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「沈黙の報復」は有無を言わさぬ復讐劇、主人公強すぎ殺しすぎ


新作の「沈黙の報復」を銀座シネパトス2で観てきました。6週間で「沈黙の××」という映画3本立て続けての公開で、今回のは3本めになります。この公開を「オヤジの映画祭」と命名したのは面白いと思いました。主演のスティーヴン・セガールがオヤジなのか、こんな映画を観に来るのがオヤジなのか。

警官のマックスが深夜に呼び出されて射殺されます。父親のサイモン(スティーヴン・セガール)は自らの手で、犯人を捜すべく、犯行現場の近くの部屋を借りて、ストリート・ギャングの犯行とにらんで行動を開始します。接触をはかってきたゲイリーという若者から情報を得て、メキシコ系のギャングに会いに行くのですが、彼らはどうやら関係ないようです。そしてサイモンは別のギャングの根城に乗り込んで大暴れ。一方アーマンド率いるギャングがサイモンの命を狙ってきます。サイモンはマックスを撃った犯人を見つけたいという一心で、その邪魔をするものには容赦がありません。そして、息子を殺した犯人がわかってくるのですが。

沈黙シリーズを何本か演出してきたドン・E・ファンルロイが監督と撮影を兼任した犯罪映画です。この前に観た「沈黙の激突」はビデオスルーでしたが、今回はアメリカでも劇場公開された映画のようです。今回は息子を殺されたスティーヴン・セガールがその犯人を追って、毎度のごとく無茶するという内容です。「黒幕とか組織には興味ない、息子に直接、手を下した奴を殺してやりたい」というあたり普通の映画じゃありません。劇中のセリフで、セガールが「これは復讐であり、俺は連中より悪い」と言い切るあたり、お見事というか、そう言いきられちゃったら、「はい、そうですか」と言うしかないですもの。最強の復讐鬼となった彼にかなうものはいません。拳銃をつきつけられても、一瞬のうちに奪い取り、容赦なく撃ち返してしまうのですから。

映画はセガールの復讐行脚と並行して、アーマンドが率いるストリート・ギャングの様子が描かれるのですが、アーマンドを演じるエディ・グリフィンがビリングでセガールに次ぐ二番目になっているんです。でも、アーマンドはむちゃくちゃキレやすくて、すぐに銃をぶっ放す危ないボス。ところが、こいつだけが、ラストで生き残っちゃうのには、「アレレ?」と思ってしまいました。サイモンが息子の仇射ちを終えたあとに決闘となるのかと思いきや、仇射ちは済ませたからと言って、アーマンドを殺さずにどっかに消えていったのです。アーマンドは情報屋を簡単に殺すような何のシンパシーも感じないような奴で、彼の手下がビビリながら命令に従っているという、どう見ても、手下の方がまともそうなんですが、その手下たちを息子の仇を討つまえに皆殺しにしちゃっているのです。今回のセガールは本当に極悪非道になっています。勧善懲悪にならなくて、みんながワルの殺し合い、そうなれば強い奴が勝つわけです。サイモン、というよりはスティーヴン・セガールがピンチにおちいることのない無敵というお約束があるのです。主人公が危ないとかハラハラさせることがないので、主人公が行く先々で死人の山を築いていくところが目立ってしまいます。今回も息子の仇に出会うまでに、何人も殺していきますから、マジでこいつ怖いかもと思わせるものがあります。ギャングが弱いものいじめされてるみたいですもの。

映画としてはB級もいいところで、主人公の殺陣を細かくカットを割るので、ホントにセガールが殺陣をやっているのかなあって思ってしまいます。少なくとも、正義の味方には見えないし、体格で勝り、腕力で勝り、スピードで勝るのですから。それでも主演映画(ビデオも)ばかりというのが、微笑ましいというかよくやってるというか。20年以上前なら、チャールズ・ブロンソンが主演のB級アクションが単館で公開されて、すぐビデオが発売されるというパターンがよくありました。ブロンソンの後は、ジャン・クロード・バン・ダムがそのポジションを継いだのですが、ここ近年彼の映画が公開されず、その代わりにスティーブン・セガールがコンスタントに公開されるようになりました。どう見ても上等の映画じゃないんですが、オヤジが暇なときにボーっとして観るのに合っているというレベルなんですが、それでも何となく劇場に足を運んでしまいます。別に期待もしてないんですが、それでも期待を裏切られることが多いのが困りものです。ちなみに、観客は私を含めてみなオヤジでした。(女性はゼロ)どっか、彼の映画には、オヤジに通じるものがあるみたいです。

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「ナンバー23」は奥行きを感じさせるスリラー音楽


凝ったタイトルから始まる「ナンバー23」の音楽を担当したのは、「シュレック」や「デジャブ」といった作品、ジョエル・シューマッカー監督作品では「ヴェロニカ・ゲリン」「フォーン・ブース」を担当した、ハリー・グレッグソン・ウィリアムズです。オーケストラ編曲をラッド・マッキントッシュが担当し、シンセサイザーが主体なのですが、要所要所をオケの生音を使って、奥行きのある音に仕上げています。同じ頃公開の「モーテル」と比べると、あちらが登場人物のアクションに沿った音作りになっているのが、こちらは登場人物のエモーショナルな部分を音楽で表現していると言えます。どちらが良い悪いというのではなく、どちらも映画の内容にふさわしい音になっています。

いわゆるアクションっぽいシーンでは、シンセサイザーによるアップテンボな音をつける一方、ドラマチックな部分では。しっかりとオーケストラの音をならしています。鋭さがメインの「モーテル」と違って、登場人物の感情を音楽で表現している部分もあって、そこにはどこか悲哀感を感じさせるウェットなメロディを持ち込んでいます。

後半はサイコスリラーのタッチに入ると、段々スリラーっぽい音楽が増えてきて、オーケストラも不安な音を奏で始めます。衝撃音や低音部が強調されて、おどろおどろな展開になります。「モーテル」が、テーマだけがヒチコック映画のハーマンタッチでしたが、こちらはテーマが現代音楽ぽくって、中の音楽はハーマンっぽいところが面白いと思いました。

