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「月に囚われた男」はSF小品として満足度高いです

今回は新作の「月に囚われた男」を恵比寿ガーデンシネマ1で観てきました。劇場前にすごい行列ができていたので、こんな映画に行列なんて、前日にテレビで誰かがベタ誉めしたのかと思ったら、「ちょんまげぷりん」という映画の前売り券を買うための人がほとんどでした。へえー、人気ものなのね、ちょんまげぷりん。

地球の資源不足の時代は一段落つきつつありました。新エネルギー源のヘリウム3が月で採掘されるようになったからです。その採掘を行っているのは、民間会社のルナコーポレーション。月面基地にはたった一人の人間が常駐して、採掘機の管理から、地球への送付までを行っていました。3年契約でもう少しでお勤め終了のサム(サム・ロックウェル)は地球との通信状態が悪くて家族と直接話せない不満はありましたが、地球へ帰って妻と娘に会うことを楽しみにしていました。しかし、月面探査車の操作中、事故に遭ってしまいます。目が覚めてみればベッドの上、お世話係のロボット、ガーディが彼の手当をしてくれたようです。でも、気付いてみれば、ガーディは会社の連中と直接話をしているようですし、何だかサムを閉じ込めようとしているみたいで、何かおかしい。そこで、何とか月面に出て、自分が事故を起こした場所に行ってみると、確かにそこには事故を起こした探査車がありました。そして、その中に宇宙服を着た誰かが倒れているのを発見しました。月面には自分ひとりの筈なのに。

デヴィッド・ボウイの息子であるダンカン・ジョーンズの監督デビュー作です。彼のオリジナルストーリー(脚色ネイサン・バーカー)によるSF映画の一品でして、舞台は月面と基地だけ、ほとんどサム・ロックウェルの一人芝居という、いわゆる小品という部類に入るものでしょう。SFですから、それなりに視覚効果(シネサイトが中心)もあるのですが、ミニチュア・セット主体の特撮がどこかレトロな味わいがあり、扱っている題材にも絞り込んだ面白さがありまして、SF映画の佳品に仕上がっています。

冒頭で、地球のエネルギー資源不足の辛い時代を乗り越えて、新エネルギー源ヘリウム3による新しい時代が来たという、ルナコーポレーションの宣伝ビデオが流れます。ここでは、1970年代のペシミスティックなSFに次の段階が来たんだなと思わせるおかしさがありました。それは、あくまで物語の背景でしかないのですが、その結果が月面での孤独な作業に従事するサムの姿になっているのを見ると、その昔のペシミスティックSFの傑作(は、誉めすぎか?)「サイレント・ランニング」を思い出しました。ロボットが相棒というのも似たような設定ですし。(「サイレント・ランニング」は、汚染した地球から、植物を宇宙船の中で育て、保存しようという、「緑のノアの方舟」のお話) 今回のロボット、ガーディは病院の検査機器にマジックハンドがついた感じで、目の高さのディスプレイに、ピースマークのような絵が出て、状況に応じて表情を変えます。声をケビン・スペイシー演じていまして、無愛想な中にちょっとだけ人間味を入れていまして、この微妙なキャラが後半で生きてきます。

通信状態が悪いもので、直接地球と会話ができないってのはおかしな話です。会社もそれを直してくれないから、妻と娘の姿は、木星経由の一方的な画像だけでしか見ることができません。さらに、サムは最近、妙な幻覚を見るようになってました。本人は、それを隠しているのですが、どうも何かがおかしいって予感がしてきます。ある日、採掘機へ向かう途中で事故を起こしてしまうのですが、気がつけば、基地のベッドの上、どの位眠っていたのかもわからない、事故のせいで採掘機が一台壊れちゃったようなんですが、ガーディは修理にも行かせてくれないし、通常作業に復帰させてもくれません。この後、サムは自分でホースを切って、システムトラブルを起こさせ、外を調べに行くと称して、事故現場へと向かいます。事故のあった月面探査車にたどりつけば、中に誰かいる。運び出して、基地に連れ帰ってみれば、それはサムそっくり、というか、もう一人のサムだったのです。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



そして、二人のサムがどっか居心地悪そうに共同生活することになっちゃうのですが、後から見つけられたサムの方が、どうやら映画の最初から登場していたサムらしいのです。じゃあ、ガーディに助けられてベッドで目を覚ましたサムは誰なの?ってことになるのですが、これがどうやらサムのクローンらしいのです。見た目は一緒、記憶も一緒、でも性格的には若干違う感じの二人は、この状況を理解しつつ、でも、二人一緒にいるのは、何かの手違いではないのかと思うようになります。そもそも、クローンのサムを目覚めさせたのが、ガーディであるなら、それは会社の意向ということになります。確かに実際の人間を月に送るよりは、クローンを入れ替えていく方が効率もいいですもの。元からいたのサムは、過去のデータを検索し、そこに、サムが何度も地球へ送られるカプセルに入る映像を発見します。映画の冒頭に出てきたサムもオリジナルではなく、何代目かのクローンだったのです。一方、これまで冷たかった地球から、採掘機の修理及びサムの救助のために人を送ったという連絡が来ます。

サムが二人いる、というところでジョーンズはスリラーっぽい演出をしませんでした。ミステリーとして引っ張ることもせず、自然にカラクリが見えてくるという展開は、節度を感じさせるものでした。また、クローン同士で、お互いの境遇に怒りや呪いの言葉を吐くシーンもありません。ドラマの重心が明らかにSF部分にあるからでしょうか、他のことは切り捨てた演出が、映画を純粋なSF映画に仕上げています。

そして、二人のサムは、床下にいくつものクローンが眠っているのを発見します。また、地球と通信できないのは人為的な理由だと判断し、月面探査車を走らせると、月面に電波妨害用のアンテナを発見します。そのアンテナの向こう側から、ハンディターミナルで地球に電話をかける元からいたサム、しかし、幼い筈の娘は大きくなっていて、妻も亡くなっていることを知ります。もう、自分が帰るべき時間も場所もなくなっていたのです。でも、このまま、救助隊と称する会社の連中がやってきて、二人が一緒にいるところを発見されたら、二人とも命はないであろうことは予想がついていました。元のサムを地球への送付貨物用カプセルに隠れて脱出することにします。後は、事故のあった探査車に別のクローンの死体を入れておけばしばらくはバレないだろうと。

しかし、元からいたサムの体調が悪くなってきます。喀血するし、歯は抜けるし、どうやら、クローンの寿命はかなり短いようなのです。だからこそ、クローンを目覚めさせたときに、3年間契約ということにして、3年毎にクローンの入れ替えをしてきたようなのです。今回、元のサムはその期間を過ぎてしまったために、急激に体にガタが来ていました。自分の命が尽きようとしていることを知った元のサムは、今のサムに、代わりに貨物用カプセルに乗り込めと言います。そして、自分を元の事故車に戻して、新しいクローンに今のサムを演じさせることにします。救助隊がやってくるギリギリの時間で、今のサムは地球への脱出に成功します。その後、ルナコーポレーションがクローンによる告発を受けて株価が大暴落したという字幕が出てエンドクレジット。

クライマックスはなかなか盛り上がりまして、お互いを地球へ帰そうとする二人のサムの葛藤ですとか、サムを守ることを優先して、結果的に会社を裏切ることになるガーディの行動など、ドラマとしても面白い展開でした。ラストはどっかで観たような気がしたのですが、雰囲気が「ガタカ」に似てるんですよね。ちょっとだけ一矢報いる後味も通じるところがありました。クローンというキーワード一つでミステリー部分は全て説明がついてしまうのですが、直接説明するところはほとんどなく、展開だけで物語を伝えるあたりは、大人な味わいだなって気がしたのですが、そう言えば、最近の映画がわかりやす過ぎるんだなあってところに気がついてしまいました。

