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「アメリカを売った男」は渋いけど見応えのある人間ドラマ

今回は東京では既に公開済みの「アメリカを売った男」を横浜シネマベティで観てきました。この映画館にしては、珍しくメジャー系の映画です。

FBIで捜査官を目指してるエリック(ライアン・フィリップ)は、バロウズ捜査官(ローラ・リニー)からの呼び出しを受け、今の仕事を中断して、ハンセン捜査官(クリス・クーパー)の補佐になり、かつ彼の行動を逐一報告せよと言われます。彼は性的倒錯者であり、それはFBIのメンツにかかわる事件だかという理由でした。それまでの仕事に比べたら何だかショボい話なんですが、それによって捜査官への道も開かれるかもという期待もありました。エリックはハンセンの補佐として働きはじめます。ハンセンは厳格な人間でしたが、信仰が厚く、人間的にみてもおかしなところは見当たりません。これは、彼を罠にはめようという陰謀ではないかと思い始めたエリックに、バロウズは本当の話を打ち明けます。ハンセンは実はスパイで彼の流した情報によち50人以上が殺され、また、機密情報も流れていたというのです。ハンセンはエリックの家をアポなし訪問したり、彼の奥さんに出産を勧めたりするので、エリックと奥さんの仲が気まずくなってしまいます。それでも、仕事の事を話すわけにはいかず、エリックは段々追い詰められていくのですが、それはハンセンも同様だったのです。

「ニュースの天才」という大変面白い映画を撮ったビリー・レイ監督の作品です。いわゆる売国奴と呼ばれるスパイであった実在するハンセンという男の物語なのですが、実際のスパイ行動を追うのではなく、エリックという訓練捜査官の目を通して、平素の彼の人となりを描いていきます。いったい、何年にもわたって、ソ連ロシアに情報を売り続けてきたハンセンというという男は、どういう人間だったのでしょうか。

着任したエリックは、ハンセンの自信に満ちた態度に圧倒されながらも、彼の行動を追い始めます。彼はコンピュータの専門家であり、派手な捜査畑ではない、地味な情報畑で働いてきました。今度の部署はいわゆる社内情報インフラのコンサルタント的な立場であり、どっちかというと閑職になります。彼の言動には一匹狼的なところがありますが、信仰が厚く、よき家庭人であり、敬意を表すべきところはあれど、性的倒錯者には見えません。だんだんハンセンに肩入れしてしまうエリックですが、そこで彼の本当の容疑が語られるのです。そして、エリックにも具体的な捜査協力の依頼が来るようになります。PDA端末からデータを盗めとか、彼の車をチェックしている間の時間を稼げとか、結構やばい仕事なんですが、エリックは無難に事をこなしていきます。結構、若いくせに嘘が上手で機転も利くエリックの活躍ぶりはお見事です。でも、一方で、エリックの家庭にはヒビが入ってきます。エリックの奥さんはドイツ出身でカソリックでもないのですが、ハンセンは彼女も一緒に教会のミサへ誘い、改宗まですすめるのです。信仰に厚いけど、他人への思いやりに欠けるハンセンの行動は、善とも悪とも言い切れないグレーゾーンにあります。さらに、奥さんと仲良くやってるようでいて、自分の寝室に隠しカメラを仕掛けて、自分のセックスビデオを他人に送ったりもしていて、確かに性的倒錯者ってところはホントみたいです。

こういう一筋縄ではいかないハンセンのキャラクターをクリス・クーパーが見事にグレーに演じきっています。能力がありながら、職場で冷遇されてきた男、ひょっとしてそのことが情報漏えいの引き金になったのかもしれないし、そうでないかもしれない。性的倒錯者にとっては、国家を出し抜くことが快感だったのかもしれないし、そうでないかもしれない。一体、何がこの男をスパイに駆り立てたのかは最後まで語られないのですが、こういう人間だったら、やらかすかもしれないと思わせるあたりが圧巻でした。「ニュースの天才」でも、捏造記事の動機を明確にしなかったレイ監督ですが、ここでも、その人となりを演技者に託して、あえて明確にすることを避けているように見えます。

ハンセンは自分の車に発信機がつけられていることを見抜き、エリックにも疑いの目を向けます。人気のない夜の公園にエリックを連れ出して、銃で脅すハンセン。そんなハンセンに「あんたには、そんなことをする価値なんかない」というエリック。そして、プライドに動かされてか、最後の情報漏えいしようとするハンセンをFBIは押さえることに成功します。この公園のくだりは、クーパーとライアンの見事な演技で一番の見せ場になっています。追い詰められた弱みをにじませるハンセンに対して、激高したふりをするライアンのクールさ。両者の駆け引きは大変見応えのあるものとなりました。

逮捕されたハンセンは、その動機を「金のためだ」と言い切ります。しかし、本当に金のためだけとは思えない、金のためだけに、国家機密を売って、何人も命をKGBに殺させることってあるのかしらと思わせるのです。でも、結局は動機はあいまいなままに終わります。

ラストで、エリックはFBIをやめることを決意します。バロウズも彼の手柄を賞賛して、FBIに引き止めるのですが、エリック「やめ時なら今しかない」と言い、バロウズもその言葉に納得します。組織の中で働くには、色々なものを犠牲にしなければならない、その極端な形を見、そして体験したエリックにとって、組織に留まる理由がなくなってしまったようです。この決着のつけ方も深い余韻を残すもので、ビリー・レイ監督のドラマ作りのうまさが光る一篇となりました。

地味な展開の映画に、タク・フジモトのキャメラ、マイケル・ダナの音楽はドラマをがっしりと支えるいい仕事をしています。また、脇役で登場する、デニス・ヘイバート、ブルース・ロビンソン、キャスリーン・クインランといった面々も渋くこの映画を輝かせるのに貢献しています。

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「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」は目的が手段を正当化してるなあ

今回は、新作「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」を川崎チネチッタ3で観てきました。

時は1980年代アメリカ、酒好き女好きの下院議員チャーリー・ウィルソン(トム・ハンクス)は、テレビで、アフガニスタンがソ連軍に侵略されているのを見て、これは何とかしなければと思い始めます。その時、アフガン支援の予算は500万ドル、それを委員会を使って倍にします。そして、パキスタンの難民キャンプを視察し、もっと援助が必要だと再認識します。彼らの持つ武器がソ連軍のヘリや戦車には歯が立たないことを知り、アフガンへの武器支援をするための根回しを始めます。パキスタンやイスラエルの首脳を回って、武器搬入のルートを作り、CIAのアブラコトス(フィリップ・シーモア・ホフマン)の協力を得、アメリカの国防小委員会の議長を取り込んで、予算を次々に承認させます。対ヘリ用兵器は、次々にソ連軍のヘリを撃墜していき、最後には、ソ連はアフガニスタンから撤退させることに成功するのでした。

