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「リボルバー」は他人の夢の話に付き合わされている気分

今回は新作の「リボルバー」を109シネマズ川崎1で観てきました。ここはそこそこ広さと大きなスクリーンがある観やすい映画館です。

7年間の刑務所生活を終えたギャンブラーのジェイク(ジェイソン・ステイサム)は2年の時間をかけて、金をためて、カジノ経営者マカ(レイ・リオッタ)のところに大きな勝負をしにきます。その目的は過去の復讐のためでした。勝負でマカから大金を巻き上げることに成功したジェイクですが、マカは彼を殺すように殺し屋を差し向けます。殺し屋に襲われて絶対絶命のジェイクをザック(ヴィンセント・パストーレ)とアヴィ(アンドレ・ベンジャミン)の二人組みが助けます。二人はジェイクの命を守るから、有り金持って来い、俺たちの言うことを聞け、と脅してきます。結局、二人の言いなりになっちゃうジェイクなのですが、二人がジェイクの金を高利で貸し出す場に居合わせられたり、組織の麻薬をかっぱらう場所に連れてこられたり、何だか変な感じ。一体、この二人の目的は何なのだ。かっぱらわれた麻薬は、マカが悪の帝王サム・ゴールドと取引するためのもので、マカは段々と窮地に追い込まれていきます。果たして、ジェイクの運命は? そして二人組の正体とは?

リュック・ベンソンがプロデュースし、「スナッチ」のガイ・リッチーが脚本、監督をした映画です。基本的にリッチーの映画だと言っていいと思います。イギリスでの公開時には、その難解さから、賛否両論だったようで、私も観た後、プログラムを読んで、「ええー、そういう話だったのー?」と驚かされたクチです。でも、映画が難解なのは、自分がバカだからだとは露とも思わない私からすれば、この映画は「他人に自分が見た夢を説明するようなもので、伝え方が悪いと、聞かされる方はたまらない」ということになります。いつもは、詳細に筋を追うのですが、今回はそれもギブアップでした。

ともあれ、冒頭の殺し屋の襲撃から命を救われ、その分、金を貢がされるジェイクなんですが、それ以前に血液の病気の末期だなんて言われちゃいまして、お先真っ暗の状態でした。その上、いいように二人組みに付き合わされるので、余計目に気分はサイテーです。また、ジェイクの独房時代の話が何度も出てきます。両隣がチェスとペテンの天才だったという話、顔は知らないけど、読書用の本を介してお互いに色々なことをやりとりしていたらしいのです。一方、マカの麻薬をかっぱらったことがきっかけになって、マカが中国マフィアとの抗争になっちゃうとか、悪の総帥サム・ゴールドとの取引にビビりまくっていて、マカも例の二人組に振り回されちゃっています。



この先は(私も全部理解できてない)結末に触れますのでご注意ください。



例の二人組がジェイクに妙なことを言い出します、この混乱したゲームの中心にいるのはジェイクだと。最初からいいように振り回されているジェイクがなぜゲームの中心なのか、そこに思わせぶりな字幕が出ます「最大の敵は思いがけない場所に隠れている」と。そして、謎のキーワード「彼は自分であると思い込ませる」ことができるかどうかが重要だということ。そして、ジェイクは、自分の中の奥底に潜む彼と対決することになるのです。で、その彼とは全ての黒幕であるサム・ゴールドであるというのです。どうやら、サム・ゴールドは「どこにでもいて、どこにもいない」存在らしいのです。一度、自分の中に彼がいると思い込んでしまうと、その呪縛から抜けられなくなるらしく、ジェイクはエレベータの中でその彼と直接対決することで、呪縛から解放されるのです。一方、マカはジェイクの兄の娘を人質にとって、ジェイクに揺さぶりをかけます。そんなジェイクに二人組は奪った麻薬を渡します。その時、ジェイクは二人組が独房にいたときの両隣の囚人だったことに気付くのです。そして、麻薬のバッグを持って、マカに会いに行くジェイク、マカはジェイクの姪に銃口を突きつけて彼を待ち構えていました。しかし、終始、平静さを崩さないジェイクに対して、追い詰められた表情をするマカ、ついには、マカが銃口を自分の頭に突きつけて暗転、銃の発射音がして、映画は終わります。

へえ、何だかよーわからん、何でマカはラストで追い詰められているのかいな、とおもったのですが、後でプログラムの解説を読んでビックリ。マカが自殺したのは、「彼は自分であると思い込ませる」という罠にかかったのだからですって。この罠は、ジェイクも一度は引っかかって、でも「彼」と直接対決することで抜け出すことに成功したものです。ところがマカはその呪縛に捕らわれたまま、自らの命を絶ったということらしいのです。でも、その罠(映画の中ではペテンと呼んでいます)をジェイクにかけたのは、例の二人組です。「ゲームの中心にいるのは君だ」という言葉をジェイクに吹き込んで、ジェイクを追い詰めていったのですが、マカにそういう罠をどうやって仕掛けたのかがわかりません。そもそも、ジェイクとサム・ゴールドを同一視するというのはドラマの流れの中からは出てこないもので、突如強引に言葉だけで言われても説得力がありません。どうも、メインストーリーに面白そうな趣向をあるだけぶち込んでいるような気がします。さて、その先にさらに驚くべきことが書かれていました。

例のザックとアヴィの二人組は、ジェイクの妄想だというのですよ。そして、この物語そのものがジェイクの独房内の妄想じゃないかって。うーん、そこまで言うかあ、二人組が妄想だとしたら、ジェイクの三重人格になるのかしら、某映画みたいに。に、しても、ジェイク一人じゃできない仕事をやってのけてますし、それなら、いっそ全部をジェイクの妄想にする手もあるかなあ。でも、だとしたら、ジェイクのいないところで事件が起こり過ぎ。中国マフィアや殺し屋なんて、直接ジェイクとは関わりを持たない人間の描写が山ほどあるのに、それらを妄想したなんて、ジェイクは劇作家か小説家なのかしら。ただ、妄想の中でなら、何が起こってもありですから、ちょっとぐらい辻褄が合わなくても、登場人物が理不尽な行動してもかまわないってことになります。こうなると、夢の世界みたいです。でも、他人の夢の話を聞かされるほどつまらないものはないわけでして、その支離滅裂に付き合わされるのは、やだなあって思うわけです。百歩譲って、思ったままをフィルムに焼き付けたというのであるのなら、その思いがちゃんと観客に伝わる努力はして欲しいと思うわけです。こっちは時間とお金を払っているのだから、その分のサービスはしろよって感じかしら。

ちなみに、この映画、タイトルの「リボルバー」以外、スタッフ、キャストのクレジットがでません。エンドクレジットも真っ暗な画面にエリック・サティのピアノ曲が流れるだけで、何のクレジットも出ません。(銃声 → サティの音楽 というので「鬼火」を思い出しました。狙ってるのかしら)珍しいというよりは、スタッフ、キャストにはお気の毒という感じでした。

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「幸せになるための27のドレス」の恋愛模様は何か勝手だなあって印象で

