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「フィクサー」はシンプルなヒーローもののようであり、重厚な人間ドラマのようであり。

今回は新作の「フィクサー」を日比谷みゆき座で観てきました。昔のみゆき座は広かったけどスクリーン位置が低くて前の人の頭が気になる映画館でした。新しいみゆき座は、画面は見やすくなりましたけど、収容人数の割りにはスクリーンが小さいので、シネコンより見劣りしてしまうのが、ちょっと残念。

大きな法律事務所のフィクサー(もみ消し屋)であるマイケル・クレイトン(ジョージ・クルーニー)は、農薬会社と被害者の6年に渡る訴訟に関わってきた弁護士アーサー(トム・ウィルキンソン)が奇行に走ったということで、その後始末を命じられます。会社側の弁護をしていたアーサーが被害者側に加担する発言をして裸になって暴れたというのです。アーサーのことをよく知るマイケルは彼がうつ病の薬を飲んでいなかったから精神が不安定になったのであって、薬をちゃんと飲ませれば問題はないと言い切るのですが、農薬会社の法務部長カレン(ティルダ・スウィントン)はそんな事は信用せず、汚れ仕事の専門家にアーサーを調べさせ、どうやら、アーサーは本当に製薬会社の首根っこを押さえる証拠を持っていることを知って、彼を殺すように指示を出します。そして、彼らの魔手はアーサーだけでなく、マイケルの命も狙い始めるのでした。


「ボーン・アイデンティティ」のシリーズ全作の脚本を手がけたトニー・ギルロイが脚本・監督を担当した、主人公追い詰められ型サスペンスの一品です。そういうとハードボイルド路線に聞こえてしまいますが、この映画では、マイケル・クレイトンを大変人間味のあるキャラクターに設定し、将来が不安で、金に困っていて、離婚調停中で、その設定がドラマの展開に影を落としているあたりが、ただのサスペンス映画ではありません。一方、今回の物語の発端となるベテラン弁護士アーサーは、農薬会社の弁護をしていたものの、それが原告である農薬被害者にとっていかにひどいものであるのかを知って、良心の呵責に精神が持ちこたえられなくなるというキャラクターで、義憤に燃える彼の姿もまた、ただのハードボイルドスリラーにはなっていません。その一方で、カレンを筆頭に農薬会社側はまるきり同情の余地のない悪役として描かれています。そこから、善のアーサーと、悪のカレンとの闘いの構図が出来上がるのですが、そこにマイケルがどう絡んでいくのかというところが、この映画の見所になっています。奇行に走り、農薬会社側に不利になるような行動をしているアーサーを一度ニューヨークに連れ帰って、おとなしくさせるのがマイケルの仕事だったのですが、その一方で、アーサーはマイケルの言うことに従わず、何かたくらんでいるようなのです。そして、アーサーの行動は、カレンの雇った連中にずっと監視されていたのでした。



この先は結末に触れますのでご注意下さい。



マイケルが個人的にアーサーを助けようとしているのも、カレン側に伝わっていました。カレンは彼女自身で、アーサーを殺すように指令を出します。孤立無援だったアーサーはいとも簡単に服毒自殺に見せかけられて殺されてしまいます。そして、マイケルはアーサーが命綱としていた、証拠資料をコピー屋から見つけ出します。それを見たマイケルは、アーサーが正気でこの裁判における会社側の不正を暴こうとしていることを知ります。一方、証拠資料を入手したカレン側は、マイケルも危険人物と認識して、彼を殺そうとするのです。こうなると、犯罪モノというよりは、孤立無援の主人公がどうやって危機を切り抜けるかのドラマになっていきます。マイケルの車に爆弾が仕掛けられるのですが、たまたま農場で放牧されている馬に気を取られ車から降りたところで爆弾が破裂し、彼は命拾いをすることになります。自分の命を狙ったのが会社側だと気付き、マイケルはカレンの前に現れ、自分の持つ証拠資料を渡して、後は見て見ぬふりをする代わりに、1000万ドルを要求します。

カレンとの交渉は成立しますが、その会話は警察に筒抜けになっていました。へたり込むカレンを後にマイケルはタクシーに乗り込んで行きます。フィクサーとして名を知られたマイケルがこういう行動に出た動機については映画の中では具体的に語られません。彼が義憤にかられたのか、アーサーの敵討ちをしようと思ったのか、自分を殺そうとした連中に逆襲しようとしたのか、いい加減フィクサーの仕事に飽き飽きしていたのか、どれも当たっているような、外れているような微妙な描き方になっています。ラスト、タクシーに乗り込んだ主人公が運転手に50ドルを渡して、その分だけ行ってくれと言います。そして、タクシーの中のマイケルを映しながらタイトルがでるのですが、その顔は何だか疲れきっているように見えて、とても勝利者の顔には見えません。結局、彼は自分のしたことで、弁護士事務所にもいられなくなるでしょう。また、この勝利で何の報酬も得られないのです。見ようによっては、追い詰められた彼が窮鼠猫を噛むがごとき行動に走ったとも見えます。フィクサーとして弁護士事務所に重宝されてきた、彼の末路は何だかみじめなものにも思えてきます。しかし、アーサーはそれを身をもって行動したのであり、マイケルはその遺志を継いだということもできましょう。様々な解釈ができるラストは、微妙な後味と何となく居心地の悪さを感じさせるものになっています。

ジョージ・クルーニーはヒーローっぽさが微塵もないフィクサー役を好演しており、彼のラストの寝返りを意外に思わせることに成功しています。また、トム・ウィルキンソンは、有能さと誠実さを兼ね備えたアーサーを熱演しています。アカデミー助演女優賞をとったティルダ・スウィントンは、この映画では、儲け役と言える扱いになっており、法務部長というポストにありながら、何だか不安定な女性を演じていました。この3人がそれぞれに人間らしいキャラクターを割り当てられているので、ドラマとしての奥行きが出たように思います。ヒーローがいるようないないような不思議な感じは劇場でご確認下さい。

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「エンジェル」のような才女の人生も意外と大変

今回は東京では昨年封切られた「エンジェル」をシネマ・ジャックで観て来ました。ここはシネマ・ベティとほぼ双子の劇場なんですが、ベティはスクリーン前の開閉幕があるのですが、ジャックにはありません。ジャックの方はシネコン志向という意味なのかしら。昔はついてたのに。ちなみに私は幕のある映画館が好きです。理由はなくって単に好きなんだもん。

20世紀の初頭のイギリスの片田舎、エンジェル(ロモーナ・ガライ)は母の経営する食料品店の2階で住んでいたのですが、自分は貴族の出なんて言ったり、暇さえあれば小説を書いてるちょっと変わり者。彼女が書き溜めた原稿を出版社へ送ったところ、採用されることになりました。発行人のギルフォード(サム・ニール)は多少の加筆をしたいと考えてましたが、エンジェルは頑として拒否。それに折れて一言半句直さないまま出版したら代ヒット。彼女は一躍売れっ子作者となり、彼女の書く作品は次々にヒットを飛ばします。彼女は幼いころから憧れだったパラダイス邸を買い取り、一躍セレブの仲間入り。そんな時ノーリー卿の姪のノラが、彼女の才能に惚れこんで、彼女の私設秘書にしてくれと言ってきて、彼女はエンジェルの秘書となります。エンジェルはノラの弟の画家に一目惚れして、自分から結婚を申し込みます。そして、二人は、めでたく結婚、パラダイス邸で二人幸せに暮らす筈だったのですが、そこで戦争が起こって、夫は志願して戦場に行ってしまいます。ここから、望みとおりに生きてきたエンジェルの人生に陰りが見えてくるのです。

「8人の女たち」「スイミング・プール」のフランソワ・オゾンが脚本と監督を担当しました。最初はノーマークだったのですが、ごひいきのサム・ニールが出ているということで食指が動きました。ある女性の生涯を描いているのですが、ヒロインのキャラクターがちょっと変わっていまして、ドラマは普通の恋愛ドラマとは違う展開を見せます。いわゆる普通じゃない女性の物語なのです。登場したときから、彼女は天賦の文才を持っています。そして、自分は貴族の出ではないかってほんとに思い込んでいるみたい。近所のパラダイス邸を自分の家のごとく作文に書いて、先生に注意されちゃうのですから、夢見る夢子さん状態です。

そして、思うがままに書き連ねた小説が出版社の目に止まって発行されることになります。ここで夢が実現したわあ、ふわわーんとはならないところがエンジェルらしさ。発行人ギルブライトと交渉で1歩も譲らす、原稿を全然変えずにそのまんま発行させることに成功してしまうのです。リサーチもせず人生経験に乏しいエンジェルがその才気にまかせて、頭の中だけで作り上げたお話なのに見事ベストセラーになってしまいます。とにかく無作法だけど自信は余るほど持っているエンジェルです。彼女は金持ちになって売家になっていたパラダイス邸を買い取ります。エンジェルの母親は見分不相応な贅沢にとまどうのですが、エンジェルはそういう境遇をもともとそうあるべきものとして受け入れていきます。彼女への信奉者のノラが秘書(というか付き人やね)になっていろいろと気を配るのですが、ノラの弟にエンジェルが一目惚れしてしまいます。ノラは弟が浮名を流したことを知っているので、やめるよう忠告するのですが、自分が全能だと思っているエンジェルには効き目はなく、世間では評価されていない画家エスメと結婚してしまうのです。

彼女は思いとおりに生きて、望みのものを当たり前のように手にしていきます。名誉、お金、愛、全てをその手中に納めたエンジェルです。その幸せは永久に続くのかと思いきや、その期間は意外と短いものでした。戦争が始まり、エスメはエンジェルを振り切って兵士として志願していきます。彼女の世界の中に愛のドラマはあっても、戦争は存在しません。彼女は現実の戦争を受け入れがたいものと考え、自分の身の周りからも、作品からも消し去ろうとします。そんな平和主義に走った彼女の作品は時勢に逆らうものであり、売り上げも落ちていきました。さらに、エスメはエンジェルに隠れて浮気もしていたのです。そんな彼が片足を失って除隊してきたとき、エンジェルは大喜びするのですが、夫であるエスメはかつての彼とは大きく変わっていました。その変化もエンジェルの世界には存在しないものでした。エンジェルの世界は完全なのです。そして、完全な世界でしか生きられない彼女。何だかんだと言っても俗世の男でしかないエスメと彼女は折り合うことができません。それをできるのは自我を押し殺して彼女の心を自分の中に取り込んだノラだけでした。



この先は映画の結末に触れますのでご注意ください。



エスメは戦争後立ち直ることができず、ついに自らに命を絶ってしまいます。悲しみに打ちひしがれるエンジェルは自らも病の床に伏せってしまいます。夫の自殺を隠して病気で死んだことにして自分の世界を守ろうとするのですが、もう彼女にはそれだけの気力も運も残されていませんでした。彼女の死は世間にも知られることもない寂しいものとなりました。彼女の墓の前で、言葉を交わすノラとギルブライト。結局この二人だけがエンジェルの才能を心から理解し、彼女の世界を大切にしてくれたのです。奔放で不躾で自由なエンジェルは、自分の世界以外では生きていけないう女性でした。それは見ようによっては幸せな人生になる筈でしたが、最期の時、幸せには逝けませんでした。

この映画が彼女の湧き上がる物語の世界を中心に描けば「ミス・ポター」になったのかもしれませんが、現実の彼女に焦点をあてているので、その現実と相容れない切なさの方が際立つ映画になりました。ロモーナ・ガライは後半の痛々しいエンジェルの部分でうまさを見せました。タイトル2番目のサム・ニールは出番は多くありませんが、ヒロインを陰で慕い続けた男をていねいに演じきりました。

「マイ・ブルーベリー・ナイツ」は車窓の光の流れを見るような感じ?

今回は遅ればせながら新作の「マイ・ブルーベリー・ナイツ」を川崎チネチッタ10で観てきました。

ニューヨーク、ヒロインのエリザベス(ノラ・ジョーンズ)は好きだった男に振られてもうメロメロ。偶然入ったカフェの主人ジェレミー(ジュード・ロウ)が彼女に売れ残っているブルーベリー・パイを食べさせてくれました。しばらく、彼女はそ店の閉店間際にやってきてブルーベリー・パイを頼むようになるのですが、ある日彼女は姿を消します。彼女は西へ旅をしていました。メンフィスではダイナーとバーを掛け持ちで働いて、そのバーで別れた妻を忘れられない男アーニー(デヴィッド・ストラザーン)と知り合いになります。アーニーは事故とも自殺ともつかぬ自動車事故で死亡します。次に出会ったのがギャンブラーのレスリー(ナタリー・ポートマン)で、負けがこんでいた彼女は、エリザベスが車を買うために貯めたなけなしの金を借りて再度ポーカーに臨みます。そして、二人はラスベガスへと向かいます。この間、エリザベスとジェレミーはずっとはがきの交換をしてきました。そして、エリザベスがニューヨークへ帰ってくる日がやってきます。


「楽園の瑕」「恋する惑星」などで有名なウォン・カーウァイ監督によるアメリカを舞台にした英語によるラブストーリーです。以前「欲望の翼」「楽園の瑕」をビデオで観たことがあるのですが、正直なところやたら勿体ぶった演出と奇をてらった絵作りに、何だこりゃと思ったことがあります。今回も凝った絵作りをしていまして、光を美しく切り取ろうとしているのはわかるのですが、やたらとスローモーションとコマ落としを使ったりしているのは、人間の感情をうまく撮り損なっているようにも見えます。

ノラ・ジョーンズ扮するヒロインは自分の彼氏に彼女ができて大きなダメージを負ってしまいます。そんな彼女の話を聞いてくれたのが、カフェの店主ジェレミー。これがジュード・ロウなんですが、絵に描いたような二枚目ぶり。カーウァイ演出も彼を大変かっこよく撮っています。そして、彼の出した売れ残りのブルーベリーパイを食べ、ちょっとだけ元気が出て、しばらく、閉店間際にやってきては、ブルーベリーパイを食べる彼女。そんな彼女が思い切って旅に出るところからドラマは動き始めます。

