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「オオカミの護符」は今につながっている信仰の一端を語りかけてきます

今回は、横浜シネマ・ベティでドキュメンタリー「オオカミの護符」を観て来ました。地味な記録映画なのですが、それでも何人かお客さんが入っているってのは、すごいなとちょっと感心。

川崎市宮前区土橋地区、今は新興住宅街になっていますが、昭和40年ごろはまだ農家が50戸ほどの集落だったそうです。かつては筍の産地で有名だったそうですが今も竹やぶがその名残をとどめています。その農家だった家の蔵の入り口には、今もオオカミが描かれたお札が貼られています。このお札は、土橋地区の講の代表者が御岳山に参ってもらってくるもので、今も、土橋御岳講の営みは続いているのでした。「御嶽講」とは、豊作や一年の無事を祈って、青梅の御嶽山にある武蔵御嶽神社まで参拝し、御札をもらってくる一連の山岳信仰の参拝行事のことです。御岳山の麓には、講で訪れる人々(講中)を迎える宿があり、そこには参拝行事をつかさどる神主もいます。御岳講以外にも、多摩、秩父地区には、講を行う山があり、江戸時代から、多くの農家が様々な形で参拝を行っていました。そこには、里に住む農家と山に住む人々との信仰を軸にした共同体のようなものがあり、今もそれは続いているのでした。

この映画のプロデューサーの実家は土橋地区にあり、その家に毎年新しいお札が貼られていて、それには「お狗さま」と呼ばれるオオカミの絵が描かれていることに興味を惹かれて、そのルーツをたどろうとしたところから映画は始まります。土橋地区とは、今でこそ新興住宅街ですが、昭和40年ころまでは、川を中心に水田、畑、雑木林がつらなる、お百姓の集落だったそうです。そこには、江戸時代から続く、土橋御岳講という講があり、その集まりでは、お狗さまを祀り、その年の御岳参りに行く代表を選出していました。講は信仰のためだけでなく、相互扶助の集まりとして古くからあるものです。土橋地区には4つの講があり、その代表者が武蔵御岳山にお参りに行くことになります。関東平野から山岳地帯に入るところにいくつもの神社があり、そこには多くの参拝者が集まってくるのだそうです。山の麓近くには宿坊があり、それは講ごとに決まっていて、その宿坊では、参拝者である講中に宿と食事を提供し、またそこの主人が神主の役も引き受けて参拝の段取りをしています。これが、過去の遺物ではなく、現在も続いているというのですから驚きです。その昔は関東平野のお百姓さんがそれぞれの講とお参りする山を持っていたそうですから、今よりはずっとにぎわっていたでしょうが、それにしても、お札をもらうために、きちんとしたお参りの段取りがあるというのは、新鮮に感じられました。それも、住宅街にしか見えない土橋地区にそういう風習がまだ生きているというのはすごいことだと思います。

御岳参りには、祝詞をあげてもらうほかに、銭をまいたり、お神楽を奉納したりなどして、その最後に厄除けのお札をもらうことになります。また、それ以外でも、山の人にお米などを持ってきて、山の人は講中にそれを振舞ったり、自分たちの糧としていたというエピソードもあり、いわゆる里の人と山の人の交流の場として、講が機能していたという面も見えてきます。さらに鹿の肩甲骨を焼いてその割れ目から作物の吉凶を占う太占(ふとまに)が今も行われていて、その結果の作物ごとの点数表から、お百姓さんはその年の気候を読んでいるのだそうです。

講があるのは、御岳山だけでなく、秩父の山々にも参拝者を持つ山があります。ある神社では、村落の人が自ら手摺りでお札を作っているところもあり、そこでは、村落の人々が山の上のほこらをお参りするという風習があります。また、その昔、神社の所有地は年貢の例外になっていて、その地区の農家は皆作物の一部を神社に納めていたと言います。それらの山々でも、オオカミのお札を「お狗さま」として出しています。その昔、オオカミは、畑を荒らす鹿や猪を退治してくれるところから、山の神として祀られるようになったのだそうです。その昔、日本のお百姓がオオカミと共存していたというのは、意外でしたが、そこに山岳信仰が結びついているというのは、知っておくべき歴史の一コマだと思います。

