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「輝ける女たち」はエマニュエル・ベアールが見所だけどお話は大味

新作の「輝ける女たち」を静岡シネギャラリー1で観てきました。今、静岡で単館系映画はここでしか上映していない貴重な映画館です。小さい45席の劇場ながら、スクリーンの大きさもそこそこあって、シネスコになるとき縦に縮まないのが個人的にうれしかったりします。

ニースのキャバレー「青いオウム」のオーナー、ガブリエルが急死し、関係者に召集がかかります。古いつきあいのマジシャンのニッキー(ジェラール・ランバン)、その助手シモーヌ(ミュウ・ミュウ)、そしてニッキーの子供、会計士のニノと編集者のマリアンヌ。ガブリエルの遺言は、衣装宝石をシモーヌとニッキーへ譲り、そしてそれ以外に店や屋敷をニノとマリアンヌへ贈るというものでした。二人は店を処分しようと考えるのですが、ニッキーはそれが面白くありません。そこへニノの母親アリス(カトリーヌ・ドヌーブ)が現れて、話がややこしくなります。そして、ガブリエルの死で集まった人々の思惑や秘密が明らかになっていくのでした。

新鋭ティエリー・クリストファが共同脚本・監督を担当しました。かつてはテレビの人気者だったニッキーを中心に、彼の愛人、元妻、子供たちの織り成すドラマがコミカルに描かれています。キャバレーで、昔の栄光でマジックを続けてきたニッキーにとって、ガブリエルは父親のような師匠のような存在でした。そんなガブリエルと店が一気になくなってしまうのは、彼にとっては大ショックですし、この先、どうしていいのか途方にくれてしまいます。ニッキーとの間にマリアンヌを産んだシモーヌですが、別に夫がいながらガブリエルとも愛人関係にあったということがわかってきます。それは、ニッキーにとってショックでした。一方、ニッキーは店の歌手レア(エマニュアル・ベアール)にモーションをかけていますがなかなか思うように行ってません。

とまあ、ニッキーを中心に事情が色々とあるんですが、大きな意外な展開もないまま、ドラマは流れていきます。ニッキーとレアとの関係もうまく行ってしまうので、結局、全てがうまくおさまってしまい、そこに至るまでの紆余曲折もあまりないので、かなり淡白なドラマという印象になってしまいました。役者を揃えているので、演技的にはなかなか見所もあるんですが、それに相応しい物語がついてきていないという印象でした。クリストファの演出が場面場面をぶつ切りにつないだような印象で、ストーリーの流れがぎくしゃくしていたのも今ひとつです。

ニノやマリアンヌとしては店をもらっても経営をする自信はないので、処分しようとしています。この店のショーのシーンがなかなか楽しい見せ場になっていますが、この店の成り行きがドラマのもっと中心に出てくれば盛り上がったのにと思います。

そんな中で、エマニュエル・ベアールのいいオンナぶりが際立っていました。歌手としても魅力的な声を聞かせているのですが、ドヌーブやミュウミュウの貫禄とは違う、でも、若い女優とも違う、年輪と奥行きを感じさせて見事でした。彼女の語るエピソードだけがこの大味なドラマの中でちょっとしたアクセントになっていました。

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回を重ねるごとにスケールアップの「ダイ・ハード4.0」はモトの取れる面白さ

新作の「ダイハード4.0」を静岡オリオン座で観てきました。大きな画面とゆったり場内で昔ながらの映画館の佇まいが好きな映画館です。

突然、FBI本部のサイバー犯罪局がハッキングされます。FBIはハッカー候補全員をしょっぴこうとします。ニュージャージー大学で娘に会っていたジョン・マクレーン(ブルース・ウィリス)にも、ハッカーのマット(ジャスティン・ロング)をFBI本部へ連行するように命令が出ます。彼の部屋を訪ねたところ、突然銃撃されます。反撃して3人やっつけてその場を切り抜けるマクレーン。一方、サイバーテロ一味は交通機関をマヒさせ、テレビの画面に挑戦メッセージを映し出しますことまでします。一方で何人ものハッカーたちが謎の死を遂げており、マットも含む彼らは同じ会社からプログラムの開発を請け負っていたのでした。移動中のジョンとマットはヘリに襲われます。アメリカのライフラインをマヒさせるサイバーテロ集団、その最終目的はどこにあるのか、そして、マクレーンは連中の野望を砕くことができるのか。

ダイ・ハードシリーズもこれで4作目、とんでもない災難に巻き込まれる男ジョン・マクレーンの今回の敵はアメリカ全体を敵に回したサイバーテロです。ビルジャック、空港ジャック、都市ジャックとどんどんスケールをひろげて、今度はアメリカ全体をマヒさせようとするサイバーテロ集団と向こうに回して、ちょっと見には勝ち目ゼロの勝負にジョンが再び挑みます。スタッフ、キャストは、ブルース・ウィリス以外は一新され、監督は、「アンダー・ワールド」のレン・ワイズマンがあたり、撮影も同作のサイモン・ダガンがあたり、音楽は故人となったマイケル・ケイメンに代わりマルコ・ベルトラミが担当しています。

今回はコンピュータを自由に操り、さらに重武装したサイバーテロ一味という設定がまずマクレーンに勝ち目がないと思わせます。しかし、自動車でヘリをやっつけちゃうという荒業を次々と繰り出して敵のメンバーを一人また一人と倒していく展開は第一作を思わせるものがあります。マーク・ボンバックの脚本は多少の無理を盛り込みながらも勢いで見せきる展開にしており、演出もそれに応えてテンポよく見せ場をつないで観客に考える暇を与えないところが見事でした。特に敵側が隙がないように見えて、意外とノープランだったりするのですが、それもご愛嬌と言えるくらい趣向をこらして最後まで楽しませてくれます。

今回、主役であるジョン・マクレーンはヒーローであることの宿命を自覚しているところがあるのが面白いと思いました。「オレがやらねば誰がやる」って言い切るあたり、シリーズ4作目にして、キャラが固まったという感じでした。それに、今回は「娘を助けて、後はみんなやっつけてやる」とも言いますし、なかなか肝のすわったところを見せてくれます。最後の逆転ワザもちょっと常人では思いつきませんもの。一方、事の発端に関与していて、ジョンに命を救われるマットが、徐々にジョンに積極的に協力するようになり、最後は生命の危機を犯してまで頑張るあたりがよかったです。「ギャラクシー・クエスト」でもオタクの花道を進んだジャスティン・ロングがここでも、頑張るオタク野郎が最後に主人公の娘を助けるおいしい役どころになっています。一方の敵役のティモシー・オリファントは賢いスマート系悪役なのでその分インパクトが今一つで、体を張ってる部下のマギー・Qの方が印象に残ってしまいました。

それにしても、コンピュータネットワークから、通信衛星までも好きなようにできてしまえば、後はやりたい放題なんだというのがよくわかる映画でもあります。普通、私たちの暮らす人間社会は善意で成り立っているところが大きくて、そこに悪意が入り込むとものすごく住みにくくなるんですが、このハイテク情報社会も似たようなこと、つまり究極の悪意が知恵の限りを尽くすと社会が成り立たなくなるのではないかという危惧があります。この映画では、何だかんだ言って金目当てだったのですが、9.11同時多発テロのようなことがサイバーメディアで起こったら?と思うとぞっとするものがあります。そんなことが起こらないように色々な防御策が講じられてはいるのでしょうが、本当に悪意と最新技術が結びついたら怖いだろうなあって思わせるものがありました。

「ダイ・ハード」はアクション映画に大規模な視覚効果(SFX)を導入した先駆的な作品で、そのシリーズの中でも視覚効果部門がたくさんクレジットされています。その中でミニチュアイフェクトのチームがたくさんクレジットされているのが印象的でした。何でもかんでもCG処理するのではなく、ミニチュアモデルと組み合わせて効果を上げているというのが、時流に流されていない感じがして好感が持てました。それにしてもジェット戦闘機まで登場する派手なアクションは人気シリーズならではのサービス精神が感じられます。映画館でお金を払って観るに値する2時間9分に仕上がっていますから、できるだけ大画面で音のよい劇場で観ることをオススメします。

「リーピング」は映画にフィットした音楽が職人芸を感じさせる


スティーブン・ホプキンス監督のホラー映画「リーピング」の音楽を「エイリアン4」「ゴースト・シップ」などホラー系の作品が多いジョン・フリッゼルが手がけました。アンドリュー・キニー、ロバート・イーライ以下6名が編曲を担当し、ピート・アンソニーが指揮をしています。演奏はハリウッド・スタジオ・シンフォニーと書いてありますが、いわゆるスタジオミュージシャンによる演奏と思われ、CDのジャケットにはオーケストラの全員の名が乗っていて、楽器構成も知ることができます。この映画では、79名編成のオーケストラに20名のコーラスが加わっています。

前半は何かの予兆のような怪現象が起こります。ピアノの不安な旋律にあわせてストリングスが不協和音を奏でます。じわじわと恐怖感が高まっていくところで、衝撃音が入るといってホラー映画らしい音楽演出も使われています。

後半は怪現象の規模が大きくなり、イナゴの大群や光の洪水といった見せ場になって、音楽もドラマチックに盛り上がっていきます。クライマックスでは呪文のようなコーラスも加えてスペクタクルなスケールの大きな音楽へと展開していきます。神と悪魔の闘いをハッタリを効かせたストーリー展開で見せる映画だけに、音楽も特に後半でドラマチックに展開し、エンディングでもスケール感を損なわない音作りは職人芸と言えましょう。こういう映画では定番ともいうべき音作りではあるのですが、ドラマ部分の描写がきちんとされているという点で、ただのハッタリ音楽とは違う、映画音楽作家の底力を感じさせる音楽になっています。

「ブリッジ」は知っておいた方がよいことを語っている映画

新作の「ブリッジ」を109シネマズ川崎10で観てきました。ここはシネコンの中でも小さなスクリーンなんですが、座席全体に対してスクリーンが右にずれているという変な映画館で、真ん中の座席をゲットしても画面の左よりのポジションになってしまうという構造がなんかおかしい映画館。

サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジはその美しさから、観光地として有名ですが、もう一つそこから飛び降り自殺をする人が後を絶たない、自殺の名所でもあります。そこで橋にカメラを据えて橋の様々な顔を撮影し、自殺の瞬間もいくつも捉えます。そして、自殺者の家族、そこに居合わせた人にインタビューすることで生と死の狭間にある橋の顔を浮かび上がらせていくのです。


自殺を正面から扱った記録映画です。エリック・スティールが製作・監督を兼任していて、ゴールデンゲートブリッジで命を絶った人の関係者や、命を永らえた人の証言をつないで、一切ナレーションは入らない構成になっています。証言の合間には、橋の色々な風景を見せ、その中には人が飛び降りる瞬間もあります。橋から水面までの距離は66メートル、普通に落ちたら、その衝撃だけで命がありません。でも、多くの人がここから飛び降りて命を落としているのです。

望遠で捉えた、人が落ちる瞬間を押さえた映像はずっと定点観測していたようですが、人の死の瞬間を冷徹に描いていて、いい表現ではないのですが、見応えがあります。時には未遂に終わるものもカメラはとらえています。通りかかった人が助けたケースもありましたが、その助けられた方は常習者だったというケースもあります。そして、飛び降りた人の友人や肉親の証言から、浮かび上がってくるのは、死はとてつもなく大きくて空虚なものだということです。

肉親や知人の死の受け取り方は、人それぞれで違います。自責の念にとらわれる人もいれば、死によって自由になったことを当人にとってよいことだと解釈する人もいます。何の前触れもなく突然自殺する人もいれば、入退院や未遂を繰り返した挙句の行動の人もいます。どれをとっても、自殺という行為は周囲の人間を傷つけてしまうのですが、当の本人にとってはそれは空虚な結末でしかないことをこの映画はかなり突き放した視点で描いています。そこにある死に特別な意味づけをしません。死んだらそれで終わり、その先は何もないのだという描き方はある意味偉い映画だと思いました。信仰とか宗教といったものがほとんど登場せず、自殺が罪悪であるとか、死んで生まれ変わるといった話が出てこないのはこの映画の見識だと思います。

生きることは葛藤の連続で、死にたいと思うこともあり、それがまた生きようと思うこともある、そんな逡巡も自殺という行動によってぷっつりと決着がついてしまう。それはあまりにも悲しいということを映画は見せます。でも、そこに葛藤があり、逡巡があることを忘れてはならない、救えるかどうかはわからないけど、人は思いついたように死ぬわけじゃないということをこの映画は伝えようとしています。単に、ひょいと橋の欄干の上に上って、えいやと飛び込んでいくわけじゃないのです。

自殺者の多くにうつの傾向が見られるというのも映画では語られます。うつ病が自殺へとつながりやすいことはよく知られてきていますが、実際、うつ病の治療行為の中に、自殺の危険のある人間を強制的に施設へ入れることもあるようです。それによって、どの程度、自殺が回避されるのかは、この映画では触れていないのですが、自殺をさせないための動きは様々な形で行われていることは知っておくべきだなと思いました。でも、単に苦しんでいる人間を自殺から遠ざけるだけでは、当人の苦しみを和らげることはできません。証言の中で語られる「彼は死ぬことで苦しみから解放された」というのは、単に生き残った人間の責任逃れの方便とは思えないところに、この問題の深さがあります。