「モーテル」と「ナンバー23」という二つのスリラー映画で、シンセ中心の音楽がつけられているのですが、各々に趣の異なる音楽になっています。「モーテル」は、テーマ曲がオーソドックスな音でドラマ部分はシャープさを感じさせる音になっています。一方、「ナンバー23」はテーマが現代音楽風なのですが、ドラマ部分はエモーショナルで奥行きを感じさせる音になっています。映画そのもののアプローチが違うので、音楽も異なるのは当然なのですが、スリラーつながりでも結構違うもんだということを再認識しました。

「モーテル」は鋭さを感じさせるスリラー音楽


ケイト・ベッキンセールとルーク・ウィスソン主演の「モーテル」の音楽を担当したのは、「アドレナイン」のポール・ハスリンガーです。80年代にタンジェリン・ドリーム(いわゆるプログレ系のグループ)に参加し、ハスリンガーの単独でもアルバムを何枚か出しています。タンジェリン・ドリームの頃はあまり彼らしいカラーを感じなかったのですが、単独アルバムには映画のサントラっぽい音がありました。

基本的にはシンセサウンドなんですが、一部に弦楽器が使われているようです。「メイン・タイトル」は凝ったデザインのバックに流れる曲で、これはオーケストラ向けに作られたものをシンセで鳴らしているという印象です。ちょっとヒチコック映画のバーナード・ハーマンを意識しているようで、アップテンポなストリングスが活劇調にテーマを反復しながら、盛り上がるという音作りがうまいと思いました。オーケストラ風シンセをうまく使って印象に残るタイトルになっています。

タイトル曲の後はサスペンス音楽になっており、シンセサイザーによる現代音楽風サウンドになっており、神経を逆なでする高音部と、パーカッシブな低音部が交互に出て、雰囲気を盛り上げています。これらもオーケストラ用のスコアをシンセサイザーで演奏しているようで、オーソドックスなスリラー音楽ということもできます。

後半になると、主人公と殺人鬼の追いかけシーンになり、よりパーカッシブな音が前面に出てきて、シンセによるノッキングサウンドがドキドキハラハラのシーンを支えています。これらの音もオーケストラをシンセサイザーで置き換えたという印象です。

全体として、甘いテーマというのはないのですが、サスペンスから活劇への展開が見事で、映画そのものもコンパクトにまとめた感があるのですが、音楽もオーソドックスなスリラー映画としてまとまっています。一つのテーマから、色々と展開させるのではなく、場面場面毎に曲を展開してますので、統一感というのでは、いま一つという感じもあるのですが、エンドクレジットでもう一回テーマ音楽が流れるのが、うまい締めになっています。

「ナンバー23」の結末は意外だけど、何かムリっぽいような

新作の「ナンバー23」を109シネマズ川崎2で観てきました。ここの映画館は一番いいポジションにエグゼクティブシートというのがあって、ここの会員か、もしくは2500円払わないとすわれないようになってます。たいして座席数が多くないところにもこの特別席があるのが、ちょいと気になるシネコンです。

動物管理局に勤めるウォルター(ジム・キャリー)は妻アガサ(ヴァージニア・マドセン)から誕生日のプレゼントとして古書店で買った「ナンバー23」という本をもらいます。読み始めると、そこにはある男が幼少からの人生を描いたものでした。そして、その中身が自分の生い立ちとそっくりなのに驚きます。そして、その本の主人公が、23という数字に取り付かれたようになっているのを知り、自分のことについて考えてみたらウォルターの周囲には23だらけ。生年月日や自分の住所、歴史のイベントのあちこちから23という数字が導き出せるのです。そして、本の中の主人公同様に、23という数字にとりつかれ、だんだんと正気を失っていきます。なぜ、ウォルターが本と23にとりつかれたのでしょうか。

23という数字にとりつかれた男を描いたスリラーですが、この映画は人事ではなく、私自身についても、描かれた映画でした。例えを挙げますと、
①私の生まれた月と生まれた日を合計すると23
②私の住所の番地の4桁の数字を合計し、それに地番を足して、自分の住んでる階の4をひくと23
③私の生まれた年の西暦の各桁の数字を合計し、そこに生まれた月を加えると23
④今の私の23年前は23歳だった。
⑤私は弟が一人いるので「兄さん=23」となる。
⑥私の生まれ月の6を素因数分解すると、6=2×3となり、これも「23」
上記の内容はすべて本当のことです。私も23の呪いにかかってしまったようです。

この映画については、上記のような予備知識があった方が面白いのではないかと思います。終戦記念日の8月15日の月と日を加えると、8+15=23ですし、その気になれば、23という数字をあちこちから引きずりだすことが可能なのです。それを何か特別なことだと思ってしまい、「23の呪縛」から抜け出せなくことは、実際に起こるのだそうです。でも、実際に23という数字を拾い集めるのは考えるほどはむずかしくありません。この映画のウォルターは23だけでなく、32という数字もひっくり返せば23だと言ってカウントしてましたから、色々な数字を組み合わせれば、ものすごいたくさんの23を導き出す事ができましょう。それは、「15」でも「21」でも同じことが言えるでしょう。

そこにはまってしまった主人公ウォルターは、何とかしてこの本の作者に会わねばならないと思い始めます。どうして、自分の半生とおなじような小説が書けるのか。この作者はどこかで自分の事を見ていたのではないか。謎はなかなか解けません。そして、あちこちに数式を書いて23という数字探しをしている彼は、だんだんと正気をうしなっていきます。心配するアガサは、友人の大学教授アイザックに説得してもらおうとしたのですが、その結果は、妻がアイザックと浮気しているのではないかという疑念を抱かせるだけに終わってしまいます。そして、本の中に私書箱の住所を見つけ、その私書箱の持ち主に接触しようとします。


ここから先は結末に触れますのでご注意下さい。


「ナンバー23」という本の中身は、ウォルターが主人公のドラマとして、幻想的な映像として描かれます。そこで描かれる内容がウォルターには覚えがあるらしく、彼はその本を読み進むに連れて、本の主人公と自分の区別がつかなくなっていきます。完全に本に取り込まれてしまったウォルター、アガサは何とかして彼を正気に戻したいのですが、本のなかで、主人公が自分の愛する女性を殺していることから、アガサへの殺意すら感じているようなのです。

