結びつくことにより、粛清の嵐が吹いたという見え方になっています。猜疑心が強いからこそ、スコットランド人であるニコラスに心を開いたように見えますが、あくまでそれは友好とか好意というものではなく、自分の身近に信用できなくても特に害にならない人間を置きたかっただけのように思えました。

この映画は、「人食い大統領」(ホントは食べてないらしいけど)の人間性に迫る映画ではありません。彼がなぜああいう行動をとったのかというところには映画は踏み込んでいかないからです。その一方で、「部外者として外国人」のあり方については考えさせられるものがありました。普通なら「いい気なものだ」と言われて済むけど、事態が切迫したり、あまりに当事者になり過ぎると、それでは済まなくなるというのは、心にとめておくべきだと思いました。

藤沢オデオンの閉館に大ショック

長年、地方都市の映画館として、町に文化に貢献してきた藤沢オデオンの4館が2007年3月末を持って閉館してしまうニュースは、長年ここに通っていた私には寝耳に水のショッキングなニュースでした。

大劇場の作りをそのままコンパクトにまとめて、大劇場の風格を感じさせたオデオン1番館2番館、そして、一戸建て映画館の風格があったオデオン座、しゃれた作りがミニシアターの豪華版という感じだったキネマ88、どれもなくなってしまうのが本当に惜しまれる珠玉の劇場たちです。

シネコンに押されたという記事がありましたが、この4館は、劇場の見易さ、きれいさ、スクリーンの大きさ、音響効果、接客態度、どれをとってもシネコンに全然負けていなかっただけに、個人的には、何だか納得いかない気分です。

ここは、メジャー作品だけでなく、ミニシアター系の作品も積極的に上映してくれて、「フル・モンティ」「山の郵便配達」「至福のとき」「永遠のマリアカラス」なども藤沢で観ました。一方で、メジャーな作品もできるだけ藤沢で観るようにしてきて、そこそこお客さんが入っていると思っていたのですが、やはり藤沢という立地が厳しかったのでしょうか。映画館がなくなっていくのはショックでして、過去に横浜東宝会館が閉館したときもかなりこたえましたけど、今回はそれ以上の大ショックです。

71年の歴史がある映画館だそうですが、私にとっても20年近くの歴史を持つ映画館だけになくなってしまうのが残念ですが、よくこのご時勢にああいうステキな映画館をよくここまで維持してきてくれたことに感謝したいと思います。

「ポイント45」のポイントを語るのは難しい

新作の「ポイント45」をTOHO川崎シネマズ6で観てきました。このシネコンの2番目に大きな劇場で観やすいスロープと大画面で快適な映画鑑賞ができます。この映画にしては劇場が大きすぎるような気もしたのですが、夜2回だけの上映だからかと思ってみれば、昼間は「ドラえもん」を上映しているのでした。

ニューヨークのスラムの悪党ビッグ・アル(アンガス・マクファーデン)はいわゆる性豪、そんなアルの恋人キャット(ミラ・ジョボビッチ)は、ひどい目に遭いながらもなかなかアルと別れることができません。何だかんだ言っても彼女はアルを愛してるからだそうで。ある時、アルの大嫌いなプエルトリコ人に絡まれたキャットはその後、アルの嫉妬を買い、ひどい暴力を受けます。キャットのことを好きなレズのリズ(アイーシャ・タイラー)やアルの幼なじみライリー(スティーブン・ドーフ)は彼女を救おうとするのですが、キャット自身がアルから離れることを望んでいないのです。しかし、キャットのことでアルとライリーがもみ合い、アルが発砲事件を起こしてから、キャットはある計画を行動に移します。果たして、キャットはアルをどうしようというのでしょうか。

劇場映画デビューというラリー・レノンが脚本を書き、監督もしている、ある女性のドラマの生き方を描いた一遍です。キャットというヤクザの情婦が最初は何をされても男から離れられないでいたのが、だんだんと変わっていくあたりをじっくりと見せる映画になっています。まず、オープニングでキャットのインタビューなんですが、この映画では、関係者へのインタビューがあちこちに挿入されていて、その中から、アルやキャットというキャラクターが浮かび上がるような仕掛けになっています。まあよく言えば「市民ケーン」なんでしょうけど、結局インタビューする立場の人間の存在が曖昧なので、物語のリアリティを欠いてしまう構成になってしまいました。それは狙ってやっているようで、前半のリアルなヒロインが後半にどんどんつかみどころのないキャラに見えてくるのに、この構成は意外とマッチしていました。

ヤクザ家業をやっている強面のワルであるビッグ・アルとキャットはセックスで結ばれているようなところがあって、キャットがその肉体をアル以外に使い始めるところにこの映画の面白さがあります。ミラ・ジョボビッチは、もともと猫顔で、よく言えばスリム、悪く言えばガリガリの体は肉感的というのとは程遠いのですが、それが男とも女とも寝る女というキャットのキャラにうまくはまりました。また、今回の彼女はかわいさを前面に出していまして、その可憐な少女のごとき風情と行動のギャップがはっきりしてくると、こいつなかなかのやり手かも思わせ始めるのです。

1時間半をつなぐには物語の要素は少ないのですが、その分、キャラの描写に大きく時間を割いています。暴君でアホでやっぱりワルな、ビッグアルをアンガス・マクファーデンは等身大のキャラクターとして演じきりました。もっと徹底的なワルかと思っていたら、妙に人間くさい、でも結局はとんでもない奴なのです。キャットを囲む面々も丁寧なキャラ作りがされており、それぞれに演技力のあるメンツを揃えてあるのか、ドラマとして冗長な感じがしないところがうまいと思いました。これといった大きな山場のない映画なんですが、1時間半強をあれよあれよという間に見せられてしまったところからして、ゲイリー・レノンの演出は確かなものだと思います。その、山場がないってところは娯楽映画としてはマイナスポイントではあるんですが、その部分をミラ・ジョボビッチのかわいさとビッチぶりで補っているという感じでしょうか。

こういう映画はシリアスな家庭内暴力映画とは言い切れず、かといって、ギャングアクションでもないし、紹介するにも宣伝するにも難しい映画です。虐げられてきた女性が我慢に我慢を重ねて反撃に転じるというのとは少し違う味わいでして、それまで無知ゆえに弱い立場だった女性が自分という武器に気付いて、それを使って、自分の思うように生き始めるというお話なのかな。強いて言うなら女性映画ということになるのかもしれません。女性への暴力、暴力男から離れられない女性の心理、体一つで自分の欲しいものを得ようとする女の立身出世といったものが描かれています。ただし、それがヤクザの情婦というだけに、「愛と感動の」ドラマにはならないのでした。

「屋根裏部屋の花たち」は重量感とメロディが逸品


クリストファー・ヤングという作曲家は、「血の学寮」といったB級ホラーから始まって、「ヘルレイザー」や「スペース・インベーダー」で頭角を現し、「告発」「ザ・コア」「真夏の出来事」など様々なジャンルの映画で活躍しています。それでもホラー映画での独特な重量感のあるオーケストラ音楽に特徴があり、この「屋根裏部屋の花たち」は、彼の初期の頃(1990年)の作品ながら、その完成度は相当高いものがあります。作曲・編曲はヤング自身が行っており、指揮はポール・フランシス・ウィット、ソプラノソロでエヴァロン・ウィットが参加しています。

V・C・アンドリュースの有名な原作をコンパクトにまとめたということで映画としての評価は高くないのですが、音楽はゴシックホラーにふさわしい重厚でかつメロディアスな音になっています。

