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「ドラゴン・キングダム」にはキャスト、スタッフの頑張りが感じられて好き

今回はやや遅ればせながらも、新作の「ドラゴン・キングダム」を静岡ミラノ3で観て来ました。ここは、劇場後ろの扉を開けるとスクリーンに大々的に光が入り込むという構造上の問題を抱えているのですが、正直目障りなので、あの扉は普段は使用不可とかにできないかしら。

時は現代、香港のクンフーもの大好きのマイケル(ジェイソン・トリピカティス)はチャイナタウンの老人の店でDVDを物色していると、奥に如意棒があるのを見つけます。不良グループはマイケルを脅して強盗の手引きをさせるのですが、そのリーダーが老人を銃で撃ってしまいます。老人はマイケルに如意棒を渡し、持ち主に返すようにと言い残し....。いつの間にかマイケルは昔の中国にいました。役人に追いかけられた彼をルー・ヤン(ジャッキー・チェン)という旅の学者が助けます。ルー・ヤンの話によると、その如意棒は孫悟空(ジェット・リー)のもので、ジェイド将軍の策略で奪われてしまい、孫悟空は石像にされて500年もたつというのです。その間、将軍は人民に圧政をしいてきました。将軍に両親を殺され、復讐に燃えるスパロウ(リュウ・イーフェイ)、そして如意棒を導く者を探していたというサイレント・モンク(ジェット・リー)が一行に加わり、4人はジェイド将軍のいる五行山へと向かいます。将軍は白髪魔女(リー・ビンビン)を送り込み、一行を待ち受けていました。

アメリカ映画で基本は英語、ジャッキー・チェンとジェット・リーが主演、そして、監督は「ライオンキング」「スチュアート・リトル」のロブ・ミンコフが担当し、SFXが駆使されたアクション映画ということで、期待度は中の上くらいでした。何しろ、ハリウッドの作る、チェンやリーの映画は彼らの華麗なアクションを十分に見せてくれるものはほとんどありませんし、監督はアクションものの実績はなく、CGがばりばりに使われるのでは生身アクションは期待できないでしょう。その程度の期待でスクリーンに臨んだのですが、これが期待を大きく裏切る面白さと迫力。ファンタジーとしても上出来ですし、力の入ったアクションシーンには観ていて思わず力が入ってしまいました。ここ数年のチェンやリーの映画の中で最高の出来栄えでした。アクション監督に「マトリックス」「キル・ビル」のユエン・ウーピンが参加していることも成功の一因でしょう。

お話としては、古代中国に紛れ込んでしまったアメリカ人の少年が、如意棒を孫悟空に返すという使命を負い、ヤン、モンクにカンフーの修行を受けて、自ら戦いの場に臨むというもので、ワイヤーワークを駆使したアクションシーンをたっぷりと盛り込んで、お話の説明に時間を割かず、見せ場だけをうまくつないでいくという構成で、さらに2大スター以外の悪役の将軍や若手3人にも、それぞれのキャラがきちんと引き立つような見せ場の組み方をしているのも点数高いです。

アクションシーンはまず、CGとワイヤーワークを使った花果山での孫悟空と将軍の兵の戦いでして、ファンタジックかつスピード感のある見せ場になっています。ただ、CGが前面に出過ぎるとアクションの凄さが減ってしまう予感もしたのです。その次の見せ場は、ヤンとモンクの初顔合わせです、ここでチェンとリーが初対決となるのですが、このシーンが最近のアクションものの中では格段にいいのですよ。1カットが長いし、さらに編集がうまいので、数カットを1アクションのように見せてしまうのです。またアップより一呼吸引いたカット割りでアクションの全体を押さえているのです。ですから、実際の人間の動きのすごさが観ている方に伝わってくるのです。また、アクションそのものを長めに見せてくれて、アクションだけでエモーショナルに盛り上げることに成功しています。

後半に向けて格闘シーンが何度も出てきますし、クライマックスは、五行山での大アクションとなります。ロブ・ミンコフの演出がアクションを非常に大事に撮っているので、そのアクションがドラマ以上の力を発揮するのが見事でした。やっぱり、本気でがんばってるのを、きちんと汲み取って撮影すると、それだけで心を打つものがあるのですよ。確かにバックはCGだけど、やってるアクションは本気だというのが伝わってくるので、娯楽映画としての満足度が高いです。チェンやリーのアクションだけでなく、マイケルやスパロウ、白髪魔女、ジェイド将軍の本気の体技が、多少の上手や下手を感じさせはするものの、善玉悪玉どっちものガンバリがある種の感動を呼びます。これは、「ハムナプトラ」や「インディ・ジョーンズ」からは感じ取れなかったもので、今年の娯楽アクションの中ではベストではないかしら。リアルな殺し合いとは違う、ファンタジーの世界で、これだけ丁寧に格闘シーンを積み上げていて、ドラマとうまくリンクさせてクライマックスを盛り上げるのですから、大したものです。

ジャッキー・チェンは老人と学者、ジェット・リーは僧と孫悟空と、各々二役ずつを演じているのですが、どちらも落差のでかいキャラを楽しそうに快演しています。ジェイソン・トリピティカスも物語の中でカンフー修行をするという設定ながら、クライマックスでは頑張って動き回っていたのが好印象でした。悪役のコリン・チョウは二大スターを敵に回して、悪の説得力を見せて頑張っていましたし、リー・ビンビンやリュウ・イーフェイら女性陣も本気度高いアクションを見せて魅力的でした。

ピーター・ボウのキャメラは、シネスコ画面で中国の美しい風景を切り取り、アクションシーンでは、アクションよりキャメラを早く動かさないで、全体をきっちりと捉えるのに成功しています。また、デビッド・バックリーがスケールの大きいシリアスなオーケストラ音楽をつけていまして、エモーショナルな盛り上がりを頑張ってサポートしています。また、視覚効果には、韓国と中国のSFXチームが中心になっていまして、アクションの背景となる宮殿などの描写や、妖術アクションのシーンなどで完成度の高い絵を作っています。

とにかく、隅から隅まで、頑張りが感じられる映画で、こういう映画に当たると本当にうれしくなります。ストーリーの外郭だけで、他愛ない話と決め付けないで一見をオススメします。

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「SEX AND THE CITY」のお話のまとめ方のうまさはお見事

今回は静岡有楽座で新作の「SEX AND THE CITY」を観て来ました。しかし、これが邦題だとはビックリ。全部横文字やん。やっぱり、カタカナで「セックス」とか書くのは恥ずかしかったのかしら。でも、シネコンでチケット買うときは「せっくすあんどざしてぃください」「せっくすあんどざしてぃですね」という会話を交わさなければならないので、配給会社の自分たちだけよければいいやという姿勢があきらかに見えるのであります。

マンハッタンのコラムニスト、キャリー(サラ・ジェシカ・パーカー)、弁護士の夫と養女と幸せに暮らすシャーロット(クリスティン・デイビス)、仕事と子育てに忙しい弁護士ミランダ(シンシア・ニクソン)、LAでイケメンのプロデューサー、サマンサ(キム・キャトラル)、これまでいろいろとありましたけど、今も仲良し4人組です。キャリーがこれまで付合いの長かったミスター・ビッグとようやくゴールインになり、Vougeの40の花嫁特集記事にまでなっちゃいます。キャリーを祝福する3人、そしてようやく結婚式当日までこぎつけたのですが、ビッグがマリッジブルーになっちゃってドタキャン。すぐに後悔したのですが、キャリーは逆上、結婚式はオジャンになってしまいます。一方、ミランダは忙しい日々のせいか夫スティーブとも疎遠になり、彼は一度だけ他の女性と浮気してしまいます。正直に告白したものの、そんなダンナが許せないミランダは別居に踏み切ってしまいます。ミランダは何だか欲求不満が続いていてイライラモヤモヤ状態。そんな3人を見て、自分の幸せ噛み締めてるシャーロット。そんなこんなの4人なんだけど、どこかつながっているのですわ。

テレビシリーズ「セックス・アンド・ザ・シティ」は1998年から2004年まで放映された人気ドラマだそうで、4人のヒロインの生き様をセックス部分もきっちり描いて評判になったとか。海外ドラマにはまるで疎い私は、その扇情的なタイトルは知っていたもののドラマは一本も観た事ありませんでした。今回の映画版はその後日談ということで、いわゆるアラウンド40となったヒロインたち(サマンサはアラウンド50ですけど)の今をコミカルに描いたもので、「北の国から特別編」みたいな位置づけになるようです。テレビシリーズの脚本、監督を手がけたマイケル・パトリック・キングが引き続いて映画版を担当し、主演の4人も続投して、正味、テレビシリーズの後日談となっています。

今回の物語の中心になっているのは、キャリーの結婚です。最後の独身女性キャリーが結婚すると記事にもなっちゃうくらいの大事件。冒頭で、新しい住まいを探していたキャりーとビッグがペントハウスを買おうということになって、じゃあ結婚する?してもいいよみたいな感じで結婚が決まってしまいます。あんまりロマンチックじゃないんですが、10年来の付合いだと、あっさりしちゃうのかな。有名人とは言え、Vouge誌で彼女の結婚を特集しちゃうのですから、40歳で結婚ってのはアメリカでもそれなりに珍しいってことみたいです。ところが、これが彼氏の方から、結婚していいのかどうか不安になっちゃうのですよ。これで3回目なんだから、どっちに転ぶにしろ当日ウジウジしなくてもいいと思うのですが、四十代ってそういうところで微妙に揺れるお年頃なのかしら。しかし、やられた方はたまりません。当人も親友も激怒のパターン。彼氏としては申し訳ないの波状攻撃をかけるのですが、さすがにキャリーもダメージでかくてリアクションしません。その後、女性陣4人で新婚旅行の予約をつかって傷心旅行に出かけるのですが、こういう時って友達っていいなあって思います。しかし、40になって、このフットワークの軽さはどの程度のリアリティなのかしら。日本だと家庭と仕事に縛られて、友人つきあいにそうは時間を融通できないよなあって思いますもの。それに、この4人ちょっと裕福なセレブっぽく見えるから、並のアラフォーとは違うのかもしれません。ともあれ、こういう関係は女性からすれば夢のような生き方なのではないかしら。単に、銀座で限定ランチを一緒にするだけじゃない、お互いに深く関わっていて、でも細く長く続く関係。