ジム・キャリーがだんだんと神経質な表情になっていくウォルターを熱演する一方、ヴァージニア・マドセンが健気な奥さんを控えめに好演しています。映画では、謎ときが一遍にドカンとしてくるので、やや説明がまどろっこしく感じられてしまいました。職人監督のジョエル・シューマッカーにしては、謎解きで失速してしまったのが残念でした。中盤で、奥さんの行動を怪しく見せて、ラストへの布石をうっておくべきだったでしょう。後半で登場する刑務所の男ももっと早く登場させて欲しかったところです。

一方、ウォルターの「23」へのこだわりを息子も感じるようになるあたりのミスリードは成功してますが、謎そのものは発端が偶然だけにちょっとムリあるんじゃない?と思ってしまいました。また、狂言回し的に登場するネッドという犬の存在が、超自然現象のような味わいがありました。この犬がすべてお見通しという顔(?)をしてるのが面白いのですが、この犬が無理やりな結末を納得させたとも言えます。

撮影のマシュー・リバティークが現実世界でシャープな映像を見せる一方、本の世界を強いコントラストで幻想的にとらえて見事でした。ハリー・グレグソン・ウィリアムズの音楽は心理スリラーを硬質な音楽で表現しています。

「モーテル」はハッタリ控えめだけど堅実な作りがマル

新作の「モーテル」を東劇で観てきました。ここは昔ながらの映画館の造りになっていまして、ロビーが結構広いし、劇場内はゆるやか傾斜なのですが、スクリーンがそこそこ高い位置にあるので、よほど胴の長い人が前に座らない限りは見やすい映画館になっています。


深夜、山の間をうねるように走る一台の自動車、一組の夫婦、ただし離婚寸前の状態。夫のデビッド(ルーク・ウィルソン)が混雑するハイウェイを避けて脇道を選んだもの、どこを走っているのかわからなくなっていてました。道に真ん中にいたアライグマを避けようして急ブレーキをかけてからはエンジンの音がおかしくなり、妻のエイミー(ケイト・ベッキンセール)は不満顔。ちょうど通りがかったガソリンスタンドの男に車をみてもらい、道を教わって走り出したものの、すぐにエンジンがいかれて、スタンドまで戻ったものの、もうさっきの男は帰ったみたい。隣のモーテルの男(フランク・ホェートリー)に近所に他にスタンドがないか尋ねたところ、もうこの時間ではムリだと言われ、仕方なくモーテルに泊まることになります。部屋に入ると、表や隣から激しいノック音、誰の仕業かわからないですが、静かになったので、テレビを見ようと思ったのですが、どのチャンネルも映らない、そこで傍にあったビデオカセットを入れてみたところ、二人組の男がカップルを殺すシーンを撮ったえげつないもの。そして、その殺人の舞台が今いる部屋だとわかった時、恐怖の夜が始まるのでした。

ハンガリーで育ったニムロッド・アーントル監督が初めてハリウッド映画でメガホンを取った作品です。離婚寸前のわけあり夫婦が、車のエンストのおかげで、とんでもない目に遭うという、スリラーとしてはシンプル(悪く言えばありがち)な構成ですが、定番の駒をそろえて、85分をタイトにまとめています。この映画は、殺人映画、いわゆるスナッフフィルムを扱ったものです。30年ほど昔、「スナッフ」というアルゼンチン映画が公開されて大ヒットになりました。まず、つまんない普通のドラマがあった後、場所、登場人物が代わって、撮影後の女優を殺してバラバラにするというシーンが展開され、このラストの部分が本物の殺人シーンを撮影したというのを売り文句にした映画です。実際は作り物だったそうですが、そんな映画がヒットする時代だったのです。この映画では山の中のモーテルで、ホントに客を殺して、その様を撮影していたというもの。そんなモーテルにエイミーとデビッドの二人がやむを得ず宿泊する羽目になるのです。

モーテルにたどり着くまでのドラマが結構あって、夫婦がどんな状況にあるのかがきちんと描かれています。子供の死によって心が離れていった夫婦は、奥さんの両親の結婚記念日パーティからの帰りです。ルーク・ウィルソンとケイト・ベッキンセールが、普通の夫婦を演じているのが、リアリティを出すのに貢献しています。その分、映画に華がないとも言えます。その結果、映画としては、物語の展開だけで見せる映画になっているのですが、全体的に小さくまとまった佳品に仕上がっています。

ビデオに映っていた殺人者二人が現れて、夫婦を追い詰めていきます。この殺人者はマスクを被って、まるで「ハロウィン」のブギーマンのごとく神出鬼没に現れます。このモーテルの地下はトンネルが張り巡らされていて、その一つは二人の部屋にもつながっていました。ビデオの中で殺人者が出てくる位置がおかしいことから、その存在に気づくデビッド。それを使って、脱出を試みるのですが、モーテルの管理人室に出てしまい、脱出失敗。しかし、エミリーは警察に電話すること成功、警察官が来てくれることになるのですが...。


この先は、結末(と言うほどでもないですが)に触れますのでご注意ください。


この映画はスリラーの定型パターンを積み上げています。その裁き方はどっちかという地味に思えるのですが、ニムロッド・アーントルの演出は、生理的に気色悪い絵を作らずに、まっとうな絵で勝負しようとしています。登場するスナッフフィルム(殺人映画)もえげつない絵を廃しています。その志は評価したいのですが、全体的にあまり怖くないスリラーになってしまいました。それでも、モーテル全体を一種の密室にして、簡単に逃げ出せないという設定を無理なく見せた点は評価できますし、あと少しのところで、デビッドが殺人者に刺されてしまうところはちょっと意外性もありました。

結末は朝に持ち込まれ、逆襲に出るエイミーと管理人の対決はなかなか見応えありました。たぶん、スタントマンによるものでしょうが、管理人にボコボコにされるヒロインは、迫力ある痛みが感じられました。デビッドがやられて、1対3の闘いになって、エイミーが逆転するというのは出来すぎではあるのですが、全体のまとまりとしては、これでいいのかなと思わせるものがありました。主人公夫婦にリアリティがあるのに、殺人者や管理人は不気味さだけで、ちょっと現実味に欠けるキャラになっていますので、ラストの悪夢が終わったような見せ方がうまくマッチしていたように思います。