アルバム1曲目「Flowers in the Attic」はソプラノソロによるサブテーマが流れ、その部分のみが映画のオープニングで使われています。その後、ストリングスによるテーマ曲になり、フルートのソロとストリングスが交互に主旋律をとりながら重厚なテーマを奏でます。このオーケストラによるテーマは主人公の子供たちが祖母の家での生活を始めるシーンで演奏されるのですが、この曲がまさに名曲の名にふさわしいもので、どこかのパクリかもしれないという疑いを持ちながらも、この曲は私の知る映画音楽の中でも五指に入る名曲にランクされます。

その後の曲は、基本的に2つのテーマのバリエーションになるのですが、ストリングスの音がずっしりと来るアルバムとして聴いても聴き応えのある曲が並んでいます。3曲目の「Up to the Rooftop」が唯一サスペンスが盛り上がる曲になっていまして、子供たちが祖母の家から逃げ出そうとして失敗するシーンで使われています。それ以外は、基本的に情景描写的な曲になっていまして、画面をがっちりと押さえ込むような重量感のある音がB級ホラーの音楽とは思えない見事さです。

このサントラ盤との出会いは、すみや渋谷店というサントラ盤専門店で、LPを見つけたときになります。ジャケットだけ見て、ホラー映画っぽいという、それだけの理由で衝動買いして、聴いてみたら、そのすごさに震えが来るような興奮した記憶があります。後で、映画(劇場未公開)をビデオで観たら、「ふーん」という程度のものだったのですが、音楽の印象は変わらず素晴らしい音でした。出会いのインパクトが大きい分、評価も高くなってしまっているのですが、他にあまり似た音楽がないこともあって、今も評価は高いです。

「イカとクジラ」の文系インテリは苦手かも

また新作です。静岡シネギャラリー2で「イカとクジラ」を観てきました。この映画館は、お寺さんの施設の中に、50席弱の小さなミニシアターが二つ入っています。スクリーンも銀座シネパレス3とどっこいどっこいのサイズですが、画面の高さと後ろ半分の傾斜が見易い映画館です。静岡で、ミニシアター系の映画は、ここでしか上映しておらず、既存映画館がメジャー作品しか上映しない今、静岡の大変貴重な映画館に位置づけられます。また、もう一つうれしいのは、静岡の地方紙である静岡新聞に毎週金曜の夕刊に広告を出していることがあります。以前ほど既存映画館が新聞広告を積極的に出さないので、新聞を読むと観たい映画の広告があるという文化を残しているのが貴重だと思う次第です。

バーナード(ジェフ・ダニエルズ)とジョーン(ローラ・リニー)は二人の子供がいてどちらも文学博士号を持ち、バーナードの著書は高い評価を受けているのですが、最近は出版の話がありません。ジョーンの書いた小説は大衆的ながら出版の方向にあります。そんな夫婦の間に生じた亀裂はジョーンの浮気の発覚とともに爆発。二人は別居することになります。子供は共同監護の名のもとに両親の間を日替わりで行ったりきたりする羽目になります。父親に理解を示す兄のウォルトはかわいい彼女ができるのですが、妙なプライドと不器用さから、関係がうまくいきません。一方、母親よりの弟のフランクはテニスのレッスンプロなりたいとか学校で自慰にふけるとか色々と問題を起こしてくれます。そんな4人の関係がうまく修復できるのでしょうか。

ノア・バームバックの脚本監督作品で、あちこちで賞をとっている評判の高い作品です。作家で大学講師の父、新進作家の母に、思春期の二人の息子という、普通とはちょっと様子の違う家族が、各々の問題に悩み悩まされるというお話でして、全体を包むクールな雰囲気がちょっとブラックな笑いを運んでくる一品です。

父バーナードと兄のウォルトは、バーナードを高尚な作家だと思っていて、他の連中は俗物でレベルが低いと見下しているところがあります。母ジョーンと弟フランクは、その鼻持ちならないところが気になっていて、ジョーンは近所の俗物である色々な男性と浮気し、フランクは将来はテニスプレイヤーになりたい、でも超一流どころじゃなくて、自分のテニスの先生のようになりたいと言います。映画は家族の細かいエピソードを積み重ねることで、各々のキャラや抱える問題を浮き彫りにします。最初はつかみどころのない映画だなあって思っているうちにそのペースにはめられてしまいました。こういう作りの映画としては、まず面白く作ってあります。特におかしかったのは、バーナードが大衆を見下す高尚な作家の割にはケチで金に細かいところです。こういうキャラクターを思いついたってところがなかなか鋭いと感心してしまいました。

私は、いわゆる誰かから認められることも選ばれることもない俗物の下流にいる人間なので、この映画に登場する文系インテリとはどうも肌が合いません。ある作家の作品を「こっちはいいが、あれは失敗作だ」なんて、「あれ」の方を気に入って読んでる人の前で言い切るセンスは、とてもついていけません。兄のウォルトは父親のそういうところを受け継いでいて、学校もガールフレンドも見下してかかるのですが、所詮はまだ高校生なので、自分の無知や経験不足に直面することになります。でもその時にやたら高いプライドが彼自身をどんどん阻害していってしまいます。

物語が進展するに連れて、この一家の抱える問題が文系インテリ一家特有のものでないことが見えてきます。普遍的な人のありようの話であることを象徴するのが「イカとクジラ」のエピソードです。カウンセラーの前で楽しかった思い出を語るように言われたウォルトが幼い頃の母親との思い出を語るのですが、その中に登場する「イカとクジラ」が、タカビーに閉じこもり状態だった彼の心を開かせるきっかけになりそうだというところで映画は終わります。

誰でも、自分は特別だと思いたいけど、その実、その他大勢の一人でしかないという顔も持っています。それに気付いても受け入れられないまま年をとってしまったのが父バーナードであり、最後までそのキャラクターは変わりようがありません。一方、そんなプライドに気付いた母ジョーンは人間的なつながりを求めて浮気に走っているように見えます。そんな母親に共感を示す弟のフランクは兄よりも老成して達観したようなところがあり、それはそれで問題を起こしてしまうのですが、俗物の私としては応援したくなるキャラになっています。

役者は巧い連中を揃えていまして、バーナードを演じたジェフ・ダニエルズは、あまり表情を変えない中に成熟しきれないインテリの悲哀とイヤらしさを見事に演じています。ローラ・リニーは美人じゃない生身の中年女性を演じて存在感を示します。ラスト近く、復縁しようという夫を笑い飛ばす(「バーガーごときで」というセリフがおかしい)シーンが圧巻でした。息子二人も、演じているというよりは本人がそうなんじゃないの?と思わせる演技で、達者さよりもリアルさを感じさせるあたり、やっぱり達者なのかなあ。

「デジャヴ」は最後で「デジャヴ?」になるのがうまい、でもスゴい

また、新作で「デジャヴ」を静岡ピカデリー1で観て来ました。かつての静岡大映だった昔ながらの映画館でして、空間をたっぷりとってあるところが、静岡で2番目の規模の映画館になっています。座席が比較的ゆったりと配置され、スクリーン位置、後ろ半分のスロープなど、映画館らしい映画館だと言ったら誉め過ぎかもしれませんが、好きな映画館の一つです。

セントルイスでフェリー爆破事件が発生します。500人を超える犠牲者を出したこの事件にFTA(アルコール・タバコ・火器局」の捜査官ダグ(デンゼル・ワシントン)は、川の上流で爆破事件前に発見された女性の死体に注目します。死体の主クレア(ポール・パットン)は事件当日誰かと会う約束だったようで、さらに事件の直前、ダグに電話をしてきていたのでした。FBIもダグの調査に注目し、彼を何やら特殊な研究室のようなところへ招きいれます。そこでは、監視衛星によって、過去をスクリーンに映し出すことができるのです。そして、アングルも自由自在、ただしデータ量が膨大なため4日と5時間前のタイムラグが発生するのです。そこで、クレアの家にフォーカスして監視を始めるクレアなのですが、この過去を忠実に再現する装置は単に記録データを再現しているわけではなかったのです。そして、事件の捜査は過去を追跡することで新局面を迎えるのですが、果たして爆破犯を捕らえることができるのでしょうか。