心の問題ってのは本当にやっかいなんだなあって実感させられます。うつ病については、自分自身が軽度のうつで投薬治療も受けていることから、物理的療法によってある程度までは回復できることは知っています。でも、人間関係や環境の巡り合せの悪さで、状況が悪化しても何の処置もされないまま自殺へと至ってしまう例もあるようですし、実際に入退院を繰り返した挙句に自殺をするケースもあります。まずは、この橋で起こっていることを知ることが大事、それを知らないのと知っているのとでは、違いがあるのだと思います。

それにしても、ゴールデンゲートブリッジは現代建築の成果として、巨大で美しく、自然現象の中で、時として幽玄とも言える景観になります。霧の中にたたずむ橋、橋の下にかかる虹、橋の上からの景色もまた美しい、そんな場所が、自殺の名所としても名を馳せてしまっているのは皮肉です。しかし、そこから飛び降りれば、待っているのは巨大で虚ろな死でしかないというのをまず肝に銘じなければなりません。

「キサラギ」は意外な展開と役者のうまさで楽しませる映画

新作の「キサラギ」を川崎チネチッタ6で観てきました。5回観ると1回タダというシステムで、それがカード割引でも、前売り券でもカウントしてくれるってのはいいシステムだと思ってます。今回はそのタダで観るのに普段観ない映画ということで選んだのがこの映画でした。

1年前に自殺したアイドル如月ミキのファンのHPに書き込んでいたメンバー5人が一周忌追悼会ということで集まりました。幹事の家元(小栗旬)、発起人のオダ・ユージ(ユースケ・サンタマリア)、スネーク(小出恵介)、安男(塚地武雅)、イチゴ娘(香川照之)の5人が集まって追悼会が始まり、最初はお宝自慢で盛り上がっていたのですが、オダ・ユージが如月ミキは自殺したんじゃないと言い出して、話は妙な方向に進み始めます。彼は、ミキが自殺する理由がないこと、そしてストーカーに悩まされていたことを指摘します。そして、徐々に5人がただの如月ファンではないことがわかってくるのですが、本当にミキの死は自殺だったのでしょうか。

「ALWAYS 三丁目の夕日」の古沢良太が書いた脚本を、「古畑任三郎」「大奥」などのテレビでの実績が多い佐藤祐市が監督しました。もともと舞台のために書いた原作を映画脚本にリライトしたというだけに限定された5人の登場人物、時間と場所も一周忌追悼会に限定されているという、舞台をそのまま映像化したような映画に仕上がっています。

登場人物が一人ずつ画面に登場してくる冒頭部分から、佐藤監督の演出は快調で、狭い部屋の中で展開するドラマながら、退屈する暇を与えません。最初は、アイドルオタクらしい、アイテム自慢をしていて、このあたりは、わかるわかるのオタクの世界なんですが、オダ・ユージが自殺の事を話題にし始めたところから、お話は二転三転していきます。このあたりの見せ方も話をコミカルに弾ませて重苦しくしない演出が見事でした。

ただ、意外性が多すぎるのは、連続ドラマの短縮版を観ているような気分にもなります。意外な事実を次々に見せていくというのはアドベンチャーゲームのようでもありました。単に物語だけだったら、二転三転だけの映画になっちゃうところを、登場人物のキャラと演技でふくらみを出しているという感じです。5人の役者が適役適演で、物語の核になるユースケ・サンタマリアが貫禄の演技を見せ、損な役回りの小栗旬がいい味を出しています。脚本が役者の演技を引き出したのかもしれません。ラストでちょっといい話にまとめているので後味もいいですし、エンドタイトルのヲタ芸も微笑ましく楽しみました。ただ、そうなると最後のエピローグは余計でしたが。


この先は結末に触れますのでご注意ください。


くどいようなセリフの応酬も、物語の流れをわかりやすくしています。基本的に同じことを二度言うという原則があるみたいで、そのおかげで観客が展開に乗り遅れないようによく脚本が練られているのには感心しました。登場人物がみんなタダのファンではなかったことがわかってくるのですが、情報を小出しにして先読みできないようにしているので、「おお、そうくるか」という驚きはあります。その中で、何だかタダのファンでしかない家元が疎外感を感じるあたりがおかしく、そんな彼が最後のキーマンとなり、きちんとその伏線も張られていたのには感心し、そこはホロリとさせる趣向になっています。

自殺が事故かもというところは、観客にネタが先に振られているので、そこだけは、観客が展開をちょっとだけ先読みできるようになっている仕掛けはうまいと思いました。単に新事実にびっくりしているだけでは、観てる方もバカにされてるみたいですからね。そういう意味でも観客を退屈させないように色々と考えてる映画です。

ミキの自殺が事故だったというのを、単に一つの仮説であるかのように言ってるのが、不思議でした。これがまだひっくり返るかもというエピローグもあるので、何だかブラックコメディのような味わいになってしまうのです。そこまで、ハートウォーミングな展開を見せていたので、さて、どっちの後味を真に受けようかと考えてしまいます。私としては、ハートウォーミングをとりたいのですが、結局、真実なんて一瞬の思い込みでしかないんだよーというブラックな笑いの味わいも、ありかなという気もするのです。果たして、この映画はどう楽しむのが一番おいしいのかしらん。

「ラッキー・ユー」のポーカーは面白いけど金銭感覚になじめなくて

今回は、新作の「ラッキー・ユー」を109シネマズ川崎3で観てきました。ここは、一般席以外に一番いいポジションにエグゼクティブシートってのがあって、カード会員優待みたいな仕掛けになっているのが、結構うざい映画館でもあります。

2003年のラスベガス、ポーカー専門のギャンブラー、ハックは、女性は遊びと割り切っている、賭け事が人生みたいな男。そんな彼と知り合いになったのが田舎から出てきたクラブ歌手ビリー(ドリュー・バリモア)。二人はいい関係になるんですが、彼女のなけなしのお金を黙って持ち出してポーカーですってしまうという具合です。ポーカーの世界大会に出ることになってそのために借金した1万ドルを父親で同じ稼業のLC(ロバート・デュバル)に巻き上げられ、さらにそれを取り戻すためにしたゴルフの賭けでも負けてしまいます。その時に一緒にいたビリーに八つ当たりして、ついに愛想を尽かされてしまいます。彼女を取り戻すためにも、世界大会に出ようと決心したハックは、母親の形見の指輪をLCに500ドルで売り、それを元手に参加費を稼ぎ出し、ポーカーの世界大会に臨むのでした。

「L.A.コンフィデンシャル」や「イン・ハー・シューズ」のカーティス・ハンソンが共同脚本と監督を手がけた、ラスベガスのポーカー大会を舞台にした人間ドラマです。主人公のハックは日々カジノのポーカーで金を稼いでいる筋金入りのギャンブラーです。父親が伝説のギャンブラーであることから、この世界に入ったようなんですが、一晩で何万ドルも稼いでしまうという世界はまるで想像がつかない別世界です。私は、ギャンブルは一切やらない人間で、ああいうところで動くお金はあぶく銭だと思っているので、かなりクールにこの映画を眺めてしまいました。ヒロインのビリーが貯めてきたなけなしの1000ドルを黙って持ち出して、何の良心の呵責も感じないメンタリティは、たぶん一生変わらないだろうし、金銭感覚の違いから、このカップル破局するだろうなって思いました。ドリューファンとしては、こんな男に入れ込むって設定はうれしくないです。

まあ、そこのところに目をつぶれば、前半ダメダメな主人公の再生する物語という構成をとっています。ギャンブラーたちの描き方もコミカルですし、ポーカー大会の敗者に対する態度だとか全体的に和気あいあいとした雰囲気は悪くないです。優勝賞金が250万ドルというのがすごいんですが、その説明で、スポーツ賞金としては最高額だと言うのですね。なるほど、ゴルフなんかの賞金と思えば高額なのもありなのかな。ただ、ゴルフはスコアで争うけれども、ポーカーはチップの金額で争うところが違うということになります。うーん、このあたりで、ポーカーを純粋に競技だと割り切れなくなっちゃうのですね。

ともあれ、なかなか父親越えをすることができない主人公ですが、順当に予選を勝ち進んで、いよいよ父親と同じ決勝のテーブルにつきます。このポーカーというのが、手札2枚で、場には5枚までカードが出て、手札プラス場の3枚で役を作るというスタイルです。この駆け引きはなかなかにスリリングでハンソンの演出も力が入っていて見応えがあります。単に、役があるなしだけでなく、相手のカードも推理して、降りるか、勝負するか、ブラフをかけるか決めていくあたりの面白さをちゃんと映画の中で表現しているのはうまいと思いました。最近では、手元の2枚のカードをカメラで見ることができて、テレビの観客はプレイヤーの駆け引きを直接見ることができるのだそうです。バレーやバスケの作戦タイムにまでカメラが入るようなもので、それだけゲームを楽しむことができるのはいいのですが、プレイヤーにとっては面白くないだろうなあってことは想像がつきます。ハックは決勝プレイヤーの中で唯一手元のカメラを拒否するのですが、このあたりは、脚本のハンソンやエリック・ロスもあまりよく思ってないんだろうなってことが察せられました。

ゲームの展開は、意外な結末を迎えます。非情で残酷であるはずのプレイヤーがそのセオリーを破ることで一皮むけるという展開は、なかなか面白いと思いました。ただし、それで、彼女まで取り戻せるのは話ができすぎではないかい?と思ってしまいました。いや、好きなのはわかるんだけど、何万ドル単位のあぶく銭で暮らしている主人公と、10ドル単位で生きてるヒロインとではやっぱりいつか破局するような気がするのですよ。ラストで小銭を賭けて父親とポーカーをするハックですが、彼にその小銭の価値はわからないだろうなあって思うラストでした。だって、大会で65万ドル持ってる男ですからね、借金時の分け前取られても、20万ドルは手にするわけですよ。こんな男になびく、ドリュー・バリモアちゃんがかわいそうと思ってしまうのは、ファンのひいき目なんでしょうけど。

ピーター・デミングの撮影がシネスコ画面で陰影の濃い画面を切り取っていて、全体として美しい画面作りをしているのが印象的でした。音楽は既成曲が目立って、クリストファー・ヤングのスコアはどこで鳴っていたのかほとんど耳に残らなくて残念。ロバート・ダウニーJrがワンシーンだけ出演していたり、「ワールド・トレード・センター」のマイケル・シャノンが印象的な役どころで登場していたり、バリモアの姉役のデブラ・メッシングが気になったり、久々にチャールズ・マーチン・スミスを見たりと役者の方に目が行ってしまう映画でもありました。

「ストレンジャー・コール」のサントラはホラー映画の王道


一点集中型のホラー映画「ストレンジャー・コール」は、クライマックスまで殺人鬼を画面に登場させず、ずーっと何か起こる予感で引っ張っていくという構成がそれなりに成功していました。その成功に、ジェームズ・ドゥーリーの音楽も少なからず貢献しています。ティム・デイビスが編曲を担当し、ドゥーリーとデイビスでノースウェスト・シンフォニアを指揮しています。

冒頭は、住宅街の向こうにカーニバルが見えるその住宅街の一軒の家で惨たらしい殺人が起こるというもので、カーニバルと住宅街のカットバックに、低音のシンセ音に、不安なストリングスがかぶさり、ピアノのつまびきに、ストリングスがうねるように絡んでいきます。明確なメロディというものはなく、ひたすら不気味で不安を煽る音楽です。

ドラマ部分に入ってからも、音楽は画面よりも高いテンションで不安を増幅させて、ストリングスの重層的な和音と、ピアノによる音が続きます、ヒロインが舞台となる豪邸に向かうあたりでようやくメロディらしいものが出てきますが、それも暗く重い曲調で重低音の弦が前面に出てきます。その後も低音の弦がうなり続けて、時折、高音弦がショック音のように入ってくるという、音楽でじわじわ怖がらせようというのがよくわかる音作りになっています。

後半、殺人鬼の存在がはっきりすると音楽もサスペンス風から活劇調に変わってきます。パーカッションと弦による衝撃音の反復で、逃げまどうヒロインと殺人鬼の追跡劇を描写しています。このあたりもひたすらショック描写に終始していてメロディらしいものはありませんが、画面を盛り上げることには成功しています。エンドクレジットでやっとメロディらしい旋律が登場しますが、それも不安で物悲しい音になっていて、ホラー映画の王道を行く音楽と言えましょう。

全編、ほとんどメロディのない不協和音と衝撃音だけの音楽でアルバムを作ってしまうというのはすごいのですが、通して聴くのはしんどいところもあるのですが、こういう映画が好きだと、ついこういうアルバムにも手が出てしまいます。

「ストレンジャー・コール」はリメイクとしてはペケだけど娯楽映画としては手堅い

新作の「ストレンジャー・コール」を新宿のK'sCinemaで観てきました。ここは、84席と小さな劇場ですが、観やすく、デジタル音響も入っています。ただ、シネスコ画面になるとき、横に広がらずに縦に縮まるというのが欠点です。