アメリカって国は広いだけに、殺人モーテルがあってもおかしくないと思わせます。田舎の砂漠や山の中にどういう人間がいるのかわからないという設定では「ブレーキ・ダウン」という傑作がありました。あの映画ほど、本作では恐怖もアクションも盛り上がらないのですが、それでもエピソードを過不足なく入れて、かつ無駄を排した演出で、スリラーの佳作に仕上がっています。

アンジェイ・セクラの撮影は登場人物のクローズアップを手持ちカメラで撮る一方、シネスコサイズを意識した引きのショットもきちんと押さえているのがよかったように思います。また、この映画はタイトルが凝っていまして、文字が重なりあいながら、先へ進んでいくというものでした。映画の冒頭はドラマの前にきちんとタイトルを流して、エンディングもメインタイトルと同様の作りになっていまして、単なる流しタイトルになっていないのは、ちょっと感心してしまいました。最近の映画は映画の始まりで主演者、主要スタッフのクレジットが出ないものが多いので、こういうタイトルが出るとちょっとうれしくなってしまいます。ポール・ハスリンガーの音楽は、ほとんどシンセサイザーだけで不安を煽る音作りになっていますが、タイトル曲だけは、ヒチコック映画のバーナード・ハーマンを意識した曲になっているのが面白いと思いました。

「once ダブリンの街角で」は歌より、男女のありように魅力感じて

新作の「onceダブリンの街角で」を川崎チネチッタ1で観てきました。ここはデジタル音響のときは上映前にドルビーデジタルのロゴがでるのですが、元がデジタルでないときは、JBLのオーディオシステムのロゴが出ます。

アイルランドのダブリンでストリートミュージシャンをやっている男(グレン・ハンザード)が、夜、一人で歌っているとき、女(マルケタ・イルグロヴァ)が声をかけてきます。女は子供と母親の3人暮らし、ピアノがうまいのですが、自分の家にはなく楽器店で好意で弾かせてもらっています。男は自分の曲を聴かせて、女に歌詞をつけてほしいと頼みます。男は女にもっと近しくなりたいと思ってアプローチをかけてみるのですが、うまくかわされてしまいます。そんな彼がロンドンに行くことを決心し、自分のプロモ用CDを作ることになります。同じストリートミュージシャンと彼女に伴奏を頼んでスタジオで録音します。納得できるCDができたとき、二人に別れの時が近づいていたのです。

ストリート・ミュージシャンというのは、私の実家のある静岡でも見かけますが、地下街でやってるのを見ていても、音が地下通路を反響してうるさいだけで、あまりいいイメージがありません。たまたま通りかかったときに、サビで盛り上がっていると、「ナルシっていやあね」と思ってしまいます。最近は地下街にアンプを持ち込む奴までみかける状況で、ヘッドフォンのでかい音に慣らされている連中なのかなあ。それでも、女子高生なんかが人垣を作っているのを見かけるのですから、それなりに人気を引いているのでしょうが、どうもこの騒々しい自己満足は好きになれません。

何でこんな書き出しになったかというと、最初に登場する主人公のギターかき鳴らす歌がまずうるさいと思ってしまったからです。それは、映画館の音量が大きいからなんですが、ギター1本で声ふりしぼっているのを聞けば、実際の現場でもうるさかったのではないかと思えてしまったのです。夜に近所でやられたらたまらんなあ、という感じ。後半、スタジオで録音するときはそれほど感じませんでしたから、やっぱり、人通りのあるところでやられるのはご勘弁です。このあたりは、音楽についての考え方が違うからかもしれません。向こうの人は、何かにつけて自分の歌を歌うということがあるそうですがら、防音装置のついたところでカラオケを歌うのとはわけが違うようです。

とはいえ、この映画は男と女の駆け引き、愛情の有り様を描いた部分がよくできてると思いました。未来にまだ大きな希望をもっている男と、至近距離の小さな幸せを大事に思う女、彼らは出会いと同時に別れの運命をしょっていたのではないかしら。ドラマは二人がお互いに惹かれながら、それでも、手の届かないものを持っていることを知るのです。でも、音楽という場では、お互いのものを共有し、それを男は未来への希望と思い、女はやがて来るを別れを確信するのです。そして、その想いを抑えて、お互いにいい人であろうとします。

二人がデュエットするシーンは映画としても歌としてもぐっとくるものがありました。ギターかき鳴らしているときにはわからなかったメロディラインが、はっきり聞こえてくるからでしょうか。それとも二人の想いが重なるからでしょうか。音楽ネタには弱いので、こういうシーンにはすぐホロリとさせられてしまいます。そして、彼女の家族が出てくるシーン、音楽こそ聴こえませんが、心の中の想いが交錯する様は、感情を出していないのに感じることができます。主演二人はミュージシャンで演技は始めてとのことなので、脚本、監督のジョン・カーニーのうまさなのでしょう。特に、彼の作った曲を彼女が歌詞をつけて、一人彼女が歩きながら歌うシーンは見事でした。長回しで彼女を追うキャメラのうまさもあって、この映画の名シーンの一つになっています。

後半で、彼女はダンナと別居中でまだ離婚しておらず、ダンナはチェコにいるとわかってくるのですが、それでも彼は彼女に想いを告げて、彼女の心を自分に向けさせようとするのですが、残念ながら、彼女の状況では、彼の望みに応えることができないのです。そこにドロドロした愁嘆場はありません。彼女の率直な感情表現と、彼のちょっぴり背伸びしたいい人加減が、ささやかな物語をきれいに着地させてくれます。

この映画では歌が全体の3分の1をしめていまして、歌にも字幕がつくのですが、これが全体に今イチと思えてしまいました。直訳っぽいのですよ。確かに会話の部分はおかしくないのですが、歌詞の部分は歌心のある人が担当したらよかったように思います。

「タロットカード殺人事件」はヒロイン引き立つライトコメディ

新作の「タロットカード殺人事件をTOHO川崎シネマ6で観て来ました。こういうミニシアター系の映画が東京よりもでかい劇場で観られるとはうれしい限り。このところ、シネコンでミニシアター系の映画がよくかかるようになりました。こういう観客の細かいニーズにも応えてくれるシネコンが生き残って欲しいです。