この映画は今も伝えられてきた講の文化を映像に書き留めておこうという意図が感じられます。監督の由井英さんは、この文化にかかわる様々な人々の顔を画面に描きとめようとしていると思いました。また、川崎市の新興住宅街から話を始めるあたり、普通あまり目にしない講の文化がまだ身近に存在していることに気づかされます。映画の冒頭で、講とは関係ないのですが、土橋地区に残る竹林で、むかしながらの筍取りをしているおじいさんが紹介されます。筍というのは、単に春に芽を出すのを掘り出すだけではなく、夏に縦に埋まった根を一度掘り出して、それをさらに横にして掘って埋め、その上に落ち葉をかぶせるという面倒な手順を踏んでいるのです。この手順で売りものの筍が作られているのではないそうですが、筍の産地だったころを偲ぶ意味でやっているのだそうです。この筍栽培の方法が誰かに伝わればいいと思っているそうですが、だんだん体が利かなくなってきているので、この代で途絶えてしまいそうです。同じように、講の文化もなくなってしまうのかなと思わせて、この映画では、そうはならない、ならないで欲しいという想いを語りかけてきます。

映画の中で、山の農家のおじさんが、「山とは?」と聞かれて、どこと特定するのではなく、山全体がそこにあるものをひっくるめて、お山であると答えていました。当時のお百姓さんには、豊作祈願、家内安全をもたらす神様がいて、その神様は「お山」におり、お山の人々は、里の人がお参りに来るときに色々と世話をしながら、里と山の文化をつないできたのだと思うと、この映画で描かれた以上に色々なことを知りたくなってきます。そういう意味で、好奇心をそそられるという点でも、この映画は一見の価値がありますし、そこに昔の人の想いを垣間見るいい機会と言えるでしょう。

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「アウェイ・フロム・ハー 君を想う」は夫の心情がしみじみ伝わってきます

最近、映画の登場人物や展開に共感できないことが多くて、色々と書いてしまうのですが、これって、「モンスター映画観客」かなあ。という今回は、新作の「アウェイ・フロム・ハー 君を想う」を静岡シネギャラリー1で観て来ました。

フィオーナ(ジュリー・クリスティ)とグラント(ゴードン・ビンセント)は長い間連れ添った夫婦で、今も仲の良さを保っていました。そんなフィオーナにアルツハイマー型認知症の症状が現れ始めます。外出したフィオーナが行方不明になったことを機に、フィオーナを病院に入院させることになります。30日は面会不可という規則があって、入院後30日たってからフィオーナを見舞いに行くグラント。しかし、彼女は夫を夫として認識できず、同じ患者の中のオーブリーという男性と常に一緒で、何とかして彼のためになろうとしていました。グラントにしてみればそんな妻の姿はショックでして、足繁く病院へ通って自分の存在を伝えようとするのですが、彼女はそんな夫の姿はまるで見えていないよう。これまでの二人で築いてきた時間はなんだったのか、悲しみと嫉妬の念にとらわれるグラント。ところがそのオーブリーが退院してしまい、フィオーナは目に見えて元気をなくしていきます。そこでグラントは、オーブリーの妻マリアン(オリンピア・デュカキス)を訪ね、オーブリーを病院へ戻すように頼み込むのですが......。

若手俳優としても有名なサラ・ポーリーが、アリス・マンローの小説を原作として、脚色、監督を兼任しました。色々なジャンルの映画に出演するポーリーですが、この作品では、老いた夫婦の有りようを静かにそして若干シニカルに描いています。

フィオーナとグラントは仲の良い夫婦を何十年もやってきたのですが、妻のフィオーナが認知症にかかってしまいます。最初のうちは、物忘れや家の中での奇行くらいで済んでいたのですが、家を出て帰ってこれなくなったのを契機に、入院することになります。夫グラントにしてみれば、心配で毎日でも見舞いに行きたいところですが、病院のルールで入院後30日たってから、ようやくフィオーナと再会してみれば、彼女はもう夫の顔を忘れて、同じ患者のオーブリーを献身的に介護しているのでした。何度も病院へ行き、彼女に面会するのですが、彼女はグラントをどこかで会った人くらいにしか思っておらず、グラントが彼女とオーブリーを引き離そうとすると、非難の目を向けてきます。グラントにしてみればこれはあまりに切なく、いい年して嫉妬心ムラムラということになります。つい一月前までは、愛し合う夫婦であった筈が、なぜ、こんなことになってしまったのか。医師はよくある友情の一種だと言いますが、そもそもフィオーナが自分を夫と認識できないということが、彼にとっては耐えられないことでした。オーブリーが退院して、見る見るうちに元気をなくしていくフィオーナを見て、オーブリーの妻マリアンにオードリーの再入院を依頼するのですが、彼女も生活が苦しく、たった一つの財産である家を売り払わないと再入院はできないと言います。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