トム・ハンクス、ジュリア・ロバーツ主演、マイク・ニコルズ監督のコメディ風味の実話ドラマです。米ソ冷戦当時、アフガニスタン侵攻を進めていたソ連に対して、アメリカが陰から支援して、ソ連軍の撤退に大きく貢献したというお話です。酒好き女好きのお気楽議員さんが、何でかアフガン支援を思い立って、それを武器供与で実現し、実際にアフガニスタンを勝利に導くというお話です。対ソ連アフガン支援というと「ランボー3怒りのアフガン」という映画がありました。あっちはシリアスなアクション映画になっていたのですが、こちらは、全体をコミカルなテンポで展開しており、アフガニスタンの状況はおまけ程度で、ドラマの中心はアメリカで色々と画策する人々にあります。

アフガンに武器を送るために国民が知らないうちに国防予算から大金を引き出そうって話は、アメリカ市民にはどう見えるのか気になってしまいました。チャーリーを焚きつけるテキサス6番目の富豪ジョアン(ジュリア・ロバーツ)の存在も気になります。彼女はどういうわけか、アフガン支援にご注進でして、彼女の色香にチャーリーが動かされていることも描かれていまして、ふーん、政治の世界はこんなレベルで何億ドルも動かしてるのかって、半分感心、半分呆れてしまいました。

さらに、アメリカ製の武器をアフガン兵士に使わせるわけにいかないから、ソ連製兵器を調達し、かつアメリカから金が流れていることをわからなくするために、パキスタンを経由させるとか、エジプトから爆薬を調達するとか、アメリカが前面に出ないような工作がなされます。もし、これが表沙汰になれば、ソ連と直接対決という事態になりかねないからです。こういうことが秘密裏に行われるアメリカってのは、すごい国です。そのすごさは色々ありますが、個人が頑張ることで、国民が知らないところで、何億ドルもの金が動いて、それが武器調達に使われてしまうすごさには脱帽です。チャーリー自身が国防予算を使いやすい立場の委員であったことは事実です。に、しても、この映画では、これらの隠密行動を肯定的に描いていまして、むしろ冷戦における陰の功労者として、チャーリーを称えているようなのです。

歴史において、その時点での判断を後追いの事実で評価するのは難しいものがあります。まさか、支援したアフガンの戦闘部隊が、タリバンとなり、9.11同時多発テロを引き起こし、アメリカ軍に牙をむくようになるとは、この映画の時点ではわかりません。まあ、アメリカ軍に牙をむくといっても、アメリカ軍がアフガニスタンを侵攻したことに対する反撃ですから、正確には牙をむくというのはあたらないのですが。しかし、歴史は過去から未来に流れているわけで、ソ連に勝ちゃそれでいい政策は、何らかの形で9.11同時多発テロへの布石になっていたように思います。そもそも、こういう形でソ連のアフガン侵攻を食い止めることがよかったのかどうか、このあたりはよくわからないです。それを結果オーライというのなら、9.11同時多発テロは結果NGと言われても仕方ないでしょう。

アメリカって国は議会制民主主義の国だと思ってましたけど、この映画を観る限りはそういう国ではないみたいです。たまたま、チャーリーのやったことが冷戦勝利へ向けて貢献したからいいようなものの、これが私腹を肥やすために、予算の横流しだったとしても、それをチェックする機関がない(ように見える)ってのは、やはりおかしいと思うわけです。目的が正しければ手段は正当化されるという論理には、私はついていけません。ソ連撤退後に支援を即打ち切って、タリバン政権を招いたとしても、その責任は誰も取らないというのは、裏で画策してやった結果だと思います。責任追及にうるさいと思っていたアメリカですが、こんなことを許してしまうシステムでは、誰にも責任がなくなってしまうことを、もっとアピールして欲しかったように思います。日本の無責任体制と根は同じなんじゃないかしら。

マイク・ニコルズの演出はテンポよくコミカルにまとめていまして、役者のうまさをあって、娯楽映画としてはよくできていると思います。それだけに、チャーリーの行動の裏に様々な危うさが潜んでいることをシニカルに盛り込んであれば、よりよかったように思います。今、この映画を作るってことは、どっかにブラックな味わいがないと、歴史から学ぶものがないように思うからです。

「ランボー 最後の戦場」,は、バイオレンスヒーロー映画と思えば....

今回は、新作「ランボー 最後の戦場」をTOHO川崎シネマズ7で観てきました。HPではdts上映とあったのですが、実際にはドルビーデジタルの上映で何かつまんないなあと思っていたら、エンドクレジットでこの映画はドルビーデジタルの表記しかなく、もともとdts録音されてないことがわかりまして、それじゃ仕方ないなあって、まあ、どうでもいいことではあるんですが。

タイで蛇取りをしていたランボー(シルベスター・スタローン)は、キリスト教人権団体のサラ(ジュリー・ベンツ)たちからガイドを依頼されます。ミャンマーの軍事政権によって迫害されているカレン族に医薬品などを届けようというのです。「家へ帰れ」というランボーに食い下がるサラに負けて、彼らを船でミャンマーに運びます。しかし、訪れた村を軍隊が襲撃し、多くの村民が殺され、サラと仲間の何人かは連れ去られてしまいます。予定を過ぎても帰らないので、傭兵が組織され、ランボーは彼らのガイドとしてまたミャンマーへと入ります。軍の基地に拉致されている彼らを救うべく傭兵とランボーはミャンマーの奥へと踏み入っていくのでした。

ランボーシリーズの最終作(らしい)は、シルベスター・スタローンが共同脚本を書いて、自らメガホンを取りました。今回の敵は、ミャンマー軍の殺戮集団です。カレン族などの少数民族を迫害、虐殺しているという事実があることを前提に物語は作られており、ミャンマーと国境を接するタイで撮影されたというかなり今日性のある作品に仕上がっています。

映画は冒頭から、記録映画らしい映像でミャンマーにおける虐殺の状況が語られます。どうやらこれは本物らしくて、冒頭からかなりヘビーなシーンが登場します。ドラマに入ると、今度は映画として、ミャンマー軍の殺戮行為が描かれるのですが、これもまた、容赦のないものになっています。水田に地雷をまいて、村人をその中を走らせて生き残った者は機関銃で撃ち殺すシーンは最近の映画には珍しい悪辣さです。軍隊が村を襲撃するシーンはもっと凄惨で、子供が銃で撃たれ、ナイフでさされ、赤ん坊が火の中に投げ込まれるなど、やりたい放題。映画でも直接描写を避けるシーンが眼前に展開します。SFXによる、着弾の血のりの量も最近の映画にしてはド派手の部類に入るもので、頭や手足が吹っ飛ばされるシーンが盛大に展開します。非常にバイオレンス度が高い映画でして、虐殺の跡に死体が累々と転がっている様をストレートに見せますし、これまでのランボーシリーズとは一線を画しています。