今回は若干遅ればせながらも、新作の「幸せになるための27のドレス」を日比谷みゆき座で観てきました。ここは、スクリーンが小さめで位置が高いため、前に座ると見上げることになるし、下がると小さいという、なかなかベストポジションが見つからない映画館です。

子供の頃の出来事がきっかけで、花嫁付添い人を転職だと思っているジェーン(キャサリン・ハイグル)は本業の社長秘書よりも、他人の結婚式の準備や手配の方に生きがいを感じているご様子。でも、自分の上司のジョージ(エドワード・バーンズ)に片思い一直線、ジョージは彼女のことを有能な秘書だと思っているのですが、彼女の想いにはまったく気付く気配なし。ある日、一晩で二股で結婚式を盛り立てた彼女に結婚記事を書く記者のケビン(ジェームズ・マースデン)が目をつけます。彼女の手帳を拾ったケビンはこの女性は記事になると追っかけ開始。一方、イタリアから帰ってきたジェーンの妹テス(マリン・アッカーマン)が何とジョージとラブラブになってしまい、あっという間に婚約まで行ってしまいます。調子のいいことばかり並べてジョージに取り入るテスに対して、それでも強いことが言えないジェーン。そんな彼女がケビンの取材を受け、過去の花嫁付添い人の思い出である27着のドレスを披露したりして、何となくいい雰囲気になるのですが、彼女を「万年花嫁付き添い人」として書いた記事が日曜版のトップに出て、ジェーンブチ切れ。さらに一方、ジェーンはテスの本当の姿をジョージにバラしてしまい、二人の結婚は破談になってしまいます。果たして、こんな調子でハッピーエンドが訪れるのかしら?

振付師から監督になったアン・フレッチャーによるラブコメディです。他人の結婚式の面倒を見ることに喜びとささやかな孤独を感じてきたヒロインに人生の転機が訪れるというお話。私は野郎なので、結婚式に対する女性の思いというのはよくわからないのですが、やっぱり、人生のある意味頂点ということになるのかもしれませんね。そんな幸福の絶頂のイベントを支援してその場に立ち会うってことはそれなりに意味があることなのかなあって気がします。でも、この映画では、そこにいつまでも留まっていること、ずっと面倒見のいい人でいるってのは、自分の幸せに背を向けていることになるんじゃない?って突っ込みを入れてきます。そこまで言わなくても、本人が好きでやってるんなら、やらせてあげればいいのにと思うのですが、物語の展開は、最愛の人を妹に横取りされるという非常事態を設定して、究極の選択を迫ってくるのです。

映画は中盤まで、ヒロインがいいように振り回される展開になってます。彼女のそれまでの生きがいを結婚産業の哀れな犠牲者のように記事にまとめようとするケビンがいるし、ジェーンの想いに全く気付かない鈍感な上司、姉の最愛の人と急にラブラブになっちゃう妹。とりあえず、いい人を演じ続けているヒロインには踏んだり蹴ったりって感じ。特に、ケビンとはそれなりの信頼関係が生まれて一夜を共にするところまで行くのに、その翌朝の新聞にジェーンの記事がドドーンと出てしまうのですから、あんまりです。それに、いい人を思い切ってやめて、妹のホントの姿を上司にバラしちゃったら、何だか後味悪いし、ヒロイン、もうボロボロです。とは言え、こうなるには、本人が自分で選択してきたところも多いので、単に気の毒と言い切ることもできないという状況。アン・フレッチャーの演出は軽快なテンポでドラマを運んでいますが、その裏では、ジェーンがどんどん身動きとれないように追い詰めていくのです。



この先は(予定調和な)結末に触れますので、ご注意ください。



ケビンが自分のやったことを謝罪にしに来るのですが、とても許す気にはならないジェーン。でも、それまでの最愛の人だったジョージとキスをしても、何だかしっくりこない彼女は、やっぱり、ケビンかしら?って、気が付くのです。へえ、あんな男にホレましたか?やってることは彼女を裏切ってるし、言ってることは、それまでの彼女の生き方を否定してる、でも好きになっちゃうなんて、何か不思議というか、恋愛なんて、みんな勝手なもんだなって気付かされてしまいました。ともあれ、ヒロインは、ケビンへの想いを告白して、1年後に二人は結婚式を挙げてハッピーエンド。いくら寂しかったからとは言え、ケビンを選ぶことはないじゃないかと、外野席から突っ込みを入れたくなるのですが、色恋沙汰は理屈じゃない、みんな好き勝手に惚れたり惚れられたりするものなのねという結末になります。ラストのジェーンの結婚式で、妹テスとジョージが再び恋に発展しそうな予感を見せるところも、「はいはい、好きにして」の気分です。

正直なところ、いい人であり続けようとしたジェーンに、ケビンというチンケなライターではジェーンが気の毒のように思うのですが、ジェーン本人が好きになってしまったのですから、これは惚れたら地獄ってことなのかしら。並(以下)のオヤジである私には、ヒジョーにビミョーなハッピーエンドに思えてしまいました。ケビンはもしジェーンに惚れなかったら、あの新聞記事が一面に出ることに罪の意識なんか持ちませんもの。キャリアアップできてホクホク、後は知らんという男ですよ、きっと。また、彼女のそれまでためてきた27着のドレスの意味を否定しちゃうのは惜しいと思うわけですよ、彼女、いい人だもの。

と、いうのも、ヒロインを演じたキャサリン・ハイグルが大変魅力的で、幸せになって欲しいキャラだったからです。この映画に登場する人物は、美男美女とはちょと違う、リアルな存在感のあるキャラになっていまして、その等身大のヒロインにはすごく肩入れしたくなっちゃうのですが、これでホントに幸せなの?という結末には、なーんか納得できないものを感じてしまいました。この映画、他の登場人物、ケビン、ジョージ、テスとも、恋愛に関してみんな自己中というか勝手だなあって気がします。まあ、恋愛感情は理屈じゃないところありますし、当人の自由だから、文句をつけるのは筋違いなんですが、でも、何か勝手だよなあって思ってしまうのでした。

「幻影師アイゼンハイム」は映画全体がイリュージョンって感じがして

今回は新作の「幻影師アイゼンハイム」を川崎チネチッタ1で観てきました。発券係りがこちらの要求したのと違う席のチケットをよこしたせいで、かなりひどい場所からの鑑賞になりました。人間迂闊に信用してはいけないという教訓となりました。

家具職人の息子として生まれたエドゥアルドは公爵令嬢のソフィと幼馴染で、年を経るに連れて二人は恋仲になるのですが、身分の違いから二人は別れ別れになり、それから、15年後、エドゥアルドは幻影師アイゼンハイム(エドワード・ノートン)と名を変えて、ウィーンの舞台で喝采を浴びるようになっていました。そんなある日、あまり評判のよくない皇太子(ルーファス・シーウェル)が舞台を見に来たとき、客席から術の支援を頼んだところ、皇太子の連れの女性が舞台に上がりました。アイゼンハイムはそれがソフィ(ジェシカ・ビール)だと気付きます。ソフィは皇太子の妃になると噂の女性でしたが、彼女はその気はなく、むしろアイゼンハイムとの再会を喜んでいました。しかし、このままでは二人が一緒になることは許されません。ソフィが皇太子に自分の意を伝えた次の日、彼女は首を刺された遺体となって川に浮かんでいました。皇太子の息のかかったウール警部(ポール・ジアマッティ)はこの事件を捜査する一方で、アイゼンハイムを葬るようにという指示も受けていました。捜査の過程の中で、皇太子が犯人だという証拠が発見され、一方人心を乱した罪でアイゼンハイムは逮捕されてしまいます。果たしてソフィを殺した犯人は? そしてアイゼンハイムの運命はいかに。