ロンドンのジャーナリズムの女子大生サンドラ(スカーレット・ヨハンソン)の前に、数日前に死んだ新聞記者(イアン・マクシェーン)の幽霊が現れ、今、世間をにぎわわせている「タロットカード連続殺人事件」の犯人は、貴族のピーター(ヒュー・ジャックマン)だと言い出します。自分はもう何もできないから、彼の殺人の証拠を見つけろと。そこでサンドラは居合わせたマジシャンのシドニー(ウッディ・アレン)を巻き込んで、二人でいいとこの親子として、ピーターに接近します。ところが、サンドラは何と、ピーターに惚れてしまい、彼は犯人じゃないと確信します。一方、最初は乗り気ではなかったシドニーがピーターに疑いの目を向け始めるのです。タロットカード殺人事件の犯人は誰なのか、そして二人の運命やいかに。

ウッディ・アレンの新作は「マッチ・ポイント」に続いて、スカーレット・ヨハンソンがヒロインの犯罪からみのお話ですが、「マッチ・ポイント」のようなシニカルな味わいはなく、オフ・ビートのブラックコメディという味わいがある、笑える映画に仕上がっています。そして、単なるストーリーの面白さの付加価値として、ヒロインのヨハンソンをどう魅力的に見せるかということに力を入れてるように見えます。(水着とかめがね萌えとかですね)

オープニングは、死神が見張っている死者の乗るで、そこにいる新聞記者が自分の特ダネに確信を持つところから始まり、船を降りて現世へ舞い戻ってきます。この部分からしても、シリアスさは皆無です。死んだ新聞記者から、今世間を騒がしているタロットカード連続殺人事件の真犯人を名指しされたサンドラが大して驚きもしないで、じゃあ証拠を探そうと動きだすのがおかしいですし。あんまり関わりたくない奇術師のシドニーを無理やり仲間に引きずりこんで、やる気満々です。名前を詐称してピーターに接近しますが、意外やと言うかもっともと言うか、ピーターとサンドラは恋に落ちてしまいます。惚れてしまえばあばたもえくぼ、サンドラの疑惑はどっかへ飛んでしまいます。

一方最初はいやいやだったシドニーが、独自の調査で状況証拠を集めるのですが、どうしても決め手を欠いています。サンドラに警告するのですが、彼女はもう全然事件のことなんか興味失っています。このあたりは素直なコメディになってまして、会話中心に物語を引っ張っていくあたり、お気楽コメディのノリがありました。ところどころに登場する新聞記者の幽霊も、オフビートな笑いを誘います。こいつ、何度も冥土行きの船から飛び降りたんだなあって。


この先は結末に触れていますのでご注意ください。


捜査へのやる気が逆転してしまうシドニーとサンドラ。ここからが、なかなかサスペンスを感じさせるのですが、真犯人の詰めの甘さとか、ヒロインの危機のカットバックを脱力のオチにしちゃうとか、最後まで、コメディの軽さで突っ走ります。ラストは冥土行きの船の中ですからね。リアリティそっちのけですが、これらのファンタジックな部分は特に何かのメタファーではなく、あくまでコメディの駒に使っているのが面白かったです。とにかく、この映画でのサンドラやシドニーの行動に何の必然性もなくって、なんとなく気分の赴くままに事件(?)の中に足を踏み込んでいきますから、巻き込まれ型もないのですね。いわゆる首突っ込み型とでも言うのでしょうか。シリアスにならない軽やかな展開とヒロインの魅力で最後まで楽しませてくれる映画でした。それでも、ミステリーとしてきちんと成り立っているので、うまいなあって感心してしまいます。

ヒロインが際立ってしまった結果、相手役のヒュー・ジャックマンは霞み気味になりました。ミステリアスなキャラなはずなのに、コメディの相手役にしかならなかったのは、ちょっと気の毒な感じです。それでも、映画としては面白いですし、意外(?)な結末を楽しむことができますので、オススメ度は高いです。

「沈黙の激突」は劇場で観られることを喜ぶべき映画?


新作の「沈黙の激突」を銀座シネパトス1で観てきました。ガラガラの場内なんですが、真ん中あたりに座る人と、端っこの席に座る人にはっきり別れているのが面白かったです。私は、前でも後ろでも真ん中がいいので、端っこを好むメンタリティがよくわからなくて。人の好みはいろいろだなあと実感しました。

ベテラン軍人マーシャル(スティーブン・セガール)は兵士の訓練のためにスランスへとやって来ます。訓練の前日の夜、訓練をうける兵士の3人が街に繰り出したのです。彼らはパブで知り合った女の子をホテルの部屋へ連れ込んだのですが、突如豹変した彼女に3人は惨殺されます。マーシャルは相棒のドウェイン(デヴィッド・ケネディ)と共に独自の調査を開始します。死体からCTXというドラッグが発見され、どうも今回の事件の裏には軍の秘密事項が絡んでいるようです。果たしてマーシャルは陰謀を潰すことができるのでしょうか。

スティーブン・セガールも20年以上も主演作が作られているのですから、大したものです。最近はややスケールダウンしてしまっていて、今年は3本の新作を「オヤジの映画祭」と称して、シネパトスで2週間ごとに上映してます。その一作目の「沈黙のステルス」は見逃してしまったのですが、第2弾を劇場で観る事ができました。映画の最初に「Sony HOME ENTERTAIMENT」と出るので、これはアメリカでは劇場公開しない、ビデオでのみ出回ってるのがわかります。アメリカでは劇場で観られない映画を、劇場で観ているというのは、結構贅沢なことなのかも。沈黙シリーズは「沈黙の戦艦」に始まり、要塞、断崖、テロリスト、陰謀、標的、聖戦などなど、どれがどれやらわからない状態なのですが、とりあえずセガールの映画には「沈黙の」をつけて、豊富なボキャブラリーを駆使して、全然、別の映画をあたかもシリーズに見せているのは見事というか節操がないというか。

今回のストーリーを説明するのは、ちょっと難しくて、ものすごく楽な映画です。「CTXというドラッグに人間の攻撃力をアップする効果があって、そういう超人のアジトをセガール率いる軍隊が夜に攻撃して、セガールと後一名しか生き残らない」というお話ですが、細かいところはよくわからないのですよ。監督のミハエル・ケウシュはセガールとは3度組んでいるそうですが、この映画では、敵と味方の各々のシーンをやたらあっち行ったりこっち行ったりするので、観ていて人間関係が混乱しちゃうのですよ。それに、暗いシーンが多かったのもストーリーをわかりにくくしています。

