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現代の怪談「マタンゴ」は怪獣映画の異色編

夏の怪談シリーズというわけではないのですが、現代劇の怪談「マタンゴ」をDVDで観ました。かつてシネマジャックにて劇場鑑賞したこともある映画なのですが、見直してみるとなかなかよくできていることを再認識しました。

実業家笠井(土屋嘉男)の持つヨットで船旅としゃれ込んだ、7人の男女。ところが嵐に出会って、自力での走行不能におちいります。霧の中を漂流するうちにとある島にたどり着きます。そして、そこで難破船を発見します。カビだらけだった中を掃除して何とか生活できるようにするのですが、船の中に巨大なキノコの標本があり、その名前をマタンゴとついていました。水は確保できたものの、問題は食料でした。船になぜか残されていた缶詰でしばらくはしのげるのですが、後は、海藻や芋、海亀の卵などを確保しなければなりません。森の奥にはたくさんのキノコが生えているのですが、その正体はわからず、手をつけないで置いたのですが、ついに小説家の吉田がキノコを食べて様子がおかしくなります。大学教授の村井(久保明)はなんとか理性でみんなをまとめようとするのですが、極限状態ではそれも役に立たず、次には歌手の麻美(水野久美)がキノコを食べてしまいます。このキノコは幻覚作用があるだけでなく、食べ続けると体がキノコ化してしまうという恐ろしい毒キノコだったのです。森の奥では元人間だったマタンゴが不気味な笑い声を上げて次の犠牲者を待っているのでした。

昭和38年の東宝映画です。製作田中友幸、監督本多猪四郎、特技監督円谷英二という布陣は、ゴジラ映画を作ったスタッフでこの映画も怪獣映画のような扱いを受けています。つまり、キノコ怪獣マタンゴということになるのですが、実際は怪奇映画の色彩が濃い映画でして、いつもの怪獣映画のつもりで観ると肩透かしをくうことになります。ウィリアム・ホープ・ホジスンの「闇の声」という小説をもとにSF作家の福島正実と星新一が原案を提供し、「ラドン」や「ガス人間第一号」などの特撮映画の実績のある木村武が脚本を書いています。ポスターの謳い文句が「吸血の魔手で人間を襲う’第三の生物’マタンゴの恐怖!」というものですから、一応は怪獣映画の一種として扱おうとしているようです。でも、「吸血の魔手」なんて持ってはいないのですが。

男5人に女2人というグループで海に乗り出したはいいものの、嵐のせいでとある島に漂着してしまいます。無人島かと思えば人のいる形跡もあり、ぼろぼろの漂流船も見つかります。海中にも沈没船がいくつもあることから、この島は船の墓場らしいことがわかってきます。ただ、不思議なことに死体がなく、なぜか洗面台の鏡がはずされています。このあたりはミステリアスなタッチなのですが、ここから先は食料と女を巡る男たちのエゴの闘いがドラマの中心になります。船長の作田(小泉博)が一番まともなリーダーらしい振る舞いをしているのが、結局みんなを見捨ててヨットで一人で逃げ出してしまうとか、オーナーであることからでかいクチをたたいていた笠井が実際には何の役にも立たないとか、意表を突いた人物描写が極限状況の人間をリアルに描写しています。一方で、その時の強い立場につく麻美のしたたかな色香が印象に残ります。漂流しているのに厚化粧をしているというのが結末に向けて不気味な艶かしさをかんじさせるのです。

キノコを食べた吉田が他の連中を殺そうとして逆に船を追い出され、その時、吉田に加担した麻美も吉田についてジャングルの奥へと消えてしまいます。船員の小山(佐原健二)は吉田に撃たれて死亡。残った笠井、村井、そして村井の教え子である明子(八代美紀)が残されるのですが、笠井は麻美に連れ出され、残った二人をマタンゴ化した人間が襲ってくるのです。このあたりはかなりホラータッチで撮られていて、全身キノコ化した人間がゾンビのごとく船に押し入ってきます。村井がキノコ人間を撃退しているうちに明子が連れていかれて、それを追ってジャングルに入った村井をキノコたちが襲います。キノコになりかけの吉田の特殊メイクなどかなり不気味なものがあり、フォッフォッフォっという不気味な笑い声(この音は後にバルタン星人の声として有名になります)をたてながら無数のキノコ人間が村井に襲いかかるシーンがクライマックスとなっています。

このキノコは幻覚症状を起こすことから一種の麻薬のようなところがあり、それを常用すると文字とおり人間でなくなってしまうというところに恐ろしさがあります。しかし、一方、あの島では人間は皆キノコになるしか生きる術がないとすると、人間でいる方が異端者ということになります。最後まで理性を保とうとした村井は、半狂乱になってその場から逃げ去り、ヨットに乗って海へと逃れます。

映画は7人のうち2人が死亡、村井一人が生還、そして後の4人はキノコを食べてしまいます。冒頭、村井が精神病院で回想するシーンから始まるのですが、彼は、帰ってきてキチガイ扱いされるくらいなら、島に残ればよかったと後悔します。その方が幸せだったと。そこにもう一つのオチがつくのですが、人間に対する絶望感というよりは、非常にシニカルな視点の面白さがありました。本多監督の演出は大変マジメに人間ドラマを構築しているのですが、そこから人間とマタンゴの境目の曖昧さが浮き上がってくるところがこの映画の見所と言えます。

日本の怪獣映画の中では、かなり異色で、かなり気色悪い映画ではありますが、そのドラマの面白さで高い評価を得ています。この映画を怪獣映画ではなく「液体人間」「伝送人間」「ガス人間」の系列につながる変身人間ものという捉え方をする人もいるようですが、私としては、怪獣映画の異色編として、この「マタンゴ」を位置づけたいと思います。円谷英二の特撮は割と控えめにドラマを支えていますが、キノコの不気味さがよく出ており、クライマックスはまるで悪夢のような怖さがあります。

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夏は怪談「東海道四谷怪談」は定番中の定番

夏と言えば怪談ということで、怪談の王道というべき「東海道四谷怪談」をDVDで観ました。数多く製作されている四谷怪談の中でも、昭和34年新東宝映画「東海道四谷怪談」を観ました。この映画、かつてシネマジャックで観たときも素晴らしいと思ったのですが、テレビの画面でもなかなかの見応えとなりました。

浪人、田宮伊右衛門(天知茂)はお岩(若杉嘉津子)との仲を、お岩の父に叱責され、勢いで父親とその友人を斬ってしまいます。そこに居合わせた直助(江見俊太郎)は、伊右衛門をそそのかして、それを別人の仕業だとお岩と妹のお袖(北沢典子)に告げ、敵討ちの旅に姉妹を連れ出します。敵討ちに同行する佐藤与茂七を滝つぼに落として殺し、そして、途中で伊右衛門、お岩と、直助、お袖がはぐれてしまいます。時がすぎ、伊右衛門とお岩は江戸に出て貧乏暮らしをしていました。そんな伊右衛門に仕官と縁談が一緒に舞い込んできます。お岩が邪魔になったは伊右衛門は、またも直助に言われるままに猛毒を飲ませます。毒を飲ませ、二目とみられぬ顔となったお岩は伊右衛門をうらんで死んでいきます。伊右衛門はあんまの宅悦との不義密通をでっちあげ、宅悦も斬り殺し、二人を戸板の両面に打ち付けて川に流してしまいます。そして、何食わぬ顔をして祝言の席に臨む伊右衛門ですが、床入りのとき、お岩の幽霊が現れ、逆上した伊右衛門は新妻や舅を斬ってしまいます。しかし、まだまだお岩の怨霊は伊右衛門にとりついたままです。果たして、お岩は恨みを晴らして成仏できるのでしょうか。

テレビから映画、怪談からコメディと様々なジャンルの映画を手がけた中川信夫監督の代表作です。オープニングで伊右衛門がお岩の父親を夜道で待ち伏せして、お岩との仲を認めさせようとして、いい返事が得られず、逆上して斬り殺してしまうまでをワンカットでみせるところにまず目を見張らせます。テンションの高いドラマはだれることなく、物語をつないで江戸での伊右衛門夫婦の貧しい暮らしとなります。体が病弱ながら、伊右衛門にすがるように従うお岩の痛々しい姿が描かれ、その一方で、伊右衛門にはひょんなことから、仕官と縁談がころがりこんできます。

やっていることは極悪非道なのに、伊右衛門は極悪人のようには描かれていないところが面白いところです。対照的に血も涙もない直助に比べると、結果はともかく何をするにも煮え切らないところがあります。どこかに武士のプライドが残っているというのでしょうか。でも、直助にそそのかされて、最初の殺人を別人の仕業とでっちあげ、お岩につらくあたりながら、殺そうとするのですから。しかし、一方で転がり込んできた縁談に嬉々とするわけではないので、自分に染み付いた悪人の業を受け入れられず、また一方で拒めない、人間の弱さを感じさせるのです。伊右衛門に対して同情の念を起こさせるシーンなど一切ないのですが、彼の行動には「なんて、バカなことを」と思わせるものがあるのです。

お岩の幽霊は、仕官した家の家族を伊右衛門の手で殺させてしまいます。そして、さらに直助も伊右衛門に殺されてしまいます。悪の司令塔ともいうべき直助を失った伊右衛門は、もう正気ではなくなっています。お岩と宅悦の亡霊に追い詰められていきます。死んだと思っていた佐藤与茂七が生きており、お岩の夢のお告げを聞いて、お袖とともに伊右衛門のいる寺へ、敵討ちに乗り込んできます。お岩と宅悦の亡霊に悩まされながら、刀を振り回す伊右衛門ですが、最後はお袖と与茂七の前に息絶えることになります。「許してくれ、お岩」という言葉を残して。

敵討ちに幽霊が加勢したというふうに見えるのですが、ここで、お岩に赦しを請う伊右衛門の姿が哀れにも映るところにこの映画のうまさがあります。最初、道を踏み外した人間がどんどん悪事を重ねていってしまう、その結果は自滅しかないのですが、そこに運命に翻弄される人間のある種弱さのようなものを感じさせるのが見事でした。そして、明け方、赤子を抱いたきれいな姿のお岩が昇天するところで、映画は終わるのですが、ここでは、悲惨な目にあったお岩があの世では成仏したことを示します。映画としての結末として、このシーンは重要で、お岩がちゃんと救われる絵を見せるあたりに演出のうまさを感じます。お岩が単に顔の崩れた幽霊のままで終わってはあまりに救いがありません。単に怖がらせだけに終わらない怪談映画になっているところがうまいと思いました。

