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「嗚呼 満蒙開拓団」は残しておくべき、そして知っておくべき記録です

今回は、東京では既に公開されたドキュメンタリー「嗚呼満蒙開拓団」を横浜シネマベティで観て来ました。プログラムには岩波ホールって書いてありますから、そこでの上映だったのでしょう。もともとDVCAMによる作品で、シネマベティではDLP上映になっています。

羽田澄子監督は、当時の満州は大連の生まれでした。そして、彼女の中で、満州からの引き揚げ時に、多くの日本人移民が亡くなり、そして取り残されたことが気にかかっていたのです。彼女は、旧満州の方正地区に中国が建てた日本人のお墓があって、そこに行くツアーに同行します。ツアーで一緒になった人の中には、戦後30年近くたって中国から日本に引き揚げた人もいます。中国の養父母に会いに行くという人もいます。そんな人たちの証言を聞きだして、日本に見捨てられた人々のいたことを記録に残していきます。

たくさんのドキュメンタリー映画を手がけてきた羽田澄子監督の作品です。中国への進出を続けていた日本は、満州国を建国した後、多くの日本人を満蒙開拓団として送り出しました。当時は、昭和大恐慌で、特に農村部で貧困にあえいでいる人々をたくさん開拓団として送り出したのです。土地は、もとの持ち主から安く買い上げたもので、現地民からは恨まれる対象だったようです。それまで小作人だった人が満州に渡れば地主になれるということを宣伝し、日本国として、開拓団を積極的に送り出す政策をとりました。それは、地方に対してのノルマとして課せられたのだそうですから、必ずしも、開拓団の人々が行け行けどんどんで満州に渡ったのではないようです。そして、驚いたことに大東亜戦争も負けが見えてきていた昭和20年の5月にもまだ入植を続けていたのでした。さらに、彼らの多くがソ連との国境付近に入植させられたこともあり、ソ連侵攻の時にひどい目に遭うことになります。映画は歴史的に満蒙開拓を描くのでは、そこに関わりのある人々の証言を記録することに徹しています。

映画は、中国残留孤児の日本での裁判から始まります。彼らの補償問題も何だかはるか昔のような気がします。日中国交が回復したのが1972年で、それから、中国残留孤児の帰国事業が始まりました。満州からの引き揚げ時に、帰国できず、中国人にもらわれた子供がたくさんいたというのも、その頃、世に知られるようになりました。当時の新聞には多くの孤児の写真が載って、日本の家族が名乗り出るというニュースがテレビでも流れましたが、それも回数を重ねるごとに名乗り出る家族が減っていったように思います。

インタビューに答える人の話では、特に引き揚げ時の苦労にすさまじいものがありました。途中で奥さんや子供を殺してしまったり、子供を捨てたりというエピソードを淡々と語られると、いたたまれない気分になってきます。ひょっとして、近所を歩いているおじいさんやおばあさんにそんな過去があるのかもしれないと思うと、まだ戦後は終わっていないかと考えさせられます。また、軍属や役人の家族が引き揚げ列車に優先乗車して、開拓団の人は後回しとか、列車に乗せてもらえなかったなどの事実は、実際そうだったんだろうなあって理屈ではわかるのですが、ずいぶんとひどいことをしていたと思います。日本の終戦と一言で言っても、国内と国外とでは大きな違いがあったんだということを再認識させてくれます。「台湾人生」「蟻の兵隊」といったドキュメンタリーを観ても、日本から見捨てられた形になった人がたくさんいたということ、彼らに対する国家としてのフォローはされなかったということは記憶しておく必要があります。彼らはお国のために行動したのに結果として見捨てられてしまったのです。政治や国家は、立場の弱い者に対しては非情になるということは、今後のためにも胸に刻み付ける必要があると思います。

一方で、中国残留孤児の養父母の話も出てきます。養父母につらい目に遭わされた人もいれば、手厚く扱われた人もいたようで、ケースはさまざまなようです。そして、中国から帰ってきてからも、言葉の壁や、今度は日本人からの差別で苦労されたという話も出てきます。確かに日中国交正常化の1972年には、戦後という意識はあまりなく、また戦前の歴史に対する嫌悪感も強かった時代でもありましたから、これは直視したくない過去だったのかもしれません。

戦争直後、中国では、日本の戦争責任について、日本の軍国主義的指導者が悪いのであって、日本国民はその犠牲者であるという見解を出しました。中国で開拓団のお墓を建てたのは、そういう政策があったのだということもわかってきます。最近の中国は反日政策だとか言われていますが、少なくとも、国民感情とは別に中国政府としてはそういう立場を取ったということは記憶しておくべきことと思います。

歴史に学ぶというのは重要なことだと思います。この満蒙開拓団の物語は、歴史の教科書にはきちんと書かれにくいものだけに、こういうドキュメンタリーの存在価値があると思います。特に、明治以降、大陸へ侵略していった日本について、映画やテレビで描かれることは滅多にありません。テレビや映画で描かれる戦争は、いわゆる終戦間近の滅びの美学といったものばかりで、そこでは、国土防衛の為に散って行った兵隊さんばかりがクローズアップされます。でも、その前に、日本国中が大陸への侵略を大歓迎していた時代、戦争に熱狂的だった時代もあったことを忘れてはいけないと思わせる映画でした。
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「八岐之大蛇の逆襲」は特撮がすごい、自主映画関係なく面白い

久々に映画館でない映画です。友人の持っていたDVDで「八岐之大蛇の逆襲」を観て来ました。これは、1985年の16ミリフィルムによるいわゆる自主映画というものですが、これを輩出したダイコンフィルムという集団は、庵野秀明、岡田斗司夫、赤井孝美、樋口真嗣といった後のアニメ、映画で有名になる人材を多く抱えていまして、この映画は、赤井秀美が共同脚本・監督を、樋口真嗣が特殊技術を担当しています。

