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「ゴジラ対ヘドラ」を、けなさず、持ち上げずに書くとこんな感じ

「ゴジラ」のことを書かせてもらったのですが、ゴジラシリーズの中で、第一作と比肩しうる存在であると言われる「ゴジラ対ヘドラ」についてもちょっと書かせていただきます。私はこの映画をリアルタイムで観ておりまして、東宝チャンピオン祭りにもかかわらず気色悪いのを作ったなあって印象でした。

富士市の田子の浦の近所で、オタマジャクシのような魚が網にかかりました。放っておいたら乾いて炭のようになってしまったのですが、炭のかけらを水に入れると、ちっちゃなオタマジャクシになって泳ぎ始めるではありませんか。もうひとかけら水に入れると、それもちっちゃなオタマジャクシになって、驚くべきことに二匹のオタマジャクシは合体して一回りおおきなオタマジャクシになったのです。タンカーがオタマジャクシの巨大な怪獣に破壊され、次にはドロドロのヘドロのような怪物が上陸して煤煙を吸いさらに大きくなっていきます。ゴジラが現れ、その怪物ヘドラと戦うのですが、1ラウンドめは逃げられてしまいます。そして、ヘドラはまたUFOのような形で空を飛び、硫酸の霧を撒き散らし始めます。人間側でも策を考え、熱線で乾燥させれば動きを封じることができると、富士の裾に巨大な電極を2枚向かい合わせに設置し、その間にヘドラを誘導して乾燥させようという作戦に出ます。そして、より一層大きくなったヘドラとゴジラの死闘が富士の裾野を舞台に展開するのでした。

ゴジラシリーズも終止符のつもりで作った「怪獣総進撃」がヒットしたので、過去フィルムをたくさん流用した「オール怪獣大進撃」を作った後、その次の作品として、当時の話題だった公害を題材にして、坂野義光と馬渕薫が共同脚本を書き、坂野義光監督第一回作品として世に出したのが「ゴジラ対ヘドラ」でした。映画の公開前に漫画雑誌のグラビアでこの映画の紹介を見た時は、ヘドロからヘドラじゃああまりにも安直だなあって、いい印象を持ちませんでした。それに怪獣の見た目も気色悪いというか汚いというか、どうにもルックスに難ありでした。それでも、東宝チャンピオン祭りは長い休みの唯一の定番お出かけだったので、映画館へは何となく足を運びました。

のっけから「水銀。コバルト、カドミウム~」という主題歌に「何じゃこれは、こんなのゴジラじゃない」とずっこけたのですが、その後も、それまでのゴジラ映画にあったスケール感とかSF臭さというものが一切出てこない展開に「???」の気分になってしまいました。ゴジラとヘドラが戦うとヘドロの飛沫が飛んで、マージャンしてた連中を殺してしまうとか、ボディペインティング(風)したおねえちゃんが出てきたり、酒とクスリで幻覚を見たりと、何だかおかしな展開ばっかり、これのどこがゴジラ映画なのかと思っていると、ゴジラの登場シーンの音楽が違う(伊福部昭から真鍋理一郎に代わっていた)し、ヘドラの硫酸を浴びた人間が骨になっちゃうシーンまであって、何だかいつもの期待をことごとく裏切ってくれるので、前半だけでかなり不安になってきました。

マルチ画面で公害に関係する人々のコメントを流したりする趣向といい、いつものゴジラとは展開の仕方がまるで違うのです。当時小学生だった私にはまだ理解できていなかったのですが、これが演出の違いというものだったのです。後半も自衛隊はほとんど活躍せず、都市破壊もなく、富士の裾野の広場でゴジラとヘドラが闘うシーンがかなり長時間続くのです。ここで、ゴジラは片目をつぶされ、ヘドロまみれにさせられて、踏んだり蹴ったりの目に遭います。また、サプライズとして、ゴジラが空を飛んだり、一度は乾燥して死んだと思ったヘドラが一回り小さくなって逃げ出すなどのシーンがあり、さらに、ゴジラが乾燥したヘドラの目玉をえぐり出すという描写まであって、小学生の私には、もうお腹いっぱいというか、「何で、そこまでやるのかなあ」ってブーイング気分。正直に言って、東宝チャンピオン祭りを期待して観に来た子供には、トラウマになっちゃうような映画でした。前作のミニラが少年としゃべる「オール怪獣大進撃」とは落差ありすぎですもん。ただ、世間で公害だ光化学スモッグだと騒がれていたのは事実で、暗い未来予想図が想定される時代でもありました。(これにトドメを刺すのが2年後の「ノストラダムスの大予言」なのですが)また、この映画、子供ながらに安い(お金がかかってない)印象を受けたのも事実でして、何だか気色悪くてビンボ臭い映画だなって思ってしまったのでした。

この映画がカルトになっていると知ったのは、ずいぶん後のことでして、「へー、あんな映画も再評価されるんだ」と不思議に思ったものです。これも機会あって二十歳過ぎてから、再度、劇場で観ると、なかなかホラー映画っぽいなあ、とか、ミニチュアセットもないのに巨大感があるのはすごいとか、初めて観たときとは別の印象を持てるようになりました。クライマックスで、主人公の少年とボディペインティングもどきのお姉ちゃん以外、若いものは全滅しちゃうのもシュールじゃんとか、まあ、ちょっとだけ背伸びした感想を持つにいたり、やっぱりこれもありかなって思うようになりました。

それは、ゴジラシリーズの他の作品に比べて違うというところの評価が変わったからです。子供の頃は、定番をことごとく外すと不満だったのか、それってユニークじゃんという評価になったということです。ユニークって評価も安直って言えば安直なんですが、こういうのが背伸び視線というのかもしれません。ともあれ、当時の公害をゴジラ映画に取り込んで、ちょっとポップでサイケな映画を作ったんだなあって納得しました。(ポップ、サイケって表現も何だか浅薄ですみません)特に特撮においては、ヘドラのおぞましい質感が他の怪獣を圧倒する迫力で、動きの重厚さ、巨大さが、他のゴジラ映画よりも見事な出来栄えだったのです。

「ゴジラ」の怖さがある意味、高尚な怖さだったのに比べると、ヘドラの怖さは今そこにある怖さであり、身近な生活感のある気味悪さだったように思います。ホントにヘドロやスモッグが身近にある状態で作られた映画ならではの、タブー感みたいなものもあり、子供にはとっつきがよくなかったのだと思います。今、見直してみれば、70年代カルチャーの一端が伺える映画として楽しめる一遍ですし、ゴジラシリーズの中で、子供を主人公にしておきながら、小さいお友達に背を向けているという点で再評価できると思います。

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「ゴジラ」は怪獣映画の異端というか番外編ではないかと

昭和29年の作品ですが、「ゴジラ」は映画史に残る名作と言えるのですが、さすがに生まれる前の映画をリアルタイムでは観られません。でも、ビデオで観て、シネマジャックで劇場鑑賞もできましたので、映画の記憶として鮮明に残すことができました。いわゆる特撮本ですとか、ゴジラ本で詳細に解説されている映画ですが、実際に観ると、特に劇場で観るとその印象は強烈なものがありました。

貨物船「栄光丸」がSOSを出して消息を絶った後、捜索のために向かった船も消息を絶ちます、大戸島には、捜索に向かった船の船員が漂着するが、嵐の夜に上陸した何者かによって命を絶たれてしまいます。生物学者の山根博士(志村喬)ら一行が大戸島に調査に向かうとそこに巨大な足跡を発見し、足跡からは放射能を検出します。そして、山の向こうから巨大なトカゲのような生き物が姿を現します。巨大生物は大戸島の伝説よりゴジラと命名され、対策本部が設置されます。ゴジラは東京に上陸し、放射能火炎をはき、東京を火の海にしてまた海へ去ります。帝都の惨状を見かねた山根博士の娘恵美子(河内桃子)は彼女の知人である芹沢博士(平田昭彦)がオキシジェンデストロイヤーという最終兵器を発明したことを対策本部に告げ、戦争使用を危惧する芹沢博士を説得します。そして、自ら海底に眠るゴジラへオキシジェンデストロイヤーを仕掛けた後、自分の命も絶ち、オキシジェンデストロイヤーの製法と共に海底に沈んでいったのです。



黒地に白文字でゴジラとタイトルが出て、スタッフ、キャストが横書きで縦に流れていきます。ゴジラの咆哮が聞こえた後、伊福部昭によるゴジラのテーマがかかります。もとは、バイオリン協奏曲の中で聞かれる旋律ではあるのですが、この映画を特徴づける大変インパクトがありました。また、この映画はモノクロでして、今観たとき、映画から受ける印象の半分くらいはモノクロだからこそというところがあります。

オープニングは貨物船の遭難から始まるのですが、テンポがあって、しかもリアル。救出に向かった船も消息を絶ち、船員の家族がかけつけるシーンなど、今のゴジラ映画では絶対見せてくれない人間からの視点がきちんと描写されています。大戸島で火をたいて、船を気遣う島民たちのところに流れついた船員たちという展開から、嵐の夜に何かが島を襲うシーンのサスペンス。海や嵐といった水が絡むミニチュア特撮シーンは決して上手とは言えないのですが、ドラマの中では、問答無用の迫力で迫ってきます。

そして、調査団が大戸島に乗り込むことになるのですが、その前にこの映画のタイトルトップの宝田明演じる尾形と恵美子の登場シーンがあります。どうやら二人は恋仲らしいという設定もここで示されます。