もう一方のエピソード、ミランダのダンナが浮気しちゃうのは、ちょっとダンナがかわいそうな感じでした。半年に一回のセックス、それも明日忙しいから早く済ませてねとカミさんに言われたら、たまらんよなあって、これ、日本の人妻の浮気の逆パターンではありませんか。(人妻の浮気パターンがセックスレスというのも、私が下司な雑誌の読みすぎなのかも)それで、たった一度の過ちをダンナの方から告白して謝ってるのに、「信頼を破った」って逆上します。ダンナはいわゆるいい人なんで、ホントに過ちという感じなのに、ミランダは相手の弱みに付け込んでいるようにも見えます。友人3人もダンナに同情的なんですが、ミランダは頑なです。そんな彼女に共感する女性もいるのかなと思う反面、それを「許したれよ」という作者のメッセージが伝わってくるのが面白いと思いました。



この先、映画の結末に触れますのでご注意ください。



で、この4人のヒロインがアラフォーを迎えて、乗り越える壁は、自分との和解だったようです。キャリーは、自分の中にあったビッグへの愛を再発見して、あらためて二人はささやかな結婚式を挙げます。ミランダは、カウンセリングを受けて、ダンナとのよりを戻します。シャーロットは初めて自分の子供を身ごもり、サマンサは長年自分に尽くしてくれた若い恋人に別れを告げます。それらは、皆、自分のアイデンティティの再確認であり、これからの人生への確かな一歩になるものでした。そして、4人の友情はさらに強まったように見えるのでした。

この映画、40過ぎを迎えた女性の選択としては、大変まとも、というか大きな冒険してません。成り行きの中に選択の落とし所があるという描き方をしていまして、ある意味、保守的ということもできましょう。でも、傷ついても癒して何度も最初からやり直しのできる二十代とは違う、知恵と諦観がこの映画の中にはあります。自分というものが、万能でもない、欠点のある存在だと気付けば、自分にも相手にもやさしくなれる。そんなやわらかい着地をするというところがアラフォー女性のスマートな生き方だと言いたいように見えました。特に、4人が映画の冒頭で抱えていた不安を、見事に乗り越えて、新たなる確信を得るというのは、出来過ぎかなあという気もするのですが、アラフォーの女性からすれば、共感できるものになっているのではないかと思いました。その一方で、そのラストで得られる彼女たちの確信は、男性にとってもうれしいものであるというのが、巧妙というか、みんなハッピーにまるく収めたうまさを感じました。

出演者では、サラ・ジェシカ・パーカーが結構リアルに年齢を感じさせるのは意外でした。また、個人的にはシンシア・ニクソンが魅力的なアラフォーになっていまして、キム・キャトラルには、「マネキン」や「スタートレックⅣ」の彼女がまだ若々しいのにびっくり&その役どころにしみじみでございました。

「ハムナプトラ3 呪われた皇帝の秘宝」は定番だけじゃ物足りないぞお

今回は静岡オリオン座で新作の「ハムナプトラ3 呪われた皇帝の秘宝」を観てきました。この映画と関係はないのですが、「20世紀少年」の予告編、最近の予告編でこれほどわけわかんなくて、お客を映画館へ呼ぶ気がないのも珍しいですね。ちっとも冒険してないし、どこが科学やねん、なーんかやる気なさそうな感じ。

リック(ブランダン・フレイザー)とエヴリン(マリア・ベロ)は、上海まで貴重なダイヤを運ぶお仕事で中国へやってきます。ところがそこにいたのが大学に行ってるはずの息子ルーク、古代の皇帝のミイラを発掘するという大仕事をしていたのです。そして、ミイラの所に行ってみれば、ヤン将軍(アンソニー・ウォン)が現れ、リックの持ってきたダイヤを奪ってしまいます。そして、ダイヤの中の水がミイラにかかると皇帝(ジェット・リー)のミイラが起き上がります。ヤン将軍は皇帝とその軍団を蘇らせようとしているのです。まだ不完全な状態のミイラですが、シャングリラの泉の水で再びを力を得ることができることから、皇帝たちはシャングリラの入り口へと向かいます。皇帝の墓を監視してきたリン(イザベラ・リョン)という少女の話を聞いて、リックたちも彼らより先回りして、シャングリラの入り口へと向かいます。ついに皇帝は完全に蘇って、自らの軍団をも甦らせます。ミイラの大軍勢を前に絶体絶命のリックたち。そこへ現れたリンの母ツイ・ユアン(ミシェル・ヨー)がすんごい妖術を使うんですよー。

「ハムナプトラ」シリーズの第3作です。前2作では、脚本・監督のアンディ・サマーズが笑いとアクションのつるべ打ちで退屈させる隙を与えない超特急エンタテイメントに仕上げていました。今回は「シャンハイ・ヌーン」のアルフレッド・ガフ&マイルズ・ミラーが脚本を書き、「ドラゴン・ハート」「トリプルX」のロブ・コーエンが監督を務めました。前作からの連投はブランダン・フレイザーと、義兄のジョナサン役のジョン・ハナのみで、エヴリン役のレイチェル・ワイズは「ヒストリー・オブ・バイオレンス」のマリア・ペロに変わっていまして、これはかなり痛いマイナスポイントでした。

今回はまず古代中国から話が始まりまして、皇帝が中国を制圧し、次には不老不死の力を得ようと妖術師ツイ・ユアンからその秘法を得ようとするのですが、皇帝の部下と愛し合うようになったツイ・ユアンは、逆に皇帝に呪いをかけて、彼とその軍団を兵馬俑に変えてしまいます。これが1946年に発掘されることから、いろいろと事件になっていくというお話。今回は、出だしから、リックとエヴリンは平和な暮らし、でもちょっと倦怠期かなって感じになっています。そして、ダイヤを預かって中国に渡れば、義兄ジョナサンの店があって、そこで親子対面ということになります。家族の部分はコミカルに作ろうとしている意図は見えるのですが、それがどうにも決まらない。「デイライト」というシリアスドラマでは、結構人間ドラマを盛り上げていたコーエン監督にしては、軽いタッチのドラマは苦手なのかもしれません。ツイ・ユアンとリンは不死の存在でかれこれ2000年も墓とシャングリラを守ってきたというドラマチックな設定もあるのですが、ここもサラリと流してしまったようです。

派手なアクションの見せ場としては、上海の街の中を兵馬俑が復活した馬車とリックの乗ったトラックが暴走するというチェイスシーン。007シリーズのアクション監督ヴィク・アームストロングが迫力ある見せ場を作り出しています。また、シャングリラの入り口のところでの銃撃戦から大雪崩にいたる戦闘シーンも手がかかっています。ここには、CGによる雪男(イエティ)が3体も登場し、リックに加勢するといった見せ場もあり、その後には、泉の水で完全復活した皇帝が3つ首龍に返信してアルプスを滑空するといったシーン、さらには、兵馬俑がやまのように動き出すシーンなど視覚効果の見せ場がつるべうちになっています。視覚効果はメインを、リズム&ヒューズとデジタルドメインが担当し、後をイリュージョンアーツ、CISハリウッドなどがサポートしています。

クライマックスは、皇帝に殺されて万里の長城の人柱にされてる連中を眠りから目覚めさせて、皇帝の軍団と闘わせるという趣向で、陶器の皇帝軍団とミイラの人柱軍団の一大合戦はSFXの大盤振る舞いとなります。クライマックスはリック親子と皇帝がタイマン張るというちょっとそれは無理があるんでないの?という展開になりながら、唯一皇帝に効き目があるという秘剣を使って何とか勝利することができます。

と、まあ、手間とお金のかかった見せ場が満載なんですが、今一つ盛り上げを欠いているという印象なのですよ。前作までが、ジェットコースターのようなスピード感でドラマが疾走し、これでもかというくらいに二転三転パワーで引っ張る演出が見事だったのですが、今回は、そのテンポが全体的にややゆるいというか、1カットが心持ち長いのが積み重なってるというか、お金がかかっているのはわかるのですが、ドキドキハラハラが不足という印象になってしまいました。多分、脚本の責任もあるのでしょうが、登場人物が行動する動機がよくわからなくて、特に悪役側が何をしたいのかが観客に伝わってこないので、じゃあリックがんばれって気分になれなかったというところでしょうか。この類の冒険ものということでは及第点なのかもしれませんが、「ハムナプトラ1,2」につながる作品としては、期待に応えてくれてないのですよ。

特に役者の使い方に華がないというか、せっかくのジェット・リーが悪役演技のしどころなかったですし、マリア・ベロはうまい女優さんなんですが、レイチェル・ワイズのインテリかわいいというキャラではないので、硬軟のメリハリがうまく映えませんでした。ルーク・フォード扮する主人公の息子もスリーショットが親子に見えないのが何と言うか、おほほほ。ケチつけまくるほどひどい映画じゃないんだけど、何てありさまかしら。

でも、映画見初めて、笑ったりドキドキしたりするところがないままエンドクレジットに行っちゃったというのも事実でして、定番を無難につなげましたって映画ですから、その程度の期待でゆるーく楽しむのが正解かもしれません。ちなみにリンを演じたイザベラ・リョンはちょいとツンデレ系のカワイコちゃんで次に期待でございます。

「ダーク・ナイト」の重厚サウンドは聴き応えあり


最近のアクション映画では、アクションシーンに画面をしのぐテンポの早いシンセサイザー主体の音楽をつけるのが流行りです。「ザ・ロック」あたりから、そういうオーケストラぶん回しの音楽が多くなってきたのですが、「バットマン・ビギンズ」に始まる新シリーズでは、全編に重厚なシンセサイザー&オーケストラ音楽を鳴らしています。この音楽を、「パイレーツ・オブ・カリビアン」「カンフー・パンダ」など映画音楽界の重鎮になってしまったハンス・ツィマーと、「アイ・アム・レジェンド」「フィクサー」など映画音楽界のベテラン職人ジェームズ・ニュートン・ハワードが共作という形で担当しました。映画のプログラムによると、ジョーカーをツィマー、トゥーフェイスをハワードが担当したとありましたが、サントラCDのクレジットでも、どの曲を誰が書いたかという記述はありません。録音場所や演奏者のメンツからして、双方それぞれに別に録音しているようなのですが、全体がダークな音で統一されているので、音楽として大変まとまったものになっています。ところどころに、ツィマーらしいヒロイックな音が入ったり、静かな部分でハワードらしい旋律が聞こえたりと、それぞれの作曲家の片鱗が聞こえたりもするのですが、映画のダークでヘビーな空気を見事に表現しています。シンセサイザーとオーケストラの高音部を取っ払って、低音部だけをドロドロと流して、そこにパーカッションでインパクトを与えています。しかし、ドラマチックな部分もきっちり盛り上げているのがさすが、両巨頭の筆なのでしょう。