鳥取県は米子で、八岐大蛇の実在を証明するという石版が見つかり、調査に来た大学教授の桐原祥子(高橋香具美)が、石版を山にはめ込んだところ、光がまたたいて、山の中から、巨大な八つ頭の怪獣が現れます。それが八岐大蛇だったわけなんですが、これが、宇宙人の侵略兵器だったのです。かつて2000年前にスサノオノミコトに敗れてから、改めて宣戦布告される機会を待ってたというのです。見た目は、トカゲ男風神主ルックの宇宙人は5,6人いて、何だかやる気があるんだかないんだかわからない。で、桐原女史は、八岐大蛇の操縦機に固定されていました。彼女が動くと、オロチも動き出します。何しろ図体がでかいから、行く先々で街を破壊。戦車隊を中心とする防衛隊が出動し、攻撃をしかけるのですが、なかなかダメージを与えることができません。米子市街を破壊しまくるオロチに対して、ロケット砲攻撃で気を引いて、その隙に戦車とヘリで攻撃しようという作戦を立てるのですが、ロケット砲の精度がムチャクチャなため、米子市一帯がメチャメチャになっちゃいます。果たしてオロチを倒せるのか、そして、操縦機にくくりつけられた桐原女史の運命は?

1985年の映画なんですが、さすがに当時の空気を感じる内容になっています。桐原女史はいかにも当時の女子大生風のルックスですし、何というか雰囲気が「うる星やつら」風オタクチックなんですよ。当時の怪獣映画というと、1984年の「ゴジラ」が公開されたものの、何だか物足りない出来栄えだったよねーといった話がされていて、SF雑誌の宇宙船が盛り上がり始めたころです。この映画、80分ほどの作品で自主映画としてはかなり長いのですが、それでも観客を飽きさせないクオリティがあります。オロチが現れてからは、防衛隊との攻防戦のみの構成になっており、見せ場だけを畳み込んでいるのですが、これが面白い。自主映画というには、演出はテンポよく、特に編集のうまさは劇場映画にひけを取らないものでした。

パペットによる宇宙人がもごもごとモノ言うシーンもおかしくて、ヒロインとのうまく噛み合わないやり取りが笑えます。ヒロインが当時のアニメキャラ設定になっているのも楽しくて、懐かしく思いました。一方の防衛隊の皆様は、どっかキャラの作りこみのこだわりが自主映画っぽさもあるものの、きちんとお客さん相手のエンタテメントになっているのが見事でした。自主映画だけあって、若い人しか出て来ないのですが、まあ、そこをご愛嬌としても、変にタメの演出をせず、さくさくとストーリーを運んでいくあたりにパロディや笑いをきちんと自分のものに消化している作り手の余裕を感じさせます。

見せ場となるオロチとの攻防戦をたっぷりと見せているのが何より点数高いです。ディティールまで作りこまれたミニチュアを最大限に生かすアングルで撮影しているのは、それまでの怪獣映画のクオリティを上回るものがあります。東宝の「ラドン」「モスラ」で見られた、凝ったミニチュアワークを採算度外視の大サービスで見せてくれます。米子市内にどの程度合わせているのかわかりませんが、看板や商店街の飾りなど、とにかくリアル。合成カットは少ないのですが、ミニチュアの世界観で、都市破壊を見せ切ってしまおうというのは、特殊技術の樋口真嗣が、後の平成ガメラシリーズでやっていることですが、その原点を見ることが出来たのは収穫でした。ミニチュアカットと自衛隊の実写、人間の芝居の編集も巧みでして、中盤以降ずっと都市破壊シーンなのに、テンションをずっと維持するあたりは感心してしまいました。オロチの造形はあまりインパクトがあるとはいえないのですが、全体像をあまり見せないという撮り方が功を奏して、迫力だけはありました。また、後半、ロケット砲攻撃の誤射が続発するという設定で市街地の爆破シーンがてんこ盛りで、これまた大サービス。

結末は防衛隊の攻撃により、オロチは倒され、宇宙人は自分の星に帰り、ヒロインは海岸に流れ着いて助かります。地球侵略というお話は米子という地方都市のお話に収束しちゃうあたりはおかしいのですが、これも、B級SF映画のパターンをきっちりとなぞっていまして、あー面白かった。

怪獣映画であり、侵略SF映画であり、戦争映画でもあるという内容をいっぱい盛り込んでいるのですが、変な思い入れをせず、娯楽、それも笑いとスペクタクルに徹しているのが点数高いです。その一方でオタクのこだわりも感じさせ、普通の映画としても面白くできているってのは、最近の映画の作りを先取りしてるとも言えましょう。

「Hachi 約束の犬」は品のいい小品にまとめているのが珠玉の一品

今回は、旅行先の秋田ルミエール2で「Hachi 約束の犬」を観てきました。駅のすぐそばにある映画館で、前半3列フラット、後は傾斜がきっちりある作りです。座席指定がないのはちょっとびっくり、というか昔はシネコンも基本自由席だったんですが、座席指定に慣れすぎてる自分にびっくり。

