FC2ブログ

「ドリーム・クルーズ」は怪談映画として点数高いです

今回は新作の「ドリーム・クルーズ」を新宿オスカーで観て来ました。フラットな場内でスクリーンが低いので、空いてる時でないと画面が欠けてしまう映画館です。座席の間隔はとってあるので、その点は悪くないです。音響はドルビーSRまでですが、快適に鳴っているように思いました。

弁護士ジャック(ダニエル・ギリス)は海で自分の弟が目の前で溺れ死んだという過去を持っていました。彼は顧客の英治(石橋凌)の妻百合(木村佳乃)と恋仲になっており、英治もそれに感づいているようでした。英治の前妻直美(蜷川みほ)は行方不明でそのことに百合は不安を感じていました。ある日、ジャックは英治にビジネスの件で会いに行くと、英治は妻と共にクルーザーで海に出るので一緒に付き合えと言われ、3人を乗せたクルーザーは出航します。仕事の話も済んだのですが、英治は寄港する気配を見せず、陸の見えないところまできた時、スクリューに何かが絡まったらしく船が止まってしまいます。水中に潜った英治はそこに女の髪の毛が絡み付いているのを発見します。船に戻った英治は様子がおかしくなりあらぬ事を口走り始めます。どうやら、直美の霊がこのクルーザーにとりついてしまったようなのです。果たして、ジャックと百合は無事に陸に帰ることができるのでしょうか。

「リング」で有名な鈴木光司の原作をもとに、「リング0」の鶴田法男が共同脚本・監督したホラー映画です。アメリカのマスター・オブ・ホラーというホラーのアンソロジーの一編として、60分のテレビ版と88分の劇場版が作られました。映画のタイトルは英語で出て、ドラマも英語がメインで時々日本語が混じるという構成になっています。

冒頭に2度も夢オチショック(突然ビックリさせて実は夢でしたというオチ)があったので、ちょっとビビってしまいました。この調子でビックリショックの連続だったらついていけないと思ったのですが、そこから先はまっとうなホラー映画の展開になったのでちょっと安心とはいえ、きちんと怖い映画に仕上がっています。

オープニングから、ジャックは弟の霊に悩まされており、水のあるところ、あちこちに弟は姿を現します。自分が弟を見殺しにしたという自責の念からの幻覚かもしれないのですが、とにかく、ジャックは海を恐れていて、港の水面にも弟の姿を見てしまうのです。この弟の霊が後半ドラマにきちんと絡んでくるあたり、鶴田監督の演出は丁寧で律儀とも言えます。

ストーリーはシンプルで、殺された前妻の霊が、まず英治と百合を殺そうとするという、怨霊復讐譚なのですが、その見せ方に工夫がされていて、なかなか先の読めない展開を見せます。故障したスクリューの修理に海に潜るとそこに髪の毛がびっしりという趣向は、どこかで聞いたような話なんですが、そこで何者かが突然スクリューを回すという趣向を追加して、新たな興味をつなぎます。このように、どこかで観た趣向にさらにもう一ネタ絡ませるというのが、有効に作用してまして、高山直也と鶴田の脚本には工夫のあとが見られます。この他にも「死霊のはらわた」「たたり」また、海の怪談などからの引用がありますが、それらはパクリにならないよう、きちんと消化されているのがうまいと思いました。

そして、前妻の霊が水死体としてその姿を見せてからは、クルーザーから海へとジャックと百合は逃げ回ることになります。この幽霊が、緑色のライトに照らされて、髪振り乱したおぞましい姿で、モロに怪談の世界になっています。また、幽霊だからどこでも変幻自在に行けるかとおもいきや、ドアを怪力でやぶろうとしたり、床下をおぞましい姿で這って追いかけてくる、海へ逃げた二人を海面を歩くように追ってくるなど、ドラマのお約束をきちんと踏んでいるのが面白いと思いました。

ラストは劇場で確認していただきたいのですが、ちゃんと伏線が生きる結末になっており、変なビックリショックもない、ストレートなエンディングとなります。鶴田監督は、「リング0」でも、一切ショックシーンを用いずに貞子の悲劇を描いた実績のある人だけに、冒頭を除いて、ショックシーンや音で驚かすといった演出をしていない点に好感が持てました。木村佳乃が英語を意外と達者にこなしていて、水中に潜ったまま直美の過去を目撃するシーンなど魅力的に熱演しています。また、石橋凌が得体の知れない男を前半オーバーアクトに演じていたのが、後半おかしくなってからの展開に生きていました。

いわゆる海の怪談ということになるのですが、演出がまっとうに怪談を作ろうとしているので、要所要所がきちんと怖いというのも点数高いです。音だけ聞かせて、その実体をなかなか見せないという演出もこういう映画では怖さを増幅させるのに貢献しています。シンプルな物語を過不足なく1時間半にまとめた怪談映画として、怖くて面白く、よくできていると思いました。

スポンサーサイト



コンサート「男たちへ」戦士映画音楽傑作選はなかなかの聞き物

今回は東京オペラシティで、戦士映画音楽傑作選「男たちへ」というコンサートに行ってきました。戦争映画の音楽を中心に、現田茂夫指揮の東京交響楽団が演奏するというもので、演奏される曲目がサントラファンにはたまらんラインナップになっていました。ただ、客席があまり埋まっていないのが残念で、素直な映画音楽コンサートと言った方がお客が集まったかも。

プログラムは以下のとおりでした。
「戦争のはらわた」アーネスト・ゴールド
この曲をライブで聴けるとは思っていませんでした。童謡ちょうちょのメロディと勇壮なマーチが交互に演奏されて、戦争の不気味さが伝わってきます。

「プラトーン」よりサミュエル・バーバーの弦楽のためのアダージョ
「プラトーン」自体の音楽担当はジョルジュ・ドルリューだったのですが、このバーバーの曲が印象的に使われていたので、いつの間にか「プラトーン」の音楽というとこの曲ということになってしまいました。曲そのものは素晴らしいのですが、戦争映画音楽というのにはちょっと渋すぎかなって気もする選曲でした。

「バックドラフト」ハンス・ジマー
これは、消防士の映画で、戦争映画ではないのですが、勇壮なマーチは戦士映画音楽にふさわしいものです。先日、聴いたアルディスタコルダオーケストラの演奏よりは、ホーンセクションが充実している分、音に厚みがあって聞き応えがありました。

「トラトラトラ」ジェリー・ゴールドスミス
個人的には、今回の目玉商品。これが、生演奏で聞けるとはうれしい限り。メインタイトルをほぼサントラに忠実に再現した演奏ですが、実際に聞いてみると、フルオーケストラが鳴りっぱなしの音になっているのにびっくり。このコンサートの中でも、かなりの盛り上がりとなりました。

「パットン大戦車軍団」ジェリー・ゴールドスミス
トランペットの独特の音から始まる、ゴールドスミスの傑作ですが、マーチではなくメインテーマの方の演奏でした。

「エア・フォース・ワン」ジェリー・ゴールドスミス
これは、ファンファーレ的なメインテーマをさくっと聞かせてくれました。もっと長くやってほしかったなあって思いました。盛り上がる曲だと思うなんですが。

「アポロ13」ジェームズ・ホーナー
メインテーマだそうですが、静かな曲調だったのがホーナーにしてはちょっと意外でした。ハッタリ的な盛り上がりを期待していただけにこれはちょっと残念でした。

「沈黙の艦隊」千住明
アニメの曲だそうですが、千住明らしいストリングスの使い方が印象的で、テーマのメロディが印象的でした。

「決断」古関裕而
1970年代の戦記アニメ(当時はアニメンタリーという触れ込みでした)の音楽ですが、これがモロに軍歌しているのは、やっぱりと思いつつ、当時は、あれこれ言われるのを承知の上で確信犯的にこういう音をつけたんだなあって気がします。

で、休憩が入って、後半に。

「皇帝のいない八月」佐藤勝
これも、私的には目玉商品だったのですが、その期待にたがわない演奏でした。松竹マークから、クーデターのトラックが移動するタイトルバックをコンサート用にアレンジしたものですが、いつもの大らかな佐藤勝タッチとはまるで異なる、スリリングな音楽でして、パーカッシブな演奏からそのまま一気に盛り上がるあたりは大興奮ものの演奏でした。映画を知ってる人間には鳥肌ものの見事な演奏でした。

「硫黄島からの手紙」カイル・イーストウッド、マイケル・スティーブンス
新作からの音楽は、ピアノソロから始まり、トランペットの響きが印象的な演奏でした。こうしてコンサートで聞くと、何だかノスタルジックというか、牧歌的な曲に聞こえてしまうのが意外でした。あの悲惨な映像とのギャップの効果を狙っていたのかなあ。

「鷲は舞い降りた」ラロ・シフリン
これは、ノーマークだったのですが、演奏的には最高に盛り上がったのではないでしょうか。前半はメインタイトルの空撮シーンの曲をほぼサントラに忠実に再現し、後半は勇壮なマーチに展開していきます。このマーチも名曲なのですが、前半の音のスケールの広がりが大変見事で、コンサートの中でも一番の聞きものだったように思います。

「遠すぎた橋」ジョン・アディスン
戦争映画のマーチとしては、勇壮というよりは広がりを感じさせる曲調で、3時間の大作を包み込むような音楽は、さすがにジョン・アディスンらしい音になっています。

「U・ボート」クラウス・ドルディンガー
これは、名曲だけにどう演奏してくれるのは期待大だったのですが、まずサントラではシンセサイザーで演奏されたテーマをオーケストラで演奏してくれるのがうれしかったです。戦闘シーンの曲はもっと勇壮にやってくれたらなあってところもありましたけど、この音楽をオーケストラのライブで聞けるということ自体がすごいことですから。

「プライベート・ライアン」ジョン・ウィリアムス
テーマそのものは、戦士への鎮魂の曲なのですが、サントラよりも、コンサート用に盛り上げる編曲が加わっているように思いました。静かなメロディを重厚に演奏して聞き応えがありました。

「1941」ジョン・ウィリアムス
これは、コメディ映画のマーチだけあって、思いっきり鳴らしているのが楽しい一曲でした。サントラのほぼ忠実な演奏で、吹奏楽にストリングスで厚みをつけている分、聞き応えがましているという印象でした。

そして、アンコール
「シンドラーのリスト」ジョン・ウィリアムス
サントラと同じくバイオリンのソロを前面にフィーチャーした演奏で、悲しみのテーマを重厚に演奏しました。戦争映画特集の締めにしては意外な選曲で、そもそもこの映画が戦争映画かどうかも微妙なところですが、最後を反戦にまとめたい主催者の意図があったのかもしれません。

全体として、なかなかこういう映画音楽をフルオケで聞く機会がないだけに、うれしいコンサートでした。特に、「トラトラトラ」「皇帝のいない8月」「鷲は舞い降りた」が個人的には聞き物でして、また、やってほしい企画ではあるんですが、お客の入りからすると次は難しいかなあ。

「ボラット」みたいな映画が数多くの映画祭で受賞してるってすごい(不思議)

今回は新作の「ボラット」を川崎チネチッタ5で観てきました。

カザフスタン国営放送のレポーターであるボラット(サシャ・バロン・コーエン)がアメリカの文化を学ぶという名目でプロデューサーのアザマート(ケン・デヴィティアン)がニューヨークにやってきます。早速、アメリカのジョークを学んで、その後は女性運動家を訪問し、アメリカを学びかけたところで、テレビの「ベイ・ウォッチ」のパメラ・アンダーソンに一目ぼれ。彼女の会うために一路カリフォルニアに向かいます。飛行機はユダヤ人のテロが怖いので、中古のアイスクリームトラックを買って出発。途中で、ゲイ・パレードと遭遇したり、ロデオ大会でアメリカ国家の替え歌歌ってヒンシュクを買ったり。さらには、マナーを教わったり、アザマートと喧嘩別れしたり、でも、聖書至上主義団体の集会で立ち直ったりしてるうちに、ついにパメラのサイン会にやってきます。パメラと結婚すべく強引にアタックするのですが、果たしてその結末は?

