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「きみがぼくを見つけた日」は、ヒロインの人生の受け入れ方に見ごたえあり

今回は新作の「きみがぼくを見つけた日」を川崎チネチッタ4で見てきました。この邦題も何だかすごく覚えづらい。原題の「The Time Traveler's Wife」の方がすっと頭に入るのですが。覚えにくい題名は、シネコンでチケット買うとき、結構面倒なんですよ。「え、えと、あの、タイムトラベラーの...」

図書館の司書ヘンリー(エリック・バナ)は、幼いころから発作的にタイムトラベルしちゃうという持病(?)がありました。過去や未来に飛んでは、しばらくすると戻ってくるというのを繰り返してます。そんなある日、若い女性が彼に懐かしそうに話しかけてきました。彼女の名前はクレア(レイチェル・マクアダムス)と言い、幼い時から何度もヘンリーに会っていて、彼がタイムトラベラーだということも知っていました。未来のヘンリーが何度もタイムトラベルしてクレアと会っているようなのです。ヘンリーも彼女を愛するようになり結婚する二人。でも、ヘンリーはちょくちょくタイムトラベルしてどっかへ行ってしまいます。それを知った上で結婚した二人ですが、そのすれ違いに苛立つときも出てきます。そして、クレアが流産したことから、どうやらお腹の子もタイムトラベルしちゃうらしいことがわかってきます。子供が欲しいクレアと、妻の身を気遣うヘンリーの間で気持ちのすれ違いが起こってしまいます。

ニック・ウェクスターの原作小説を、「ゴースト」のブルース・ジョエル・ルービンが脚色しているのが売り文句の映画です。タイムトラベルの持病があるという設定がかなりぶっ飛んでいますが、そこからラブストーリーに発展させるあたりに展開の面白さがありました。主人公のヘンリーは本人の意思に関係なく、突然タイムトラベルしてしまうのです。それもタイムトラベルするのは体だけなので、トラベル直後はいつも全裸。行った先ではまず着るもの探しから始まって、そこらへんにあるものを勝手に着込んじゃうあたりは、結構迷惑な人でもあります。そんな、彼が、初めて会った女性から、「やっと同じ時間の中で会えた」って言われて、恋に落ちるわけです。ヘンリーは、子供時代から今までの彼女の人生の中に何度も現れていて、彼女にとって、ヘンリーは運命の人になっちゃっていたわけです。ヘンリーが彼女のもとに好きで会いに行ってるわけではないのですから、まさに運命の出会いということになりましょう。この映画では、ヘンリーがタイムトラベルすることについて何の説明もありません。とにかく、そういう人なんだからという基本設定なのです。一種の持病みたいなものなんですが、それとどう折り合いをつけて人生を送るかという物語なのです。

それでも、二人は愛し合うようになり、結婚することになります。お互いにとって運命の人であることは間違いはありません。そして、彼らにはそれ以外の選択がないように見えます。親の決めた人(この場合は、運命の神様が決めた人)と結婚するというのと大差ないんですが、ちょっと時代がかっているというか、今風じゃない展開が、ファンタジーのようであり、時代の空気を感じさせない映画に仕上がっています。その運命は、二人に過酷なものになるのですが、それに立ち向かうのではなく、どう受け入れるかに主眼が置かれています。エリック・バナは、どこか達観したようなところがあるヘンリーを控えめに演じていまして、一方、レイチェル・マクアダムスは、未来への希望を持ったヒロインを熱演しています。あり得ない設定のドラマを、ラブストーリーとして着地させたのは、彼女の演技によるところが大きいでしょう。彼女が運命に対して、どう向き合って、折り合いをつけていくのかがドラマの中心になっています。(原題も、タイムトラベラーの妻の物語ですし)「フライト・プラン」のロベルト・シュレンケの演出は、淡々と物語をつづっていくもので、もう少し、ヒロインをもっと前面に出してもいいように思いました。



この先は、結末に触れていますのでご注意ください。



ヘンリーは考えた末、パイプカット手術を受けます。クレアは、例えお腹の子がタイムトラベラーだとしても、自分の子供が欲しかったので、、過去からタイムトラベルしたヘンリーから子種を授かり、再び妊娠します。そして、今度は無事に女の子が生まれてきます。タイムトラベルするのは、どうやら遺伝するらしく、娘のアルバもタイムトラベルするようになります。ヘンリーも未来にタイムトラベルして、10歳の娘と会い、そこで、娘が5歳の時に自分が死ぬことを知ります。彼は自分の寿命を知ってしまうのです。ここで、普通のタイムトラベルものですと、死を乗り越える行動に出ようとするのですが、ヘンリーは静かにその運命を受け入れます。彼にとって、未来は、未知の希望に満ちたものではなく、変えることのできない運命なのです。

この展開はちょっとビックリ。運命は最初から決まっていて、タイムトラベラーは決まった運命を否応なく知らされてしまうのです。未来を変えられると思うから、今日を頑張れるのに、それを知らされて、その未来が不可避だとしたら、未来への希望は持てなくなってしまうでしょう。ヘンリーは予め定められた死を受け入れるのですが、未知の未来を持っている(と信じている)クレアにはそれを認めることは難しいことでした。でも、その時はやってきて、彼はタイムトラベルした先で銃弾に倒れ、戻ってきて息を引き取るのでした。ヘンリーの死後のある日、過去からヘンリーがタイムトラベルしてきます。抱き合う二人ですが、ヘンリーは再び過去へと消えていきます。娘と見つめ合うクレア、エンドクレジットになります。

