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「サイレント・ノイズ」は単純な怪談を脚色しすぎでは?

昨年封切られた「サイレント・ノイズ」を新橋文化劇場で観てきました。81という座席数の割りにはスクリーンもそこそこの大きさで、高いところにあるのでフラットな場内でも前の人の頭が気にならないようになっています。ちなみに銀座で本編を観て「なんだかなー」と思った「沈黙の奪還」の予告編やってまして、これが意外にいい出来。結構、面白そうなんですよ。その分、本編観たらがっくりくるんでしょうけど。

ジョナサン(マイケル・キートン)は新しい妻アンナ(チャンドラ・ウェスト)が妊娠したと聞いて幸せ一杯だったのですが、そんな彼女が事故死してしまいます。失意のジョナサンにレイモンド(イアン・マクニース)という謎の男が接近してきます。彼は霊界からの声や映像を記録していて、アンナからのメッセージも受け取っているというのです。最初はとりあわなかったジョナサンですが、死んだ妻の携帯から電話がかかってきて、その話を信じるようになります。カセットやビデオの空録音、録画すると、ノイズの中から霊の声や霊の姿が出てくるようになるのです。そして、ジョナサンも録音に成功、さらに録画も始めたところ、悲鳴を上げる女性の姿、そして通りの名が。そこへ行くと、実際に女性と赤ん坊が車に閉じ込められていて、赤ん坊だけ救出することに成功します。しかし、霊能者は彼にそれは霊への接触ではなく干渉だと警告するのですが、ジョナサンは霊録画で人助けが出来ると思いこんでしまったのです....。

テープに霊の声が入っている、或いは夜中のテレビの砂の嵐に人の顔が浮かび上がるといった怪談は日本でもよく聞かれます。この映画の主人公は愛する人を失って、その存在を何とか身近に感じたいと思っていたところに、録音、録画したテープに霊が出てくるという話を聞いて、テープに録音してはそれを聞いて声を探してるという、かなり変な人になっちゃいます。でも、そんなことしてるとノイズの中から声が聞こえてくるからあら不思議。音の次は映像だと今度はビデオ機器を部屋にごっそり積み上げるようになります。マイケル・キートンが演じるので、いよいよ狂気と正気の狭間にはまりこむのかと思いきやそうはならないで、実際に霊の世界とのやりとりがドラマの中心になっていきます。

霊にはいい霊と悪い霊がいて、悪い霊が接触してくることも多々あるという話が出てきます。日本でいうなら、こっくりさんで変なのが降りちゃったって話ですね。そして、画面の中にも三人組の黒い影が暗躍するようになります。人が死にそうなところに出てくるので、死神かと思ってみていると、こいつらが悪い霊らしくて、人間を操ったり、実際に殺人を犯したりするようになるのです。積極的に悪さをするところが死神とはちょっと違うようで、レイモンドを通して知り合った女性サラ(デボラ・カーラ・アンガー)も悪い霊に操られてしまいます。そして、その録画したビデオに霊が映るだけでなく、未来の像が映るようになって、話がややこしくなります。未来の死が像を結ぶのであれば、それをチェックしていれば、死ぬ人を救えるかもしれないという話になってきちゃいまして、霊能者が「干渉はいけない」と警告しても、ジョナサンはアンナとのコンタクトよりも、人助けの方に興味が行っちゃいます。しかし、そんなことすれば、悪霊三人組はだまってるわけがないんですが、その割には、やってることのヒントをノイズ画面に出してくれたりもするのです。

一見、論理が通っているようでかなり破綻しているニーアル・ジョンソンの脚本を、ジェフリー・サックスの演出は勢いで押し切って、ボロが出る前に畳み込んだという印象です。突っ込みどころ満載なんですけど、突っ込む前に、話をあちこちに飛ばしてしまうのは賢明なやり方でして、観ている間は結構楽しむことができました。ただし、決着のつけ方はどーなの?とか、悪い霊が一々自分の悪事を予告するのはいかがなものか、といったヤボな突っ込みが出てしまうのは仕方ないところです。霊が音や画面のノイズに浮かび上がるという根本的な設定に、ジョナサンが飛びつくってのもよく考えると変だもの。愛する者を失った直後は、藁にもすがる精神状態になっちゃうということなのかしら。

テープから得体の知れない声が聞こえる、テレビの砂の嵐から誰かの顔が浮かび上がるという現象はホラーのネタとして大変魅力的ではあるんですが、意外と料理しにくい題材なのかもしれません。特にアメリカ映画では、論理と因果関係をはっきりさせないと気がすまないようなところがあるので、無理やりに筋道だてると却ってとんでもない話になってしまうようです。何だかよくわからないけど、そこに何かがいるという見せ方は、日本の怪談とかいわゆるJホラーと呼ばれる映画が得意とするところですが、この話もあまり論理的にならない方が怖さや余韻が出たように思います。

ノイズ映像の中で、アンナが「Go,Go.Now.」というセリフを言うのですが、これは字幕では「どこかへ行って」となってるのですが、そうではなくて「こっちに来るな、干渉するな」という意味に受け取れました。結局、あの世とこの世の間を行き来するならそれなりのルールは守らないといけないってのは、太古の昔からの(「古事記」にもある)お約束なんでしょうね。生と死の間で遊んじゃいけませんというお話だと思うのがいいのかも。

クリス・シーガーの撮影がシネスコの横長画面をうまく使ってテンポよいドラマのリズムを作っています。

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「セプテンバー・テープ」は立場が曖昧で観る立場もあやふや

今回は昨年公開された「セプテンバー・テープ」を新橋文化劇場で観てきました。モロにガード下にある映画館で、電車の音が聞こえるのはまあしょうがないなと割り切れれば2本立て900円は魅力的です。ラインナップが妙にツボを押さえているのもあって気になる映画館です。

発見された8巻のビデオテープには以下のことが記録されていました。ドキュメンタリー映画の監督であるドン・ラーソン(ジョージ・カリル)は、同時多発テロの黒幕とされるオサマ・ビンラディンを追おうと決意し、カメラマンのソニーと通訳兼案内人のワリとともにアフガニスタンのカブールに飛びます。北部同盟の重要人物と接触を取り、ビンラディンに少しずつ近づこうとするドンですが、そのために武器商人と接触したり、わざと警官に逮捕されたりとかなりムチャなことをやってのけます。そのおかげもあって、タリバンと対立する立場にある報奨金稼ぎに同行することになるのですが、途中、脱水症にかかったり、銃撃戦に巻き込まれたりといよいよ危険が身近に迫ってくるのですが、果たしてドンはビンラディンにたどり着くことができるのでしょうか。

8本のビデオテープと何本かのボイスレコーダーが発見され、それを構成した映画だという設定で、テープ番号が画面に表示されて、ストーリーは展開していきます。アフガニスタンに飛んでから、つてをたどっていくあたりは、ドキュメンタリーとしての迫力があります。ビデオ画面は実際にカブールで撮影されたもののようであり、戦闘区域に子供がいるといった描写にドキっとさせられます。カメラは常にドンの視点にあり、ドンに見えるものだけを撮影していくという構成になっているので、地理的な位置関係や、時間の経緯にはわかりにくいものがあります。それこそが現場のリアリティだということもできましょう。

映画は、ひたすらビンラディンを追うという展開なのですが、その中で、少しだけ、この同時多発テロはアラブ人の思いつきじゃない、アメリカの政策が問題なのだという議論が登場します。その部分をもっと膨らませてくれるかという期待があったのですが、アメリカを非難する立場からうまく逃げているという印象を持ちました。現地に行って撮影しているのですから、もっと反米の議論を吹っかけられるとか、アメリカ人だから嫌われるといった描写があるのかとも思ったのですが、そういうシーンはほとんどありませんでした。少なくとも反米プロパガンダの映画ではありません。

そして、実際に南部の危険区域に向かってからの展開は、夜間映像が増えて、よくわけがわからなくなってきます。強盗団だかタリバンだかわけのわからない連中に銃を突きつけられ、命からがら切り抜けるとか、突然、銃撃戦が始まってドンも敵を射殺してしまうシーン、脱水症にかかったドンがやっとのことで回復したときには、同行する筈の連中とはぐれてしまうなど、リアルな展開のエピソードが続きます。特に、真昼間の銃撃戦は突如始まって、ロケット砲までが飛んできて、応戦しながら逃げ回る、でもなぜ弾が飛んでくるのかわからないというくだりが圧巻でした。そこには、ただ暴力と銃弾だけが有無を言わせず存在するという感じなんです。カメラマンも逃げ回りながらの撮影となるので画面がぶれたり、露出過多になったりもするのですが、それがリアルな戦場の空気を感じさせ、飛んでくる弾丸の弾道が見えるのが怖さを一層増幅させます。


この先は映画の結末、仕掛けに触れますのでご注意ください。


この映画はエンドクレジットで、脚本、監督クリスチャン・ジョンストンと出て、ドンも役者が演じているとわかり、いわゆるフェイク・ドキュメンタリーだということがわかります。「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」みたいなものですね。ただし、リアルなのは実際にカブールでロケをしているからだというふれこみでして、かと言って、銃撃戦が本物だとは考えにくいものがあります。

夜間に移動中に、突然銃撃されワリは死亡し、銃撃戦の中でカメラもその動きを止めます。そこで映画が終わると思いきや、生きて連行されたドンが爆撃の混乱の中でさらにカメラを回していたというおまけがつくのですが、さすがにそこまで見せるとやり過ぎの感が否めず、そこまでのリアリティが飛んでしまったようです。そして、ラストで、ドンの妻が同時多発テロの犠牲者であることがわかり、実は取材ではなく復讐が目的であったことがわかるという仕掛けになっています。だからこそ、反米的な発言が中途半端だったのかと気付かされる一方で、この映画の立ち位置ってどこにあるんだろうって考えさせられてしまいました。

同時多発テロ直後のイラク空爆いけいけどんどんの空気の中で作られた映画だとすると、この映画は実際にアフガニスタンに行けば、そこにこそ戦場があり、その危険度たるやアメリカの比ではないということを語っている映画といえます。一方、ブッシュの強行政策に疑問が持たれるようになってから公開された映画だとすると、3000人の犠牲者の怨念を忘れるなというアジテーション映画のように受け取ることもできます。この映画、2004年の映画ですから、まだアメリカ映画は同時多発テロを題材にした映画を作るのをためらっていたころ、でも、世論的には、イラク空爆には疑問も呈示されていた頃でしょう。製作時期といい、同時多発テロの扱いといい、非常に微妙なポジションにたっている映画のように思えます。作った方はそんなつもりはないのかもしれないのですが、どちらの立場にも問題提起を行っているようであり、実はどっちの立場も取らない、扇情的な題材だけをいただいた内容スッカラカンの映画とも見えてきます。

同時多発テロとイラク戦争のどちらの当事国でもない日本人の私としては、この映画をどう観るか難しいところでして、映画と同様立場保留ということになってしまいます。戦闘シーンはリアルではあるんですが、それがもし作り物なら、いくらでも作り出すことはできちゃうのですから。そして、10の中に3つ嘘を紛れ込ませれば、後の7つの真実も嘘に見せることも可能だということに注意が必要です。

野球嫌いの私にはしんどかった「ライフ・イズ・ベースボール」

新作の「ライフ・イズ・ベースボール」を新宿のK'sCINEMAで観てきました。初日、初回ということもあって、観終わってから「ぴあ」のアンケート受けちゃいました。点数評価するんですが、高得点じゃない映画って答えにくいものです。

レッドソックスとメッツのワールドシリーズの第6戦の日、これで勝てばレッドソックスが何十年かぶりの優勝がかかっていました。レッドソックスファンの劇作家ニック(マイケル・キートン)は新作の初日を迎えてナーバス状態、辛辣な批評で有名なスティーブン(ロバート・ダウニーJr)が観に来るらしいのですが、それにしても過剰反応状態。で、新作の舞台を観に行くかと思いきやバーのテレビで野球観戦。彼にとってレッドソックスの優勝は悲願でした、それにこたえるようにレッドソックスは9回までリードして後3アウトとればいいところまでこぎつけました。果たして、舞台は成功するのか、そしてレッドソックスは優勝できるのか?


