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「ハーヴェイ・ミルク」は「ミルク」と合わせて観るのをオススメのドキュメンタリー

今回は「ミルク」の元になっていると言ってもいいドキュメンタリー「ハーヴェイ・ミルク」を横浜のシネマジャックで観てきました。DLPによる上映でしたけど、この映画が事件の5年後、犯人のジャックホワイトが出所後に公開されていたというのが意外な驚きでした。

サンフランシスコのマンソン通りにカメラ店を開業したゲイのハーヴェイ・ミルク。彼はゲイなどの弱者の代弁者としての活動を開始し、市政執行委員にも立候補し2回の落選の後に当選します。彼は、差別される立場にあったゲイ、そして、社会的にも弱い立場の身体障害者や老人を支援するという立場で多くの賛同者を得ました。特に、キリスト教社会では目の敵にされていた同性愛者の代表というべき人間でした。そんな彼も1979年、同じく姿勢執行委員であったダン・ホワイトによって射殺されてしまいます。犯人はマスコーニ市長も一緒に殺害しているのですが、極度のストレス状態にあったということで5年の実刑という軽い処置がとられ、大きな非難を浴びるのでした。

これを観てまず驚いたのは、構成が2009年の「ミルク」とほとんど同じであったということです。ミルクの残した遺言ともいうべきテープも登場しますし、サンフランシスコに引っ越してきたところから話が始まり、後半はダン・ホワイトをかなり重く扱っているという点まで同じでした。何だか、犯人の扱いが大きすぎてバランス悪いなと思った「ミルク」でしたけど、この映画では、ホワイトの犯行後の逮捕から裁判の経過が丁寧に描かれていて、なるほど彼の軽い量刑も当時の世相の一部だったのかなと思わせるものがあって納得できました。ですが、彼もホワイトの中のマイノリティであったという「ミルク」では描かれていた重要なポイントには触れられていませんでしたから、どっちの優劣ということにもならないのですが。

ドラマの「ミルク」では、彼の身近な人間を印象的に描いていましたが、ドキュメンタリーの「ハーヴェイ・ミルク」では、彼の身近ではあっても若干距離を置いた人々のインタビューを中心に構成されています。しかし、意外なことに、そういう人々のインタビューの方が彼の人となりがよく見えてくるのですよ。「ミルク」では、ショーン・ペンが演じたことによって、ショーン・ペンの演技を通して、ミルクという人間を見ることになったのですが、それよりも、実際の人間の証言の方がミルクという人間の存在感を浮かび上がらせるのです。そして、実写の彼の姿も含めて、ドキュメンタリーの力を改めて実感しました。陽気さの中の神経質さのようなものも、彼本人へのインタビューからよく伝わってきます。また、このミルク暗殺事件が歴史の一部になる前に製作されたという点からも、その時代に対する視線は違っていまして、まだ同性愛者の人権が確定しきっていないころに、ミルクという人間を通じて、同性愛者の権利を擁護する映画になっている点も見逃せないと思います。きっと、今よりも当時の方が彼に対する殉教者という意識は高かったのではないかしら。でも、この映画はそういう偶像になりつつあるハーヴェイ・ミルクを一人のおっさんとして紹介しているという点が面白いと感じました。

そして、不当に低いダン・ホワイトへの量刑について、映画はそれを非難する立場を取っています。ジャンクフードの取りすぎで精神錯乱した人間が、銃を持って、金属チェックを避けて窓から入って、市長を射殺した後、弾丸を補充してミルクを殺しに行きましたというストーリーは、とても納得できるものではありません。懲役5年というのは確かにフェアな判決とは思えません。細かい経緯まではこの映画からは読み取れないものの、この判決にゲイの人間が大きな抗議行動を起こしたというのは納得できるものがあります。見た目には、マイノリティであるミルクが殺されたという点で、裁判にバイアスがかかったように思えてしまいますもの。