大学教授パーカー(リチャード・ギア)は駅で迷子になってる犬を拾って、家に連れて帰ります。奥さんのケイト(ジョアン・アレン)はいい顔をしないのですが、飼い主も現れないまま、パーカーはその犬を飼うことになります。同僚の日本人から、その犬が秋田犬で、首輪に「八」の模様があるところから、犬はハチと名付けられ、ハチはパーカーにかわいがられ、朝は駅まで見送りに来て、帰りの電車が来るころには駅に迎えに来るようにまでなりました。パーカーの家では、娘が成長して、結婚し、孫もできました。そして、ハチの送り迎えも続いていました。ある日、朝、いつもと違う行動をとるハチ、その日の夕方、パーカーは帰ってきませんでした。急死でした。ハチは娘夫婦の家に引き取られるのですが、いつの間にかそこを抜け出して、駅前で主人を待つようになります。それを見て、娘もハチを無理やり連れ帰るのを断念し、ハチは夕方から真夜中まで、主人の帰りを待つ日々が続き、それは駅の風景の一つになっていくのでした。

渋谷駅にある忠犬ハチ公の銅像は、亡くなった主人をずっと迎えにきていた実在の犬をモデルにしていまして、それを題材にした「ハチ公物語」という日本映画もあります。「Hachi 約束の犬」はそのハリウッド版リメイクでして、タイトルでも「ハチ公物語に基づく」というクレジットがあります。まあ、動物モノで泣かせる話ということで、実はあまり興味なかったのですが、監督が「ショコラ」「サイダー・ハウス・ルール」のラッセ・ハルストレムということで食指が動きました。正直、ベタなお涙頂戴物語をこの監督がどう料理するのかというので、俄然、興味が湧いてきたのです。

実際に観てみれば、最近の映画には珍しい93分という時間の中で、サラリといい話にまとめあげていまして、これは面白かったです。私は動物飼ったことないですし、犬に何の思い入れもないのですが、それがこの映画を楽しむにはよかったのかもしれません。犬に感情移入しない分、映画の作りを堪能できたような気がします。また、この映画、普通のドラマなのに、吹き替え版の上映劇場の方が字幕版よりも多いという珍しい映画です。川崎の3つのシネコンで公開されているのですが、字幕版は1館のみ、それも午前の回は吹き替え版ですからビックリです。私は字幕版で観ましたが、ギアの声を太いどっしりした北大路欣也が吹き替えるってのは妙な感じです。あのギアの「ハァチィ」と呼ぶ声が聞けないのも気の毒だし。

この映画は、なかなか思い切った構成を取っていまして、主人公である筈のパーカーが途中で退場してしまい、物語の軸がハチそのものにシフトしてしまうのです。でも、犬を擬人化したり、感情を表現させることはしていません。犬の視点からのカットは入りますが、そこに犬が何を考えているのかといったことを押し付けない演出に好感が持てました。でも、それだと話が伝わりにくいと考えたのか、オープニングとエンディングで、パーカーの孫が学校で、ハチをヒーローとして語るというエピソードを入れています。そこで、ハチの忠誠がすばらしいとか言わせているのですが、何でも説明しきらないと気が済まないハリウッド映画らしい作りは、今一つな感じがします。ハチの飼い主を慕う気持ちはかなり描かれているのですから、後は観客の感じ方に任せればいいと思うのです。犬の気持ちなんて、ある意味、周囲の人間の勝手な解釈、思い込みみたいなものですから、それを決め付けられるとちょっと引いてしまうところがあります。この映画は、ハチの表情だけで何となく感じさせるにとどめているところに作り手のセンスを感じます。それを見て、周囲の人々が色々と解釈をするのですが、それはあくまで周囲の人間の感情だよね、という描き方をしているのが好印象でした。

ポイントは、ハチを上から目線で見て、ああだこうだという人が出て来ないので、「ハチのためを思って」という押し付けがましさがないのです。変に「かわいそうな犬」なんていう見せ方をされたら引いちゃうところですが、この映画は、よく犬を立てていると言えましょう。秋田犬は人間に媚びない、といった説明もされて、単なるペット以上のプライドを持っているという描き方は、「へえ、そうなの?」って思うところもあるのですが、そこで、飼い主と対等な人格を持ちながら、飼い主に対する純粋な想いがあると設定に説得力が生まれました。

映画は、パーカーと妻、娘、娘婿、日本人の友人、駅長など少ない登場人物で展開し、ハチの出番はかなり多いです。飼い主の死後はハチの一人芝居が中心となりますし、ハチを中心に、人間を脇役としてうまく配置しています。犬は猫より見た目が健気なので、こういうドラマではすごく得してまして、寒い夜、線路をトコトコと走るハチの姿はホロリとさせるものがあります。私はそれ以上の思い入れはないので、泣くところまではいかないのですが、ああいう行動を取られたら、飼い主はたまらんだろうなあってところは納得でした。舞台となるベッドリッジという街がすごく寒いところってのも、ドラマの背景として有効でした。ある種、静謐ともいえる空気感は、この映画に必要なものだったと思います。日本の渋谷のハチ公の物語は、この映画とは別物と思って、この映画の世界にひたった方が楽しめると思います。

リチャード・ギアはちょっと駄々子なところもある中年男を好演してまして、主人公でありながら、後半姿を消してしまうというスターらしからぬ役どころを楽しそうに演じています。彼以外の、ジョーン・アレン、ジェイソン・アレクサンダー、サラ・ローマーといった面々は、一歩引いた立ち位置で、パーカーとハチをうまく引き立てています。主人公の死後10年までの長い期間を描く物語ですが、エピソードを細やかに積み重ねて、手際よく見せる演出はうまいです。ラストで、ハチが飼い主の幻を見るシーンがあって、初めて、ハチの内面を見せるのですが、それも語り過ぎない見せ方が節度を感じさせるものでした。結果、「こういういい話がありました」というタッチにまとまって、品のよい小品に仕上がっています。ドラマとしては押し出しが弱いとも思えるのですが、そこがこの映画のよさになっています。