今回はこの映画については、かなりボロクソに言ってますのでご注意ください。


個人的な話になるのですが、私は野球が好きではありません。色々と理由はあるんですが、子供の頃、父親にチャンネル権を握られていて、ナイターがあると自分の観たい番組は一切観られないということに始まって、何でもかんでも野球中心というのがものすごく嫌いになりました。高校野球も嫌いだし、とにかく他の何を置いても野球というのがイヤ。サッカーが盛り上がって、野球人気に陰りが出てきた時はざまあ見ろと思いましたもの。そんな私には、この映画に登場するニックの野球へのこだわりは理解できないものがあります。

それでは話が終わっちゃうのですが、この映画は、その試合と舞台の初日を重ね合わせているのですが、その両者があまり絡み合わないまま、様々なエピソードの羅列になっています。「ソープ・ディッシュ」「素晴らしき日」のマイケル・ホフマンの演出は、劇作家と評論家の動きを並行して描いているのですが、どちらもいわゆるインテリセレブなので、凡人の私に共感をつかませるポイントがないのですよ。ニックは、友人の作家(グリフィン・ダン)がヨレヨレだったり、奥さんとは離婚調停中だとか、父親との関係は良好らしいけど今回の劇は自伝的内容だとか、そこそこの事情を抱えているのですが、それらの事に本人が無関心に見えるのですよ。一方で、床屋にあった銃を黙って持ってきて、事あらば、評論家を撃ち殺そうとしてるみたいだし、共感以前に正気なのかこいつは?と思ってしまうような奴だとわかってきます。

そして、メッツとレッドソックスの試合となるのですが、これは歴史的に有名な試合だそうで、周知の事実として書いてしまいますが、延長10回、レッドソックスが2点入れて勝負あったと思わせておいて、その裏、ファーストのエラーによって3点目が入ってサヨナラ負けをしてしまうのです。それまで、運や神を信じていたニックが逆上してスティーブンの家を銃を持って襲撃しようとするのです。野球嫌いの私にはバッカじゃねえのとしか思えないのですが、もっとおマヌケなことに舞台を見終えたニックの娘とスティーブンが事をいたそうとしていたところへ殴りこんでしまいます。

そもそも初めて会った中年男とすぐにやらせる(表現が下品ですみません)娘もロクなもんじゃないと思うのですが、そのことにはニックはまるで無頓着で、スティーブンもレッドソックスファンだと知って意気投合してしまうという結末は、やっぱりバッカじゃねえの?と思ってしまったのでした。そう言えば、マイケル・ホフマンの「素晴らしい日」も不必要に子供に甘かったのが目障りだったのですが、子供に甘いってのはこの監督のカラーなのかしら。

映画を観るときにある程度の予備知識はあったほうがいいかなと改めて思わされる一本でした。「ライフ・イズ・ベースボール」、人生が野球なんて、自分としては拒否反応の出る題材で、さらに主人公がインテリセレブだというのも共感できないし。しかし、銃持って、娘が乳繰り合ってる現場に乗り込んで、その上でなんとなくハッピーエンドとは想像がつきませんでした。どんなに様々な事情があっても野球で意気投合できれば全て丸く収まるというお話なのでしょうか。それとも、劇作家は「バッカじゃねえの?」と思われる行動をとってしまうほど精神的ストレスの大きな商売だと言いたいのかしら。主人公が元タクシー運転手で、やたらとタクシーに乗って渋滞するシーンが何度も登場します。人生は常にどこかに行く途中だというメタファーなのかもしれませんが、それ以上の意味が見えないので、くどいという印象を持ってしまいました。ただ、同じレッドソックスネタでも「2番目のキス」は堪能できたので、単に野球だから拒否反応というわけでもないのですが。

観た映画一覧

    

「クレヨンしんちゃん嵐を呼ぶ歌うケツだけ爆弾」は惜しい

また新作の「クレヨンしんちゃん嵐を呼ぶ歌うケツだけ爆弾」をTOHOシネマズ川崎6で観てきました。ウィークデーのせいかお客さんはほとんどいなかったんですが、連休前から公開する意味があるんかなあって思いながらもオヤジ一人で観てしまいました。

勤続15年のごほうびで沖縄旅行に出かけた野原一家ですが、浜辺で遊んでいたシロのおしりにおむつみたいなUFOが貼りついてしまいます。国際宇宙監視センター、ウンツィでもそれをキャッチしており、分析したらそのUFOは地球を吹っ飛ばすくらいの爆弾だったのです。シロを誘拐しようとするウンツィと世界征服を企むひなげし歌劇団が野原一家を狙ってきます。果たしてしんちゃんはシロを守り抜くことができるのでしょうか。

クレヨンしんちゃんシリーズは、「ブタのヒヅメ大作戦」をテレビで観てその面白さにはまり「温泉わくわく大決戦」以降はずっと劇場で追いかけています。「アッパレ!戦国大合戦」で頂点を極めて以降、若干ジリ貧の感も否めないのですが、今回はどうなっているのか興味ありました。

オープニングは快調でして、宇宙のケツだけ星人が歌い踊るシーンがおかしいのですよ。キャラのかわいさとケツだけ踊りのお下品さは、男の子のハートのつかみはOKって感じです。そこから舞台が沖縄から春日部へと移っていくのですが、最近の傾向でやたら野原一家がファミリーの結束を前面に出してくるのがややうっとうしく、何だかハナから感動路線を狙ってるんじゃないの?ってのがミエミエで引いてしまうところがありました。国際宇宙監視センター、ウンツィというのも男の子のハートを揺さぶる名前ですが、それよりもひなげし歌劇団というのがケッサクでもちろんモトネタは宝塚なんですが、何かと言うと歌い踊り、ラインダンサーを従えて登場するというもの、団長のお駒様の声を戸田恵子が演じていて、歌の部分が見事にはまりました。

中盤は、春日部市内でのシロをめぐる追っかけになるのですが、結局、しんのすけのためにシロは自らウンツィに投降します。ここがドラマ的には一番盛り上がるところになっています。その後、シロをロケットで宇宙へ飛ばそうとするウンツィと、それを横取りしようとするひなげし歌劇団、そしてシロを救出しようとする野原一家のドタバタになるのですが、ここも最盛期の「クレヨンしんちゃん劇場版」より畳み込みが弱いのはちょっと残念。ロケットが発射する前後でしんちゃんがあまり活躍しないのも物足りませんでした。

もともと、クレヨンしんちゃんは、お下品な日常の笑いをベースにした人情話というスタイルが基本です。原作やテレビ版は、しんちゃんの下品なネタに爆笑しつつ、全体としては人々の善意を隠し味にした、結構いい話が多いのですよ。劇場版では、ドタバタのスケールアップと共に、感動を(あくまで)隠し味として入れることで、劇場で観る映画としてのグレードを作っていました。それが、「モーレツ大人帝国の逆襲」で感動が大当たりしたものだから、以降のしんちゃんでは、感動を前面に出す、「ここ、感動するところだからね」というサインをかなり強引に出すようになってしまいまして、その感動の押し売りは長くこのシリーズを観ている人間にはうっとうしいものになってきています。今回も、大した見せ場でもないラストで「ここ、感動だからよろしく」サインが出るのが邪魔くさかったです。この感動サインが子供たちに向けてのものというより、大きなお友達(要は大人)に向いてるってところがどうにもやな感じなんですよ。

というわけで、ケツだけ星人とひなげし歌劇団で大笑いさせてもらいましたが、それ以外のところは劇場版ならではの工夫、スケールを感じられなかったのが残念でした。エンドクレジットでもう一度ケツだけ星人が登場するのが楽しかったので、後味はそんなに悪くないんですが、やっぱりクレヨンしんちゃん劇場版はいい意味で徹底的にやって「そこまでやるか」というところを見せて欲しいと思ってしまうのでした。まあ、次回作もきっと劇場まで足を運んじゃうんだろうけど。

「パラダイス・ナウ」は観ていて痛い映画

新作の「パラダイス・ナウ」を東京都写真美術館で観て来ました。美術館の中の劇場だけあって飲食厳禁。でもドルビーデジタルは入ってるし、そこそこのスロープがあって観易い映画館です。後少し席の前後に余裕があるといいのですが。

ヨルダン川西岸のイスラエル占有地域ナブルス。自動車修理工場で働くサイードとハーレドに自爆テロの指令が下ります。これまで、周到な準備が行われてきた作戦で、爆弾を身につけてテルアビブに潜入し、時間差で自爆するという計画でした。しかし、ナブルスを囲むフェンスを越えようとした時、トラブルが発生して作戦は中止、ハーレドは組織に確保されますが、サイードは行方不明になり寸でのところで、ハーレドとサイードに好意を抱く女性スーハによって保護されます。スーハは殺人は次の殺人しか生まないとハーレドを説得します。しかし、作戦は再度サイードによって決行されることになります。何とかサイードを説得しようとするハーレドですが...。

パレスチナの自爆テロをパレスチナ側からテロの当事者を主人公に描いたドラマです。イスラエルとパレスチナの紛争は歴史の授業でも習っていないところなので、正直くわしくないのですが、現状は財力と軍事力とアメリカの後ろ盾を使って、イスラエルが空爆をしている状況からすれば対抗策として自爆テロしかないという言い分なのです。ですがパレスチナ人の中にも、それでは次の殺人しか呼ばないので、別の手段を模索すべきだと考える人もいます。一方で、現状は一つもよくなっておらず、他に手段がないのなら、それを続けていくしかないという思いが若者を駆り立てていきます。

この映画は、サイードとハーレドという二人の若者が登場しますが、最初は、サイードは自爆テロの懐疑的であり、ハーレドはそれが自分のなすべきことだと考えています。しかし、作戦が一度中止になってからは、サイードはその行動への決意を固め、一方ハーレドはそれをやめさせようとします。どちらか一方を強硬派、懐疑派という色分けをせず、一人の人間の中でその想い、行動が揺らぐさまを見せるところに、このドラマの客観性と良心を感じました。

確かに、ここに描かれている事実からすれば、パレスチナ人の閉塞感が手段を選ばぬ暴力へと走らざるを得ないと納得してしまうところがあります。でも、ラスト近くで、サイードに、支配者が自爆テロの被害者ヅラをするのなら、自分たちは被害者でありそして加害者にもなると言わせるところで、単に一方的な被害加害の図式にならないことも思い知らされます。さらに、観ていて辛かったのが、イスラエル軍がパレスチナ人の中に密告者を作り、結果、パレスチナ人は密告者の告白ビデオを撮影し処刑しているということ。同胞の中で殺し合いをさせることの非道さを見せる一方、もう一つ、パレスチナ人の間で、その告白ビデオが販売レンタルという事実も見せます。自爆テロを行う前にも殉教者としての宣誓ビデオも録画して英雄のビデオとして販売レンタルしてるのですが、密告者のビデオの方が人気があるのだそうです。薄気味の悪い話ですが、密告社会の憂さ晴らしなのでしょうか。

葛藤するサイードやハーレドに比べると、作戦を計画、指令する側の本音はなかなか見えてきません。選ばれたことに対して「おめでとう」といい、「死を怖れないものが天国へ行ける」と説く彼らの言葉は、自爆する当事者のそれに比べると軽いように思えます。もちろん、指令する側も戦士であり、イスラエル軍と戦ってきているのですが、それでも若者二人にかける言葉にどこか上滑りのようなものを感じてしまいます。単に戦争の駒として彼らを使い捨てるようには見えないのですが、それでも彼らの命を捨てるように仕向けることへの後ろめたさはないようです。それが戦争なのだと言われればそうなのかもしれませんが、独立のための他の手段を模索しているようではありません。

そういう意味では、若い人間の方が未来を真剣に考えているというメッセージを感じることができる映画でもあります。一方で、自爆テロを止められない理由もいやというほど並べてあるので、単なる理想を振りかざす映画になっていません。これを止めるために何か行動を起こせるわけではないのですが、単に自爆テロのニュースを「またか」と聞き流すだけではいけないと思わせる映画でした。

監督脚本のハニ・アブ・アサドはパレスチナ人で、実際にナブルスでロケを行い、危険な目にも遭いながらの撮影だったようです。それでも、35ミリ、シネスコ画面へのこだわりがあったそうで、デジタルカメラでない画面の空気感は伝わってきます。

「こわれゆく世界の中で」に見る大人の選択と母親の強さ

また新作の「こわれゆく世界の中で」を日比谷シャンテシネ2で観てきました。ここは、ほぼフラットで、真ん中に通路がないけど横幅があるという変な作り(改装してからそうなった)の映画館ですが、スクリーン位置を昔より上げたのか、前の人の頭が気にならなくなりました。ところで「こわれゆく世界の中で」って邦題はどこから思いついたのか、中身と全然関係ないじゃん。原題の「Breaking and Entering」の「Breaking」から無理やり引っ張ってきたとしか思えないです。

ロンドンのキングスクロス地区は今、再開発の真っ最中である一方犯罪の多い地域でもありました。ここにあるウィル(ジュード・ロウ)のオフィスに泥棒が入ります。ウィルは10年来の恋人リヴ(ロビン・ライト・ペン)がいて、リヴの連れ子ビーは精神が不安定で不眠気味で、リヴ自身も精神的に参っているところがありました。2度同じ手口で泥棒に入られたウィルは夜、外からオフィスを張り込んでいると、窓から入ろうとする少年の影を見つけ、後をつけます。少年ミロはボスニア内戦で父をなくし、母アミラ(ジュリエット・ビノシュ)と二人暮らしで、アミラは仕立ての仕事をしていました。そしてウィルはアミラに仕立て直しの仕事を依頼し、それから二人は急速に接近します。しかし、ミロはウィルの存在を知り、ミラは息子の盗品を見つけて何とかしようとしますが、警察もミロの犯行と見当をつけていたのでした....。

「イングリッシュ・ペイシェント」「コールド・マウンテン」などスケールの大きな恋愛ドラマで知られるアンソニー・ミンゲラが脚本、監督したロンドンを舞台にした現代劇です。どういうドラマなのかジャンル分けするのは難しいところがあります。純粋な恋愛映画ではなく、主演3人の三角関係なのかというとそれも微妙なところがあります。冒頭、ウィルとリヴの二人が並んで登場するのですが、どうも二人はラブラブのようではありません。ウィルは仕事が充実しているようですが、リヴは精神が不安定な娘ビーの為、ドキュメンタリー制作の仕事もやめていて、彼女自身もうつの治療をしているという状態。娘はリヴにとってウィルに対する引け目にもなっており、そのあたりのリヴの感情にウィルは無頓着で、むしろリヴの愛情が失われてきているのではないかと思っています。