一応は、ボラットとカザフスタン人がアメリカを横断するドキュメンタリーという構成をとっていますが、ボラットは実在しないキャラクターで、ユダヤ系コメディアン、サシャ・バロン・コーエンが作り出したもので、テレビでまず有名になったそうで、その彼と共同原案・脚本を担当した映画版です。オープニングは、カザフスタンで自分や村の人々などを紹介するシーンから始まるんですが、これがもうムチャクチャでマジメなドキュメンタリーでないことは一目瞭然です。特にユダヤ人追い祭りというのがケッサクで、この後もユダヤ人差別ネタがあちこちに登場します。ネタがとにかく下品なのが何とも言えずにおかしいです。ニューヨークに着いてからも、トランプビルの前でウンコしてたり、マネキン見てオナニーしたりと、これって、風刺コメディになるのか? ただ、小汚いオヤジの下品ネタの羅列じゃねえの?って気がしてきました。

フェミニストたちへの取材で、徹底した男尊女卑を披露するので、お、ちょっと違う感じになってきます。まあ、基本は下品ネタなんですが、田舎者が都会に出てきて好き放題やるパターンの笑いになっているのです。その後、パメラ・アンダーソン会いたさの旅が始まるのですが、地方のニュースショーに出演するシーンもいわゆる田舎者ギャグをかますパターンです。ロデオ大会で、国家を歌う前にイラクをやっつけろ的なアジテーションをやってひんしゅくを買い、さらには、アメリカ国家をカザフスタンを讃える歌に替え歌してドひんしゅくを買います。ホテルに泊まれず、B&Bの宿をとったら、そこがユダヤ人老夫婦がやっていたことから、またひと騒ぎを起こし、マナー講習を受けた後、招待されたディナーの席に売春婦を呼びつけてしまいます。

まあ、とにかくバカな展開ばっかりで笑いをとってくれるのですが、そこに現代アメリカが見えてくるかというと、ボラットのキャラが強烈でそっちのおかしさしか見えてこないのです。唯一、金も相棒もなくして意気消沈したボラットがキリスト原理主義者の集会で癒されるところだけが、「うーん、こんなのにこれだけの人が集まるのだから、アメリカは広い」と思わせるものがありました。ラストのパメラ・アンダーソン拉致失敗なんてのは、その昔の電波少年あたりでやりそうなネタで、笑えるけど、そんだけみたいな話でした。

どうやらボラットの面白さは素人相手に色々と下品なネタをふっかけて、そのリアクションを見るところにあるようで、今回の映画では、そういう素人いじりの部分が少なかったのではないかと思いました。その分、ボラットが下品でバカなことを延々とやり続けるロードームービーという形に仕上がったのだと思います。それはそれで面白いし、結構好きなんですが、プログラムに書いてあるような、アメリカを風刺したコメディとはちょっと違うように思いました。たぶん、そういう要素はテレビ版の方にあるのではないかしら。まあ、ユダヤ人コメディアンがカザフスタン人を演じて、ユダヤ差別のジョークを連発するというおかしさはあるのですが、そこから見えてくるのは、アメリカって民族のるつぼなんだなあってことくらいです。ひょっとして、もっとヤバいことをやったりやられたりしてるんだけどカットしてるんじゃないかって気もしてきます。

撮影時は、カザフスタン国営放送のボラットという触れ込みで取材してったそうで、それって詐欺じゃんとも思うのですが、そこで相手の生のリアクションを楽しむ設定になっていたようです。ただ、そうなるとカメラクルーの存在がかなり気になったりします。ガス欠になったボラットが若者のキャンピングカーにヒッチハイクするところは、やっぱりヤラセなのかな、とかですね。まあ、もともとがフェイクドキュメンタリーなんですから、細かいことは言わぬが華なのでしょう。

ラストは、自分の村にボラットが、売春婦の彼女を連れて自分の村に帰ってきます。村のみんなをカメラに紹介してジ・エンド。まあ、他愛ない映画だと思って観たのですが、これが、アカデミー賞の脚色賞にノミネートされ、ゴールデングローブ賞の主演男優賞を受賞、作品賞にもノミネート。他のシカゴ、トロント、ロサンゼルスなどの映画祭でも主演男優賞を数多く受賞しているというのでビックリ。これ、そんなにすごい映画なのか、それともこんな映画に賞をバンバン出すアメリカがすごいのか。この映画祭での受賞の多さを加味してみると、この映画からアメリカが見えてくるのかもしれません。

「かもめ食堂」で変な気分

2006年の映画「かもめ食堂」をシネマジャックで観てきました。「フラガール」と2本立てというのは、結構豪華な番組ではないかしら。

フィンランドのヘルシンキで、日本人のサチエ(小林聡美)がかもめ食堂が開店しました。でも、なかなかお客は来なくて、やっとやってきたのは日本かぶれの若者がコーヒー飲みに来ただけ。その彼の「ガッチャマンの歌」の質問から、旅行中のミドリ(片桐はいり)と知り合い、何となくミドリはサチエの店の手伝いをするようになります。ちょっとずつお客が入り始めた頃、旅行の荷物がなくなったというマサコ(もたいまさこ)が店に居ついてしまいます。ある時、店の泥棒が入ってるのを捕らえてみれば、以前、コーヒーの入れ方を伝授してくれた男でした。彼は、以前、そこで店を開いていて、置きっぱなしにしておいたコーヒーミルを取りにきたのでした。さて、なくなっていた荷物が見つかったマサコは、一度はかもめ食堂に別れを告げに来るのですが、なぜかやっぱりまた舞い戻ってきてしまうのでした。そして、ついにかもめ食堂が満席になる日がやってきます。

フィンランドで食堂を開く、メインメニューがおにぎりの日本食メニューで食堂を開く、何だかそれだけで現実離れしている設定です。小奇麗な店と整然としたキッチンはまるで女性雑誌から抜け出したようです。その中にちょこんと居るサチエの姿は、まるで子供のようにも見えます。そんな生活感のない空間でいくつかのエピソードが淡々と展開していくのです。まず、最初のお客が日本かぶれの青年なんですが、彼が友人がいないという設定なので、そこからお客がひろがるわけでなく、なぜかそこにいるという存在になります。旅行中に知り合ったミドリに対して、自分のところへ泊まらないかとさそうサチエのあっけらかんとした態度が不思議な安らぎを感じさせます。葛藤というものを全て排除してしまったようなサチエの姿にミドリも何だか心を癒されてるようなところがあります。何となく自分探しに適当に選んだ国がフィンランドだったというミドリもどこか悩みとかしがらみから切り離されているように見えます。

さらに旅行の途中で荷物をなくしたマサコは、さらに過去からすっぱりと切り離された存在として登場します。そして、3人が何のドラマも背負わない、純粋にそこに存在する人間というところで共通しているのが面白いと思いました。何の過去もない、ささやかな善意だけの3人が遠い異国の地で何をするのかと言えば、コーヒーを入れて、おにぎりを作り、シナモンロールを焼く。それが、観客の心にすこんと入ってくるってのが不思議な映画だと言えましょう。萩上直子の演出は、時間の感覚もできるだけ排して、事件とも呼べないエピソードをどこか冷めたような、でもコミカルにつないでいきます。フィンランドの観光案内的なところもなく、むしろ、無菌室のようなかもめ食堂の有様を暖かく見守る視点が感じられました。

日本人旅行者にとって、かもめ食堂は不思議な空間です。異国の地なのに居心地がよくてしがらみがなくて、善意で接してくれる人がいる。そんな場所が世界のどこかにあったらいいな、そんな気分にさせてくれる映画です。日本の中でも、自分と他人の間に大きな壁ができてるような気分に落ち込むことがあります。一方で、フィンランドという突拍子もない場所におだやかな居場所があるってのは一種のファンタジーなんですが、そのファンタジーを主演の3人が大変心地よく演じて見せてくれました。特にサチエを演じた小林聡美が強い女性のキャラの筈なのに、しなやかさだけで演じきったのが見事でした。

人が出会ったとき、お互いをすんなりと受け入れあうってのはなかなかできそうで難しいです。でも、異国の地でそういう出会いがあったら、意外とすんなりといっちゃうんじゃないのってところも面白いと思いました。でも、かもめ食堂っている枠の中では、日本と同じ空気なので、観客も誰かを受け入れあうことが簡単にできそうな気がしてくるのですよ。そういう変な気分にさせる映画でした。

食べ物のシーンは抑制が取れた見せ方を意識的にしているようで、ご飯の湯気とか、魚を焼く煙といったものを避けているようです。そうすることで、小奇麗なキッチンが女性雑誌のグラビアのままに描かれ、リアリティから一歩退いた独特の世界を作り出しているようです。

「ツォツィ」に観るリアルな現実とラストの希望


新作の「ツォツィ」を銀座シネパトス2で観てきました。地下鉄の音に慣れれば結構快適な映画環境で、アナログのドルビーステレオもサラウンドまできちんと鳴っていて、ここは好きな映画館です。

南アフリカのある街、不良グループは地下鉄の紳士に目をつけ、車内で強盗を働き、勢いでその紳士を殺してしまいます。そのグループの一人ツォツィは、金持ちの自動車を盗もうとして、女性を撃ってしまい、逃走。ところがその車の中に赤ん坊が乗っていたのです。最初は見捨てようとしたツォツィですが、幼い頃の自分が頭をかすめて、ついには自分の家に連れてきてしまいます。そして、近所の子連れの女性ミリアムの家に銃を持って押し入り、赤ん坊に乳を与えるように脅します。一方、金持ちの赤ん坊を誘拐したことから、新聞にもツォツィの似顔絵がでかでかと載って、だんだんと捜査網もせばまってきていたのでした。

アフリカの不良グループというのが日本とどう違うのかはわかりませんが、ツォツィは強盗や盗みで金を稼いでいたようで、冒頭、地下鉄での周囲に人がいる中での強盗はびっくりさせられました。フラッシュバックで彼の過去が語られるのですが、父親は暴力的で、母親をエイズで亡くし、その後、土管の中でホームレス生活をしていたようです。そんな荒んだ生活を送っている彼は、またしても自動車を盗もうとします。丸腰の女性に向けて躊躇なく引き金を引く彼の非情さは、本物のワルとしか言いようがありません。むき出しになった攻撃的な感情だけで行動しているように見えます。

そんな彼が赤ん坊を前にして、どうしようか困ってしまうのですが、脚本・監督のギャヴィン・フッドは、情緒的な部分を削って、ツォツィの行動を丹念に追っていきます。その中に、社会の様々な問題を織り込んで見せていて、夫が行方不明の母子家庭、土管暮らしの子供たち、車椅子の老人、盗品売買ルートなど、貧しいスラムの様子が描かれています。特に、車椅子の老人のエピソードがじっくりと描かれていまして、「なぜ、そんな体でも生きてるんだ?」「太陽を感じたいから」というツォツィとのやり取りが印象的でした。生きている意味は理屈じゃないんだというところが、大変共感できました。また、貧しいながらも、赤ん坊を引き取ってもいいというミリアムのやさしさも、ツォツィの心を動かします。

ツォツィと仲間は赤ん坊の家に再び押し入るのですが、そこの主人を撃とうとした仲間をツォツィは逆に射殺してしまいます。そこで、彼は赤ん坊の部屋を物色するのですが、そこにある赤ん坊のおもちゃやミルクを盗んで、自分で赤ん坊を育てようと思っているらしいのです。そんなことは無理だと言われてミリアムに諭されるのですが、そこで、ツォツィも赤ん坊を親元へ返そうという決意を固めます。このあたりの演出は説明的な部分を省いてあくまでツォツィの行動のみで物語を語っていくというもので、そこにあえて泣きや感動を差し挟まないところにドラマとしての力強さを感じました。

そして、ツォツィが赤ん坊を親の家に返しに行くところでクライマックスになるのですが、そこをフッド監督はじっくりと描きました。赤ん坊を返しに来たところを警官に見つかって、家の前で警官に取り囲まれて、赤ん坊を抱えたまま身動きがとれなくなるツォツィ。そこで、赤ん坊の父親が赤ん坊を返しにきたというツォツィを信頼して、警察の動きを止めます。泣きながら父親に子供を手渡すツォツィに、地下鉄強盗をしていた時の顔はありません。ここにも一切にセリフは入らず、その彼の表情と行動だけでドラマを語りつくします。そこに感情の機微はありませんが、一つの希望が静かに描かれているのです。彼のこれまでしたことはきっと殺人もあるでしょうし、強盗も何件も働いているでしょう、それらがこの行為によって償われるわけではありません。そこに希望の灯を見出す演出が見事だと思いました。そして、その希望がこの映画に描かれている社会の様々な問題に向けても光を放っているところは見逃したくないと思います。

ツォツィを演じたプレスリー・チュエニヤハエが前半の凶暴さと後半の人間性を見せるところを見事に演じ分けて圧巻でした。また、ミリアムを演じたテリー・ペートがまるでスラムの中の天使のような演技で、ある意味神々しく見えました。この他、全ての演技者がリアルな存在感を見せていまして、こういうリアルな人間ドラマを見せながら、最後に希望を描ききるフッド監督は只者ではないと思います。次回作はハリウッドスターを使った映画のようですが、期待したいところです。

「エンロン 巨大企業はいかにして崩壊したのか?」の儲け文化にウンザリ

今回はキネカ大森2で「エンロン 巨大企業はいかにして崩壊したのか?」を観てきました。ここは、キネカ大森で2番目に大きなスクリーンとはいえ69席という小劇場で、でもスクリーンサイズは結構あって映画観るにはいい劇場です。

アメリカの優良企業と呼ばれたエンロンですが、その内実は不正に利益を操作して、経営陣だけが大きな富をつかむ仕掛けでした。エネルギー産業の規制緩和をもとにさらに儲けを広げようとしていたのですが、疑惑報道から株価が大暴落、一月半後にエンロンは倒産し、それまでの幹部たちのやってきたことが白日のもとにさらされることになるのです。

遠いアメリカの1企業であるエンロンが倒産したからといっても、こちらには「ふーん」というレベルのものでしたが、それがアメリカを揺るがす大事件だったというのはこの映画の存在で知りました。エネルギー供給会社であったエンロンが商社としてエネルギーを売買する会社になったあたりから、この会社は様子がおかしくなったようです。

この映画はエンロンの企業としての全貌を詳細に説明してはくれないので、一体、この企業がどこから始まって、どこからおかしくなったのかわかりにくいところが多かったです。監督のアレックス・ギブニーは、作家や内部告発者の証言と、証人喚問などの映像をつないで、なぜエンロンが崩壊するに至ったかを見せようとしているのですが、予備知識のない人間には、一体誰がどう悪さをしたのかが理解できなくて、結論のみが印象に残ってしまいました。

その結論とは、エンロンは儲けを追求するという単純な理論にあまりにも忠実であり、そのためにやった小さな不正が、破綻したとき、さらにちょっと大きな不正に手を染め、それを繰り返すうちに取り返しがつかないところにまで行ってしまったというのです。