何しろ、ヒーローとしてのバットマンのテーマがないのですよ。活劇シーンでも、オーケストラの低音のビブラートにパーカッションを前面に出した音楽は、ミニマル音楽をアップテンポにしたようでありながら、フルオケをあくまで重厚に鳴らしているので、大変聴き応えがあるものになっています。特にラストの曲「Dark Knight」は映画を総括したような重厚な音楽になっています。この曲がバットマンのテーマになっているのかな。それにしても明確なメロディラインは出てきません。オーケストラをフルに鳴らしながらエンビエント音楽のようなタッチもあって、映画を見直す際、音楽にも耳を傾けるとまた新しい映画の楽しみ方ができるかもしれません。

「ダーク・ナイト」は重厚でボリュームたっぷりのドラマです

今回は新作の「ダーク・ナイト」をTOHOシネマズ川崎3で観てきました。座席予約の窓口で、こっちが何も言わないうちに、ど真ん中のベストポジションをおすすめしてくれたオネーさん、どーも、ありがとう。

犯罪都市ゴッサムシティの犯罪者たちは、闇の処刑人バットマン(クリスチャン・ベール)に追い詰められてきていました。さらに、正義感に燃える新任検事ハービー・デント(アーロン・エッカート)の登場で、マフィアは、彼らも一目置く凶悪野郎ジョーカー(ヒース・レジャー)を雇い、バットマンを殺そうとします。ジョーカーは、市民を毎日一人ずつ殺すか、バットマンの素顔を公開するかと脅迫してきました。実際に警察署長、判事が殺され、市長も狙われるのですが、ゴードン警部補(ゲイリー・オールドマン)が盾になって間一髪救われます。ハービーは記者会見を行い、自らがバットマンであると宣言し、警察の縛につきます。刑務所へ護送されるハービーをジョーカーは襲撃してきました。バットマンが救出に入り、ついにジョーカーは警察の手に落ちます。しかし、その間に、ハービーとその恋人レイチェル(マギー・ギレンホール)が誘拐されてしまいます。ジョーカーから監禁場所を聞き出したバットマンと警察は救出に向かうのですが.....。


「バットマン・ビギンズ」の続編です。前作と同じくクリストファー・ノーランが監督しています。今回の悪役は、口が裂けた不気味な顔をしたジョーカーという男。出自が不明で、やることが悪事というよりは狂ってるので、損得で動くマフィアも彼をコントロールしかねちゃうという、究極の悪。人に不幸を運んで楽しいという大変困ったお方です。善悪で動くバットマンにとっては真反対の存在なのですが、その純粋悪ぶりのせいか、バットマンもなかなか彼を仕留めることができません。ヒース・レジャーの大熱演もあって、バットマンとジョーカーの対決は善と悪の対立を超えて、正気と狂気の戦いになっていきます。力が互角であるなら、気狂いの方が有利でして、常軌を逸したジョーカーの行動は、常にバットマンの先を行ってしまいます。そして、バットマンがジョーカーの中に自分の抑圧されているキャラクターを読み取ったとき、彼はジョーカーを殺せなくなってしまいます。まあ、誰でも、人間は心の奥底で、人を試したり、人を妬んだり、他人を不幸にしたり、してみたいなあっていう負の感情を持っているのだと思います。普通はそれを理性や良心で押さえ込んでいるのですが、ジョーカーはその負の感情を、何のためらいもなく、最悪の形で行動に移してしまうのです。彼の行動には、「こんなことできたらいいなあ」という感情をくすぐる、嫌な魅力があるような気がします。

ノーランの演出(共同脚本も)は、ヘビーな不幸のつるべ打ちでバットマンを攻めまくります。主人公を徹底的にいじめているような展開は、昔の花登筺の根性ドラマを思い出しました。バットマンとして自分の身と心を削り続ける様は痛々しいものがあります。そこには娯楽映画としてのカタルシスはなく、人間の負のパワーとしての暴力沙汰がてんこ盛りになっています。マフィアが幅をきかせ、検事局にも警察にもマフィアのスパイがいて、誰も信用できない状態です。そういう空気をあきらかに狙って作っているので、ノーランの狙いは成功していると言えます。一方で、観客の感情をそこまで逆撫でしなくってもという気もします。ともあれ、2時間半の長さにドラマがてんこ盛りになっていまして、観客を退屈させることなく、ダークな世界が展開していきます。特にディティールへの細かい作り込みがきちんとされているので、長丁場のドラマに隙がなく、全編に渡って、異様な緊張感がみなぎっているのには感心しました。やりすぎ感も感じつつ、大変見応えのある映画に仕上がっているのですよ。



ここから先は、結末に触れますのでご注意ください。



誘拐されたジャネットはブルース・ウェインの元恋人でした。そして、ジョーカーの思惑とおり、ジャネットは死亡、そして、ハービーは顔半分を大火傷してしまいます。最愛の恋人を失ったハービーは正義の検事というこれまでのキャラをかなぐり捨てて、トゥーフェイスとして復讐の鬼と化します。人間の弱さを最悪の形で見せるあたりがよくやるなあって感じです。

一方、ジョーカーはゴッサムシティの病院に爆弾をしかけたと宣言し、実際に総合病院を爆破してしまいます。ゴッサムシティの人間は街から逃げ出そうとし、危険な橋やトンネルを避けて、フェリーに殺到します。市民と囚人を乗せたフェリー2隻が出航した途端、両方とも機能停止し、ジョーカーが、この二隻の船に爆弾を仕掛けたと宣言、そして両方の船にもう一方の船の起爆装置を送り込み、12時までに、スイッチを押した方の船は助けると宣言します。その宣言の声をトレースしたバットマンはジョーカーのいる建物に乗り込んで行き、ここからはバットマンと警官隊、ジョーカーとその一味の攻防がスリリングに描かれます。そして、その活劇と並行して、2隻の船の上での葛藤がドラマチックに展開します。市民の船と、囚人の船、どちらでもスイッチを押せという声が高まりますが、ここで、その船の中にある良心が共倒れを防ぎます。良心のかけらもなかったそれまでの展開の中で、ここだけが人間の善意の底力を見せて印象に残ります。

バットマンとジョーカーの闘いで、ついにバットマンは勝利し、ジョーカーは縛に尽きます。しかし、その時、もと正義検事のトゥーフェイスは、ゴードン署長の家族を人質にゴードン署長を呼び出していました。トゥーフェイスは、ジャネットと自分に起こったことの責任は、彼自身とバットマン、そしてゴードンの3人にあると思い込んでいました。ゴードンの息子の頭に銃口を突きつけて、殺すかどうするかをコイントスで決めようとするトゥーフェイスにバットマンが飛び掛り、トゥーフェイスはビルから落ちて死亡します。トゥーフェイスは復讐のためにマフィアや警官を殺していました。バットマンは自分がその罪をかぶり、ハービー・デントの正義の顔を守ろうと決心します。これで、バットマンは警官殺しの罪も背負った犯罪人になってしまうのですが、映画はそこで終わります。

今回はバットマンは苦悩するところが多くて、地味な主人公という印象になりました。活劇部分は迫力あるものになっていまして、中盤の護送車とトラックのカーチェイスなど派手な見せ場になってはいるのですが、バットマンがヒーローっぽく見えないということもあって、カタルシスにつながるものにはなっていません。その分、ゴードン警部補(劇中、署長に昇進)が見せ場も多くて、かっこいいのですよ。バットマンとコンタクトのとれる警察官以上の有能なおまわりさんぶりを見せ、ラストでは父親としていいところを見せます。ゲイリー・オールドマンが正気なキャラを演じて、これだけ見せるとは思いませんでしたが、今後の彼がどうなっていくのかも続編への期待の一つになりました。

主人公が地味な分、やはりジョーカーの狂いっぷりが圧巻でして、悪役としてのゲームのルールを持たないド悪党をいささかの同情も呼ばない形で演じきったヒース・レジャーが見事でした。ちょっと、「羊たちの沈黙」のレクターにも通じる哲学者っぽさを感じてしまいましたもの。

前作と同じく音楽を担当したのは、現在の映画音楽界の売れっ子、ハンス・ツィマーとジェームズ・ニュートン・ハワードでして、ミニマル風、エンビエント風にシンセやオーケストラを駆使して、重厚な音を作り出しています。二人とも、普段の作風とはまるで違う音になっているのが興味深く、地味と言えば地味な音楽の中に色々なチャレンジが隠されているように思いました。

「花はどこへいった」は、ベトナム戦争がまだ続いていることを教えてくれます

今回は横浜シネマベティで「花はどこへいった」を観て来ました。このところ、この映画館のおかげでドキュメンタリー映画を観る機会が増えて、いろいろと勉強になりますです。

坂田監督の夫である報道写真家グレッグ・デイビスが54歳の若さで肝臓がんで亡くなりました。彼は、ベトナム戦争に参戦し、枯葉剤を何度となく浴びていました。それが彼の若すぎる死に何らかの影響を及ぼしたのかもしれません。彼は、ベトナムから帰ってきて「赤ん坊殺し」を後ろ指をさされ、故国を離れてアジアを中心に写真をとり続けてきました。坂田監督は、彼の死をきっかけにもう一度、枯葉剤についてのドキュメンタリーを作ろうと決心し、ベトナムへ赴きます。都市部でも山村でも枯葉剤の傷跡は残っていました。枯葉剤は1961年から1970年までですが、その2世代下でも障害を持った子が生まれてきているのです。その原因となる毒物はダイオキシンと言われており、障害を持った子の親の母乳などから、相当量のダイオキシンが検出されているのでした。障害を持った子供たちはそれなりに元気にしているようにも見えますが、この先のことを考えると、まず経済的な問題が彼らの前に立ち塞がっているのです。しかし、アメリカはこの現状について何の行動も起こしません。まだ、ベトナムでは、戦争は終わっていないのです。

坂田雅子監督の初監督作品です。ベトナム戦争と言えば、私が物心ついたころにはもう終盤になっていましたが、反戦運動やデモといったものをテレビのニュースで観たのを覚えています。枯葉剤という言葉は知らなかったですが、二重胎児で生まれたベトちゃんドクちゃんのニュースも記憶にあります。その後、ベトナムで何が起こっているのかというのはほとんど知る機会がありませんでした。アメリカ映画で、ベトナム帰還兵の映画が何本も作られ、そこでは社会から拒絶された帰還兵の姿が描かれていました。グレッグ・デイビスも若くしてベトナム戦争に行って、帰ってきてからは、赤ん坊殺しと呼ばれ、逆に「なぜもっとアカを殺してこない」となじられ、自分の経験から戦争は間違っていたと言っても、誰にも聞いてもらえなかったのだそうです。その結果、故国への不信感を募らせ、アジアへと渡ります。日本にいたときに坂田監督と知り合い、その後、アジアを中心に写真家として活躍しました。