そんなときにオフィスに泥棒が入るのですが、この犯人は最初から観客にはわかっています。ボスニア人の叔父たちに指示された少年たちの仕業です。その中でも特に身の軽いミロは屋根から中に侵入して中からカギを開ける係なのです。そして、そのことを母アミラは知らず、ミロが学校へ行っていないことを気にかけています。一方のミロも盗んだパソコンの中のウィルたちの家族写真のファイルをCDに入れて戻しておくようなところがあり、根っからの悪党ではありません。一方、ビーも体操の練習の中から少しずつ精神の安定を取り戻しつつあります。

そして、3度目の侵入未遂時にウィルはミロの家を突き止め、何をどうしようかということもなく母親のアミラに接近します。アミラは夫を見殺しにしてイギリスにやってきたという負い目を感じていて、その一方で孤独の癒しを渇望していたのです。リヴとの関係がぎくしゃくしていたウィルとアミラはお互いに好感を持つようになるのですが、その一線を越える直前に盗みの一件をアミラが知ったことから話がややこしくなります。アミラにとって、ウィルは息子の罪を盾にとった脅迫者であり、彼女がウィルに抱かれるのは恋愛感情ではなく息子のためということになります。それを知らないウィルとアミラが結ばれるシーンは観客にもアミラにも後味が悪く、アミラがその証拠写真を撮っておくところの切なさには痛いものがあります。


この先は結末に触れていますのでご注意ください。


ウィルがアミラを求める気持ちは決して遊びではなく、アミラも息子のことがなければ本気でウィルに魅かれていたのですが、そこの行き違いが最終的に大人の選択に収束するところがこのドラマのうまさだと思いました。ウィルとリヴの関係は娘ビーを間に置いて常にもろくて崩れそうでいたのですが、ビーがウィルとリヴの両方に心を開くようになり、ビーを間に置いて、ウィルとリヴの関係も安定しつつあったのです。その微妙なタイミングの一致はいかにも出来過ぎなのではありますが、3人の男女が一時の感情に押し流されそうになるのを踏みとどまるドラマとして捉えると、3人それぞれに共感できて、奥行きのあるドラマとしてなかなかに見応えがあります。

そんな中では、最終的にアミラが貧乏くじを引いたようにも見えるのですが、もともとウィルとアミラの関係は長続きするものではなく、時間の経過に連れて相互に罪悪感を感じてしまう関係でした。そんな修羅場になる前に、息子ミロを助けるということで二人の関係を清算してしまったのは賢明な判断だと言えましょう。ここでも、また二人が子供を間に置いて、関係を修復(友人に戻るという意味で)したことになります。

子供の存在、そして母親であるということはつくづく強いものだと思わせるところがありました。子供のためなら、何でも犠牲にできてしまう母親二人を前にして、ウィルはなす術がないように見えます。でも、その子供の存在がウィルに居場所を与え、行動を選択させるというあたり、ミンゲラの脚本はうまいなあと思いつつ、男に辛辣なようにも思えました。でも、ラストで3人が最善の選択をし、アミラが故郷に帰り、リヴは仕事に復帰するという、ハッピーエンドにまとめたところは、ウィルにもそれなりに華を持たせているのかもしれません。

ジュリエット・ビノシュとロビン・ライト・ペンは年相応の女性の魅力と存在感が光りました。特にビノシュが色っぽくて、一見くたびれているようでいて濃厚なフェロモンを発しているアミラという女性を見事に演じきっていました。ジュード・ロウは二人の引き立て役を殊勝に演じたという感じでしょうか。移民、再開発、犯罪地区などの社会性のあるキーワードも盛り込まれてはいるのですが、私は二人の母親の物語としてこの映画を堪能しました。また、脇役も充実しており、特にオフィス近辺で仕事をしている娼婦を演じたヴェラ・ファミーガがコミカルな味わいで好演しているほか、刑事を演じたレイ・ウィンストンが少ない出番の中に苦労人らしい懐の深さを見せて印象的でした。

ブノワ・ドゥロームのカメラは落ち着いた色使いを見せて映画を支え、ガブリエル・ヤレドとアンダーワールドの共作による音楽が乾いたタッチで現代のロンドンを描写しています。今回はアンダーワールドのカラーが濃いのか、ヤレドのメロディアスな部分は影を潜めて、ジャズとアンビエントの中間の音作りになっています。

「酒井家のしあわせ」はショボい日常とちょっとホロリ

今回は珍しく邦画の「酒井家のしあわせ」をシネマジャックで観てきました。ウィークデーの夕方ということもあったのですが、私一人の鑑賞だったのはうれしいような寂しいような。

酒井家はバツイチの母(友近)と新しい父(ユースケ・サンタマリア)、息子次雄(森田直幸)と娘光の4人家族。一見、普通の家庭です。次雄はサッカー部の中学生でショボい日々を送っていたのですが、同級生の筒井(谷村美月)から誕生日のプレゼントをもらって、これって告白?のドギマギモード。そんなある日、父が家を出てしまいます。その理由というのが仕事の同僚とホモ関係になったから、ってそんなことあり得る? ショックの次雄は亡き実父の弟を訪ねるのですが、そこもどこか居ずまいがよくありません。そして、祭りの縁日で、父を見かけた次雄はその後を追うのですが....。

29歳の呉美保が脚本・監督を担当した、周囲を山に囲まれた小さな町でのある一家の風景を描いたものです。映画の前半は、ごく普通の4人家族を次男坊(長男は、元夫と共に死別)次雄を中心に展開します。一家の朝食風景から物語は始まります。普通の中学生のショボい日々が、同級生の筒井のアプローチでちょっと色めきだつところがアクセントになっているもの、前半のテンポはゆっくりと日常のエピソードを積み重ねるだけで、ドラマチックな要素はまるでありません。

そんな日常に突如湧き上がる父の別居、このあたりはユースケサンタマリアの独特の存在感(非存在感?)が生きていて、ドラマチックな要素よりも、何かポカンと穴があいたような感覚にとらわれるところが面白いと思いました。どこかあっけらかんとした感じとでも言うのでしょうか。理由が同僚の若い男とデキちゃったという、あきれかえるようなお話で、でも、この父ならさもありなんと思わせるあたりはキャスティングの妙と言ってよいでしょう。

そんなことがあっても次雄の日常に大きな変化は生じません、退屈な授業と部活の日々の繰り返し。学校のシーンで先生役で登場する本上まなみが、学校の先生っぽくないつかみどころのないキャラでおかし味を出しています。この人はいろいろな役をこなす達者な人です。筒井との間も彼女がかなり積極的なので、それっぽくなるんですが、次雄自身がぐずぐずしているせいか、なかなかいい関係になれません。そんな時に、亡き実父の弟に会いに行くのですが、ここも自分が落ち着ける場所ではないことがわかってくるあたりから、次雄のショボさが際立ってきます。とにかく、鬱屈した不満を抱えているものの、それをぶつける相手も理由も見つからない状態ってのは、確かに自分にもあったような気がします。


この先は結末に触れますのでご注意ください。



しかし、そのいら立ちは、父との再会によって、おかしな方向へと進み、父はみんなを騙していたことが判明します。その一方、叔父との会話から普段からポーカーフェイスの母の意外な感情のほとばしりがあったことも知ります。それまで、知らなかったことがわかってくるに連れて、自分の鬱積してきたものが何だか小さく見えてくる、特に、ラストで筒井が自分の親友と付き合っていたというショボさのとどめを刺されたとき、次雄はそのショボさと向き合って笑い飛ばすことができるようになります。どうやら、次雄は一山越えたらしいぞ、というところで映画は終わります。

一見、ユルい日常のように見えてもそこには様々なドラマや葛藤が仮面の下の隠されているんだなあっていうお話なんですが、かくいう自分にはそんな人生の奥行きはないから、彼らはやっぱり特別なんだろうなあって思う映画でもありました。特に、鬱屈した次雄の日常は、あんなにぶすっとして笑わないのはリアルじゃないよなあって思ってしまいました。テレビでもマンガでも、ほんのちょっとしたことでも笑っちゃう瞬間があると思うのですよ、それを最後までためておいたあたりにドラマとしての作為を感じてしまいました。

また、平凡な日常に突然割り込むイベントが難病というのは、「またかよ」という気分にさせられてしまいました。この映画自身のせいじゃないんですが、最近の日本映画の予告編を観てると、そういう「余命いくばくもない」というお話がやたらと多いので、安直に見えてしまうのです。病気にしたって、もっと軽めの方がリアリティと共感を感じることができるように思います。ただ、それを隠すためにゲイ別居だと言い張る父親と、そんなの1日でばれてるのに意地で会いに行かない母親の関係には、心揺さぶるものがありました。ショボくてバカげた行いの中の愛情みたいなものに、ホロリとさせられてしまいました。

友近とユースケサンタマリアというテレビのバラエティでしょっちゅう見ている顔が主演というのは、映画としてはマイナスポイントになるんですが、それでもこの二人だからこそ成り立ったドラマだと思わせるものがあり、特に友近のおばちゃんに見せながら、オンナでもあるというキャラクターは演技力なんだなあって思いました。また、喜久村憲章の撮影は、きちんと劇場用映画の絵になっていたことも追記しておきます。

「銀河鉄道の夜」は映像も音も完璧と思います


杉井ギザブロー演出のアニメ「銀河鉄道の夜」は私にとってはある意味完璧な作品と言えます。原作の空気を見事に捉え、ますむらひろしデザインによってメインキャラを猫にしたことによるファンタジーとしての映像化に成功しています。アニメの制約と物語の制約を見事に融合させた傑作と言えます。また、一切戦闘シーンのないアニメというのも当時は(今も)画期的でしたし、静寂を基調にした映像や音響設計も見事でした。その完璧な作品を支えた細野晴臣の音楽も完璧といってよいものでした。オープニングのテーマから、神の視点から、学校の中まで降りてくるシーンの音楽設計。また、祭りのシーンの中近東風の不思議な音楽から、効果音のように映像を支えるシンセ音楽まで、どこを切っても素晴らしく、祈りの音楽や別れの曲など、中にはゲームミュージックのような曲まで入っていてジャンル分けするのが難しいのですが、とにかく、その映画を支えているとしか言いようのない音の数々が楽しいアルバムになっています。

音楽だけ聴くと、それはまた様々なイメージをかきたてるものになっているので、ドキュメンタリーや再現ドラマのバックによく使われています。中でも、オープニングとエンディングで流れるメインテーマは、鐘とシンセドラムの音がお神楽のようにバックに鳴る中で、チェンバロのような音が単純なメロディを繰り返しながら、だんだんと盛り上がっていくというもので、この映画のカラーを見事に表現しています。聴いていて、こういうのをモダンな音楽なんだなって感じました。映画も音楽も傑作だと申せましょう。

「ラブソングができるまで」を観て幸せ気分

今回は「ラブソングができるまで」を川崎チネチッタ7で観てきました。ここは椅子の背もたれが高くて、ちょうど椅子の中にすっぽりおさまって映画を観る感じになります。基本的に前の人の頭が見えないってのはありがたい劇場です。

80年代、POPというグループで一世を風靡したアレックス(ヒュー・グラント)は最近の80年代回顧ブームでそれなりのお仕事がきています。そんな彼にファンだったという現代の歌姫カーラから新作の依頼を受けるのですが、作詞家とうまくいきません、そんなところへやってきた植物の水やりの女の子ソフィ(ドリュー・バリモア)の口ずさんだ詩に、アレックスが飛びつきます。彼女と一緒に新作つくりをやろうとソフィに持ちかけるのですが、なかなか首を縦に振りません。過去に詩を書いてたこともあるソフィは自分と恩師との恋愛関係を、恩師が小説化し自分がスゴい女に描かれていてそれがショックになっていたのでした。それでも、アレックスはソフィを説き伏せて、彼女の詩を元にステキなラブソングを作り、それはカーラの気に入られるのです。ところが、カーラは自分のイメージに歌を大幅にアレンジしてしまったことで、アレックスとソフィも気まずい関係になってしまうのですが....。

今まで共演したことなかったというのが意外な、ヒュー・グラントとドリュー・バリモア主演による音楽業界を舞台にしたラブコメです。「トゥー・ウィークス・ノーティス」「デンジャラス・ビューティ」などシチュエーションの面白さで楽しいコメディを作ってきたマーク・ローレンスが脚本、監督しています。

オープニングは彼のグループのプロモーションビデオなんですが、これがいかにもありそうな感じで、しかもよくできてる。私はあの頃のサウンドは結構好きなのですが、甘いサビのノリのいいサウンドがいかにも当時っぽくって耳に心地よいのです。当時のサウンドは今聴いてもいいなあと思うものが多いのですが、そのタッチを非常にうまく再現していると思いました。その元スター、アレックスがが同窓会とか遊園地の営業でそこそこ生計が立っているってのがおかしいです。集まるのはかつてのファン、今や主婦層のおばさんたち。そういうファンをこの映画は笑いの種にしていないところが好感が持てました。かつてのスター、それに熱狂するかつてのファン、そこにはある種の連帯感があるのですよね。

