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「ひめゆり」は語り継ぎたい言葉に満ちています。

東京ではすでに公開済の映画「ひめゆり」を横浜のシネマベティで観てきました。こういう映画は商業上映の形で見せてくれるのはうれしいです。何かの講演付きで改まって観る必要がないからです。

沖縄師範学校女史部、沖縄県立第一高等女学校では、多くの女学生が学園生活を送っていたが、通称これをひめゆり学園と呼んでいました。戦局は悪化し、彼女らも急遽看護支援ということで動員されました。そこは、病院と呼べるものではなく、戦場の真っ只中でした。そして、彼女たち211人の命が3ヶ月の間に奪われたのです。既に高齢である生き残ったひめゆり隊の女性たちが、重い口を開いて当時のことを語っていきます。ある人は何も語ろうとはせず、ある人は語り伝えることが自分の使命だと思っています。突然、戦場に送り込まれた彼女たちを何が待ち受けていたのでしょうか。

ひめゆり部隊のドキュメントであり、自分に起きたことを語ってくださる人々のインタビューと当時に記録フィルムだけで成り立っています。最初は赤十字の旗の下で働くと思っていたら、病院のための壕堀りを手伝わされたり、水汲み、食料運搬、伝令、死体処理などの仕事もやらされることとなります。病院の設備も不十分で全てのけが人を診る事ができない状況でした。それでも、病院の中は戦場のような忙しさで、一ヶ月もたつころには、切断された腕を捨てにいくところを他の兵士に見咎められ、「自分は、人間が変わってしまった」ということに気付いて絶句するというエピソードが語られます。

赤十字の旗も掲げない病院は空爆、機銃掃射の的になります。ほんの一瞬の動作である学生は命拾いをし、学友の死体に対面することになります。見た目普通のおばあさんからこんな話を聞けること自体が驚きですけど、それを後へ伝えていこうという意志には頭が下がります。

米軍の攻撃が激しくなり、病院も島の南部に移動します。そして、看護やもろもろの仕事に忙しい日々を送っていた彼女らに、「この病院は解散する、各自どこへ行くも自由だから、早々にこの壕から出て行ってくれ」という命令が下ります。何と言うことか、彼女たちは軍から見放されて追い出されることになってしまいます。海岸方面へ逃げていく生徒や教師たちでしたが、海にはアメリカ艦船が無数にいて、逃げ場は、海岸の近くの岩場だけという状況になります。

元生徒たちの言葉から感じられるのは、とにかく怖い、そして悲しいという感情でした。そして、彼女たちは日本軍やその関係者に対して憎しみを向けることがないのが意外でした。「病院解散」の時はさすが憤ったようですが、後は、周囲の地獄絵に怯えることはあっても、兵隊さんたちへの怒りの言葉はありませんでした。周囲が皆、自分と同じ状況だったからなのかもしれません。

特に驚かされたのは、彼女たちの行動の選択肢の中に、「捕虜になる」ということがなかったということです。その当時の教育を受けている人々にとって、捕虜になることは親類縁者にまで及ぶ恥であり、また、女性が捕虜になると股裂きや拷問などで、それはひどい死に方をするということが彼女たちの常識になっていたのです。海岸線へ追い詰められた彼女たちは、捕虜になるくらいなら、自分から進んで死んでいったものもいたそうです。ただし、それ以上の人間が米軍の爆撃や機銃掃射で命を落としたことは確かなようです。でも、一方では「こんなところで死にたくない」「おかあさんに会うまでは死にたくない」と言う声が聞こえたそうです。当たり前のことですが、誰だって生きたい、でも、生きるも死ぬも地獄だという究極のところまで彼女たちは追い詰められていたのです。

沖縄は本土決戦のための時間稼ぎだったそうです。じゃあ、本土決戦になって勝ち目があるのかと言えばそんなものあるわけがない。先日観た「特攻」という映画とあわせてみると、日本人が何の勝ち目もないまま無駄に日本人を殺しているように見えます。ある意味、弱いものいじめのようにも見えます。我々、日本人はいざとなれば弱いものを簡単に切り捨てる連中が政治の中枢にいるのだということを理解しておく必要があります。弱いもの、騙されやすいものは、偉い人の都合のよいように教育され、洗脳されて、不本意な死を、本人は不本意と気付かぬまま受け入れることになるのです。自決することが美しいなどという時代が二度と来てはいけない。それ以前に戦争を起こしてはいけないということを痛感させられました。

この映画は海岸線まで追い詰められた彼女たちの体験をインタビュー形式で描いているのですが、その後、どうやって生き延びたところまでは語られません。わざと描かなかったのか、彼女たちもそこまでは語りたがらなかったのか、あるいは続編があるのかは私にはわかりませんでした。時間軸にそって、インタビューが挿入されるのですが、その内容には、政治的な宗教的な匂いは一切ありません。ただそこで起こったことが淡々と語られていくだけです。柴田昌平の演出は、できうる限りドラマチックな要素を排除して、語り部の言葉に耳を傾けようとしていて、好感が持てるものでした。感動を売りにした映画ではないので、機会があれば、一見をおすすめします。

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「ラッシュアワー3」は期待しなければ滅法面白い

新作の「ラッシュ・アワー3」を川崎チネチッタ5で観てきました。ここは広さの割りに画面がでっかいので、前の方の席はかなりきつそうです。

国際会議の席で中国大使が狙撃されます。リー(ジャッキー・チェン)は狙撃犯を後一歩のところまで追い詰めたのですが、相手が孤児院時代の義兄弟ケンジ(真田広之)だとわかり、銃を撃てずに取り逃がしてしまいます。そこにたまたま居合わせた交通整理のカーター(クリス・タッカー)も首を突っ込んできます。大使は命には別状なかったのですが、娘のスーヤンともにまだ狙われているのです。その理由は大使が中国組織の大ボス、シャイシェンの正体を暴こうとしたからです。病院でも組織の人間に襲撃され、何とか切り抜けるリーとカーターですが、捕まえた組織の男がフランス語を使うことから、二人は次の国際会議が控えているフランスはパリに飛びます。一体、シャイシェンとは何者なのか、そしてカギを握っていると思われる、ジャンビエーブという踊り子の運命は?