音楽は、「ネバーランド」「運命の女」などでドラマを見事に支えたヤン・A・P・カツマレクが担当していまして、ピアノソロを前面に出した曲とオーケストラ音楽をうまく組み合わせて、前半はどちらかというとコミカルに、そして、後半はしっとりとした味わいでドラマの雰囲気をやわらかくまとめています。吹き替え版には日本語主題歌が入ったようですが、この映画のエンドクレジットでのカツマレクの曲はピアノが美しく切ない佳曲なのでもったいないなあって気がします。

第一作「ゴジラ」は時流に乗ったキワものとして観ると面白い

今回は、横浜シネマジャックの平和映画祭という企画で、昭和29年の「ゴジラ」を観てきました。劇場での鑑賞はこれで2回目になります。

大戸島付近で、貨物船や漁船が次々に消息を絶ち、生存者が大戸島に流れ着きます。その一人、政二は、巨大な生き物を見たと言います。嵐の夜に、政二と母親は家ごと潰されてしまいます。弟の新吉は巨大な生物を目撃します。調査団がやってきて、井戸や潰された家から放射能が検出されます。調査団の前に巨大なジュラ紀の生物が現れ、姿を消します。その生物は大戸島の伝説の怪物ゴジラという名がつけられ、海上保安隊による爆雷攻撃が行われますが、ゴジラはそれをものともせず、品川に上陸します。一度は海に逃れたゴジラに対して、海岸線に高圧電流を張り巡らして防衛線を張るのですが、再度上陸したゴジラはそれをものともせず、東京を火の海にしてしまいます。果たして、ゴジラを倒す方法はあるのでしょうか。

世界で一番有名な日本映画かもしれない「ゴジラ」その第一作は、昭和29年に公開されました。当時は、マグロ漁船第五福竜丸がビキニ環礁での水爆実験で被爆し、日本では放射能や原水爆というキーワードがあらためて注目され、反核運動が盛り上がった時期でもあります。もともと巨大モンスターの映画を作る(最初は大ダコの企画だったそうですが)企画があって、そのために作家の香山滋に原作を依頼したのだそうです。そして出来上がった話は原水爆実験によって長い眠りから覚めた怪物の話になり、反原水爆のメッセージを持った内容になりました。反核の思想というものが、今はあまり語られなくなったことを考えますと、これは、当時の世相を反映したものであり、ある意味、反核という時流に乗って作られた映画であることは間違いなさそうです。昭和46年に当時の世間の注目を集めていた公害を扱った「ゴジラ対ヘドラ」が公開された時に、これはキワもの映画だと思ったものですが、この「ゴジラ」も原水爆を扱ったキワものとしての顔も持っているようです。その分、当時の世相をうかがい知ることができる映画とも言えます。

スタンダード、モノクロの「ゴジラ」は今の視点で観ると、まず特撮はチャチなところが目立ちます。また、当時の映画批評で、「SF映画なのに、夢や冒険もなく、やたら登場人物が懊悩する」と叩かれたのも、ごもっともと思うくらい、人間ドラマは悲劇的で暗いです。生物学者の山根博士(志村喬)は、「みんな、ゴジラを殺すことしか考えてない」と憤慨し、戦争で顔に傷を負った芹沢博士(平田昭彦)は、ゴジラ撃退の秘密兵器を持っていながら、それが軍事利用されることを恐れて公表できません。原水爆が原因でゴジラが目を覚ましたことは、国際的に影響が大きいから公表すべきでないと、国会の委員会は紛糾します。確かに、痛快娯楽映画とは思えない展開は、その後の怪獣映画に見られないものがあり、それくらい原水爆に対しての危機感があったことがうかがえます。

では、映画としてつまらないのかというと、そんなことはありません。本多猪四郎の演出は、船の遭難から、漁業補償の話になって、怪獣が現れて、東京が蹂躙されるまでを、テンポよくつないでいきます。ゴジラが東京を蹂躙するところが見せ場になっているのですが、都市破壊の見せ方のうまさもさることながら、人間のリアクションの積み重ねが怖い絵になっています。さらに、焼け野原になった東京とか、負傷者で埋まった避難所ですとか、東京大空襲を想定しているかのような見せ方は、戦後9年目の観客には、リアルなインパクトがあっただろうことが想像できます。初お目見えのゴジラという怪獣には、キャラが与えられておらず、こいつが行くところ、放射能と火の海が残るという見せ方になっていまして、これが核兵器のメタファーであることは確かなようです。最近の映画を見慣れた目では、このゴジラによる都市破壊はかなり怖いです。モノクロ画面の中で、東京が火の海になる様子は、当時の観客にはどういうふうに映ったのかが気になるところです。子供の頃観た「日本沈没」で東京大地震のシーンで火に追われた人々が焼死する様子がリアルに描かれていて怖かったのですが、あんな感じだったのかしら。

ドラマとしてのクライマックスは、ゴジラを倒すことができる秘密兵器(酸素破壊剤)を使うように説得する主人公(宝田明)とヒロイン(河内桃子)に対して、頑なに拒否する芹沢とのやり取りになります。そしてテレビに映る女学生のコーラスと被災者の人々の姿に、芹沢は、その兵器の使用を決心します。ここがドラマとしての一番の盛り上がりを見せまして、その後、海底に潜むゴジラに、酸素破壊剤を仕掛けに行く主人公と芹沢が描かれるのですが、このシーンが非常に淡々と撮られていまして、あまり盛り上がりませんし、スペクタクルとしての見せ場にもなっていません。平和への祈りを前面に出しながら、最終兵器とも呼ぶべき酸素破壊剤を使うのを決心するというのは、若干の矛盾もあるのですが、芹沢は、自分もろともゴジラを葬ることで、最終兵器の軍事利用を阻止するのです。これに、実は、芹沢がヒロインに想いを抱いてたということもあって悲劇性の高いドラマになっています。