妊娠の話からリアルな夫婦関係の展開になるのですが、全体的には生活感のない寓話的なお話になっています。では二人の愛の物語が描ききれているのかというと、もう少しクレアの視点になってあげればいいのにという印象が残ってしまいました。映画は、ヘンリーの時間軸を中心に展開するのですが、クレアから見える世界は、すごく不安なものだと思います。未来を見てきたというヘンリーの言葉を鵜呑みにしていいものか、夫の約束された死を受け入れる確信は、夫への信頼しかないという大変な葛藤を乗り越えているわけです。単なる愛情や強さでは、乗り越えられないものに向き合ったヒロインの心の動きこそがこの映画の要ではないかしら。やはり、原題の通り、タイムトラベラーの妻に焦点を絞った展開にして欲しかったように思います。

ブルース・ジョエル・ルービンは過去に、癌を宣告された男がどう死と向き合うかを描いた「マイ・ライフ」を脚本、監督しています。「ゴースト」もそうなんですが、主人公が死とどう折り合いをつけるのかという題材をよく扱う人で、死との向き合い方に東洋的な味わいもあり、二人のラブストーリーもさることながら、運命に対する人間のあり方についても言及している物語でした。

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「あなたは私の婿になる」は、ラブコメにするには難しい題材を料理し損ねた感じ

今回は、新作の「あなたは私の婿になる」を銀座の有楽座で観て来ました。昔のニュー東宝シネマ1ですが、以前の縦長劇場だったのが、前の部分をつぶしてスクリーンを前に持ってきたという感じです。

出版社の編集長としてオフィスで恐れられる存在のマーガレット(サンドラ・ブロック)は上司に呼ばれてびっくり。カナダ人である彼女のビザが降りなくなって、このままだと国外退去&会社もクビ。そこで一計を案じた彼女、普段こきつかっているアシスタントのアンドリュー(ライアン・レイノルズ)と結婚するんですと宣言。もちろん、アンドリューには寝耳に水の話、でも、彼を昇進させるということで、ビジネス成立、偽装結婚することになります。入国管理官に疑われてることもあって、週末に、アンドリューの実家に行って、そこで婚約宣言することに。彼の実家は、アラスカ州で結構なお金持ちで、両親におばあちゃんが二人を温かく迎えてくれました。結婚して、すぐ離婚すりゃいいじゃんと考えて、最初は、この偽装結婚に何の後ろめたさもなかったマーガレットですが、アンドリューの家族と触れ合うことで、だんだん追い詰められた気分に。その上、翌日に結婚式を挙げてしまおうという話になって、もう限界....。

色々なジャンルの映画で活躍するサンドラ・ブロックですが、やっぱりコメディのイメージが強いです。今回はいわゆるラブコメのジャンルに入るのでしょうが、アラフォーのキャリアウーマンが仕事を続けるために部下を偽装結婚するというお話です。オープニングでは、彼女がすごくやな奴として登場します。仕事はできるのに、オフィスでは嫌われているというのは、自分にはリアリティが感じられないのですが、仕事のために部下と結婚宣言するあたり、すごーくやな奴です。いわゆるパワハラって奴なんですが、部下のアンドリューも昇進を条件に承諾しちゃうのです。うーん、どっちもどっちという気がしまして、前半は笑うに笑えないコメディだなって印象でした。後半に盛り返すので、全体としては悪くないのですが。

アンドリューの実家は、飛行機と船を乗り継いだ島の豪邸でした。ここで登場する母親(メアリー・スティーンバージェン)、父親(クレイグ・T・ネルソン)、おばあちゃん(ベティ・ホワイト)、元カノ(マリン・アッカーマン)といった面々がそれぞれにちゃんとした人なので、ドラマにも活気が出てきます。主人公だけだったら、なーんかやな雰囲気のままになっちゃうのですが、二人を取り巻く人々に共感できるのですよ。演技陣も素晴らしく、スティーンバージェンのかわいいしっかりママぶりと、叩き上げだけど傲慢じゃないネルソンの父親ぶり、孫は何てったってかわいいのよと言うのが説得力あるホワイトのおばあちゃんぶりなど、彼らのキャラがきちんと描きこまれているのが見事でした。その合間に、主人公二人の全裸ニアミスとか、中年ストリッパーとか、ヒロインとおばあちゃんの祈祷シーンなど笑いをとろうとするシーンもあるのですが、これらはあまり弾みませんでした。「幸せになるための27のドレス」のアン・フレッチャーの演出は、笑いよりも普通の人を描く方が向いているようです。しかし、前作といい、本作といい、微妙な脚本で苦労してるなあって感じもしちゃいました。リアルドラマとラブコメって両立させるのはなかなか難しいようです。



