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「すべて彼女のために」というタイトルからこの展開は想像できない、でも面白い。

今回は新作の「すべて彼女のために」を横浜ニューテアトルで観てきました。ここは地下の小さな映画館でフラットな作りですが、スクリーンを昔より上に上げて人の頭が邪魔になりにくくしていたり、小さいなりに頑張ってるなって思える映画館です。シネコン慣れした若い人には不評かもしれませんけど。

国語の先生ジュリアン(ヴァンサン・ランドン)は、妻リサ(ダイアン・クルーガー)と息子オスカルの3人家族で幸せに暮らしていました。ところがある朝、警察が家に乗り込んできてリサを殺人容疑で逮捕されてしまいます。無実を訴えるリサですが、状況証拠がそろっていて、3年後の結審では、20年の禁固刑が言い渡されてしまいます。リサは自殺を図ったのを知って、ジュリアンはある決心をします。それは、リサを脱獄させること。でも、普通の人であったジュリアンには、何をどうしていいのやら。脱獄経験の本を書いた著者に会い、どうすればいいのかヒントを得ようとするジュリアン。しかし、実際にそんなことが行えるのでしょうか。果たしてこの物語の結末に待っているものは?

この作品が長編デビューとなる、フレッド・カヴァイエが脚本監督した一遍です。冒頭、何かを車に運び込む男が登場します。彼の手は血塗れで、バックシートを気にしながら運転する男。なかなかにショッキングなオープニングで、これはスリラーかとも思わせるのですが、これが意外な展開を見せる面白い映画に仕上がっていました。ジャンルに分けるのは、難しいのですが、サスペンス上等、ラブストーリーもあり、人間ドラマとしてもよく描けていまして、大当たりでした。全編に渡って、緊張感があふれているのに、人間ドラマとしての厚みもあって、引きずり込まれる面白さがありました。近々、ご覧になる予定の方は、この先は読まない方がいいです。




冒頭のシーンから、3年前にドラマは遡ります。幸せに暮らしていた一家に訪れる突然の不幸。妻のリサが殺人容疑で逮捕されてしまうのです。このあたりの展開のテキパキとさばいた演出がまず見事。映画は、この殺人事件の真相を追うミステリーになるのかなと思っていると、意外やそこんところは素通りしてしまいます。そして、子供を両親の家に預けながら仕事を続けるジュリアン。毎週の妻との面会に息子を連れていくのですが、あまり息子はリサになついていないみたい。まあ、3歳のころに引き離された母親ですから、そこに若干のわだかまりがあるのでしょうか。そして、判決を聞いたリサは自殺未遂を起こしてしまいます。収監された病院では持病のインスリンの投与を拒否。このままだと、妻は死んでしまう。そこで、彼は妻を脱獄させようと思い立つのです。それも、自力で。脱獄経験者からのアドバイスに基づいて、壁中に図面や写真を貼りまくるジュリアン。そして、脱獄した後も金が要るので、家具を売り、母親の家も売ってしまいます。偽造証明書を作ってもらおうと、偽造屋に接触したらボコボコにされて金を取られちゃう。脱獄なんて大仕事をするなら、犯罪にも手を染めないといけない。でも、根は普通の教師ですから、ワルにはなりきれません。どこか、ためらいながらも偽造証明書を作らなくてはいけないというところに追い詰められていきます。そして、ひょんなことから思いついた脱獄計画を確実に行うための準備に入ります。そんなとき、リサの病状がよくないことから、別の刑務所に移送されることになります。今、いる刑務所を想定して、脱獄プランを立てていたのに、こうなると実行タイミングを待っている余裕はありません。ジュリアンが移送される前に、脱獄させないと。

前半から中盤にかけて、細かいエピソードを積み重ねて、普通の人がとんでもないことをしようとする過程をリアルな息遣いで描写していきます。主人公が子供にはやさしく接するところ、子供が銃で遊んでいるのを取り上げてから、公園へ連れてってやるくだりなど、一見、わき道に逸れそうなエピソードによって、だんだんとジュリアンに感情移入しちゃうのですよ。また、ジュリアンの両親や兄弟とのエピソードが、ジュリアンの行動に説得力を与えています。普通の男が根性決めたら、誰にも止められないというのがひしひしと伝わってきます。ヴァンサン・ランドンが内に秘めた人間の強さを見事に演じきっています。

時間がないのに、まだ金は不十分でした。ジュリアンは意を決して、銃を持って銀行の前に立つのですが、結局ためらってしまい、その代わりに街でクスリを売ってる若者をつかまえて銃を向け、金を出せと脅します。このあたりの展開が、いよいよ一線を踏み越えたものになってきまして、麻薬売人と銃撃戦になり、死人が出てしまいます。脱獄犯に言われた言葉が、彼の心をよぎります。「よほどの覚悟で臨まないと大変なことになる」そして、彼にはその覚悟があったのです。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



いよいよ決行の日、息子とホテルに移ってから、ジュリアンは1人で行動を起こします。ここから先は、どうやってリサを脱獄させるのかに、ミステリーの興味も加わり、緊張感のある展開になります。糖尿病の持病を持つリサの検査結果をすりかえることで、刑務所から病院への移送命令を出させ、病院へ搬送されたリサを病室でさらおうとするのです。しかし、前日の麻薬売人を殺した時、車の塗料が現場に残ってしまったことから、ジュリアンが特定されてしまいます。彼の住まいがもぬけの空とわかって、警察はリサに何か起こるのではと、リサをマークします。ジュリアンが、病室で警官を殴りつけて、リサを確保したこと、殺人課の刑事も病院へジュリアンを追ってやってきます。ここから、病院から通りにかけての追っかけになるのですが、ここがドキドキハラハラの連続となります。病院に想定外の数の警官が現れてあたふたするジュリアン、そもそもジュリアンの行動を知らなかったリサはびっくりなんですが、それでも、彼について行きます。しかし、何とか逃げ切り、親子3人がマークされることも想定していて、レンタカーに相乗りすることで非常線を突破します。おお、ここも感心。ついに警察も彼らを追うのをあきらめます。そして、異国の地で3人の生活が始まるというところでエンドクレジット。

脱獄が成功しちゃうのも意外でしたけど、クライマックスのサスペンス描写がとにかく見事でした。派手なアクションをしているわけではないのに、主人公に感情移入しちゃって「がんばれジュリアン」って応援しちゃいましたもの。それは、それまでの彼のキャラの積み重ねがあってこそでして、普通の人がやっていることだから、共感できちゃうのです。彼は、法が理不尽だと嘆くことも、真犯人へのうらみつらみを語ることもしません。ただ、このままでは、妻もダメになる、子供もかわいそう、だからやるんだという一本筋が通っているのです。そのためには、何でもやると腹が据わっています。それを愛の力と呼ぶこともできるのでしょうが、でも愛の奇蹟と呼ぶには、この脱獄は緻密な積み重ねによって成り立っているのです。そういう意味では犯罪ドラマということもできるのですが、犯罪者のドラマではありません。愛のドラマと言えないこともないけど、それは本筋ではない、そしてクライマックスはミステリーサスペンスになっているという、大変大盤振る舞いしている映画です。ですから、観終わっての満腹度もあります。97分という短めの長さながら、ずっと緊張感を張り詰めたまま突っ走った脚本と演出は見事でした。

音楽を「パイレーツ・オブ・カリビアン」「コンスタンティン」のクラウス・バデルトが担当し、静かな情感を描写する音楽の一方で、クライマックスではシンセビートを重くならして、サスペンスを盛り上げました。メリハリのある音がこのドラマを支えています。ダイアン・クルーガーは出番が少なくて、演技のしどころがなかったのですが、その分、クライマックスの夫の行動にビックリから、彼と一緒に逃げ回るあたりにリアリティがありました。

