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「永遠のこどもたち」はマジ怖い系のホラーです、宣伝にだまされないように。

今回は、東京では既に公開を終えている「永遠のこどもたち」を静岡シネギャラリー1で観て来ました。ここはアナログ音響しかないはずなんですが、音の立体感があって、サラウンドもきちんと鳴っていたのが意外でした。怖さを出すためかもしれませんが、アナログの音もきちんと設計されてるのは最近の映画では珍しいのではないかしら。

ラウラはかつて自分のいた孤児院の建物を買い取って、夫で医師のカルロスと共に、障害のある子供のための施設を始めようとしていました。息子のシモンは実は養子で持病がありました。そのシモンが新しい家の近くで新しい友達を見つけたと言い出します。そんな子供なんかいないのに。子供の想像癖だろうと思っていると、その友達を絵に描いてみたり、実際に誰かが仕掛けた宝探しをやってみたりと、何だかホントにいるみたい。施設の開園パーティの日、シモンは姿を消してしまいます。そして、半年が過ぎてもシモンの行方は知れません。一方、シモンについて変な問い合わせをしてきた老女がラウラの目の前で事故死するのですが、彼女はラウラがいた時の孤児院の職員であり、息子のトマスを他の5人の子供たちのいたずらで死なせていたのでした。藁にもすがる思いのラウラは、超自然学者の紹介で、霊媒を家に招き、その家に隠された謎に迫ろうとします。霊媒が語ったのは、その孤児院で起きた恐ろしい殺人でした。シモンは、霊の存在を確信し、彼らからシモンの居場所を聞きだそうとするのですが....。

「パンズ・ラビリンス」「ヘル・ボーイ」のギレルモ・デル・トロが製作総指揮をしたスペイン製の超自然スリラーです。スペインの映画賞であるゴヤ賞やバルセロナ映画祭でいくつも賞を取った作品だそうで、シネカノン有楽町とかヒューマントラストシネマ渋谷(旧アミュースCQN)といったちょっと小洒落た系ミニシアターで公開されたり、「愛を信じたら本物の光が見える」「本格スピリチュアルムービー」といった宣伝文句からすると、「パンズ・ラビリンス」のファンタジーを予感させるのですが、実物はさにあらず、「パンズ・ラビリンス」の暗黒面を拡大させたホラー映画でした。映画の良し悪しとは別に、売り方はおかしいんじゃないかと文句の一つも出ちゃいました。

オープニングで、美しい風景と音楽をバックに子供たちが「ダルマさんが転んだ」で遊んでいる風景が映って、おおこれはファンタジックな映画なのかなと期待させると、暗転してメインタイトルになると、音楽も不安なものに変わって、いわゆるホラー映画の出だしになります。そして、母と子のどこか不安そうな雰囲気をはらんだシーンに変わります。長編映画デビューとなるJ・A・バヨナの演出はオープニングから何か不気味な雰囲気を漂わせ、その空気感を最後まで通しますので、怖さは最近の映画の中でもかなり高いと申せましょう。最初に登場するシモンの見えない友達というのは、彼の空想の産物らしいのですが、元孤児院の新居に引っ越して、海辺の洞窟で新しい友達を見つけてしまってから、話は厄介なことになってきます。家の前に貝殻が積まれていたり、妙な謎かけの仕掛けがしてあったり、新しいお友達は、ラウラの前にも派手に不思議の痕跡を残していくのです。シモンは実は、養子で、HIV陽性でした。薬を飲み続けさせられる彼は自分の中に死の予感を持っているようでもあるのです。

そして、シモンは友達の具体的な絵を描いてみたり、友達のトマスの部屋へ行こうと言い出したり、そんな友達はいないと否定するラウラですが、開園パーティの日、シモンが姿を消してしまうのです。シモンを探し回るラウラの前に不気味な仮面をかぶった子供が現れます。その子供がラウラを浴室に閉じ込めて姿を消すまで、一連のシーンがかなり怖いです。ここで、ホラー気分がぐーんと盛り上がります。そして、シモンが姿を消した半年後、道で、かつてシモンの事を問い合わせに来た老女を見つけ、追いかけようとした瞬間、彼女は走ってきた車に撥ね飛ばされてしまいます。うわっというショックにさらにグロとショックで追い討ちをかけてくる演出に、ありゃー、えらいもんを観に来たのかもって気分になってきます。このあたりは、生理的にイヤーンな展開になりまして、これなら最初からそういうホラーで売れよと思ってしまいました。




この先は、結末に触れますのでご注意ください。




こうなると藁でもすがりたくなるラウラは霊媒師を家に招いて、降霊をやってもらうことになります。学者立会いのもとで、ビデオに記録しながら、霊媒師に見える情景を語ってもらうということになるのですが、ここで、驚くべき事実が判明します。5人の子供たちがある一室で毒殺されていたというのです。夫のカルロスは霊媒そのものを信用せず、また、そうだとしてもシモンを見つける助けにはならないと切り捨てますが、ラウラは、霊の存在を信じて、勝負に出ます。そして、霊たちの仕掛けたゲームに従っていくと、ついに倉庫の中で子供たちの焼却された骨を発見するのでした。トマスの母親であった女が子供たちを毒殺して死骸を焼いていたのです。遂に、ラウラは子供たちの霊を呼び出して、彼らからシモンの居場所を聞き出そうとします。

孤児院のベッドを昔どおりにして、一人で「だるまさんが転んだ」を始めるラウラの前に遂に子供たちの霊がその姿を現します。そして、子供たちを追って行った先で、地下の隠し部屋を見つけます。すると、そこにシモンがいるではないですか。ラウラが抱き上げて、気付くとその実体はなくなっています。そして、床には不気味な仮面をかぶった子供が倒れていました。その仮面をはずしたとき、全てが一本の糸でつながります。トマスの部屋へ行こうとダダをこねたシモン、地下へつながる倉庫でラウラは知らずに入り口を塞いでしまった、そして、階段から転げ落ちるシモンの音を彼女は聞いていたのです。仮面を取ると、それはやはりシモンでした。彼女は死体を抱えて、子供たちのいた部屋へと行き、そこで、死にいたる薬を飲みます。画面は暗転したあと、今はない筈の灯台の光に満たされ、ラウラはシモンをはじめ、トマスや子供たちに囲まれて幸せそうに微笑むのでした。

と、お話としては、相当に救いのないもので、どこが「愛を信じたら」やねん、どこがスピリチュアルやねんと突っ込み入れたくなるような結末です。霊を扱ったホラー映画とするなら、最悪の結末に一抹の救いを見せたということになりまして、そこは「パンズ・ラビリンス」の世界と一糸通ずるものがあると言えましょう。ラストで少なくとも、子供たちの霊は救われたように見えますもの。でも、あくまでホラーベースの上での救いでして、子供たちにとってはひどい死に様ですし、決してヒロインの葛藤や成長を描いたものでもありません。だって、運が悪すぎる話ですもの。単なる幽霊譚というには、映画の雰囲気が、常に、あの世へ、あの世へという方向に流れているのが、不気味で、かなり怖かったです。理不尽な死が山積みの映画ですから、癒しやファンタジーとは別物でしょう。あまりに理不尽な死が、死によってあがなわれるというのは、純粋ホラーとも言うべきものです。子供の幽霊とヒロインがかつての孤児院仲間だったというのは、多少の因果も感じさせるものではあるのですが、因果応報というには、あまりに残酷な結末なのですが、ラストで救われた気分にさせるあたりのうまさはホラープラスアルファのうまさだと思いました。だんだんと建物にとりこまれていく主人公というのでは、「シャイニング」「たたり」といったホラーの流れを汲むものでしょう。