シリーズ3作目でして、今回は主演二人の次に真田広之と工藤夕貴がクレジットされています。監督もシリーズ通して担当しているブレット・ラトナーが担当しています。オープニングから、カーターが交通整理にかこつけてナンパしようとしたりしてるんですが、過去2作ではあまり気にならなかったのですが、このカーターがうるさい。スタンダップコメディアンだから仕方ないのかもしれないが、今回は騒ぎすぎ。そして、ジャッキーのアクションもなんか少ないなあ、という印象で、ラトナーの演出の手堅さは評価したいものの、どっか物足りないものになってしまいました。

また、アウションのクライマックスをエッフェル塔に持ってきたのは、確かに見た目はド派手なんですが、エンドクレジットで視覚効果のスタッフ(ILMがメインで後他に数社)がものすごい数登場すると、ああ、やっぱりと思ってしまうのです。ホントに危険なアクションをやっていても、それが危険なように見えないのです。ジャッキー・チェンの出るアメリカ映画は、本人によるアクションを抑え気味にしている節があって、何だかもったいないと思うところ多いです。特に、今回はクリス・タッカーが騒々しい上にアクション部分(スタントマンでしょうけど)にも介入してくるので、何だかジャッキー・チェンのすごさをわざと薄めているようにも見えてしまうのです。

まず、敵役のケンジを悪役だけど、リーの義兄弟としたことで、リーのアクションがセーブされているように見えるのは、どこか計算違いのように思えました。彼が冴えるのは、強い連中から追われて逃げまわりながらのアクションシーンや、多くの敵を一度に相手にするシーンなのですが、今回はそういうシーンが少なくて、義兄弟の葛藤といったものが、アクションの間に挟まってしまったので、どこか突き抜ける爽快感に欠けていて、ラストも何だかスッキリしないまま終わってしまいました。工藤夕貴は女殺し屋の役で登場する(前作のチャン・ツィイーみたいなポジション)のですが、あまり出番がなくて気の毒に思ってしまいました。

こう書くと、つまらない映画に聞こえてしまうのですが、1時間半にまとめたアクション映画としてはそんなに悪くはないです。見せ場も結構ありますし、走る追っかけ、カーチェイス、カンフー教室でのアクション、病院での銃撃戦、そしてエッフェル塔での縦横に動き回るアクションなど、バリエーションも豊富で楽しめるものになっています。しかしながら、ジャッキー・チェンと真田広之に期待するハードルが高いので、つい、不満が先に出てしまいます。二人のチャンバラシーンはなかなかの迫力だったのですが、カメラがアクション全体を押さえてくれていないのと、カットが細かすぎることで、もっと見せろよという気分になってしまいました。

また、これまでとの違いとして、視覚効果にILM他、何社も関わっていることがあります。どうやら、エッフェル塔での立ち回り中心に合成やCGが使われているらしいのですが、見せたい絵にこだわる姿勢はわかるのですが、グリーンバックのスタジオでアクションしてただけなのかな、なんて思い始めるとまた興がそがれてしまいます。ここは難しいところなのでしょうが、エンディングのNG集にアクションシーンのNGがほとんどないことからも、どこまでホントにやってるの?って下司の勘ぐりをしてしまいます。

そんな中で音楽のラロ・シフリンがアクションシーンに快調なスコアを提供していて。画面を盛り上げていました。

「インランド・エンパイア」誰か解説してくれないかしら

新作の「インランド・エンパイア」を川崎チネチッタ10で観てきました。こういうクセのある作品をシネコンにかけてくれるのはありがたいのですが、オタク狙いか、プログラムが1000円もするのは、いかがなものかと。

女優のニッキー(ローラ・ダーン)に新しい映画の話が舞い込んできます。「暗い明日の空の下で」という題名で、デヴォン・パーク(ジャスティン・セロー)と共演することになり、撮影は始まるのですが、段々とニッキーと役柄のスーザンが混濁するようになり、また、時間を過去にさかのぼったり、役が彼女にとりついたようになります。また、もう一つのドラマが割り込んできて、そこでは、北欧らしいところでスーザンは小さな家で夫と二人暮らしをしており、スーザンは妊娠したことを夫に告げます。すると、今度はハリウッド大通りでスーザンは娼婦となっているのですが、友人のアドバイスに従いあるアパートの一室で眼鏡の男に自分の過去を相談し始めます。そこで彼女は自分が今どこにいるのか、物事の起きている順番がわからないと言います。一方、北欧の寒々としたホテルで、これら全ての状況をテレビで観ている少女がいたのです。

「マルホランド・ドライブ」でも相当難儀したデビッド・リンチ脚本・監督作品です。この映画はさらに時間が3時間という大作で、最後までついていけるか不安ではありましたが、長さはきになりませんでしたから、それなりに面白くできているということになるのかもしれません。

今回もハリウッドを舞台に、現実のドラマ、撮影中の映画、さらに北欧のどこかで起きている事件が並行して描かれます。それらは、全体を説明するシーンがないので、観ている方が勝手に解釈するしかありません。思わせぶりなシーンをドーンとつないで、観客を迷わすのは、定番と言えば定番なのでしょうが、私の脳みそでは、まるでついていけませんでした。時間の順序が狂うというのは観ていてわかるのですが、そうなると、観ているものが、どのシーンの前後にはさまるのかというのがわからない。でも、各々のシーンは他のどこかとぼんやりとつながっているのです。そのぼんやりが濃い霧のように映画全体を覆っていて、どこから食い付いたら賞味できるのかわからない料理のような状態です。

映画の冒頭、ニッキーの邸に不思議な老婦人が引越しのご挨拶にやってきます。最初は普通の会話をしていたのですが、映画の話になると変なことを言い出します。「市場に出かけて迷った女の子は裏道を行くしかない」そして、「明日のあなたがそこに見える」と指差すとそこには友人と共に談笑するニッキーがいて、ドラマの軸も新しいニッキーへと移ってしまうのです。この時点で既にニッキーは魔物にとりつかれたのかも、と思わせるシーンでした。

とはいえ、まずは「暗い明日の空の上で」という怪しげなタイトルの映画を撮影するというドラマが中心になっているらしいのですが、ニッキーはその中の役どころスーザンとなって、相手役のビリー(=デヴォン・パーク)を本気で愛し始めます。そして、実際にニッキーとデヴォンはニッキーの家でベッドを共にすることになるのですが、この時、彼女にとって相手がビリーなのか、デヴォンなのかが区別がつかなくなっているようなのです。さらに家に帰れば、別の夫がいて、どうもそれは映画の前半とはミスマッチな貧しい暮らしぶりなのです。まるで「暗い明日の空の上で」の中にまた別の映画があるように思えてきます。

一方、北欧の町で少女の観ているテレビに人間のかっこうをしたウサギが出てくるシーンが時折挿入されます。それは、北欧につながっているようであり、また、ラストではハリウッドとつながっているようにも見えます。ウサギの部屋を中心に空間も時間もつながっていて、ウサギが覗くドアによって、話があっちこっちに飛んでいるようなのです。

そして、時間と空間のゆがみは、ついに映画の撮影を終えたニッキーの身にも起こるのです。それまで彼女を悩まさせていた映画が現実の形として、ニッキーを取り込もうとするのです。そして、ついに、少女のところにまでたどりついたニッキーは、そこから、冒頭の老婦人と向き合っているところにまで戻ってくるのです。ぐるぐると裏道を迷いながら、やっと自分の家に帰り着いたという感じでしょうか。ただ、この映画で「原因を作れば、その結果は必ず負うことになる」という趣旨の言葉が何度も登場するのですが、一体、ニッキーは何の種をまいたからこんなことになったのかというのがわからないのです。彼女がある意味、地獄巡りをするような羽目になったのは単に運が悪かっただけなのかしら。それとも、主演俳優が二人とも殺されてボツになった映画の台本をもらったことで取り込まれてしまったのかも。