今なら、反核ですとか、平和への祈りを前面に押し出す娯楽映画が作られることはないでしょうが、当時はそれが身近なものとして感じられていたのだな、ということを知る意味でも観る価値のある映画です。ゴジラの上陸で人々が逃げ惑う様が妙にリアルに感じられるのは、この映画がそれだけうまく作られているからでしょう。ゴジラシリーズの中では、この「ゴジラ」と「ゴジラ対ヘドラ」が異色作として特記されることが多いのですが、それは、時代の空気をキワものなりに取り込んでいるからだと思います。

「そんな彼なら捨てちゃえば」はヒロインたちの恋愛群像をライトにまとめてます

今回は新作の「そんな彼なら捨てちゃえば?」を丸の内ピカデリー3で観てきました。名前のせいで丸の内ピカデリー1,2とまぎらわしくて、場所間違えちゃうよなあ。1,2のチケット売り場でも3のチケット売ってるのはサービスのつもりなのかな。

ジジ(ジニファー・グッドウィン)は同僚との紹介でデートした男にゾッコン、彼の行きつけの店にストーカーまでしちゃうのですが、オーナーのアレックス(ジャスティン・ロング)に彼は君に気がないんだよって諭されちゃいます。ジジの同僚ジャニーン(ジェニファー・コネリー)はダンナで二枚目のベン(ブラッドリー・クーパー)と一応うまく行ってるみたいなんですが、偶然スーパーで知り合ったアンナ(スカーレット・ヨハンソン)がベンに積極的にアタックしてきます。妻帯者だからと引き気味だったベンも魅力的なアンナのモーションにたじたじ。もう一人の同僚ベス(ジェニファー・アニストン)は7年同棲しているニール(ベン・アフレック)がなかなか結婚を言い出さないのがやや不満。ニールはベスを愛してるけど結婚なんて形式的なものは無意味だという理屈を前面に出してくるので、ついにベスは彼に別れを告げてしまいます。まあ、色々と男女の仲はうまくいかないものですが、それぞれに収まるところに収まっていくのでした。

様々な男女の恋愛模様を並行して描いた映画というと「ラブ・アクチュアリー」という傑作があったのですが、それと同様に様々な男女の恋愛模様を描いたコメディタッチの一品。なかなかキャストが豪華で、上記の面々以外でも、ドリュー・バリモア(兼製作総指揮)やクリス・クリストファーソンといった面々が脇を固めています。「恋するジーンズと16歳の夏」で娘4人が主人公のドラマをうまくさばいたケン・クワピスがメガホンを取っています。ちょっぴり切なくてシリアスなドラマだった「恋するジーンズ」に比べるとやや軽めの味わいですが、甘めな大人のラブコメとして、まろやかにまとめています。ちょっと間口を広げすぎの感はありますが、男女のありようのミニチュアをながめるような味わいありました。(浅く広くって感じですね。)

メインのキャラというのは特にいないのですが、なかなかいい男と出会えなくてあせってるジジ、同棲相手がなかなか結婚しようと言わなくて不安なベス、二枚目のダンナに無理に結婚させてしまったことが負い目になっている一方、家の改築だけに興味があるジャニーンという同じオフィスの同僚3人が主人公と言えましょう。サブプロットとして、ジャニーンのダンナにモーションをかけるアンナ、そして、ネット恋愛がなかなかうまくいかないゲイ雑誌の編集者メアリー(ドリュー・バリモア)が登場します。

何でもいいから彼氏を作りたいって焦り気味のジジは、アレックスという恋愛のアドバイザーみたいな男と不思議な距離感で付き合うようになり、アレックスが彼女を気遣ってくれるのを、自分に気があるからじゃないかと思うようになります。彼女はどうも思い込みが強いタイプみたいで、いわゆるすぐその気になっちゃう人、滑稽でもあり、ちょっと迷惑でもあるキャラをジニファー・グッドウィンがなかなかリアルに演じて、笑いをとります。思い込み強いと言えば、妻帯者であるベンにアタックするアンナも思い込み強いキャラなんですが、ヨガの講師で歌手志望というアンナは恋愛も自分探しの一部のように扱っていて、それに依存してないってところがジジよりもクールです。美形のスカーレット・ヨハンソンが変な人風のキャラをコミカルに演じてまして、エピローグで「インドへ行くのよ」なんて言い出すあたりがかなりおかしかったです。

ジャニーンは結婚していて幸せそうな筈なんですが、どこかピリピリしています。ちょっと優等生風のジェニファー・コネリーが見事にジャニーンという女性にはまっていまして、ウソが許せない、ダンナをどこか上から目線で見ちゃう女性を見事に演じています。映画の中盤で、自分は結婚する前はもっと楽しい人間だったのに、というあたりに説得力がありました。彼女の認識では、自分がダンナに結婚するように迫ったことを無理強いしたと思い込んで、それを引け目に感じています。そんなことを考えること自体が彼女が自分を追い詰めちゃってるってことなんですが、それだけ自分の感情を押し殺してきたわけです。でも、なかなかダンナの気持ちに気がまわらないゆとりのなさは、ダンナかわいそうとも思えてしまうわけでして、この夫婦は最後はうまくいかなくなっちゃいます。

