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「大統領暗殺」はクールにきめて楽しみましょう

今回、新作の「大統領暗殺」をTOHO川崎シネマ4で観てきました。HPではDTSだったのに、上映前のロゴはドルビーデジタルでちょっとがっかり、でも、エンドクレジットでは、映画自体がドルビーデジタルのみだったので、ま、仕方ないか、と、興味ない人にはどうでもいい世界です。

2007年10月19日、大統領ジョージ・ブッシュがシカゴ経済クラブに出席するために、シカゴを訪れました。反ブッシュのデモ隊が大挙して、会議の周りを包囲し、警官隊との小競り合いも発生していました。クラブでのスピーチを無事に終えた大統領は、シェラトンホテルの表門から支持者と握手しながら車に向かうところで銃声が聞こえ、現場は大混乱となります。大統領は病院に運ばれますが、残念ながら息を引き取り、副大統領のチェイニーが大統領になり、暗殺者の捜査が大々的に行われるのですが.....。

もし、ブッシュ大統領が暗殺されたら? という設定で作られた、イギリス製フェイクドキュメンタリーです。もう今となっては過去の日付では、アメリカ公開時は至近未来という設定だったと思います。ブッシュとチェイニーは本人の映像を編集していますので、フェイクと呼ぶには、ちょっとリアル過ぎる気がしますが、ガブリエル・レンジ監督はそこも計算ずくで、虚実織り交ぜたドキュメンタリー風映画に仕上げたかったようです。内容的には、9.11同時多発テロと、JFK暗殺を合わせて、その時、今のアメリカに何が起こるかを描こうとしています。そして、イギリス製らしいシニカルな視点が感じられるのも一興です。

実際に暗殺が起こって、FBIが関係者と思しき人間を次々に逮捕していくあたりは、かなりテンションの高い作りになっていまして、証言者と実際の現場をフラッシュバックするあたりは見応えがありました。シカゴは、反ブッシュの活動家が多いという設定、やっぱり槍玉にあがるのは、黒人とムスリムというもの何となく納得させられちゃうものがありました。本当にシカゴにブッシュが行くと反対デモが起こるのかは知らないのですが、この映画が、フィクションとノンフィクションをごた混ぜにしているので、私なんぞは、シカゴは反ブッシュで一杯という印象を持ってしまったのですが、それが本当なのかはわからないです。虚実入り乱れるので、観ている方は真に受けないようにしないとまずいのかも。

事件当日以降は、地味な犯人追跡となるのですが、あるシリア人のコンピュータ技術者が容疑者としてリストアップされます。彼の容疑は、致命的な物的証拠は弱いものでしたが、過去にアフガニスタンのタリバンキャンプにいたことが、巨大な(有無を言わせぬ)状況証拠となり、陪審員は彼を有罪としてしまいます。その一方で、チェイニーはこれを口実にシリア爆撃を企んでいるのでした。と、後半はお話がずっと予定調和というか、JFK暗殺と9.11同時多発テロの後の、アメリカのやったことをなぞっているだけで、単に歴史は繰り返されるだけのような見せ方になってしまったのは残念でした。映画の作りがドキュメンタリー形式になってることで、後日談でいい絵が取れなかったってこともあるでしょうけど、何か地味な話になっちゃいました。マイケル・ムーアが出ずっぱりで、ウソとホントを秤にかけながら取材そのものをドラマにしちゃうほうがやっぱり面白いよねというところに落ち着いてしまいます。

それとも、歴史は人が変われば、また同じことが繰り返されると言いたいのかもしれません。ムスリムの人が自国にいようがアメリカにいようが、理不尽な目に遭わされているところはよくわかりました。それが私にとっては唯一目新しいことでした。でも、実在の人物を使って、ここまでやれるとなったら、今の技術で、ブッシュ大統領暗殺というニュースをでっちあげて、CNNに載せることが可能だということもわかりました。ひょっとして、この映画の見所かつ怖いところはそっちかもしれません。(作り手の趣旨とは外れていても)

昨年の「ユナイテッド93」も9.11同時多発テロを題材に、リアルな再現と仮定したフィクションがごっちゃになっていて、それがかなり面白くできていて思わず感情移入しちゃうので、「真に受けてはいけない、でもホントかも」という後味があまりよくない映画でした。「ユナイテッド93」に比べると、この映画は、娯楽性はイマイチなので、観終わった感じは「ふーん」という程度でした。、でも、下手に感情移入できちゃうよりは、クールな視点で観るべき映画ですから、まあ、そんなところかな、という後味でした。

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「パンズ・ラビリンス」民話による少女の追悼のような

今回は新作「パンズ・ラビリンス」を川崎チネチッタ9で観てきました。国外の評価も高い作品の割りに公開劇場が少なくて、シネコンで上映してくれるのはありがたい限り。

スペイン内戦の時代、フランコ独裁政権に対して、まだ山岳部のゲリラが政府軍に抵抗をしていました。オフェリア(イバナ・バケロ)は、政府軍の大尉と結婚した母と一緒に駐屯地に連れてこられます。母親は臨月で、体力的にかなり弱っていました。駐屯地の近くには迷宮があり、ある夜、そこに入ると、下へ降りる階段があり、さらに下に進むとそこには、パンの牧神がいて、彼の言うには「彼女を魔法の国の姫君で、人間の世界に勝ってに上ったのだが眩しい光に記憶を失っている、これから、オフィリアが3うの試練を全部クリアできれば、魔法の国は迎えられる」というのです。そこで、彼女は3つの試練に挑戦することになり、まず木の下の棲む大かえるから金の鍵を持ってくることでした。地上では、政府軍とゲリラの血生臭い戦闘が続くなか、果たしてオフェリアは3つの試練を達成することができるのでしょうか。