クライマックスは逃げ損なった傭兵たちを救うために、ランボーが機関砲を撃ちまくると、カレン族の兵士たちが加勢してくるというもの。昔の西部劇で、インディアンに殺されそうになったヒロインを助けようとする主人公、でも多勢に無勢に追い詰められたときに騎兵隊が到着するというパターンを踏襲しているのが、どっかで観たような感じなのです。それによって、ランボーのヒーローが際立つところは、いかにも彼が自作自演してるからなあって、ある意味微笑ましくもあるのですが、それだけに、描写の凄惨さが目についてしまいます。殺すほうも殺されるほうも有色人種だから、ここまでムチャできるのかしらって、うがった考えも頭をよぎります。

しかし、素直に見れば、これはスタローンなりの「ヒストリー・オブ・バイオレンス」とも言えます。圧倒的な暴力に対して、善意や信仰は無力であり、暴力を押さえるものは暴力でしかないという視点は、明確に示されています。この視点と、ヒーローものを組み合わせるとこんな映画に仕上がるのかなあ。とにかく生きるためには、暴力に手を染めるしかないと、明快に言い切られると、不愉快ながらも、一理あるかもと思ってしまいます。そして、暴力から逃げたいのなら、死ぬしかないということを感じさせるエンディングでもありました。

このシリーズは、もともと、戦士として改造されたランボーが世間の偏見から、ぶち切れてしまうのが発端でしたが、第一作ではアメリカ国内が舞台で、ランボーも悪徳警官しか殺していませんでした。それが、2作目、3作目では、ベトナム、アフガニスタンを舞台に、ソ連兵をぶち殺しまくり、そこに孤高のヒーローとしてのキャラクターを確立しました。しかし、今回は、ヒーローではあるものの、殺しの大義名分はやや影を潜め、ボランティアの女性を救うために彼はミャンマー兵を殺しまくります。でも、そうすることで、ミャンマー軍は、ソ連軍のような絶対悪になっちゃいまして、そこに暴力のリアリティが薄まってしまったのが残念でした。

世間の評判はあまりよくない一篇ではありますが、最初からバイオレンスヒーロー映画と思えば手間もお金もかかっていますので、かなり見応えのあるものにはなっています。特にハリウッド映画にはない子供殺しを直截に見せるあたりは、それなりに力の入った映画だと言えるのではないかしら。

「ミスト」は途中が見応えあって、ラストでどっひゃー

このところ、映画館もご無沙汰気味だったのですが、久々に新作「ミスト」をTOHO川崎シネマズ3で観て来ました。

大嵐は街のあちこちに大きな傷跡を残しました。デヴィッド(トーマス・ジェーン)は息子ビリー(ネイサン・ギャンブル)と共に近所のスーパーマーケットに買い出しに出かけます。近所の湖には不思議な霧がかかっています。買い物を済ませて帰ろうとするとき、不気味なサイレンが鳴り始め、鼻血を流した男がスーパーに駆け込んできます。彼の言うには霧の中に何かいるというのです。そんな間もなく、スーパーは霧につつまれてしまいます。霧の中へ出て行った人は戻ってきません。何が起こったのかわからないでいると、倉庫のシャッターの隙間から不気味な触手が現れ、店員を外へ連れ去ってしまいます。そして、夜には巨大な昆虫とそれを捕食する怪鳥が現れて、店の中はパニックになります。狂信的なカーモディ夫人(マーシャ・ゲイ・ハーデン)は、「この世の終わりがきた」とまくしたて、異常な状況は彼女の支持者を増やしていきます。デヴィッドたちはスーパーから脱出しようと試みるのですが、それはカーモティ夫人とその支持者たちの知ることになり、逆に追い詰められてしまいます。果たしてデヴィッドとビリーは生き残ることができるのか、そして、この奇怪な事態の結末は?

スティブン・キングの中篇「霧」を、「グリーン・マイル」のフランク・ダラボンが脚色、監督した超自然ホラーの一篇です。ラストが原作と違うというのが一つの売りになっていたのですが、確かにこの映画の結末は「ああ....」の後に「どっひゃー」が来るというもので、私もまんまと映画にはめられてしまいました。賛否両論ある結末ですが、映画としての面白さは最近の映画の中でピカ一だと思います。

イラストレーターであるデヴィッドがスーパーへ向かう途中、多くの軍用車両とすれ違います。やけに騒がしいという感じではあるのですが、スーパーへ行き、そこが霧で覆われると最初は何だかわからない不安だけが広がります。スーパーの裏の倉庫で物音を聞いたデヴィッドは店員や町の人間に外へ出るのを禁じるのですが、彼らはシャッターを開けてしまいます。すると、不気味な触手が何本も現れて店員の肉をむしりとり、霧の中へ引きずり込んでしまいます。ここで、事態が明確になったと思いきや、店の中の人々はなかなかそれを信じようとしません。何だかわけがわからない不安な状態から、生命の危機状態へ移行するのを拒否するかのように見えます。それでも、何人かが触手と血の跡を見て、事態が危険な状態にあることを受け入れざるを得なくなります。ドッグフードのバリケードを作り、ガラスをテープで補強するのですが、事態がよくわからないので、これがどの程度役に立つのかもわかりません。そんな状況下で、弁護士たちの一団が外に出て助けを呼びに行こうとします。皆、止めるのですが、霧の中に消えた彼ら、ロープを結んだ男の下半身だけが店の外に引き戻されます。

カーモディ夫人は、聖書原理主義者のようで、この状況は神の試練であり、いけにえが必要だなどと過激なことを言い出します。当初は、誰も相手にしていないのですが、夜が来て巨大昆虫と怪鳥が店の中にまで入ってくるに至って、いつの間にか、カーモディ夫人の信者が多数派になっていきます。極限状態の中で、人間は信じられるものにすがるという図式のようです。確かに目の前に起こっている事態は、常識の範疇をはるかに超えたものであり、何もわからない、どうしていいのかもわからないというときに神にすがるというのは、一つのやり方として、ありなのかもしれません。タイタニック号が沈没するときだって、神に祈った人はいるはずです。それが、狂信的な領域に踏み込むのに、この映画では、あえて一線を越えたという見せ方をしていません。自然な流れの中で多くの人が、カーモディ夫人の言葉に洗脳されてしまったのです。デヴィッドはカーモディ夫人に脅威を感じて、店からの脱出を試みようとします。同じく逃げ出そうという面々はもはや、店の中では、少数派であり、異端者になってしまっています。そして、異端者の血で、人間の罪をあがなえと言い出すのですが、マーシャ・ゲイ・ハーデンの名演もあって、不気味な説得力を持ってくるのですよ。このリアリティが結末への伏線になっています。