アメリカ社会って、さまざまな差別が存在するという点から見たとき、こういう過去の闘争があって、ゲイが市民権を得たんだなという歴史的経緯を感じる一方で、21世紀になってアラブ系の差別が生まれていることを考えると人間は差別をしながら歴史を積み上げているのだなと改めて感じてしまいます。様々な人間を許容しきれない意識というのは、日本人も同様に持っているわけで気をつけないといけないなと改めて感じます。特に差別からの攻撃の矛先が弱いモノへと向かうというのは、人間の業みたいなものなので、冷静に考えて行動することが重要でしょう。人間、根っこのところはそうは変わらないという一方で、有色人種やゲイといったマイノリティの権利が認められてきているアメリカの底力も感じる一本でした。

この映画は1984年のアカデミー賞のドキュメンタリー賞を受賞しています。監督のロバート・エプスタインは同性愛者を題材にしたドキュメンタリーを何本も撮っているそうです。また、当時は新進のミュージシャンだったマーク・アイシャムが音楽を担当していまして、シンセサイザーによる音楽を提供しています。この音楽は、彼の初期のアルバム「フィルム・ミュージック」に収録されていましたが、やっと本編を拝むことができました。

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「シリアの花嫁」の境遇はすごい気の毒だけど、湿っぽくしないドラマがいい

今回は東京での公開は終了している「シリアの花嫁」を横浜のシネマベティで観てきました。

ゴラン高原のイスラエルの占領区域はもとはシリア領であったため、そこの住民は無国籍状態になっていました。もし、そこに住む人がシリア領へと移住した場合、二度と戻れない状況にあります。そんな無国籍地区に住むモナがシリア側に住む人気俳優タレルのもとに嫁ぐことになりました。しかし、一度シリアの国籍を取ってしまえば、二度と故郷に帰ることはできない、家族との生涯の別れの日でもありました。長男のハデムはロシア人女性と結婚して故郷を離れたことで、父親ハメッドとの間に確執がありましたが、妹に会うために妻と子供を連れて帰郷してきました。モナの姉アマルは二人の娘がいて、自立心の強い女性でしたが、その分保守的な村の中では浮いていました。ハメッドはシリア支持の政治活動家で投獄されたこともあり、娘との別れで国境まで行くことは許されていませんでした。家族のそれぞれが色々な事情や想いを抱える中で、結婚の段取りは進んでいくのでした。

シリア領だった土地にイスラエルが侵攻し、その結果、そこにもともと住んでいた人は無国籍になってしまったという事実は、この映画で初めて知りました。そこに住む女性がシリアに住む男性と結婚するためには、シリア国籍をとることになるのですが、それは、自分の故郷との生涯の別れを意味していました。どうみてもひどい話ではあるのですが、それに対しての一市民のできることは知れています。この映画で、変に恨みつらみを言わないで淡々と結婚の段取りを進めていくというのは、よく考えるとすごい生き方ではないのかなという気がします。父親は、シリアの新大統領を支援する村のデモに出かけるのですが、それが大勢に影響を与えるとは思えません。それでも、イスラエルの警察は彼らに目を光らせています。

私のような単純な人間だと、イスラエルがどんどんパレスチナに侵攻していったせいで、どんどん元から住んでいた人間はひどい目に遭っているのだから、イスラエルは悪い、だからイスラエル人は悪い奴ということになっちゃうのですが、現実の場では、そればかり言ってはいられない、また、イスラエル人が悪人という図式だってあまりに短絡的だというのがわかってきます。それでも戦争の結果はあまりに理不尽です。でも、会ったこともない人と結婚させられるのもずいぶんと理不尽な話で、そんな封建的な空気は花嫁の姉アマルにとっては理不尽なものと映っているようです。なるほど、人間の自由に制約を与えるものというのは、色々あるんだなあって感じさせます。村の掟のレベルで考えると花嫁の兄はロシア人女性と結婚して国を出て行ったので、結婚式に同席させてもらえません。個人のレベルで考えれば村の掟も国家の理不尽さも受ける仕打ちは似たようなものだという見せ方をしていて興味深い点もあるのですが、シリア人に対して、イスラエル人がそういう描き方をするのは何だか違うんでないかいという気もしてきます。