オープニングで、海兵隊員や子供たちを乗せたフェリーが大爆発を起こします。炎につつまれた人間が吹き飛ばされ、水中に投げ出されるシーンはなかなかにショッキングです。そこに、FTAの捜査官ダグが爆破原因の調査に乗り出すところからドラマは意外性のある二転三転を見せます。トニー・スコット監督が、オープニングのハッタリ演出からグイグイと力技でドラマを引っ張っていくので、設定への疑問が頭をよぎるとドキドキハラハラのシーンになるという構成のうまさもあって、二時間余を一気に見せられてしまいました。最後の最後で「デジャブ」の意味がわかるようになっているあたりのうまさはさすがに娯楽映画をたくさん作っているだけあります。

また、よく観ると過去の映画から色々とおいしいところをもらってきてるところありまして、ヒロインを監視しているうちに恋心芽生えてしまうのは「張り込み」「シャーキーズマシン」を思い出させますし、監視衛星で何でもわかっちゃうのは「エネミー・オブ・アメリカ」「ボーン・スプレマシー」だし、過去の画像から事件の謎を割り出そうというのには「ブレードランナー」を思い出しました。そういう趣向をデジャヴだという映画ではないのですが、それらの仕掛けはドラマの中で有効に作用しています。特に、ヒロインを演じるポーラ・パットンが大変魅力的に撮られていまして、あまりキャラを与えられる間もないままクライマックスへなだれ込むのに、ちゃんとヒロインになっているのは、演出のうまさもあるのでしょうが、彼女の演技力にもあなどれないものがありました。


ここから先は結末に触れる部分がありますのでご注意ください。(未見の方はマジ読まない方がいいです。)





しかし、この映画がまさか犯人探しサスペンスから、タイムパラドクスを扱うSFの領域に踏み込むとは、予告編、また映画の序盤からは想像がつきませんでした。この「ええ?!」という展開は「フォーガットン」からのイタダキではないのでしょうが、そこに踏み込んだ途端、ドラマはある意味、予定調和の枠にはめ込まれてしまいます。まあ、この結末しかないと気付いたのは映画を観終わってからで、観ている最中はしっかりドキドキハラハラさせられましたから、娯楽映画としては成功なのでしょう。

しかし、タイムパラドクスはやっぱり残ってしまうわけで、そもそもダグにメッセージを残したのは納得できるものではありませんし、まあ、何と言っても、タイムマシンをできるだけそれとわからないようにとは言え、大マジメにやってしまったのですから、トンデモ映画と言えるのですが、それをそう感じさせなかったのは、スコット演出の馬力と、ヴァル・キルマー、ブルース・グリーンウッドといった渋い脇役の面々のおかげでしょう。特にジム・ガヴィーゼルがその存在感だけで演じきった犯人役は、彼だからこそあそこまでのインパクトを持ちえたと思います。ラストまで、正気と狂気の狭間に居続けた演技力は評価されてよいでしょう。

アクションシーンの迫力が奇妙な設定に疑問を感じる隙を与えない構成もうまいもので、「それって何なの?」って思うゴーグルのくだりもカーチェイスの迫力に何となく納得させられてしまいました。また、視覚効果チームの働きも評価したいところで、衛星監視データから再構築した再現画面という設定にリアリティを与えるビジュアルを提供していまして、ウソを突っ込まれる前にあの手この手を使って見せきってしまおうという作戦が非常にうまくいってます。そして、ラストは「天国から来たチャンピオン」をうまく頂いているなと気付いたのですが、よく考えると映画全体の構造が「天国から来たチャンピオン」になっているようです。色々な映画のおいしいところをうまく料理してるんだなあって改めて感心してしまいます。ストーリーを語るとすごく変なのに、面白く観れてしまうのですから、「ああ、面白かったね....ヘヘヘッ」って言う映画なのでしょうね、きっと。

「遊星からの物体X」はベストかな


映画を観るばかりでなく、そのサントラを買って楽しむことも多いです。何年も買いためているうちにどれがどれだかわからなくなってきてますので、そこで、是非、記憶に留めておきたいサントラ盤を書き留めて置こうと思います。

ということで、まず最初は、自分の中の名サントラベストワンということで、エンニオ・モリコーネの「遊星からの物体X」です。映画は、ジョン・カーペンター監督による古典SFのリメイクなんですが、そのSFXのすさまじさと面白さから、古典のリメイクが古典になっちゃっているような作品です。ジョン・カーペンター監督というと、自作の映画はほとんど自分で音楽をつけていまして、その音楽は、ベンベン節と呼ばれる独特のシンセサイザー音楽になっています。この映画も彼が音をつけてもおかしくなかったのですが、メジャーのユニバーサル作品だったからでしょうか。音楽をイタリアの巨匠エンニオ・モリコーネが担当することとなりました。

モリコーネは意外にもカーペンターのシンセサイザータッチをメインテーマに持ち込んでいまして、心臓の鼓動のようなノッキングサウンドが大変印象的でした。サントラ盤では、8曲目の「Humanity(Part2)」がそれにあたりまして、オープニング、そして、クライマックス直前、エンドクレジットと3回も流れます。じゃあ、全部シンセサイザーかというとさにあらず、他の曲は、ストリングス主体の現代音楽になっていまして、どれも大変聞き応えがある音になっています。1曲目の「Humanity(Part1)」は、ストリングスによるシンプルなメロディのミニマルミュージックになっておりまして、それが繰り返されるたびに弦が増えて音が厚くなっていくところが圧巻です。映画の中ではノルウェー基地の調査シーンのバックに流れるのですが、音楽だけ聴いても大変面白い音になっています。その他、奇怪な生き物の焼死体のバックに流れる不協和音による音楽ですとか、ストリングスの使い方は明らかにモリコーネタッチなのですが、弦の音が妙にクリアなのがサントラというよりは独立したアルバムのような印象を与えます。たぶん、録音もよいのだと思います。その中で、6曲目「Eternity」がシンセ主体の音になっていて、最初は高音のパルス音に、パイプオルガンのような主旋律が絡んでくると、パルス音が低音のノッキング音にとってかわられるという構成で大変印象的でした。一々、挙げていくときりがないのですが、どの曲もクールだけど厚みがあり、しかもバックに静寂を感じさせる音になっているのです。

映画も素晴らしいですが、それに輪をかけてこの音楽は素晴らしいと思います。何度聞き返しても飽きのこない、聞き込むほどに味のでるサウンドとでも言いましょうか。ストリングスが中心ではあるのですが、木管、金管、ピアノが要所を押さえていて、それと同等の扱いで、シンセがフルに使われているのです。ジェリー・ゴールドスミスがシンセをオーケストラの1パートとして使い切って見事な音を作っていますが、まとまった音のシンフォニーというよりは、個々の楽器の音の個性が前面に出てきます。オーケストラの編成も小さいと思われますが、その音の一つ一つが個性的に配置されているので、全ての曲が「××のための」と注釈がつくような楽曲に仕上がっています。

「華麗なる恋の舞台で」は理想の夫婦の映画なのかも

また、新作です。川崎チネチッタ3で「華麗なる恋の舞台で」を観て来ました。ここは、ベストポジションが劇場の後ろ半分という、全面雛壇型スクリーン位置高いスタイルの映画館です。チケット売り場の座席表では、そこの作りがわからないので、ど真ん中あたりに陣取るとスクリーンをかなり見上げることになります。

