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映画の情報はチラシからも(その2)




この前の映画館のチラシは映画館側で作っていると思われるものを取り上げてみたのですが、一方で配給側が、二本立てを前提にして作ったと思しきチラシもあります。今や、二本立て興行は名画座でしか行われないようになりまして、こういう二本立てチラシは作られなくなってしまいました。その中では「ハリケーン」と「トゥモロー」の二本立ては、覚えている方が少ないのではないかしら。「ハリケーン」は、ミア・ファロー扮する人妻が南の島で若者と恋に落ちるというお話。で、同時上映の「トゥモロー」はオリビア・ニュートン・ジョンを含む4人組のバンドのお話。このチラシを見つけるまで、こんな映画を観たことすら忘れていたのですが、これらは確かに映画館で観ました。でも、テレビ放映された記憶もなければ、ビデオ化されたという話も聞きません。ホントに劇場公開だけでしか観られない映画というのも、今は珍しくなりました。劇場公開をビデオの販売宣伝に使うこともある今とはずいぶんと違う趣があります。

「ポルターガイスト」と「キャット・ピープル」の二本立ては配給元の作ったチラシだと思って間違いないでしょう。どちらにも、ドルビーステレオのロゴがついていますが、この二本立てを上映した当時のミラノではドルビーステレオの再生装置はありませんでした。「ポルターガイスト」は磁気4チャンネルステレオ、「キャット・ピープル」はモノラルでの上映でした。

これらのチラシが作られるということは、地方での二本立て上映では、その番組はほぼ決まっていたということになります。しかし、地方でも、県庁所在地から離れたところでは、その組み合わせはかなり自由度があったように思います。大体、静岡で二本立てをする場合、同じ配給会社の映画で番組を組んでいましたから、こういうチラシを置いておくことに意味があったのだでしょう。今は見られなくなったチラシですが、よく見ると、映画雑誌「スクリーン」や「ロードショー」の折込口絵の映画広告がこんな感じだったです。

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「アフター・ウェディング」は面白くて、考えさせる映画

東京では昨年(2007年)に封切られた「アフター・ウエディング」を横浜シネマベティで観てきました。こういうラインナップを並べて、「東京で見逃しても横浜がある」という名画座になってくれるとうれしいのですが。(後、前売り券も売って欲しいのですが。)

インドの貧困地帯で孤児院の先生をしているヤコブ(マッツ・ミケルセン)にデンマークにスポンサーになってくれそうな金持ちがいるので、是非会いにいけということになります。確かに今のままでは孤児院は閉鎖されてしまう状況で、気が進まないながら、自分の母国へと向かいます。一代で財を築いたヨルゲン(ロルフ・ラッセゴード)はインドへの投資を即決しないで、翌日の娘アナ(スティーネ・フィッシャー・クリステンセン)の結婚式に彼を招きました。そこでヤコブはヨルゲンの妻ヘレナ(シセ・バベット・クヌッセン)と顔を合わせます。二人は再会に驚きます。ヤコブとヘレナは20年前恋人同士だったのです。そして、アナはスピーチでヨルゲンが実の父親ではないことを告白します。ヤコブとヘレナが20年前に別れたときにヘレナのお腹にはアナがいたのです。アナは実の父ヤコブを知るところになり、母娘の関係は微妙なものとなります。ヤコブもヘレナも心の整理がつかないでいるところに、ヨルゲンは投資について意外な提案をしてくるのでした。

「ある愛の風景」のスサンネ・ビア監督作品で、2007年アカデミー外国語映画賞にノミネートされ、今度はハリウッドで映画を撮ることになったそうです。この映画もヘビーな見応えのある人間ドラマでした。

オープニングはインドの貧民街、そこで孤児院の教師をしているヤコブはスポンサーに会いに行かなくてはならなくなり、子供たちに別れを告げて故国デンマークへと旅立ちます。資料や孤児院のビデオを携えて、ヨルゲンのオフィスを訪れます。出資については判断を先送りするヨルゲンですが、娘の結婚式に彼を招きます。そこで、かつての恋人と遭遇する何たる偶然、しかも娘の実の父はヨルゲンではないという、年を遡れば、実の父はヤコブってことになっちゃいます。妻エレナの動揺に気付くヨルゲンですが、彼は事態を静観します。ヤコブはエレナのところに押しかけてきて、全てが、アナの知るところとなります。日本だと産みの親より育ての親というところがありますから、ヤコブが実の親でも簡単にそれを伝えはしないだろうと思いますが、ここでは、その秘密があっけらかんと披露されてしまいます。ここで母親のヘレナが悪し様に言われるのですが、ここもピンときませんでした。家族の構造が日本とは違っているようです。隠し事があったことは周知の事実で、たまたま結婚式に実の父親がいたというだけなのですから、それを冷静に眺めれば、誰も責められないと思うのですが、何でそんなに気まずくなっちゃうのって感じでした。

そして、母親に不信感を持ったアナは、自分で実の父ヤコブに会いに行くのでした。ぎこちない父と子の関係はいい方向へ向かいつつありました。一方で、ヨルゲンはヤコブに予想以上の金額を提示してきます。単なる投資ではなく、基金を設立したい、それも、ヤコブとアナの名前をつけて。お金が入ることは、ヤコブ、ひいては孤児院への朗報なのではあるのですが、突然の申し出に何か裏があるのではないかと、ヤコブはヘレナを問い詰めるのですが、ヘレナも夫の真意に思い当たることがありませんでした。このあたりから、物語はミステリアスな色彩を帯びてきます。ヤコブの存在を厭う様子もなく、ヘレナを責めるわけでもない、ヨルゲンは何を考えているのでしょう。ヤコブはヨルゲンの申し出を素直に受けいれることができないまま、滞在が延びてしまい、孤児院の子供と約束していた誕生日までに帰ることができなくなります。この子供プラモドは、ヤコブが赤ん坊の頃から育ててきて、自分の子供のようにかわいがっていたのです。

登場シーンは孤児院の維持のためにがんばるキャラだったヤコブで、そのスタンスでヨルゲンに接するのですが、自分の実の娘の存在がわかると、孤児院の話なんかすっ飛んでしまって、ヘレナを責めたり、どうもかっこよくありません。人の中には色々な顔があるということなのでしょうが、エレナを責めるヤコブの姿から、20年前の彼が浮かび上がってくるのです。そのころは、どの女とも寝て、クスリにも手を出していたとんでもない野郎だったことがわかってくるのですが、それが、いつから孤児院のために奔走するようになるのかは、映画では語られません。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ヨルゲンからの基金設立の契約書を読んでいたヤコブは、そこに自分がデンマークに留まることが条件になっているのを知ります。自分は、金づるをつかんだら即インドへ帰るつもりだったのですが、これではそれができなくなります。ヨルゲンは、その条件がのめないのであれば、金は出ない、孤児院も閉鎖だと冷酷に告げます。このあたりでヨルゲンが何か考えていることがわかります。ヨルゲンはガンで余命いくばくもなく、後に残った家族のためにヤコブを呼び寄せたのです。全ては彼の思惑通りに進みました。そして、孤児院の閉鎖を考えるとヤコブもヨルゲンの申し出を断ることができなかったのです。結局、ヤコブはデンマークに留まることを条件にインドの孤児たちのための援助基金を立ち上げることに成功します。