そして、ゴジラが初めて姿を現すシーンから、対策本部へとドラマは展開し、ゴジラは核実験により眠りを覚まされた怪獣ではないかということになります。大戸島陳情団が登場したり、大作という印象はないのですが、細やかな描写が光る演出になっています。村田武雄、本多猪四郎による脚本の功績もあるのでしょうが、本多猪四郎の演出が光っています。

とうとう、ゴジラが東京に上陸するのですが、ここも他のゴジラ映画にはないリアルで怖い描写が続きます。東京大空襲をイメージしているという説もあるのですが、そういうことを一切知らない私でも十分に怖がることのできるシーンになっていました。印象的なシーンを挙げてみますと、逃げる人々にゴジラの放射能火炎が吐きかけられるところ、逃げ場を失った親子が「もうすぐおとうちゃんのところへ行くのよ」のシーン、人が隠れている地下道の上にビルの瓦礫が降ってくるところ、テレビ塔の上で実況中継をしているところへゴジラが現れタワーを倒すシーンのアナウンサーの絶叫。これらのシーンはよくバラエティ番組で「ゴジラ」という映画を紹介するときに、そのシーンだけ切り出して見せられることがありますが、そこだけ見ると笑いが出てしまうことが多いです。確かにオーバーアクトにも見えるシーンが笑えてしまうのは、さもありなんとも思うのですが、実際に映画館の暗い中で見せられると、これが怖くて腹に応える出来栄えなのです。この他にも路地に倒れこむように逃げ込む人々の後ろをゴジラが歩くというカットもあって、人間の生活がゴジラによって蹂躙されるというシーンがリアルなスペクタクルとして描かれています。

海へ逃れようとするゴジラにジェット機による攻撃が始まります。隅田川を渡って避難していた人々から、ジェット機に声がかかります。これでゴジラが倒せるかと思いきや、ゴジラは攻撃をものともせずに悠々と海に逃れます。ここまでのゴジラ東京上陸シーンは特撮の最大の見せ場になっているのですが、ゴジラを立てながらも、人間側の描き方も丁寧に見せて、東京が怪物に蹂躙される様をファンタジーでなく、リアルにヘビーに描くことに成功しています。ゴジラが去った後、被災者の少女から放射能反応が出るシーンをそっと織り込んであるところや、避難病院の描写など、くどくならない演出がリアリティを感じさせるドラマを支えています。

当時の批評で、「ゴジラ」はSFなのにやたらと辛気臭くて夢が感じられないというものがあったそうです。確かにその評は正しいけれど、的を外しているように思います。もともと、古代の怪獣が核実験によってよみがえり、都市を破壊して、最後に核兵器をしのぐ超兵器によって倒されるお話です。この物語にSF的な味わいがあるとすれば、後半に登場する超兵器とそれによる怪獣退治にあるのですが、この部分で超兵器を否定的に描いているので、怪獣退治によるカタルシスはこの映画にはないのです。超兵器を実在する核兵器とオーバーラップさせ、その発明者の博士がゴジラと超兵器と心中するというストーリーは、ファンタジーというより反核映画のそれに近いものがあります。その一方で怪獣の都市破壊というスペクタクルを見せて娯楽映画としての工夫も凝らされているというところが、この映画の立ち位置ではないかしら。

ドラマとしての見せ場は、恵美子が芹沢にオキシジェンデストロイヤーの使用を説得するシーンです。自分は核兵器以上のものを発明したと悩んでいる彼に、ゴジラによる惨状を訴えるシーン、丁度その時、テレビで犠牲者の鎮魂のための歌を女学生が歌っているという出来すぎ展開もあって、彼は一度だけの使用を決意します。今、「出来すぎ」という言葉を使いましたけど、ドラマのテンションが高いので、観ている方は、実際は「出来すぎ」を感じずにドラマに引き込まれるようになっています。

そして、ゴジラ退治のクライマックスになるのですが、これがはっきり言って地味です。海底にいるゴジラに潜水服で近づいてオキシジェンデストロイヤーを仕掛けるというものですが、ここで盛り上げないのが、SFらしからぬ展開と言えますし、反核映画の部分を語りきった後のエピローグだということもできます。最後の「このゴジラが最後のゴジラとは思えない」というセリフは、続編への種まきという見方もできますが、核実験や兵器競争がまだ続いていくというメタファーとも言えます。

テレビ番組で、数カット見ただけでは、この映画の全貌はわからないと思います。何しろ、怪獣映画というジャンルが成り立つ前に作られた映画なので、定番とかパターンがないので、今の怪獣映画よりも自由に作られている映画だと思います。そして、これ以降に作られた怪獣映画で「ゴジラ」のパターンをもとに作られている映画がないってのも面白いところです。怪獣映画のパターンを盛り込んだオリジナルは続編「ゴジラの逆襲」でして、そのパターンは「キングコング対ゴジラ」で確かなものになったのだと思います。それだけに、「ゴジラ」はシリーズ番外編とも言うべき内容の映画に思えてしまうのでした。

「プライスレス 素敵な恋の見つけ方」は高嶺の花は高くつくというお話

新作の「プライスレス 素敵な恋の見つけ方」を109シネマズ川崎9で観てきました。切符切ってから、ウネウネと歩いて奥の奥にある映画館。プログラムが薄いのにハードカバーなのは読みにくいぞ。

フランスのリゾート地、高級ホテルのウエイター、ジャン(ガド・エルマレ)は夜中のバーで転寝していると、そこへ連れが眠ってしまって手持ち無沙汰になったイレーヌ(オドレイ・トトウ)がやってきます。どうやらリゾート地の金持ちを渡り歩いているらしいイレーヌは、ジャンをバーの客と間違えて、二人はいい雰囲気になって、気の大きくなったジャンは彼女を最上級の部屋へ連れ込んで一夜をともにしてしまいます。そして、1年後、またしても同じ状況になった二人、でも今度はイレーヌの彼氏が気付いて、彼女は身一つで放り出されてしまいます。そこで、彼女は今度はニースに一稼ぎしようと向かいます。ところが、イレーヌのことが忘れられないジャンが追いかけてきます。イレーヌはジャンの貯金を使って贅沢三昧。ついには、別れる二人なんですが、イレーヌはすぐにオヤジを見つけて贅沢再開、ジャンも同じホテルの客の初老のマダムに目にとまってジゴロ状態。しかし、どっちも相手が気になるもんだから、パトロンにちょっと不義理なんでないかい?

ピエール・サルヴァトーリ監督によるフランスのラブコメディです。まあ、恋愛ものというのは男女がくっついたり離れたりするものなんですが、この映画では、そのくっついたり離れたりの繰り返しを生業(なりわい)としている人々の物語です。ヒロインのイレーヌは観光地の高級ホテルやバーに出入りして手ごろな金持ち男をつかまえては、贅沢しまくって、頃合を見て、また次の男を物色するというのを繰り返しているようなのです。そんな彼女もそろそろを身を固めたいと思っていて、婚約指輪をもらったところだったのですが、ジャンとの一夜がばれて、彼氏に捨てられてしまいます。そこで、今度はジャンに頼ろうとしたところ、実はジャンはただのバーテンとわかって大打撃。それでもめげずにニースで次の男を捜すあたりは、こういう生き方がフランスではそれなりに認められているのかしらって思っちゃいます。日本流に言えば、金持ち専門のナンパ待ちですからね。こんなのに入れ込んでは、只のウエイターのジャンがいくら大枚はたいても、貢ぎきれるものではありません。まあ、そのあたりを見越したイレーヌは、そろそろの頃合いでジャンに別れを告げて、別の男をつかまえます。まあ、お互いに身分相応のやり方で生きたほうが面倒は少ないです。なのに、ジャンにはまだ未練があって、一方イレーヌの心にも焼けぼっくいが残っていたのです。

それでも、ジャンが去ってくれれば、自分のビジネスに専念できるイレーヌだったのですが、ジャンがこんどはマダムのパトロンを見つけちゃったので、同じ高級ホテルの同じフロアで二人は顔を合わせることになります。ジャンはいわゆるジゴロ、日本流に言えば男妾か若いツバメ(これは死語かな)ということになります。本人が狙ってやったのではなく、何となくそうなっちゃったのですが、ここで、同業者になったイレーヌがジャンに貢がせ方のノウハウを教え込むところは面白かったです。マダムへのおねだりもうまくなったジャンなのですが、やっぱりイレーヌが気になります。イレーヌだってレクチャーしてあげるってことはそれなりの気持ちをまだジャンに持っているのです。

その後、イレーヌとジャンが抱き合っているのを、イレーヌのパトロンに見られて、荷物全部持ってかれちゃうというアクシデントがあって、また新しい相手を見つけるためにパーテイに赴くイレーヌなのですが、そこで昔彼女を捨てた男を見つけて、ちょっとした復讐をしてやろうとたくらみます。男の連れをジャンに誘惑させようとするのですが、いざとなると現場に飛んでいってジャンに抱きつくイレーヌ。うーん、これで、二人はホントの恋愛関係になったといえるのかしら。映画はここで終わっちゃうので、一応のハッピーエンドになるのでしょうけど、愛人関係から、恋人関係になるときのハードルってこんなに低いものなのかなあって感じさせるエンディングでした。