さて、花嫁側の式も済んで、国境までみんなで出かけるのですが、ここで、今度はパスポートの国籍の更新の段取りで、イスラエル側とシリア側で言うことが違っていて、花嫁がシリア側へ行くことができません。赤十字の女性が花嫁のパスポートを持って、イスラエルとシリアの間をウロウロすることになるのですが、どっちもいわゆる小役人根性でなかなか話が進みません。イスラエルでは出国したことになった花嫁ですが、シリア側ではそのパスポートの内容を認められないとして、入国することができないのです。バカバカしいけど、事態は深刻です。だって花嫁は帰れないし、進めないのです。



この先は結末に触れますのでご注意ください。




国境の向こうには花婿も待っていて、何とかしようと手を尽くすのですが、うまくいきません。問題なのは、パスポートのイスラエルを出国したというスタンプでした。これまではこんなもの押していなかったのに、イスラエル側のやり方が変わったらしいのですが、シリア側からすれば、シリア内の移動なのだから、この出国印は認められないというのです。それでも、何とか妥協案、出国印を修正液で消せば、通そうということで、イスラエル側の役人が消したら、シリア側の役人が時間がきて交代していて、そんな話聞いてないって言い出します。ここまで間に立ってきた赤十字のジャンヌもついにさじを投げてしまいます。それぞれの人間はそんなに悪人とは思えないのですが、国家というシステムの中では個人に対してメチャ冷たい。国境に呆然と立っていた花嫁モナはついには自分でシリアに向かって歩き始めます。それを誰も止めることができないところで映画は終わります。このラストはリアルな花嫁の行動というよりは寓意の方を優先させているという印象でした。最悪の結末の中で、何も言い出せない花嫁の姿は痛々し過ぎて、このまま映画を終わらせられないという苦肉の策のようにも思えました。

「シリアの花嫁」というから、素朴なドラマなのかと思っていたのですが、シネスコ画面に展開する物語はかなり作り込まれたドラマになっていまして、物語の中で、様々なことが語られています。国籍のない状況、封建的な文化、役人根性、国境で隔てられた家族など、語られることは大変悲劇的です。しかし、映画は日々の生活感から逸脱しないで描かれ、理不尽な状況を声高に叫んだり嘆いたりすることはしません。そこに人間のたくましさを感じさせる一方でその理不尽さのリアリティが伝わってきます。監督、共同脚本のエラン・リクリスはエルサレム生まれですが、これまでにも国境を舞台にしたドキュメンタリーを撮ってきたそうです。モントリオール映画祭でグランプリを受賞した映画ですが、映画としてはよくできてるというレベルではないかと思います。ただし、扱っているテーマ、切り口は見事ですし、理不尽な社会をペシミスティックになり過ぎない視点で描いたという点も点数高いです。様々な想いを胸に持つ人々が多くを語り過ぎないというところにこの映画のよさと力強さを感じました。

「ミルク」に見る差別意識は他人事ではなくって

今回は新作の「ミルク」を川崎チネチッタ1で観てきました。ここは劇場のサイズの割にスクリーンが大きいので最後列がベストポジション、最前列では何も見えないという映画館。シネコンにしては、珍しい。