でも、素人目にもおかしな仕掛けがあるなあと思うのは、時価会計というもの。これは、会社の資産価値を未来の取引も勘案した形で計上しようというもので、10年先の発電事業まで、資産として計上していたというのです。でも、これが程度の問題で、2,3年先の金融取引には適用するのは妥当だとされているのだそうです。もし、そうなら、それを10年先のエネルギー取引にまで拡大することは、それほど大きな悪意や犯意を必要とはしないでしょう。そして、海外に作った発電所は、その作った電力の買い手がなくて破綻してしまうのでした。

その赤字を補填しようとして、エンロンは恐ろしいことをやってのけたとこの映画では言ってます。カリフォリニア州で計画停電をやって電力価格を操作したというのです。日本では基本的に電力は安定供給されるもの、供給能力を需要が上回らない限りは電力が供給されないなんてあり得ないことです。しかし、カリフォルニア州では規制緩和で電力も自由化されていて、供給を細くすることで、電力価格を吊り上げることができるというのです。さらに、電力の自由化は、発電所を作るリスクを大きくしたため、需要の拡大に供給が追いつかないという弊害も生じ、電気代は上がる、停電は起こるという電力危機をもたらしたのですが、その裏で電力市場で大儲けをしていた人間がいたというのです。

こういうトレーダーには、プライドも倫理観もありませんから、停電で困ってる人を笑い飛ばしているような連中です。エンロンのトップだけが腐っているわけではないのです。儲けのためなら、やっていいことはあっても、やって悪いことはないという倫理観がはびこる空間があって、そこに一般人は入り込むことはできないのです。自由化とか、規制緩和ということの負の意味を知ったことができただけでもこの映画を観た価値がありました。

また、エンロンはブッシュ親子にも大量の献金をしており、カリフォルニア州が電力供給のための規制をしてくれという依頼を自由経済を盾に断っています。その結果、州知事はリコールされ、アーノルド・シュワルツネッガーが後任の知事に当選するのですが、その前に、エンロンのCEOとシュワルツネッガーが密会をしていたという事実もあるのです。何も信用できなくなるような話ですが、偉い人間が金儲けを無自覚にやっていれば、どこかでボロが出るということなのかもしれません。ライブドアのホリエモンが「金儲けしてどこが悪い」と言い切った後のことを思えば、奢れるものは久しからずなのでしょう、というか、そう思いたいです。

それにしても、マネートレードの世界は我々一般市民を大なり小なり食い物にして、金を儲けているのだと再認識しました。そして、自由化は、倫理の歯止めをはずしてしまうことになるんだということもわかりました。自由が悪だというのわけではないのですが、自由化は、悪に自由を与えてしまうこともあるのだということは覚えておく必要があると思った次第です。エンロン事件はよその国の話ですが、その精神構造は日本にだってある、損失補填のために不正経理なんて絶対やってる連中はいると思います。ただ、計画停電を起こして電力価格の利ざやで稼ごうなんて連中はまだ登場してはいないようです。ここで、日本の「恥の文化」に期待するしかないですが、やっぱり濡れ手に粟の金儲けなんてあり得ない、あったとしたら後ろめたい、そんな文化であって欲しいと思います。

「フラガール」はコミュニケーションのある映画だから好き

今回は2006年に封切られた「フラガール」をシネマジャックで観てきました。昨年の映画でも2本立てでやってくれるのがありがたい映画館で、このスタイルを続けてくれると映画鑑賞量が豊富になるので是非頑張って欲しい映画館です。

昭和40年、石炭産業の斜陽化は、常磐炭鉱にも合理化、人員削減をもたらしました。そんな中で、温泉施設を使った常磐ハワイアンセンターで雇用確保を図ろうとする人たちがいました。ハワイアンダンサーも現地調達というわけで、志願者を募り、紀美子(蒼井優)たちが集まります。東京から元SKDのダンサーである平山まどか(松雪泰子)を招いて指導してもらうことになるのですが、生徒は4人しかいないし、まどかもやる気がありませんでした。しかし、紀美子や早苗の熱意がまどかを動かし、そしてダンサーも増えていきました。ハワイアンセンターのために全国行脚する彼女たち、そのために親の死に目に遭えない娘が出たため、まどかは講師の職を追われることになります。まどかの乗る汽車を見つけた生徒たちは、何とか彼女を引きとめようとするのですが...。

「スクラップヘブン」で好き放題やった李相日監督が今度は娯楽映画の王道ともいうべき涙と笑いの感動編を作り上げました。舞台は斜陽の炭鉱で、娯楽施設を作ることで雇用の確保を図ろうという人々、特にハワイアンダンサーにスポットをあてたもので、これまで炭鉱一本でやってきた人々から白い眼で見られ、特に肌をさらして踊りを踊るなんてとんでもないと思われながらも、頑張って、プロのダンサーへと成長していく女性たちを描いたドラマです。

最初にダンサーになろうと言い出す早苗(徳永えりがかわいい)とそれに引きずられる形で参加する紀美子、最初はぎくしゃくしていたまどかと生徒たちの関係も、生徒たちの前向きな本気がまどかを動かします。そして、生徒も増えてダンスの腕前も向上します。でも、問題は出てくるわけで、早苗は父親が整理解雇されて、北海道へと旅立っていきます。紀美子も母親からダンサーをすることを認めてもらえず勘当状態。そして、落盤事故によってダンサーの子の家族にも犠牲者が出てしまいます。また、まどかは借金を抱えているらしく怪しげな男が脅しにきたりして、それぞれに問題を抱えているのですが、何とかハワイアンセンターを成功させたいという気持ちがばらばらになりがちな皆の心をまとめていきます。

李監督の演出はエピソードを積み重ねて群像ドラマを作ろうとしているようで、誰が主役ということもなく、場面毎に主役がいるという構成が成功しています。特に、松雪泰子と蒼井優のソロのダンスは編集の妙もあって素晴らしく躍動感があって、そこだけ切り取っても見事です。また、豊川悦司が演じた紀美子の兄も紀美子やまどかを見る視線のやさしさが、その場面では主役たりえていました。そんな中で、終始脇役に徹した岸部一徳が儲け役ながら、大変味のある演技でハワイアンセンターの人間を代表していました。ハワイアンダンサーである女性陣が主役の物語でありますが、むしろ役者は男優陣の方が光っていたようにも思えるくらい、皆好演しています。炭鉱にこだわりたいけど、でも現実は石炭は先が見えている、そんな思いをきちんと描いているところがドラマに奥行きを与えています。

クライマックスはセンターを去ろうとするまどかを生徒たちが引きとめようとするシーンです。北海道に去る早苗との別れのシーンでベタな演出をしていたのですが、今回はさらにフラダンスでまどかを引き止めるというハッタリ演出をかまして、それが見事に着地していたのが驚きでした。見ていてホロリとなるシーンなんですが、蒼井優の健気さを前面に出した演技がうまくはまって名シーンとなりました。

「スクラップヘブン」では、登場人物がコミュニケーションを取らないいわゆる一人言というか、卒業式の呼びかけみたいな構成が私には今イチだったのですが、「フラガール」では登場人物が誰かにつながっていて、常にコミュニケーションがあるところがまず好感が持てました。クライマックスで踊りに見せる以上の意味、思いを込めたあたりは見事だと思いました。その正攻法の演出でドラマをきちんと作る力のある人のようなので、今後の作品が楽しみになりました。

「リーピング」は神と悪魔の代理戦争、人間はたまらんわな

今回は新作の「リーピング」をTOHOシネマズ川崎3で観てきました。ここは画面がシネスコになるとき縦に縮まないのがいいところです。

奇跡と呼ばれる現象の調査活動を行っているキャサリン(ヒラリー・スワンク)のところにヘイブンという町で起こっている怪事件の調査以来がきます。相棒のベンと共に現地に向かうと、川が真っ赤に染まっています。町民たちは、ある少女ローレンが全ての原因だと言います。彼女の兄が怪死した直後に川が真っ赤になったというのです。そして、カエルが集団死し、アブやウジが大量発生し、旧約聖書の10の災厄がそのまま現実化しているようなのです。少女を追う彼女ですが、どうやら本当に悪魔が復活しようとしていることがわかってきます。一体、悪魔が誰で、誰が神の使いなのか、ヘイブンという町で恐ろしいことが始まろうとしているのです。

ホラー映画のブランド、ダーク・キャッスルの作品です。今回は、演技派女優ヒラリー・スワンクを主演に、悪魔復活の恐怖を描いたホラー映画でして、「プレデター2」「ブローン・アウェイ」などその手堅さに実績のある娯楽映画の職人スティーブン・ホプキンスが監督しました。彼が監督しているということで食指が動きました。

オープニングで奇跡の調査を行ったら実は工場廃液が原因だったという事例が示されます。キャサリンはもと牧師だったのですが、スーダンで夫と娘を失ってから、信仰も失い、奇跡現象の学術的調査を行っていました。そんな彼女が今回請け負った調査もなんらかの科学的な説明ができるだろうという見通しがありました。真っ赤に染まった川は微生物の繁殖によるものではないかと思われたのですが、魚やカエルの集団死など、聖書の通りに怪現象が次から次へと起こるものですから、これはどうやら超自然の力が働いているとしか思えなくなってきます。ローレンの家には、悪魔の信仰のマークが刻み込まれており、その母親も悪魔の信仰者のようです。すると、少女も悪魔の信者であり、彼女が悪魔を復活させようとしているのか。そして、夢と現実のはざまに現れるローレンと死んだ自分の娘。彼女の中で捨てたはずだった信仰がまた揺らぎ始めるのです。


この後は結末に触れますのでご注意ください。


ホプキンスの演出は説明不足のままどんどんドラマを引っ張っていきます。ショックシーンを織り込みながら、ヒロインの過去と、謎の少女をうまくだぶらせていきます。町の連中が少女を殺そうと彼女の家にやってくると、イナゴの群れで逆襲するあたりで、どっちが悪魔なのかがだんだんとわからなくなってきます。クライマックスで、ローレンはもともと町の連中に生贄にされそうになって逃げ出したのだというのがわかってきます。そして、悪魔信仰の町ヘイブンに、神が10の災厄をもたらしているのだという驚くべき展開になります。結局、災厄というのは、神がやっても悪魔がやっても同じことだということになるのでしょう。旧約聖書のそれも神の御業だったのですから、アメリカの田舎町でその程度の奇跡を起こすくらいちょろいものです。

ここでは、神が善であり、悪魔が悪であるという図式は成立しません。悪魔信仰の人々であるヘイブンの町民には、ダニやできものが発生し、最後には天からの炎に焼かれてしまいます。生き残ったキャサリンは悪魔によってその種をはらませられてしまうという結末は、善意のキャサリンや、信仰心の篤いベンに対してずいぶんな扱いと言えましょう。人間サイドに立つから理不尽な話に見えますが、神と悪魔が人間という駒をつかってゲームをしていると思うと、何だか納得できるところがあります。駒はあくまで勝負のために使われるもので、駒自体に人格や葛藤はありません。ただ、それが生身の人間だから、実際に駒に使われた人間はひどい目に遭うというお話に思えてきます。その昔、同じ旧約聖書の10の災厄を舞台にしたディズニーの「プリンス・オブ・エジプト」を観たとき、結局人間が神様の代理戦争をさせられているんだなあって感じたことを思い出しました。「リーピング」でも、結局、神と悪魔が人間を振り回して勝ち負けを競っているようにしか見えません。そして、神も悪魔も人間の犠牲には無頓着であるというのもよくわかる展開になっています。ラストに悪魔の子をはらませられたヒロインの悲劇は、ホラー映画のオチというにはちょっと痛いものがあります。それとも、信仰を失って、10の災厄を信じなかった者への罰なのか? だとしたら、そんな自己チューで倫理観が人間よりも劣る神様とは、お近づきになりたくないと思ってしまうのでした。

「ミリオンダラー・ベイビー」のヒラリー・スワンクがこういうジャンルの映画に主演しているというのが一つの売りらしいのですが、彼女、超能力ホラー「ザ・ギフト」や「ザ・コア」なんていうトンデモSF映画にも出ているので、結構この類が好きなんじゃないかと思っています。ラストの葛藤はなかなかの熱演で、複雑な構成になっているドラマの中で頑張っていたように思います。リチャード・ユリシッチによる視覚効果がどこで出てくるのかと思っていたら、ラストで大花火をあげたのにはびっくりでした。ここは「スペース・バンパイア」を思わせるところがあり、少女の無表情の不気味は「光る眼」とイメージがだぶるところありました。どっかで見た要素はあるのですが、神と悪魔の代理戦争で人間がひどい目に遭う物語を現代劇にしたというところに視点の新しさを感じます。そして、それはイラク戦争にも例えられるところに、この映画の今日性があります。

アルティスタコルダオーケストラによる「ハンス・ジマーの映画音楽」コンサート

今回は、東京芸術劇場大ホールで、アルティスタコルダスーパーオーケストラ コンサート「ハンス・ジマーの映画音楽」を聴いてきました。このオーケストラ、女性ばかりの編成で、人数はそんなに多くはないんですが、着ているファッションも重視していて、全員が立って演奏するという珍しいスタイルのオーケストラです。総監督のリュウ菅野が編曲と指揮を担当しています。こういうコンサートの場で映画音楽に特化したものは珍しく、特にハンス・ジマーを特集している点で、サントラオタクの私の食指が動きました。

オーケストラと言っても、あまり大きな編成ではなく、バイオリンが20名程度、ビオラが6名程度、チェロが4名、コントラバス2名、ブラスセクション6名に、ピアノ、ハープ、パーカッション4名、コーラス5名にパイプオルガンといった程度です。ホーンと木管が薄いのを頑張ってるなあというのと、その編成に合わせたアレンジがされているのが印象的でした。