金持ちと囲われ者という縦の関係と、囲われ者同士の恋愛という横の関係が、もう少し明確な対比ができていたらもっと面白かったのではないかしら。そのあたりは、場数を踏んでいない私には理解力が足りないのかもしれません。でも、モノとセックスで結びついた主従関係と、愛情で結びついた恋愛関係が並行できるというのが、この映画の面白いところであり、私のような日本人には理解しがたい部分でした。まあ、日本でも、年増のお妾さんに若い大学生が恋をして、旦那と夜一緒に寝ているのを知りつつ想いが募るなんてこともあったのかもしれません(女郎と下男の恋とか)けど、ここまであっけらかんと割り切ってやってのけるのは、お国柄の違いのように感じられました。契約関係みたいなものなので、信頼が崩れたら一気に契約破棄になるという感じで、あまりドロドロしたものを感じさせない関係ってところなのかも。そう考えると、ラスト近くで、前の男に復讐しようなんて考えるイレーヌは、ゲームのルールから逸脱しているのかもしれません。そこを何となくかわいげのオブラートに包んでしまったのは、オドレイ・トトゥの演技力なのでしょう。彼女も「アメリ」の時の少女から、大人の女に近づいているのですが、どこかにヤンチャしてるという雰囲気があるのが、この映画を軽やかなタッチにまとめるのに貢献しています。相手役のガド・エルマレはつかみどころのないキャラで、愛人してるときも、イレーヌの恋人のときもあまり印象が変わらないので、トトゥの引き立て役を殊勝に演じたという印象でした。

「プライスレス」という邦題は、金での結びつきよりも、心の結びつきが大事だよというマスターカードのCMをうまくパクってはいるのですが、実際のところ、プライスレスなものはこの映画には登場しません。イレーヌとジャンの出会いも相手をグッドプライスと勘違いしたことによるものですし、最後に二人が結ばれるまでの贅沢三昧に、相当のお金が動いていますし、当の二人もそれなりのお金を失ったおかげで結ばれるのです。正直、この映画は「プライスレス」というよりも「タダほど高くつくものはない」が当たっているように思います、少なくとも、贅沢知らずの一般庶民には。

「燃えよピンポン」は「燃えよドラゴン」のパロディです、念のため

新作の「燃えよピンポン」をTOHOシネマズ川崎3で観てきました。こじんまりとまとまったいかにもシネコンらしい映画館です。

かつては名ピンポン天才少年だったランディ(ダン・フォグラー)は今やデブのピンポン芸人。そんな彼のところにFBI捜査官ロドリゲス(ジョージ・ロペス)が犯罪王フェン(クリストファー・ウォーケン)の逮捕に協力してほしいと言ってきます。フェンの主催するピンポン大会に出場して彼のアジトに潜入しようというのです。そのためには、ピンポンの実績を作らなくちゃいけないということで、中華街のワン老人(ジェームズ・ホン)を訪ねます。コーチは彼の姪マギー(マギー・Q)でなぜか美人でケンカも強い。そして、ランディは修行の末、中華街で一番強いと言われるドラゴンを倒し、フェンからの招待状を手にします。さて、南米の奥地になるフェンの城では世界からピンポンの凄腕が集まってサドンデスのトーナメントが始まるのです。

原題が「Balls of Fury」という「Fist of Fury」のパクリ。そしてメインストーリーは「燃えよドラゴン」のパロディ。クンフーをピンポンに替えてやってます。とはいえ、「燃えよドラゴン」はコアなファンがいるとはいえ、もう30年以上前の映画です。それに今イチ不安だったのが、カンフーをピンポンに置き換えるのはどーなのってところ。主人公のライバル役で出演もしているトーマス・レノンと監督のロバート・ベン・ガラントが共同で脚本を書いているのですが、いわゆる昔のファンのハートをくすぐるネタはほとんどなくて、「燃えよドラゴン」をベースに別の映画を作りましたという感じの映画でした。

挫折した主人公が、奮闘努力の末、最後に勝利をおさめるというと、快作「おれたちフィギュアスケーター」が記憶に新しいのですが、基本ラインは大体同じなんです。これって、いわゆる定番パターン、少年ジャンプの「友情、団結、勝利」みたいなものです。主人公が見た目に難ありというのも同じです。今回のダン・フォグラーはデブで毛深い、脂っこいというヒーローとしては三重苦なお方なのですが、この主人公は最後まで三重苦のままなので、なかなか感情移入しにくいキャラになっています。なのに、可憐なマギー・Qと相思相愛になるというとんでもない設定、二人のラブシーンは、見る者にとっては文字通りのお口汚しでございました。一体、いくらもらって、あのラブシーンを引き受けたのか?マギー嬢!

ピンポンのシーンはCGを使っているようなんですが、1対4でのピンポンはなかなかに楽しい見せ場になっていまして、試合になってからの1対1の闘いになると、あんまり見せ場にならないのが残念というか、そもそも、ピンポンで「燃えよドラゴン」しようってのは、無理があったのかもという気がしてきます。レノンとガラントの脚本をその根本的なところには手をつけずに物語の趣向を凝らすことでお客さんを楽しませようとしています。というより、小ネタをあちこちにバラまいて笑いをとろうという作戦なのです。こういうパロディベースのギャグつるべうちというと、「フライング・ハイ」とか「裸の銃を持つ男」を作ったジム・エブラハムズ&ザッカー兄弟という先人がいます。今回の「燃えよピンポン」と先人とのを比べると、「燃えよピンポン」はギャグの密度が薄いのですよ。変に笑いの決めのところで間を空けたりする(「さ、どーだ、面白いだろ?」というポーズの時間)ので、テンポがなかなかはずんでこないのですよ、ピンポンなのに。(← これはオヤジギャグ)

じゃあ、もっとシュールな笑いに行くかというとそうでもなくって、試合で負けた方が即吹き矢で殺されるという趣向もブラックな笑いにまで持っていけてなくて、フェイに囚われた連中がみんなオネエマンズだったというゲイネタがちょっと面白かったくらいです。また、クライマックスは「燃えよドラゴン」だと鏡の間の決闘という見せ場があったのですが、この映画では、主人公とフェイが電流爆破ピンポンマッチをするのがクライマックスになります。こう書くと面白そうに聞こえますがやってることはラケット持ってピンポンなので、画面に華がないのですよ。ここで、主人公がブルース・リーならそのキャラで見せ場にまで持っていけるのですが、残念ながら、デブ、毛、脂のヒーローではそこまで盛り上げるのは無理でした。(← きっぱり)まあ、この映画を「燃えよドラゴン」とまともに比べようというのは無茶な話というのは承知の上なんですが、「おれたちフィギュアスケーター」と比べても盛り上がりに欠けたのは、演出に、バカとシリアスのメリハリが足りなかったからではないかしら。

「燃えよドラゴン」のパロディというと、ジョン・ランディスの「ケンタッキー・フライド・ムービー」の中の1エピソード「Fist of Yen」があります。これは、カンフーはカンフーのままで、「燃えよドラゴン」のストーリーを展開し、あちこちにナンセンスなギャグを散りばめた珍品なんですが、それに比べても、「燃えよピンポン」はお笑いで負けてる感じがします。ピンポンをネタにして、真面目なドラマを作って、そこにギャグを織り込んだ分、マジメ過ぎたのかもしれません。とはいえ、お気楽に観る分には楽しめますし、マギー・Qは魅力的でした。女性の中には主人公に生理的拒否反応を起こす方もいらっしゃるかもしれませんから、先に言いますが、この主人公は、「おれたちフィギュアスケーター」のウィル・フェレルより、もっとデブで、もっと毛深くて、もっと脂っこいです。

「接吻」は後半でガッツリ見応え

新作の「接吻」をユーロスペース1で観てきました。こじんまりとしてますが観やすい劇場です。もう少し前の席との空間があればもっといいのですが。しかし、この映画は、観客のほとんどがオジさんなのにビックリ。普段とは違う客層での映画鑑賞でした。

何の関係もない人の家に入り込み家族3人を惨殺して、クレジットカードなどを盗んだ男、坂口(豊川悦司)は、自分からマスコミに連絡して、そこへ警察もやってきて逮捕されるのでした。その模様をテレビで観ていたOLの京子(小池栄子)は、彼の中に自分と通じ合う何かを感じ、新聞の記事をスクラップし、彼についてノートをつけ始めます。一方、国選弁護人の長谷川(仲村トオル)が坂口を担当することになるのですが、坂口は一言も話そうとはしません。初回の裁判の後、京子は坂口に差し入れをしたいと長谷川に申し入れます。それから、京子は坂口に何度も面会するようになり、自分と坂口は一体なのだと実感するようになります。どちらも人に愛されず、マトモな扱いをされずに我慢だけしてきたという京子。刑が確定してしまえば、面会もできなくなると聞いた京子は、婚姻届を書いて長谷川に託すのでした。死刑判決が下って上告の期限が迫ることから、何とか上告させようとする長谷川に坂口はなかなか首を経てに振りません。京子はいよいよ二人だけの世界に幸せを感じるようになるのですが、その世界が思わぬところからほころびが入っていくのでした。

万田邦敏監督による濃い愛の物語です。あまりこの監督のこととか映画の内容は知らなかったのですが、雑誌に小池栄子さんがすごい、とあったので食指が動きました。確かに彼女の演技は108分の映画をハイテンションで走り抜けていました。