アカデミー賞の撮影賞、美術賞、メイクアップ賞を受賞し、他の映画祭でも多くの賞を受賞したスペイン映画です。「ミミック」「ヘル・ボーイ」などのハリウッド映画も手がけている、ギレルモ・デル・トロが監督した、ある種のファンタジーの一編です。

スペインの政府軍とゲリラの抗争はかなりリアルに描かれまして、大尉の残忍さがかなりリアルに描かれていて、素直な甘いファンタジーではありません。こんなゲリラとの戦闘の只中に放り込まれてしまうオフェリアはかなり不幸な子。ところが、迷宮に誘われるままに地下に降りると、そこにはパン(牧神)がいて、彼女にその素性と3つの試練の説明を受けます。そこで、第一の試練として、木の根っこにいる大かえるをやっつけること。実際、木の下に潜り込んでみれば、どろどろだし、変な虫はいるし、試練をクリアしたものの、彼女は泥だらけになって家に帰ってきます。どうやら、ファンタジーの世界と現実の世界は地続きなようです。

さらに、次の試練に臨むのに、母親の体調が悪くて、遅れてしまうと、パンの牧神が彼女の寝室にまでやってきて、彼女をせかすのです。最初は迷宮の奥にいただけのパンの牧神が彼女のプライベートの場所に入ってくるのです、そして、奇怪な生物のいる部屋から黄金の剣をもってくることになんとか成功しますが、その時連れの妖精を2体失って、課題は果たされなかっとことになってしまいます。そして、母親はお産で死亡し、息子はなんとか無事に産まれてきます。一方では、ゲリラと政府軍が戦闘になり、一人生きていた若者は大尉の拷問を受け、医師に死を望み注射を受けます。この医師と女中頭のメルセデスはゲリラと通じていて、食料や薬品を渡してきたのです。素性が大尉に知られた医師は射殺されますし、メルセデスも大尉に捕らわれてしまいます。


この先は結末に触れるのでご注意ください。


メルセデスは逃走して、ゲリラたちと合流し、政府軍に対して攻撃をかけます。オフェリアは最後の試練として、自分の弟、つまり赤ん坊を迷宮まで連れて来いと言われ、その指示にしたがいます。パンの牧神は、最期の試練として無垢なるもの血、つまり赤ん坊の血を要求するのです。それを拒むオフェリアを追ってきた大尉が彼女に発砲します。現世の彼女は死に、一方、地下の奥深いところにある魔法の国では、姫が戻ってきたことを祝います。

リアルな現実のシーンをつないでいくと、夢見がちな女の子が、内戦の犠牲になって、死ななくてもいい命を政府軍の大尉の銃弾が奪ったのです。その、少女の理不尽な死について、誰かがそれじゃあまりにかわいそうと思って、実は彼女は死んだのではなくて、魔法の国へいったんだよ、というベッドサイドストーリーをつむぎ出したという印象が残りました。血生臭い時代の少女の死に対する供養としてこんな話を語り伝えたような気がするのです。勿論監督自身が書いた脚本なんですが、その描き方は、内戦当時に命を落とした子供たちへの鎮魂歌のように思えたのです。魔法の国が死ぬ間際にオフェリアの夢だなんて考えてたくはないけれど、この物語自体は彼女の死からさかのぼって作られたように思えます。いわゆる、民話の世界ですね。

ハビエル・ナバレテの音楽は悲しげな子守唄のメインテーマで映画のカラーを決めてしまいます。ギレルモ・ナバロのキャメラは、迷宮の中で暗いシーンを月明かりのように見せて、美しい絵を作りだしました。

「キングダム」はアメリカのアラブへの上から目線が気になる

今回は新作「キングダム」を静岡有楽座で観てきました。ここは地下の劇場にありながら天井が高く、スクリーン位置も適当で見やすい映画館です。

サウジアラビアの石油会社の外国人居留区で、自爆テロがあり、多くのアメリカ人の命を奪われました。アメリカからは直接の捜査は見送り、サウジアラビア警察に捜査は一任する方針としたのですが、FBIのフルーリー(ジェイミー・フォックス)たちはそれでは納得せず、アラブ大使を脅迫して、5日間の捜査期間を勝ち取ります。そしてフルーリー、ジャネット(ジェニファー・ガーナー)、グラント(クリス・クーパー)、アダム(ジェイソン・ベイトマン)の4人がサウジアラビアへと飛びます。しかし、彼らはサウジ国家警察のガーシー大佐の監視下に置かれ、自由に捜査ができません。フルーリーは王子に取り入って直接の現場捜査ができるようになり、ある程度状況がわかってくるのですが、現場から宿舎がへの移動中に攻撃され、アダムがテロリストたちに誘拐されてしまいます。彼らを追跡するFBIとサウジ警察。果たしてアダムは救出できるのか。

役者から監督になったというピーター・バーグの監督作品です。サウジアラビアで起こった自爆テロで米国人の死者もでたことから、その捜査班を現地に送りたいというのが事の発端であり、アメリカとしては現地警察に捜査を任せようというのに、先走ったFBI捜査官がかなり強引に現地捜査に乗り出すというお話です。そして、彼らは成り行きで、テロリストの巣窟までたどり着き、テロの指揮をおこなった男を射殺するのです。というより、攻撃するもの皆殺しにしてしまうのです。

アクション映画としての迫力はカーチェイス、銃撃戦など派手にやってくれます。爆破シーンもたっぷりで、活劇としては大変よくできているように思いました。

でも、この映画、エンディングが妙に地味なんですね、死闘を繰り広げたアメリカにとっての英雄が元気ありませんし、目の前で祖父を射殺された少女は、祖父の最期の言葉「心配しなくていい、あいつらは仲間がみんな殺してくれる」を心の奥深くに刻みつけることになります。結局、フルーリー達は、テロの犯人を一人も逮捕できずに皆殺しに行ったということになるのです。何しろ、テロリストがいると思われる危険な地域に自ら武装して乗り込んでいき、テロリストかどうかもわからない連中をバリバリ殺しているのですから。考えてみれば、自分たちの生活している場所に、アメリカ人が武装してやってきたら、それなりの防衛行動を起こすのではないかと思います。それを銃弾と手榴弾と運とで、皆殺しにしたのですから、これはそこの住民にとっては、遺恨を残すことになりましょう。理由もわからずに、銃撃戦の中で命を落とした者もいたろうにと思います。