ともあれ、CTXを飲んだり、注射されると、感情が高まると、超人的な能力が出て、マーシャルたちに襲いかかるのです。ギザギザのある特殊ナイフで相手をメッタ切りにしちゃうのですが、このあたりは、ヴァンパイアみたいな味わいがあります。クライマックスは城のような場所での、セガール側のコマンドと、ヴァンパイアもどきの戦いになります。ここが一応のクライマックスになるはずなんですが、暗い中での格闘シーンは何が何だかわからくて、盛り上がらないのです。セガールの殺陣のシーンもあるのですが、これも引きの絵がないので、いつの間にか勝ってるマーシャルに「あれ?」と思ってしまいます。もっとセガールを強そうに見せて欲しかったところです。ともあれ、重装備の兵士とヴァンパイアもどきの戦いはほぼ互角で、両者ともにほとんどやられてしまいます。

敵はCTXなるドラッグを上水場に投げ込んで、多くの市民にCTXを飲ませようとする、というより、実際にやっちゃうのです。刻一刻と拡散していくCTX。果たしてこれを阻止できるのか、というのがサスペンスになるはずなんですが、なぜか、そこんとこを無視したまま映画は終わってしまうのです。ヴァンパイアもどきを全滅させたところで暗転してエンドクレジットがでちゃいます。ひょっとしてこのクレジットの後にエピローグが出るのか期待したのですが、エンドクレジットが終わったら、場内明るくなってしまいました。映画の中で、上水道にドラッグが投げ込まれたと語られ、セガールも「今なら何とかできる」なんて言ってるんだから、何とかしてから映画は終わるはずだと思っていたのですが、はて?

映画としては、B級っぽさが満載でして、最初の殺人が実はアクシデントだったとか、やたら「これは大変なことになる」と言っておきながら、実は大したことも起きない、さらにラストで上水道汚染を無視してしまうあたりは、アクション映画とはいえムチャしてるなあって感じです。脚本にはセガールも加わっているのですが、まるで、予算が足りなくなって、貯水池の見せ場をカットしたとも思えてくるのです。

まあ、この類の映画に目くじら立てるのは、大人のやることではありません(ホントか?)。大きな気持ちでこういう映画でも、セガール主演という理由で劇場で観られることを喜ぶべきなのかもしれません。「ALWAYS 続・三丁目の夕日 」を劇場で観たからって、自慢できないけど、この映画なら、劇場で観たことを自慢できるのではないかと勝手に考えています。そして、オヤジの映画祭第3弾「沈黙の報復」も是非劇場で観ようと決意を固めるのでした。でも、間違っても他人に観ろとオススメできるものではないのがつらいところです。

「ブレイブ・ワン」の結末にはちょっとびっくり、そしてさらにちょっと感心

新作ですが、ちょっと出遅れの感もある「ブレイブ・ワン」を静岡有楽座で観てきました。ここは、傾斜はなだらかですが、スクリーンの位置がぎりぎりの高さで前の人が鑑賞に邪魔にならないようになってします。

ラジオのパーソナリティであるエリカ(ジョディ・フォスター)は、婚約者と公園で夜の散歩としゃれ込んでいました。すると3人組のチンピラが二人に因縁をつけてきて、二人ともボコボコにされてしまい、婚約者は病院で死亡、エリカも重傷を負い、三週間意識不明になります。そして、退院した彼女がまずしたことは拳銃を買うことでした。ある晩、ディスカウント・ストアで買い物中に強盗が来て女店主を射殺。エリカは強盗に見つかり、思わず発砲、相手は死亡します。激しいショックを受けるエリカですが、その後、地下鉄の中で乗客を脅していた二人組に冷静に発砲します。同じ銃が使われたことで、マーサー刑事(テレンス・ハワード)たちが捜査に乗り出します。エリカの番組でもこの事件を扱うことになり、エリカは彼のインタビューを放送するということで、マーサーと知り合いとなります。そしてまたしてもまた、同じ銃を使った事件が発生します。果たしてこの連続殺人は終わりがないのか。それとも、別の選択をエリカを取ることができるのか。

イギリスのニール・ジョーダン監督が、ニューヨークを舞台に描いた人間ドラマです。いわゆる自警市民(自警団の個人版)を扱っていまして、その昔チャールズ・ブロンソンが主演した「狼よさらば」の女性版と言えます。

チンピラ3人に重傷を負わされ、婚約者まで失ったのですから、彼女は精神的に壊れかかります。そこで、なぜ銃を手にするにいたるのですが、どうしてそうなるのかというところはイマイチわかりにくいところがあります。精神的喪失を埋めるためとは考えにくいのですが、ともかく買っちゃったのです。それを使うつもりがあったか、なかったかはっきりしませんが、最初から自警市民になるつもりはなさそうです。でも、コンビ二で正当防衛とは発砲して人の命を奪ってからは、何だか調子こいてしまうのは、彼女はそこで一線を越えたということになるのでしょう。彼女は自分自身を葬ってしまったかのように、平然と人を殺せるようになっていきます。

そして、エリカは、自分が起こした事件を担当するマーサー刑事と知り合いになります。マーサー刑事はいわゆるマジメな警官であり、ちょっと堅物なところもあって、あくまで殺人は犯罪であり、それは法の下に裁かれなければならないと思っています。そんな彼にちょっと心が揺らぐエリカですが、自分のしていることに恐れながらもいつしか虜になっている彼女がいるのです。一方で、マーサーは彼女に連続殺人犯の横顔を感じ始めるのです。彼女には、親しい友人がいないようですが、マーサーには少しだけ心を許して見せるのが面白いと思いました。まあ、自分の事件を担当している刑事という好奇心もあるのですが、それ以上の信頼を感じていくところがラストへ向けての伏線となります。


この先は結末に触れていますのでご注意ください。


彼女の連続殺人が、世の中では悪党を殺したからという理由で、ある程度の支持を受けているのです。いわゆる街のゴミを退治してくれるというのですが、これは「狼よさらば」の頃ならある程度受け入れやすいものだったと思います。9.11からイラク戦争を起こしたアメリカで、あの戦争は暴挙であったと認められるご時世ですから、こういう法規を無視した正義というものに疑問が投げかけられるようになりました。にもかかわらず、無法地帯で銃による正義であるとか、無能な警察の代わりに悪をやっつけているという感情は、持ちにくくなっていると思いました。正義による処刑ではなく、憎悪による殺人と思う人が多くなっているのではないでしょうか。私としては、そう思いたいところがあります。イラク戦争が復讐という憎悪によって始められたこと、実はそれは正義でも何でもなかったということを、アメリカ市民は学んでいると思いたいのです。