1972年、サラリーマンしてたゲイのハーヴィー・ミルク(ショーン・ペン)は、若いスコット(ジェームズ・フランコ)と恋に落ちて、二人でサンフランシスコにやってきます。越してきたところはカストロ通りというところ、そこでカメラ屋を開店して、その地区はだんだんゲイのたまり場のようになっていきます。まだ、同性愛者は白眼視され、警察からひどい扱いも受けていた時代です。そこで、ハーヴィーは、サンフランシスコの市政執行委員に立候補します。州議会議員への立候補も含めて4回目の選挙で彼は当選します。そのころには彼は、同性愛者のリーダー的存在であり、市長やトラック組合などの支持を得て、政治的にも注目される存在でありました。そんな頃、女性活動家アニタ・ブライアントや右翼議員たちがゲイ差別禁止条例の撤廃をアピールしたり、同性愛教師を教職から追放する住民運動を始めます。ゲイのリーダー的立場のハーヴィーにも脅迫状が送られてくることもありましたが、それでも彼は運動の手を休めませんでした。しかし、元市政執行委員だったダン・ホワイト(ジョシュ・ブローリン)の放った銃弾が、市長とハーヴィーの命を奪ったのでした。

実在したハーヴィー・ミルクの人生を描いたもので、本年度のアカデミー賞で、主演男優賞と脚本賞を受賞した作品です。監督のガス・ヴァン・サントは「グッド・ウィル・ハンティング」で有名ですが、ちょっとメインストリートから外れた映画をたくさん撮っている人で、ゲイのリーダーという題材をどういう風に撮るのか興味あったのですが、意外や、淡々と事件を積み重ねる手法で、ドラマよりも、ハーヴィーという人間を浮き上がらせる映画になっていました。ゲイをあくまで、ハーヴィーのパーソナリティとしてとらえ、ゲイ差別をドラマの中心に置かなかったあたりのセンスは買いです。その分、ゲイに対するひどい差別があったことをプログラムを読んで再確認することになっちゃいましたから、痛し痒しの感もあるのですが。

私は正直なところ、同性愛ってのは生理的に苦手です。この映画でも、男性同士のラブシーンがあるんですが、それが自然に描かれているのですが、やっぱりウッヒャーって感じを持ってしまいます。ゲイというのは持って生まれた資質であって、それは差別しちゃいけないという自覚はあるんですが、心の底から苦手意識を払拭できない、でも、差別する行動をとらないようにコントロールできるというレベルです。1970年代のアメリカでは、正面きって、ゲイ人権保護条例が作られ、また、それが住民投票によって廃棄されたりということがあったそうです。それ以前からも、ゲイは差別の対象となり、ゲイであることで逮捕されたり、ゲイに目覚めた少年が家族によって強制入院させられたりしたそうですから、社会の秩序を脅かす存在だったようです。日本でも、差別されることはあったでしょうが、社会的な攻撃対象にまではなっていなかったように思います。1970年代はまだ子供で世間のことにはうとかったですし、私の身近に同性愛者もいなかったので、あまり確かとは言えないのですが。

しかし、持って生まれた資質によって、社会的に葬り去られてしまうのではたまったものではありません。ハーヴィー・ミルクはそんなマイノリティの人々の代弁者であり、政治的な力を持つことで、社会的に同性愛者を守る盾でもあったようです。そして、彼はあらゆるマイノリティの支援者であろうとしました。民主主義というのは、多数派主義に陥りやすく、それはマイノリティを切り捨てる社会へと結びつきやすいです。だからこそ、少数意見に耳を傾ける必要がありますし、少数派の権利も尊重されなければいけないのですが、現実はそうはなりません。その時、ハーヴィーによって、同性愛者の横のつながりが生まれて、政治的な力を持っていくようになったというのは大きな事件でした。数がまとまることによって、マイノリティにもマイノリティなりの政治力が生まれてくるのも重要なことです。

人間は平等だという原則からすれば、ゲイに対する偏見や差別はよくない筈なんですが、実際には差別されてしまう。そこに、人間の本性として、差別したがることがあるのではないかという気がします。人種、職業、生まれによる差別はしてはいけないこと、だから、心の中で、そういう気持ちがあっても、行動としての差別はしてはいけないのではないかと、私は思っています。いやいや、それでは差別はなくならない、心から、差別をなくさない限り、正しい社会は生まれない、というのもわからないではないですが、何事もまずは形から入るしかないのではないかと思うわけです。自分にはいかなる差別意識も持っていないと言い切ってしまうと、実際に自分の無意識の差別意識と直面したときに「それは差別じゃない」と意味のすり替えをして見栄を張ることになるのではないかと危惧するからです。人種差別反対者が実は女性差別主義者だったりもするわけで、完全な人間なんかいないと感じているからです。