ヨルゲンは自分の余命があまりないことを知り、家族に何を残せるのかを考えた上でのことでした。それは一つの賭けではあったのですが、彼はヤコブが家族を託すに値する人間だと思えたようです。それとも、彼にとってヤコブしかいなかったのかもしれません。映画の前半であまり感情を表に出さないので、ヨルゲンが何を考えていたのかまでは読み取れないのですが、妻の元恋人に全てを託そうと決心するまでには相当な葛藤があったと思います。そして、それがうまく行った後、初めて妻の前で「死ぬのは怖い、死にたくない」と号泣します。ここまでしまっておいた感情をほとばしらせるシーンで、観ていてぐっと来るもがありました。やっと、自分の事と向き合えるようになったという印象でした。

ヨルゲンの号泣シーンの次のカットではもう葬式のシーンになっていて、これから、ヘレナとその子供たちの後見人になっていくヤコブの姿がありました。しかし、映画はここで終わりません。改築中の孤児院を訪れたヤコブは、プラモドに向かって「私と一緒にデンマークへ来ないか」と話しかけるのですが、それに対して家族同然であった筈のプラモドは「やっぱり自分はここがいい」と言います。単に環境が変わることを怖れているのではなく、毅然として、そう言い切る姿に、もう一つの家族の姿が見えてきます。結婚式の後、何もかもが変わっていった、誰もがみんな何かを失っていった、でも、未来への希望の灯は消えていないことを、この映画はさりげなく語っているように思います。スサンネ・ビアの演出は多くを語り過ぎない抑制したタッチで最後まで通しています。ですから、観る人によって、まるで違う受け取り方をする映画だと思います。再会した恋人たち、実の子ではない娘、突然現れた実の父、余命いくばくもない中での家族への想い、などなど色々な切り口を持った映画ですが、そのどれもがきっちりと作られている一方、如何様にも解釈できるところがこの映画の面白いところです。

「潜水服は蝶の夢を見る」は感動とか泣かせとは異質な味わい

新作の「潜水服は蝶の夢を見る」を川崎チネチッタ2で観てきました。

病室で彼は目を覚ましました。意識はあるのだが声が出ない。彼は雑誌の編集長であったジャン・ドゥ(マチュー・アマルリック)。脳梗塞で全身が麻痺していて唯一動いてくれるのは左目だけ。そして病院内でのリハビリが始まり、目を動かすだけの意思表示によって、YES/NOだけでなく。アルファベットと読みながら、該当する文字で目を閉じることで文章も作ることができます。彼は、以前交わした書店との契約を履行するという口実で本を書き始めます。彼には恋人や元妻や子供たちがいて、それなりの接し方をしてくれます。でも、潜水服で海に沈められたかのように身動きができない彼は、世界中を飛び回る蝶になることを夢見ているのです。

脳梗塞で全身麻痺となった実在の男性の物語だそうです。「バスキア」などで知られるジュリアン・シュナーベルが監督しました。オープニングはずっと彼の視点(固定されていて、時々ぶれる)から撮られているので、何だか閉所恐怖症になりそうな画面です。自分を覗きこむ医師や看護師の目、視線の先に見えるものは限られています。彼の視点になると、こんなにも心細いものなのかというのがひしひしと感じられます。瞼が閉じない右目は文字通り縫い潰されてしまうのですが、そのシーンの怖さ。これらのシーンには、ジャン・ドゥのモノローグがかぶさるので、ユーモラスな味わいが加えてあるのですが、それでも、左目しかない主人公にとっての外界はあんな狭くて心細いものなんだなあっていうのが発見でもありました。

そんな彼でも意思疎通はできます。「はい」なら一度瞬き、「いいえ」なら二度瞬くというお約束で、二択は可能となり、使用頻度順に並べられたアルファベットを読み上げて、該当する文字で瞬きすると、そこで一字拾い出し、また最初から読み上げて、瞬きしたら、その文字を拾ってつなげていくという作業を繰り返していくことで、文章が出来上がるという、気の遠くなるような作業を繰り返して、1冊の本がつくられていきます。電話も、同じことを繰り返すことで、会話ができるのだそうです。

映画は主人公から見える世界と、回想と想像によって成り立っているのですが、物語といったものは特になく、小さなエピソードの積み重ねで時間が流れていくという印象でした。主人公に会いにくる友人、元妻、子供たちなどが訪ねてきます。でも、それらに対して、彼はあまり心動かされることはないようですが、父親からの電話と恋人からの電話には、感情が揺らいだように見えます。回想シーンで彼が身動きできなくなる前が描かれるのですが、そこには、バリバリの編集者としての華やいだ人生が垣間見えます。全身麻痺になってからの彼は、華が消えたようなものですが、ユーモアを交えたモノローグは思考が活発になっていることが伺えます。しかし、シュナーベルの演出は、彼の病状の悲惨さを直接見せることはしていません。父親や恋人の彼に対する態度で、彼の状況の悲惨さが間接的に示されるのですが、そこで涙を誘う演出にはなっていませんでした。むしろ、うっときたのは、主人公からの聞き取りのために、何度もアルファベットを繰り返すシーンのモンタージュでした。1冊の本をつくるために、何回アルファベットを読んだのか、これは主人公よりも、書き取りをする女性の忍耐のほうに感動しちゃいました。

全体としてはコミカルな味わいもあり、泣かせるシーンや「主人公カワイソー」という描写はあまりない、不思議な味わいの映画になりました。全身麻痺となった、ジャン・ドゥを客観的に描写するシーンが少なくて、彼を通して見える世界の描写が中心だからでしょうか。そぅいう描き方をすることで、彼は自分の世界の中で自由に飛び回っているように見えます。また、外界の誰かに特別な感情を示すシーンが少なく、あっても電話での会話によるものなので、湿っぽい印象が残らないようになっています。結果、病気による泣かせ映画にはなっていません。その分、とんでもない状況に追い込まれた主人公の葛藤といったものもあまり出てきません。瞬きで文章を最初に作ったとき「死にたい」と書くシーンくらいでしょうか。また、この病状に苛立って、誰かに対して怒りをぶつけるというシーンもありません。せいぜい、テレビを消していってしまう看護師に一人突っ込みを入れるのが関の山です。主人公が冷静に現状に向かっているせいでしょうか。観ているこちらも感動の涙というよりは、人間の可能性に思いが行く展開になっています。ですから、ラストも決して暗くならない演出は見事だと思います。

主演のマチュー・アルマリックは、全身麻痺になった後の片目だけの演技が凄み(なのかな)ありました。脇の女性陣が見たことある顔が多くて「フランティック」のエマニュエル・セニエ、「燈台守の恋」のアンヌ・コンシニ、「Mr.ビーン カンヌで大迷惑」のヒロイン、エマ・ド・コーヌなど、なかなか個性的な美形がそろっていました。

「アイ・アム・レジェンド」の原版「地球最後の男」はマジ面白い

なんだかんだと言ってるうちに「アイ・アム・レジェンド」を観る機会を逸してしまったのですが、DVDで同じ原作の最初の映画化「地球最後の男」のDVDをゲットできました。定価で1枚780円という値段なら映画観るより安いというところで。

ロバート(ヴィンセント・プライス)は一人で朝目覚めてコーヒーを飲み、木の杭を削り、家の周りにある死体を片付けて焼却し、建物の影にいる連中に杭を打ち込んでいきます。3年前、世界中に蔓延した病気は、対処方法がなく、失明して死に至るものでした、さらにやっかいなことに一度死んだ人間が吸血鬼として甦ってくるのです。光、鏡やにんにくを嫌う吸血鬼たちが毎晩ロバートの家にやってきます。ロバートはなぜかこの病気のビールスに抗体があるらしく、今やたった一人で、家の周りに鏡やにんにくを置いて、毎晩やってくる吸血鬼に備え、昼のうち行動できない吸血鬼たちと木の杭で殺して回っていたのです。そんなある日、彼は街中で金属のヤリで殺されている吸血鬼を発見しました。彼以外の人間がいるのかと思った時、昼間なのに外を歩いている若い女を発見し、自分の家に連れていきます。ロバートは本当に地球最後の男だったのでしょうか。