グロい描写やドッキリショックもあるのですが、バヨナの演出はドキドキさせる怖さではかなりいい線いっています。特に中盤、仮面をかぶった男の子が現れるシーンの怖さは見事でした。全体の雰囲気描写がいいので、グロやショックはいらないかなって思ったのですが、以前にも同じような感想を持った映画がありました。それは日本映画の「リング」なのですが、どこか似たような怖さを持った映画に思えたのでした。(これは誉めてるつもり)

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「イエスマン」は職人芸の面白さでよくできててヒロインキュート

今回は新作の「イエスマン」を109シネマズ木場7で観て来ました。このシネコンは入場した中にトイレがないのが何か変な感じ。

銀行員のカール(ジム・キャリー)は何にでもノーと答えるネガティブな変わり者。融資の係をしても絶対通さないし、電話の着信も無視しちゃいます。そんなカールが無理に誘われた自己啓発セミナーに顔を出したら、これが全てにイエスで答えようというもの。カリスマ的リーダー、テレンス(テレンス・スタンプ)のレクチャーにすっかりその気になってしまったカールは、それからは何でもイエスと言うように心を入れ替えます。すると仕事も調子よくなるし、アリスン(ズーイー・デシャネル)というガールフレンドもできます。ノーと言わなくなった彼は趣味も付合いも増えて、人としても一皮むけた感じのカールですが、アリスンと出かけた旅行先で、FBIに逮捕されてしまいます。そして、セミナーのことがアリスンに知れてしまって、じゃあ、単に自分で考えないでイエスって言ってたのねってことになって彼女に振られてしまいます。それでも、彼女をあきらめきれないカールなのですが....。

私の好きな映画「チアーズ」の監督ペイトン・リードの新作は、ジム・キャリーを主演にしたコメディです。アクの強いジムが主演していると、そのキャラに引きずられちゃうことも多いのですが、この映画では、ジム・キャリーのキャラも生かしつつ、設定の面白さで最後まで楽しませるコメディに仕上がっていまして、リードの職人らしい演出のうまさが光る一品になっています。

冒頭では、ちょっとヒネクレ者のカールの日常が語られまして、このままだと孤独死だぞと友人に言われて、自分でもさもありなんと思ってしまうところがおかしいです。そんな彼が古い知り合いに誘われて出かけるセミナーがなかなかありそうで妙なのです。「人生で大切な言葉はイエス、イエスを100万回も言うことが大事」なるほど、ポジティブな考え方ではあります。ノーと言っちゃったらそこで終わりだけど、イエスと言えば、そこから始まる、怪しげと断じてしまうには惜しい、なかなかいいこと言ってるのですよ。集まったみんなでご唱和しましょう「イエース」なんてところは鼻白むところもあるのですが、ここには特定個人への傾倒を強制するような胡散臭さはありません。でも、それを真に受けちゃうとどーなるってところをコミカルに見せることで、正しさのはらむ滑稽さを描いているあたり、この映画、なかなかいいところを突いてます。

でも、セミナーで「イエスしか言わない」って宣言しちゃったカールは、根がマジメなのか、それを素直に守っちゃうのです。すると、上司の受けはよくなるし、友人との関係も修復するし、たまたま遭遇したかわいい女性と再会することもできるといいことずくめ。ノーと言えなくなっちゃったせいで、仕事で融資のお願いも全部イエス、それが意外や銀行の幹部からも評価されて意外な出世。こうなるとイエスのご利益侮りがたし。ところが、彼女と出かけた旅行先で「私と同棲して」と言われて、躊躇したところでケチがついて、帰りの空港で、FBIに逮捕されてしまいます。その理由が彼のイエスマンになってからの行動(ばんばん融資したり、飛行機操縦習ったり、韓国語習ったりなどなど)からテロリストだとマークされちゃったというのです。イエスセミナーがトンデモだなあって思ってたら、上には上のバカがいるという展開は笑えるけど結構恐ろしい。そして、その結果、彼女にも振られちゃうのですから踏んだり蹴ったり。でも、ここまでまだイエスのご利益とそれを怠った天罰の仕掛けが生きてるってところがこの脚本よくできてます。

思い余ったカールは、教祖のテレンスに誓いを解きたいと彼の車に無理やり乗り込んだら事故ってしまって病院にかつぎこまれてしまいます。そこでテレンスが言うには、最初は形から入ってイエスを言い続けることが大事だが、そのうちに自然にイエスが言えるようになる、と、言われてみれば、そうだねってカールも納得します。イエス教もまんざらムチャ言ってるわけじゃないという描き方は妙にリアルというか、単なるバカコメディじゃないという趣が出ました。確かに、自然に前向きになるために、まず形から入るってのはありだなって気がしますもの。

そして、病院から彼女のところに直行して、定番のハッピーエンドになるわけですが、リードの演出は小ネタをていねいに散りばめて、はしゃぎすぎず、でもスカスカにならないちょうどいいさじ加減で映画をまとめています。アリスンのやってるロックバンドにファンが5人しかいないライブというのは、アキバの地下アイドルみたいでおかしいですし、カールの飲み友達とか、ジョギング・フォトとか、DVDの「SAW」に突っ込み入れてる主人公とか、よくやってるなあって感じでしょうか。

また、脇にキャラの強い面々をそろえているところも成功してまして、主演のアクの強さとうまくバランスを取っています。特に、ヒロインのズーイー・デシャネルがナチュラルな不思議系という感じで大変魅力的でした。この人、こんなにかわいかったんだーと新しい発見をした気分です。

「君が代不起立」には色々思うところありまして

今回はドキュメンタリー「君が代不起立」をシネマジャック&ベティのCAFEシアターで観て来ました。劇場の階下のロビーみたいだったところにいすを並べてプロジェクター上映をする空間で、ワンドリンク付というのも映画館ぽくありません。まあ、ジャック&ベティからもこぼれてしまうような映像をここで拾ってみんなに観てもらおうという意図は感じます。

2003年10月に東京都教育委員会から出された通達は、学校のイベントでの国旗掲揚、国歌斉唱を義務付けるもので、それに従わない教員は処分の対象にするという厳しいものでした。実際、卒業式の国歌斉唱で起立しなかった教員は停職、減給といった処分を受けています、この映画では、実際に処分を受けた根津公子さん、河原井純子さんを中心に、実際に処分を受けても、まだ式では起立することを拒否し続ける人々を描いていきます。根津先生は停職中も学校の門の前にプラカードを持って立ち、この処分がおかしいと訴え続けます。でも、非起立という行動が様々な想いを引きずってしまうことから、事がややこしくなっているようなのです。そして、そもそもの通達自体に違憲の判決が下り、さらに係争中であることも映画は示します。

石原知事になってから、東京都も右旋回していて、そんな話もあったよなあってくらいのつもりで臨んだのですが、これが意外といろいろな問題をはらんでいることを実感することになりました。この映画は、明らかに「君が代不起立」を支援する立場から描かれていまして、それを承知の上で臨む必要があります。また、映画を観た後、「君が代不起立」でWeb検索もしてみたのですが、これはやばいことになってきたのかもと思うに至りました。

まあ、国旗や国歌があるのは普通だとは思うのですよ。憲法があるのと同じくらい普通のこと。じゃあ、それを否定するのはどうしてなの?というところで、もう議論のすれ違いが始まっています。国歌の存在が悪いんじゃなくて、大東亜戦争で悪いことをしたおおもとである天皇を敬う歌を奉っちゃうのはどうなのという視点なのです。それは、かつての戦前の体制に戻したい皆様の思想操作の第一歩ではないかという意見のようなのです。そんなの発想が飛躍しすぎ、じゃあ、今のオリンピックの表彰で盛り上がるのも軍国主義への道を進み始めているの? というご意見も一理あります。でも、国旗、国歌はあって当然、今あるのは日の丸と君が代だから、それを大事に奉ろうというのは、なーんか、既成事実を積み上げようとしているのではないかしら。君が代に何の疑惑も感じない世代に定着化させてから、さあ意味を噛み締めてみよう、日本の精神なのだから、なんてことをやるんじゃないのって気はします。お上のやる事を疑わないで流されちゃうと戦前の歴史を繰り返しそうな危惧はあります。

