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「遥かなる帰郷」のサントラは、個人と歴史との関わりを音楽で語っています


「ジャスティス」のサントラ記事を書いていて、まだ収容所を扱った名曲があったのを思い出してのご紹介です。フランチェスコ・ロージ監督、ジョン・タトゥーロ主演の「遥かなる帰郷」という映画は、捕虜収容所が解放された後のユダヤ人がどうやって、自分の故郷まで帰ったのかを描くドラマでして、あまり描かれない視点からのドラマが見応えありました。音楽を担当したのは、「続 荒野の用心棒」や「イル・ポスティーノ」などのルイス・バカロフです。バカロフ自身が編曲、指揮も担当し、ブルガリア交響楽団が演奏しています。

アルバムの1曲めは、主人公のプリモのテーマです。パンフルートによって、演奏されるテーマがまず心をうちます。そのバックにゆるやかに弦がかぶさっていきますが、重厚さよりも、素朴な人間の生き様を感じさせる音作りが、この映画に見事にはまっています。そして、2曲目の映画のテーマともいうべき、雄大で重厚なオーケストラ曲が鳴ります。こちらは、民族の運命といった味わいの重い曲ですが、これが、主人公のテーマとの対比となっていまして、音楽が映画の奥行きを描写していると言えましょう。

劇中、この2つのテーマが何度も、リード楽器や編曲を変えて登場します。ピアノやハーモニカ、バイオリンソロに小編成オケを加えた、プリモのテーマは叙情的な味わいを濃くしているのが耳に残りますし、もう一方のテーマは小編成のオーケストラによってうねるようなストリングスが鎮魂曲のような味わいも加えています。

映画は、主人公を大きな歴史の中の小さな生き証人という捉え方をしていまして、音楽もそれを忠実に再現していると言えます。大きな歴史を描写する叙事的な重厚な曲と、主人公プリモを描写する素朴で人間臭い曲とをうまく交錯させることで、音楽が映画を語っていると言っても過言ではないでしょう。


テーマ曲は下記アドレスから聞くこともできます。
「遥かなる帰郷」よりサウンドトラック

また、映画の紹介記事を、以前、HPにアップしたものがありますので、よろしければご参照下さい。
「遥かなる帰郷」 HP紹介記事
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「ダブル・ミッション」はジャッキー映画としては珍しく子連れで観ても無問題

今回は新作(アップのタイミングが遅くなっちゃいましたが)の「ダブル・ミッション」をTOHOシネマズ川崎で観てきました。ジャッキー・チェンの映画というのですが、そう言えば、彼の映画もなかなか公開されないなあって気がします。

ボブ(ジャッキー・チェン)はCIAの敏腕エージェントだったのですが、足を洗って結婚しようということになります。相手は隣家のジリアン(アンバー・ヴァレッタ)なんですが、彼女の子供、ファレン、イアンは、この結婚に大反対。末っ子のノーラはボブに好意を持ってくれているのですが、ともかくも3人の子供の父親になれるかどうかが、ボブにとっての大ハードルなのでした。かつての同僚がボブに送ってきたデータをイアンが勝手にダウンロードしちゃったところ、これがテロリストのボルダー(マグナス・シェヴィング)の重要なデータだったものですから、イアンたちはボルダーにマークされ、命を狙われることになっちゃいます。一方、ジリアンの父親が入院することになり、彼女は一時的に里帰りすることになり、子供たちの面倒をボブが引き受けます。生意気盛りの皆様ですが、それでもボブと心を通わせるようになります。そこへ、テロリスト達が乗り込んできます。果たして、ボブは子供たちを守ることができるのでしょうか。

ジャッキー・チェンも、アクション俳優のピークを過ぎてから、ハリウッドで売り出したという不思議な人なんですが、人懐っこいキャラと体を張ったアクションは、他のハリウッドスターにない魅力があります。出てきてすぐに、いい人キャラだって納得できちゃうのは、彼ぐらいなものではないかしら。そんな彼の新作はコメディ、それもファミリー向けの子供を中心にしたもの。監督のブライアン・レヴァントは、「ベートーベン」「ジングル・オール・ザ・ウェイ」といったファミリー向けコメディでの実績がある人でして、そういう意味では、ジャッキー・チェンにとっては新しいジャンルへのチャレンジということになります。言い換えるとちょっと不安でもあります。特に、最近のハリウッド製の彼の映画は、アクションが少なかったり、視覚効果優先で生身アクションが前面に出てこなかったりで、昔の香港時代の彼のアクションを知る人には物足りないものがありました。「ドラゴン・キングダム」では、視覚効果と生身のアクションの配分がうまくて、大変見応えがありましたが、今回は、体技は、全体にライトでして、レバントの演出はアクションを、あくまでドラマのアクセントとして使っているようです。