そういう意味で、ハーヴィーがマイノリティーを支援するという政治公約を掲げているのは、偉いなあって思います。社会的に弱者と呼ばれる人を意識的に選択して支援しようというのは、正義や倫理とは一歩距離を置いた、人情と理性が感じられるからです。この映画に出てくるハーヴィー・ミルクという人間は、あくまで普通の人として描かれています。政治家としても、普通の駆け引きをするし、聖人君子でもありません。でも、マイノリティへの視点を持っていることで、彼の存在は、アメリカの歴史の中で大きな意義を持つことになります。同性愛差別が政治的に正当化されれば、ハーヴィーの仲間は希望を失う、そして、それはさらに別のマイノリティを差別する法案を作る呼び水にもなりかねない、だからこそ、彼は闘う理由を持っていたのだと思います。

ガス・ヴァン・サントの演出は、あくまでハーヴィーを中心にしたドラマに終始しているのですが、その中で、妙にダン・ホワイトにスポットを当てているのが気になりました。ダンがアイルランド系地区出身の市政執行委員で、ハーヴィーとも政治的な取引をして、自分の地区のための提案の支持を得ようとするのですが、それがなかなかうまくいかなくて、だんだんと追い詰められていき、その結末として、市長とハーヴィーを射殺してしまうという男なのですが、結局、なぜ、彼がそこまで追い詰められて、殺人に走ったのかはよくわかりません。他の人間がみなハーヴィーとの接点の中で描かれているのに、彼だけがどこか別枠で描かれているのに、演出の意図があったようにも思えるのですが、ドラマの中でここが妙に浮いてるのが気になってしまいました。

ともあれ、よくできた映画だと思いますし、演技陣も見事でしたので、劇場でお金を払って観るに値すると思います。ショーン・ペンの演技はリアルなのかどうかはわからないのですが、とにかくハーヴィーがそこに一人の人間としていることを納得させる演技でした。この映画のモトネタにもなっている記録映画「ハーヴェイ・ミルク」も観たくなりました。

「グラン・トリノ」に見る、アメリカの未来への希望(ちょっと大げさか)

今回は川崎チネチッタ9で「グラン・トリノ」を観て来ました。ここはビスタサイズで横幅一杯にとっているので、シネスコサイズの時はスクリーンの上の部分が縮むという作りなのは、いかにもシネコンって感じ。

妻を失った老人ウォルト(クリント・イーストウッド)は、二人の息子とはうまく行っておらず、妻と二人で住んでいた家に一人暮らしをすることになります。妻の葬式の日、隣にはアジア系の一家が引っ越してきました。ウォルトは差別主義者までいかないけど黒や黄色の肌が嫌い、若いものがチャラチャラしてるのも嫌い。良くも悪くも昔堅気の頑固者です。ある夜、彼の自慢の車グラントリノが盗まれかかる事件が起きます。犯人は隣の家の息子タオ(ビー・バン)で、悪い仲間にそそのかされたのですが、彼らとトラブルになったところを、成り行きでウォルトが助けたことから、隣の一家との付き合いが始まります。モン族の出身というタオの一家と接するうちに、段々と孤独だったウォルトに変化が起きてきます。タオの姉スー(アーニー・ハー)とも仲良くなって、タオに仕事の世話をしてやるまでになるウォルト。しかし、タオに目をつけた不良グループに嫌がらせは続き、ウォルトは実力行使に出るのですが、それは最悪の結果を招くことになります。果たして、ウォルトは自分の家族のように思えてきたタオとその家族を守ることができるのでしょうか。