幻想文学で知られるスティーヴン・ミルハウザーの短編小説をもとに、CM出身のニール・バーガーが脚本監督を手がけました。主役3人だけ見ると現代劇かと思ってしまうのですが、19世紀のウィーンが舞台となっています。

オープニングはアイゼンハイムの舞台です。彼がイリュージョンを見せようとしたところで、警官隊が彼を逮捕すべく舞台に上がってきます。そこから話はアイゼンハイムの子供の頃に遡り、ソフイとの恋愛が引き裂かれるまでが描かれます。そして、15年後、アイゼンハイムはこれまでの奇術のレベルを上回るイリュージョンを舞台で披露して、人気者となっていました。そんな時に、彼はソフィと劇的な再会を果たすのです。そして、彼は皇太子に招かれ、彼の館でマジックを披露することになります。皇太子はマジックのタネを見破ってやろうと虎視眈々なのですが、逆にマジックで彼に恥をかかせてしまいます。怒った皇太子はウール警部にアイゼンハイムを潰せと命令します。マジック好きの警部ですが、皇太子には逆らえません。アイゼンハイムに見張りをつけると、何と彼はソフィと会っていたのです。二人は密会して何か企んでいるのでは?とにらむ警部ですが、そんな時に、ソフィが死体となって発見されてしまうのです。

彼女の死で意気消沈したかに見えたアイゼンハイムですが、別の劇場を買い取り、中国人の助手を雇って新しい見世物を始めます。それは、念を込めた手をかざすと、そこから煙のようなものが立ち上り、それが人間の形になるというもの。幽霊が舞台の上に現れるというもので、時には死んだソフィも現れました。そして、生と死の境を越えたイリュージョンとして大評判となり、観客はそれに魅了され、彼はカリスマ的な人気を得ます。しかし、画面上ではあまりリアルじゃないのが、監督のミスデイレクションなのかと、後で気付かされます。ここは、CGによって、現れた人間が舞台を離れたり、生身の人間を通り抜けるといったことをやってのけています。つまり、タネのある奇術じゃなくて、ホントの魔法みたいなんですよ。これなら、何でもアリかなって思ってしまいます。



この先は結末に触れますのでご注意下さい。



一方、ウール警部は、ソフィの死体についていた宝石と皇太子の館の厩に落ちていた宝石が、皇太子の剣から落ちたものだということにたどり着きます。一方では、アイゼンハイムを逮捕すべく行動を起こすのですが、逮捕しようとしたアイゼンハイムが観客と警官隊の目の前で、煙のように消滅してしまうのでした。これはすごい魔法みたいと思いつつも、結局、アイゼンハイムはその消息を絶ってしまいます。一方で、ソフィ殺しの証拠を突きつけられ、それが国王にも知らされたことを知った皇太子はウール警部の目の前で自殺してしまいます。関係者が死ぬか消えるかしてしまうことで、この事件は終わりを告げたように見えました。

街を歩いていた警部に子供が何か入った封筒を渡します。中にはアイゼンハイムのイリュージョンのトリックが書かれていました。アイゼンハイムが近くにいると彼の影を追う警部の頭の中で様々な過去のピースが流れていきます。そして、ソフィは殺されておらず、死んでもいなかったトリックにたどりつきます。そうです、アイゼンハイムとソフィは見事に皇太子と警部をだましていたのです。このあたりはフラッシュバックをうまく使って、イメージだけで彼らのトリックを説明していまして、そのまま一気にエンディングとなるところが見事でした。

そのトリックは皇太子に睡眠薬を飲ませたり、ソフィに仮死状態となる薬を使ったり、検死の医師がアイゼンハイムの仲間だったとか、それなりのリアリティというか論理性のあるものです。皇太子の邸でマジックを見せたときに彼の剣から宝石を2つ盗んでおいて、後の証拠偽造につかうなど、よく考えられたものでした。それに気付いた時、警部は驚きと賞賛の入り混じった笑いを浮かべます。もともと、アイゼンハイムに好意的な立場を取っていた彼ですが、この「してやられたわい」の笑いは映画のラストを飾るにふさわしいものでした。ジアマッティの演技の冴えどころでした。

本筋のトリックがリアルなものであるとすると、幽霊イリュージョンはやりすぎの感は否めません。だって、トリックでできるレベルのものではないですもの。ここで、アイゼンハイムを魔法使いのように見せてしまうことで、リアルなトリックに気付かせないというミスディレクションがあったように思います。こういうのは、小説で読むとリアリティのレベルがうまく均されるのかもしれませんが、映画の場合、どう見てもSFXでしか実現できない絵を見せられると、そこにはトリックよりもマジック(魔法)が感じられてしまい、トリックが意味をなさなくなってしまうのです。

とはいえ、映画全体が不思議なイリュージョンのような作りになっていまして、ドラマの発端から結末まで、きちんとトリックの伏線も見せながらドラマを構築した脚本は見事だと思います。そういうイリュージョンがカリスマ的な人気を得ることができた時代の空気もきちんと描けている点もうまいと思いました。トリックとマジックが両方登場する(ように見える)お話なのですが、当時の人にとっては、トリックもマジックも、どちらもイリュージョンなのだと思わせるところがあり、その不思議感覚はなかなか興味深いものがあります。

演技陣はみな好演してまして、主演のエドワード・ノートンはもとからうまい俳優さんなんですが、今回はあまり控えめな演技で、ミステリアスな男を巧みに演じていました。一方、この映画の狂言回し的なポジションになるポール・ジアマッティは狡猾なようで、結構いい人というキャラを演じて、ラストでいいところを見せます。皇太子を演じたルーファス・シーウェルも善悪どちらも達者にこなす名優ですが、悪党のようで、でもダメキャラを演じて、うまさを感じさせます。ヒロインのジェシカ・ビールは今風おネエちゃんなので、ドラマの中であまりキャラが弾まなかったように思います。ああ、かわいそうなヒロイン...って感じがしないのが今一つなのかも。

「JUNO ジュノ」のしなやかさは、一見のオススメ

今回は、新作の「JUNOジュノ」を川崎チネチッタ12で観てきました。THX装備の大スクリーンの劇場でして、こういうところで、「JUNO ジュノ」のような小品を観るのもまた一興という感じでした。