旅に出た彼女は、メンフィスで昼間はダイナーで、夜はバーで働いていました。バーでやたら酒ばかり飲んでいるアーニーは、男を作って別れた奥さんの事が忘れられないようで、それが深酒の原因のようでした。でも、エリザベスにはやさしく接しチップもはずんでくれます。それでも、元妻スー・リン(レイチェル・ワイス)や相手の男を見かけると頭に血がのぼって暴走しちゃうアーニー。どうやら、そういう溺愛ぶりがスー・リンにとっては重荷になって、他の男へ走ったらしいことがわかってきます。そして、とうとう自殺ともとれる自動車事故を起こして死んでしまうアーニー。彼の心根は純粋が故にそれに耐え切れなくなったとスー・リンはエリザベスに語ります。そこに愛があった筈なのに、結局何も残らない、スー・リンがメンフィスを離れることで、記憶すら消えていくだろうという見せ方は、ちょっと切ないものがあります。ストラサーンとワイスの演技に泣かせるものがありまして、この二人のドラマをもっと観たいと思いました。特にレイチェル・ワイスのきれいなこと、彼女が街から消えていくのは、その存在そのものが消えていくのだと言うあたり、さもありなんという儚さがありました。

そして、次に出会ったのが、ギャンブラーのレスリーです。エリザベスに借金してそれでも負けてしまって、車を渡すと言い出すのですが、それでラスベガスへ連れて行ってくれともいいます。ギャンブルをする人の金銭感覚とか人生観って、そういうことに縁のない私にはさっぱり理解できないのですが、このレスリーも同様で、借金することを屁とも思っていないみたい。そんな彼女が次の金づるに考えていたのが実の父親だったのですが、その父親が病院で亡くなっていたことを知り、ショックを受けることになります。どうやら、娘にはやさしいところのあった父親だったようです。でも、そのやさしさも普通の感覚とはちょっと違うようで、このあたりは、ふーんそうなんだー、って流して観てしまいました。

一方ジェレミーはエリザベスを探して、あちこちに電話を駆け回っていました。彼女から手紙が届くので、元気にやっているらしいことはわかるのですが、なかなか心の距離感は縮まらないのでした。ちょっと見フツーな女の子に、絵に描いたような二枚目ジェレミーが心奪われてしまうというのは、何だかリアリティを欠くようにも思えるのですが、人工的な色彩や構図を使った画面がリアリティを感じさせず、ある意味、女の子の望む夢の世界のように思わせるところがあります。

そして1年近い旅を終えて、エリザベスはニューヨークへ帰ってきます。カフェに行ってみれば、ジェレミーが外で待っていてくれました。そして、振舞われるのはブルーベリーパイ。眠り込んだエリザベスにそっとキスをするジェレミー、それに応えるエリザベス。グッドエンディング。

エリザベスの旅は彼女を変えたのかというとそうは見えないところが逆に面白いと思いました。彼女の経験値を積み上げるというよりは、エリザベスとジェレミー、二人の気持ちを十分に醸造するための時間だったように見えます。ラブシーンが繰り返される趣向は、旅の前と後で彼女が変わっていないことを表現しているように思われたからです。旅のエピソードはどちらかと言えば、彼女の体験というよりは、車窓の景色に思われました。

この映画には音楽が重要なファクターになっているようですが、そういうところの知識がない私は、全てBGMに聞き流してしまいました。歌手としてのノラ・ジョーンズとその歌を知っていれば、彼女にフツーの女の子以上のキャラクターを感じることができたかもしれません。

「大いなる陰謀」って、問題提起してるけど、どっか、とっ散らかってるような

今回は川崎チネチッタ4で「大いなる陰謀」を観てきました。そこそこの広さの割りに大劇場っぽい感じがする劇場でした。初めて、宇宙船が未来都市を飛び回るドルビーロゴを見ました。

共和党の上院議員アーヴィング(トム・クルーズ)に単独インタビューで呼び出されたテレビ局のジャニーン(メリル・ストリープ)。彼は極秘に行われているアフガニスタンでの新作戦について彼女に語り、報道でそれを支持して欲しいと言います。また、カリフォルニア大学ではマレー教授(ロバート・レッドフォード)が欠席を繰り返す優等生トッド(アンドリュー・ガーフィールド)を呼びつけて、彼に机上の空論でない何かに一歩踏み出してみろと諭します。一方、アフガニスタンでは、高地占拠作戦が展開されますが、誰もいないということだった占拠地点にアフガン兵が待ち伏せしており、マレーの教え子だったアーネスト(マイケル・ペーニャ)とアーリアン(デレク・ルーク)の二人がヘリから落ちて、取り残されてしまいます。近くまで迫ってくるアフガン兵を衛星画像で見ながら、爆撃機と救援ヘリを送るのですが、二人とも墜落で負傷しており、まともに動くことができません。この作戦はひょっとしてベトナムでも行われた囮作戦なのでしょうか。一気に戦争状態に持ち込もうとするアメリカ軍の作戦なのでしょうか。そして、ジャニーンはアーヴィングの申し出をどう受け取ったのでしょうか。

ロバート・レッドフォードが久々に監督も担当した、政治ドラマです。三つの物語が並行して描かれていくという構成で、正義と自由と勝利について、何をすべきなのかを問いかけるドラマになっています。限定された空間での展開は舞台劇を思わせるものがありました。

まず、上院議員と報道ウーマンの会話では、これまでのイラン、イラク政策の失敗よりも、これからの勝利に向かっての物語を作るべきたとアーヴィング議員はきっぱりと言い切ります。その作戦がどういうものかよくわからないことに不信感を持つジャニーンに対して、9.11の時にイラク侵攻をあおったのはお互い様だと言います。彼は、地球の裏側の一部族に脅かされているのが我慢ならないと言います。彼にとって、対テロ戦争に勝利することが目的であり、戦争は単に手段でしかないことがわかってきます。勝利というキーワードをもぎ取ることができれば、民意も政局も自分たちの方向に傾くと信じて、犠牲者計算済みの作戦を展開させているのです。ジャニーンは今は9.11の頃とは民意も逆転していて、アメリカは撤退すべきだという論調に傾いていること、そして具体的な内容はわからない作戦の内容が、小競り合いを起こして全面戦争に持ち込もうとしてるのではないかと、指摘します。しかし、アーヴィングは勝利に向かうために手段は選ばないと言い切ります。

カリフォリニア大学では、優等生のトッドが今の政治家はみんなクソだと言い切り、自分が単なる小市民として生きる意義のほうがまだマシだと言います。マレーは彼の論理は体験が伴わない空虚なものであり、素質のある人間は世の為にその天分を使うべきだと諭します。しかし、マレーは、兵隊に志願したアーネストとアーリアンを説得することができなかったという後悔の念もありました。ただ、素質のある人間が怠惰に無能になっていくのを何とかしたいと思っているのです。でも、トッドが屈服するまえにタイムアップになってしまうのでした。

アフガニスタンでは事前調査で誰もいないということになっていた高地が敵に占拠されていたのです。突然の攻撃を受けて、落ちた二人を置き去りにして作戦ヘリが撤退した後、爆撃機が飛ぶのです。これって、やっぱり敵を掃討するための準備じゃないのかしらと思うと、何だか最初の情報が怪しく思えてきます。しかし、映画はそこを深入りせず、極寒の高地に取り残された二人を描きます。黒人とヒスパニック系の二人は、大学でどうすれば世界をよりよくすることができるかという課題に、「参加することの重要性」をテーマに発表し、その発表を自分たちが志願兵となるということで終えました。今の戦争に参加する意義を感じられないマレー教授は、二人を引きとめようとするのですが、彼らの意思は固いものでした。行動を起こすことが大事だけど、戦場へ行くことが行動なのかという問いかけがあります。ベトナム戦争でも同じことをしていたのではないか、過去の歴史の中に学ぶところはないのでしょうか。



この先は映画の結末に触れますのでご注意下さい。



映画はいくつかの観点、問題点を提示しながら、それに明快な回答を示しません。それどころか、アフガニスタンの二人の兵士を救助できないまま、見殺しにしてしまいます。二人は救援が来ないとあきらめ、敵の前で立ち上がって銃を構え、敵から一斉射撃を受けてしまいます。何だかヒロイックな死に様なんですが、彼らの死が大きな戦争への引き金になるかもしれないのです。一方、議員の話がニュースソースとなって、速報としてニュース画面の下に流されます。それをテレビでぼーっと観ていたトッドの顔に何か生気が蘇ってきたように見えます。トッドが何を感じてどう行動を起こすのかを見せないで、映画はここで終わります。

題名の「大いなる陰謀」はちょっと的外れでして、原題の「羊のために死ぬ獅子」も今一つピンと来ません。この映画は、国の視点と個人の視点から政治、戦争の本質を見出そうとしている、ように見せといて、問題提起をとっちらかしたという印象の方が強く残りました。議員とジャニスの会話の中で「9.11直後はイラク侵攻をアメリカ中が支持した」という部分に切迫した問題意識を感じたのですが、それ以外は過去の歴史の繰り返してきたことを提示するに留まっているように思います。それに、個々の人間の持つ意図を十分に語っていないところは物足りなさを感じてしまいました。ああいう人がいて、こういう人がいる、それらの人々の狭間で自分をどっちを向くべきなのかが、問題だと思っていたのですが、3つの並行した物語が最後まで交わらないので、思い込みはあっても板ばさみの葛藤はない映画になってしまったようなのが残念でした。問題提起をして、観た後、観客に考えさせようという気持ちは伝わってくるのですが、各々の登場人物をどう思うかは言えても、総体的な問題と検討すべき点が明確にできなかったように思います。ひょっとしてリベラルな論理の限界を示すお話なのかしら。

とはいえ、自国の危機のシナリオを作って戦争を始めて勝利をおさめることで国内が盛り上がるという図式が見えてきましたし、軍に志願することが他の人間から一目置かれる行動であり、戦争が始まればその是非についての議論は圧殺されることは伝わってきました。アーヴィング上院議員のような考えを持っている人々は、何かに勝利することが国威発揚となり、そのためなら戦争を始めて、メディアと政府と国民が皆で勝たねばならぬと同じ方向を向くことが必要だと思っているようです。まあ、これらだけではなく、戦後の利益誘導もあるのでしょうが、そこまではこの映画では語られません。ただ、全体主義に近いものを感じ取れることは事実で、その昔のジョークで、民主主義も社会主義も変わらないというのを思い出しました。

「マタンゴ」の人間不信は今見直すとスゴさを再認識

ゴジラのことばっか書いてきたのですが、今回は同じ怪獣ものでも1963年公開の「マタンゴ」を取り上げてみます。初めて観たのは子供の頃、家の白黒テレビででした。サブタイトルが「恐怖のきのこ怪獣」とあったので、きのこの怪物がビルを壊して大暴れするのかと思ったら、これが大違い。男女7人がヨットでバカンスと洒落こんだところ、嵐にあって、海をさまよった挙句、どこともわからない島に流れつきます。どうやら無人島らしいのですが、直近の問題は食料と水、水は簡単に発見できたのですが、食料は他の難破船にあった缶詰以外はあまり豊富にありません。自生するイモや海亀の卵などを探す毎日。ただ、その島の奥には不気味なきのこが群生していました。食料と女を巡って仲違いを始める男たち、そして、そのうちの一人がきのこを口にしてしまいます。そのきのこには幻覚効果があっていい気持ちになっちゃうのですが、それと同時に体がどんどんきのこになっちゃうのです。難破船の船員もきのこ食ってきのこ人間になっちゃったのです。島の奥から、ゾンビのごとき、きのこ人間がやってきます。最後に残った二人の男女ですが、女性がきのこ人間に連れ去られてしまいます。それを追って森の奥に入ると、きのこ化しつつある連中やら、完全にきのこになっちゃったのやらに囲まれてしまいます。半狂乱で逃げ出した男はヨットに飛び乗って漂流した後に救助されるのですが、精神病院に送られてしまうのでした。

え、何これ? 怪獣ったって人間の大きさのきのこが不気味な声をあげながら人間を襲うだけやん、舞台も無人島で登場人物も7人だけ、期待とはずいぶん違うと小学生だった私は思ったのですが、後にこの映画が高い評価をうけていると知って、大人になってから、シネマジャックで再見することができました。フィルムの状態もよかったこともあり、いわゆるホラー映画としての「マタンゴ」を鑑賞することができました。

この映画、ウィリアム・ホープ・ホジスンの「闇の声」をベースにSF作家の福島正美と星新一が原案を書き、それを東宝SFの常連、木村武が脚色し、特撮を円谷英二が担当し、東宝SFを数多く手がけた本多猪四郎が監督しました。冒頭で病室の窓辺に立つ主人公(久保明)のモノローグから始まり、彼の回想という形でドラマは進行していきます。男5人に女2人の一行が嵐にあって無人島にたどりついてそこで生活を始めるのが前半です。この中でキーになるのが歌手のアサミ(水野久美)でして、主人公以外はみんな彼女を狙い始めて、彼女を巡って男同士の諍いが起こるのです。えーとこのボンボン(土屋嘉男)はいざとなると頼りにならず、臨時雇いの漁師がパワーを発揮するのですが、欲をかきすぎて自滅。主人公は倫理感で行動するのですが、こういう生きるか死ぬかのところでは、その誠実さが何だかマヌケに見えてしまいます。そして、一人、また一人ときのこを食べてしまいます。食べていい気持ちになる代物ですから、食べ始めたらやめられない、そしてきのこ化するのが止まらない。この島に流れ着いたら、きのこになるのが正しいあり方で、人間でいる方がマイノリティになってしまう、だったら、きのこも人間も大差ないじゃないというところまで行き着いてしまいます。人間不信になりそうなお話なんですが、それをラストでダメ押しをしてきます。



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主人公は、自分の好きだった女性とあの島できのこになるべきだった、でも最後まで自分はきのこを食べなかったと、後悔の言葉を言うのですが、振り向いてみれば、彼の顔半分はきのこになっていたのです。最後の理性の砦だった主人公をも裏切る幕切れは、人間不信をさらにダメ押しするのでした。彼は最後まで人間であったかのようなつもりで自分の体験を語っているのですが、彼がきのこを食べていたのだとしたら、その話の信憑性も微妙なところになってしまいます。世界が不信に満ちているかのように語る主人公も、そんな世界の一部であるかのように見せる結末は見事でした。これが1963年の夏休みの怪獣映画として若大将と一緒に上映されていたのですからすごいです。こういうペシミスティックなストーリーは70年代の「ノストラダムスの大予言」の空気を先読みしてるとも言えます。というより、あの時代で何でこんな映画作ったの?って訊きたくなるようなお話でした。