また、北欧のシーンは正直、役者の顔の区別もつかない上に、何だか思わせぶりな行動ばっかりで、この部分のストーリーはほとんど解釈できませんでした。

不思議だと思うのは、わけのわかんない話ばかり作っている割にデビッド・リンチの評価が高いことです。確かに3時間退屈させない映画を作ったのは事実ですけど、誉めてる人はどこまでわかって誉めてるのか怪しいものだと思ってしまいます。わかりやすい映画が素晴らしいなどと言うつもりはないのですが、その思わせぶりの内容は意味があってやっているのか、単なる印象のコラージュなのか、アートなことにうとい私にはわかりかねるのです。でも、意味があるのならそれを語って欲しいし、印象のコラージュなのであれば、そう言って欲しいなと思ってしまうのでした。「難解だなあ」ってしみじみしてるときに「実は思いつきだけだよーん」と言われるとガックリきちゃいますし。

「ファウンテン 永遠につづく愛」はあっちの世界へ行っちゃってるような

新作の「ファウンテン 永遠に続く愛」を銀座テアトルシネマで観て来ました。ここは傾斜もあってスクリーンも大きく好きな劇場ではあるのですが、初回から全席指定ってのがどうにも。

3つのドラマが並行して描かれます。まずは現代の医師トミー(ヒュー・ジャックマン)と妻イジー(レイチェル・ワイス)の物語。トミーは何としても彼女を救う新薬をつくることに没頭しています。イジーはそれよりもっとトミーと一緒の時間を過ごして安らかな死を迎えたいと考えています。トミーの新薬が完成する前にイジーは天に召されてしまうのです。もう一つの物語は、イジーが書き残した物語「ファウンテン」中世スペインの女王イザベル(レイチェル・ワイス)の命を受け、生命の木を探す騎士トマス(ヒュー・ジャックマン)の物語。そしてもう一つ、時代は不明なのですが、宇宙空間を漂う球体の中で生命の木を前にたたずむトミーの物語、最終的に3つの物語は一つに収束しそうなのですが、さて?

「π」「レクイエム・フォー・ドリーム」のダーレン・アロノフスキーが脚本、監督した映画で、生と死についてのイメージを見せようとしているのですが、3つの物語の関連がラスト近くになるまでわからない(わからない私がアホか?)ので、小道具の指輪の意味とか読み飛ばしてしまったようなのです。でも、各々のストーリーは似ているようで似ていないのです。現代のストーリーは死を待つばかりのイジーに何とか生き延びて欲しいトミーが新薬の開発にのめり込む話です。中世の騎士は女王の命を受け永遠の命をもたらす生命の木を探すお話、そして、最後の宇宙空間では彼は何をしたいのかよくわからないのです。正直、もっと整理された作りにして、言いたいことをはっきりさせた方がいいんじゃないかと言いたくなるくらい、複雑な構成になっています。

現代のイジーは「生命の泉」というタイトルの物語を途中まで書いてトミーに渡します。その最終章をトミーに書いて欲しいと託すのです。イジーが亡くなった後、トミーは最終章を書いたのでしょうか。中世の物語には一応の終止符が打たれます。そこから察すれば、彼は物語を書き終えたということができましょう。しかし、最後に座禅を組んで悟りを開いたみたいになるところは、意味がよくわかりません。悪く言えば新興宗教の勧誘ビデオみたいです。宇宙空間の中にいたトミーも木がある球体から脱出して、別の球体に移って座禅を組んでいます。うーむ、やっぱりここも悟りを開いたがごとき見せ方です。その悟りと、トミーが書いた最終章はたぶん別物じゃないかと思います。そうでなければ、トミーが物語を書き終えることで、イジーとの愛は永遠となり、彼は一人で生きていけるようになったということかもしれません。何しろ、宇宙空間のトミーのいる球体にはイジーはいないわけです。つまり、独立したトミーが宇宙の中にいるということは、やはり一人悟りを開いたように見えます。

でも、一人の人間の死にそこまでのめり込むことが、人間として正しいことなのかという疑問が出てくるのです。愛する人との別れはどんな形であれ、必ずやってきます。その時に残されたものが、「あっちの世界」に行っちゃうのはおかしいと思うのですよ。残されたものは、残されたものとして後の人生を全うしなければならない。でも、この映画だと、座禅組んでいわゆるスピリチュアルな世界へ飛んでいってしまうのです。そんなの永遠の愛じゃない、歪んだ自己満足のように思えてなりません。

ヒュー・ジャックマン演じるトミーが熱演するほど、「あ、そっち行っちゃダメだ」という気分になります。レイチェル・ワイスは今回はいつものような存在感が希薄で、影が薄いように思いました。いつものような人間としての厚みを封印したかのように、美しい象徴的な存在です。それだけに何だかおぼろげな幻のようなものをトミーが追いかけているような印象を持ってしまいます。

さらに言うと、トミーが自分だけ救われればよいと思っているように見えてしまうのです。正直、本当のあの物語をトミーが完成させたのかどうかよくわからなくなってきました。彼は単に生命の木を自分のためだけに利用したのではないか。そんな気がしてくるのです。この映画を観て、永遠の愛を感じる方もいらっしゃると思いますし、それを美しいと感じる方もいらっしゃいましょう。どうやら、私とは相性がよくなかったみたいです。

ともあれ、輪廻転生とか再生を描いているようには思えませんでしたけど、愛する人の死の受け入れ方として、このやり方はオススメできません。イジーの魂に近づこうともせず、勝手に一人で悟り開きました、ハッピーエンドでーすというのでは、イジーも死んでも死に切れないで、その辺の心霊写真に写りこんでいそうです。

「選挙」は悲壮感のないドキュメントとしてオススメ

新作の「選挙」をシネマベティで観てきました。これもフィルムではなく、HDプロジェクターによる上映でした。

東京で商売をしていた、山内和彦さんに自民党から、川崎市議会の補欠選挙に出てもらえないかという依頼を受けます。これまで自民党19議席、民主党18議席だったところで自民党議員が参議院に乗り換えたため、この選挙で民主党が勝たれると第一党が自民から民主に代わってしまうという党にとって重要なものでした。これまで、他の自民党議員を支援してきた人たちも一時的に動員しての選挙が始まります。最初は慣れないことが多くて謝ってばかりいた山内さんですが、共働きの奥さんも動員しての選挙戦、果たして山内さんは議員バッヂをつけることができるのでしょうか。

想田和弘が監督、撮影、録音、編集まで一人で手がけたドキュメンタリーです。大学時代の友人だった山内氏が市議会選挙に立候補することを知った監督が本人に頼んで選挙の様子をカメラに収めさせてもらったもので、音楽もナレーションも一切なく、映画としてのメッセージがあるとすれば、編集で織り込むしかない作品になっています。