そんな過去に生きてるアレックスの前に降ってわいた新曲作りの話は魅力的ではあるんですが、ソングライターとしての仕事から遠ざかっていた彼にとってはなかなかの難行苦行です。そんな時に現れたヒロインは何となくフィーリングが合って救世主になりそう。このあたりのアレックスのノリの軽さと厚かましさをヒュー・グラントが軽々と演じてうまいところを見せます。一方のソフィは過去の心の傷が癒えないまま、作詞には乗り気ではないのですが、アレックスにうまく乗せられてしまいます。このあたりのマーク・ローレンスの脚本、演出は変に悩まないサラリとしたドラマ展開で、二人がなんとなく接近していくエピソードを積み重ねていきます。作詞作曲の間、ずーっと一緒にいる姿が何だか好ましく見えてしまうのが、グラントとバリモアの魅力なのでしょう。困り顔が魅力のグラントと笑顔がチャーミングなバリモアのよさもうまく使われています。

また、二人ともかっこ悪いところあるんだけど、それが嫌味にならない、応援したくなるところがあります。ビッグスターの前にトンデモなアレンジを受け入れるアレックスはかっこ悪いし、元恩師の前で恨み節を言おうとして愛想笑いしてしまうソフィもかっこ悪い、でも、そのかっこ悪さは共感できるものなので、仕方ないよなあと思いつつ応援したくなるのですよ。そして、物語は定番中の定番、仲良くなってから、一度喧嘩別れして、そしてヨリが戻るということになるのですが、そこで、二人で共作した歌がうまく使われることで、結構盛り上がるのですよ。ラブコメと音楽という取り合わせは最強だと思いました。

また、歌姫カーラのPV収録とかクライマックスのコンサートとかが丁寧に作られていて、まあ、セックスとブッダを強引にくっつけたキャラ作りは変なんですが、彼女用の歌とかダンスがなかなかに魅力的でした。コンサートのシーンは観客が盛り上がるのが納得できるクオリティがありまして、脇役なのにコーラのキャラがよく作りこまれていて、セクシー衣装もあって、演じたヘイリー・ベネットも魅力的でした。

ドリュー・バリモアの映画は、特にコメディはどれもクオリティ高くてハズレがないんですが、よく脚本を選んでいるということなのでしょう。意外とキャラクターに幅があって、固定されていないのですよ。「ウェディング・シンガー」の心優しいヒロイン、「エバー・アフター」の気はやさしくて力持ち、「50回目のファーストキス」の病気のあるヒロイン、「二番目のキス」の普通のキャリアウーマンなど、あの笑顔で全部許せちゃうところもあるんですが、ベースは同じでも、少しずつキャラが変化しているところが彼女のプロデューサー的な手腕を感じます。自分の見せ方をよく考えているということだと思います。

「ロッキー・ザ・ファイナル」はロッキーのリメイクだと思えば

また、新作の「ロッキー・ザ・ファイナル」をワーナーマイカル福島シネマ2で観てきました。ワーナーマイカルは久しぶりだったので、予告編の間ずっと明かりがついてるのがなじまなくて結構ハラハラしてしまった。

妻を病に失ったロッキー(シルベスター・スタローン)はレストランを経営しながら、かつての世界チャンプとしてお客サービスにつとめています。息子ロバートとの関係はうまくいっておらず、父親のビッグネームにコンプレックスを感じている様子。かつて、ヤクザの用心棒の頃、説教したことのある娘マリー(ジェラルディン・ヒューズ)と再会したのをきっかけに、ロッキーの中に再度闘志がよみがえり、ボクサーとして登録復帰します。一方、連戦連勝なのに相手が格下ばかりという評判で人気のないチャンピオン、ディクソンのエージェントが、彼にエキジビジョンマッチをやろうともちかけてきます。そんなビッグマッチで復帰するつもりはなかったロッキーですが、周囲の後押しもあって、無敗の王者に挑むことになります。どうみてもロッキーに不利な試合、果たして、現役チャンピオンに一矢報いることができるのでしょうか。

「ロッキー」を劇場公開時に観てから、もう30年もたったのかというのをまず感じました。当時、バッドエンドや斜に構えた映画が多かった時に、まっとうな人間ドラマでストレートな感動を呼ぶというのが大変新鮮に思えたのでした。また、第一作は、ロッキー一人の物語ではなく、ロッキーと彼を取り巻く人々の群像ドラマとして大変見応えがありました。今では物まねのネタにしかならない「エイドリアーン」の叫びにボロボロに泣かされてしまったのは私だけではないと思います。

それから、4本の続編が作られて、それがアメリカの時代を象徴する作品群になっていたのは、ある意味すごい映画なのかもしれません。あまり評判のよくない「ロッキー5」ですが、私はこじんまりとまとまった下町人情話として結構好きな一本です。後は、シンプルなストーリーを手際よくさばいた「ロッキー3」もよかったと思っています。

今回は、元チャンプの名前で経営しているレストランのオーナーが、エイドリアンを失ってそのショックからなかなか立ち直れないでいるところから始まります。第一作の冒頭でロッキーが説教してた女の子マリーとの再会というのは、うまくひねり出した設定だと感心しましたが、彼女との触れ合いの中で、ロッキーにもう一度やってみようという自信が育まれるというのは、スタローンの脚本のうまさでしょう。ただ、マリーがキーパーソンであることが映画を観ていてあまり伝わってこないのは、演出が今イチということになりましょう。この前半部分を第一作のアヴィルドセンが演出したら、後半ももっと盛り上がったのではないかと思ってしまいました。父と子の葛藤を、マリーとその息子にだぶらせようとして失敗しているところもあって、設定のよさを生かしきれていない点が惜しまれます。

この先は映画の結末に触れていますので、ご注意ください。



後半、試合が決まってからは、ドラマも一気にエンジンがかかってきて、トレーニングシーンにロッキーのテーマが流れ、ラスベガスでのビッグマッチに向けてドラマは大変盛り上がります。60歳であのでかい体をフルに動かすのですからそれだけで驚きなんですが、見た目で負けない空気を作るあたりのスタローンの演技力というか自信は大したものだと思います。定番のフィラデルフィア美術館前でのガッツポーズは今回は愛犬を抱えてというのが私にはお気に入りです。

試合の方はリアリティがあるのかないのか、とにかくボコボコの殴り合いになるので、観ている方は盛り上がります。ただ、気になったのは、ビル・コンティの音楽が第一作の激闘の音楽をほとんど同じ構成で使っているので、何だかデジャヴというか、この闘いとしての新鮮味が感じられませんでした。それは、ロッキーを総括する意味で狙ったやった演出なのか、同じ音楽でもいいやという妥協なのかはわからないのですが、シリーズを観ている者としては、ここはこれまでのロッキーの闘いとは違うのだというところを見せて欲しかったように思います。トレーニング前、「スピードは無理だから、重いパンチを作っていく」と宣言したところが、実際の試合でどう生きたのかが今一つわからないのも残念でした。

結局、エキジビジョンマッチは10回フルに闘って、僅差でチャンピオンが勝利を収めるというもので、ある意味第一作をなぞった結末とも言えます。さらに、勝敗にはこだわらずにさっさとリングから退場してしまうのも、第一作の結末に近いものがあり、この映画は第一作をもう一度ロートルのロッキーでなぞって見せたということもできます。そうであるなら、親子の葛藤が脇へ追いやられているのもうなづけますし、マリーというぱっとしない女性がエイドリアンにだぶって見えてくる感じすらします。スタローンとしては、自分の年齢を意識した上でロッキーをリメイクしようとしたらこうなったということではないでしょうか。ロッキーのリメイクという点ではこの映画は成功していると思います。ただ、第一作の群像ドラマとしてリメイクするなら、別の監督にすべきだったように思います。スタローン演出作品は全体的に脇役の扱いがよくないんですもの。今回もバート・ヤングにはもう少し見せ場を欲しかったです。

「クイーン」は王政批判をうまくかわして人間関係のドラマにしてます

新作の「クイーン」を山形フォーラム4で観てきました。前半フラット、後半ちょいスロープのつくりの小さな劇場ですが、山形フォーラムの6スクリーンの中では、番目の大きさ。ドルビーデジタルも当然のごとく入っています。スクリーン位置が高いのが、どの席でも前の人が邪魔になることがないってところは点数高いです。

チャールズ皇太子の元夫人ダイアナがパリで交通事故死した事件は世界中を揺るがせ、当然イギリス王室も何らかの動きをする、と思われたのですが、エリザベス女王(ヘレン・ミレン)はバッキンガム宮殿を離れたまま、我関せずの態度に終始します。そんな彼女に、侍従長もブレア首相(マイケル・シーン)もやきもきさせられます。メディアはそれまでのダイアナ妃の追悼番組を組む一方で、半旗もあげない、何の声明も出さない王室に不満をぶつけてきます。ダイアナ妃の理不尽な死の責任をまるで王室になすりつけるかのように。そして、ついに女王はカメラの前に立ち、全世界に向けての声明を出すことになるのです。

ちょっとひねりの効いた映画を撮る監督の一人であるスティーブン・フリアーズが、今回はイギリス王室を舞台にダイアナ妃事故死を題材にしたドラマを作りました。実在の人物がたくさん登場することもあって、どういう描き方になるのかと思いきや、ブレア首相の若さをドラマの中心に据えて、ダイアナ妃の事故死から、女王のテレビ演説までの七日間を描いています。確かにダイアナ妃の死は日本でもビッグニュースでしたし、追悼番組みたいなものもありましたし、その死に謎が多いことから陰謀説もゴシップ欄をにぎわせました。当のイギリスではどうだったのか、あまり当時は知ることもなかったのですが、この映画を観ると市民の多くがバッキンガム宮殿に弔問、献花に訪れているのがよくわかります。それが、イギリス国民のどの程度のものだったのかは、CNNの画面からは伺い知ることはできませんが、メディアの中心にいる人間にとってはビッグニュースであり、それに付随する王室ゴシップのでかい種であったようです。まだ、就任して間もないブレア首相もコメントを出さざるを得なくなっちゃうのですが、9年後の今、振り返ると異常な反応であったように思えてきます。

一方、ダイアナ妃の死の一報から、王室一家が大騒ぎになるのかと思いきや、フィリップ殿下も皇太后も、そしてエリザベス女王も至極冷静で、まあ、死んだのは今は王室の人間じゃないんだし、過去の因縁からすればそれほどの義理もないというのは、無理からぬものもあるんですが、周囲がイギリス人らしいシニカルな反応をするのに、エリザベス女王だけは、毅然とした態度で臨みます。もう王室の人間じゃないんだから、実家の都合で葬儀も行うべきだというスタンスをとろうとするのですが、世間のダイアナフィーバーによって、国葬、それも皇太后の国葬プランをそのまま実施することになってしまいます。伝統と格式を重んじるイギリス王室としては大譲歩ではあるんですが、それでも世間(のふりをしてるメディア)の攻撃にさらされてしまいます。このあたり、日本人には妙になじみ易いというか、よくわかる展開になっています。いわゆる世間というものがあって、それをメディアが形作って、世論というものを作って(でっちあげて)いく、そんな過程がこの事件の経過の中で浮き彫りになっていくのが面白いと思いました。

いじめられた生徒が自殺して、学校の校長がボコボコにバッシングされるような、イヤなスケープゴートの作られ方が、遠いかの国イギリスでも起きるんだというところは、親近感を感じてしまいました。で、そのバッシングに立ち向かわなきゃならないエリザベス女王も大変ですし、間に立って右往左往するブレア首相も大変だったのねえ、っていう映画なんです。

確かにダイアナ妃は特別な女性であったのは事実なんですが、実像と虚像のバランスが崩れている状況下での急逝は、一般市民に、ダイアナ妃を神格化させてしまったようなのです。で、それをやったのは誰かと言えば、下はパパラッチから上はCNNのトップまでひっくるめたメディアのみなさんなんです。で、その目的は詰まるところは金ですから、金儲けのために一般市民が要らぬ涙を流させられたのだとも言えます。会ったこともない人間の死に、ああだこうだ言うのはやっぱりおかしいんだけど、ダイアナ妃のときは、只の野次馬までがもっともらしいゴタクを並べていたように思います。日本のテレビでさえそうだったんですから。

そんな中でも、エリザベス女王は私情を表に出さず、公人としての正論を貫きとおします。それは自分の背負ってしまった仕事だからというところをヘレン・ミレンが見事な演技で表現しています。そして、労働党出身で王政反対の立場であるはずのブレア首相が、彼女の姿勢を支持するのです。この映画の、ブレア首相が大変コミカルに描かれていて、本人はどうだったんだろうと気になって仕方なかったのですが、少なくとも、この映画で彼をドラマの中心にしたことで、王室をことさらに持ち上げることからも、おとしめることからも回避しています。このあたりは脚本のピーター・モーガンの功績なのでしょう。ラストでエリザベス女王とブレア首相の信頼関係に話を落とし込むあたりはうまいと思いましたもの。

この映画では、エリザベス女王が、大衆を扇動するメディアに迎合しないで、本質のところで、公人としての弔意を示すというところが見せ場になっていますが、当時のフィーバーぶりの中では、冷たい言葉とも受け取られたようです。ちょっとでも、攻め込む隙を見せたらまたそこを攻撃してくるメディアに対して、自分の信念によって、職務を全うしようとする女王の姿はりりしく見えました。このオバちゃん、かっこいいって。中盤、森の中で鹿と出会ったとき、唯一感情が露になるのですが、そこに秘めた想いは映画の中では明確に語られません。また、きっとこの先も語られることはないのでしょう。それを語ったら、職務を全うしたことにならなくなっちゃうから。