ちなみに原作は、ある夜、航海中の船に小さなボートがやってきて、乗組員が姿を見せずに食料を乞うという、静かで不気味な海の怪談というお話になってます。それが映画化されるにあたってマタンゴのドラッグ性とか、現代社会における人間不信といった脚色されたようです。

「ブラック・サイト」にサイコスリラー以上の見応え

新作の「ブラック・サイト」を109シネマズ川崎1で観てきました。シネコンとしては広さの割りに画面が小さいような気がするのですが、まあ、観やすい劇場と言えましょう。

FBIのサイバー捜査官のジェニファー(ダイアン・レイン)は不審なサイト「killwithme.com」の調査を任せられます。猫が映っている画像サイト、そのうちに猫が死んでしまいます。それだけかと思いきや、今度は中年の男がそのサイトで、胸に傷をつけられて出血しているのが映しだされます。男には、抗凝結剤が点滴されており、傷からの出血が止まらない仕掛けになっており、そのサイトの訪問者数が増えると抗凝結剤の量が増え、ついに男は死亡してしまいます。次には元レポーターの男がコンクリで固定されて、高熱のランプでじりじり焼かれていきます。前回よりも訪問数はさらに増えて、残酷な殺人ショーはスピードアップしました。犯人はどうやら目的があって犯行を重ねているようです。そして、ついにジェニファーの同僚が犯人に拉致され、訪問者数がうなぎ上りの中で殺されてしまいます。そして、犯人の魔の手はジェニファーにまで伸びてくるのでした。

「真実の行方」という捻りの効いたサイコスリラーを手がけたグレゴリー・ホブリットがまたサイコスリラーを監督しました。主人公のジェニファーは、娘と母の3人暮らしで、子供のために夜シフトの勤務をしています。そんな彼女が担当することになってしまった「killwithme.com」という「私と一緒に殺そう」サイト。最初は猫を殺す程度のものだったのが、次は人間が殺される様を見せ、アクセス数が増えるに連れて殺人の仕掛けが加速するというおぞましい展開に、事件はFBI、市警の両面から捜査をすることになります。それでも、犯人はロシアのサーバを使うなどインターネットを熟知しているらしく、どこから画面を発信しているのか特定できないのです。(これが原題のuntraceable)

犯人は被害者を少しずつ嬲り殺しにする残酷な奴ですが、それを加速する何百万人のサイト訪問者がいます。時にはブログに「もっとやったれ」みたいな過激というかアホな書き込みも多数されているようです。どっかの変質者による無差別殺人、そして一般市民がそれに加担している(させられてしまっているのですが、その辺は微妙)事実。実際にサイトの画面には、訪問者数とそれに伴う、投入薬剤の量が表示されているのですが、それでも訪問者数は加速度的に増えていく。ホブリットの演出はこの無作為の共犯者を糾弾するのではなく、それはあり得ることとして描いています。そして、ネットの画面でそういうものを見た時、必ずしも本気で受け取る人間ばかりでないことも間接的に示唆しています。一方で、残酷な殺され方をする被害者をかなりリアルに描くことにより、本当に惨たらしい殺人がネット上に乗ることによって、見世物的エンタテイメントに変わってしまうところも見せます。つまり、見てる何百万人にとって惨たらしい殺人がディスプレイ上の娯楽になってしまうのです。このあたりの見せ方がうまいというか、怖いというか、とにかく見応えがありました。



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そして、ヒロインの同僚が、同じような惨たらしい殺され方をするのですが、FBIや警察は何もすることができません。ただし、死ぬ前に彼はモールス信号で犯人のヒントを残しました。「our suicide」というメッセージの意味がわかってくると犯人像がさらに絞れてきます。しかし、ヒロインの家がネット上に映しだされるに及んで、彼女が犯人のターゲットになっているようなのです。ここで、警察が即動いて娘と祖母を別の場所にかくまうのです。そして、ジェニファーはついに犯人の手に落ち、芝刈り機の上に逆さ宙吊りになった姿でネット上に乗ってしまうのです。FBIも彼女の画像を見ながら何もすることができません。一方、訪問者数はこれまでにないスピードで上がっていきます。市警の刑事は画面から彼女の監禁場所を彼女の家と気付いて、そこへ急行します。と、ここで普通なら、間一髪のところで警察が乗り込んで彼女を助けるというパターンなのですが、何と、彼女は自力で犯人に一撃をくらわせ、その隙に宙吊りから脱して、犯人を射殺してしまうのです。カメラの前でFBIのバッチを突きつけるところで映画は終わります。その間もサイトにはメッセージが次々と寄せられているのです。

この映画の中心にあるのは、一般市民の好奇心です。今回は多くの人間がそれに興味を持って覗きに行く(=サイトを訪問する)ことによって、被害者の命が縮まるというえげつない仕掛けが好奇心の持つ怖さを感じさせる作りになっています。しかし、その怖さを犯人の動機にも持ってきたところにこの映画の怖ろしさがあります。犯人の父親はラッシュアワーの橋の上で拳銃自殺で死んだのですが、たまたま通りかかりの報道ヘリがそれを撮影し、さらには、テレビで再度レポーターによって放映されたのです。死んだ男の息子は入院し、やっと退院して、今回の犯行に及んだのです。これだと、ゴールデンゲートブリッジの飛び降り自殺を扱った「ブリッジ」の監督なんて真っ先に狙われちゃいそうですが、それだけ、死、特に家族の死は微妙な問題をはらんでいると言えます。この映画には、サイトに乗せられた被害者の家族の家の前にメディアが押しかけているシーンも出てきます。まだ本人は死んでいなくて、殺されつつある状況で、感想を求めるのは、映画のフィクションとしての描写なのか、本当にアメリカのメディアはこんなものなのかは判断つかなかったですが、ともあれ、一般市民の好奇心、それに無批判に便乗するメディアという構図は見えてきます。犯人は、サイコな殺人野郎ではあるのですが、キチガイになる前はかなり気の毒な目に遭っているらしいことがわかってきます。

この映画は、ラストのエピローグがなくて、犯人を射殺したヒロインがカメラに向かってFBIのバッヂを突きつけるところで終わるのですが、これも殺人ゲームを楽しんだ一般市民と、そして遠まわしに観客に突きつけたメッセージと言えましょう。そして、殺人シーンにリアルな特殊メイクを使って、その残酷さを観客に示すあたりにも演出の意図があるように思えました。つまり、パソコンでのほほんと殺人を楽しんでいる一般市民には伝わらないであろう、殺人の残酷さを観客に見せることで、好奇心の恐ろしい結末を表現しているように見えます。

映画を分類するのなら、サイコスリラーになるのですが、そのなかで、上記のような仕掛けを設けることで、観客に表立って罰することのできない好奇心の怖ろしさを伝えてきていると思います。見終わって、うまい、と思われる映画でした。ダイアン・レインは年相応の女性らしいようで、ラストで犯人を一人で仕留めるタフさを見せて迫力ありました。音楽はごひいきクリストファー・ヤングがお得意の落ち着いたサスペンス音楽で画面を支えています。

「つぐない」はラストで「おおぅ」と言わせる映画です。

新作の「つぐない」を横浜シネマリンで観てきました。東京ではシネシャンテで上映中なんですが、拡大公開されてるってことは、シネシャンテのミニシアターの顔もだいぶ変わってきたように思えます。

舞台は1935年の英国タリス家の次女ブライオニー(シアーシャ・ローナン)は物書きになろうと思っている女の子、姉のセシリア(キーラ・ナイトレイ)は、家の使用人の息子ロビー(ジェームズ・マカボイ)と恋模様の様子。ある日、窓からブライオニーは、セシリアがロビーの前で服を脱いで噴水に飛び込むところを見かけショックを受けます。さらに、ロビーがブライオニーに託したセシリア宛の手紙を盗み読みしたら、そこには卑猥なことが書いてあったのです。さらに、図書室でセシリアとロビーが抱き合っているのを目撃してしまいます。そして、その夜、家出したいとこを探しにみんながあちこち探しまわっているとき、もう一人のいとこのローラが襲われたのです。たまたま現場にブライオニーがいたために、暴行は未遂に終わります。そして、ブライオニーは、ローラを襲った犯人を見た、それはロビーだったと証言します。ロビーは逮捕され刑務所に送られます。4年後、ドイツのフランス侵攻に対して、兵士としてロビーもフランスへ送られます。その時、セシリアは看護婦をしていて、ブライオニー(ロモーラ・ガライ)も18になり看護婦になろうと頑張っていました。ブライオニーがウソの証言をしたことは、ロビーもセシリアも知っています。とりかえしのつかないことをしてしまったブライオニーは、自分の罪をつぐなうことができるのでしょうか。

イアン・マッキューアンの原作も題名は「贖罪」です。この人の原作の映画は「Jの悲劇」を観ていまして、その時は不思議なミステリーだったという記憶があります。この話もある意味ではミステリーなのですが、それは映画の終盤にわかってきます。また、「プライドと偏見」のジョー・ライトが監督をしています。

13歳の少女ブライオニーはセシリアとロビーのいるところを何回か見かけます。ロビーの前で噴水の中に飛び込むセシリア、そして、ロビーからの卑猥な言葉の手紙、図書室で抱き合っている二人、それらの光景はロビーが姉に悪さをしているようにでも見えたのでしょうか。実は二人は恋仲なんですが、ちょっと極端な性格のセシリアが思い切った行動に走りがちで、そこを運悪くブライオニーは何度も遭遇してしまったのです。そして、夜、双子のいとこを探しているときにローラが襲われてしまうのです。そして、現場を目撃したブライオニーは犯人としてロビーの名前を挙げてしまうのです。その日のあれこれを見てきた彼女は、子供心にロビーを危険な人間と察知したのでしょうが、言われたほうはたまりません。セシリアはブライオニーの証言の危うさを警察に告げるのですが、結局ブライオニーの証言が、その証言だけが証拠となってロビーは無実の罪で刑務所に送られてしまいます。

そして、話は飛んで、18歳のブライオニーは自分のしたことに後悔の念を抱えながらも、ロビーは戦場に行っており、姉と会う機会もないまま、自分の行いをタイプライターに打ち込んでいました。この戦争の件になると、話はメインストーリーから外れて、ロビーが部隊の退却から置き去りにされ、帰還のために海岸目指して進むストーリーが続きます。また、ブライオニーの看護婦生活も並行して描かれます。ここがかなり手間のかかった見せ場になっていまして、特に海岸で迎えの船を待つ兵士たちを長い1カットで捉えたシーンは圧巻でした。映画のクライマックスはブライオニーがセシリアを訪ねていきます。そこにはロビーがいて、彼はブライオニーに対して憎しみに満ちた言葉を投げかけますが、彼女はそれにあやまることしかできません。セシリアも冷たい態度をとります。何を言っても許してもらえない、許せるものではありません。二人の部屋を沈痛な面持ちで去っていくブライオニー。



この先は結末に触れますので、ご注意下さい。



時はたって、老いた作家ブライオニー・タリスは最後の作品「つぐない」を発表し、テレビでインタビューを受けていました。これは、自分の最後の作品であり、処女作だと言うブライオニー。これは彼女の自伝的な小説だそうです。そして、観客はここまで彼女の書いた小説を見せられたことに気付きます。でも、それは真実の物語ではありませんでした。ロビーは帰国前にフランスの海岸で敗血症で死亡し、セシリアも空襲の時、避難した地下鉄が直撃を受けて亡くなっていたのです。二人は最後に出会うことはなかったのです。ええっと思う展開なんですが、小説の中で二人を出会わせることがブライオニーにとっての「つぐない」だったのです。もう、彼女は痴呆症にかかっており、間もなく記憶の中から消えていくものを紙の上に残したのです。

うーん、これって「つぐない」になるのかなあって思いつつ、二人の思い出を記録に残すことは一理あるなあってちょっと感心。贖罪を描いたドラマが実は贖罪そのものであったという構造はなかなか凝っていまして、結末はなかなかにサプライズでした。謝罪の言葉がなくても、贖罪はできるというところは、結構お気に入りです。最近、やたら言われる謝罪の言葉って、誰が誰に対してしているのかが曖昧なので、大嫌いなのです。メディアに謝罪してるってのはどういうことよって感じ。当事者に謝罪できないのであれば、別の形でのつぐないをすることになります。そこでやることは何をしてもするほうの自己満足と思われても仕方がないでしょう。それでも、善意の行動をとらなくてはいられないというところに人間の器の大きさを感じます。でも、一方で、実際に出会えなかったのを小説で会わせてあげましたってのが、「つぐない」なの?って突っ込みが入ってしまいます。

ブライオニーを年代別に分けたシアーシャ・ローナン、ロモーラ・ガライ、ヴァネッサ・レッドグレーブが演技も素晴らしかったのですが、見た目で同じ人に見えるのですよ。メークアップさんの健闘を称えるポイントでしょうね。ダリオ・マリアネッリの音楽はメロディが前面に出てくるわけではないのですが、ラブストーリーとは違う、不思議な味わいのオーケストラサウンドに仕上げています。

「ウリハッキョ」は日本の中に新しい発見があります

各地の上映会で上映されているドキュメンタリー「ウリハッキョ」をシネマベティで観てきました。こういう映画が通常上映の枠で上映されるところがこの映画館のいいところです。

キム・ミョウジュン監督は北海道朝鮮初中高級学校に住み込んで、この学校の持つ様々な出来事をカメラに記録してきました。入学式、合唱コンクール、学校が遠い子供たちのための寮、一世二世も招いての大運動会、そして、サッカー部の活躍ぶり、北朝鮮への修学旅行、朝鮮語と日本語がチャンポンになってる日常生活、それらの色々なイベントを通して、分断された祖国を持つ日本に住む朝鮮人としてプライドを保ちながら、そして、日本人からの差別を受けながら、彼らは朝鮮人として朝鮮学校に通い続けるのです。


私は静岡の出身なのですが、子供の頃、朝鮮人とか朝鮮部落というものは差別の対象になっていました。朝鮮学校、朝鮮学校のバス、チマチョゴリの女の子などを異様なものを見るかのような態度をとっていました。親からそういう教育を受けたわけではないのですが、自分の通う学校の中にはそういう漠然とした差別感があったように思います。その、朝鮮学校を舞台にしたドキュメント映画があるということで食指をそそられました。監督が韓国の人というのも興味がありました。韓国の人が日本にある朝鮮学校をどう描くのかというところにも期待するものがありました。それに、自分が中までは知らない朝鮮学校のことを知るいい機会になればいいかな、と。