ベスは、ニールと別れた後、妹の結婚式のために実家に帰るのですが、そこでは、妹に先を越された姉という、やな扱いを受けます。そして、父親が病気で倒れたとき、駆けつけてきてくれたニールとヨリを戻すことになります。ジェニファー・アニストンはうまい女優さんだと思っていますが、ここでも、中年女性の機微をメリハリよく演じて、ドラマに弾みをつけています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ジジは、何くれとなく気を使ってくれるアレックスが自分に気があると思い込んで、パーティの晩に先走った行動に出て、アレックスにドン引かれてしまいます。ものすごくカッコ悪いジジは「無様でも、本気で人を愛してる私の方がマシよ」って捨てゼリフを残して引き下がるころになるのですが、どこがどうなったのか、今度はアレックスが、彼女の事が気になって仕方なくなっちゃいます。まあ、広い意味でのミイラ取りがミイラみたいなもので、恋愛のことをあれこれジジに語ってきたアレックスが、今度は自分が当事者になってアタフタしちゃうわけです。そして、アレックスがジジを訪ねて行って、思いを伝えて、一応のハッピーエンド。でも、この先、どうなるのかなって一抹の不安もあります。ジジって恋愛妄想が強いから、この先、別の相手と運命の愛を感じちゃうかもしれないですもの。

二枚目で誠実そうなジャニーンのダンナは、彼女に、自分がアンナと浮気したことを告白します。ジャニーンは、ショックを受けますが、それでもダンナとやり直そうかと思うのですが、ダンナの服のポケットからタバコを発見して逆上します。彼女は喫煙をすごく嫌悪していまして、改築中の家から、吸殻が見つかったときも、ダンナを詰問します。ダンナは頑としてそれは自分のじゃないと言い張るのです。浮気を自分から告白しても、タバコは違うと言う彼を信用しかかっていたのに裏切られたとわかって、ジャニーンは切れてしまい、結局、二人は離婚することになります。タバコごときでと思うのですが、結局、この二人は別れる運命にあったんだなって納得できる結末になっています。どっかで間違っちゃった結婚だったのが、ずるずると来てしまって、やり直す機会を逸していたという感じなんです。普通の夫婦だとそのままずっと行ってしまうのですが、たまたま、全てを元に戻す機会に恵まれたという印象でした。まあ、ダンナにしてみれば、未練がまだありそうなんですが、嫁の目線ではこれでよかったとなります。この見解の違いが性格の不一致と言えなくもないのですが、やっぱりダンナかわいそうかも。

ニールとヨリを戻して、同棲を再開したベスに、ニールは改めて結婚を申し込みます。このカップルは一番のハッピーエンドってことになります。この二人のエピソードは出来過ぎの感もあるのですが、まあ複数のカップルのドラマならひとつくらいきれいにまとまるのがあってもいいよねってところです。

ジェニファー・アニストン、ジェニファー・コネリー、ドリュー・バリモアといった90年代のヒロインが、恋愛ドラマを演じるということで、年をとったなあって思わせる一方、恋愛する年代が当時より上がってきているのかなという気もしました。その中で、一番若いジジが一番恋愛願望が強いのは、まあ仕方ないかなと思わせるのですが、その分、彼氏ができてもまだまだ心配だなあって思わせるのが面白かったです。大人の恋愛と呼べるほどの深みはないのですが、男女のありようのサンプルをうまく並べていますので、女性同士で観に行って、ああだこうだと話をするのには向いています。「彼は、あなたにその気はない」という原題を一歩進めて「そんな彼なら捨てちゃえば」に変えたセンスは買います。女性向けにはこの題名の方がアピールしますもの。

「台湾人生」は日本の歴史を知るという意味でもオススメ

今回は、新作のドキュメンタリー「台湾人生」を横浜シネマベティで観てきました。DLPによる上映で、ビデオ撮影の映画です。結構、お客さんが入っていたので、ちょっとびっくり。

台湾は、日清戦争で日本に割譲されてから、大東亜戦争終了までの51年間、日本領でした。日本統治時代を知る台湾人はもう70歳以上の高齢の方々ですが、まだ日本語を話すことができます。彼らの証言から、台湾の人々に日本に対する思いが伝わってきます。ある人は台湾で日本人の農場で働き、ある人は日本の兵器工場で働き、ある人は日本軍の兵士として南方で戦ったのです。彼らは当時、日本国民であったのですが、日本の敗戦後、彼らは日本から見捨てられた状態となり、蒋介石の国民党の統治下でさらに大変な思いをしてきたのです。

1969年生まれの酒井充子が監督したドキュメンタリーです。台湾でも、日本統治時代の教育を受けている人は70歳以上の高齢者ですが、その人たちへのインタビューをつないだものです。台湾というと、日清戦争で日本に占領されて、大東亜戦争で日本が負けるまで、日本領だったこと、その後、蒋介石の国民党が統治して中華民国となり、元からの台湾人は弾圧されたというくらいの認識しかありませんでした。それも、この映画館で観た「緑の海平線 台湾少年工の物語」によるものがほとんどです。この映画では、台湾人と日本人の関係であまり知られていないことを、伝聞でなく当の本人に語らせている点で、歴史の記録としても意味のある映画になっています。

この映画に登場する台湾人の方々は、生まれた時は既に日本領であり、日本人としての皇民化教育を受けています。ですから、日本に対する愛国心を幼い頃から徹底された世代です。そして、終戦と同時に日本に見捨てられたという認識が彼らにはあります。日本の統治下から、独立したという認識ではないのが意外でしたが、それは、その後、中国から国民党が渡ってきて、大陸人が台湾人を統治するという状態になったこと、その上、彼らによる台湾人への弾圧があったことから、余計目に日本から見捨てられたことへと恨みと、中国人に対する反発があるようです。台湾には、昔からの台湾人、戦後に大陸からやってきた中国人がいて、この映画に登場する人々の中には、台湾語、日本語、北京語を使いわける人もいます。(中華民国時代は、北京語が公用語でしたから)