40年前のモノクロ映画で、それほどお金がかかっているようにも思えない映画ですが、SFとして大変面白い作品でした。センスの良さで見せる作品だと言えます。主人公の1日の行動を見せて、そこから回想シーンとなり、彼はもともと科学者で、細菌の研究者であることがわかってきます。彼の研究所でもその細菌を殺す方法を見つけることができないうちに、彼の妻と子を細菌による病気で失ってしまいます。地球の危機を主人公一家と研究所だけで見せてしまうのは脚本のうまさでしょうか。病原菌に命を奪われた死体は全て焼却されるのです。このあたりをテンポよく語っていく演出がうまいと思いました。また、毎晩主人公の家のまわりにやってくる吸血鬼の描写はゾンビそのもので、死者メイクや、手を前に突き出した動きの鈍さも含めて、ジョージ・A・ロメロの「生きる屍の夜」「ゾンビ」に先んじて、ゾンビ演出を見せているは驚きでした。朝になると、日の出の前に逃げそこなった吸血鬼の死体が転がっているというのも不気味なビジュアルでした。

そして、一人生き残ってしまったロバートは、朝は発電機をチェックし、昼は街の中で眠っている吸血鬼に木の杭を打ち込み、夜は家の前で彼の名を呼びながら死から甦った吸血鬼が徘徊するのを聞いて眠るのです。そんな毎日を3年も続けてきた彼は、どこかに誰か生存者がいるのではないか、という希望もそろそろあきらめが来ています。主人公が異常な状況下で孤独な日々を送っているのを淡々と見せていきます。

しかし、生きている犬を発見してその後を追ったロバートは若い女性を見つけます。発病していない人間がいたということになり、ロバートは彼女を家に連れていきます。彼女の言動は何かはっきりしないところがあります。彼女は3年もどこにいたのでしょう。この先、原題の「地球最後の男」原作の題名「アイ・アム・レジェンド」がドラマの展開に皮肉な味わいを持って効いてくるのです。


この先は結末に触れますのでご注意下さい。(「アイ・アム・レジェンド」と結末が違うのかな)


彼女は特殊な血清をうって、一時的に日光の下に出歩けるようになったのですが、実は病原菌の感染者だったのです。病原菌におかされた人間の中で死なずにいた人間がたくさんいて、一つのコミュニティを作っていたのです。その人々はゾンビにならないながら、日光やにんにく、鏡を嫌うのです。そのコミュニティの中で、ロバートは昼間に出歩いて、ゾンビだけでなく、彼らの仲間にも木の杭をうって殺している伝説の男だったのです。武装した感染者の制服部隊が、ロバートの家にやってきます。彼らはロバートを目当てにやってきたゾンビたちに金属の槍を打って息の根を止め、さらにロバートを追ってきます。教会の聖壇に追い詰められたロバートは槍を打ち込まれて絶命します。

彼の最後の言葉は「私はそんなに恐れられていたのか」で、ここで、正常と異常の立場の逆転が、明確に表に出てきます。そして、ロバートの最後の言葉を聞き取った女は教会にやってきた子供連れに向かって「もう、これで安心できるわ。」と語りかけてエンド・マークとなります。病原菌から一人感染しなかった男が、感染しないことによって異端者になってしまうという皮肉な結末を必要最低限のセリフで説明してしまう見事な脚本だったと思います。彼は、本当に地球最後の男であり、伝説であったのです。そして、そのことが、彼を異端者として排斥してしまう結末は見事と言うほかありません。オープニングとラストでマジョニティとマイノリティの関係が逆転しているという構成は、「うーん、やられた」と思いました。非情とも思える結末のようで、これは感染者たちからすればハッピーエンドですもの。よく出来た短編小説を読む面白さのある脚本をシドニー・サルコウの演出は無駄のないテンポで一時間半にまとめあげていました。モノクロ画面であっても、古さを感じさせないものがありました。

「ある愛の風景」という薄っぺらな邦題はなんとかならなかったか

東京では、昨年(2007年)封切られた「ある愛の風景」を横浜シネマベティで観てきました。邦題はいかにも、渋谷ミニシアター系単語を3つ並べましたってのが見え見え。でも、原題も「Brothers」で映画の内容とリンクしてないような。

デンマーク兵士ミカエル(ウルリッヒ・トムセン)は妻サラ(コニー・ニールセン)とかわいい娘が2人。アフガニンスタンへ派遣される日に、弟ヤニック(ニコライー・ニー・コス)が刑務所から帰ってきました。銀行強盗をして服役していたのです。そして、戦地でミカエルの乗ったヘリが爆破墜落したというニュースがきまる。夫の死を乗り越えようとするサラですが、ヤニックが心の支えになってお互いにいい関係になりかけるところを二人が自重しあっていると、死んだはすのミカエルが捕虜収容所で救出されたという知らせがきます。帰国したミカエルですが、サラとヤニックの仲を邪推したり、娘にはつらくあたったりと、以前の彼とはどこか違うのです。何かが彼の心を閉ざしているようなのですが、妻にも語ろうとはしないのでした。

デンマークのスザンネ・ビア監督が共同原案も担当しました。サンダンス映画祭やボストン映画祭、ハンブルグ映画祭などで、賞をとっている作品です。ミカエルが死んだものとして葬り、悲しみを乗り越えて新しい人生を歩みだそうとします。夫を失った寂しさからヤニックと唇を重ねてしまうのですが、それ以上の関係にならないようにお互いに自重しています。娘たちはだんだんとヤニックになついていき、そこには望ましい関係が積み重ねているように見えました。しかし、そこにミカエルが生還してくるのですが、以前と打って変わった様子に娘たちも怖がって父親を避けるようになってしまいます。サラはアフガニスタンで何かあったのだろうと察するのですが、そのことをミカエルは語ろうとはせず、挙句の果てに家中めちゃくちゃにして、サラや娘に殺すと煽りたて、駆けつけた警察に対して銃を向ける始末です。もう、サラや娘たちにはミカエルを救うことはできないように見えます。


この先は結末に触れますのでご注意下さい。


アフガニスタンで何があったのか、映画の中では回想シーンではなく、デンマークでの妻子の様子と並行して、ミカエルがどんな目に遭ったのかが描かれています。もとは、行方不明の通信技師を救出に向かったヘリが撃墜され、ミカエルだけが生き残り、アルカイダの捕虜となって連れて行かれた陣地で、通信技師と同じ部屋に閉じ込められます。そして、何日かして、二人は表に引きずり出され、ミカエルに無線技師を殺すように鉄パイプを渡されます。最初は拒否していたミカエルですが、頭に銃口を突きつけられ、彼の中で何かが壊れてしまいます。気狂いのような叫び声をあげながら、ミカエルは技師を撲殺しています。このシーンは恐怖の極限を描写していまして、リアルで生理的な怖さを直接運んでくるのです。これを見せられると、後のシーンのミカエルの出てくるシーンが全て痛く感じさせるほどインパクトありました。