高校生のジュノ(エレン・ペイジ)は、同級生のポーリー(マイケル・セラ)とセックスした結果、妊娠してしまいました。最初は、中絶するしかないと思って、クリニックの待合室まで行くのですが、何だか自分とは違う世界みたいで、結局は中絶はやめにします。そして、次に考えたのが、産んだ後、里親に預けようというと、養子探しの広告から、ヴァネッサ(ジェニファー・ガーナー)とマーク(ジェイソン・ベイトマン)の夫婦を見つけて、この夫婦と養子縁組をしようということになります。家族にも事情を話し、父親と一緒に夫婦と会います。ちょっとテンション高いヴァネッサよりも、マークに親しみを感じるジュノ。この後、彼女は何度もマークに会いに出かけたりもします。一方、まるで頼りにも相手にもされていないポーリーはあくまでゴーイングマイウェイ。それでも、ジュノにとってその存在が改めて大きなものに思えてくるのでした。何てことを言ってるうちに無事赤ん坊を出産するジュノなのでした。

16歳の少女が主人公の小品が、アカデミー賞の作品、監督、主演女優、脚本賞にノミネートされました。この手のインデペンデンス系映画を選りすぐって取り上げるFOXサーチライト映画の配給による一篇でして、シンプルなストーリーと細やかな演出で、観る人の心を暖かくしてくれる映画です。「サンキュー・スモーキング」でホームコメディとブラックジョークを両立させた、ジェイソン・ライトマンが監督しているのですが、今回はひねった趣向はなくストレートで愛すべき青春コメディに仕上げています。

ジュノは高校生ですが、やたらとシニカルな事を言ったり、きついユーモアをとばす元気な女の子。そんな彼女が、妊娠検査薬の結果を見て「ああ、何てこった」になるところから映画は始まります。まずは親友に電話するんだけど、大事件の割りには、会話が弾むのがおかしい、ノリのよいテンポが笑いを誘います。さて、お腹の子の父親であるポーリーの家の前で待ち伏せして、事態を伝えるのですが、このポーリーが頼りないというか、どうしていいのかわからないボク状態で、ここはジュノ自身で何とかするしかない。まあ、この年で産むわけにはいかないと、中絶すべくクリニックへと行くのですが、その前には同級生の女の子が堕胎反対のプラカードを持ってて、もう赤ん坊には爪もはえてるのよって言葉に心動かされてしまいます。クリニックの中の自分のいる世界とは違うという感じで結局中絶を断念しちゃうんですが、ここもドラマチックな葛藤はなく、生命の神秘云々という高尚なレベルとは違う何となくの気分が、リアルなおかしさを運んできます。ジュノの身の丈に合った考えや行動は、共感を呼ぶのですよ。

さて、中絶をやめるとなったら、今度は里親探しということになります。タウン誌で見つけた若い夫婦に、里親縁組することになります。奥さんのヴァネッサは仕切りやさんですが、母親になれることを心から喜んでいるみたい。一方のダンナのマークは妙にジュノとウマが合います。ギターの趣味が合うくらいならありそうですが、ホラー映画の趣味も同じだったというのが笑いをとります。ハーシェル・G・ルイスがアルジェントよりクールなんて、なかなかのセンスだと申せましょう。そういう時のマークは何だかすごく楽しそう。あんまり、マークに接近するジュノをいましめるママなのですが、そのあたりの機微はまだ16歳にはわかりません。

ともあれ、お腹の子供は順調に育っていきます。大きなお腹を学校では好奇の目で見られているらしいのですが、ジュノはその辺りをあまり気にしてないのが微笑ましくもタフなネエちゃんだと感心。ジュノにしてみれば、この子は自分の子であって、自分の子でないという微妙な母体なんですが、そこを飄々と乗り切っているのが結構すごい娘です。ところが、もうすぐ臨月ってときに、マークがヴァネッサと離婚すると言い出すのです。突然の話にびっくりしてるジュノ、そこへヴァネッサが帰ってきます。マークは自分はまだ父親になる心の準備ができていないと言い出します。そして、もう妻への愛が失われたと。そんな夫婦の修羅場に遭遇したジュノはどうすることもできません。ヴァネッサとマークは完璧な夫婦だから、子供を幸せにできると思っていたジュノにとっては、彼女の大人の部分でもカバーしきれない状況にあたふたすばかり。人類への信頼を失った彼女を父親がなぐさめるところがいいです。常にジュノは自分の身の丈以上のことを言ったりしません。それでも、ジュノはヴァネッサにあるメモを残していたのです。

そして、臨月がきて、大騒ぎしながらも無事に男の子が産まれました。でも、ジュノは赤ん坊の顔を見ることはしません。ヴァネッサが子供を見にやってきます。養子縁組はおじゃんになっていなかったのです。ジュノが残したメモは「ヴァネッサにまだその気があるのなら、私にはその準備がある」というものでした。彼女は彼女の身の丈の中で最善のことをしていたのでした。そして、ベッドに横たわるジュノのところにポーリーがやってきて、彼女を包み込むように寄り添うシーンにはホロリとさせるものがありました。でも、ジュノは元気に学校に復帰、ポーリーとはより親密な関係になります。若いってことのよさをほのぼのと描いて、暖かい余韻の残りました。

高校生では、大人の分別とかはわからないけど、彼女なりの価値観があり、彼女なりの喜びと悲しみがある。そんな当たり前のことを、ジュノの視点に立って描いているのが見事な脚本と言えましょう。大人のやること全ては理解できないけど、彼女は彼女なりの責任のとり方をしているのです。その潔さには感心、拍手ぱちぱちぱち、大の大人もこうはいくまい。でも、それがあくまで16歳の高校生以上のものにならないのが、リアルな共感を呼ぶのです。また、大人の倫理観で、善悪を押し付けないところが、しなやかなやさしさを感じさせ、16歳の少女の頑張りと大人の善意がうまくバランスをとっていますので、いい大人も若い人もいい気分にさせてくれる映画です。ホント、このしなやかさは他の映画にはないもので、一見のオススメです

「ラスベガスをぶっつぶせ」はギャンブルOKの感性が好きになれなくて

今回は旅行先の山形フォーラム2で「ラスベガスをぶっつぶせ」を観てきました。50席程度の小さな映画館で、それでもドルビーデジタルが入っていました。スクリーンはこのキャパシティであればまあまあの大きさでした。比較対象はかつての新宿東映パラス3や新宿ピカデリー4ですけど、ああいうのに比べれば傾斜もあるし、観やすい映画館です。

MITの卒業を控えたベン(ジム・スタージェス)は、ハーバート大医学部に進む夢があるのですが、そのためには、学費30万ドルという大金が必要で、時給ナンボのバイトではとても用意できません。そんな、彼に声をかけてきたのは、彼の数学の才能に目をつけたローザ教授(ケヴィン・スペイシー)でした。教授は、他の4人の生徒とチームを組んで、ブラックジャックで荒稼ぎをしていたのです。それは、カードカウンティングというもので、カードの出方をポイントでカウントすることで、ディーラーより有利にゲームを進められるようになるのだそうです。数学の能力が必要なやり方だけに、教授はベンに声をかけたのです。ベンは学費30万ドルを稼ぐために彼のグループに参加します。週末、ラスベガスに飛び、ブラックジャックで大きな儲けを得て、ベンもその生活にだんだんと取り込まれ、儲けた金で贅沢三昧するようになり、それまでの学友とは疎遠になってしまいます。そんなある日、ベンが退き時を誤って大負けをしてしまいます。教授は彼を破門だと言い、すった元金は絶対返せと息巻きます。それなら、教授抜きでやってやるといさんでカジノに出かけるベンたちに、思わぬしっぺ返しが待っていたのでした。