この先、結末に触れますのでご注意ください。



最初は仕事のための演技と割り切っていた二人ですが、お互いにちょっといいかなって思い始めるところは定番の展開です。そして、明日、急遽結婚式をしようということを提案されて、拒否もできず困っちゃう二人、ここで、アンドリューの家族のいい人ぶりに、マーガレットが切れちゃうあたりで、やっとヒロインに共感できるようになってきます。でも、結婚式は始まっちゃって、どうするの?と思っていると、式の始まるところで、マーガレットは全てを告白して、その場を立ち去ります。後を追うアンドリューと家族たちですが、寸での所で飛行機は離陸してしまいました。彼女はすぐに国外退去をしなきゃならなくなり、オフィスで片付けをしていると、そこにアンドリューが現れます。ここからの二人のやり取りがちょっと面白くて、ヒロインが「一人でいることがラクだから」「(そうなることが)怖い」というあたりのリアリティはマルでした。そして、抱き合う二人、で、入国管理官の前で審査を受ける二人がいて、エンドクレジット。エンドクレジットのバックでは、主人公二人や家族なんかが質問に答えているシーンが流れるんですが、面白く作ってあるつもりらしいけど大して笑えない感じ。

全体的に笑いの温度は低めで、場内も静まり返っていたのですが、まるっきりやな奴だったヒロインがちょっとだけマトモになる後半はロケーションの美しさもあって楽しく観ることができました。とはいえ、たった3日間で結婚まで行っちゃうのは、どーなのって気もしちゃって、ラブコメのラブの部分も微妙な感じになっちゃいました。ここから二人が、愛を育み始めるというラストなら納得の決着だったのですが、設定上、即結婚しないとハッピーエンドにならないってこともあって、無理しちゃったかなって感じなのが残念。これが男女逆になっていたら、明らかにパワハラ&セクハラが前面に出て、女部下が男上司にしっぺ返しをするのがハッピーエンドになるのでしょうけど、この映画の場合は、女上司に男部下という設定から、綱渡りのように相思相愛へと落とし込む展開で、これを娯楽映画にまとめるのは相当な腕が必要なんだろうなって、観終わってから思いました。

サンドラ・ブロックが悪役風ヒロインを熱演しているのですが、ヒロインのやな奴キャラがなかなか払拭できないのがつらいところです。一方、相手役のライアン・レイノルズが「こいつ何考えてんだろ」キャラだったので、ラストにヒロインを追いかける説得力に欠けてしまいました。アンドリューの家族の面々が主人公たちより引き立って見えちゃうってのは、計算外だったのかな。アンドリューと対立してる父親の方に共感しちゃいましたもの。

ヒロインが結婚式の場で全てをバラしちゃうのは、ちょっとしたサプライズだったのですが、こういう映画では、ヒロインのいいところをもっと小出しにして、観客を彼女サイドへ誘導していかないと、共感を呼ぶのは難しいみたいです。オリヴァー・ステイプルトンのキャメラがシネスコの画面をきちんと意識した絵になっていて、アラスカの美しい風景も印象的でした。

「愛は静けさの中に」は本当に静けさの音楽


「愛は静けさの中に」という映画は、聾唖学校の教師とそこで働く聾唖の女性との交流を描いたマーク・メドフ原作「小さき神の子ら」の映画化です。実際に聾唖であるマーリー・マトリンがオスカーの主演女優賞を取りました。音のない世界に生きるヒロインを透明感のある映像で美しく描いています。

この映画に音楽をつけたのがマイケル・コンバティーノで、この作品の映像にふさわしい、透明感と奥行きのある音作りが大変見事でした。シンセとストリングスによる和音が静かにたたずむ水面のように美しく響くメイン・タイトルは、心を別世界へ持っていかれるような不思議な浮揚感があります。

その後の曲もどこまでがシンセで、どこからが生ストリングスかわからないような「静けさを音にしたらこんな感じだよね」という曲が続きます。夜聞くに相応しい音楽とでも言うのでしょうか。深い海の底に身を横たえているような感じの音楽が続きます。時にアクセントのように低音シンセがうねりのように聞こえてきたり、ピアノの音が光のまたたきのようにインサートされます。実際、アルバムを聞いているとこの音に身を委ねたくなります。アルバムは、映画のサントラというだけでなく、ヒーリングミュージックとして評価できる逸品です。

ただ、残念なことに、アルバムの真ん中(LPで言うB面のトップ)に聾唖学校の学芸会で使われるダンス音楽が入っていて、いい気持ちの流れを中断してしまいます。何かアクセントがないとアルバムとして単調と思ったのかもしれませんが、要らんことしてくれたなあって思います。

コンバーティーノはあまり映画本数も多くないのですが、SFホラー「ヒドゥン」、ヒューマンドラマ「ドクター」などで独特の音世界を展開しています。また、「マンハッタン花物語」といったラブストーリーでは職人的なうまさを聞かせてくれています。

「サイコ2」は名曲だと感じるのは私だけじゃないと思う


ジェリー・ゴールドスミスはたくさんの映画音楽を手がけていますが、とりわけサスペンス映画にその手腕を発揮していまして、それゆえ彼の仕事は地味な印象を与えているのですが、メロディアスな旋律にも実力を発揮する人です。その中で、題材のせいか、メロディの美しさの正当な評価がされていないのがこの「サイコ2」です。