SFとしては、リアリティよりも、クローン同士の顔合わせを寓話的に描いたように思えました。お互いに自分と同じだから、何となくわかるような感じを淡々と見せていくという感じでしょうか。よく考えるとツッコミどころも出てくるのですが、全体を流れる静かな不思議感で見せ切っている演出は評価できると思います。辻褄が合わないところも力技で押し切るのではなく、語りすぎないというやり方で全体をうまくぼかしているという見せ方なのです。でも、その不思議感が結構はまるようにうまく作っているので、SF映画としての満足度は高いです。原題は「MOON」とシンプルですが、邦題も映画のツボを押さえていて、なかなかうまいと思います。

キャラ的にも同じ人間二人(とは言え、片方はどんどん劣化していくのですが)を演じたサム・ロックウェルが頑張っていました。また、クリント・マンセルの音楽が、浮世離れした空間を的確に描写していまして、これまた、「ガタカ」のマイケル・ナイマンの音にちょっと似てるのかなとも思ってしまいました。

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「ハートロッカー」はアンビエントな音ですがよく計算されてます


オスカー取っちゃったのはどーなの?と思いつつも映画として面白かった「ハートロッカー」の音楽は、マルコ・ベルトラミとバック・サンダースが共同で担当しました。ベルトラミは、「ミミック」「ターミネーター3」など、ホラー、SFでの実績が多い人ですが、ドラマを支える地味ながら手堅い音作りをする人です。バック・サンダースはベルトラミの下での仕事を多くしてきた人で単独では「ディセント」などの作品があります。

今回はイラクを舞台にしたリアルな戦争ものという映画の作りですが、音楽の方は、いわゆるシンセ中心の音で雰囲気描写をしつつ、そこにギターやチェロ、人の声といったリアルな音を交えてアクセントをつけているという感じです。明確なメロディでドラマを彩ることはしておらず、効果音のような扱いで、緊張感を高めたり、異国感を出すことが中心です。一応、主人公のテーマはありますが、これも盛り上がる音にはなっていません。泣きのメロとは紙一重の不思議なテーマは、微かにヒロイックな感じもあり、どことなく孤独なイメージもあるという複雑な音になっています。

和音の積み上げ方に中近東っぽい音作りをしていますが、全体的には、アンビエント風の音にまとまっており、戦場の不安を音楽で表現しているとも言えます。とはいえ、そこは、実力者のベルトラミだけに、安物のホラー映画のような単なる「ドヨーン、ビヨーン、ドッカーン」の音になっていません。音楽としての厚みはあり、そこにエモーショナルな味わいも盛り込まれています。無機的だけど、人間的な味わいもあるという微妙なところをうまくすくい上げて音としてまとめています。

ノイズのような音楽は、ドラマを盛り上げるような効果は考えておらず、時間の流れを描写したり、時間が止まったかような空間を描写するのに力を発揮しています。音楽だけ聴くとドラマというよりはドキュメンタリー映画のサントラのような気がしてします。また、とてもアメリカ映画の音楽とは思えないような音になっていまして、これらのことは狙ってやっていると思われ、全体として、通常のアメリカ映画のパターンからはずそうという意図が感じられます。

これが、アカデミー作曲賞の候補に挙がっちゃうというのは、不思議な気がしますが、こういう音楽にもスポットライトが当たるようになったと考えると、それはそれで意義があることのように思います。これまでに、アカデミー作曲賞をアンビエント系の音はとっていませんから、この先、こういう音が受賞の対象になるのもまた一興ではないかしら。

「絞殺魔」は地味な捜査もののようで、凝った映像と、意外な構成が見事。


先日、DVDで「絞殺魔」を観ました。これ、以前にテレビで観てものすごく気になっていた映画なんですが、ノーカット、シネスコ版の画面でようやっと観ることができました。1968年の映画ですが、現実に1962年から1964年までに起こった現実の連続殺人事件を題材にしています。

1962年ボストンにて一人暮らしの老女が絞殺されるという事件が発生しました。警察は捜査を開始しますが、同様の犯行が次々に発生し、捜査陣は、町中の変質者や同性愛者など、怪しい奴を片っぱしからしょっ引くのですが、犯人は特定されません。州知事は検事総長補佐のボトムリー(ヘンリー・フォンダ)を指名して、特別捜査本部を立ち上げます。被害者は若い女性にも及び、その犯行はとどまるところを知りません。そして、ついに犯人と思われる男が別件で逮捕されます。その男アルバート・ディサルボ(トニー・カーティス)が犯人であることは間違いないと思われますが、物的証拠に欠けていました。さらに、彼を起訴するには問題があったのです。

連続殺人事件を扱ったドラマであり、犯行シーンも登場するものの、普通の犯罪ドラマと思っていると大きく期待は裏切られ、でも、その見応えは認めざるを得ないという一品です。コメディからSF、ファンタジーにオカルトものまで、何でも手がける職人としれ知られるリチャード・フライシャーが監督しました。ただ、この人、職人と言ってしまうには、「海底二万哩」「トラトラトラ」「ミクロの決死圏」「ラストラン」など侮りがたいフィルモグラフィを持っています。

この作品は実録モノとしても異色の構成を取っています。これは、ジェロルド・フランクの原作によるものなのか、脚本のエドワード・アンハルトによるものなのかは不明なのですが、映画の前半は、犯人の顔を見せない犯行の様子と、捜査陣の動きが並行して描かれます。連続殺人とわかってから、警察は怪しいと思しき人間を片っぱしから尋問していきます。とはいえ、1969年の実録モノですから、西部警察みたいなムチャはしませんし、尋問される方もチンピラじゃなくて普通の一般市民だというところがリアルな展開となります。娼婦を買って、その首を絞めるのが趣味の男、或いはゲイだからという理由で元カノに密告された男などが登場します。捜査側はしらみつぶしに当たっていくのですが、犯人の手がかりすら得ることができません。テレビでは、一人暮らしの女性には注意を呼びかけ、特に老女が狙われていることで、該当する女性たちが疑心暗鬼にとらわれる状況が描かれます。ドアを開けたり、呼び鈴に答えることに対して恐怖心を覚える女性が続出します。

ボトムリーが特別捜査本部を立ち上げてからも、捜査に進展は見られないのですが、ここで面白いエピソードが2つ登場します。一つは、大佐であると偽って、半年で500人の女性をナンパしていた男が婦人警官の囮捜査に引っかかるというもの。世間がこれだけ連続殺人に騒いでいるのに、ワケのわからん男を部屋に呼び入れてしまう女性が何でこんなにいるんだと刑事たちが驚くシーンが面白いです。連続殺人事件は怖いけど、まさか自分の身に振りかかるとは思っていないという世間の様子が伺えます。また、もう一つ、捜査の行き詰まりから、わらをも掴む思いで、ボトムリーが霊能力者ピーター・フルコスに霊視を依頼するところです。この映画では、フルコスをペテン師という扱いではなく、それなりの能力者であるとする一方で、犯人への手がかりはつかめないという見せ方をしていますが、実際の捜査にこういう人のご託宣を仰ぐあたりは、さすがアメリカだなあと感心。