ミカエルはそのおぞましい事実を誰にも伝えることもなく、赦されることもなく、ずっと自分の中に持ち続けていたのです。彼は罪の意識が人一倍強く、弟の強盗の被害者へも自ら謝罪にいっていたのです。自分のやったことを赦せないのに、誰からの非難も赦しを得ることができない八方塞の状態で、ミカエルはついに壊れてしまい、警察官に拳銃を向けて、撃ってみろと挑発するのですが、結局は警察に取り押さえれて、刑務所に入れられてしまいます。でも、結局、アフガニスタンでのことは、誰にも語れないままです。そのままで終わっちゃうのかなと思っていると、最後で救われることになります。ミカエルに面会にやってきたサラは、彼に全てを話すことを迫ります。話さないのなら、もう会わないという宣言に対して、ミカエルは嗚咽の中から、彼の物語を語り始めるのです。妻の愛情がミカエルに心の重い扉を開くところが感動的なのですが、それでも、彼のやったことに、どう赦しを与えていいのかまで映画は語ってくれません。ただし、妻に告白することによって、彼の罪を、一人でなく夫婦で背負うのだろうことを感じさせる結末でした。しかし、ミカエルのようなことをやらされた人間はもっといるのではないかという思わせるものがありました。

スザンネ・ビアの演出は、要所要所を省略していまして、この先は観客がわかるだろうという部分をカットしているのが印象的でした。コニー・ニールセンは、ハリウッド女優かと思っていたのですが、デンマーク人だったのが意外でしたが、強さと弱さの両面を出す演技が見事でした。予告編をみたときにはサラ、ミカエル、ヤニックの三角関係を描いたドラマを予想していたのですが、実際に観てみると三角関係より、ミカエルがどうやって人間に戻っていくのかを描いて、思っていた以上にヘビーで見応えのあるドラマでした。

昔の映画情報はチラシからも




昔の話ですが、映画の情報を得るためには、ポスターを見る、新聞の映画広告を見る、テレビの「映画だより」で予告編を見る、そしてもう一つ、映画館のチラシを見るというのがあります。私が中学生の頃、チラシ集めが一種のブームになっていまして、映画を観ないのに、チラシだけ持って帰るってのがブームになっていました。それも1枚でなく何十枚とごっそりという豪傑もいたのですが、私なんかは、チラシだけもらいに映画館にいく度胸もなく、さらに中学生の小遣いでは月に何度も映画館へ行くことはできませんでした。それでも、映画館で映画を観たときは、堂々ともらってくる....こともできたのですが、結局小心者の私は、1枚か手がすべって2枚がやっとでした。これを読めば、上映する映画館と時間がわかるので、そこそこのお得感はあったのですが、本当に観るつもりの映画のときは、再度、金曜日の新聞広告で確認するのが常でした。あの当時は少年マガジンでもチラシ特集というのがありましたし、後「スクリーン」「ロードショウ」でも、チラシ大全集なんていうムックを出したりしてました。で、私もチラシ大全集は買ったのですが、実際に映画館でごっそりもらってくることには腰が引けてました。うーむ、これって陰気臭い中学生なのかな。(← 一人合点)あ、でもその当時、切手あつめとか古銭コレクションなんてのもありましたね。でも、まだオタクなんて言葉もないころで、後ろ指さされることもなくて、いい時代だったのかも。

あの当時から、映画のチラシは1枚で1作品というのが多かったのですが、ごくまれに2本立て上映で、1枚で2作品というものがありました。チラシとしてきれいな天然色刷りのは、多分、配給会社からの版をそのまま使っているようでしたが、マイナーな二本立ての場合、色数の少ないチラシが出ることもありました。もう映画が1本立てが当たり前の今では、そんなチラシが出回ることもなくなってしまいました。また、チラシが欲しければシネコンのロビーに行けば、映画の切符買わなくても、チラシ取り放題になっていますから、もうかつてのようなブームは起こらないでしょうね。

「いのちの食べかた」は、大人は観ておくべき映画と思います。

横浜シネマベティでは、今月ドキュメンタリー映画を特集上映しています。今回は「いのちの食べかた」を観てきました。この映画、ウィークデーの夕方なのに7割くらいの観客の多さにびっくり。この映画、日によっては立ち見の札止めになったとか。この映画館でヒット作がでるとうれしい限り。映画館として、シネマジャック・ベティには頑張って欲しいですもの。

私は普通に肉とか野菜を食べていますが、食卓に届くまでにどいういう経路を経てくるのかをたどる映画です。鶏、豚、牛がど生き物がどうやって肉塊になっていくのか。トマト、ピーマン、ひまわりなどが野菜や、リンゴのような果実がどうやって食材になっていくのか。ニコラウス・ゲルハルター監督は撮影も兼任で、生き物が食材になるまでの過程を静かに描いていきます。ただし、各々の作業や作物の説明は一切されないので、あれは何のための作業か理解するためには、プログラムを買ってその説明を読まないとわかりません。ただし、どんな作業でも、単調な段取りとシステムによって行われていることを伝えたい節もあるので、プログラムを必読ではありません。

原題は「Our Daily Bread(日々の糧)」に「いのちの食べかた」という邦題をつけたのはうまいと思いました。最近の偽装牛肉とか農薬餃子など、食品に対する世間の目は厳しくなっています。そこへ食材を製造工程をじっくり見せる映画が出てきたのですから、皆の興味をかきたてるには十分な題材と言えます。しかしながら、この映画で描かれるものは、システム化された工場で、生まれ、育ち、屠殺(または取り入れ)され、私たちがよく見る食材の形になるまで、整然と事が運んでいく過程です。

この映画は、野菜と肉のできる過程をナレーションもなしで、ひたすらカメラで対象を追っていきます。でも、やはり肉の製造過程がインパクトありました。まず登場するのがひよこたち、彼らはベルトコンベアで工場の中を流れていき、性別をわけられ、さらにトレイの上にぎゅうぎゅう詰めになって養鶏場へと運ばれていきます。当然、雌鳥は卵を産む仕事を、雄鶏は別に肉になるまで別の鶏舎で置いておかれます。置いておかれますってのは、文字通り広い建物の中に鶏の海ができてるようなぎゅう詰め状態。何というか肉の畑みたいです。一方豚は親豚から子豚が引き離され、豚舎へ運ばれていきます。これらの過程が最大限に自動化されているのは、正に「動物版ゆりかごから墓場まで」システムになります。そして、屠殺されたあと、コンベアシステムにのって、肉としての形を整えていきます。牛にしろ、豚にしろ、今は屠殺そのものは機械が実行しているようなのですが、血抜きや皮を取り除く作業は、血だらけの作業を人間が行っています。そして、作業の後、水(タダの水ではないようですが)を噴射させて、血の後をきれいに洗い流す作業が行われて、その日の作業が終わるのです。

一方、野菜の方は、巨大なビニールハウスの中で、一定の環境で育てられ、自動的に水は薬剤が散布され、実をつけたものは、取り入れがおこなわれます。ビニールハウスの中の整然とした空気が不思議な感じではあるのですが、その整然とされたシステムのよって、野菜の安全性が保たれているという印象です。でも、刈り取りは人の手でおこなわれます。ちょっと高い位置に人を置いてゆっくり進む作業車に乗って刈り取る場合もあるのですが、トマト、ピーマン、リンゴもキャベツもアスパラガスも人間の手による作業です。小麦やひまわりなどはトラクターで一斉に刈り取ることができるのですが、形や傷の有無で値段が替わっていく野菜については、きちんと人間の手は入るようになっています。