そもそも、学校の先生が評判よくないのに、思想団体としての日教組ってのがあるんですよね。共産主義で、親北朝鮮で、反日で、とえらい言われようです。(でも、日教組が今よりも頑張ってたころ、日本の子供の学力は世界一って言われてたのは忘れ去られてるんですよね。)反日の丸、反君が代も学校の先生がやると、否応なしにその括りに入れられてしまうのですね。だから、憲法の「思想と良心の自由は侵してはならない」なんてのを国を否定してる連中が言うんじゃないってことにもなります。さらに、公務員でお上からお金をもらっている人間が、それに逆らうことをして処分されて文句言うのはおかしいという理屈もあります。国民の税金で食べてるのだから、社畜ならぬ公畜ってことになるんでしょうか。

この映画の中で、根津先生の支援団体が「生徒を戦場に送るな」とシュプレヒコールしたり、「憲法9条を守れ」といったゼッケンをしていたりと、かなりイデオロギー臭が見え隠れするのが、気になりました。また、根津先生自身が「他の先生が起立して歌っているのを見て呆然とした」と語るように、個人の自由のレベルではなく、主義主張の闘いなのだとわかってきます。私は、「君が代不起立」という行動自体は、民主主義の立場から支持したいなあと思うのですが、それを支持した途端に、他のもろもろの政治観、イデオロギーも支持したことになっちゃうのなら、躊躇しちゃいます。

あー、そうか、国歌があるのがあたりまえ、ということに賛成するのはいいんだけど、それは君が代を肯定したことと思われるのはいやだなあっていうのと同じ理屈です。そう考えると、何かを支持しただけで、反日、国家主義者、アカとか極右とかレッテルを貼られちゃうご時世なんだって気付かされます。うかつに自分の意見は言えないよなあ。極端な意見に拡大解釈されてしまうのを覚悟しないと、思うことが言いづらい世の中なのかもしれません。

とはいえ、自分のブログで思ったことが書けないことはないですから、この映画に対して言いたいことは言ってしまいたいと思います。この根津先生のやろうとしていることは、言論の自由の中では保護されるべき行動だと思います。学校の入学式や卒業式でそれをやることも、教育上悪いことだとは思いません。様々な意見があるってことを知るいい教材だと思うからです。公務員がやるからけしからんというのも、そんなことはないです。日本の国で日本の悪いところを言えないとしたら、日本は自浄作用のない国になっちゃいますし、そもそも、そんな理由で言論を封殺したら、それこそ戦前の二の舞です。日本のここがおかしいと言うだけで、その人に反日というレッテルを貼る人は結構いるようですが、自分の気に入らない意見を、意見以前に人間ごと否定しちゃおうってのは、やはりおかしいと思いますもの。

じゃあ、君が代自体はどうなの?ってことなんですが、これは好き嫌いのレベルで嫌いです。だって、天皇家が長い間栄えますなんてのが、国民主体の国歌にはふさわしいとは思えないからです。そもそも日本の歴史が天皇家の歴史とだぶるような皇国史観は、天皇がいて、ボクがいる、みたいな国家観で好きになれないのです。全て天皇の子とすると、日本は特別な神の国みたいな変な優越感(ひっくり返せば、他国への差別感)が出てくるのも不快です。

ただ、前述しましたように、戦前から戦後にかけての歴史の記憶が風化し、君が代が制度的に国歌として根付いてしまうと、形から思想が復活させられる危険は感じます。アメリカで、キリスト教至上主義が州によっては学校で教えられるようになっている現実からしますと、古事記至上主義が絶対ないとは言い切れないような気もするからです。だって、人間、国境を越えてもそう大差はない、似たようなもんでしょ。

「ダイアナの選択」のサントラは、微かに聞こえる音が映画の支えに徹してます


過去と現在が交錯する不思議な味わいの映画「ダイアナの選択」の音楽を書いたのは、この映画の監督とは「砂と霧の家」でも組んだジェームズ・ホーナーです。ホーナーというと「タイタニック」が有名で、メロディアスな旋律をオーケストラを鳴らす人というイメージがありますが、一方で、ドラマの支えに徹した音楽を書くこともあります。また、この人は、パクリとか自己再生産とか言われちゃうこともあるんですが、とにかく音楽としての良し悪しより、映像と一緒になったときに、どこまでドラマをサポートできるかということを最優先しているようなところがあるまして、この映画でも、音楽はほとんどというか全然自己主張しないで、絵のサポートに徹しています。

ドラマのバックにストリングス風のシンセサイザーが流れ、それにピアノが爪弾きのように入ってくるという音作りはどこか浮世離れした幻想的な感じがするのですが、だからと言って、聴くものを包み込むような音ではなく、むしろ、無造作に鳴っているような音です。だから、サントラ盤として聴いたときは音楽としては物足りなさを感じてしまうのも事実なのですが、これが映画の中で、大変有効に機能していることもまた事実でして、映画音楽として、ああこういうのもあるのかという意味で大変興味深い音になっています。

シンセサイザーの音にピアノの音がちょっとだけ絡むという音作りが、不安定なヒロインの描写をサポートしています。後半、ちょっとだけドラマチックになるのは、学校での乱射事件の現場の描写が入るからで、あくまでヒロインの音楽は聞こえるか聞こえないかくらいの音量で、効果音と同じ扱いみたいな使われ方をしています。とはいえ、映画の感動を追体験するという意味のサントラ盤としては、いい線いってると思います。むしろ、改めて、音楽が鳴ってたのかって気付かされるという感じでしょうか。

「ダウト」のサントラは映画を静かに支えています


舞台劇の映画化「ダウト」で、重厚かつ緊張感あふれるドラマに音楽をつけたのは「ロード・オブ・ザ・リング」のハワード・ショアです。いつも、厚い音でドラマを力強くサポートする彼の音楽なのですが、今回はちょっと勝手が違うようで、私が映画を観ていても、聖歌のコーラス以外は音楽がほとんど聞き取れませんでした。言葉を変えれば、音楽に全然気がまわらないくらい、ドラマに引き込まれていたということになるのですが、そんな映画のサントラ盤が発売されているというのも意外でした。録音時間33分に19の曲が入っているという細切れの構成は、そっかー、ちょっとずつどこかで鳴っていたんだなあって納得した半面、アルバムに入っている曲が全て映画で使われているのかなーって気もしてしまいました。

映画のポイントとなるところは、セリフによる丁々発止のやりとりになっていますので、音楽の入る余地が少ない映画ではありました。そんな中で個々の短い楽曲は、場所や時間をつなぐブリッジ的な使われ方をしている部分が多く、それだけに耳に残りにくかったのでしょう。オープニングからピアノと木管にストリングスという構成で、静かに不安な時間を描写しています。ドラマが展開していっても、音楽がメリハリをきかせてドラマを引っ張ることはしません。メロディアスなテーマもなくて、非常に地味な音作りは、アルバムとして音楽を楽しむには不向きなのですが、それでも、映画全体に流れる緊張感が音楽にも感じられて、短いけど密度の濃い音作りを再確認することができます。

いつものようなオーケストラを縦横に鳴らすというショアのタッチとは異なる音でして、教会を舞台にしていますが、宗教臭さは感じさせない、どこか不安で、落ち着かない楽曲になっています。対象を描写するというよりは、一歩離れたクールな音に仕上がっているのが面白いと思いました。ショアが編曲と指揮も行っています。

「ダイアナの選択」は自由に感じる映画で、後味も人それぞれ(と思います)