プログラムは以下の通りです。
「パイレーツ・オブ・カリビアン 呪われた海賊」よりメドレー
「パイレーツ・オブ・カリビアン」の1作目でして、活劇調のテーマを目一杯鳴らしているのが見事でした。ストリングセクション中心でもアクション音楽を演奏できるんだってところがちょっとした発見でした。ヒロイックなテーマが鳴って、その後からテンポの速いメインテーマが快調に聞こえてきて、つかみはOKという感じでしょうか。尚、この曲はクラウス・バデルトととの共作となっています。

「パールハーバー」
映画としては、「???」な作品だったので、どういう曲が出てくるのかと思っていたのですが、いわゆる愛のテーマが同じメロディの反復というミニマルミュージックを思わせる形で演奏されました。予告編などでよく使われる曲で、「そっかー、モトはこれだったのかー」という発見がありました。

「スピリット」
馬のアニメの音楽ですが、走る躍動感を思い切り表現して、コンサートの前半の山場になっていました。ジマーらしい音になっているのですが、ホーンセクションの頑張りが印象的でした。

「バックドラフト」
ラストの葬送の音楽から、毎度おなじみのテーマへなだれ込むのですが、ストリングス中心でこの曲を演奏するのはかなり難しそうだなという印象でした。葬送の部分のいわゆる音のタメの部分は大変よかったのですが、ラストのマーチで主旋律が前面に出てこなかったのがちょっと残念でした。

「ライオン・キング」
映画のラストを彩った曲だそうで、私もこの映画を観たのが10年以上前なので、印象が曖昧だったのですが、ここでもいわゆるジマー特有のオーケストラの音が確認でき、ラストはアフリカの雄大な自然を描写する感動的な音楽になっていました。

と、ここで休憩が入って、後半は「パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズ・チェスト」からの作品集となります。

「キャプテン・ジャック・スパロウ」
ジャックを描写するコミカルな曲ですが、今回の一番の聞き物でした。チェロのソロがシンプルなメロディを奏でると、バックのストリングスがそれに応えるという掛け合い風の音で始まって、その後、オケ、チェロ、ソロのチェロが複雑に絡み合いながら、盛り上がっていきます。映画は未見なんですが、この曲の確認のためにサントラ盤が欲しくなりました。しかし、コンサート用に大変盛り上がるアレンジが施されているように感じましたから、この演奏ライブがCDになることを期待したいです。

「ディヴィ・ジョーンズ」
敵役のタコ男、ディヴィ・ジョーンズを描写した曲で、彼が劇中パイプオルガンを弾くシーンがあることから、実際にパイプオルガンを前面に出した音で、まずはパイプオルガンのソロが続いてそこにオケがかぶさってくるという構成になっています。どこかコミカルで物悲しいメロディが色々なスタイルで演奏しているのが聞きものです。

「ザ・クラーケン」
でっかいイカの化け物を描写した音楽で、これはメインとなるメロディを持たないアンダースコアに近いものでした。大暴れするイカのうねうね感が今一つだったのは残念でしたけど、この編成としての最大限の効果を出していたように思います。

で、ここから先がアンコールなんですが、色々と出てくるんですわ。

「オペラ座の怪人」
これもパイプオルガンを前面に出してメインテーマをコーラスとストリングスで盛り上げています。パイプオルガンの音が強すぎて、これが鳴るとストリングスがかき消されてしまうのは、たぶん計算ミスだと思うのですが、ストリングスが前面に出る部分は見事で聞き応えがありました。個人的に好きな曲をこういうサプライズで聞かされるのはかなりうれしい。

その後。「リベルタンゴ」「ベストフレンズ」と続き「パイレーツ・オブ・カリビアン」を手拍子の中で演奏するという大盛り上がりを見せてくれました。

全体としては、独特の編成に合わせた編曲がされているので、オリジナルな音の再現とはちょっと違うのですが、選曲の目の付け所がよくて、こういう曲をコンサートで聴けるなんてすごいと思わせるものが多かったです。特に後半の「パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズ・チェスト」の曲は、素人の私にもいい演奏だとわかりました。このオーケストラにまた、別の作曲家にもトライして欲しいような気もしますが、一方で、このオケに相応しいジマーを選んだんだなと思わせるところもありました。ともあれ、楽しいコンサートで、映画音楽をこういう形で聴ける企画は大歓迎です。

「鴛鴦歌合戦」は昭和14年なのにハチャメチャで楽しい

今回はDVDで昭和14年(1939年)の「鴛鴦歌合戦」を観ました

傘張りの志村狂斉(志村喬)の一人娘お春(市川春代)は隣に住む浅井禮三郎(片岡千恵蔵)といい関係なんですが、狂斉の骨董趣味のおかげで米を買う金にも困る有様。ところが禮三郎には許婚の藤尾(深水藤子)がいて、香川屋の娘おとみ(服部富子)も禮三郎を狙っているご様子。。一方、同じく骨董趣味の殿様峯澤丹波守(ディック・ミネ)はいろいろなものを買い込んで家来に自慢している殿様。その殿様がおとみに目をつけたのがすげなくされ、今度はお春を側女にしようと画策するのです。果たして、禮三郎とお春の恋の結末は?

日中戦争が始まって、太平洋戦争へ拡大しつつあった頃の映画ですが、全体をオペレッタといういわゆるミュージカル形式で構成したコメディです。戦後も多くの作品を発表しているマキノ正博が監督し、当時の大スターの片岡千恵蔵が主演したもので、戦時色の一切ない純粋に楽しいコメディに仕上がっていまして、その面白さは今の目で観ても遜色ないものがあります。

冒頭、おとみちゃんを囲んで、男たちがお熱を上げるのをさらりとかわす一幕を全部歌で描いているのですが、これは「美女と野獣」のオープニングと同じことを昭和14年の時代劇でやっているのですから、驚きです。その後は、ディック・ミネ扮するお殿様が「僕は若い殿様~。家来ども喜べ~。」と家来を従えて歌い踊りながら登場するのですから、何とも楽しい展開となります。貧乏な狂斉が米を買えなくて壷に入れた麦焦がしばかり食べているというのがおかしく、いい加減、米を食べたいとお春が嘆くのがおかしいです。

メインの物語はお春に目をつけた殿様が何とかモノにしようとするというお話でして、家来の遠山が父親に50両の金を用立てたことから、それをカタに娘を差し出させようとするというもので、金を作れなくなった父親が夜逃げしようとしたところに、殿様が家来を連れてきて娘を力ずくでさらおうとし、さらに禮三郎が加わって大立ち回りになります。禮三郎が殿様の家来を蹴散らして、最後に麦焦がしの壷が大変な名器であることがわかるのですが、金持ちは嫌いだという禮三郎の言葉にお春はその壷を叩き割ってしまい、大団円となります。

それにしても、この映画、どんなシーンも歌にしちゃっています。殿様の家来の自己紹介も歌ですし、骨董品の自慢も歌、夜逃げの準備も歌、とにかく歌にしちゃっていて、それが滑稽味を出しているので、全体にシリアスになりようがありません。最後は「金持ち、成金は大嫌いだ」と、禮三郎が啖呵を切って、壷を割ったお春にみんなで「でかした、よかった」と歌うラストまで、ここまでよくに歌にしたものだと感心します。スタッフに脚本とは別に「オペレッタ構成・作詞 島田磐也」とありますから、物語の部分を歌に切り出していたようなのですが、バカバカしいほど何でも歌にしちゃうセンスは見事だと思いました。ロマンチックだの、ロマンスだのといった横文字まで歌詞に登場するのですから、かなりいい加減な作りなようにも見えます。しかし、そこに楽しい映画を作ろうという心意気も見えてきます

また、モノクロ画面ではありますが、美術スタッフが健闘しているのでしょうか。画面にスカスカ感がありません。歌うバックに常にモノがあるという絵作りをしていて、画面がにぎやかに作られているのです。これも娯楽映画として大事なところで、以前、近作の「オペレッタ狸御殿」の予告編を観たとき、歌うバックに何もないのが妙なスカスカ感を与えているのが何だか貧しい印象を感じてしまったのです。この映画では、セットの後ろに本筋とは関係ない通行人を配したり、必要以上に傘を置いて、傘で画面を埋めるといった工夫をしていて、楽しい映像に仕上がっています。

この映画がどの程度ヒットしたのかはわかりませんが、単純明快なストーリーに歌を盛り込んだオペレッタ映画は当時何本も製作されたようで、これもそんな中の一本だったようです。こういう楽しい映画が戦前に作られていたということは記憶しておいてほうがいいと思った次第です。ただし、戦時色が濃くなるとこういう映画が作られにくくなっていく歴史も含めての話ですが。

「恐怖の足跡」はホラーファンには一見のオススメ

昭和37年(1962年)の映画「恐怖の足跡」をDVDで観ました。

アメリカの田舎町、車の競走をやってた若者の車が橋から川に落ちてしまい、乗っていた若い女性3人のうち、メアリー(キャンディス・ヒリゴス)だけがなぜか川から自力で上がってきます。教会のパイプオルガン奏者だった彼女はユタ州の教会へ移り、新たにパイプオルガン奏者の職を得ます。ところが、車の窓や下宿屋に薄気味悪い顔をした謎の男が姿を現し始めるのです。そして、海辺の遊園地の廃墟がなぜか気になって仕方なくなり、デパートにいるときには全ての音が聞こえなくなり、彼女の存在を誰も認識しなくなるといった怪奇現象が起こるのです。たまたま出会った医師は、強烈な事故の体験がもたらした幻覚だろうと言うのですが、彼女にはそうは思えません。そして、自分の下宿にも男が現れ、その町を去る決意をするのですが、なぜか、遊園地の廃墟へと向かってしまうのでした。果たして、遊園地にどんな秘密があるのか、そして謎の気味悪い男の正体は?

日本では劇場未公開ながらカルト映画だという評判だったので、食指が動きました。ちょっと「呪われたジェシカ」に似ているというのも気になった点でした。「呪われたジェシカ」というのは、吸血鬼ものなんですが、ヒロインを悩ますものが現実なのか幻想なのかよくわからないところがあって、その見せ方が大変怖かったです。深夜テレビで観たのですが、それは怖い映画だったのです。そして、もう一つ、この類のホラーサスペンスの典型ともいうべき結末を持っているのです。監督のハーク・カーヴェイはこれ以外に名前を聞かないのですが、突拍子もない怪奇な話を手堅くまとめています。

メアリーという女性はヒロインとしては普通の女性として描かれているのですが、あまり人付き合いが好きではない内向的な女性です。オルガン奏者としては優秀なようなんですが、人前に出るのを嫌ったり、向かいの部屋の男の誘いにもつれなくするなど、どっちかという変人だと思われちゃうタイプ。そんな彼女ですから、不気味な顔をあちこちで見かけてもそれを誰かに相談できないという設定はうまいと思いました。やっと、相談できた相手は医者で、彼女の妄想だと言われてしまいます。ただ、そう言われた彼女は、自分の心の問題なら自分で何とかしてみせると言い切ります。今の精神医学だと、それでも外的療法があるんですが、当時はどんなもんだったのかちょっと気になります。やはり精神的なものは本人が自力で克服することが第一だったのかもしれません。

この先は映画の結末に触れますのでご注意ください。

それでも、謎の不気味な男は彼女の周囲に現れ、オルガンを弾く彼女にその不気味な男のイメージがとりつくシーンがなかなかに圧巻で、その幻想の中にも、遊園地の廃墟が現れます。あの廃墟に何かあるに違いないと思って、そこへ出かけても最初は何も見つかりません。しかし、自分の部屋の中にまで不気味な男が現れるに及んでこの町を出る決意をするメアリーを、また自分の存在が他人に見えなくなるという症状が襲うのです。完全に外界から存在を認知されなくなった彼女が町をさまようシーンが見所です。そして、乗り込んだバスには死人のような不気味な連中が彼女を待ち構えていたというショック描写もありますが、町を出ようとした以降の出来事は、一応夢オチとして決着がつきます。遊園地の廃墟に再度向かった彼女ですが、そこでは死人のような連中が踊りながら彼女に迫ってくるのです。そして、その踊りの中に自分の姿を見つけ出し、半狂乱になった彼女を死人たちは追ってきます。白日のもとに砂浜を逃げ惑う彼女を死人たちは追いかけてくるのです。これも夢オチかと思うと、砂浜に彼女の足跡とそれが途中で消えているのを保安官や医師が発見するのです。一体、あのちょっとおかしな女はどこへ行ってしまったのか。

ここでさらにオチがついて、最初の事故を起こした車が泥の川底からやっと引き上げられると、その中にメアリーの死体もあったというところでエンドマークが出ます。要は、メアリーは最初から事故で死んでいて、それがどう間違えたのか現世にさ迷い出てしまい、最期は死人の世界に連れ去られたという解釈ができます。ただ、それも一つの解釈でしかなく、いろいろな読み方ができる内容になっているのが面白い映画だと言えましょう。また、ホラー映画の様々な設定や要素がこの映画にはたくさん描かれていることからカルトと呼ばれるようになったと思われます。自分が他人から認識されずに孤独に追い込まれてしまうヒロイン、なぜか遊園地の廃墟が気になって頭から放れない強迫観念、白塗りの男があちこちに姿を現す不気味さ、ゾンビの如く群れをなして襲ってくる死人たち、怪現象が実は夢であったという展開など、ジョン・クリフォードの脚本は説明を省いて、メアリーの周囲に起こる不気味な出来事だけをうまく並べて、ラストでぞっとさせる後味を与えることに成功しています。