映画はこれらの作業についての是非を論じているのではありません。確かに私もハンバーガーを、屠殺シーンを想像しながら食べるのかと言えば、答えはノーです。またコンベア上の箱ににぎゅう詰めになったひよこを思いながらフライドチキンをたべることもありません。ただ、私たちが食べる肉製品や野菜の作りかたを知っておくべきだということを見せたいと思っているようです。この映画はR12指定ということで、12歳以下は大人の同伴が必要な映画にレイティングされている映画ですが、私はもう少し上でもいいような気がします。それには理由が二つありまして、具体的な作業内容が見えてこない映画を子供が退屈しないで観ていられるのかどうか、そして、この映画観て「もう肉は食べない、牛さんカワイソー」と言った印象を持ちかねないからです。それは、この映画が意図するものとは違う捉え方になってしまうからです。別にこの映画を観たら、「ドナドナ」は歌っちゃいけないわけではありませんもの。

この映画で描かれる食材製造過程は相当機械化されており、人間が直接に手を使うことは意外に少ないというのが第一印象だったのですが、映画を観ているうちに、食材になる直前の作業では人間の手が必要なんだとわかってきます。それに携わる人は結構な労働量になることも見えてきます。大きなシステムと個々の人間によってなりたっているのだというのは、こういう映画でないとわからないもんだなあって、感心してしまいました。

あらためて、私たちは日々、肉なり野菜なりを食しているのですが、その裏で、やはりそれら食材が日々作られているのです。ひょっとしたら、その中で、不適当な薬品が使われたり、衛生上の不備があるかもしれません。この映画では、それらの問題点を糾弾しようというものではなく、そういう問題の基礎知識を学ぶことができます。最近の食品での様々なニュースを見ると、食品に対する批判的な視点が大した知識もなく幅をきかせています。でも、その前にどんなシステムで肉や野菜が作られているのかを知ってこその問題の提起ができるのです。改めて、テレビのニュースってのは、知らないまま、難クセつけてるんだなあって実感しました。大人の方には必見の映画だと思います。

昔の映画情報は新聞広告から(その2)




静岡の新聞での映画広告の続きです。当時の映画館は2本立て上映が標準でして、「エクソシスト」の時も同時上映「おかしなおかしな大冒険」がついてました。それが「ジョーズ」頃から洋画1本立てという興行が始まりまして、「スター・ウォーズ」あたりで正月や夏休みは1本立て興行が増えきました。でもまだまだミラノや名画座でロードショーするときは基本的に二本立てでした。今ではシネギャラリーでしか上映しない、ルキノ・ビスコンティの映画が2本立て興行が行われいたのですから、すごいと言えばすごいのですが、何だか現状は寂しいと感じることもあります。

それにまたまたですが、ピンク映画の広告もきちんとされていまして、今は小劇場のピンク映画の広告は新聞に載ることもなくなったですが、30年前の新聞広告では、「クレイマー・クレイマー」の隣にきちんと洋ピンの広告が普通に載っているのです。「カプリコン1」や「オルカ」の2本立てのとなりに日活ロマンポルノの広告がでんと並べてあるのが何かすごい。やっぱり、新聞広告のない今の金曜日の夕刊はちょっと寂しいと思うのです。

「デック 子供たちは海を見る」はドラマチックじゃないけどかなりいい話

2006年に封切られたドキュメンタリー「デック 子供たちは海を見る」を横浜シネマベティで観てきました。ビデオ撮りのプロジェクター上映でした。この映画は、上映会や映画祭などで上映されてきたようですが、今回は普通の映画館での上映です。

タイ北部の山岳地帯では様々な民族が独自の文化、言語を使ってきました。しかし、この貧しい地帯では、学校があまりなく、家業の手伝いに追われる子供たちが教育を受ける機会が少ないのです。そんな村の一つメートー村に小学校ができたのが1980年のことでした。壁もない教室で生徒10人しかいない学校で始まって、横浜のNGOの支援もあって、校舎や寮、給食が整備されました。今や中学校を併設し、寮ができたことで、メートー村から遠くの子供も教育が受けられるようになりました。子供たちの一番の楽しみは、修学旅行で海を見ること。山岳地区の子供たちは海を見たことがないのです。そんな山奥の学校に様子がコミカルな味わいで描かれるドキュメンタリーです。

この映画の監督ポップ・アリヤー・チャムサイは女優でもある人ですが、彼女が、海ではしゃいでいる子供たちを見て、メートー村の学校を知り、そこにカメラを持ち込んで撮影したのだそうです。山の中の学校ですが、こどもたちは元気一杯、畑での野菜の栽培、鶏やブタの飼育、自分たちの食事作りといった仕事をしながら、授業をうけているのです。また、学校の畑だけでなく、近所のにんにく畑で仕事をして、お金をもらうといったこともやっています。それだけに生徒たちの一体感が強い学校だと思います。

この学校の校長先生が生徒や教師たちから大変慕われています。彼は1日に全部の生徒に接することにしているそうで、偉い立場の人のように見えて、その実生徒たちと密接な関係を持っているところが描かれています。校長先生が大腸ガンのために入院したときは、学校が雰囲気ががらりと変わってしまうところなど、彼の人格者であるエピソードが描かれます。ここまで生徒に慕われる校長先生っていないなあと思います。

生徒の家族も登場するのですが、多くが貧しい農家のようで、生徒を卒業後、さらに進学させることは難しいと言います。それに農家は働き手を欲しがっているという事情もあるようです。校長先生は、卒業生が進学できるように働きかけるのですが、なかなか思うようにはいきません。それでも、校長先生は生徒の一人一人に気を配っているのが、偉いなあって思いました。

この映画を観て一番に感じたことは、この国ではまだまだ発展途上であり、子供たちによりよい教育を受けさせようという機運が感じられることでした。教育は親にとっても学校にとっても、まだまだ改善すべき対象なのです。ですから、すべての人が、学校に対する敬意と期待を持っているのです。。そこが、日本の学校教育と大きく違うところだと言えましょう。大東亜戦争後の日本の教育には似たような空気があったのですが、教育が行き届いて行って、ついには飽和状態になってしまっているのではないかしら。そして、学校が色々な勉強を教えることが当たり前、自分の子供を特別扱いしてもらうのが当たり前という奇妙な確信につながり、一方で、やたらと学校のアラばかりが目立ってきているのではないかと思います。

子供に勉強をさせ、集団行動の大事さを教えてくれる学校に、子供や親はどこまで感謝し、敬意を表しているのでしょうか。時には没個性な存在となって集団行動することだってあります。いじめや暴力が問題視される一方で、学校教育が生徒や教師の善意で成り立っていることが評価されないのは、おかしいと私は思います。もし、教師や生徒に善意の持ち合わせがないと、統率は取れず、授業は成り立たず、生徒の成績が悪くても誰も気にしなくなります。でも、大半の先生、生徒の善意のおかげで、学校が学校であり続けられることに、もっと目を向けた方がいいと思ってしまいます。

さて、生徒たちが楽しみにしている修学旅行の日がやってきます。バスとトラックに乗り込み、食事は自炊しながらというケチケチ旅行ではあるのですが、生徒たちはものすごく楽しそう。何百キロという道のりをバスとトラックで移動するのですから、なかなかタフな日程です。(でも、バスが道路をものすごい速度で飛ばすことにちょっとビックリ。普通の道であんなスピード出さないよねー。)そして、ついに砂浜に立ち、海を見て歓声を上げる子供たち。波に頭突っ込んだり、ヒトデや貝を捕まえたり、海へ沈む夕日の大きさにみとれたり、人が本気ではしゃぐというのはこういう事なんだなあって、感心。