この映画で、枯葉剤の中の毒素がダイオキシンだったというのを始めて知りました。ダイオキシンという言葉は、ベトナム戦争当時はなく、クローズアップされるようになったのも、ここ10年くらいのことですから、ベトナム、枯葉剤、ダイオキシン、環境ホルモンがつながっていたとは、驚きでした。それは、枯葉剤という遠くの出来事が、ダイオキシンという言葉によって、急に身近に感じられたということです。

南ベトナムの全面積の12%にも渡って散布された枯葉剤、それと符合するように、障害を持った子供たちが生まれるようになりました。多くは脳、手足、脊髄に障害を持っており、中には聾唖、盲目の子供もいます。恐ろしいことに、枯葉剤散布の後に生まれた世代の子供にも障害を持った子供がいるのです。これは、その土地に毒がまだ残留し続けているのかもしれませんし、第一世代の毒素が第三世代にまで影響を及ぼしているのかもしれません。どちらにしても、この地域でとんでもないことが行われたことは確かなようです。そういう子供の親の一人が語っていたのですが、「これは先祖の因果だとも思った」というのです。そんな風に思う人もいる社会では、障害を持った子供を育てることはさぞ大変だったと思います。そして、今や、第一世代は老齢化し、障害を持った子供も三十~四十代になっている家族では、その介護が相当の負担になっているようです。国家や社会がフォローするには、ベトナムという国はまだ貧しいのです。それでも、障害を持った子供、兄弟の世話をして、彼らを家族の一員として受け入れて頑張っている人たちもいます。そこに、何と言うか、他人事ながら、人間の強さを感じました。私はこんなに強くなれないよなあって思うと、後ろめたくもなります。

ハノイのフレンドシップビレッジは、元アメリカ兵だった人が建てた施設で、障害児が共同生活を営んでいます。今の経営者も元アメリカ兵です。彼は話の中で、1970年代にベトナム帰還兵の間にも障害を持った子供が生まれているのに、ベトナムでの子供たちの責任をアメリカは認めていないと言います。しかし、実際の障害児の家族は、責任の所在云々よりも、リハビリや社会への適応のための援助を求めているのです。

映画は、坂田監督が、グレッグの死を乗り越えて、彼も自分も世界もすべては繋がっていると考えられるようになるところで終わります。確かに、グレッグの死をどう受け入れるかという傷心が発端で、この映画は作られたのですが、それを監督の内面の充実で終わりにしていいのかという疑問が残ります。それでは、この映画のドキュメンタリーとしての客観性が失われてしまうように思えたからです。1961年に始まった枯葉剤の悲劇が当時もあって、40年以上たった今も続いているということが、この映画のポイントであると思います。そういうまとめ方をされるのであれば、グレッグの死のエピソードはない方がいいようにも感じられてしまうのでした。実際の映像の力に、言葉が負けているという感じでしょうか。

「靖国YASUKUNI」は目からウロコの一編でした、私には。

今回は横浜シネマベティで「靖国YASUKUNI」を観て来ました。まあ、こういう話題作が横浜でも観られるのはありがたいことであります。

刈谷さんという90歳のおじいちゃんは、靖国刀という軍刀の最後の刀匠です。この刈谷さんへのインタビューと刀を作るまでが、じっくりと描かれます。その合間に、8月15日の靖国神社の喧騒がインサートされ、様々な立場の人間からの靖国神社への想いが語られていきます。小泉首相は、靖国参拝は心の問題で政治問題ではないと一蹴して参拝に出かけます。右翼の皆様からすれば、祖国のために殉じ、戦争の犠牲になった英霊に感謝と追悼に意を表ずることは当たり前のこと。外国からとやかく言われるのはおかしい。また、台湾から合祀取り下げ要求する人もいます。台湾で無理やり戦場で駆り出されて戦死した兵士の魂が、靖国神社に合祀されてるんですって。何で、敵国の神社に勝手に魂を閉じ込められるのか。こうしてみると色々と問題はありそうな感じですが、この映画の監督、李纓が中国人だったことで、上映にあたって騒動になったのが一番の問題かしらん。

一時は上映中止などと言われていた映画ですが、ちゃんと映画館で普通の興行として上映されるのはまずはめでたい限りです。私も靖国神社について、あまり知識があるわけではないのですが、明治以降、日本の国のために死んだ人を神様に祀っている場所というくらいの認識はありました。そのご神体が刀だったというのは初めて知りました。あと、毎年、終戦記念日になると、総理が公式参拝するかしないかでもめる場所であり、それが中国あたりから注目され批判されているということもニュースで聞いています。A級戦犯が合祀されている神社へお参りに行くということは、大東亜戦争での罪人を神様として拝むことになるから、侵略戦争だったはずの大東亜戦争を正当化することになるという言い分は、半分わかるような、半分怪しげなものを感じます。最近では、そもそも戦犯というのは、不当な裁判で決まったものであり、彼らはお国の為にやったことで処刑されたのだという意見も大きくなってきています。これは、大東亜戦争の正当化とつながる重要な問題なのですが、この映画ではそこに深入りはしていません。あくまで、靖国神社の周辺のエピソードを拾っていきます。

私がその中で、気になったのが、台湾人が合祀されていることでして、それが、簡単に名前をはずすことができない仕掛けになっているというところです。日本人のお坊さんがそのあたりをうまく説明しているのですが、この靖国神社へ合祀のきっかけになっているのは、遺族ではなく、国家なのだそうです。つまり、遺族に合祀についてとやかく言われることはないから、遺族の要求には応えないというのが靖国神社の言い分なのだそうです。その一方で、戦後何年もたってから、叙勲の対象にされたりしているのです。つまり、国が戦死者を神に祀り上げて、その後も叙勲で褒めている、そうすることで、遺族の国家への怒りや責任追及を封じ込めているというのです。ああ、なるほどと腑に落ちました。本当なら、日本人が日本人に死ねと言ってたわけですから、その恨みが国内に向いてもおかしくない筈なのに、その感情を巧妙に押さえ込む仕掛けが靖国神社なのです。これによって、国家の国民に対する戦争責任はものすごく曖昧なものになりました。確かに言われてみれば、その通りです。ただ、その仕掛けの綻びとして、台湾人や朝鮮人が一緒に祀られている問題に行き当たるのです。

「祖国のために散っていった英霊があってこそ、今日の日本があるのだから、それを敬い、祀るのは当たり前である」という言葉には正直ものすごく説得力があります。反論の余地がないように思えますもの。しかし、靖国神社が国家の戦争責任逃れの仕掛けだと気づくと、どこかおかしいんじゃないかという気もしてきます。誰のせいで死んだのかってのは問題にならないで、全部お国のために死んだで、くくってしまっていいのかしら、っていう疑問が出てきます。ここには、大東亜戦争は正しい戦争だったという暗黙の了解があるのです。侵略したのもお国のため、中国人を殺したのもお国のため、一握りの日本人の利権のために領土を拡大するのもお国のため、はて、お国って何やねんというところにまでたどり着いてしまいます。いや、たとえ間違った戦争でも、兵隊さんは家族やお国のことを想って死んでいったのだから、それは気高いことであり、敬うべき正しいことだとも言えましょう。でも、兵隊さんは軍の上からの命令に従って死んだわけだから、軍の上の人のせいで、彼らのために死んだのではないかという気もしてきます。主語や目的語を曖昧にしたままの情緒的な言葉で説得させられていいのかしら。確かに日本人は曖昧な情感に弱いけど。

このへんの話に、映画は深入りしてるわけではないのですが、私にとっては大変にインパクトの強いものになりました。「靖国神社に国のために死んだ人を祀って何が悪い」という議論に、どこかしっくり来ないものを感じていた私に、その中にひそむウソの可能性を示唆してくれたのです。やっぱり、この件は冷静に疑ってかからないといけないと再認識するに至りました。

映画はその他にも、8月15日の靖国神社での様々な人々をとらえています。戦没者慰霊集会の席で、「日本の侵略戦争云々」のシュプレヒコールを挙げて、右翼の皆さんにボコボコにされた若者がいまして、それはそうだなと思って見てると、何とパトカーが彼を拉致してどっかへ連れて行っちゃいました。逮捕するわけでもなく、彼に非を問うわけでもないのに、無理やりパトカーに押し込んでしまうのは、あれは拉致だよなー。恐るべき真昼の暗黒だわ、いや、マジで。

李纓監督は、靖国神社のイメージを刀に集約しようとしているようですが、そこは見ていてしっくり来なかったです。刈谷さんを通して軍刀の持つイメージを拡大することは無理があったように思います。単に刀匠である刈谷さんにそこまで背負わせることはないんじゃないかって気がしましたもの。それに大東亜戦争では銃が中心の戦闘ではなかったのかしら。李纓監督には、ラスト近くで軍刀に関わる映像をコラージュしているだけに、何か思い入れがあるようですが、それはご神体そのものと信仰の対象をごっちゃにしているのではないかしら。製作は中国で、監督も中国人、撮影、編集、助監督は日本人という変則的なスタッフ編成の映画ですが、どこか、日本人にはしっくりこないところも感じられまして、また、同じ題材を日本人が監督してくれたらいいなって思いました。

「秒速5センチメートル」ってすごい特別な時間を好き放題に描いたアニメ

今回は珍しく人から借りたDVDで、また珍しくも日本のアニメ「秒速5センチメートル」を観ました。貸して下さった方によると、背景が細かくてすごいとのことでした。3つの話のオムニバスということだったのですが、第3話はあっちゅう間に終わっちゃって、「えー、もう終わりかよー」。