日本の皇室は、ここまでバッシングされることはない、イギリス王室に比べれば、ラクな方かも知れませんが、公私の葛藤はやはりあるんだろうなあって思ってしまうと、やっぱりあっちの世界の人は大変なんだなって再認識できる映画でした。また、主義主張、立場を超えて、人間は理解しあえるということを描いた映画としても記憶にとどめておきたいと思います。

「サンシャイン2057」とは相性よくなかったらしくて

今回は新作の「サンシャイン2057」を、なぜか福島フォーラム1で観てきました。福島フォーラムは小さな劇場が6つ、3つの建物に分散しているというもので、フォーラム1は前半フラット、後半スロープの小さな劇場ですが、スクリーン位置が高いので見易い映画館です。ドルビーデジタルも完備しているのですが、音がやけにでかいのが気になってしまったのは、この映画のせいなのか。

近未来、衰退した太陽のおかげで、地球は凍り付いていました。そこで、太陽の中で大核爆発を起こして太陽を復活させようという計画が持ち上がり、イカルス1号が飛び立ったのですが、太陽の近くで消息を絶ってしまいます。それから7年後、イカルス2号がカネダ(真田広之)を船長に太陽に向けて飛び立ちます。いよいよ、太陽の近くに来た時、イカルス1号の救難信号をキャッチしました。コースを変えて救助に向かうべきかどうか、爆弾を確保できればミッションの成功確率も倍になるということで物理学者キャパ(キリアン・マーフィ)の判断で進路を変えて救助に向かうことになります。しかし、進路変更の際の操作ミスから、シールドの一部を破損、船外での修理作業が必要となります。さらに、酸素供給源である植物園も全滅してしまいます。果たしてイカルス2号は無事に任務完了できるのでしょうか。

「トレイン・スポッテイング」「普通じゃない」などで知られるイギリスのダニー・ボイル監督による新作は、宇宙船という密室を舞台にしたSFものです。設定は地球の危機、巨大な核兵器で事態を回避しようという設定は、「クライシス2050」「ザ・コア」などの前例がありますが、この作品は設定はともかく、後半の展開がかなり奇妙なものになっています。全体の雰囲気も、ずっと緊張の糸が張りっぱなしで、ユーモアのかけらもなく、そして、よく言えば哲学的、悪く言えば思わせぶりの山なのです。観終わった印象は、これSFじゃない、ということになっちゃいました。(わかりにくい例えですが、「イベント・ホライズン」になりそこなった「クライシス2050」って感じなんです。)

この先は映画の結末に触れますのでご注意ください。


まず、地球の危機がどういうものなのかは一切描かれず、地球にいるスタッフも一切登場しません。完全に外界と隔絶された宇宙船の中でのみ物語は展開するのです。まるで「エイリアン」の雰囲気をそのまま持ってきたような感じなんですが、登場する連中もチームというには各々がバラバラでまとまりがありません。出てくる連中がほぼ均等に描かれるので、感情移入できるキャラクターも見つかりません。太陽を直視しようとするのが何か意味ありげに描かれますが、それが何なのかは最後までわからないままです。シールド修理作業で、カネダ船長が死亡してからは、チームとしてはますますまとまりがなくなり、物語の展開も混沌としてきます。作業ミスした航海士は自殺しちゃうし、救助に向かったイカルス1号からは、ゾンビみたいのが乗り込んでくるし、ミシェル・ヨーは何もしないうちにゾンビもどきに殺されちゃうし、いったいこの話をどう終わらせたいのかと思っていると、これが強引な力技で、爆弾を爆破させて当初のミッションを完了させてしまうというもの。じゃあ、それまでの経緯は何なの?というところはまるっきり説明されず、事実のちょっとずつチラ見せして、全体をお察しくださいってのはないよなあ。

観客の想像に委ねるという見せ方はあってもいいと思いますが、想像しなきゃならない部分が多すぎる映画ってのは、少なくとも娯楽映画としてはダメなのではないかしら。そもそも、太陽が輝きを失ったから、核爆弾ぶち込もうってのは「妖星ゴラス」より説得力を欠きますし、それを神への冒涜だからって当の(イカルス1号の)船長がサボタージュするってのは、ますますリアリティ皆無。航海の途中で任務放棄して自殺するというのも任務の重大さから言っておかしいし、全体的に何かがチグハグなんです。

やたらと意味不明な効果音とかインサートカットが多いのも気になりました。思わせぶり演出で振り回されても、最後で「おー、なるほど」という結末を見せてくれれば、その思わせぶり演出が生きたということになるのですが、パズルのピースをとっちらかしたままでは、ただの思いつきの羅列にしか見えなくなってしまうのです。

演技陣にいいメンツを揃えているのに、明快なキャラを与えられているのは精神科医を演じたクリフ・カーティスだけ(とはいえ、この宇宙船になぜ精神科医がいるのかは置いといてという条件つきで)というのも勿体ない限り。ごひいきのローズ・バーンが出ていて、彼女にも期待していたのですが、かわいいだけのキャラ以上になってなくて残念。ひょっとしたら、キャラはあるのにこちらが読み取れないだけかもしれないのですが、それでも、映像からの情報量が少なすぎると思います。

映画の内容と直接関係ないんですが、プログラムを読んでも、ストーリーの解釈とか設定の背景とかに触れた文章がなく、撮影時の話とか、太陽の説明といった周辺情報ばかりなんです。昔、押井守の「アヴァロン」のプログラムも映画の中身に全然触れていませんでしたが、あれと似たようなところがあります。要はわけのわからない映画だから、誰も説明できなかったと思われるのです。せめて、ホラーならホラー、SFならSF、サスペンスならサスペンスと見せ場を絞り込んでくれたらよかったのですが、どれも中途半端で、後は観客に委ねると言われても、委ねられた方は困惑してしまいます。

「ブラッド・ダイヤモンド」に見るアメリカ映画の底力

川崎チネチッタ4で「ブラッド・ダイヤモンド」を観てきました。こういうメジャー映画は本当なら藤沢オデオンで観るところなんですが、返す返すも閉館がこたえています。

アフリカはシエラレオネでダイヤモンドの密売をやっているダニー(レオナルド・ディカプリオ)はつかまった留置場でピンクダイヤを持ち出した男がいると聞き、その男ソロモン(ジャイモン・フンスー)をマークしますが、ソロモンは革命統一戦線に拉致されていた時にダイヤを見つけていたのです。そして、彼は生き別れた家族を探していました。ダニーは知り合ったジャーナリスト、マディ(ジェニファー・コネリー)のコネでソロモンの妻と娘が無事なのを確認しますが、息子はさらわれたまま、生死不明になっていました。実は、息子のディアは革命統一戦線による洗脳と訓練により少年兵士となっていたのです。果たして、ソロモンは息子を見つけ出すことができるのか、そしてピンクダイヤの行方は?

1990年代の内戦状態にあったシエラレオネを舞台に、ダイヤモンドを巡る争奪戦を描いたアクション活劇です。ただし、そこにアフリカの現状をハードに盛り込んでいて、エドワード・ズウィック監督は様々な問題提示をしながら、娯楽映画としてのクオリティを落とさないで一本の作品に仕上げることに成功しています。

冒頭で、村が反政府軍であるところの革命統一戦線に襲撃されるところがまずショッキングです。理不尽な殺人、暴力。ある者は手を切り落とされ、ある者はダイヤ採掘の強制労働にかりだされます。とても、現代の出来事とは思えないのですが、これがつい20年前に起こっていた、ひょっとして、今も起こっているのかもしれないと思うとぞっとするものがあります。

映画は、ダイヤの密輸をするダニーが密輸に失敗して逮捕されるシーンになります。彼は色々とコネがあるようで、元傭兵としても重宝されていたようなのです。最初はどういう人間なのかよくわからないまま、彼がピンクダイヤを手に入れるべく、ソロモンを釈放させて後を付け回すという展開になります。主人公であるダニーがヒーローっぽくないので、子を思うソロモンの方に感情移入してしまうドラマ作りになっています。しかし、ドラマの展開に連れて、ダニーはもともとアフリカ生まれの白人であり、両親は殺されていることがわかってきます。彼は部外者でない、アフリカの当事者の一人だったのです。このあたりから、ドラマに重みが出てきまして、最終的に、彼はアフリカに生きる者として、行動を選択します。得体の知れない男がラストでヒーローになる結末はやや唐突でもあるのですが、ホロリとさせる趣向もあり、ストレートなヒーローでないところがディカプリオのキャラにうまくはまりました。

メインのドラマに並行して、ソロモンの息子が少年兵士にされていく様も描かれるのですが、これがリアルに不快でした。漁師や農民を蔑むように洗脳され、兵士は偉いのだと教え込まれ、度胸試しで人を殺させ、果ては麻薬で感性をマヒさせる。自我が未確立な子供であればあるほど、その洗脳プログラムにやすやすとはまってしまうのでしょう。そして、10歳かそこらの子供に機関銃を与え、虐殺の指揮までさせるというのは、まさに悪魔の所業です。しかし、そのリーダーに、自分は悪魔だ、だから地獄にいるんだと言わせるあたり、単に善悪で割り切ることが難しい現実が見えてくるのです。地獄の中での手段を選ばぬ弱肉強食の図式は、平和な日本の中では理解しにくいものだと気付かされます。

しかし、そのヘビーな題材だけで見せる映画ではありません。これは最初にも書いたようにアクション活劇としてもよくできていまして、中盤、街頭に突然反政府軍が現れて銃を乱射し、政府軍との銃撃戦となって、その中を主人公二人が逃げまわるシーンは、激しく動き回るキャメラの臨場感もあって、大変迫力ある見せ場になっていました。その他、クライマックスの爆撃シーンなど、娯楽映画としての見せ場もきっちりと押さえているのです。むしろ、まず娯楽映画として成立させた後で、問題提起を上乗せしているように見えるのが、すごいと思いました。

アメリカ映画の場合、シリアスなテーマを持った作品でも、まず娯楽映画としての面白さを作ってそこにさらにテーマを乗せるという作り方をしているものが結構ありまして、それこそが、映画を作り続けてきたハリウッドの底力を感じさせるパワーだと思うのです。この映画でも、冒険活劇としてしっかりとツボを押さえる一方で、メッセージや問題提起がことさら前面に出ることをあえて避けているようなのです。でも、そのおかげで、多くの観客がこの映画を娯楽映画として観て、最終的に、多くの人にメッセージが届くわけで、こういう作りのうまさは、アメリカ映画に一日の長があると思います。

主役二人の影に隠れた感もありますが、ジャーナリストを演じたジェニファー・コネリーが強さとしなやかさを見せて大変よかったと思います。彼女だからこそ、少ない出番の中で、恋愛感情を醸し出すのに成功できたのではないかしら。エドゥアルド・セラのキャメラが、アフリカの広大さと、リアルな暴力シーンの両方を、異なる絵の見せ方でめりはりをつけているのが印象的でした。

ここで描かれる虐殺や洗脳には、想像を絶するものがあるのですが、これらを「信じられない」で片付けてはいけないと思います。実際に、人間はそういうことをする、同じ人間なんだから、自分たちだって、その可能性を持っていることを認識して、学習すべきだと思います。また、ダイヤモンドそのものが悪いという話でもないことも記憶に留めておくべきです。

「ナイト・ミュージアム」のそつのなさは点数高いかも

新作の「ナイト・ミュージアム」を川崎チネチッタ4で観て来ました。最近、かながわニュースをめっきり観なくなってしまいました。ニュース映画も廃れる運命にあるのでしょうか。速報性はなくても、これはこれで、神奈川のトピックスとして有効な情報だったんですけど。

離婚した後、職も住所も落ち着かないラリー(ベン・スティラー)は息子からの信頼もなかなか得られません。そこで、何でもいいから職にありつきたいと職安に行って紹介されたのが、博物館の夜警の仕事でした。ところが、その博物館、夜になると展示物が命を持って動き出すのです。蝋人形も銅像も、動物も、ジオラマのミニチュア人形まで。どうやら、ファラオの石板に秘密があるみたいなんですが、博物館の中は、恐竜の骨が走り回るし、南北戦争やってるし、大混乱状態。これが毎晩なんですが、ラリーは果たしてこの仕事を続けられるでしょうか。

「ズーランダー」「ドッジボール」のベン・スティラーが主演し、「ジャスト・マリッジ」「ピンクパンサー」のショーン・レヴィが監督した、ファミリー向けコメディです。「博物館にあるものが夜になると動き出す」という設定は、昔ならアニメでしか実現できなかったものが、今はCGを駆使することで実写版で映像化できるのですから、すごい時代になったものです。今回のベン・スティラーはブチ切れキャラではなく、定職につけないけど、父親としてはマトモな男になっており、レヴィの演出もドタバタよりは、主人公を中心に人情話的な味付けをしています。