映画のラストは卒業式です。ここで、女の子はみんな涙々になっちゃうのが、何だかまだ子供なのかなあ。日本で言うなら、学園ドラマの最終回みたいに、この学校を去る悲しみを体中で表現してます。しかし、校長先生はまだまだ色々とやることあるようで、政府の給食支援金が切りつめらることになって、畑をより広げなくてはいけないようです。それでも、今、この学校はタイ北部の色々な民族を受け入れる学校として毎日先生と生徒が一生懸命に、教育という目に見えにくいものの成果をちゃくちゃくと上げているようです。ちなみに、邦題のデックというのは、タイ語で子供たちという意味だそうです。

「ミリキタニの猫」はちょっと面白い構造のドキュメンタリー

2007年に封切られた映画がようやっと、横浜でも上映されることになりました。ドキュメンタリー「ミリキタニの猫」をシネマ・ベティで観てきました。この映画館はドキュメンタリーを積極的に上映してくれるので、観る映画のジャンルが広がっていくのがうれしいです。もとがビデオ映像らしく、プロジェクターによる上映でした。

ニューヨークのワシントン・スクエア公園のホームレスの老人が、絵を描いて生計をたてていました。彼は日本人で、自称「絵のグランドマスター」のジミー・ミリキタニさんです。2001年に道端で絵を描いているところをドキュメンタリー作家のリンダ・ハッテンドーフが通りかかり、彼を撮影する許可をもらい、彼の生活を撮りはじめるのでした。彼の絵の中に描かれている光景は、第二次大戦時に彼がいた収容所でした。アメリカに生まれ、アメリカ国籍も持っていたのに、日本人として財産を差し押さえされて収容所に放り込まれたのでした。そして、広島で少年期を過ごしたこともあって、原爆に理不尽さを訴える絵も描いていました。そして、9.11同時多発テロが起こったのです。リンダは自分の家に彼を招きます。そして、彼の住むところを捜そうとするのですが、彼は収容所にいた時、自分のアメリカの市民権を捨て去っていたのです。彼はホームレスから脱却できるのでしょうか。

ドキュメンタリーの監督であるリンダがある日、街で見かけたホームレスの老人に興味を持ち、彼を撮影し始めます。最初のうちは、ちょっと風変わりな日本人の老人という印象だったのですが、彼と話をしているうちに、彼が80歳の高齢であり、25歳の時、日本人収容所にいたこともわかってきます。自分を絵のグランドマスターだと豪語するジミーですが、どこか不思議な仙人みたいなところもあり、リンダの興味が思わぬことになります。ホームレスになる前は料理人だったとジミーは言います。実際に住んでいたところのドアマンも彼を覚えていました。そして、あの9.11同時多発テロが発生したのです。街には有害な煙が漂い、外出を避けるようにとテレビでも言っていた時、リンダはジミーを自分の家に来ないかと言ってしまうのです。そして、リンダのアパートに居候になることなったジミーですが、そこでも絵を描き続けたのでした。

リンダの奔走のおかげで、彼と同じ苗字の女性がいることが確認でき、さらに死に別れたと思っていたジミーの姉もまだ健在であることがわかります。一方、生活保護の需給を受けられるようにと、リンダが勧めても、彼はかたくなに拒否し続けます。それは、収容所に入れられた時、アメリカ政府への怒りを感じたジミーが自ら進んで市民権を放棄していたからです。しかし、リンダや社会保障のメンバーが、彼を積極的に受け入れ、絵の教師という新しい居場所まで与えてくれるので、ジミーの心も動かされていきます。放棄していた市民権も既に回復されていることもわかり、彼は居住の場所も与えられ、月350ドル程度の生活保護を受けられるようになります。ここでは、年寄りを単なる老人の中の一人という見方ではなくい、一人一人が個性ある人間とみなされるのです。

最後にジミーは自分がもといたツールレイク収容所へ跡地への訪問できる機会ができました。そこでかつて自分や日本人の多くが収容されたところに手を合わせることで、彼のアメリカへの憤りが歴史に変わっていくのです。そして怒りは失せ、思い出が通り過ぎていくと言います。何が彼をそう言わしめたのかは映画を観ているだけでは慮れないのですけど、その理由の大きな部分はリンダとの出会いだったと思わせる結末になります。リンダとの出会いによって、生活保護を受けられる、消息不明の姉と再会できるなどがジミーにもたらされるのでした。リンダに対して感謝の言葉くらいあってもいいかと思うのですが、そういうシーンは登場しません。多分、他者に対して無頓着である彼のことですから、改めて感謝の意を表すなんてやりそうもないなという見え方でした。一方、この態度のでかい居候のために色々とやってくれるリンダは偉いなあって。

この映画の中でとても印象に残るパートは、9.11同時多発テロの部分でしょう。アメリカ人アラブ系市民の店を叩き壊したり、色々な差別を与えているのを見て、ジミーは60年前とちっとも変わっていないと、アメリカに対して憤りを感じ、アラブ系市民の事を気遣うのでした。同時多発テロの直後、イラク空爆に疑問を呈する人間がほとんどいなかった頃にこういうやり取りがされていたことを映像に残していることは貴重だと思いました。大勢がイラク憎しに動いているとき、ちゃんとそれとは違う意見もあったということを残しておくこと、過去から学ぶことを知らないでいてはいけないという強いメッセージを感じました。アメリカ政府に悪態をつく老人を、肯定的に描いているのですから、これはすごいことだと思います。

一人の老人から浮かび上がってくる、アメリカの歴史。映画は、アメリカにとっては汚点となる歴史について語り、それが、21世紀にも同じことが起こっているということを描いているのです。ただし、監督はそれに深入りをしないで、一人の老人の今を淡々と追っていきます。いわゆる、アメリカ人の善意によって、一人の老人が過去の清算できたかのような展開は、ちょっと出来すぎとも思えるのですが、それでもハッピーエンドになるのは悪い気はしません。

監督が、彼のことをよく知らないころから、好奇心からか撮影対象として接触し、衝動的に自分の部屋に泊めてあげるようになるのは、ドキュメンタリーの枠から離れて自分自身も対象化にしてしまうことでした。その結果、ドキュメンタリー映画としては、ちょっと味わいが違う映画になりました。絵描きのじいさんとしてジミーが撮影されたときには、その先で何が起こるのか、ましては自分も巻き込まれるなんてことは、監督も知らないでいたのです。そういう意味では、対象を客観的にできないまま作られたドキュメンタリーとして、面白い構成になります。

サントラ盤の「エリザベス ゴールデン・エイジ」は聴かせるドラマチック音楽


まだ映画は観てないのですが、お気に入りのサントラ盤の紹介です。ケイト・ブランシェット主演の「エリザベス ゴールデン・エイジ」は映画そのもののなかなか面白そうなんですが、音楽担当も豪華でして、「ラブ・アクチュアリー」「ワールド・トレード・センター」のクレイグ・アームストロングと、「ムトゥ 踊るマハラジャ」などインドで活躍するA・R・ラフマ-ンの二人が共同で作曲しています。またオーケストラ指揮をセシリア・ウェストンが担当しました。この予告編のバックで流れるバイオリンをフィーチャーした勇ましい音楽は、他所の映画から持ってきたのではなく、この映画のオープニングで流れる曲です。ちょっと大河ドラマのタイトル曲で、コーラスが最後に音の厚みを加えています。これが気にいったので、サントラ盤をゲットしたんの

映画の内容もドラマチックのようですが、音楽も大変に起伏に富んだものになっています。全体の曲調は、クレイグ・アームストロングらしい、深みのあるオーケストラ音楽に統一されています。テンポが速い曲だけでなく、ドラマをじっくりと見せる部分の音も重厚で映画の本編が期待できる仕上がりです。一方では、シンセサイザーをパーカッションとして使ったもあり、それらの音も重厚さを失わず、シンセサイザーをオーケストラの1パートして使っているのが見事でした。