北海道で唯一の朝鮮学校である北海道初中高級学校は、在日朝鮮人の子供のための学校です。この学校は日本の小中高校と同列の扱いは受けておらず、ここを卒業しても大学受験資格にもならず、文科省からの補助も受けられません。もともと、在日朝鮮人が自分の子供たちのために作った学校なのだそうです。それもあってか、一世二世があっての、子供たちという観点が重要視されています。そして、子供たちは、同胞の期待を背負っているのであり、同胞のために学問を学び、スポーツをするのだという考え方で行動します。国が統一されることはもちろん彼らの願いではあるのですが、国家ということよりも同胞という言葉が強調されていて、同胞の長い苦労の歴史があって今があるというのです。

こう書くと何だかすごく堅苦しい学校だなって思われそうですが、実際の子供たちは礼儀と元気を兼ね備えて楽しい学生生活を送っています。学校から出れば日本ですから、言葉は日本語と朝鮮語がチャンポンになっており、途中から編入されてきた子供たちに朝鮮語を教えるための編入クラスというものもあります。笑い、泣き、時には怒る子供たちは日本人と同じです。まあ、在日であることから、この学校に入る前は日本語を使っていたのですから、文化的な面でも、日本人の子供と大差ありません。でも、彼らは祖国にいないところが、日本人と違っていて、だからこそ、祖国、同胞への意識が強いのです。ここへ来るまでは荒んだ生活を送っていた子供もいますし、慣れない朝鮮語に悪戦苦闘する子供もいます。そして、映画の中ではちょっとだけしか語られませんが、テポドンや拉致問題が騒がれると学校に脅迫電話がかかってきたり、生徒が嫌がらせを受けることもあるのです。これは日本人として恥ずべきことです。朝鮮人を差別する人は、日本人の中でも差別をする人だと思います。最近、格差社会という言葉が流行っている一方で、平等、平等意識というものが語られなくなってきているように思います。自分は特別な人間だと無条件に思い込む人が増えてるように見えるのが、いやな世の中になったものだと実感します。

それはさておき、彼らの修学旅行は、万景峰号に乗って、祖国北朝鮮へ行くこと。生徒たちは初めて見る祖国に感激し、彼らを世話してくれる大人たちに感謝と敬意の言葉を送ります。彼らの見たものだけが北朝鮮の全てではないでしょうが、日頃からテレビで北朝鮮の悲惨な実情を伝えるニュース映像も北朝鮮の全てではないのだと思わせるシーンでした。生徒たちは、北朝鮮の人々の澄んだ瞳から、何かを感じ取っているようです。それは、人と人が雑念や思い込みを捨てて向き合えば何かを通じ合うことができると語っているようでした。日本だって、弱いお年寄りを病院に行きにくくして、正直な病院が経営が成り立たなくなるようにしている、ひどい国ではありますが、日本人はそれほど捨てたものではないと思うのと似ているような気がします。修学旅行を終えて新潟港に帰ってきた生徒たちを迎えたのは、拉致被害者のデモンストレーションでした。バスに乗って帰る途中、日本人を刺激しないようにチマチョゴリをジャージに着替える生徒たちに日本人はどう見えているのかしら。

キム・ミョンジュン監督が韓国人ということで、この映画は、イデオロギーといったややこしいものを取り外して、第三者的な視点で描かれているので、見ていてウソ臭さがありません。普通にはつらつと頑張る生徒たちの姿は見ていて気持ちのいいものがあります。子供の頃、こういう映画を観ていたならば、無意識の差別感を持たずに済んだのではないかという気がします。

映画の最後は卒業式ですが、ここも日本人の学校でもよくある普通の卒業式の顔を見せます。ただ、卒業していく生徒は同胞とともに同胞のために生きていくという意志が感じられます。自分のためじゃない、人のために尽くすという教えは見習ってもいいところかもしれません。そして、外国にあって、自国の文化や心を忘れないために学校を作って学ばせるということに大きな意義が感じられました。一方で、政治的な問題で彼らに八つ当たりするのは恥ずかしいことだと改めて実感させる映画でもありました。

「ファーストフード・ネイション」は色々な事を教えてくれるけど、面白さは今イチかしら

東京での公開を終えている「ファーストフード・ネイション」を横浜のシネマ・ベティで観てきました。東京で見逃してから間が空かないうちの公開なのがありがたいです。

ミッキーズ・バーガーのビッグ・ワンはなかなか売れ行きが好調です。そんな時にミッキーズのハンバーガーパティから大腸菌が発見された、パティの中には牛糞が混ざっているというという話が飛び込んできます。本社ではさっそく販売部長のドン(グレッグ・ギニア)は、さっそくコロラドにあるミッキーズの契約精肉工場へと視察に出かけます。お座なりの見学コースでは何の問題もなさそうに見えたのですが、ドンはさらに近所の農場主を訪ねて話を聞き、さらにシカゴ支店副社長からも話を聞いてみれば「混ざることもあっても焼けば大丈夫だ」という答えが返ってきます。一方、精肉工場では、不法入国のメキシコ人が安い賃金でこき使われており、工場はコストを低くするためにラインの速度を上げて、その分荒っぽい仕事になることを黙認しています。でも、メキシコ人からすると他の仕事よりは給料がいいので、進んでそこで働くようになるという実態もあったのです。

ノンフィクションとして書かれた「ファーストフードが世界を食いつくす」を原作に、原作者のエリック・シュローサーと監督のリチャード・リンクレーターが共同で脚本化した、フィクションの劇映画です。フィクションなので架空の「ミッキーズ・バーガー」を巡るお話になっています。映画のバックにマクドナルドやタコベルの看板を映すなどして、架空の会社であることを強調しています。

この映画は様々なエピソードからなる集団劇のような構成をとっているのですが、その中でも大雑把に言って3つの物語が並行して描かれます。まずは、精肉工場を視察に行くダン販売部長の物語、そしてメキシコからの密入国者が精肉工場で働くようになる話、そしてミッキーズ・バーガーでバイトしている女子高生アンバーの物語が、並行して描かれていきます。

ダンは工場見学だけでは見えなかったところを関係者の直接インタビューで補おうとします。その中で見えてくるものは、旧農場主が大資本の契約農場の台頭でつぶれていってるということ。肉に牛糞が混じることは内臓を切り取る時に不用意に腸を切ってしまうことで発生し、そんなことはしょっちゅうだということ、さらには、工場の管理者側もそんなものが混じっているのを百も承知でいるが、大企業の低価格化要求に対応するためにはそうせざるを得ないことがわかってきます。それに大腸菌があったってパティをちゃんと焼けばみんな死ぬだろとまで言います。実際、最近の食品にかかわる事件を見ていると、農薬に比べたら、熱で死ぬ菌の方がまだマシかもと思ってしまうところもあります。じゃあ、昔は食べるものの衛生度やクオリティはどうだったのかって考えてみると今の方がマシじゃないかと思えます。その上で何が問題なのかと言われると、確かに弱いところはあります。この映画はその素朴な疑問についての答えは語られません。ただ、金のために、精肉工程のラインのスピードを上げ、メキシコ人を安い給料で使い、きれいな体裁を施して消費者に売って利益を上げるという構図が見えてきます。

メキシコから不法入国者を精肉工場で低賃金で使うというやり方が定着しているらしいというところもこの映画では見せます。過酷な労働条件から、クスリをやりながら働いている労働者も多いとこの映画は語ります。その結果、安価で低品質な肉によるパティが出荷されている現実は考えてみれば当然な気もするのですが、私にはハンバーガーの適正価格なんてわかりませんから、何がどう悪いのか判断できません。むしろ、100円の安いハンバーガーを歓迎しているくらいです。そう考えてみると、全体像として見た場合、どこの悪の根源があるのかわからなくなってきます。安かろう悪かろうは、受け入れなければならない事実ですし、その中で、品質よりも値段が優先することもあって当たり前ではないかしら。そうすると、映画タイトルの「ファーストフード・ネイション」つまり、これは生産者の問題ではなく、消費者、雇用者、被雇用者などひっくるめた国家レベルの話ではないかと思えてきます。倫理よりも需要供給の原理が優先することが、是か非かというかなりハイレベルな展開になってきます。

映画はそういった問題点を直接に描写はしていません。むしろ登場人物の各々を丁寧に描写することで、現状のリアルな顔を描こうとしています。例えば、女子高生のアンバーは店員としては優秀で、伯父や学生活動家と交わるようになって、ぎゅうぎゅう詰めの牧場からさまざまな環境破壊が生まれると言われて、若い連中と一緒に夜中に牧場の柵を壊して牛をそとへ逃がそうとするのですが、牛は柵の中で出ようとはしません。牛まで現状に鈍感になっているというのは、人間もそうかもしれないと思わせるシーンでした。アンバーや他の高校生がミッキーズ・バーガーで学生バイトとして安い賃金で調理から販売までを手がけている様子も見えてきます。また、ベンは視察によって様々なことを知るのですが、本社に帰ってみれば、また新しい拡販戦略を提案する日々に戻ってしまいます。大きな流れは止めることはできない。資本主義における金儲けという目的は、全ての手段を正当化してしまうのです。こういう映画を観ると、善悪の狭間が見事に描写されているので、物事の善悪のジャッジが大変難しいことを思い知らされます。手段の中身は当然吟味されるべきでしょうし、時代と共に常識が変わっていくことも受け入れざるを得ないという見せ方はある意味観客を惑わせる映画でもありました。

出演者が微妙に豪華でして、グレッグ・ギニアの他に、パトリシア・アークエット、イーサン・ホーク、クリス・クリストファーソンにブルース・ウィリス(この人は脇役を演じるほうがいい味を出します)までちょっとずつ出てきます。リンクレーターの演出は物語の核となる部分がない映画の中で、ただエピソードをつなげる以上の仕事はしていないように見えました。実は今原作を途中まで読んでいるのですが、読み終わると別の感想がでるかもしれません。

「魔法にかけられて」はまず笑えるコメディとして楽しい

新作の「魔法にかけられて」を日劇3で観てきました。ここは初回だけは全席自由席なので、初回でしか観た事ないです。日劇1,2,3の総収容数2000余りを既存の窓口で全席指定をさばけるのかしらって不安なもので。

アニメのおとぎの国のお話、年頃の娘ジゼルと王子様はドラマチックな出会いの後、結婚することになりました。ところが自分の地位が危うくなると思った王子の義母の女王は、ジゼルを騙して現代のニューヨークに送り出してしまいます。ニューヨークでは実際の人間ジゼル(エイミー・アダムス)になって、訳がわからず右往左往。雨の中、宮殿型のネオンサインにぶつぶつ言ってるところを通りかかった弁護士ロバート(パトリック・デンプシー)親子に拾われて、ロバートの家に泊まることになります。しかし彼女の存在がロバートの恋人ナンシーに知られて二人の仲はあぶなくなります。また、王子(ジェームズ・マースデン)もジゼルを追ってニューヨークに現れます。女王は執事のナサニエル(ティモシー・スポール)をニューヨークへ送り込んで、ジゼルに毒のりんごを食べさせようとするのです。果たして、ジゼルは無事王子と共におとぎの国へ帰ることができるのでしょうか。

冒頭のアニメのシーンはベタなミュージカル風で、ジゼルと動物たちが合唱します。そこへやってきた王子様とジゼルが一瞬にして恋に落ちて明日結婚しようということになります。ここまでのドラマの流れはスムースで出来すぎの感もある二人ですが、この二人の仲を裂こうという女王はジゼルを井戸の中に突き落とすのです。(おお、まるで貞子だ)すると、それまでアニメだったジゼルは人間となり、現代のニューヨークに婚礼の服のままの登場となります。彼女にしても何だかわけがわからない。そんな彼女を見かねて家にまで連れて行ったロバートはもっとわけがわかりません。まあ、宮殿型のネオンに向かって「開けてたもれ」とやってるのですから、クスリでラリってるとしか見えませんもの。それでも、あどけない笑顔で眠る彼女を追い出しかねるロバート。パトリック・デンプシーが常識ある善意の現代人を控えめに演じて好感の持てる男になっています。

さて、一晩明けると、そこへ恋人ナンシーが現れて一悶着あったあと、ロバートはジゼルを彼女の家まで送り返そうとするのですが、彼女のいうアンダレーシアという国も地名も存在しないのです。でも、ジゼルは隙あらば歌いだすし、近所の動物を集めてロバートの部屋を掃除しちゃったりもするのです。お掃除のシーンがなかなかの傑作で、近所の鳩、ドブネズミ、さらにはゴキブリが集まって部屋を掃除するという、「レミーのおいしいレストラン」の実写版というか、きしょい見せ場になっております。ジゼルが公園で、ストリートパフォーマーの演奏で歌い始めると、公園中を巻き込んで歌い踊るというというナンバーが圧巻でした。監督のケヴィン・リマは「ターザン」などを手がけたアニメディレクターだったそうで、「102」で劇映画の監督もしたことがあるそうですが、笑いをテンポよく盛り込んで観客を飽きさせません。特にリスのピップがまるでコメディアンのような笑いをとるのが見事でした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



それでも、何やかんやあって、ジゼルと王子様は出会うことができました。このジゼルを探す王子様が天然キャラで多いに笑わせてくれます。リスのピップが一生懸命ジェスチャーで伝えようとするのを、ことごとくはずしまくるのがおかしかったです。さて、一方のジゼルはデートという言葉もならい、一瞬にして全てが決まってしまう魔法の国のような恋ばかりではないということも知ります。それを教えてくれたロバートにだんだん魅かれていくジゼル。でも、ロバートにはナンシーという恋人がいるのですが、ロバートの中でも、だんだんジゼルの存在が大きくなっていきます。異文化交流から始まった愛の目覚めとでもいうのでしょうか。事態がはっきりしてくればくるほど、それはかなわぬ想いになっていきます。