今回はシネスイッチ銀座1で新作の「ダイアナの選択」を観てきました。滅多にここへ足を運ぶことはないのですが、関東圏でここでしか上映してないのでやむを得ずって感じかしら。でも、以前に比べて座席も音響もずいぶんとよくなっています。(以前ってのが20年くらい前なんですが)

アメリカの田舎町、母であり高校の美術教師でもあるダイアナ(ユマ・サーマン)は、15年前の記憶に今も心の平穏を得られないでいました。高校生のダイアナ(エヴァン・レイチェル・ウッド)は母親と二人暮らしでしたが、母親は毎日仕事で忙しく、そのためか学校でもトラブルが絶えませんでした。しかし、そんな彼女にモーリーン(エヴァ・アムーリ)という友達ができます。遊び人風のダイアナとは対照的なマジメなモーリーンなんですが、なぜか二人は気が合いました。でも、ダイアナは麻薬の売人と付き合って、できた子供を堕ろすなんてこともしています。でも、生物のマクロード先生の言うことは胸に響いたダイアナ。先生の薦めで聴きに行った講演の講師が今のダイアナのダンナ、ポールでした。そんなダイアナとモーリーンに運命の日が訪れます。同級生のマイケルが学校で機関銃を振り回して生徒や教師を殺しまわり始めたのです。女子トイレにいた二人に向かって、機関銃の銃口を向け、二人のうちどちらかを殺すと脅すマイケル。絶望的な恐怖の中で、私を殺して、と言うモーリーン、さらにお前はどうすると言われたダイアナは「私を殺さないで」と叫んでしまうのでした.....。

「砂と霧の家」でヘビーで救いのないドラマを演出したヴァディム・パールマン監督の作品です。と言うのは後で知ったことで、映画館でチラシを見て、コロンバイン高校の生徒による銃乱射事件の後日談らしということで、食指が動きました。しかし、映画は実録モノではなく、高校での銃乱射事件を物語のキーに使ったフィクションのようです。

現代と15年前が交錯する構成を取っていまして、冒頭で、女子トイレにいた二人の前に機関銃を持ったマイケルがやってくるシーンが登場します。そして、現代のダイアナに話が移ると、ちょうどその日が事件から15年め。彼女にとってはつらい過去と向き合わねばならない日です。夫のポールも彼女を気づかうのですが、ダイアナは心ここにあらずといったように見えます。それでも、娘のエマを学校に送り届けて、自分も高校で美術史の授業を行うダイアナ。でも、通りがかりのおじさんが事件で死んだマクロード先生に見えたりするあたり、心の傷は癒えていないようです。娘のエマは学校で問題児のようで、先生に呼び出されちゃうダイアナは、エマをしかりつけるのですが、小生意気な顔を見せる娘にいらついてしまいます。何だか、昔の母親とダイアナの関係を再現しているみたい。

並行して描かれる高校生の頃のダイアナは、ドラッグをやったり、他人の家のプールで泳いだり、そこで彼氏とエッチしちゃったり、かなり奔放な感じもして、世間からもアバズレっぽく見られてしまっています。そんな自分の有り様に苛立ちを感じ、未来への希望を持ちたいと思いながら、今に引きずられてしまっています。この町にすっと暮らしていたくない、学校も嫌い、若い子なら誰でも思うことを彼女も普通に感じていました。そんな彼女とは正反対なモーリーンとウマが合うってのは不思議な感じがします。マジメで信仰心も厚いモーリーンは、何くれとなくダイアナのことを気にかけてくれるのです。そんな彼女が銃口を前にして、ダイアナのために自分を犠牲にしてくれと言い放ったとき、二人は固く手を握り合ったのですが、自分も銃口を向けられたとき、ダイアナはその手を放してしまったのです。それが、彼女をずっと後悔の念で苦しめてきました。




この先は結末に触れますので、ご注意ください。(結末を知らない方がいい映画です。理由は後述)




現代のダイアナ、彼女は道で若い女の子と手をつなぐダンナを発見して、それを追いかけて、車にはねられてしまいます。怪我は大したことなかったのですが、夫に絶望した彼女は思い立ったように、花を摘んで出かけます。事件の追悼セレモニーをやっている高校を訪れたダイアナは、事件現場へ足を運ぶ途中に、携帯電話に呼び出されます。娘のエマが学校から行方不明になったというのです。森へ向かったらしいということを聞き、森の中を必死で娘を探すダイアナ。森の中に娘の姿を発見した彼女が駆け寄ったとき、ダイアナを呼ぶ声が聞こえ、気がつくと娘の姿は消えていました。

銃口をつきつけられている二人、お前はどうするんだと問い詰められたダイアナは、マイケルに向かって言います「私を撃って」と。次の瞬間、銃声が響き、ダイアナは床に倒れこむのでした。そして、その彼女のこれまでの過去と現在のドラマがカットバックでインサートされます。15年後のダイアナの姿が、若い彼女が死ぬ前に見たイメージだったのです。プログラムでは、死ぬ前に自分の未来が頭をよぎったということらしいのですが、そのイメージのつなぎ方がどうとでも受け取れるようになっていて、そこは実際に映画を観て判断するほうがいいと思います。私には、過去のダイアナと現在のダイアナの物語が並行したパラレルワールドになっていて、過去で自分の死を選んだことにより、現在の自分も消滅したというふうに受け取れました。理屈ではない、イメージを感じ取る映画になっていまして、事前に結末を知ってしまうと自分の感じ方が限定されてしまうので避けたほうがよいです。

死んだ時に自分の未来が頭をよぎったとしたら、その未来はあまりに平凡でささやかです。生まれた町で夫と娘との生活は、以前よりちょっといい家に住んでるくらいの違いしかありませんし、ダンナは若い子と浮気しちゃうし、娘は学校で問題児。死の直前の彼女の脳裏によぎったのが、そんな生活だったとしたら、ちょっと切ないものがあります。でも、そのありがちな家庭の風景こそが彼女の望んだものだとしたとき、その平凡な人生を奪うことの重さがずんと増してくるような気がします。だって、生死を分けた場所でのダイアナの選択は、一人の生身の女性としての良心の選択ということになるのですもの。

結末のたたみかけには、「えっ」と思うところもあるのですが、観終わった後になってじわじわと効いてくる映画です。生きるか死ぬかのところでの究極の良心の選択、そして、それによって奪われるささやかな未来とのコントラストに気付くと、胸がしめつけられるような感動があります。感動でわんわん泣かせる映画もありなのですが、たまにはこういう泣かせない感動の映画もあるんだなあって、感心してしまいました。

幻想的な絵を織り込みつつ、クライマックスの細かい編集で、一気に意外な結末へなだれ込むあたり、映画の見せ方としても大変にうまく、90分という時間にきっちりとまとめている点も高く評価したいです。今年のベストテンのまず一本決まりです。

「ダウト」に見る正しいことのあやふやさと悲しさ

今回は新作の「ダウト」を川崎チネチッタ10で観てきました。予告編で「ミルク」とか「レイチェルの結婚」といった地味目映画をやっていたので、ちょっとびっくり。でも、こういう映画を東京まで行かないでも観られるのはありがたい限り。

1964年のニューヨークのカソリック学校、校長のシスター・アロイシス(メリル・ストリープ)は厳格で生徒や教師から怖れられる存在でした。一方、その教会の司祭フリン神父(フィリップ・シーモア・ホフマン)は、教区と新しい関係を構築したいと思っている、いわゆる改革派でした。ある日、クラス担任のシスター・ジェームス(エイミー・アダムス)はクラス唯一の黒人生徒ドナルドがフリン神父に呼び出され、その後、酒臭い息をして帰ってくるのを目撃します。彼女は、迷った末に、その事をシスター・アロイシスに報告します。シスター・アロイシスは、フリン神父がドナルドに欲望を抱いて邪な行動をしたのではないかと疑惑を抱き始め、いつしか、それは確信に変わります。シスター・ジェームスも同席の場で、フリン神父を詰問するシスター・アロイシス。しかし、神父は自分は無実だと言い切ります。シスター・ジェームズはそれを信じて納得したのですが、シスター・アロイシスの疑惑は揺るがなかったのです。