「サイコ2」は、ヒッチコックの「サイコ」の正式な続編です。「サイコ」では、バーナード・ハーマンの無機質的ストリングスによるスコアが素晴らしい効果を上げていましたが、こちらの続編では、冒頭に第一作の殺人シーンを持ってきて、そこでショッキングな弦の音がバーンと入ります。しかし、その後、静かなピアノのソロが入り、シンセらしい音が物悲しいメロディを奏でます、その旋律は美しいストリングスへと展開され、その孤独と悲しみに満ちたテーマ曲は、これがサイコホラー映画なのかと思わせるくらいに、聴くものの胸に響いてきます。「サイコ」の続編なのに何か物悲しくて、暖かみを感じさせるテーマ曲は、隠れた名曲と言ってよいと思います。

しかし、その後は、サスペンス映画らしいストリングスの高音とピアノ、木管による不安をあおる音楽が展開されていきますが、その合間にも、物悲しいテーマ曲が挿入されます。前作「サイコ」が不安と恐怖を研ぎ澄ませた音楽だったのに比べると、続編では、ノーマン・ベイツにシンパシーを寄せているような音作りになっています。でも、彼の精神状態のどこかに不安要素があるというのを音楽は見事に描写しています。そして、サスペンスの盛り上がるところは、パーカッションとピアノでアクセントをつけながら、ストリングスがショッカー音楽を奏でていきます。ここは、前作のバーナード・ハーマンに張り合っているのかなとも思わせるのですが、不安を高音ストリングスであおるという音作りで一線を画しているように思います。

そして、ラストのショックシーンで、映画のオープニングをなぞるショック音を鳴らして、そこにメインタイトルと同じテーマをかぶせるのですが、ベイツが戻ってきたという結末に見事にマッチしています。映画自体の出来栄えは最高とは言えないのですが、ゴールドスミスは最高の音をつけました。

この音楽は、テレビの再現ドラマのバックによく流用されています。それも、ホラードラマではなく、人間ドラマの中で使われるあたりに、この音楽の奥行きが感じられます。

「あの日、欲望の大地で」の骨太ストーリーにこの構成は必要かしら

今回は、新作の「あの日、欲望の大地で」を川崎チネチッタ5で観てきました。私、この邦題をそらで書けません。映画の内容とシンクロしないし、印象に残らないんですもの。原題「Burning Plain」はそらで書けるんですけどね。

レストランのマネジャであるシルビア(シャーリーズ・セロン)は行きずりの男と寝るような日々を送っていました。そんな彼女を、メキシコ人の男が尾行しています。一方、時間はさかのぼり、子持ちの人妻ジーナ(キム・ベイジンガー)は、子持ちのニック(ヨアキム・デ・アルメイダ)と浮気をしていました。夫は長距離トラックの運転手で家にいないこともあって、二人は頻繁に逢っていました。そんな母親の様子に長女のマリアーナ(ジェニファー・ローレンス)は不審を抱き、出かける母親を尾行するようになります。それとは、また別に農薬散布をする飛行機のパイロットであるサンティアゴは弟と娘マリアを伴って農場に赴き、農薬散布を始めるのですが、飛行機の故障で、マリアの目の前で墜落し、病院に運び込まれます。この3つの物語にはどうつながっているのでしょうか。

「バベル」「21グラム」(どちらもアレハンドロ・ゴンザレス・イリャニトゥ監督作品)の脚本家であるギジェルモ・アリアガが、脚本を書き、初めて監督した作品です。三代に渡る女性の重厚なドラマでして、物語としての見応えは十分です。この映画も先の2作品と同様に映画の時制と場所があっちこっちに飛ぶ構成になっています。映画は、シルビアのどこか捨て鉢な日常から始まり、物語はジーナとニックが事故死した直後に遡り、さらに二人の生前の物語になり、さらに、マリアとシルビアの物語が並行して描かれるというもので、その人間関係やなぜ今のシルビアがあるのかが、ミステリータッチで描かれます。観客はその物語を追うことに、頭を使うことになりますが、その一方でラストできちんとパズルのピースがつながるようになっています。この骨太の物語に、そんな手の込んだ構成が必要なのかというのもあるのですが、映画ならではの趣向でもありますので、そのあたりは微妙なところがあります。まあ、あらかじめそういう構成と知っていたこともあってか、時制の逆転があっても「21グラム」よりはわかりやすい映画に仕上がっていました。

シルビアは有能なマネジャなようですが、客とベッドをともにしたり、仕事の休憩時間に自傷行為をしたり、どこか精神を病んでいるように見えます。そんな彼女の前に現れたメキシコ人の男に対しても、当然のようにベッドへ誘うのですが、男は悲しげにそれを許否します。

(時間は遡って)砂漠の中のトレーラーハウスの中で、ジーナとニックは情事の真っ最中に火事で焼け死んでいました。ニックの息子サンディアゴは、母親の葬式にきていたジーナの娘マリアーナのことが気にかかるようになります。彼女を訪ねたサンティアゴに対してまた逢うことを約束するマリアーナ。お互い仇同士みたいな関係なのに、お互いにどこか惹かれあうところがあったようです。マリアーナは繊細でありながら激しい性格のところがあって、お互いの逢った記念に手首にライターの火をあてて、サンディアゴに同じことをさせます。そして、彼女の家の両親のベッドで二人は結ばれ、彼女は妊娠してしまいます。