劇場の人気女優ジュリア(アネット・ベニング)は連日の公演にお疲れも頂点。経営者である夫マイケル(ジェレミー・アイアンズ)がなだめても「もうやだ」状態。信頼していた友人チャールズから人目もあるから会うのはよそうと言われるしますますメゲ気味。そんな彼女の前にマイケルのところで経営見習いをしている若いトム(ショーン・エヴァンス)が現れます。息子ほど年の違うトムに言い寄られてしまいすっかり舞い上がって、彼に入れ込んでしまうジュリア。でも、そのせいで仕事にもやる気が出てきて演技にも磨きがかかります。でも、所詮は火遊び、トムには女優志望の彼女ができてしまい、その恋人がジュリアの舞台で使って欲しいと言い出します。結構、演技はいけてる彼女を自分の舞台に使おうとするジュリアなんですが、妙に若い彼女を立てているのが不気味な予感なのでした。

サマセット・モームの原作「劇場」を「戦場のピアニスト」のロナルド・ハーウッドが脚色し、「太陽の雫」のイシュトヴァン・サボーが監督しました。予告編や邦題から受ける印象は文芸作品みたいなんですが、本編を観てみると、女心の滑稽さと怖さを楽しく見せてくれる娯楽映画になっているのがうれしい驚きでした。

アネット・ベニングがちょうどジュリアにぴったりのキャスティングでして、20歳近い子供がいる40代女性、きれいなんだけどよく見ると年齢相応にくたびれてて、それでも並の女性とはオーラが違うのですよ。ずっと女優という仕事をしてきて、所帯じみる間もなく、人に見られ続けることで、自分を磨いてきたジュリアという女性がアネット・ベニングにかぶるところがあって、それが後半の展開にも効いてくるのですよ。

息子ほど年の差のあるトムにのぼせあがり、トムが若い子に色目を使うと嫉妬の炎がメラメラとくるんですが、その一方でこんな若い子に入れ込んでもしょうがないっていう冷めた割り切りも持っています。そのバランスが妙に説得力があるんですよ、ちょっと見は若々しいけど、それなりの老いの影も見え始めた女性の熱情と分別がベニングの好演もあって、コミカルだけど納得できるキャラになっています。最初は花形女優として華やかに登場するのですが、ドラマが進むにつれてだんだんと普通のオバちゃんの顔が見え隠れしてきます。ただし、それは彼女の魅力を失わせるものではなく、むしろ人間的奥行きを感じさせ、共感できるようになっているのがうまいと思いました。

ところがどっこい、後半、トムの若い恋人が女優の卵として登場してくるとちょっと話がおかしくなってきます。トムや夫のマイケルが共演者として推薦してくるのを彼女は受け入れ、舞台稽古の時は、自分より彼女が引き立つような演出を提案したりするのです。やけにいい人になっちゃうのがリアリティを欠くなあって思っていると、ラストの舞台初日で「まさか、それはやるまい」と思ってたことをしゃあしゃあとやってのけます。確かに、この若い娘はトムの彼女でさらに夫とも浮気してるようなトンデモな奴なんですが、ま、女は怖いというか、だから、面白いという決着がつきます。でも、それによって、ジュリアは喝采を浴び、大女優ジュリアとして君臨し続けるのです。原題の「Being Julia」がラストでびしっと決まったという感じでしょうか。

ジュリアは、自分の感情に大変忠実です。自分が自分であることに正直だという言い方もできます。そんな彼女が若い男の子にのぼせあがったとき、自分に戻るために彼女がやったことはかなり豪快でちょっと手荒いけど、でも、全てが収まるところに落ち着くのです。それまで舞台女優でいることで、息子からの信頼を失っていたのですが、現実を舞台にぶつけるというラストの荒業で息子からの信頼を勝ち得ることができます。現実が虚飾に満ちた世界であるとき、舞台の上に真実を持ちこむことができる、そんな演じることの醍醐味まで感じさせるラストは劇場でご確認下さい。(お察しはつくかもしれませんけど)

そんな中で台風の目のような存在がジュリアの夫マイケルです。彼は、ジュリアの不平不満をさらりと受け流し、妻が若い男と浮気しているのを知ってか知らずか、その浮気相手を別荘に招待したり、さらにはその浮気相手の恋人とも関係を持ってしまうという、つかみどころのないキャラクターをジェレミー・アイアンズが軽やかに演じきりました。女優という虚飾と現実の狭間にいる奥さんに対して、ありのままのジュリアを受け入れながら、自分の好きなことをしているマイケルは大変頭の切れるやり手のようにも見えました。そして、ジュリアとマイケルの夫婦関係が決して揺るがないというのも面白いところです。ある意味、いや本当に理想の夫婦なのかもしれないと思わせるところがありました。このマイケルの内助の功は、なかなかできるもんじゃないよなあって思いましたもの。

演技陣では、ジュリアの付き人役のジュリエット・スティーブンソンが軽快な演技で笑いをとるほか、ラストでかわいそうな目に遭う新進女優を演じたルーシー・ハンナが達者なところを見せました。でも、やはりこの映画はジュリアを演じたアネット・ベニングの圧勝でしょう。自分のための役を心のおもむくまま演じているように見せるのは、それこそ女優の演技力なのですから。

「赤い鯨と白い蛇」はいいんだけど、どっか歯痒い。

昨年封切りだったのですが、横浜では、2007年3月公開の「赤い鯨と白い蛇」をシネマベティで観てきました。こういう地味な番組をコンスタントにやってくれるのはうれしい限りですが、お客さんがもっと入ってもいいんじゃないのかなあ。

明美(宮地真緒)は祖母保江(香川京子)を叔父夫婦の家へ連れていく途中、館山で途中下車します。祖母が子供の頃に疎開していた家を見たいと言い出したからです。そこを訪れた二人を光子(浅田美代子)と娘の里香(坂野真理)は暖かく迎えます。光子の夫は3年前に失踪していまして、光子は一月後には、古い家を取り壊して立て直そうと引越しの途中でした。保江はあちこち見て回るうちに、そこへ泊りたいと言い出します。光子は快く二人を泊めてくれるのですが、その晩、かつてそこに間借りしていた美土里(樹木希林)もやってきて、5人の世代の違う女性陣が揃います。取り壊される家が関係者を呼び集めたのでしょうか。そして、保江はなぜこの家に留まろうとしているのでしょうか。

テレビの演出家として有名なせんぼんよしこが劇場映画を初監督しました。彼女の演出作品は観たことないのですが、女性5人しか登場させない物語を女性監督らしい視点で演出しているように思いました。世代の異なる5人の女性がある旧家に集って、それぞれの人生を見直し、新しい一歩を踏み出そうとするお話です。特に、最初から最後までいい人であり続ける光子を演じた浅田美代子が、このドラマの核になっていまして、彼女の好演によって、ドラマ全体がまろやかな味わいになりました。愁嘆場とかドラマチックな見せ場は一切ないのですが、それぞれが抱える問題はかなりシリアスでしてす。しかし、映画はそれらに明確な答えを与えぬまま静かに展開していきます。

物語のカギを握っているのは、保江の過去にあります。この家に疎開していたときの出来事が彼女にとってずっと心残りになっていたのです。最近はめっきり物覚えが悪くなってきたのを自覚している彼女は、自分の記憶に決着をつけるために屋敷の中を探し回ります。その記憶がつながったとき、大東亜戦争末期の悲しい思い出がよみがえってきます。そして、その戦争の記憶の中から、二つにキーワードがよみがえってきます。一つは「自分に正直に生きる」、そして「人を覚えておくこと」の意味について考えさせられることになります。

現代に生きる我々には、「自分に正直に」いることは、さほど大変なように思えないのですが、それがままならない時代があったことは忘れてはいけないと思うのですが、現代でも、自分に正直になれない人、なれない時があることをこの映画は見せてくれます。自分の思うようにはならないことが多い人生ですが、そういう時に、自分にウソをついて、その場を取り繕ってしまうこともあります。それでも、どこかでひずみが来て、別のところで自分や他人を傷つけてしまう、そんな人間の弱さもちょっとだけこの映画は見せてくれます。