そして、舞踏会で、ナンシーとロバートが踊っているところへ、着飾ったジゼルが王子と共に現れます。パートナーを変えて、踊るロバートとジゼル、二人にとっては至福の時間ですが、それは長くは続きませんでした。帰ろうとするジゼルの前に、女王の化けた老婆が現れ、彼女に毒リンゴを食べさせてしまいます。永遠の愛のキスで魔法が解けるというので、王子がジゼルにキスするのですが、効き目なし。王子は、ロバートにキスを頼むと、何とジゼルは目を覚まします。どうやら、ジゼルはおとぎの国の人から、こっちの人になってしまったようです。

この後、ファンタジー風のおまけがあって、逆上した女王が魔法でドラゴンになって、ロバートをさらってビルの頂上に上っていくのですが、ジゼルとピップの活躍でドラゴンは頂上から落下し、ロバートはジゼルが受け止めてハッピーエンド。ドラゴンが現れてもロバートはもちろん、王子も役に立たなくてジゼルが孤軍奮闘するというのが、今風の味付けになっているのですが、そこは強調しないでサラリとエピローグへとつなぎます。

ここで、ヒロインは、王子からロバートに乗り換えてしまうわけなんですが、それを不自然に思わせない演出は評価できると思います。まあ、残された王子とナンシーができてしまうというのはやり過ぎという気もします。ここだけおとぎ話のありがちハッピーエンドになってるのを、ま、いいか、くらいに見過ごせれば、楽しいハッピーエンドの映画として、後味のよいよくできた映画になると思います。

ジゼルの相手役ロバートを演じたパトリック・デンプシーは堅物の善意の男を控えめに好演しました。一方でオーバーアクト気味で笑いをとるジェームス・マースデンとティモシー・スポールには演技の達者さを感じさせました。スーザン・サランドンは意外や出番が少なめだったのがちょっと気の毒でした。また、エンドクレジットに特殊メイクのリック・ベイカーの名前がありました。たぶん、王女の化けた老婆のメイクを担当したのではないかしら。今年のアカデミー賞の主題歌部門では、この映画から3曲も候補が挙がっていたのですが、それほどのナンバーがあったかしらって、それほど印象に残るナンバーがあったのかなあ。(まあ、ミュージカルど素人の感想なので、深く突っ込まないで下さい。)

「クローバーフィールド HAKAISHA」は色々な映画のおいしいところをうまくミックスさせてます

新作の「クローバーフィールド HAKAISHA」を川崎チネチッタ8で観てきました。ここはTHX劇場でして、観易い劇場になっています。キップを売るおねえさんに「この映画、画面が激しく揺れたりしますのでご注意ください」と言われました。大画面だと酔う人がいるのかも。

暗号名クローバーフィールド事件の資料の一つ、ビデオ映像が始まります。日本支社へ栄転となるロブ(マイケル・スタール・デヴィッド)のサプライズパーティをビデオカメラで撮影しているようです。ロブと恋人ベス(オデット・ユーストマン)の関係がうまくいってないなんて話が続くうち、突然、地震のような揺れを感じます。テレビのニュースでは港で何か起こっているというので、皆屋上に上がってみたところ、海側のビルが火柱を上げて爆発しました。燃える破片がすぐ近くまで飛んできます。何かとんでもないことが起こっているようです。外へ出たパーティのメンバーですが、そこを何やらとてつもない大きなものが通過していきます。ブルックリン橋から逃げようとするのですが、橋の真ん中に巨大な触手が現れて、橋を破壊してしまいます。ビデオカメラを持つハッド(T・J・ミラー)とリリー(ジェシカ・ルーカス)とマレーナ(リジー・キャプラン)とロブが互いの無事を確認します。さあ逃げようというときに、ベスがアパートで動けなくなっているから自分一人でも助けに行くと言い出すのです。果たして彼らは無事に生き延びることができるのでしょうか。

予告編ではドキュメンタリー風ビデオ映像を見せて、何やら大事件の起こっているらしいニューヨークを見せます。ビデオ映像という作りだけにやけにリアルで期待させるところ大でした。どうやら何かの生き物に襲撃されているが、軍隊が出動しても倒せないらしいというところまでは伝わってきました。久々に気になる予告編に、期待して本編に臨みました。マット・リーヴスという監督さんの作品ですが、名前を聞いたことない人です。

オープニングは、ロブの兄ジェイソンと恋人リリーの寝起きショットから始まります。カメラはロブのものらしいですが、彼らがロブのサプライズパーティの準備をしているさまが映し出されます。なかなか事件が起こらなくて、ロブとベスが寝ただのうまくいってないだのなんて話が続くうちに、やっと地震のような揺れがきて、そして屋上へ上がると遠くのビルが大爆発して破片がこっちまで飛んでくるではありませんか。おー、やっときたきたと思っていると、以降は逃げ回る4人を中心にビデオカメラの映像が続きます。どうやら、そいつはビルくらい巨大らしくて、人を食うのだそうです。全く正体がわからないなあって、思っていると、最後までわからないってのが何とも。

そいつはブルックリン橋を破壊し、さらに、そいつの体からクモのようなちっちゃい子供が生まれてそいつらも人間を襲ってくるのです。とはいえ、映像はハッドのもつビデオカメラの映像なので、事件の全貌がわかりません。このあたりは、スピルバーグの「宇宙戦争」を思わせる展開です。「宇宙戦争」は普通の市民のトム・クルーズの視点から事件を描いたものですが、今回はその設定に加えて映像自体も彼らが撮影しているというのが新機軸と言いたいところですが、これは「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」というフェイク・ドキュメントと同じ趣向です。そして、怪獣の都市破壊というのは「ゴジラ」ですし、小さめの怪物が人間を襲うというのは「エイリアン」です。どうやら、色々な映画のアイデアをうまくミックスして作り上げた映画のようです。

みんな逃げようってときに、ベスが部屋で動けないでいることを電話で知ったロブは彼女を救うためにもっともヤバそうなミッドタウンに行くと言い出します。彼も一人でいくからと言ってるのですが、リリーが私も一緒に行くと言い出し、ハッドは友人が行くというのであればという態度を取ります。3人行くとなって、マレーナも何となく逃げにくくなっちゃって行かざるを得なくなるってのがお気の毒でした。彼女に逃げろと言わない方も言わない方なんですが、おかげで彼女はひどい目に遭うことになります。

4人は何とかしてベスのアパートへ向かおうとするのですが、地下鉄の線路を歩いているとき、子供エイリアンに襲われてしまいます。そして、マレーナは噛まれて深い傷をおってしまいます。駅から出ると、そこには軍のキャンプがあり怪我人も運び込まれていました。すると、マレーナの様子がおかしくなり、隔離されてしまいます。その時、まるでマレーナの体が爆発したかのような血しぶきが画面に映るのですが、実際どうなったのかはわからないままです。そして、そこで朝6時のヘリにのらないとここ一体を完全に破壊するという計画を知らされます。さらに、ベスのアパートへ向かう3人ですが、アパートのビルは隣のビルに倒れ掛かっている状態でした。仕方なく、隣のビルの47階まで徒歩で登って、その屋上からアパートのビルへ降りて、重症を負っているベスを救出します。何とかヘリポートまで走った4人はまずリリーがヘリに乗って避難し、次のヘリにロブ、ベス、ハッドが乗って飛び上がるのですが、あいつの攻撃にあってヘリは不時着してしまいます。何とか無事だった3人ですが、ハッドがあいつに襲われて死亡、ロブとベスは公園の橋の下にもぐって最後のメッセージを録画するのですが、そこへ軍による爆撃が始まって、録画も止まって、ジ・エンドとなります。へえー、これでおしまいなのかってちょっとビックリです。

確かに一般市民に見えるものというのは、限定されてしまいますから、こういう事件の全貌を捉えるのには難しいものがあります。それでも、これが政府のトップシークレットに入ってるってことは、最終的に事件は終結しているわけですから、じゃあ、何が起こって、どうなったのかくらいは説明してくれてもいいような気がします。そうでないと、コンセプトが曖昧な、色々な映画のおいしいどころを取り揃えただけの映画に見えてしまいます。この映画は確かにリアルなライド感覚に満ちたドキドキハラハラの映画であり、よくできてる部分も多々あると思っています。それだけに、見終わって物足りなさを感じさせる趣向はいかがなものかと思っちゃうわけです。

登場するモンスターは巨大なやつはタコ型にブサイクな恐竜の顔をつけたという感じのもので、とにかくひたすら暴れ回るだけで、こいつは何者なのか見当がつかないルックスです。でかい奴からボロボロと落ちてくる小さいモンスターはクモ型のエイリアン風で、こっちにはなじみがあります。まあ、どっちも怪獣ってことになるのですが、日本の怪獣映画のそれほどはキャラが立たないってのはなぜなのかしら。出番がちょっとだけってわけでもないんですけど。

全編ドキュメンタリータッチの映画なので、当然、劇伴音楽はないのですが、エンドクレジットでマイケル・ジアッチーノによる勇ましくドラマチックな曲が流れます。これが見事に盛り上がるのですが、1曲じゃあサントラ盤出ないだろうなあ。昔だったら、シングル盤レコードとして発売できそうないい曲なんですけどね。

後、映画の予告編を観てすごく期待していたことが、残念ながら本編にはありませんでした。それは、撮影するカメラが複数あって、様々なキャラが様々な状況の中で見たり行動したりするのを描いて、一つの事件のデータとしてまとめているというものでした。結局、1台のカメラの映像だけをずっと見せたわけですが、他にもビデオ映像を残している人がいるんじゃないかと思うと、複数のカメラの映像を並べて事件の全貌を垣間見せて欲しかったように思います。

「スルース」は舞台劇をそのまま映画化しててなかなか面白い

新作の「スルース」を109川崎シネマズ8で観てきました。ここは89席という小さな劇場なのに、横2列特別席が設けてあるのってどうよ。キャパの大きな劇場ならともかく、このキャパでも規格が2列だからそうしてるのだとしたら、ずいぶんと融通の利かないシネコンだわ。

有名な小説家ワイク(マイケル・ケイン)の一人住まいのお屋敷に、ティンドル(ジュード・ロウ)という若い男が訪ねてきます。ティンドルは、別居中のワイクの妻の愛人であり、ワイクに離婚してくれるように頼みにやってきたのです。ところがワイクはそう簡単に離婚しないつもりのようで、逆にある提案をしてきます。自分の100万ポンドを盗んで、売りさばくルートも教えようというもの。その提案に乗ったティンドルは、ワイクの指示通りに忍び込んで宝石もゲットするのですが、突然ワイクは銃をティンドルに突きつけ、そして引き金をひきます。数日後、ブラックという刑事がワイクの屋敷へとやってきます。ティンドルという男が行方不明になっており、最後に来たのがここのはずだとブラックは言います。ワイクは最初余裕でやりすごしているのですが、彼の部屋から血痕などの証拠が発見させられて、追い詰められていきます。果たして、ティンドルの死体は見つかるのか、そしてワイクの屋敷で一体何が起こったのか?

アンソニー・シェーファーの原作で、以前、映画化もされた「探偵スルース」を、ハロルド・ピンターが脚色し直して、ケネス・ブラナーが監督して、89分に映画に仕上げました。前作でティンドルを演じたマイケル・ケインが、今度は前作でローレンス・オリビエが演じたワイクを演じてます。そして、前作でマイケル・ケインが演じたティンドルをジュード・ロウが演じました。

舞台劇が原作というだけあって、ワイクの屋敷だけでドラマが展開し、その美術も見事でした。物語はワイクとティンドルの会話で始まります。そして、離婚してくれというティンドルの頼みをはぐらかして、妙な提案を持ちかけるのですが、これがなかなか巧妙でして、冷静に考えればおかしな話なのに、なんとなく納得しちゃうように丸め込んでしまいます。だって、自分の宝石を盗ませてやるって、ものすごく不自然だもの。それでも、外へ出て、納屋の後ろからはしごを持ってきて、屋根へ上っていくティンドルは結構おマヌケに見えます。そして、屋敷の中に入り込んで、ワイクの指示通りの段取りで宝石を手にするのですが、ここで一区切りと思いきや、ワイクが銃を向けてきます。ああ、やっぱりタダで宝石と嫁さんをくれてやる気はなかったんだとわかるのですが、もう手遅れです。あまりにもうまく手玉にとられてしまうティンドルは、大して気の毒にも思えませんでした。



この先は結末に触れますので、ご注意ください。



数日後にワイクの屋敷を訪れたブラックという刑事は、ティンドルが行方不明になっていることについて、ワイクが何か知っていると確信を持っているようです。小汚い中年刑事の詰問に追い詰められていくワイク。しかし、真相はティンドルは空砲を食らって失神し、その後、屋敷から無傷に帰っていたというのです。ところが、屋敷の中から、血痕やティンドルの衣服が見つかり、ワイクびっくりです。ここで種明かしで、ブラック刑事がティンドルの変装だったことがわかります。散々な目に遭わされたティンドルもこれでワイクに一矢報いたと言えましょう。でも、ティンドルとしては、ワイクに死の恐怖を味わわせてこそ、ゲームはイーブンに戻ると考えているようです。銃で、脅して宝石をワイルに着けさせるティンドル。その時、ティンドルに電話がかかってきて、ワイルの妻がこの屋敷に向かっていることがわかってきます。

しかし、ここで、ワイルが最初のよりさらに奇妙な提案を持ちかけてきます。ティンドルに好きなだけの贅沢をさせてやるから、自分と一緒にこの屋敷に住んでくれというのです。その申し出には当然ホモセクシュアルな意味合いも含んだ上での提案です。その術中にはまったようなふりをして、いいところで「うっそだよーん」といって、老人をもてあそぶティンドル。しかし、舞台が寝室へ移ったとき、隠してあったワイクの銃がティンドルに向けられるのでした。この件は、もっともゲームの駆け引きを感じさせる部分で、演技と本音の狭間でやりあう二人が見応え十分でした。そして、ゲームが突然終わるところも見事に見せきりました。

ブラック刑事の正体が割れた後のやり取りは、若いティンドルの方が主導権を握っています。ワイクの申し出は孤独な金持ち老人が癒しを求めるものであり、ワイクはその弱みの手の内をティンドルにさらしているのです。でも、ラストは銃弾によってティンドルが仕留められることで決着になるのですが、ここへ妻の車が屋敷に着くところを見せることで、まだゲームは終わっていないことを暗示しています。それまでは、ゲームの上の駒でしかなかった妻が最後にゲームのプレイヤーになるんじゃないかって思わせるあたりは、なかなかうまいと思いました。