ジャッキー映画の魅力は、敵方が徹底的に強いということでした。どうにも勝てそうもない敵役に対して、時には仲間と組んで立ち向かった末、やっとのことで勝利をおさめるというところにありました。ジャッキーの持ち味は、見た目があまり強そうでないところ、ですから、映画の前半のアクションは逃げが中心となり、後半で攻めに転じるというパターンがありました。この映画では、そういうジャッキー映画のパターンが通用しないので、ドラマの進行とともに、アクションが盛り上がるわけでなく、アクションが細切れに割り振られているところが、物足りなかったです。そのアクションも格闘シーンがほとんどで、落ちる、飛び移る、ぶる下がるといった大仕掛けの見せ場がなかったのが惜しい。まあ、子供向けを意識した映画だと、真似されそうな大技は避けるのかもしれませんが、大画面の、引きの絵で盛り上がるアクションがないので、全体にこじんまりとした印象になってしまいました。それでも、プールでの格闘シーンなんか、カメラを色々と動かして頑張っています。

その分、子供たちとの絡みに重点を置いた展開になってはいるのですが、テロリストとの闘いとのバランスが、よく言えば、バランスがいい、悪く言えばどっちも中途半端な感じになっちゃっています。香港時代のジャッキーの映画を観ている観客からすれば、物足りないのですが、アメリカのお客さんにはこの位がちょうどいいのかもしれません。子供に見せられる暴力描写には、相当規制がありそうですから、ファミリームービーとしてはこれが限界かもしれません。テロリストがマヌケな悪役になっているのはいいのですが、テロリストという肩書きを外すと「ベートーベン」や「ホーム・アローン」といったファミリーコメディの悪役と変わらない描き方なのは、ファミリー向けの制約なのでしょう。

子供3人と徐々に距離を縮めていくくだりは、レバント監督の得意領域なのか、やわらかく、かつテンポよくさばいています。上から目線にならないジャッキーのキャラクターが、ドラマにうまくはまっていまして、ドラマチックな要素がないまま、子供がなついていく展開に説得力がありました。悪役も凄みがないですし、色々な制約の中で、子供にも安心して見せられる映画に仕上げたってところかしら。相手役のアンバー・ヴァレッタはホラー映画に出たり、お母さん役が多かったりで、21世紀のディー・ウォーレスのポジションになってきちゃったみたいです。私は、彼女の結構なファンだったりするので、この線に落ち着いちゃうのはもったいないような気もします。

「ジャスティス」のサントラは戦争映画とは思えない泣ける名曲


前回、ブルース・ウィリス主演の「コップアウト」のサントラ記事を書きましたが、ウィリス主演の映画ということで、忘れてはいけない映画を思い出しました。2002年の「ジャスティス」です。「オーロラの彼方に」のグレゴリー・ホブリット監督による戦争モノ、それもドイツの収容所モノです。重厚な画面が見応えありましたが、ラストの感動が出来すぎな感もありまして、映画としての出来はそこそこという感じでした。

音楽を担当したのは、「エマ」でオスカーを取ったレイチェル・ポートマンです。「ショコラ」「サイダー・ハウス・ルール」「イルマーレ」「妹の恋人」などの女性向け映画にたくさんの名曲を提供している彼女にしては、男ばっかの戦争映画というのは珍しいのですが、ここで大変力のこもったスコアを書いています。ジェフ・アトマジアンが編曲し、デビッド・スネルがオケを指揮しています。

戦争映画とはいえ、勇ましい曲は一切ありません。寒々とした雪の中の収容所を描写する静かな曲と、脱走計画を巡るサスペンスフルな曲の2つの流れで音楽は展開していきます。その中でも、メインテーマの曲が本当に素晴らしい。トランペットソロによる鎮魂のメロディが重厚なストリングスをバックに奏でられるところから始まり、そのメインの旋律を木管とストリングスが引き継ぐと、さらにトランペットが旋律を展開させて盛り上げていき、さらにフルストリングスがうねるようにテーマを奏でるのです。バックの和音のストリングスに、さらに木管とストリングスが旋律を重ねていくという音作りが見事です。