この先は結末に触れますのでご注意下さい。



当初、3人いた軍人と1人のMPがうちMPが姿を消します。負傷者のために隣の薬局に薬を取りに行ったデヴィッドたちの前にMPが大蜘蛛の卵を産み付けられた姿で「すまない、全ては我々のせいだ」とつぶやいてこと切れます。そして、軍人のうち2人は首を吊り、残りの1人はカーモディ夫人たちの前に引き出されます。どうやら、軍の秘密実験で異次元をつなぐ実験をやったらしいというのです。しかし、一兵卒が詳細を知るわけもないのですが、カーモディ夫人たちは彼をリンチにかけて、外に放り出して神へのいけにえにしてしまいます。まさに、狂気そのものなのですが、大勢がそっちへ流れてしまうともう止めることはできません。そんな中でデヴィッドは理性を保って、子供を守ろうとするのですが、脱出しようとして、カーモディ夫人たちに見つかってしまいます。彼女はあろうことか、デヴィッドの息子をいけにえに捧げろと言い出します。多勢に無勢のデヴィッドたちですが、それまでも銃でモンスターを殺してきた副店長が初めて人間に向けて銃を発射して、カーモディ夫人を殺してしまいます。そして、脱出組の9人は外へ出るのですが、結局車までたどり着けたのは5人。そして、どこまで行けるのかわからないまま、車は霧の中を走り出します。

霧の中を車を進めるのですが、もう生きてる人間にはお目にかかることができないまま、ガソリンが底をついてしまいます。息子とした約束「絶対、怪物に僕を殺させないで」がリアリティを持ってデヴィッドに迫ってきます。他の同乗者も同じ気持ちです。しかし、拳銃には4発しか弾は残されていません。画面は車をロングで捉え、そこから4発の銃声が響きます。やるだけのことはやった上での結末なのだ、理性を残した彼らの最後の選択だったのです。(← ここで、「ああ....」って感じ)

車を降りて怪物に「かかってこい」と叫ぶデヴィッド。そして轟音がして、霧の向こうから現れたのは、何と軍の戦車だったのです。(← ここで「どっひゃー」とくる)

防護服に身を包んだ兵士や、救出された人を乗せたトラックがデヴィッドの横を通りすぎていきます。理性と善意で行動してきた筈のデヴィッドは言葉にならない叫びをあげます。しかし、ここでデヴィッドにカーモディ夫人の姿がオーバーラップしてきます。どちらも、信じるところに従って行動したという意味では同じなのです。誰もデヴィッドを責められないとすれば、カーモディ夫人も同じことではないかという気がしてきます。それこそ、神ならぬ人間は時には過ちも犯すという構図です。観客もデヴィッドと同じ目線で物語を観てきましたから、この結末には「あちゃー、やられた」という気分になります。カーモディ夫人とデヴィッドを両極端に置いた構図でドラマを観てきたら、それほど違いはないのだよという結末は猛烈に意地が悪い反面、人間の不完全さを見事に表現しているとも言えます。

単にデヴィッドは事を早まったのではない、かれらそうなるべく、選択を重ねてきたのです。そして、映画の中でカーモディ夫人たちが何度も使った贖罪という言葉にデヴィッドは打ちのめされることになります。ここまで、色々と伏線を張り巡らせて、ラストの怒涛の落とし込みは、最近の映画の中では際立って後味悪く、そして見応えのあるものになりました。原作の最後の言葉、「希望」それこそが、デヴィッドやカーモディ夫人を救ったのかもしれないのですが、異常な状況の中で、希望はいつの間にか失われてしまったようです。

KNBエフェクツグループによる、怪物の造形や動きはお見事で、CGとアニマトロニクスをうまく使い分けているようです。また、音楽は最近公開作の多いマーク・アイシャムなのですが、今回はシンセによるアンビエント風音楽を主体にしていまして、クライマックスは何だかリサ・ジェラルドみたいな曲がかかったのですが、これがそのずばりデッド・カン・ダンスの「The Host of Seraphim」が使われていました。演技陣では、マーシャ・ゲイ・ハーデンが狂信的キャラをリアルに見せて見事でした。地味なキャストながら、脇でウィリアム・サドラー、フランシス・スターンハーゲンなどが渋くドラマを支えています。

昔と今で映画の泣かせどころが違う

最近、映画を観ていて泣ける、否、泣かされてしまうことが多いです。若い頃に比べて涙腺がゆるいんだなあって反面、最近の映画とかテレビが必要以上に泣かせを強調してるんでないかいって思うこともあります。昔の泣かせる映画ってのは、基本的に悲しいシーンで泣かせることが中心であり、何でもかんでも、泣かせてやろうということはなかったような気がします。そして、若い頃ってのは、まだ人間経験が浅いってこともあって、他人の悲しみに共感することもなく、その分、泣くこともなかったように思います。

私が物心ついて、初めて自分一人で観に行った映画は「イルカの日」というSFサスペンスなんですが、人間の言葉を覚えたつがいのイルカがかわいくて切ない展開となるお話。今なら、多分、感動の大作ってことになるのでしょうが、当時の私は人間の博士とイルカの絆に感動こそすれ、泣くことはありませんでした。泣くことは感動するってことは明らかに別物だったのですよ。

泣かないまでもホロリとする映画はありました。「ロッキー」で老トレーナー、ミッキーの協力の申し出を一度は断ったロッキーが、とぼとぼと帰るミッキーを追いかけて引き止めるところ、ここは観ていてウルっと来ました。「ロッキー」のラストは感動モノなんですが、ここでは泣く気分にはなれず、素直に感動にひたっていました。こんな感じで、高校生までは、本気で映画で泣いた経験はなかったように思います。

これが大学生になると、俄然、涙腺がヤワになってきます。ただのB級災害映画「シティ・オン・ファイア」という映画がありました。クライマックスは消防士たちが、人々を逃がすために放水のアーチを作るシーンがあって、ここでなぜか泣けてしまったのですね。感動作というには程遠いどっちかというとチープな大作もどきの映画だったのですが、皆でよってたかって人を助けようとするシーンには涙腺のスイッチが入ってしまいました。この後も無名の人がみんなで誰かを助けようとするシーンのある映画にはすこぶる弱くて、「デイライト」「ボルケーノ」「E.T.」などの映画でそういうシーンがあるとポロポロ泣かされてしまいました。いわゆる無名の善意とか、無名の一生懸命とか見ると、涙腺のスイッチが入ってしまいます。そんな理由の涙なので、人に見られるのは、むちゃくちゃ恥ずかしかったです。