遠野君と篠原さんは幼馴染みでしたけど、小学校の卒業で彼女は群馬へ引っ越してしまいます。手紙のやりとりはあったけど、どこか寂しい感じ。中学に進んで、今度は遠野君が鹿児島に引っ越すことになり、遠野君は冬のある日、学校が終わってから、彼女に会いに行こうと電車に乗ります。午後7時には着く約束だったのが、大雪のせいでどんどん電車は遅れていきます。やっとのことで夜も更けてたどり着いた駅の待合室。彼女はじっと、彼のことを待ち続けていました。雪の夜、二人話しながら歩く道、通りかかった大きな桜の木の前で、二人の言葉は止まり、時間も止まります。(第一話 桜花抄)
小豆島の高校に通う澄田さんは、弓道部の遠野君が大好き、マジ告白したいけどできない、でも一緒にいるとうれしい。遠野君は澄田さんにやさしい、やさしすぎるくらいやさしいけど、でも、遠野君は彼女を見ていない、どこを見ているのか、澄田さんにはわからないけど、彼女に言えるのはありがとうだけ。(第二話 コスモナウト)
遠野君と篠原さんももう二十代の後半、仕事にプライベートに二人の間を忙しく時間が流れていきます。もう一度あって伝えたいことがある二人、でも、もう二人の人生は交わることはなさそう。(第三話 秒速5センチメートル)

原作、脚本、監督を深海誠が兼任したいわゆるワンマン映画というべき作品。この人の映画はこれが初めてなので、比較対象物がないのですが、いわゆる好き勝手、やりたい放題やってる映画だなという感じはしました。美術監督も彼が兼任しているので、背景がものすごくリアルに細かい。特に第一話で小田急線からJRを乗り継いでいくあたりの絵のリアルさがすごいです。解説だと「ありふれた日常の中での男子と女子のお話」みたいに書かれていましたけど、これが「ありふれた日常」なら、普通の人ってものすごくドラマチックな人生を歩んでいるってことになるよなあ。私の「ありふれた日常」、小学生から中学生あたりの思い出なんて、ありふれ過ぎて涙が出そう。きっと、よくある話を詩情あふれる映像に切り取ったってところを強調したいのかもしれませんが、こんな胸キュンな少年時代なんて、自分にも、自分の近所にもなかったぞ、と、まあ、設定に難癖つけても仕方ありませんが、それくらい、ドラマチックに感情がうねる作品になっています。淡々と描いてるつもりでも感情の振幅がでかいのは、オジサンにはお見通しだよーんと悪態をついた上で、この映画、結構嫌いじゃないんですよね。

何でか言いますと、モテ過ぎ遠野君は置いといて、出てくる女の子の行動や言動がオヤジ心(もと少年のノスタルジーかしら)をくすぐるのですよね。こういう女の子に出会っていたら、もう少し人生マトモ方面に軌道修正できたかもしれないなあって、しみじみしちゃうのですよ。特に第二話に登場する澄田さんって、どっかカッコつけてる(っぽい?)遠野君にゾッコンになっちゃうのだけど、でも、その純粋な感性は、自分の失恋を悟ってしまうという、よく見れば一人芝居みたいなメロドラマになってしまうのが、いとおしく思えます。ちょっと痛々しいけど、そういう恋もありよね、次のいい男にあたるようにがんばってね、と、近所のおばはんみたいな気分になってしまいました。

第三話になると、遠野くんと篠原さんにとって、あの夜のキスも淡い恋の思い出になっています。でも、何かその淡いつながりをたぐってしまうところが不思議な印象を残しました。まあ、特別な思い出だからなあ、でも、それに節目をつけようとするしら。私は、そんな初恋の思い出なんてないですから、「へー」というしかないのが、(かなり)くやしい。

この映画のうまさは時間の切り取り方でして、各々のエピソードが大変濃密な時間を描いています。感情の情報量が多いとでも言うのでしょうか。役者、風景、構図を自分の思いとおりに動かしているからできる技なのかもしれません。そして、深海監督にコントロールできない登場人物の声だけはわざと無個性にして、前に出ないようにしているように思えます。DVDをテレビで観ているせいかもしれませんが、世界がすごく限定されているようにも感じました。深海監督の想う宇宙の中を覗いているような気になるのですよ。これを劇場で観たら、どんな感じがするのかしらん。

ともあれ、3つのエピソードはそれなりに楽しめたのですが、中では、映像的にも、ドラマ的にも第二話がお気に入りです。若いときって猶予期間としての時間が山ほどあるんだなあって、思い出させてくれましたから。

観た映画〔ま~も〕

〔ま~も〕
「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」
「マーガレットと素敵な何か」
「マーサ、あるいはマーシー・メイ」
「マイ・インターン」
「迷子の警察音楽隊」
「マイティ・ソー」
「マイ・ブルーベリー・ナイツ」
「マイ・ベスト・フレンド」
「マイレージ・マイライフ」
「マクベス」
「マダム・マロリーと魔法のスパイス」
「マッド・マックス 怒りのデスロード」
「マッハ!無限大」
「マップ・トゥ・ザ・スターズ」
「マネー・ショート 華麗なる大逆転」
「マネー・ボール」
「マネー・モンスター」
「魔法にかけられて」
「マラヴィータ」
「マリー・アントワネット」
「マリリン 7日間の恋」
「マルタのやさしい刺繍」
「マレフィセント」
「マンマ・ミーア」
「みかんの丘」
「ミケランジェロの暗号」
「湖のほとりで」
「MR.ビーン カンヌで大迷惑」
「Mr.ホームズ 名探偵最後の事件」
「ミスト」
「水の中のナイフ」(DVD)鑑賞
「ミス・ポター」
「未知空間の恐怖 光る眼」(DVD)
「ミック・マック」
「M:I:3」
「ミッション・インポッシブル ゴースト・プロトコル」
「ミッション・インポッシブル ローグ・ネイション」
「ミッション:8ミニッツ」
「ミッドナイト・イン・パリ」
「緑の海平線」
「南の島の大統領」
「ミモザの島に消えた母」
「未来を生きる君たちへ」
「ミリキタニの猫」
「ミルク」
「ムービー43」
「ムーンライズ・キングダム」
「麦の穂を揺らす風」
「無言歌」
「メアリー&マックス」
「メカニック」(監督 サイモン・ウェスト)
「メカニック ワールドミッション」
「メッセージ そして、愛が残る」
「メッセンジャー・オブ・デス」(DVD)
「メランコリア」
「MIC メン・イン・キャット」
「モーテル」
「もうひとりのシェイクスピア」
「もうひとりの息子」
「萌の朱雀」
「燃えよピンポン」
「殯の森」
「モネ・ゲーム」
「ものすごくうるさくてありえないほど近い」
「もらとりあむタマ子」
「モンスターズ・ユニバーシティ」
「モンスターvsエイリアン」

「最高の人生の見つけ方」って題名が大げさ過ぎないかしら

映画をタイムリーに追いかけられていない今日この頃「最高の人生の見つけ方」を銀座シネパトス3で観て来ました。相変わらず小さい場内で小さなスクリーンなのですが、ここでしか上映しない映画がある限り通わざるを得ない映画館です。

初老の大金持ちエドワード(ジャック・ニコルソン)と自動車修理工カーター(モーガン・フリーマン)が病院で同じ部屋になりました。二人とも癌で残された時間はそう多くはありません。カーターが書いていた「死ぬまでにやりたいことのリスト」を見つけたエドワードは、「世界最高の美人にキスをする」「スカイダイビングをする」など項目を書き加えた上で、一緒にこのリストを実現する旅に出ようと言い出します。余命を静かに過ごそうと考えていたカーターも何だかその気になり、妻の反対を押し切ってエドワードと旅に出ます。二人はプライベートジェット機を使って世界のあちこちを旅しながら、リストの項目を消し込んでいきます。アフリカの草原、タージマハル、ピラミッド、歴史学者になりたかったカーターにとって、それは夢のような旅でした。その旅の途中でエドワードに過去の成り行きから会うことができないでいる娘がいることを、カーターは知ります。旅の終わりにカーターはエドワードを娘の家へと連れていくのですが、それは彼の逆鱗に触れ、二人は喧嘩別れしてしまいます。そして時は二人の体を蝕んでいきます。二人は最高の人生を見つけることができるのでしょうか。

ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンという現代の名優二人が共演し、「恋人たちの予感」「ミザリー」のロブ・ライナーがメガホンを取りました。余命があまりない老人二人が、自分がし残してきたことを全部やってやろうというお話で、原題は「バケット・リスト=棺おけリスト」と言います。映画の中では、これは自分が死ぬまでにやってやろうということを書いてあると説明してましたが、どっちかというと棺おけまで持っていくやり残したことの一覧のような気がします。ともあれ、死ぬまでにやりたいことをとにかくやってのけようと二人は旅立つのです。

カーターは自動車修理工ですが、歴史教師になりたかった過去があります。でも、家族にも恵まれ、幸せなおじいちゃんでもあります。そんな彼が癌にかかり、後半年の命と宣告されます。一方のエドワードは実業家で大金持ち、入院している病院グループのオーナーでもあります。でも、何回も結婚し、自分の周囲には金がらみの人間しかいないと思い込んでいるようなところがありました。そんなエドワードの前に現れたカーターは、自分自身と家族のために病気と闘っている男という、彼にとっては珍しい存在だったのでしょう。そして、カーターの書いた棺おけリストを見て、これだとひらめくのです。自分にもやり残していることがある、それを実際にできることからやってみようじゃないか。カーターにしてみれば棺おけまで持っていくつもりだったリストが、実現するということで、とまどいながらもエドワードの提案を受け入れます。

そして、世界を旅した後、カーターは家族のもとに帰りに幸せな食卓を囲んだ後、その命を終えることになります。それを知ったエドワードは、長年疎遠にしていた娘を訪ね、世界最高の美女である孫にキスすることができました。二人にとって人生は最高のものになったようです。

と、いう後味のお話なのですが、結局、家族に帰るというお話だとしたら、あの贅沢旅行は何だったんだろうという気にもなってしまう映画でした。とにかく、死病映画であるはずなのに、ライナーの演出は徹底して楽天的です。死を受け入れることって、こんなに簡単な話なのかと思ってしまうくらい、病気や死に対して、二人とも強いというか無関心であるように見えます。残された時間だけに興味があるように見える演出は、どこかリアリティを欠いてるような気がします。まあ、そもそも、エドワードが大金持ちで自家用ジェットで世界旅行ができるってこと自体にリアリティがないのですが、じゃあ、この映画のどこに、リアルな人間の感情を見つければいいのかというと、ちょっととっかかりどころがないのですよ。感情移入するポイントが見つからないとでも申しましょうか。

それは邦題のせいかもしれません。「最高の人生」なんてこの映画では見つけようとしていませんし、見つけ方も語られていません。棺おけリストなるものがきっかけで、二人の余命わずかの老人が自分のやり残したことを発見するというお話です。カーターは自分が夢見た歴史の舞台を直接見ることができましたし、エドワードは娘と和解することができました。でも、それは長い人生の中のほんの1ページでしかありません。それでも、人生の終わりを飾るにふさわしい友人を見つけることもできたのですから、かなりいい終わり方をしたとは言えそうです。でも、終わりよければ最高の人生だなんてのは、貴重な時間を積み上げてきた人生に対して失礼ではないかしら。