また、全ての人から自分の記憶が消えてしまうと自分の存在がなくなってしまう、だから自分を覚えていて欲しいというのは、戦時中でなくても、人によっては切実な話でしょう。でも、結局は人の記憶にずっと残り続ける人間はそう多くはありません。誰かの心の中で最後の火が消えていくことはやむを得ないでしょう。それでも、誰かの特別な人でありたい気持ちは理解できるところがあります。私はあまりそういう欲求はないつもりなのですが、こんなブログを作ってること自体、誰かの記憶に入り込みたがっているのかもしれません。戦争中、死に向かうにあたって、誰かに自分を覚えていてもらいたいというのは、生への欲望の一つの表れなのでしょう。どんな形でもいいから生きたいと思ったとき、自分のことを記憶しておいてくれと言い残す気持ちは、今とは比べ物にならないほど切実だったろうと察せられます。

出演者はたった5人ですが、会話の妙ということでは、さすが樹木希林と浅田美代子が達者なところを見せて、この映画にコミカルな味わいを与えています。また、宮地真緒は若者言葉に無理があって会話のリズムが弾まないのが今一つでしたけど、若々しい存在感が好印象でした。香川京子は、大変きれいで品の良いおばあちゃんぶりでしたけど、行動が何だか変、周囲のことはおかまいなしで、人が声かけても答えないし、結構困ったばあちゃんです。ただ、そのお嬢様のごとき傍若無人な振る舞いが、ボケによるものだと言い切れないところが微妙な印象でした。というのも、このおばあちゃんが綺麗で上品なものだから、もともとお嬢様のまんま年を取っちゃったのかなあって気がしてくるのですよ。最後に戦時中のことを語るシーンも大変若々しい語りなのです。彼女の行動が老人ボケなのか天然なのかで、映画の印象が変わってしまうのですが、そこがはっきりしないのが、ちょっと消化不良でした。

この物語であれば、テレビドラマでも映像化できる内容に思えまして、それを映画化するのであれば、劇場で観るにふさわしいプラスアルファを欲しいところでした。テレビドラマよりは、説明的なセリフを削って映像で見せようとする意図も感じられるのはよかったのですが、映像が妙にのっぺりした、ビデオとフィルムの中間みたいな印象でして、せっかくの旧家や裏の水神様などの空気感を表現しきれていないのが残念でした。解像度はあるのに、何だか奥行きのないこんな絵では、この話を劇場映画にする必要がないように思えてしまうのです。

そうは言っても、題材は好きですし、感情移入できるシーンも多いですし、浅田美代子がいい味を出していて、映画としての出来は決して悪くないです。館山という都心からの微妙な距離感も何だか心引かれるところがありました。それだけに、せめて絵がもう少しきれいだったらなあ。ちなみに「赤い鯨と白い蛇」は象徴的に登場するのですが、なかなかその正体がわからないところ、でも、やっぱりこの題名に落ち着くあたりはうまいと思いました。

「善き人のためのソナタ」は感動より叙事的な味わいに見応え

本日は、川崎チネチッタ7にて「善き人のためのソナタ」を観てきました。ここはチネチッタの中でも中堅クラスの劇場で、画面がシネスコになるとき上下が詰まらないのがうれしいところです。

1984年の東ベルリンの国家保安省シュタージは国家に対する危険人物をマークすると、合法的に盗聴を仕掛け、証拠を発見すると激しい取調べにより、相互監視社会を作り出していました。シュタージの局員ウィースラー(ウルリッヒ・ミューイ)は、反体制作家としてドライトマン(セバスチャン・コッホ)に目をつけて、彼の家に盗聴機を仕掛けて監視を開始します。ドライトマンの恋人ジーラント(マルティナ・ゲデック)はヘムプフ大臣から言い寄られていましたが、それでもドライトマンとの愛に変わりはありません。そんな彼らを盗聴しているうちにウィースラーに変化が起こり始めます。それは、反体制の人間に対する興味から共感に変わっていくのでした。

1984年というのはついこの間だというイメージがあるのですが、20年以上前の話なのがちょっと驚きでした。でも、その頃の東ドイツでは国家による監視社会が、密告と監視によって反体制と思しき人間を迫害していたのでした。特に芸術家に対しての風当たりは強く、演劇や俳優は職業停止にされてたようです。ドライトマンの友人である演出家イェルスカは職業停止処分を受け、失意のうちに自分の命を絶ちます。もう一人の友人ハウザーはドライトマンを体制に迎合していると非難します。そんなやり取りもウィースラーは盗聴し続けます。

ウィースラーはシュタージという組織の中で、誠実な堅物らしく、そのせいか友人もいません。上司のように役人に取り入る才覚もなく、自分の仕事には自分なりのプライドを持っていますが、孤独からか出張娼婦を買ったりもします。シュタージの下っ端の仕事は監視し記録をとること、そんなことを続けていたら精神的にまいってしまいそうなのですが、ウィースラーはその仕事を淡々とこなしていきます。ところが、ドライトマンに対してちょっとした嫌がらせをしてみたりしてるうちに、段々とドライトマンに対しての興味が大きくなり、一種の憧憬に近いものに変わってきます。終始、表情を変えないウィースラーの心のうちを読み取るのは難しいのですが、ドライトマンの本を盗んだり、音楽に聞き入る姿は、何か新しいことを見つけた子供のようでもあります。

そして、ついにドライトマンが反政府的な活動に動き出すとき、監視者としてのウィースラーは影の支援者になってしまうのです。それは、一大決心というよりも心の揺らぎに忠実に行動しているような、極めて自然な人間の情動のように描かれています。脚本・監督のフロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルクは、寡黙な主人公に最後まで見得を切らせたり、演説をさせないで、人の心の善に向けての揺らぎを淡々と描いていき、大変見応えのあるドラマに仕上げました。今の時点で、当時のシュタージを否定している割には、その語り口は静かであり、高いところからモノを言う感じがないところに好感が持てました。

ドライトマンは、西側に新聞に、東側で自殺者が多いことを述べた記事を寄稿します。その内容からドライトマンは、シュタージの幹部から疑いの目で見られるのですが、ウィースラーの報告にはそのような痕跡は見られないのです。そして、犠牲を伴いながらも、ドライトマンは逮捕されることなく、そして彼への盗聴作戦も終了します。しかし、上司からその行動に不信を持たれたウィースラーは地下の封筒貼りという閑職へと追いやられ、そのまま、ドイツ統一を迎えます。そして、ドライトマンはあることをきっかけに自分が監視されていたことを知るのです。

ラストは、人と人の見えない絆に話が行く展開が見事でした。しかし、その見せ方も抑制が効いていて、感動に走らない結末にも感心しました。久しぶりに執筆を再会したドライトマンの新刊を見つけて、書店で手に取るウィースラー、それをレジに持っていき「プレゼント用ですか」「いや自分に」というあたりはぐっとくるものがありました。でも、それは単に善意の報酬というよりは、かつてこうい時代があったことを記憶にとどめておこうという叙事的なテーマの方が強く伝わってくる結末になっています。最後まで、ほとんと表情を変えないままウィースラーを演じきったウルリッヒ・ミューイが、記憶すべき時代を体現しているように感じさせて、素晴らしかったです。また、悲劇的な結末を迎えるドライトマンの恋人を演じたマルティナ・ゲデックが「マーサの幸せレシピ」の生活感とまるで違うアーチストとしての女優役を演じていて見事でした。