高校生のジル(カミーラ・ベル)は彼氏のボビーとうまくいっていません。そんな彼女がお医者さんの家のベビーシッターをおおせつかることになりました。湖畔にたたずむリッチな豪邸は防犯システムもバッチリです。子供たちは2階で寝ているので起こさないよう1階でくつろいでいたところに、電話がかかってきます。何だか荒い息遣い。いたずら電話のようなのですが、何度もかかってきて、気味が悪くなってきたところへ彼氏とのトラブルの原因を作ったティファニーが現れ、とりあえずの仲直りをします。彼氏とも連絡がとれたのですが、いたずら電話の主は彼氏やその友達ではないらしい。そこで警察に電話すると1分以上つながっていれば、逆探知できると聞き、何度めかの電話で無言の相手を引き伸ばすのに成功しますが、電話の相手の最後の言葉は「おまえの血を浴びたい」。その直後、警察から電話がかかってきて、その電話は同じ家の中からかけてきているというのです。果たして、ジルはストレンジャーの魔手から逃れることができるのか。

1980年に日本公開されたスリラーの佳品「夕暮れにベルが鳴る」のリメイクということで食指が動きました。実際にタイトルにも、「夕暮れにベルが鳴る」のオリジナル脚本家の名前が出てくるので、正統なリメイクだと思ったのですが、ちょっと様子が違いました。冒頭で、いたずら電話から殺人が起こるというのは一緒なのですが、そこでは「子供の様子を見たか?」という名セリフが入ってこないのです。オリジナルでは、ヒロインが子守をしているところに「子供の様子を見たか?」という執拗な電話がかかってきて、そこでヒロインが警察に電話し、家の中から電話がかかってきているとわかって逃げ出すところが導入部なのです。それから7年後逮捕された犯人が精神病院を脱走し、導入部の事件の担当刑事が探偵になっていて、その脱走した男を追い回すが犯人はヒロインを再びねらうというストーリーでした。脱走した犯人がくたびれた中年男として救世軍とか売春婦のところをウロウロするのじっくり見せて、最後で異常性を爆発させるという構成が大変効果的だったのですが、今回は、その冒頭部分をうーんと引っ張って一本の映画に仕上げていたのがまずびっくりでした。

一応、冒頭で殺人が起きて、素手でむごたらしい殺人が行われるというのは同じなのですが、そこから先は舞台が変わって、高校生のジルがベビーシッターをすることになるところから始まるのです。そして、その晩に、「子供の様子を見たか?」の電話から犯人の襲撃までを一気に見せる構成になっています。まず、冒頭の殺人とジルを襲う男が同一人物という説明はなく、映画の中盤まで、ジルが狙われていることも曖昧なままドラマが展開するのは、ジェイク・ウェイド・ウォールの脚本の弱点だと言えましょう。

しかし、「トゥーム・レイダー」や「コン・エアー」などで手堅い演出を見せたサイモン・ウェストが不安を煽る見せ方をしまくるので、何かこの先、とんでもないことが起こるという予感は十分に出ています。1時間半弱の作品ながら、このストーリーを持たせたのは、ウェストの演出によるところが大きく、ほとんど、カミーラ・ベルの一人芝居で展開するドラマを退屈することなく、結構ドキドキしながら観ることができました。

それは、舞台となるお屋敷のセットがなかなか全体を見渡せない作りになっていて、その中をカメラがヒロインの視点で動き回るといった仕掛けが功を奏していまして、ジョン・ゲリー・スティールの美術とピーター・メンジースJrの撮影が見事でした。特にシネスコの横長画面をきっちり使って、暗くなりすぎず全貌をシャープに捉えた撮影のうまさが光りました。ジェームズ・ドゥーリーの音楽が前半からオーケストラを使って不安を煽るのも成功していまして、何か起こるぞという予感をずっと後半まで引っ張るのに貢献しています。

その後の展開は定番というべきもので、逃げまどうヒロインと子供たちを追いかけるストレンジャーの対決となり、警察が到着するまで逃げ切れるかどうかが見せ場になっており、豪華なお屋敷を使った鬼ごっこはそれなりに見応えがありました。クライマックスは血みどろの死闘とまではならない、ややあっさりしたものでしたが、最後にドッキリオチをつけて、このジャンルの標準点をクリアしているという感じです。

もともと、犯人側のドラマを重視していたオリジナルを、一晩の物語に縮めてしまったのでストーリー的にはほとんど中身がないのをよくここまでダレずに見せきったというべきでしょう。弱い脚本を、美術、音楽、撮影、演出の職人芸で一本の娯楽映画に仕上げたという印象でした。カミーラ・ベルはヒロインとしての魅力には今一歩ですが、ほとんど一人芝居で頑張った点は評価できると思います。ひょっとしたら、「夕暮れにベルが鳴る」の名前を借りて一夜の殺人鬼ショッカーである「ハロウィン」をリメイクしたかったのかもしれません。

「Dear フランキー」は音楽も愛おしい佳品


不在の父へ手紙を書く息子、それに返事を書いていたのは母親だったという、珠玉のハート・ウォーミング・ドラマ「Dear フランキー」の音楽を担当したのは「ラスト・キング・オブ・スコットランド」を担当しているアレックス・ヘッフェスです。ヘッフェス自身が指揮をし、イアン・マクファーソンが編曲を担当し、クリストファー・ロスがピアノ・ソロを弾いています。サントラ盤には、挿入歌3曲と主演のジャック・マケルホーンの手紙を読むナレーションが入っていて、映画を観た人はその感動を再度甦らせることでしょう。

映画の余韻もさることながら、ヘッフェスによるスコアが大変素晴らしく映画の暖かな感動に大きく貢献しています。「Opening Title」はピアノのつまびきから始まるピアノソロの曲ですが、これが映画のカラーを決めていると言って過言ではない暖かな曲になっていて、新しい土地へと引っ越す主人公たちを包み込む音になっています。それ以降もピアノを中心にストリングスが絡むという構成になっており、ぎこちない贋親子が心を通わすようになる「Present from His Daddy」の淡々とした音、それから、ぐっと感情の盛り上がる「The Kiss」へと続きます。そして、ラストはピアノのつまびきから、ストリングスが加わり、木管が音の広がりを加えていった後、ピアノによるメインテーマが再び流れる「The Final Letter」となります。オープニングではピアノソロだった曲にストリングスが加わって美しいピアノソロとストリングスの掛け合いが見事にエンディングを盛り上げてくれます。

映画を観ていなくても、テーマの美しさは絶品で、癒し系のアルバムとしても一聴の価値があると私は思っています。特に1曲め「Opening Title」6曲目「A New Begining」11曲目「The Kiss」13曲目「The Final Letter」が聴きものです。ただし、アルバム自体は、映画を観た人向けの構成になっていますので、オススメ度が微妙なところになってしまうのですが、まずはこういう愛すべき小品のサントラ盤が出ていることがうれしいと思います。

静岡映画館座席数の変遷

私が静岡でよく映画を観たのは1970年代後半が中心なのですが、当時の映画館は今よりもきゅうくつなつくりになっていました。というより、今の映画館はだいぶゆとりのある作りになっていると言えます。当時のきゅうくつさを残しているのは、ミラノ2くらいではないでしょうか。映画館の座席の周囲に空間が大きくとられるようになったのも割りと最近のことです。建物の作りが変わっていない映画館でその定員数を比較してみますと次のようになります。1979年の数字は時事映画通信社の「映画館名簿」によります。

静岡オリオン座 現在 590 1979年当時 1026
静岡有楽座 現在 382 1979年当時 652
静岡ピカデリー1 現在 463 1979年当時 730(当時 静岡松竹)
静岡ピカデリー2 現在 315 1979年当時 419(当時 静岡名画座)
静岡ミラノ1 現在 240 1979年当時 468(当時 静岡ミラノ)
静岡小劇場 現在 90 1979年当時 120

後の映画館は外装から変わってしまって比較ができないのですが、今より座席数が格段に多いのがわかります。それでも、オリオン座は観やすい劇場という印象でしたし、ミラノはアートな雰囲気をかもし出していたのですから、今の方が映画を観るのにずいぶんといい環境になっていると言えそうです。昔は、今よりも、劇場内が座席でびっしり埋まっているという感じでしたから、それなりの圧迫感はあったように思います。座席も大きくなって、隙間も大きくなったということなのでしょうね、きっと。それでいてスクリーンの大きさは変わっていないのですから、今の方がお得感があります。この先もこのクオリティを維持して欲しいところです。

「恋する日曜日 私。恋した」は旬のヒロインの青春映画としてマル

新作の「恋する日曜日 私、恋した」をシネマベティで観てきました。その向かいにあった横浜日劇がとうとう取り壊されて瓦礫の山になっているのを発見、何だかしみじみしてしまいました。

母親を亡くしたのと同じ病気、がんでもうあまり余命がないと宣告された17歳のなぎさ(堀北真希)は、父親に黙ってかつて住んでいた千葉へと出かけます。そこには、幼なじみだった9歳年上のサトシ(窪塚俊介)が昔の家で一人で住んでいました。なぎさにとってサトシはあこがれの対象だったようですが、サトシにとっては中学生までしか知らないので子供も同然です。昔のように、やさしく接してくれるサトシに心なごむなぎさでしたが、彼が人妻と不倫中だと知って、心おだやかではいられなくなってきます。人妻絵里子(高岡早紀)の娘まどかを連れまわして、一騒ぎ起こしてしまうなぎさ。不倫していることを非難するなぎさを一度は突き放すサトシですが、最後には彼女の気持ちをまっすぐに受け入れてくれるのでした。

BS-iの人気恋愛ドラマシリーズに「恋する日曜日」というのがあるそうで、その劇場版の第2弾なのだそうですが、映画として独立しているので、シリーズ云々というのを気にせずに接することができました。今が旬の堀北真希を主演に、ピンク映画出身で最近では青春映画の演出も多い廣木隆一が監督した一編です。余命がわずかの少女を主人公に、ちょっと辛めの恋愛映画に仕上がりました。

自分の余命が長くないことを知ったなぎさが会いたいと思った人は幼なじみだったサトシでした。でも、サトシは9歳も年上で、なぎさが知っているのは受験生だった頃までです。それでも、久しぶりの再会を喜ぶ二人。サトシは、一人で一軒家に暮らしていて、廃品のリサイクル業をやっていました。自分の病気のことは隠して、サトシと束の間のときを過ごすなぎさ。それは、遠くに置き忘れてきた初恋の確認なのか、それへの決別なのか、そのあたりに心の揺れを堀北真希が精一杯演じているのがすごく愛おしく見えます。さすがは旬の女優はこういうところで見せるんだなあって感心してしまいました。そんな淡い想いが、人妻絵里子の登場によって波風が立ち始めます。絵里子の娘まどかと仲良しになった彼女は、まどかには自分の死期が近いことを語り、そして海に入っていきます。「おばあちゃんのいる天国へ行こう」と。

サトシや絵里子にとって、今の状況は未来へ向かう時間の流れの中にあります。未来のないなぎさにとっては、今こそが全てで、今一瞬一瞬を大事にしたいと思い、サトシにもそうあって欲しいと願います。でも、未来への流れの中に身を置いている人間には、なぎさの切実さは届きません。また、なぎさは、サトシと絵里子が一緒になってもうまくいくわけがないと言い切ります。その青い独断に対して絵里子は大人の言葉で返すところで、高岡早紀がいい味を出しました。誰だってよいことと悪いことの二者択一を迫られたらよいことを選択したいと思うところですが、その決断を保留してしまうことで、実質的に悪い選択をしてしまうことになる。それでも、未来のことはわからないから、今のよしあしで全てが決まるわけじゃない。一つのことだけ考えていれば済む状況なら、恋愛のことだけ考えていればいいのなら、そんなに悩むこともないけれど、現実は様々なことが絡んでくるから、一つのことだけ考えているわけにはいかない、そんな葛藤を経験できないまま死期を迎えなければならないなぎさの想いには純粋さゆえの痛々しさがあります。

そんな彼女が自分の気持ちに整理をつけて、父親に電話します「私、恋した」と。それは、自分の淡い初恋が本当の恋愛になり、そして、それが終わったことを意味しています。ラストでバスの中で自分の夢だったバスガイドのまねをして、自分の想いを語るシーンがクライマックスとなります。自分で昔のことを話しているうちに感極まってしまうなぎさですが、ここに「花」の歌がかぶさるのは演出過多のような気がしました。せっかく淡々と積み重ねた感情のほとばしりに「花」の歌詞は饒舌に過ぎるという感じでしょうか。それでも、バスを降りた彼女のラストカットの「またね」というセリフにはじーんとくるものがありました。

冒頭で猫の死体が出てきて、猫が飼い主のいないところで息を引き取るという話が出てきます。お別れをしないことで、愛する人の心の中に生き続けることができるから。彼女の「またね」にもそんな思いが込められているようです。死病映画ではあるんですが、死の影や湿っぽい感傷がなく、青春映画としてまとめているのが、好印象でした。