(さらに時間が遡って)ジーナは、ニックと頻繁に会うようになります。その情事の時間に、愛されることを実感していました。しかし、娘のマリアーナが母親の行動を怪しみ出して、学校に行くふりをして彼女の後を尾行するようになり、ついにマリアーナは母親の情事の現場を目撃してしまいます。このあたりは、ニューメキシコの砂漠地帯が舞台になっており、砂漠の中のトレーラーハウスでの情事というロケーションが不思議な空気感を運んできます。ロバート・エルスウィット(追加撮影にジョン・トール)のカメラはシネスコの画面にクリアでスケールの大きな絵を切り取っていて、映画館で観るための見事が画面設計になっています。



この先は結末に触れますので、ご注意ください。(本編ではエピソードの提示の順番は、もっと細かく入り組んでいます。)



シルビアの前に現れた男は、サンティアゴの弟で、飛行機事故で怪我した兄に頼まれて、娘のマリアを母親のところに連れてきたのでした。シルビアの本名はマリアーナであり、マリアは、彼女とサンディアゴの間にできた娘でした。サンディアゴとマリアーナの関係を知ったジーナの夫が逆上し、サンディアゴの家に向かった時、二人は手に手をとって駆け落ちとなるのですが、マリアーナはマリアを出産後、赤ん坊のマリアを置いて、姿を消していたのです。

(また遡って)母親の情事をしたマリアーナは、それを許せず、母親を罰するために、トレーラーハウスに仕掛けをして、二人がトレーラーに入ったのを確認してから、火を放ちます。それに驚いた二人が飛び出してくる筈だったのですが、なかなか二人が気付かないうちにガスボンベに引火して大爆発を起こしてしまいのでした。呆然とたちすくむマリアーナ。

(お話は現代に戻って)最初は、娘から逃げ出すシルビアですが、あらためて娘を探し出し、それまでのことを謝罪します。そして、メキシコの病院に向かいます。怪我の合併症で昏睡状態にあったサンディエゴの前でこれまでのことを詫びるシルビア。翌日、病院に向かうと彼の意識が戻ったと言われ喜ぶマリアとシルビア、そこでそれまでのドラマがフラッシュバックのように流れて、病室に入っていくシルビアの姿で暗転、エンドクレジット。結末は希望にあふれるもので、マリアと母親の関係もよい方向に向かいそうです。

映画としての山場は、マリアーナが母親とその情夫を殺してしまうところにあるのですが、過去へと遡る構成から、読めてしまうところがそもそものミステリアス構成としては失敗してるのかなという気がしました。その一方で、サンディアゴが娘を母親のもとへ連れて行かせる意図が結局語られないので、ミステリーの一つが解決してないのもすっきりしませんでした。こういう時系列が錯綜している展開では、その時点でわからないことでも、最後にはわかるのだろうと思って、そのまま見続けることになるのですが、それが最後まで放っておかれたまま映画が終わってしまうと、「おいおい、ちょっと待ってくれよ」という気分になります。

最初から、ドラマの核がどこなのかわかるような見せ方をしてくれたら、そういう不満も出にくいのですが、ドラマの組み方そのものがミステリー仕立ての分、映画の受け取り方にまで、サプライズの要素が入ってくるのは、何だかとっつきにくい映画だなあって印象が残ってしまいました。脚本と監督が同じ人だと、脚本の微調整が利かなくなるのかなあとも思ってしまいました。語られるべき物語とその語り方があったとき、語り方を優先した結果、語られるべき物語を全て語りきれなくなったというのは言いすぎかしら。

ある意味自分の思うように生きたジーナには、彼女なりの人生を生きた実感があります。それを観て、母親に罪を見出したものの、自分が罪を犯してしまうマリアーナは、自分自身から逃げ回る生活を送るようになってしまいます。娘のマリアと向き合うことで、マリアーノには自分の人生をやり直す希望の光が見えてきます。親子三代に渡るスケールの大きな物語なのですが、大河ドラマのような重みが、今一つ出なかったのは、時制を錯綜させた構成にあるからでしょう。面白い構成なんですが、その物語にふさわしいかどうかは、微妙かな、という印象でした。

演技陣は大変熱演でして、シャーリーズ・セロンのどこか病んでる感じや、女としての愛情が母親よりも優先してしまう苦悩を表現したキム・ベイジンガー。繊細な不思議ちゃんだけど、まだまだ子供というマリアーノを演じたジェニファー・ローレンスの3人のヒロインが光っています。その他では、久しぶりのロビン・タニーがかわいいおばちゃんになっていたのが印象的でした。

「湖のほとりで」は風景はきれいだけどお話が重くて後味がつらい

今回は新作の「湖のほとりで」を横浜シネマベティで観て来ました。いつもはお年寄りが中心の映画館ですが、今回は、ちょっと若めの中年の方が多いようです。でも、この映画館で若い人を見ることは滅多にないのが不思議です。いい番組組んでるんですが、デートコースには古めかしい劇場だからかしら。