このあたりまで、淡々とエピソードを積み重ねているようでいて、実は見せ方がなかなかに凝っているのが、他の映画と違うところです。犯行シーンや世間の動向を見せるシーンなどで、画面分割によって、一画面に複数の絵を見せたり、同じ場面を別アングルから同時に見せるといった視覚的な仕掛けがしてあるのです。トラベリングマットを使った凝った合成も見せており、特殊撮影効果として、L・B・アボットやアート・クルンクシャンクといって有名どころがクレジットされています。犯人の回想シーンで、合成によるイメージシーンが登場するのも斬新でして、特にクライマックスでは大きな効果を上げています。

メインタイトルでトップに出るのは、トニー・カーティスなのですが、2時間弱の映画の前半1時間で彼は一切画面に登場しません。捜査が完全に手詰まりになったころ、ある家のテレビでジョン・F・ケネディの国葬が放送されていて、それを観ている中年の男が登場します。これがトニー・カーティス扮するアルバート・ディサルボでして、彼には妻とかわいい娘がいます。彼が家を出ていってから、ちょいと寄り道のように、女性の部屋に行って、簡単に部屋に入り込み、犯行に及ぶという展開になるのがなかなかショッキングです。



この先は結末に触れますのでご注意下さい。(別に意外な展開はないですが、知りたくない方はパスして下さい。)



さらに犯行を重ねようとするディサルボはあるアパートの管理人の女性の部屋に入り込み、彼女をベッドに縛り付けるのですが、抵抗されて逃走。さらに、別の女性を尾行して、部屋に入り込もうとしたところ、そこには男性もいて、追いかけられて、通りがかった警察に不法侵入で逮捕されます。しかし、どうも言うことがおかしいので、病院送致の処置となり、その病院で偶然、ボトムリーとエレベーターが一緒になり、手の傷が未遂に終わった事件と一致したことで、彼の周辺に捜査の手が伸びます。彼の手の傷は抵抗された女性に噛まれたものらしいことがわかり、ボイラー工である彼の勤務表から、犯行時刻と場所が符合することも確認できました。しかし、未遂に終わった女性は、ディサルボの顔を特定できず、さらに彼には二重人格の兆候があったのです。

普段のディサルボとは違う人格が現れて殺人を犯している、そして、その時の記憶はディサルボにはないというのです。それに、彼を犯人と特定する証拠はなく、状況証拠だけなのです。そこで、ボトムリーは、彼の抑圧された記憶を呼び起こすための尋問を行おうとします。弁護士は反対しますが、その尋問内容を裁判での証拠に使わないことを条件に尋問は開始されます。ボトムズは、彼を裁くことよりもこの一件に早く片をつけて、市民を安心させたい気持ちがありました。医師はディサルボの人格が崩壊することを危惧しますが、それでも尋問は開始されます。

ディサルボ自身も自分が普通じゃないことに気付いていて、それを恐れてもいました。時として何か恐ろしい記憶が彼の頭をよぎっていました。ある日、彼の妻と娘が面会にやってきたとき、彼のもう一人の人格が一瞬表に出てきて、思わず妻の首を絞めてしまうディザルボ。我に返ったディザルボに、ボトムリーはここぞとばかり尋問を開始します、ケネディの国葬の日のことを思い出せと。そして、彼の抑圧された記憶が甦ってきます。車を停めて、浴室の修理に来たと女性の部屋に入り込み、女性を押さえ込んで首を絞めるところまでを再現するディサルボ。彼が女性の首を絞めているアップ。そこで呆然と立ち尽くすディザルボに、字幕がかぶさります。「この映画はここで終わるが、ディザルボは殺人で起訴されず、精神的異常者を事前に治癒する手段はまだない。」と、そして無音のままキャストのクレジットが出ておしまい。

多重人格による犯罪が法的にも、社会的にも手の打ちようがない状況を示して映画は終わります。下手に「だから、こう思う」という部分がないだけに、重みがあり、一方エンターテイメントとしても十分に面白い作品に仕上がっています。クライマックスの尋問シーンは、フォンダとカーティスの演技合戦としても見応えあり、自分のした事を恐れながらも知りたいと思うカーティスと、あえて冷酷になって事実に直面させようとするフォンダの、緊張感のあるやり取りが見事でした。前半のリアルな捜査ものから、こういう緊張感のサスペンスへ展開するとは思いませんでしたもの。そういう意味では、映画の前半と後半は別物みたいなんですが、それでも面白いですし、展開に淀みはありません。

ハリウッド映画の強みの中に、メッセージ性と娯楽性を両立できるというところがあります。最近はそういう映画は少なくなりましたけど、この映画を観て、そっかー、こういうのがハリウッドの底力なんだよなあって再認識しました。尋問の前にボトムリーが妻に、人の心を掘り返す作業に愚痴をこぼすシーンが印象的でして、まだ、人間の心理の奥底に踏み込むことには躊躇する時代だったんだなってことが伺えます。とにかく、最近の映画では観られない面白さ、そして怖さに溢れていますので、機会があれば一見をオススメします。

メインタイトルで音楽がライオネル・ニューマンが1枚看板でクレジットされているのですが、劇伴音楽は一切なく、テレビのニュースのバックに流れる軍楽隊の音くらいしかないのが気になりました。音楽監督として指名されて、最終的に音楽を入れない演出をしたことで、クレジットされているのかなって。

アルバート・ウィットロックが気になる

先日、記事にした「センチネル」で気になったことを書きます。この映画、ユニバーサル映画なんですが、1970年代から80年代にかけてのユニバーサル映画では、特殊視覚効果(Special Visual Effects)としてアルバート・ウィットロック(Albert Whitlock)という人が必ずクレジットされているのです。実際にもこの人はマットアートでは有名な人でして、アルフレッド・ヒチコックの映画でも何度もクレジットされていますし、特殊効果課長(部長だったかな)だったということもあったのですが、とにかく、色々な映画で、一枚看板でクレジットされていまして、中には実際何やってんだろうなあって思う映画もあります。有名どころというと下記の映画があります。

「大地震」
地震の後の街のマットアートに煙や人間を組み合わせる合成カット多し。

「ヒンデンブルグ」
ミニチュアによる飛行船とバックの北極海、マット画による町並みとの合成などの仕事が彼によるものと思われます。ただし並記されている、特殊撮影効果のクリフォード・スタインとの分担は不明。

「マッカーサー」
前半の上陸作戦における、戦艦のマット合成。

「007 ダイヤモンドは永遠に」
クライマックスの人工衛星からのビーム放射のシーンが担当と思われ。

「ザ・カー」
クライマックスの悪霊のついた車の爆発炎上シーンのカット。

「グレイストーク -類人猿の王者- ターザンの伝説」
ターザンの両親が難破して、島に流れ着いた時の難破船との合成カットと、ラストの光溢れる森のカットが印象的。

「エクソシスト2」
ヴァン・ダー・ビーアスタジオと2枚看板なので分担が不明なのですが、イナゴの群れとかアフリカのシーンのミニチュアの岩場やマット画が、視覚効果によるものと思われます。


一方で、どこを担当しているのかよくわからない、あっても数カット、特に見せ場でもないシーンが多いものもあります。

「遊星からの物体X」
中盤の宇宙船を発見するシーンのマット合成2カットのみ。(印象的なオープニングはピーター・クランによるもの)

「パニック・イン・スタジアム」
前半で、ジャック・クラグマンがヤクザに脅されてビルの外に吊り下げられるシーン(スクリーンプロセスか?)のみ。他に視覚効果があるカットは見つけられず。