手持ちキャメラによる撮影は、リアルなヒロインの息遣いを表現するのに成功していますが、全体的に画面が暗いような印象も受けました。海のシーンが多いのに何か光がどんよりと感じられるのが物足りなく思いました。HDカメラかスーパー16による撮影なのでしょうか。全体に35ミリフィルムの質感が感じられなかったのは気のせいでしょうか。

「あるスキャンダルの覚え書き」は音楽が主人公を語っています


ジュディ・デンチ、ケイト・ブランシェット競演の「あるスキャンダルの覚え書き」の音楽を担当したのは、現代音楽の巨匠であり「キャンディマン」「めぐりあう時間たち」など映画音楽も数多く手がけているフィリップ・グラスです。今回はオーケストラを使ったドラマチックな音楽で、指揮をマイケル・リースマンが担当しています。

冒頭から、意図的の音楽は画面の前面に出るように演出されており、そのうねるようなストリングスが主人公である女教師バーバラを丹念に描写してきます。それは、厳格なバーバラを描写する冒頭から、シーバと知り合って心ときめかすバーバラへと展開されていきます。ただし、その音は映像の上辺よりもずっとドロドロとしたもので、それは欺瞞に満ちたバーバラの心情を的確に音でフォローしているのです。

ドラマが佳境に入ってくるといよいよ音楽はフルに鳴り響きます。ドラマの展開よりもバーバラの心の揺れ動きを描写することに力を入れているからでしょう。バーバラの猜疑心、嫉妬、孤独が音楽で表現されていきます。シーバの心が離れていくのを裏切りと捉えたバーバラの心境を弦の低音で表現し、そこから、今度はバーバラがシーバへの復讐心の燃やすのです。このあたりからオーケストラによるパーカッシブな音が目立つようになります。音楽はシーバの描写は具体的な行動を音で描写し、バーバラの描写はその内面を音で表現するという音の使い分けをしているようです。ラストで、次の獲物を見つけたバーバラを描写する音楽のどこか牧歌的でそれでいて不気味な音が見事でして、それがパーカッシブな音に変わっていくあたり、エンドクレジットの曲もしっかりとドラマの一部になっています。

「ゾディアック」の不安でよどんだ音作りが見事


「ゾディアック」は映画そのものが大変地味な作りで、新聞記者や警察の捜査を淡々と追っていくというものでした。音楽も既成曲が流れる以外は、あまり使われず、使われても、ほとんど気づかないくらいに、控えめな使われ方をされていました。音楽を担当したのが久々登板のデビッド・シャイアでして、編曲、指揮も本人が担当し、スカイウォーカー・シンフォニー・オーケストラが演奏しています。

音楽としては現代音楽風の音作りで、ストリングスの静かで不安な音に、ピアノやトランペットが旋律を奏でるという形がメインです。唯一サスペンス風なのが、9曲目「Closer & Closer」で、後は地味な静かな音が並びます。しかし、これが聞き込んでみると大変バラエティに富んでいて、地味ながらなかなかの聞き応えがあります。ストリングスの不協和音をベースにして、メロディを忍び込ませるような音作りをしており、事件がはらむよどんだよどんだ空気感を音楽で見事に表現しています。

シャイアは「さらば愛しき人よ」でジャズタッチの曲を「ヒンデンブルグ」ではクラシカルな音をと何でも書ける人ですが、今回は前面に出る音を意識的に抑えて、ドラマの中でじわじわと効いてくる音作りを心がけているようです。

「ストーン・カウンシル」はモニカ・ベルッチの頑張りを観る映画

新作の「ストーン・カウンシル」を銀座シネパトス2で観てきました。拡大ロードショーをやってくれない作品をひっそりと公開してくれる劇場として、存在意義の高い劇場です。音響がデジタルでなくても、スクリーンが小さくても、地下鉄の音が聞こえても、それがこの味わいになっているところがすばらしいと思う映画館です。

ロシア語の通訳であるローラ(モニカ・ベルッチ)が、ロシアで養子としてもらったリウ・サンの7歳の誕生日が近づいてきました。このところ、ローラもリウ・サンも同じような夢に悩まされており、リウ・サンの胸に不思議な円形の傷が出てきたことも彼女の気がかりでした。夜、リウ・サンを乗せて車を走らせているとき、鷲が車に向かって飛んできて、よけようとしたローラの車は横転し、リウ・サンは昏睡状態になります。リウ・サンはどうやらモンゴルのある種族の特別な存在らしく、彼の円形の傷はその証であり、それが現れたときにストーン・カウンシルの儀式が行われるというのです。一方でその儀式を阻止しようとする者の影も動いていて、関係者が次々に謎の死を遂げます。意識を回復したリウ・サンは、ローラの友人で財団のシビル(カトリーヌ・ドヌーブ)によって連れ去られてしまいます。シビルが、彼を使って儀式を行おうとしているのを知り、ローラは彼女を追ってモンゴルへと飛ぶのでした。

全編フランス語のフランス映画です。監督のギョーム・ニクルーという名前は初めて聞きますし、役者もベルッチ、ドヌーブ以外は聞いたことのないメンバーで、デビッド・クローネンバーグ監督作品で知られるピーター・サシツキーが撮影を担当しています。フランス映画祭2007正式出品作品だそうですが、そこでしか上映されないような映画なのかなという気がしました。シネパトスでも、パンフもプレスシートも販売していませんでしたから、まあ、あまり期待しないでスクリーンに臨みました。

オープニングで、男女が二人、モンゴルのじいさんをどこかへ連れ出そうとして撃たれてしまうというシーンから始まるのですが、ここからして、連れ出すのがじいさんではなかなか興味がわかないよなあと思いつつ、ドラマは始まり、モニカ・ベルッチ扮するローラ母子が何やら悪夢に悩まされているらしいという話になります。普通なら、ここで、その悪夢のイメージを画面に出すのですが、ニクルー監督は、なぜか悪夢を登場人物が語るだけにとどめてしまいます。

その後、ローラの主治医が惨殺されたり、リウ・サンの残した謎の言葉を知る人間が殺されたり、関係者が殺されていくのですが、なぜ殺されるのかが理由が不明で、それほどの悪事を働いているようにも見えない連中が殺されていくという、それって何で?という展開が続きます。要は、かつてモンゴルで原子炉の事故があって、被曝した現地人のうちある部族だけがなぜか回復したということから、それを調べていた人間がいたということがわかってきます。その調べていた人間の中には、ローラの両親もいて、それが冒頭に殺された男女だったとわかるんですが、一体、ローラの両親が何をしようとしていたのかは謎のままなのでした。そして、監視者と呼ばれる者を殺す儀式をすると不死身になれるらしく、リウ・サンがその監視者であり、ストーン・カウンシルというのはその儀式の名前だというのです。

でも、それだけじゃなくてその部族の術を使うと動物に変身できるんだそうで、ワシとかクマに人間が変身しちゃうんですよ。でも、変身するシーンがあるわけでなく、とにかく、全体的に見せ場を欠いていて、神秘的な雰囲気も出ていないのが弱点でして、特にラストで物語が終わっていないという中途半端な結末に「何じゃこりゃ」という印象が残ってしまいました。せめて、ピンチを脱したカタルシスでも描いてくれたらよかったのに、最後にまだ悪党は生き残っていて、母子はまだこれからも追われ続けるというのは、あんまりなエンディングです。原作がちゃんとあって「クリムゾン・リバー」の人が書いてるのだそうですが、原作もこんな尻切れトンボなのかしら。

陰謀、まじない、変身と何でもありの展開なのですが、キャラが描ききれていないので、結局モニカ・ベルッチの奮闘を見るだけの映画になってしまっています。今回はメイクも薄めでいつもとは違う魅力を見せてくれていて、怪我したり、汚れたりという設定なのに、40過ぎとは思えない若さは見事でした。彼女の頑張りだけが見所ということになるのですが、それだけで映画一本引っ張るのは、彼女に荷が重いと言えましょう。ピータ・サシツキーのキャメラがモンゴルや夜間シーンをシャープに捉えているのはよかったです。まあ、こういう映画でも映画館で観られたということを評価すべきなのかしら。エリック・デマルサンの音楽も地味なオーケストラが鳴っているのはわかるのですが印象に残る音はありませんでした。

「ゾディアック」は見応えあるけど、不快感もある

新作の「ゾディアック」を川崎チネチッタ7で観てきました。

1969年、カリフォルニアで夜のドライブをしていたカップルが撃たれるという事件が発生、女性は殺され、男性は重傷を負い、犯人は警察に犯行を電話してきました。その後、新聞社に犯人と名乗る人間からの手紙が舞い込んできます。そこには暗号メッセージと犯人でなければ知りえない情報が書かれていたのです。それから、何度も新聞社のは手紙が送られてきて、犯人は自分をゾディアックと名乗っています。さらにダム湖でカップルが襲われ、さらにサンフランシスコでタクシー運転手が殺されます。事件を追うトースキー刑事(マーク・ラファロ)は容疑者を絞り込むところまで行くのですが、結局空振りに終わってしまいます。新聞社のグレイスミス(ジェイク・ギレンホール)は暗号を追い続け、暗礁に乗り上げていた事件を自ら調査し始め、犯人像に再度近づいていくのでした。

劇場型犯罪ということで何となくは聞いたことがあったゾディアック事件を、「セブン」のデビッド・フィンチャーが演出しました。2時間37分という長い映画なんですが、物語は淡々と事件の経過を追っていくという連続殺人ものの「セブン」とは違うリアルな展開を見せます。発生する事件の描写もハッタリのない淡々とした描写がかえって不気味で、実録物として見応えがあります。

映画は犯人からの手紙が送られてくる新聞社と警察を舞台に展開します。犯人の記事を書き続けるエイブリー記者(ロバート・ダウニーJr)は独自の調査もするのですが、それでも犯人像に近づくことはできません。結局、警察も新聞社もゾディアックにいいようにあしらわれているようなんです。ゾディアックは自分が起こしていない事件までも自分のことのような手紙を書いてくるのです。こういうある種の狂人に対して、メディアはどう対応したものかと考えさせられます。劇場型犯罪は世間が騒げば騒ぐほどうれしいわけで、それの片棒かつぐのはどうなの?って思う一方、「これを新聞の一面に載せないとまたやるぞ」と脅されたら書かざるを得ないのかという微妙なところがあります。

でも、メディアが大きく騒いだことで、ゾディアックはただの人殺し以上の大きな存在になっているのは事実でして、だからこそ、映画にもなっているし、人々の記憶にも残って、模倣犯も出てきます。こういう唾棄すべき人間の扱いとして、こういうある種の神格化は本当はやるべきではない、でもやってしまう社会に私たちは住んでいるということを認識しなければならないなと感じました。

一方警察の捜査は穴だらけだというのも、この映画では語られます。警察が遊んだり手抜きをしているわけではないのですが、所轄が異なる警察で情報を共有して統合した捜査ができていないのです。現実には事件には膨大な情報があって、それを有効にチョイスして犯人像を統合できるかというと難しいものがありそうです。また、情報の重みについても、捜査の刑事とパトロール警官では差があって、証拠の確認レベルにも差があり、その証拠の信憑性に疑問があることがわかってきます。

映画の後半では、グレイスミスが独自の調査で犯人像に近づこうとするのですが、その調査の半分以上は警察の捜査をなぞっているだけなんですが、一人の人間がそれをすることで情報が統合されていくところに警察とは違う事件への見解が出てきます。グレイスミスの調査から見えてくるのは警察もやることはやっているのに何千人という容疑者から犯人を絞り込めない捜査の限界です。警察は疑いから証拠を固めていくという捜査をするのですが、グレイスミスは物的証拠を押さえないまま、状況証拠のパーツを結びつけて犯人と思しき男を思い込みで追い詰めようとするのですが、それには失敗してしまいます。しかし、その過程から別の男をまた犯人だという信念で追いかけ始めます。しかし、グレイスミスの集めた証拠は状況証拠ばかりで、決め手となる物的証拠がありません。それでも、執念で犯人に迫ろうという彼の態度は、まるで何かにとりつかれたように常軌を逸したところがあって、彼の奥さんと子供はそんな亭主についていけなくなって実家に帰ってしまいます。この異常なまでの思い入れは、ゾディアックの術中にはまったとも言えましょう。事件の直接の関係者でもない彼がそうまで入れ込んでしまうのは、ゾディアックの劇場型犯罪とそれを何か特別なものであるかのように扱ったメディアの罠にまんまと煽られているように見えます。グレイスミスの中には、このゾディアックというクソ野郎への憎しみはなく、好奇心とその裏にある種のあこがれのようなものが垣間見えるのがおぞましく、不快でした。そんな彼が調査の途中、自分の身に危険を感じた途端、急に腰が引けてしまうのも、人が無残に殺された事件に面白半分にのめりこんでいる無責任な野次馬のようです。

それでも、犯人はまだつかまっていません。結局、犯人が手がかりをたくさん残していたのにもかかわらず、誰かを特定することができなかったのです。アメリカは広いからということも言えますし、もう一つ多くの人間が関わっていることで、情報の信頼性が落ちているようなのです。筆跡鑑定にしろ、容疑者のチェックにしろ、多くの人間が関わっていて、担当刑事であるトースキーでさえ、直接ではなく、間接的にしか情報に接することしかできません。そこに情報のもれや穴が発生してしまうのです。映画の後半、新聞社のグレイスミスは自分の足であちこち歩き回ることで、情報を直接入手して、だいぶ年月の経過した事件の真実に迫ろうとし、一応の成果をあげるところに皮肉っぽいおかしさがあります。