イタリアの田舎町、そこで少女が行方不明という事件が発生、初老のサンツィオ警部(トニ・セルヴィッロ)が村に向かうのですが、それは村の外れに住む、少々足りない中年男が家に連れて行ったということで、少女も無事に保護されるのですが、その少女の証言から、湖のほとりで、若い女性の全裸死体が発見されます。被害者は18歳のアンナで、父親は妹よりアンナを溺愛しており、彼女にはマリオというボーイフレンドがいました。また、アンナは、近所のコッラード(ファブリツィオ・ジフーニ)に何度も電話しており、彼の証言から、彼女が彼に入れ込んでいたことがわかります。不思議なことに窒息死しているにもかかわらず、死体には抵抗した後がなく、まるで覚悟の死であったようなのです。さらに、アンナは、かつてコッラードの息子アンジェラのベビーシッターをしていたことがあり、アンジェラは事故死していたのでした。いったい、この事件の裏に隠された秘密とは?

イタリア国内の映画賞であるダヴィッド・デ・ドナテッロ賞の10部門を取った作品で、アンドレア・モライヨーリが監督しています。基本的にはミステリーでして、田舎町で起きた殺人事件の犯人を捜査する警察官のお話です。主人公のサンツィオ警部の奥さんが若年性の認知症で、もう夫の顔もわからなくなっており、さらに娘との関係もうまくいっていません。そんな私生活が大変な状況の中で、捜査は進められ、事件の核心へと近づいていきます。イタリアの田舎町、死体発見現場の湖などのロケーションが美しく、シネスコの画面に映えます。

95分という短めの映画なんですが、物語は淡々と進んでいきます。アンナには、奥さん方の連れ子である姉がいるのですが、父親はアンナだけを溺愛しています。一方、ボーイフレンドのマリオは、事件の当日の朝、彼女と一緒にいました。また、彼女と一緒にいるところを最後に目撃されたコッラードは彼女から一方的な思い入れで困っていたようです。そして、死体解剖から意外なことがわかってきます。彼女が抵抗した形跡がないこと、脳腫瘍があって余命いくばくもなかったこと、そして、彼女は処女だったのです。彼女の遺品がボーイフレンドの家の裏で発見され、彼は拘束されてしまうのですが、それでも、自分は犯人ではないと言い張ります。そして、サンツィオ警部は、被害者がベビーシッターをしていたコッラードの息子が事故死していて、その後、コッラードが妻と離婚していることを知り、その事が気になってくるのでした。

冒頭、少女が知的障害のある男に車で連れ出されるところで、てっきりこの少女が被害者だと思っていると、そうではないというところから、この映画の伏線は張られていました。障害者を家族に持つ人間が色々な形で登場してくるのです。この知的障害のある男は父親と二人暮らしで、その父親は車椅子生活を送っています。警部の奥さんも認知症で入院したきりです。たまに思い出したように手紙を出してくるものの、面会に行っても、夫の顔がわからず、症状は悪化するばかりです。その家族の辛さ苦しみは当事者になってみないとわからないというところにこのミステリーのカギがあります。それにしても、重いテーマをドラマの中心に据えたものだと思いますが、映画としては、そのテーマを十分に語りつくすことはしないで、ミステリーとしてクローズさせています。



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警部は、コッラードの元妻キアラを訪ね、彼女の息子の死について質問します。この元妻を演じているのが、私的にはお久しぶりのヴァレリア・ゴリーノでして、「インディアン・ランナー」や「イヤー・オブ・ザ・ガン」でファンだったのですが、歳を重ねたなりの美しさがよかったです。とはいえ、彼女の役どころは相当ヘビーでして、実は息子アンジェラは重度の自閉症だったようなのです。常に落ち着かず、夜は眠らず、何かあると大声でわめき散らす息子の介護に彼女自身も壊れかかっていたのです。アンナはそんなアンジェラの機嫌を取るのがうまく、彼もよくなついたのです。アンジェラの死因はビスケットを喉に詰まらせたことによる事故死でしたが、母親は、その場に居合わせず、疲れて朦朧とした体でベッドに横たわっていたと言います。そして、その時、アンジェラをみていたのは父親のコッラードでした。ところがアンジェラの死にはもう一人の目撃者がいたのでした。それがアンナで、苦しむ息子を見ても何もしないでいたコッラードを通りから窓越しに目撃したのです。その事実をアンナから責められ続けたコッラードが彼女を湖で殺害したのです。自分の病気のことを知っていたアンナは、あえて抵抗することもせず、静かに殺されることで、さらにコッラードを責めていたのでした。

映画はコッラードが逮捕されて一区切りとなり、エピローグで、警部と娘が病院の妻を見舞いに行きます。その時、妻は、他の男性患者と相思相愛の関係になっており、娘と目が合うのですが、娘と気付くことなく彼氏と一緒に去っていきます。しかし、警部と娘の間のわだかまりはなくなり、父娘の絆が深まったところで、エンドクレジットになります。