その一方で、日本や日本人、日本語に対する懐かしさも持っています。物心ついた頃は彼らは日本人だったのですから、その感情には納得できるものがあります。一方で、日本に対する恨みもあります。ある男性は、「なぜ、日本政府は日本のために戦った台湾人に対して、よくやってくれたの一言が言えないのか。」と声を詰まらせます。ある女性は「靖国神社をきちんとお参りするべき」とも言います。終戦後に大きな価値観の変化(最近、揺り返しがきていますが)があった日本に比べると、戦前教育の価値観をまだ持っていることに驚かされます。それだけ、終戦後に日本に捨てられたという感覚に説得力があり、その後の中華民国統治の歴史は、戦前を否定した(することができた)平和な戦後日本とは一線を画していることを再認識させられます。また、日本人という建前ながら、内地の日本人との差別があったこと、そういう差別はなかろうと思って志願した軍隊でも差別を受けたことが忘れられないという証言は、朝鮮、台湾に対して行ったのは植民地政策ではないという最近の論調は、やっぱり違うんじゃないかと思わせるものがありました。

この映画を観ていて思い出したのは、「蟻の兵隊」という中国に置き去りにされた(上官によって中国国民党に売られた)日本兵の記録映画です。「蟻の兵隊」の奥村氏は日本人として、日本に見捨てられたのですが、台湾人はまるごと日本に見捨てられたという構図が見えてきます。しかし、一方で、彼らの子供の世代はまた別の価値観の教育を幼いときから受けていることになりますから、全ての台湾人がそういう感情を持っているわけではありません。それに、この映画に登場する同じ世代の中でも、日本語の達者さ、日本に対する思いの強さはそれぞれに差があります。台湾人の中のさらに少数民族出身のタリグさんが、戦後30年たって帰ってきた元日本兵の台湾人に日本政府が何もしてくれないことに怒りをふるわせるシーンや、元日本兵だったソウさんが、子供時代の日本人教師に受けた恩を忘れず、最期をみとって、毎年墓参りのために日本を訪れているというエピソードは、人それぞれの日本、日本人に対する思いの違いを感じさせます。

それでも、日本に対して懐かしさを感じているということは、戦後も日本人に対するある種の同郷人の意識があるのかもしれません。そのことを日本人は記憶に留めておく必要があります。それを忘れないための映画としても存在価値があると言えましょう。これが、台湾全体の感情だとは思いませんが、日本の歴史の一部として取り込むべきものだと思います。「台湾人生」というタイトルはちょっと風呂敷を広げた感もあるのですが、台湾という土地とか国でなく、台湾人に焦点を当てているという点は重要だと思います。こういう映画が、朝鮮人についても作られないのかなって気がします。日本の右翼系にはボロクソ言われてる朝鮮の人々ですが、台湾人と同じように、皇民化教育を受けた世代が、戦後、日本に対してどういう感情を持っているのか気になってしまいました。また、日本に対するノスタルジーのない台湾の若い世代が、日本に対してどう思っているのかも。

「Dear Doctor」は人間観察の映画としてかなり面白いです

今回は遅ればせながら「Dear Doctor」をTOHOシネマズ川崎8で観てきました。最近のシネコンは予告編前から鑑賞マナーとかショートフィルムなどを場内を明るくしたまま上映したりするのですが、そのまま本編へとダラダラ流れていくので、どこで世間話をやめればいいのかキリが悪いです。昔のように、幕が開くところで一区切りついて場内静かになるという方がケジメついてよかったです。

神和田村の診療所の医師、伊野(笑福亭鶴瓶)がある日突然失踪します。刑事二人が捜査を始めます。ことの起こりは、診療所に研修医の相馬(瑛太)がこの診療所に研修にやってきたあたりから。伊野は村では神様みたいにあがめられていまして、それに対して伊野も献身的に高齢者中心の村の医療にあたっていました。そんな彼と村民との関係に相馬は都会では学べなかった医療のありようを学びつつありました。ある日、かづ子(八千草薫)という一人暮らしの女性に往診した伊野は、彼女の態度が気になって、後で一人で訪ねます。かづ子は自分が何か病気であることを知っていましたが、自分の3人の娘に迷惑をかけたくないと言い、医師をしている三女にもそれを伝えてくれるなと懇願します。伊野はそんな彼女の気持ちをくんで、それなら、私の診療をきちんと受けてくれと言い、かづ子もそれを受け入れます。ところが、そこから、彼は道を踏み外してしまうことになるのです。

「ゆれる」の西川美和監督が脚本も兼任した作品です。人気タレントの笑福亭鶴瓶が主演ということで、これまでの映画よりも、話題性も宣伝も十分だったせいか、なかなか評判がよくてヒットしているようです。他の人から見れば、別の見え方もあるのでしょうが、私は、笑福亭鶴瓶というタレントにどこか胡散臭さを感じていました。確かに、ものすごくいい人の顔を持っているのですが、そのいい人の向こうに何かハラに一物あるような感じがするのです。この映画では、その胡散臭さが映画の陰影として大変うまく機能していました。ネタばれになっちゃうのですが、伊野は実は無免許のニセ医者だったのです。彼が失踪して、そのことがわかって、二人に刑事が関係者に聞き込みに行くシーンと、彼が失踪するまでの経緯とを並行して描くという構成をとっていまして、彼がニセ医者であることは、映画の中盤でわかってしまいます。そこで引っ張る映画ではありません。伊野というニセ医者と周囲の人間を丁寧に描くことで、一言では語り尽くせない多面的な人間のありようが描かれていまして、映画として大変面白かったです。