京子はいつも周囲の人間からいいように扱われているのですが、それを淡々とこなして、不満な顔を見せません。要するに扱いやすい人間として、ある意味重宝されているのですが、そんな彼女に友達はいないようです。そんな彼女がテレビで坂口が報道陣の前で逮捕される瞬間を見ます。その時の坂口の笑いに似た表情が京子の中のスイッチを押してしまったようです。京子は彼についての記事をスクラップして、彼のことを一途に思うようになります。もう自分には彼しかいない、彼にとっても自分しかいない、そういう思い込みって普通は相手にとって恐ろしいものになっていくのですが、この映画では、彼女の思い込みが坂口にジャストミートしてしまいます。そう見せてるだけなのかもしれませんが、坂口は彼女の想いに閉ざした心を開いていきます。結婚の申し出も受け入れてしまいます。

京子は自分と坂口が同じだと信念があります。だからこそ、二人は一緒であるのが正しいことだと思い込んでいます。また、そうすることで、自分たちを見下した世間をあざ笑ってやるのだといいます。それに値するだけの扱いを、自分も坂口も受けてきたのだから、と。彼女は、坂口という人間に愛情を感じているように見えるのですが、実際、坂口という人間を正面から見ているのかというとどうもそうではないようです。自分と同じに見える坂口を想っているのですが、彼が自分とは別の人間らしいと見えてくると様子が変わってきます。



この先は、結末に触れますのでご注意ください。



長谷川は国選弁護人として、何とか坂口の口を開かせようとします。その一方で、どんどん坂口にのめり込んでいく京子を心配して、説得しようとします。映画の中盤までは、坂口と京子の世界は完全です。結婚の件を長谷川がリークした結果、マスコミに追われるようになる京子は、バカにしたような笑顔でマスコミ陣をやりすごします。それこそが、世間に無視され続けた彼女の復讐なのであり、それは坂口がマスコミ前で逮捕された時の笑顔と同じものなのでした。

しかし、長谷川の熱心な説得が坂口の心を動かし始めるのです。京子にも話さなかった事件のときのことを長谷川に話し始める坂口。眠っていた彼の人間性が少しだけ呼び覚まされたようです。そして、彼は長谷川の申し出通り、再審請求を認めるのです。また、長谷川は、思い込みで突っ走る京子を心配し、京子が長谷川にとって特別な存在になってくるのでした。こうして、長谷川の存在が、京子と坂口の二人きりの世界を侵食し始めるのです。

坂口が再審請求を自分に何も知らせずに決定したことは、京子にとって共同体が壊れたようなものです。さらに、長谷川が自分のことを気にかけているということは、誰からもまともに扱ってもらえなかった京子にとっては、まったく新しい経験です。長谷川は職業倫理と善意から、二人の世界に風穴をあけてしまったのです。そして、これまで完全だったはずの関係に、悲劇的な結末が訪れることになります。

拘置所長の判断で、衝立のない場所で坂口と京子が会える機会が与えられます。長谷川もそこへ立会います。京子は、坂口のためのバースデーケーキを買って、ハッピーバースデーを歌い、歌い終わったとき、坂口をナイフで刺します。坂口は一切身動きしないままこと切れるのです。さらに長谷川も刺そうとするのですが、それはかなわず、京子は長谷川に接吻します。「一人じゃ死刑にならないんだよー」という取り押さえられた京子の声。連行される京子に向かって長谷川が「ぼくが君を弁護する」と言い切ります。それは、長谷川の愛の告白のようでもあります。それに対して京子が、「私のことは放っておいて」と叫びます。いくつもの方向を持った愛が交錯するのが圧巻のラストでした。ここまで心をえぐるような展開になるとは思っていなかったので、ちょっとあっけにとられましたが、強烈な結末と言えましょう。京子にとって長谷川は、自分を世間に引き止める善意の存在です。しかし、彼がいたら、自分の立っている足元から崩れてしまう、でも、彼こそが最後の生の希望でもあるのです。決着は色々な解釈ができますが、自分が作った理想の世界を自ら壊さざるを得なくなったヒロインの気持ちは完全には読みきれませんでした。

万田邦敏監督の演出は主要登場人物を3人に絞りこんで、テンションの高いドラマを引っ張っていきます。小池栄子さんの演技がすごい濃いキャラなんですが、リアルな演技でドラマの中に溶け込んでいるのが見事でした。豊川悦司さんはわかりにくいキャラですが、受けの演技で最低限の感情の動きでドラマを支え、仲村トオルさんは中盤まで脇役のように見せておいて、ラストでキーパーソンになるという儲け役ながら好演していました。

ゲテもの映画がメジャーだった頃もありました (その2)





前の記事でゲテもの映画がすごくいい扱いをされていた時代の第2弾です。やっぱり、ホラーがブームな時代があったわけでして、「ファンタズム」ですとか「ゾンビ」といった大作でもないゲテものホラーが有楽座や日比谷映画といった銀座の大劇場にかかっていたという、好きな人にはたまらん時代があったわけです。この当時はレンタルビデオがぼちぼち出回り始めた頃なんですが、映画館でゲロゲロもののホラーをやっていれば、レンタルビデオ屋もホラービデオでお客さんを集めていた時代です。なぜ、それだけのニーズがあったのか今となっては想像がつかないのですが、エロビデオがピンク映画を凌駕していた一方で、ホラーは共存共栄だった不思議な時代です。

また、新聞広告もかなり刺激度が高くなっていて、「13日の金曜日 Part3」は立体映画ということもあって新聞広告まで立体です。青と赤のメガネをかけると飛び出して見えるというものです。まあ、実際のところ飛び出すところまではいかないのですが、絵に奥行きが出るくらいの効果はあります。また、「地獄のモーテル」「ゾンゲリア」は新聞広告としてもかなり過激なものになっていまして、映画の見所をまんま広告にしちゃっているところがすごいです。ただ、宣伝ということから言えば、どちらも広告が期待を裏切らない内容になっていますから、過大広告にはあたらないのですが。(でも、ちょっとイヤーンかも)

新聞広告っていうのは、しょっちゅう映画館へ行けるお金もない学生時代には、映画チラシに匹敵する映画コレクションでした。ビンボくさいと言えばビンボくさいんですが、お手軽お安いコレクションとしては、牛乳瓶のフタに匹敵するのではないかしら。(ん?負けてるかな。)

「ジャンパー」は主人公のヘタレにどこまで耐えられるか

川崎チネチッタ4で新作の「ジャンパー」を遅ればせながら観て来ました。いつもならドルビーデジタルのロゴが出る筈なんですが、JBLのスピーカーシステムのロゴが出ました。これ、デジタルではなくアナログのドルビーSRによる上映だったようです。フィルムの切れ目でプツって音がしましたし。

デヴィッド(ヘイデン・クリステンセン)は学生時代に氷の張った池で溺れたときに、自分に転送能力があるジャンパーだと気付きます。彼は家を出て、銀行の金庫室にジャンプして金をかっぱらって、好き放題の呑気な生活を送っています。そして、8年後、デヴィッドが部屋に帰るとローランド(サミュエル・J・ジャクソン)という男が彼を待ち構えていました。彼のジャンプの動きを電気ショックで制して、どうやら彼を殺そうとしている様子。寸での所でジャンプに成功するのですが、ジャンパーを組織的に殺そうとしている連中がいるらしいのです。一方、デヴィッドは昔の憧れの人ミリー(レイチェル・ビルソン)を訪ねて、彼女の夢だったローマへと向かいます。しかし、そこへも追っ手がやってきます。窮地のデヴィッドを同じジャンパーのグリフィン(ジェイミー・ベル)に救われ、彼からローランドがジャンパーを抹殺するためにいるパラディンだと知らされます。関係者を皆殺しにするパラディン、だとするとミリーが危ない、果たしてデヴィッドは彼女を救うことができるのか。

スター・ウォーズで共演した、ヘイデン・クリステンセンとサミュエル・L・ジャクソンが敵対する関係で共演するSFアクション映画です。「Mr.&Mrs スミス」という私にとってはどこが面白いのかさっぱりわからなかった映画を作ったダグ・リーマンが監督していまして、アクションシーンをキビキビとさばいてテンポの良い映画に仕上げています。

と、ほめるのはここまで。映画はのっけから、主人公がやりたい放題やってくれます。自分のジャンプ能力で空間を瞬間移動できることを知って、銀行から現金を盗み出します。ジャンプできる場所は一度行ったことがあるか、印象の強い場所らしいのですが、その能力を自分の怠惰な生活のために使っているようで、そのこと自体は構わないのですが、その元手は銀行から盗んだ金で、それについては罪の意識もないようなので、全く持って共感できないのです。別に「大きな力には大きな責任が伴う」とスパイダーマンみたいなことは言いませんが、せめて自分で稼いだ金で贅沢しろよといいたくなります。一般市民の金を掠め取って贅沢なんて、日本の役人と同じです、その時点で、もうサイテーな奴だと言えましょう。

それに、自分が命を狙われているとわかった後に元カノに会いに行くというセンスがわかりません。まあ、彼女に会うだけならともかく、一緒にローマ行っちゃうってのはどーなの? 彼女が自分と一緒にいるのが危険だという認識がないみたいです。ローマのコロシアムでルール破って侵入しちゃう駄々っ子な一面もかわいくないし、事情をグリフィンから教えてもらっているという謙虚さもなく、ゴーイングマイウェイのグリフィンを自分の事情に無理やり引っ張り込んでしまいます。さらに自分がモタモタしていてミリーをグリフィンにさらわれてしまい、恩も義理もあるグリフィンと揉めた挙句、電流ぶつけて後もフォローなし。デヴィッドに巻き込まれるミリーもグリフィンもみんな面倒なことになるところは、まるで疫病神の如し。