それまで、政治のことなど一切絡んだことのない山内氏にとって、街頭演説の仕方や、握手の仕方まで、先輩議員や、選挙参謀からダメ出しが入ります。また、多額の選挙資金は自腹ということもあって、負ければ借金だけが残る(待てよ、勝っても借金残るんじゃないの?)状態での選挙活動です。選挙のためにせまいアパートに引っ越してきての不自由な生活もなんのその42歳の山内氏にははつらつとした若さがあります。幼稚園の運動会に行って、ビラ配りをしたり、祭にも顔を出して、一緒に神輿をかつでみたり。山内氏には全然地縁がありませんから、先輩議員のネットワークが頼りになります。次の改選時にはて競争相手となる議員さんたちも今回だけは何くれとなく応援してくれます。

街頭演説で耳に残るのは3秒間だ、だから3秒の間に自分の名前を入れろと言われます。なるほど、あの何の役に立っているのかよくわからない駅頭の演説にもそれなりの意味があるらしいというのは一つの発見でした。また、市会議員選挙というだけに本人も自分の担当区内をくまなく回らなければなりません。しかし、意外や、山内氏は飄々と選挙活動をこなしていきます。

一方、会社に有給休暇をとっての奥さんの選挙運動もなかなか楽ではありません。面白いと思ったのは、自分を名乗るとき「妻」ではなく「家内」と言わなければいけないということ。これって、奥さんの人格を一歩下にしてるんだなと思っていたのですが、その後、奥さんが選挙事務所でこんなこと言われたと憤慨します「当選した暁には仕事をやめるように」と。要は奥さんは一歩下がって内助の功に徹するのが議員スタイルのようなのです。奥さんにとっては冗談じゃない話ですが、一方の山内氏は「今、そんなことを言ってる場合じゃないよ」となだめきれません。

それにしても政治のことに全く疎い山内氏を議員にすることで、誰がうれしいのでしょうか。当時の小泉首相のファンらしいのですが、地縁もない川崎で何をどうしようというつもりなのかさっぱりわからないのです。ところが一度レールに乗ってしまうと降りることができないのです。ポスター、チラシ配りに協力してくれる他議員の支援者の人々、そして選挙参謀などが頑張れば頑張るほど、山内氏も何だかわからないけど頑張らなきゃという気分になってくるようです。本人もこんなに人に頭を下げる仕事だとは思っていなかったのではないかしら。

そういう選挙戦の最後に、山内氏らしい事件が起きます。選挙事務所では関係者が集まって刻一刻と変わる開票状況が入ってきます。しかし、当の山内氏が選挙事務所にいないのです。何と家に帰っていたというのです。帰っちゃう山内氏もひどいですが、それに気付かない選挙事務所の人間もひどいです。結局、山内氏は台風の目でしかなくて、周囲だけが暴風圏だったみたいなオチは出来すぎのような気がします。それに呼び出された奥さんも全然うれしそうじゃないし。

結局、自民党のしがらみの中に取り込まれた山内氏ですが、今は川崎市議会議員ではなくなって、この映画の広報活動に各地を回られているようです。それにしても選挙ってのは、政策で決まるものでないし、金だけでもだめ、支援者の支えと、組織の力あってのもののようです。まあ、想像通りのもので大きなサプライズはないのですが、こんな風に勢いで政治家になっちゃうのはどうなの?というのは感じました。じゃあ、自分が出れば?と言われると腰が引けてしまうのですが、そのしがらみが蜜の味に感じられる人もいるんだなあと、ちょっと感心してしまいました。

ともあれ、映画全体にコミカルな味がでたのは、山内氏の人柄からですから、彼の見事な主演男優ぶりを観に行くだけでも、お値打ちものの映画です。

「消えた天使」に見る救いのなさをどうしたものか

新作の「消えた天使」を横浜シネマリンで観てきました。メジャーな作品でない作品をかけるあたりシネコンの隙間を埋めるようなラインナップを組んでいる映画館です。

公共安全局のエロル(リチャード・ギア)は登録された性犯罪者を監視する仕事を18年やってきました。そのやり方は暴力も振るえば脅迫もするといった調子で局の中でも問題視されていました。そして後18日で退職というとき、新人のアリスン(クレア・デーンズ)がやってきて、エロルと行動を一緒にすることになります。一方、女子大生が行方不明になるという事件が発生し、エロルはこの事件の犯人は自分の管轄下の登録された性犯罪者という確信のもと、全員をひとりずつあたっていく作戦に出ます。警察に捜査協力を申し出ようとしたもの、ケンもホロロの扱いを受けます。そして、ポルノカメラマンのカスティスを尋ねようとしたところ、彼は逃走を図りますが、そこにやはり性犯罪者として登録されているビオラ(ケイディ・ストリックランド)を見かけたことで、彼女も事件に絡んでいるのではないかと疑い始めます。果たして真犯人は?そして女子大生の運命やいかに。

「インファナル・アフェア」のアンドリュー・ラウ監督がアメリカ資本で撮った作品です。単なる捜査ものではなく、公安安全局という役所の仕事から浮かび上がるアメリカの裏の顔を描いたものです。アメリカには、性犯罪者を登録して監視する制度があり、その情報は一般に公開されているというのです。プライバシーよりも、性犯罪者の再犯を防ぐ方を重視しているのです。この制度が機能を果たしているのかどうかという疑問の声もあります。また、エロルのように暴力を振るったりする、単なるイヤガラセにしかならないでしょう。アリスンもエロルの行動をやりすぎだと思います。しかし、映画はその執拗なやりくちこそが行方不明の女の子を救うという見せ方をしています。

やたら不必要と思われるフラッシュバックや粗い画面を挿入するなど、見せ方はスタイリッシュと言えばそうだけど、正直懲りすぎです。骨太なドラマを構築しようとは思えず、画面だけ観ていると単なる誘拐スリラーにしか見えないところがあるのですが、そのドラマの内容は現代アメリカの抱えている問題を浮き彫りにしています。もっと、普通の撮り方でエピソードを積み重ねてくれればいいのにと思ってしまいます。

現在、性犯罪を犯した者は定期的に公共安全局の観察を受けています。そして、性犯罪者のリストは市民にオープンですから、性犯罪者の目にも届きます。そのことが性犯罪者のネットワークを作るのに役立っていたという、皮肉な結果をも呼びます。そして、性犯罪者の嗜好は簡単に捨てられない。変な写真を撮ったり、女の子を物色したりと、色々とやっていることがわかってきます。エロルは極端な懐疑主義者で、誰の言うことも素直に信用しません。しかし、最初は変人だと思われていたエロルの行動にそれなりの筋が通っていることがわかってくるのです。

ラストは警察が見つけられなかった誘拐された女子大生を、エロルとアリスンが見つけ出すことに成功するのですが、そのためには、エロルは居場所を聞き出すために元性犯罪者の集会に乗り込んで拳銃で脅して居所を聞き出します。これも、完全な逸脱行為で、通常なら許されないことなんですが、そうしなければ、女子大生の命を救うことはできなかったのです。そういう意味ではカロルはヒーローではあるのですが、単なるヒーロー足りえておらず、反社会的な行動をとるヒーローだと言えます。