じゃあ、この映画にどういう結末をつけるのかというと、結末で思いも寄らないドラマの軸の変換が行われていて、びっくりしつつ感心してしまいました。エリカは婚約者を殺した犯人の一人の居場所を見つけて復讐に出かけます。エリカからのメイルを受け取り、マーサーも駆けつけるのですが、その時、彼女は二人を射殺し、最後の一人に銃口を向けていたのです。驚いたことに、マーサーはエリカに最後の殺人を許し、そして自分もわざと銃弾を受けて、自分のやったことにして、エリカを逃がそうとするのです。そんなことをするのは、彼女に正義を感じたからではなく、惚れた女への愛情表現になっているのです。ひぇー、正義と悪の葛藤が、愛と復讐のメロドラマになっているのです。

言い方を代えれば、メインの題材を放棄した、あるいは逃げたとも言えます。こんな結末になるとは思ってもみませんでしたが、うまいことやったなあって感心もしました。ドタンバでヒロインを人間に引き戻したとも言えます。まだ彼女の中には、憎悪に満ちた自分以外の誰かが居続けているのですが、それもマーサーによってこれから癒されるのではないかという予感で映画は終わります。まあ、その分、自警市民の是非は棚上げされてしまいましたから、ドラマとしては微妙なところかもしれません。

この映画では、ジョディ・フォスターのアップが多いのですが、彼女の演技はそのアップに耐えて、色々な顔を見せてくれます。婚約者を失ったときの絶望感から、銃で人を殺したときにちょっとだけ見える満足感など、彼女の演技によって、血の通った冷血漢を作りあげています。

「ディスタービア」は観たタイミング悪くて、ちょっと辛めになっちゃいました

新作の「ディスタービア」を静岡ピカデリー2で観てきました。相変わらず、奥まった画面の映画館ですが、観やすいグッドポジションが意外とたくさんある映画館です。

ケール(シャイア・ラブーフ)は父親と魚つりに行った帰り道で交通事故に遭い、父親だけが死んでしまいました。それから1年後、学校でトラブルを起こしたケールは、3ヶ月の自宅謹慎命令を受けてしまいます。彼の足には発信機が付けられ、家の中心から半径30メートル以上離れるとアラームが鳴り、10秒以内に戻らないと警官がパトカーでやってくるという仕掛けほとんど身動きが取れぬ状態。自宅でくさっていたケールですが、隣にかわいい女の子が引っ越してきたのをきっかけにご近所覗きに目覚めてしまいます。このあたりでは、若い女性が行方不明になる事件が頻発していたのですが、ある夜、裏手のターナー(デヴィッド・モース)が若い女性を連れ込んでいるのに気付きます。そして、彼の手に包丁があったことから、彼が連続殺人犯ではないかと疑い始めます。友人のロニーと隣のかわいい子アシュリー(サラ・ローマー)を巻き込んで、ターナーの身辺調査を始めるのですが、果たしてターナーの正体は?

D・J・カルーソ監督が「トランスフォーマー」の主演シャイア・ラブーフを使って作り上げたサスペンスホラーの一品です。題名のディスタービアから推測できるように、「覗き」を扱ったものということ、さらに主人公が家から30メートル以上動けないというと、どうしても「裏窓」を思い出してしまうのですが、今回はティーンが主人公というということもあって、軽いタッチの仕上がりになっています。前半は主人公が家からあまり離れられないという状況をコミカルに見せます。覗きの楽しみを覚えたケールは、双眼鏡とビデオカメラで武装して友人ロニーを巻き込んでしまいます。ヒロインが主人公の家にやってくるのも、何でそうでるの?というべきノリの軽さがあり、そのノリは、中盤まで続くので、この映画はどこへ行くんだろうと思ってしまいました。しかし、ターナーが主人公の目の前に現れるところあたりから、やっとサスペンスらしき展開になります。

ターナーが主人公の母親に接触してきたことで、ケールは気が気ではありませんが、ターナーが殺人者であるという証拠はないことから、それを母親には説明できません。ロニーやアシュリーを使って証拠をつかもうとするのですが、尾行していたアシュリーの車に乗り込んできて、要らぬ詮索はやめろと脅されてしまいます。D・J・カルーソはショック演出を避けているように見えたのですが、映画としての展開が遅いのか、なかなか本題に入らないなあという印象が残りました。


この先は結末に触れますのでご注意ください。(とはいえ、全然意外じゃない展開です。)


ケールとロニーは再度、ターナーの家に証拠を見つけようとしますが、ターナーの家に入ったロニーが行方不明になり、ケールはターナーのところに越境したせいで、パトカーが来て騒ぎになってしまいます。ケールはターナーが死体を隠していると警官にも伝えるのですが、家の中を調査した結果、見つかったのは鹿の死体だけでした。ケールにすればますます怪しいターナーなのですが、ケールは越境のことで母親に大目玉をくらってしまいます。そして、母親が起訴しないようにお願いに行ってるとき、ロニーが、ターナーの家に入ったときに撮影したビデオに一瞬死体が映っているのを発見し、母親の身を案じてターナーの家に入り込みます。そこからはデヴィッド・モースが本領を発揮して強くて悪い殺人鬼ぶりを見せてくれるのですが、ここの詰めの部分で盛り上がりかけるのですが、何かこう、ハズしてるんじゃない?と突っ込みを入れたくなりました。

これまで割とのんびり展開だったのが、急に話が勢いづくのはいいとしても、ターナーの行動が説得力ないのですよ。一人で関係者皆殺しにしようというのも成功率は高そうもないし、警官を殺す必然性が感じられず、何だかありがちな自爆路線をつっぱしって行くのです。主人公をいつでも殺せる状態にしておいて、自分のプランをえんえんと話すシーンは2時間ドラマと大差ありません。そもそもここまでのドラマの展開で、主人公の父親の死がまるっきり伏線になっていませんし、何のための冒頭のシーンがあるのかわかりません。