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「ブルーノ」は普通の人にはオススメできない、普通じゃない人はお試しのほどを。

今回は新作の「ブルーノ」を川崎チネチッタ9で観てきました。車椅子で鑑賞している方がいらっしゃったのですが、空いていようが、混んでいようが、席は前の方の隅っこしか取れないのは、不公平かなって、気がしてしまいました。あれで、同じ値段を取ってたら、フェアじゃないような気がして。シネマジャックみたいに真ん中あたりに車椅子エリア作るのは難しいのかな。

オーストリアでは有名人でテレビの番組も持っていたブルーノ(サッシャ・バロン・コーエン)はファッションショーの失敗でブラックリスト入り。そこで一山あてようと「付き人その2」を連れてやってきたのはハリウッド。エージェントに登録して、番組のパイロット版を作ったり、映画のエキストラやったりするのですが、どれもうまくいきません。そこで、有名になる近道は?と考えて、有名人とのセックスビデオにチャレンジして失敗。中東紛争の仲立ちをして有名になろうとするけど、うまくいかず、iPodと交換した黒人の子供を養子にして、いいイメージを作ろうとしたけど、結局、児童福祉局に子供を取り上げられてしまいます。それでも、セレブになる夢をあきらめきれないブルーノは、そうだストレート(異性愛者)になればいいと気がついて、州兵の訓練所に入ってみるのですが失敗、さらに狩りにチャレンジするんですが、夜中に隣のオッサンのテントに夜這いして追い出されてしまいます。しかし、やっぱりストレートになるんだと頑張ったブルーノは、格闘技大会のMCの座を手に入れます。そこで、ストレートぶりをアピールしていたら、現れたのが「付き人その2」。一触即発の状態になると思いきや二人は抱き合ってキス。そのままリング上で始めちゃって、場内大混乱。それでも、まだメゲないブルーノは全国用のプロモーションビデオを作ります。ボノ、とかスティングとか参加しているように見えますが、ありゃフェイクなんでしょ?

イギリスのサッシャ・バロン・コーエンが、オーストリア出身のゲイ、ブルーノに扮してアメリカでのドタバタをドキュメンタリー風に描いたコメディ。前作「ボラット」では、カザフスタン人ボラットというオッサンを演じたコーエンですが、今回は19歳という触れ込みのオーストリア人を徹底して下品に演じきって、ゲイの団体から抗議がきたといいます。映画の構成としては、ブルーノは実在するという体で、その彼を追うドキュメンタリーという構成になっています。彼の言動、行動は、隅から隅まで下品そのものなので、とにかく笑える内容になっています。上品な笑いを楽しみたい方には、笑いが凍りつくシーンの連続ですのでご注意ください。あまり観客の多くない場内ですが、私を含む何人かは、シモネタの連打に大笑いしていました。ゲイに絡むネタは特にヤバく、霊媒の呼び出した霊とホモセックスするシーンのお下劣度は「バカじゃねえの?」って突っ込みたくなるレベルのもの。

シモネタ以外に何があるのかというと、ホンモノの議員とのインタビュー番組を作ると称して、議員をベッドルームに誘い込むというお笑いウルトラクイズの人間性クイズみたいなネタなんですが、これをどうやら実際に議員に仕掛けたらしいのです。あるいは占い師のところへ行って、自分がファンだった人の霊を呼び出してエッチしたり、ゲイ差別の強い土地へ行って格闘技戦をするとウソついてリングで男同士で抱き合ったりと、とにかくゲイ絡みのネタをものすごく下品にやってのけます。その他では、黒人の赤ん坊を里子にして、黒人観客ばかりの対談番組で差別丸出し発言したりと、まあ、下品で笑えること。あまり、お客の入ってない劇場内の数箇所(含む自分)が爆笑してましたけど、正直、家族そろって大笑いなんていうネタは皆無。映画館の中だから声を出して笑えるようなのばっかで、もうくだらな過ぎ。

私のような日本人からすると全部ヤラセのフェイクドキュメンタリーとしか見えないのですが、実際はかなりヤバいことをしているらしいです。要はヤラセの中に本当のことも含めているようなのですが、あまりアメリカの文化に詳しくない私には、そこがわからず、リスキーなことをしているのがまるで伝わってこないのです。そうなると、風刺性の部分は掴み損なって、下品だけの映画になっちゃうのが若干つらいです。薄くて高いプログラムを読むとそのあたりの事情が若干書かれているものの、そこんところは向こうの人には理解できてるのかなあって気がしました。きっと、コーエンが日本を舞台にした「ブルーノ・イン・ジャパン」を作ってくれたら、そこんところがよくわかって、もっと楽しめるのかなって気がしました。

とは言え、この映画を観てると、まだアメリカでもゲイ差別は根強いのかなって気がしました。ここまで、下品なゲイを見せて笑いをとる環境ってのは、やはりゲイがおとしめられているのかもしれないです。また、ブルーノが演じるゲイの下ネタは、そのままストレートな人にもあてはめ得る下ネタであり、そのあたりはストレートもゲイも下ネタは同じと言っているようにも見えます。(まあ、これは善意の解釈が過ぎるかも。とにかく下品なんだもんなあ。)

というわけで、普通の人にはオススメはできませんが、物好きな人、とことん下品なのが好きな人は試してみるのはいいかもしれません。「ボラット」よりは観やすい映画だと思います。全裸のオヤジ格闘みたいな生理的に来るネタは控えめになっていますから。

「マイレージ、マイライフ」は社用族の苦い後味コメディ

今回は新作の「マイレージ、マイライフ」を川崎チネチッタ5で観てきました。シネシャンテで公開される映画が、同時期に川崎のシネコンで観られるってのはありがたいです。やはり、銀座まで出ないと観られない映画ってどうしても敷居が高くなっちゃいますもの。

ライアン(ジョージ・クルーニー)は、会社に変わってリストラ宣告するという請負死刑執行人。不景気なご時世からか、仕事はいっぱいで、アメリカ中を飛び回っています。年の300日も出張していて、マイレージもたまり放題で、ホテルとかのカードも一杯、出張ビジネルの上得意。偶然出会った同じ出張族の女性アレックス(ヴェラ・ファーミガ)と意気投合してベッドイン、それからも出張スケジュールの隙間で会おうってことになります。一方、ライアンの会社では、リストラ宣告をネットでやろうって話が持ち上がり、その提案者である若いナタリー(アナ・ケンドリック)が、研修という名目で、ライアンの出張に同行することになります。人生についての講演までやっているライアンですが、未だに独身で恋人もおらず、自分の人生に自信満々だった筈なのですが、アレックスとの出会い、妹の結婚が契機となって、何かが変わり始めるのでした。

「サンキュー・スモーキング」「JUNOジュノ」で面白い切り口の映画を見せてくれたジェイソン・ライトマン監督が、リストラ宣告人の出張族を主人公に、人それぞれに生き方についての違いについて見せてくれました。ジョージ・クルーニーが演じる主人公は、会社の代理人として、クビの宣告をするのが仕事。それなりの実績と自信を持っていまして、マイルがたまるのがうれしかったりする男。こういう仕事が会社レベルで成立するってのがアメリカらしいと思うのですが、クビを切られる方のガックリ度とか思うことは日本と大して変わらないです。「何十年もこの会社で仕事してきたのに」「この会社にはオレが必要だ」などなど、なるほど思うところは変わらないんだなあって。でも、その一方で、会社側は人情のかけらもないなあって実感。別の会社の人間を呼んで、クビの宣告をするってのはドライなもんです。