この映画の中で、性犯罪者はそう簡単には更正せず、再び社会の中に潜り込んで同じようなことをしているのです。それが病気であるなら、監察と治療で何とかなるのでしょうが、根っからそういう人間なら、次の犯罪の芽を摘み取るためには、方法を選んではいられないということになるのでしょう。誰も信じないエロルが段々とヒーローに見えてくる展開には、不気味なものがあります。一方、登録された性犯罪者は居場所もオープンになっているので、彼ら同士で連絡を取り合うことができるのです。社会から孤立してしまった人間にとって一番共感できるのは、同じ監察処分を受けている人間です。そして、このHPから知り合った者同士が今回の誘拐を企てたことがわかってきます。

この映画は後味の悪いまま終わります。エロルにとっては最後の大仕事になったのでしょうが、彼から学んだことをアリスンがどう理解したのかまでは映画では描かれません。「怪物と戦うものには、自分も怪物になる危険がある」という彼女のモノローグには微妙なところがあります。でも、彼女が人間不信と戦いながら、職務を遂行していくとは思えません。彼女は彼女なりに、仕事をこなしていくのでしょうけど、エロルのようにはならないでしょう。でも、彼のやってきたことが今回の誘拐事件に終止符をうつことができたのは事実なのです。只の問題児ではないところに、苦い後味が残ります。

元性犯罪者を扱った映画に「リトル・チルドレン」がありましたけど、その中でも元性犯罪者がなかなか更正できない様子を描いていました。人間は生まれつき背負ってしまった罪があるのかどうかは、神のみぞ知ることなのかもしれませんが、市民生活を守るためには、そこに何らかの結論を見出していかなくてはいけない。そんなことを感じさせる映画でした。

歌手のアブリル・ラヴィーンが元性犯罪者のガール・フレンドを演じていますが、どっかラリってるような演技が印象的でした。最後にはとんでもない目に遭うのですが。

「TOKKO -特攻-」はものを考えるきっかけになる映画としてオススメ

新作の「TOKKO -特攻-」をシネマベティで観てきました。この映画、フィルムじゃなくてプロジェクターによる上映でした。

この映画の監督リサ・モリモトは、自分の叔父が特攻隊の生き残りということを知り、今は亡き叔父の家族にインタビューを試みます。また、その他にも特攻隊の生き残りに話を聞くことができました。一方、特攻により沈没させられたアメリカの駆逐艦ドレックスラー号の生き残りにもインタビューし、戦争の最前線にいた人々の言葉を得ることができたのでした。

監督のリサ・モリモトは日系二世で、特攻というものに狂気の沙汰を読み取っていました。そんな彼女が自分の身内に特攻隊の生き残り(既に故人ですが)がいたということから、特攻についての興味を引かれたのです。実際に特攻が行われるようになった張本人と言われる大西中将は、この作戦の実行にあたって、こんなことまでするやっている状況なのだから、天皇に敗戦を決意して欲しいという気持ちがあったと語られます。本当のところはわからないのですが、その責を負った人間の心情はそんなものではないかなという気がしました。

生き残った特攻隊員は、自分の過去のことをほとんど人に語り残すことをしていないようなのです。それだけに、今回4人の証言を得たことは貴重な記録と言えます。彼らは、穏やかな老人たちなのですが、その中に正直な気持ちを吐露する瞬間があります。特に印象に残ったのは、次は自分かと追い詰められているときに、敗戦になった瞬間「長崎や広島の人には申し訳ないけど、助かったという気持ちが強かった」というところです。死の順番待ちをしていたときに、戦争が終わったということはどんなにうれしかったことだろうと思います。その一方で生き残ったことに後ろめたさを感じているとも言います。

友人たちが飛び立っていくのを見送るにつけ、次は自分かという恐怖と戦う日々だったという証言は、特攻隊員は国のために死ぬことを覚悟していたという、一般論とは違うものでした。死にたくないけど、それを口に出すことができない、同じ運命にある友人だからこそ言えないという気持ちは痛々しいものがあります。空襲で焼け野原になって都市の上を飛んでいた特攻隊員は「これはもうもたない」と思ったそうです。学徒動員で特攻隊に配属された元兵士は、アメリカの資源力、工業力を学んでいることから、アメリカには勝てないとわかっていながら、死を覚悟していたのです。ある、元兵士が、後、半年早く戦争を終わらせてくれたら何万の人間が死なずに済んだと言います。敗戦直前は、出撃する飛行機はみな特攻隊になっていたと言います。そして、負けるとわかっているのに特攻を続けた軍の上層部は裁かれることはないのかという気分にさせられます。本土決戦のために竹槍訓練をしたという老婦人の証言は、本気でやるつもりだったのかという気がします。

冷静に考えれば、気狂い沙汰なんですが、周囲の状況が兵士たちを死地へ赴かせる様子が見えてきます。でも、一方で彼らは、軍の上層部たちは後を追うと言いながら、結局生き延びているじゃないかと怒りをぶつけます。自分が今度は飛ばなきゃならないと命令が出れば、避けることはできない。狂信的ではなく、人間としての葛藤を胸に秘めながら、飛び立っていく。しかし、米軍にとっては近くに来る前に機を破壊しないと自爆テロのごとき状況になる。元米駆逐艦乗組員が意外なことを言います。「もしも、アメリカが日本、ドイツに包囲されたとしたら、特攻をやる人間はいるだろう。」これは、どこまで本気なのかよくわからないのですが、軍の作戦として有りだと思っているのだとしたら、恐ろしいものがあります。

また、ある特攻隊員は敵艦に向かったものの、敵飛行機の攻撃を受け、弾を使い果たして、乗組員同士で「もう、帰ろう」と話し合って、引き返してしまい、黒島に不時着して、一命をとりとめるのです。この話は特攻という枠の中ではあるまじき話なのでしょうが、妙に人間臭いエピソードとして印象的でした。敵機が最後まで追いかけてこなかったというところにありがたいと言う元兵士の言葉に不思議な安堵感を感じました。

ラストで元兵士の老人たちは、戦争をしてはいけない、と強く言います。戦闘の当事者だからこそ重みのある言葉なんですが、今、そういう思いや言葉を持った人間が少なくなっているのが、不安になるときがあります。死んだ戦士の慰霊をすることは生き残ったものの勤めであり、決して戦争を美化するものではない。特攻隊員を慰霊することは特攻隊を肯定するものではない。そこのところが曖昧になってきているように思います。私は、これまで戦地での慰霊活動は右翼の宣伝活動くらいにしか思っていなかったのですが、それが間違いであること、「勝てばよかった」というのもウソだというのを改めて認識しました。

ただ、日本が負けそうになってからの話ばかりがドラマや映画になるのは、どこか偏向しているのかなという気もします。朝鮮、中国に戦線を拡大して調子こいてたころの日本軍がどんなことをしていたのかを語る日本人があまりいないのです。中国から見た日本軍のドキュメンタリーは「リーベン・クイズ 日本鬼子」くらいしかないのがちょっと残念な気がします。