デヴィッド・モースは善玉、悪玉両方とも演じられる名優ではあるのですが、今回はクライマックスの行動のドタバタが、彼の演技力をしてもカバーできなかったというところでしょうか。ケールとロニーとアシュリーは軽いノリの部分がなかなかよかったのですが、その部分、つまり前半がラストで何の伏線になっていないというのが惜しいと思いました。色々な事件が各々に関連していないので、行き当たりばったりの印象を与えてしまいます。「テイキング・ライブス」ではいいところを見せていたカルーソの演出ですが、ドラマの縦(時系列)のつながりがうまくまわっていないのが残念でした。せっかくの行動範囲の限定も、それを越境して警察を呼ぶのにしか使えていないのが、ウーンという感じだし。

全体としては、前半がノンビリしているので、そこを笑えて、クライマックスを疑問をはさまずに怖がれることができるできれば、OKだと思います。ちょっとボロクソ書いちゃいましたけど、一応の標準点には達している映画だと思います。「ボーン・アルティメイタム」の直後に観たもので、その分、アラが目立ってしまったのかもしれません。

「ボーン・アルティメイタム」は見せ場たっぷり見応えいっぱい

新作の「ボーン・アルティメイタム」を初日の静岡オリオン座で観てきました。最近のシネコンとは一味違う、大劇場の構えと、大スクリーンがうれしい映画館です。

モスクワで追っ手から逃れたジェイソン・ボーン(マット・デイモン)は、ロンドンへと飛び、ガーディアン紙に「トレッドストーン計画」に関する記事を書いた記者に接触しようとします。しかし、CIAも記者を追っていて、何とか接触はとれたものの、記者は暗殺要員によって殺されてしまいます。ボーンは記者の言葉から情報提供者がマドリッドのCIA支局長であることを知り、彼を追ってモロッコへ飛びますが、そこでも暗殺者の手が回って、支局長が爆死したことから、彼は一路CIA本部のニューヨークへと飛び、CIAの内部調査局長パメラ(ジョアン・アレン)に電話をしてきます。どうやら、パメラはボーンの味方のようです。そして、彼女から、自分の本名ととある場所の情報をもらい、そこへ向かうボーン、そこには彼から失われた記憶のピースがあったのです。彼の過去とは? そして、彼は生き残れるか。

「ボーン・アイデンティティ」「ボーン・スプレマシー」に続く、ボーンシリーズの最終章です。監督は前作のポール・グリーングラスが担当しました。時系列的に言うと、前作のラストより、時間を遡ったところから話が始まります。映画の終盤になって、前作のラストが登場するわけですが、きちんと前作とのリンクが取れているのは、脚本のうまさでしょうか。そして、何より面白く仕上がっているのは、演出によるものでしょう。冒頭から中盤までは、ほとんど追跡シーンだけて成り立っていると言ってよく、ストーリーを追うよりも、ハラハラドキドキを楽しむことができます。特にCIAの追っ手を煙にまこうとして、記者とボーンが携帯電話で会話しながら駅の雑踏をあっちこっち動きまわるシーンは見事なサスペンスになっています。

今回のボーンはその存在が危険視されて、CIAに追われる立場になります。前作の流れから彼の行動に共感を持ち始めたパメラですが、その一方で、対テロ調査局長ノア・ヴォーゼン(デビッド・ストラザーン)は、ボーンを執拗に追跡し、見つけ次第射殺すべく、暗殺要員にも指令を出していたのです。CIAの通常部隊と暗殺要員の両方から狙われることになって、ボーンはますます窮地に立たされます。しかし、後方支援部員ニッキー(ジュリア・スタイルズ)が彼のために動いてくれます。前作でひどい目に遭ったニッキーなので、成り行きとは言え、ここでボーンに寝返るのは、「???」と言う気もするのですが、なんとなくこういうのも有りかなという気がしてくるのです。

パメラやニッキーといった女性だけがボーンの味方になるのは、ちょっと面白いと思いました。要は自分の仕事に忠実でないってことなんですが、これって男社会にいる疎外感なのかもしれません。一方で対照的にひたすら命令に従うだけの暗殺要員ですが、彼も最後のドタンバでボーンを撃つことにためらいを示します。何も知らないで命令者の指令のまま人を殺していくことに対して、「それはおかしいだろう」という視点がこのシリーズにずっと流れているのです。そして、めったやたらには人を殺さないボーンの行動にも表れており、組織(CIA)の行動の理不尽さが際立つ作りになっているのはなかなか面白いと思いました。

一方で、男性陣は組織のしがらみに絡みとられていて、自分の行動が誰のどういう動機で行われているのかを理解できないままです。今回は、ボーンが参加していたトレッドストーン作戦の黒幕となるポジションを、スコット・グレンやアルバート・フィニーといった名優陣が演じているのですが、彼らでさえ、マット・デイモンやジュリア・スタイルズほどにキャラクターが感じられませんでした。ほとんど表情を変えないボーンのキャラクターを立てる演出がうまかったのかもしれませんが、一方の敵役を悪の大物という見せ方をしていないのが意外でした。まあ、全体的にアクション重視で、ドラマチックな演出はボーンの周囲でしか起こらないので、脇のキャラが引き立ちにくかったのかもしれません。

こういう組織対個人のドラマはこれまでにも幾つも作られているのですが、この映画は主人公が追われる立場であり、追われる一方で失われた記憶と自分を取り戻そうとしているという点が目新しく、攻めと守りの立場が要所要所で入れ替わると面白さがあります。また、組織がずばりCIAであり、そのトップまでが悪行に加担しているという設定で、いわゆる内部告発モノという側面があります。そういうややこしい設定をうまく見せ場のつなぎで、さばききった演出は見事だと思いました。

この映画の格闘シーンや追跡シーンは細かくカットを割っているのですが、リアルな迫力があるものの、グリーングラス監督の前作「ユナイテッド93」と同じく、俯瞰カット以外は、手持ちカメラで寄る撮影(撮影監督オリバー・ウッド)が多いので、大画面と向きあうと画面揺れまくりとなって、何が何だかわからないところも出てきます。また、全三作を通して音楽を担当しているジョン・パウエルが今回もサスエンスを盛り上げるに徹した音作りで、派手なアクションの縁の下の力持ちとなっていました。

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einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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