「キャット・ピープル」
動物園の外観を描いたマット画が3回ほど登場。

「センチネル」
中盤、ヒロインの恋人が訪れる大学の外観のマット画、1カットのみ。

「ブルース・ブラザース」
ラストでヘンリー・ギブソンの乗る車が宙に浮くシーン。(スクリーンプロセスか、ばればれ。)この他に、前半、ジョン・ベルーシに神託が降りるカットもひょっとして彼によるものか。

上記の映画では、彼はメインタイトルで一枚看板で出てくるのですが、その割には担当部分が少ないんではないかなって気がするのです。この他にも「メル・ブルックスの新サイコ(出演も)」「エクソシスト2」「砂の惑星」にも参加しています。

メインタイトルでの登場が多いので名前を覚えてしまったのですが、他の視覚効果マンと違って、あまり該当カットがないじゃんというので、逆に印象に残ってしまいました。いわゆる「スター・ウォーズ」以前の視覚効果マンとして、L・B・アボット、A・D・フラワーズなどと同様に有名な人だと思っているのですが、名前がでんと出る割に仕事が地味じゃんということですごく気になっています。もともと、マットペインターだった方だそうです。最後に映画館で名前を観たのは、シェリル・ラッド主演のB級SF「ミレニアム/1000年記」でのマット・アーティストとしてでした。(この映画、日本の宣伝では、SFXアルバート・ウィットロックという謳い文句でした。でも視覚効果は別の人が担当。)

「タワーリング・インフェルノ」の日本版プログラムにも視覚効果として名前があったのですが、アメリカのデータベース(IMDB)ではヒットしませんでした。やっぱり気になる人です。

「噂のモーガン夫妻」は定番ラブコメだけど何か物足らなくて

今回は新作の「噂のモーガン夫妻」を銀座有楽座で観て来ました。日曜の初回に行ったのですが、お客さんは数えるほどで、日本ではコメディは難しいんだなあって改めて認識。私はこういう映画を映画館で観たいクチなんですが、こういう映画がDVDスルーになってほしくないって思います。

今、別居中の夫婦ポール(ヒュー・グラント)とメリル(サラ・ジェシカ・パーカー)。ポールは弁護士でメリルは不動産会社の社長、どっちもセレブっぽい。ポールの浮気が原因で別居中なんですが、ポールとしては復縁した気満々。そんなある日、久しぶりに二人で食事した帰り道、何と殺人事件を目撃して、犯人と目が合っちゃいます。組織間の抗争による殺し屋の犯行だっただけに、FBIは二人に証人保護プログラムを適用し、二人を一時的に田舎にかくまうことになります。二人一緒ってところにブーイングのメリルだったのですが、とりあえずの仮の宿、一週間して安全が確保できなければ、別の場所にバラバラに移送ということで渋々納得。二人は、ワイオミング州のレイという小さな町の保安官夫婦(サム・エリオット、メアリー・スティーンバージェン)の家に住むことになります。家の前までクマがやってくるような環境で、慣れない田舎暮らしをする二人ですが、まあ定番というか、いい感じに関係が修復していきます。ですが、殺し屋は二人をあきらめておらず、メリルの秘書に盗聴器を仕掛けたりしています。果たして、この映画の結末は?.... ハッピーエンドです!

私が映画館で観た最も古いハリウッド製ラブコメというと「或る夜の出来事」になるのですが、それ以降、リアルタイムで観たラブコメの最初というと「恋人たちの予感」になると思います。「恋人たちの予感」がヒットしたことから、コンスタントにハリウッド製ラブコメが日本でも劇場公開されるようになったような思います。大恋愛ものとは違うし、ベタなお笑いにも走らない、ライトな味わいのラブコメがたくさん作られ、メグ・ライアン、ジュリア・ロバーツ、サンドラ・ブロック、ドリュー・バリモアなどの女優さんがこのジャンルで有名になりました。恋愛映画がほぼこのジャンルに固定されてしまい、大恋愛ドラマにお目にかかれなくなったのも事実でして、この生活感から離れたライトな恋愛感覚が、日本のドラマにも大きな影響を与えていると言えます。

この映画もその延長にある一本と言えまして、ラブコメの佳品「トゥー・ウィーク・ノーティス」「ラブソングができるまで」を監督したマーク・ローレンスがメガホンを取りました。前二作では、シチュエーションの面白さに、意外と細やかな恋愛模様を交えて、楽しい映画に仕上げることに成功していましたが、今回は、シチュエーションの面白さ以上のものを恋愛ドラマに盛り込めなかったようで、ここで「映画の奇蹟」「愛の奇蹟」を見せて欲しいわってところで、グダグダになっちゃうのが残念。

映画の前半は、レイという田舎町にやってきたニューヨーカー二人がカルチャーギャップにあたふたするところのおかしさがあります。でも、そのギャップで笑いを取るほうには走らないです。品の良さを感じつつも何だか物足りない感じ。主人公二人の仲直りの過程もなんとなくっなるようになるという展開。ローレンスの演出はテンポよくエピソードをさばいていくのですが、前半のカルチャーギャップには視点の面白さを感じたものの、全体を毒のないさらりとした味わい(悪く言うとヌルい)に仕上げました。今回は過去のヒュー・グラントと、「SEX AND CITY」のサラ・ジェシカ・パーカーのキャラに頼りすぎたのか、シチュエーションの面白さを使いきれなかったという印象です。もっと、田舎と都会の両方を笑いものにしちゃう鋭さのようなものが欲しかったですが、シニカルな笑いは苦手なようです。

展開としましては、田舎暮らしのギャップにも慣れてきて、二人の仲もよくなってきたけど、そこへ殺し屋が現れて命を狙われるけど、周囲の人々のおかげで命拾い。それまで子供が欲しかった妻と親になる自信がなかった夫の葛藤があったけど、エピローグでは、養子をもらって、さらにメリルもホントにご懐妊となってハッピーエンド。こう書くとすごく他愛ない話みたいですけど、そんな感じなんです。主演の二人は達者ですし、それなりに楽しめますから、面白い映画なんですけどね。役者も、ごひいきメアリー・スティーンバージェンは相変わらず魅力的でうまいですし、お久しぶりのウィルフォード・ブリムリーとのご対面もあり、若手のエリザベス・モスのおかしさも発見できましたから、それなりの満足度もあります。

ラブコメの場合、ある程度俳優の従来キャラに頼るってところはあります。メグ・ライアンとかはある程度キャラが固定してましたし(「恋におぼれて」は別格)、この作品のヒュー・グラントもまた然り。一々設定を説明する手間を省けて、すぐにドラマの本筋に入れるから便利なんですが、そこに一工夫ないと既視感ありありで面白みが半減しちゃいます。この映画も残念ながら、そんな感じなんです。「ラブソングができるまで」では、冒頭で主人公のMTVを見せて、設定をうまく説明していたのですが、今回はキャラ紹介に時間を割けなかったようです。その場合、物語の展開に伴って、性格や感情が変化していくのが、うまく伝えきれなくなります。今回はその結果、ラブコメといった場合のラブの展開の部分が、この映画では弱くなってしまって、主役二人の関係のドラマが曖昧になってしまいました。まあ、この映画はもともとシチュエーションコメディであって、ラブの部分はあってなきが如しということもできるんですが、そこに説得力がない分、養子&ご懐妊のエピローグが暴走しちゃってるような印象を受けてしまったのもまた事実です。もっと「田舎にとまろう」部分で笑いの点数を稼いでおけばよかったのかな。いわゆる「ボーイ・ミーツ・ガール」のパターンではないだけに、もう少しドラマ部分の肉付けが欲しかったように思いました。