登場人物がたった二人のドラマをケネス・ブラナーは舞台劇のタッチで演出していまして、カット割も細かくせず、演技をじっくり見せる絵作りをしています。乾いた協奏曲風の音楽をパトリック・ドイルが作曲し、なぜかロンドン交響楽団が演奏しています。音楽の流れる時間は少なかったのですが、サントラCDも出ていまして、一体、どんな音楽が入っているのかが気になってしまいました。この映画、シネスコの横長画面なんですが、寄りのカットが多くて、屋敷の空間が狭く見えてしまい、これが、狙ったのか計算違いだったのかってところも気になってしまいました。また、屋敷の完全武装のセキュリティシステムが登場するのですが、ドラマに直接絡んでこなかったのは、ちょっと期待外れでしたけど。ともあれ、タイトにまとまった推理サスペンスとしては上々の仕上がりでした。

「エリザベス ゴールデン・エイジ」は絵巻物だけど演技陣も見応えあり

ロードショー公開がほぼ終了している「エリザベス ゴールデン・エイジ」をフジサワ中央1で観てきました。ビルの中の古い映画館でして、音響もドルビーステレオだけなんですが、スクリーンも大きくて音響も心地よいものでした。

16世紀の後半、イングランドの女王エリザベス一世(ケイト・ブランシェット)はプロテスタントでしたが、カソリックに対しても寛大な政策をとろうとしていました。一方、無敵艦隊を持つスペインのフェリペ二世は、カソリック統一を掲げて、イングランドへ攻め込むタイミングを狙っていました。カソリックのスコットランド女王メアリー(サマンサ・モートン)が正統なイングランド女王だと名乗り、イングランドで幽閉されていたのですが、スペインはこれを利用しようとし、イングランド内のカソリックと何やら企んでいたのでした。一方、エリザベスは、アメリカ航海から帰ってきたウォルター(クライブ・オーエン)に心惹かれるものを感じます。カソリックの暗殺者がエリザベスを襲撃しますが、なぜか銃は空砲でした。しかし、この暗殺未遂から、メアリーとカソリックの間の書簡が発見され、メアリーは反逆罪で処刑されてしまいます。カソリックの正統な王女が殺されたことは、スペインに攻め込む口実を与えてしまいます。スペインの無敵艦隊がイングランドへ押し寄せてきます。自ら甲冑に身を固めて迎え撃つエリザベスに勝利の女神はささやきかけるのか。

「エリザベス」の続編です。前作は、イギリス王室をお化け屋敷のような陰謀ドロドロの世界に描いたのですが、その続編は外部の敵に対するエリザベスの姿を描いていきます。ストーリー的には、イングランドに攻め込もうとするスペインとカソリックの陰謀と、エリザベスとウォルターの微妙な恋愛模様が並行して描かれます。前作と同じくシェラール・カプール監督がメガホンをとっていて、9年のブランクを感じさせない正統な続編になっています。

スペインは宗教戦争の名目で、プロテスタントの女王がいるイングランドへ攻め込む機会をうかがっていました。一方で、エリザベスの腹心フランシスが部下を使って国内のカソリックの動きを監視していました。カソリックのロバート率いる連中が幽閉中のメアリーに手紙を送って、メアリーが正統な王女だから、行動を起こすべきだとたきつけます。この陰謀のくだりは、ハードで血なまぐさい展開になっていまして、ロバートやフランシスの非情さが際立ちます。しかし、この諜報戦は最終的にカソリック側が一枚上手で、イングランドは窮地に追い込まれてしまいます。

一方、エリザベスはウォルターに心を惹かれながらも、自分が恋に落ちるわけにはいかないと悟っていました。侍女のベスもウォルターに想いを寄せているようでした。エリザベスは、ベスをウォルターに近づけると二人はお互い愛し合うようになります。エリザベスは自分の想いをベスに託して、ベスとウォルターが恋に落ちるのを黙認します。二人のダンスを見て、エリザベスが自分とウォルターが踊ってる様を空想するシーンは切ないものがあります。ただ、なぜ、そこまで自分の感情を押し殺してしまうのかが理解しにくかったです。前作でその辺りの経緯が描かれていたのかもしれませんが。

冒頭から、エリザベスはパワフルに行動していますが、スペイン艦隊の接近に伴い、タフな彼女も弱気になります。占星術師に救いを求めたり、自分の中の恐れをウォルターには見せたりと、このあたりの葛藤が今回のドラマの見せ場になっています。それでも、他の人間に対しては凛としたたたずまいを崩さないようにするあたり、自分で自分を追い詰めることによって、女王たりえているエリザベスの孤独が伺えます。

クライマックスは無敵艦隊がイングランドの沿岸に押し寄せてくるのを迎え撃つというスペクタクルシーンになります。実物大の帆船とCGを組み合わせた見せ場になりますが、ここを割とあっさりと切り上げたのは、ドラマとしての中心がぶれるからか、予算のせいなのか。それでも、イングランドの荒海と嵐が無敵艦隊に大打撃を与えて、スペインの進撃は食い止められるのです。

そして、エリザベスに無断で結婚し、子供まで作ったベスとウォルターを許し、生まれた赤ん坊を抱きかかえるところで映画は終わります。大変エピソードの多い映画でして、ドラマのテンションをエリザベスに委ねているところがあり、演じるケイト・ブランシェットにしてみれば大変な作品だったと思います。しかし、そこをクリアし、ケイト・ブランシェットの映画にしてしまっているのですから、大した演技力だと思います。もともと、彼女は持って生まれたスター性というのはなさそうなところを、演技力でカバーしてきた人ですが、この作品でもクイーンの威厳と女性としての弱みの両方を的確に演じています。そこから、エリザベスってこういう人だったんだろうというイメージを観客に持たせることができるのは大した説得力だと感心してしまいました。彼女を見ているだけで映画一本分の見応えはあるというのは、誉めすぎかしら。

助演陣ではジェフリー・ラッシュがスゴ味を見せるほか、侍女を演じたアビー・ゴーニッシュが出番も多くて儲け役になっていました。彼女は「プロヴァンスの贈り物」のときとはまた別の顔を見せており、今後の活躍が期待される美形さんです。

レミ・アデフェラシンのキャメラは構図にこり過ぎではないかと思わせる一方、光の扱いが見事で、明るい場所でも暗い場所でも映像をクリアに切り取っています。こういう絵巻物のような映画なら、シネスコサイズでもよかったような気もしますが、あくまでエリザベスのドラマにこだわったというところなのでしょうか。A・R・ラフマーンとクレイグ・アームストロングの共作による音楽がスケールの大きな音でドラマを支え、そして盛り上げていました。

「羅生門」をDVDで観てまさか泣かされるとは....不覚

「バンデージ・ポイント」が似ているということで引き合いに出されていた黒澤明監督の「羅生門」ですが、ずっと昔にテレビで観たきりなので、細かいところの記憶が飛んでまして、久しぶりに DVDで観ることにしました。1時間半弱の映画なんですが、うーん、見ごたえ十分、でもハングル字幕がついてるこれ大丈夫なのかな。

京の羅生門、降り続く雨をよけて、樵(志村喬)と坊主(千秋実)が雨宿りをしていると、そこへ男(上田吉二郎)が入ってきます。樵と坊主が「さっぱり、わからない」とつぶやいているのを聞いて、男は何のことか聞きます。森の中で侍の死体を見つけた樵は検非違使に届け出ます。坊主は侍の生きてる姿を最後に見た証人として検非違使に呼ばれます。そこへ、捕まった山賊(三船敏郎)が引き出されました。彼が侍(森雅之)を縄でしばって、連れの女(京マチ子)を手込めにし、その後、女が二人の男のどちらかを殺してほしいのだと言いだし、山賊は侍の縄を解き、斬り合った末に侍の命を絶ったのだと、侍は証言します。その後、寺に身を寄せていて女が引き出されます。女は手込めにされた後、侍の蔑む視線に耐えられなくなり、呆然自失のまま侍を刺したと証言します。そして、イタコを連れてきて、侍の霊を呼び出したところ、今度は、侍は自害して果てたというのです。不思議な話だが、人間なんて信用できないものだと、樵に向かって男はシニカルに笑います。しかし、樵はもう一つの話を始めるのです.....。

雨が強く降る中にたたずむ羅生門、そこで語られる不思議な物語は、さっぱり訳のわからない話です。山賊が、女を馬に乗せた侍を待ち伏せし、侍を騙して縛り上げ、侍の目の前で女を犯す、というところまでは同じなんですが、そこから先が、3人が三様の物語を語るのですから、実際、何が起こったのかよくわからないのです。物語の違いは、女のあり様の違いがありました。一人の男としか添い遂げられぬと山賊をけしかける女、侍にすがろうとした時にその蔑む視線に我を失う女、侍を見捨てて山賊と去る女、京マチ子が同じ女を三つのパターンで別人のようなすばらしい演技を見せます。なぜ、女が山賊の目を惹いたのか、そして、手荒な方法でものにしようと思わしめたのかが説得力があるのです。

三つの物語から見えてくるものは、3人の話には、各々の話者のプライドが立つようになっていること、そこに偽りの告白が入る余地があります。死んだ侍が嘘をつくわけがないと坊主が反論するのですが、生きた人間は嘘をつく、死人は生きた人間の成れの果てなら、嘘だってつくだろうと男にやりこめられてしまいます。人間って見栄っ張りねえ、人間って信用できないねえって空気がぷんぷんしてきます。3つの話を総合すると事実は闇の中になってしまうのですから、まったくわけがわからない。男はそんなのは当たり前のことだとうそぶきますが、樵も坊主もそれに返す言葉がありません。



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原作では、3つの話を並べるところで終わるのですが、映画版では、そこにもう一つの物語を持ち出すことによって、よりテーマが明解になってきます。それは、樵は死人を見つけたのではなく、手込めにされた後の3人の様子を物陰から伺っていたというのです。そこでは、山賊が女に本気で惚れて嫁になってくれと頼むのですが、女は拒否し、それを見た侍は女を汚らわしいものとして扱い、女は山賊にあの侍を殺してくれと請うのです。そして、女は高笑いして、女を本気で奪いたければその命を賭けろとまで言い、侍と山賊は斬りあいというよりはもっと凄惨な殺し合いの末、山賊が勝つのですが、女はいずこへ逃げ去ったのでした。樵はそれを検非違使には告げず、胸のうちにしまっていたのです。ここで、3人のうち誰かは本当のことを言っているだろうという前提が壊れてしまいます。誰も本当のことを言ってないのではないか。それは逆に樵の証言も本当かどうかわからないということを意味していました。

本当のことなんてわからない、いや、本当のことなんて存在しない、信頼できるもの、確かなものなど、この世にはないのだという結末になってしまうのかと思っていると、男が羅生門のすみで捨て子を見つけます。その赤ん坊の着物をはいで、いずこかへ去っていく男。残された樵と坊主は赤ん坊を見つめてどうしようかと考えます。樵はその赤ん坊を家に連れて帰ると言い出します。6人の子供が7人になっても大した違いはないという樵の言葉に坊主は感動して、世の中にはまだ信じられるものがあるのだなと、樵に感謝の礼を言います。短い文章で書くと味も素っ気もないのですが、このシーンで、私は思わず泣かされてしまいました。

まさか「羅生門」って泣ける映画だとは今まで気がつきませんでした。芥川龍之介の「藪の中」が原作で、一つの事件に3つのあい矛盾する証言が出る話だというところだけ覚えていたようで、そこから、人間って不可解で、真実は人の数だけあるのだというテーマがあるのだなって頭でっかちに考えていたのです。でも、映画はラストで、人間は理解しあうことができ、一つの真実を信じることができるという希望を見せて終わります。でも、樵の目撃したことがただ一つの真実だとは映画は語っていません。人間は、あやふやで、嘘もつくし、時には嘘を信じ込んでしまうこともあります。それでも、人間は信じるに値するというラストが感動的でした。

宮川一夫のキャメラが素晴らしいということでしたが、これはテレビの画面では堪能できるものではありません。ミニシアターでいいから劇場のスクリーンで観たいものだと思いました。

「サラエボの花」おぞましい過去から新しい一歩を踏み出すところが圧巻

東京では昨年の暮れに劇場公開された「サラエボの花」を静岡シネギャラリー2で観て来ました。小さなスクリーンの映画館ですが、静岡で単館系映画を観られる唯一の劇場です。小さいだからかお客さんもお行儀がいいし、雰囲気は悪くないのですが、静岡ミラノ2でもこういう映画を上映して欲しいといつも思うのでした。かつてのアートシアターミラノで上映されたような映画はシネギャラリーでしかお目にかかれないのもなあ。

ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボ、グルバヴィッツァ地区、エスマ(ミリャナ・カラノヴィッチ)は娘サラ(ルナ・ミヨヴィッチ)と二人暮らし。生活は苦しく補助金と裁縫だけでは食べていけず、夜クラブでウェイトレスの仕事にもつくようになります。サラはもうすぐ修学旅行です。サラの父親は殉教者(シャヒード)ということで、届出を出せば、200ユーロの旅行費用は免除されるのですが、サラの催促にもエスマは届出の提出を先延ばしにしています。クラブで働くベルダがエスマに関心を持ちます。肉親の遺体探しの場で見かけたと言われ、少しずつ親しさが増していきます。一方で彼女は200ユーロを何とか作ろうとして、クラブに給料の前借りを頼んだりしています。エスマとベルダの関係はどうなるのか。また、エスマは何かを隠しているのか。

2006年ベルリン国際映画祭グランプリを受賞した、女性監督ヤスミラ・ジュバニッチ監督によるサラエボを舞台にした映画です。時期は、紛争が起こってから12,3年後と思われます。オープニングは、どこかの部屋で、中年女性がいっぱいいて、目を閉じて何か考え事をしているように見えます。この場所は、中年女性のための集団セラピーの場所のようで、そこでは政府補助金の配布も行われているようで、エスマは補助金の出る日だけ出席しているのでセラピストから他の日も来るように言われちゃってます。そこでは自分のつらい体験などを話し、聞くことで体験の共有し、心の傷を癒そうというものらしいのですが、エスマはまだ自分のことを語ったことはなさそうです。でも、補助金をもらうのは、今の稼ぎだけでは生活できないから。夜のウェイトレスの仕事も生活のためです。