クリント・イーストウッド監督の新作です。「チェンジリング」で堂々たるドラマ作家としての手腕を見せたイーストウッドが、今回は自ら主演も兼ねて、自分自身をアメリカの現代史と重ね合わせたような物語を作りました。主人公ウォルトは、朝鮮戦争で勲章をもらった元軍人で、愛する妻を失って、一人暮らしをしている偏屈な老人です。妻が熱心に通っていた教会の若い神父が、彼に懺悔するようにと勧めるのですが、そんなの鼻にもかけません。隣に引っ越してきたアジア系の一家を歓迎する気も勿論ないのですが、たまたま、不良グループがタオを連れ出そうとしている時に、彼らを撃退したことから、タオの一家に感謝されちゃうことになります。さらに、タオの妹スーがストリートギャングに絡まれているのを助けたことで、ウォルトは彼らの家に招かれ、いい感じになります。実の子供よりも、彼らと一緒にいる方が落ち着くと思い始めるウォルト、意外やただの頑固者ではなかったようです。

タオが盗みの罪滅ぼしにとウォルトの家の雑用をするようになり、ウォルトもタオに仕事を紹介してやるといった展開がコミカルに描かれます。何となくおとなしくてひ弱な感じのするタオと、活発な妹スーのキャラクターもおかしく、最初は仏頂面のウォルトも彼らを他人とは思えなくなっていきます。彼自身がポーランド系で、フォードの工場でずっと働いてきて、アメリカ人の典型的な労働者であることから、ウォルトは移民国家アメリカのある標準的なキャラと言えそうです。自警意識もあって、事あればすぐに銃を持ち出すあたりは物騒なじいさんなんですが、そこにアメリカという国を感じることができます。ですが、その典型的アメリカ人がステレオタイプから外れた行動を取るところにこの映画のメッセージがあります。



この先は結末に触れますのでご注意ください。




タオの顔の傷から、不良たちがまだつきまとっていることを知ったウォルトは、彼らに脅しの一撃をかけるのですが、それが逆効果になって、不良たちはスーを暴行し、タオの家を機関銃で襲撃します。それまで、おどおどしていたタオも復讐の念に燃えて、ウォルトに協力を頼みますが、意外やウォルトはすぐには腰を上げません。神父も心配して、ウォルトの家を訪れ、奴らへの憎しみを言葉にしつつ、復讐への暴走を止めようとします。ウォルトは、タオを地下室に監禁すると、単身で連中の家の前に立ちます。そして、彼らを挑発して、タバコの火をつけるためにポケットに手を入れた瞬間、彼らの銃が火を噴きます。しかし、ウォルトの手に握られていたのは銃ではなくライターでした。目撃者が多くいたことから、連中は全員逮捕されます。そして、ウォルトの遺言で愛車グラントリノはタオに贈られるのでした。

ウォルトがタオに言います。「人を殺した気分は最悪だ」と。また、彼が神父に自分が朝鮮戦争で多くの人を殺したことの罪の意識に悩まされたという話をした時、「何より恐ろしいのは、それが命令されたのではなく、自発的にやったいたことだ」というシーンが大変印象的でした。ここには、明らかに反戦、反暴力のメッセージを読み取ることができます。しかし、一方では、ウォルトが死を持ってしたことが、本当に最善のことなのか、すっきりしないものも残ります。この先、20年30年先にまた、出所した連中がタオやスーの前に現れるかもしれないのです。暴力の連鎖を止めようとしたときに、死をもっても貫徹できないのではないかと思わせる結末に苦い後味が残ります。確かに、ウォルトにとっては、意味のある、かっこいい死に場所ではあったのでしょうけど、そうでもしなければ、悪意に対抗できないのかなと思わせられます。