「センチネル」は30年以上前の映画だけど、今観ても面白い。


学生の頃、静岡東映パラスで「ザ・カー」との2本立てで観たのが、この「センチネル」です。「ザ・カー」がメインで、こちらは併映だったのですが、ずいぶんと怖くて面白かった記憶があります。その後、この映画が結構伝説化しているのを雑誌などで読み、今回DVDが発売されたのでゲットしちゃいました。

ニューヨークでモデルをやっているアリソン(クリスティナ・レインズ)は、恋人の弁護士マイケル(クリス・サランドン)とアツアツです。でも、ちょっと距離感を欲しいなと思った彼女は1人でアパートを借りることにします。古風な作りのアパートで最上階には盲目の神父がいつも座って外を見ているというところ、でもロケーションもいいし、部屋も素敵。しかし、彼女の父親が亡くなり、ちょっと精神が不安定になります。というのも過去に彼女は父親の痴態を目撃して自殺を図ったことがあったのです。一方で、彼女の周辺をキリストの指輪をつけた謎の神父が動き回っています。アパートに帰れば、別の部屋のチェイズン(バージェス・メレディス)は人懐っこくて、アパートの住人を集めたパーティに誘ってくれ、彼女の気を紛らわせてくれます。しかし、アパートを斡旋したローガン(エヴァ・ガードナー)は神父以外の住人はいないと言います。ある夜、アパートの物音に目を覚ましたアリソンはその音をたどっていくと、そこに人影を発見、明かりを向けてみれば、それは何と死んだ父親の腐乱した姿でした。思わずナイフで切り付けて外に飛び出すアリソン。警察沙汰になってしまって彼女を気遣うマイケルはアパートや神父についての調査を始めます。しかし、既にアリソンには恐ろしい魔の手が伸びつつあったのです。

1977年の劇場公開ですから、もう30年以上も前の映画になります。公開当時はパニック映画並みの豪華キャストという触れ込みでした。主役の二人は当時も若手でしたけど、その脇にエヴァ・ガードナー、マーティン・バルサム、アーサー・ケネディ、ホセ・フェラー、デボラ・ラフィン、バージェス・メレディス、イーライ・ウォラック、ジョン・キャラダインといった面々を揃えていまして、さらに当時無名のクリストファー・ウォーケン、ジェフ・ゴールドブラム、トム・ベレンジャー、ビバリー・ダンジェロといった皆様も顔を見せています。クリスティナ・レインズとデボラ・ラフィンは本当にキレイで、特にヒロインを演じたレインズは下着姿で恐怖におののくシーンがスレンダーながらなかなかにセクシーでした。後半、ずっと顔色悪い状態になっちゃうのですが、それでもきれいなヒロインぶりで、ラストの落差がなかなかショッキングでした。

ジェフリー・コンヴィッツの原作を、英国のマイケル・ウィナーが脚本化し、監督もしました。でも、この映画が変な意味で有名になっちゃったのは、クライマックスでいわゆる身体障害者を悪魔として登場させたこと。一応、不快な気分になったら即帰ってもいいという契約書を交わしての出演だったそうですが、その昔のカルト映画「怪物団(フリークス)」の現代版という意味で有名になってしまったってことがあります。また、「エクソシスト」のディック・スミスによる特殊メイクがまたすごい見せ場を作っていまして、クリス・サランドンの顔にヒビが入るシーンは今見てもよくできてると思います。

マイケル・ウィナーの演出はドアを効果的に使って独特の雰囲気を出しており、込み入ったストーリーを92分という長さにまとめて、謎解きのミステリー的面白さもあり、恐怖演出も上々でした。「アンドロメダ」のジル・メレがオーケストラによる重厚な音楽をつけていまして、オーソドックスな恐怖音楽なのですが、ジャズ畑の人というだけあって、ウィナー監督とよく組んだジェリー・フィールディングの音と通じるものがありました。サントラ盤が出て欲しい音になっています。また、ニューヨークの中の閑静な場所のツタに覆われたアパートというロケーションもよく、その内装の美術も重厚で70年代の映画としてはかなり頑張っているという印象でした。

しかし、この映画の面白さはそういう見た目よりもストーリーの方にあります。それは、このヒロインが神にも悪魔にも目をつけられちゃったというところです。




この先は結末に触れますのでご注意ください。




冒頭で、イタリアのカソリック教会が登場し、そこでアーサー・ケネディ扮する枢機卿が、「危機が迫っています」とおごそかにホセ・フェラーに告げるシーンがあります。これまで、あの世から悪魔がやって来ないように見張り(センチネル)をずっと置いてきたのですが、次の見張り役となるべき人間に悪魔が迫りつつのです。そういう説明があるわけではないのですが、物語の展開から事情が見えてくる構成はうまいです。今の見張り人がハリラン神父でして、その見張り役になるのは自殺未遂の経験者であることが条件だったのです。自殺経験のあるアリソンは、ハリラン神父の後継者として、教会から目をつけられていたというわけです。一方、その見張りがいると面白くないのは悪魔の皆さんでして、チェイソン以下アパートの住人たちは元犯罪者の故人でして、チェイソンは悪魔側の総元締めだったのです。そして、見張り役を継がせないために、アリソンに自殺させようとするのです。こうなっちゃうと神も悪魔もアリソンにとっては迷惑極まりない存在なんですが、双方とも、彼女を自分の陣営に取り込もうと画策するわけです。追い詰められるヒロインは気の毒極まりないのですが、結局、神も悪魔も同じ土俵で、川のこっち側と向こう側にいる違いだけの同業者なんだなあって気付かされるという、なかなか示唆に富んだお話です。カソリックから見れば、反キリストとは言えないまでも、神を悪魔と同じレベルに貶めたということで、神を冒涜していることになるのかもしれません。

物語の方は、マイケルが依頼していた探偵が惨殺死体で発見され、その探偵がロクでもない奴であるとわかってきますと、この恋人も怪しいように思えてきます。この男、結構、裏の世界に通じているようで、前の妻が自殺したことになっているのですが、これも探偵を使って殺させたという結構悪い奴。それでも、アリソンを救おうと頑張るのはマイケルだけでして、このあたりにも善悪の曖昧さがうまく描かれています。特にクライマックスで、アリソンが翌日に見張りにさせられてしまうことを知って、ハリラン神父を問い詰めようとして、逆に枢機卿に殺されてしまうという展開がなかなかすごい。で、死んだマイケルは今度は悪魔側についてしまって、ラストでは、アリソンに自殺を迫る悪魔軍団の一員になってしまうのです。チェイズンを筆頭とする悪魔軍団は、アパートに帰ってきたアリソンの前に現れ、最上階の部屋まで追い詰めていきます。この中に、身体障害者の人と特殊メイクを混在させていて、見るもグロテスクな悪魔軍団を作り出しました。バージェス・メレディスの悪魔演技が絶品でして、小柄な彼が悪魔の筆頭というのが面白い見せ場になっています。

短剣を手にアリソンに自殺を迫るチェイズン、短剣を受け取った彼女は手首に刃を近づけるのですが、その瞬間、「ちょっと待った」の声と共に、枢機卿と十字架を掲げたハリラン神父が入ってきます。悪魔軍団は立ち向かおうとするのですが、十字架の威光にはかなわず、ハリラン神父の十字架がアリソンに手渡されると、悪魔軍団はどこかへ消えていきます。このハリラン神父をジョン・キャラダインがさらに特殊メイクをして演じていて、気色悪いのですよ。神と悪魔も見た目には大差ないところが結構ヤバいかもしれません。悪魔側の描写もディック・スミスの見事な職人芸でかなりグロで、最初に観た時は、とにかく気持ち悪い映画という印象が強く残りました。