そして、就職して、オヤジ化していくにつれて泣かされた映画は数知れず、大泣きさせられた映画の中には、「ジャックナイフ」(ロバート・デ・ニーロ主演のベトナム帰還兵のお話)「8月のレモネード」(ご近所仲良しの子供のお話)「クレヨンしんちゃんオトナ帝国の野望」(これは有名ですね、泣きの分野では)「ジャック・サマーズビー」「この子をさがして」「美女と野獣」(ディズニーアニメの)「ビヨンド・サイレンス」「ルディ 涙のウィニングラン」などなど、挙げていくとキリがありません。

しかし、最近の映画が「泣き/泣かせ」を売りにしたものが多いわりには、あまりこれというものに当たっていないのが不思議です。ここ数年の映画で泣かされたというと「ルワンダの涙」「ヴェラ・ドレイク」など数えるほどしかありません。また、若い頃とは泣きのポイントが変わってきて、最近は「人間の弱さと向き合うシーン」で泣かされることが多くなりました。若い頃は、自信過剰のところもあって他人の弱さに無頓着だったのですがが、この年になって自分の限界がわかってきますと、自分の弱さも他人の弱さも見えてくるようになり、そこが心の琴線に触れるようになってきたようです。

若いときは自分に自信もあるし、未来への希望もあるせいか、映画を観て泣くことは少なかったのですが、最近の若者向けの邦画が泣きを売りにしていて、観たお客が「泣けましたー」なんていうのがコマーシャルになるご時世は、私のようなオヤジにはちょっと理解できないものがあります。私も年を取るにつれて涙腺のスイッチが変わってきていますから、今の若い人の涙腺のスイッチが、私のそれとは違うことは理解できるのですが、どうも釈然としません。例えば、最近のテレビで小学生が大なわとびの勝った負けたでびいびい泣いてるのを観ると「子供はそう簡単に泣くもんじゃない、意味もわからんくせに」と突っ込みを入れたくなります。涙の相場が下がり止らずって感じなのかしら。あるいは、涙ってのは、昔は一人流すものだったのが、みんなで共有するようになってきたってことなのかもしれません。それって集団ヒステリーにつながるヤバい兆候じゃないの?って思うのはオヤジの考え過ぎと思いたいのですが。

「ネクスト」は勢いで見せるだけあって勢いで聞かせる音楽


勢いだけで展開する映画「ネクスト」の音楽を担当したのは「ネル」「大いなる陰謀」のマーク・アイシャムです。この人は、シンセサイザーによるニューエイジ的な音で浮世離れした映像をサポートしたり、「グース」や「ラストダンス」などで感動的な音を提供したりする一方で「コレクター」や「ヒッチャー」といったスリラー映画の音楽も担当しているという、どういうジャンルもこなす人です。最近の仕事はますますオールラウンドプレイヤー的な仕事が増えていますが、この映画でも、サスペンスとアクションを職人的なうまさで盛り立てています。

アルバムのトップにあるのは、主人公がカフェで謎の女性を待っているシーンの曲で、ここはアイシャムらしい小編成だけど厚いストリングスがファンタジックな味わいです。それに続くのが、カジノからの脱出シーンの曲のようで、細かいリズムを刻むストリングスに時々パーカッションがアクセントをつけて、じわじわと盛り上がっていきます。明確なメロディラインはないのですが、ほどよいスピード感とコミカルな味わいがうまくミックスされていきます。その後も、静かな曲とアクション音楽が続いていきます。劇場で映画を観ていたときは、ほとんど音楽が印象に残らなかったのですが、CDで聴きなおしてみますと、それもさもありなんという情景描写音楽で、パーカッションを重ねた追跡シーンの音楽なんて、これマーク・アイシャムでなくてもいいじゃんという音になっちゃっています。パーカッションの使い方はシャープですし、オーケストラも各楽器がうまく使い分けられた編曲も安っぽくないですし、音楽としては真っ当な音作りがされているのですが、映画全体を貫くテーマというか主題曲がないので、ヒーローものらしさがない音になってしまっているのです。

テンポの早い展開に合わせたサスペンス音楽を作ったという点では、うまく機能していますし、この映画における強引な展開を勢いで見せきるというやり方に沿った音楽としては十分成功しています。その分、登場人物の掘り下げとか葛藤といったものが映画にないので、音楽もエモーショナルに鳴らす音は不要だったようです。

「フィクサー」のサントラは聞き所多し


「フィクサー」の音楽を担当したのは、ラブストーリーから人間ドラマからホラーまで何でもこなして、それで作品が次々と公開されているジェームズ・ニュートン・ハワードです。この人の作品には、ほんとに胸にせまる美しい「プロミスド・ランド」とかドラマチックな「ヒマラヤ杉に降る雪」、そして得体の知れないナイト・シャマラン監督の一連の作品など、映画に合わせてそのスタイルをうまく変えていく作曲家で、懐の深さを感じさせる人です。

「フィクサー」は弁護士サスペンスの中で、そこに孤立する人々を丁寧に描いたドラマです。ハワードの音楽は、ドラマからちょっと一定に距離を置いたような音つくりをしており、人のいない夜のオフィスを描写する曲など、民俗音楽のようであったり、先鋭的な現代音楽であったり、どこか冷たいタッチで統一されています。人間ドラマの部分でも、音楽は登場人物の立場に寄り添うことなく、どこか別の視点からその人の置かれた状況を冷めた目で描写していくのです。それだけに小さく人物を配してまわりの空間をたくさん確保した画面で、力を発揮します。その人よりも、周囲の空間を描写する音とでもいうのでしょうか。この映画のような非人間的な世界を描いた映画では、そういうアプローチが大変有効に機能します。

シンセサイザーによるパーカッシブな効果音のような音楽にストリングスが絡んでいきますが、表立ったメロディは登場しません。ですが、音は強く個性を主張しています。きわめて、緊張感あふれる音楽が、無機質的な音に囲まれることになるのですが、最後の曲が小編成のレクイエムのような音になっており、シンセサイザーも加わって、都会の挽歌というべき音楽にまとまるあたり、見事だと思いました。職人のような豊富なラインナップのハワードですが、この作品でやってることはきっちりアートです。

「ネクスト」には捨てがたい面白さがあって、無理な展開もまあいいかも

また、新作の「ネクスト」を静岡有楽座で観てきました。ここは歴史ある古い地下の映画館で、地下だけど天井も高くて見やすい映画館です。

ラスベガスでマジシャンをやっているクリス(ニコラス・ケイジ)は実は自分の身に関することなら2分先が読めるという特殊能力を持っていました。そんな彼にある特定の女性が見えるようになりました。亜彼女は決まった時刻にカフェに現れるようです。一方、FBIのカリー(ジュリアン・ムーア)は、核爆弾がアメリカに持ち込まれた事件でクリスの能力を使おうとすべく捕まえようとしています。さらに、核を持ち込んだ連中もFBIがマークしてる男としてクリスを始末しようとします。そして、運命に導かれるようにクリスはかの女性リズ(ジェシカ・ビール)と出会い、彼女の車で一緒に行動しようとするのですが、それをFBIと核ジャック犯の両方が追跡し始めるのです。果たして核爆発を未然に防ぐことはできるのか。そして、クリスとリズの運命や如何に。