暴力に対しては、暴力でしか立ち向かえないときっぱり言い切った「ランボー」シリーズで、ヒーローは徹頭徹尾孤独ですが、この映画のウォルトはタオ一家と知り合うことで、孤独ではなくなり、守るものを持ったと言えましょう。その時、一家を守るためでも、暴力(=人殺し)を拒否するという姿勢には、胸を打つものがあります。なぜなら、それは個人の経験から、自ら進んで人を殺すことを止めることができたからです。これを、アメリカという国に拡大すれば、歴史から学んで戦争をやめようということに通じるからです。それで、傷つくことがあっても、未来を守ることができるというメッセージを読み取りたいと思います。ただの頑固者だった主人公がアジア系一家に心を開くようになるというところも重要だと思いました。ウォルトのような老人であっても新しい価値観や発見に謙虚でありえるなら、世の中はより寛容になるのではないかしら。

これをクリント・イーストウッドの集大成というふうに宣伝しているようですが、私には、新しい題材に挑む姿勢が感じられます。「ダーティ・ハリー」「許されざる者」など暴力の連鎖の現実を演じ、描いてきた彼が、さらにその先の領域へ足を踏み入れたように思えるからです。

演技陣は地味な面々を揃えていますが、主人公の友人を演じたジョン・キャロル・リンチがいい味を出しています。この人、ごつい見た目なんですが、善人悪人両方とも演じ分けるバイプレイヤーで、この映画でもよくも悪くもアメリカ人らしい善意を見せて印象的でした。

「レイチェルの結婚」は苦いホームドラマだけど、後味は悪くないです

今回は川崎チネチッタ9で、「レイチェルの結婚」を久々の初日で観て来ました。ここは、スクリーン位置が右に寄ってるので、座席の中央を確保したいときは注意しないといけない映画館。

どこかの施設の前で迎えの車を待つキム(アン・ハサウェイ)。父(ビル・アーウィン)と義理の母が迎えに来ます。キムの姉のレイチェル(ローズマリー・デウィット)が結婚するというので、久しぶりに家に帰ってきたキムなのですが、周囲は何だかぎこちない。それ以上に本人が妙にピリピリしています。キムが出かけた先は、薬物依存者の集会です。どうやら、彼女は薬物依存から施設に入っていたようです。新婦の第一付添人が自分でないことに怒りの感情を見せるキムを、かなり気遣うレイチェル。父もやたらとキムに気を使ってるみたいで、何だか不自然。それでも、結婚式に向けて家族の引き合わせが行われ、レイチェルと彼氏は幸せそう。でも、レイチェルと家族の気まずさの原因は彼女の薬物依存だけではないみたいです。幸せのイベントの中で浮き上がっちゃうキム、果たして、家族との関係を修復できるのでしょうか。

シドニー・ルメットの娘ジェニー・ルメットが脚本を書いて、「羊たちの沈黙」「フィラデルフィア」のジョナサン・デミが監督しています。デミの作品って、最近まるで劇場公開されていないんですが、その未公開作品の一つ「シャレード」のリメイクの評判は散々だったようです。この作品もハリウッドのメジャー作品とは思えない内容で、ある一家の2日間を描いた、苦いホームドラマになっています。

久しぶりに家族と再会したキムですが、どこか不安定な感じがして、周囲も不自然に気を使っているという感じ。レイチェルは妹を歓迎してるんですけど、父親の異常なまでの妹への気の使いぶりが気に入りません。一方で、キムはやっぱり自分は疎外されていると必要以上に思い込んでしまっています。結婚式の前日のパーティの席で、ご両家の友人親戚がスピーチする中で、自己チューなスピーチをして空気を凍らせてしまうあたり、かなり厄介な人間みたいです。自分で自分を厄介な奴だと認識している分、さらに厄介な奴というキャラをアン・ハサウェイはリアルに熱演しています。あちこちの映画祭で主演女優賞を取っただけのことはあって、「パッセンジャーズ」のふわふわしたキャラとは別人のようなリアル困ったちゃんが見事です。一方のレイチェルを演じたローズマリー・デウィットも結婚式という人生の晴れの門出ながら、問題児の妹の出現にマリッジブルーどころではなくなる花嫁を細やかに演じています。