そして、古ぼけたアパートは解体され、新しくきれいな建物に生まれ変わります。斡旋屋のローガンは新しいカップルに部屋を案内しています。今度は他の部屋にもきちんと住人がいるみたい。そして、その最上階の部屋には、引退したシスターテレサが住んでると言います。そして、アパートの外観のショットになり、最上階にシスターの姿が見えます。彼女のアップになると、それはアリソンの変わり果てた姿でした。盲目の年老いたような特殊メイクが異様な印象を与えます。外を眺める彼女を背後から捉えたショットにエンドクレジットがかぶさります。おしまい。

見直して、やっぱり面白かったです。これは神のサイドからすれば、見張りの引継ぎが無事に完了したので、ハッピーエンドになります。悪魔からすれば、今回は失敗したが、次回で頑張ろうってところでしょうか。そんな中で、盲目の見張りにさせられたアリソンはとにかくかわいそう。確かに、カソリックでは、自殺は「神の意思に反する重い罪」であるのですが、その原因は父親にあるわけですし、そこまですることはないじゃんと思うのは、私が信者じゃないからでしょうか。見張りが神に祝福される選ばれた人(古代宗教におけるいけにえのような人)であるならまだしも、この映画では罰ゲームみたいな扱いですからね。そういうところはカソリックを悪く描いていると言えないこともありません。

このDVDには、日本でのテレビ放映版も収録されているのですが、その中では、見張りを立てるのはカソリック教会ではなく、教会と対立する別の教団ということになっています。なるほど、カソリックの顔を立てて改変されているのです。まあ、それはそれでありなんでしょうけど、神と悪魔の対立の構造が曖昧になってしまって、唯の怖がらせ映画になっちゃいますから、やはり、オリジナルの設定の方が面白いです。神や悪魔がやってることは、お互いの勢力争いだねってところには妙に説得力がありますし、そこに理性の入り込む必然性があるんだと思うと、この映画、結構いいところ突いてるのかもしれません。

「シャッター・アイランド」は売り方を間違えてる、素直に観れば面白い。

今回は、新作の「シャッター・アイランド」をTOHOシネマズ川崎5で観てきました。本編前に「意外な結末だから言わないでね」という注釈字幕が2種類も出るのがうっとうしい。観る前にハードル上げるのは逆効果でない? もうこの場では、映画観るって決まってんだから、今さら客引きしなくても。

1954年、孤島にある精神病院で女性の入院患者が行方不明になる事件が発生、連邦保安官テディ(レオナルド・ディカプリオ)が捜査のためにやってきます。新しい相棒のチャック(マーク・ラファロ)と共に島に上陸。そこは犯罪者ばかり集めた精神病院でして、二人を迎えた院長のジョン(ベン・キングスレー)はあまり協力的ではありません。職員を集めて質問をする際、アンドリュー・レディスという名前について聞き始めるテディ。どうやら、彼はこの病院について何か知っているみたいです。彼の妻ドロレス(ミシェル・ウィリアムス)は放火のよる火災でなくなっていて、その放火犯がレディスらしいのです。その男とこの精神病院がどう関係しているのか? そして、患者失踪の真相は?

マーティン・スコセッシ監督とレオナルド・ディカプリオが組んだ新作は、スリラー仕立てのミステリーです。絶海の孤島にある精神病院という設定自体に横溝正史的なまがまがしさがいっぱいなんですが、冒頭で保安官二人がフェリーから上陸して有刺鉄線に囲まれた病院にたどりつくまでの重々しい演出がまず見ものです。何かすごくおぞましい場所に来たなあっていう空気がびんびん伝わってくるのですよ。いわゆる結界を越えたって感じ。そんな病院にやってくれば、院長も職員のデータを渡すことも拒否するし、どっかうさんくさい。現場を見れば、どうしたって単独脱走は不可能、内部の手引き者がいたことは間違いなさそうです。脱走した女患者は自分の3人の子供を溺死させて、この病院を自分の住んでいた家だと思い込んでいたそうです。

一方、事件の捜査と並行して、テディの過去が回想や夢のかたちで登場します。第二次大戦時、ナチのダッハウ収容所を解放したときに投降してきた多くのドイツ兵を殺したことが彼のトラウマになっているようなのです。そして、火事で死んだ妻ドロレスの記憶も彼の心を責めてきます。彼の過去がドラマのカギになっているようです。この先は、意外な展開になるのですが、この映画が初めてのネタではないので、「あー、あの映画かも」ってところで、気がつく人はいると思いますが、展開を楽しむ映画なので、結末だけでどうこう言うのもなあって気がします。スコセッシの演出は場面場面をきっちりと押さえていくもので見ごたえがありますが、そのまっとうな演出は、観客をミスリードしたり煙に巻くのには不向きなのかなって気もしちゃいました。とはいえ、私はラストまで結末に気を回すことなく、映画を楽しめました。誰でも結末わかるよって記事は話半分に聞いとくのをオススメします。

演技陣にいいところを揃えていまして、病院の保安係のテッド・レヴィンとかジョン・キャロル・リンチといった面々が雰囲気作りに貢献しています。こういう役にはこういう面々が欠かせないですもの。また、謎の女性陣にパトリシア・クラークソン、エミリー・モーティマーといった渋い実力派を揃えているのもマルです。特に、主人公の部下役を演じたマーク・ラファロが素晴らしいです。この人は、「ゾディアック」「帰らない日々」でも明確でないキャラに奥行きを与える演技が見事でしたけど、この映画でも、どこか怪しいようだけど、主人公サイドの人間のような気もするという多面性のあるキャラを演じきりました。




この先は結末に触れますのでご注意ください。(当然ネタバレあり)




だんだんと映画の結末に近づくに連れて、主人公の幻想が比重を増してきまして、ラスト近くでは、幻想と現実が同じ画面に出てきちゃいます。ああ、これは主人公がイカれてるんだなあってわかってきますから、スコセッシは一気にどんでん返しを狙っていないようです。テディは、この精神病院が人間の脳を操作して、ゾンビ(人間だけど中身を抜かれた廃人ようなもの)化しているのだと思い込んでいます。島にある灯台でロボトミー実験が行われているのだと。妻を殺した放火犯もこの病院に入れられてゾンビ化されたのだ、その犯人を見つけて、この病院を告発してやろうとしていたのです。しかし、現実は、テディこそがその病院の患者でした。院長たちが、彼の攻撃的な病癖を改善させるため、彼自身に病気であることを自覚させる目的で一芝居打ったのです。それは危険な賭けであり、それが失敗したら、彼はロボトミー手術される運命にありました。映画の中で「観客に実際にあった」と思わせたことは全て事実であったというのがこの映画の面白さと言えます。幻想と現実をきちんと切り分けて描いたところは、正直な演出と言えますが、その観客をだまさない分、オチを先読みしやすくしてしまったと言えます。

主人公の妻ドロレスはうつの症状が悪化し、自分の子供、3人を溺死させてしまい、そこへ帰ってきたテディはドロレスを射殺してしまいました。その事実は記憶から消され、抑圧された事実が彼の回想や夢の中で歪な形に投影されていたのです。結局、彼は現実を受け入れられないと判断され、ロボトミー手術を受けることになります。彼の主治医(これが相棒のチャックの正体)と最後に交わす会話で、彼が正気に戻って自分の狂気を悟った上で、ロボトミー手術を受けいている(らしい)ことがわかり、島の灯台がアップになったところで暗転、エンドクレジット。

当時の精神医学では、病気を治療するか、何が何でも症状を押さえこむかで、対立しているという説明があります。それが本当かどうかはともかくも、ロボトミー手術の話はその昔「カッコーの巣の上で」という映画で観ました。人間から人格を奪ってしまう恐ろしい外科手術というイメージがあったのですが、この映画の所長はできる限り、患者を治療させる方向に持って行こうとして色々なセラピーを重ねているのです。でも、主人公は、最後のセラピーにも失敗して、ロボトミー手術を受ける羽目になってしまいます。牢獄のような病院というイメージの一方で、セラピーを重ねる医師、でも最後の選択肢は....と考えると、別の意味でかなり怖いスリラーだと言えそうです。主人公は最後は自分を閉ざされた島にするという選択をするのですが、一度閉ざされた扉は再び開くことはないのです。

ロバート・リチャードソンの撮影が、重厚なロケーションを映像化していて見事ですが、その分、合成やCGによるカットが歴然とわかっちゃうのは視覚効果を使いこなせていないという印象なのです。ドロレスの奥さんが灰になるカットなど妙にファンタジックになってしまい、収容所の生々しい描写との統一感がなくなってしまいました。全部、既成曲による音楽ですが、この映画の雰囲気にベストフィットしてました。サントラ盤買ってチェックしなければ。

キネマ旬報社のノスタルジー本2冊



キネマ旬報社から、「オールタイム・ベスト 映画遺産・映画音楽篇」という本が出ていたので、一応サントラファンである私としてはとりあえずゲットしてしまいました。中学生の頃から、30年以上もずっとキネマ旬報は購読してきたのですが、最近は何だかつまらなくて買ってませんでした。その理由としては、サントラ記事がつまらなくなった(正確にはイラっとくるって感じ)のと、「オールタイム・ベスト」企画が増えたってのがあります。

この本には、映画音楽のベストテンとか、ジャンル別映画音楽ベストテン、映画音楽作曲家のベストテンが並んでいます。映画音楽だと、1位が「男と女」2位「ゴッドファーザー」「第三の男」 4位「ニュー・シネマ・パラダイス」 5位「ウエストサイド物語」などなど。作曲家だと、1位「ニーノ・ロータ」2位「エンニオ・モリコーネ」 3位「ジェリー・ゴールドスミス」 4位「武満徹」 5位「ミッシェル・ルグラン」てな感じです。後は、各個人のベストと寸評がずらりという感じ。

「オールタイム・ベスト」ってのは、やっぱりつまらない(←きっぱり)。まず、選んでる人が同じ土台に上に立っていないので、その順位をつけることで何の意味があるのかしら。また、映画音楽なら、既成曲か、オリジナルスコアか、主題歌か、その使われ方かで、評価がかなり違ってきます。ですから、単にベストを集計しても、そこに何の情報もないように思えます。その一方で、選者の寸評がホントに貧弱。むしろ、サントラファンの私としては、なぜその映画を選んだのかという個人の視点の方に情報量があります。なぜ「秋保温泉」の音楽を入れてる人が複数いるの? なぜ「大魔神」じゃなくて「大魔神逆襲」を選んでいるの?などなど、そういうところに新しい発見があるんですが、そのあたりは説明がないんですよね。選評も大体がボヨヨンとした映画音楽全体の印象しか語っていないものが多くて、なぜその映画なのかってのが聞きたいんだけどと思うのですが、そこをきちんと説明してくれている人はほとんどいません。

その他には、作曲家の紹介記事があるんですが、紙数の制限もあるんでしょうけど、どういう基準で選んでいるのか、どういう読者を対象に書いてるのかしら。でも、映画音楽というものの面白さをみんなに知らせようという意図が感じられないのは残念。きっと編集方針が明確じゃないんだろうなあ。富田勲氏のインタビューは面白かったですが、全体として、情報量が少ないって感じなのでしょうか。それとも、「オールタイム・ベスト」というものへのニーズが高いのを、私が理解できていないのかもしれません。


で、同じく、キネマ旬報社から、同時期に出た「映画館のある風景 昭和30年代盛り場風土記」もゲットしました。こういうブログを書いているからには、昔の映画館の記事をまとめた本は気になります。昭和28年から34年という映画の最盛期、「キネマ旬報」のグラビヤ頁を飾った記事をまとめたもの。これは面白かったです。自分の生まれる前の話なんですが、当時の映画館の写真や、その当時の街の風景、記事が興味深かったです。当時の状況を当時の視点で書いてるから、歴史的な面白さがありますし、当時は、まだスコープサイズのスクリーンが全映画館に装備されてない状況であったこと、立体音響装置が売り物だったこともわかって、なるほどなあ、その時代時代で、映画館は変化しながら、お客を呼び込もうとしてたんだってことがわかります。その工夫や投資に見合う集客ができなくなって、だんだんと斜陽産業になっちゃうわけなんですが、そうなる前の右肩上がりの状況が伺えるのが楽しい読み物でした。昭和の町並みとか昔の映画館とかに、敏感に反応しちゃう私だから楽しめるのかもしれません。

写真で面白いのは、当時の映画館の建物が意外と立派だったり、それなりの建坪があったということ。ビルの一部じゃない一戸建ての映画館がたくさんあって、映画館の前には手描きの看板があったこと。いつの間にか見かけなくなってしまったのですが、まだ80年代にはあったように思います。子供の頃ですと、ゴジラとかガメラのでかい看板をよく見かけました(そういうのしか目に入らない)。後、歩道の上をまたいでかかっている看板とかですね。映画館の近くを通りかかると、やってる映画が目に入ってくるってのも懐かしい風景になっちゃいました。でも、一方、映画館って暗くて怖い場所でもありました。私が学生の頃の、70年代から80年代の映画館は、今のシネコンとは全然イメージが違います。オヤジはタバコ吸ってるし、床は何だか汚らしいし、座席は狭いし、オシャレ感とは無縁な場所でした。でも、キライじゃないんですよ、そういう雰囲気も

「パラノーマル・アクティビティ」は、うまい、安い、怖いの三拍子そろってよくできてる

今回は新作(とは言いつつメイン館での上映は終了している)「パラノーマル・アクティビティ」をフジサワ中央1で観て来ました。音響もドルビーステレオのみの昔ながらの映画館ですが、小奇麗になっていますし、スクリーンサイズもそこそこあり、近所にあったらうれしい映画館。

同棲することになったミカ(ミカ・スロート)とケイティ(ケイティ・ストーン)のカップル。ミカの周囲で超常現象が起こっていると聞いたミカは、ビデオカメラを家に持ち込んで、その記録を残そうとします。彼女には、幼いころから、家で不審な音を何度も聞き、黒い影のような人を見た事があるのだそうです。心霊研究家を家に呼んで話を聞くと、これはどうやら死人の霊じゃなくて、悪魔の仕業じゃないかですって。で、その研究家の専門外なので、別の悪魔研究家を紹介しますって言われちゃいます。一方、夜の寝室に定点カメラを仕掛けておくと、夜中に勝手にドアが動いたり、ミカが夢遊病みたいになったり、変な映像が映っているではありませんか。さらに、真夜中に物を落としたような変な音がして、目を覚まされたり、何だか様子がおかしくなってきます。ミカはウィジャ盤(西洋こっくりさん)を持ち込んで何者かとのコンタクトを取ろうとしますが、目を離した隙に勝手にウィジャ盤が動いて、さらに発火。怪現象の連続に、ケイティはだんだんと追い詰められていきます。ミカは意外と強がって、ケイティと揉めちゃいます。ある夜のビデオには、電気が点いたり消えたりしたり、不気味な影が映っていたりで、そろそろマジやばいんでないの?

1万5000ドルという低予算で作られて、限定公開されたら、すごい怖い映画という評価を受け、どんどん評判が広がって大ヒットになった作品です。冒頭で、この映画は「ある実録映像を編集したものだ」という字幕が出て、エンドクレジットにスタッフ、キャストの名前も出ません。何も知らない人が観たら、ドキュメンタリーと間違えそうな作りになっています。その昔、フェイクドキュメンタリーとして大ヒットした「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」の流れを汲むものですが、単なるフェイクドキュメンタリーでなく、心霊ビデオの怖さと、様々なホラー映画の怖さのエッセンスを取り込んでいて、よくできたホラー映画と言えます。グロな描写は一切ないのですが、はまるとかなり怖い作りになっています。製作・脚本・監督・編集のオーレン・ペリは、この映画のヒットによって、ハリウッドで注目される存在になりましたが、確かに変化球の作りながら、意外とホラー映画の王道を押さえています。

ホラー映画で、私が思い出すのは、学生の頃に観た「ハロウィン」です。何が怖いって、静かになったところで、音でドッカーンと脅かす演出を何回もやるものですから、もうビビリな私は、ずっとビクビクし通しでした。この「パラノーマル・アクティビティ」でも、突然ドドドドドという音響びっくりを何遍もやっていまして、ビビリの私にはその辺がしんどい映画でありました。定点カメラで、画面が動いていないのに、音だけどっかからドッカンってくる演出は、うまいんだろうけど、私は苦手。でも、全編に渡って「何か起こりそう」な空気を維持し続けたのは、見事だと認めざるを得ません。

また、ヒロインがそれほど美人じゃないのも、80年代ホラーの影響が伺えます。ホラー映画の美人は大体、序盤でマッチョな男とエッチして中盤で殺されちゃいます。一方、パッとしない身持ちの堅いタイプが最後まで生き残るのが定番です。この映画のケイティは、マジメそうなタイプで最後まで生き残りそうな予感を感じさせます。一方の、ミカは、いかにも軽いタイプの男、ホラー映画の中では、「やめときゃいいのに」ってことをやって、周囲の登場人物に迷惑かけて、結局殺されちゃう役どころです。この映画は、ほとんどこの二人だけで展開するのですが、ホラー映画の典型キャラづけがちゃんと展開に生きてくるのがうまい映画です。

恐怖シーンは、深夜の寝室の定点撮影時に集中します。そこで不気味な音や人影が映ったりするのですが、これは日本では心霊ビデオでお馴染みのパターンです。日本では、その心霊ビデオに様々な因縁話を肉付けしているのが定番なのですが、この映画では、基本に「怪奇現象を撮影しようとする主人公」という設定があり、その結果として心霊ビデオが出てくるのです。そして、そのビデオ自体が物語を持たないあたりに、日本の心霊ビデオとは一味違う味わいになっています。こういうお話なら、主人公は、恐怖の理由や正体を探ろうとするところなのですが、そっちに話を引っ張らないで、ひたすら不思議で怖いことが起こっているだけの話にしたところに、良くも悪くも、この映画の特徴があります。まあ、その怖いことの中に音で脅かすシーンが多いので、ビビリの私には結構キツかったです。まあ、そういうシーンになると、急にノイズが大きくなって、何か来るぞってのはわかるようにはなっているのですが。

最初はドアを開け閉めするくらいだった、謎の何かは、段々と行動をエスカレートさせていきます。なぜ、エスカレートさせるのかと言うと、それは映画の都合でしかないのですが、一応、撮影したり挑発する発言をしたことで何か相手の気を損ねたらしいってことになっています。でも、それが納得できちゃうあたりに演出のうまさがあると言えましょう。そもそも、実体のわからない相手に人格があって、そいつの気分で何かしでかしてるらしいという展開を無理なく見せちゃうあたりはうまいと思います。何でミカは専門家に相談しないで自分で何とかできると思っているんだろう、なぜこの家から逃げ出さないんだろう、と、突っ込みどころをわざと撒いておいてるみたいなんです。そうして、観客をじらしておいて、恐怖シーンで思い切りビビらせようという構成は、観客をうまく誘導してると言えましょう。特に舞台を家の中だけに限定したのは、観客にも孤立感を与えるのに成功しています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



だんだんとエスカレートする何者かは、真昼間に二人の写真にヒビを入れたり、ケイティの髪に息を吹きかけたり。さらには夜中にベッドの中に入ってきたり、ついには、ケイティをベッドから引きずり出したりとやりたい放題。心霊研究家の先生をもう一度呼んだものの「これは私の手に負えない」ってすぐに帰っちゃう。悪魔研究家の先生は海外行ってるとかでつかまらない。日本だったら、神社へお払いに行こうとかするんでしょうけど、ミカとケイティはなかなか外へ出ようとしません。教会にすがることもしないのが意外だったのですが、ケイティが握り締めたいた十字架をミカが暖炉の中に入れて燃やしちゃうシーンが出てくると、何となく結末が見えてきます。

夜になって、寝室の定点カメラが、起き上がるケイティの姿をとらえます。ミカの傍らにしばらく立っていたかと思うと、寝室を出て階下へと消えます。ケイティがいないのに気付いたミカが彼女を探しに部屋を出た後、ケイティの絶叫が聞こえます。しばらくの間があって、寝室の中で飛び込んでくるミカ。その後を追ってくるケイティ、ケモノのような顔でカメラに近づいてくる彼女の顔のアップになる瞬間に画面が暗転。字幕で、後日、ミカの死体が発見され、ケイティは今も行方不明と出た後、エンドクレジットも出ないまま、しばらく薄暗い画面が続いて、おしまい。

急激に盛り上がった途端にプツンと終わらせるあたりは、うまいと感心。観客の心理を手玉にとったクロード・ペリの演出(特に編集)が見事でした。「悪魔のいけにえ」が徹底的に観客の心理を逆なでしたのとは違う、また「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」のように登場人物と観客を同じ目線にして追い詰める演出とも違う、新しいホラーのアプローチということで評価が高いのかなって気がしました。何というか第三者としての臨場感があるんですよ。本当にあったことを目撃しているような気分なんです。ミカとケイティの日常(といっても、ミカが撮影しているという設定ですが)をだらだらと描いているようでいて、その積み重ねが本当にあった事を目撃しているような気分を盛り上げます。そして、それは、日本でよくある心霊ビデオの怖がらせ方に通じるものがあります。心霊ビデオの怖さは、その恐怖の映像(あの「もう一回ご覧いただこう」でおなじみ)の前のリアルな生活感によって増幅されるのです。なるほど、うまいこと恐怖のツボをついてるなあって感心しちゃいました。このパターンは一回限りではなく、二匹目のドジョウを狙えるものであり、亜流が登場しそうな予感がします。何しろ、映像が安っぽい方がリアルで恐怖感が盛り上がるというコストパフォーマンスの高い商売ですからね。その一方で、マネしても同じようにはいかないだろうなって気もします。ペリ監督はかなりホラー映画とかビデオを研究しているように思いますもの。

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Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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