役者は見たような顔を揃えていて、主演の3人の他に、ダーモット・マロニー、フィリップ・ベイカー・ホール、エリアス・コーテス、アンソニー・エドワーズ、ブライアン・コックス、クロエ・ゼヴィニー、クレア・デュバル、ジョン・キャロル・リンチといった曲者役者を要所要所に配して、ドラマに奥行きを与えています。デビッド・シャイアの音楽は、既成曲の間にほとんど気づかれない程度に流れるという使われ方で、彼の「大統領の陰謀」での音楽を思い出させました。映画そのものも「大統領の陰謀」のような地道な捜査の積み重ねを淡々を見せるところに共通点があるように思います。ただ、こちらは、扱っているのが連続殺人であり、その劇場型犯罪に関わった人間全てに感情移入できない点が大きく違っているのですが。

「プレステージ」は仕掛けはすごいけど物語がちょっと

新作の「プレステージ」を川崎チネチッタ6で観てきました。いつの間にか、ニュース映画「かながわニュース」が上映されなくなってしまったのですが、もう製作されていないのかしら、結構楽しみにしていたのに残念。

瞬間移動のマジックを演じていたマジシャンのアンジャー(ヒュー・ジャックマン)が水槽で溺死するという事故が発生、居合わせたライバルマジシャンのボーデン(クリスチャン・ベール)が殺人罪に問われることになります。もともと二人は同じマジシャンのもとで働いていたのですが、アンジャーの妻(パイパー・ペラーボ)が水槽脱出に失敗して溺死し、その原因がボーデンのロープの縛り方にあったらしかったことから二人の間に確執が生まれます。お互いのマジックの舞台をぶちこわしたりするうち、ボーデンが瞬間移動のマジックを始めたところ、このトリックが二人一役とはどうしても思えません。何とかしてこのトリックを知りたいと思ったアンジャーは自分の助手オリヴィア(スカーレット・ヨハンソン)にボーデンをスパイさせ、「テスラ」というキーワードを手に入れます。そして、アンジャーはニコラ・テスラ(デビッド・ボウイ)に会うためにアメリカまで赴き、大金をはたいてある機械を入手し、それによる瞬間移動のマジックの途中に事故になったのです。果たして、アンジャーの死の原因はボーデンによるものだったのでしょうか。

「メメント」「バットマン・ビギンズ」のクリストファー・ノーラン監督が今度はマジックの世界を舞台に二人のマジシャンを巡る物語を作りました。映画の冒頭「この映画の結末を誰にも話さないでください」という字幕が出ますので、ああ、そういう意外な結末の映画なんだなってことがわかります。こういう字幕は映画の意外性にのみに注目させてしまうところがあって、映画と映画の観客にとって必ずしもよくないことが多いです。オープニングのマジックでショッキングな溺死シーンがあって、その裁判シーンからボーデンが牢獄のつながれるところが描かれます。ただ、観客にはボーデンがアンジャーを殺したようには見えないので、この先、どうなるのか期待させる展開になるのですが、そこからは、時制を前後させながら回想シーンが続きます。二人のマジシャンの関係が描かれていくのですが、これが単なるライバル以上の確執に至ってしまうところから、私にはちょっとついていけなくなってしまいました。相手の舞台にあがって、銃弾つかみのマジックで本当に銃弾で撃ったり、マジックのネタばらしをやって大恥をかかせたり、そのやり口が陰湿で、かつマジシャンの基本ルールにも反すると思うので、この二人に全然共感できないのですよ。

このあたりの展開は、ノーランの演出は物語を淡々と語っていくようでありながら、色々と伏線と思しきものを散りばめています。ただ、映画そのものがマジックのように仕掛け優先みたいなところがあって、主人公二人の秘密に興味が行ってしまってドラマとしての奥行きをなくしているように思えます。そんな中で、マイケル・ケイン演じる奇術道具屋のキットが二人のマジックの全てを知る男として登場してきて、彼の視点から、人生全てをマジックに捧げた男たちの側面が描かれる部分がドラマとして見応えがありました。マジシャンはそのマジックのために人生そのものを捧げるというのが冒頭の中国人奇術師の登場で語られます。それも、まあ伏線のうちに入るのですが、主人公の二人もマジックに人生を捧げていたという事実が後になって明らかになります。このあたりの見せ方はもっとドラマチックになったのでしょうが、意外性の仕掛けに霞んでしまったのが残念でした。

マジックの世界と並んで、もう一つの科学として実在した人物ニコラ・テスラが登場してきます。彼は電気の交流を推進して、直流派のエジソンと対立していたのですが、その彼がとんでもない発明をしていたという設定は、架空とはいえ、テスラを何だか胡散臭い人間に見せてしまうところがあって、着眼点は面白いのですが、その扱いがよくないように思えてしまいました。彼の発明はアンジャーのマジックの重要なカギになっているのですが、そのあり得ない世界をも虚実取り混ぜて飲み込んでしまうのがマジックの世界ということになるのかしら。一方で、ボーデンの瞬間移動にはあっけないオチをつけるあたりにマジックの世界の面白さを垣間見ることができます。


この先は結末に触れますのでご注意ください。


でも、マジシャン同士の確執が最終的に血生臭い結末になるので、どうにも後味はよくありません。ノーラン監督は、一種のゲーム感覚ではこの物語をとらえずに、ドロドロとした人間の愛憎ドラマに仕立てあげました。でも、そういうドラマとマジックの世界がうまくマッチしていたとは言いがたく、ドラマの仕掛けの部分は大変スマートに伏線を張り巡らせてみせたのとは対照的に、最後の最後で唐突な殺人に至るのはどうもいただけませんでした。さらに加えて、ラストショットで死んだアンジャーがまだ生きてるかもと思わせるのも、それまでの理路整然とははずれているように思います。

オープニングの字幕で断りを入れた、意外な結末は、親切に伏線が張られすぎて途中でわかってしまうところもあるんですが、その結末が読めてから先がドラマが息切れしたように感じてしまいましたから、ネタばれしちゃうと映画としての味わいも半減しちゃうのかもしれません。それだけ仕掛けに依存したドラマということになるんですが、ノーラン監督の本領は、こういう仕掛けものより「バットマン・ビギンス」や「インソムニア」のようなストレートな物語に人間ドラマを織り込む方にあるように思います。

「あるスキャンダルの覚え書き」は、「あるある」のブラックコメディ?

新作の「あるスキャンダルの覚え書き」を日比谷シャンテシネ2で観てきました。ここは映画が始まる前にスライド上映とかしていて、そのままCM、予告編へなだれ込むため、いつまでも客席がざわついています。もう少しメリハリをつければいいのに。ここも昔は上映前に幕が開いたんですが、今は開けっ放しのシネコン仕様になっちゃいました。

ロンドンの中学教師バーバラ(ジュディ・デンチ)は厳格で孤独なオールドミス。そんな彼女の学校に新任美術教師シーバ(ケイト・ブランシェット)が赴任してきました。若くて魅力的な女性であるシーバは校内の教師にも生徒にも注目され、バーバラも彼女と仲良くなろうとします。親しくなって自宅に招かれたバーバラは、シーバには年上の夫に年頃の娘とダウン症の息子がいることを知ります。そんな時、シーバが生徒と美術室で関係しているのを目撃します。ショックを受けるバーバラですが、ここぞとばかりシーバに黙っていてあげるからということで、彼女との距離を縮めるのでした。これで、彼女を自分の暗黙の支配下に置いたと思ったバーバラですが、シーバにとってそんな思惑は思いもよらぬことだったのです。果たして、女教師と生徒のスキャンダルは、そのまま二人の秘密のままでいられるのでしょうか。

「アイリス」で老いの残酷さを繊細に描写したリチャード・エアー監督と、ジュディ・デンチとケイト・ブランシェットという曲者演技派女優二人の組み合わせが興味を引きます。この女優二人の競演というだけで観る気が起こりますもの。ロンドンの中等学校を舞台に二人の演技合戦が見ものの一編に仕上がりました。

バーバラは毎日、詳細な日記をつけていて、それがモノローグとして流れるので、観客はバーバラの視点からドラマに向き合うことになります。この日記のモノローグから、バーバラがシーバに目をつけて、最初は仲良くなろうと接近していく様が描かれます。バーバラが、シーバに魅かれるのはレズビアン的要素もあるみたいなのですが、そこはあまり描かれず、それよりも支配欲に取り付かれた孤独な女性としてバーバラは、シーバを取り込もうとするのです。シーバは、教師として有能ではなく、教え子と関係を持ってしまうのも彼女の弱さの表れでした。偶然とは言え、その弱みを握ったバーバラは、シーバの弱さにつけこんで、彼女に恩を着せることで、自分の思いとおりにさせようとたくらみます。

しかし、バーバラにも自分の支配欲に振り回されているようなところがあり、ある女性を精神的に追い詰めてしまった過去が明らかになってきます。その底にあるのは、プライドと孤独です。彼女は同僚の教師たちを徹底して見下しています。その一方で、厳格さからそれなりの威厳を学園内に持っているのですが、結果的に彼女は孤独にさいなまれることになります。人間関係を自分が上でいることでしか作ることができないというのは不幸なことですが、何だか他人事ではない、人間の普遍的な弱さのような気がしてきます。自分の立場の方が上だから、相手の都合よりも自分の都合が優先しないと不機嫌になる、こういう人って実際にいるんじゃないかと思います。

一方で、生徒との関係をズルズルと引きずってしまうシーバの弱さもありがちではないかしら。彼女はよき妻、母であろうとがんばってきているし、家庭はそれまで平和であったのに、なぜ、教え子と関係を持つというばれたら犯罪になるようなことをしてしまうのか、その経緯がまことにあっけないのが、リアルな怖さを運んできます。若いかわいい子とこんなシチュエーションになったら、行くところまで行っちゃうよねって思わせる演出は、ケイト・ブランシェットの演技もあって説得力のあるものになっています。その関係を断ち切れずにずるずると引きずってしまう一方でよき母を演じているという矛盾を淡々と見せるあたり、並の女性を演じても、ブランシェットはうまいなあって改めて感心しました。元は生徒の方から仕掛けたアプローチだったとか、シーバの夫は、元は彼女の教師だったという設定など、この弱い女性に対するクールな視点はちょっと意地が悪いようにも感じてしまいました。


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結局は、バーバラが自分の思いとおりにならないシーバに腹を立てて事が露見し、シーバはマスコミに追われる立場となり、懲役の実刑を受けてしまうのですが、あちらではこういうのが重い罪になってしまうのかと驚きです。シーバの家庭も崩壊一歩手前まで行ってしまいます。ここでシーバに言う夫の一言がなかなか泣かせるもので、ビル・ナイが好演しているこの夫が善意の人間だけに、事件の家庭に与える打撃が実感として伝わってきます。そして、シーバと親しかったバーバラも辞職に追い込まれてしまいます。一時は、シーバはバーバラのもとに身を寄せるのですが、そこで彼女はバーバラの日記を発見し、それまでのバーバラの意図を知ることになります。

結局、バーバラはシーバを失ってしまうわけですが、映画はここでブラックコメディのオチを持ってきていまして、リアルな弱い人間たちのドラマに救いを与えているように思いました。映画雑誌でサイコホラーのようだと書かれていましたが、ラストのオチの前までは、少なくともサイコとは違う弱い人間のつまづきドラマであったと思います。バーバラも弱い人間ながら、自分よりさらに弱い人間を探し出して餌食にしてしまうのが怖いのですが、弱肉強食ならぬ、弱肉弱食という構図も実はリアルな人間の有り様だと改めて認識させられます。フィリップ・グラスの重厚なオーケストラ音楽がドラマを盛り上げています。

「大日本人」の「微妙」な面白さはどこまで狙ったものかしら

新作の「大日本人」を静岡ミラノ2で観てきました。相変わらず前後の幅の狭い座席ですが、それを除けば、傾斜もあるし、小さなスクリーンもキャパ相応で、アナログ音響も悪くありません。

大佐藤(松本人志)は代々続く大日本人を防衛庁の要請でやっています。大日本人というのは、奇怪な獣が現れたときに、巨大化してそれを退治するといういわばスーパーヒーローです。ドキュメンタリーのカメラが彼を追うのですが、世間的には騒音を出すとか言われて評判がよくありません。彼の活躍はテレビでも放映されているのですが、今は深夜枠になってしまいました。先々代の頃はたいそう羽振りもよくって、世間のステータスも高かったのですが、最近は出動回数も減ったし、世間からは迷惑がられています。でも、大日本人にはそれなりの伝統とプライドがあるものなので、大佐藤としても続けたい気持ちもあるんですが、別居中の妻との間には娘が一人いるっきり。それにスポンサーがつかないとマネジャーにも文句言われ放題です。果たして、大日本人はヒーローとして世間に認められるようになるのでしょうか。