一方、フィオーナの病状はますます悪くなり、1階から2階の病室へと移されます。それは、直る見込みのない患者であることを意味していました。こうなると無理に自分に縛り付けるより、オーブリーと居させてやるほうが彼女のためだと思い始めます。また、グラントとマリアンも同じ立場の者同士の親しさから、やがて男女の関係になっていたのです。グラントは、フィオーナを自分に振り向かせることをあきらめ、マリアンとの新しい生活の方へ心が動いていきます。確かに、この状況下では、そう考えるグラントを誰も責められないでしょう。

そして、オードリーを再入院させ、フィオーナの病室まで連れていくのですが、そこでフィオーナはグラントに驚くべき言葉を放ちます。「もう、いいのよ、私の事は。もう、いいの。」これが、切れていた線がたまたま繋がっただけなのか。それとも、ずっと彼女が芝居をしてきたのか。映画はそのシーンで終わってしまうので、どちらなのかは判然としません。ただ、グラントにとっては、これは悲喜こもごもというか、なぜ今言うのかというセリフであることは間違いありません。それまで、グラントは、心の奥でずっとフィオーナに復讐されているのではないかという疑念を持っていました。このドタンバになってその疑念が眼前に突きつけられたことになります。グラントが病室の外で何をしているのか知るよしもないのに、このタイミングで、この言葉を突きつけてくるとは。どこかに、ものすごく意地の悪い神様がいるようです。

この映画で重要なのは、フィオーナの経過に連れて、グラントの心が少しずつ変わっていくところです。最初は全て知ってる仲良し夫婦だったのから、認知症にかかり出したフィオーナをやさしく見守る夫になり、ついには、入院させる決断をする愛情あふれた夫になり、自分を忘れた妻に怒りと嫉妬の感情を抱き、もはや回復の見込みのない妻の幸せを考える達観した夫というふうに、その心の変わり様に大変共感できるのがこの映画の見事なところです。無骨な表情でグラントを演じたゴードン・ビンセントはあまり顔色を変えずに心の変遷を見事に演じきっています。一方の、フィオーナを演じたジュリー・クリスティは老いと可愛さの両方を持った女性をややミステリアスに演じています。ラストで、グラントが呆然とするとき、観客も同じく呆然とさせられるのは、それまでの彼女の演技の積み重ねが見事だったからでしょう。

映画の前半で時間が前後する構成になっているのが、話をわかりにくくしているところがあり、このあたりに長編映画デビューのサラ・ポーリーの才気走ったところも見られたのですが、後半でドラマが収束しているところで、静かでそしてテンションの高いドラマを見せてくれました。カナダの自然をバックに美しい風景を切り取ったリュック・モンペリエの撮影も美しくドラマを支えています。

「近距離恋愛」ってゴールイン、イコール、ハッピーエンドではないような

今回も久しぶりの映画館で「近距離恋愛」を日比谷みゆき座で観てきました。

プレイボーイのトム(パトリック・デンプシー)が学生時代に知りあったハンナ(ミシェル・モナハン)とは恋愛関係ではないけど、お互いに何でも正直に言える親友です。美術館の仕事でスコットランドへ6週間の出張に出かけたハンナ、トムは笑顔で送り出したものの、彼女のいない時間の寂しいこと。ああ、自分は彼女を愛していたんだと気づいたトムは、ハンナが帰ってきたら正式に交際を申し込もうと決心します。ところが、帰ってきた彼女は一人じゃなくて、婚約者と一緒だったのです。向こうで運命的な出会いがあって、その後すっかり意気投合しちゃったのだそうな。そして、親友のトムに筆頭花嫁付添い人をお願いしますって、すっかり出鼻をくじかれたトムはその大役を引き受けてしまいます。ハンナの婚約者コリン(ケヴィン・マクギット)は公爵家の跡取りでどこを切っても悪いところが出てこないある意味パーフェクト、とても、トムが太刀打ちできる相手ではありません。悶々とするトムはドタンバで花嫁付添い人をパスして結婚式の当日にスコットランドを後にしようとするのですが、そこで、やっちゃうのですよ、やめときゃいいのに。

「魔法にかけられて」でちょっとかっこいい役を演じていたパトリック・デンプシー主演のラブコメディです。私はこの類のラブコメは好きなんですが、独身のオヤジという立場からついシニカルなものの見方をしてしまいます。この映画も結末が予想できるだけに、そっちに行っていいの?という見解を持つに至ったのでした。先日観た「幸せになるためのドレス」と同様、なんかみんな勝手だよなあって気がして、これってハッピーエンドなのって気がしてしまって。