これだけでも観ていてイライラさせられる主人公なんですが、ローランドにやられそうになったときに「オレは他の奴とは違うんだ」とぬかすには、もう限界越えのドン引き状態。散々ドンくさい真似ばっかりしてきたくせに、自分は特別だなんて、よく言えたもんだ。そして、最初はローランドを殺すと言って、グリフィンを巻き込んだのに、ローランドを殺さずに置くという続編への媚びがまたいやらしい。

こんな倫理観皆無なガキにジャンパー能力を与えちゃうと、普通の人々は好きにされちゃうから、やっぱり殺しておく方がよいのではと思わせる展開は、狙っているのかしら。もし、そうなら、ブッシュのようなアホに大統領の権限を与えるのは危険であるということを暗示している映画なのかもしれません。リーマン監督はこの映画をどういう趣旨で作ったのか。単純ヒーローものなら、それなりにクローズしているのですが、人間ドラマを描いたとすれば、全部裏目に出ちゃった感じです。

1時間半にまとめているところは評価しちゃうのですが、とにかく主人公がバカすぎて共感できない映画になっちゃいました。ダイアン・レインとアンナソフィア・ロブが殺伐とした物語に華を添えています。主人公の彼女役のレイチェル・ビルソンは、気の毒過ぎてかわいそうな人に見えてしまいました。

「ヒトラーの贋札」はユダヤ人収容所の実録モノとしては不思議な味わい

新作の「ヒトラーの贋札」を横浜シネマベティで観てきました。こういう映画が横浜で観ることができるというのはありがたいし、そこそこお客が入ってる(でも過半数はシニア)ので、この映画館が長続きすることを祈るばかりです。

第二次大戦後モンテカルロを訪れて遊興三昧する男。彼はユダヤ人サロモン・ソロビッチ(カール・マルコヴィクス)、戦時中は収容所に入れられていました。もともと彼は贋札作りだったのですが、警察に逮捕され、そのまま収容所へと送られます。そして、収容所で彼と一部の人間は特別な棟に隔離され、ベルンハルト作戦と名付けられた、贋札による敵国の経済混乱を起こさせようとするものでした。サロモンは贋札作りのリーダーとして、まず贋ポンド札をつくり、それがイングランド銀行でもばれなかったことで、さらに彼らに与えられた任務は贋ドル札を作ること。命がけの贋札づくりに励むサロモンたち。そんな中、チームのブルガー(アウグスト・ディール)はドイツ軍に協力することを潔しとせず、贋札作りのサボタージュを行います。なかなか出来上がらない贋ドル札に不審を抱いた収容所長はあと4週間で出来上がらないとチームの5人を殺すと脅しをかけてきます。それでも、サボタージュをやめないブルガーを密告しようというものも出てくるのですが、サロモンはそれを制します。果たして彼らは収容所で生き残ることができるのでしょうか。

第二次大戦中、実際にドイツ軍が行ったベルンハルト作戦を題材にした人間ドラマです。原作は物語の中のブルガーが書いた「ヒトラーの贋札 悪魔の工房」で、それをもとにステファン・ルツォヴィッキーが脚本を書き、演出もしています。題材はユダヤ人収容所であり、収容されたユダヤ人が主人公なのですが、ベルンハルト作戦に従事した者は、普通のユダヤ人より待遇もよく、他のユダヤ人との接触も禁じられていました。その分、他のユダヤ人への負い目も感じていたようです。

サロモンはチームのリーダーとして、誰も殺されないように画策します。結核の若者を隔離したり、彼のための薬を調達しようとします。サボタージュを続けるブルガーを密告することを止めたり、その陰で贋ドル札を自力で作って仲間の命を救ったりと、自分の立場をわきまえた最善を尽くすのですが、ブルガーはこの作戦を失敗させようとしてサボタージュを続けて他のユダヤ人が殺されるのもやむなしと思っています。極限状態の中で、こんな奴は迷惑極まりないのに、肯定的に描かれているのはなぜかと思ったら、このブルガーが原作小説の作者で、かつ今も健在なんですね。うーん、それじゃあボロクソに描けないでしょうね。解放後に、ブルガーのことを、ベルンハルト作戦を遅らせた男として、他の収容者に紹介するシーンがあるんですが、確かにそれくらいのフォローがないと、主人公と対立する悪役になっちゃいます。うーん、でもどうなのかなあ、家族をみんな失ってヤケを起こしているようにも見えるところがあって、やっぱり迷惑な人に見えてしまうのでした。

収容所長が一筋縄ではいかない男で、自分で直接に手を下すことはしない、そして、贋札を作る連中にはそれなりの待遇を与えているのです。確かに仕事のすすまないサロモンを脅迫もするのですが、どこかドイツ軍を客観視しているところがあり、優柔不断な小悪党という顔を見せるのが興味深かったです。きっと、他の収容者にはひどいことをしているのはわかるのですが、それについての大義名分もなさそうです。この収容所長を見ていたら「スペシャリスト 自覚なき殺戮者」という記録映画を思い出しました。ユダヤ人収容所移送の責任者アイヒマンの戦犯裁判を描いたものなんですが、ユダヤ人虐殺の元締めだった男が見るからに小役人で、自分は上かの指示に従順に従っただけだと証言するのです。何で、こんなただのオヤジが大虐殺の元締めなのかと思わせる不気味な映画でした。贋札作りの元締めである所長にも、小賢しい顔はありますが、ユダヤ人虐待の顔は見えないのです。最後はソロモンに銃で脅されて醜態を見せるあたり、リアルな人間のありようとして描かれているのです。映画は、ソロモンと収容所長を中心に展開するのですが、ある意味スーパーなソロモンよりも、収容所長の方が人間味があるように思えてしまいました。

時代が戦後に戻ると、モンテカルロで無茶なバクチをやって金を使いまくるソロモンを見せて映画は終わります。ベルンハルト作戦の後のソロモンにもたらしたものが何かは描かれないでしたけど、贋札犯の悪党だった彼の中で何かが変わったことを暗示する結末でした。

「バンテージ・ポイント」は物語の面白さが仕掛けの面白さに追いつかないのが惜しい

新作の「バンテージ・ポイント」を川崎チネチッタ12で観てきました。ここは大きなスクリーンですが、その分、鑑賞のベストポイントがたくさんあるのがうれしい劇場です。

スペインのサラマンカ、マヨール広場では、テロ撲滅サミットが行われようとしていました。多くの見物人の中、アメリカのアシュトン大統領(ウィリアム・ハート)が登壇したところ、銃声が響き、大統領が倒れます。広場の中は大騒ぎになるのですが、SPのトーマス(デニス・クエイド)は大統領の狙撃犯を追おうするのですが、次の瞬間、広場の大爆発が起こります。その広場でずっとあちこちをデジカメで録画していたハワード(フォレスト・ウィッテカー)は撮影した人々の中に気になる人物を見ていました。そして、映画は関係者の各々にフォーカスして、狙撃前から爆発後までを繰り返し見せていきます。その中から浮かび上がる事件の真相とは?

一つの事件を何人かの視点で何度も繰り返してみせることで全貌がわかってくるという仕掛けの映画です。古くは「羅生門」「現金に体を張れ」、近年では「エレファント」で使われている仕掛けですが、監督のピート・トラビスは、偶然と必然を織り交ぜながら、実時間で30分程度のお話を1時間半に膨らませました。とは言え、最近の映画で1時間半というのは短い映画の部類に入りますし、トラビスの演出はテンションを上げっぱなしで最後まで突っ走ることに成功しています。個人的には1時間半以下の映画って、それだけで好印象を持ってしまいます。だって、無駄に長い映画が多いんだもん。

冒頭はテレビ中継車の中、レックス(シガニー・ウィーバー)の視点から事件の様子が描かれます。大統領が狙撃され、その後の爆発でレポーターの死体を固定ショットで映すカメラ、カメラマンもおそらく生きてはいないでしょう。アメリカへ向けての中継がショッキングな事件映像になってしまいました。この時点では、狙撃事件と爆破事件が立て続けに起こったことしかわかりません。後は1年前に自分を盾に大統領を守ったSPトーマスが復帰していることがわかります。

そこで画面が高速反転して、事件の起こる前の12:00までさかのぼります。ドラマは、大統領警護に向かうトーマスを追っていきます。彼の視点からも事件の全貌は見えてきません。その後、目撃者ハワード、大統領、スペイン人警官、そして犯人たちへと視点が移っていくことによって、事件の全貌がわかっていくのですが、真相をちょっとずつ見せながら、観客の興味を引っ張っていく展開はうまいと思いました。ただしミステリーという点からいきますと、もっと手札を観客に見せながら、意外性のある展開もできたのではないのかという気もしました。構成に知恵を使っているわりには、本筋が偶然に振り回されているので、ラストの決着には何だか、「あ、そうなの?」って、ちょっと冷めちゃうところがありました。ラストの弱さをカバーするために、登場人物のドラマに色づけをしているのですが、1時間半では語りきれないところもあり、痛し痒しと言ったところです。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