これは、去年見た「ステルス」(これも、ジェイミー・フォックスがでてましたね、右翼系の人なのかしら)と同じ理屈です。「ステルス」では勝手に北朝鮮に不時着しておいて、大して悪さをしてない北朝鮮軍を部隊ごと皆殺しにして、ああよかった、よかったのハッピーエンドになっていましたからね。今回は、心境複雑なところを見せて、ちょっとは別の結末にしていますが、やっていることは、アメリカ目線では正統防衛でも、事情を知らないアラブの住人にとっては、それこそテロ行為になりましょう。

警察の捜査も、サウジ警察は何もできないアホばっかに見えるし、FBIが来たから、やっと捜査が始まったという印象を与えるのも、どうかという気がしました。出てくるアメリカ人が自分たちがサウジアラビアに入っているのに、アラブ人を上から目線で見ているのですよね。もし、アラブ人の立場を日本人に置き換えてみれば、ものすごく腹立たしい連中ということになります。もし、FBIが日本にやってきて、自分勝手に捜査した挙句、ヤクザの集会に乗り込んで、(日本での発砲は控えたとして)全員病院送りにしたら、日本人はどう思うかというところです。まあ、40年前にジェームズ・ボンドも似たようなことしてるんですが、一応、時代を反映した(と、プログラムに書いてある)と言う映画にしては、何だかサウジアラビアが気の毒に見えます。と言うか、アメリカから観たアラブ人ってまだまだこんなもんなんだなあって思わせる一本でした。

マウロ・フィオーレの撮影は、上下が狭苦しいショットが多く、最初からシネスコ版を意識してないような絵作りになっているのが気になりました。ダニー・エルフマンの音楽は「スパイダーマン」のような、ヒロイックで重厚の音と異なり、打ち込みと思われるパーカッシブな音を前面に出し、スリリングな展開をうまくサポートしています。

「インベージョン」は表向きB級SFだけど、何だか含むところありそうな

今回は、新作の「インベージョン」を静岡ピカデリー2でを観てきました。ここの劇場はもともと名画座だったところで、座席数が多い割りにはスクリーンが小さく、観客は映画を見下ろす形になります。まあ、ドルビーデジタルは入っているのですが、ロードショー館としてはどーなのと思わせる映画館でもあります。

スペースシャトルが爆発し、アメリカにその破片が降り注ぎます。精神科医師キャロル(ニコル・キッドマン)の元夫のタッカー(ジェレミー・ノーサム)が現地で破片の調査をしたのですが、その晩タッカーに不思議な変化を始めます。しかし、朝には普通の顔になっているのですが、どっか変。タッカーはキャロルに息子オリバーに会いたいと言い出します。キャロルには現在の恋人で医師のベン(ダニエル・クレイグ)がいますが、キャロルが奇妙なスライムのようなものをもってきて、彼と相棒ガレアーノ(ジェフリー・ライト)とともに調査を開始するとそれが未発見のウィルスになることが判明。一方、街中で人々は無表情で立ちすくんでいて、たまに興奮した人間がいると、彼らは奇妙な液体をかけられるのです。そして、眠ったときに以上な状態になり、朝になると見た目は普通、でも別人格になってしますのです。そして、キャロルもついにその液をかけられてしまいます。もし、眠ったらキャロルも彼らと同じになってしまいます。息子オリバーとともに逃げ回るキャロル、彼女は眠ったら「彼ら」になってしまうのです。

原作はジャック・フィニイ「盗まれた町」で、今回は3回目のリメイクになります。監督は「ヒトラー最後の12日間」のオリバー・フィリシュビーゲルで、主演がニコル・キッドマン、助演ジェレミー・ノーサムとくれば、文学作品かとおもっちゃいますが、これが、B級臭さ満載のSF侵略モノとして娯楽映画として手堅くまとまっているのにはちょっと意外でした。

ヒロイン、キャロルをニコル・キッドマンが演じたことで、映画のテンションは上がりました。何やってもキレイ。汚れてもキレイ。睡眠不足になってもキレイ。現実感のないヒロインを選んだことで、物語は彼女の視点からの状況に限られてしまうのですが、脚本の力でしょうか、この街で何がおこっていることから、事件の全貌が見えてくるのはうまいと思いました。街中の人がどんどん入れ替わっていく様子を、パソコンの記事で見せたりするのも大作らしくない見せ方の工夫だと思います。、彼らは一つの意識で動いているようで、仲間を増やすためにチームになって襲ってくる一方、無表情で歩いていると見過ごされるらしいのです。感情を出すと、周囲の「彼ら」に襲われるというのです、キャロルはそうやって「彼ら」の中にいる普通の人間として生き延びている人間もかなりいるようなのです。でも、「彼ら」の中で、街中でゾンビのごとく呆けている連中と、人間追跡部隊とでは、行動パターンがことなるのが、おかしくないかい?と、ちょっと突っ込んでおきます。

この原作を最初に映画化したのは。1950年代で、当時のアメリカにとってのインベーダーは東側陣営の投影のように思われたのですが、21世紀になってはそういう隠喩は意味をなさないので、何を仮想化してるのかと考えてみました。「彼ら」は皆家族であり、みんなが同じになれば、争いもない世の中になくなると言います、いわゆる全体主義、共産主義の世界を象徴しているようなのです。それを、アラブの隠喩と言うのはさすがに無理があるものの、アメリカの未来がそうなるのではないかというメッセージが観てとれるのです。そう思ったのは「グッド・シェパード」を観た後だからかもしれなのですが、現在のアメリカが、メディアを操作できる資本家のみが力を持って、国民を資本家の思うように洗脳してしまえば、この映画のように、自分で何も考えなくなります。だからこそ平和がもたらされるいう理屈と同じようなことを「彼ら」の言っているのです。