まず、最初の出会いが夜這いの人違いというところから始まるのですが、その後、どういう成り行きか二人は、いい友人関係を築いてしまうのです。次々と女性と寝まくるプレイボーイとうまく友人としての距離をとっているハンナは、かなりの変人みたいです。まあ、お互いの恋愛関係に立ち入らない男女関係は否定できないです。私もそういう女友達はいますから、その関係を維持しているうちは何の問題も発生しないことも納得できるのですが、男の方から、その関係からさらに近づこうとするのは、一種のルール違反です。特に彼女にラブラブの恋人ができたタイミングで、その気になっちゃうトムは正直ダメなやな奴ということもできましょう。ドタンバの横恋慕なんて、いいオトナがやるこっちゃないと思うのであります。



この先は結末に触れますのでご注意ください。




クライマックスは結婚の誓いのタイミングでトムが教会に飛び込んできます。そして、ハンナに自分の気持ちを告白し、なんとハンナはトムの手をとってしまうのです。何にも悪いことをしてない花婿のコリンは唖然ですが、それでも彼女を寛大にも許すのでした。と、まあ一応のハッピーエンドということになるのですが、この展開でOKというには、トムもハンナも勝手過ぎますし、コリンがお気の毒です。
ハンナの相手は運命的な出会いをしたある意味完璧なカップルです。確かにアメリカとスコットランドの文化やそれぞれの生い立ちにギャップがあって当然ですが、そこに何となく不満げなハンナ。一方でトムは彼女の気が変わるように画策もするのですが、ことごとく失敗。これで、トムが結婚式に顔を出さないまま引き下がろうとするのは、極めて自然な流れのように見えます。そこを無理やり花嫁をさらっていくなんてことをするのは、正直、えげつないことするなあって思いますもの。

それにこういう結ばれ方をして幸せになれるのかということもあります。友人同士から恋人関係になるのをスキップしてすぐに結婚ということになるのでは、お互いのイヤなところを許容する期間もないでしょうから、つまらないことで破綻してしまうような気がします。確かにラブコメとしては、これでハッピーエンドなのでしょうが、ちょっとマジメに考えてみれば、この二人が結婚してうまくいくかどうかは非常に疑問なのですよ。お互いに男と女として直面しないで10年間という時間を積み上げたのは、結局友人としての関係だと思うわけでして、それを急に男と女の関係になろうとして、そう簡単にうまくいくとは思えません。

監督のポール・ウェイランドは手堅い演出で過不足ないドラマを作っているのですが、そのまっとうな演出が、物語の展開にツッコミ入れやすくしてしまいました。ライトな映画には珍しいトニー・ピアース・ロバーツの撮影は落ち着きのある絵作りをしていまして、華はないけど見応え十分の映像を作っています。

「さよなら。いつかわかること」は戦争の色々な側面が見えてきます

このところあまり映画を観に行けてなかったのですが、今回は都心での封切りを終えている「さよなら、いつかわかること」を横浜シネマベティで観てきました。観客2人でしたけど、こういう良質な映画が上映されるのがうれしい映画館。

スタンリー(ジョン・キューザック)はホームストアで働いていて、奥さんのグレースは米軍兵士としてイラク戦争に行っていました。そんなある日、グレースの訃報が届きます。どうしていいのかわからないスタンリー、学校から帰ってきた娘二人、12歳のハイディ(シェラン・オキーフ)と8歳のドーン(グレイシー・ベドジナルク)を車に乗せてあてもなく走り出します。ドーンの発案でフロリダの遊園地に行こうということになりますが、日帰りできる場所ではありません。学校を休んで、思いつきのような旅行を何だかおかしいと思うハイディに、スタンリーは無理に元気に見せてはみるのですが、果たして、スタンリーは子供たちに真実を伝えることができるのでしょうか。

イラン戦争を題材に描いたアメリカ映画です。脚本・監督は新鋭のジェームズ・C・ストラウスが担当し、サンダンス映画祭で観客賞と脚本賞を受賞しました。イラク戦争が題材ですが、この映画はあくまでスタンリーの家庭と親子3人の旅行だけでドラマが構成されており、直接の戦場の描写は一切ありません。ですから、母親を失ったある家族の物語ということができます。しかし、そこにイラク戦争は大きく影を落としています。イラク戦争が正しい戦争なのかどうかという論議が高まっている中、アメリカにいる兵士の家族は、その戦争についての正しさを信じなければやっていけないところがあります。スタンリーの家では、イラク戦争のニュースを観るのは禁じられているようで、ハイディは父親にを隠れてテレビを観ていて怒られてしまいます。家族はその戦争の正しさを疑えない、疑えばその家族は崩壊してしまうという危うさの中で暮らしているというのが画面から伝わってきます。第二次大戦の正義を疑う人は当時はいなかったでしょうが、ベトナム戦争以降、アメリカの正義が揺らいでくると、国のために働いている兵士の立場も微妙なものになってきているようです。その意味では、この映画は「ランボー」と同じテーマを内在していると言えましょう。