とは言っても、映画の見所は何と言っても、博物館の展示物が動き出すところ、T-レックスが骨のまんまで走り回るシーンを始め、フン族やらネアンデルタール人やらも動き出し、ライオンやダチョウやシマウマも、さらにはミニチュアのジオラマの連中も集団で動き回るのですから、まさに壮観、映画もここまで来たんだなあって思う一方、CGなら時間と金があれば何でもできるんでしょ?みたいな気分になってくるのも事実です。ですから、博物館のものが動くだけでは、「ほおー」とは思っても感心するところまで行かなくなってしまいました。でも、この映画は見せ方に工夫があって、T-レックスに飼い犬みたいな動きをさせたり、モアイ像にフーセンガム噛ませたり、ジオラマの中で主人公をガリバーみたいに見せたり、見て楽しい趣向を色々と盛り込んで飽きさせません。

でも、趣向だけの映画だと物語として弱いので、この映画では、主人公が父親として覚醒する物語と、実体化する展示物を守ろうというストーリーを柱に据えて、そこに結構な盛り上がるのです。特に脇役の、カウボーイ、オクタビアヌス、ルーズベルトといった面々がいいところを見せるあたりが見所で、オーウェン・ウィルソン、スティーブ・クーガンにロビン・ウィリアムスという面々が達者なところを見せてくれます。主人公が父親として息子にいいところ見せようとするあたりは、まあ無難にまとめているというところでしょうか、せっかく主人公の父親的なポジションにルーズベストを持ってきているのに、そういう設定を生かしきれなかったのは残念でした。

それでも、視覚効果を見せたいがために尺数が長くなることもなく、そもそもなぜこういう事態になったかを説明も決着もつけない脚本の弱さも気にさせない娯楽職人的な演出力は、評価されてよいと思います。そつがないといえば、そういうことになっちゃうのですが、アクションやホラーに比べて、コメディをそつなくまとめるってのは、かなりハードルが高いと思うのですよ。

ギレルモ・ナヴァロのキャメラは博物館内を明るく細かく見せることで、画面全体をにぎやかな雰囲気にまとめていますし、アラン・シルベストリの音楽も定番ながら、職人的なうまさで映画を支えています。

また、脇にディック・バン・ダイク、ミッキー・ルーニーという超ベテランを配して、彼らに意外な役どころを演じさせているのは、趣向として面白かったです。エンドクレジットにも登場するのが何ともおかしくて、彼らのの部分で点数稼いでいる感はあります。また、ルーズベルトの片思いの相手を演じたミズオ・ベックが大変知的に美形だったのが印象的でした。

「ボンボン」は説明しにくい不思議な味わいの一品

新作の「ボンボン」を109シネマズ川崎8で観てきました。子供連れが見受けられたのですが、小学生以下に字幕の人間ドラマを見せたってわかりっこなくて、何だかぐずってましたね。私の席の遠くだったのですが、近くでやられたらホントにかなわない。下調べなしで、小さい子供を映画館に連れて来るなと言いたいです。犬がメインで「ボンボン」なんて可愛らしいタイトルつけた配給会社にも八つ当たりしたくなります。さらに、腹が立ったのが、600円もするプログラムの6ページも、映画に全然関係ない犬ッコロの写真に使うな! そんなのは愛犬雑誌でやれ! 映画を鑑賞した人のためのプログラムなのに。ついでにも一つ、どこが「わらしべ長者」やねん。反省せいよ、シネカノン。

フアン(フアン・ビジェガス)は、20年勤めたガソリンスタンドが取り壊しになって、目下失業中。手作りのナイフを売ろうとしてもうまくいかず、娘の家に居候してるのですが、なんだか気まずい日々です。ある日、故障車を修理してあげたら、持ち主の家に招待され、血統書付の犬をもらってしまいます。ドゴ種のでっかい白い犬は、娘の家では当然ブーイング。しかし、その犬ボンボンが猟犬としてなかなかのものらしくて、トレーナーのワルテル(ワルテル・レナード)を紹介してもらい、フアンとワルテルはドッグショーにボンボンを出品して見事入賞します。早速、種付けの依頼が来るのですが、発情した牝犬を前にしても、その気にならないボンボン。どうやら、あっちの方がダメな犬だとわかって、ボンボンはワルテルが引き取ります。でも、何だか気になるフアンはボンボンに会いにワルテルを訪ねるのですが...。

アルゼンチン映画というのがまず珍しいです。舞台はパタゴニアというアルゼンチンでも南部にあたる地方で、映画は殺風景な砂漠ばかりで展開していきますが、ラテン系の熱い血が騒ぐという映画ではありません。説明するのが難しいのですが、物語はあるんだけどないような、何となく展開していくって感じで、ゆったりとした自然と時間の中に身を置いてるような気分になる映画なんです。

失業して居場所のないフアンという初老の男が何となく成り行きで犬もらっちゃって、トレーナーついちゃって、ドッグショー出ちゃって,,,,という感じで物語は展開します。主人公なのに、全然主体性がなくって、でも人のよさそうな男、実際に困ってる人には仕事も譲っちゃうし、犬も飼い主が面倒みられそうもないから、くれるってのを断れない。いわゆる、さりげない善意が身に染み付いたような人で、それで、今まで世間を渡ってきたような感じなんです。この、染み付いた善意が悪意や欲望に変わるとドラマチックな展開になるんですが、一切、そういうこともなく、誘惑との葛藤もないまま物語は進み、ささやかな、でもありがちな奇跡をちょっとだけ見せて映画は終わってしまいます。

そこから何かを読み取ろうするのは、難しいというか、そこにあるものが全てと思うしかない映画です。人のよさそうなフアンおじさんが、犬と仲良くなる映画なのか? 確かにそういうシーンあります。別れと再会がある映画なのか? ま、言われてみればありますわな。でも、その見せ方はドラマとしての盛り上げと言ったものとは無縁で、単にそこに転がってるエピソードでしかなく、それをつなげて見せましたという構成なんです。でも、最後に、フアンおじさんが、自分を犬のブリーダーだと自己紹介するあたりで、「おや」と思わせます。それまで、周囲に流されるだけの善人であったフアンおじさんが、自分を初めて主張するのですよ、それも、自分とボンボンがコンビだという宣言も含めて、ちょっとだけフアンおじさんの中に自信が見えてくるのです。でも、大見得切るわけじゃなくて、これまた善意で乗せたヒッチハイクの女の子に聞かれて答えるだけなんですが、ボンボンをめぐる出来事が、フアンおじさんにちょっとだけ夢と希望をくれたらしいというところで映画は終わります。

ドラマとしては、あまりにも淡々として、揺れがないから、盛り上がりもないんですが、それでも共同脚本も担当しているカルロス・ソリンの演出はムダがなく、緻密というか計算されつくされたという印象すらあたえます。主役のフアンを演じたのは素人だそうですが、その持ち味だけで、ドラマを支えてしまうのは、演出力の賜物と思います。一方のボンボンは一見無愛想なでかい犬なんですが、そこはかとないペーソスをたたえているように見えるのですから、これは見せ方、即ち演出の妙なのでしょう。

涙も感動もないのに、ちょっとだけ夢と希望が味わえる映画ってのはそうはないですから、オススメ度は高いのですが、どこがいいのかって、なかなか説明しにくい映画ではあります。泣きたい人、笑いたい人など、目的が明確な人にはオススメしません。ただ、ちょっとだけ日常から離れて、地球の裏側の片田舎で起こったささやかな事件に好奇心を持って下さる方にオススメする一本です。

そんなつかみどころのない映画の中で、ドッグショーとそれに付随する色々な商売という部分だけが妙にリアルに印象に残りました。ドッグショーで入賞すると、種付け業界とかドッグフード業界、首輪業界など大きなお金が動くビジネスチャンスになるらしいのです。そこだけ、ちょっとだけ生臭い夢のお話なのでした。

シリーズ中一番ドラマチックな音楽になってる「モスラ対ゴジラ」


怪獣映画が好きで、子供の頃は東宝チャンピオンまつりにはよく通っていました。子供心にも、怪獣映画の音楽はすごいという認識はありまして、「キングコング対ゴジラ」のタイトルとか、「怪獣大戦争」のマーチなんてのが記憶に残っていまして、その後、いい大人になって、それらの曲をすべてCDで聴き返せるなんて、夢にも思っていませんでした。いい時代になったものです。

その中で、特にインパクトが強かったのが、この「モスラ対ゴジラ」でして、この時、初めて音楽担当者の伊福部昭という名前も覚えました。オープニング、嵐の海にタイトルが飛び出してくるというのが、まずインパクトありまして、そのバックに流れるのはいわゆる「ゴジラの恐怖」のテーマなんですが、ゴジラシリーズの中で、この映画の「ゴジラの恐怖」は編曲が違うようで、盛り上がりがダントツなんです。そして、タイトルの後半にモスラのテーマがかぶさってくるというもので、怪獣映画の音楽としてはこの映画が最高なのではないかと思っています。

その後もゴジラを描写する音楽で聞かせどころが多く、「ゴジラの恐怖」の和音の盛り上がりがこの映画特有のもので、他の映画になりドラマチックな盛り上がりを見せるのですよ。特に、放電作戦での金網をかぶせるシーンや、浜風ホテル倒壊シーンに流れるゴジラのテーマは聞いてて身震いがするほどの迫力があります。この音だけは、他の映画に使いまわされていないってのも、点数高いです。

さらに、成虫モスラとゴジラの対決シーンでは、両者のテーマを交互に重ねて、闘いを盛り上げており、8分以上に及ぶ、その曲は、演奏する方も大変だったろうと思うほど、フルに鳴りっぱなしの音になっています。ゴジラ映画で、ゴジラを描写する音楽をここまでドラマチックに盛り上げたのは、後にも先にもこれ一本ということで、映画の出来栄えは置いといても、この映画の音楽は記憶するに十分値すると思います。

「オルカ」のテーマは名曲、特に「追想」が泣かせる


海を舞台にした映画にはいい音楽が多いのですが、この「オルカ」は、動物の復讐をテーマにした結構暗いお話なのにもかかわらず、映像と音楽の美しさによって、1ランク上の作品になっています。

低音楽器による美しいメロディが胸を打つメインタイトルが素晴らしいです。その後、シャチと人間の闘いの音楽は、不協和音と衝撃音のみで構成された現代音楽風の音になります。サスペンスフルでありながら、重量感のある音作りで、編曲のうまさも感じさせました。そして、闘いの後、妻を失ったシャチがその亡骸を運ぶシーンのバックに、メインテーマを女性の声で奏でる曲が流れます。アルバムでは「追想」というタイトルがついていましたが、この曲の美しさはモリコーネの作品の中でもトップクラスではないのかしら。短い曲ながらそのインパクトはすごいものがありました。

そして、また、闘いの曲の後、フィナーレで、メインテーマが編曲を変えて高らかに演奏されます。サビの部分にパイプオルガンのようなアルペジオが入って、大団円にふさわしいスケールの大きな演奏になっています。ただ、映画公開時のサントラLPもこのCDも音質がこもっているのが残念で、どっかのオケで再録音版を作ってくれないかと思います。また、サントラLPにはモノラルでエンディングに流れる「We Are One」というボーカル曲も入っていました。これは、メインテーマにそのまま歌詞をつけたものですが、CDには未収録でした。

この曲は、最初に聞いたのは、NHK-FMの関光夫氏の土曜日の夕方6時から映画音楽を中心にした番組(タイトル失念)でした。よく、その番組で新作の映画音楽を録音(当時はエアチェック言ってました)していたのですが、そこで「追想」が紹介され、その美しさに録音したカセットを何度も聴き返していた記憶があります。

「イルカの日」の美しい旋律に感動


フランス映画音楽の作曲家のトップクラスにあるジョルジュ・ドルリューですが、アメリカ映画にもその美しい旋律をたくさん残していますが、「イルカの日」もそんな一本です。映画は、イルカが人間の言葉でコミュニケーションするというファンタジー風SFに、大統領暗殺という政治サスペンスを絡めた映画に、ドルリュー作曲と指揮を担当し、美しいテーマとスリリングなスコアの両方を提供しています。

アルバムの1曲目の「イルカの日」のテーマは、美しいメロディとストリングスが大変印象的でして、海のなかのゆったりとしたイメージの名曲です。そして、つがいのイルカ、ファとビィが再会するシーンはストリングスが躍動する元気の出るテーマが流れます。「アメリカの夜」で同じテーマが使われているのですが、映像のイメージはかなり異なります。アルバムでは、その後、不協和音を主体にした重厚なストリングスが続き、スリラー部分をサポートしています。アルバムの半分くらいがこの類のサスペンス音楽になっていまして、ドルリューのダークサイドの部分もたっぷり堪能できる構成になっています。

アルバムの中盤の「ノクターン」はテーマ曲を木管主体で演奏したもので、こっちの方がよく知られていて、テレビの再現ドラマなどのドラマチックなシーンによく使われていました。「追跡」では、サスペンス主体ながら、後半ヒロイックな音が入って盛り上がりを見せます。また、主人公の博士が研究所のある島へ帰るシーンに流れる「島へ帰る」がドルリューらしいしっとりした音でストリングスに木管が静かにメロディを奏でます。このメロディがクライマックスの「フェアウェル」で泣かせの音楽として目一杯鳴らして、博士とイルカの別れのシーンを盛り上げています。

まともに洋画を初めて観たのがこの映画で、映画としても大好きななんですが、それ以上に音楽が素晴らしく、映画音楽を趣味にするきっかけになった音楽です。最初は、EP盤(ドーナツ盤)を買ったのですが、それは、「テーマ」と「ノクターン」のカップリングでした。当時は、ドーナツ盤を聴いて感動していたのですから、今とは音楽の聴き方、楽しみ方が違ってたのかもしれません。