この先は映画の結末に触れていますのでご注意ください。


映画では「彼ら」の本当の狙いや「彼ら」の出自がはっきりしてないので、陰謀なのかもよくわからないので、映画の後半は、キャロルの逃走劇が中心になります。「彼ら」に乗っ取られた元人間たちがゾンビのごとく、彼女の車に襲いかかるシーンは、結構怖くできてますし、車を振り回して、「彼ら」を振り落とそうとするキャロル。ここはかなり迫力あるカーチェイスになっていました。そしてラストは一応のハッピーエンドになるのですが、それは、ワクチンを「彼ら」にうつことで、元の人間に戻れるというものでした。それでも、今度は「彼ら」が人間のふりをして生き残っているのかもしれないという不安がつきまといます。そんな空気をちょっとだけ感じさせたフィリシュビーゲルの演出はうまいと思います。この映画、逃げまどう美形のヒロインの映画としてまとまってはいるのですが、どこかに不安を感じさせる部分があり、今回、宇宙からきた「彼ら」が一体何を指しているのかを考えるとちょっとユーウツになる映画でもあります。

「グッド・シェパード」はCIAに見込まれると大変というお話

今回は新作「グッド・シェパード」を静岡オリオン座で観てきました。ここは、やっぱり大スクリーンなのがいいなあ。座席の幅もゆったりしていて、映画を観るならここ、と思わせるものがあります。

CIAのベテラン諜報部員エドワード(マット・デイモン)は、キューバの反カストロ派の支援部隊をアメリカから送り出したのですが、上陸地点が内部からもれて、作戦は失敗します。彼は学生のころFBIのサムから、自分の教授のスパイをしてくれと言われ、それを実行に移します。彼は上層部に見込まれたらしくロンドンのOSSの本部で諜報活動のいろはを習得します。いつでも、仕事で不在となることに、妻クローバー(アンジェリーナ・ジョリー)は耐えられなくなってきます。一方、OSSの延長線上にあるCIAが設立され、そのメンバーにエドは招へいされることになります。そんな彼のもとに一通の郵便がきます。その中には、何者かの情事の写真と録音テープが入っていました。そのテープと写真をCIAの捜査官に調べさせます。するとエドにとってはとんでもない情報であることが判明します。そしてエドは非情な諜報世界にどっぷりとつかっていることを思い知ることになるのです


ロバート・デ・ニーロが製作総指揮と監督を兼任し、彼自身も助演しているという映画です。デ・ニーロが監督してることがあまり宣伝されていなかったのはちょっと不思議です。映画の内容は地味そのもので、2時間47分という長さの割りに宣伝も地味で、でも劇場はでかいところにかけるというのは売り方として妙に思えたのは私だけかしら。

映画そのものは、キューバの作戦の情報が外部に漏れていたというところを中心に、彼の若い学生時代から、諜報活動に取り込まれていく様を、時間をさかのぼってエピソードが積み重ねられ、エドという人間がどういう人生を歩んできたかがわかってきます。そして、この先、どう生きていくのかも感じられるあたりまで、ドラマは重厚にそして淡々と進んでいきます。

大学のエリートたちの秘密結社スカル&ボーンズに参加したときはまだ喜怒哀楽があったのですが、CIAに誘われたころには、エドは無表情で感情をおもてに出しません。それは、彼の部下レイ(ジョン・タトゥーロがブラックな笑いをとります。)も同じように、淡々とエドのために働くのです。様々な事件に対処しつつ、それでも表情を表に出すことをしません。彼と協力、取引の相手となる、FBIやKGBが陽気でユーモアを見せるのと、対照的です。エドは複数の人間から「誰も信頼するな」というアドバイスを受けて、そのルールを守るために、自分の表情を外に見せないようにしているのです。その無表情さが、割り切ったものではなく、常の感情の起伏を抑えて見えるところをマット・デイモンは熱演(見た目は熱くないんですが)しています。彼は色々な人から、

CIAの活動場所は基本的に外国であるというのもこの映画で知りましたし、CIAのレベルまでいくと人の命も軽いものになってしまいます。エドが自分の師匠核の情報員を殺すところでは、若干の葛藤を見せたエドですが、キューバ作戦のときには、アメリカ軍の死亡者数を聞いたところで眉一つ動かさない、非常な人間になってしまいます。自分のやっていることがいい事なのか悪いことなのかわからない、誰のための仕事なのかも分からなくなってしまう。エドは、それでも仕事を淡々と続けていきます。人の命など、数でしかない諜報活動を表情を変えずに行っていきます。ここには、スパイというものより、たんたんと仕事をこなしていく役人の思えます。他人の命を左右することも、アメリカの利益が優先される世界です。

この映画を観て、ある映画を思い出しました。「スペシャリスト・自覚なき殺戮者」というナチ戦犯の裁判でのアイヒマンを描いたドキュメンタリーです。ユダヤ人を強制収容所に送った責任者なのですが、裁判で、彼は自分の仕事を忠実にやったと淡々に応えます。それは、やった事の想像できないチンケな小役人なのです。多くのユダヤ人の命を奪った張本人なのに、自分は上から言われたことを忠実に守って実行したにすぎない、と感情のない表情で語られると、これが本当にユダヤ人殺戮を実行した男とは思えないのです。「グッド・シェパード」のエドも同じように上からの指令に忠実な男に見える一方で、キューバ侵攻の失敗を犯して、アメリカ兵が何人死んだとしても、彼にとって右から左へ受け流す仕事でしかないのです。それに対してエドは満足しているのでしょうか。彼にとって自分のやっていることは是非がないのです。ナチ戦犯と同じように、小役人として上から言われたことを忠実に行っているのです。アメリカは資本主義のあることから、国のための行動は資本を持つ者の行動となります。資本家はヒトラーであり、CIAはアイヒマンということになります。その構造をまともに描いたということは、思い切ったものだと思いますし、2時間44分を見せきることになりました。