エスマと娘サラは大変仲のよい親子に見えます。それが、夜の仕事を始めたあたりから、ちょっとおかしくなってきます。仕事を終えた母親が男の車で帰ってくるのを目撃してしまうサラ、また、修学旅行の免除申請を出さない母親にも不信感を持ってしまいます。この映画は、この親子関係を中心にして、後、脇役としての男二人という登場人物を絞り込んだ舞台劇のような作りになっています。しかし、舞台劇と違うところは、扱う感情がすごく細やかというか、強烈な押し出しといった見得を切るシーンがないのです。エスマは口数が少なめで頑固そうな女性です。娘は母親よりも活発で思うことをはっきり言い、感情の起伏も大きいです。そんな対照的な親子ですが、どちらも極端なキャラではなく、リアリティのある人格になっています。



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この映画の物語は大変シンプルです。メインストーリーは、サラの出生の秘密になります。父親が殉教者だったという証明をなかなか出さないで、金策に走り回るエスマ。友人の尽力で、何とか200ユーロをかき集めてもらって、学校に払い込むのですが、それを見たサラは、なぜそんなことをするのかと母親を問い詰めます。娘をなぐりつけてでも、その話題をそらそうとするエスマですが、サラがボーイフレンドから預かっていた拳銃を彼女に向けるに及んで、それまでの感情が一気に爆発します。「お前は収容キャンプでレイプされて妊娠した子供だよ。」とありったけの感情を込めて、サラにぶつけます。それは、母親として絶対言ってはならないと胸に秘めていたことであり、娘にとっては絶対に聞きたくない、直面したくない事実なのでした。「私のパパは殉教者(シャヒード)よ」と叫ぶサラですが、彼女を事実を呑み込まざるを得なくなります。この映画で、もっとも感情の高まるシーンでした。

そして、二人は改めて事実に向き合い、エスマはエスマなりに、サラはサラなりに、前に向かって歩みを進めようとします。エピローグに近いこの部分で、映画はその底力を見せてきます。サラは自分の髪を切り、坊主頭になってしまいます。でも、それで学校へも行き、彼氏とも会うのです。新しい自分で、全ての有り様から逃げないというところが圧巻でした。一方の、エスマは集団セラピーで初めて自分の体験を語るようになります。そのことによって、彼女の頑なに閉ざされた心が少しずつ開かれていくのかもという予感を感じさせます。修学旅行当日、バスまでサラを見送りに来るエスマ。バスのリアウインドから母親に向かってちょっとだけ手を振る娘の姿を見せて、映画は終わります。

サブプロットとして、エスマに好意を抱くベルダというクラブの用心棒みたいな男が登場します。エスマとのラブシーンもあり、彼女としても嫌いじゃない男だったのでしょうが、それでも男性を受け入れる余裕がないように見えるところが痛々しいエピソードになりました。それに比べるとサラのボーイフレンドの話はごく自然の成り行きに見えます。ただ、事実に直面したサラを彼氏が受け入れることができるかどうかは、わからないままです。

ジュバニッチの演出は、全体的に淡々としたもので、どこか乾いたタッチを感じさせます。それだけに、民族浄化という名の集団レイプの事実が恐ろしく残酷に感じられます。その事実を一人で背負ったまま生き、その結果の娘を育ててきたエスマの苦しみは尋常ではなかったことが、少ない描写の中で鮮明に浮き上がってきます。感情の起伏をもっとストレートにダイナミックに描いたら、感動こそすれ、彼女の生きることの苦しみは浮かび上がって来なかったでしょう。感動作をわざと小品にまとめることで、この映画は大きな力が与えられました。そして、上っ面の言葉ではない、「愛情」というものの実体に肉薄したように思えるのでした。

「デッド・サイレンス」の音楽はオーソドックスなホラーサウンド


ラストに仕掛けを盛り込んだ王道ホラー「デッド・サイレンス」は、「ソウ」の脚本、監督によるものだからか、音楽も「ソウ」シリーズのチャールズ・クロウサーが担当しました。全編、打ち込み音楽なのですが、シンセでオーケストラやコーラスの音を作って、ホラーの王道音楽になっています。

メインタイトルは、高音キーボードによるアルペジオ風メロディに、オーケストラ風の重い音がかぶさって、厚みのあるテンションの高い音楽に仕上がっています。ちょっと、チャールズ・バーンスタインの「エンティティ」のテーマに似ているのですが、シンセだけで、これだけの音を作り出せるとは、すごい時代になったものです。完全にオーケストラのスコアをシンセの音に置き換えているという感じですもの。

ショックシーンを予感させる音は、シンセの高音部をキーンと鳴らすなど、ホラー映画の定番音楽になっているのですが、そういう曲はあまり登場しません。主人公の故郷を描写する音は、ピアノを中心にした静かな曲と、シンセの中低音部によるドヨーン、ビヨーンな音楽との2種類をうまく使い分けているようで、中低音部の音も、単なるシンセの音ではなく、ストリングスを想定した音になっていますので、全体に厚みがあって、ホラー映画音楽特有の安っぽさがありません。コーラス風の音がドラマが単なる連続殺人モノではない、因縁話になっている本編とうまくマッチしています。

後半はホラーの見せ場が次々と出てくるので、音楽もメロディアスな部分がなくなって、ショック演出と連動した、ドッカン、ドッコンという音楽になってきます。映画の中でも、ボリュームを大にしてガンガン鳴っていまして、映画は恐怖のかなりの部分を音楽に依存していることがよくわかります。映画が、静かになってショックドッカーンの繰り返しなら、こういう音楽の使われ方にはなりません。クライマックスへ向けて恐怖をうねらせようという演出の意図がよく理解されているのでしょう。音楽で観客の神経を逆なでするのではなく、観客の不安や恐怖を盛り上げるために使われているあたり、職人的なうまさを感じさせます。

「デッド・サイレンス」は勢いで見せるホラー映画

今回は新作の「デッド・サイレンス」をTOHO川崎シネマ4で観てきました。ここではドルビーデジタルではなく、DTSによる上映でした。シネコンでの上映ではほとんどドルビーデジタルになってしまうのですが、このTOHO川崎シネマは映画によってはDTS上映してくれるのがうれしいシネコンです。久々にシネスコサイズでDTSのロゴを観ました。

若い夫婦ジェイミー(ライアン・クワンテン)とリサ(ローラ・リーガン)のもとに不思議な包みが送られてきます。包みを開けると腹話術の人形が不気味な顔で鎮座していました。ジェイミーが外へ買い物に出かけているときいに、何とリサは舌を切り取られて惨殺されてしまいます。人形の箱を調べてみると、そこにはメアリー・ショウの文字がありました。妻を弔うために実家のあるレイブンズ・フェアへと帰るジェイミー。彼を父親と義母のエラ(アンバー・ヴァレッタ)が迎えます。今や、荒れ果てた街となっているレイブンズ・フェアには女腹話術師メアリー・ショウの呪いがまことしやかに語り伝えられていました。墓守のヘンリーに話を聞けば、その昔、メアリーの腹話術を疑った少年が行方不明になり、それと前後して彼女も死亡、そして、彼女は自分を人形とすることを言い残していたというのです。そして、今も人形となったメアリーは生きていて、叫び声を挙げた者の舌を切り取るというのです。でも、なぜリサがそんな殺され方をしたのか。そして、ジェイミーの前に人形化したメアリーが現れてくるのです。果たしてジェイミーは人形の謎を解けるのか?

痛そうなホラーなので私はパスしている「ソウ」シリーズの監督脚本コンビ、ジェームズ・ウォンとリー・ワネリが人形ホラーを作り上げました。過去の人形を扱ったホラーでは、ずいぶんと昔の映画ですけど、リチャード・アッテンボロー監督の「マジック」、それから、スチュアート・ゴードン監督の「ドールズ」が2大巨頭だと思っているのですが、今回の「デッド・サイレンス」はショック度ほどほどで、雰囲気と勢いで見せるホラーの佳作にまとまっています。

オープニングで若夫婦のもとに人形が送られてきて、すぐに最初のショックシーンがあって、人形に近づいた妻のリサが何者かに惨殺されてしまうのです。一見、無差別殺人を予感させる幕開けですが、徐々に主人公ジェイミーのまわりに不気味がパズルのピースが浮かび上がっていき、因縁話になってくるという意外な展開を見せます。人形の箱にあったメアリー・ショウの名前、そして、ジェイミーの故郷に伝わるメアリー・ショウの伝説。そして、そこにある不気味な腹話術人形、そいつは誰も見ていないところで、目が動いたりして、この物語が超自然ホラーであることがわかってきます。故郷の町の共同墓地には、メアリー・ショウの墓があり、その背後には、彼女が使っていた人形の墓(何と100体分!)があります。メアリー・ショウを中心に何やらおどろおどろした世界が渦巻いているようです。

町にはかつて立派な劇場があり、そこでメアリーが腹話術のショーを行っていました。墓守のヘンリーは自分が子供だったある夜、ショーを観にいき、そこで、メアリーの腹話術をインチキだと叫んだ少年を見ます。その子は姿を消してしまい、子供が町の名士に息子だったこともあり、疑われたメアリーは一族により舌を切り取られて殺されたというのです。その後、メアリーの死に関係したと思われる人々が家族ごと舌を切られて惨殺されたというのです。そして、町では、メアリーの名は口にするのもおぞましい存在として、でも今も不気味な力を及ぼしているというのです。とはいえ、ジェイミーに人形を送りつけて、妻リサを惨殺したのはなぜだったのでしょう。



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メアリーは死んで葬られるときに自分を人形にするように言い残していて、ヘンリーの父はそれを忠実に守り、彼女を人形化してしまったというのです。なぜ人形になると復活するのかといった細かいところはお構いなしで、勢いで物語が進んでいきます。後半は、論理性よりも勢い重視で、墓の中の人形はなくなるは、その人形が廃墟になっている昔の劇場に鎮座ましましているは、なぜ?と考えさせる暇を与えない演出は、いわゆる力技、言い換えれば説明不足なんですが、こういう映画には有効に働いています。冷静に見れば行き当たりばったりの展開なのに、観客をうまく乗せてしまうあたりは見事と言えましょう。また、異変が起こる前には全ての音が消えるという演出も、お約束としてうまく機能しています。映画の演出として何か起こる前に音が消えるというのがあるのですが、今回は登場人物にとっても無音になるというもので、後半など主人公は音が聞こえなくなったので「来るぞ」と身構えるくらいです。これってホラー映画のパロディと見ることもできましょう。

結局、メアリーはジェイミーも含めて根絶やしにしようとしたようで、彼の奥さんもジェイミーの子供を身ごもっていたことから、とばっちりをくらったようなのです。そして、人形はメアリーの怨霊の下僕みたいな存在らしいのです。ですから、人形を全部つぶせば、本体も消せると思わせて、実はまだ人形と怨霊の主体が残っていて、その総元締めは、なんと義母のエラだったのです。正体を現すと同時に、それまでの事件のフラッシュバックを見せて、なんとなく納得させてしまい、このオチには、さすがジェイミーも悲鳴を上げて、舌抜かれちゃうというデッドエンド。エラが怪しいというのは、それまでの演出でなんとなく匂わせているのですが、実際、エラが真犯人だとすると、こいつ何者やねん、というところまでは説明しないまま、映画は勢いでストンと幕をおろします。

超自然ホラーだから、多少の理不尽は許容範囲ですけど、この映画の場合は、つじつまのほころびだらけです。それでも、ホラー映画としてちゃんとまとまっているのは、演出のうまさなのでしょう。人形本体が殺人を犯すシーンはなくって、メアリーの人形化した怨霊が結構暴れまわるのに、意外性がありました。ただし、人形そのものの怖さにまで肉薄できてないのは、じっくり見せるホラーというよりも、見せ場をつないだジェットコースター風(言い換えると活劇風)のホラーになっているからでしょう。人形本体の怖さという点から言えば、前述の「マジック」や「ドールズ」にはかなわないものの、「人形遣い」というキーワードで展開させたホラーとしては成功していると思います。

役者で見せるドラマではないのですが、主人公の父親を演じたボブ・ガントンが印象的でした。また、せっかくのアンバー・ヴァレッタは出番も少ないし、演じた役柄からしてもミスキャストではないかしら。チャーリー・クロウサーの音楽が、おどろおどろのホラーサウンドで画面を盛り立てています。

1984年版「ゴジラ」は誉めるところなくって

ゴジラ映画も備忘録を2本書いてみたのですが、ゴジラシリーズの節目になる映画が他にあるかなというところで、1984年の「ゴジラ」を挙げたいと思います。この映画、「ゴジラ FINAL WARS」が出るまで、「観てズッコケ度」1位の座をキープしていました。ですから、この先、この「ゴジラ」に思い入れのある方は読み飛ばしてください。決して誉めてはおりません。


嵐の夜の漁船が遭難し巨大な生物が目撃されます。新聞記者の牧(田中健)はゴジラが蘇ったのではないかと思い、生物学者の林田(夏木陽介)の意見を仰ぎます。とか何とかしているうちに原子力発電所にゴジラが現れます。三田村首相(小林桂樹)はゴジラ対策としての核兵器の使用を拒否するのですが、今度はゴジラは東京に上陸し、銀座を通過し、新宿副都心へと進んできます。自衛隊のスーパーXがカドミウム弾によってゴジラの動きを止めるのですが、ソ連が誤射したミサイルが新宿上空で爆発して、またゴジラが元気になっちゃいます。林田と牧は、ゴジラの帰巣本能を刺激する音波によって、ゴジラを三原山まで誘導します。そして、ゴジラは噴火口の中に落ちていくのでした。

1984年の「ゴジラ」は、1975年の「メカゴジラの逆襲」(これは意外な佳作で特撮シーンも迫力あってかなり好き)で打ち止めになっていたゴジラシリーズを再開させようとしたものです。世間的にも怪獣ブーム再燃の兆しもあって、かなり期待されていた映画です。これまでのゴジラ映画と異なるビスタサイズ、ドルビーステレオというフォーマットでお正月映画として公開されました。設定は、1954年の「ゴジラ」の続編ということで、その間のゴジラ映画はなかったことにされちゃいました。これは、いわゆる設定リセットという技なんですが、これ以降のゴジラ映画で濫用されるようになる走りというべきものでした。