でも仕事にはプライドを持っているライアンは、ネットで画面越しにクビ宣告するというやり方にはものすごく反発します。まあ、その裏には、出張がなくなり、自分の生活パターンが変わっちゃうってことが大きいようです。そりゃそうだ、生活まるごと経費にできて、さらにマイルのおかげでセレブ扱いされてるんですから。日本で言うところの社用族ですが、不景気になれば合理化推進で、交際費が削られる、アフター5の接待や人間関係で仕事を円滑に進めてきたベテランからすれば、そこは合理化するポイントじゃないだろうっていう気持ち。そう考えると、日本人でも理解しやすい設定だと言えます。確かにクビ切り宣告人という仕事は、他人を失意のどん底に追い詰めることでお金を稼ぐわけですから、リストラされる人に対しての敬意を表するのは必要なこと、それをネットの画面越しにやるなんてひどい。そう考えるライアンの気持ちは理解できます。

会ったこともない人間の人生を修羅場にかえちゃうことなのに、それをネット越しにやろうと言い出したのは、現場を知らない大学出のおねえちゃんナタリーだというのは、ありそうな話です。そんな若い娘を、出張に同行させますが、実際にクビを宣告された人たちの様子を見て、落ち込むナタリー。それをずっとやってきたライアンからすれば、だからこそ、その場にいて、リストラされた者の気持ちを落ち着かせ、ショックを和らげるのが仕事のうちなんだと認識しています。そして、これは小娘のナタリーには荷が重い仕事だということも、知っている。でも、世間の流れに逆らうことができないから、きっとネット首切りが始まるんだろうなあって予感も持っているのです。時の流れに耳を塞いでいるわけではないのです。

でも、ライアンの関心事は、遊びであったはずのアレックスの存在でした。アレックスにとっても、ライアンにとっても、後腐れのない関係だった筈なのに、これまでの生き方の中で欠けていたものを彼女のうちに見出すようになります。と、書くと、かっこいいのですが、要はマジ惚れしちゃったのです。それまで、家庭を持つなんて考えたこともなかったライアンですが、出張がなくなるという生活パターンの変化と、妹の結婚から、やっぱり人生の伴侶を欲しくなったみたいです。それまでは、人生のバックパックは軽くしておくべきとか言って、、出張のノウハウを人生のノウハウのごとく講演してきたライアンなのですが、そんな人生では物足りなくなってきます。でも、結婚しないことを突っ込まれると「結局、人生は一人だ。両親も最後は介護施設だった。」と強がります。でも、それも一理あるわけでして、必ずしもどちらが正しいと決め付けることはできないです。どっちにも長所短所ありますもの。絶対的な優劣があるのなら、みんな悩んだりしませんもの。ただ、ライアンの場合、アレックスを妹の結婚式に連れていくことで、自分とアレックスの未来のイメージが頭をよぎってしまったようで、それまでの身軽でお気軽な人生観が揺らいでしまうのです。でも、やっぱり恋愛をあまりしてこなかった男の子が、女の子に恋してしまった図なんですよね。ジョージ・クルーニーが演じることで、そこにペーソスが出ました。自信満々キャラが揺らいでいく感じのちょっと情けないところが意外性があって面白かったです。

「現代を生きるあなたに、ほんの少しの提案と希望をくれる人間ドラマ」というのが宣伝文句なんですが、そういう癒し系の物語を期待すると肩透かしをくらうことになります。苦い結末を人情コメディとして楽しむ映画のように思うのですが、若い人とか、この映画から希望をもらえるのかしら。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ナタリーの研修も終わり、彼女の提案したネットによるクビ切り宣告システムは本格的に動き出します。ライアンとしては面白くないけど、それも時代の流れとあきらめるものの仕事にも気を張ることができません。しかし、研修中にナタリーがクビ宣告した女性が自殺したことで、ナタリーは会社をやめてしまい、ネットクビ宣告システムは取りやめとなり、ライアンの出張生活は再開します。そこはOKだったんですが、アレックス恋しさが募った彼は、仕事ほっぽり出して、彼女の自宅まで訪ねて行っちゃいます。でも、そこには、彼女の子供とダンナがいたのです。呆然となるライアンですが、その痛い失恋を乗り越えつつ、またマイレージを貯める機上の人となるのでした。おしまい。

結局、映画の頭に戻っちゃうわけなんですが、冒頭の自信満々のライアンと比べると、結末での彼はどこか不安で根無し草みたいに見えちゃうのが面白いところです。ラスト近くにリストラされた人々が「家族がいることによって立ち直れた」というインタビューのシーンが挿入されるので、余計目にライアンの孤独が浮き上がるという構成になっています。でも、そう簡単には人間変われない、一時的な感情に流されて無様な失恋劇を演じてしまったのですが、それで大きく価値観が変わったようには見えません。でも、仕事を失うことと愛を失うことの二つを経験したことで、何か変わっているかもしれないねっていう予感で映画は終わります。人生は、思うようには運ばない、だから色々なことに立ち向かったり受け入れたりしなきゃいけない、そんな時に、頼れる誰か、思いやれる誰かがいるっていいよねって気分になる映画でした。ただ、ライアンが会社の金でマイレージ貯めてセレブ気分ってのは、サラリーマンの私からすれば、典型的な社用族で、あまり共感できませんでした。会社をやめた後、人生の晩年でみじめになるぞって思ったのですが、それは意地の悪い見方なのかな。

演技陣ががんばっていまして、ヴェラ・ファーミガとアナ・ケンドリックは、主人公の人生に影響を及ぼすキャラをリアリティのある演技で演じきりました。

「NINE」の映像の素晴らしさは映画館でこそ堪能できます

今回は、新作の「NINE」を川崎チネチッタ12で観てきました。私はフェリーニの「81/2」も未見ですし、ミュージカルのことも全然知らない状態で、スクリーンに臨みました。特に出てくる俳優に魅かれたわけでもなく、何となくって感じの鑑賞でした。

1960年代のローマのチネチッタ撮影所。グリオ(ダニエル・デイ・ルイス)の新作映画のタイトルは「イタリア」と決まっているものの、脚本が一行も書けないままクランクインの日が近づいてきています。かつては、天才と呼ばれてヒット作もたくさんあったのですが、最近はヒット作にも恵まれずスランプ気味。妻ルイザ(マリオン・コティヤール)との関係もうまく行ってなくて、愛人カルラ(ペネロペ・クルズ)との関係も限界かも。古くからの付き合いの衣装デザイナー、リリー(ジュディ・デンチ)はそんなグリオを気遣います。そして、クランクインの日がやってきて、主演女優クラウディア(ニコール・キッドマン)が撮影所にやってきます。でも、まだ脚本は全然書けていません。どうする? グリオ。

フェリーニの映画「81/2」にインスパイアされたミュージカル「NINE」を、「シカゴ」「SAYURI」のロブ・マーシャルが監督しました。冒頭で、グリオが映画監督としてのインテビューを受けているところから始まるのですが、何だか鼻持ちならないキザな言い回しがやな感じ。アーチストってこんな感じなのかなって、気もしますけど、私生活が乱れてるクセに偉そうな奴。「映画の内容は語らないよ、まず観て欲しい」なんて、今なら「アホか、語らないなら、メディアに出るな。」と一蹴されちゃうのでしょうけど、当時はそういうインテリっぽさがもてはやされた時代でもあったようです。まあ、特定の才能に秀でた人が全人格的に尊敬できるとは限りませんけど、言い草がキザったらしいのはやあねえって思うのは、私が無才のオヤジだからでしょうか。