「ローグ・アサシン」派手なアクションとミステリアスな主人公で最後まで引っ張る

新作の「ローグ・アサシン」を銀座TOEI1で観てきました。入り口から中まで昔ながらの映画館で、緩やかなスロープですが、スクリーン位置が高いので見やすい映画館です。映画の始まる時にスクリーンの前の幕が開くのは何だかうれしい。

FBI捜査官のジョン(ジェイソン・ステイサム)は相棒トムと一緒に、中国マフィアと銃撃戦となり、そこに伝説の殺し屋ローグがいた証拠となるチタニウム弾丸をつかみます。しかし、トムとその妻子は報復をうけて家ごとやかれてしまいます。その3年後、中国マフィアと日本ヤクザが対立しているとき、ヤクサが殺され、そこにローグの薬きょうが残されており、ジョンは3年前の出来事から、再びローグを追い始めます。ローグ(ジェット・リー)は、両方の組織の接触し、組織同士の争いを余計目に激しくするという、妙な行動にでるようになります。果たしてローグの狙いは何なのか。そしてジョンはローグを捕まえることができるのか。

ジェット・リーとジェイソン・ステイサムの共演というので、是非観たいと思っていたのですが。フィリップ・G・アトウェル監督が、歌手のPVで有名な人だというのが、若干不安もありました。やたらに画面を細かくカットしたり、色調や画質を変えたり(ちゃんとした名前のあるイフェクトなんでしょうが、よく知らなくて)とPV的な見せ方をやっぱり多用しているのですが、ストーリーは調子よく運んでいます。銃撃シーン、アクションシーン、爆破シーンやカーチェイスと色々と盛り込んであって、犯罪モノとして観てよくまとまっています。

FBIのジョンは妻子ある身でしたので、自分の家族に危害を加えられることを恐れる一方、神出鬼没で二つの組織の間をかく乱しているしているローグを追い詰めようとします。その一方、ローグは、中国マフィアの用心棒のように取り入り、また、日本ヤクザには中国マフィアの手にあるお宝の奪還を持ちかけたり、両方を相打ちにもっていこうと画策します。ローグの狙いがどこにあるかわからず、ジョンの眼前に現れるなど大胆な行動に出ます。表情を変えず半笑いで何を考えているのわからないキャラをジェット・リーは熱演しています。

前半は銃撃戦が多いのですが後半は体を使ったアクションも出てきます。コーリー・ユエン演出によるアクションシーンは、なかなか見応えがあるのですが、カット割りがアップとロングを繰り返すもので、アクションの迫力が伝えきれていないのが残念でした。後半、ローグと日本ヤクザのボス品川と一騎打ちがあり、その後ローグとジョンとの一騎打ちになります。どちらも尺をたっぷりとってやっているだけに、細かいカット割が残念でした。

ジェット・リー主演(タイトルトップも彼)の映画というと「ロミオ・マスト・ダイ」「キス・オブ・ザ・ドラゴン」「ザ・ワン」などを観ていますが、今回は主演なのに、物語はジェイソン・ステイサムの視点で進むため、出番そのものは多くないものの、登場するとなかなかの威圧感があるあたり、知恵も力もある東洋人というポジションになっているのが面白いと思いました。中国マフィアも日本ヤクザもどちらも容赦なく殺していくのに、結局は彼が主人公になっているのですが、その展開は劇場で確認下さい。そこに関連して、ドラマは後半にちょっとしたサプライズを仕掛けているのですが、それをやっちゃうと、前半とのつながりが悪くなっちゃうという代物で、これでいくなら、前半にその伏線を意識しておけよというものでした。

中国マフィアの親玉にジョン・ローン、日本ヤクザのボスに石橋凌が扮して、英語、日本語、中国語が乱れ飛ぶ展開になっていまして、ステイサムもたどたどしいながらも日本語を話すシーンがありました。ジョン・ローンは見せ場なくて気の毒したが、石橋凌は後半にジェット・リーと日本刀での一騎打ちが設けられていて、インパクトある見せ場を作っていました。

撮影のピエール・モレルは、あまりアクションを撮ってないのか、B班のカメラがよくないのか、アクションよりも、スタイリッシュな絵作りに重きをおいているようでした。また、ブライアン・タイラーの音楽が派手に鳴ってアクションを支えていたように思います。打ち込み中心の音楽かと思っていたのですが、サントラ盤によると、タイラーがロンドン交響楽団を指揮とあり、へえーと感心してしまいました。音楽はオーケストラとシンセサイザーをフル回転させて、確かに映像の迫力に負けていません。

「題名のない子守唄」は重厚なモリコーネ節が聴けます


ジュゼッペ・トルナトーレ監督の「題名のない子守唄」の音楽は、大御所エンニオ・モリコーネが担当しました。彼が作曲・編曲・指揮も担当し、ローマ・シンフォニエッタが演奏しています。モリコーネは「ニュー・シネマ・パラダイス」以降のトルナトーレ作品の全てに音楽を提供しています。アルバムの1曲め、「メイン・テーマ」は映画に中盤で聞かれる美しい楽曲ですが、本編では、前半は、美しいテーマは出てこず、暗い重厚なストリングスが鳴りつづけます。映画の寒々とした空気を映画が際立たせていると言えましょう。映画自体はラストまで、ほとんど救いのない映画のせいでしょうか。モリコーネの音は、時として静かに、またあるときは荒々しく、ヒロインを取り巻く状況をサスペンス映画の音をつけています。