「キューティ・ブロンド」のロバート・ルケティック監督が、実際にカジノで大学生のグループがブラックジャックで大儲けしたという実話をベースに、一風変わった青春ドラマを作りました。私は、ギャンブルで金儲けを企んだり、それによって得たアブク銭で豪遊するといった話が嫌いなので、この映画に出てくる連中は好きになれません。でも、登場したときのベンはそういうことには縁がない、勉強はできるけど、さえないオタク系学生です。バイトに励み、友人とはロボットコンテストに出ることを楽しみにしているという地味な学生生活を送っていたのですが、そこへ、ローザ教授が彼に大金が手に入る儲け話を持ち込んできます。確かに彼は進学の学費30万ドルが必要であり、また、チームの中にあこがれのジル(ケイト・ボスワース)がいたことも彼の心を動かしたのです。

最初は、学費を稼ぐためと割り切っていたのですが、実際にやってみると、確実に大金が稼げるのです。普段は大学生として地味に暮らしていて、週末はラスベガスへ行ってブラックジャックで荒稼ぎするという、ある意味二重生活を始めてしまうと、ラスベガスでの贅沢三昧が現実で、貧乏学生の日常にはリアリティを感じられなくなっていくのです。やっぱりねえ、こういう生活はしているとロクな人間にならないと思うのですが、この映画はそこんところを肯定も否定もしていないところが気になりました。清貧のススメとは言いませんけど、若い身分で大金を手にすることはやっぱりよくないよなあなんて、中流の下にいる中年オヤジは思ってしまうのでした。

カードをカウントするという方法は違法ではないのですが、カジノではマークされてしまいます。カードをカウントすることで、値の高い札の出る可能性の高いテーブルを特定でき、そこでは、プレイヤーが高い確率で勝利できるというものでした。チームで行動するのは、何人かのスポッターがテーブルに散って少額でプレイしながらカードをカウントし、値の高い札の出る可能性の高くなったテーブルへプレイヤーを誘導し、プレイヤーに大勝負をさせるという段取りです。でも、単純なカウントだけでは、そうは勝てるわけではなく、さらに様々な計算がなされるようなのですが、映画はその詳細までは教えてくれません。

教授は、儲けの上前をはねるやな奴なんですが、彼のセオリー「ゲームをしろ、ギャンブルはするな」には一理あるんですよ。ところがそのルールを破って、大負けしたベンは確かに悪い。教授に罵倒されるのも無理はないと思うのですが、それなのに、教授抜きでカジノに臨むという暴挙に出ます。



ここから先は結末に触れますのでご注意ください。



しかし、教授の方が一枚上手で、もっと陰険でして、カジノにカードカウンティングをしていると電話を入れます。その結果、警備主任コール(ローレンス・フィッシュバーン)にとっつかまってボコボコにされちゃうのです。さらに部屋へ戻れば、中は物色されていて、天井裏に隠してあったカジノでの儲けは全部なくなっていました。さらに、履修単位が不足にされて卒業もできなくなってしまいました。徹底的に踏んだり蹴ったりですが、ここで、ベンは教授に謝罪して、もう一度やろうと持ちかけます。教授もそれを受けて、二人でプレイヤーとなってかなりのチップを稼ぐのですが、そこへコールとその部下が現れ、彼らを追ってきます。カジノの中を逃げ回るベンとジル、そして教授。稼いだチップを教授に渡して、別々に逃げるのですが、それは、コールとベンが仕組んだ罠で、教授はニセのチップを持って、コールの部下に捕らえられてしまいます。すると、コールは稼いだチップを要求し、ベンはチップを渡します。その見返りは大学を無事に卒業できるように取り計らうということだったのです。

ラストはこの数奇な経験を奨学金のためのレポートに提出した(らしい)こと、また、カジノに、彼の学友を招いて一稼ぎさせるというもの。もう、ギャンブルはこりごりだという結末にならず、親友をその道に連れ込んでしまうベンにはどうにも共感できません。もともと無欲だからこそ、無敵のプレイヤーだったのですが、ジルというガールフレンドを得、贅沢な生活を覚えてしまって、だいぶ人間が変わってしまったように思えます。映画はその変化をハッピーエンドとして描いているのですが、身分不相応な金を持つことが本当にハッピーなのかしら。もともと自制心がなくて、教授に破門されたのですから、ベンはギャンブルに向かないのです。それでも、やめずに友人まで巻き込むのは正直言ってサイテーな野郎です。聡明なヒロイン、ジルはそこに気付いているはずなのに、ラストでもまだ恋人でいるというのが非常に納得できないのでした。(うーん、単なる嫉妬という気もしなくはないが)

プログラムによると、この映画の撮影に実際のカジノでロケをしたそうですが、カジノ側は大変協力的だったそうです。だから、この映画はギャンブルそのものを否定してないのかなって気がしました。また、この映画を真似て、客が増えれば、カジノも儲かるという、そろばん勘定もあるようで、やっぱり、こういうことは胴元が儲かるようになっているんだなって感心する一方、カウンティングで勝てるかもと思わせるのも、カジノの計算のうちかもしれないと思ってしまいました。

演技陣はみなそれぞれのキャラクターを好演してまして、頭はいいが根性の腐ってる教授を演じたケヴィン・スペイシーが余裕の演技を見せる他、ちょっと微妙なヒロインを演じたケイト・ボスワースも意外といい味を出しました。主人公を演じたジム・スタージェスは私から見てすごく嫌なキャラを、嫌ななりにうまくこなしていまして、他の映画に期待したいです。

「やわらかい手」は笑えて泣ける、大人のための人情コメディ

今回は東京では昨年末に公開された「やわらかい手」を横浜のシネマジャックで観てきました。久しぶりに行ったら、映画館の真ん中あたりの列、左半分の座席が撤去されてました。ははあ、どうやら、車椅子用のスペースらしいとわかったのですが、これが映画館のど真ん中なのびっくり。変な隅っこにスペースがある劇場が多い中でこの英断には感心、偉い!