「プロヴァンスの贈りもの」は大人の童話としてマル

新作の「プロヴァンスの贈りもの」をTOHO川崎シネマズ2で観て来ました。ここは147席のいかにもミニシアターという雰囲気を持っていますが、座席数の割にはスクリーンが大きいという印象があります。

ロンドンの株の凄腕トレーダー、マックス(ラッセル・クロウ)のもとに叔父ヘンリー(アルバート・フィニー)の訃報が届きます。ヘンリーは遺産をマックスに譲るという手紙を残していたことから、相続手続きをするために、飛行機でプロヴァンスに飛びます。マックスの遺産とは大きな家とぶどう畑。すぐにでも売り払いたいと考えているマックスに対して、もともといた使用人のデュフロは、大反対。また、家やぶどう畑を見るにつけ叔父さんの事が思い出されてきます。そんな時に車と自転車の接触事故がきっかけで、ファニー(マリオン・コティヤール)と知り合いになり、旅先の恋愛ゲームのつもりだったのですが、段々と彼女の存在が心の大部分を占めるようになります。そんな、状況下で遺産の売却を無事に終わるのでしょうか。

リドリー・スコット監督によるラブ・コメディというのが目を引きました。それに主演にラッセル・クロウというのも、重厚ドラマチックな取り合わせだとも思ったのですが、これが、意外や軽いタッチのラブコメにまとまっていました。

冒頭は証券会社で攻めの売買で成功をおさめるマックスの姿が描かれます。金にうるさくて、派手に女遊びもしているらしいマックスは正直イラつく奴です。映画の前半は遺産もさっさと処分したいと思っているマックスが、フランスに飛ぶと、そこで、さそりが部屋に入ってきたり、ドロドロのプールに落っこちて上がれなくなるといった散々な目に遭うところで、クロウが笑いをとります。

とはいえ、家の中を見て回ると、叔父さんの思い出が色々と甦ってきます。叔父さんはクソ生意気なガキの頃のマックスを大変愛していたようなのです。家をいい値で売るために壁塗りやプール掃除を一緒にやることにデュフロと合意をしました。そんな時、叔父さんの子供だという若いクリスティ(アビー・コーニッシュ)が家に叔父さんを訪ねてやってきます。彼女が本当に娘だったら、勝手に遺産を処分できなくなります。ビクビクもののマックスですが、娘の方にはそんな積もりはないように見えます。一方でファニーと知り合いになったマックスはデートにまでこぎつけます。しかし、ファニーにとってマックスは遠くにいる人であり、長く付き合おうというつもりはなかったのでした。

冒頭、南仏のプロヴァンスの美しい景色が見えたとき、結末ももう見えたようなものなんですが、リドリー・スコットは笑いを豊富に盛り込んで、「大人の童話」を作り出すことに成功しています。段々と叔父の残したものの価値に目覚めていくマックスを、コミカルに描いたスコットの演出は、軽いタッチで変に大げさに盛り上げることはしてないのが、意外やこれがいい感じなのです。あることをきっかけに一気にマックスの気が変わるわけではなく、じわじわと気持ち動いていくのを丹念に追っていきます。そして、株屋の経営者から、クビか共同経営者になるかの選択を迫られるのです。「金を取るか、人生を取るか」と尋ねられたマックスにとって、もう答えは決まっています。農場はぶどうの収穫期となり、そこには、デュフロ夫妻、クリスティ、そしてファニーがいます。友人の弁護士からの「すぐ、退屈するぞ」という電話に「そんなことはないさ」と軽く受け流します。果たしてここで幸せな暮らしを続けられるかどうかは、マックスにかかっているのです。百万ポンド単位の金を自分の指一本で動かしていた男が、まったく時間間隔も金銭感覚も違う世界で暮らせるのかなという不安は残しているのですが、そこはまあ、おとぎ話なんだから、めでたしめでたしにしましょうという気分にさせる映画です。

日々を金、金、金に明け暮れていると、小さなものを積み重ねたものの価値を見失いがちになります。マックスには幸運にも、叔父の遺産を引き継ぐというチャンスに恵まれたのですが、普通の人にはそんな棚からぼたもちみたいな話はありません。でも、時にはいつもの自分から離れてみることで新しい価値を見つけることができるかもしれません。あるいは、今の冴えないと思ってきた自分の価値を見つけることができるかもしれません。この映画のマックスは、今までの自分を否定した上で新しい価値観を受け入れるのですが、もっと身近なことで、自分がちょっとだけ変わる可能性があるとしたら、それはやった方がいいことだと、この映画は語っているように思います。こう書くと怪しげな自己啓発セミナーのオススメに聞こえてしますが、ゴールや目標を設けなくても、ちょっと興味の対象を変えてみることで、人は変われると思います。ただし、いい方に変わるとは限らないので、自分を客観視できること、あるいはできる人が必要になりますが。そんなことを、大人の童話として描いているのがなかなかあなどれない映画だと思います。

そんなファンタジーに、潤いを与えているのが、役者の適役適演でして、結構女好きで、人生の教えを授けたヘンリーを演じたアルバート・フィニーが貫禄の演技を見せ、ファニー役のアビー・コーニッシュが強気だけど繊細というきわどいキャラを好演しています。また、公証人役でヴァレリア・ブルーニ・テデスキが脇を固めています。フィリップ・ル・スールの撮影がプロヴァンスをやわらかい光でとらえて印象的でした。マーク・シュトレイテンフェルドの音楽は、ロンドンのシーンとプロヴァンスのシーンで音楽のタッチを変えることで、両者の対照を明確にしています。

「トランスフォーマー」は続編お構いなしの見せ場の連続が見事

新作の「トランスフォーマー」をTOHOシネマズ川崎6で観てきました。ここは天井も高い映画館らしいスタイルになっており、DTSを積極的に上映している劇場としても評価が高いです。クレジットカード割引をしてくれるともっとうれしいのですが。

カタールのアメリカ軍基地に突然謎のヘリコプターが飛来します。そして、ヘリは一瞬のうちに巨大ロボットと化し、基地のコンピュータデータを奪おうとしますが、それは何とか阻止されたもの、重武装したロボットに基地は全滅状態にさせられます。すると、今度は大統領専用機にラジカセから変身するロボットが出現し、今度は多くのデータを奪われてしまいます。一方、高校生のサム(シャイア・ラブーフ)は父親から初めての自動車を買ってもらうのですが、いつの間にか中古車屋に現れた古いカマロを予算ギリギリでゲットします。しかし、この車、勝手に動いたり止まったりする得体の知れない代物でした。ある夜、サムは勝手に動き出した車を追いかけると、それがロボットに変身するのを目撃します。すると、そこにパトカーが変身したロボットが現れ、両者が対決し、サムの車が勝利をおさめます。どうやら、変身するロボットには、いいロボットと悪いロボットがいるようでどちらのロボットもサムの曽祖父の遺品のメガネを狙っているようなのです。そして、それは人類絶滅の危機をはらんでいたから、さあ大変。果たして強力な武器を持つ悪いロボット軍団をやっつけることができるのでしょうか。