フィリップ・K・ディックの原作から「007 ダイ・アナザー・デイ」のリー・タマホリが監督したSFアクション編です。その昔、映画は二本立て上映が普通でしたが、1本がメインなら、もう1本は併映とか添え物とか呼ばれていました。この「ネクスト」はメインを張るにはどうかと思いつつ、併映作品としてなら、なかなか面白いというレベルにまとまっています。勿論、今は一本立てなんですが、その枠で評価するよりは、2本立てのオマケの方だと思って観ると、なかなか楽しめる映画に仕上がっています。

映画の冒頭で、主人公が2分先の未来が見えちゃうというのが語られてしまうのですが、それがどんなにすごい能力なのかってところを、カジノからうまく逃げ出すテクニックとしてみせるのが、ほほう、と感心させるものがあります。まあ、ちょっと見にはあまり大したことなさそうな能力を、まずギャンブルで見せて、さらに追ってからの逃亡に使えることを見せるのはうまいと思うのですが、感心できたのはそこまで。その先、核ジャック犯逮捕に彼の能力を利用としようと拘りを見せるFBIのカリー??。既に核兵器が国内に持ち込まれているのに、数分先の未来しか読めない男がどう役に立つのかしら。FBIはどこにも2分以内に駆けつけられるスーパーピザ屋でもないでしょうに。さらに奇々怪々なのが、核ジャックした連中までクリスを始末すべく要らぬ殺しまでやるのです。核兵器が手元にあるのに、それどころじゃねえだろと思うのですが、連中が律儀にクリスを追いかけてくれるので、展開がクリスを離れないのです。本来なら核ジャックみたいな大事件で、相手にされるはずのないクリスが中心になってしまうのは、かなり無理ありです。このでかいハードルを越えられれば、この映画、結構楽しめるようにできてます。

例のカフェでクリスはとうとう予見に映る女性リズと出会うことができます。うまく、彼女の気持ちをつかんで、車に乗せてもらい、雨のおかげで、モーテルで一泊して、結果的にいい関係にまで持って行ってしまうのです。2分先が見えるだけで、ここまでできるとは。これも、やや低めのハードルと申せましょう。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ともあれ、クリスはFBIと核ジャックの両方に追われるようになっちゃうのですが、結局逃げ延びられず、リズは核ジャック犯に誘拐されてしまい、一方のクリスはFBIの手に落ちてしまいます。でも、そこで無理やり見せらされた未来に2時間後にリズが核ジャック犯に殺されるのが見えたのです。その場所も特定できたところで、FBIとクリスの方が仕掛けて、連中の車のナンバーから、アジトをつきとめて、武装部隊が急襲します。もう、このあたりになると見える未来が2分先という設定はどっかへ飛んじゃっているのですが、それも勢いで大目に見ましょう。

ここからの銃撃戦はなかなか迫力あるもので、ちょい先が見える主人公の後をついてくチームだけがかなり余裕を持って、連中を追い詰めていきます。爆弾を体中につけられたリズを探していくクリスが体がいくつも分かれていくというのがすごいです。どうやら、パラレルワールドを並行して予見できるみたいなんです。何だそれは、と突っ込む間もなく、彼はリズを見つけることができ、犯人も射殺して、めでたしめでたしとなるのですが、その時、街の別の場所で核爆発のイメージが。しまった、クリスはどっかで間違えたのです.....と、そこで、クリスはモーテルで目を覚まします、横にはリズがいて。

えー、ここまでの追跡や銃撃戦は何やったんや。未来の読める男の夢だったなんて。これには驚かされます。そして、クリスはカリーに電話し、FBIに協力することを申し出ます。そして、クリスのモーテルにやってきたカリーに向かって「さあ、いくぞ」ってところでエンドクレジット、このクレジットも下から上に流れるというちょいサービスあり。ともあれ、エンディングが「で、その次は → ネクスト」となるところがなかなか小洒落ています。というわけで、B級SFアクションとしては、夢オチにちょっとしたスパイス効かせた小品としてよく出来ていると思います。大作だと思うと何じゃこの設定はなど、突っ込みどころが山積みなんですが、ちょっとワキが甘いけど併映作としては滅法面白い映画になるのではないかしら。私もこの展開は何なの?って思う一方で、色々と趣向を凝らしてるなあって嫌いになれない映画なのですよ。

「夜顔」は登場人物の悪意が監督の悪意と重なっているような

今回は東京では昨年末に封切られた「夜顔」を静岡シネギャラリーで観て来ました。小さいスクリーンの映画館なんですが、この映画に関しては小さな劇場で観るのにふさわしい小品でした。

オーケストラのコンサート会場でユッソン(ミシェル・ピコリ)がある初老の女性の姿に気づきます。そして、彼女の後を追うのですが、見失ってしまいます。最後の彼女を見かけたバーでバーテンと意気投合しちゃったりもしてるんですが、そこで話される不思議な話、ある夫婦と夫の親友がいて、マゾヒストの妻は夫を愛するあまり、夫の親友と関係を持ったというのです。バーテンはユッソンはその中の誰なのかと問いかけますが、彼はうまくはぐらかします。そして、昼間、街中でユッソンは当の女性セヴリーヌ(ビュル・オジエ)を見つけ、その夜、個室のレストランに招待します。どうやら、二人は昔馴染み、でもセヴリーヌは、ユッソンと共有している過去について触れたくないご様子。しかし、そんな彼女の心を揺さぶるような言葉を、ユッソンは投げかけていきます。

今年で100歳を迎えるマノエル・ド・オリヴェイラの2006年の作品で、彼が脚本、監督を兼任しています。私はこの人の映画は「クレーヴの奥方」「家路」「永遠の語らい」しか観ていないのですが、短めの上映時間の中で、時間がものすごくゆっくり流れていくという印象があります。この映画でも、コンサートシーンから始まり、コンサートが終わって、カーテンコールやって、人が散り散りに別れていく中で、ユッソンだけが一人残り、裏道に回り、ショーウィンドーの中のマネキンを凝視し、そして、バーの前でタクシーに乗るセヴリーヌを見つけるところまでをエンエンとカメラが追いかけるのです。私は前に観ているので、驚かないのですが、初めて観る人は何だこの演出はと思うかもしれません。でも、この不思議な間が面白く感じられるようになってくるのが不思議な監督さんです。