中川信夫の演出には絵の見せ方に独特の美意識のようなものが感じられ、江戸でのお岩の暮らしぶりや薬売りの商いといった風物を取り込みつつ、いざというときの怖がらせシーンをきっちりと見せてくれます。髪すきのシーンは、当時の特殊メイクとは言え、ぞっとするような怖さがありますし、穏亡堀での戸板返しのシーンは、照明と独特の色彩設計のおかげで恐ろしい見せ場になっています。当時としてもかなり危険な撮影をしていたと本で読んだことがあります。西本正の撮影も暗いシーンで独特に色使いをして不気味なそして美しい絵を作り出しています。

関内の映画館の記憶2

記憶の中の関内の映画館第二弾です。書き留めて置かないと、ホントに記憶からもなくなっちゃいそうで。

横浜東宝会館という映画館専門の建物が馬車道にありまして、そこには5館の映画館が入っていました。

「横浜東宝」
横浜東宝会館の1階の映画館。館名からだと東宝映画の封切館みたいですが、実際は洋画のロードショー館で、70ミリの上映設備もあります。ややフラットな映画館ですが、スクリーンがそこそこの位置にあるので比較的見やすかった記憶があります。70ミリの画面は大迫力なんですが、普段のビスタサイズの画面は600席規模の映画館としてはやや小さめで、そこが微妙な感じでしょうか。ドルビーデジタルが入っていました。良質な映画を上映する映画館という印象がありまして、「ゴースト、ニューヨークの幻」「ピアノ・レッスン」70ミリの「遥かなる大地へ」「グレートブルー」「スターマン」「ダイ・ハード」などをここで観ました。駅前の相鉄ムービルよりも空いていて客層もいいという印象があってよく横浜東宝会館へはよく足を運びました。

「横浜東宝エルム」
かつて、横浜東宝の2階席だった部分を一つの映画館にしたというだけに、まずスロープが他の映画館に比べてかなり急、そして横に広い割りには奥行きがないという作りに特徴があります。340席という座席数もほどよく見やすい映画館でしたが、同じ東宝会館の横浜東宝やスカラ座に比べると格下感は否めなくて、前記2館のムーブオーバー上映というのも結構多かったです。それを意識したのか、横浜東宝会館の5館のうち唯一、ドルビーデジタルとDTSの両方の設備を持っていた映画館です。ここでは本当に色々な映画を観ました。SFものでは「トータル・リコール」「アビス」 アニメの「ファンタジア」「ポカホンタス」、その他「ラスト・オブ・モヒカン」「愛に翼を」「恋人たちの予感」「マグノリアの花たち」「結婚の条件」といった映画もここで観ました。横浜東宝会館の中でも一番愛着のあった映画館でした。

「横浜東宝スカラ座」
横浜東宝会館の4階にあって、今のシネコンにまけないスタジアム型の座席と大画面を持つ映画館でした。600席以上の規模は横浜東宝を凌ぐものがありました。ここは、アクションものをよくやっているという印象があって「ダイ・ハード2」「ミッション・インポッシブル」「ロックアップ」「ハムナプトラ」「子熊物語」「フィールド・オブ・ドリームス」などをここで観ています。映画に没頭できるという点ではかなり点数高い映画館です。なぜか、DTSだけ入っていて、ドルビーはSRまでしか入っていなかったのはちょっと不思議でした。そこだけ横浜東宝と差別化する理由はないように思うのですが。

「横浜東宝シネマ1」
横浜東宝会館の地下へ降りると、左手がシネマ1、右手がシネマ2の入り口になっています。半券をもらってすぐの入り口を入るとそこは劇場の2階席で、1階席はさらに階段を下りたところにあります。縦に長い映画館で、320席にそこそこの大きさのスクリーンでこじんまりとした感じがありました。ちょっと映画を観たいときに軽く入れる映画館という感じが好きで、思いついたように最終回に足を運んだこともありました。並ばないで、そこそこいい席で、好きな映画を気楽に観れて、従業員の感じがよい映画館というのはそうはないです。最終回が終わった後もパンフレットを売っていて、おねえさんの「ありがとうございました」が聞ける映画館ということで、この横浜東宝会館は点数高かったです。シネマ1は東宝の邦画の封切を上映していることが多くて、あまり多くは足を運べませんでしたが、「ヒュー・グッド・メン」「ジェイコブス・ラダー」「フィッシャー・キング」といった映画をここで観ています。音響はドルビーSRまででした。

「横浜東宝シネマ2」
横浜東宝シネマ1の双子の映画館で、作りもシネマ1と全く同じで、こちらはもっぱら洋画の封切館でした。上映される映画は、横浜東宝エルムの次というランクでして、それでも「シー・オブ・ラブ」「ラルフ1世はアメリカン」「張り込み」「ビッグ」にジョン・カーペンターの「ゼイ・リブ」なんてのをここで観ています。なくなってしまったのが本当に惜しまれる映画館です。


「横浜セントラル」
横浜松竹があったところを二つの劇場「横浜松竹」と「横浜セントラル」に分割した、洋画専門の封切館です。「横浜松竹」は入る機会がなかったのですが、たぶん、同じ作りの映画館ではなかったのかしら。中は前半3分の2くらいまではフラットな映画館なのですが、そこからぐんと大きな段差が出来て、地続きの2階席みたいな作りになっています。ここは映画館そのものには東宝会館ほどの愛着はないのですが、上映する映画に一癖あるものが多かったです。私の私的ベストワン「ジャックナイフ」もここでしたし、「戦慄の絆」「ヒドゥン」「スペース・ボール」など、他の映画館からこぼれてしまうような映画をここで上映していたように思います。音響はドルビーステレオでした。


「横浜西口名画座」
これは、関内ではなく、横浜駅の西口の地下にあった映画館で、120席ほどの小さな劇場だったのですが、大雨で浸水してそれっきり閉館になってしまったという悲しい経緯があります。ここでは、「奇人たちの晩餐会」「キャラバン」「クレーブの奥方」「ゴースト・ワールド」といったミニシアター系映画を積極的に上映してくれたありがたい映画館でした。でも、何と言っても、ここはジョン・カーペンターの「ゴースト・オブ・マーズ」を上映したということで、その名を(どっかに)とどろかせています。フラットな場内は座高の高い人に前に座られるとしんどいものがあるんですが、まあ、ドルビーステレオ入ってたし、カーペンター上映したし。


今も残っているのは「横浜ニューテアトル」と「横浜シネマリン」ですが、特に「横浜シネマリン」は最初の頃よりずいぶんときれいになって別の映画館のようになりました。昔は「イセザキシネマ」という洋画のピンク映画の上映館だったのを普通の映画館にしたので、コンクリートの剥き出しの床でステレオ音響もなく、正直言って小汚い映画館だったのですが、改装してからは、ちょっとおしゃれなミニシアター風に変身してびっくりです。一方の「横浜ニューテアトル」は昔のままの風情でこれはこれでポリシーを感じさせます。どちらの劇場にもお客さんが入って頑張ってくれたらいいなあって思います。

関内の映画館の記憶1

横浜、関内の映画館が今や2館となってしまった今、記憶の中の映画館を思い返してみると色々と思い出すことがあります。

「横浜ピカデリー」
800席以上の大劇場、大画面の映画館でしたが、コンクリートの床が昔ながらの作りになっており、閉館までデジタル音響が入ることはありませんでした。でも、でかい画面の迫力は横浜一で、ここで観た70ミリの「007 消されたライセンス」が大迫力だったのを記憶しています。007を70ミリで観たのは、後にも先にもこの時だけでした。また、「タイム・ボンバー」「ダークマン」「死霊のはらわた2」「オペラ座の怪人」といったB級映画を結構上映していたのが印象に残っています。

「横浜オスカー」
旧横浜日活が洋画系封切館になったもので、ビルの4階に400席程度の映画館はどちらかというと地味な印象でした。ここで観た映画は「蜘蛛女」「冷たい月を抱く女」といったサスペンス映画や「ペンタグラム悪魔の封印」といったアクションものをたくさん観たような記憶があります。場内は真ん中がやや低くなっているようなところがあって、スクリーンはそこそこの大きさ、音響はドルビーSRまでだったと思います。

「横浜オスカー2」
ろっぽにか横浜という映画館が名前を変えた映画館だったように記憶してます。「横浜オスカー」の上、6階にある小さな映画館、小さなスクリーンでフラットな場内でしたが、あまり混雑してたことはなかったような。ここでは、大感動作「ルディ 涙のウイニングラン」、青春ものの傑作「ルーカスの初恋メモリー」ファミリーコメディの佳作「天国に行けないパパ」といった掘り出し物が多かったように思います。大スクリーンにかかりそこなった映画をここで上映していたという印象があり、どっちかというと場末感のある映画館でもありました。それでもドルビーステレオは入ってました。

「横浜オデオン座」
オデオンビルの上にある小さな映画館、100席ほどの映画館でしたが、スクリーンの後ろから上映するという珍しい方式の映画館でした。ここでは、一度、上映中に映写機が故障して払い戻しをしたことがあります。「F/X」と「サンタリア」の二本立ての時だったと思います。ここでは、ジョン・カーペンターの「パラダイム」を観てえらく怖かったというのが一番大きな印象でしょうか。
場内の割りにスクリーンが小さいというのが弱点でしたが、名前だけは由緒ある映画館だったのが不思議なミスマッチ感ありました。それでも音響はドルビーが入ってました。

「関内アカデミー1」
横浜のミニシアター系映画を一手に引き受けていたのが、この映画館でした。座席数は70程度でしたが、スクリーンはそこそこの大きさなのですが、座席がフラットなので、前に人が座ると画面が欠けてしまうという弱点がありました。「フィオナの海」「遥かなる帰郷」「アイ・ウォント・ユー」「記憶の鍵」などのミニシアター映画をここで観ました。ロビーもないので、映画を観るのに外に行列ができるのですが、映画ファンは横浜で唯一のミニシアターに長い行列を作っていました。音響はドルビーステレオでしたが、閉館寸前、関内MGAに名前を変えたときには、ドルビーデジタルになっていて、そこで「ホワイトライズ」なんてのを観ました。