この映画は基本的にちょっとしたこと、ちょっとしたお話なのだと思います。これで、人生大きく変わったなんて言ったら、カーターの奥さんやエドワードの秘書はかわいそうだもの。ちょっとしたことだから、リアルな愁嘆場をパスして、最後まで楽天的にまとめたのだと思いたいです。終わりよければ全てよしなんて話、一見耳には心地よいかもしれませんが、閻魔大王様はそんなに甘くはないと思うのであります。

「インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国」って、老舗の味なんですけどねえ

今回は日劇1で「インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国」を観て来ました。ここは初回だけ全席自由なので、その時しか行ったことありません。あんなでかい劇場で席を選ぶには窓口が少なくてイライラしそうだからです。

アメリカ軍の倉庫に連れてこられたのがインディ(ハリソン・フォード)。連れてきたのはソ連軍イリーナ・スパルコ(ケイト・ブランシェット)率いる皆さん、彼らはある木箱をさがしてまして、かつてインディがその箱に一枚かんでいたことがあり、彼に探させようとしたのです。箱は発見されたのですが、その後インディは反撃、箱はイリーナたちが持って行ってしまいます。その後、ニューヨークに戻ったインディの前にマット(シャイア・ラビーフ)という青年が現れ、インディのかつての学友オックスリー(ジョン・ハート)がクリスタル・スカルを元の場所に戻すためにペルーに渡って行方不明だと言うのです。マットとともにインディはペルーに向かい、オックスリーの収容されていた精神病院でスカルにまつわる地図を発見します。され、オックスリーの後を追うインディたちですが、一方イリーナ率いるソ連軍もクリスタル・スカルを狙っていたのでした。

インディ・ジョーンズの19年ぶりのシリーズ第4弾です。過去3作と同じく監督スティーブン・スピルバーグ、主演ハリソン・フォードのコンビが第二次大戦後の冷戦時代のアメリカから南米を舞台に冒険を展開します。今回のキーワードは謎のクリスタル・スカルという水晶のドクロです。様々な言い伝えを持つ水晶ドクロは人間の技術では作れない謎の工芸品と言われています。そして、さらに最初に登場する木箱には「ロズウェル 1947」とあり、その中には人間じゃない何かの死体が入っていました。これは、ロズウェル事件という有名なUFO墜落事件がありまして、その際に宇宙人の死体が収容されたと言われています。そんな話とインディ・ジョーンズを絡めて、今回は超自然の要素が濃い内容になっています。

アクションシーンは相変わらず派手で、スタントとSFXをうまくとりまぜて、大作らしいスケールの大きさを感じさせます。毎回、登場する悪趣味描写としては、ソ連軍の皆様が兵隊アリに殺されるシーンがありまして、また、コミカルなタッチも十分に盛り込んであり、娯楽映画としてはサービス満点の仕上がりになっています。また、キャスティングもツボを押さえていまして、今回の敵役をケイト・ブランシェットが演じてるってだけでも見所になってますし、1作目のヒロイン、カレン・アレンを同じ役で登場させるところにもファンへの目配せがあって、さらに脇をジョン・ハート、ジム・ブロードベントというベテランが固めています。そして、見せ場の連続からクライマックスには大屋台崩しが待っているという構成もうまいものです。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



このシリーズは見せ場のいくつか以外、ストーリーが思い出せないって特徴があります。今回も何でこんな大冒険してるのかってところはほとんど印象に残りません、というよりはストーリーが弱いように思えてしまいました。クリスタル・スカルが宇宙人の頭蓋骨で、それを宇宙人のいる遺跡に返すと何がうれしいのかよくわかりません。イリーナが何を狙っているのかもよくわからない、というよりは成り行き任せですし、降ってくる災難にどう対処するのかというのを繰り返すだけで、こいつらどこへ向かおうとしているのかってのが明確じゃないのです。これって脚本がうまくないのではないかしら。

特に今回の趣向である、クリスタル・スカルと宇宙人の死体ってのは、今はあまり信用に足る話ではないのが気になりました。こんな題材で話を引っ張るのは、1970年代ならわかりますが、21世紀の映画とは思えないのですよ。クリスタル・スカルは実際に人間の手で作ることができると証明されていますし、ロズウェルのUFO墜落事件は、実際は軍の観測用気球が墜落したとほぼ判明してますし、宇宙人の死体云々は事件当時は話題にならず、後でつけられた話でその信憑性は非常に低いものなのです。正直言って話の屋台骨が嘘八百では、なかなかその先のドラマについていけないのですよ。

それに、19年のブランクというのもバカにできないものになります。「レイダース・失われた聖櫃」のころは、単純コンセプトの突っ走りアクションは目新しいものがありました。ところがここ最近は、その類の見せ場つるべ打ちのアクションが増えてしまったので、それらと比べると「おおっ」と思わせるところが大差ないのですよ。似たような刺激に慣れすぎたかなって気がしてしまいます。「ハムナプトラ」「マトリックス」「X-MEN」「パイレーツ・オブ・カリビアン」などなど、派手な見せ場でぐいぐい引っ張っていく映画を一杯見せられた後では、何だか古典芸能を観る趣になってしまうのですが、その分、何だか新鮮じゃないねという気がしてしまいます。その上、クリスタル・スカルやロズウェルを持ってくるところに、余計目に古さを感じてしまったのは残念でした。

ラストは、宇宙人のミイラ(?)が何体も並んだところに一つ欠けていた頭(クリスタル・スカル)をくっつけてやると、そこがでっかい宇宙船になっていて、周囲の遺跡をぶっこわして飛び上がり、宇宙へと去っていきます。うーん、結局、今回はインディは何をしにきて、結果的に何をしたんだろうって気分になる結末です。ペーソスもユーモアも、「ナショナル・トレジャー」の方が上だなあっていうのが、正直な感想かしら。

「百万円と苦虫女」の暖かい視線が好き

今回は川崎チネチッタ9で「百万円と苦虫女」を観てきました。インデペンデンス系の邦画なので、音響はDTSステレオかと思っていたら、ドルビーデジタルだったのは意外でした。エンドクレジットには、DTSの表示もあったのですが、この映画をDTSで上映する劇場はあるのかしらん。

フリーター(なのかな?)鈴子(蒼井優)はバイト先の友人に誘われてルームシェアしようとしたら、何がどうなったのか、友人の元カレとの同居になっちゃいまして、その元カレが鈴子の拾った子猫を捨てたことから、元カレの荷物を全部捨ててしまいます。そしたら、そいつが刑事告訴したもので、鈴子は留置されて一躍前科一犯になっちゃいます。家に戻ってきても何だか居づらい鈴子は百万円ためて家を出ようと決めます。そして、その先でも百万円たまったら別のところへ引っ越すってのを繰り返そうってわけです。まずは海辺の町で海の家で働いて、現地の若者にアプローチされたものの、さらりとやりすごし、今度は山村に移って、桃の取り入れのお手伝い。ここで、村おこしの「桃むすめ」にされそうになるのですが、そこも何とかやりすごし、今度は地方都市のホームセンターに勤め始めます。そこで、知り合った職場の先輩中島(森山未来)と知り合い、いい仲になっちゃうのですが、果たして彼女の旅は終わりを告げるのでしょうか。

昨年観た「赤い文化住宅の初子」が面白かったので、タナダユキ脚本監督のこの映画にも食指が動きました。まあ、蒼井優かわいいしってのもあったんですが、それはさておき、自分探しとは一味違う鈴子のキャラクターが面白くて、期待どおりの映画に仕上がっていました。

発端の前科者になっちゃうまでの話がずいぶんとひどいんですよ。ルームシェアしようとして女友達に同意したら、実は彼氏込みの3人同居だったってのも騙されたようなもんなのですが、引越しの当日にその二人が別れちゃって、さらに同居する筈のアパートには彼氏の方がいるんですもん。雨に日に拾った子猫をそいつに捨てられた挙句に刑事起訴ですからね。不幸というには気の毒すぎて、この先不幸のずんどこヒロインの映画かと思ってしまいました。このプロローグは後半の物語と関わらないので、このエピソードはいらないんじゃないかしら。

この鈴子には、拓也という小学生の弟がいて、これが勉強のできる優等生。帰ってきた鈴子に「姉ちゃん、何で帰ってきたんだよ。有名私立に受験できなくなるじゃないか」と憎まれ口を叩くのですが、実はいじめられっ子でその事を家族に隠してました。街中で姉が高校時代の友人にからかわれているのを見ると、他人事ではなくなります。登場シーンはやなガキなんですが、だんだん、彼も大変でがんばってるなあーってわかってくるところが共感できるというかおいしいキャラとなっています。

さて、旅に出た彼女ですが、そこで何をするかというと、とにかく部屋を借りて、仕事をさがして、働き始めるのです。百万円あれば、次の土地へ引っ越しても、部屋を借りて、仕事をさがすくらいの元手にはなるという意味の金額設定だそうで、移った土地で何かしようというわけでもありません。でも、そこで彼女は役に立つのかどうかわからない才能に恵まれていることを知ります。カキ氷を作るのがうまかったり、桃をもぐのがうまかったり。だからと言って、彼女が何か変わるわけではありません。自己主張が弱くて、ノーと言えない性格ながら、その根っこは意外なほど頑固で保守的です。果たして、稼ぐ引っ越すの繰り返しで何が変わるのか、というと、何も変わらないような気がするのですよ。その機械的な反復に水を差すがごとく彼女の前に恋愛が現れてくるのです。



この先は結末に触れますのでご注意ください。(といって、サプライズがあるわけではないんですが)



東京から1時間ほどの郊外の町、そこのホームセンターのガーデニングコーナーで働き始める鈴子は、職場の先輩中島に想いを寄せるようになり、彼もまた彼女のことを憎からず想い、二人は付き合うようになります。ところが彼氏が鈴子に何度も借金を申し込むようになってから、様子がおかしくなってきます。所詮は、彼女のことを金づるとしか思っていないのでしょうか。鈴子はそう考えて自分が情けなくなってきます。弟から、いじめに負けずにがんばっているという手紙が届き、それを読んだ鈴子は、「ダメだ、ダメだよ」と泣き崩れます。自分が現実から逃げていること、その結果、変な男にひっかかっている現状に嫌気が差した彼女は、また新しい土地へと引っ越すことにします。この手紙を読むシーンは自己嫌悪にうちのめされる鈴子が痛々しくて、泣かせるシーンになっています。