テーマとしては、上記の他に、ストリングスが3拍子のリズムを刻みながら、木管が哀愁のあるメロディをかぶせる曲もあるのですが、メインテーマがとにかく圧巻でして、映画の詳細は置いといて、このテーマ曲を聴くだけで、涙腺がうるっときてしまうのですよ。重厚な音楽ですが、どこか、女性作曲家らしい、やさしさというか、しなやかさ、そして切なさといったものが感じられる私にとって、心の琴線に触れる名曲となりました。

サントラCDは、AMAZONでは購入可能なようです。

「彼女が消えた浜辺」はイラン映画ですが、日本人にも伝わる心の有り様と人間の儚さ

今回は、新作の「彼女が消えた浜辺」をヒューマントラストシネマ有楽町シアター2で観てきました。63席という小さな劇場ですが、スクリーンに向かうとやはり映画館で観る映画は違うという気分になります。スクリーンが小さくても、劇場の構造がちゃんとしてれば、そこは映画鑑賞の場になるんだなって改めて感心。(裏返すと、感心できないミニシアターもあるってことですけど)

テヘランから海岸のリゾート地へ、三日間の旅行でやってきた学生時代からの友人たち。妻や子供も一緒ですが、家族以外にエリという女性も一行に加わっていました。しかし、一行の宿泊施設は持ち主が来ていて、海辺の何年も使われていなかった別荘に泊まることになります。エリを招待したのは、アミールの妻セピデーでして、最近離婚したアーマドに紹介しようという、いわゆるお見合いのつもりだったのです。みんな、エリを値踏みしているような感じなんですが、ともあれ1日目を無事に過ごした二日目、ペイマンの息子アラーシュが海で遊んでいて波にさらわれてしまいます。その時、子供を見ていたのは、エリだった筈なのですが、彼女の姿も見えません。アラーシュは飛び込んだ大人たちによって助けられるのですが、エリは海を捜索しても見つかりません。彼女は、帰りたがっていたということもあって、ひょっとして独りで帰ったのではないかとも思われました。エリはセピデーの子供の保育所の保母で、それ以上、誰も彼女のことを知りませんでした。彼女の家に電話すると母親は、旅行の話など知らないと言ってます。彼女の消息がわからない状況で、一行の中で、お互いの不信感が募ってきます。果たして彼女はどこへ行ってしまったのでしょう。

あまり公開される機会のないイラン映画です。一時期、アッパス・キアロスタミ監督が注目されたりもしましたが、確かにあまり身近な劇場で公開されていないです。この映画の脚本&監督はアスガー・ファルハディという1972年生まれの人で、この映画でベルリン映画祭の銀熊賞を取ったそうです。イランというと日本とは一線を画す文化を持っているような先入観がありました。(と、言っても「カンダハール」「ベルセポリス」くらいしか近年のイラン関係の映画は観てないのですが)しかし、この映画の登場人物は、日本人の私でも理解しやすい、家族観とか対面とか無責任さを持っていて、観ていてあるある感がすごくあるのです。

3つの家族で車に分乗して旅行へ行くというのはよくあるパターンです。今回は、ゲストが若くて美しいエリという女性でした。彼女を、離婚したばかりのアーマドに紹介しようと画策したのは、この旅行の幹事役でもあるセピデーでした。多分、子供が海で溺れるという事件がなければ、楽しい旅行となり、ひょっとしたらアーマドとエリはうまくいってたかもしれません。ところが、エリの失踪という事件が、一行の中に嫌な空気を作り出していくのですが、これがなかなかにリアルな気まずさなのですよ。その前に、彼女が帰りたがっていたのを、セピデーが引き止めていたり、別荘の管理人のおばさんにアーマドとエリが新婚さんであるかのようにほのめかして、その結果、エリがやな気分になっていたりといったことがありました。とはいえ、それらは、事件がなければ、スルーされてしまうレベルのこと、だった筈なのですが、エリが行方不明になってみれば、それらのことも非難の対象となってしまいます。状況からすると、溺れた子供を助けるために海に飛び込んだ可能性が高く、だとすれば、無事でいる可能性は少ない、でも死体が発見されないので、勝手に帰っちゃったのかもしれない、そんな状況が一行の間にいやな被害者意識を募らせていきます。

また、エリの携帯電話をセピデーが隠し持っていたことから、彼女が何か隠しているのではないかと、問い詰められることになります。そして、母親に電話しても帰ったようではなさそう、そして最新の着信履歴に電話してみると、兄と称する男が電話に出て、現地にやってくることになります。しかし、セピデーは、エリは自分を一人っ子だと言ってたから、兄というのは嘘だろうと言い出すのです。