今回の映画はちょっと特殊な職業を扱っているのですが、遠回しな表現だとこの映画の面白さは伝え切れませんので、直接表現、お下劣記述になってます。ご了承ください。

可愛いオリーは重病で、早くオーストラリアの病院へ連れて行ってそこの治療を受けないと命が続かないと両親は宣告されてしまいます。これまでも、病気のために家を売り、借金し、これ以上の渡航費なんてひねり出すことはできません。おばあちゃんのマギー(マリアンヌ・フェイスフル)もなんとかオリーを助けたいのですが、この年では仕事なんてありません。そして、「接客業募集」の札を見て入ったところがセックスショップ。オーナーのミキ(ミキ・マノイロヴィッチ)は彼女の手に目をつけ、手コキサービスを勧めます。最初は断ったマギーですが、結局その店で働くことになり、彼女の手コキは評判になり、いつも行列状態。ミキに借金して、オリーのためのお金を捻出して、オリーと両親は治療のためにオーストラリアへ行くことになります。ところが、マギーの息子がお金の出所を詮索して、彼女を尾行して、彼女の仕事を知ってしまうのです。

タイトルといい、雑誌なんかの扱いといい、これって小洒落た倒錯エロスものかと思ってパスしていました。ところが予告編観てみると、何だか設定や展開が所帯じみてて面白そう。意外とイケるかなと思って、スクリーンに臨みました。

オープニングはすごいシリアス。かわいい男の子なんだけど、重い病気で、命の灯が消えかかっている状況。両親もおばあちゃんも何とかしてあげたい。でも、これまでも、ずっとこの子のために借金を重ねてきて限界です。お金があればオーストラリアに行って有効な治療が受けられるのに、もうどこからもお金の出所はありません。マギーもかわいい孫のために何とかしてあげたくて、職探しを始めるのですが、いい年したオバさんに仕事なんかあるわけない。何をトチ狂ったかセックスショップの「接客業募集」の面接に行ってしまう。この店のオーナーのミキというおっさんがDSのマリオばっかやってる変な人、即、NGで追っ払わないで話を一応聞くのが笑えます。そして、彼女の手が滑々なのに気付いて、手コキの仕事ならできそうだけどどうだい?と言ってくれる、意外に親切なおっさんなのでした。でも、ロンドンの外れの田舎の村にずっと暮らしてきた主婦が、即やりますとは答えられません。それでも、一晩考えて、孫の命のためだものということで、オドオドしながらも、仕事を始めます。これは売春ではないし、壁の穴一つ隔てたサービスなので、顔は見られないし、お世辞も媚も不要というところから、マギーにはぴったりの仕事だったのです。ミキは、このシステムを東京で見て、ロンドンにも持ってきたと言います。へえー、こういうものも輸出してるんですねえ、日本、と妙なところで感心。

天性のものなのか、マギーの指技はものすごく気持ちいいらしくて、彼女の手コキブースには行列ができちゃいます。口コミで広がるというパターンなのかしら。でも、仕事を始めるときに、よくしてくれたもう一人の女性がマギーに客を持ってかれて、店をクビになってしまうというシビアなエピソードも語られます。同じ店にいた時は色々親切にしてくれて、友達だと思っていたのに、クビになったとたんに「このスベタ」呼ばわりされて、がっくり来ちゃうマギーですが、一方で、孫の容態は時間との戦いになってきていました。オーストラリアへの旅費ホテル代がたまるまで、孫の命は待っていてくれそうもありません。そこで、マギーはミキに6000ポンド前借を頼みます、後10週間タダ働きするからと言って、何とか彼から6000ポンドを受け取り、息子と嫁に渡します。こんな大金どこから、と訝る息子に、それは言えないと突っぱねるマギー。

一方、店では、手コキ部屋に絵を張ったり水筒を持ち込んだりして、どんどんなじんでいきます。最初はおそるおそるだったのが、今や緩急自在、男の声から、ちょっと緩めたり、一気にイカせたりと余裕が出てきます。それまでは、家の前でカーセックスしてる車に文句も言えなかったのが、乗り込んで音楽を切って「うるさい」と言えるくらいになりました。それがいいのか悪いのかはともかくとして、店、仕事になじんでいくマギーが笑えるのですよ。また、孫のために頑張りすぎて、右肘がおかしくなってしまいまして、字幕では「ペニス肘」とか小洒落た言い回ししてますが、要は「手コキ腱鞘炎」ともいうべき職業病にかかってしまいます。で、右手がダメなら左手でということで、穴に向かう位置を変えて頑張るマギーがまたおかしい。

この仕事を始めたおかげで、孫の見舞いもあまり行けなくなり、それまで村で付き合っていたご婦人連とも疎遠になってしまいます。でも、そんな仕事の中で、店主のミキにとって、自分のことが単なるお金を生む存在でしかないのがお気に召さなく思うようになります。何だかんだ言っても、自分が認められるなら、一人の人間として認めて欲しいのです。オーナーとのカフェでのやりとりのおかしいこと、「私はあなたの笑顔が好きよ」というマギーに「私は君の歩き方が好きだ」というミキ。この映画の一番好きなシーンです。初老というべき二人の男女のほのぼのした会話の妙。でも、セックスショップの主人と手コキレディという関係がそこはかとないおかしさを運んできます。こんなシチュエーションでもなければ有り得ない出会い、有り得ない会話。二人とも人情の機微がわかるからこそ交わされる言葉と視線がいいのですよ。

しかし、息子がマギーの後をつけたことで、彼女の仕事がばれてしまいます。逆上した息子は、こんな金を使えるかと怒鳴り散らし、マギーに店を辞めるという電話を無理やりかけさせます。まあ、気持ちはわからなくはないですが、自分の息子が生きるか死ぬかって時に、そんなことを言うのは現実逃避にしか見えません。その時、それまであまり仲の良くなかった嫁がマギーに理解と感謝の意を表するところが意外なうれしい展開になります。こういうフーゾク系の話になると、「女の敵は女」になりやすいのですが、ここで嫁は「お母さんが孫のそこまで身を挺してくれたのよ」と息子を説き伏せます。そして、マギーも一緒にオーストラリアへ飛ぶという段取りになるのですが、空港まで来て、彼女はここに残ると言って引き返してしまうのです。

スーツケースを引きずったまま、その足で、店に向かうマギー。店に現れた彼女を見て、駆け寄るオーナー、そして、彼はマギーにキスしたところで画面は暗転し、エンドクレジットになります。このラストは、ささやかなエピローグとも受け取れるのですが、最後まで人間にやさしい映画だなあって思わせるものでした。

プログラムを読むとマリアンヌ・フェイスフルがどういう過去を持っていてあーだのこーだのということがたくさん書いてあるのですが、この本編だけで人情の機微を十分な語れる内容になっています。夢のある職場というよりはリアルな欲望とビジネスが共存する世界に、なんとなく飛び込んでしまった初老の主婦がそこで自信とゆとりを取り戻していくあたりはうまいなあって思います。そんな彼女が店のオーナーに自分を一人の女性として認めてもらい、認めた方はそのことで彼女が特別の存在になってしまうという成り行きを地に足のついた形で描いているのがまた見事なのですよ。

手コキ部屋を中心に大いに笑いをとる一方で、人間関係のきびしさとやさしさを過不足なく描き、笑いと涙の人情ドラマに仕上がっているのは、サム・ガルバルスキ監督の力によるところが大きいと思いますが、こういう笑えてホロリの映画をル・シネマで上映するからってわざと敷居を高くした売り方はどうも納得できません。舞台はロンドンで英語の映画ですし、要は「孫のために手コキを頑張るおばあちゃん」のお話でして、生活観とか家族観も日本人にもわかりやすい、大変とっつきやすい映画になっているのです。先入観なしに観ると、笑えて泣ける大人の人情コメディとして十分に楽しめますし、人情の機微の非常にいいところを突いた映画ということで、私はこの映画、大好きです。「ミスト」と並んで、今年のベスト映画だと思います。(「ミスト」と並べなくてもいいのですが、ベスト度ではいい勝負なので)

映画で笑えるツボは人それぞれだけど....