実は、大統領が広場に向かう前に、テロ組織から脅迫状を送られていました。そのため、大統領は替え玉にすり替えられていたのです。しかし、その工作はテロリスト達には想定内であり、本物のいるホテルに実行部隊を送り込んでいたのです。そして、爆破事件と同じくして、ホテルでも爆破が起こり、そのどさくさの中で、大統領のいるフロアがたった一人のテロリストのために全滅させられてしまいます。一人にやらせるテロ組織もテロ組織ですが、一人にやられちゃうSPたちもどうなの?って気がしました。こういうのが詰めが甘いと見えてしまうのですよね。

一方、トーマスも事件の再生ビデオから、仲間のSPに裏切り者がいたことを発見し、彼を追跡し始めます。ここからのカーチェイスは狭い道を暴走する車を様々なアングルから撮っており、大変迫力のあるものでした。ただ、この後が今一つでして、犯人側は自滅への道を突っ走ってしまうのですよ。偶然とは言え、運の悪い犯人でして、結局SPのトーマスはヒーロー足り得ず、いわゆる漁夫の利を得たというだけになっちゃいました。それよりも、デジカメオヤジのハワードがヒロイックな行動に出るので、彼が主人公に見えてきちゃいました。単なるいい人で登場し、ちょっとおせっかい行動からラストにヒーローになるまでを、フォレスト・ウィッテカーがいつもの善人キャラで好演しています。(「ラスト・キング・オブ・スコットランド」のアミン役は、彼としては例外的な役どころでした)

この映画は、報道局側からの視点を最初に持ってきたことで、メディアは実相を全て押さえているわけではなく、緊急の際は無力であることを示しています。狙撃と爆破、その真相が小出しにされていくのを、同じ時点を別の視点で繰り返すことで見せています。ただ、見せ方としては、もっと工夫があってもいいかなあって印象でした。必ず同じ時点に戻る必要もないですし、不要な視点(スペイン警官の視点)もありましたし、よりコンパクトにまとめることができたのではないかと思います。結末も犯人側の自滅ではなく、トーマスの逆転サヨナラホームランを見せて欲しかったです。もし、こういう結末にしたいなら、救急車の事故場面から、映画を始めて、時間をさかのぼっていく手もあったように思います。1時間半を面白くまとめてある映画何ですが、こういう時間軸を繰り返す映画は、「羅生門」以外にも「ラン・ローラ・ラン」「戦火の勇気」「エレファント」など面白い映画が多いので、つい期待してしまうのでした。

「レンブラントの夜警」は予習しておけばよかった

新作の「レンブラントの夜警」を渋谷ユーロスペース1で観て来ました。こじんまりとした観易い劇場でした。でも、円山町っていうラブホ街にあるんですよね。だから、どうしたと言うとどうにもならないんですけど。

画家として既に名声を勝ち得ていたレンブラント(マーティン・フリーマン)は色々なスポンサーから肖像画を依頼されていました。彼はアムステルダムの市警団から肖像画を依頼されたものの気が進ませんでした。しかし、妻サスキアと生まれてくる子供のためにその仕事を引き受けることになります。しかし、市警団の人間に堕落と陰謀の影を見てとったレンブラントは彼らを告発する暗示を絵の中に盛り込んでいきます。絵の完成と符合するようにサスキアは息子ティタスを残して息をひきとり、レンブラントはその時初めて彼女への愛を痛感することになります。一方、完成された絵は市警団を激怒させてしまいます。しかし、市警団は表立った行動をとらず、レンブラントを徐々に自滅させていくように画策するのでした。市警団から送り込まれた乳母ヘールチェの肉体に溺れていくレンブラント。しかし、我に返った彼は真実の愛に気付くことになります。

ピーター・グリーナウェイが脚本、監督を兼任した、実在の名画にインスパイアされたフィクションです。私はこの映画に予備知識ゼロで臨んだので、入り組んだ人間関係がよくわからなくて、プログラムで復習することになりました。それでも、レンブラントが告発しようとした陰謀の全貌まで説明していないので、映画を鑑賞できたとは言えない状態です。でも、映像の美しさは見ものでして、光と影、さらに影の中にまで人物を配した絵は、美しくもどこか不気味で、この映画の持つ、奥行きのある陰鬱な空気を見事に表現しています。

レンブラントが普通の肖像画としてお客に提供していたのは、書かれる人を出した金額相応に配したもので、人物の描かれ方は高い金額を出したものほど露出度が多いものです。それでも、いやな奴にちょっとした細工をしたりしていたのですが、基本的にお客を満足させる内容でした。しかし、レンブラントの夜警は、肖像画の中に人間を均一に配することをせず、中央の人物に光が当たり、またお客でない人間も描かれ、さらには、画面から視線を投げるレンブラント自身が描かれているというものです。

これが、市警団の腐敗を表現しているのだということになるのですが、この絵が市警団を告発している絵だと市警団が理解していたかどうか今一つよく理解できませんでした。市警団はこの絵を見て憤るのですが、どこを見て憤ったのか。普通の肖像画とあまりにも違う構成だから、怒りを買ったのでしょうか。それとも、レンブラントの意図を読み取って自分たちを非難していたのか。もし、そうなら、市警団も絵心がわかっているなあってちょっと感心するところなんですが、絵のどこが市警団の気に障ったのかがよくわからなかったのですが、その結果、レンブラントの凋落が始まるという展開になっていきます。レンブラントという画家は、画商の伯父がいたことで、その生計を立てることができていました。その伯父が完成前の絵を見て、この絵は不吉だから、捨ててしまえというシーンがあります。やはり、絵の告発している内容はすぐに見抜けるものだったのかもしれません。

映画の中では、レンブラントをめぐる3人の女性が登場します。妻のサスキアと彼を誘惑するヘールチェ、そして最後の愛の対象となる召使のヘンドリッケ。それ以外に市警団の関係者であるケンプの孤児院にいる少女マリタとマリッケです。彼女たちは、孤児院の少女が市警団の男に買われていることの証人でもあります。マリタは、ケンプの養女ながら、熱湯を顔にかけられて醜い火傷の痕は一生消えず、さらに市警団の男たちの慰みものになっています。マリッケは、屋根の上でケンプの正体をレンブラントに語ります。そんな二人もレンブラントの作成意欲をかきたてるのですが、どうにも不幸すぎて、救われないのが気の毒でした。

レンブラントの夜警は単なる肖像画ではない、それは舞台だと看破するところが面白いと思いました。物語がその中に封じ込められているのだそうです。それは、市警団の陰謀や人でなしな行いを語っているのですって。それを絵から読み取るあたりは、市警団の絵心もあなどれないとも思ったのですが、その眼力には触れていないのは不思議でした。それとも、あの絵が平等でない肖像画という点でのみ非難されたのでしょうか。映画を観ているとそうは思えなかったです。レンブラントがもっとわかりにくい形で告発の内容を絵に織り込んでいたら、彼らに残酷な復讐をされることはなかったのかなとも思ってしまいました。登場人物が「あの絵はやりすぎだ」という発言をしているところからも、実際、もっとレンブラントにやりようがあったのではないかと。

映画としては、大変面白い題材を扱っていると思うのですが、この題材なら本でじっくり読みたいなという気もしました。物語は時としてファンタジックであり、ある時はセックスが前面に出てきたり、おどろおどろした陰謀の展開になったりと、グリーナウェイの脚本は、人間の欲望を中心に据えています。その分、絵に描き込まれた仕掛けについては、あっさりと流されているようにも見えます。とは言え、後で復習したくなるほど、興味を引く題材ですから、絵への興味をかきたてられたのであれば、この映画を堪能したと言えるのではないかしら。

ゲテもの映画がメジャーだった頃もありました






今はミニシアターでしか公開されなくなったゲテもの映画なんですが、1980年代はブームということもあったのですが、ゲテもの映画の扱いも大変よかったです。上記のようなB級ホラー映画が大劇場、しかも複数の劇場でどうどうと公開されていたというのは、今だとちょっと考えられないことです。「ザ・フォッグ」は日比谷の有楽座の他、今も健在の新宿プラザなど、大劇場で上映されています。ちなみにリメイク版の「ザ・フォッグ」は渋谷シアターN(ものすごくちっちゃい劇場)での単館公開ですからね、扱われ方がまるで違っていますし、それだけこの類の映画に人が集まったということです。

「プロフェシー 恐怖の予言」や「モンスター・パニック」は公害によるオドロオドロなモンスターが人間を次々に殺していくというものですが、どちらも同じチェーンでの公開になっています。こんな映画が銀座、新宿、池袋、上野で同時公開されていたというのは、今ではなかなか考えられないことだと思います。シネコンと違うのは、その劇場では、他の映画を併映せずにこれだけを1日中上映していたということ。「13日の金曜日PART2」に至っては、シネラマが上映可能なテアトル東京で上映していたのですから、この類の映画がいかにメジャーだったかがうかがい知れると思います。まあ、この類のB級ホラーがメジャーであった時代が異常だったのかもしれませんが、それにしても最近はゲテもの映画の扱いがちょいとひどいじゃないと思うことあります。ま、ニーズが怖い映画より、泣ける映画に移ってしまったからなのでしょうか、現状の泣ける映画なら何でも来いという状況も、また異常なのではないかしら。どうせ異常なら、ゲテものをもっと上映して欲しいなあと思ってしまうのであります。

「ここに幸あり」は幸せな人は幸せになるという映画なのかしら

このところやたら通っている横浜シネマベティで、昨年封切られた「ここに幸あり」を観て来ました。この映画館、去年見逃した映画が続々と公開されているので、近いこともあってつい足を運んでしまいます。