ところが、彼氏の方は、鈴子が百万円貯めるごとに引っ越すことを聞いて、彼女を引き止めるために、借金を申し込んでいたのでした。それを言い出せない中島君、鈴子に「私のお金が目当てなの」と問い詰められた時も、彼女が別れの挨拶に来た時も、本当の事を伝えることができません。それでも、気持ちを振り絞って、駅へ向かった鈴子を追いかける中島君。二人は会えそうで会えないまま、映画は終わってしまいます。このあたりは二人をカットバックで描いて、出会えそうに見せておいて、やっぱりダメでしたという演出になっています。まだまだ、鈴子の旅は続くのでした。

鈴子のキャラクターは、押しの弱いタイプで、なかなか相手に言い返すことができず、いつも困ったような笑いを見せるのが印象的です。いざとなれば、強いヒロインではあるのですが、世の中、そんな時は少ないので、損ばかりしているように見えます。そんな鈴子を蒼井優が、見事に演じきりました。まさにヒロインになりきっているというか、ヒロインになっちゃっていまして、強烈さのないキャラクターに、彼女がうまく取り込まれていたように見えました。

彼女のしていること、「引越し」と「働くこと」を繰り返していくこと、言い換えると「変わること」と「生活すること」の繰り返しは、誰もがやっていることです。しかし、彼女の場合、彼女自身が変わることはなく、周囲の環境だけが変わっていくということころが、普通と違うところです。彼女が変わることは、すなわち新しい自分を見つけること(自分探しの成果)になるのですが、彼女自身が「自分さがしじゃない」と言うように、新しい自分を見つけそうになるとそこから逃げ出してしまうのです。それを繰り返すことは決してよいことではないのですが、そんなジタバタしている彼女を作者はやさしい視線で見ています。「変わること」「自分をみつけること」は、よく言われることですが、必ずしもやらなくてはいけないことではありません。必要がなければ変わらなくてもいい、無理して自分をさがす必要はない、というメッセージがこの映画には込められているように感じました。ずっと旅していることも生き方の一つとしてあるのかなという気にさせる映画でした。

「ハプニング」は設定が面白いけど、でかい話はシャマランらしくないような

今回は新作の「ハプニング」を川崎チネチッタ5で観てきました。

ある日、ニューヨークのセントラルパークで人々が突然立ち止まり、その後、次々に自殺していくという怪事件が起こりました。テロかもしれないという情報が流れています。フィラデルフィアの高校教師エリオット(マーク・ウォルバーグ)は妻のアルマ(ゾーイ・デシャネル)と共に同僚のジュリアン(ジョン・レグイザモ)の両親のところへ列車で避難しようとします。しかし、列車は途中の駅で運行中止になってしまい、妻の身を案じるジュリアンはプリンストンへ向かう車に乗せてもらうことにし、ジュリアンの娘ジェスはエリオットとアルマが預かり別の車に乗せてもらいます。謎の自体は、アメリカ東北部全体に発生し、まず大都市から人口の少ない地域へと広がりつつありました。報道される内容も段々テロの可能性は小さくなり、むしろ自然現象の異常な形という見解が多くなってきます。エリオットたちの乗った車も行く先が死体だらけで、前へ進めず、だんだんと追い詰められていきます。立ち往生した車に乗っていた人々は一団となって、地図にない村へと徒歩で向かいます。しかし、その人々もまた立ち止まり自らの命を絶つようになります。果たして、エリオットたちは無事に生き延びることができるのでしょうか。

「シックス・センス」「ビレッジ」などで、独特な世界を作ってきたM・ナイト・シャマランの新作で、ここでも彼は脚本と監督を兼任しています。映画の冒頭は、公園で話していた二人の女性のうちの一人が突然同じことを繰り返し言うようになり、そして、頭のピンを自分の首に刺すというショッキングなシーンで始まります。次は、工事現場で、上からバラバラと人が降ってくるというショック。シャマランの演出はこれまでよりも、ショッキングなシーンを前面に出してきまして、その後も自殺現場をリアルに描写していきます。事件が起きたときには、なぜか風が吹いており、女性の悲鳴のようなものが聞こえた後、みんなが自殺行為に走っているというもので、何が原因なのか判然としません。

その奇怪な現象は、どんどんその範囲を拡大しており、エリオットたちの住むフィラデルフィアでも同様な事件が発生し、世界の終末がやってきたような雰囲気になってきます。死体からは神経系の毒素が発見されるのですが、それを止める方法は見つかりません。エリオットは列車を降りた田舎町から、車で移動することになりますが、その行く先は死人だらけ、車を捨てて草原を徒歩で逃げる集団の中からもさらに自殺者が出てきます。どうやら、人が集団がいるとそれは発生するようなのです。エリオット達を車に乗せてくれた農家の男は、これは植物が防衛本能から、人を死なせる科学物質を発生させているのだと言います。だから、人の多い大都市で、それも緑の多い公園から始まったのだと。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



シャマランの映画は大体ラストで「えー、びっくり」な結末を用意していることが多いのですが、前作の「レディ・イン・ウォーター」から宗旨替えしたのか、ラストまで強引に突っ走るパターンもとるようになってきました。今回も特に大ドンデン返しはありません。まあ、びっくりと言えば、主人公夫婦と子供が死を決意して、外に出てみれば、その現象は止んでいたというのがそれにあたるのかもしれませんが、ドラマの根幹を揺るがすようなびっくりではありません。今回のテーマは、植物が人間に対して何らかの意図を持って、人間を死に至らしめる化学物質をばらまいたらしいという、自然からの逆襲が中心に据えられています。ただし、ドラマとしての核は、人類滅亡が始まったときの人間の不安と恐怖を描いたものと言えましょう。

人類滅亡がくるというので、世をはかなんで自殺するというのが順番なのですが、先に自殺が始まって人類滅亡ってのは、ちょっと面白いなって思ったのですが、その原因が植物の出す化学物質だというのですから、身近で不気味なリアリティがあります。自然界の法則が崩れることで、赤潮や藻が異常発生したりすることがありますが、今回の事件もそれと同じレベルだというのです。何かが臨界値を超えてそれに感応した植物が自分たちを保護するために行動を起こしたのだと。そして、植物は種を超えて情報交換能力があって、それにより行動を世界レベルまで広げることができるのだというのです。だとすると、なぜ1日でその行動が終わってしまったのかは、この映画では説明していません。しかし、ラストでフランスでも同様のことが発生し始めるエピローグがつくことで、植物はマジで人間に復讐しようとしてるぜ、というところを見せます。

この理屈があるようなないような世界を、この映画では、うまく雰囲気で作り上げることに成功しています。主人公は何が何だかわからない中で、それなりの理由を見つけて、何とか対処しようとしてまして、後付けで言うなら、それは的を射ていたのです。でも、最後は死を覚悟しなければならないところまで追い詰められます。これは、得体の知れない何物かが世界中を滅ぼそうとしている「ミスト」と似たような展開と言えましょうし、トム・クルーズの「宇宙戦争」の植物版と言えばそんな気もします。

さて、設定としての面白さはかなりのものと思うこの映画ですが、細かい点は彼らしからぬ大雑把になっているのが気になりました。映画の中で同じ場所にいても自殺する人としない人がいたのはなぜか、列車の乗客はどこへ消えたのか、とか、ラストの老女の家で無駄にサスペンス演出してるのはなぜか、など結構突っ込みどころがあるのですよ、これが。やはり、世界規模の大事件を扱うには彼は向いてないのかなあって気がします。私に言わせると「レディ・イン・ウォーター」みたいな映画が一番彼らしいような気がします。

戦士映画音楽コンサート「男たちへ again」はとにかくやってくれたことに感謝

戦士映画音楽コンサート「男たちへ again」を、渋谷 C.C.Lemonホールで聴いてまいりました。猛暑の中、リハーサルが長引いたせいか、入場できず、冷房のないロビーに30分待たされて大変だった上、買った席が1列目の左側というバッドポジション。席が満席なら仕方ないと思うところが、去年よりややマシのお客の入りで、始まるまでの印象はあまりよくなかったのですが、演奏は満足いくものでした。去年は東京交響楽団だったのですが、今年はオーケストラ・ゼロというこのコンサートのために編成したもので、中には東京交響楽団のメンバーも加わっているようです。72人編成を斉藤一郎氏が指揮しています。以下に演奏順(だと思います。プログラムと順番が入れ替わっていて、ちょっとだけ曖昧)

「ザ・ロック」
ハンス・ツィマー、ニック・グレニースミス、ハリー・グレグソン・ウィリアムスの共作による、アクション映画音楽の典型を作ったというべき曲です。アクションシーンのオーケストラぶん回しサウンドを期待したのですが、そっちは頭にちょっとだけ、それもマーチ風のドラムが入るという編曲がされていて、がっかり。後は、悲壮感あふれるメインテーマの演奏で、それはそれで聴き応えがあったのですが、期待していたのとはちょっと違うかな。

「バックドラフト」
ハンス・ツィマーによるマーチは、軍隊じゃなくて消防隊のためのものですが、さすがに大きなオケでやると迫力があります。ちょっとだけ入るバグパイプがアクセントになっていました。

「パットン大戦車軍団」
ジェリー・ゴールドスミスによる名曲ですが、メインテーマとマーチの曲を合わせたような編曲になっていまして、私の席がバイオリンのすぐ前だったこともあって、弦の厚みが感じられる演奏になっていました。

「鷲は舞い降りた」
昨年のコンサートでもナンバー1だと思ったのですが、今回のコンサートの中でもピカ1の楽曲、そして演奏でした。ラロ・シフリンによる、映画のオープニング曲の盛り上がりから、マーチの重厚感まで、サントラ盤で聴いた以上のインパクトと迫力がありました。

「大脱走」
これは、このコンサートの趣旨にもっとも合ったナンバーでしょう。テレビ放送時に何度も聴いたマーチが大変見事でした。盛り上がりへ向けての音の厚みも十分でしたし、改めてエルマー・バーンステインらしい音楽なんだなと再認識しました。

「Uボート」
オープニングのゆっくりとじわじわ響いてくる曲は、もともとはシンセ主体の音楽だったのですが、これをオーケストラで演奏したら、オリジナルより軽いタッチになってしまっていたのが意外でした。その重厚なテーマに続いて、戦闘シーンの曲がアップテンポで迫力ある音になっていました。