メインテーマは不幸なヒロインを包み込むようなバイオリンソロから、ストリングス全体に広がっていきます。ここでバックの高音ストリングスの和音にモリコーネならではのスタイルが見られるのですが、いつもよりも甘さやメロディを前面に出さない音作りになっています。メイン・テーマ以外は、小編成のストリングスを中心に奏でられています。これにシンセサイザーや木管楽器がアクセントをつけています。音楽としては美しくもあり、ヒロインの境遇を客観的にとらえた突き放したような冷たさがかんじられます。特に弦の高音部が時としてヒロインを追い詰めるがごときに鳴り渡るのは、これまでになく、ドラマを意識的に不安で緊迫感のあるものにしています。アルバムで聞くと、モリコーネの現代音楽的アプローチに聞こえるのですが、ドラマの中でも、感情を逆なでするような効果がありました。彼の現代音楽を聞いたことがあるんですが、ストリングスで不安を掻き立てたり、神経を逆なでするような曲が結構ありました。

映画では、暗い陰鬱なストリングスが映画全体を覆っているような印象があったのですが、アルバムで聞いてみると、結構メリハリのある音楽になっているのが、ちょっと意外でしたが、確かにドラマの展開がすごいので、音楽が前面に出る暇がなかったようです。その分、縁の下の力持ちで音楽がドラマを支えていたと言えましょう。

「陸に上った軍艦」は軍隊のひどさとそれが受け継がれていることを再認識

新作の「陸に上った軍艦」をシネマベティで観て来ました。こういう映画を東京まで行かなくても観られるというのは、うれしい限り。モーニングショーでもやってくれたことに感謝。

新藤兼人監督は、終戦の日を宝塚の海軍航空隊で、一水兵として迎えました。彼は敗戦の影が見えてきた1944年の春に32歳という年齢にもかかわらず、召集令状を受け取り、100名がいっしょに出征したのですが、そのうち、60名はフィリピンへ送られて戦死し、さらに30名が潜水艦に乗ることになり、新藤を含む10名が、宝塚の海軍航空隊の定員分隊(予科練兵の生活のお守り部隊)として残ります。軍隊は上官からの暴力が日常茶飯事の中で、唯一、兵舎の外に出られる入湯外出は彼らの楽しみでした。そんなある日、鉄カブトが3つ紛失し、犯人が名乗り出ないことで、新藤の同僚、植村が下士官に目をつけられ、拷問の果てに、自分がやったということを自白します。訓練では、木の戦車での、爆破訓練が行われるのですが、投げる地雷も木製という有様でした。1945年の8月15日正午に宝塚への爆撃をする予告のビラが米軍機よりばらまかれました。そして防火耐火のためにプールのスタンドに隠れていた彼らに、敗戦の報告が入るのでした。

この映画、新藤兼人が脚本とあったので、ドラマの映画だったと思ったのですが、記録映画、新藤兼人の証言、そして、再現ドラマを加えて、当時の兵卒の視点から戦争を描いたもので、脚本が新藤兼人、監督が山本保博とタイトルに出ましたので、新藤の脚本をもとに、彼の証言をドキュメンタリータッチで再現したものとなっています。新藤の証言とそれをドラマ化したものを交互に見せる、つまり形を変えて2度見せるという方式はインパクトがあって、そこに戦争に対する諦観というよりは怒りを感じさせるのは演出のうまさでしょう。新藤が訥々と語っているのを聞いた後、それが具体的にどういうものかをドラマとして見せることで、観客へ訴えるメッセージがより力強くなっているように思います。

学徒であろうが、多少、年がいったものにも召集がかかりました。新藤のように30過ぎでも動員されてしまうようでは、戦争の状況は悪化しているように思えます。大体、その位の年になれば、いわゆる一家の大黒柱であり、妻子持ちなのですから。一方オジさん部隊の班長になるのが、18歳の海軍学校出たてのエリートで、その自分たちより一回り以上若い上長たちに、罵倒され、殴られ、体の限界までの訓練を受けるのですから、たまったものではありません。その痛みに夜ベッドで泣きとおす者もいたようです。

軍隊の上下関係は大変厳しく、通りかかった予備学生の中尉に敬礼をし忘れたことで、家族の前でボコボコにされてしまう兵士もいます。この映画はあくまで新藤兼人の視点から描かれているので、年上であろうが、家族の前だろうが、殴り続ける上官のメンタリティには触れていないのですが、この同じ日本人に対する暴力を行うとき、彼らはどんな気分になっていたのか知りたいと思いました。そこのところを反面教師として語り継がないと、もし、日本が軍隊を持つことになれば、同じことになるんじゃないかと強く感じました。ともあれ、兵卒たちは、上官の暴力と恐怖に支配されていたようです。

その一方で内地ならではのどこか間抜けな一面もあります。食料増産計画と称して、鯉の稚魚を大きな溜池に流しているのですが、その流す方は「この鯉はいつ頃食べられるようになりますでしょうか。」「まあ、5,6年かなあ」「それまで戦争は続くのでしょうか。」という会話がのどかに交わされるシーンがおかしいです。また、対戦車訓練ということで、板で作った戦車を半分の人間が引っ張って、もう半分が地雷を模したこれまた板きれをぶつけるなんてことをやってます。ちょっと見は運動会の仮装行列の練習にも見える訓練ですが、手を抜けば、またどんだけ殴られるわからないのでやってる当人たちは必死です。そして新藤たちが、宝塚でこんなことをしている間にも、多くの若い兵士が戦地へと送られ、さらに戦地へ赴く途中で米軍の攻撃で死亡する者達がいました。