40年以上前の映画でありながら、ヒロインのキャラクター、医師の診断など無理のないもので、現代の物語としても十分に通用する内容になっています。こういうオチを持った映画は以降に何本も作られていますが、そのルーツとしても注目すべきものがあり、その出来栄えも決して見劣りしない内容だったと思います。今回はテレビの画面で観たのですが、映画館のスクリーンで観たら相当怖いだろうと思わせるものがありました。モノクロ映画ならではの怖さを感じさせるところもありまして、傑作とは言いがたく、見様によっては珍品ということにもなるですが、ホラー映画好きには一見の価値のある映画と申せましょう。

「スパイダーマン3」の何様感がちょっと気になる

新作ながら公開からちょっと間が空いてしまいましたが、川崎チネチッタ4にて「スパイダーマン3」を観てきました。ここは音がクリアでサラウンドもよく回るので、こういう映画にはもってこいです。

ピーター(トビー・マクガイワ)とメリージェーン(キルスティン・ダンスト)はいい関係でいよいよプロポーズしようと段階、そんなある夜ハリー(ジェームズ・フランコ)が変身前のピーターを攻撃してきます。何とか反撃した結果ハリーは近い記憶を失ってしまいます。一方、ピーターのおじを殺した男が刑務所を脱走、その逃走中に実験場に紛れ込んだ彼は突然変異してサンドマン(トーマス・ヘイデン・チャーチ)になり、病気の娘のために現金輸送車を襲いますがスパイダーマンに阻止されます。ピーターには宇宙から飛来した寄生生物がとりついて黒いスパイダーマンになり、性格も変わってしまいます。初舞台が酷評されて意気消沈しているメリージェーンにもやさしい言葉をかけてやることができません。攻撃的な性格になってしまったピーターは、サンドマンへ復讐するのですが、その心根をおばに諭されますが、寄生生物はピーターにとりついてなかなか離れないのでした。果たして、スパイダーマンは元の心とメリージェーンを取り戻すことができるのでしょうか。

スパイダーマンシリーズもいよいよ3作目。原作は未読なんですが、1,2作目は因縁話を絡めたドラマチックな活劇になっていまして、なかなかに盛り上がるお話に仕上がっていました。今回は、ピーター、ハリー、メリージェーンを巡るドラマに一つの区切りをつける一方で、サンドマン、ヴェノムというニュー敵キャラと、グウェンというサブヒロインまで登場させるというかなり欲張った内容のお話になっておりまして、サム・ライミ監督は活劇シーンを中心に2時間半弱の映画にまとめあげています。

前作は、不幸のつるべ打ちのようなドックオクの物語に、運命的な死による結末が、何だか重くてしっくり来ないところがありました。今回は、死へと収束する展開にはなっていないので、ドラマ的な重さは感じなかったのですが、ラストでの主要人物の死は、「これって必然性ないじゃん」って突っ込み入れたくなりました。今回は趣向が盛り込み過ぎの感もあって、最後のタッグマッチで無理やり決着をつけたように見えます。新キャラのヴェノムはドラマに割り込んだ感が強くて、ラストに向けてサンドマンのタッグパートナーを無理やり押し込んだという感じでした。消え方も無理やりでしたしね。

重いドラマが薄くなった分、主人公ピーターのヘタレぶりが前面に出たように思います。もともと、ヘタレなオタク野郎だったピーターに蜘蛛が噛み付いて、特殊能力を得て、その大きな力に付随する責任も認識したはずだったのですが、自分の人気者ぶりに得意顔だったり、寄生生物によって攻撃的になっているとは言え、メリージェーンにひどいことしたりと、こいつダメじゃんというキャラになっています。それの克服が結局黒いスーツを脱げば大丈夫というのは、「ホント? それだけじゃないでしょ」って突っ込みを入れたくなります。性根が変わってないのに、ラストでヨリを戻して大丈夫なのかとメリージェーンが心配になってきます。グウェンの存在が半端なのは続編での三角関係への伏線なのだとしたら、まだパーカーのヘタレ路線は続くということでしょうか。

メリージェーンを演じたキルスティン・ダンストはどんどんヒロインとして深みを増してきていて魅力的になっています。もう一人にサブヒロイン、グウェンを演じたブライス・ダラス・ハワードは今回はキャラが薄くて美形だけの出演でした。また、脇でジェームズ・クロムウェル(グウェンの父)やテレサ・ラッセル(サンドマンの奥さん)が出ていて映画を支えている他、毎度出演のブルース・キャンベルが今回は怪しげなフランス人役で笑いをとっています。

今回一つ気になってしまったのは、スパイダーマンが偉くなりすぎてないかってところ。ニューヨークの名誉市民になるのはいいんですが、脱獄して輸送車強盗までしてるサンドマンを許すってのは、お前何様のつもりだって思います。脚本も演出もそこに無頓着なのが、大変気になりました。病気の娘のためとはいえ、目的が正しければ何をしてもいいのかってところがあまりに大雑把だし、スパイダーマンの許しをもらえるとそれでチャラになるのかってところがあまりに安直です。まあまあ、そんな細かいところに目くじら立てることもないと思いつつ「大きな力には大きな責任がついて回る」といったマジメなテーマを扱ってきたシリーズにしては、意外に馬脚を現してしまったような気がします。

SFXは相変わらずスピード感あふれる活劇を映像化しており、特にオープニングのピーターとハリーの変身前対決が迫力満点でした。サンドマンの効果は、ちょっとファンタジーっぽいのがよかったのですが、結局、勝負の決着が曖昧になっていたのは物足りなくて残念でした。ともあれ、これだけのキャラを縦横無尽に飛び回らせたSFXは見事でして、今回、ドラマに「?」の部分が多いのを大いにカバーしていました。クリストファー・ヤングの音楽とありましたが、ダニー・エルフマンのスコアがかなり使われていたようで、ドラマチックに盛り上がる部分でヤングらしい旋律が聴かれるくらいだったのが、ヤングのファンとしては微妙な感じでした。スコアのサントラ盤を出して欲しいところです。

「インフェルノ」は流麗なピアノに聴き応えあってオススメ


1980年の「インフェルノ」は、「サスペリア」で有名なイタリアのダリオ・アルジェント監督が、アメリカ資本で撮ったホラー映画で、ほとんど論理性を無視した怒涛の展開で、私のような人間は結構好きだったりするのですが、世間の評価はあまり芳しくありません。そんな映画の音楽を担当したのが、EL&Pが行き詰っていたころのキース・エマーソンでして、ゴブリンのサウンドとは一味違う格調の高いスコアを書き、この先、イタリア映画のホラーにその腕を振るうきっかけになりました。

オープニングは流麗なピアノソロの不安なアルペジオから始まり、それにオーケストラが絡んでホラーだけと華麗な音はこれまでのホラー映画と一線を画する音になっています。その後も、ピアノソロをオーケストラがサポートする不安なスコアが続き、アコースティックピアノの繊細な音を前面に出しす、特にピアノの最高音部から低音部までをフルに使った構成が成功しています。録音もピアノの音をきれいに拾っているので、サントラ盤というより、ピアノのための室内楽曲ような趣があります。ピアノが入らない曲も小編成のオーケストラによる不安を煽る音作りが見事で、編曲・指揮を担当したゴッドフリー・サーモンの仕事が光ります。特に「Kazanian's Tarantella」はとんでもないシーンに流れる曲なんですが、音楽だけでも(だけの方が)十分に聴き応えがあります。

しかし、ドラマが進むに連れて、エマーソンらしいシンセサウンドも加わっていきます。メインテーマをシンセで演奏した「Elisa's Story」などはメロディの美しさが大変印象的です。そのピークにあるのが「Mater Tenebrarum」という曲で、コーラスとシンセを組み合わせたハードロックなミサ曲という感じでしょうか。映画ではクライマックス直前に主人公のマークが謎の核心に近づいていくシーンに流れ、エンドタイトルでもう一度流れます。

音楽だけで相当に聴き応えあり、あの映画にはちょっと勿体ないような気もするのは、全体をピアノ中心の曲でまとめたエマーソンのセンスのよさでしょうか。彼はこの他「デモンズ3」「ゴジラ・ファイナル・ウォーズ」などを手がけているのですが、オーケストラをバックにアコースティックピアノをここまでメインで鳴らしているのは「インフェルノ」だけで、得意のシンセをサポートに使っているあたり、エマーソンのファンは注目すべきアルバムだと思います。

「大怪獣バラン」は怪獣映画の典型、ただ、それ以上のものでなく

劇場で観たいと思ってもなかなか思うように観られない映画があります。最近の映画の場合は、めぐり合わせが悪かったとあきらめることもできるのですが、昔の映画になると、劇場以外のメディアでもいいから観たいという気分になります。

昭和33年の「大怪獣バラン」という映画が劇場公開されました。今回はこの映画のDVDを観ました。

日本のチベットと呼ばれる東北地方の奥地で、地理的に珍しい蝶が発見されたことから、調査に向かった二人の研究員が謎の死を遂げます。魚崎(野村浩三)と新聞記者の由利子(園田あゆみ)は、死の謎を追って、北上川上流の岩屋部落に入ると、そこではバラダキ山神を鎮める儀式の真っ最中。すると、禁断地域の向こうから怪物の咆哮が聞こえてきます。その奥の湖へ向かった魚崎たちの前に、巨大なトカゲのような怪獣バランが姿を現し、岩屋部落を全滅させます。早速、自衛隊が湖を包囲し爆雷攻撃をしかけますが、バランは通常火器をものともせず、手足の間にむささびのような膜を張って、空を飛んで姿を消します。次に現れたのは、東京湾近くの海上で、漁船を襲い、自衛艦の攻撃をものともせず羽田に上陸してきます。特殊火薬に期待をかけて、バランの腹の下で爆発させるのですが、これまた失敗、果たして無敵の怪獣バランに人類は勝利を収めることができるのか。

もともとはテレビ用に製作が開始され、後からシネスコサイズの劇場用映画に変更になったということで、東宝スコープではなく、東宝パンスコープという表示になっています。これは、スタンダードで撮影したネガをトリミングしてシネスコサイズの画面を作ったものと思われます。東宝の特撮映画は「空の大怪獣ラドン」「地球防衛軍」がカラーで製作されていたのですが、この作品はモノクロでして、特撮スペクタクルの大作感はあまりありません。ただし、製作田中友幸、監督本多猪四郎、特技監督円谷英二の特撮映画定番トリオが担当しています。

映画の前半はいわゆる秘境ものでして、東北の奥地が日本のチベットと表現されているのが、今では問題になるそうですが、とにかく、都会人が珍しい田舎の部落で、神主の権限が強いところで、バラダギ山神を祀る人々が描かれるのです。バラダギ神のお面をかぶった人々が、神を鎮めるために歌い踊るってのを現代(と言っても、昭和33年)にやるのは問題があるのかもって気がします。でも、主人公たちはそういう地方信仰をまっこうから迷信だと否定してかかります。今だとこういう断定的な言い方をしないのかもしれませんが、高度成長の宇宙時代(人工衛星で盛り上がっているころ)には、これが普通なのかもしれません。でも、迷信を否定した先が怪獣バランですから、そういう意味ではのどかな時代だとも言えます。

バランが登場してからは、自衛隊との攻防戦のみで描かれていまして、湖から追い出されたバランが部落を破壊し、自衛隊の攻撃にもびくともしないところを見せます。そして、意外やムササビのように空を飛ぶというサプライズを見せた後、海中を移動するバランと艦隊との戦い、さらには空からのミサイル攻撃となり、羽田に上陸してからは戦車隊との攻防になるという、怪獣映画の一つの典型を見せてくれます。人間側にはほとんどドラマはなく、主人公は事件の目撃者以上のポジションは取らないのですが、それでも1時間半弱を楽しませる内容にはなっていました。

ただ、東宝の怪獣映画の中では、今ひとつステータスが低いのも事実でして、それは盛り上がりを欠くという点に集約されると思います。バランが壊すものは、岩屋部落と羽田空港というのは、都市破壊というにはスケールが小さく、また、怪獣の存在のキャラが弱いので、怪獣そのものに映画を支えるパワーがなかったということがあります。ゴジラは原水爆の落とし子であり、ラドンには大自然の驚異というキャラクターが与えられていたのですが、バランはたまたまそこにいたでかいトカゲ以上のものでなく、大暴れするわけでもなく、強大な武器も持っていません。そこがリアルなのだと言えば、そうなのですが、映画にするなら、さらにドラマなりキャラクターなりを与えてあげないと、バランが引き立たないのです。

バランは造形がすばらしく、特撮にもリアルな絵が多いのですが、やはり地味な印象になってしまったのは、脚本が弱いのかもしれません。もっとバラダギ山神の部分を膨らませてくれたら、キャラも立ったのかもしれませんが、そこを迷信で片付けてしまったのが映画の限界だったのかしらん。

伊福部昭の音楽は、コーラスによってバラダギ山神を歌い上げたテーマ曲が素晴らしかったのですが、後半の自衛隊を描写するマーチに今一つ元気がないように思えました。

「スクラップ・ヘブン」作ってる方ほど観ている方は楽しくない

今回は2005年に封切られた日本映画「スクラップ・ヘブン」を横浜のシネマ・ベティで観てきました。今、自分にとっての一番手近な映画館でして、ここで上映される映画はモノが何であれ、なんとなく観てしまう機会が増えてきます。

デスクワークばっかの警察官シンゴ(加瀬亮)はバスジャック事件に遭遇するのですが、自分では何もできないまま、若者が銃で撃たれ、乗り合わせた若い娘は義眼を落とし、犯人は結局自殺します。その後、街で撃たれた若者テツ(オダギリ・ジョー)と再会し、二人は「世の中想像力を欠く連中ばっかだ」というところで意気投合して、復讐代行業なるものを立ち上げます。そして、公衆トイレで依頼を受けて、医療事故を起こした院長や子供を虐待する母親への復讐を実行するのでした。そして、バスジャックに遭った娘サキは薬剤師ながらヤバイ爆発物を作っている様子で、二人に社会全体への復讐を依頼してきます。一方、シンゴは職場でのイジメを受けてるし、テツの父親は精神病院に入院しているし、どうにも世間とうまく折り合わない3人の行方は?