大臣のヴァンサン(セヴラン・ブランシェ)は自分の失言がもとで、職をおわれてしまいます。官邸にもいられなくなり、浪費癖のある愛人は彼のもとを去り、何もかも失ってしまいます。ヴァンサンはかつて住んでいたアパートに戻ってみれば、自分の部屋はアフリカ人に占拠されていました。秘密の隠し部屋に入れたヴァンサンは一息ついたのですが、外へ一歩出れば頭から汚水をかぶっちゃって大変。知り合いのロシア女性の親切にちょっといい感じ。ヴァンサンは、かつての友人、女友達の世話になっているうちに彼は失職の痛手から立ち直っていくのでした。

「月曜日に乾杯」のオタール・イオセリアーニが脚本、監督を担当したフランスコメディの一編です。物語はエピソードをつなぎ合わせた形で展開し、仕事もお金も住むところも失った主人公がその逆境もノホホンとやり過ごしているうちになんとかいい方向に向かってしまうというお話。宣伝では、大臣をやめて人間味のある生活を始めることで人生がいい方向に変わっていく、というお話だと解説していたのですが、別に主人公が周囲に新しい人間関係に癒されるという展開ではありません。旧交を温めることから、女性との出会いもあり、結構おいしいところを持っていくという展開は、逆境に対するしぶとさというか、要領のよさというか、或いはしたたかと言うべきか。主人公のヴァンサンは、大臣の職を失ったときも、取り乱すこともなく、泰然としています。かつて、仕事でのつながりのあったアフリカの大使も、彼に会うと、暖かく接してくれます。決して、一日にして、人間の存在が180度変わってしまうというお話ではありません。

ヴァンサンには、古い友人もいるし、助けてくれる人もいる、だからって、大臣の頃に比べたら、何と自分は幸せなんだろうと、感激するわけでもないし、友人たちに改めて感謝するわけでもありません。要は、ヴァンサンはどこも変わっていない、大臣からただの人になっても、本人はまるで変わるところなく、ノホホンとした日常を楽しんでいるという感じなのです。職もなく、金もないという苦境は冒頭にちょこっと語られるだけで、後はなーんとなくうまくやりくりしてるのですよ。大臣辞任の際、外にデモ隊がわんさか押し寄せているときと、大臣を辞職してただの人になっちゃったときで、本人まるで変わっていないのです。人間って、環境に振りまわされる動物ではないってのが、この映画から伝わってきます。浪費癖のある愛人もヴァンサンを去って、すぐ別の男にくっついて、また浪費三昧するというしぶとさがおかしかったです。また、ヴァンサンのアパートを占拠していたアフリカ人一家が、強制執行で立ち退かされても、橋の下でしぶとく生きてますってシーンもおかしかったです。そこに、酔っ払ったヴァンサンが転がり込んでいる絵のおかしさは、微笑ましくさえあります。「ここに幸あり」というよりは、「個々の人に幸あり」というほうが似合ってるのではないかしら。

ヴァンサンは愛人、元妻、女友達など、結構女性にモテるんですよね。これが結構うらやましい。彼を助ける女性は、後、母も妹も姪っ子もいて、決して孤独なんかでなく、周囲がにぎわっているのが、おかしかったです。これも、大臣であろうがなかろうが関係なし、ヴァンサンの人徳というか魅力によるものなのでしょう。結構いい年であるヴァンサンが、大臣を辞任したのを機に人生を振り返るという展開にならないのも点数高いです。今のことだけに関心があるヴァンサンの姿には、喪失感というものが感じられません。後任の大臣も政策失敗で辞任する羽目になるのですが、彼ががっくり落ち込んでいるのと対照的に、ヴァンサンの悠々自適な様子は、日本人の私からするとかなりうらやましく見えてしまいます。結局、人間としての魅力がその人に人生を決めるという、まあ当たり前のような話に収束していくのです。

エピソードの積み重ねで物語が進んでいくので、これといったクライマックスというものはないのですが、それも演出のうちのようで、細かいピースの組み合わせ(積み重ねかな?)から人生は成り立っているようにも見えました。ドラマチックでない映画で、人生というドラマを語っている感じでしょうか。

また、映画を観初めてしばらくして気がついたのですが、1シーンを長回しの1カットで見せるということをあちこちでやっていまして、それも、一度に何人もの人間を登場させ、舞踏の振り付けのように人間を動かしているのです。あるシーンでメインの人が別のシーンで通行人になったり、通行人だった人が別のシーンではドラマの前面に出てくる、といった仕掛けの面白さが印象的でした。かなり手の込んだ人員配置をして、それを一気に見せてしまうあたりは、舞台劇みたいなおかしさ、うまさが感じられました。セリフよりも人の動きのおかしさがメインになっているということもできます。ストーリーはシンプルなので、その仕掛けの方で感心することの多い映画でした。

「ビッグマグナム77」のサントラCDは30年待った甲斐がありました


今回とりあげるのは、やっとCDが出たという「ビッグマグナム77」のサントラです。スチュアート・ホイットマン主演の刑事ドラマでして、主人公トニーの妹ルイーズが殺害され、その犯人を追うというお話。音楽の作曲・編曲・指揮を「黄金の7人」などでイタリアの有名な作曲家アルマンド・トロバヨーリが担当しました。もう30年前の映画なんですが、最初に映画館で観たとき、音楽のカッコよさに「おおおぅ」となったのですが、当時は国内盤でサントラは出ず、輸入盤でLPが出ました。その時は、速攻で購入したのですが、イタリア盤だからか音質がよくなくて、同じLPを2枚買って聴いてました。それが、今年になってLPと同じ内容でCDがリリースされたのです。30年待った甲斐がありました。

タイトルバックの「ルイーズ」という曲は、トランペットソロをフィーチャーしたジャズです。出だしは気だるい感じながら、ホーンセクションやストリングスが入ってくると暖かい音に変わっていくという名曲です。そして、「トニーのマグナム」という曲がカーチェイスやアクションシーンのバックに流れる曲なんですが、ビートの聴いたジャズなんですが、パーカッシブなホーンセクションが重量感があってカッコいいんですよ。スピード感と重量感を兼ね備えているところが見事でして、この曲を聴きたくて、30年待っていたというくらいの名曲。メインテーマは上記2曲に集約されるのですが、その他、サスペンスシーンに流れる神経に障るジャズロック、謎解きのバックに流れる「トニーのマグナム」の旋律をドラマチックに盛り上げる曲など、聴き所が満載のアルバムになっています。

映画そのものは、あまり高い評価を受けていないのですが、私には音楽の良さもあって、大変面白い映画だと思っています。共演に「スパイ大作戦」のマーティン・ランドー、「燃えよドラゴン」のジョン・サクソン、「ヘルハウス」のゲイル・ハニカット、「サンゲリア」のティサ・ファローというB級映画ファンのツボを押さえているのも点数高いです。

「君のためなら千回でも」には歴史と個人の関係について考えさせられました

今回は新作の「君のためなら千回でも」を109シネマズ川崎6で観て来ました。ミニシアター系の映画をシネコンでやってくれるってのは、東京の封切館よりも大きな画面、いい音響で観ることができるというメリットがあります。まだ、東京のミニシアター系映画を全て横浜、川崎で上映してくれるまでにはなっていないのですが、頑張って欲しいものです。

所はアフガニスタンのカブール、金持ちババの息子アミール(ゼキリア・エブラヒミ)とその家の使用人の息子ハッサン(アフマド・ハーン・マフムードザダ)と兄弟のように育ってきました。おとなしいアミールとそんなアミールを守るハッサン。ハッサンは凧を飛ばしたとき、その落ちる場所を神業のように見抜くのです。そして、ハッサンの誕生日に買った凧で街の凧合戦に参加し、見事優勝します。しかし、その凧を取りに行ったハッサンをアセフたちが捕まえて暴行します。アミールはその現場を見ていたのですが、何もすることができず、何もなかったかのように振舞います。純粋なハッサンを見るたびに良心の呵責に悩まされたアミールは、彼に盗みの罪を着せてハッサン親子を家にいられないようにしてしまいます。そして、ソ連のアフガニスタン侵攻が始まり、アミール親子はアメリカへと逃れます。アミールは同じアフガニスタン人の娘ソラヤと結婚し、念願の小説の出版もできて、将来への展望が見え始めました。そんなところへパキスタンから1本の電話が入り、彼をパキスタンへ、そしてタリバン制圧下にあるカブールへ彼を導いていくのでした。

「チョコレート」「ネバーランド」のマーク・フォースター監督が、アラブ系の演技陣だけで作りあげたベストセラーの映画化だそうです。アフガニスタンを舞台に、私も知らなかった現代史の勉強になりました。冒頭の1970年代のカブールから物語は始まります。この頃はクーデターが起こった直後ですが、街には活気があり、子供たちは凧揚げ合戦を楽しみにしていました。その年の凧揚げ大会の日に事件は起こってしまうのです。ハッサンが暴行された現場を見ていながら、何もできなかったアミール。彼の自責の念は、ハッサンを避けるようになっていき、彼を目にすることだけでも、アミールは耐えられなくなります。ハッサンが本当のことを胸にしまって、アミールに忠誠を示せば、さらにアミールの心はズタズタになっていく。そんな、アミールはついにはハッサンに盗みの罪を着せて、親子ともども屋敷から追い出してしまいます。ずいぶんとひどいことをするアミールなんですが、そこに至るまでに、彼がどんどん追い詰められていくのをじっくりと見せることで、彼の行動は不愉快な説得力を持ってきます。