兵器庫にあった10個の鉄カブトがなくなっていたとき、誰も名乗りでなかったので、全員が班長から訓練と称するシゴキを受けます。容疑者が同じ班の植村に絞られると、彼一人が下士官質で拷問されて自分の罪と認めてしまいます。しかし、軍法会議において無罪となり、生きる屍のようになって、元の班へ戻ってきます。班長も含め、一同が凍りついたようになるところはかなり怖い。それから先、彼に仕事の指示がでなくなります。新藤にしても、何か幽霊か疫病神のように見えて、まともに視線を合わせられなかったといいます。しかし、彼は新藤よりも、軍隊とはどういうものかをより深いところまで見てきているのです。彼の話が聞けたなら、この映画にまた、1つエピソードが増えていたでしょう。

一方、戦局はますます悪くなり、宝塚も工場があることから、爆撃の対象となり、新藤らも防空壕に退避します。そして、再び8/15正午から空襲するというビラが米軍機よりばらまかれます。防火隊長であった新藤は、グランドのスタンドの下に土嚢を積んで、その時を待ちます。しかし、12時直前に伝令がきて、新藤は呼び出され、終戦の玉音放送を聞いたのでした。でも、ラジオの音が悪くて、何を言ってんだかさっぽりわからない。再び退避場所に伝令がきて、戦争中止を報告をしました。兵舎へ戻れば、将校士官はリンチを恐れてどこかへいなくなっており、残った兵士がのんびりとタバコを吹かしていました。新藤にしてみれば、リンチなんかより、早く家に帰って自由になることで頭が一杯だったそうです。皆も戦争が終わったことを心から喜んでいるのですが、植村だけは、生きる屍のままタバコをくゆらせているのでした。

昔の映画やドラマでも軍隊を非人間的な組織と描いたものがたくさんありました。新藤兼人は、そのジャンルにはあえて踏み込んでこなかったそうなのですが、自身が95歳という高齢にあることから、どこかに一兵卒の目から見た戦争を残しておきたいという気持ちもあったと思います。やはり、戦後、軍隊は口にするだけで悪だという風潮があって、最近はその揺り返しがきていて、日本は正規軍を持って武装という意見も大きくなっています。でも、60年前の大東亜戦争をきちんと語りついでいない中で、軍隊ができれば、またこのようなしごき、いじめの世界になってしまいます。

もう少し長い目でみれば、「いじめ、しごき」というものは、大東亜戦争が終わっても、そのメンタリティは引き継がれているように思います。最近、世間をにぎわわせている相撲の時津風部屋の件にしても、「かわいがり」という名のいじめは、以前からあって、今後も昔からあるものとして、引き継がれていくのではないかしら。学校、職場、ご近所間、家庭内、どこにでも、いじめは存在します。そして、自分がいじめの対象になった後は、今度はより弱いものをいじめる側になることによって、「いじめ」の文化は継承されていきます。私も過去、いじめたこともいじめられたこともあります。大体の人は両方を経験しているのではないでしょうか。メンタリティとしては、旧日本軍とおなじものを我々は受け継いでいるのであり、だから、意識して、自分の行いに気をつけなくてはいけないとを再認識させられました。

「幸せのレシピ」消化吸収しやすいホッコリ映画

新作の「幸せのレシピ」を川崎チネチッタ2で観て来ました。ここは急な傾斜座席で後ろ3列がベストポジションという、変な映画館。

ニューヨークのレストランで料理長シェフとして名を知られるケイト(キャサリン・ゼタ・ジョーンズ)の姉が事故で亡くなってしまい、姪のゾーイ(アビゲイル・プレスリン)を預かる羽目になっています。姉の死でショックなケイトが数日店にでなかったところ、いつの間にか、副料理長ニック(アーロン・エッカート)が店を切り盛りしてるじゃありませんか。他にも産休に入るコックもいるからというオーナーの説得にもケイト逆上。ケイトにそれだけでなく、ゾーイとの関係がうまくいかないという問題も抱え込んでいました。彼女の作った料理を全然食べてくれないのです。思いきって、ゾーイを職場に連れていくケイト。すると、いつの間にかニックの作ったパスタをゾーイが食べているじゃありませんか。これがきっかけで、ケイトとゾーイ、ケイトとニックの関係がいい方へと向かい始めます。でも、一度はトラブルがあって、そしてお馴染みの物語になります。ただし、この映画は悪役も恋敵も登場しないという設定なので、甘いけれど胃にもたれない軽めの食感ですから、マジにラブストーリーを期待すると、「あれれ、もうおしまい?」てな気分なりますので、ちょっとだけご注意。

ドイツ映画「マーサの幸せレシピ」のハリウッドリメイクです。監督が「シャイン」「アトランティスのこころ」「ヒマラヤ杉に降る雪」など、良質の作品を撮ってきたスコット・ヒックスでして、リメイクはあまり期待してないのですが、監督の名前で食指が動きました。

映画は、主演のキャサリン・ゼタ・ジョーンズ、アビゲイル・プレスリン、アーロン・エッカートの三人だけという作りになっています。料理も上等ならプライドも上等というヒロインが姉の死という事実にショックを受けて、休暇をとったはいいものの、ちょっと厨房を覗いてみたら、いつの間にか、オペラを流しながら、盛り上がっている見たこともない男がいる。それがニックでした。プライドの二段崩しについに爆発する彼女ですが、何だか、自分だけ浮いちゃって余計目にやな気分。さらに追い討ちをかけて、ゾーイが彼女の作ったものを全然食べてくれないので、プライドどころか本業である料理の腕前までがガラガラと崩れていくのがおかしいです。