スタンリーは、娘二人を連れて、フロリダに車を走らせます。途中で寄るのが、母親の家ですが、そこには無職の弟ジョン(アレッサンドロ・ニヴォラ)が一人留守番状態、彼は大学受験をしようとしてるらしいのですが、32歳で定職もないプータロー状態。スタンリーとはあまり仲がよくないみたいです。スタンリーは自分から志願して入隊したものの近視のために除隊になったという過去がありました。その入隊時に奥さんのグレースと知り合ったのです。一方のジョンはどちらかというとリベラルで今の戦争にも反対の立場を取っているようです。二人とも、お互いの違いを認識しつつも譲れない一線を持っているようで、会話もどことなくよそよそしいのです。これも戦争というものの価値観が多様化したことによって、家族の絆が薄まったということもできましょうし、正義を信じられなくなって、後、信じられるのは神様くらいになってしまったアメリカの姿ということもできます。

スタンリーは旅の途中で自分の家に電話をかけます。そこには奥さんのグレースの声の留守電メッセージが入っているのです。奥さんのメッセージの声に話しかけるスタンリーの姿は痛々しくて弱々しくて、彼のダメージの大きさがわかります。戦場で5人の人が死ねば、5つの家族に悲劇が訪れる、そんな当たり前のことをストラウスの演出は淡々と見せていきます。

父親の突然の行動に不審を抱くハイディは、学校への電話や父親とのやりとりから、父親がウソをついている、何かを隠していることを感じ取ります。そして、自宅に電話して、留守電に残された父親のメッセージを聞き、事態を薄々と察し始めるのですが、それでも、面と向かって父親を問いただすことはしません。それは、聞きたくないことを知ることへの恐れなのかもしれません。この映画は、意外なほどハイディにドラマを割いていて、演じるシェラン・オキーフも熱演しています。こみ上げる言葉を飲み込む彼女の痛々しいまでの想いは観客の心の琴線に触れるものがありました。

そして、遊園地でまる一日遊んだあと、親子3人は何かに追われるがごとく帰路につきます。家に帰り着くまでにしなければならないこと、それは、スタンリーが二人の娘に言葉で真実を伝えることでした。このシーンは肝心なところに音楽をかぶせるという演出をしているのですが、それまでの丁寧なエピソードの積み重ねからすれば、情緒に流されずに一言一句をすべて伝えて欲しいように思いました。確かに愁嘆場ではあるのですが、それも事実の重みとして描くことができるように思えたのですが。

映画はそこからはエピローグとなり、グレースの葬儀のシーンで映画は静かに終わります。家族の事件には一区切りがつくのですが、この家族はそれを乗り越えていくであろうという見せ方をしています。戦争が起これば、スタンリーの家族のようなことは、イラクにもアメリカにも起こりえます。実際に自分の住んでいる土地が戦場にされている人からすれば、これはまだ甘い話だとさえ言われるかもしれません。でも、今の戦争が家庭においてどういうことをもたらすかをこの映画は丁寧に汲み取っていて、その中で、普通の市民は普通に対応するしかないということをきっちりと描いています。

もう一つ、この家族は悲しみこそあれ、誰かへの憎しみを示すことはしていません。奥さんが戦死したのだから、敵国に対する憎しみが出てきてもよさそうなんですが、スタンリーはそういう素振りは見せません。この悲しみに一区切りがつくと、イラクに対する恨みが湧き上がってくるのでしょうか。それとも、怒りの持って行きどころを失うのでしょうか。スタンリーの弟ジョンはこの戦争を間違いと思っていますから、友人が戦死すれば、その怒りの矛先は自国であるアメリカ政府に向けることもできましょうが、スタンリーにはそれができません。でも、スタンリーがこれで過激な反イラクになってしまうとイヤだなあって思うところもあって、なかなか、この映画は一筋縄ではいきません。自分がアメリカ国民だったら、こんな客観的ではいられないのでしょうね、きっと。

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einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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