神和田村というのは、人口1500人、その半数以上が高齢者という山村です。伊野はそこの診療所の医師として看護婦の大竹(余貴美子)と一緒に勤務していまして、年収は2千万ですって。かなりいい稼ぎになっているようなんですが、仕事はなかなか大変そう。先生、単に受診者を診察するだけでなくって、お年寄りの家に押しかけて健康診断もしてるんですから、なかなかすごいことです。その分、村では神様みたいな扱いをされているわけで、若い研修医はそんな彼を見て、憧れを感じるようになります。伊野のやっていることこそ、本当の医療なのだと思うのは、確かに無理もありません。一方で、看護婦の大竹は、伊野の医師としての能力に疑問も持っているようです。でも、それを表立って口にすることはありません。ニセ医師だということが映画の中盤で観客にわかってくるに連れて、回想シーンの伊野の表情から笑いがなくなってきます。かづ子という老婦人を診察するようになって、伊野は、彼女の「娘に知らせないで、ここで死にたい」という希望に本気で応えようとします。



この先は映画の結末に触れますのでご注意ください。(それほど、ビックリの結末ではないです。)



伊野は、かづ子のために医師としての一線を越えてしまいます。彼女はガンだったのですが、胃潰瘍だとウソをつき、さらには胃カメラのデータ捏造ということまでやってしまうのです。一方、かづ子の娘は、自分も医者であることから、母親の薬を見て、伊野に相談にやってきます。伊野は、ニセのデータで彼女をまるめこもうとするのですが、娘が母親に次に会いに来るのは1年後くらいになるという話を聞いて、彼女に本物のデータを残して、そのままどこかへ消えてしまいます。それまで、彼は、自分がニセ医者だということに罪の意識は感じていなかったようですが、ここにきて、人としての罪に意識に追い詰められたのかもしれません。

そして、伊野が姿を消して、彼がニセ医者だとわかり、刑事が関係者に事情を聞いて回るのですが、村人や研修医も、それまで、伊野を崇めてきたことに口をつぐんでしまいます。一方、彼がニセ医者だと知っていた(気付いていた)看護婦や製薬会社の営業(香川照之)らは、伊野のことを擁護も非難もしません。そこで見えてくるのは、伊野がニセ医者を始めたら、周りも一緒にそのウソに乗って回り始めて、誰も降りられなくなったんだなあってことです。伊野が一人でウソついてるだけなら、もっと早くに告白するなり、逃げ出すなりできたかもしれないのですが、周りも含めて勢いがついてしまっているので、伊野は逃げ場を失っていたようなのです。でも、結局、かづ子を救うことはできないし、娘に対しても倫理的に許されないことをしてるわけです。彼の行為を客観的に見れば、ニセ医者がウソの診断をしてデータも捏造したことになるわけですから、とんでもない話です。でも、一方で、彼は村人に対して、よいこともしているのですが、そこは過大評価されているところもあったのです。伊野は、かづ子に関わることがなければ、その地位を維持できて、もっと多くの村人を救えたのかもしれないし、でも、いつかはウソはばれるかもしれない。

伊野としては、医師として行動することで、村人から過大な感謝を受けることに、悪い気はしてないようです。でも、その結果、ウソをズルズルと引きずることになっていました。きっと、医療ミスを起こすまで、彼のウソはばれなかったでしょう。いや、ミスだと思われたなら、それを村人が擁護してくれたかもしれません。ともあれ、姿を消した伊野ですが、病院のスタッフとして、かづ子の病棟に現れるところ映画は終わります。

映画は、刑事2人が関係者に聞き込みをするという設定で、伊野に対して、人々がどう思っていたのかを語らせるといううまい構成をとっています。それによって、彼に関わった人間の思いがわかりやすく伝わってきますが、一方で、やや、饒舌になりかける一歩手前のところで抑えて、伊野という人間を語り尽くさないところに、ドラマとしての奥行きが出ました。特に、かづ子という老婦人に対する、伊野の気持ちが同情なのか愛情なのか医師としての職業意識なのかがはっきりとしないところが面白いと思いました。一方で、かづ子の、娘に心配かけたくない、でも娘が恋しい、病気は苦しいという、複雑な思いをリアルに見せているのも感心しました。八千草薫が、リアルなんだけど、地に足がついてないような不思議な存在感を演じきっていて見事でした。鶴瓶が演じた伊野と同じくらい、得体の知れないキャラになっていて、この映画全体の何かふわふわした雰囲気にうまくマッチしているのです。登場人物みんなが胡散臭いというか、得体の知れない感じを持っていまして、映画全体がもやもやというか、ふわふわというかつかみどころのない雰囲気を持っているのです。そこにリアルな人間の色々な顔が見えてくるというのが大変面白い映画だと思いました。その結果、物語としては、後半まで大きな展開がありません。伊野と周囲の人々を淡々と描写する、人間スケッチの味わいがあります。

そんな中で、アクセントのように、井川遥演じるかづ子の娘が明確な人間像として浮かび上がってくるのが印象的でした。つかみどころのない人間群像の中で、彼女だけは、唯一、明確なキャラになっており、最終的にドラマを動かすのは彼女なのです。このキーマンを井川遥が好演していまして、明確な思いがきりっと伝わってくるところに彼女の演技力を感じました。ここは、西川監督も他の演技陣と別の演出をしているのかもしれません。

人は色々な思いを持って生きているのですが、その思いは他人にはわからないことが多くて、一方で、自分は他人のことを知っているつもりになっている、そんな人間関係の矛盾をやわらかく描いた映画ではないかしら。純粋な善意も悪意も登場しない、ありがちな人間のありようなんですが、一方で、とんでもないニセ医者という社会的な悪という顔も持っている、そんな、ある意味、不合理な世界に、西川監督は、暖かな視線を投げかけつつ、面白がっているのかなって気がしました。

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Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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