「月の輝く夜に」で知られるジョン・パトリック・シャンリーが自分の戯曲を脚色して監督まで担当しています。限定された場所で限定された登場人物で展開する濃密なドラマは確かに舞台劇を思わせるものがありました。カトリック学校という特殊な環境が舞台なのですが、その設定をフルに生かしきったお話は見応えのあるものでした。

オープニング、フリン神父が教会の説教で「疑惑」について説くところから始まります。この映画では説教のシーンが3回出てくるのですが、その各々にドラマのテーマが含まれています。さて、学校の最年長クラスを若いシスター・ジェームズが担任しているのですが、禁止されている髪留めをしている生徒とか、授業中ラジオを聴いてる生徒とかいて、校長先生に授業中にチェックされちゃいます。厳格な校長先生に比べたら、若い担任シスター・ジェームズは、人を疑うことを知らないどっちかというと甘い先生です。シスターたちの生活は張り詰めた荘厳さに満ちている一方、神父たちはどこか自由な雰囲気があります。このあたりは、キリスト教に詳しくないのですが、男性と女性で聖職者の有り様が違うのかしら。さて、そんなシスター・ジェームズがフリン神父の行動に不審を抱いて、シスター・アロイシスに報告したところから、ドラマは動き始めます。

フリン神父が小児性愛者だったら、これはえらいことです。クラスで浮いてる黒人の生徒に目をつけるというのも、何だかやらしい。問い詰めるシスター・アロイシスに、フリン神父は、少年がミサのワインを飲んでいたと言います。そのことを穏便にすませるために自分は沈黙を守ってるんだと言います。それで納得するシスター・ジェームズですが、シスター・アロイシスはまるっきり神父を信用してません。シスター・ジェームズに、「あなたは単に厄介事を片付けたいだけで真実から目を背けようとしてる」とまで言い切ります。そして、フリン神父を失脚させようと動き出すのです。

この映画の面白いのは、二人のシスター、神父という3人の有り様がそれぞれに納得できるところがあるということ。確かにきっついシスター・アロイシスではあるのですが、そこまで追求する必要のある事態だというのもまた事実なのです。体中で善意を体現しているシスター・ジェームズではあるのですが、そこに事なかれ主義の影がうかがえるのもまた事実です。一方、神父は生徒の中で一番弱い立場であるドナルドを気にかけているようなのです。事実は一つな筈なのですが、それが三者の力関係の中で決まっていくところは、ちょっと怖いなとも思いました。学校という閉鎖された空間では、事実がいかようにも歪曲されることがありそうですもの。当事者の一方が子供ゆえにその証言がまともに取り扱われにくいでしょう。(これは、子供だから、大人のいいように扱われることと、本当に証言の信憑性が危ういという両方の側面があると思います。)

シスター・アロイシスはドナルドの母親を呼びつけて、事情を説明しようとするのですが、ここで母親から拒否反応に驚かされることになります。とにかく、母親はここでトラブルを起こして無事に卒業できなくなるのは困ると言い切ります。しかし、不正がまかり通ることは許せないと食い下がるシスター・アロイシスに、母親は息子がゲイでそういうこともあるだろうとまで言い放つのです。何だかんだ言ったって、一番息子を気にかけてくれているのは神父なのだとも言います。これは、観ている方もびっくりの展開になります。ああ、これで事件はうやむやになるのかなと思っていると、シスター・アロイシスはなかなかしぶといのですよ。



この先、結末に触れますので、ご注意ください。



遂に、シスター・アロイシスとフリン神父は一対一で対峙することになります。神父は、シスターの言うことを改めて否定するのですが、彼女はそれを信じないと言い切ります。こう言われては、何を言っても無意味になってしまうのですが、彼女はさらにたたみかけます。神父がこの教区に赴任する前に短い期間での異動になっていること、そして、さらに前の教区のシスターに神父のことを問い合わせたのだと言います。それまで自信に満ちていた神父の表情がくもります。そして、「あなたには理解できないことがある」と食い下がるのでしたが、シスターは辞任せよと最後通告を言い渡します。このシーンは見応えのあるものになっていまして、ストリープとホフマンの丁々発止のやり取りが見事でした。

結局、フリン神父は辞任し、別の赴任地へと去っていきました。シスター・アロイシスは正義を行ったと言えましょう。そんな、シスター・アロイシスですが、ある日、シスター・ジェームズに告白するのです。自分は、彼の前任地への問い合わせなどしていないと、そして、神父を追い詰めたのは自分の中に湧いた疑惑をどうすることもできなかったからだと。では、実際にフリン神父はドナルドによからぬことをしていたのでしょうか、それは、この映画の中でははっきりしないまま終わります。神父とドナルドの間で起きたことは本当に糾弾されるべきことだったのか、何かあったとしても、それが正義や神への反逆だと言えるほどのことだったのか、このあたりが判断つきにくいところです。例えば、神父がドナルドを抱きしめてチューしたのが事実だったとしたら、どうジャッジされるのか、特に黒人差別ゲイ差別がなくなりつつある現代の価値観でどう判断されるのか。そのあたりの曖昧さが映画のスパイスになっていると思いました。

とはいえ、原題が「疑惑」であるだけに、この映画のメインは疑惑に対する対処のプロセスにあるのだと思います。シスター・アロイシスが、フリン神父の不正を確信する根拠は、自分の体験からだと言い切ります。刑事モノで、「長年の刑事のカンで、あいつはクロだ」というのと同じです。そして、最後にブラフをかけて、その罪を認めさせちゃうというのは、刑事コロンボみたいで、ちょっとやり口としては汚れ仕事と言えましょう。それを厳格な聖職者であるシスター・アロイシスがやってのけるとそこに自己矛盾が生じてしまい、それが彼女を苦しめることになるのですが、果たして、彼女のやったことってそんなに責められることなのかというと、行動だけを追うなら、彼女に責められるところがあるとは思えません。

シスター・ジェームズが言うセリフ「あなたは、フリン神父がお嫌いなのですね」が印象的でした。シスター・アロイシスは悪いことしてるわけじゃないのに、何だか悲しいよなあって後味なのです。映画観てる最中は、思い込みが激しくて、懐の狭いヒステリックな女性のように見えるのですが、観終わってみると、彼女の行動はそれなりに正しいのにまるで報われないのが気の毒に思えてきます。でも、人間は誰しも善悪の微妙なところに立って生きているわけですから、これが正しいと言うことは、多分誰にも言い切れないのです。そして、その正義の曖昧さの弱みに、悪意がつけこんでくるのも事実なので、彼女のような存在は、必要悪、いやいや、悪というには正しい有り様なのではないかしら。でも、悲しい生き方に思えてしまうのは、私が正しいことから逃げているからかなって気もしてしまう映画でした。

「マンマ・ミーア」についてけなかったのは私だけ?でしょう、多分

今回は公開から時間がたってしまったけど、まだ上映中の「マンマ・ミーア」を109シネマズ川崎3で観てきました。

ギリシャの美しい島で小さなホテルを経営するドナ(メリル・ストリープ)の一人娘、ソフィ(アマンダ・セイブライト)は明日結婚式です。ソフィは自分の父親が誰か知らなかったのですが、ドナの日記を盗み読みして、自分の生まれる前に付き合っていた三人の男性サム(ピアーズ・ブロスナン)、ビル(ステラン・スカルスゲルド)、ハリー(コリン・ファース)を結婚式に招待します。この中の誰かが自分の父親だとソフィは確信していたのですが、島にやってきた3人を見て、誰が父親かわからなくなってしまいます。ドナは、3人を見て、動揺するのですが、それより娘の結婚式がまず心配。一方、招待された3人も事情が薄々わかってくると、自分がソフィの父親だと各々信じ込んでしまいます。果たして、ソフィの結婚式は無事にとり行われるのでしょうか。