音楽を「メッセージ・イン・ザ・ボトル」「シティ・オブ・エンジェル」でドラマチックなストリングスを聞かせたガブリエル・ヤーレが、ステファン・ムッシャと共同で担当し、今回もストリングスを中心にして素晴らしいスコアを書いています。ドラマの内容上、鳴らし方は控えめではあるのですが、彼らの音楽により、ドラマの悲劇性がより明確になりました。演奏をシティ・オブ・プラハ・フィルハーモニック・オーケストラが担当しています。このオケは、映画音楽のカバー版のCDを何枚も出しており、他とは違う、オリジナルに忠実な演奏が評価が高いオケでして、最近はサウンドトラックでも使われるようになってきています。

ドルビーステレオの記憶

1977年の「未知との遭遇」「スター・ウォーズ」の頃から、ドルビー・ステレオ方式が普及してきます。ただ、東京でも大きな劇場(「日劇」「渋谷東宝」「有楽座」など)にまず導入され、ランク下の劇場では、4チャンネルステレオ方式による上映だったようです。新聞広告の劇場名の上にドルビーステレオのマークが入るようになるのもこの頃からで、観る劇場のランク分けができるようになりました。でも、当時はその仕掛けもあまりメジャーではなく、私がドルビーシステムというと、カセットテープの録音時に、ノイズを減少させる仕掛けとして先にあったので、そういうものなんだろうなと勝手にイメージしていました。

ドルビーステレオが、映画の録音にあたって、4チャンネルを2本の光学録音トラックに録音しておいて、再生時、左、左+右、右、マトリクスサラウンドの4チャンネルに分けて、さらに光学トラック特有のノイズ低減もしているというのを知ったのは、「キネマ旬報」の特集記事からでした。この再生方式だと、前方3チャンネルの独立性がよくないというのを知ったのはもっとずっと後のことです。最初は、ドルビーステレオが何のことだかよくわかってなくて、「未知との遭遇」の静岡公開時の静岡新聞の広告には「ドルビーサウンド」なんて表現が平気で使われていました。そんな、ドルビーステレオが初めて、静岡にお目見えしたのは「スター・ウォーズ 帝国の逆襲」の時だったと思います。

「スター・ウォーズ」という映画のせいもあるのですが、ドルビーステレオってのは音がでかくて迫力あるなあってのが最初の印象でした。その後、静岡有楽座、静岡ミラノ、静岡東宝スカラ座などに装備されていきました。特に印象に残っているのは、1982年の「E.T.」公開時、静岡東映パラスにドルビーステレオが初めて入ったときでしょうか。東映パラスはちょっと地味めなアクションやサスペンスものをたくさん上映する映画館だったのですが、静活との競合上か、初めてこの時、ドルビーステレオが入りました。ここへ「E.T.」を観に行った時は、東映パラスもこれでだいぶ格が上がったと勝手に思い込んでいました。

今や、場末の小さな映画館でも標準装備になっているドルビーステレオですが、当時はやはり大劇場から導入されていったので、もともと音響効果のよい映画館で、場内が音に包まれるドルビーステレオの効果は、「おお、すごい、やっぱり映画は映画館だ」と思わせるものがありました。一方、SF、活劇などで、その迫力を知らしめたドルビーステレオの別の意味の効果を発揮した映画がアニメの「銀河鉄道の夜」でした。静寂の天空に静かに響く列車の音など、静寂との対比で音の広がりを感じさせてくれまして、単にでかい音の迫力だけじゃないんだなあって感心した記憶があります。

今や、ドルビーデジタル、DTSといったデジタル音響がミニシアターにまで進出していまして、アナログのドルビーステレオなど、むしろ安い音の代名詞みたいになっていますが、当時、大劇場で聞いたドルビーステレオの映画は、音のインパクトを十分に感じさせるものでした。個人的には、ドルビーステレオで観て、音の印象が強い映画としては、日比谷スカラ座で観た「遊星からの物体X」「オーメン最後の闘争」、相鉄ムービルで観た「スター・トレックVI/未知の世界」、横浜ピカデリーで観た「ポルターガイスト3」、静岡オリオン座で観た「ランボー」などがあります。最近は、大劇場はみんなデジタル音響になり、アナログ音響は小さな映画館でしか残っていないので、余計めに聞き劣りしてしまうのですが、当時の大劇場でのドルビーステレオ音響はそれはそれは迫力ある音だったのです。

パリでなくても楽しめる(?)「パリ・ジュテーム」

新作の「パリ・ジュテーム」を川崎チネチッタ7で観てきました。このシネコンが全国年間動員数1位を4年連続とったということで謝恩料金1000円均一の日に行ったのですが、確かにここは客さばきもうまいですし、他にシネコン2つが近接している激戦区の中では、頑張ってるのではないかしら。大きなショッピングセンターが隣接していないことで、映画目的の人だけが来るせいでしょうか、全体的に客筋もいいように思えます。

パリという街を舞台に様々な監督が18のショートストーリーを作りました。ある男女の出会い、或いは別れ、日々の暮らし、ちょっとした事件などなどが、短い時間の中にぎゅっと詰め込まれていて、パリの様々な顔を見る事ができます。パリを知っている人には、場所とエピソードの関係とか、より楽しめるのかもしれませんが、パリに縁のない私には、個々のエピソードで楽しむことになります。映画がパリの観光案内みたいなものにはなっていないので、パリそのものを知るための映画ではありません。

18のエピソードによる、短編小説集というべき一品です。パリを舞台にしていて、パリの地名と監督名が出て、物語が始まります。パリのどこかを舞台にして愛にまつわる物語を作るという条件で、各監督はかなり自由に作ったところがありまして、その分、全体のバランスとかはあまり考えられていません。まあ、監督がバラバラでスタイルもバラバラなので、自分の好みに合った話を楽しむ映画なのでしょう。役者も監督もよく知った顔あり、全然知らない顔ありなんですが、その中で、ごひいきの俳優を見つける面白さもありました。

それぞれの物語が5分程度と短いので、出会いなら出会いの時だけ、別れならその時だけといったエピソードがほとんどです。時間の経過を描いたものも回想シーンをさらりと並べる形で見せるので、「あれ?」と思う間にエピソードが終わってしまいます。そんな中でラストでちょっとしたオチをつけようとするエピソードがいくつかあるんですが、オチが決まったのがほとんどないってのは面白いと思いました。また、クリシトファー・ドイルやヴィチェンゾ・ナタリの作品のような奇をてらったものも居心地はあまりよくなって、むしろ、素直に人生の1ページを切り取った作品の方に味わいがありました。

個人的に好きなのは、セーヌ河岸を舞台に若い男女の出会いをほのぼのと描いたグリンダ・チャーダ作品が筆頭でしょうか。また、その他、思い出すままに挙げますと、ウェス・クレイブン監督が私のごひいきの二人エミリー・モーティマーとルーファス・シーウェルを使ったコミカルなカップル仲直りのお話。ミランダ・リチャードソンが長年連れ添って病気で死の淵にある奥さんを演じた、でもどこかコミカルな味わいがチョイ悲しい系の、イサベル・コイシュ監督のエピソード。自分の子供を託児所に預けて電車やバスを何本も乗り換えて金持ちのベビー・シッターをしに行くウォルター・サレス、ダニエル・トマス共同監督の一編。初老のアメリカ女性がパリ旅行でちょっとだけ違う自分の気分にひたるアレクサンダー・ペイン監督のエピソードが印象に残りました。

私の選んだエピソードの共通点は、別にパリでなくてもいい話ってところでしょうか。パリを知らない私には、どれをとってもパリである必要はないんですが、選んでみたら、そんな選択になっちゃいました。観光旅行でパリに行ったことのある人であれば、もっと場所が前面に出てくる話に魅かれるでしょうし、パリに住んだことがある方なら、その登場人物と場所の関係を楽しむことができるでしょう。