ユッソンは身なりもよい初老の男で、バーに入ると二人の娼婦にマークされちゃったりもするんですが、彼は彼女たちを完全に無視。そして、ユッソンとバーテンダーの間の会話が続くのですが、これも悠揚迫らぬ態度で何だかおかしい。いわゆる会話に会話をかぶせて進むドラマばかり観ているせいか、相手が言葉を終えると一呼吸置いて話し出すというテンポは時としてユーモラス、でもそのクドクドとした言い回しは意地悪してるようにも聞こえます。最初はちょいと洒落たオヤジとして登場するユッソンなんですが、実際のキャラは何か変な人のようにも思えます。



ここから先は結末に触れますのでご注意ください。



レストランの個室に招かれたセヴリーヌは、ユッソンの用意したシャンパンで乾杯した後、食事が始まります。これも全部見せるというあたりがオリヴェイラの間なんですが、食事の後、給仕も下がって二人きりになって、ようやく会話が始まります。セヴリーヌは自分は昔とは違う人間だと言います。ただ、かつて自分の性癖によって夫以外の男と関係を持ちたいと思ったことがある。実際に、ほかの男と関係したのかどうかは、ここでは語られないのですが、ユッソンがバーテンダーにした話の中では、想像の中で夫の親友と関係を持ったということになっていました。性癖というのなら、大したことではないけれど、裏切りという言葉では、それはずんと重みを増してきます。

セヴリーヌは夫が亡くなったときに、そういう若気の至りとは縁を切って別の人間になったのだと言います。それでも、気掛かりなことは、ユッソンが自分の裏切りを生前の夫に伝えていたかどうかということ。これに対してユッソンは結論を引き延ばして、言葉によって彼女をなぶるような真似をするのです。それに激昂したセヴリーヌがバッグを置いたまま部屋を走り去っていきます。ユッソンは彼女のバッグから金を取り出して給仕へのチップにして、そのまま部屋を去っていき、給仕たちが部屋の後片付けをするのをまたエンエンと見せて、そのまま、エンドクレジット。

この映画には秘密がたくさんあります。ユッソンとセヴリーヌの関係は昔の知り合い、そして、彼は彼女の性癖とその欲望による行動を知っていたということになります。その彼女を久々に見つけたユッソンは、なぜか彼女の昔の話を蒸し返して、彼女を傷つけ、悪趣味にもそれを楽しんでいるように見えます。でも、彼女の行動が引き金となって、ユッソンがアル中になったのではないかと思わせる台詞もあり、一体、二人の間に何があり、なぜユッソンがセヴリーヌに意地の悪いことをするのかが最後までわからないのです。ただ、ラストで後片付けをする給仕が「不思議な人だ」と繰り返すところで、そっかー、不思議なオヤジの話だったんだなーって納得してしまいました。人生の中で、過去の過ちってのはあるものでしょうけど、「でや、あんたこんなことしなはったろ? それ、ダンナにバラしてると思いますか?」と今更変わらない過去で人を弄ぶのは、かなり悪趣味な変人です。人間が人生の中でこんなやな奴になる時があるという見せ方じゃないのですよ。みんな過ちもえげつないこともしますぜ、というオリヴェイラ監督のブラックジョークのように見えるのが面白く感じられた映画でした。

映画から広がる音楽の世界

映画を観ていると色んなことを学ぶ、或いは学ぶきっかけになるので、映画館へ行くのは意味のあることだと思います。また、私の個人的な話で言えば、映画の音楽によって音楽の趣味が広がったというのが映画のご利益として大きなものがあります。以下にその例を挙げてみます。

「恋に落ちて」「トッツイー」 ---------> (フュージョン)
(音楽 デーブ・グルーシン)        デーブ・グルーシン「マウンテン・ダンス」
「ダーティ・ハリー」「燃えよドラゴン」    ラロ・シフリン「タワーリング・トッカータ」
(音楽 ラロ・シフリン)            ボブ・ジェームズ「フォクシー」「ヘッズ」
                         渡辺貞夫「オレンジ・エクスプレス」
 

上記の映画で、音楽担当者であるグルーシンやシフリンといった面々の担当するリーダーアルバムがあることを知り、それから、他のアーチストの作品を聞くようになるというパターンです。特に1980年代はフュージョン系サウンドのブームでもあって、色々な作品を聞くようになり、このジャンルは自分の趣味になりました。明るくてBGMによいサウンドは心地よい時間を与えてくれます。

「ジェラシー」(既成音楽使用) --------->  (ピアノソロ)
「萌の朱雀」(音楽 茂野雅道)        キース・ジャレット「ケルン・コンサート」
                          ジョージ・ウィンストン「オータム」

「ジェラシー」という映画ではキース・ジャレットの「ケルン・コンサート」の一部が劇伴音楽として使われていて、大変印象的でした。これで、ピアノソロの曲の持つ力を始めて知り、以降、そういうピアノソロアルバムをチェックするようになりました。特にジョージ・ウィンストンの曲を聴いてから、彼の所属するレーベル、ウィンダムヒルのアルバムを数多く聞くようになり、透明感のある音楽への興味も深まりました。


「サスペリア」(音楽 ゴブリン)---------> (プログレシブ・ロック) 
「インフェルノ」(音楽 キース・エマーソン)  ゴブリン「ローラー」 
「炎の少女チャーリー」「ザ・キープ」     タンジェリン・ドリーム「タングラム」「イグジット」
(音楽 タンジェリン・ドリーム)       

ちょっとホラー系の音楽で、いわゆるプログレサウンドが多く使われて、そこから、ロック系サウンドだけでなく、いわゆるシンセサイザー音楽へも興味が広がっていきました。特にシンゼの曲はサントラ盤でなくともイメージの広がるものが多く、聞いていて楽しいものが多いです。


「クライング・フリーマン」   --------->  (ニューエイジ、アンビエント系)
(音楽 パトリック・オハーン)        パトリック・オハーン「太古の夢」「メタファー」
「ネバー・クライ・ウルフ」           マーク・アイシャム「ヴェイパー・ドローイング」
(音楽 マーク・アイシャム)         デレリウム「カルマ」「オデッセイ」
「ブロークダウン・パレース」

シンセ音楽でも特に聴くものを異世界へと誘う音がこれらにあたります。「ブロークダウン・パレス」は、タイトルバックの曲にデレリウムの「サイレンス」という曲が使われていて大変美しく印象的で、このジャンルの音楽にはかなりのめり込んでしまいました。


「ポルターガイスト」「ランボー」 --------->  (現代音楽)
(音楽 ジェリー・ゴールドスミス)       ストラヴィンスキー「春の祭典」
「ゴジラ」(音楽 伊福部昭)           伊福部昭「リトミカオスティナータ」
                           グレツキ「交響曲第三番 悲歌のシンフォニー」