スティーブン・スピルバーグ製作、マイケル・ベイ監督ってのが売り物の映画。二人が並んで登場する予告編を何度も見せられたのですが、確かに役者も地味でハデなのは爆薬とSFXだから、まあ、そこそこの期待でスクリーンに臨みました。物語はのっけから爆発全開で、カタールの米軍基地がむちゃくちゃにされるというもの。その後も変身(トランスフォーム)するロボットたちが出てくる出てくる。見せ場をこれでもかとつないで2時間半弱を一気に見せる映画に仕上がっていました。とにかくカット割が細かくて、凝ったショットが多いので何が何だかわからないところもあるのですが、テンポがいいので、最後まで一気に見せられてしまいました。

しかしながら、ロボットが金属生命体として、地球侵略にやってくるってのは、やってることは「宇宙戦争」とあまり変わりがありません。その上、その逆の立場のロボットがいて、自分を犠牲にしても人類を守ろうなんて言ってくれるのは、まるでウルトラマンの世界です。そんなムチャクチャ他愛のない話を大金をかけて映像化して見せるのですから、只事ではありません。地球征服をもくろむロボットとそれを阻止しようとするロボット。最初のうちはあまりにも弱体だった人間にも最後には華を持たせるあたりの心遣いも見事でした。

クライマックスは善悪入り乱れての市街戦になるのですが、ここでもベイの演出は思いっきりド派手にやってまして、市街地でそこまでやったら市民の死体の山ができるだろうと思うのですが、そこのところをうまくはぐらかしています。まあ、もともとあまりディティールのこだわらないのがマイケル・ベイの映画なので、勢いで押し切ったあたりは評価できると思います。何しろ、オープニングで派手な基地破壊シーンを見せていながら、クライマックスではさらに大規模なぶっ壊しと戦闘シーンを見せるあたりは、他の監督にはないパワーを感じます。

ロボットたちも英語を話してるのがご愛嬌なんですが、中盤では、サムの両親に見つからないように、ドリフのコントみたいなことをやって笑いをとりますし、クライマックスでは悲壮感あふれる闘いぶりを見せてくれます。ロボットにちゃんとキャラが割り当てられているからでしょうけど、金属生命体が何でこんなに人間臭い会話をするんだろうというところは、これまたご愛嬌というところなんでしょう。

アニメーションじみたファンタジックな設定は日本のマンガの影響を感じました。ロボットが人間のために命を張るとか、キャラが人間くさいといった部分は、アニメの「アイアン・ジャイアント」をさらに人間に近づけた感じです。ただし、それを実写版でやったというのは意味のあることでして、SFXの可能性をさらに広げたといえます。SFXは、メインがILM,その他にデジタルドメインと、KNBイフェクツが参加していますが、CGのリアル感は見事なもので、合成感があった「スパイダーマン」を凌ぐ出来栄えになっています。

ラストでは生き残ったトランスフォーマーが人間の生活に隠れているという設定になってまして、この共存がうまくいくのかどうか、また、ラストで海に投棄した悪玉トランスフォーマーが復活しては来ないのかという、続編への興味をかきたてているあたり、商魂もたくましいと思いました。ただし、見せ場をフルに見せてしまった今回、それを上回る続編を作るのは大変なことでしょう。それとも、手加減しないで見せ場を放り込んだ本作が潔いというべきか。

登場人物の中では、サムがなんとなくオタクっぽい冴えないキャラになっているのが、買った車(トランスフォーマー)のおかげで彼女もできて、ラストでは捨て身の活躍をするのが印象に残ります。その他に三枚目キャラとしてアンソニー・アンダーソンとジョン・タトゥーロが登場して笑いをとっています。

「リトル・チルドレン」は子供な大人たちのいい年こいたドラマ

新作の「リトル・チルドレン」を日比谷シャンテシネ2で観てきました。ここはスクリーン位置がぎりぎりの高さになっているので、前に座高の高い人が来ないようにとちょっとはらはらする劇場です。

アメリカ郊外の町で夫リチャードと娘ルーシーと暮らすサラ(ケイト・ウィンスレット)は日々の暮らしにちょっと退屈気味、子供と遊びに行く公園でも他のママさんとはちょっと距離を置いています。そこへ現れた子連れの男、サラが声をかけてみるとその男はブラッド(パトリウック・ウィルソン)といい、司法試験の勉強中で今は主夫状態なのだとか。それから、頻繁に顔を合わせるようになる二人はどちらからともなく魅かれ合うようになり、ある日、プールの帰りにサラの家でブラッドとサラは結ばれます。それからというもの子供の昼寝時間を使ってセックスに明け暮れる二人ですが、それはそれまでにない人生の刺激であり快楽でもありました。一方、幼児へのわいせつ罪で2年の服役を終えたロニー(ジャッキー・アール・ヘイリー)が町に帰ってきます。元警官のラリー(ノア・エメリッヒ)は彼が要注意人物だとポスターを作って町中に貼り、彼の家の前に落書きをしたり、クラクションを鳴らしたり異常なほどの行動を見せます。果たして、情事にふけるサラとブラッドの成り行きは?そして、ロニーは?

「イン・ザ・ベッドルーム」で日常に潜む意外なもろさを巧みな語り口で映像化したトッド・フィールドの新作です。今回も郊外に住む普通の主婦がよそのダンナとの情事にはまりこんでしまうという絵に描いたようなメロドラマを細やかに演出しました。もう一つのドラマであるロニーのエピソードはもう少しシリアスでして、コミュニティの中で孤立してしまった男のどうにもならない卑屈な自己嫌悪が描かれます。唯一ロニーの味方である母親は高齢で、息子の行く末を憂いていました。新聞広告に投稿してデートまでセッティングしてくれるという48歳の息子には過保護ともとれる行動をとるのですが、一方、「悪魔」と書かれた落書きをブラシで消す姿には胸を打つものがありました。一方、ロニーを攻撃するラリーの行動は執念深くて、度を超えたものでした。だが、そこには虚勢を張っているようなところもあり、ラリーにはラリーなりの弱さを抱えていたのです。どちらも大人でありながら、小さな子供(リトル・チルドレン)のようなところがあります。

サラとブラッドの関係は刹那的なものであるのですが、二人は自分が家庭人であることを一時的に忘れて、のめり込んでいきます。一緒に逃げようなどと大真面目に言い出すあたり、彼らもまた小さな子供であるかのようです。しかも、その逃避行にあっけらかんと笑えるオチを持ってくるあたり、シニカルなコメディを狙っているようにも見えます。そもそも子連れでどっかに身を隠そうなんてまるでリアリティがないのですが、普通の主婦であるサラが一時的には本気でそんなことを考えて行動を起こすのですから、そこには浮ついた説得力のようなものがありました。本当は現状のように、子供の昼寝の時間を使ってセックスするのが一番満ち足りているのに、それには後ろめたさがあるみたいで、だからといって、二人の関係を切ることができない、そこで愛の逃避行しようという論理なんですが、このあたりを悪い冗談のように見せるあたりにトッド・フィールド監督のシビアな視点があります。