この映画の作者はフランス人ばかりでなく、イギリス人、アメリカ人、ドイツ人、ブラジル人、日本人と様々な人種が入り混じっており、そのせいか、フランス映画らしさがない、でもパリを舞台にしたフランス映画になっています。そのせいか、パリになじみのない私にも敷居の低い映画に仕上がっているところは評価したいです。一見さんでも大丈夫な映画です。この映画を観てパリに思いをはせるのもよいですが、口当たりのよい短編小説集を読む気分の方が楽しめるのではないかしら。パリに行ったことのない私は、この映画をかなり楽しみましたけど、パリに行ってみたいという気分には全然なりませんでしたから。

「ネバー・サレンダー 肉弾凶器」は頭使わない映画の筆頭かも

新作の「ネバー・サレンダー 肉弾凶器」をキネカ大森1で観てきました。大森の西友の5階に3つの小さなスクリーンを持つ映画館ですが、1はその中でもっとも大きい映画館で144席というキャパの割りにはスクリーンが大きいのがうれしいです。場内がフラットなので、もう少し画面を上げてくれるとどの席でも安心で映画鑑賞できるのですが。

イラクでの人質救出で命令を無視したことで海兵隊を除隊されたジョン(ジョン・シナ)は、ビルの警備員に就職したものの初日からトラブルを起こしてしまい、即クビになってしまいます。妻のケイト(ケリー・カールソン)に勧められて、二人で旅行に出かけるのですが、途中で立ち寄ったガソリンスタンドで、ダイヤモンド強盗のローム(ロバート・パトリック)一味と遭遇してしまい、ケイトは人質としてさらわれてしまいます。強盗団とジョンはカーチェイスを演じた後、双方ともに車を失い、湿地帯の歩きでの追跡が始まります。果たして、ジョンはケイトを救出することができるのでしょうか。

WWEというアメリカのプロレス団体のトップレスラーであるジョン・シナの主演によるアクション編です。独自のドラマ作りで観客を盛り上げてきたWWEが映画にも進出ということで、製作総指揮にビンス・マクマホンが名を連ねています。ジョン・シナ自身は「俺様ラッパー」なる称号をもらっているマイクパフォーマンスが有名だそうですが、この作品では、寡黙でやさしい奥さん思いの元海兵隊員を極めてまともに演じています。

監督のジョン・ボニートはCM出身の人だそうで劇場映画はこれが初めてとのことですが、まあ、プロレスラーのファン相手だから、とにかくわかりやすい話がいいやというのがよくわかる展開になっていまして、ここ数年で、もっとも頭使わないで観てられる映画に仕上がっています。それだけ、手堅くカットを積み重ねて、ストーリーもシンプルに刈り込んであるということになるので、その職人芸の部分は評価できると思います。悪役にも適度にキャラづけがされていますし、主人公は強い愛妻家というキャラ以上のものを与えていないので、後は追いかけアクションだけというのは、ある意味素材をうまく使いこなしたというところでしょうか。とはいえ、役者としてのシナはまだまだですし、脇役が寒い笑いを誘うシーンも結構あるので、映画の出来栄えとしては、そこそこのレベルどまりです。

でも、もともと、そのレベルで楽しんでくれという作りになっているので、文句のつけようがないです。撮影がデビッド・エグビー、音楽にドン・デイビスという一流どころを連れてきても、絵はひたすらわかりやすく切り取られているのみですし、音楽は場面説明用に既成曲も含めてやたら垂れ流し状態でして、この割り切りはある意味すごいと思ってしまうのです。

お話は田舎の追跡劇で登場人物も数名というと、何だか安い映画みたいですが、その割には爆破シーンがやたらと派手で何度も出てきますし、カーチェイスもなかなかに迫力があり、爆破絡みでは、CGも使われていて、画面そのものは決して安っぽくないのです。仕掛けの部分よりも、主人公の格闘シーンの方が見劣りするくらいでした。殺陣が今ひとつなのか、プロレスラーが主演してる割には、アクションが今イチで殴りあってるだけだったのは、物足りなかったです。それでも、プロレスらしさはありましたから、多分、ジョン・シナのファイティング・パターンは踏襲しているのでしょう。お約束の女マネジャ同士のキャットファイトもついてますし、クライマックスの格闘シーンでは、鎖やらハンマー、チェーンソーといったギミックも取り入れています。

主人公が演技ができない分、悪役側の描写が多くなるのですが、ロバート・パトリックがサイコで、強くて、残酷で、コミカルでという色々なキャラクターを一人で熱演しています。他にも悪役連はいるのですが、演出のせいかあまり目立たず、パトリック一人だけが悪役部分を全部やってますという感じなんです。悪者たちの間の仲間割れの部分もうまく処理してドラマがややこしくならないようにさばいているあたりは、サービス精神なのか、観客をバカにしてるのか、紙一重の域にまで達しています。後は、奥さんを演じたケリー・カールソンの強気なヒロインぶりが印象に残る程度でしょうか。ストーリーや展開は、安手のテレビムービーのレベルなのに、作りや金のかけ方は劇場映画という不思議な作品でした。

娯楽映画として点数高い「守護神」

また、新作で「守護神」を藤沢オデオン座で観てきました。ここは、上映時に幕の開閉をやる今となっては少数派の映画館です。私は、あの映画館のブザーから幕の開く瞬間がすごく好きなんですが、シネコンがそういう作りになってしまったせいか、これまで幕の開閉をやっていた映画館も、常に幕を開けっ放しにするようになっちゃいました。まあ、前の人がスクリーンの邪魔になるかどうかが、明るいうちにわかるというご利益もあるのですが。

沿岸警備隊の伝説の水難救助員ベン(ケビン・コスナー)は、ある貨物船の救助で仲間を失い、心に深い傷を負った彼は上司の勧めもあって、レスキュー隊の訓練校に教官として赴任します。そこは適性のないものはどんどん振るい落とされていく厳しいところです。そこで、ベンは、学生時代水泳チャンプであったジェイク(アシュトン・カッチャー)の素質を見抜くのですが、なぜかジェイクはトラブルメイカーになってしまうのでした。どうやら、ジェイクにもベン同様、何か過去があるようなのですが、ちゃんと訓練校を卒業できるのかしら。

「逃亡者」「悪魔たち天使たち」など娯楽映画の佳作を撮り続けているアンドリュー・デイビス監督の新作です。今回も、海の救難士を題材に、ベテランと若手の二人のドラマを手堅くまとめています。ヘリから荒れた海に降りて人をヘリへ引き上げて救助するという、危険極まりない仕事です。人命救助だけに、ヒーローを作りやすい題材ではあるのですが、この映画では、ヒロイズムに走らないドラマ作りに好感が持てました。

まずベテラン救難士のベンは、仕事では伝説を作っているのですが、家庭生活はダメで、あまりに家庭をかえりみないことから、奥さんから三行半を叩きつけられてしまいます。長年連れ添ったダンナを嫌っているわけではないのだけれど、こんな夫婦生活では耐えられないというところをセラ・ウォードが好演していまして、身勝手な妻ではない、ひょっとしたらベンよりも人間としては上かもしれないと思わせるあたり、単に、救難士を美化していません。

一方の、若い訓練生ジェイクは、でかいクチ叩くし、彼女の家に泊まりこんで訓練に遅刻するし、酒場で海兵隊と喧嘩するしと何かと変な方向に目立ってます。確かに水泳のチャンプだけあって、救難士としての素質は十分なのに、この問題児のような行動はどこかおかしい、そのあたりの事情がだんだんとわかってくるのですが、ベンもジェイクも「生き残ったものの罪の意識」にさいなまれているという共通点があったのでした。