ともあれ、そんな主人公が、スランプで新作に手がつかない状況で、様々な女性が登場して、色々なナンバーを披露していくという構成です。もちろん、ミュージカルですから、ドラマの中に歌が強引に割り込んでくるわけなんですが、歌のシーンは全て主人公の幻想の中のように描かれているので、普通のニュージカルとは一味違います。実世界のドラマと歌のシーンを巧みに編集することで、舞台では出せない映画ならではの興奮を作りだすことにも成功しています。この構成は、マイケル・トルキンとアンソニー・ミンゲラの脚本の功績なのでしょう。

でも、この映画の最大の功労者は撮影のディオン・ビーブだと思っています。とにかく、映像が素晴らしいのです。シネスコサイズの画面を見事に切り取っていて、歌のシーンの光と影のコントラストが美しく、明るいレビューのシーンは画面の隅々まで人やモノを配置しているので華やかな映像になっています。ダンスナンバーでアップとミドルショットをうまくつないだ編集も見事でして、この映画には、映画ならではの映像的な興奮があります。舞台で歌われるナンバーを舞台のような美術セットの中で、ミュージックビデオのような撮り方をするというのが、舞台の映画化のやり方として成功しています。さらに、その映像がビデオではなく、大画面で観るための絵になっているのがすごいです。ストーリーや歌よりも、まず映像に心を奪われました。この映画は、できるだけ大きな画面の劇場で観ることをオススメします。

演技陣の好演も見逃せません。ダニエル・デイ・ルイスはどんな人にもなっちゃうところが名優と呼ばれているのですが、さらにこの映画では、主役でありながら、狂言回しでもあるという役どころを見事に演じきりました。彼は出ずっぱりなんですが、それでも、女性陣が引き立つようになっているところは、名優というより、演技の職人なんだなあって、改めて感心。

一方の彼を取り巻く女性陣がまた豪華で、それぞれに見せ場のナンバーを持ち、歌も歌っています。その中でも、まるっきりタイプの違う2つのナンバーをきっちり歌い分けたマリオン・コティヤールが印象的でした。また、これまでの映画では絶対的な美貌で、映画を圧倒していたニコール・キッドマンが、美人女優役なんですが、リアルな生身の女性像を演じているのが印象的でした。ジュディ・デンチが相変わらず巧いんですが、彼女の歌うナンバーの映像がまたいいんですよ。



この先は映画の結末に触れますのでご注意下さい。



妻ルイザとグリオの関係はなかなか修復できません。でも、グリオはルイザを必要としています。愛してもいるはずなのに、平気でウソをついちゃうグリオに対して、ルイザはついに別れを告げます。このダメージが決定打になったのか、結局、脚本には手がつかず、映画撮影は中断。それから二年後、隠居状態のグリオに、リリーがまた映画を撮るようにと勧めます。そして、撮影所に現れたグリオは、メディアのインタビューに答えています。そこへ、カーテンコールのように現れる、彼に関わった人々。その中にいた少年時代のグリオが彼のもとに駆け寄り、二人でクレーンに乗って上がって行って、「アクション」の声で、暗転。エンドクレジット。

1960年代ってのは、まだ映画がアートっぽいスタンスを持つことができた時代なのかもしれません。今や、映画を小難しい理屈で語ることはかっこよくないですし、映画そのもののアートしての立ち位置もある意味定まってしまったのではないかしら。イタリアン・レアレズモ、ヌーベルヴァーグ、アメリカン・ニューシネマなんていう映画の潮流を表す言葉がなくなってしまったのは、アートとしての映画が停滞しているとも言えますし、芸術映画と娯楽映画の垣根がなくなったのだということもできます。もはや、ビデオとフィルムの境目も曖昧となり、映像芸術としての映画というジャンル、映画という括りがなくなってきたのしれません。でも、この映画は、映画としての魅力に溢れています。スクリーンで観るフィルムによる映像として、よくできているのですよ。映画を舞台化し、その舞台を映画化したら、映画というメディアを再認識させる作品に仕上がったというのが面白いと思いました。大画面のための絵は、映画館で観るのが一番堪能できます。是非、映画館でどうぞ。

「皇帝のいない八月」は名曲だけどなぜセリフ入りをリリースするの?


高校生の時、タダ券をもらったので観に行った「皇帝のいない八月」。記憶に残っているのは、内閣調査室の高橋悦史のガラの悪さと、右翼って怖いなってことくらいだったんですが、その他に、冒頭から音楽がカッコ良かったことも覚えていました。当時は、既に洋物サントラファンでしたから、おお、これってジェリー・ゴールドスミス風じゃんって喜んでいたのですが、その作曲者が当時既に日本映画音楽の重鎮であった佐藤勝だったという認識はあまりありませんでした。その後、関光夫氏のFM番組「ポピュラーアラカルト」でタイトル曲を録音して、何度も聴いていました。

今回、発売されたのは、映画公開時に発売された、サントラLPの復刻盤CDです。作曲者の佐藤勝が、東京シティフィルハーモニックオーケストラを指揮しています。メインとなるモチーフは2つで、タイトル曲にもなっているクーデターの経過をサスペンスフルに描写する曲と、主人公が聴いている交響曲(この曲の名前が「皇帝のいない八月」)のテーマとが、絡み合いながら、ドラマを盛り上げていきます。特に、前者のサスペンス音楽が素晴らしく、明確なリズムを刻む音楽でありながら、パーカッションよりも、ホーンセクションが前に出るという、鋭さよりも厚みが感じられる音になっています。これが、ドラマ部分では、ホーンよりも弦が前に出て、鋭さを増し、サスペンスを盛り上げています。

一方のドラマチックな曲はクライマックスのバックにも流れるのですが、映画のエモーショナルな部分を支えていまして、そのスケールの大きさがクーデターという大仕事のバックには似合っていたように思います。でかいことやってるときに、チマチマした情感たっぷりの音楽なんて、映画のスケールダウンになっちゃいますもの。CDを聴いていると、感情部分は大味に、サスペンスは繊細にという音作りが感じられて、日本映画の音楽にもこういうのがあったんだって感心しちゃいました。最近の映画音楽にない、サスペンス部分における、厚みと繊細さの両立は聴きものです。


でも、このサントラCDひどいんですよ、セリフ効果音入りなんです。確かに当時のサントラ盤には、和洋問わず、そういうのが結構ありました。ビデオなんてものがまだ普及していない時代、サントラ盤は映画の感動を再現することの価値が大きかったので、効果音入れるのがむしろサービスだったのです。ブルース・リーの怪鳥音入りサントラなんてのが売られていた時代です。後、イタリア映画のサントラ盤とかに、セリフ入りが多かったという記憶があります。丁度、名盤「伊福部昭の世界」や「宇宙戦艦ヤマト」のサントラ盤が発売された頃で、日本の映画音楽のステータスも上がってきている時期でしたが、音楽そのもののリスペクトはまだまだだったようです。

でも、今、再発売するなら、これはないだろって思います。セリフ多いし、音楽に被っているものもあります。当時のサントラ状況を考えれば、オリジナルLPをプロデュースした人に文句を言うつもりはないですが、今、この名曲を再発売するのなら、ちゃんと音楽だけにしろよって言いたいです。

ちなみに、2007年の戦士映画音楽傑作選「男たちへ」というコンサートでも、この曲が演奏されまして、感動した記憶があります。交響曲の方ではなく、タイトルでクーデターに向かうトラックのバックに流れるサスペンスフルな曲を、大変な盛り上がりのある演奏で聞かせてもらいました。