「関内アカデミー2」
関内アカデミー1の上の階にあるさらに小さな映画館、50席程度ながら、スクリーンはものすごく小さい。それでも、ここで「女優霊」を観て震え上がった記憶があります。どんな小さいスクリーンでも映画館は映画館だということを再認識した映画館でもあります。最初はスクリーン下にスピーカーが剥き出しだったのですが、関内MGA2に名前を変えたときはドルビーステレオが入っていました。ここで、大泣きさせられた「夏休みのレモネード」はここで観ました。狭苦しい感じの映画館でしたが、そこでしか観られない映画を上映するので足を運んでしまうのですよ。「スペシャリスト・自覚なき殺戮者」なんてのもここで観ましたからね。

「不完全なふたり」は重苦しくて自然な流れがなかなかに手強い

新作の「不完全なふたり」を静岡シネギャラリー2で観てきました。ここでは上映前に「映画が終わって場内が明るくなるまで席を立たないでください」とアナウンスする珍しい映画館ですが、他の映画館と一線を画しているのはこういうところもあるのでしょうね。

マリー(ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ)とニコラ(ブリュノ・トデスキーニ)は結婚して15年目の夫婦です。友人の結婚式のためにパリにやってきたのですが、すでに二人は離婚することを決めていたのでした。人もうらやむカップルの筈の二人がなぜと友人たちは思うのですが、もう二人の中で別れは決定づけられているようです。結婚式に出た後もきまずくなった二人、ニコラはカフェに行き、女友達を呼んで一緒に朝まで飲んでいます。一方のマリーは別に部屋をとってそこへ移っていきます。果たして、このまま二人は終わってしまうのでしょうか。

日本人の諏訪敦彦がフランス人俳優を使ってフランスで撮影した人間ドラマの一編です。15年間連れ添った夫婦が別れを決意したパリ旅行を描いています。一つのシーンをうーんとためて演出しているので、ドラマ的な展開はほとんどありません。エピソードの各々の行間から、男女の機微を読み取るような感じになるのですが、時間の切り取り方は、観ていてじれったくなるようなところがありました。1ショットの長回しのスタイルで、会話のどちらかにフォーカスして、沈黙の間をリアルタイムで見せてくるので、その重苦しい時間がよく言えば含むところ多いのですが、時として息苦しさも感じさせるのです。

別に二人が目立った諍いをしているわけではないのですが、どこかギスギスした関係があります。その二人の呼吸の合わない様子を諏訪敦彦の演出はじっと凝視するごとく描いていきます。マリーがニコラに一晩どこにいたかを問い詰めたとき、それをはぐらかしてしまいます。その会話の流れは、私のとっては自然な流れで、このカップルが15年の結婚生活を清算しようとしているようには思えなかったのです。その後、ニコラがマリーを食事にさそったとき、これまた自然な流れの如く事に及びかけるのですが、そこで何となくきまりが悪くなってしまうところも、それってありがちだよねと思えるものでした。

ラストで駅で別れの場となるのですが、ボルドーへ行く列車に乗るはずだったマリーは列車が動き出してもホームから動きません。マリーとニコラは向き合ったままでいるのをロングでとらえたまま画面が暗転し、マリーのフフッという笑い声が聞こえます。二人の関係は、それで修復の方向へ行くのか? その流れがやっぱり自然なので、そんな大きな展開があるように思えないのです。単に、マリーはちょっと気が変わったのかな?という印象なんです。

全体の流れは重苦しいのに、その場面場面での人間のリアクションはすごくナチュラルで感情の起伏は極めて抑えられているように見えます。ドラマを描写で押さえ込んでしまったというのでしょうか。ドラマチックな要素は散りばめられているのに、実際には、感情の振幅があまりないような印象を与えるのです。これは、私の感性が鈍いせいかもしれませんが、それにしても、この映画のドラマの淡々とした展開は、人間の感情の機微は細かい隙間のようなところにあるとでも言いたげです。

ただ、その細かい隙間までを汲み取るのは、私には至難の技だったようで、これで、二人は新しい局面へと向かうことができるのかどうかはよくわかりませんでした。ヒロインのヴァレリア・ブルーニ・テデスキがアップに耐える大変魅力的な女性になっていまして、それが離婚に直面している様が受け入れにくいというのもありました。離婚は双方の合意によるもののようなのですが、彼女だけ見ていると、理不尽な別れを告げられた不幸なヒロインのように思えてしまうのです。これは、彼女の役柄以上のパワーの成すわざかもしれません。

「あしたの私のつくり方」は大変まっとうな成長の過程の映画

新作の「あしたの私のつくり方」を静岡シネギャラリー2で観てきました。小さな画面の小さな劇場ですが、静岡でこういう映画はここでしか上映されないのがうれしいようなちょっと悲しいような。

大島寿梨(成海璃子)は、高校の1年生、しごく普通の高校生を普通に演じる毎日です。そんな彼女がかつて小学校の同級生だった花田日南子(前田敦子)が山梨に転校したことを耳にします。かつて小学校のクラスの中心だった彼女はいつしかいじめの対象となっていました。小学校の卒業式の日、図書室で「本当の自分」と「偽りの自分」について話をしたことが彼女と話をした最後でした。中学校でいじめの対象となっていた日南子に寿梨は何もしてあげることができませんでした。ほんの出来心からでしょうか、寿梨は日南子にメイルを送るようになりました。自分の名前は名乗らず、間違いメイルのふりをして、自分はコトリと名乗り、ヒナという友達の話をメイルで伝えたのです。ヒナはある意味理想の女の子、そんなメイルの通りに行動する日南子は新しい学校で人気者になり、彼氏もできるのです。しかし、日南子はそんなメイルの言うとおりに行動している自分が「偽りの自分」であることにいつしか気付いていました。寿梨もヒナとコトリの物語が自分の現実逃避の行動であることに気付くのです。果たして、ヒナとコトリの物語はハッピーエンドを迎えることができるのでしょうか。

CM出身で映画監督としても「つぐみ」「あおげば尊し」など多くの実績のある市川準監督作品です。思春期経験者なら誰でも経験しているだろう、本当の自分探しを女の子二人の目を通して温かく描いています。

寿梨は、小学生時代にいじめを受けていた日南子と卒業式の日、図書室で二人きりで話すことができました。「本当の自分」と「偽りの自分」がいるという日南子に寿梨はどこか共感するものがありました。クラスの中心にいたときが本当の自分で、いじめを受けているときは偽りの自分だというのは痛々しくもあるのですが、寿梨にとっても、周囲への気遣いばかりしている自分のどこかに「偽りの自分」を感じ取っていたのでした。ああ、そういう気分になるときってあるよね、でも、小学生でそんなこと思うなんて、ちょっとおマセさんと思うのは私が古い人間だからかも。

それから、中学時代は話すこともなかった二人でしたが、日南子が転校したと聞いて、寿梨は日南子にメイルしようと思い立つのです。それはほんの気紛れだったように見えます。自分の名前も名乗らずにメイルが飛んできたのを日南子はイタズラメイルだと思ってしまうのですが、そこで、間違いメイルのふりをして、コトリと偽名を使ってメル友になろうとします。そして、ヒナという架空の友達の物語をメイルを使って語り始めるのですが、そのヒナはある意味理想のキャラクター、そして日南子はヒナの行動をなぞることで、新しい学校で友達もでき、そして彼氏ができてデートでもうまいこといける感じになります。寿梨は、ヒナの物語に託して日南子にうまく日々をやりすごすためのアドバイスをしていくのですが、それって、日南子の本当の姿がかすんじゃうよなあって気もするのですが、まず、日南子がそのことに気付きます。自分がマニュアル通りに動く「偽りの自分」じゃないかということに直面すると、その自分から逃げ出したくなります。

一方で、寿梨にもヒナとコトリの物語から現実の世界に引き戻されることになります。家族一緒にいるはずが両親は離婚し、その母親には恋人ができ、一家が慣れ住んだ家が既に売り払われていたのです。もう、家族が一緒になることはないという思いが寿梨を追い詰めます。結局、寿梨もヒナとコトリの物語を現実からの逃げ場にしていたことに気付くことになります。ああ、そうなんだよなあって納得の展開なんですが、その見せ方が共感を呼ぶのです。

最後は、携帯電話を使って二人が面と向かって会話するところになるのですが、そこで語られることは、非常にまっとうなことを言っているのが、何かすがすがしさを感じさせました。どんな自分も自分なんだから、という当たり前のことを瑞々しい言葉にして見せるのが、見事でした。変に気取ったりひねったりしない演出と、主演二人の真摯な演技によって、大変好感の持てる映画に仕上がっています。

人は、「本当の自分」と「偽りの自分」の二人がいるだなんて、普段はあまり考えないのではないのでしょうか。言い方は悪いですが、すごくヒマなときか、すごく追い詰められたときくらいしか、そんなことに直面することはないと思います。今の自分に満たされないとき、何かが欠けていると感じたときにそこに「偽りの自分」が入り込む余地があります。でも、「偽りの自分」がそんなに悪いことじゃないと気付けば、自分の一部として受け入れることができます。感受性の強い思春期はそこの妥協ができないから、一度「偽りの自分」に気付くと思い悩んでしまうのではないかしら。でも、そんな潔癖な時代があるのが成長の過程なのだということもできます。そう思うと、こういう葛藤を経験した、寿梨や日南子は普通にいい形で大人になっていくんだろうなという気がします。

「愛しの映画館バトン」

にげらさんからのご指名を頂いた映画バトン、後に引き継ぐ人を指名できないまま
とりあえず埋めてみました。



Q1 年に何回くらい映画館で映画を観ますか?


目標100本にしてるんですが、年によってばらつきます。

Q2 最後に観た映画は?


「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」 これは面白かった。

Q3 初めて観た映画は?


父に連れられて観に行った「サンダ対ガイラ」 これは怖かった。

Q4 映画館では飲み食いしますか?


トイレが近くなるので、飲み食いはしません。

Q5 主に誰と観にいきますか?


一人です。たまに連れを誘うときはありますが。

Q6 映画館でうれしかった思い出


子供の頃、母親と観に行った「ウルトラマン」。当時、家のテレビが白黒だったのでカラーで観るウルトラマンがうれしかったです。

Q7 映画館で悲しかった思い出


女の子と行く約束をしてチケットも2枚買って、プログラムも2部買って待ってたのにドタキャンされたこと。

Q8 映画館で困った思い出


傾斜のない映画館で、和服で髷を結ったおばさんに前に座られた時。帯をつぶさないようにすわるものだから、前が全然見えなくなっちゃって。そんなカッコで途中から映画館入ってくるんじゃねえ!