画面にアンジェラは登場しませんし、過去のこととして語られるのみなのですが、コッラードとキアラはそうとうな地獄を見たであろうとは察することができます。どんな愛情を注いでもそれに応えてはくれない息子に、心身とも疲れ果てていたようです。それは、コッラードにとっても、キアラにとっても同じだったようです。たまたま、父親と息子が二人きりになったときに事故が起こったとき、父親は何もせずに顔を背けていたのでした。ところがそれをアンナが目撃していたのです。それからの経緯はくわしくは描かれないので、想像するしかないのですが、宗教的倫理観のない私には、コッラードをそう強く責められず、アンナの追求に耐え切れずに殺害に及んだ犯人に同情もしてしまいました。

確かに犯罪ミステリーであるのですが、それ以上に登場人物の心の動きがミステリーで、その部分を解決しないまま映画が終わってしまうので、様々な解釈の余地がありました。様々な形で描かれる障害者と家族の関係は、見ていて愉快なものではありませんし、事件が解決しても、家族関係はずっと続くのだと考えると辛いものがありました。一応、希望を持たせるラストではあるのですが、あまり後味はよくありません。映画の中で、誰かが誰かを許容するというシーンが一切なかったからかなって後で気付きました。登場人物がみんな、自分に手一杯で、自分以外の人間(家族でも他人でも)に対する思いやりを垣間見ることができなかったのです。それだけ、個人責任の重い文化なのかもしれませんが、こういう空気の中で、生きるいくこと、さらに逆境に立ち向かうのは大変なことだと感じてしまいました。

テオ・テアルドの音楽がいわゆるアンビエント・ミュージックでして、ちょっと突き放したようなドライな音になっていまして、もう少し、やさしいエモーショナルな音楽だったら、少しは救われる感じが出たのになあ。

「空気人形」のラブドールが持った心っていったい何なんでしょう?

今回は新作の「空気人形」を川崎チネチッタ12で観てきました。ここはデジタル音響でない映画を上映する前には、JBLのスピーカーシステムのロゴが出ます。

東京の古アパートに住む中年男(板尾創路)はラブドールと一緒に住んで、恋人みたい会話し、食事し、セックスします。そのラブドールこと空気人形(ペ・ドゥナ)がある日突然動き出します。彼女は心を持ってしまったのです。持ち主が仕事に行ってる昼間、彼女はメイド服を着て、外に出て、街を歩き回ります。いろいろな人を見て、そして立ち寄ったビデオ屋で、アルバイトを始めるのです。彼女、そこの店員、純一(ARATA)が好きになっちゃったみたいです。彼女が街で出会うのは、孤独な人が多いみたい、未亡人(富司純子)や、元代用教員(高橋昌也)、若さに拘泥するOL(余貴美子)とか。彼女自身の自分が中年男の元恋人の代用であることを知っていましたけど、好きな人ができたら、中年男とのセックスが何だか辛くなっちゃいます。純一の前で空気ぬけちゃった彼女ですが、彼はそれでも彼女にやさしくつきあってくれます。そんなある日、中年男が新しい人形を買った時、彼女は自分の正体を明かします。「なぜ、恋人の代わりが私なの?」家を飛び出した彼女は生みの親である人形師(オダギリ・ジョー)を訪ねて、「心を持ってしまって、苦しい、なぜ心を持ったの?」。でも、その理由は生みの親にもわかりません。そして、純一の部屋に行った彼女は「あなたのためなら、何でもしてあげられる」。「じゃあ、一つお願いがあるんだけど。」って、何のお願い?

「誰も知らない」の是枝裕和監督が、脚本と編集も兼任した作品です。と言いつつ、私はこの監督さんの映画は初めてでして、好きな「ラースとその彼女」と同じラブドールネタということで観ようかなという気になりました。のっけから、中年のおっさんと空気人形が抱き合ってギシギシやってるので、「おやおや(お盛んね)」と思っていると、彼女が人間のように動き出します。体には人形のような継ぎ目があって、おへそのところから空気入れたりしてますので、人形が人間になったわけでなく、空気人形のまま、心が持ってしまったみたいなのです。うーむ、これは稲川淳二の「生き人形」(舞台用人形に霊がとりついて恐ろしいことが起こるという実録怪談)なのかというとそうでもないみたいで、独自の意識が覚醒したようなのです。そして、映画は彼女が街に出て様々な人に出会ったりする様子と、彼女のモノローグで進んでいきます。このモノローグが吹き替えなのかどうかはわかりませんが、たどたどしい日本語で、あまり心こもってないのが不思議に感じました。また、「心を持った」と書きましたが、実際に彼女はモノローグの中で「私は空気人形、心を持ってしまいまいした」と自分で言葉として言っているのです。

冒頭では、「おやおや」だったのですが、今度は「おや?」と思いました。普通の人は「自分が心を持っている」なんて意識することがないですから、この子の言う心って何のことなんだろう。その後の彼女は、純一クンが好きになったみたいで、その事を「苦しい」って感じています。そして、自分の本来の用途も知っています。では、彼女の望みは何なんだろう?って見ていると、これがあんまりはっきりしません。この子は何を考えているんだろう?中年男とのセックスの後、自分の体を洗う気持ちって何なの?「心を持って、苦しい」と言うセリフはあるのですが、うれしいとか悲しいという感情は持っていないようなんです。「心を持ってる」ってこの程度のことなの?と思うと、心を持っていても、孤独な人間の姿が垣間見えてきます。そして、彼女が街を歩き回って色々な人に会うのが、孤独な人々のスケッチのようになっています。その中には、やたら映画ファンネタが多くて、ヒロインが「仁義なき戦い」のテーマを口ずさむあたりがおかしいのですが、街のスケッチ以上のものが見えてこないのは、私に見る目がないからかしら。