「アンドロメダ」のサントラは今聴いても画期的な電子音楽


1971年に公開されたアメリカ映画「アンドロメダ」はSF映画としても傑作の一つに数えられています。謎の細菌が地球にやってきたというサスペンスをほとんど地下深くにある研究室のみで描いているのに、これがホントに面白い。マイケル・クライトン(原作)が関わっている映画の中でもトップに位置づけられる出来栄えですし、ロバート・ワイズの代表作に数えてもいいのではないかしら。

音楽を担当したのは、ギル・メレという人、彼名義のジャズアルバムもある人ですが、映画音楽では、SFやサスペンスものを多く担当しており、「センチネル」「エンブリョ」といったホラー映画が有名ですが、ほとんどサントラ盤は出ていませんでした。「アンドロメダ」は珍しくサントラLPは出ていたのですが、最近になって、やっと限定盤ながら、CDが発売されました。

まるで旋律のない、シンセサイザー、弦、パーカッション、そしてサンプリング音源を中心にした現代音楽です。今の耳で聴くと、全部シンセのようにも聞こえるのですが、結構、楽器の生音も入っています。徹底的に無機的で、情感を呼び起こす要素は一切ありません。でも、最近のホラー映画の音楽のように、ドヨーンビヨーンの繰り返しではなく、多種多様な音をサンプリングして、ノイズのような音も入れたり、バラエティに富んだ音楽に仕上がっています。特にパルス音を効果的に使ってサスペンスを盛り上げるあたりは、かなり聴き応えがあります。タイトル曲(曲と言っていいのかな)が、大変印象的でして、高音と低音のパルス音でリズムを刻みながら、そこにノイズのようなシンセが絡んでくるというもの。これが、得体の知れない怖さと緊張感を運んでくるから見事です。当時としても、非常に先進的な音と言えるのではないでしょうか。一方、ドラマ部分では、無調とは言え、普通の現代音楽風の曲も交えて、全体として大変密度の高い音に仕上がっています。

電子音による音楽は、昔からSF映画によく使われてきまして、無限の宇宙を表現するのに、電子楽器による掴みどころのない音楽は、そのイメージを膨らませるのに貢献してきました。しかし、この「アンドロメダ」では、シンセサイザーの音の奥行きよりも鋭さの部分を強調して、ミクロの世界の恐怖を描写しています。特に、高音の不快な音を要所要所に使うことで、非常警報のような緊張感、そして、不気味に増殖していく細菌を表現していまして、全体的には神秘的というよりは、尖った音になっているのが特徴です。映画が傑作ですが、この音楽もかなりすごい音だというのは事実です。他にこういう音楽の映画がないので比較できないんですけど、アルバムで聴き直すと改めてすごいと思いますもの。

「ニューヨーク、アイ・ラブ・ユー」は、都市テーマのオムニバスとして面白くできてます。

今回は、新作の「ニューヨーク・アイ・ラブ・ユー」を日比谷シャンテシネ1で観てきました。日曜の初回にしては、あまりお客が入っていなかったのですが、同時期公開の同じ趣向の「バレンタインデー」とかぶっちゃったのかしら。

ニューヨークという大都会では、人種、文化が交錯する街。その中で、様々な人にスポットが当たっていきます。11人の監督がニューヨークを舞台に、愛にまつわる人間模様を紡いでいきます。お笑いの一編から、シリアスなエピソード、ちょっと怪談みたいなファンタジーまで交えて、さまざまな切り口から、人間ドラマを描いた短編小説集の味わいは「パリ・ジュテーム」みたい、と、思ったら「パリ・ジュテーム」の姉妹編として企画された映画なのでした。

「パリ・ジュテーム」は、18のエピソードの短編集でしたが、こっちはエピソードを11に刈り込んで、個々のエピソードをじっくり見せようとしています。その分、印象が若干が若干違っていまして、パリのスナップ集みたいだった、「パリ・ジュテーム」よりは、物語的な面白さを持ったエピソードが多かったように思います。パリはまず街ありきでそこに人が集まるという感じなのですが、ニューヨークは、まず人ありきで、人が集まってニューヨークが形成されたというところがあり、より人間にフォーカスがあたるエピソードになっているようです。そこは色恋沙汰中心のエピソードをまとめた「バレンダインデー」に比べると、こっちの方が小洒落た感じのお話が多く、その分、アートっぽい味わいのものが多いです。でも、私には「パリ・ジュテーム」と同じく、アートなお話よりも、男女のプチストーリーの方に心魅かれました。

監督陣には、アメリカの監督だけでなく、国際的な面々を集め、中国のチアン・ウエン、インドのシェカール・カブール、フランスのイヴァン・アタルに日本の岩井俊二まで参加しています。出演もしているナタリー・ポートマンが1エピソードの脚本を書いて監督もしています。これらのエピソードのつなぎの部分を視覚効果スーパバイザとして有名なランディ・バルスマイヤーが監督しました。個人的には、岩井俊二のボーイ・ミーツ・ガールのお話が楽しくて一番好きです。よく、わけがわからなかったのが、アンソニー・ミンゲラの遺稿をシェカール・カブールが演出した一編。どっかで見たことある二人が誰かわかってから、じんわりくるものがあったジョシュア・マーステン監督の一編も印象的でした。



この先はエピソードを紹介しますが、結末込みですのでご注意下さい。




1、チャン・ウエン編
冒頭は、若いスリに財布をすられた男(アンディ・ガルシア)が財布を取り返してギャフンと言わせるというお話なんですが、男の若いガールフレンドはその後スリになついちゃうというオチがつきます。

2、ミーラー・ナーイル編
ジャイナ教徒の宝石商のところに、ユダヤ人の娘(ナタリー・ポートマン)がやってきて、ダイヤの値段の交渉をします。ユダヤ教の掟らしく、結婚したらずっと鬘をかぶることになる娘の頭は坊主になっています。それを見た宝石商と娘との不思議な心の揺らぎが、意外と濃厚に描かれます。すごく官能的なストーリー展開なんですが、映像そのものはそうでもない感じでしょうか。ユダヤ教って色々と大変なんだなあっていうのも発見ですが、様々な宗教な交錯する場所でもあるんですね、ニューヨーク。

3、岩井俊二編
アニメ映画の作曲家デヴィッド(オーランド・ブルーム)は、曲の書き直しを監督に命じられ、さらにはドストエフスキーを読破せよと厳命されちゃいます。監督の指示は、アシスタントのカミーユからの電話でされるのですが、「もう、こんなの読めない、おりゃやめる」ってカミーユに宣言します。でも、カミーユはその昔ドストエフスキーが締め切りに追われた時、優秀な助手が彼を救ったという話をし始めます。そして、デヴィッドに協力しようって申し出をしてくるのです。そして、彼の部屋の入り口に来ていた彼女。デヴィッドはドアを開けると、そこには恥ずかしそうにたたずむカミーユ(クリスティーナ・リッチ)が。ずっと声だけ登場で、ラストカットでしか顔を見せないクリスティーナ・リッチがむちゃくちゃかわいい。声のやりとりだけのボーイ・ミーツ・ガールの展開がなかなかに楽しく、おかしさの後の余韻が素敵なエピソードでした。

4、イヴァン・アタル編
レストランの前で男(イーサン・ホーク)は、魅力的な女性(マギー・Q)にタバコの火を貸します。男は気障な言葉を並べ立て、こういうのも何かの縁だから、一緒にどっか行こうと、口説くのですが、彼女の切り返しの一言にたじたじになっちゃいます。彼女は娼婦だったのです。イーサン・ホークのチャラチャラした感じがおかしな一編です。