ダウンタウンの松本人志が企画・共同脚本・監督・主演の一人四役を担当した映画です。事前の情報があまりなくって、国内より先にカンヌで公開されるなど話題の多い作品でした。オープニングは、松本自身が扮する大佐藤がインタビューを受けているところから始まります。バスの中で、商店街を歩きながら、自宅で食事を作りながら、彼は自分のことを語ります。いつも、折りたたみ傘を持ってるとか増えるわかめが好きだとかしょうもないことを語っているのがかなり続き、こいつは一体何者なのかと思っているうちに、何か仕事をしてお手当てをもらっているという話が出てきます。

公園でインタビューをしているとき、大佐藤に電話がかかってきて、どうやら仕事の依頼がきたようです。バイクに乗って変電場に向う大佐藤をカメラが追います。行く道には「騒音反対」といったプラカードが目立ちます。彼の存在が世間から迷惑がられているらしいことが示されるうち、変電場に入った彼が、巨大化し、大日本人に変身します。彼の行く先には、××獣と呼ばれる巨大な怪物が暴れていて、彼の使命はそれを倒して成仏させることのようなのです。

この怪物が、海原はるか、竹内力、板尾創路、神木隆ノ介などが演じていて、着ぐるみやCGによって奇妙な姿に変わっています。それは、まるで妖怪のようでもあり、リアリティのないマンガみたいなキャラクターです。大日本人に変身した後の松本の演技は大変重々しく、何かを背負ったいるかのような顔で、これらの珍妙な怪物たちと戦って成仏させていくのです。こういう大日本人の体にスポンサーの広告が入っていたり、深夜枠でテレビ放送されているというのは、かつて日本中のヒーローで、今はその存在が日陰になってしまったプロレスを思い出させるものがあります。


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しかし、松本監督がこのキャラにどこまで思い入れがあったのか、単にネタとして扱っているのか、後半になるとよくわからなくなってくるのです。大佐藤のおじいちゃんはボケて施設に入っているのですが、時々巨大化して世間に迷惑をかけています。そのおじいちゃんとの束の間の交流のバックに中村雅俊の「ふれあい」が流れるのですが、そのあたりに大日本人が伝統と歴史の中にあるという趣旨が感じられます。インタビューの中でも、大日本人の姿をゲーム世代に連中に見せたいということを言ってますし、大日本人を歴史に語り伝えるべきものという位置づけがされています。

大日本人が最後の闘いに強引に駆り出されて、謎の獣と対峙したとき、突然、「これより実写版でご覧ください」という字幕が出て、画面が怪獣コントのセットになってしまいます。そこへ現れるのが、ウルトラマンみたいなスーパージャスティスファミリー、5人一家で、謎の獣(リアルなCGだったのが急にチープな着ぐるみになってる)をやっつけてしまいます。そして、やはりコントの着ぐるみと化した大日本人を連れて、空を飛んで去っていくのです。このあたりのセリフまわしも全てコント風になっていて、はっきり言って「なんじゃあ、こりゃあ」。そのまま「おしまい」の字幕が出てエンドクレジットへ行ってしまうのです。「えええ?」とあっけにとられていると、クレジットのバックでは、スーパージャスティスファミリーが反省会をやっています。(宮迫博之の声がやたら目立つのがおかしい)

マジメに大日本人を追い詰めてきたドラマが、突然コントになってそのまま安っぽいコントのまま大団円になってしまうのは、落としどころに困って、ボケてみました、というふうにもとれます。それまでに大日本人に描きこんだキャラには面白い観点もあるのですが、それをマジメに決着させなかったのか、それとも、最後の闘いに臨ませた時点で決着がついていたのか、観ていて判断に迷うところではあります。笑いをとることにはこだわりを感じさせるところがありまして、怪物のキャラは相当笑えまして、特に板尾創路が儲け役ながらケッサクでした。その部分を押し広げると最後のコントになるのかもしれませんが、このノリはかつてテレビの「ごっつええ感じ」でダウンタウンが見せてきたもので、懐かしさはあっても新しさはありません。原点回帰なのか、やっぱりこういうのが一番面白いということなのか、まあ、面白いことは事実なんですが、テレビでやってるのをそのまま劇場用映画に乗せるのはどうなの?と突っ込みたくなります。コントに入る前までの、テンションや作りは完全に劇場用映画のそれになっていただけに、面白いって何だろう、映画って何だろうってところで、迷った結果の結末のように思えました。その混乱している様が新しいといえば新しいといえますが、映画としては、「微妙...」という感じに落ち着いてしまうのでした。

「300」は絵物語をそのまんま映画にしましたって感じ

新作の「300」を静岡有楽座で観てきました。静岡の洋画ロードショー館としては、一番の老舗になるのではないでしょうか。地下の劇場ですが、382席のキャパにやや傾斜のある場内は天井も高くて広い空間になっています。スクリーンも大きくて見易い映画館になっています。デジタル音響もドルビーデジタルとDTSの両方を装備しているのですが、ドルビーデジタルでの上映が多いようです。

その昔、ギリシアのスパルタ王レオダニス(ジェラルド・バトラー)の元にペルシア帝国の使者がやってきます。東方の大帝国がギリシアの小国に対して要求したのは「土と水」。それはペルシアへの服従を意味していました。それに対して、レオダニスは使者を殺し、300の兵を集めて自らペルシアを迎え撃つべく立ち上がります。それに他の国も兵を出してきますが、スパルタの精鋭の兵士ほどの戦力にはなりません。海岸線の狭い山道に壁を築いて、100万と言われるペルシア軍を待ち伏せします。地の利もあって、スパルタ軍はペルシア軍に多大な犠牲を払わせますが、ペルシア王クセルクセス(ロドリゴ・サントロ)は数にものを言わせて、スパルタ軍に迫ってきます。一方、王妃ゴルゴは議会に援軍を出すように働きかけようとしたのですが....。

スパルタ教育でおなじみのスパルタ国では、子供の頃から戦士になるための厳しい教育がされていたようです。その試練に生き残ったものがスパルタの戦士として独り立ちできる、だから、スパルタの戦士はムチャクチャ強かったんですって。そんな戦士を抱えるスパルタ国にペルシア帝国が属国になれと言ってきたとき、国王レオダニスは無謀(なのかな、やっぱり)にもそれを蹴ってしまいます。海から続々とやってくるペルシア軍に対して、レオダニスは応戦しようと司祭に託宣をもらおうとしますが、ご託宣によると、今戦争してはダメと言われちゃいます。司祭もペルシアに買収されていたのですが、ともかく正規の戦争はできない、しかし、放っておけばペルシア軍はどんどん上陸してくる。そこで300人の精鋭部隊を率いて海岸線に向かいます。海と山に挟まれた部分なら、大軍を相手にしても互角に戦えるという読みがありましたから、とにかくそこにペルシア軍をとどめようというのです。

もとは、フランク・ミラーのグラフィックノベル(絵物語? 読む紙芝居みたいなものか?)が原作だそうで、映画も映像が絵巻物風というか、リアルではありません。チャンバラシーンにスローモーションやコマ落としを使ったりしているのも、劇画タッチと言えます。かなり、血しぶきやら手足が飛ぶ映画なんですが、リアルとは一線を引いた絵作りのせいか、生理的な嫌悪感につながらないのはうまいと思いました。さらに、畸形のいわゆるフリークの皆さんが戦いに登場してくると、歴史絵巻というよりは、「ロード・オブ・ザ・リング」の世界とかぶってきます。サイとか象が登場してくるのですが、これも動物というよりはファンタジーのモンスターみたいな見せ方になっていますので、「ロード・オブ・ザ・リング」のバイオレンス版のような趣があります。

ザック・スナイダーの演出は絵物語をそのままスクリーンに焼き付けたところがあって、せっかくのジェラルド・バトラーも生身の人間感がなくて、演技しているのかどうかもわからないもったいない使われ方になってしまいました。それは、他の戦士にも同様に言えることで、敵役のロドリゴ・サントロもせっかくの儲け役を演じ損ねたように見えてしまいました。そんな中で、王妃を演じたレナ・ヘディーが整った美形でない分、生身の人間を感じさせてキャラクターにも奥行きがあったように思います。また、唯一感情の葛藤を見せたのも彼女でした。

全編に渡って戦闘シーンばかりで、それ以上のドラマを感じることができなかったのですが、その中で、この300人の勇士の物語を語り伝えることが重要であるというのが面白いと思いました。ペルシア王は、レオダニスに脅しをかけるとき「全ての歴史家の目をくりぬき舌を切り取り、スパルタやレオダニスの言葉を使ったものを死刑にし、お前たちの事をなかったものとしてやる」ということを言います。それに対しレオダニスは、決戦の前に、自分の部下の一人を、自分たちの戦いぶりを語り伝えるためにスパルタへ送り返すのです。そして、ラストでは、300人の勇士の物語はギリシア全土まで行き渡り、それに奮い立つスパルタ軍がペルシア軍を迎え撃つことになります。物語を語り伝えることの重要性をレオダニスもクセルクセスも知っていたのです。自分が死んだ後も物語が永遠であることが死をも恐れない原動力の一つになっているのが興味深いと思いました。

また、もう一つ、息子を戦闘で失った隊長が、息子に「お前は最高の戦士だ」と伝えていなかったことを後悔するというシーンがあります。ここでも、言葉が伝わるかどうかが重要だという世界が描かれているのです。人間は言葉の動物だということがこういう映画で強調されているのはなかなか面白いところです。

最後は絶体絶命でも戦いに臨むという特攻をかけるようなものなのですが、ウェットな部分がなく、戦うことに迷いがなく、戦うこと自体が目的になっているので、後味は悪くありません。こういう戦い大好きな連中がいる一方で、政治をやる人間がいるから、国は滅びずにまとまっていくことができるのですが、この映画では、政治側の人間は賄賂に左右される人間として良く描かれていません。まあ、劇画よりもっとデフォルメされた絵物語だからこそ成り立つ世界なんだなあって納得してしまいました。グラフィック・ノベルなる独特の世界だからこそ成り立つ物語というべきでしょう。その設定を忠実にかつフルに活用したザック・スナイダーの演出は評価されるべきでしょう。ただし、映画としての奥行きというか潤いに欠けているように感じてしまったのは、原作の世界にあまりにも寄りすぎた結果かもしれません。

一つの宇宙SFのパターンを作った「スタートレック」


スペースオペラといえば「スター・ウォーズ」が筆頭に挙がるのは勿論ですが、その横綱に負けず劣らずの位置に「スタートレック」が挙げられます。もとはテレビシリーズだったものを劇場用映画として、あの「サウンド・オブ・ミュージック」のロバート・ワイズが監督し、名匠ジェリー・ゴールドスミスが音楽を担当し、指揮もゴールドスミス自身で行っています。(編曲はアーサー・モートン)

テレビシリーズとは明らかに異なるテーマ音楽を高らかに鳴らすのですが、このテーマが宇宙へ向けての高揚感を謳いあげる素晴らしいもので、フルオーケストラを目一杯慣らしているのが最初の聞き物です。このテーマに続いて、クリンゴン星人の戦闘シーンになるのですが、ここではシンセサイザーを全面的に出して宇宙らしさを演出しています。オーケストラの1パートとしてシンセサイザーを使うという手法をこの後ゴールドスミスはよく使うようになるのですが、その先駆け的な作品と言えます。

「スターウォーズ」が宇宙活劇だったのですが、こちらは活劇的な要素は少ないせいか、音楽は宇宙や宇宙船エンタープライズ号を描写する音楽に力が注がれていまして、特にエンタープライズ号がドックから宇宙へ旅立つシーンに流れる曲の美しさは特筆ものです。宇宙船の巨大感を見事に表現しています。

それ以外の曲も宇宙の壮大感を描写するスケールの大きな曲調で、時折入るシンセサイザーが一種のパーカッション的に使用されています。エンディングにはまた宇宙への旅が始まるということでメインテーマが高らかに鳴り響くのが圧巻でして、音楽全体として、宇宙SFの一つのパターンを作ったと言っても過言ではありません。

「セントラル・ステーション」は映画も音楽も記憶にとどめたい逸品


ヴァルテル・サレス監督のブラジル映画「セントラル・ステーション」は、リオ・デ・ジャネイロ駅で代筆業をやってる因業ババアと、臓器売買人に売られそうになる少年の心の交流を描いた佳品です。ろくでもないことばかりしている人間でもなぜか時としていいことをしてしまう、そんな善意の揺らぎを描いてラストは感動させてくれる映画で、ベルリン映画祭で金熊賞を受賞しています。

アントニオ・ピントとジャック・モルレンバウムが、この映画に素晴らしい音楽をつけました。冒頭の駅のシーンに流れるテーマはピアノの連弾による切ないメロディが胸をうちます。そこへ小編成のストリングスが加わって、駅という多くの人の行きかう場所を描写していて、そこにいくつものドラマがあることを音楽が語っているのです。

もう一つのテーマはシビアに人生の有り様を描写する力強いストリングスにピアノが絡むもので、これら二つのテーマが表裏一体となって、人間の善なる部分とそうでない部分を描いていきます。その後はドラマの流れに沿って、ストリングスが不安なテーマを盛り上げたり、テーマをギターで鳴らしたり再度聞かせたり、民族音楽風に聞かせたりといった展開となっています。