Q9 パンフレットは買いますか?またそのタイミングは?


必ず買います、上映前に。かなりたまります。


Q10 次に回す人(3~5人)


心のゆとりのある方よろしく。

「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」は見応えある人間のエゴのサンプル

今回は、新作の「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」を109シネマズ川崎10で観てきました。

交通事故で家の主人夫婦が亡くなり、長男の宍道(永瀬正敏)と次女清深(佐津川愛美)と嫁の待子(永作博美)が葬儀を執り行っているところへ長女の澄伽(佐藤江梨子)が帰ってきます。かつて、女優志望だった澄伽のことを清深がマンガに描いて、雑誌に応募し賞をとったしまったことで、二人の間には深い溝がありました。澄伽は清深に対してまだ許していないとつらくあたります。そして、雑誌で読んだ映画監督にファンレターを書いて気を引こうとします。でも、女優としては全然才能ないし東京にいるとき借金も作っている様子。さらに、澄伽は宍道と関係を持っており、自分を必要とする存在として宍道を肉体的にも精神的にも支配しようとします。一方、嫁の待子は孤児院出身で家族がいることがうれしいらしく、宍道の暴力にも笑顔で応える健気な嫁さんです。そんな一つ屋根の下に暮らす4人にどんな結末が待っているのでしょうか。

本谷有希子原作を、CMで実績のある吉田大八が脚色し、監督しました。強烈な自己チューなヒロインを中心に、笑いの要素を織り込みつつもハードなホームドラマが展開します。佐藤江梨子が快演している澄伽というヒロインは自分は女優になるんだと信じ込んでいます。それだけなら、単に思い込みの強い人なんですが、自分がうまくいかないことは全部他人のせいにするものだから、オーディションでもトラブルを起こすし、妹がマンガに自分のことを書いたせいで演技に集中できないと、因縁つけてるというより、本気で信じているところがあります。そんなプライドの一方で、東京に出るための資金を稼ぐために同級生に体を売ったりもするし、借金返済のためには美人局みたいないこともするという、よくわけがわからない行動指針の持ち主です。兄の宍道に「あたしのことを必要としてる」と無理やり言わせるエゴイスティックな部分は、何だかんだ言っても自分の居場所が定まらない不安定さに振り回されているようで、ちょっと哀れでもあります。

そんな強烈な自己チューキャラの姉の前にいつもオドオドしている妹清深は、完全に被虐キャラに見えます。姉をマンガに描いて投稿したら、それがこともあろうにホラー漫画の雑誌に掲載されてしまったことに罪の意識を持っていて、姉のばかばかしい要求にも逆らえず、近所の人の前で姉を讃える歌を歌わされるという虐待にも耐えています。

一方、部外者の立場のようで家族である待子の存在がこの一家に不思議な風を運んできます。人のよさそうな、明るくて奥ゆかしいお嫁さんで、ダンナからはバカ扱いされているんですけど、毎日のちょっとしたことに喜びを見出すタイプです。澄伽を中心にした清深、宍道のドロドロした三角関係の中で、台風の目のような待子なんですが、この無自覚な楽天さが人間のエゴイズムをあぶりだしているようなところもあるのです。一番、エゴのない自己犠牲的だった宍道ですら、待子の前でエゴイスティックなダンナになってしまっているくらいですから。この待子を、永作博美がコミカルに演じきっていまして、無垢さとかわいさを徹底させることで、逆にどこか不気味な存在感を示しました。


この先は映画の結末に触れますのでご注意ください。


しかし、ドラマは単なる自己チューヒロインのやりたい放題にならないのです。宍道を死にまで追い詰めた澄伽ですが、そんな澄伽に清深がしっぺ返しをして見せるのですが、これがしっぺ返しというにはあまりに深い逆襲なのに驚かされることになります。被虐キャラはあくまで表向きで、その実、澄伽を手玉にとっていたのですから、人間ってわからないものだと実感させられますし、これって意外とリアルなのかもと思わせられてしまいました。マンガの題材としての姉を称して「お姉ちゃんは最高に面白い」という名セリフが、最高に面白いのですが、このアーチストのエゴを若いうちに身につけてしまったのですから、この清深は只者ではありません。なれもしない女優にこだわっている姉に比べて老成しているとも言える清深を、佐津川愛美がツボにはまった好演で、クライマックスの高笑いが見事に決まりました。

ラストはまだまだ澄伽と清深の間で決着はついておらず、まだまだドロドロの闘いが繰り広げられそうな予感を残して映画は終わりますが、でも、やはり才知に長けた妹に勝ち目がありそうな気がする一方、女を武器にできる澄伽に一発逆転の可能性も感じてしまいます。人間、それぞれエゴを持って生きていますが、そのエゴの持ち方の違いが二人の大きな違いと言えます。思うままに即行動に移せる姉と、深く静かに潜行させる妹、しかし、そう考えるとエゴを出す隙のなさそうな待子の存在が不気味に見えてきます。待子の善良な明るさの下に隠されたエゴがあるのかどうか、でも、待子のような人間が結構思うように物事を動かしているような気もします。たった4人のドラマですが、人間の有り様を考える上で、大変興味深いサンプルを見せてくれていますし、映画的な興奮、カタルシスも感じさせる映画でした。

「歌謡曲だよ、人生は」に見る、映画を作る難しさ

今回は新作の「歌謡曲だよ、人生は」をシネマベティで観てきました。色々な企画を立てたりスタンプサービスをしたりと工夫が実を結びつつある映画館なので、横浜の地元の映画館ということで頑張って欲しいところです。

歌は世につれ世は歌につれ、昭和を彩った様々な歌謡曲にはそこに込められた想いや時代の気分といったものが満ちています。10人の監督がそれぞれ歌からインスパイアされたショートストーリーを作りあげました。演歌ありグループサウンズあり、それらの物語を通して、また歌を再度かみしめることになるのです。


歌謡曲をテーマにしたオムニバス短編集です。相互のストーリーに関連性はなく、各々の歌から、紡ぎ出される物語が、歌謡曲という共通項で括られるのです。オープニングは阿波踊りをバックにオックスの「ダンシング・セブンティーン」が流れ、40歳以上の人は「お、懐かしいな」という気分になることと思います。この映画の歌を懐かしいと思うか、「へー、昔はこういう歌が流行っていたんだ」と思うかで映画の見方が変わってくるかと思います。私は懐かし気分でこれらの歌に接しました。

歌謡曲というものが今や死語になっていますが、かつては、幅広い世代でみんなが知ってる歌を歌謡曲といって親しんでいたのですが、今や、世代ごとに人気のある歌は細分化され、歌謡曲と呼べるメジャーな歌は、一部のCMソングくらいになってしまいました。この映画は、歌謡曲にトリビュートしているだけあって、ほとんどの話が万人向けに作られています。万人向けだからこそ「歌謡曲だよ、人生は」とも言えるのであって、世代に囲い込まれた歌では、人生は語りきれないのです。

最初のエピソードは脚本・監督磯村一路の「僕は泣いちっち」で、北海道の高校を卒業して、東京へ行ってしまった彼女を想い続け、ついには東京に彼女を追って行くものの「もう会いたくない」と振られてしまう青年のお話。その後、ラインダンサーだった彼女は事故に遭い、ダンサーを断念して故郷に戻り、青年は東京でボクサーになるという皮肉な展開となります。そのすれ違いを見せて、さっと終わるところがよかったです。ヒロインの伴杏里のきりっとした力強さが印象的でした。

次は、脚本・監督七字幸久(これがデビュー)の「これが青春だ」で、若い大工が施工主の娘にエアギターでかっこいいところ見せようとするけど、不運な偶然が重なってうまくいかないというコメディ。バカバカしいお話を手堅くまとめている点は今度に期待できる人だと思いました。

そして、脚本・監督タナカTの「小指の思い出」は、思い出にひたる主人公(大杉漣)にちょっとしたオチがつく小話のような一編。ヒロインの高松いくの可憐さがラストのオチに生きています。

第4話は、脚本・監督が新人、片岡英子の「ラブ・ユー・東京」で、原始人のカップルのDNAが現代のヤクザと清掃員につながっていたという荒唐無稽なお話。現代のシーンの絵が、歌のカラオケビデオのように雰囲気を出しているところはなかなかいいのですが、やっぱり才気先走りの印象があって、どうも安定感が悪いような気がしてしまいました。

第5話は、脚本・監督三原光尋による「女のみち」で、サウナで「女の道」の歌詞が思い出せないヤクザに絡まれる不運な学生のお話。そのヤクザを宮史郎が演じているのがおかしいのですが、思い出すまでもベタな笑いで、人生云々とはちょっと離れた箸休め的なエピソードでした。

第6話は、脚本・監督水谷俊之による「ざんげの値打ちもない」で、過去を持つ不動産屋の女が自分の過去を血生臭いやり方で葬るというお話。ドラマとして一番まとまっていたのがこれでして、余貴美子演じるヒロインの存在感が見事で、そんな彼女が痴情のもつれで刃傷沙汰に走る少女を止めて、バイクの乗り方を教えるあたりも見応えがありました。そもそも、この歌がとんでもないドロドロの世界を歌っているのですが、映像はスタイリッシュにまとめあげているのも印象的でした。

第7話は、脚本・監督が漫画家蛭子能収による「いとしのマックス/マックス・ア・ゴーゴー」で、普段同僚にいじめられているOLを見かねた主人公(武田真治)が暴力で逆襲するというもの。いじめOLをボコボコに血塗れにしちゃうというのは、蛭子能収の漫画を知ってる人間なら「あ、やってるやってる」と思うでしょうが、そうでない人には何のことやらさっぱりでしょう。自分のやりたいことをやってるのはわかるのですが、漫画はヘタウマで受けても、映画のヘタウマはダメじゃんということになります。

第8話は、脚本・監督が編集出身の宮島竜治による「乙女のワルツ」で、喫茶店のマスターが昔の恋人リカを思い出すというお話。主人公はバンドのドラマーで、恋人のリカが孤児で、病気で若くして命を落とすという怒涛の展開がこういう短編の時間内で描ききれるわけもなく、何だか薄いエピソードになってしまいました。ヒロインの高橋真唯がかわいいのだけ印象に残りました。