持ち主である中年男に向かって「恋人の代わりなら何でもいいの?じゃあ、何で私なの?」と問い詰めるシーンで初めて彼女に感情のようなものが見えます。そして、好きな純一クンに向かって「私はあなたのために何でもします。」というシーンでも、彼女の感情らしきものが前面に出ます。でも、それらはどこか浅いなあって感じがします。要は、心だけは持っているけど、彼女には人間のような奥行きがありません。心持ってるだけじゃ、人間ではないのかなって気がしてきました。この映画が、そもそも空気人形が心を持つというファンタジーだから、そこは突っ込みどころ違うだろうと言われちゃいそうですけど、空気人形という存在自体が持ち主にとってはファンタジーでして、そこには(キショいと言われようが)それなりの想いがあるわけです。その持ち主の想いに反する感情を人形が持ったというお話なのですから、そこにはそれなりの人格のようなものがあってもいいように思うのですよ。中年男が心を持った人形に「そういうの面倒臭いねん」と言い放つところが圧巻でして、空気人形が心を持つということが「やっかいな」ことだということが見えてくるのですが、でも、人形が人間並みの人格は持っていません。じゃあ、彼女を苦しませる「心の存在」って何だろうというのが、うまく伝わってこないのです。

心を持つ葛藤ととは別に、彼女が空気人形であることが妙にエロチックに見えるシーンがあります。彼女がビデオ屋で空気が抜けちゃっで、純一クンが彼女のおへそのところから空気を吹き込むシーンです。空気が入るたびに、彼女がのけぞるシーンが意味してるところは明快です。(これを「フライングハイ」のパロディだと言ったら怒られちゃうんだろうなあ。)ここは、空気人形にあきらかに気持ち入ってるわけなんですが、これも、心のうちなのかしら。



この先は結末に触れますので、ご注意下さい。



人形師を訪ねた後、純一クンの部屋に行って、あなたのして欲しいことをしてあげると言った彼女に、純一クンは「空気抜かせてくれ」といいます。全裸になった二人、そして、彼女の空気を抜いて、また吹き込むことを繰り返す純一クン。その後、ベッドに横たわる純一クンに同じことをしてあげようとするのですが、そんなことするから、出血多量で純一クンは死んじゃいます。ここで、純一クンがそれらしい抵抗もしないのが不思議だったのですが、最初から死ぬ気だったのかなあ。彼は、彼女が空気人形とわかっても平気でつきあってる変な人なんですが、考えてみると、この人、どっか人間として欠けているような気がします。心のどこかが足りない、そういう意味では、ヒロインとどっか通じるものを持っているのかもしれません。

翌朝、純一クンをビニール袋に入れて生ゴミ置き場に出した彼女は、中年男の家の近くのゴミ捨て場にやってきます。そこで、自分の宝物である空きビンを並べて、その中に横たわると、自分の空気を抜きます。そこから、たんぽぽの種が飛び出して、街の人々に届きます。引き篭もりだった若い子(星野真理、でも彼女とは気付きませんでした)が久しぶりに窓を開けると、眼下のゴミ置き場に横たわるヒロインが見えました。それを見て「キレイ...」とつぶやく彼女、暗転、エンドクレジット。

彼女は心を持っても、結局は人間としては不完全なままでした。心を持ってるだけでは、やはり人間としてはダメじゃんってダメ押ししているような結末ですが、最近、やたら「心」を大事に重視している風潮にダメ出ししているのかなって気がしました。彼女が、例え人形であっても、彼女自身として生きているように見えなかったからです。確かに、人形師との会話の中で、人間と関わることでモノにも心が生まれるという話が出てくるのですが、心が生まれても、結局は人形は最後にはゴミとして処分されることがこのシーンで示されていまして、結局は人形が心を持ったところで何も生まれないような見せ方をしています。でも、ラストでは、死んだ人形から、感情の種がまかれるという見せ方にもなっていまして、何だか座りが悪いのです。人間に心があっても、心だけでは足りないものがあるという視点は面白いなと思って観ていたのですが、そこには突っ込んでくれなかったのが残念でした。

人間にとって心って何だろうという話の展開を期待していた私としては、後半は失速してしまったという印象でした。ラストはファンタジーの線を狙っているように見えるのですが、この結末には、昔のフランス映画「八日目」を思い出しましたが、どこか投げてるんじゃないかと思えてしまって、この映画、私の読解力の不足もあってか、相性があまりよくないみたいです。

ヒロインのペ・ドゥナはラブドールが動き出したというキャラを熱演してまして、ヌードも辞さず熱演しています。でも、たどたどしい日本語をしゃべらせた意図がよくわかりませんでした。リー・ピンビンのキャメラが見事で、きちんと劇場の大画面で見るための絵になっていたのは収穫でした。助演陣の中では、儲け役とは言え、板尾創路の演技が光っていました。

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Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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