「フラ・ガール」で一躍メジャーになった李相日監督が、脚本も兼任しました。才気走った絵作りの導入部が、いかにも若い監督らしさを感じさせるのですが、どっか変なところに連れてかれそうな不安も感じてしまいました。

シンゴとテツが意気投合するまでは、まるで「ファイト・クラブ」みたいで、リアリティを感じさせない展開なので、テツは実はバスジャックで死んじゃってるんじゃないかと思ったりもしたのですが、後半、父親の存在が見えてくると、あ、こいつも現実に存在する人間なんだとわかってきます。でも前半は「ファイト・クラブ」をかなり意識してるのかパクってるような印象を与えます。

想像力の足りない連中が多いというのは確かにその通りかもと思うところがあるんですが、それが復讐代行業に結びつく理屈がよくわからないです。復讐しようと思ってもできないのは想像力の欠如よりも、世間の常識が邪魔をするのではないかしら。想像力が欠如してるのは、むしろ、こいつらの方かもしれません。まあ、若い連中は世間を見下したようなところがありますから、シンゴとテツにはそういう意味のリアリティはあります。

悪徳院長や虐待母親への復讐シーンはテンポよくコミカルに演出しているのですが、偉そうなことをのたまった後にやってる事の見せ方としては、座りが悪いという印象を持ってしまいました。自分のやった復讐代行の新聞記事をシンゴがスクラップしてるのが題名の「スクラップ・ヘブン」につながるようなのですが、それがエスカレートして、交番から拳銃を盗み出すところまで行ってしまうと、またお話が飛躍してしまいます。シンゴをイジメる警察組織はメンツをつぶされると一番応えるから、交番から拳銃を盗んじゃおうというのは、ひねくり過ぎの発想でしょう。シンゴとテツが本気でそう思って行動したのだとしたら、ホントに只のバカです。後半のために無理やりとってつけたような展開は、脚本、監督兼任の限界のように思われます。

以後は結末に触れますのでご注意ください。

後半になると、個人の復讐に飽き足らなさを感じ出した二人が、社会に復讐したいというサキの依頼に共鳴します。「全部を一瞬にして消しちゃう」方法があると言って、サキは爆薬を見せびらかします。この先「全部を一瞬にして消しちゃう」ことがキーワードになるんですが、その意味は最終的に映画の中では語られません。それがわからないのは、観ているこちらの想像力の欠如になるのでしょうか、私に言わせれば作り手の説明力、創造力の欠如だと思うのですが、全体的に後半は思わせぶりな展開、演出が目立ってきます。テンポもだんだん落ちてきて、作り手の思い入れが観てる方に伝わってこないように思えます。きっと、作ってる方や演じてる方は思い通りにやって、楽しかっただろうなあって気がするのですが、それがやけに冗長に見えてしまうのです。そんな中では、柄本明の登場シーンだけは無駄がなくてインパクトも十分でした。演技に冗長さがないからそう見えるからかもしれません。

主人公3人はみんな独善的で、他人の事情なんてお構いないので、まるで共感を呼びません。若いときは、唯我独尊みたいなところがあるから、それを研ぎ澄ませば、反社会的なテロ的な行動になるのかもしれません。それに3人ともそれぞれに社会に対する反抗心を抱く理由づけはされているのですが、それでも共感を呼ぶにはちと弱いです。また、ラスト近く、シンゴとテツのやった交番襲撃が同時多発的に起こるという展開は、単に愉快犯を扇動しただけのようで、私には不愉快でした。テツがバスジャック遭遇時の服装で、県警本部に乗り込んで最後に自爆するに至っては、正直なところまるっきりついていけませんでした。自爆する理由がなさすぎなんです。何か事を成し遂げた覚悟の自殺でもないですし、そもそも警察に出頭する理由がわかりません。シンゴが死ねそうで死ねないラストも、やたらに長い。作り手、演じ手のやりたいほうだいやって楽しそうなのが伝わってくるだけに、思うところをきちんとフィルムに焼き付けてくれよと言いたくなるのですよ。

「初恋のきた道/この子をさがして」は胸キュンで泣ける


胸キュンの音楽というとまず思い浮かぶサントラ盤がこの「初恋のきた道/この子をさがして」のカップリング盤です。チャン・イーモウ監督の中国映画なんですが、どちらの映画にも「教育」に対する敬意と希望が感じられて大好きな映画ですが、三宝(サン・パオ)の手がけた音楽も素晴らしいものでした。

「初恋のきた道」は、父母のなれそめを描いたドラマなんですが、出会いで母親の方が一目ぼれ、その一途な甘酸っぱい想いを音楽が見事に描写しています。キーボードや笛によって何度も繰り返される恋のテーマのやさしく切ないメロディはそれだけ聴いても美しいのですが、映画のチャン・ツィイーのかわいさとの相乗効果で胸がキュンとなる名曲となっています。もう一つのメインテーマは大きな時間の流れを感じさせるもので、シンプルなメロディの繰り返しは教育者としての父親のテーマであり、ラストではそれが息子へ引き継がれていくのを音楽が見事に表現しています。叙情的な恋のテーマと、叙事的な父親のテーマ、この2つのテーマだけで映画全体を見事にささえています。目がウルウルしてくるという花粉症みたいなアルバムに仕上がっています。

「この子をさがして」は、一つのテーマだけを、笛や胡弓で繰り返し演奏してるんですが、どこか寂しげで、でも力強いメロディが美しく、ラストではオーケストラで演奏されます。この映画のラストシーン(子供たちが黒板に好きな字を一文字づつ書いていく)が素晴らしいのですが、そのバックにこのオーケストラ版が流れるので、この曲を聴くとそのラストが思い出されて、また、ウルっときてしまいます。

音楽として聴いても美しいメロディが印象的なんですが、どちらも映画が素晴らしいので、映画を観てからこのアルバムを聴くと、さらに感動できるものがあります。シンプルなメロディだからこそ、心の琴線に触れる音楽になっているのかもしれません。どちらも最後にテーマがオーケストラで演奏されることでさらに感動にまで盛り上げることに成功していまして、音楽の力を感じさせるサントラ盤の王道というべきアルバムに仕上がっています。

「スピード」はアクション音楽の典型


SFXによるスペクタクルと派手なアクションを組み合わせるというのは「ダイ・ハード」が走りではないかと思っているのですが、そのアイデアと面白さで観客を興奮させたのは「スピード」が一枚上ではないでしょうか。音楽も「ダイ・ハード」がマイケル・ケイメンが重厚なオーケストラサウンドを聴かせたのに対し、こちらでは、新鋭にマーク・マンシーナが早いテンポでシンセをたっぷりと使い、さらにその上をオーケストラがフルに鳴るというもので、テンポの良さ、スピード感、オーケストラをぶん回すように鳴らす重量感が、この後のアクション映画の音楽の典型となりました。その前兆として、ハンス・ツィマーによる「ブラック・レイン」の重厚なアクション音楽があったのですが、この「スピード」のサントラにも、ツィマーが協力しています。また、単にアクション音楽というだけでなく、ヒーローを称えるテーマも盛り込んでいるのも特徴でして、畳み込むアクション音楽からヒロイックなファンファーレへとつなぐという音楽パターンが確立したことも見逃せません。

この映画では、タイトルに「スピード」とついているだけあって、アクションもサスペンスもすべて疾走する音楽として表現されており、そのスピード感とドラマチックな盛り上げは、全編を見せ場にした映画本編を支えるに相応しい音作りになっています。しかし、勢いと重量感を共存させるのはなかなか難しい作業のようで、この映画でもスピード感は十分ですが、バスや地下鉄の重量感を描写する音があまりなく、オーケストラをフルに鳴らしても、重量感より勢いが先行するという独特の音作りになっています。

一方でサスペンスの部分でも、シンセサイザーの不安な音を、バックのオーケストラがサポートするという音作りになっており、爆弾犯の不気味な描写音楽でもシンセドラムをうまく使っています。

「恋愛睡眠のすすめ」はうらやましい困ったちゃんのお話

新作に「催眠恋愛のすすめ」を渋谷シネマライズで観て来ました。全席指定というのはちょっと面倒なんですが、そこそこの大きさのスクリーンでデジタル音響もあり、フラットな1階席に対してスクリーン位置が高いところにあるのは、評価できる劇場でした。

ちょっとばかり変わり者ステファン(ガエル・ガルシア・ベルナル)が母親に言われて母親が大家のアパートに引越し、カレンダーの製版係になります。最初はデザイナーと思っていたのにそうでなくってちょっとがっかり。そのうっぷんを夢の中で晴らしています。また、隣に引っ越してきたステファニー(シャルロット・ゲンズブール)と何となくいい雰囲気になるのですが、その想いをうまく伝えられずにいて、夢の中で関係が進展してます。現実よりも、夢の中の方にリアリティを感じてしまい、現実のステファニーとうまくいかないステファンの恋の行方は?

「エターナル・サンシャイン」で、恋愛映画の変化球を投げたミシェル・ゴントリーが脚本、監督した本作はまたしても変化球。夢の中に逃げ込んでばかりいる、シャイで変わり者ステファンの恋のお話。相手のステファニーもちょっと夢見る不思議ちゃんみたいなところがあって、釣り合いがとれていそうに見えて、ステファンの変人ぶりがちょっと危ないレベルなものだから、恋の成り行きもなかなか危うくて、見ていてはらはらさせられるという寸法です。

ステファンは何かというとママへの依存度が高くて、災害シーンのイラストカレンダー「災害論」をアピールしたり、夢と現実がごっちゃになって、現実の恋のチャンスすら逃がしそうになったりと、かなり困ったちゃんです。映画の中でも、どこまでが夢で、どこからが現実なのか曖昧にしているところがあるので、どこまで真に受けていいものか迷うところもあるのですが、とにかく夢に振り回された挙句に、彼女を失いそうになるのですから、これはビョーキと言ってもいいでしょう。夢が現実世界での行動を妨害するというのは、考えてみれば怖い話なんですが、映画はそこを深追いしないであくまで主人公の困ったちゃんを微笑ましいレベルで描きます。

ステファンの夢は、アニメを中心に描写されて、どこかノホホンとした味わいがあります。CGとかで想像を超えるようなモンスターを出したりしないで、紙細工の町とか自動車、粘土の火山など手作り感のある映像はなかなか魅力的です。ステファンが空を飛ぶシーンはいかにも特撮という絵作りをしてますし、その拙い感じが、ステファンのある種の幼さという見せ方をしているのがうまいと思いました。

では、二人は破局を迎えてしまうのかというと、そうはならないのが、正直言って不思議です。ステファニーがきちんと一人の人間としての存在感があるおかげで、ステファンの一人空回りのような恋をうまく着地させています。ステファンの存在感がどうにもあやふやしていて希薄なのに対して、ステファニーは演じているシャルロット・ゲンズブールの好演もあって、不思議ちゃんなのに存在感があるというのに感心しました。彼女あって、強引なラストが生きたという感じでしょうか。

でも、ステファンのように夢の世界の中で遊んでいられたら、幸せなんだろうなあって思います。この映画のなかで、半分はステファンは寝てるわけです。そして、カレンダーの製版という仕事の方が現実感が希薄なんですもの。誉められた生き方ではないけれど、何だかうらやましい、ガエル・ガルシア・ベルナルが幸せそうに演じているので余計目にそう感じてしまいます。

ただ、ミシェル・ゴンドリーがそんな夢の世界に遊ぶことを単に「どう?楽しいでしょ」という見せ方しかしていないのには不満も覚えました。現実に直面することも大事だという見せ方もできましょうし、夢の中にこそ人の幸福があるんだという見せ方もできたでしょうが、そのあたり、どうにも中途半端なので、結局オモチャの馬に二人が乗って旅立つ絵を見せたかっただけのように思えてしまうのでした。それとも、私が夢を素直に楽しめないつまらない大人なのかも。

「約束の旅路」は波乱万丈、でも、正直重いです

また、新作の「約束の旅路」を岩波ホールで観て来ました。220という座席数の割りにはスクリーンは小さく、奥まったところにあるのはいいのですが、位置が低いので、前にちょっと座高のある人が座ると画面が欠けてしまいます。もう少し、画面位置を上にして欲しいところです。音響はドルビーデジタルが入っているのですが、今回は映画のせいかあまり立体感が感じられませんでした。

エチオピア難民キャンプに、イスラエルのモーセ作戦が実施され、ユダヤ人だけがイスラエルへ移送されることになりました。9歳の子供が死んだユダヤ人の子供になりすまして、その中に紛れ込みユダヤ人としてシュロモという名前を与えられ、イスラエルの里親一家に養子として引き取られます。イスラエルの中でも左派に属する義父ヨラム(ロシュデイ・ゼム)と養母ヤエル(ヤエル・アベカシス)は、黒いユダヤ人ということで差別されるシュロモを守り、彼は一家の中ですくすくと育ちます。しかし、実の母親への想いを絶ちがたいシュロモは、テレビで観た宗教指導者ケス・アムーラのもとを訪ねて、母のいる難民キャンプへの手紙の代筆を依頼します。そんな彼にサラという彼女ができるのですが、なかなかお互いの想いを伝えることができないのでした。果たして、シュロモとサラは結ばれるのか、そして、実の母と再会することはできるのでしょうか。