オーケストラをがっつりと鳴らす映画音楽は、現代音楽の影響下にあると言えますし、その音の原典のようなものをたどると、色々な音楽に当たることになります。ここに挙げた曲は、いわゆる乾いた音ではなく、感情に訴えるものばかりで、映画音楽にそのまま使えるパワーがあります。


「サンチャゴに雨が降る」     --------->  (タンゴ) 
(音楽 アストル・ピアソラ)           アストラ・ピアソラ「リベルタンゴ」

これは、まんまピアソラなんですが、タンゴでも感動させてくれるんだなあっていうのは大きな発見でした。

と、ボーカル系がないのがちょっとさびしいところです。映画音楽から入ったというとこんな感じになります。歌というと「グース」のモーリー・チェイピンの主題歌とか、007シリーズの主題歌とかあるんですが、そこからなかなか広がらなくて。

「萌の朱雀」は萌えの映画ではないですが、静けさの見ごたえあり

今回は、シネマベティで行われていた河瀬直美監督特集より、「萌の朱雀」を観てきました。「殯の森」を観て、へえこういうつくりの映画もあるんだということで、この監督の11年前の作品には興味ありました。カンヌ映画祭で新人賞にあたるカメラドールを受賞しています。また、当時、予告編を観て購入したサントラ盤が不思議な魅力(ソロピアノだけ楽曲ですが)を持っていたことも今回の鑑賞につながりました。

ある山奥の村に住む田原孝三(國村隼)一家は妻の泰代(神村泰代)と娘のみちる、孝三の母幸子(和泉幸子)と甥っ子の栄介のつましい5人暮らし。みちると栄介は幼馴染で、栄介は就職し、みちるは高校生です。村には鉄道が通るという話がずっと前からされていて、トンネルまで掘ったのに、計画は中座していました。そして、いよいよ計画断念の方向へ傾きつつあるとき、孝三は姿を消し、唯一8ミリカメラだけが発見されたのでした。体の弱い泰代は実家に帰ることを決意し、みちるはそれに従います。その後は栄介とその祖母になる泰代が残されることとなったのです。

この映画、観ていて、人間関係や設定がわかりにくいところ多く、上の粗筋もHPから情報を捕捉して書いています。さらに他のHPを見ると、孝三は林業をやっていたが、鉄道が通るという話からトンネル工事にも関わっていたとか、その孝三は姿を消したのではなく、自殺したのだとか、「へえ、そーなの?」と思う情報が載っていましたが、そういう話までは私は読み取れませんでしたので、あえて粗筋には書きませんでした。それくらい、状況説明が少ない、セリフも少ない映画なのです。さらに、そのセリフもなまりがあって聞き取れないところも多く、ま、観客には不親切な映画と言えそうです。外国で賞を取ったのは、そういう細かい(実際細かくないのですが)ところを抜きにして、映像や人間の描写が優れていたからだと思います。て、ことは、映画祭で受賞した映画を観たら、さっぱりワケがわからないこともありうるということでして、映画の一つの見かたとしてのいいサンプルにもなる映画でした。「殯の森」もわかりにくい部分ありましたけど、こっちの方はもっと筋の流れがつかみにくい映画になっています。

オープニングは朝の台所で幸子と泰代が朝食の支度をしているところから始まり、食事の風景から登校シーンと日々の暮らしの様を丁寧に追っていきます。村の中は鉄道派と反対派が対立しているとか、栄介の母親は大阪にいるらしいといったことが会話の中から窺うことができます。そして、家族でピクニックに出かけたときに、トンネルの中を孝三、栄介、みちるの3人で歩いていくシーンが象徴的に描かれます。このシーンは栄介の回想の中にも登場します。映画の冒頭ではまだ小さかった栄介とみちるが、中盤からは若者として登場します。生活費をかなり栄介が担っていること、さらには泰代も働きに出ようと思っていること、みちるが何となく栄介に淡い恋心を持っているらしいというところが見えてきます。また、栄介もおばにあたる泰代に対して特別な感情を持っているらしいことが描かれ、意外や複雑な人間関係が見えてくるのです。

村まで鉄道が伸びる話は頓挫したままで、どうやらなくなりそうなこと、鉄道なしでは、ますます村が過疎化しているという話が村の寄り合いでされます。こんな田舎に鉄道を通すという話に正直リアリティは感じされないのですが、製作当時の1997年(コピーライトは1996年とあり)にはまだそういう夢を語れるバブルの余韻があったのかもしれません。ともあれ、その次の朝、孝三は家を出てぷっつりと姿を消してしまいます。(ここで孝三が死んだと書いてある記事もあるのですが、特に仏壇とか焼香のシーンがなかったので、死んだのかどうかは曖昧になっているように思いました。ただし、私が会話の端々やスクリーンの隅を見逃している可能性もあります。)

泰代が働いて先で倒れてしまい、仕事をあきらめざるを得なくなります。栄介に対するみちるの嫉妬心が家族の間に波風をたてそうでそうはならないなど、小さなエピソードの連ねていく展開は、極めて淡々としてスローテンポ。「殯の森」のような物語が収束していく感じもなく、ぽこっと湧き出てきたエピソードの一つとして、泰代とみちるが実家へ帰るという話が持ち上がってきます。(実家へ帰ると腹を括ったということは、孝三の死が確認されている可能性があります。でも、私にはその辺まで読み取れませんでした)そして、最後の日、4人そろって別れを惜しみ、近所のトラックに乗せてもらって、泰代とみちるは去っていきます。過疎化の進む村の中で、おばあちゃんと孫が残されていくというのは、この先、祖母の死で、孫が村を去るのではないかと予感させるものになっています。5人まとまっていた家族がその形を失っていく様を描いた作品ということになるのですが、葛藤とか感情の爆発といったドラマチックな要素を排して描いているところに河瀬監督の力量があると言えましょう。特に1時間半を淡々とした描写で最後まで退屈させないのは見事でした。

映画の途中で、村の人を映した映像が突然挿入されます。みんなカメラを意識したような記念撮影のような映像なんですが、映画のラスト近くで、これが孝三が撮った8ミリフィルムであったことがわかります。そこに写し取られた映像は村の今を撮っているのですが、その村の今も時間の流れの中で、孝三一家と同様に形を失っていくのではないかと思わせます。確かに全体的にわかりにくい映画なんですが、観客の心の琴線に触れる瞬間を持っていることは事実でして、わかりにくいからダメな映画だと決めつけるには惜しいものをたくさん持っている作品でした。

茂野雅道のピアノソロによる音楽は思いのほか雄弁にドラマの中で存在感を示していました。あるときは情景描写として、あるときは孝三の好きなレコードの曲として流れます。また、みちるを演じた尾野真千子が大変可愛かったのですが、その10年後「殯の森」で主演の真千子さんを演じていまして、きれいな人は若いときもその後もきれいなんだなあって感心してしまいました。

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Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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