ドラマのラストでまた、ピアノのつまびきから、メインテーマへと変わっていくところは胸がキュンとなるような感動(表現変ですが)があります。映画としても記憶にとどめたい作品ですし、その音楽もまた記憶にとどめるに値する美しい楽曲です。

「ヘンダーソン夫人の贈り物」はコミカルな味わいに戦争のスパイスがちょっと

今回は既にロードショー公開の終わっている「ヘンダーソン夫人の贈り物」をシネマジャックで観て来ました。

1937年のロンドン、未亡人となったヘンダーソン夫人(ジュディ・デンチ)は使い道を探すほどのお金持ち。刺繍やら慈善事業やらやってみたものの今一つ。そして、目をつけたのがウェストエンドのウィンドミル劇場、ここを買い取って、ユダヤ人支配人ヴァンダム(ボブ・ホスキンス)を雇って、レビューを始めたら、これが当たります。ところが、他の劇場も真似してきたことで、経営の危機にまでなってしまいます。そこで、ヘンダーソン夫人は、イギリスではタブーとされていた、女性の裸をレビューに取り込もうと提案し、知り合いの検閲官を何とか説き伏せ、動かなければ芸術だという妥協案で、ヌードレビューの興行を始めると、これが大ヒット。しかし、第二次大戦が始まり、ロンドンも空襲されるようになりますが、それでも、劇場は公演を続けたのでした。

「堕天使のパスポート」「クイーン」など社会派からコミカルなものまで幅広いジャンルの映画を手がけるスティーブン・フリアーズ監督による、実話ベースのコメディです。死んだダンナの遺産でつぶれた劇場を買い取り、そこでレビューをやったら行き詰まり、起死回生の企画がヌードレビューだったというのは、実話だったようです。実話だからでしょうか、裸の女性は動いてはいけないってのが妙にリアルでおかしかったです。

支配人のヴァンダムは、自分のやりたいようにやるということで、ヘンダーソン夫人が口を出すことを拒み、劇場への出入りも禁止してしまいます。でも、このバアちゃんがそんなことではへこたれずにあの手この手で、ちょっかい出すわ、劇場に潜りこむはというところコミカルに見せます。まあ、裸のレビューOKを検閲官から取り付けてきたのは、彼女なのですから、そのくらいのことをしてもいいと思うのですが、ヴァンダムは彼女が邪魔で仕方ないみたいです。

この映画で興味深いのは、当時、女性が人前で裸になることはとんでもないことである一方、モデルたちには当時としては高給が支払われていたらしいということです。ですから、基本は強制じゃなくて、彼女たちは、給金のために割り切って脱いでいたということらしいのです。彼女たちの中でも一番美形でセンターに立つモーリーンが「父親の店で働くくらいなら、こっちの方がまし」というあたりにも当時の女性の立場がうかがえます。

ヒトラーのドイツが進撃を始めると、ロンドンも戦時色が濃くなってきます。ロンドンも空襲が始まり、観客には若い兵士たちが多くなってきます。他の劇場が公演を打ち切っていく中、地下に劇場があるということもあってか、ウィンドミル劇場は、ヌードレビューを続けていました。ヒトラーのオランダ侵攻に家族を残してきたヴァンダムは心を痛めていました。そんな中、ヘンダーソン夫人が仕事オンリーのモーリーンに若い兵士を紹介するというお節介をしたために、悲劇が起こります。彼女が余計なことをしたばかりにその代償は高いものについてしまい、さすがのヘンダーソン夫人も失意の底におちいります。

しかし、国からのお達しで人の集まる劇場は空襲時に危険ということで閉鎖命令が出た時、劇場前に集まった記者や兵士たちの前で、ヘンダーソン夫人は劇場の存続を宣言し、その理由も語るのです。それは彼の息子が21歳で第一次大戦で戦死していたこと、その息子の遺品に裸体写真があったことから、彼女は若い兵士たちのために劇場を続けるというものでした。モーリーンの悲劇のもとにも、その思いがあったということが後からわかるわけで、このことから、ヘンダーソン夫人とヴァンダムは和解するのでした。戦争の持つ悲劇は様々な側面を持っているもので、その一つにスポットライトを当てたという点で社会派ドラマということもできるのですが、全体的な雰囲気はコミカルでノスタルジックなもので、ヘンダーソン夫人を演じたジュディ・デンチの一筋縄ではいかないバアちゃんぶりを楽しむ映画なのかもしれません。

当時のロンドンの町並みや雰囲気を再現した、美術と視覚効果の仕事が素晴らしかったですし、陰影のついた奥行きのある絵を撮ったアンドリュー・ダンの撮影、全体をコミカルな味わいにまとめたジョージ・フェントンの音楽といった職人芸が映画を見事に支えています。

「女帝 エンペラー」は重厚さと軽さのバランスに今ひとつ

新作の「女帝 エンペラー」を川崎チネチッタ6で観てきました。

中国の唐王朝の後のいわゆる群雄割拠の時代、ある国の皇帝がその弟に暗殺され、弟リー(グォ・ヨウ)が皇帝になりかわります。皇帝の妃だったワン(チャン・ツィイー)はリーの皇后となることを決心し、呉越で遊蕩していた皇太子のウールアン(ダニエル・ウー)を呼び寄せます。リーはウールアンを暗殺すべく刺客を送り込みますが失敗、宮廷に戻ったウールアンは、叔父の妃となったワンを問い詰めます。皇后の即位式の余興で、ウールアンは皇帝毒殺の芝居をやってみせ、リーはウールアンを契丹への人質として差し出すと申し渡します。しかし、ウールアンはその途中で近衛兵に殺されそうになり、すんでのところでイン・シュン将軍に救われます。将軍は妹チンニーを人質にされてワンの指示で動いていたのです。リーは群臣を集めた宴を催します。ワンはそこでリーを毒殺しようと杯に毒を仕込みます。そして、その宴の中にウールアンもいました。そこに舞踏団を引き連れたチンニーが現れて、皇太子のために歌と踊りを披露したいと申し出るのですが、その時、悲劇の幕が切って落とされるのでした。

「ハッピー・フューネラル」のフォン・シャオガン監督が、シェークスピアのハムレットを下敷きにして、宮廷内の愛憎をドラマチックに描きました。ハムレットにあたるウールアンでなく、ガートルードにあたるワンを主人公に据えて、人間の欲望の行き着く先を一大悲劇としてまとめあげています。オフェーリアにあたるチンニーは宰相の娘でウールアンの許婚なのですが、彼女がクライマックスで重要な役を演じることになります。

この映画の独特の表現は仮面による舞踏。半笑いの表情を浮かべた仮面をつけた踊手が歌にあわせて前衛舞踏のような不思議な動きを見せます。これが時代考証にのっとっているのかはわからないのですが、オープニングをこの不思議な歌と踊りで始めて、クライマックスでも再度同じ歌と踊りが演じられるのです。この浮世離れした舞踏と、対照的に宮廷内で演じられるドラマはドロドロしたもので、その時代を反映してか、簡単に人が殺されていきます。その舞台となる宮廷の美術が重みのある見事なもので、落ち着いた色彩設計の中で、ワンの着る茜色が際立ちました。

シャオガンの演出はよく言えば重厚、そのゆっくりとしたテンポの人間ドラマの合間に挟まれるアクションシーンは、「マトリックス」シリーズのアクション監督ユエン・ウーピンによるもので、彼による「グリーン・デスティニー」と同じく、重力完全無視のワイヤーアクションは、殺陣というよりは優雅な舞踏を思わせるものがあります。ただ、今回はその舞踏のような動きで実際に殺し合いをし、結構血のりも飛び散るので、ちょっとアンバランスが印象になりました。それでも、この殺陣のシーンが見せ場になっていまして、特に、冒頭のリーの放った刺客によって、ウールアンの家来が皆殺しになるシーンは、踊手たちが面をかぶったまま殺されるなど、凄惨だけどアートっぽい味わいがありました。


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クライマックスは群臣を集めた宴の席での殺人劇となります。ワンが猛毒を仕込んだ杯を、チンニーに飲まれてしまい、そのまま、踊りながら息絶えるチンニー、舞踏団の中に紛れ込んでいたウールアンはチンニーを見取ってから、リーに斬りかかろうとしますが近衛兵に阻まれます。しかし、リーはウールアンを見て、自分の運命を悟って、自ら毒杯をあおります。まさに、悲劇のつるべ打ちは、さらに、イン・シュン将軍をワンに斬りかかりそれをかばったウールアンが死に、イン・シュンはワンの持っていた剣に殺されます。こうして、関係者はワンを除いて皆死亡し、ワンは女帝として君臨することになります。彼女は、自分の思うように生きて、結果ウールアンを失いますが、最後にすべてを手に入れたことを喜んでいるように見えます。しかし、そこで物語は終わらず、さらにエピローグで何者かの剣がワンの胸を貫くのですが、これは蛇足のように思えました。

チャン・ツィイーは重いドラマを背負うには演技的に無理があったように思います。女帝として策略家としての貫禄が足りないのです。それを、若い女性のリアリティとして受け入れるにはドラマが様式美で満ちているので、ツィイーの軽さが浮いてしまうということになりました。軽さははかなさにつながっているところがありまして、謀略に満ちた一連の事件をひとかたの夢として捉えれば、蛇足のようなエピローグもはかない夢の結末と受け取れるところもあります。ラストに流れる主題歌も歌詞の意味はわかりませんが、人生のはかなさを歌っているように思えました。しかし、血生臭い重厚なドラマと、ヒロインのはかなさは調和がとれているとは思えないのがつらいところで、個々のパートは見応えのあるものでしたが、トータルとしては今イチな印象になってしまいました。行動の狡猾さや残酷さにツィイーのキャラクターがついていってないところはありまして、ヒロインに別の役者を持ってくれば、また別の味わいも出ただろうと思います。

娯楽アクションとしてオススメ「ザ・シューター 極大射程」

新作の「ザ・シューター 極大射程」をTOHOシネマズ川崎1で観てきました。座席数の割にスクリーンが大きく、ドルビーデジタルが普通な劇場が多い中、今回は珍しくDTSのロゴが出ました。DTSの上映は珍しいのでそれだけで得した気分です。

名狙撃手スワガー(マーク・ウォールバーグ)は、かつて置き去りにされて相棒を失い、今は隠遁生活を送っていました。そこへジョンソン大佐(ダニー・グローバー)が現れ、大統領狙撃計画を阻止するために、狙撃プランを逆に立ててみて欲しいと言われます。大統領の行程からすると、フィラデルフィアでしか狙撃できないとスワガーが指摘すると、現場を押さえたいので立ち会ってくれと言われます。しかし、狙撃タイミングが来た瞬間、スワガーは警官に撃たれて窓から転落します。どうやら、ワナにはめられたようで、二発くらったまま逃走した彼は狙撃犯として全国に指名手配されてしまいます。彼が死んでいないことは敵にとっては想定外だったようです。かつての相棒の妻を訪ね、傷の治療をしてもらうと反撃に出ます。一方、現場にいたFBI捜査官メンフィス(マイケル・ペーニャ)は現場の状況からスワガーが犯人ではないと思い始め、独自に捜査を始めていました。驚異的な狙撃能力を持つスワガー、巨大な陰謀にどう立ち向かっていくのでしょうか。

原作はベストセラーの長編大作だそうで、それを2時間強の映画にまとめあげたのは、「トレーニング・デイ」「ティアーズ・オブ・ザ・サン」のアントワン・フークワ監督ですが、今回は社会派というよりは、徹底したアクション映画に仕上げています。かつて「リプレイスメント・キラー」というアクション映画の佳作も手がけているだけに派手な見せ場をうまくつないで、オープニングから最後まで一気に突っ走る展開は、原作、脚本の力も大きいのでしょうが、役者の適材適所も含めた演出の力も大きいと思います。

名狙撃手に狙撃プランを立ててもらって実際の狙撃を防止するという胡散臭いながらサスペンスフルな展開から、突然の銃声と共に追跡アクションへ切り替わるのが鮮やかに決まりました。二発も弾を食らっているのに、車を運転して逃げる主人公のタフさにまで気がまわらないくらいに一気に畳み込むアクションシーンがお見事で、でもきちんと彼なりのサバイバル法も描写されているあたり芸の細かいところを見せます。この時点で、主人公は重傷を負った上に大統領狙撃未遂犯にされてしまったのですから絶対絶命、反撃の糸口がなさそうに見えます。しかし、主人公の傷が回復して、現場に居合わせたFBI捜査官を使って、敵をおびき出す作戦が見事に的中します。このあたりの展開もテンポよくてきぱきと進んでいざとなれば、長距離狙撃の腕がモノを言うというので、観ていて「行け行け、やったれ」の気分になります。変に感傷的になる部分を省いてアクションをつないでいくという構成が成功していまして、相当、非情な殺しをやってのける主人公なのに応援したくなってくるのは、そのテンポと見せ方がうまいからでしょう。