本編は歴史ものの枠に収まらない映画のようですが、音楽は歴史スペクタクル映画の音にまとまっていまして、サントラ盤を聴いただけでも、この音楽がサポートする映像を見たくなりますし、一枚のCDとして聴いても聴き応えのある音楽になっています。クレイグ・アームストロングという人はサントラ盤以外の自演アルバムも出しており、そのアルバムも見事な内容になっています。また、サントラ盤も地味めの映画が多いのですが、実に聴き応えのある内容になっています。特に「[http://blogs.yahoo.co.jp/einhorn2233/32128432.html 「愛の落日」]や「ブランケット&マクリーン」は、その音楽だけでも、楽しめる出来栄えだと思っています。これだけの音楽を書いてる人ですから、もっと注目されて、もっとたくさんの映画を手がけて欲しいところです。

観た映画〔や~よ〕

映画索引〔ら~ろ〕

〔ら~ろ〕
「ラースと、その彼女」
「ライク・サムワン・イン・ラブ」
「ライジング・ドラゴン」
「LIFE!」
「ライフ・イズ・ベースボール」
「ライフ・オブ・パイ」
「ラスト・キング・オブ・スコットランド」
「ラスト・ターゲット」
「ラスト・ベガス」
「ラスト・ミッション」
「ラスベガスをぶっつぶせ」
「落下の王国」
「ラッキーナンバー7」
「ラッキー・ユー」
「ラッシュ・アワー3」
「ラビット・ホール」
「ラブソングができるまで」
「ラブレース」
「ランナウェイ 逃亡者」
「ランボー 最後の戦場」
「リーピング」
「陸に上った軍艦」
「理想の彼氏」
「Respect 川本喜八郎」
「リスボンに誘われて」
「リダクテッド 真実の価値」
「リトル・チルドレン」
「リトル・ボーイ 小さなボクと戦争」
「リトル・ミス・サンシャイン」
「リピーテッド」
「リボルバー」
「リミット」
「RE:LIFE リライフ」
「リンカーン」
「リンカーン弁護士」
「ルーシー Lucy」
「ルート・アイリッシュ」
「ルーパー」
「ルーム」
「ル・アーブルの靴みがき」
「ルルドの泉で」
「ルワンダの涙」
「レイチェルの結婚」
「レイン・オブ・アサシン」
「レヴェナント 蘇えりし者」
「レオニー」
「レスラー」
「RED」
「レッド・ライト」
「RED リターンズ」
「レディ・イン・ザ・ウォーター」
「レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで」
「レミーのおいしいレストラン」
「レ・ミゼラブル」
「恋愛睡眠のすすめ」
「恋愛遊戯 私と恋に落ちてください」
「レンブラントの夜警」
「ローグ・アサシン」
「ローマに消えた男」
「ローマ法王の休日」
「ローラー・ガールズ・ダイアリー」
「ローラ殺人事件」(DVD)
「ローン・サバイバー」
「6才のボクが、大人になるまで」
「ロシアン・ドールズ」
「六ヶ所村ラプソディー」
「ロッキー・ザ・ファイナル」
「ロボコップ」(2014年版)
「ロボット」
「ロマンス」

観た映画 〔わ〕

サントラ盤の「俺たちフィギュアスケーター」もなかなかの聴き応え


久々にコメヂィのスマッシュヒットとなった「俺たちフィギュアスケーター」ですが、この映画の音楽を担当したのは、「ドッヂボール」や「プラダを着た悪魔」のセオドラ・シャピロです。大編成のオーケストラをマイケル・ノワックが指揮しています。この映画はスポーツもののコメディというだけあって、都会派風の軽いジャズタッチの曲を聞かせる一方でオーケストラにブラスを効かせて、ファンファーレ風の曲や、スポーツニュースのバックに流れるような熱い音を聞かせてくれます。ブラスの聞かせ方には、名匠ジェリー・ゴールドスミスを思わせるものがあり、コーラスまで加わり、かなり重厚な音作りになっています。

また、ドラマの部分では、静かなタッチのやさしい曲もあり、木管中心の、でも軽くならない音を聞かせています。とはいえ、音楽の中心は金管とパーカッションを駆使した、盛り上げ音楽でして、その音楽の配置は「ロッキー」を思わせるものがあり、さすがに「ロッキー」のテーマのような名曲ではないものの、やってることのバカさ加減とのコントラストになっており、主人公たちのラスト近くの追跡劇から決勝のリンクに間に合うかとうかというサスペンス風の曲から、主人公の一頑張りを直球勝負で盛り上げていました。

フィギュアスケートという繊細なスポーツを題材にした、しかもコメディなのに劇伴音楽を目一杯鳴らすように仕掛けたのは、誰の発案かはわかりませんが、この音楽によって、映画としての満足感が出たことはまぎれもない事実でして、映画も意外な面白さだったように、音楽も意外なうまさを聴かせてくれました。音楽だけ聴くとSFものかファンタジーみたいな映画に思えるのに、映画館で主人公二人のドタバタにこれらの音楽がつくことで、コメディだけじゃない、スポーツものの興奮を呼ぶのが見事でした。今回、私が聞いたのは、サウンドトラックスコア盤というもので、映画の中で流れた既成曲は含まれておりません。

「俺たちフィギュアスケーター」が拡大公開しているのが何より

「俺たちフィギュアスケーター」を川崎チネチッタ3で観てきました。単館上映だった渋谷で大ヒットたと聞きましたから、その余波か神奈川でもここだけの上映のようです。プログラムも出てないところ観ると、客が入ると誰も思っていなかったのでしょう。このクリーンヒットでアメリカのコメディがもっと劇場公開されるとうれしいのですが。

男子シングルフィギュアスケート界でトップを争っていたジミー(ジョン・ヘダー)とチャズ(ウィル・ヘレル)はトップを争う犬猿の仲でした。ところがある大会でジミーとチャズが同点優勝してしまい、二人は表彰式で大喧嘩、式をメチャクチャにしてしまいます。そして、二人は男子シングルへの出場権を失ってしまいます。それから3年半後、ジミーはスケートショップ、チャズは子供相手のぬいぐるみショーと、情けない生活をしていました。偶然が重なって、ぬいぐるみショーで、二人はまたしても喧嘩になってしまい、その大立ち回りの現場がテレビに映ってしまいます。それを見た昔のコーチがこいつらペアでいけるかもしれないと二人にペアで出場しろ言います。男子シングルに出場できないが、ペアならOKというわけで、二人はペアとして出場することになります。それをうれしく思わないのは、優勝の常連ウォルデンバーグ兄妹ペア。何とか出場させまいと画策するのですが、さてその結末は?