映画を観ていると、ここ笑えるところだよねっていうポイントがあります。コメディなんかですと、場内がどっと受けるタイミングがあっていい筈なんですが、洋画のコメディなんかですと、意外にお客さんのウケが悪いなあって思うところ多いです。特に間を外したおかしさのところは、クスリとも来ないこと多いのではないかしら。

また、映画をご覧になる方によってウケのタイミングが異なるようで、静かな場内で、自分だけ大ウケして笑ってしまったという経験はどなたでもお持ちでないかと思います。でも、そんな静かな場内でも、笑いが起こる3つのパターンがあります。

まずは字幕がいかにもお笑いっぽいもの、「アンタなんか、もう、知らない!」「おまえはアホか、それに比べてオレのかっちょよさ」などなど、字幕がここで笑っていいですよーって振ってくるもの。それがつまらないとダメなんですが、ハマれば、素直に笑えるのか、場内がまとまってウケた状態になります。笑いをとりやすいというか、笑いやすい笑わせ方と言えましょう。

次に多いのは、言葉じゃなくて、見た目で笑わせるもの。これは国によって程度があるようで、あまり痛そうなのやかわいそうなのは笑えないということもあって、笑いをとるのは難しいところです。見た目というと、バスター・キートンとかジャッキー・チェンなど動きで笑わせるもの、後、悪趣味な服装やひどいボロ家など常識外のもので笑わせるもの、別の映画のパロディになっていて笑わせるものなどがあります。中には音で笑わせるのもありまして、個人的に好きなのは「フライングハイ2」にあった、月面基地のバックに虫の声が聞こえるというもの。例を挙げるときりがありませんが、見た目で笑わせるものについては、字幕よりも、笑いのハードルが高くて、笑えるツボも個人差があります。また、映画の中の人物は大マジメなので、笑っていいものかどうかとまどうこともあります。日本の映画館で、この類の笑いがはずむのは、最初からコメディと称した映画の中で、かつ字幕による笑いも豊富に盛り込まれているときぐらいではないかしら。場内大爆笑までいかないのがもったいないようなギャグが結構あると思うのですよ。

そんな字幕と見た目の他に、別格の笑いとして取り上げたいのが、下ネタです。これは、洋画だと、まるで笑いがとれない、あるいは一部の人だけが大ウケしているというものです。まだ、日本人には、洋画と下品をいっしょくたにして笑い飛ばすのが苦手ではないかと思われる節があります。それ自身は面白くても、まさか洋画でそこまでやるとはという、ドン引きに近い感情があるみたいです。そんな中で自分だけゲラゲラ笑ってしまうと、何だか下品感度自慢みたいに見えてしまうというものがあるようです。私が観た中では、「クリスティーヌの好きなこと」というキャメロン・ディアズ主演の全編下ネタだらけのコメディが、ものすごく面白くて大笑いしていたら、他の人はしんと静まり返っていて、何だか「お呼びじゃない」状態になってしまったことがあります。

あまり静かな中で、自分だけ大笑いしてるのは、一瞬の優越感と気まずさを同時に味わえるので、それはそれでおいしいとも言えるのですが、やはり、場内がドっと沸いて、自分のその笑いに乗れるというのがベストです。そういう意味では、「クレヨンしんちゃん」なんてのは、いい映画になるのですが、子供の中に入ってオヤジがぽつんと映画観てるのはどーなの?という別の見栄が発生しますけど。大人向けの洋画で、場内大爆笑というのはなかなかないのが現状のような気がしてます。新作の「ピンクパンサー」なんてかなり面白かったのですが、場内全体がドっと笑うというのはなかったですもの。人それぞれに泣けるツボが違うように、笑いのツボも違うというのは事実だと思いますけど、それ以上に洋画を観るお客さんって笑いを手控える方が多いように見受けられます。特に下ネタはダメみたい。だから、下ネタで大笑いしましょうなんて言うつもりはないのですが、映画の楽しみ方として、笑えるシーンで引いちゃうのは勿体ないなあとも思ってしまいます。とはいえ、ディズニーアニメの中でクレヨンしんちゃんの「ぞーうさん、ぞーうさん」のギャグをやられたら、うーん、やっぱり引いちゃうかなあ。

「パレスチナ1948 NAKBA」は今も続いている歴史を知ることができます

今回は東京での公開を終えている記録映画「パレスチナ1948 NAKBA」をシネマベティで観てきました。これはビデオによるもので、プロジェクターによる上映でした。

広河隆一は1967年、社会主義が実践されているというイスラエルの農業共同体キブツにやってきます。そこで農作業に従事するうち、自分の住んでいる近くに瓦礫とサボテンの廃墟を発見します。最初は何かわからなかったのですが、後になって、そこにはパレスチナ人の村ダリヤトルーハがあり、そこの住人はイスラエル軍によって、立ち退かされ、その後破壊されたことを知ります。これをきっかけに広河は、中東にとどまり、フォトジャーナリストとしてパレスチナ難民を追い続けることになります。パレスチナ難民が生まれたのは1948年のイスラエルによる「ナクバ(アラビア語で大惨事の意)」に端を発しています。それにより、200以上のパレスチナ人の村が破壊され、また、それから60年もの間、イスラエル軍によるパレスチナ自治区への攻撃、虐殺が続いています。当初はあまりメディアの前面にでることのなかったナクバですが、それでも多くの証言が得られ、またユダヤ人の中にもそれを調査し、パレスチナ侵攻は間違いだと唱える人も出てきています。ホロコーストを生き残ったユダヤ人が、パレスチナ人を追いやった土地に新たなコミュニティを築いているという皮肉な現実に広河はカメラを向け続けるのです。

広河隆一監督の記録したフィルム、ビデオ、写真をもとに構成されたパレスチナの記録映画です。膨大な量の取材の中からその一部を抜粋しているとのことですが、日本人ジャーナリストがここまで他国の虐げられた人々を追い続けたというのは稀な例ではないでしょうか。彼はいわゆる社会主義シンパとして、イスラエルのキブツへやってきたのですが、そこで、パレスチナ人の受けた仕打ちを知り、パレスチナ侵攻を誤りだというユダヤ人グループ「マツペン」と知り合い、イスラエル軍による攻撃、虐殺が続いているという事実を知ることになります。そして、多くのパレスチナ人が難民となり、パレスチナ自治区以外でもレバノン、シリア、ヨルダンに多くの難民キャンプが存在します。

多くのユダヤ人は、約束の地が、パレスチナ人を追い出すことによって得られたことに深い認識を持っていないように見えます。国連パレスチナ分割案では、パレスチナの55%がイスラエルの土地となります。その時、住民の過半数がパレスチナ人になるというところから、ユダヤ人国家の優位性を保つために、パレスチナ人をイスラエルから追い出そうという政策に結びついたようなのです。その始まりは、エルサレムの近くにあるデイルヤーシーン村を、イスラエル正規軍とユダヤ右派武装組織が攻撃占領し、90人以上のパレスチナ人が虐殺された事件でした。虐殺はユダヤ右派武装組織によって行われたとされていますが、地方では、イスラエル正規軍も虐殺を行っていたようです。広河による最初に報道フィルムは1982年のレバノンのシャティーラ難民キャンプでのパレスチナ人虐殺の後を撮ったものでした。爆撃による死者とは思えない遺体を数多く発見します。これはイスラエル軍に包囲された難民キャンプで、イスラエルに協力するレバノン右派民兵による虐殺でした。60年前から今日に至るまで、イスラエルによるパレスチナ攻撃はずっと続いているのです。