自分も事件に疑問を持ちながら、それでもスワガーに巻き込まれてしまうFBI捜査官がコメディリリーフとしていい味を出しました。決して笑いをとるわけではないのですが、ハードなドラマの中で彼の存在がちょっとした息抜きになっているのです。「ワールド・トレード・センター」で生き残る警察官を演じたマイケル・ペーニャが好演していまして、後半はスワガーの片腕となって活躍するあたり、おいしいところを持っていきます。ハードなドラマの中で、相棒の妻を演じたケイト・マーラが芯の強いキャラを熱演していまして、単に巻き込まれるだけのヒロインになっていないのが見事でした。

こういう映画では、敵役のワルぶりでドラマの面白さも決まってきます。今回は、ダニー・グローバー演じる元大佐、今は傭兵のヘッドになってる男が徹底的に非情な男として登場します。また、その大佐に利用されるもう一人の狙撃屋にレド・シェルベッギア、更に黒幕となる上院議員のネッド・ビーティと駒を揃えていて、重層的なワルの集団が一筋縄ではいかないってのをうまく描写しています。こんな連中にどう反撃するのかってのは、劇場で確認していただきたいですが、決着のつけ方には微妙なところがあります。私はこれにカタルシスを感じたのですが、釈然としない人もいるかもしれません。でも、法で裁けぬ悪を討つにはこれしかないのかもしれません。ともあれ、狙撃、銃撃戦、爆破と物量作戦で見せ場をつないでいるのに、大味な印象にならないのは、原作というか物語がちゃんとしている強みなのでしょう。

ピーター・メンジースJrの撮影がシネスコサイズの絵で引きの絵をきちんと押さえて、アクションシーンも含めて、娯楽映画としてわかりやすい絵作りをしているのがうまいと思いました。また、久々のマーク・マンシーナの音楽がパーカッシブなオーケストラの使い方で、派手なアクションをシャープに盛り上げています。娯楽アクションとしては、点数高い、滅法面白い映画に仕上がっています。主人公の四面楚歌状態に感情移入するにも、劇場で観ることをオススメします。

「この森で天使はバスを降りた」は包み込むようなやわらかな音が心地よい


1996年に公開された「この森で天使はバスを降りた」は、まだ「癒し」という言葉がそれほどメジャーではない頃に公開された、癒しを題材にした映画でした。森の中のスピットファイヤーグリルという食堂に、過去のある若い女性がやってきて働き始めることから起こる静かなドラマの音楽を「タイタニック」のジェームズ・ホーナーが担当し、作曲、編曲、指揮をホーナー自身が行っています。

森の中に立つヒロインの姿に丸みのあるピアノの音がかぶさるオープニングの音楽が、映画全体のカラーを決めていると言っても過言ではありません。それ以降は、カントリー調のピアノ、バイオリン、ギターによる曲がのどかな空気を描写し、そこへオーケストラが絡むことで厚みのある音が印象的です。でも、何といってもヒロインを描写するピアノとフルートによる静かな音が素晴らしく、そこにバイオリンがきりっとアクセントをつけて、毅然としたヒロインを描写しています。

音楽全体が包み込むようなやわらかい音作りがされており、ピアノの音も耳にやさしく響いてきまして、都会的なジャズタッチのピアノとは一線を画しています。それに、オーボエやホルンがさらに加わることで、温かみのある音に統一されているところが見事です。ドラマチックな部分もオーケストラを鳴らし過ぎない節度が感じられ、ピアノやバイオリンによる不安の描写を中心にして、音楽がドラマをかき乱さないように配慮されているように思いました。ホーナーは静かな曲を書くと単調になりがちなのですが、この映画では、楽器のバリエーションをつけて、やわらかいけどメリハリのある音を作っています。特に、要所要所で鳴るピアノの音が大変印象的でした。

「主人公は僕だった」は設定の面白さは抜群だけど、結末逃げてない?

また新作の「主人公は僕だった」を山形フォーラム2で観て来ました。山形フォーラムの中の一番小さな42席の劇場で、ドルビーデジタルは入っていて、なだらかなスロープになっています。フォーラムの他の劇場と違ってここだけ飲食禁止というのは、換気の問題なのかしら。

国税庁に勤めるハロルド(ウィル・ファレル)は日々同じことの繰り返しの毎日を送ってきたのですが、ある日、どこからか女性の声が聞こえてくるようになります。その声は彼の行動や思うことを一々説明するナレーションみたいで、ハロルドは自分が誰かの小説の一部になったような気分です。その声が彼の死を示唆したことから、医者にも行ったのですがラチが開かず、彼は文学の専門家ヒルバート教授(ダスティン・ホフマン)を訪ねます。一方、ハロルドは徴税の仕事で納税忌避のアナ(マギー・ギレンホール)と知り合い、彼女に好意を抱きます。アナも堅物役人であるハロルドにまんざらでもありません。さて、お話かわって小説家のカレン(エマ・トンプソン)はハロルドという役人が主人公の小説を書いており、その結末に悩んでいました。どうやって、主人公を死なせようか、しかし、小説の登場人物の生死が、実在するハロルドの生死に関わっていたのです。果たして、小説とハロルドが迎える結末とは?

「チョコレート」「ネバーランド」などで一癖ある映画を作ってきたマーク・フォースター監督の新作は、ファンタジー仕立てのブラックコメディです。何しろ、自分がいつの間にか小説の登場人物になっていて、運命を小説家に握られていたというのですから、自分は自分のようで自分でないという不思議な状態です。その設定の面白さをどう落とし込むのかというところが見所の映画と言えます。自分がものを思ったり行動したりするのは、当然、自分だというつもりなんですが、それが自分じゃないとしたら、別の作家に左右されるとしたら、とんでもないことだということになります。しかし、人間は、運命とか神の御心とかいわゆる自分の外部のものに動かされているとも言えます。この映画、自分のアイデンティティをどう受け止めるかという結構大きなテーマを抱えているのですが、その部分には深く突っ込んではいません。「声が聞こえて、自分の死を予告した」とき、どういう行動をとるかというハロルドの物語と、「誰かの運命を手中にしてしまった」小説家のカレンの物語を並行して描いていきます。

ハロルドは謎の声に悩まされながらも、自分のやりたいことをやろうということで、役所も休暇をとり、ギターを買って練習を始めます。自分の死を予告されたとき、こんなに前向きに行動できるものかという気もするのですが、パン屋のアナともいい感じになります。この二人の恋の成り行きが微笑ましくて、マギー・ギレンホールが演じるアナが明るくて聡明な大変魅力的な女性になっていて、何で、こんな善良なだけの男に魅かれるんだという若干の疑問も挟みながら、二人は結ばれるのです。

一方のカレンは、小説の結末でどうしても主人公を殺さなければならず、その殺し方に悩んで、雨の中で橋を眺めたり、病院の中をうろついたりして、イメージをつかもうとしているのですが、なかなかアイデアが湧いてきません。このあたりの作家の悩みについては、凡人にはわからない部分が多いのですが、エマ・トンプソンがカレンを演じることで、ハロルドのドラマに対抗できる存在感が出ました。そして、彼女は実在のハロルドの存在を知ることになります。それを知った後、小説の結末をどうつけるかがドラマのポイントとなります。ヒューバート教授は彼女の原稿を読んで、この物語の結末は、主人公の死以外あり得ないと断言しますし、ハロルドもその小説を読んで、何となくそうであるような気がしてきます。


この先は結末に触れますのでご注意ください。


ここで不思議なのは、ハロルドがカレンに命乞いをしないことです。小説の原稿を読んで、素直に自分の運命を受け入れようと腹を決めるというのは、要するに芸術と心中しようということです。なぜ、そんな心境になるのかが描かれていないのが弱いと思いました。だって、彼は、自分の人生を見直して、新しい恋人もできたところなのに、ここで、死んじゃったら意味ないですもの。一方、ヒューバート教授はここで死ぬことで小説は傑作になり、意味ある死だというのです。運命を受け入れるというのなら、理解できるのですが、ある作家の気まぐれなタイピングに自分の命を預けてしまうというのは、どうにも理解できませんでした。

カレンは、小説の結末を変えてしまうのですが、その理由が「死がすでに主人公に予告されていて、突然の結末ではなくなるから」というのですが、それって何だか詭弁なような気がします。単に、自分の責任で実在の人間を死なせることができなかったというのが正直なところではないでしょうか。このあたりに芸術家のきざったらしさというかイヤらしさを感じてしまいました。もしも、そんな理由で結末を変えるくらいなら、ハロルドに「結末は変えたよ」と嘘をついて、突然の死をもたらせばよいのです。そういう結末だったら、相当、毒のあるブラックコメディになったのでしょうが、映画は予定調和の方を選びました。確かに、ハロルドとアナがいいカップルだけにハッピーエンドはうれしいのですが、最初の設定を最後で料理することを放棄したようにも見えます。娯楽映画にまとめるというのは、こういうことかもしれませんが、どこかにもう一頑張り欲しかったように思うのは、これが大変面白い設定だからでして、うーん、とはいえ、これしか結末はないのかな。

「初雪の恋」は、宮崎あおいが何だか不憫

今回は、旅行先の福島フォーラム5にて「初雪の恋」を観て来ました。全体がなだらかな傾斜でカップホルダー付の椅子はシネコンの中規模スクリーンを思わせる作りなのですが、スクリーン下に舞台があり、その舞台上のスピーカーが剥き出しで置いてあるのにちょっとびっくり。重低音用ウーファーも含めて4台のスピーカーが並んでるってのはなかなかの見ものでした。ドルビーデジタルも入っていて音響そのものは良好でした。

陶芸家の父親について韓国から日本の京都にやってきたミン(イ・ジョンギ)は街を自転車で走り回っていたときに、巫女のバイトをしていた七重(宮崎あおい)と知り合います。彼女はキムと同じ高校に通っていて、家庭にちょっと事情を抱えていました。ミンは不自由な日本語で七重にアタックし、二人はいいムードになります。彼は七重と、幸せになれるジンクスのある初雪の日のデートを約束します。しかし、祇園祭の宵山の夜を最後に七重はミンの前から姿を消してしまいます。そして、二年後、ソウルで二人は再会するのですが、なぜかしっくりこなくて喧嘩別れのようになってしまいます。でも、お互いに相手を待ち続けていたこのカップルに再び分かり合える日が来るのでしょうか。

日韓合作で、日本の伴一彦が脚本を書き、韓国のハン・ウンヒが監督をしたラブストーリーです。日本にやってきた韓国の若者と日本人の女の子が恋に落ちるということでは国際恋愛モノということができましょう。ただ、国家や政治的なことが二人の障害にはならないので、国際恋愛というところでドラマが重くなることはありません。主人公が冒頭から軽いノリで突っ走るので、普通の青春ドラマのように観ていることができます。言葉が通じないのも全然臆せず、学校でも調子よくやっていく主人公の姿はなかなか微笑ましく、一方のヒロインの清楚な魅力といい対照になっていて、ライトなラブコメの予感もあったのですが、ドラマにはだんだんと影がさしてくるのです。


ここから先はドラマの結末に触れていますので、ご注意ください。


七重の家庭の事情というのが、父親をなくして精神的にダメージを負った母親が変な暴力男につきまとわれてしまっているというもので、その男から逃れて、母親を入院させるために引っ越したということらしいのですが、そのために、ミンに別れも告げずに姿を消していたのでした。ちょっと考えてみると、二人が別れなければならない理由としては説得力がありません。脚本もそこを隠すためか、姿を消した事情を七重からミンに直接に語るシーンはありません。

後半、舞台がソウルに移ってからは、前半のテンポのよさは影を潜めて、二人の強い思い込みのしんねりむっつり芝居になってしまいます。せっかく再会したんだから、くっつきゃいいじゃんと思うのですが、そこがうまくいかない。しこりがあるのはわかるけど、偶然の再会をモノにできないのならもうダメだよね、と、思っていると、怒涛の偶然と、七重の頑張りで一応のハッピーエンドとなります。ただ、このあたりの展開が、脚本、演技、演出がうまくかみ合ってない感じで、観ていて何だか居心地が悪いのですよ。七重がずっと初雪デート待ってたなんなら、再会したときに意思表示せいよ。そもそも勝手に姿を消しておいて勝手に初雪デート待ってるってどうよ。京都で七重が初雪デート待ってたってわかってからなぜソウルで待ち合わせ?などなど、流れがおかしいのですよ。感激の再会の演出も、雨の中でぼうっと七重が立ってるという「あ、霊になって出たっ!」という見せ方なので、それでは宮崎あおいが不憫だろうと思ってしまいました。最後に交わす会話も「あなたが待ってた時間だけ、私も待っていた。」って、そりゃ違うんじゃないかい?

ラストのちぐはぐさを置いとけば、前半は全うな青春ラブコメですし、京都ロケの映像も美しく観光案内としてもいい線いってますし、宮崎あおいはかわいいし、映画としてはまるっきりダメなわけではないのですが、後半の葛藤部分のバランスの悪さが惜しい映画でした。ひょっとして、イ・ジョンギのプロモビデオのつもりなら、ありなのかも。明るいジョンギ、恋するジョンギ、悩むジョンギ、憤るジョンギなど、ジョンギフルコースを見せたいために物語を作ったのかもしれません。それだったら、後半の不自然な展開も納得できるけど、宮崎あおいがますます不憫になってきました。

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Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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