第9話は、脚本・監督が矢口史靖の「逢いたくて逢いたくて」で、引越しした若夫婦が元の住人の秘密の手紙を見てあたふたするというコメディです。これは楽しい一編でした。妻夫木聡、伊藤歩の若夫婦が元の住人の手紙を見つけて「やだ、この人ストーカーじゃない?」なんて話してると当の本人(ベンガル)が出てきて、さらにもう一つのオチがつくという展開がテンポも役者もよくって、ちゃんと歌謡ドラマとして盛り上げ、ラストもいい感じの終わり方になっています。

第10話は、脚本・監督を証明技師出身のおさだたつやによる「みんな夢の中」で、40年後のタイムカプセルを開ける同窓会で起こる不思議な出来事を描いたファンタジーです。高橋恵子、烏丸せつ子、松金よね子、本田博太郎などの豪華キャストを揃えた話なのですが、私の感性が鈍いのかどうにも話に乗れませんでした。ピエロが出てくる必然性もないし、一人だけ少年のまま幻想の世界にいるというなら、この少年は40年前に事故か何かで亡くなっているといった説明が必要でしょう。全てが高橋恵子の夢の中なら展開がおかしいし、いい設定でいくらでも膨らむイメージを映像が裏切っているような印象を与えます。何かもったいないという気にさせるエピソードでした。

エピローグは、脚本・監督山口晃二による「東京ラプソディ」で東京観光のバスの楽しいスケッチになっています。

こうしてみますと、やはり映画監督が監督しているものがしっかりできていて面白いということになりそうです。やっぱり、映画を作るのはそう簡単なことじゃないってことを実感させられます。第1、6、9話が私には面白く映画としての見応えも備えていたように思います。後は小品としてのまとまりで第3話でしょうか。ともあれ、色々なジャンル、シリアスなものからコミカルなものまでメニューは豊富なので、それでどれかを楽しめればいいのでしょう。

「アヒルと鴨のコインロッカー」は一味違う巻き込まれミステリー

今回は、新作の「アヒルと鴨のコインロッカー」を横浜ニューテアトルで観てきました。地下の118席の小さな劇場で、作りも古いし音響のアナログだけですが、伊勢佐木町で生き残っているたった2館のうちの1館として、頑張って欲しい映画館です。

仙台の大学に進学し、アパートに引っ越してきた椎名(濱田岳)はボブ・ディランの「風に吹かれて」を口ずさんでいると隣人の河崎(瑛太)に声をかけられます。向こう隣のブータン人のために広辞苑を本屋から強奪しようと持ちかけられ、何となくつき合わされて、本屋の裏口でウロウロする羽目になります。結局、本屋から広辞林を強奪することに成功します。ブータン人には河崎の元カノだった琴美という恋人がいてその彼女が死んだことで落ち込んでいるらしいのです。椎名はペットショップの麗子(大塚寧々)と知り合い、琴美がそこで働いていたこと、河崎がHIV感染していたこと、かつて連続ペット虐待事件があったことを聞きます。何か、おかしい河崎の行動にはどんな秘密があったのでしょうか。

井坂幸太郎原作のミステリーを、鈴木謙一と中村義洋が脚色し、中村義洋が監督しました。主人公の椎名が引っ越した先の隣人の本屋強盗の共犯にされてしまうことで、河崎の秘密の部分に巻き込まれていきます。何となく、人のよさそうで、優柔不断な椎名が、妙な威圧感のある河崎という男に振り回されていきます。どこまで本当なのかわからない河崎の話によると、向こう隣のブータン人は恋人を亡くして引きこもりだといいます。でも、恋人との馴れ初めとかやけにくわしいのがちょっと不思議です。その恋人の写真も持ってるし、あまりにもブータン人のことにくわしいのが気になっているうちに、ペットショップのオーナー麗子が登場し、彼女は「河崎の言うことは信用するな」と釘を刺します。そんな中で、連続ペット虐待事件の現場にブータン人と琴美が居合わせたという事実がわかってきます。犯人は3人組でその場はやり過ごすのですが、その場に琴美が定期券を落としていたことから、犯人たちに琴美が狙われることになったというのです。

それでも、そもそもの本屋強盗はわけがわかりません。椎名が裏口で3分おきにドアを蹴っていたうちにいつの間にか河崎は車に戻っていたのです。確かに辞書は車の後部座席にありました。でも、それは広辞苑じゃなくて広辞林だったのですが。しかし、その夜の辞書泥棒が重要な意味を持っていたのです。そして、物語は復讐譚の様相を帯びてきます。


この先は、ドラマの結末に触れますのでご注意ください。


なぜ、琴美は死んだのか、そして、それがペット虐待犯とどういう関係があるのか。ドラマの前半に様々な伏線が張られていることが、後半になって、あ、これミステリーだったんだと気付かされることになります。サブプロットとして、外国人差別であるとか、ペット虐待、HIVといった現代のキーワードが盛り込まれていますが、メインの物語が復讐なので、スカっとする結末にはなりません。とはいえ、同じシーンを別の視点で見せるとか、同じシーンが違う人物で繰り返されるといったミステリーの楽しみをきちんと盛り込んであるのが見事でした。

小説としては、言いかえると、文字で読む日本語としては成立するトリックが、映像化するにあたって、若干の無理が出てしまったのは惜しいところです。このミステリーの一つの要である人物のなりすましにリアリティを欠いてしまったのです。その点を除けば、物語として見応えがあります。特に河崎の行動にはホロリとさせるものがあり、彼をもっとドラマの中心に据えてもよかったかなとも思ってしまいました。

演技陣では、つかみどころのない主人公を演じた濱田岳が儲け役とはいえ、好演していました。キーマンとなる瑛太は、設定に無理のある役どころであることもあって、難役すぎたせいか、感情移入できないのがつらいところでした。関めぐみは生き生きとした存在感がまぶしく、大塚寧々はドラマの押さえの役どころで貫禄を見せました。松田龍平が大変いい味を出して、ドラマに厚みを加えているのも印象的でした。

中村義洋の演出はミステリーというには謎を提示しないで物語を進めていくというもので、後半で一気に謎と謎解きが来るという展開がちょっと一味違うミステリーに仕上がっています。仙台というロケーションをうまく使って不思議なリアリティを出すことに成功しています。

「ミッドナイト・クロス」のスリラーに甘いテーマ音楽は今や貴重


ブライアン・デ・パルマ監督の「ミッドナイト・クロス」は、出来としては中くらいのスリラーだったのですが、ピノ・ドナジオの音楽は素晴らしかったです。ドナジオは「キャリー」「殺しのドレス」などでデ・バルマともコンビを組んでいます。彼の作品を多く指揮しているナターレ・マッサラがこの作品でもタクトを振っています。

1曲めに入っているテーマ曲が素晴らしく、甘いメロディの中に切なさが感じられ、この映画のテーマに見事にマッチしています。その後のスコアもストリングス中心のドナジオらしい旋律が聴かれます。彼の音はストリングス全体でメロディを奏でて、サスペンス部分でもある種古典的ともいうべき音作りをしていて、フルート(ひょっとしてバスフルートか)による不安な旋律にストリングスを絡ませるサスペンス音楽など、スリラー音楽の典型とも呼べるものです。ストリングスをあまり重層的に絡ませずに単音の楽器としてメロディを演奏させるのも彼の特徴でして、メインテーマをピアノなどが演奏するシーンのバックにはストリングスの和音が音に厚みをつけていますが、サスペンス部分ではそういう音が多いです。

悲劇的なクライマックスに向けて音楽はドラマチックに盛り上がります。そして、そこでメインテーマがストリングスによって演奏されるあたりは定番とは、うまさを感じさせます。このあたりの音は香港ノワール系を思わせるものがあります。ちょっと、ひねった(若干変態入った)ラストからエンドクレジットでテーマが流れるのですが、ここもメロディをフルオケできっちりと鳴らしているのが印象的で、ストリングスによる厚みのある和音が最後まできっちりと映画を盛り上げてくれています。最近、こういうメロディアスなテーマを前面に出してくる映画が少なくなってしまいました。スリラー映画なのに甘いメロディのテーマ曲で、それをフルに鳴らしてくれるこういう音楽は貴重な存在と言えるのではないのでしょうか。

今回紹介しましたのは、2500枚限定発売された、正真正銘のサントラ盤なのですが、それとは別に、この映画の日本公開時に、サントラ盤と称するアルバムが発売されました。これが、日本のスタジオオーケストラがメインテーマだけでなく、映画の中の音楽まで再録音したという大変珍しいものでした。当時から、テーマ曲を日本のオケが演奏してオリジナル・サウンドトラック・スコアとして、シングル盤を出すケースは多かったのですが、それをアルバムとしてやったのはこれくらいではなかったかと思います。地味な映画のサントラなのに。

「シックス・センス」は厚みのあるスリラー音楽


M・ナイト・シャマラン監督の「シックス・センス」の音楽を担当した、「ベスト・フレンド・ウェディング」などのコメディから、「ブラッド・ダイヤモンド」といったアクション、「ヒマラヤ杉に降る雪」のようなシリアスドラマまで幅広いジャンルの映画を手がけているジェームズ・ニュートン・ハワードです。編曲をニュートン以下4名が手がけ、ピート・アンソニーが指揮をしていまして、部分的にシンセサイザーも使われています。

超自然現象を扱ったスリラー映画に相応しい、不安な音をベースにしており、ストリングスや金管楽器による不協和音が衝撃音となって、観客を怖がらせるのに貢献しています。その一方で、主人公マルコムを描写する音楽は、一種心細く、彼の孤独感をうまく描写しています。ストリングスだけだと線が細くなる音にホルンなどの金管楽器が厚みを加え、単に怖がらせだけでない人間ドラマの音を作り出しているのは見事です。おどろおどろしさよりも、ストリングスや木管による静けさの音楽が印象に残るのも、ハワードのセンスなのでしょう。映画の展開に忠実な音作りは職人芸のうまさがあります。

ラストは全ての謎が解けて、静かな鎮魂の曲となります。ここでやっとメロディらしいものが顔を出してきます。ホルンとフルートによるやさしいメロディが盛り上がって一気に切って落とす音がなかなかの聴きものです。アルバムとして通して聴いて楽しい音楽とは言い難いものの、こういうホラー映画に定番をきっちりとおさえつつ、人間ドラマの厚みの部分に手抜きのないところがこの人のうまさなのでしょう。