ユダヤ人の多くは、パレスチナ人を自分たちの約束の地から追い払うことに肯定的ですが、一方で、少数派ながらもパレスチナ侵攻を誤りだと言い切るユダヤ人もいます。映画はそんな彼らの姿にもカメラを向けて、多くの証言をとっています。とは言え、それが多数派ならば、パレスチナ難民は生まれなかったわけで、彼らはユダヤ人の中のマイノリティになってしまっているようです。

この映画は、多くのパレスチナ人とユダヤ人のインタビューで成り立っています。広河監督の立場は、虐げられてきたパレスチナ人寄りのものですが、元イスラエル正規軍や、元ユダヤ右派武装組織の人間にもインタビューをして、事実に迫ろうという姿勢が感じられ、ナクバ以降のパレスチナ人の歴史を映像に纏め上げようという意図が感じられるものでした。そして、そこから見えてくるものは、イスラエルの弾圧に対してのパレスチナ人の反抗、さらにその反抗を押さえるためのさらなる弾圧という繰り返しでした。石や棒、小銃によるパレスチナ人の反抗に、イスラエル軍は戦車や飛行機でやってくるのですから、力の上での優劣は明らかのように見えます。

また、この映画の中でシャティーラ難民キャンプのパレスチナの少女、メルバットとキファーの姉妹を何年もかけて追っていきます。姉のキファーはイスラエルとの戦いに身を投じ、捕虜となって6年間の収容所生活を送った後に釈放され、家族のもとに帰ってきます。彼女は収容所であった虐待について淡々と語りますが、その後、メルバットは看護師となり、キファは母親になりベイルートで暮らしています。彼女たちの笑顔は、虐殺を逃れ、収容所生活を送ったという過去を感じさせないものでした。自分が同じ状況に置かれたら、日々をどんな顔をして過ごすのだろうと思うと、彼女たちの強さ(例え見せかけであっても)に敬服してしまいます。

この映画は広河監督という日本人の目を通しているせいか、静かに淡々と進んでいきます。報道カメラマンという第三者の顔がそうさせているのかもしれませんが、彼自身が「ナクバ」をひどいことだと語っているのに、イスラエルへの非難の言葉がほとんどないのが印象的でした。そんな中でラスト近くで、アフマドという老人の言葉が耳に残りました。「年寄も若者も、アラブ人もユダヤ人もずっと殺しあっている。1948年からずっと続いてる。こんなひどいことを始めたのは一体誰だ。」

なかなか日本人には知る機会のないパレスチナとイスラエルの歴史の一部を垣間見ることができました。知ったから何ができるわけでもないのですが、知ることは知らないことよりはいい、という意味で、この映画はオススメです。

「心理学者 原口鶴子の青春」はもっと対象に近づいてくれたらなあって感じで

今回は東京では公開が終わっている記録映画「原口鶴子の青春」をシネマベティで観てきました。泉悦子監督の挨拶が上映前にありました。映画の日ということもあってか、お客さんはかなり入っていました。

白井鶴子は裕福な家の生まれで日本女子大学校を卒業し、1907年、心理学の勉強のためにアメリカのコロンビア大学に留学します。まだ、渡米する日本人が珍しい時代に、女性が大学で心理学を学び、博士号まで取得してしまうのです。そして、コロンビア大学と同時に原口竹次郎と結婚し、日本に帰ってからは、講演と執筆に忙しい日々を送るのですが、若い彼女を病魔が襲います。結核が腸にまで転移した結果、彼女は療養先の伊東で、29年の短い生涯を閉じるのでした。

日本人初の心理学の博士号を取得した女性がいました。時は100年前、長野県富岡市の裕福な家に生まれました。当時の富岡というと、富岡製糸場ができたころで、外国からの技術者が招かれていて、いわゆる国際都市としての側面も持っていたようです。鶴子は女工哀史とは無縁のいいところのお嬢さんだったようで、幼いころから利発な女性で、日本女子大学校まで進みます。その大学校でも優秀な成績をおさめて、海外留学まで行ってしまうのですから、相当な才女です。大学校で英文学部を卒業し、在学中の外国人講師との出会いもあって、彼女は、心理学を学ぶために、横浜の大埠頭から、ニューヨークのコロンビア大学へと旅立ったのでした。ニューヨークには、100年前の建物が内装こそ変えても昔の佇まいを残しているところが多くて、彼女にアメリカでの暮らしぶりを偲ぶことができます。

また、鶴子は自分の留学時代を「楽しき思い出」という本にまとめて自費出版していまして、当時の暮らしぶりはその本からも彼女のはつらつとした留学生活をうかがい知ることができます。最初は大学の寮に入り、その後、お金持ちの家での寄宿生活、それらをまとめて彼女は楽しき思い出として書き残しているのです。また、彼女と交流を持ったオペラ歌手の家まで映画は映像にとらえています。

そして、26歳で帰国してからは、本の執筆、翻訳、論文の作成、また来日外国人の通訳など忙しい日々を送ります。彼女の行った心理学実験が、アメリカの心理学のバイブルとも言える本で引用されています。まだまだこれからいくらでもやりたいことがあったであろう時に、彼女は結核に侵され、志半ばにして29年の生涯を閉じたのでした。

と、まあ、ここまで彼女の足跡をたどったのですが、残念ながら、この映画から感じられたのは、原口鶴子の人となりがなかなか見えてこないもどかしさでした。確かに公人ではない女性の生涯をたどるだけでも大変なことだったのでしょうが、映画の作者の視線は、100年前の日本で、アメリカ留学して心理学の博士号を取った女性がいたというレベルに留まってしまい、彼女が何を想い、何を考えたのかというところまで肉迫できていないのです。結婚した相手はいわゆる現地調達でして、当時留学中だった原口竹次郎とどういう形で結婚したのか、当時の女性事情を知る上で気になるのですが、そういう夫婦の話はまるで登場しません。また、アメリカで学ぶことで日本に対してどういう思いを抱いたのだろうか、心理学についての彼女は日本に何を伝えようとしたのか、そういう生の原口鶴子の声がもう少し聞けたなら、すばらしい記録映画になったと思うのですが、確かに資料や記録が乏しいから難しいとは思うのですが、彼女の本、あるいは雑誌への掲載記事、彼女への弔辞などから、もう少し彼女に迫ることはできなかったのかしら。

映画としては、彼女が生きた環境を丁寧に追い、最後は彼女の長女(と言っても、もうおばあさんですが)が登場するなど、鶴子の周囲をいろいろと紹介してくれるのですが、その分、鶴子自身が空洞化しているようです。記録映画を何本か観てきたなかでは、ちょっと残念な映画かなという気がしました。作り手の好奇心がこちらに伝わってくれば、また違った感想を持てるのでしょうけど。

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einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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