アメリカのコメディが日本でなかなか劇場にかからないのは何でかなあって思います。観てみれば結構面白いし、日本映画のような涙の押し売りもしないのに、なぜか、アメリカのコメディ映画は劇場では冷遇されています。この映画も単館でも公開されたことを喜ぶべきかもしれません。この映画は予告編を何べんも見せられているので、話の展開は知った上でさらに笑えるかというところがポイントでした。この映画で言うなら、喧嘩のビデオからスケートのフォームを読み取るとか、北朝鮮の首チョンパ(観てない人には想像つかないでしょうけど)なんてのがそれに相当します。

また、二人のキャラの違いも明快で、細身でかわいい系のジミーに、大柄でいかついフェロモン系のチャズは、まるっきり逆のタイプなので、二人ペアになるのには却って都合がいいようです。後は基本的というか、定石の展開となります。大体、この類のアメリカ映画は決まったパターンがあります。

起:二人(カップルでもコンビでも)が出会う。

承:一度は好感を持って歩み寄る、カップルの場合は愛が芽生える

転:思わぬところから二人の仲を裂く事件がおきる

結:タイムリミットギリギリで二人は再会。その再会は衆人環視の時が多い。

まるで、「友情、団結、勝利」の定番を持つ、少年ジャンプみたいですが、ハリウッド映画は大体こんな感じになってると思います。この映画も、「起」で男子ペアを組み、「承」でペアでの技を磨き「転」で二人がスケート世界大会にさせないように妨害があり、「結」をスケート大会で二人がダブルスで臨むところがあたります。でも定番だから悪いわけではなく、その起承転結に笑いなり涙なりを盛り込んで面白く仕上がっている映画はゴマンとあります。この映画の場合もかなり面白く仕上がっており、ジミーとチャズのコンビ、そしてジミーとケイティのカップルの二つの物語で起承転結が展開します。そういう意味ではドラマはうまくできてますし、特にスケートシーンが良くできていました。エンドクレジットに視覚効果が何社も登場するのでスケートシーンなどでCGを使っているようです。実際のスケーターの演技に俳優の顔を合成しているのかもしれません。

「転」の部分は、ライバルのウォンデンバーグ兄妹が、ジミーとチャズを大会に出られないように実力行使に出るというものですが、やってることがバカ丸出しなので、ピンチがピンチに見えないところは若干弱いのですが、ここでリアルにやっちゃうと物語がはずまなくなりますから、この線で成功だったと思います。クライマックスは華麗なる二人のスケートが見せ場になるのですが、さらにもう一押し邪魔が入るなど、よくやってるという感じでした。

音楽を担当したのは、「サイドウェイ」や「キューティ・ブロンド」で、割りと地味めの音作りだった、ロルフ・ケントですが、今回はオーケストラで景気のいい音を鳴らして、スポーツものらしい音作りになっています。

「シルク」は異国情緒と美しい画面が見ものです

2008年は劇場まで足を運べないでいるのですが、やっと「シルク」を川崎TOHOシネマズ8で観てきました。この劇場は、ロビーから劇場までに通路を何度も曲がらなけらればならなくって、災害時にちょっと不安になる劇場です。

19世紀のフランスで軍人だったエルヴェ(マイケル・ピット)は、故郷の町に製糸場ができて、そのオーナー、バルダビュー(アルフレッド・モリーナ)に請われて、除隊して、蚕の卵を買い付けにアフリカに出かけます。蚕の卵を持って無事に帰還したエルヴェは、婚約者だったエレーヌ(キーラ・ナイトレイ)と結婚するのですが、バルダビューから質の良い蚕の卵がある日本への買い付けを請われて、極東の地、日本へと赴くのでした。何十日もかかって、最上川の上流にあるらしい、山里に到着します。そこでエルヴェは原十兵衛(役所広司)の目にとまり、そこで手厚い扱いを受けます。十兵衛の家にいた不思議な少女(芦名愛)にエルヴェに心惹かれるのでした。買い付けに成功して、無事にフランスに戻ったエルヴェですが、再び日本へと旅立ちます。同じ経路をたどって山里にたどり着いたエルヴェを村人たちは歓待してくれるのでした。あの少女はエルヴィに一通の文をしたためます。無事に帰国したエルヴェを、妻エレーヌはやさしく迎え入れる一方で夫が日本でのことを一切話さないのに不信を抱いていました。そして、三度目に日本へ赴くエルヴェですが、その時日本は幕末という時代の節目を迎えていて、大変危険な状況にもあってのです。果たして、エルヴェがそこで見るものは何か。そして、エレーヌのエルヴェへの愛はどうなるのでしょうか。

予告編で観たときよりは、不思議な印象を与える映画でした。特に日本のシーンは私が日本人であるのにも係わらず、異国情緒があっていいなあって思いました。日本人のスタッフも結構クレジットされていて、考証的にはかなり頑張っていたように思います。しかし物語の一番カギとなる少女が最後まで謎の存在であり続けることで、日本の山里の集落全体が、幻のように思えてくるのです。そして、エルヴェがなぜ彼女にこだわるのかも、よくわからないままです。一目惚れから、感情のテンションが一気に盛り上がるのはわかるのですが、そこからの展開がわかったようなわからないような、一見奥行きがありそうで、なりそうなということになります。極東の地、日本に対する異国情緒ありありな展開が、日本人にとっても異国情緒あふれる展開になってしまう不思議さは劇場でご確認下さい。

ともあれ、二回日本に行っただけで、妻ある身なのに、少女に夢中になっちゃうエルヴェもエルヴェです。一言で言えば、出張先で人妻に横恋慕ですからね。カミさんの目も届かないし、東の国の果ての出来事なんて誰も知るまいし、旅の恥はかきすてと言えないこともないですし。タイに旅行して現地の女の子と盛り上がって、帰国しても彼女への思いが忘れられないってのと大差ないですもの。

ところがどうしてどうして、物語の軸は不倫関係の結末ではないってところがこの映画の面白いところです。


この先は結末に触れますのでご注意ください。



ダンナが日本に長い道のりを往復している時間、カミさんのエレーヌは一人ぼっちでその帰りを待つだけです。子供ができないことへの不満もあるし、帰ってきたダンナは日本であった事を語ろうとしないし、ホントに私って幸せなのかしらと感じちゃうような身の上です。そして、どうやら、ダンナが日本女性に気持ちをどっかへ持っていかれてるってのも、わかってきます。三度の日本行きから帰ってきた夫の気持ちを量りかねているエレーヌは、日本の女性よりもっと奥ゆかしい手段で夫の愛を取り戻そうとするのですが、それは、彼女に残された時の中では、夫に届くことはありませんでした。

異国情緒だけの展開だったのが、ラストで、エレーヌがこの物語の結末をつけるというのは、かなり意外でした。とにかく、生前の彼女は、ドラマの中心(エルヴェの娘への恋慕)から離れた距離にいて、ほとんど彼女にスポットが当たっていないのです。それが、やや慌ただしいエピローグに十分な余韻が与えられなかったようです。共同脚本&監督のフランソワ・ジラールが、異国情緒に時間とエネルギーを注いでしまった結果なのかもしれません。それでも、エレーヌはかわいそうなまま終わる結末の見せ方はもっと他にないのかと思います。それを運命の残酷さということもできるのですが、エルヴェが自分のツケを払わないうちに終わってしまうのも、ちょっと悲劇度高すぎなのではないかしら。

主演を演じたマイケル・ピットは、なぜ異国の地で出会った娘に入れ込んでしまったのかというところに説得力を欠いていて、人間として何も考えていないんじゃないかと思わせるのは残念でした。キーラ・ナイトレイは演技の見せ場は少なかったものの、生身のヒロインの存在感がありました。日本側の演技陣は、リアリテイのない描かれ方をしていたので、演技のしどころがなかったように感じました。その中でラストをさらう中谷美紀は結構おいしい役どころと言えましょう。

フランスから日本への旅が過酷であることをきっちり見せたあたりは見応えがありました。また、アラン・ドステイエの撮影が素晴らしく、フランスの町を油絵のように暖かい光でとらえ、日本の村落でもコントラストのくっきりとした絵を作っています。日本映画独特の暗さが感じられないのが新鮮で、劇場で観るための絵になっています。特に、日本人から見た異国情緒という点はなかなか興味深いものがあり、映像の美しさも含めて、劇場でご覧になることオススメです。

プロフィール

einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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