5、ブレット・ラトナー編
彼女の振られたばっかの主人公(アントン・イェルチン)に薬屋の主人(ジェームズ・カーン)が自分の娘(オリヴィア・サールビー)をプロムに連れてってくれと言い出します。何となく、押し切られてOKしちゃうのですが、当日、初対面の彼女が車椅子だったので、ちょっとがっかり。それでも、結構楽しいパーティで、公園で二人きりになれば、彼女の方から積極的にアプローチしてきて、一夜を共にしちゃいます。朝、家に連れて帰ってくれば、車椅子からさっそうと立ち上がる彼女。薬屋の主人によると、役者である彼女は役作りのために何でもやるんですって、今回は「この命誰のもの」を演じるのだとか。小話みたいな話で、オチの付き方もうまい。車椅子の女の子を使って、ブラックな笑いにしないラトナーのセンスがいい感じでした。

6、アレン・ヒューズ編
それは行きずりの情事のはずでした。でも、男(ブラッドリー・クーパー)にとっても、女(ドレア・ド・マッテオ)にとっても、何か特別なものでした。別れた後は引きずらない筈だったのですが、また、出会った店に向かってしまう男、でも、そこにあの女はいない。男が店を出て、帰りかけた時、向こうから女がやってくる。同じタクシーに乗って、どこかへ向かう二人。

7、シェカール・カブール編
古びたホテルにやってきた老女優イザベル(ジュリー・クリスティ)。彼女を担当するボーイ、ジェイコブ(シャイア・ラブーブ)は体が不自由でしたが、懸命にイザベルをもてなしてくれます。花とシャンパンを持ってきてくれるジェイコブに、どこか悲しげな影を感じ取るイザベル。その悲しみをたたえたまま、ジェイコブは、窓から身を投げてしまいます。まるで、イザベルの代わりに悲しみを捨てに行ったようにも見えました。どうにでも、解釈できる話でして、ジェイコブってのは、「ヤコブの梯子」のヤコブですし、イザベルが死に場所を探してるような雰囲気もあって、ジェイコブって天使なのかなって思わせるお話でした。

8、ナタリー・ポートマン編
かわいい娘テヤは、子守のダンテ(カルロス・アコスタ)によくなついています。楽しい一日を終わって、母親に引き渡すとき、彼は母親に「もっと母親がかまってやらないと」と言います。別の日、舞台で踊るダンテに向かってテヤが叫びます、「パパー」って。小品としてこじんまりとまとまってます。

9、ファティ・アキン編
初老の画家(ウグル・ユーセル)は、チャイナタウンで見かけた茶店の店員(スー・チー)に心魅かれます。是非、モデルになって欲しいと言われても、言下に断ってしまいます。ある日、彼女は思い立って彼のアトリエを訪ねるのですが、既に彼は亡くなっていて、彼女をスケッチした絵が何枚かありました。でも、どの絵にも目が入っていない。彼女は、自分の写真を撮って、その目を切り取って絵に貼ってみるのでした。これは、「パリ・ジュテーム」のエピソードだと言われても納得しちゃう、ある種の情念のお話でして、スー・チーの意外な好演ぶりが光る一編でした。

10、イヴァン・アタル編
レストランの前で携帯電話で仕事の話をしていた中年男(クリス・クーパー)に、レストランから出てきた中年女(ロビン・ライト・ペン)がタバコの火を借ります。こういう形での出会いは特別よね、とか、女の方からモーションをかけるようなことを言います。最初は、あまり乗ってこなかった男ですが、女の誘いぶりに、その気になりかかるのですが、結局、うまくかわされてしまう。しばらくして、レストランの中には、あの二人の男女が楽しそうに会話しています。もともと、二人は仲のよい夫婦、ちょっと他人の顔で一芝居したんだけど、ちょっとミスったのかな? とは言え、これもオチのある小話みたいなエピソードでして、堅めキャラ二人のキャスティングが意外性を持ったという感じでしょうか。

11、ジョシュア・マーストン編
エイブ(イーライ・ウォラック)とミツィー(クロリス・リーチマン)は長く連れ添った夫婦。海を見に出かけるにしろ、お互いに憎まれ口のたたき合い。エイブは若干足元が危ないもんだから、ミツィーはその様にやきもきしちゃっうんだけど、やっぱり仲の良い二人なのでした。最初、主演の二人が誰なのかわからなかったのですが、ウォラックとリーチマンと後でわかってびっくり。特にやせこけちゃったウォラックにしみじみしちゃいました。この映画の撮影時には90を越えたのでしょうから、足元危ないのは演技じゃないのかも。


これに、街の風景を撮影しまくるゾーイ(エミリー・オハナ)のエピソードが全篇に散りばめられています。全体としてのトーンの統一はないのですが、その統一感のなさこそがニューヨークらしさなのかもしれません。エンドクレジットの最後で、今度は上海でこういう映画作るって字幕が出ましたから、それにもまた期待したいですね。東京でやってくれたら面白いのですが、東京は映画撮影に非協力的だそうですから、こういう街をテーマにしたスケッチの映画は作れないのかなって気がします。後、700円のパンフレット買ったのですが、岩井俊二のインタビューがあるのは面白かった(実撮影期間は2日間だったとか、マメ知識にへぇー。)のですが、小堺一機のインタビューがあるのは、何でやねん?!って感じでした。彼を嫌いなわけじゃないんですが、ニューヨークを語らせるなら、他にいるだろうって。(ひょっとして、実はいないのか?)

〔追補〕「ハート・ロッカー」のヒロイズムがすごくなじまない

今回は、新作の「ハート・ロッカー」をTOHO川崎シネマズ2で観てきました。普段なら、川崎で映画を観る穴場なのですが、珍しく満席状態、映画終って出てみれば、次の回も売り切れですって。

舞台はバグダッド。米軍のブラボー中隊の爆発物処理班は、市街地に仕掛けられた爆弾の処理にあたっていました。遠隔操作で爆破させようとしたのですが、爆破ユニットを運ぼうとして途中で故障、班長のトンプソン軍曹(ガイ・ピアース)が直接で手で運んでいったところで爆発。死亡したトンプソンの代わりに、ジェームズ軍曹(ジェレミー・レナー)が赴任してきます。ところが彼は遠隔ロボットも使わず独断先行のところがあり、部下のサンボーン(アンソニー・マッキー)とエルドリッジ(ブライアン・ジェラディ)は何だか気に入りません。それでも、任務が明けるまで後38日、彼らは爆発物処理を続けていきます。周囲には、普通の市民生活があり、重装備の米軍がいて、さらに、あちこちに爆弾が仕掛けられているという、異常な状況下で、彼らは淡々と任務を遂行していくのでした。果たして、彼ら任務が終了するまで生き残ることができるのでしょうか。

「ストレンジ・デイズ」「K-19」などのキャスリーン・ビグロー監督の新作です。イラク駐留米軍の爆発物処理班の姿を描いたものです。イラクでの米軍の行動を描いた映画というと、ブライアン・デ・パルマのフェイクドキュメンタリー「リダクテッド 真実の価値」、ドキュメンタリー「冬の兵士」を観ていますが、初めて、イラク戦争のストレートなドラマを観るような気がします。死と隣り合わせの戦場で、さらに過酷と思われる爆発物処理班を主人公にして、緊張感あふれるドラマに仕上がっています。彼らが処理するのは、地雷的な爆弾、不発弾、人間爆弾などとにかく戦場で一番危険な場所に率先して赴くわけですから、そのストレスたるや、私の想像の及ぶ範囲ではありません。そんな仕事にやってきたジェームズは、チームで仕事してるとは思えないくらい、自分が一人で爆弾をやっつけようとします。一緒に仕事しているサンボーンやエルドリッジにしてみれば、気が気ではありません。しかし、砂漠の中での戦闘に巻き込まれた時、ジャームズは意外な指揮官ぶりを見せますし、人間爆弾にされた子供の死体を発見したときは任務を越えた憤りを見せます。ただの暴走野郎ではないことがわかってきますが、だんだん、彼がヒーローのように描かれていくあたりから、妙な感じになってきます。