しかし、連れて行った厨房でゾーイはニックの作ったパスタをうまそうに食べている。とりあえず、一安心ですが、それでも壊れたプライドはそのまんまです。ましてや、ニックが料理の腕前だけでなく人間的にいい奴で、ゾーイはこの男にすっかりなついてしまいます。そして、彼女自身も彼に魅かれ始めてしまいますからさあ大変、と言いたいところですが、これが全然大変じゃなくって、多少石ころにつまづくことはあっても、二人ハッピーになりましたとさ、というお話です。オリジナル版にあったヒロインの孤独感がここでは見事にオミットされて、プライドのハードル越えたらOKという展開は、ハリウッド娯楽映画の定番を踏襲しています。

この映画はあれよあれよの間に終わってしまうので、監督にしてみれば、ドラマの山場が前半にあるという脚本は演出しづらいのかなあって思ってしまいました。だからと言って後半をムダに引き伸ばしたりせず、あっさりと落としたセンスはうまいと思いました。オリジナル版のように、ヒロインの内面に迫るような話ではないので、このテキパキとしたさばき方は見事です。

狭い厨房内を、シネスコのフレームに的確に捉えたスチュアート・ドライバーグのキャメラが見事でした。また、音楽担当がフィリップ・グラスでして、硬い、ドラマチックな映画ばっかりという印象が多かったのですが、ここでは、それなりにコミカルな音をつけているのが意外でした。でも、ドラマが多少なりとも盛り上がるとグラス独特のストリングスになるのがご愛嬌というところでしょうか。

「パーフェクト・ストレンジャー」は色んな意味で後味よくないような

新作の「パーフェクト・ストレンジャー」を川崎チネチッタ11で観て来ました。ラスト7分11秒まで観客は犯人がわからないというのが売り物なんですが、こういう意外なラストを売り物にしている映画は、つい、どいつが犯人か、とか最初5分に出てきてしばらく姿を現さない奴は怪しいなど、本筋に集中できないったらありゃしない。

やり手の新聞記者ロウィーナ(ハル・ベリー)は特ダネ記事をボツにされたことで新聞社を辞めてしまいます。帰りの地下鉄の駅で旧友グレースに遭い、彼女が業界の大物ハリソン・ヒル(ブルース・ウィリス)と浮気をしたのですが、すぐに捨てられ、その時のメイルのやり取りを使って、彼を脅そうとしていました。そして一週間後、グレースの死体が発見されます。ロウィーナはハリソンが怪しいと思い、元同僚のマイルズ(ジョバンニ・リビシ)を巻き込んで、独自の捜査を始めます。まず、偽名を使って、マイルズの会社に就職します。そのフロアはマイルズと同じだったので、彼女はマイルズに接触し、デートの約束までこぎつけるのですが、果たして、彼女はグレースを殺した犯人をつきとめることができるでしょうか。

監督のジェームス・フォーリーは「摩天楼を夢みて」が大変面白かったので、本格ミステリーを見せてくれるのかという期待がありました。主人公のロウィーナを中心に様々な人間が出てきます。冒頭5分で犯人は画面に登場するかどうかにも興味がありました。映画の冒頭で、ある上院議員のセックススキャンダルの証拠をつかんで有頂天になっていたところで、会社上部から記事にできないと、ネタをボツにされてしまいます。それを聞いた勢いで彼女は新聞社をやめてしまいます。そのところへ飛び込んできたグレースの死、しかも動機を持っている人間がいることを彼女は知っているのです。彼女が犯人探しの乗り出し、架空の名前を使って、うまく容疑者マイルズに取り入ることに成功します。一方、彼の奥方はダンナの浮気性のため、監視する秘書を置いてるくらいなのでした。

そこで、パソコンのチャットを利用して、また、別の名前でアデックスという男と知り合いになり、これがどうやらマイルズらしいのです。一方、死体解剖の結果、彼女は妊娠しており、また目にベラドンナという毒薬を注ぎこまれていたと、情報を得ます、マイルズの奥方が医療関係に顔が効くというところから、ますます、彼が怪しく見えてきます。このあたりまで来ると誰が怪しいのか、全然わからなくなってきます。ジェームズ・フォーリーの演出はうまく私をミスリードしているようです。しかし、グレースの無残な殺され方は、やり方が半端じゃないので、どうも前半では隠されている裏事情がありそうです。


この先は後半に触れますのでご注意下さい。(結末までは言いませんが)


ラストは意外な人物が犯人だったことがわかります。しかし、結末は決して、後味がよいものではありません。それに本当にラスト7分11秒で事件の全貌が見えてくるもので、解決編が短すぎて納得する前に映画はバタバタと終わってしまうのです。「なんだっけかなあ、このシーンはどこに会ったんだろう?」何て事に気をとられて、ドラマとしてこの映画を楽しむことができませんでした。また、なぜこんなモヤモヤした気分になるのだろうと考えると、犯人にシンパシーを感じないというところに行き着いてしまいます。犯人の意外性を映画の柱に据えてしまっているので、それ以外の伏線もミスリードも、ただのビックリ箱にしかならないのです。これは、トッド・コマーニキの脚本のせいではないかと思います。とにかく、ミステリーの面白さを前面に出そうとしてはいるのですが、そこで行われる殺人のテンションが低すぎて、見た目、シリアスドラマ風だけど、中身は「ハロウィン」や「13日の金曜日」と大差ないように思えてしまうのです。登場人物の誰に肩入れしたらいいのかもよくわからない結末は、娯楽映画としては、あまりよい評価はできません。これは、犯人の意外性とか、前半と筋が通らないこととは別の次元の問題でして、人殺しのリアリティがないので、被害者を気の毒にと思うこともできなければ、犯人の事情にも同情するヒマもないのです。2時間ドラマで犯人が断崖の上に立って、全部の事情をしゃべりまくる(再現シーン付きで)というのは、娯楽ドラマとして、あながちバカにできないと気付かされてしまいました。

あまり、うまく説明できませんでしたが、この映画を楽しむことは、私には難しかったようです。いいところを挙げるとすれば、ジョヴァンニ・リビシに生身の人間らしさを感じられたというとこでしょうか。

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Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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