大ヒットしたミュージカルの映画化だそうで、その舞台の脚本を書いたキャサリン・ジョンソン、演出したフィリダ・ロイドがそのまま映画版も担当しています。この映画のポイントは、歌われるナンバーがみなアバの楽曲だということ。1970年代にスウェーデンからやってきた男女2人づつの4人組アバは世界中で大ヒットを飛ばしたのですが、彼らの楽曲は今聴いても素晴らしいものが多く、その音楽の持つパワーをどうドラマの中で生かしているかというのが興味ありました。

舞台を明るい太陽の光のきらめくギリシャの島に設定しているのが、まず成功していまして、カラリとした空気感と明るい画面で展開されるドラマはコミカルなもので、どっちかというとドタバタコメディのような味わいがあります。その中で、歌われるナンバーがああ懐かしいと思うものが多くて、さらにああこういう曲だったんだって聴きなおすと、こんなにいい曲だっけと新たな発見もありました。

主演陣をミュージカル畑でない演技派の面々で固めているのも意外性がありました。まあ、ブロスナンがこの映画でラジー賞を取っちゃったことは置いといても、演技陣は頑張ってます。その中でソフィを演じるアマンダ・セイブライトが大変かわいらしくて、名優たちの中で光っているのも、全体のアンサンブルのよさなのだと思います。また、登場人物にそれなりのドラマがあることも見せていまして、かなり欲張った内容の映画だと言えましょう。



でも、でもですね(あ、文句つけにかかってますね、この先は読み飛ばして下さって結構です)、私の感性がオヤジなのか、この映画に乗り切れなかった、というかついていけなかったのですよ。



よくよく考えれば二日間でかなりドラマチックな展開をするストーリーなのに、そのドラマ部分に脚本や演出が興味なさそうなんです。初めにアバの歌ありきで、そこへドラマを肉付けした、楽曲中心の作りになっているせいでしょうか。とにかく、ドラマの呼吸というか流れというのにお構いなく歌がばんばん入ってきて、登場人物が派手に歌い踊るのです。私は、何だか置いてきぼりをくらったような気分になっちゃったのです。静と動で言うなら、動ばかりで、にぎやかなのはいいのですが、ドラマとしての起伏がなくて、静の部分を全部切ってしまったように見えました。舞台ならば、誇張された感情表現もありなのでしょうけど、映画は、登場人物にカメラが寄ってリアルな感情を細やかに見せる表現手段です。歌2曲歌うだけで、ドナが新しい愛に目覚めるってのは、映画としては表現不足というか手抜きのようにも思えてしまいます。舞台と同じ脚本、監督では、やはり映画としての味わいというかコクが足りないのです。

一方で、アバの歌はホントにいい曲が多いのに、こういう使われ方をするのか?という突っ込みも出てきてしまいました。私の好きな「ダンシング・クイーン」や「チキチータ」「テイク・ア・チャンス」をこんな使い方をするの? これなら、アバのオリジナルの方がずっとゴージャスでハッピーだよねって思ってしまったのですよ。ミュージカルというのは、ドラマとシンクロさせることで、単独の楽曲以上の盛り上がりを見せてくれるってのがあるのですが、オリジナルの歌の方がずっといいじゃんと思わせてしまうのはどーなのよ。エンドクレジットに流れる「サンキュー・フォー・ザ・ミュージック」がしみじみいいなあと思う一方で、これがドラマの中で歌われたら感動半分だよねってイヤミの一つも言いたくなっちゃうのです。

また、群舞のシーンなどで、ハリス・ランバーハウコスの撮影は、カメラを常に動かしてるってところも気になっちゃいました。ちょうど、テレビの歌番組で歌手を追うようなカメラワークなんですが、この映画では、映像に落ち着きのなさを感じてしまいました。

と、まあ、言いたい放題を書き連ねてしまったのですが、それでもやっぱりアバの歌はいいなあってことを再発見できただけでも、モトの取れる映画ではありました。娘の結婚式に父親候補が3人やってくるという設定も面白いですし、もっともっと楽しめる映画になってると思ったのですが、残念ながら、私は乗りそこなってしまいました。

「パッセンジャーズ」はフワフワした展開が、かなりケッタイな映画

今回は、新作の「パッセンジャーズ」をTOHOシネマズみゆき座で観てきました。こんな名前になっちゃあ、もはや劇場とは呼べないですよね。シネコンの1スクリーンに成り上がったのか、成り下がったのか。

旅客機の墜落事故で109人中に生存者は5人だけ、そのメンタルケアを依頼されたクレア(アン・ハサウェイ)は、グループセラピーを始めようとするのですが、その中で唯一やけにテンション高いエリック(パトリック・ウィルソン)とは個別に訪問して面談することになっちゃいます。明らかにモーションかけてくるエリックに最初は職業倫理からも拒否反応を示すのですが、段々とその気になっちゃって、ついには一線を越えてしまいます。一方、航空会社側のアーキン(デヴィッド・モース)はこの事件をパイロットの人為的ミスで片付けようとしています。ところが、生存者の証言では爆発の炎を見ているというのです。そして、グループセラピーの参加者が一人二人と欠けていきます。家まで訪ねても姿はありません。そして、謎の男やアーキンが生存者やクレアを尾行しているようなのです。消えた生存者はどこへ消えたのでしょうか。そして、墜落事故に隠された秘密とは?

「彼女を見ればわかること」のロドリゴ・ガルシア監督作品です。オープニングで旅客機の内部が映って、すぐに墜落現場のシーンになります。そして、ベッドで眠っているクレアに電話がかかってきて、彼女は呼び出されます。病院で、エリックと初対面なんですが、彼が自分の姉の存在を知っていることがクレアには気になりました。そして、グループセラピーでは、生存者の証言が食い違いを見せることから、墜落事件の真相が気になりだします。と、ミステリアスな展開になってきたなあって思うと、そこから話が、クレアとエリックが仲良しさんになる方に尺数が割かれて、事件の謎の方にはなかなか近づいていきません。クレアが彼の家を訪ねて個別セラピーをしようってのが、変なのーって気がしてきますし、エリックが口説いてくるのに、クレアがへなへなってそっちへ行っちゃうのには、そんなんで事件の真相に近づけるのかって気がしてきます。109人死んでる大事故の謎に立ち向かうヒロインとしては、まことに頼りないのです。全然、セラピストとして優秀にも見えませんしね、人の話を聴くよりも先に事故の核心の質問をするセラピーってあるのかしらって思っちゃいましたもの。

そんなへなへな感のあるヒロインを、ガルシアの演出はこれまた丁寧に描いていくのです。前半はとにかく物語がフワフワした感じで進んでいくので、「変なの」感は募るばかり。それでも、航空会社のアーキンは明らかに何か隠して、パイロットのミスで事件を終わらせようとしているようです。これをデヴィッド・モースという善悪両方こなす名優が演じているので、ミステリーとしての興味が湧いてきます。グループセラピーを謎の男が覗いていたり、どうも、生存者が尾行されているらしいってこともわかってきます。ところが、ガルシア監督はサスペンス演出が苦手なのか、なかなかドラマがヒロインの私生活から離れないのですよ。もう、クレアはいいから、事故の謎を盛り上げてくれと思うのですが、ドラマは彼女のまわりをフワフワと展開していきます。ヒロインと生存者のラブストーリーがメインのお話になっているのは、かなりケッタイな映画と言えそうです。