物語が進展するにつれて、キムの困ったちゃんぶりが観客にもじわじわと伝わってくる構成がうまいです。どうやら、過去に家族に色々と迷惑をかけているみたいなんですが、そのことにキムに自責の念がないことを姉は不満に感じています。一方で父親の態度は、そんな問題ありの妹にばかり気を使っているみたいで、それが姉の不満を余計目に募らせているのです。ああ、こういう関係ってのは、なまじ家族だからこそ乗り越えられない壁があるよなあってのが伝わってきて、人の気持ちを汲み取ることって大変なんだと改めて実感させられます。そして、キムがただの問題児ではなかったことがわかってきます。




この先は結末に触れますのでご注意ください。



キムは、16歳のとき、鎮痛剤を山ほど飲んでラリってるときに、弟を乗せて車を運転して事故を起こし、弟を死なせてしまった過去を持っていました。そのことから、キムは自分自身を許すことができないでいました。だからこそ、父親は、キムのことを気遣っていました。一方で、キムは誰からの赦しも得ることができないで苦しんでいたのです。家族にとって、彼女は辛い過去を思い起こさせる存在ではあるのですが、家族として突き放せない、キムはそのことを知っていて、でも家族だから愛し愛されたいと願っている、そんなある意味ねじれた関係は、お互いが歩み寄れば摩擦を起こし、離れれば不安になる関係と言えましょう。アカの他人なら、恨むにしても忘れるにしても、自分の中で感情を割り切ればいいことなのですが、家族というしがらみは自分だけでクローズさせることが難しいようです。

一方、キムやレイチェルの実の母親で、父親とは離婚後、再婚してるアビーは、血がつながっているのに、家族という関係から、自分を切り離しているので、父親やレイチェルのような葛藤がありません。その分、明るいけど、何だか情の薄さを感じてしまうアビーをデブラ・ウィンガーが好演しています。登場シーンは少ないですが、レイチェルに「なぜ、薬物依存症の私に弟を任せたの。」と問い詰められて、文字通り突っぱねちゃうシーンが印象的で、多少薄情だなあと思う半面、逆境を乗り越える一つのやり方として、こういうのもありかなと思わせる説得力がありました。

キムとレイチェルが美容院に行ったとき、キムの知り合いに遭遇し、彼女が施設にいたとき、不幸な生い立ちをでっち上げて、周囲の同情を誘っていたことがわかってしまい、大喧嘩になってしまって、キムはどこかへ行ってしまいます。彼女は母親アビーのところへ行くのですが、そこで殴り合いのようになってしまったアビーは車を茂みに突っ込ませて、顔の痣を作ったまま、結婚式に出ることになります。そして、結婚式は無事に終わり、キムは施設の女性の車に乗り込みます。これは再び施設へ戻っていくことを意味しているのかな?というところで映画は終わります。

雨降っても地固まらない家族の有り様をデミの演出はドラマ性を廃してスケッチのような見せ方で描きました。デクラン・クインの手持ちカメラがドキュメンタリーを撮るかのように人物を追いかけ、アップのショットが各々の想いを汲み取っていきます。若干、カメラ動きすぎの感もありましたが、狙ってやっていることのようです。フィルムでなく、HDカメラによる撮影というのもドキュメンタリー感に一役買っているのかもしれません。

辛い過去を持った家族ではあるのですが、なかなかお互いの気持ちをストレートにぶつけあうことができません。いや、これまでにも何度か衝突はしていると思わせるのですが、それで修復できない関係だというあきらめのようなものが感じられました。心を通じ合わせることに疲れたという感じもするのです。それでも、切れない絆がお互いにあるので、時として、近づいては遠ざかることを繰り返しているように見えました。人間が成長(成熟と呼ぶ方が当たっているかな)していく中で、その溝が段々と埋まっていくのではないかなという期待を感じさせるラストではありました。家族っていいなあ、と思うか、家族って厄介だなって思うか、それは人それぞれなのでしょうけど、でも、家族だからしょうがないなあっていう余韻が残るあたりに娯楽映画としての旨味を感じました。

プロフィール

einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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