オープニングは難民キャンプへイスラエル軍がユダヤ人だけを移送すべくやってきます。その列の中に自分の子を潜り込ませようとする母親。毅然として「行きなさい」と9歳の息子を追いやります。「その時が来るまで戻ってくるな」と息子に命じ、「泣くな」ときっぱり。思い切ったことをする母親ですが、息子はそれに従い、イスラエルへ移送される列の中の子供を失った母親の手を握ります。そこで、子供を失った母親とその子供を看取った医師が無言の協力をすることで、彼は無事にイスラエルに送られるのです。この映画は、このように主人公を助ける人々がいろいろな形で登場します。それらの人々に支えられて彼は無事に成長することができるのです。ですが、最初に入れられた寄宿舎では問題児として持て余され、よくしてくれる里親のもとでもなかなか心を開きません。

なぜ、母親がそうまでして息子を手放すのか、そして彼がなぜ心を閉ざすのか、映画の後半でその理由が語られます。イスラエルに来るまでのシュロモの過去が語られるのですが、あまりにも壮絶で悲惨な過去は言葉で語られるだけなので、余計めに想像を絶するものがあります。死が隣り合わせの中で希望のない日々を送っていたら、微かな光が射した瞬間を逃がすわけにはいかないのだということがだんだんとわかってきます。また、シュロモの心の負い目の部分も語られるのですが、幼い子供がそんな重いものを背負わなければいけないのか、それをずっと胸の奥にしまっておかなくてはならないのかというところは、胸が締め付けられる思いがします。しかし、それは彼だけではないことも見えてきます。生きていること即ち生き残っていることなのだ、そんな世界が今もあるのだということは知っておくべきだと思いました。映画の冒頭で、シャワーを浴びたときに彼がなぜ「ぼくのせいじゃない、ぼくのせいじゃない」と叫んだのか、それは劇場で確認していただきたいと思います。

この映画では、もう一つ、民族のアイデンティティの問題にも触れています。ユダヤ人であるとはどういうことか、ユダヤ教の信者が必ずしもユダヤ人だとは言えず、ユダヤ人の中でも宗教に熱心でないものもいて、ユダヤ人の中でも白人と黒人では差別される。自分をユダヤ人だと偽っているシュロモはそれを負い目に感じているのですが、自分がユダヤ人になろうとすればするほど、エチオピア系ユダヤ人の扱いに憤りを覚えてしまう。自分が何者なのかを証明しなくてはいけないのに、自分のあるべき何者がわからないという状況。その時、彼は実の母親に想いを馳せるのです。なぜなら、母親は自分の存在を確かなものにしてくれるから。

後半で、シュロモがイスラエル軍の軍医として戦場にいるシーンは、先日観た「パラダイス・ナウ」を重ねてみると複雑なものがあります。この映画では、和平を望む左派という立場をシュロモの義父母はとっているのですが、それもあくまでイスラエルの立場からであり、パレスチナから見た和平との違いはありましょう。義理の祖父がシュロモに「全てのものは皆が分けあうべきだ」というのは、ある意味、希望でもあり、それこそが紛争の火種だということに歴史の持つ重みを感じてしまいました。

重い内容のドラマの中で、シュロモとサラの恋愛模様だけがコミカルな味わいで描かれます。サラがモーションをかけてくるのにちっとも乗っていかないシュロモ。サラは自分の家族を棄ててもシュロモと一緒になりたいと思っているのに、それに応えてやらないのは、やはり自分がユダヤ人を偽っている問題があるからなんですが、そもそも肌の色とか出自に関係なくサラはシュロモに魅かれているのになかなか気付かないのです。義母の一押しでやっと結婚にこぎつけるあたりはヘビーな物語のなかの数少ない微笑ましい瞬間でした。

2時間半の大河ドラマの中で、実の母親と義母の存在、彼女ら二人の注ぐ愛情が、シュロモに生きる力を与え続けます。そして、多くの人がシュロモを支えているのが見えてきます。そこには、周囲の人間の行動があってこそ、シュロモは義母と出会い、母親との再会への道が開けることも示されます。それらの多くの人間の行動の流れが、ラストに結実するのが感動的でした。しかし、やはり母親の愛の強さを痛感する物語だと言えます。そして、その愛情は二人の母から、シュロモ、サラ、その子供へと引き継がれていくところを示唆して映画は終わります。

ルーマニア出身のラデュ・ミヘイレアニュが、原案、共同脚本、監督を担当し、ベルリン映画祭で賞を取った作品です。アフリカ難民の中のエチオピア系ユダヤ人という視点は、私にとっては新鮮で、また、難民キャンプという普段ニュースで聞き流してしまう言葉を見直させる映画でもありました。波乱万丈の展開は映画としてよくできてると思うのですが、やはり重いなあと感じてしまうのも正直なところです。しかし、学ぶところの多い映画でもあるのでした。

音楽も映画も傑作「スペース・バンパイア」


映画はゲテモノ扱いされているのですが、これは、SF、ホラー、サスペンス、スペクタクル、エロスと娯楽映画の要素をありったけ放り込んだエンタテイメントの傑作だと思っています。これ以降の映画でこれだけの勢いのある映画にお目にかかったことがありません。辛気臭い「スター・ウォーズ」サーガなんかよりこっちを断然押します

音楽のヘンリー・マンシーニは、音楽はいいけど映画には不満だったようですが、まず、アップテンポのボレロのリズムで押しまくるメインテーマが圧巻です。予告編でこの曲が流れたときはこれだけでもこの映画観に行かなきゃと思いましたもの。ロンドン交響楽団をフルに鳴らしたこの曲は、今発売されているDVDでは、映画の冒頭とエンドタイトルで2度流れるのですが、封切時の劇場公開版では、オープニングはすぐにドラマが始まり、宇宙船チャーチルのシーンにタイトルクレジットが出るというものでした。そして、ラストの大盛り上がりの後に、あのテーマが力技演出のとどめとして流れると、「お、おお」とそれに圧倒されてしまうという演出だったのです。たしかにエンドクレジットだけに使うにはもったいない名曲なんですが、それでもあえてオリジナルの演出を取ります。何だかワケわからないけど盛り上がったとどめにこそ初めてこの曲が流れるのがベストだと思います。

それ以外の曲もマンシーニのパワーは行き届いていて、特にクライマックスのロンドンのパニックシーンで、音楽がテンションを下げずに映像と突っ走るのは見事ととしか言い様がありません。強大なパワーに翻弄されるロンドンを描写する、うねるような華麗で重厚な音楽は、まさに血沸き肉踊る熱血サウンドになっています。そして、コーラスを交えた盛り上げ音楽で何となく納得させてしまうラストのパワーの素晴らしさ。一方、オープニングの宇宙船探索シーンでは、静かな、でもスケールの大きなオーケストラサウンドで、映画にある種の格調を与えることに成功しています。全体として全てが聴き所と言っても過言ではありません。

マイケル・ケイメンが追加音楽を書いていて、ナショナル・フィルが演奏していますが、これは効果音的なサポートで、よく言えばマンシーニのカラーを損なわない、縁の下の力持ちに徹した音になっています。

おぞましのイベント「ノストラダムスの大予言」


中年以上の世代には、トラウマになっているのが「ノストラダムスの大予言」、本や映画が公開された当時は、私も含めた子供らは、自分たちは公害や核戦争のせいで21世紀を迎えることができないだろうと漠然と、でもマジで考えていたものです。映画は今観ると(実は観れないんですが)、当時の少年雑誌にあった暗い近未来特集という感じで天変地異のオンパレードだったんですが、そのテーマ音楽だけはそのトンデモ展開とは別枠で印象に残っています。

その音楽は、「ジャングル大帝」「新日本紀行」などで知られる冨田勲が担当しました。クラシックのシンセサイザー演奏でも有名ですが、この作品ではオケとシンセの両方を使っています。予言の神秘的、幽玄な雰囲気をシンセサイザーで表現していて、基本的には、神秘的な奥行きのあるメインテーマと、明るい未来を暗示する愛のテーマの2つで構成されています。メインテーマはタイトルバックに流れるもので、ベースやドラムのリズムをバックにシンセでメロディが流れ、そこからホーンセクションが加わり、シンセによるコーラスが厚みを加えていき、さらにクライマックスではエレキギターによるソロが入り、再びシンセのメロディが前面に出ます。

冨田勲というと小編成でもフルオケのように聞かせる独特の音作りが有名ですが、この作品ではシンセサイザーが前面に出てくる分、オケの厚みは感じさせず、シンセサイザーだけでメインテーマを聞かせる部分にスケールの大きさを感じさせてくれます。ノストラダムスの詩を岸田今日子が朗読するバックにこの曲が流れるところが怖かったです、ホント。音楽の良し悪しよりも、時代のイベントであった「ノストラダムスの大予言」を彩った音として、記憶に留めておきたいと思います。本当に未来が怖かった時代があって、それをメディアがこぞって煽り立てていたというのは、やはり異常だったのでしょう。少なくとも当時子供だった自分にとっては、これだけは昔を懐かしむ気分にはなれない、おぞましいイベントでした。

心をどっかへ持ってかれる「ネル」


マーク・アイシャムという人はオーソドックスな映画音楽を書く一方で、「ネバー・クライ・ウルフ」や「ヒッチャー」などでシンセサイザー中心の環境音楽も書き、「蜘蛛女」「モダーンズ」などでは本業のジャズもやるという才人です。

「ネル」は、ジョディ・フォスター扮する野生児ネルの物語なんですが、ネルのテーマはアメリカのカントリーっぽい音が映画の舞台を忠実に描写して、オーソドックス路線かと思わせます。しかし、メインタイトルバックに流れる曲はピアノ、弦による環境音楽風の音作りから、オーケストラが加わってくるという不思議な構成で、世間から隔絶して育ったヒロインをドラマチックに描写しています。それ以降の曲もオケをバックにピアノ、フルートを中心に幻想的な音が続きます。ヒロインが月下の湖で泳ぐシーンに流れるフルートの音が無垢なヒロインの美しいイノセンスを描写しており、聴いていると、心をどこかへ持っていかれそうな気がしてきます。

映画としては、彼女が社会に適応できるかどうか審査するといったヤボな展開になるのですが、音楽はあくまでネルの内面を丹念に描写していきます。その暖かい包み込むような音楽があって、ネルの存在が肯定的に受け入れられているといっても過言ではないくらい、音楽の重要度が高い映画になっています。

映画を離れたアルバムとして聴いても、心を洗われるような気分になれます。シンセサイザーで演奏しそうな環境音楽的な部分をあえて生の楽器を使うことで、地に足のついた音つくりになっています。編曲・指揮は、他のアイシャム作品のほとんどを手がけているケン・カグラーが担当しています。

「愛の落日」はサントラアルバムとしての満腹度が高い


クレイグ・アームストロングという人は「ロミオ+ジュリエット」「ムーラン・ルージュ」などで才覚をあらわし、ソロ・リーダー・アルバムも出している才人ですが、この人の映画音楽は映像の盛り上げ効果が素晴らしく「プランケット&マクレーン」「ボーン・コレクター」などでドラマチックなスコアを書く一方で「Ray レイ」「ワールド・トレード・センター」などでは、しっとりとした音楽も書いています。

この「愛の落日」は、第二次大戦後のベトナムを舞台にした政治サスペンスであり、ラブストーリーでもあるお話なんですが、アームストロングがドラマチック、かつ抑制に効いた音楽を提供して、ドラマを最大限に盛り上げるのに貢献しています。

1曲目の「The Quiet American」は、川の流れのような弦とピアノに、女性ボーカルを絡ませながら、そこへピアノが主旋律を奏で、厚いストリングスをバックにうねるように女性ボーカルが入ってくるというもので、歴史としての時間の流れにラブストーリーを加えて、映画全体を見事に表現しています。メロディアスな曲の中でオーケストラをフルに鳴らす手腕はたいしたものだと思います。以後、アルバムはこのテーマ曲のバリエーションとなるのですが、時にはサスペンス風や女性ボーカルを多用したりといったことをしているのですが、あくまでメインテーマの線に沿っています。爆破テロのシーンに流れる音楽でさえメインテーマの重厚版になっているくらいです。

だからといって、アルバムが単調なのかというとそういうわけではなく、大変メリハリのある内容になっています。基本的には、メインテーマ一本で押し通しているのに、聞かせどころも多いし退屈するところがありません。それに各曲がきちんと完結しているというところにボリューム感を感じさせるのです。映画音楽のサントラというと、場面場面の音楽をつなげただけだと、始まりも終わりも曖昧な曲が多くなってしまうのはやむを得ないところがあるのですが、このアルバムはその意味からも聴き応え十分と言えましょう。

「愛されるために、ここにいる」はファンタジーにしたくないファンタジー

封切からちょっと間があるんですが「愛されるために、ここにいる」を下高井戸シネマで観て来ました。ここはいわゆる一般公開後の映画を上映してくれる映画館でして、音響はドルビーステレオですが、スクリーンはこのキャパとしては比較的大きく、観やすい方に入る映画館でしょう。休日などは結構混雑しているのですが、上映する番組をよく選んでいるように思います。