ただし、このアルバムの最後の曲名が究極のネタばらしになっていて、映画を観る前にサントラCDを買うと「ええっ、まだ知りたくなかったのに」と臍を噛むことになります。

「傷だらけの男たち」はヘビーなお話をスタイリッシュに見せます

警察官だったポン(金城武)は恋人が自殺したのをきっかけに警察をやめ、私立探偵をやっていますが、アルコール依存症気味。元の上司ヘイ(トニー・レオン)は、金持ちの娘スクツァン(シュー・ジンレイ)と結婚して幸せに暮らしていました。ところがある日、スクツァンの父親チャウと執事マンが惨殺され、金品を奪われるという事件が発生します。そして、奪われた金とともに二人組の男の死体が発見され、状況から、仲間割れによる自滅だと思われました。しかし、スクツァンはセキュリティの厳重な父親の家に簡単に押し入ることは不可能だとポンに調査を依頼してきます。さらに、謎の影がスクツァンの命を狙っているようなのです。一体、この事件の裏にはどんな秘密と過去が隠されているのでしょうか。

すごく久しぶりの香港映画で、監督主演が「インファナル・アフェア」のコンビだと言われても、「インファナル・アフェア」を未見(ついでにリメイクの「ディパーテッド」も未見)なので、まるで思い入れのない状態でスクリーンに臨みました。監督がアンドリュー・ラウとアラン・マックの二人だというのもタイトルを観て初めて知ったくらいですから。

オープニングは2003年のクリスマス、強姦殺人犯を逮捕しようとする警察の動きがスリリングに描かれます。シネスコの画面をシャープに切り取った構図がなかなかかっこよくって、アンドリュー・ラウとライ・イウファイによる撮影も見所になっていました。そして、仕事を終えたポンが家に帰ってみれば、恋人は自分の手首を切っていたのです。そして、物語は3年後に飛ぶのです。幸せそうなヘイとスクツァンのカップルと酒で身を持ち崩しているポンが対照的に描かれますが、すぐに凄惨な殺人シーンとなり、スクツァンの父親は何者かに惨殺されて、金庫からは金を奪われてしまうのです。犯人の顔は観客には完全にわかってしまうので、その犯人がなぜそんなことをして、これからさらに何をしようというのかというところで、観客の興味を引っ張っていきます。


この先は映画の結末に触れますのでご注意ください。


犯人は最初の犯行シーンでヘイがドーンと顔を出すので、え、こいつが犯人なのか?と思っているうちに物語はどんどん進んでいってしまいます。でも、別にスクツァンの命を狙っているやつもいるみたいだし、犯人だとされた二人とは別の第三の男がヘイなのか、このあたりは、現場での回想シーンなどが複雑に入り組んでくるので、ヘイの単独犯なのか、三人の共犯なのかがよくわからなかったです。よく見てればわかるレベルのものなのでしょうが、ともあれ、犯人と思しき2人組をヘイが殺したことは間違いはないようです。

この殺人の捜査では、ポンは派手な動きをせず、犯人とされたキョンの過去を洗いにマカオへと飛びます。そして、チャウとマンが麻薬捜査官の一家皆殺しの実行犯であったことをつきとめ、その生き残った息子の名がキョンであるところまで調べ上げます。ここで、さらに犯人ヘイは妻と殺し屋の2人をガス爆発で殺そうとし、スクツァイは瀕死の重傷を負い危篤状態となります。その後、さらにポンがマカオへと飛んでもう一つの事実をつきとめるのですが、それは劇場でご確認ください。

基本的には復讐譚であり、かなり後味の悪い話になっています。何年も恨みを心に溜め続け、やっとその機会をつかんだのですが、それは結局何も生み出さず、後悔だけを残してしまうのです。復讐のプロセスにおいて、ヘイは他人の犠牲も厭いませんし、そのやり口には同情を差し挟む余地はありません。にも、かかわらず、それがトニー・レオンが演じるとかっこよくって何となく感情移入できちゃうというところにドラマ作りの面白さがあると言えましょう。復讐にとりつかれた男の末路に一抹のシンパシーが感じられるのですよ。

そんな陰惨なドラマの中で、ポンとその新しい恋人フォン(スー・チー)の関係が一服の清涼剤になっていて、ラストでもこの2人がドラマの救いになっています。スー・チーは登場シーンは多くないのに大変印象的で、ドロっとしたドラマにコミカルな、そして地に足のついた味わいを与えています。それだけ、他のキャラクターがヘビーなドラマにどっぷりとつかっているということになるのですが、それが、この映画のスタイルになっているようです。ヘイとスクツァンの関係は最後まで救いがなくてヘビーな結末を迎えるのですが、それが娯楽映画としてのカタルシスを運んできていることは認めざるを得ません。悲劇だけど見応えがあって結構面白いという感じでしょうか。

金城武はアルコールに溺れながらも、フォンとの関係の中で自分を取り戻していく男を丁寧に演じてみせました。トニー・レオンはミステリアスな設定がある分、演じるのが難しい役どころでしたが、影を引きずった男の重みを感じさせるのに成功しています。現在のシーンに過去のイメージが割り込んでくるという演出が随所に見られたのですが、慣れるまでは、幻想なのか実際にあった過去の事実なのかわからなくて若干混乱しました。これは、お馴染みのファンにはお約束の演出なのでしょうか。

「16〔jyu-roku〕」は16歳の少女のリアルな息遣いが聞こえる

新作の「16〔jyu-roku〕」をシネマベティで観てきました。デジタルカメラによる作品で、フィルムでなくプロジェクターによる上映でした。上映前にスクリーンサイズくらい合わせておいて欲しかったというところもありました。画像は、やはり35ミリにはかなわないのですが、それが素材によるものか、プロジェクターによるものかまではわかりませんでした。

16歳のサキ(東亜優)は女優になるために田舎を出て、東京にやってきます。プロダクションの寮に入り、高校の通信課程をとります。慣れない東京で、写真をとったりインタビューをされたりといった彼女の新しい生活が始まります。ドラマで女中の役をやり、その時の共演者である丸山(松岡俊介)から優しい言葉をかけられて、ちょっとだけ胸がときめいてしまうサキ。でも、そんな想いも彼が妻帯者とわかってどこかへ飛んでしまいます。幼馴染のヤマジ(柄本時生)が彼女を訪ねてきます。彼の先輩のヒデちゃんを探すことに付き合うサキですが、ヒデちゃんは見つからず、二人はファミレスで夜を明かすことになってしまいます。翌日、初主演作「初子の恋」の撮影に臨むサキの姿がありました。

「赤い文化住宅の初子」のスピンオフとして位置づけられるこの映画(正確にはフィルムではなくHD作品)は、初子を演じた東亜優が、この映画ではサキという少女を演じ、故郷から上京してきて、映画のオーディションを受けて主役を演じるまでを描いたものです。海外で評価のある人らしい奥原浩志が脚本、監督、編集を手がけました。

ストーリーはただ、彼女が上京してきて、テレビに出たり、オーディションを受けたりといったもので、ドラマチックな展開はありません。上京してきたばかりの少女の息遣いをとらえようとした、ある種スケッチのような作品です。東亜優が若さの力でしょうか、カメラのアップに耐え続けるパワーは感じましたが、全体としては、普通の少女の心の流れをカメラは追っていきます。特に前半は、サキという少女がいかにも実在するかのような、ドキュメンタリーを見ているような印象を受けます。故郷を離れた少女が部屋で荷解きをしている、ギターを弾いている、そんな絵から16歳の生の感触が伝わってくるあたりはうまいと思いました。

共演者の丸山にちょっとだけ胸ときめいてしまうところは少女らしいけなげさと、ちょっとだけ背伸びしたい感じがよく出ていて、彼の奥さんと対面してからのどぎまぎ感がちょっとおかしくてかわいさを感じさせるいいシーンでした。彼女は自分にはまだ知らないことがいっぱいあって、彼女自身もそれを自覚しています。知らない故の不安と好奇心を東亜優がたくみに演じ切っています。「赤い文化住宅の初子」では最後まで少女を演じ続けた彼女がこの作品では時としてオンナの顔を見せます。16歳という大人と子供の狭間にいる彼女ですが、そこに垣間見られる女性としての部分を奥原浩志の演出はうまくすくいとっています。

後半は、幼馴染のヤマジの先輩探しにつきあうのですが、結局見つけることはできません。ヤマジはどうやら田舎から家出してきているみたいで、ファミレスに泊まっているといいます。そんなヤマジに付き合って、東京タワーやベイブリッジを歩くサキはすごく心細げに見えます。でも、実は、心細かったのはヤマジの方だったというのがわかります。探しているヒデちゃんという先輩しか友達がいなくて、それが見つからない今、どうしていいのかわからないと言うハマジの涙に、サキは何もしてあげることができません。でも、一緒に最後までつきあってあげるサキのやさしさには、すごく共感できるものがありました。自分も東京で心細い思いをしていたのが、もっと辛い思いをしている友人もいたということ。サキがファミレスでうたた寝をしている間にヤマジは姿を消しますが、そこにはいくばくかの感謝と恋愛感情があったに違いないでしょう。

でも、サキはまた元気に映画の撮影に臨みます。そこには未知数の自分への信頼が感じられ、私のようなグダグダオヤジにはまぶしいような、うらやましいような光る何かがありました。マネージャーとの会話でくったくのない笑顔を見せるサキ、でも、これから人生の経験を重ねていくうちに、その光はかつての記憶の中へと消えていくのかと思うと、ちょっとはかない気分にもなります。ただし、サキは普通の女の子とは違う生き方をしているので、「赤い文化住宅の初子」の初子の方により普遍的な共感を感じることができます。とはいえ、リアルなサキという女の子のとりとめのないエピソードをつなげていくことで、16歳という特殊な時間を、記憶にとどめておくべき瞬間として表現した演出は評価できると思います。

「アドレナリン」は血生臭いけど主人公もヒロインも暴走してくれるのが楽しい

新作の「アドレナリン」を109シネマズ川崎10で観てきました。ここは前回に来たとき、スクリーン位置が右にずれているのがわかってたので、右寄りの席をゲットしてベストポジションを確保できました。座席表にスクリーンの中心位置くらい書いとけばいいのに。