この映画では、イラク戦争に対する政治的な視点は一切ありません。任務に対する是非は描かれず、過酷な任務のみが主人公たちの前に立ち塞がります。その中で、爆発物処理のエキスパートとしてのジェームズの生き様が浮かび上がってきます。ところが、彼が自分の任務を逸脱し始めるあたりから、映画は迷走し始めます。基地の近くで遊んでいたイラク人の少年が人間爆弾にされたと思い込んで、その行方を探し回ったり、自爆テロの犯人を追跡しようと言い出したり、爆発物処理という任務以外の行動に走っていくのです。それが、一人の人間としての強さ弱さとして、客観的に描かれているのなら理解できるのですが、ビグローの演出はそれをヒーローの行動として演出しているのが、どうもなじめませんでした。昔観た、ビグロー監督の「ハートブルー」でもチンケな強盗をナルシスティックなヒーローのように描いていて、好きになれなかったのですが、この映画でも、どこかナルシスティックなヒロイズムを肯定的に描いているのが、最後までなじめませんでした。冒頭のリアルな緊張感が、段々と、ヒロイズムの方にシフトしていくという感じなのです。

演出の視点ということでも気になるところがありまして、バリー・アクロイドの撮影は、手持ちキャメラによる臨場感あるカットが多いのですが、カットによって、従軍カメラのようになったり、アートっぽい普通のドラマのカットになったりするのです。特に、不発弾処理で人間爆弾の死体を見つける件のカット割が気になりました。臨場感のリアリティとして主人公に張り付くのか、それともドラマの主人公をとらえようとしているのかが曖昧なのです。前半のドキュメンタリータッチから、後半のヒーロードラマへの展開がぎくしゃくしてしまったという感じでしょうか。でも、同じ脚本でも、他の監督だったら、主人公の内向的なヒロイズムを出すことはしなかったのではないかしら。

主人公が冷静に任務に徹してくれたら、或いは怒りを示すのなら戦争そのものに肉薄してくれたら、もっと感情移入できたのですが、そのどちらにも行かないで、半端にヒーローっぽく描いているのが、物足りなかったというのが正直なところです。ビグロー監督は、イラク戦争なんてどうでもよくって、孤独なヒーローを思いっきり描きたかったのではないのかなって気がしてしまったのです。でも、イラク戦争を舞台にしたら、そこに市民の姿を描かざるを得ません。その異常な風景の中で、単純なヒロイズムは、薄っぺらく見えてしまうのです。自分の生き方に疑問を持つサンボーン、死の恐怖と格闘しているエルドリッジという脇役が、ヒーローであるジェームズの背景としての位置づけしかされていないのも不満です。サスペンス演出に冴えを見せてくれている一方で、ジェームズに対する、監督の憧憬のようなものが感じられて、そこがしっくりきませんでした。

イラク戦争を描いた映画として、この映画は評価が高いそうなのですが、それはちょっと違うぞという気がします。それは、「アバター」をSF映画として誉めるようなものです。あくまで背景でしかないイラク戦争、それを使って、あるものに命をかける男の美意識を描いた映画なのだと思います。個々の映像や、エピソードはリアルに描かれているのかもしれませんが、イラク戦争を描こうとしているわけではないので、それはある意味偏っているとも言えます。でも、狙って偏向しているというわけでなく、そういうところに、監督はそもそも興味がないようでして、主人公の葛藤のなさは、確かに潔いまでのヒーローになっています。だいぶ、ひどいこと書いてしまいましたが、それは、私が、ジェームズのような男を、嫌いだからです。こんな奴と仕事したくないです、特に命のかかった仕事をするのに、一人で勝手に動き回って部下をやきもきさせて、その上危険にさらすような奴は大嫌い。こんなのはヒーローではないと思います。アウトローが、ヒーローになっていい場所と、なっちゃいけない場所がありますもの。演出がもう少し引いた視点で主人公を描いてくれたら、そこにいびつな人間像が浮かび上がったのかもしれませんが、ビグロー監督は主人公に寄り添い過ぎて、一体化しちゃっているという感じなのです。

マーク・ボールの脚本のうまさで、そこで描かれるエピソードはリアルでドラマとしてもよくできてると思います。ゲスト出演的に登場する、ガイ・ピアース・レイフ・ファインズ、デビッド・モースも好演で、特にモースは少ない出番ながら強烈な印象を残します。

〔追補〕

この映画がアカデミー賞の、作品賞、監督賞を取ったということで、かなりビックリしました。まず「アバター」とのオスカー争いってのが、「???」なんですが、アメリカ映画に他にもっといいのがあるだろうにって、思ってしまいました。いや、どっちもよく出来てるし、面白い映画ではあるんですが、そこまで、とびっきりではないって思うのですが、これは私が天邪鬼なだけかもしれません。(単に、好みの問題ってところでご容赦を。)

でも、「ハート・ロッカー」がこの年のアメリカ映画のトップに立ったというのは、考えさせられてしまいました。この主人公、戦争を操る人間からすればすごく重宝な人です。「冬の兵士」みたいに戦争に疑問を持たないし、「リダクテッド 真実の価値」のようにイラクで犯罪も犯さない。そういう重宝な人をある意味ヒーローとして描いていることと、イラク人を鬼畜のごとく描いていることだけでも、この映画かなりヤバいと思うのですが、そういうのがアカデミー賞取って、「この映画は戦争の真実を描いている」という売られ方をしてるってのが、もっとヤバイんじゃないかって気がします。「イラク戦争は間違いだった」という風潮に対する反論の映画があってもいいと思うのですが、戦争の本質から目を逸らした作りの映画で、イラク戦争をこういう形で前面に押し出してくるのは、すごくトリッキーな意識操作に思えるのです。日本の特攻隊や戦艦大和の悲劇を描くことで、大東亜戦争を肯定する(正確には、否定や批判を封じる)感じと似ているというと、伝わりますでしょうか。

「戦争は麻薬だ」というのは、戦争のある一面を指した言葉ですが、それは戦争の本質ではありません。作者はわかった上で使っているのでしょうから、受けとる側が注意しないといけないと思います。それに、この映画で語られているのは、戦争の麻薬性だけではありませんし。

「コララインとボタンの魔女」の独特なダークな世界は一見の価値あります

今回は新作の「コララインとボタンの魔女(3D吹替版)」を川崎チネチッタ7で観てきました。ここは、TOHOシネマズと同じく、XpanDの3Dメガネなんですが、このメガネはかけ心地がよくないです。重いし、すぐずれちゃう。他の方式のメガネに当たったことないんですが、これが主流になったら、3D廃れちゃうんじゃないかな。予告編で「アリス・イン・ワンダーランド」の3D予告編が流れたのですが、画面の奥行きはあるものの、登場人物が平べったい書割みたい(全体的には飛び出す絵本みたい)な感じで、これは2Dで観た方がいいなって思っちゃいました。