音楽を知ってるに越したことはない「敬愛なるベートーヴェン」

昨年公開された「敬愛なるベートヴェン」をシネマジャックで観て来ました。2本立て上映なんですが、同時上映が既に観た映画だったりすると、損した気分になるのは貧乏性なのか。

ベートーヴェン(エド・ハリス)は新しい交響曲の写譜師が病気のため、別の人間を手配したのですが、やってきたのは23歳の若い女性アンナ(ダイアン・クルーガー)でした。彼女は、彼の譜面にわざと手を加えて清書して見せます。これがきっかけで彼女は正式にベートヴェンの助手として第九の写譜をすることになります。そして、第九の初演当日、ベートーヴェンは自分が指揮をすることになっていたのですが、ここにきて尻込みしてしまいます。そこで、アンナが舞台から、彼に指示を出すことで、演奏は大成功を収めます。そして、ベートーヴェンは、彼女がかけがえのない存在であることに気付くのですが....。

ベートヴェンの晩年を支えた若い女性作曲家がいたというお話で、史実ではないらしいのですが、彼女の存在以外は、事実に基づいて作られたお話だそうです。オープニングは第九の初演を控えた写譜師のもとをアンナが訪れることから始まり、ベートヴェンとの出会いとなります。ここで描かれるマエストロは自信家で毒舌家、そして音楽への集中度はすごいものがあり、そして孤独です。この頃、彼は世間から、大作曲家として尊敬を集めていたようで、アンナも男としてはいけすかないと思いつつ、その音楽への情熱には大いに敬意を表していたのです。

この映画はフィクション部分であるアンナを主役として描いていまして、彼女が修道院に住んでいて、婚約者もいるといった人物的肉付けがされています。そこから、当時の女性は男性より1ランク下と見なされていることや、当時の科学技術の黎明期であることがわかるようになっています。しかし、そういう設定が、アンナとマエストロの関係の前に全部すっとんでしまうという展開はちょっとビックリでした。アンナはマエストロに最後までついていくことになるのです。偏屈で自信家で無作法な男であるベートーヴェンが、一方で最高のマエストロであるということを描いているのですが、私ならこういうタイプには近寄りたくないと思います。まあ、アンナとマエストロの関係は、色恋沙汰抜きの相思相愛という、凡人には理解しにくい関係なので、まあ、そんなものなんだねえと感心するしかありません。

私には、音楽的素養がまるでないので、場面場面にかかる曲の意味はさっぱりでしたが、プログラムの記事を読むと相当に意図的な音付けがされているようで、ベートーヴェンにくわしくない人はプログラムの音楽解説を読んだほうがいいと思います。第九の歓喜の歌くらいは知ってるのですが、この初演シーンは曲の編集も巧みで、観ていて気分が高揚してくるものがありました。やはり名曲の持つパワーは大したものだと感心してしまいます。その後、発表される大フーガが聴衆から酷評されるのですが、どこがそんなにダメなのかは素人の私にはちんぷんかんぷんでした。音楽的素養があることで、余計目の楽しめる映画なのでしょう。

エド・ハリスが、ベートヴェンそっくりのメイクで登場した時はびっくりでした。エド・ハリスのようなベートーヴェンという感じなんですもの。一方のダイアン・クルーガーは「トロイ」や「ホワイト・ライズ」のような大味なキャラではない、繊細なヒロインを演じていて大変魅力的でした。アニエスカ・ホランドの演出は、ドラマ的にはエピソードを並べただけという印象でしたが、音楽との相乗効果の部分はこちらが理解できないこともあって、評価するのが難しいところです。ただ、架空のヒロインに相当の重きを置いている演出は、ドラマのすわりを悪くしてしまったような気がしました。彼女のフィクションに合わせてベートヴェンも行動しているように見えてしまうのですよ。

でも、これで、CD屋(多分、NAXOSのコーナー)で、何かベートーヴェンの曲を聴いてみようかなというきっかけになるとすれば、観るご利益がある一本だと思う次第です。

「プロジェクトBB」の面白さは定番の分、今風でないのかも

また、新作の「プロジェクトBB」をTOHO川崎シネマ3で観て来ました。入場時にジャッキーのサイン入りプロマイドを配ってまして、今時プロマイドかよって、ちょっとレトロ気分になっちゃいました。それに50過ぎのオッサンのプロマイド配るってどうなのってツッコミもあるし。また、映画の冒頭にUIPとユニバーサルのロゴが出まして、これはアメリカ資本入ってるのかしら。

金庫破りのプロ、サンダル(ジャッキー・チェン)とフリーパス(ルイス・クー)のコンビは大家(マイケル・ホイ)の手引きで仕事を重ねても、博打と女でなかなか金が身につきません。一方、老後の蓄えガッチリだった筈の大家が全財産を空き巣に入られてパー。金に困った大家が大口の仕事に乗ったはいいのですが、これが何と赤ん坊の誘拐。しかし赤ん坊を依頼人に届ける途中でスピード違反の検問に引っかかってしまい、逃げ損ねた大家は警察につかまり、彼が出てくるまで、二人で赤ん坊の面倒を見る羽目になってしまいます。育児教室にも通って、何とか頑張る二人、しかし、赤ん坊を付け狙う男たちがついに彼らを見つけ出してしまうのでした。

ジャッキー・チェンは最近はアメリカ映画での出演が多いのですが、彼のアクションを十分に見せてくれない作品ばかりで、「神話 The Myth」もファンタジー色が濃い内容でしたので、久々の香港映画主演には期待するところありました。監督のベニー・チャンは「香港国際警察 NEW POLICE STORY」で、ハードなアクション、シリアスなドラマを盛り上げていた人です。今回の、悪党が赤ん坊を預かる羽目になって右往左往するという設定は、過去に何度も映画化されていますし、日本の時代劇でもよく見るパターンなんですが、今回もその定番をドラマの中心にして、アクションコメディを手堅くまとめています。

ストーリーとしては赤ん坊を中心に動いているのですが、ジャッキーと監督による脚本はよく言えば従来の香港映画風、平たく言えば行き当たりばったりで、登場人物も印象に残るキャラが多い割にはドラマに絡んでこないというのが、何だかもったいない。フリーパスの奥さんを演じるツィンズのシャーリーン・チョイがずっとメソメソしてるだけの役柄とか、すんごくかわいいカオ・ユェンユェンがドラマの本筋とは一切絡まないなど、特に女性陣の扱いがよくないような。

でも、赤ん坊の登場シーンは大変丁寧に撮影していて、また、かわいいのですよ、これが。主人公の二人がすっかりこの子にまいってしまうのも納得できるものがありました。ただ、この赤ん坊をめぐる誘拐ストーリーがちょっとわかりにくいところもあり、また、主人公も、最初は誘拐犯ということもあって、善悪のわかりにくい展開になってしまいました。

この映画の見所は何と言ってもジャッキーのアクションがたっぷり見られるというところでしょう。アクロバティックなアクションもたっぷりですし、アメリカ映画ではあまり見せない格闘シーンも今回は十分に盛り込んであり、特に狭い場所でのアクションに色々な工夫がこらされていました。中盤のカーチェイスシーンも迫力満点で、ラストの車から逃げ出すシーンは「おおっ」と思わせるものがありました。また、ロングショットからジャッキーの顔がわかるまでずっと寄ってみせるなど、本人がやってることを見せる手間を惜しんでいないところもよかったと思います。

そして、クライマックスでは赤ん坊の命が危なくなって、ここで思いっきりベタな泣きの演出をしているのが意外でした。自分も結構ホロリとさせられてしまったのですが、赤ん坊のために悪戦苦闘するのを、敵方の連中まで頑張れって応援するシーンはお約束でも泣けるシーンになっていました。その後につくオチも楽しく、最後までエンタテイメントしている点は評価したいと思います。ただ、この映画2時間6分とかなり長いのですよ。この内容なら、1時間半でさくさくっとまとめてくれたら、もっと点数高くなりました。あれもこれも盛り込みすぎた結果なのでしょうけど、もっと刈り込めるエピソードはあったと思います。アクションシーンの尺数そのままに1時間半の映画だったら、もっと贅沢な印象の作品に仕上がっただろうと思うだけに残念な気がします。

役者は見たような顔がたくさん出てくるのですが、名前を知らないのが残念でした。それでも、ユン・ピョオがちょっとだけでもアクションを見せてくれたのがうれしかったです。シネスコ画面をアクションを過不足なく納めたアンソニー・プーンの撮影が見事でした。狭い場所でのアクションでもわかりやすい絵を切り取って巧さを感じさせました。

「オール・ザ・キングス・メン」はボリュームありすぎて全部食べきれず

新作の「オール・ザ・キングス・メン」をTOHO川崎シネマ4で観て来ました。このシネコンは劇場サイズにも大きな差がなくて、全体において中庸というか、特徴がないんですが、よく言えば、安心して楽しめる映画館になっています。でも、マイレージよりも、割引スタンプとかクレジットカード割引といった単純なサービスにしてくれないものかしら。

1949年のルイジアナ州、市の不正を弾劾する出納官ウィルバー(ショーン・ペン)は、ある事件をきっかけに脚光を浴びるようになり、州知事選に立候補することになります。貧困層の票をつかんだ彼は見事に当選、彼の記事を書いて職を追われた記者ジャック(ジュード・ロウ)はウィリーのもとで働くようになります。ウィリーの政策は、大口納税者である石油、電力会社から多くの税金を取り立てて、それを道路、学校などの福祉にまわそうというもので、富裕層を敵にまわすものでした。そんな状況下で、段々彼の周囲で汚職やスキャンダルが騒がれ、判事(アンソニー・ホプキンス)は彼の弾劾をすべきだと声明を出します。ウィリーは、ジャックにとっては親も同然であった判事のスキャンダルを探すように命令を下します。一方で、起死回生の施策として、大病院を建設し、ジャックの親友で元州知事の息子アダム(マーク・ラファロ)を担ぎ出そうとします。しかし、そこから悲劇の幕は切って落とされるのでした。

ロバート・ベン・ウォーレンの原作を、脚本家として有名なスティーブン・ザイリアンが製作・脚色・監督を務めた人間群像ドラマです。ショーン・ペンが理想を持ちながら、そのために手を汚すことも辞さないウィルバー・スタークという男を精力的に熱演していまして、一方で、富裕層出身で、当事者になることから逃げている男ジャックをジュード・ロウが抑えた演技を見せ、このジャックを中心にドラマは展開していきます。

かなりのボリュームのある物語を刈り込んだという印象がありまして、主演二人以外にも、パトリシア・クラークソンの広報官、ジェームズ・ガンドルフィーニ扮する副知事、ケイト・ウィンスレットが演じるジャックの元恋人でアダムの妹アンといった面々がドラマの中でカギとなる人物になっており、各々の登場人物の過去や思惑がドラマと複雑に絡み合って、見応えのあるものになっていますが、2時間8分という時間は、描ききるのに十分とは言えず、後半がややあわただしくなってしまったのが残念でした。特に、映画の重要なキーとなる「善から生まれる悪」「悪から生まれる善」の体現者であるアダムはもっと丁寧に描かれてよかったように思います。そんな中で、ウィリーの用心棒を演じたジャッキー・アール・ヘイリーが妙に印象に残ってしまったのは、作者が彼に何か思い入れがあったのかもしれません。また、アンソニー・ホプキンスが出番は多くないのにものすごい存在感でした。

ウィリーという男は、もともと選挙の票を分散させるべく対立候補側から騙されて出馬した、いわゆる当て馬だったのですが、それを知った彼の捨て身の演説が多くの貧困層の票を集めるのに成功するのです。そして、当選してから、彼はその言葉を現実のものにしようとするのですが、企業、富裕層と結びついた議会とは軋轢を生じさせてしまいます。それでも強引に政策を押し進めていったことから、彼は議会から弾劾をされそうになるんですが、実際にウィリーがどんなことをやってのけたのかを描いていません。それは既成事実として物語は進んでいくのですが、この時点で、善と悪は相互に相手を生み出しながら、政治をまわしていることが段々と見えてきます。

原題でもある「オール・ザ・キングス・メン」はマザー・グースの唄「王様の家来が集まってもハンプティは元に戻らない」という一節からの引用だそうです。このドラマにあてはめてみると色々な解釈ができまして、「一度動き出した権力は善なるものであっても悪を生み出すことを止められない」ということもできますし、「権力者の家来が寄ってたかって全てを無にしてしまう」といううがった見方もできます。ラストシーンで二人の血が流れて交わる象徴的なシーンも、善と悪の重なり合う現実ともとれますし、善に見えるものも悪に見えるものも根っこは同じだというふうにもとれます。色々と解釈の余地があるように思えたのですが、これは私の理解力不足からかもしれないです。何しろ、映画は個々のエピソード散文的につないでいくというスタイルのため、全体の大きな流れを読みとりにくいところがありまして、この映画の言わんとするところを知ろうとしたら原作を読んだほうがいいのかもしれません。