この先は、結末に触れていますのでご注意ください。


幼児への性的犯罪で服役した男が近所に住んでいるというのは、やっぱり気持ちが悪いと思うのは人情でしょう。ロニーがプールにやってくると、子供たちがみんなプールから上がってしまうというマンガみたいなエピソードもあるのですが、一方で、プールに潜って子供たちを見るロニーに歪んだ性的嗜好を感じてしまうので、冗談のようで冗談じゃないってところがあります。お見合いデートの時に相手の女性を見ながら自慰行為をするロニーに変質者を感じ取ってしまうのは普通の更正者のドラマをひっくり返したような皮肉な視点があります。

ロニーの母親は、ハンドスピーカーでがなり立てるラリーに腹を立てて外へ出て行って心臓発作で倒れ、そのまま帰らぬ人になってしまいます。ロニーに一言「良い子にしてね」というメッセージを残して。これで、ロニーはたった一人の自分の味方を失い、途方に暮れることになります。ここでも、ロニーは孤独で子供っぽい顔を見せます。うまく年を重ねることのできなかった男の悲哀というものがにじみ出ているのです。そんな彼が自分を傷つけて「良い子」になろうとするのは、あまりにも幼い発想でその痛々しさが苦い後味を残します。

もう一人、重要な人物としてロニーの妻であるキャシーをジェニファー・コネリーが確かな演技で見せ場を作ります。サラ一家を夕食に招いたときに、夫とサラの間に何かあったなと気付くところが圧巻でした。才色兼備の申し分のない嫁さんだけど、どこか夫との距離をとってしまうキャラを見事に演じきりました。また、サラの公園仲間の一人にトリニ・アルヴァラードがいたのが懐かしかったです。もうすでにおばちゃんの役なんですが、スリムなままで、再開できてうれしいようなちょっと寂しいような。

トーマス・ニューマンの音楽は「イン・ザ・ベッドルーム」と同様、控えめにちょっと不思議系の入った音でドラマを見事にささえています。

「レミーのおいしいレストラン」はテンポのよさで最後まで見せる

新作の「レミーのおいしいレストラン」を川崎チネチッタ8で観てきました。ここは椅子の背もたれが高いので、前の人の頭が鑑賞の邪魔になることはないのですが、小さい子供だと前の椅子が邪魔で画面が見えにくくなるかも。

ねずみのレミーは他のねずみより嗅覚、味覚に優れていたので、ねずみの群れの毒見役にさせられていましたが、彼にはシェフになりたいという夢がありました。棲家を追い出された群れからはぐれたレミーはパリに流れ着きます。そして、有名なグストーの店にたどり着いたレミーは、見習いのリングイニがミスでだめにしてしまったスープを調味料を足して味を直してしまいます。それが料理評論家に好評だったことから、リングイニは一躍コックの扱いとなります。レミーは見つかってリングイニが捨てに行ったのでしたが、リングイニは自分に協力してくれたら命を助けてやると言って、レミーにもそれが伝わり、二人はコンビで料理を作ることになります。コックの帽子の中にレミーが入り、髪の毛を引っ張ってそれに合わせてリングイニが料理を作るというもの。これが評判となってグストーの店は大繁盛。しかし、かつてこのレストランを酷評した評論家イーゴがこのレストランにやってくるというのです。果たして、リングイニとレミーはイーゴの舌をうならせることができるのでしょうか。

監督のブラッド・バードは名作「アイアン・ジャイアント」を手がけた人ですが、今度は割とリアルなネズミとデフォルメされた人間キャラを使って、3Dアニメを作り上げました。主人公のレミーはネズミのくせに料理番組が好きで料理の本も読み、他のネズミより、味や香りにこだわりがあります。残飯を盗む生活に嫌気がさしているのです。そんな彼がパリのグストーの店に導かれるようにやってくるところが奇蹟の始まりとなります。グストー本人は評論家イーゴに酷評された後亡くなって、今は料理長のスキナーが厨房を取り仕切っていました。新米のリングイネは料理はからっきしダメで雑用係なのですが、それでもヘマばかり、スープをダメにしたことをレミーが見つけ、味の修正をしてあげるのですが、このあたりの「うっそでぇー」という展開をバードの演出は無理なく見せていきます。

レミーに料理の才があることを知ったリングイネは、共同戦線を張ることになります。コックの帽子の中にレミーが入り、リングイネの髪の毛を引っ張って彼をリモートコントロールするというもの。そして、グストーの失敗作だったレシピを元にレミーがちょいとソースを変えて絶品の料理に仕立てあげたことで、グストーの店はまた評判を上げることになります。そのあまりの見事さに疑問を持ったスキナーがリングイネの周囲を調べ始めるのですが、ついに、リングイネがネズミに料理を教えてもらっていることを発見してしまうのです。厨房にネズミがいるようなレストランは衛生局から営業停止にさせられてしまうのです。

一方、リングイネがグストーの忘れ形見であることが判明し、一躍リングイネはグストーの店のオーナーになってしまいます。そんなときにグストーの店に評論家のイーゴがやってきてこの店の一番の料理を出せと言います。しかし、その時、厨房にレミーの存在がばれてしまい、コックはみな出て行ってしまい万事休すの状態。リングイネもすっかりあきらめてしまうのですが、ここでレミーが仲間のネズミを集めて料理を作り始めるのです。それも、フランスの田舎料理と言われるラタトゥーユ(映画の原題)を。ネズミたちが作った料理をイーゴはどう評価するのか。

映画は大変うまい結末を持ってきて、この綱渡りのようなお話にハッピーエンドをもたらすことに成功しています。ただし、ネズミにそれほどいい感情を持ってない人には、厨房をネズミの群れが走り回っているのに違和感を覚えるかもしれません。実写でやったら、たとえスチュアート・リトルのお友達でもごめんこうむりたい展開です。それでも、結構観れてしまうのは、映画の冒頭からグストーの言葉「誰でもシェフになれる」が生きているからです。可能性に前向きな姿勢はレミーの中に常に生きていますし、それは評論家イーゴにも伝わるというところにこのドラマの面白さがあります。リングイネはあまりいいところなくって、単に状況に流されているだけに見えるので、余計目にレミーの真摯な姿勢が際立ったように思えます。また脇役で登場する女コック、コレットの突っ張りぶりがなかなか印象的で、男社会の厨房で女としてやっていくのが大変だというのを語らせるあたり意外なリアリティがありました。

料理をCGで見せるという挑戦もかなり成功しているのではないでしょうか。私は本格的なフランス料理を食べたことがなく、あのちょこっとしか料理が乗っていない皿にはあまりそそられるものがないのですが、まあ、一度は大枚はたいて、フランス料理なるものを食す機会を作ろうという気になりましたから。

ネズミと人間の共存という一見あり得ない関係になんとなく納得させられたのは演出がうまいからでしょう。2時間近い時間をかんじさせないのも展開のうまさだと思います。マイケル・ジアッチーノの音楽が威勢のいいレビュー風のジャズ音楽になっているのも調子のよさに貢献しています。

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einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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