混濁した意識の中で目を覚ました殺し屋シェブ(ジェイソン・ステイサム)。残されたDVDを再生してみると、組織のヴェローナが気絶してる自分に中国製の毒薬を注射してるじゃありませんか。そして、もうすぐお前は死ぬとヴェローナは笑います。とんでもねえ奴だと飛び出したシェブですが視界が朦朧としてもうヤバい。知り合いの医師マイルスを電話につかまえるとその毒の効き目を遅らせるにはアドレナリンを出し続けるしかなというのです。そこで、彼は車で暴走し、黒人にケンカを売って、コカインを吸い、恋人のイヴ(エイミー・スマート)を呼び出して中華街の通りの真ん中でセックスしたり。それでも、刻一刻と死期は迫っています。何とか組織に一矢報いたいシェブは最後の反撃に出るのでした。

コマーシャルフィルムで実績のあるマーク・ネヴェルダインとブライアン・テイラーのコンビが脚本・監督を手がけた、長編デビュー作品です。CM出身らしい凝った絵作りを見せながら、止まったら死ぬ主人公の暴走だけで、一本の映画に仕上げてしまいました。ジェイソン・ステイサムが死ぬまで走り続けるしかない主人公という設定をタフに演じきりました。彼あっての映画と言っても過言ではありません。

毒をうたれたというDVDを観た途端、テレビをぶっ壊して車を強奪して走り出すという発端からして「こいつ正気じゃないな」と思わせるものがあります。自分に毒を注射した組織のヴェローナを探し出して殺してやるというわけなんですが、目が霞んできてどうにもならないと、ヤクをやるは、それも効かないというと黒人相手に無意味にケンカを売り、車をショッピングモールに暴走させるという文字通りの暴走ぶり。病院では、毒の作用をおさえるエピネフリンを探すために尻見せサービスしながら走る走る。終始、苦虫噛み潰した顔のシェブが考えるよりまず行動というキャラになっていて、娯楽映画としては、こういう男を主人公に見せ場をケチらなければ面白い映画は作れるという典型になっています。

行方不明のヴェローナの弟を見つけて殺すあたりから結構描写も血生臭くなるので、そういうのが苦手な方にはオススメしかねるのですが、全体を包むブラックな笑いは一本筋が通っていまして、それはラストショットにも現れています。そんな殺し一直線になりそうなところに恋人イヴが登場して、ちょっとだけ華を添えてくれるのも楽しい趣向です。とはいえ、この頭悪そうな恋人が中華街のど真ん中でセックスするに及んで、このヒロイン(?)も暴走に一役買ってしまうのがおかしいです。ます、シェブがゲームプログラマーだったと信じてたというところで、こいつ、ちょっと変な人じゃないのと思わせて、その後の行動は、殺し屋だと聞いてもさほどビックリしてないし、それを確認するためとか言って撃ち合いの中に割って入ってきちゃうし、カーチェイス中にシェブを立てようとご奉仕してくれるという、ステイサムの暴走ぶりに負けず劣らすの濃い変なキャラになっているのです。でも、最後はちゃんとヒロインの座に収まってしまうのですからご立派。イヴを演じるエイミー・スマートは「ラット・レース」以来のファンなので、「バタフライ・イフェクト」のようなまっとうなヒロインよりも、どこか壊れているキャラの方がお似合いのように思います。でもこの映画でもかわいいところではきっちりかわいいのですが。

自分に毒薬注射した黒幕は、組織のボスだったとわかって、シェブは一発逆転を狙います。香港マフィアのボス殺しを命じられたのですが、足を洗おうとして殺しをためらったのが、ここで逆転の切り札になります。派手な銃撃戦になるのですが、もう毒が体に回って絶対絶命、果たして、ボスやヴェローナをやっつけることができるのかという展開は前半の暴走ぶりに比べるとと、やや行儀がよいというか息切れ感もあるのですが、お話が感傷的になる前に切って落としたセンスは買いたいです。

映像をCG加工したりコマ落としにしたりといった映像テクニックは必然性を感じさせるものではありませんでしたが、リアリティをすっとばかした物語にはマッチしているとも言えます。主演の二人以外はまるで印象に残らないんですが、それでも、設定だけでドラマを引っ張った脚本と演出は評価されてよいと思います。

「赤い文化住宅の初子」のヒロインは最後まで少女であり続ける

新作の「赤い文化住宅の初子」をシネマベティで観てきました。お客が少ないというか2人しかいない中で観るのは劇場を貸し切りにした妙な気分。そのせいかどうか、プログラムもサントラCD付の高い方を買ってしまいました。

父が失踪し、母も亡くした、初子(東亜優)は兄、克人(塩谷瞬)と二人暮らし。金、金、金に追われる日々で、同級生の三島君と同じ高校へ進学したいのですが、そんなこと期待するなと兄には言われて意気消沈。ラーメン屋のバイトもクビになってしまいます。通りがかりのおばさん栄子(浅田美代子)に親切にしてもらい、もらった5000円でワンピースと問題集を買って、三島君にもちょっとはよく見せたい初子。でもやっぱり進学は無理だと三島君に告げて、「なぜだ」という問いに答えられない初子。そして、中卒としてビスケット工場に就職する初子。そんな、初子の前に浮浪者になった父親(大杉漣)が現れます。克人になじられボコボコにされる父親、そして初子と克人のいないすきに家に入って焼身自殺してしまうのです。友人を頼って大阪に行くことになる克人と初子、そんな初子を三島君はやさしく見送るのでした。

松田洋子のマンガが原作で、タナダユキが脚本・監督を兼任しています。初子という少女が徹底して不幸につきまとわれるお話でして、ラストにささやかな、でもあてにしてよいのかわからない希望を残してはくれるのですが、これでもかの不幸が彼女を襲うのです。とはいえ、ドラマチックな不幸というのは、ラスト近くの父親の焼身自殺くらいで、それ以外は、しくしくじわじわと初子をむしばむ不幸なのです。まず、彼女の見た目からして、少女らしい生き生きとしたところがありません。だからといって人生達観したように目が据わっているのかというとそうでもない、まだ妙な色に染まっていない純粋さを残しています。

兄は働いているのですが、パチンコで生活費を使ってしまうし、仕事場でケンカをしてクビになってしまいます。「自分に何も期待するな」とダメぶりを自認している兄はいざというときに彼女と一緒にいてくれず酒飲みに行っちゃうという頼りない男。一方、彼女と同じ高校に行こうと言ってくれる三島君はブチきれる初子に腹を立てることはあっても、ずっと友達でいてくれて将来結婚しようと言ってくれるやさしい男の子。でも、やっぱり彼女の気持ちや境遇をまるで理解できてないみたいでいい奴なんだけど、どこか頼りない。二人とも初子の不幸の一端を担っていて、また救いにもなっています。

彼女の就職先はなかなか見つからず、風俗に行くことさえ考えます。また、5000円をくれた栄子は怪しげな新興宗教の勧誘だったことがわかってくるし、それでも初子は自我を封印したままその場を切り抜けていきます。彼女が母からもらった本でよく読むのが「赤毛のアン」でも、初子にとってアンは不幸な境遇のくせにうまくいきすぎていて共感することができません。こんな内向的で暗い女の子なのですが、不幸を溜め込まないしなやかさを感じさせるから不思議です。それが若さなのかもしれないのですが、じめじめ感のない彼女に生き方には、どこか共感できるものがあります。

彼女と対照的に描かれるのが、担任教師の田尻(坂井真紀)で、教師という立場をまるっきりわきまえない自己破滅型キャラになっています。ふてぶてしくどうにでもなれと構えている彼女を見ていると、初子はこの一番遠くにいるキャラなんだなって確認できるのが面白いと思いました。また、栄子というおばさんの勧誘する新興宗教にも、初子は乗り切れません。ここは、色々と事情があって居場所のない娘たちが集まっているところみたいなんですが、初子はそこに身を置くには常識人過ぎたように見えます。不幸の中に身を置いてるのにどこかクールなのです。

ラストで駅のホームに見送りに来てくれた三島君と初子のぎこちないやりとりは微笑ましくもあるのですが、実際のところ、クールな初子が垣間見えるのが妙な後味を運んできます。何となくこの場をやり過ごしても、まだまだ前途には不幸の種がいっぱいまかれているのに、三島君とちょっとだけロマンチックになる初子が不憫なようで、一方で彼女のタフさも感じさせます。そして、この映画に描かれるありがちな不幸の中で、結構みんな頑張って生きてるんだよなあってところに気づかされるのです。ヒロインの東亜優をわざとカワイク撮られていないという点からも、単なる感傷にひたるドラマではないことが伺い知れます。とはいえ、東亜優の熱演がこの映画の要であることは間違いなく、紆余曲折あっても最後まで少女であり続けるのはなかなかすごいことだと思ってしまうのでした。

「ゴースト・オブ・マーズ」はギンギンのハードロックがかっこいい


ジョン・カーペンター監督の「ゴースト・オブ・マーズ」は、火星でゾンビがヘビメタファッションでウエスタンをやるというムチャな取り合わせが最高に面白い映画でしたが、音楽はこれまでのカーペンター作品同様、カーペンターが自身が作曲しており、また、今回は演奏のメンバーにヘビメタバンドのアンスラックスが参加していて、さらにヘビメタ色を強めています。

カーペンターの音楽はシンセを使った独特の節回しがベンベン節とも言われたりしているのですが、今回はタイトルバック「Ghosts Of Mars」がまさにそのベンベン節全開で、「ベンベーン」というギターの反復にパーカッションが絡む音はまさにこの映画の導入部にふさわしいもので、SFであり、ホラーでありアクション映画であることを音楽で明確に表現しています。正直、このテーマは最高にかっこいいです。

以下、ドラマ部分を彩る音はギターとギンギンにならしたロックサウンドで、「Love Siege」「Fight Train」「Kick Ass」「Power Station」では、活劇シーンをこれでもかと盛り上げています。ギターソロを目一杯に鳴らして、そこにベースとドラムがリズムを刻むというシンプルな音なんですが、画面と一体となって観客を興奮させてくれます。

従来のカーペンターらしいサウンドとしては「Dismemberment Blues」のカッコよさや、「Pam Grier's Head」「Visions Of Earth」の単純反復に感じることができますが、全体には、ハードロックの音が勝っていて、これまでの彼とは一味違う音に仕上がっています。

SF・ホラー・ウエスタンの音楽にハードロックを持ってきたというのは、カーペンターの見識なのでしょう。決して新しい音ではなく、70年代の音にも聞こえるロックサウンドが首チョンパ満載のこの映画にピッタリとはまるってのは、見事だと思う次第です。