この先は、結末に触れますのでご注意ください。




生存者が一人二人と姿を消していくのですが、それに対してクレアはかなりノンキ、というよりも、自分の姉との関係とか、エリックのことの方が大事みたいなんです。何で、旅客機事故を巡るミステリーにこんなヒロインを設定したのかしら。その上、やたらと彼女を訪ねてくる隣のオバさんがいるんですが、演じているのが名優ダイアン・ウィーストなので、ますます、本筋とは関係ないところでミステリーが生じてきます。只者じゃないよな、このオバさん、と思うのですよ。そして、クレアのグループセラピーには一人しか残らなくなり、残った一人を自分の家にかくまったものの、何者かによって連れ去られてしまうのです。とにかく、事件がクレアの周囲で彼女の視点で描かれていくのに、何か変だなーって思っていると、エリックは自分は死人だと言い出します。そして、クレアも自分が墜落した飛行機に乗り合わせていた記憶を甦らせるのでした。彼女は、隣の席のエリックと死の一瞬まで一緒にいたことを思い出したのです。そして、自分の過去に世話になった伯母や先生が彼女を死の覚醒まで導こうとしていたことを知るのです。

と、いうわけで、なぜドラマがクレア中心で動いているのかがラストでわかる仕掛けになっているのですが、ロニー・クリステンセンの脚本は、かなりムチャぶりしているという感じで、ロドリゴ監督が映像化に苦労しているという印象が残りました。リアルにも描けないし、かと言って地に足がついてないのを強調するとネタがばれちゃうし、前半のフワフワとした演出は苦肉の策のように思えました。

主人公が実は死んでましたーって映画は山ほどあるので、それほどビッグなサプライズにはならないです。それらの映画(ネタばれになるのでタイトル列挙できないのが辛い、あれとか、それです)の多くは、そのオチに行くまでをホラータッチのサスペンスでつないでいくものがほとんどなんですが、この映画はホラータッチより、恋愛ドラマを前面に出していくというのが新趣向だと申せましょう。事件の第三者として登場したヒロインのへなへな感は、オチを知れば納得いくものではあるのですが、ラストへ向けてじわじわとドラマを盛り上げるには、この趣向は不向きだったようです。だって、すごく変なんだもん、展開が。ですから、観終わってから、まあ、全体としては悪くないけど、ずいぶんとケッタイな映画だなあという後味が残ってしまいました。ある意味、珍作と言えるのではないかしら。

日本の心霊番組で霊能力者の人が、この世に迷って、生きてる他人にとりついてる霊を、あの世へ送るなんてのをよく見かけます。この映画でも、死んだことに気付いていないヒロインをあの世へ無事に送りましょうというお話なんです。ダイアン・ウィーストは「おくりびと」として登場してたわけです。一切、神とかが登場しない死後の世界を見せているのは、なかなか面白いと思いました。に、しても、そこに至るまでの展開が一本筋が通ってないというか、論理性(整合性)なさすぎなので、思い返しても納得できないことが多いです。だからこそ、全部ウソになることを承知でフワフワしたドラマに仕上げているのかもしれません。

そんな展開の中で、エドワード・シアマーの音楽が、ドラマの隙間をうまく埋めて、それなりの伏線になっていました。静かで美しい音楽には、ドラマになかった芯があったように思います。

「フェイク・シティ」はキャスティングの妙もあってなかなか面白い

今回は、新作の「フェイク・シティ」を川崎チネチッタ1で観てきました。シネコンの入り口に年配の方々が大挙してたむろしてて、何じゃこりゃ?と思ったら、「おくりびと」を待ってる皆さんでした。ちょっと、普段とは違うというか、異様な感じがして、と、思う私もいい年したオヤジでした。自分の同年輩のオヤジがどっと映画館に押し寄せたら、それはそれでかなり異様な光景だな、こりゃ。

ロス警察の刑事トム(キアヌ・リーブス)は法すれすれの荒っぽいやり方で実績を挙げていました。今回も双子姉妹の誘拐事件を、犯人を罠にかけることで見つけ出し、犯人たちは有無を言わさず射殺してしまいます。そんなムチャをカバーしてくれているのが上司のワンダー警部(フォレスト・ウィテッカー)で、今度は本部長に昇格するとか。そんな、トムに非難がましい言葉をかけてくるのは元同僚のワシントン。彼は、内部調査課のビッグス警部(ヒュー・ローリー)と最近よく接触しているようです。そんなワシントンに腹を立てたトムは彼を尾行してなぐっちゃろうとするのですが、その前に入った酒屋に二人組の強盗が入ってワシントンは殺されてしまいます。その様子をとらえたビデオだとまるでトムが仕組んだように見えます。トムはビデオを隠して、事件の捜査担当のディスカント刑事(クリス・エヴァンス)に接触をはかります。ワシントンは、証拠品の麻薬を持ち出し、死んだ時現金5万ドルを持っていまして、どうやら悪徳警官だったようです。そして、この事件には隠された真実があったのです。

「LAコンフィデンシャル」のジェームズ・ギルロイの原作を、「トレーニング・デイ」などの脚本で知られるデビッド・エアーが監督しました。ロス警察を舞台にハードでバイオレンスなドラマが展開します。ここに登場するロス警察は「チェンジリング」と同様、不正の巣窟となっており、内部の腐敗は相当なもののように描かれています。現代の話でそういう題材を扱って、メジャー映画というのはすごいもんだと思いました。二転三転するストーリーの面白さと、主人公の微妙な正義がこの映画を警察映画の佳作に仕上げています。キアヌー・リーブスが主演というのが、ベストキャスティングだというのは、観終えて納得しますし、彼も複雑な役どころを熱演しています。

主人公のトムはやり方は荒っぽいものの、自分のしていることは誰かがしなければない必要悪だと割り切っていました。上司のワンダーもそう言って、彼のやり方を陰で擁護してきたのです。とはいえ、オープニングで容疑者の家に入って警告なしに射殺しちゃうのは明らかにやり過ぎです。そんな法の越権を元同僚のワシントンはいさめるのですが、トムは聞く耳持ちません。そんなトムに内部調査課のビッグスが接近してきます。どうやら、ワシントンがビッグスに内通しているようなのです。ところが、そんなワシントンが強盗に殺されてしまい、トムが現場に居合わせたもので、話は厄介なことになってしまいます。トムは現場をはずされ、苦情課へまわされて、ほとぼりをさますことになります。トムは最初は自分の保身から、捜査担当のディスカントにつきまとうのですが、ディスカントが、トムのために事件を迷宮入りさせざるを得ないと言うに及んで、二人組の強盗犯を自分の手で片付けようと決心します。そのために、同僚には内緒で、ディスカントを巻き込んで、独自の捜査を開始するのでした。



この先は結末に触れます。



調査を進めていくうちに犯人は南米の二人組ということがわかってきますが、その二人組は死体で発見されるに及んで、この一件は警察内部の人間が関与して証拠を操作しているのがわかってきます。そして、その二人組を名乗る連中との会見にこぎつけるトムとディスカントですが、もう一歩のところで銃撃戦となってしまい、二人組とディスカントは死亡、そして、トムがその犯人として指名手配されてしまいます。ガールフレンドのアパートに逃げ込んだところを同僚たちの手によって逮捕されてしまうトム。しかし、彼らはトムを警察へ連れて行こうとはしません、彼らこそが悪徳警官であり、そのボスはワンダーだったのです。ワシントンは彼らを告発しようとして罠にはめられたのです。殺される一歩手前で逆襲に成功、トムは彼らを返り討ちにして、ワンダーの家に向かいます。正体を知られたワンダーは金を見せて、トムを取り込もうとしますが、彼はワンダーに銃弾をぶちこみます。駆けつけたビッグスに逮捕してくれというトムに、ビッグスは彼を見逃します。警察中の人間の弱みを死っていたワンダーに誰も手を出せなかったのです。トムはビッグスの思うように動かされていたことを知るのでした。