ハッサンがいなくなって、今度はソ連のアフガン侵攻が始まり、反共の立場をとっていたアミールの父親は、アミールを連れてパキスタンへ脱出しようとします。命がけの脱出行を経て、親子はアメリカで暮らしを立てられるようになっていました。短大を卒業したアミールは、医者になって欲しい父親とは別に物書きになりたいと思っていました。そんな中でソラヤという娘と知り合い、彼女と結婚したアミールはついに本を出版するにいたります。そんな彼に父の友人から電話があり、パキスタンに住む彼に会いに行くのでした。



この先は結末に触れますので、ご注意ください。



アミールはパキスタンで、ハッサンが死んだことを知ります。既にソ連はアフガニスタンから撤退し、タリバン政権が成立していました。ハッサンには妻と息子がいて、彼と奥さんはタリバンによって殺され、息子は孤児院にいることを知ります。さらに、ハッサンはアミールと異母兄弟であることも知らされます。父の友人は、アミールにカブールへ行くべきだと言います。なぜ、自分が?と思うアミールですが、ハッサンの息子、つまり自分の甥っ子を探す旅に出ることになります。

アミールは子供時代、ハッサンを避けるようになったころ、父親から「問題はすぐに何とかすべきだ、放っておけば、より事態は悪くなる」と言われたのですが、そのとおりになってしまいました。もう、ハッサンに謝罪することもできない。ハッサンが殺される数日前にアミールに託した手紙には、彼に対する信頼と会いに来てほしいという内容が書かれていました。今のアミールにできることは孤児院にいる甥っ子を探しだすことだったのです。カブールは子供時代とはすっかり変わっていました。木はソ連軍によって失われ、活気も人気もない街を、重装備したパトロール隊が走り回っています。そんな中で孤児院を訪ねたアミールは、ハッサンの息子ソーラブが連れ出されたことを知り、タリバンの居るところに乗り込んで、ボコボコにされながらも連れ戻すことに成功します。アメリカで凧揚げをするアミールとソーラブの姿で映画は終わりになります。

プログラムを読むと、贖罪と癒しの物語だと書いてあるのですが、結局、アミールは自分のしたことを謝罪し、彼の信頼に感謝することができないのです。結局、時の流れを止められない、覆水盆に返らずというお話なので、贖罪とは違うような気がします。アミールは今の自分にできることを選択するしかありません。ハッサンに対する罪の意識はアミールから一生消えることはないでしょう。それが、ソーラブに尽くすことでやわらぐとは思えないのです。

荒廃したカブールは元のような輝きを取り戻すことができるのでしょうか、それも難しいという見せ方になっています。また復興するときも来るのでしょうが、それは昔とは違う形になるように思えるのです。過去を振り返ったときに、どうしようもないことの方が多いのです。後悔だけでは、何も生まれない、それとは別に未来へ向けての一歩を踏み出さなければならないということをこの物語は描いているように思います。孤児院の院長がアミールに言います、「一人の子供を助けたい気持ちはわかるが、ここには200人の子供がいるんだ」と。アミールは自分のできることとして、ソーラブを助けようとするのですが、それがあくまで個人の中のこと、きつい言い方をすれば自己満足でしかないとも言えます。でも、未来に向けてできることの中からの最善の選択であることも事実でして、自分の過去を清算するのは難しいことです。それでも、人は未来へ向けてしか生きていけない、そんなことを考えさせる映画でした。

カブールのセットは中国に作ったのだそうで、エンドクレジットでも中国系の名前がたくさん見受けられました。アフガニスタンについての歴史はプログラムにも記述がありますし、知らない世界についての勉強になる映画でもありました。特にタリバンの言い分として、彼らはソ連に対して戦って勝ち得たものがあるというのは、そうかもしれない、でも、結果はおかしいとというところまで思い至らせるところがありました

「ペネロピ」はヒロインかわいいけど、全体的にちょっと惜しい

今回は新作の「ペネロピ」を109シネマズ川崎3で観てきました。東京23区内では単館公開の映画を神奈川でも同時公開で観られるのはありがたいです。観客の8割は女性だったのですが、なぜか私はオヤジに囲まれて、ちょっとイヤーンな感じ....。(← 自分もオヤジなのに)

名家ウィルハーン家の5代前の当主が使用人の娘を孕ませて捨てたことで、娘の母親はウィルハーン家に娘が生まれる時、豚鼻になるという呪いをかけました。その後は男の子が続いたのですが、今頃になって生まれた娘ペネロピ(クリスティーナ・リッチ)は見事に呪いが成就して豚鼻になっちゃいました。呪いを解くたまには、名家の誰かが彼女に永遠の愛を誓うこと、そこで母親(キャスリーン・オハラ)は、お見合いを色々とセッティングするのですが、彼女が顔を見せるとそれでオジャンの繰り返し。一方、以前にペネロピを取材しようとしてひどい目に遭った記者レモンは、彼女の写真をスクープしようとし、名家の出ながら落ちぶれギャンブラーになっているマックス(ジェームズ・マカボイ)に金を渡して、ウィルハーン家の合同お見合いに送り込みます。偶然が重なって、ペネロピとマックスは鏡をはさんで、いい感じになります。今度は期待できそうと、マックスの前に姿を現すペネロピ、しかし、マックスは彼女とは結婚できないと言い切ります。これまでにない失恋ダメージのペネロピは、家出してしまいます。果たして、彼女の呪いは解けるのでしょうか、そしてペネロピとマックスは結ばれるのでしょうか。

クリスティーナ・リッチって、色々な役を演じていて、他の女優とは一回り大きい器を感じさせる女優さんです。「バッファロー66」「ブラック・スネーク・モーン」といった脱いでる映画は未見なのですが、「モンスター」では素晴らしい演技を見せてくれました。今回は、豚鼻の女の子(と言っても25歳の設定ですが)というファンタスティックな設定のラブコメディでして、久々にキュートなおデコちゃんを見ることができました。豚鼻の出来がよくって、人間の顔じゃないけど、かわいいのですよ。最初見たらビックリするけど、大の男が悲鳴あげて逃げ惑うって設定は演出やりすぎって感じ。

長編デビューのマーク・パランスキーの演出は、せっかくの魅力的な設定、いい役者を使いこなせていないところもあるんですが、おっとりした物語のおかげで最後まで楽しんで観ることができました。彼女のいる世界が赤っぽい色使いを使って不思議ちゃん的な雰囲気を出しているのもマルです。

ペネロピは、自分の顔にコンプレックスはあるけれど、それでもいつかはそんな自分を愛してくれる人が現れるのを夢見ています。自分の顔を見ても逃げなかった(実は偶然だけど)マックスという青年に惹かれるのですが、ペネロピから求婚したのに、あっさり拒否されてしまって、恋愛関係になりかけたのにオジャンになってしまうあたりは、切ない展開です。そこからが、ちょっと意外な展開を見せまして、ペネロピは自分から、記者に写真を渡して、自分の顔を世間にオープンにしてしまいます。世間の好奇心から、ちょっとした有名人になっちゃうペネロピ。彼女は世間の好奇の目もあまり気にしていない様子です。そして、かつてのお見合い相手の一人が彼女に結婚したいと申し出ます。これが全然愛情なんかありゃしない政略結婚なんですが、母親のプッシュもあって結婚式まで持っていかれちゃいます。あんまり気の進まないペネロピですけど、母親に押し切られちゃうのは、ひょっとしてこれで呪いが解けるのかもという望みを感じていたのかも。



この先は映画の結末に触れますのでご注意ください。



一方のマックス君はポーカー三昧の日々から、昔の仕事であるピアニストに戻ろうとします。いいとこのボンボンがなぜ?と思っているうちに、実は、彼はマックスではなく、ジョーという名家でも何でもない若者だったことがわかってきます。名門の出と結婚しないと呪いが解けないということから、彼は彼女の求婚を拒否したのです。これが話の本筋になるのかとも思っていると、ジョーとの恋物語とは別のところで呪いが解けてしまうのです。要は、恋人でなくても、ペネロピを受け入れてくれる人が現れてくれたら呪いは解けたのです。そして、彼女は、自分自身を受け入れることで、自分で呪いを解くことに成功するのです。うーん、最初の話と微妙に違うけど、ま、いいのかなあ。

で、呪いの一件が片付いてから、ペネロピはジョーに告白するために自ら出向くのです。ジョーは結婚断ったところまではカッコよかったのに、その後、ペネロピにアプローチできないのは、ちょっとキャラ弱めでないかしら。一方、ペネロピが彼に惹かれたのはなぜなのかも書き込みが弱い感じです。全体として、パランスキーの演出は細かいところまでの気配りが今イチの感がありまして、登場人物になかなか共感できないのは残念でした。

それでも、かわいさ全開のリッチはやっぱり役者としてのうまさを感じさせます。「ラスト・キング・オブ・スコットランド」のジェームズ・マカボイはいい人以上のキャラを作れなかったのが残念でした。また、細かく割り振られた笑いも物語のカタルシスへとつながらないので、映画としての満足度は、なかなか面白い話という程度になっちゃいました。クリスティーナ・リッチが豚娘を演じているところで全部点数稼いだというところでしょうか。

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Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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