映画を忠実にサポートした「ダイ・ハード4.0」の音楽は縁の下の力持ち


シリーズ4作目「ダイ・ハード4.0」の音楽は、それまでの3作を手がけてきたマイケル・ケイメンが故人となったこともあって、「スクリーム」「ターミネーター3」などを手がけ、「アンダー・ワールド・エボリューション」でレン・ワイズマンと組んだ実績のあるマルコ・ベルトラミが手がけました。ピート・アンソニー、ビル・ボストンなど10名かかりで編曲し、ピート・アンソニーとベルトラミがハリウッド・スタジオ・シンフォニーを指揮しました。

ヒーロー映画のように、一つヒーローのテーマを作ってそれを発展させるのではなく、場面場面ごとに画面をサポートするアンダースコアを提供するスタイルです。それはこれまでの「ダイ・ハード」シリーズの音作りを継承するもので、ところどころにケイメンのフレーズが聞かれるあたり、かなりシリーズとしての音楽を意識しているようです。

犯行グループの描写では、不安なオーケストラサウンドを用いて、犯人の不気味さを描写しています。アクションシーンになると、オーケストラをフルに鳴らして画面をバックアップしています。和太鼓、スネアドラム、ティンパニなどのパ-カッションを前面に出した音楽でアクションにメリハリをつけています。明確な旋律は出てこないのですが、アクションが軽くならない重厚な音がつけられており、追跡シーンもアップテンポになるのですが、フルオーケストラを鳴らす音作りなので、ジョン・マクレーンのアクションがヒーローっぽくならない重しになっているのです。感情的な音を排して、アクションだけを描写する音楽に徹しているところが、この映画にはマッチしていて、人間臭さを前面に出すジョン・マクレーンのアクションをクールに描写するという対照が面白いと思います。

マルコ・ベルトラミという作曲家は、メロディアスな音やヒロイックな音楽も書いてきている人なのですが、ここでは、マイケル・ケイメンが生きてたらどんな音をつけただろうかというのを忠実に再現しようとしているように見えます。その結果は、ベルトラミにとっては個性の出にくい音楽になってしまいましたが、映画にとっては、プラスに働いたようです。派手なアクションの画面より前に出る音楽では、映画の雰囲気がかなり変わってしまったことでしょうから。

「ボルベール 帰郷」は女性の連帯感が不思議な暖かい味わいの映画

新作の「ボルベール 帰郷」をTOHOシネマズ川崎6で観てきました。ここは335席ながら大劇場のつくりになっていて、シネコンぽさが感じられないちょっとリッチな劇場です。

火事で死んだ母親のお墓参りの後、ライムンダ(ペネロペ・クルズ)は娘パウラと姉ソーレと共に伯母を訪ねます。ぼけて体も効かなくなってきているのに生活がちゃんとできてるのが不思議でした。一方、自分の夫が娘に襲いかかり、パウラは夫を刺し殺してしまいます。死体は隣の空家になってるレストランの冷蔵庫に隠します。すると、伯母が死んだという知らせが入り、伯母の隣人のアグスティナ(ブランカ・ポルティージョ)が葬式の段取りをしてくれたのですが、彼女がライムンダに「自分の母親の失踪した真相を、あなたの母親に尋ねてくれ」と頼むのです。母親は死んだはずなのに、そんなことを言われてもと混乱するライムンダですが、実は母親は生きていて伯母の面倒を見続けてきたのです。何で、そんなことになったのか、そこにはある秘密があったのです。

「オール・アバウト・マイ・マザー」「トーク・トゥ・ハー」などで知られるペドロ・アルモドバル(覚えにくい名前の筆頭ですね、そう思うのは私だけかな)監督の新作です。見応えのある人間ドラマをたくさん作ってきた彼ですが、今回はミステリーの要素を加えてちょっとだけライトな味わいのドラマになっています。とはいえ、設定はすごくシリアスです。彼はゲイとのことですが、女性に対する視線が大変暖かいものがあります。

冒頭で、娘パウラが夫を殺すというショッキングな事件が起こるのですが、ライムンダはそれに冷静に対処します。自分が殺したんだと娘には言い聞かせ、淡々と死体の処理をします。夫が血のつながらない娘に手を出すというだけでとんでもない話ですが、逆襲に出た娘が夫を刺し殺すというのはものすごい事件です。なのに、どうしてこうクールに対応できるのか。女性の強さを感じさせます。その死体を運びこんだレストランで映画のロケ隊のためのランチ作っちゃうってのは、ブラックユーモアみたいですが、この死体の処理を巡っても女性の連帯を見せるあたりがアルモドバルらしい展開となります。

死んだはずの母親が生きていて伯母の面倒を見ていたという事実は映画の前半で判明します。なぜ、黙っていたのかというのがミステリーになるんですが、その理由が結構成り行きだったというのがおかしく、なぜかライムンダから隠れて姉ソーレの家に住み込んじゃうのですが、このおばさんがどこかユーモラスな味わいがあって、ドラマチックなキーマンにはとても見えません。シリアスな設定をどこかコミカルな味わいにまとめているのが面白いと思いました。

ライムンダに顔向けできない理由もまたシリアスなもので、パウラの父親が夫ではなかったことと関係がありました。でも、その過去も、また、夫の死もライムンダは飲み込んでしまうあたり、何て強い女性だろうと思うのですが、映画を観ていると「女性ってのは強いんだなあ」って気分になってきます。女性は女性同士の連帯があり、お互いを責めたりしないで協力し、許し、癒すのだとこの映画は語っています。一般に言われる「女の敵は女」とは真逆の世界が展開するのです。


この先は映画の結末に触れますのでご注意ください。


母親の秘密は、火事で死ななかっただけではありませんでした。夫との関係がうまく行っておらず、夫の浮気だった結果の放火だったというのです。それって、放火殺人じゃんと思う一方、その秘密が淡々と語られると「ああ、そういうこともあるかもねえ」と思ってしまうから不思議です。倫理感で人を責めるのではなく、感情に流される女性のありのままを受け入れて、一方で自分のしたことへの償いをする姿を見せます。ラストで、死期を迎えるアグスティナの面倒を見るという母親の姿は人間としてやわらかな凛々しさがあります。過去にとらわれることなく、今を見つめるということが、クールにならず、どこか暖かな視点で描かれるのが、ある意味心地よい映画です。いくつもの罪が描かれる映画ですが、罪によって人は裁かれるのではなく、罪は人を救うのだという視点が不思議な後味を運んできます。

ペネロペ・クルーズは14歳の子持ち女を色っぽく演じていますが、芯の強さを感じさせるあたりが見事でした。その他の女優陣もみな好演してまして、そこに連帯する女性のアンサンブルを作っています。シネスコ画面を深い色彩で切り取ったホセ・ルイス・アルカイルの撮影が美しく、しっとりとした感情を描写したアルベルト・イグレシアスの音楽も聞きものです。

「シュレック3」は毒はないけど楽しくまとまったファミリーピクチャー

新作の「シュレック3」を静岡ピカデリー2で観てきました。奥まった画面を見下ろすような劇場なので、かなり前に座っても観やすい(後ろに座ると画面が遠い)映画館です。

「遠い遠い国」の王様が亡くなり、その王位継承者がシュレック(浜田雅功)とフィオナ(藤原紀香)だというのです。フィオナは妊娠していることをシュレックに告げます。王様になんかなりたくないシュレックですが、王位継承権を持つ人間がもう一人いるというのでそのアーサーという男を連れてくることになります。しかし、探し出したアーサーはダメダメな高校生。一方、シュレックのいない間に、チャーミング王子がおとぎ話の敵役をかき集めて「遠い遠い国」を襲撃し、フィオナ姫たちは監禁されてしまいます。戻ったシュレックは、王子に捕らわれ、王子の開いた芝居の舞台で殺されそうになるのですが、そこへ脱出したフィオナ姫たちが乗り込んできます。果たして、誰が王位を継承することになるのでしょうか。

シリーズももう三作目、ダウンタウンの浜田が主役の声をやると決まったとき、まさか、こんなにヒットして続くとは思っていなかったのではないのでしょうか。すっかり、この関西弁のシュレックになじんでしまいましたから、慣れってのは恐ろしいものです。藤原紀香のフィオナ姫もなかなかキュートで、「トイ・ストーリー」と並ぶ日本語版キャストの成功例だと言えましょう。一作目はそれまでの魔法が解けると美形になるという常識を逆にとったフィオナ姫の設定が素晴らしく面白かったのですが、二作目では幸せになれる薬の結末がまた笑わせてくれました。このちょっとひねった幸せの視点がシリーズのアクセントになっていたのですが、今回はストレートな展開で、素直な幸せの追求を見せてくれています。

今回のお話はシュレックが留守にしているうちにチャーミング王子が「遠い遠い国」を乗っ取ろうとするというもので、シンプルなストーリーの中に細かいギャグがたくさん盛り込まれていて、笑わせてくれます。3作目ともなるとキャラも固定されていますから、ドンキー、長靴をはいた猫、ピノキオや三匹の子豚、クッキー人形といったお馴染みのメンツが安定した笑いをとります。また、これまではおとぎ話のパロディみたいな笑いが多かったのですが、今回は学園モノのパロディで笑いをとり、スピリチュアルのパロディは今の日本を狙っているのかと思うくらいハマっていました。今回はあまり新キャラは引き立たなかったのですが、その中で、木に顔がついた暴れん棒というのが要所要所で笑いをとりました。特に、舞台稽古でダンスレッスンしているところが相当おかしかったです。

後半、監禁されたフィオナ姫や白雪姫、お妃さまが逆襲に転じるところがまた、チャーリーズ・エンジェルか戦隊モノのパロディになっていまして、笑いのところに音楽で彩りをつけるやり方が成功しています。個人的には、王様の葬儀のシーンで「007死ぬのは奴らだ」のテーマが流れるところがツボにはまりました。

シュレックは父親になるということで浮き足立ってしまうところがおかしかったです。赤ん坊が群れをなして、シュレックのところにやってくる夢を見るシーンが笑いをとります。ラストで実際に子供ができて和気藹々の一家をあるところを見せていい雰囲気になるのも点数高いです。これまでのシリーズの中では一番他愛ない話なんだけど、楽しくまとめているところが買いです。その分、これまでのひねったおかしさがなく、これでシリーズも打ち止めなのかなってのも気になるところです。結局、怪物も普通に結婚して、子供が生まれて幸せな家庭を築くところに落ち着くというのは、あまりにまっとうな「めでたし、めでたし」という感じなんです。

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Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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