しかし、映画は、何かをきっかけにして急に立ち直るといったドラマチックな展開を見せませんでした。厳しい訓練の中で、ジェイクもベンも少しずつ、罪の意識を克服していきます。さらに、ベンは克服しきれないという展開になるあたり、ロン・L・ブリンケーホフの脚本は、誠実な人間ドラマを描いています。やっと、師弟が同僚となってからの初仕事で、ベンが自分の限界を悟るところが圧巻でした。まだ、その一方で、ジェイクの成長を自然なかたちで見せるあたり、デイビスは過去の作品以上に細やかな演出を見せます。そして、エピローグで、題名の「守護神」(原題も同じ)の意味がわかるというあたり、うまいと思わせるものがありました。

水難シーンはロケとセットを組み合わせたものにCGを加えているようなのですが、かなり危険な撮影を本当の役者が演じているようで、特に遭難船のシーンは迫力ある見せ場になっていました。引きの絵を要所要所に入れることで、実際に危ない状況にあるのがわかるのもうまい作りだと感心しましたが、何より、海の水が本物の水にしか見えない(CGじゃない)ってところが点数高いです。

また、普段、悪役を演じることの多い教官役ニール・マクドノーと上司役クランシー・ブラウンが今回はいい人役で、それぞれに見せ場があったのがうれしかったです。この映画、実際、悪役が登場しないのですが、それでも、きちんと娯楽映画として成り立っているのが見事です。また、主人公二人の元妻、彼女を演じたセラ・ウォードとメリッサ・セージミラーが華はないけど落ち着きと奥行きのあるヒロインを演じて好印象でした。特に、ジェイクとの別れを前提にして付き合うセージミラーがいい味を出しています。

この救難士という仕事は、危険が多い割には給料は高くないという話が劇中出てきますが、確かにこういう仕事を選ぶには、それなりの覚悟とプライドがないとできないのだというのをきちんと見せています。そして、彼らをくじけさせるのが、救えなかった命に対する罪の意識だというのは説得力がありました。これはお医者さんも似たところがあるのでしょうが、どこかで割り切りがないと続けられない仕事なのでしょう。救助に成功したシーンで華々しく盛り上げることをしなかった演出の節度が、色々なことを考えさせてくれる映画でした。

「マリー・アントワネット」はドラマ的要素がないみたいで

新作の「マリー・アントワネット」を109シネマズ木場4で観てきました。キャパは小さいですがスクリーンはそこそこあって、スクリーンと最前列の間に結構スペースがあるので観やすい映画館です。前列の方がベストポジションになるというのは珍しいのではないかしら。ただし、座席番号がいすの背もたれの後ろ側にしかついてないってのが大減点。わかりにくいったらありゃしない。まあ、昔は全席自由が基本だった映画館だけに、座席番号には無頓着だったのかも。でも、今や全席指定が基本なのだから、肘掛に番号をつけて欲しいものです。

オーストリアから政略結婚で、フランスへ嫁がされることになったマリー・アントワネット(キルスティン・ダンスト)ですが、王位継承者である結婚相手ルイ・オーギュスト(ジェイソン・シュワルツマン)はまだ子供みたいで、錠前が趣味。この二人にとっての最大の使命は跡継ぎを作ることなんですが、夫はなかなかマリーを抱こうとはしません。一方、ベルサイユでのマリーの生活は堅苦しい段取りと噂話に明け暮れる暮らし。子供ができないことでも陰に陽にプレッシャーをかけられ、そのストレスからか贅沢三昧。それでも、子宝に恵まれて幸せで贅沢な暮らしをするマリーだったのですが、ついにベルサイユが市民によって包囲される日がやってきます。

あまり世間的には評判のよくないソフィア・コッポラ作品。ベルサイユ宮殿に実際にロケして英語話すマリー・アントワネットの映画を作るってところから、どこか怪しげですもの。(モンゴルまでロケして日本語話すチンギス・ハンの映画撮るようなものか。)映画の内容も正直言ってドラマの流れがよくわかりませんでした。時間の経過とか歴史的事実が知ってる人はわかるんでしょうけど、エピソードの羅列では、ビギナーにはさっぱりでした。まさか、あの小さな棺の中にマリーの次男坊が入ってたなんて、プログラム読むまでは想像もつきませんでした。

フランスでのマリー・アントワネットのイメージってどんなものかはわかりにくいのですが、少なくともこの映画のマリーとは違ってるだろうなってことは想像がつきました。それは、キルスティン・ダンスト演じるマリーのキャラがあまりにも今風なのです。「チアーズ」のヒロインがまんま18世紀のフランスにタイムスリップしたという感じなんです。音楽に現代の英国ロックバンドを持ってきていることからも、脚本も書いてるコッポラは狙ってやってるのはわかるのですが、それで一体何が描けるのだろうって疑問に思ってしまうのです。フランスの歴史、ある女性の半生、愛憎うずまく宮廷内のドロドロの人間ドラマ、などなどこの題材から取り出せるネタはいくらでもあると思うのですが、そういうのにコッポラは興味なさそうなんです。

じゃあ、この映画の見所は? と言うと、私にとっては、色々な事件に対するヒロインのリアクション芸と、豪華な衣装とおいしそうなお菓子なのでした。宮廷のしきたりに「バカみたーい」と言ってのけたり、義姉に子供ができた時、自分へのプレッシャーと嫉妬から泣きくずれたり、夜遊びした後の帰り道に馬車の中で物憂げに朝日を見つめたり、そういうマリーの様々なリアクションを楽しむ映画に思えたのです。ここで、リアクションと書いたのは、このヒロインは基本的には受身でまず自分の我を通すということがないからです。周囲に流されていくだけのヒロインで、それは最後まで変わらないのです。

もし、この映画に人間ドラマがあるとすれば、マリーの「流される人生」が挙げられるかもしれません。政略結婚から、子作りプレッシャー、そして贅沢三昧の挙句に、怒りの市民に宮殿を追われるのですから、かなり数奇な運命にもてあそばれているヒロインではあります。(映画の中では処刑までは描かれていません。)ひたすら、時間とお金を消費しているように見えてしまうヒロインですが、結局、運命には逆らえないという身動きできないマリーの姿はちょっと気の毒ではあります。そのどうにもならない運命の中で、笑い泣き食べ飾りと色々やってのけた彼女は偉いねえ、とも言えます。自分が公的な立場であるということを「単なる面倒なこと」としか考えず、自分の身の回りのことだけに注意と関心を向けていたのは、公人としてはダメなんだけど、一人の私人としては思うように生きてるんだから、それはありなんじゃない?と思えば、ある女性の生き様と言えなくもないです。

でも、彼女が本当に何を望んでいたのかがよくわからないので、共感するのは難しい生き様ではあります。結婚したのが15歳のときでバスチーユ暴動のときが34歳なんですが、その20年の間にヒロインはまるで変わっていないように見えます。浮世のことから離れてしまい、15の小娘のまま年齢だけ重ねてしまったみたいなのです。15歳の感性で、思うにまかせて生きてきた彼女は、やっぱり気の毒な女性にうつります。日本の美智子妃、雅子妃も、同様な気の毒さを抱えてるんだろうなあって気がします。

そんなヒロインの気の毒さを置いとけば、衣装や美術の美しさ、ピンクとブルーを基調にした色彩設計など、視覚的な見せ場がたくさんあって、目の保養になる映画ではあります。なぜそこまでアップにするんだと思うくらい、画面を賑わすお菓子もおいしそうでした。キルスティン・ダンストは場面によって、子供にもおばさんにも見える演技で、それもまた一つのリアクション芸になっていました。他の演技陣は、ドラマ的要素の少ないこの映画の中では見せ場がなかったように思います。それに、宮廷メイクのせいで誰が誰だかわかりにくいというのもありました。そんな中では、アーシア・アルジェントがインパクトのあるルックスと演技で際立っていました。

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einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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