トムは手荒いことをするのですが、同僚の面々に比べると、どことなく青いという印象を受けます。悪徳警官を描くのに、キアヌーはミスキャストかと思わせるのですが、実際は、同僚や上司のほうが手段を選ばない大ワルだったということがわかると、キアヌーのキャラがトムにぴったりとはまってきます。ある意味頑なな正義感を持っていて、悪に染まることを潔しとはしないトムだからこそ、上司も悪事に巻き込まないで汚れ仕事をやらせていたのであり、ビッグスも彼を泳がせていたわけで、そんな役どころをキアヌーは見事に演じきりました。ハードボイルドなドラマの中で、トムの見せる人間味が、うまく利用されてしまうという展開は苦い後味を残します。また、明確な善玉悪玉が登場しない物語なのですが、その中で語られる曖昧な正義のありようがなかなか面白いと思いました。結局、ここには絶対的な正義は存在せず、人間のいるところ、そこはエゴと欲のせめぎあいの世界です。だからこそ、法を逸脱したトムでも彼なりの正義のルールを持ち、生き残ることができるだという描き方は、不完全な正義であるトムをヒーロー足りえているのです。

派手なカーチェイスや爆破もなく、CGの見せ場もないので、どっちかというと小品のような印象を受ける作品ですが、それなりに面白くまとまっています。演技陣にいかにも悪そう面々ばかりそろえていまして、その中で、キアヌー・リーブスとフォレスト・ウィテッカーが善人ヅラしているのがなかなか考えたキャスティングだとちょっと感心。映画館へ足を運んだら、確実にこれくらいのものに出会いたいと思うレベルです。(実際は、この映画は当たりになっちゃうところがちょっと残念。)

「チェンジリング」は歴史ドラマのような叙事的な趣がありました

今回は、新作の「チェンジリング」を川崎チネチッタ12で観てきました。その昔「チェンジリング」というホラー映画の佳作があったので、まぎらわしいことするなあってのが最初の印象です。私にとっての「チェンジリング」はジョージ・C・スコット主演の怖くて悲しい幽霊映画なんです。

1928年のロサンゼルス、電話局に勤めるシングルマザー、クリスティン(アンジェリーナ・ジョリー)の一人息子ウォルターが行方不明になります。警察に届けたものの、当時の警察は、暴力、汚職、不正の巣になっていました。5ヵ月後、クリスティンのもとに警察から連絡が来ます。ウォルターが発見されたというのです。駅に息子を迎えに行ったクリスティンなのですが、現れた少年はウォルターではありませんでした。でも、少年も自分をウォルターだと言うし、違うと言っても、警察は相手にしてくれません。警察の不正を糾弾している牧師グスタフ(ジョン・マルコビッチ)がクリスティンに協力を申し出てくれ、この状況をマスコミに公表しようとするのですが、担当のジョーンズ警部は彼女を強制的に精神病院に放り込んでしまいます。一方、不正入国の少年の捜査をしていたヤバラ刑事は、カナダへ送還させようとしていた少年の驚くべき告白を聞きます。果たして、この事件の真相は? そして、クリスティンは、息子に再会することができるのか?

クリント・イーストウッドが、製作、監督、そして音楽まで手がけた作品です。この人の映画と私は相性が微妙でして、「ミスティック・リバー」「父親たちの星条旗」なんかは堪能したのですが、「スペース・カウボーイ」や「許されざる者」なんかは「??」という感じでした。今回は、20世紀前半に起こった事件を克明に追ったという作りになっていて、大変見応えのあるドラマに仕上がっていました。実話というのが驚きなのですが、実際にあったお話を変にドラマチックにしないで、その顛末を丹念に描くという作りが大変成功していると思いました。

行方不明だった息子が帰ってきてからの展開は、まるで不条理ドラマを見るようで、現実にあったこととは思えないのですが、クリスティンが警察にその子は自分の子ではないと訴えを重ねるにつれて、警察に不信感を持つようになります。とはいえ、警察は怖いですからね、できるだけ下手に出て、息子を探して欲しいと思うのですが、警察はガンとして自分たちのミスは認めようとしません。さらに、このことを公にしようとしたら、警察から直接精神病院に送り込んじゃうというムチャをします。しかも、これが常態的に行われていたというのですから、恐ろしい話です。まあ、自分のミスを認めないということでは日本のお役人も(まるっきり)同じなんですが、ムチャな口封じをしないだけまだマシというものでしょうか。このままだと、一生、病院の中になっちゃいそうなんですが、そこで、クリスティーンの中で戦う気力が湧いてくるのです。今回は、大きな芝居はないアンジェリーナ・ジョリーが強い意志を持った女性を演じていまして、それが時には冷酷に見えるときもあるのが面白いと思いました。観ている方が、彼女を一歩距離を置くような演出を意識的にしているのかも。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



不法入国の少年の強制送還から露見したのは、子供ばかりの連続誘拐殺人でした。その手伝いをさせられていた少年の証言から誘拐された少年の中にウォルターがいたということから、警察のミスは確定的になってきます。クリスティンは、警察を告発し、同じように警察によって精神病院に収容されていた女性たちを解放することにも成功します。一方で、誘拐殺人犯のゴードンが逮捕され、事件の全貌が明らかになってきます。審議会の場で、ロス警察全体が糾弾され、担当警部は免職となり、クリスティンは勝利を勝ち取ることになります。ゴードンは第一級殺人罪で死刑となります。映画は、ゴードンが逮捕されてから、裁判にかけられるまでを、クリスティンと並行させて、丹念に描きます。ドラマはクリスティンではなく、事件全体を描こうとしてるというのがわかってきます。

死刑を宣告された法廷で、ゴードンは、「自分はウォルターを殺していない」と言い残します。そして、クライマックスは、処刑前日、ゴードンに呼ばれたクリスティンが刑務所を訪れるシーンになります。結局、ゴードンは自分がウォルターを殺したかどうかについてはっきりとしたことを言いません。そんなゴードンに、クリスティンが地獄に落ちろと叫ぶのが圧巻でした。そして、ゴードンの処刑シーンもきっちりと見せます。そして、エピローグ、行方不明になっていた少年の一人が発見されます。彼の証言から、ウォルターがゴードンに誘拐されていたこと、そして、そこから逃げ出したことまでが判明します。ウォルターは殺人鬼の手から逃げ延びたかもしれないという新事実が、クリスティンに新しい希望を与えます。そして、一生、彼女は息子を探し続けたという字幕が出て映画は終わります。

警察側の人間を演じたジェフリー・ドノヴァン、マイケル・ケリー、殺人鬼を演じたジェイソン・バトラー・ハーナーといった面々がそれぞれ一人の人間としての説得力を見せたのが見事でした。それだけ、脇役の人間を丁寧に描いているということになるのですが、クリスティンに寄り過ぎないドラマが、その時代の事件を歴史の記録のように描いているのです。ですから、単にヒロインカワイソー、ロス警察サイテーというだけでない、歴史の真相に迫ろうという視点が、映画に見応えを加えているように思います。

それでも、印象に残るのが、アメリカの正義に対する希望です。この映画の中で、不正は正されるものとして描かれ、司法の正義がきちんと機能しているのです。現代は、多様な価値観、利害関係の中で、正義が曖昧なものになってきているのですが、まだアメリカは自浄する力を持っているという希望を感じ取ったのですが、これはうがちすぎかもしれません。

トム・スターンの撮影が、横長のシネスコサイズをきちんと意識した構図を切り取っていて、見事な絵になっていました。これは、劇場の大きな画面で観るための絵になっていまして、「007慰めの報酬」で狭苦しい構図ばかり見せられた後には、大変心地よい映像になっていました。

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Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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