そのなかで、ジャックのつかみどころのないキャラクターが印象的でした。最初は新聞記者という中立的な立場で登場するのですが、いつしか、ウィリーのキャラにひかれていきます。でも、彼とはどこか相容れない部分を持ち続け、一方では彼にひきずられて多くのものを失ってしまう羽目になります。傍観者からなかなか当事者に踏み出せない、一番物事を成すに不向きなキャラクターは、私には他人事でないリアリティがあり、親近感はあっても、共感はできませんでした。(自分が、ジュード・ロウ並みの二枚目で、ケイト・ウィンスレットみたいな女性といいとこまでいけたらいいなあってのは別の話として。)

パヴェル・エデルマンの撮影は、全体の色彩を抑え目にしているようでしたが、クライマックスをモノクロにする意味は何だかよくわかりませんでした。ジェームズ・ホーナーの音楽は、どっかで聴いたことあるなあという毎度のそれなんですが、でも使い方は絶妙でして、ドラマを盛り上げる効果は見事でした。

「輝きの海」はジョン・バリー全開でベストマッチ


ジョン・バリーは「野生のエルザ」「007シリーズ」「ある日とこかで」など有名な映画音楽の名匠です。スローテンポの曲の節回しやホーンセクションの使い方に特徴がありまして、ちょっと聴いただけでバリーだとわかる、いわゆるバリー節とでもいうべき音を持っています。

「輝きの海」でも、そのバリー節が全開でして、メインタイトルを10秒聴いただけで、バリーの作品だとわかる音になっています。でも、ただのワンパターンになっていないところが名匠の名匠たる所以です。謎の男が海から流れ着いて始まる物語は、ラストで詰めの甘さを感じさせるものがあるんですが、この映画のおかげで、海にまつわる一つの寓話のような趣に仕上がっています。

メインテーマは、広大な海を思わせるどっしりとした弦のうねりに、子守唄のようなメロディが加わるというもので、雄大な、でもちょっと切なげな音が後のドラマの展開を予感させます。その後も海辺の村で展開するドラマを音楽はゆったりとした弦をメインに的確に描写していきます。子守唄のようなメロディもピアノ、フルートで繰り返して演奏されてドラマを支えます。全体的に暖かく包み込むような音楽が心地よい音楽が多いのですが、ミステリー的展開の部分もあり、そこは007を思わせる音もありますが、ドラマの重みとロマンチシズムを損なわないあたりはさすがにベテランのうまさです。

バリー作品を知る人にとっては、定番中の定番の音になっていると言えますが、それが、この海を舞台にしたこの作品に見事にマッチしており、重厚な音はヒロインの芯の強さを表現しています。

アルバムは、イギリス室内管弦楽団をバリー自身が指揮していまして、演奏のよさもあって、聴き応えは十分です。

いろいろ痛い「麦の穂をゆらす風」

今回は去年封切られた「麦の穂をゆらす風」を横浜のシネマジャックで観てきました。封切時にミニシアターで見逃した作品を上映してくれるのはありがたい限りです。映画の日ということもあってそこそこお客さんが入っているのもよかったかな、と。

英国軍が駐屯しているアイルランドでは、アイルランド義勇軍が英国軍に抵抗する一方、英国軍によって若者が理不尽に殺されていました。そんな実状を見た若い医師ダミアン(キリアン・マーフィ)は予定されていたロンドン行きを断念して、義勇軍に身を投じます。英国軍から武器を奪ったり彼らを射殺したり、しかし、ある時、地元の地主が使用人の一人を英国軍に密告した結果、ダミアンの兄テディ(ポードレック・ディレーニー)は拷問され、仲間の3人は逃げられずに処刑されてしまいます。そして、ダミアンは地主と密告を強要された仲間を処刑します。その時、彼は戻れない一線を越えてしまったのです。そして、英国との間で妥協ともとれる条約が結ばれたとき、今度はアイルランドの中で対立が起こり、かつての同士が殺しあう事態にまでなってしまうのです。

アイルランド紛争というのにくわしくはないのですが、古くは「ブレイブ・ハート」から「マイケル・コリンズ」「パトリオット・ゲーム」など映画になっています。今回は、ケン・ローチ監督が、1920年のアイルランドを舞台にして政治の表舞台に立たない末端の市民、兵士たちの姿を描いていまして、この作品はカンヌ映画祭でパルムドールを取っています。

オープニングからして、主人公たちが自分たちの村で、突然やってきた英国兵によって尋問を暴力を受けた挙句、名前を答えなかった17歳の若者は英国兵によって惨殺されてしまいます。あまりにも理不尽な暴力によって、アイルランド人が殺されていく。それに憤った主人公は、アイルランド義勇軍に入って、自由を勝ち取ろうと思い立ち、実際に行動を起こします。英国兵から武器を奪い、士官たちを射殺します。英国軍は報復に出て、捕らえられたダミアンの兄テディは爪をはがされる拷問を受けますがそれでも彼は屈しません。

ここまでは、アイルランド義勇軍と英国軍との対立という明確な構図でドラマが進んでくるのですが、この後、密告者を探し出して処刑する段になって、ダミアンの中に疑問と葛藤が渦巻いてくるのです。上からの命令だから、戦争だから、密告者である子供のような青年を処刑しなければならない。彼は、自分のやろうとしていることが、それだけの代償に値するものなのか、わからなくなってしまいます。そして、現実を受け入れることで少しでも理想に近づけようという兄と対立するようになります。テディは政治というものへの理解から、例えイギリスの一自治領になることに妥協しても、自治権を得るほうをとります。一方で、デミアンは、それでは対立する相手が見えにくくなっただけで、貧しいものたちが平和に暮らせる平等な社会にならないと言って、条約に対して拒否の意思表示をします。

兄と弟の対立はお互いに相手の立場を理解できないので、折り合うことができません。かと言って、どちらか一方が正しくて、どちらかが間違っていると言い切れるものでもないのです。映画は、兄の視点、弟の視点をきちんと見せることで、その絶望的な結末を不可避なものとして描いていきます。英国軍を相手に闘っているときは、兄弟の絆は固く結ばれていました。しかし、戦闘のためには資金が必要で、そのためには強欲な金貸しにも頼らざるを得なくなるあたりから、二人に間に溝ができていくのです。デミアンはもともと医師であり、兵士になるつもりはなかったのですが、義憤で動いた彼には、義憤ゆえに、政治的な駆け引きは受け入れがたく、身近な貧しい人々を救えない決着は納得できないのです。デミアンは身近な人間のために戦争に身を投じたのですが、その戦争を動かしてる人間は別のことに重きを置いていたという構図は、大東亜戦争末期の特攻を思わせるものがありました。

また、この映画には色々な印象に残るエピソードが多いのですが、特に印象に残ったのは、比較的まともそうな英国兵がデミアンを尋問するシーンでした。デミアンは何度聞かれても自分の名前を言いません。最初は紳士的に質問していた兵士もついには頭にきて「あの戦いの時は酷い目に遭ったんだ」と切れます。戦争には二つの顔、駒を動かす政治という顔と、駒となって動く戦闘という顔があるということを示して印象的でした。そして、駒と駒が殺しあっているのとは、別の利害、別の価値観で政治が動いていることを感じさせるのです。

対立した兄弟の関係は修復されることなく、最悪の結末を迎えます。テディが、その知らせをデミアンの恋人に届けるシーンで映画は終わるのですが、こんなことが幾度となく繰り返されるのだというメッセージが伝わってきます。特にこの映画では、女性も戦闘に巻き込まれ直接暴力を受ける当事者になっています。自分の住んでいる土地を侵略されるとはこういうことなのだと改めて知りました。日本は本土侵略を受けていませんが、英国軍と同様の立場で、アジアの中に攻め入っていることを忘れてはいけないと思います。

「ブラック・ブック」は戦争に翻弄される人々の善悪両面を描いて見応えあり

また、新作で「ブラック・ブック」を川崎チネチッタ3で観てきました。3にしては結構なお客さんの入りで、劇場設定間違ってるんじゃないのって感じでした。シネスコ画面になるとき、縦に画面が縮まるだけじゃなく、若干横にも画面が広がるのはちょっとうれしい発見でした。

第二次大戦中のオランダ、比較的裕福なユダヤ人の娘ラヘル(カリス・ファン・ハウテン)は解放地区へ送ってもらえるということで、両親弟や他のユダヤ人と川を下る船に乗ります。しかし、その船はドイツ軍の待ち伏せに遭い、船に乗っていた人間は逃げ延びたラヘル以外みんな殺され、持っていた金品はドイツ軍に奪われてしまいます。ラヘルはレジスタンスのカイパースに助けられ、彼の元でレジスタンスに協力することになります。列車の中で偶然ドイツの情報将校ムンツェ(セバスチャン・コッホ)と知り合い、逮捕されたカイパースの息子たちのために彼に接近します。そして、ラヘルはいつしかムンツェを愛するようになっていたのです。そんな中、暴走したレジスタンスのおかげで囚人40人が報復処刑されることになり、救出作戦を実行することになるのですが、レジスタンスの中に裏切り者がいたのです。

「氷の微笑」「スターシップ・トゥルーパーズ」など毒のある娯楽映画で有名なポール・バーホーベン監督が、祖国オランダで撮影した戦争を題材にしたドラマです。ドイツ軍によって、占領状態にあるオランダを舞台に、潜伏するユダヤ人やレジスタンス、それを助ける人間、利用する人間のドラマを波乱万丈のドラマの中に描き、ドロドロした人間模様をパワフルに描きました。

オープニング、隠れ家がドイツ軍の爆撃で居場所を失ったヒロインが、裕福なユダヤ人たちと一緒に船で逃げようとするのですが、ドイツ軍艇が機関銃掃射で一瞬のうちに皆殺しにするのがショッキングな見せ場になっています。ドイツ軍はどうやら待ち伏せしていたようで、ユダヤ人が身に着けていた現金やら宝石やらを戦利品として持ち帰ります。この映画では、これはドイツ軍の中で私欲に走った将校が現地オランダ人と組んでやった不法行為として描かれています。一方で、戦争による無駄な流血を極力避けようとする人間がレジスタンスにもドイツ軍にもいたという描き方になっていまして、脚本の視点は、ドイツ人、オランダ人、ユダヤ人を単純にカテゴライズしないで、清濁併せ呑む人間という描き方をしています。しかし、監督がバーホーベンだからでしょうか、人間の悪意の部分を生き生きと盛り上げているところが面白いと思いました。

この先はストーリーの結末に触れていますのでご注意ください。


しかし、ヒロインは善悪様々な人間の思惑に翻弄される被害者のようである一方、レジスタンスから見て仇であるドイツ軍情報将校に本気で惚れてしまうという、女性としては素直なんだけど、この状況下では本気かよ的な展開になってきます。とはいえ、このムンツェという男はドイツ軍人の中では、誠実で私欲に走らない人間として描かれています。しかし、ムンツェは最終的に戦争の後処理の中で、同胞の罠にかかって非業の死を遂げます。日本の敗戦処理でも、上官の罪を着せられて戦犯として処刑された人がいたそうです。この映画でも敗戦の色濃くなってきたドイツ軍将校が、ユダヤ人から密かに奪い取った金品を持って逃亡をしようと画策しているシーンが出てきますが、人間、保身と欲のためには何でもやるんだということを人間の業のように描いています。

ヒロインは、レジスタンスの一員として行動するのですが、結局、レジスタンスの中に裏切り者がいたために、多くの人間が殺され、彼女も殺されかかるのです。全てが悪いほうへと転がっていく後半の展開は見ていてつらいものがありました。戦争という特殊な時空間の中では、人の命なんてあまりにもはかないものに見えます。このあたりの描写は、「ロボコップ」や「スターシップ・トゥルーパーズ」のバーホーベンらしく、虫けらのごとく人間が殺されていきます。その中に自分の身内がいるんだというドラマを見せることで、戦争の悲惨さが際立ってきます。

誰かがドイツ軍に通じている、裏切り者は誰だという展開になるのですが、このあたりでサスペンスの盛り上げをせず、むしろ、戦後処理の人間ドラマのドロドロの方に重心を置いています。ドイツ軍協力者に対して、オランダ市民がリンチに等しい仕打ちをするのを見たとき、敗戦時の中国、満州でも同じようなことがあったのではないかと考えさせられてしまいました。生きるために占領軍に協力したということで酷い目に遭わされる連中には、必ずしも同情心は起こらない一方で、リンチする側には何か怒りを感じました。それが人間の自然な姿だとも言えるのですが、そんな人間の負の側面をストレートに見せるところにバーホーベンの意地の悪さを感じます。それを自国のオランダ市民に向けているのは、彼の戦争体験が反映されているのかもしれません。

ラストで、裏切り者を追い詰めたヒロインとレジスタンスのリーダーが「さて、どうしようか」というところが非常に印象的でした。復讐を選択することをためらうところにこの血生臭いドラマの救いを感じるのですが、その後、イスラエルで平和で暮らしていたヒロインに再び戦争の影が忍び寄り、運命はまだ彼女に安息の地を与えていないことを示します。戦争は全てを奪い取り、人の心をすさんだものに変えてしまう、その繰り返しは現代に至るまでまだ終わっていないという見せ方に、バーホーベンなりの絶望と希望を感じ取ることができます。

これまで、ベイジル・ポレドゥリスやジェリー・ゴールドスミスといったハリウッドの一流どころを音楽に使っていたのですが、二人とも鬼籍に入ってしまった今回は、意外やイギリスのアン・ダドリーに音楽を任せていますが、ドラマチックなオーケストラスコアが見事に、そして繊細にドラマを支えていて、聴き応えがありました。

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Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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