どっかの山の中、築150年という歴史あるアパート(と言っても見た目はお屋敷)に引っ越してきたコララインですが、田舎なので新しい友人と言えば、オタク風のアイビーくらい。部屋を探検すると壁に塗りこめられていた小さななドアを見つけるのですが、その向こうにはレンガが詰まれていました。園芸記事を書いてるくせに外に出るのもおっくうな両親は、仕事仕事と言って、コララインの事なんておかまいなし。何だか面白くないココラインに、アイビーが自分の家で見つけた古い人形をくれます。これがなぜか彼女にそっくり。その夜、ネズミに目を覚まされた彼女は、ネズミを追いかけていくと、以前見つけた小さなドアにネズミたちが入っていきます。ドアを開けると、その向こうには通路があってさらにドア。通路を伝ってドアを開けると、入ってきたところと同じ部屋です。そして、そこにいたママとパパを見てビックリ。だって目がボタンになっちゃってるんですもの。でも、本物に比べてやさしくて、料理も豪華で、アパートの周りもきれいなお花畑にしてくれます。で、朝になると元の殺風景な部屋とつまんないパパとママ。また、夜が来て、ドアの向こうに世界に行けば、トビネズミのサーカスや素敵なショーやら、楽しい事がいっぱい。もう、ボタンの目の両親の世界の方がよくなっちゃうコララインですが、ちょっとそれってワナっぽくない?

「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」(未見)や「ジャイアント・ピーチ」(映画館で観ました。面白かったです。)で、ストップモーションアニメの不思議な世界を見せてくれたヘンリー・セリックが、ストップ・モーション・アニメをベースにさらにCGを加えて作ったアニメーションです。ニール・ゲイマンの原作から、セリックが脚本も書いています。ちょっと不思議で怖い話をコミカルにまとめていまして、基本は楽しく、そしてイメージの美しさ面白さに引き込まれる映画です。かなりデフォルメされた登場人物のキャラなので、最初は何だかすげえヒロインだなあと思っていると、すぐにその映像世界に取り込まれてしまいます。ちょっとグロにもなってるアパートの住人や魔女といった皆様も登場するのですが、統一感のある独特な世界にはまってしまいました。昔の「アダムスのお化け一家」(少年マガジンに特集記事がありました)みたいなでもあり、サーカスやショーのシーンはちょっとデビッド・リンチみたいでもあり、明朗快活とは反対なダークな世界ですが、それが美しく見えるところがすごいのです。この映像だけでも、一見の価値あると思いますもの。

ヒロインのコララインのルックスが西洋人っぽくなくて、アジア系なので、すごく親しみが湧くってのも個人的に点数高いです。また、ディズニーアニメのように体全体で感情を表現するのではなく、ちょっとしたリアクションや表情の動きで、感情の動きを表すので、何だかすごくリアリティがあるのですよ。リアルな人間の形をしてないのに、人間の演技をしてるって感じは劇場でご確認頂きたいです。主要キャラである猫がちょっとした動きできちんとドラマを作っていくという演出のセンス(アニメーターの腕前なのかな)はすごいと思いました。主人公のコララインの演技が、若い女の子ってこういう仕草するよねって、ホントにリアルなんですよ。アニメにしては、妙に冷めたシニカルなヒロインってもかなりおかしくて、インパクトありました。意外と「萌え」キャラなのかも。



この先は結末に触れますので、ご注意下さい。



コララインは、ボタン目のママから、この世界にいたいのならあなたも目をボタンにするのよ、と言われてびっくり。そんなのできるわけないじゃない。すると、ママは魔女の正体を現します。ボタン目の世界は、ママ以外はみんな人形だったのです。そして、魔女に鏡の中に閉じ込められたコララインは、かつて、魔女にボタンの目にされた子供の幽霊に出会います。彼らは、目を見つけないと天国に行けないのです。そして、ボタン目の世界のアイビーに助けられて元の世界に戻れたコララインですが、今度は両親が魔女にさらわれていたのです。こっちと向こうの世界を行き来できて、言葉も話せる猫のアドバイスも受けて、魔女の世界に再び入って行くのです。幽霊の子供の目を見つけ、両親を救い出すために、彼女は魔女に宝探しゲームを持ちかけます、目と両親を探すゲームを。

ゲームが始まり、コララインは、魔女の世界を歩き回って、何とか3人の子供の目を探すことに成功します。しかし、両親がどこにいるかわからない。でも、魔女にブラフをかけて、その間に両親の居場所を探し、元の世界の扉を開けさせ、脱出に成功。元の世界に戻ってみれば、機嫌のいいパパとママがいて一安心。でも、まだ魔女は、あっちの世界とをつなぐ扉の鍵を狙っていたのです。コララインはアパートの近くにある古井戸に放り込もうとするのですが、魔女の腕が蜘蛛みたいに襲ってきます。危機一髪の彼女を助けたのは、こっちの世界のオタクなアイビーでした。アパートの前の広い庭(庭園って感じ)に花を植えてご近所を招いてパーティをしてるところで、カメラがぐんと引いていってエンドクレジット。

天国に行けない目のない子供の幽霊とか、最初はボタン目のママだったのがどんどん悪相になっていく魔女ですとか、ゴキブリチョコを食べるところとか、けっこう怖かったり、気色悪かったりするのですが、この怖さはホラーというよりは、おとぎ話の怖さになっているのがうまいところです。子供が観たら怖いかもしれないけど、大人が観ると、ちょっと懐かしい昔話の味わいがあります。同じような、ストップモーションアニメの「ウォレスとグルミット」に比べればアクションとかサスペンスは少なめでして、そのせいか、後半の魔女との対決はそれほどには盛り上がりませんでしたが、それはこの映画に求めるものではないのかもしれません。

登場人物それぞれのキャラの描き込みも十分とは言えず、魔女がなぜそんなことをするのかがよくわからなかったのは、残念でした。ヒロインのリアクションで見せるキャラなので、全体の物語を引っ張る要というか意思がないのが弱点と言えましょう。でも、それらを差し引いても、この映像の不思議な世界は一見の価値があると思います。

この手の暗め系ファンタジーの音楽というと、「バットマン」「シザーハンズ」のダニー・エルフマンが有名なのですが、今回はフランスのブリュノ・クーレが担当していまして、コーラスを多様しながらも、より繊細な音作りになっています。特にヒロインを描写するテーマがチャーミングで、エモーショナルな部分よりファンタジックな味わいを前面に出したのが、この映画に見事にマッチしていたように思います。

日本語吹替版で観たのですが、タイトルで、ダコタ・ファニング、テリ・ハッチャーの名前を見ると字幕版も観たくなります。吹替は、戸田恵子、浪川大輔、小宮和枝などベテラン陣が安定したうまさを聴かせてくれるのですが、主人公の榮倉奈々は堅い感じで他と浮いてしまっていたのが残念でした。頑張っているのですが、キャラの演技に助けられて何とか乗り切ったという感じでしょうか。アニメ声の演技ではおかしいし、自然にやりすぎると、他のキャラとのバランスが悪くなるという難しい役どころだったとは思います。一方で、ベテラン勢と横並びの演技だった(いい意味で目立たなかった)劇団ひとりが光りました。

3D映画としては、飛び出し効果をたくさん使っていまして、実際の人形によるアニメだからかもしれませんが、キャラの質感も3Dとしてリアルでした。「アバター」ほど目が疲れなかったのもよかったです。でも、この映画の世界観を堪能するのに、3Dは必須ではないです。2000円も払わなきゃならない(普段は、チネチッタでは、NOVAカード割引で1500円で観てます)必然性はなかったような。

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einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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