父親から継いだ執行官という仕事を淡々とこなす五十男ジャン・クロード(パトリック・シェネ)は、息子に仕事を継がせようとしつつ、父親のホームへ毎週通って相手をするという日々を淡々と送っています。医師から運動するように薦められたジャン・クロードは、事務所の向いにあるタンゴ教室に通うようになります。そして、そこで、かつて母親が乳母をしていた娘フランソワーズ(アンヌ・コンシニ)と知り合いになり、二人は年が離れているけどなぜか意気が合い、お互いに好感を抱くようになります。しかし、フランソワーズには婚約者がいてタンゴ教室に通っていたのも結婚式で踊るためのものでした。そうとうは知らぬジャン・クロードはだんだんその気になってきますし、フランソワーズも自分の揺れ動く気持ちを整理しきれぬまま、初老の男に魅かれていくのでした。

私が持つフランス映画のイメージに「恋愛するとまっしぐら」というのがあります。他の事なんか全部すっとばかして、その恋愛にのみ精神を集中してしまい、生きるか死ぬかのところまで突っ走ってしまう、そんなイメージにピッタリの邦題だけに、ちょっと引いてしまう予感がありました。しかし、ステファヌ・ブリゼ監督のこの映画は恋愛の出だしは大変控えめなものになっていました。

ジャン・クロードは、税金や家賃の滞納を督促したり差し押さえしたりする執行官。あんまり楽しい仕事ではなさそうなんですが、淡々とその日その日を過ごしています。毎週老人ホームに通うあたりはいい息子さんみたいなんですが、偏屈な父親の相手にいい加減ウンザリ。そんな公私ともに面白くない主人公が医師の薦めでタンゴ教室に通い始めるところで生活に変化が生じます。そこには、かつての知り合いだった娘がきれいな女性に成長していた上に、彼に対して好奇心と好意を示してくれるのです。運のいいやつだと思いつつ、二人の関係はじわじわと好意の領域を広げていきます。私も主人公の年齢に近いせいか、ああいうふうに女性にやさしく接してもらえたら、気があると思っちゃうところは大変よく理解できます。でも、まあそれは彼女のやさしさであり、誰に対してもああいう態度なんだって、一人で納得してあきらめちゃうところなんですが、この映画では、フランソワーズが結婚を間近に控えているのに、本気でジャン・クロードに心が傾いてしまうのです。

ブリゼの演出はテンポがいいというか、省略がうまいというか、いつの間にか、二人の感情が一線を越えてしまっていて、そこからどう着地するのかが興味のポイントとなります。ところが、この映画では、恋愛感情を思いっきり盛り上げきるラストをもってくるのが意外でした。そこに至るまでに、それまでの淡々とした主人公の日常にそれなりの片がつくってことはあるんですが、その身辺整理がついた結果、一度はあきらめた恋に再度一途になれましたという感じなのです。一方のヒロインはまだどこか心に決めかねるものを抱えたままの状態なんですが、それでもタンゴ教室に通っているあたり、元には戻れない状況にはなっているようです。そうした、やや消極的な二人がひかれあう様子をじっくり積み上げていくのかと思いきや、一気に大団円にしてしまうのは、私にはやや性急な感じがしましたが、これがフランス映画の恋愛の温度だと言われると、そうかなーという気もします。でも、それまでの人生やり直しという意味ではこの結末しかないのかもしれません。変にシビアなそろばん勘定をオミットさせた脚本と演出のやさしさを評価すべきなのでしょうね、きっと。

これが小娘だと親子ほどの年の差になってしまうのですが、主人公が50歳でヒロインは三十台なので、まだ「あり」な関係になっているという点も見逃せません。ヒロインを演じたアンヌ・コンシニは若くはないけどはつらつとした大変魅力的な女性になっており、学校の進路指導員という設定が大変納得できるキャラクターになっています。彼女の持つある種の聡明さが、この映画に刹那的な印象を与えないようになっているのがうまいと思いました。一方のジャン・クロードもくたびれた中年男なので、恋愛で暴走はしそうなタイプではありません。そんな二人がそれでも魅かれ合うという物語は、私のような中年男にはファンタジーであり、嫁入り前の娘さんを持つ親御さんには悪夢であり、三十台女性にとっては不可思議なミステリーゾーンになるのではないかしら。まあ、オヤジにとってファンタジーである必要はないのですが、あり得ないよなあ、こんなの(しみじみ)。

偏屈な父親を演じるジョルジュ・ウィルソンが少ない出番ながら印象的でして、この映画の中で一番の存在感を見せます。また、全編を流れるタンゴ音楽が聴き応えありました。

「サンチャゴに雨が降る」は美しく感動的なピアソラサウンド


1976年に日本公開された「サンチャゴに雨が降る」はチリのアジェンデ政権が軍事クーデターにより倒されるまでを描いたドラマです。詳細は30年以上前のことで曖昧なんですが、いわゆる人民政府が資本家層と対立し、軍部がクーデターを起こす内容で、講堂のような場所に集められた若者の中で、みんなを鼓舞する歌を歌いだした若者が制圧軍にボコボコにされるシーンが印象的でした。この映画の音楽を担当したのが、タンゴ界の巨匠アルトル・ピアソラです。映画公開時にサントラLPが発売されたのですが、その後CD化されていませんでした。

このCDは、「ヘンリー四世」「ローマに散る」とのカップリングなんですが、この映画の曲が6曲入っています。公開時のサントラLPが7曲だったので、このCDでほぼカバーできていると言えます。映画の中では、全曲が使われなくて、曲の部分部分が使われていたのですが、こうしてきちんと曲としてまとまったものを聴き直すと音楽としての素晴らしさを再認識できます。

テーマ曲である「サンチャゴに雨が降る」がバンドネオンによるシンプルな美しいメロディが盛り上がるとそれをバイオリンが引き継ぎバンドネオンがさらにかぶさっていきます。透明感のある音が盛り上がっていくところが圧巻です。また、シングル盤のB面に入っていた「ホルヘ・アディオス」はバンドネオンが泣きの音を聞かせてバイオリンのメロディラインと絡んでいくもので、これはピアソラのタンゴらしい音になっています。「サルバトール・アジェンデ」では静かなタッチで始まって、ドラマチックで感動的な音に盛り上がります。楽曲の中には、他のピアソラのアルバムで聞かれるものもあるんですが、全曲インストゥメンタルのこの「サンチャゴに雨が降る」は貴重な音かもしれません。

「サスペリアPART2」はゴブリンのベスト


日本では「サスペリア」で有名になった監督ダリオ・アルジェントと音楽担当のゴブリンなんですが、そのコラボは前作の「サスペリアPART2」(邦題は続編だけど中身は「サスペリア」の前作)に始まっています。この映画では、もう一人、ジャズ系で有名なジョルジョ・ガズリーニが共同で音楽を担当しており、まず、ガズリーニ単独で音楽をつけていたところへゴブリンが後から参加したと言われています。

メイン・テーマの「Profondo Rosso」はキーボードによる不気味なアルペジオから高音域でメロディがかぶさって盛り上がっていくと、パイプオルガン風の音で大盛り上がりとなります。前半部分が大変印象的で映画の中でも殺人鬼を象徴するシーンで大変効果的に使われています。また、殺人シーンに流れる「Death Dies」というジャズ風のロックサウンドも大変見事で、速いテンポのベースにピアノとギターが大変複雑に絡み合う密度の濃い音になっています。この2曲が映画の中で大変インパクトがあるので、「サスペリアPART2」の音楽がゴブリンによるものであるという印象を与えるのですが、実際は全体の半分の音はジョルジョ・ガズリーニによるものでして、特に殺人シーンの前兆に流れる不気味な子守唄であるとか、静かなテーマ「Gianna」はガズリーニによるものです。日本で発売されたアルバムでは全曲ゴブリンによるものであるような見せ方になっていましたが実際はそうでもないというのが最近発売になった「Complete Edition」に各曲ごとの担当が明記されるようになりました。一見、ゴブリンの音にように思えた「Wild Session」「Deep Shadows」といった曲が実はガスリーニによるものだったというのが発見でした。どちらもプログレシブ・ロックの音になっていたので、ゴブリンのそれだと勝手に思い込んでいました。

映画としては、連続殺人モノをベースなんですが、ホラーっぽい仕掛けをあちこちに施してあり、アルジェントのそれまでの殺人鬼ものと「サスペリア」との橋渡し的内容になっているのですが、音楽は、「サスペリア」と比べて、サスペンス色の濃いものになっており、犯人の異常心理を描写するようなぶっ飛んだ音というよりは、異常な殺人シーンを的確に描写する音になっています。少しだけガスリーニによるオーケストラサウンドが入っていますが、これは回想シーンに流れるもので、ここだけが、ドラマも含めてノスタルジックな味わいになっています。

この後、ゴブリンは「サスペリア」「ゾンビ」へとだんだんぶっ飛んだ音に変わっていくのですが、この映画のサントラが音楽的には一番中身が濃くて聴き応えがあるように思います。

「バベル」を語ろうとすると「バベル」にはまる?

新作の「バベル」を静岡ピカデリ-2で観てきました。ここはもともと建てられた時は名画座だったのですが、だいぶ前にロードショー館に格上げになったところです。小さめの見下ろす感じのスクリーンは封切館仕様とは言い難い部分もあるのですが、その分、一番前でも快適な鑑賞ができます。

モロッコの山岳地帯、ツアーバスが狙撃され、アメリカ人女性スーザン(ケイト・ブランシェット)が負傷し、近所の村に運び込まれます。それは山羊飼いの兄弟のいさかいが起こしたライフルの一弾でした。そのライフルは日本人(役所広司)が現地ガイドにプレゼントしたものでした。その娘チエコ(菊池凛子)は聾唖の高校生で何やら秘密めいたところがあるのですが、それは誰にも伝えきれていません。スーザンの子供二人を預かっている乳母アメリア(アドリアナ・バラッサ)はメキシコにいる息子の結婚式に行く予定だったのですが代理のベビーシッターが見つからず子供二人を連れて結婚式に出席することになります。狙撃はテロと誤解され、スーザンはなかなか村から動けず、アメリアと子供二人は国境でのトラブルから砂漠地帯に取り残されてしまいます。一丁のライフルに関わる人間模様は誤解と孤独の中でなかなか光明を見出すことができないのでした。

オスカー6部門ノミネートされ、日本人の菊池凛子がその中に入っていたことで日本でも話題になったアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督の新作です。モロッコ、アメリカ、メキシコ、日本をまたに駆けて、4つのドラマが並行して描かれています。スーザンは夫リチャード(ブラッド・ピット)とうまくいっておらず、山羊飼いの兄弟はいがみあっていて、乳母アメリアは息子の結婚式なのに子守りから解放されず、チエコは何かフラストレーションを抱え込んでいて衝動的な行動でしか自分を表現することができません。

4つのドラマはみなコミュニケーションのとれないイライラした状況を抱え込んでいます。リチャードとスーザンは銃撃という極限状況の中でお互いの存在を再確認し、アメリアは国境で甥っ子が国境警備員と要らぬいざこざを起こしてしまうことから砂漠の中に置き去りにされてしまい、チエコは自分の存在を誇示するがごとく全裸で刑事を誘惑したりします。それらの出来事が「バベル」という言葉でくくられるのかどうかは微妙なところもあるのですが、言葉が伝わらないことによって起こる様々なトラブルをこの映画は描いていまして、その意味ではバベルに集約されるのかもしれません。

そして、伝わらない言葉を埋めるための行動が各々のトラブルにある種の決着をつけるのです。リチャードはスーザンにずっと付き添うことで言葉や感情を超越してしまいます。一方で山羊飼いの一家は事から逃げようとして失敗し、アメリアは砂漠の中で子供二人を置いて助けを呼ぶことで信頼を失ってしまいます。チエコは、初めて自分と正面から向き合ってくれた刑事に自分の心の中を打ち明けるのです。それぞれに思うように行かないこと、言葉で解決できないことが世の中にはいっぱいあるんだということを改めて思い知らされます。

その中で、ちょっと特異な印象なのが、日本パートのチエコのエピソードです。最初は聾唖というコミュニケーションのハンディキャップが彼女を苛立たせていたように見えるのですが、ラストで母親の死に関する彼女の心の傷が微かに見えてきます。しかし、それは言葉にならない世界のもので、他のエピソードのコミュニケーション不全とはレベルが違っているのです。正直なところ、彼女の心の傷のありようや癒されようがよくわからないまま、映画は終わってしまいました。これは自分の理解力が足りないのかとも思いましたが、少なくとも「バベル」のキーワードですくいきれない、こぼれてしまう部分ではあるようです。そういうこぼれてしまう部分にはもう少し言葉を尽くして欲しかったとも思ってしまいまして、映画もバベってるじゃないかと突っ込み入れたくなります。

この映画では伝わる言葉、伝わらない言葉が出てくるのですが、言葉で埋められない部分を補う行動の部分にも正と負があることをこの映画は見せます。モロッコ警察の有無を言わせぬ暴力、発砲はコミュニケーションそのものを封じてしまいます。国境でのやり取りでも言葉足らずの行動が悲劇を招くことになります。そんな中で、スーザンを救出に来るヘリのシーンはほっとさせるものがありました。言葉も行動もうまくまわらないことばかり続く映画の中で、ヘリがスーザンを運ぶシーンには思わず涙が出そうになりました。頑張ってもうまくいかないことばかりのこの映画の中で、唯一の救いのように思えたからです。

演技陣では、菊池凛子がオスカーにノミネートされただけのことがある存在感を示す他、どんな映画に出ても場面をさらうケイト・ブランシェットが素晴らしかったです。感情を体で表現するブラッド・ピットと寝たきり状態で五分に渡り合う演技力は見事だったと思います。

4つのエピソードには様々なドラマ、要素が描かれていて、少ない言葉では語りきれないものがあります。その語りきれないもどかしさこそが「バベル」の「バベル」たる所以なのかもしれません。

プロフィール

einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR