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「グリーン・ゾーン」はシリアスネタに娯楽性満点

今回は新作の「グリーンゾーン」を川崎チネチッタ8で観てきました。最近の東宝マークがどうもなじまないなあと思っていたら、東宝株式会社の字がゴシック体になってたんですね。うーん、やっぱり昔の方がしっくりくるなあ、デジタルっぽさがあってやなんだよな、ゴシック体。

アメリカが、大量破壊兵器があるからという理由をつけてイラクに侵攻を開始した頃のバグダッド。その兵器の捜索を行っている部隊のミラー(マット・デイモン)は、軍の情報による捜索が空振りばかりなのに不信感を抱いていました。捜索中、イラク人のフレディ(ハリド・アブダラ)がフセイン政権の要人が会合をやっているという情報をタレ込んできました。実際にそこへ行ってみると会合の後があって、フセイン政権の軍の最高幹部アル・ラウィの姿も目撃します。居合わせた男たちを拘束したのですが、なぜか特殊部隊がやってきて彼らをさらって行ってしまいます。彼らの残した手帳をもとにCIAのマーティン・ブラウン(ブレンダン・グリーソン)に接触するミラー。マーティンは米国国防総省がイラク人の意向を無視して、親米政権を無理やり立ち上げようとしていることに批判的でした。ミラーは女性記者ローリー(エイミー・ライアン)の記事から、大量破壊兵器の情報源はマゼランと呼ばれるイラク人であることを知るのですが、この男が誰なのか、国防総省のバウンドストーン(グレッグ・ギニア)はそれをひた隠しにしていました。ミラーはイラクを巡る陰謀の核心に近づきつつあったのです。

戦争を始めた理由が大量破壊兵器の存在だったのに、実はそんなものはなかったという事実は衝撃的でした。そのことについて書かれたラジブ・チャンドラセカランの「グリーン・ゾーン」というノンフィクションにインスパイアされたストーリーでして、「ミスティック・リバー」のブライアン・ヘルゲランドが脚本化し、「ボーン・スプレマシー」「ユナイテッド93」で知られるポール・グリーングラスが監督しました。この監督が曲者でして、「ユナイテッド93」では9.11同時多発テロの墜落した飛行機内の出来事というデリケートなネタを、虚実の境界線を微妙なまま、ものすごく面白いエンタテイメントに仕上げた実績があります。このネタをこんなに面白く見せていいのかと思ったのですが、今回もウソとホントを織り交ぜて、ずっと見せ場が続くライド感満点の娯楽映画に仕上げています。ただ、妙に中立っぽいところが逆に胡散臭かった「ユナイテッド93」に比べると、立ち位置がはっきりしていますので、そこから読み取れるメッセージも明快で、わかりやすい映画に仕上がっています。アメリカを明らかに悪役にしているのはハリウッド映画っぽくないなあって気がしたのですが、実はイギリス、スペイン、モロッコで撮影されています。制作費の削減になるってこともあるのでしょうけど、「ユナイテッド93」もイギリスで撮影されていましたから、プロデューサーも兼ねる監督にはどこか思うところあるのかも。また、シネスコ画面で手持ちカメラを駆使した撮影によるリアルな映像も「ユナイテッド93」に通じるものがありまして、バリー・アクロイドによるキャメラは、「ハート・ロッカー」よりもシャープで娯楽性の高い絵を作っています。

映画は、ミラーの中隊が兵器探しをしているのと、イラク新政権樹立を進めるバウンドストーンの動きが並行して描かれていく中で、大量破壊兵器の情報源がどこか怪しいというのが見えてきます。イラクからの亡命者を連れてきて親米政権を作ろうとするバウンドストーンに対して、CIAのブラウンは懐疑的でむしろイラク軍を使って国全体の治安を回復すべきだと言います。そして、軍のトップであるアル・ラウィが軍部を説得している様も描いていきます。そして、フレディというイラク人がミラーにアル・ラウィたちの会合の場所をタレ込んだことから、ミラーは事件の核心に迫ることになります。バグダッドでのリアルな戦闘シーンや追跡シーンなどの見せ場を連ねて、ミステリーの趣向もあり、展開の意外性もあってかなりテンション上がる映画になっています。

一方で、きちんとメッセージも含まれていまして、「イラクのことはイラク人が決めるべきだ」「報道は、官の御用聞きになってはいけない」といったことがかなり明確に語られます。アメリカを正面きって批判していないあたりはうまいと思いましたが、国防総省や軍の一部を完全な悪役にしていることは事実でして、そこに娯楽映画以上のパワーを感じました。



この先は結末に触れますのでご注意下さい。



実は、大量破壊兵器の情報源マゼランとはアル・ラウィのことだったのでした。しかし、彼はそんな破壊兵器はないという情報を渡していたのに、バウンドストーンはそれを握りつぶし、大量破壊兵器があるという情報を捏造していたのです。そこまでやるかとも思うのですが、中東に関する様々なウソが露見されてきて、報道管制もある状況下だと、やるのかなやっぱりという気がしてきます。バウンドストーンは、現地人を使ってアル・ラウィや軍部の連中を暗殺しようとし、それを知ったミラーたちが阻止しようとするのがクライマックスとなります。バウンドストーンは記者会見で軍の解体を宣言し、ラウィのアメリカへの不信感は頂点に達します。一方、アル・ラウィと会おうとするミラーがラウィの部下に拉致され、一方、GPSでミラーを追って、軍の特殊部隊がやってきます。ラウィの部下たちと特殊部隊が戦闘状態になり、ミラーも逃げるアル・ラウィを追います。ラウィを公の場に出して、大量破壊兵器の存在について白黒つけさせようとしたミラーは、なんとか彼を説得しようとするのですが、後をついてきたフレディがラウィを撃ちます。フレディにとっては、フセイン政権のシンボルであったラウィは敵であり、また、彼を取り合いながら、イラクを好きにしようとするアメリカが許せなかったのです。呆然とするミラー、そして、イラク軍を新政権で使うという選択はなくなり、新政権は立ち上がるのですが、そこには混乱が待ち構えていました。ミラーは、自分の知った事実を報道機関に送って一矢報いようとするというところで映画は終わります。

前半から中盤までの息をもつかせぬ畳み込みが見事だっただけに、クライマックスの戦闘シーンが長いかなって気もしたのですが、盛り上げ方や苦い結末をてきぱきとさばいた演出は見事でした。こんなひどい話なんだけど、面白く作っちゃうってのはどうなのって感想は「ユナイテッド93」の時も思ったのですが、やはりグリーングラスは娯楽映画の職人なのでしょう。ボーンシリーズの後半2作もとにかく息をつかせぬ面白さでしたもの。マット・デイモン演じる主人公を除いた登場人物がみんな一癖あって胡散臭いというのがドラマにリアリティに一役買っていまして、珍しくCIAが最終的に善玉になってるのは面白かったです。

ジョン・パウエルの音楽が、ほとんどメロディのないパーカッシブな音作りになっているのですが、これが画面のテンションを上げるのに大きく貢献しています。ほとんど耳に残らないのに、映画への貢献度が高いという縁の下の力持ちのような音楽でした。

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「川の底からこんにちは」のヒロインのオーラすごい、でも作り手の男尊女卑が気になる

今回は新作の「川の底からこんにちは」を横浜シネマジャックで観てきました。結構なお客の入りなのはよかったのですが、DLPの上映による画質が悪くてかなり減点。最初、ビデオ撮影のキネコ版かと思ったのですが、プログラムを見たら、ちゃんと35ミリの映画でした。だったら、ちゃんとフィルム上映して欲しいぞ。

佐和子(満島ひかり)は上京して5年、玩具会社で派遣社員してましたけど、何事も「しょうがない」ですましちゃうダメダメな日々。ところが、実家の父親(志賀廣太郎)が病気に倒れて、帰って来いコール。そしたら、バツイチ彼氏の健一(遠藤雅)が勝手に会社やめた上に娘を連れて、佐和子について来ちゃいました。実家では、シジミのパック詰めの工場を経営してまして、シジミ漁師の奥様方が働いてます。実は佐和子は父親とうまくいかなくて、高校卒業したときテニス部のキャプテンと東京に駆け落ちしたのでした。故郷では、駆け落ちしたダメ女ということになっちゃっています。そのことを知った健一は工場の若い子とねんごろになって、娘を置いて東京に行ってしまいます。自分はダメな女だという認識のもとに、だからこそ頑張らなきゃという佐和子は、工場にも本気で取り組むようになり、そのことで、おばさん軍団との一体感も生まれてきます。ダメな子、佐和子のガンバリの行方は?

PFFスカラシップによる映画です。脚本監督の石井裕也は自主映画出身の人でぴあフィルムフェスティバルや国外の映画祭で賞を取っているそうで、商業映画はこれがデビューとなります。何となくうまくない日々をすごしてきたヒロインが、実家の工場を継ぐことになるという設定は、頑張るヒロイン奮闘ストーリーと思わせるのですが、実際は全編に渡ってオフビートなコメディに仕上がっています。

ヒロインの満島ひかりは初めてスクリーンで観たのですが、この子、オーラがすごいです。OLの日々をつまんなそうに送っているところから始まるのですが、存在感がものすごくあるんですよ。給湯室でのOL3人の会話の中でも「しかたがない」ばかり言って、グチをこぼすことはしません。それがカッコ良いヒロインでなく、ダメを背負ってるヒロインと見えるところがうまい。子連れ課長の健一とのデートのときも、やる気なさそうな感じがいい。気だるさというような生な女性の存在感ではなく、毎日をボーッとやり過ごしてるリアルな人間の息遣いが、おかしくも共感できるのですよ。子連れ男と故郷に帰って、叔父に「この子どういう関係?」と聞かれたとき、「えーっと、もうめんどくさい、私の娘でいいです」と言うあたりのおかしさのリアリティが見事です。

「おかしくてやがて悲しき」にならず、「おかしくてかなりしぶとき」展開になるのがこの映画のいいところでして、漁師のオヤジは女子大生とデキちゃうとか、おばさん工員の大半が、佐和子の父親と関係を持ってたとか、役場勤めの叔父は酔っ払うエロ満開とか、とにかく下世話が一回りパワーアップした感じの皆様が楽しい展開を見せてくれます。そんな中で、ヒロインが「あたし、ダメだわー」と思いつつ「ダメだからがんばらなくちゃ」と奮起するのですが、やっぱりダメだわーってところに居続けるしぶとさが面白かったです。時々、興奮して声張り上げるところがあるんですが、ここは演技っぽさが出ちゃうところが残念。満島ひかり嬢の「そこにいるだけ」オーラがすごいので、辺にキャラを演技で表現させるとリアリティが薄れてしまうような気がするのですよ。一言ぼそって言うところがすごくインパクトあるのですが、でかい声上げると急に普通の女の子になっちゃう。それが演出の狙いなのかもしれないのですが、ヒロインの存在感も薄れてしまうので、ひかり嬢の存在感に頼った方が面白かったかも。それも、これも、満島ひかりのオーラありすぎだからなんですけど、この子、要注意、いや要注目です。(前の作品でも実績あるそうですけど、私はこの映画が初見だったので)

ヒロインを取り巻く人間群像みたいのも面白かったのですが、どうしても気になるところが一箇所ありました。それは、ヒロインの子連れ彼氏の健一という男、勝手に会社やめて、ヒロインの実家についてきちゃう図々しさ、工場の若い子とねんごろになって、佐和子と娘の目の前で出て行ってしまうところなんざ、男としても親としても最低のクズ。それが東京に飽きちゃって、若い子が故郷に帰ってくるといっしょにのこのことついてきちゃって、最後は、ヒロインと娘の前でごめんなさいって、お前、全然反省してないじゃん、行くとこなくなって泣きついてるだけじゃん、と、もうどうにもならない奴なんですが、結局、ヒロインとよりが戻っちゃうらしいというラストに唖然。プログラムによると監督はこのクズ男を「許される人」として演出したとのことで、さらにびっくり。どうして、こんな男を許容範囲に入れられるのかが理解できませんでした。こんなサイテーなクズにも、ヒロインはどっか依存しているんですが、そのシチュエーションって、DV男から離れられない被害者と同じ扱いでないかい?少しでも、ペイソスが感じられるキャラになっていればまだしも、こいつはいいところが一つもないし、行動も最低、これがゆとり世代の男の描き方かと思ったのですが、どこかすっきりしません。

と、こう考えてきて、気がついたのは、これって男尊女卑の新しい形ではないかということ。昔は「女を見下す」肉食系男尊女卑だったのですが、この映画のは「ダメ男が甘えつくす」草食系男尊女卑なのです。一見、ダメ男のように見せていますが、実は男が依存した挙句、女を骨までしゃぶりつくすことで、男性優位のポジションを維持するという、情けないようで、実は手段を選ばぬ男尊女卑ってわけです。これまでは、こういうやり方は女が使う方法だという一般認識であり、だからこそ、女性の立場が低いことの言い訳にもなってたのですが、それと同じかそれ以下のやり方を男がするようになって、それが卑下されない許容範囲だというのは、これはどう考えても、新しい男尊女卑ではないかしら。作者がそれに気付いているのかいないのかは置いといても、こういう男が楽々と生き延びる世の中ってのは、どこかおかしいと思うのですよ。「のんちゃんのり弁」でも、ヒロインのダンナがこんな感じのサイテー野郎だったのですが、結局、本人はヘラヘラしたまま何となくいいポジションをキープしちゃうというのが、納得できないというか、不愉快だったのですが、あれも、男尊女卑の映画だったのかも。

この映画の舞台がしじみの取れる沼のほとりの町で、しじみをパック詰めする工場という設定は、意外な目新しさがありました。田舎のようでそうでもない距離感がヒロインのリアルな存在感とうまくマッチしていたように思います。

「ずっとあなたを愛してる」は中盤まで大好き、ラストは「言わぬが華」かな

今回は東京での上映は終わっている「ずっとあなたを愛してる」を横浜シネマベティで観てきました。新しいDLPでの上映だったようですが、音響とかは前よりよくなっているみたい。「すべてを彼女のために」と並んで、訳わからん邦題だなあと思ったら、英語題がそのとおりだったのでびっくり。

中年女性ジュリエット(クリスティン・スコット・トーマス)は久しぶりに妹レア(エルザ・ジルベルスタイン)と再会、妹の家に身を寄せます。どことなく、ぎこちない二人のやりとりは、過去に何かあった様子。レアにはベトナムからの養子二人がいまして、上の8歳の娘プチ・リスがジュリエットになついているようですが、意外と彼女は素っ気無い様子。それを観て、レアのダンナは面白くありません。ジュリエットの過去とは、15年間刑務所にいたことでした。どうやら、殺人罪らしい。さて、職探しを始めるジュリエットですが、面接で過去を聞かれてオジャンになったり、なかなか大変そう。そんな中で、レアの同僚である大学講師ミシェルがジュリエットに好意を持つようになります。そして、最初はぎこちなかったジュリエットと周囲の関係も時間の経過とともにいい方向に向かっていきます。しかし、彼女にはどこか触れてはならないような心の殻を持っていました。それがあることをきっかけに破られることになるのでした。

小説家のフィリップ・クローデルがオリジナル脚本を書き、初監督した作品です。2009年の英国アカデミー外国語映画賞を受賞するなどあちこちの映画祭でノミネートされたそうです。刑務所から出てきた女性がどうやって心の傷と向き合い、立ち直るのかというお話なんですが、意外なほどドラマチックな展開はなく、小さなエピソードを積み重ねていくことで、時間が人を癒していくプロセスを丁寧に描いています。

冒頭でどこかやつれた風情で登場するクリスティン・スコット・トーマスと、明るく接するのにどこか無理を感じさせるエルザ・ジルベルスタインが微妙な姉妹関係を簡潔に見せてくれてうまいです。妹はどこか腫れ物に触るような気の使いようなんですが、姉はまさに腫れ物って感じです。クローデルの演出は、時間の経過をゆっくりと描くことで、少しずつ変わっていく姉ジュリエットの様子を丁寧に見せています。とんでもない過去を抱えているジュリエットですが、だからといって特別じゃない女性として描かれているので、共感できるヒロインになっています。一方で、妹レアは両親から姉はいないものとして言われてきたので、接するにしてもどこか後ろめたさのようなものがあります。でも、妹にとっての姉はある種憧れの存在でありました。それだけに姉の犯した罪がくさびのように彼女の心に突き刺さっていたのです。

二人の姉妹の和解がドラマの主軸になっているのですが、そこを映画のラストに持ってくるドラマ構成は必然性があったのかなって思ってしまいました。時間を積み重ねることで、ジュリエットは落ち着きを取り戻し、職も得て、社会復帰していきます。その過程の見せ方が見事だったので、どこでドラマに決着をつけるのかと思っていたら、結局、彼女の犯した罪の中身がわかるところに山場を持っていきました。ジュリエットが妹に自分の罪の真実を告げ、想いのたけを告白するところがクライマックスとなっているのです。

でも、ドラマの展開として、ジュリエットは少しずつ周囲に溶け込んできていて、妹一家との関係も良好で、職も得て、いい感じになっているんですよ。このままで、十分じゃないのかって思わせるのですが、それでも、自分の犯した罪の事実を語るシーンを、クライマックスに持ってきています。確かに観客にとっては、物語がクローズするためにはそこが聞きたいのですが、ジュリエットにとって、告白することがそんなに意味があるとは思えないのです。そこに至るまでの過程で、ジュリエットがずっと心を閉ざしたままという展開なら、告白によって一つのハードルを越えたという見せ方もできるのですが、その告白が観客のためのエピローグにしか見えないのです。徐々に立ち直りつつある人間には、「言わぬが華」のこともあるよなあって思うのですが、「告白」に重きを置く文化の違いがあるのかなって気もしまして、ここは見解が分かれるところだと思います。



この先は、結末に触れますので、ご注意ください。



ジュリエットは、殺人罪で15年間刑務所にいたわけですが、それは自分の息子を殺した罪だったのです。このことは映画の中盤で語られまして、そのことを知る妹や妹のダンナは、彼女を腫れ物のように扱っていたのでした。どうしてまたそんなことをしたのかというのが、なかなか語られる機会がありません。周囲も当人もそのことに触れないまま時間は経過し、ジュリエットは周囲ともうまく折り合いをつけていきます。その中で、彼女は元医師であり、事件の裁判では一切を語らずにいたということもわかってきます。そんなある日、レアは掃除をしていて、ジュリエットの息子の写真と手紙を見つけます。手紙には息子の病状についての驚くべき事実が書かれていました。ジュリエットは自分の息子の命が長くないことを知り、痛みに苦しむ息子を手にかけたのでした。そのことをレアに告白し、泣き崩れる二人。そこへ、ミシェルがたずねてきたようです。彼の声に応えるジュリエット、「私はここにいるわ」。画面が暗転し、エンドクレジット。

ラストの告白で大きく何かが変わったという見せ方が私にはなじめませんでした。一つ一つの小さなことの積み重ねによって、ジュリエットは自分自身を取り戻してきました。大きな心の傷が少しずつ癒される過程が丁寧に描かれていただけにラストがドラマを作り過ぎてるような気がしちゃいました。これが、1時間半弱の映画だったらラストの「私はここにいるわ」のセリフに大感動できたのだと思うのですから、私もかなり贅沢な観客です。

でも、人はちょっとしたことが悲しくて、ちょっとしたことがうれしくて、そのちょっとしたことに傷ついたり支えられたりします。その積み重ねが、ジュリエットの表情に潤いと微笑みを与えてきたという展開の映画でした。乗り越えられないハードルを無理して乗り越えなくてもいいじゃない、そこを迂回しても、人は幸せになれると思いたい私としましては、中盤までの展開はすごく好きな映画です。

「第9地区」って、意外と「アバター」に似てたような気がして

今回は静岡ミラノ2で「第9地区」を観て来ました。相変わらずドルビーデジタルのロゴが出るなあ、どーなんだろうなあ。アナログ音響しかない劇場なのに。

ある日、南アフリカ共和国のヨハネスブルグの上空に巨大UFOがやってきてそこに居ついてしまいました。中にいたのはエビみたいな宇宙人で衰弱していました。彼らはいわゆる宇宙の難民、200万人近くもいたのです。政府は彼らを第9地区の仮設住宅に住まわせることになるのですが、その数の多さとかもあってスラム化、ナイジェリア人ギャングがその地区を牛耳るようになり、市民からも隔離された存在でしたが、20年も居座られて、今は彼らの管理は民間企業のMNUに任されていました。エイリアンと住民との対立が激化して、彼ら市街地の外に移住させることになり、ヴィカス(シャルト・コプリー)がその作戦責任者となります。MNUはエイリアンの家を巡って立ち退きのサインを取ってまわるのですが、その中でエイリアンの隠し持っていた武器を調査中のヴィカスがあるカプセルをいじっていてその中の液体を浴びてしまいます。すると彼の体はエイリアンに変化し始めました。研究材料としてMNUに解剖される寸前に逃げ出したヴィカスですが、町中に手配の手が回ってしまい、結局、第9地区に身を隠すことにするのですが.....。

評判のいい映画です。ピーター・ジャクソンがプロデューサーとして参加し、VFX出身のニール・ブロムカンプが脚本と監督を担当しました。南アフリカのヨハネスブルグに宇宙から難民がやってきて、そこがスラム化し、住民との軋轢の末、強制移住させることになるというのが発端です。映画は、ニュース映像を編集したような感じで始まります。結構倒な状況説明を、手際よくさばいて、エイリアンが人間の難民と同じような状態で、かつ人間から差別の対象であることが示されます。人種差別の看板と同じような看板が登場する一方で、エイリアンが人間のものを盗んだり悪さをしている状況も映し出されます。エイリアンが隔離された第9地区はスラム化し、そこを牛耳っているのはナイジェリアギャングのみなさん。肉食のエイリアンたちに、肉やネコ缶を売りつけて、その代価として、彼らの武器を手に入れていました。でも、人間はそれらの武器を操作することはできないという状況でした。

まあ、エイリアンに居座られちゃってるわけですから、人種差別というよりは、ニホンザルの悪さに手も足も出せない近隣住民のみなさんみたいな感じになっているわけです。その辺りのさじ加減がこの映画のキモになっているようで、結局、異種の集団と同列に共存するのは難しいというテーマも見えてきます。エイリアンの強制移住に反対する人権擁護団体も登場しますが、これが動物愛護団体じゃないのがちょっと面白かったです。エイリアンの蔑称はエビですって。確かにちょっとエビっぽいし、幼生態はホントにエビみたい。

そんなところにMNUのオエラ方の娘婿であるヴィカスが武装した連中を伴ってやってきました。こいつが何だか軽そうでいい加減なやつでして、立ち退きの書類にサインをもらおうとしながら、彼らの幼生体を焼き殺して中絶だぜって嬉々としちゃってる。手荒なことは嫌いだけど、それは単に根性なしだから、というダメ風キャラをシャルト・コプリーが熱演してしまして、そのヘタレぶりがこの映画に笑いとリアルな視点を運んできます。もう一方で登場するのがエイリアンの親子、故郷の星へ帰るために、何やら謎の液体を集めていたのですが、それをヴィカスに持っていかれてしまいます。どうやら、エビにも人間と同じように賢いのからアホまでいるようでして、人間同様、エビだからどうのこうのと一括りにはできないようです。ただ、善悪の判断基準などの文化面は、人間と似ているようで違うみたいです。最終的に理解しあえる存在かという点では、否としているのが、この映画が「アバター」と違うところで、ここがこの映画の重要なポイントになっています。



この先は結末に触れますので、ご注意下さい。



徐々に体がエビ化していくヴィカス、彼は何と彼らの武器が使えるのです。それはMNUにとっても朗報でしたし、ギャングにとっても彼は特別な存在になります。そして、彼と液体を作っていたエビの親子が第9地区で出会い、あの液体があれば巨大な宇宙船を動かすことができて、宇宙船へ行けばヴィカスの体を元に戻すことができると言います。とりあえずお互いの利害の一致を見た二人は、ギャングから武器を奪い取って、MNUに乗り込んで、液体を奪い返すことに成功します。このあたりは大盛り上がりの展開なんですが、宇宙船へ行くための小さな飛行体を飛び立たせるのに失敗、MNUの傭兵部隊につかまってしまいます。しかし、今度はギャングたちがヴィカスを横取りしようとして銃撃戦になってしまいます。ギャングのアジトで腕を切り落とされそうになったとき、エビの子供がアジトにあったパワースーツを作動させて形勢逆転、パワーローダーと合体したヴィカスはギャングを蹴散らして大暴れ。一方、、エビの子供の操作によって巨大宇宙船は動き出します。親の方は傭兵たちにボコボコにされて青息吐息。ヴィカスはパワースーツのまま逃げようとするのですが、エビが殺されそうになっているのを見て、彼をかばって、傭兵部隊との戦いに臨みます。そして、親子が宇宙船に引き上げられるまでの時間稼ぎを買って出て、ボロボロになりながらも、傭兵部隊を倒し、親子を乗せた宇宙船は彼らの星へ向かうのでした。もうヴィカスの体の半分近くがエビ化していましたが、それ以降、彼と宇宙船の消息は不明。エビたちは強制移住され、さらに数を増やしつつあるのでした。

後半は徹底した活劇の展開になるのですが、ブロムカンプの演出は相当な盛り上がりを見せます。MNUで生体実験された仲間を見つけてエビが呆然となるシーンや、クライマックスでヴィカスがエビに「自分の星へ帰れ、俺の死を無駄にするな」というシーンなどかなりぐっとくるものがありました。ヴィカスがエビ化していく過程でMNUに裏切られ、人間を信じられなくなったとき、エビの中に信頼できるものを見つけるという展開はドラマチックでして、パワースーツを着たヴィカスが傭兵部隊を文字とおり木端微塵にするシーンにはすごいカタルシスを感じました。

それだけだと「アバター」と同じじゃんということになってしまうのですが、単に人間と宇宙人の友情とは一味違う作りになっています。まず、ヴィカスはもともとはエビのことは何とも思っていなかったんですが、自分がエビに変身し始めて、人間側から追われる立場になっちゃったこと。また、エビにはエビ側の思惑があるようなんですが、それが、人間の利害とは一致しないらしいこともあります。最後に宇宙に飛び立つとき、3年たったら帰ってくるようなことをヴィカスに言います。ラストで宇宙船が飛び去ったのは、仲間を助けに来るためか、地球を攻撃にくるためか、単に自分が逃げるためなのかはわからないと語られるのですが、確かに目的は不明です。ヴィカスとエビの親子は一時的に共闘したわけですが、彼らの間に真の友情が成立したのかというと、そうは見えないのが面白いところです。所詮、価値観も文化も異なる両者の間に、相互理解が成立する時間はありませんでした。とりあえず、お互いを信頼せざるを得ない状況に追い込まれてそうなったということなんです。ヴィカスがギャングや傭兵の皆様を吹っ飛ばすシーンはスカっとするカタルシスがあるんですが、それはそいつらが悪者でヴィカスにひどいことしてるから、そう思えるだけで、「アバター」のように二つの種族を代表した戦いではないのです。

最終的にヴィカスはエビになっちゃうけど、心は人間のままでいることをほのめかすエンディングになっているのですが、それが何か希望になっているのかというとそうでもないです。この映画は、異なる種族の二人の接近遭遇を描いたというレベルに留まっているのです。そこが面白いというか、結局、相容れる部分と相容れない部分があるよねって見せ方がいいのですよ。でも、ヴィカスが最後に自分を盾にして、エビの親子を星へ帰してやろうとするシーンは泣けまして、そこが娯楽映画としての面白さになっています。

観始めたときはそうはおもわなかったのですが、観終わってみれば「アバター」と似た所多いなあって印象でした。「アバター」にはないグロさや人体破壊描写があるものの、全体構成は同じようなものです。監視カメラや報道カメラの画像をたくさん盛り込んでいるという違いはあるものの、クライマックスの盛り上げからの大活劇は共通するカタルシスがありました。

背景としての、難民としての宇宙人という設定。彼らがそれほど知性が高いわけでも、敬意を表すべき文化もなく、見た目以外はかなり人間に近いってのは面白いところでした。

「やさしい嘘と贈り物」は意外じゃない意外なラスト以外に見る所なくて

今回は映画の日にシネスイッチ銀座2で「やさしい嘘と贈り物」を観て来ました。前に「やさしい嘘」
という映画がありましたから、また紛らわしい放題をつけたものです。ちなみにシネスイッチ1の
「オーケストラ」はお立ち見だそうで、こっちは余裕の観賞でした。

一人暮らしの老人ロバート(マーティン・ランドー)は、マイク(アダム・スコット)のスーパー勤めをし
ています。クリスマスも近いある日、向かいの家に引っ越してきたメアリー(エレン・バーンステイン)
が、ロバートを夕食に誘ってきました。マイクや同僚のアドバイスを聞いて、ロバートはメアリーと楽
しいデートをすることができました。積極的な彼女のアプローチにロバートも心ウキウキ状態。そして、
毎日、彼女と会うようになり、ロバートにとってメアリーは特別な存在になっていました。クリスマス
イブの日、メアリーの知人のパーティに招かれたロバートはつい嫉妬にかられてつまらないことを言っ
てしまうのですが、それは二人の絆を確認しあうことになります。そして、二人はさいこうのクリスマ
スになりました。しかし、目覚めたとき、メアリーは姿を消していました。え、これって夢だったの?

マーティン・ランドーとエレン・バーンステインが共演するラブストーリーということで、まず観たい
と思ったのですが、脚本監督が24歳のニック・ファクラーという若造だったというのがちょっと気掛か
りでした。で、結論から言ってしまいますと、目の付け所はよかったのですが、それだけではドラマの
奥行きが出ない、残念な作品でした。監督が若いからダメというのは偏見かもしれませんが、脚本と監
督は別々の人がやった方がいいよねって気がしちゃいました。それとも、プロデューサーが4人、製作
総指揮が7人もいてプロダクションが迷走しちゃったのかしら。

オープニングは、クリスマスデコレーションされたオーバーチュア通りという住宅地の一角にカメラが
寄っていき、そのまま、ある家のドアを開けて、中へ入っていきます。そこでは、老人が「ロバートか
らロバートへ」というプレゼントを準備していました。このあたりはファンタジー風なんですが、そこ
からの展開は別にファンタジックではありませんから、単にやりたかっただけなのか。ともあれ、メア
リーおばあちゃんからのラブコールに、一人暮らしのロバートは春が来たみたい。でも、メアリーと娘
のやり取りを聞いているとどこか強い決意が感じられて、何か事情があるみたい。



この先は結末に触れますのでご注意ください。(それが命みたいな映画なので)



ほんの数日の間で、ロバートとメアリーは急接近、二人は素敵なクリスマスを送ることができました。
これまでの人生を無駄にしてきたんじゃないかと言うロバートにとんでもないというメアリー。大体、
このあたりから、結末は見えてくるんですが、要は、ロバートとメアリーは実は夫婦だったというお話。
どんどんロバートの記憶が失われていく中で、メアリーは何とか彼との関係を築きなおそうとしていま
した。マイクも彼の息子だったのです。ロバートがメアリーがいなくなったと思ったのも、メアリーが
所用でちょっと家を空けると彼に断っていたときの記憶をなくしていたのです。自分の方が何かおかし
いと気付くロバート、メアリーの家に入った彼は、自分と妻や子供たちの写真を見つけます。錯乱した
彼は倒れてしまい、病院に運び込まれます。そして、彼の命は尽きようとしていました。病室のロバー
トに寄り添うメアリー、最後に彼はメアリーのことがわかったようです。そして、ロバートとメアリー
と子供たちがカーテンコールのように画面に登場してエンドクレジット。

結末へ向けての伏線がたくさんありすぎて、大体、メアリーとロバートに過去に何かあったことは読め
てしまいます。子供も絡んでいることから、メアリーとロバートがきっと夫婦だったんだなってことも
なんとなくわかります。それがわかっちゃうこと自体は映画の弱点ではないのですが、この映画が弱い
のが、ラストでそのネタばらし以上のドラマを見せてくれないということ。「シャッター・アイラン
ド」では、宣伝で意外な結末をアピールし過ぎて、そこしか見所がないような売り方をして映画の評価
をムダに下げてしまっていましたが、この映画は、まさにそこしか見所がないのです。ロバートが自分
の記憶の欠損をどう受け入れるのか、妻や子供はそれまでどんな思いをしてきたのか、そこら辺に一切
突っ込むことなく、ロバートを死なせておしまいってのは、ドラマとしての詰めが甘いんでないかいっ
て思ってしまったのです。

このドラマのキモは、ロバートが家族の記憶を失っていたことではなくて、それを家族がどう乗り越え
るのか、あるいは乗り越えられないのか、どんな葛藤があったのかってというあたりだと思うのですが、
それらへの言及がないので、「実はロバートとメアリーは夫婦だったんですよ」でおしまい。もともと
ミステリーとして見せるには、ネタが割れているのですから、それだけじゃ映画としては物足りません。
特に、ロバートを呆気なく死なせてしまうのはドラマを投げてるようなもので、安直ではないかしら。

主演の二人はさすがに熱演しているのですが、妻の苦悩や、記憶が欠損するロバートがどういう経緯で
一人暮らしをするようになったのかがわからないので、キャラクターとしての奥行きが出なかったのは
気の毒でした。だいぶけなしちゃいましたけど、こういうシリアスな題材で薄いドラマを作られちゃう
と、いつも以上に突っ込みがきつくなってしまいます。だって、これいい話ではないだろうに。自分の
ダンナに、初対面のような顔をしてアプローチする奥さんの痛さが伝わってこないのはダメよ。

「ソフイの復讐」はハリウッドをパクってるようだけど楽しい中華ラブコメ

今回は、東京でのロードショー公開は終了している「ソフィの復讐」を横浜シネマジャックで観てきました。ここは、上映時になってから幕が開く昔ながらの映画館。個人的にそういうちょっとしたところがうれしく思えてしまうのは年のせいかも。

漫画家のソフィ(チャン・ツィイー)は、入院した時に知り合った外科医ジェフ(イ・ソジブ)と結婚式の予定まで入れてたのに、映画女優ジョアンナ(ファン・ビンビン)とジェフが患者と医者というソフィと同じパターンでくっついちゃって、結局、ソフィは振られてしまいます。パーティで知り合ったジョアンナの元彼の写真家ゴードン(ピーター・ホー)を巻き込んで、何とかジェフしようと画策します。ジェフに「あなたの幸せ祈ってる」アピール作戦は失敗。彼の部屋に過去の思い出の品や写真を仕込む作戦もあまり功を奏さず、ルックスを磨いてジョアンナに張り合おうとし、さらにジョアンナに接近しようとするも、見破られてその結果、骨折しちゃうのですよ。共謀者の責任として、やさしく世話をしてくれるゴードンと何となくいい感じになるのですが、でも、やっぱりソフィの心の中にあるのは、ジェフへの復讐心。でも、復讐した後どうしたいの?ソフィ。

中国、韓国合作による、中国語によるラブコメディです。女性のエヴァ・ジンが脚本を書いて監督もしていまして、アメリカのラブコメを思わせる展開と華やかな映像が楽しい一編に仕上がっています。ヒロインが漫画家というアート系職業で、かわいいけどドジっ子、親友がいるというのは、ラブコメの典型パターンですが、これをチャン・ツィイーが意外にうまくはまって演じているのに感心しちゃいました。ふっ切れたキャピキャピ系演技もなかなかいいのですよ。演出は全体を軽い感じにまとめていますので、それに合わせたのでしょうけど、映画全体もこのキャピキャピ感がうまく行き届いています。アメリカのラブコメ、TVシリーズを思わせる展開やらカット割などが満載で、出てくるのが東洋人でなかったら、まるっきりアメリカのラブコメかと思わせる映画です。なるほど、面白そうなものを徹底して取り込む貪欲さは、言い換えると観客へのサービス精神につながっているんだなって納得しちゃいました。

ソフィが漫画家という設定で、自分の復讐の過程を漫画にしていくというのも面白い趣向でして、そうやってエピソードの流れをわかりやすくしています。ソフィとゴードンが仲良くしてるモンタージュに歌を流すという演出もあるある感がたっぷりでして、生活感がないのも、こういう映画の定番です。笑いを取るシーンは結構泥臭いネタも多いのですが、とにかくヒロインをかわいく見せようという演出がネタ以上の楽しさを運んできます。

また、最近のラブコメのお約束なのかどうかはわかりませんが、視覚効果をやたらと多用しているのが印象的でした。中韓合わせて5社が担当しているのですが、マンガ風効果やアニメとの合成、移動カットのつなぎなどに使っているようなのですが、正直言うとCG風画面多すぎ、ブタの人形が表情を作るカットやアニメキャラのダニがヒロインの血を吸うシーンなどは必然性がありません。このあたりは、「アメリ」系の映画をパクったという感じですが、まあ、これは観る人の許容範囲によって感じ方は変わるところでしょうが、私にはクドいかなあって気がしてしまいました。

復讐に執念を燃やすヒロインに比べると、男性陣二人は影が薄くなっちゃいました。単に弱くてダメな男をまんま演じたソ・ジソブはちょっと気の毒な気もしちゃいましたし、ピーター・ホーもそれほどの魅力を感じませんでした。(キャラ薄いし、面長いし) 一方で、ジェフを寝取った女優を演じたファン・ビンビンが好演でうまくヒロインを引き立たせていました。この映画の唯一の悪役なわけですが、どこかコミカルな味わいがあって、彼女をギャフンとは言わせない結末にもなんとなく納得できてしまいました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



骨折から復活したソフィは、今度はジョアンナにイケメンをぶつけてそれをビデオに撮影しようとするのですが、それも失敗。で、ちょっと方向転換して、写真家のゴードンのために写真展を開いてあげます。彼の写真の評判は上々、でも、ソフィは、そこにジェフとジョアンナも招待していまして、そこでジェフに、自分とゴードンの熱々ぶりを見せて、嫉妬心を煽ろうという作戦だったのです。一方、ゴードンは本気でソフィに惹かれるようになっていたので、話がややこしくなります。とりあえず、ジェフの気持ちを取り戻すことはできたのですが、結局、ジェフのプロポーズを振ってしまいます。

しかし、もう一つ、ゴードンがジョアンナの元彼ではなく、兄で、ジョアンナがスパイとして彼をソフィに接近させていたことが判明、これにはソフィも大ショック。寝込んでるところに、慰めに来てくれたママの優しい言葉にソフィもホロリ。そして、この失恋をまとめた漫画の宣伝でテレビ出演したソフィ、誰もいない控え室を出た途端、そこは秋の公園、ゴードンと抱き合って、ハッピーエンド。とはいえ、唐突なラストは、空想癖のある彼女の白昼夢かもしれないという見せ方になっているのがおかしな余韻を残します。普通のハリウッドラブコメなら、ソフィとゴードンが結ばれて終わるところを、ちょっとだけ捻ってあるのが面白いところです。

恋愛ドラマなんですが、復讐がメインで、それがうまくいかなくてドタバタするコメディになっているのが楽しい一品でした。ソフィのようなヒロインは、まるで共感できないのですが、リアルにいそうな気がしますし、ジェフみたいな優柔不断な二枚目もいるよねーって気がします。それでも、誰かに致命的なダメージを与えることなく、ハッピーエンド風にまとめたエヴァ・ジンのセンスは好きです。バカバカしい話をその枠の中で楽しめるように仕上げた点は見事だと思いますもの。趣向などにパクりは多いものの、それをきちんと消化して作り込んでいますし、シネスコの画面を美しく彩ったアルマンド・サラスの撮影、セカンド・チャンの美術も上々です。ネイサン・ウォンの音楽は、かなりハリウッドラブコメを意識していて、セオドア・シャピロ風ライト感とジョージ・フェントン風シリアス感がうまくバランスを取っててよかったです。日本のラブコメの涙と感動をパクっていないのはさすが中国四千年の歴史かも。

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einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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