「プラトーン」
事前のアンケートで第一位だったのがこの曲だそうで、これは意外や意外。音楽は、サミュエル・バーバーの弦楽のためのアダージョなんですが、前回の時も地味に長くて、退屈した記憶もあるので、これが1位ってのはないよなあって感じ。となりのおじさんも寝てましたし。まあ、私はバイオリンの細かいところを聴けるポジションにいたので、それなりに楽しめたのですが。勇ましい曲の中にこういう曲があったのが新鮮だったのかもしれません。

「ブレイブハート」
スコットランドとイングランドの戦いを舞台にした映画で、ジェームズ・ホーナーが作曲した一品。これまで、明快なテーマ、メロディを持った曲が演奏されてきたので、こういう大味な曲は今一つ印象に残りにくいのですが、後半でバグパイプとオーケストラの掛け合いになってから、聴き応えがありました。

で、休憩が入って、後半。

「戦争のはらわた」
童謡の「ちょうちょ」のメロディとドイツ軍の勇ましい曲と主人公のテーマという3つの主題が入れ替わり反復されるという構成をとった曲です。どれがメインなのかわかりにくく、アーネスト・ゴールドのオリジナル部分はどこかいなと、気になる演奏でありました。

「栄光への脱出」
同じく、アーネスト・ゴールドによる楽曲で、これは、映画よりも音楽の方が有名ではないかしら。色々なところで、耳にする機会があります。こういうスケールの大きな曲は、大オーケストラで聴いてこそ堪能できると言えましょう。ただ、メインメロディ部分が早すぎるような気もして、何だか落ちつかない編曲だなあって言う印象も持ってしまいました。このあたりは好みにもよるのでしょうけど。

「プライベート・ライアン」
ジョン・ウィリアムスによる鎮魂歌のようなですが、オリジナルではもっと地味だった音をコンサート用に編曲したのかなって感じでした。


「シンドラーのリスト」
同じく、ジョン・ウィリアムスによる楽曲は、バイオリンソロが聴かせ所になっています。サントラ盤では、感情をかき乱すような泣きのサウンドになっていたのですが、コンサートでは、曲のもつエモーショナルな部分を押さえたという印象が残りました。これも、なぜか、テンポが早いんじゃないかという印象を持ってしまったのですが、私の耳が年寄りになったからかしら。

「硫黄島からの手紙」
カイル・イーストウッド、マイケル・スティーブンスによる楽曲は、オープニングのピアノソロ、そのメロディをなぞるトランペットソロが大変印象的でした。その静かな音は戦争映画とは違う、独自のノスタルジアを運んできます。

「アポロ13」
ジェームズ・ホーナーによるこの曲は、昨年のコンサートでは、発射前の部分しか演奏されませんでした。今回は、ラストに持ってきて、発射前、発射の瞬間、そして無事帰還の3部構成でたっぷりと聴かせてくれます。スケールの大きさを感じる楽曲、演奏で、コンサートのラストを飾るにふさわしいものとなりました。

で、ここから、アンコール
「決断」
古関裕而による、テレビアニメのテーマ曲で、これがモロに軍歌のノリでして、何だか調子のよい曲ではありました。後半、客席にいた10名が立ち上がって合唱が加わるという仕掛けになっていまして。好きな人にはたまらん趣向でしょうが、私は軍歌系は興味ないので、「へー」と思うのみでした。

(曲名不詳)
これまた、今度はドイツの軍歌なのでしょうか。曲目は知らないのですが、ドイツ語らしい歌詞が聴かれた威勢のよいマーチです。まあ、戦士映画音楽傑作選というからには、最後は威勢のよいマーチでしめたいと思うところなのでしょう。

昨年に比べて、お客さんは増えていたようで、次回の期待も生まれたような気もする、いい演奏会でした。昨年の様子から、もう次はあるまいと思っていたので、とりあえず、やってくれたのを感謝です。会場を出る前のアンケートのリクエストには、「トラトラトラ」と「皇帝のいない8月」を書いておきました。第3弾があるのであれば、この2曲、特に「皇帝のいない8月」を切に希望する次第です。

「ギララの逆襲」は大きいお友達向けの限定品、ご予算かなり控えめ

今回は新作の「ギララの逆襲 洞爺湖サミット危機一発」を川崎チネチッタ8で観てきました。怪獣映画なのに、夜一回の上映ってのはおかしいんじゃないかと思いつつも、スクリーンのスケジュールの合間をとったような大劇場の公開はちょっと得した気分。

洞爺湖G8サミットが行われている真っ最中、札幌に怪獣ギララが現れます。熱に反応する怪獣らしく、発電所が襲われます。これを見ていたG8の面々は先進国の首脳が集まっているのに、おめおめ逃げるわけにはいかないと、サミット会場をギララ対策本部にしちゃいます。最初は日本の作戦で昭和新山を活性化してその熱でギララをおびき出し、ミサイルでしとめようとしますが失敗、イタリアの落とし穴作戦、ロシアの毒薬作戦、イギリスの洗脳電波攻撃、ドイツの毒ガス作戦、どれも失敗してしまいます。一方、東京スポーツの記者すみれ(加藤夏希)とカメラマン三平(加藤和樹)は森の中の神社で、タケ魔神を祀る人々に出会い、その伝説の取材をしていました。果たして、G8はギララの進撃を食い止めることができるのでしょうか、そして、タケ魔神の秘密とは?

1967年に松竹が公開した「宇宙大怪獣ギララ」は当時の怪獣ブームにあてこんで作られた映画で、松竹が唯一作った怪獣映画という以上の評価は得ていません。「ギララの逆襲」というとその続編かなという気もするのですが、お話としては独立したもので、「いかレスラー」「ヅラ刑事」などの低予算映画を作ってきた河崎実が共同脚本、監督をしました。特撮は特撮研究所が担当していますが、特撮シーンの演出は河崎監督自らが行ったようで、佛田洋は特撮アドバイザーとしてクレジットされています。出演者は、安部元総理、小泉元総理のそっくりさんに、夏木陽介、黒部進、古谷敏、和崎俊也、中田博久なとの特撮映画にゆかりのある面々が参加しています。

で、どういう映画になったのかというと、ここ数年公開されたヒーロー&怪獣映画の中で、もっともチープ(お金がかかっていない)でくだらない映画に仕上がっています。河崎実が監督するという時点で、ビッグバジェットの大作は期待できないかなと思っていたのですが、まさかここまでと思うような仕上がりには、結構ビックリしちゃいました。特撮シーンだけ言えば、テレビの戦隊モノと大差ないというか、クオリティでは負けているかも。

冒頭、G8が始まって、その取材に来た主人公のすみれと三平が森の中でお神楽のような音を耳にして、森の奥に入っていくと、神社の境内で人々が踊っています。この踊りから、もうオフザケでして、ビートたけしのコマネチのポーズで「ねちこまねちこまー」って歌い踊るんですもの。マジメな映画じゃないってのは冒頭からわかってしまいます。そして、ギララ登場で、ようやっとタイトルが出るのですが、このタイトル曲が、ゴジラシリーズの伊福部昭の音楽の丸パクリ。それも、シンセの音が前面に出るものですから、何だか、すごーく「安い」って感じなんです。タイトルは昔の怪獣映画のタイトルのパターンを再現しているのですが、ここまでで、どっと気が抜けます。

そして、話が昭和新山へと移るのですが、そこから先のギララ撃退作戦も、展開がモタモタ、というよりはのーんびりしてるので、いわゆる笑いをとるためにやっているんだなあってのが見え見え、そののどかな展開が嫌いでなければ、結構楽しめるのですよ。しかし、対策本部に小泉元首相(役名は大泉)が現れてからは、ちょっとミョーな様子になってきます。



この先は結末に触れますので、ご注意ください。



核兵器を使用しようなんて、危なげなことを言い出す小泉元首相なんですが、その正体は、何と北の独裁者さま、というよりは、金正日のそっくりさんで、サミットの場にいた通訳の女性は喜び組だったのです。そして、ギララに戦略核兵器であるポテドン55を発射します。うーん、何じゃこの展開はというか、それで何がうれしいのかというメンタリティがわからないまま、核ミサイルが日本に飛んできます。そして、もしそのミサイルがギララに命中すれば、ギララは無限大に増殖することが判明、今度こそホントに地球の危機になってきます。

一方、すみれはタケ魔神の話を聞いて、それを信じ、村人とともに、タケ魔神の踊りを踊っていました。そして、神社の奥にいたタケ魔神像が輝いて、ギララの前にタケ魔神がその姿を現します。顔はビートたけしと大魔神を足して2で割ったような感じで、声だけビートたけし本人が演じています。さて、ポテドン55を吸収したタケ魔神は、ギララと格闘の末、巨大な光の輪を発射し、ギララの頭をふっ飛ばします。と、まあ、ここが一番のクライマックスになっているのですが、これが何とも安い出来栄えなのですよ。特撮に関しては、ホントに予算がなかったらしく、札幌に現れるシーンからして、41年前の「宇宙大怪獣ギララ」からフッテージを流用している有様でして、爆破シーンもオリジナルには見えません。その後は、狭い岩場のセットだけで、全シーンを撮っているのです。それに撮影が荒っぽいというか、岩の発砲スチロールが欠けてもおかまいなしに格闘してるし、ギララの着ぐるみが穴あいてるように見えたりと、劇場映画のレベルとは思えないのですよ。ああ、お金かかってないなあってのが、よくわかっちゃうのですが、河崎監督はそこは無頓着みたいで、格闘シーンが迫力のない演出でも、まあいいやって感じなのです。

全体が軽ーいノリのお話なのですが、その中で、加藤夏希だけがドラマのテンポに逆らってマジメに熱演しています。(何だかファンになっちゃいました。)後、怪獣映画ファンを対象にした趣向を数多く仕掛けてありまして、怪獣の名前を子供が決めちゃうとか、タケ魔神がもろに大魔神の設定のコピーだったり、細かいところに色々と気配りした節はあるのですが、それも、昭和の怪獣ファンをターゲットにしているので、今の子供には何だかわからないでしょうし、最近の戦隊ものにも劣る特撮のクオリティは、今の子供には相手にされないでしょう。昭和の怪獣ファンなら許容してくれるだろうという読みのもとに作っているようで、この映画、今の子供ではなく、昭和の怪獣ファン(つまり、いい大人)を対象にしているらしいのです。それなら、シネコンで夜しか上映しないのも納得してしまいます。しかし、怪獣映画でありながら、子供を相手にしてないってのは、すごいことかもしれません。でも、それって隙間商売だよね、とも思うわけでして、ターゲットを絞り込んで安く小さく稼ごうってのかもしれません。

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Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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