オープニングの嵐の海のシーンはミニチュア特撮、立体音響効果もよくって期待させるものがありました。これは、第一作の「ゴジラ」と同じオープニングなんですが、水を使った特撮は、オリジナルより迫力ある見せ場になっていました。そして、ゴジラが現れて、暴れて、秘密兵器(超音波と火山)によって退治されるという主な流れも、第一作と同じ。主人公と恋愛関係になるヒロインが登場するのも同じです。このヒロインは今の方がきれいな沢口靖子が演じてまして、本筋と絡まないけど、出番が結構あるというのが不思議でした。スクリーン上では、ゴジラより彼女の顔の方が大きいので、ゴジラよりも目立っていたかも。

そこから、ゴジラが原発を襲うシーンになるのですが、原子炉を引っこ抜いて放射能を吸収するというのにはびっくり。ゴジラはこれまで放射能を撒き散らす存在ではありましたが、放射能が好物だというのは新趣向、というか、何か変だぞとこのあたりから気付いてきます。ゴジラが東京に上陸すると、オープニングのリアルな特撮から、ミニチュア然としたテレビ特撮になっちゃいます。第一作では画面を暗くしてミニチュアのアラを見せないように頑張っていたのですが、やけにクリアな画面が空気感を出せないで、ゴジラの巨大感も感じられないのです。特に新幹線を襲うシーンは失笑ものでした。

その上、自衛隊の秘密兵器の名前がスーパーXというのにも、ズッコケてしまいました。他にもう少し、それらしい名前があるだろうと思うのですが、こいつが、登場すると、スーパーXのテーマ曲が高らかに鳴り響くのですが、フレームアウトすると音楽が消えて、またフレームインするとまた音楽が流れ出すという、まるで自分でテーマ曲流しながら飛び回っているみたいでした。

と、ツッコミどころ(まだ他にもあるけどキリがないので)はいっぱいあるんですが、ゴジラのキャラが立ってないってのは痛いところでした。もっとゴジラの怖さの理論武装をしてくれたらよかったのかもしれませんが、通りすがりの酔っ払いが暴れまわってトラ箱に入れられるようなお話なので、ゴジラにシンパシーを感じることもできず、ラストにカタルシスを感じることもできませんでした。

観た当時はこんな感じでダメポイントをあげつらっていたのですが、今になって思い返してみますと、この「ゴジラ」のコンセプトは、第一作のリメイクだったということに気付かされます。リメイク、それも直球勝負の。第一作のポイントは一通り押さえていますもの。オープニングは同じだし、恋愛模様あり、反核ネタは首相の非核三原則行使になり、オキシジェンデストロイヤーは超音波とスーパーX。でも、結局、リメイクは間の抜けたものになっちゃってます。それは、橋本幸治の演出がダラダラしてたからではないか、と、今では思ってます。だって、展開がタルいんだもん。

そんなわけでリメイクに失敗した新ゴジラの路線変更という意味で「ゴジラ対ビオランテ」は新機軸をいっぱい盛り込んだということで、記憶に値する映画になり、以降の新ゴジラシリーズが展開していくことになります。結局、トータルのゴジラシリーズの中で、1984年版「ゴジラ」は鬼っ子的な存在になってしまい、以降、「ゴジラ」第一作をリメイクしようなんて無謀なことを封印した、という点において存在価値のある映画になったように思います。(← いやー、やっぱりずいぶんな言いようだわ、こりゃ)

「ベルセポリス」は知って共感して理解する映画です。

日本では2007年の暮れに公開された「ペルセポリス」を横浜シネマベティで観て来ました。イランの女の子をヒロインにしたグラフィックノベルのアニメ化で、フランスで映画化されていまして、言葉はフランス語、そして、アソシエート・プロデューサーにスピルビーグ作品を手がけるキャスリーン・ケネディも名前を連ねています。

1978年のテヘランで、9歳のマルジャンは父母とおばあちゃんと自由闊達な空気の中で育ちました。「国王を倒せ」の掛け声のもと、王政は倒され、革命政府が樹立されますが、新イスラム政府を大規模な粛清を行い、多くの人が逮捕処刑されます。さらにその翌年には、イラクイラン戦争が始まります。一方で国内では市民を抑圧する法律が制定され、女性はベール着用を義務付けられるなど、生活は窮屈なものになっていきます。テヘランも爆撃を受け、マルジャンの身を案じた父母は彼女をウィーンへ留学させます。最初は修道院の寮にいたのですが、シスターに口答えして、そこから先はあちこちを転々とします。ヒッピー風の連中と仲良くなったり、恋に落ちることもありましたが、二度目の恋に破れてボロボロになって、彼女は父母のもとに帰国します。それから、死んだようになっていた彼女ですが、一念発起して大学へと進みます。しかし、市民は革命防衛隊の監視下にあり、濃い化粧をしたり、男女が一緒に歩いても防衛隊に連れていかれるという状況、そんな中でもマルジャンはまた新しい彼を見つけ、不自由な恋愛期間を経て、結婚にまでこぎつけるのですが、その後には愛を失い離婚。そして、フランスへ旅立つことを決意します。今、彼女はパリのヒースロー空港で新しい人生を歩みだそうとしていました。

この映画について、予備知識がまるでなくって、予告編を観た情報、イランの女の子が時代の転機を生きたドラマ、でも、コミカル風味という印象だけで、スクリーンに臨みました。キャラにあまり民族色がなくって、なじみやすいのがいいな、ちょっと、顔がちびまる子ちゃんみたい(愛称もマルジ)だし。実際、映画の中での少女時代のマルジは元気な女の子、ブルース・リーが好きで空手のポーズをとったりするのがかわいい。そして、この物語はマルジャンの自伝的グラフィックノベルで、原作者であるマルジャン・サトラビがヴァンサン・パルノーと共同で脚本、監督をしているってところも、ちびまる子ちゃんを思わせます。

ただし、まるちゃんと違うのは、彼女の周囲で起きる事件のシリアスさ。伯父さんから、マルジャンのおじいさんは王の係累で共産主義者だったこと知らされ、そんな伯父さんは王政だった時はずっと投獄されていたのですが、新政府の粛清の対象にもなってしまい、獄の中でその人生を終えるのです。また、父親が王政時に秘密警察だった子供を裁いてやると追いかけて、母親に叱られたり、色々な歴史の動きの中で彼女は自由の理想を持った少女として成長していきます。革命政府のやり方に反発を示す彼女は、頼もしくある一方、心配の種でもありました。イラクとの戦争も始まって、娘をウィーンへ留学させるのですが、そういう財力があるってことは結構裕福な家庭らしいです。おっとりしたお父さん、気が強いお母さん、やさしくてタフなおばあさんという家族に恵まれていたので、そういう配慮もできたのかもしれません。祖国を後にした彼女は、留学先のウィーンで、ある意味、自由気ままな暮らしをするのですが、その一方で、戦争下にある家族、そして友人への思いを馳せるのでした。それでも、ウィーンで友人を作り、友人の家を渡り歩いて、最後は、ホームレスになっちゃって、傷心の帰郷となるのです。

このあたりの描写は、イラン人ということとは離れて、一人の女の子がヨーロッパに留学して、そこで、出会いがあって、恋をして、勉強して(たのかな?)、という普遍的なドラマになっていますので、共感もツッコミもできるのです。その一方で、テヘランの描写になると、自由が抑圧されている様が描かれていて、現代のイランの状況を知ることになります。人間の普遍的な有り様は変わっていないのに、自由を奪う制度が人間の生活を変えてしまい、革命防衛隊の恐怖が自由や勇気を塗りつぶしていく様がマルジャンの目を通して描かれていきます。なぜ、弱い立場の人間を思うように支配しようとするのでしょう。いや、思うようにではなく、自分も思っていないことを強制するようになるのでしょう。共和制が施行された筈なのに、なぜ粛清が起こるのでしょう。この映画を観ているとそういう疑問が湧いてきます。映画そのものは、事実としてイランの歴史と今を描いているのですが、自由や希望が失われていく有様は、やはりこれも普遍的なもののように思えます。

そんなヘビーな内容を持った映画なんですが、全体を流れるコミカルなテンポの良さがマルジャンの元気さを前面に出してきますので、決して暗い映画にはなりません。マルジャンの様々な表情が日本のアニメに通じるところがあって、茶目っ気ある子供時代、斜に構えた上目使い、困ったときの苦笑いとかの感情表現がおかしくて、共感を呼ぶのです。一見、共通点がなさそうな、イラン人と日本人ですが、こうして見ると、人間根っこのところは大して変わらないんだなってことに気付かせてくれる映画でした。そう思うと今のイランの過酷な状況への理解もできるような気がします。この映画は、知ることができ、共感することができ、理解できる映画として、オススメできると思います。

ラストは再び自国を離れてフランスへと渡るマルジャン。今度は帰ることが前提ではありません。新しい人生をやり直そうとする彼女の前途はどんなものなのでしょう。少なくとも、自分の半生を描いたグラフィックノベルで成功して、映画化までこぎつけた今があるのですが、この後、彼女は自国へと帰ることがあるのかしら。どちらにしても、彼女の物語はまだ続いていくのです。

「カフカ 田舎医者」は不思議なイメージを言葉で表現できなくて

今回は昨年公開された「カフカ 田舎医者」を横浜シネマベティで観て来ました。アニメーション作家山村浩二の短編作品集です。全部まとめても52分の長さなんですが、これを通常上映にかけたのがすごいです。TOHOシネマズ川崎でも上映中なんですが、そっちはレイトショーだけなので、こっちの昼間の回に行ってきました。

田舎の勤務医、雪の強く降る夜、16キロ先の患者の家に往診に行かなくていけなくなりました。近所の家はどこも馬を出してはくれません。豚小屋を戸を蹴ったら、そこには馬子がいて、さらに中から2頭の馬が出てきました。これで何とか馬車の体裁を整えて、患者の家へ向かう医者。着いた家で、ベッドの上の少年をみたてるのですが、なぜか「死なせて」という少年。一見健康そうに見えるのになぜかしら、とりあえず処方を書いて家族に渡して帰ろうとしますが、よくよく少年を診てみれば、腹に花びらのような傷がある。そんな時、近所の連中が集まって医者は裸にされて、少年の横に寝かされてしまいます。裸で馬に飛び乗って我が家へ急ぐ医者は騙された往診の時はろくなことがないと嘆くのでした。

「変身」「流刑地にて」で有名なフランツ・カフカによる原作「田舎医者」をかなりシュールなアニメーションにまとめたものです。舞台は北欧の雪の降る夜、往診に呼ばれた医者が体験する奇怪な一夜を描いたものです。キャラクターは形は人間キャラですが、場面によってプロポーションが不安定になったり、医者の後ろには心の声が二人ついています。不気味な馬子が女中にちょっかい出すのを、止められないまま、馬は走り出してしまいます。患者の家に着いてからも、奇妙なイメージが紛れ込んだり、遠近感が崩れたような構図が出てきたり、神経症的不安定さを感じさせて、何だか不安感を煽ります。主人公の語り部分は小説そのままな言い回しなので、これは原作に沿ってるんだなとわかるのですが、追加される視覚イメージが原作とどう絡むのかがなかなかわからなくて、このあたりは原作を一度読んだほうがよさそうです。原作がアートしてるなら、アニメはもっとアートしてますって感じなので、どこまでが原作のイメージで、どこからが映画によって加えられた意匠なのかがよくわからないくらいぶっ飛んだアニメになっています。

一見健康そうに見える少年の腹に虫の湧いた傷があって、それを医者がどうしたのか、少年は生きているのか死んでいるのか、突然現れる少年コーラス隊は何者か、と「???」の連続のうちに映画は終わってしまいます。全体的に感じられるクールなグロテスクさ、別の言い方をすると70年代のコミックを思わせる生理的不気味さの中で、何かかきたてられるイメージがあれば、それでOKという映画なのかもしれません。私の中では、役に立たない医者の化けの皮がはがれる夜があって、それが不意打ちのようにやってくるこの一夜だったのではないかと思いました。うーん、正直言いまして、うまく言葉を紡ぎ出せませんでした。とにかく変な絵なんだよなあ。

(追伸)
実際に原作を読んでみたのですが、映画と同じ内容と展開でして、映画はさらに山村浩二の視覚イメージを積み上げているのですが、それが物語の理解の一助になっているかというとそうでもないみたいでした。難解な原作に、さらに自由なイメージを重ねて、でも理に落ちるところへ着地させないという作りなのです。とは言え、その結果、今、私の手の中には、「カフカ短編集」があるわけで、だから、映画観るのはやめられません。


併映の短編は「頭山」「校長先生とクジラ」「こどもの形而上学」「年をとった鰐」の4本です。

「頭山」
落語の「頭山」をそのままアニメにしたという感じ。絵のタッチは「まんが日本昔ばなし」風です。ケチな男の頭に生えた桜の木に人が花見に来てうるさい、そこで木をえいやと抜けばでかい穴、穴に水がたまり池になり魚も泳いで人が集まる、そこで世をはかなんだ男はその池に身を投げたというお話なんですが、最後のオチは語ってこその笑いで、アニメにはできないものだと思っていました。ところがどうしてどうして、自分の頭の上の池のほとりにたたずむ自分という構図を繰り返すということで、その難関をクリアしているのに感心してしまいました。この映画だけはシネスコサイズでした。(他はビスタサイズ)

「校長先生とクジラ」
3分のアニメですが、捕鯨反対のイメージをやさしく資格化した映画です。エンディングに「Green Peace」と出るのが、「ああ、あの皆様ね」とちょっと敵対心持ってしまうのは、私が根性悪なのか。

「こどもの形而上学」
色々な子供が登場して、ユニークな変身イメージをつなげたものです。3次元からさらにだまし絵の世界につながる展開は、3分ながら、中身の濃い面白い作品でした。

「年をとった鰐」
年をとった鰐が、ナイル川から紅海に抜け、たこの恋人ができたけど、結局食べちゃって、再度、ナイル川に戻ってみれば、日に焼けて赤銅色になった鰐は、人間の神に祭り上げられ、毎日人間のいけにえをもらうようになってめでたしめでたしというお話。運命と成り行きってのは、当の本人とは関係なく決まっていくんだなあって話でした。どこか、のんびりした味わいの絵が、ピーター・バラカンのナレーションとうまくマッチしていました。

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einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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