ここまでの展開で、ファルハディは普通のドラマとは違う、でもリアルな演出を見せます。それは、情報が共有されることがないということ。エリと子供を除けば、一行は全部で7人なのですが、誰かと誰かが会話することで、情報が交換されても、そこに居合わせない他の人間は知らないままというパターンが何度も出てきます。映像そのものが、エリをきちんと見せてくれないので、一体、エリがどういう女性なのか、観客にもわからないのです。それは、他の登場人物にも言えることでして、エリが姿を消してから、やっと登場人物のキャラクターが見え始めます。

最初は、女性失踪を扱ったミステリーかと思って観ていたのですが、ドラマの主眼は、彼女がどこに行ったのかではなく、各人の思惑の方にあるようなのです。セピデーが隠し事をしていたことにアミールは逆上して暴力を振るい、子供の親であるペイマンとショーレは、一刻も早くこの状態から抜け出して、家に帰りたいと思っています。そして、みんなが何となく背負ってしまった罪悪感が事態をさらに膠着化させてしまいます。

こんなこと人生の間で何度も起こることではないですから、皆対応の仕方がわからなくなっています。それ自体が大事件なのかどうかも判明していないですし、誰かが特に悪いというわけではないのですが、それでも気まずい、確かに人一人死んだかもしれないのは事実なんですが、誰かが責任を負っているわけではないのです。そして、気まずさは不満を生み、自分を被害者にして、誰かを非難したくなります。さらに、イランの人は、日本人以上に対面を重んじるところがあるようで、なぜか、ありのままをエリの関係者にぶちまけることができないでいるのです。それは、自分たちの顔をつぶすことになるかもしれないし、エリの顔をつぶすかもしれない、でも、グレーゾーンに安住することも潔しとしないようなのです。普通の人間が、非日常的な事件に遭遇したときの反応をこの映画は丁寧に掬い取っていきます。その心の有り様は、イランでも日本でも大差ないようなのが面白いと思いました。また、日常と非日常の線引きのところのドラマ作りが見事で、自分で対処しきれない事件への向き合い方のリアリティに見応えがありました。そして、ラストに人間の存在の儚さも垣間見えてくるのですが、そこは劇場で確認していただきたいと思います。



この先は、結末に触れますのでご注意下さい。



一行のもとに、エリの兄と言ってた男がやってきます。彼は、エリの失踪の状況を知って驚きます。一方、セピデーはさらに一行に驚くべき告白をします。兄と言っていた男は、エリの婚約者だというのです。セピデーが言うには、エリは婚約者と別れたがっていて、実際に、別れた後で、アミールに紹介して欲しいと言っていたのです。でも、アミールは近々イランを出て行く予定だったので、セピデーがエリを、無理やりにこの旅行に連れ出したのでした。それだと、婚約者のいる女性をお見合い旅行に連れてきたことになっちゃいます。まさか、そんな事情を婚約者には言えません。でも、エリが勝手にそういう旅行に来たことにしてしまえば、エリのメンツをつぶすことになります。全てを知っていて事を運んだセピデーは板ばさみで苦しみます。他の一行は、洗いざらい告白すべきだと言います。それは、嘘に加担することによる自責の念から逃れたいという気持ちの現われで、それはごもっともな話です。何しろ、婚約者の話は、セピデー以外誰も知らなかったのですから。それに、少しずつ事情が見えてくる過程で、一行は婚約者に対して小さな嘘を積み重ねていたのです。

婚約者は、何だか隠し事をしてるみたいな一行に不審の念を抱いていました。そして、セピデーに一つだけ確認させてくれと言います。それは、この旅行に参加するにあたって、エリが婚約者のことを言っていたかどうかということでした。追い詰められたセピデーは、「婚約者の話はしていなかった」と答えます。ほどなくして、海で女性の水死体が発見され、婚約者は、それがエリであることを確認します。別荘の部屋で呆然としてたたずむセピデーの向こうでは、みんなで砂浜にはまった車を押し出そうとしています。そこに初めて静かなチェロの音楽が流れてエンドクレジット。

後半は、セピデーの隠し事がだんだんとわかっていくのですが、うーん、そういう事情はどっかで先に誰かに言っといて欲しいよなあって気がします。そこに、イランにおける婚姻の文化、女性の立場といったものあるらしいと、映画のプログラムに書いてありましたが、そういう事情を抜きにしても、「世話焼き姉さん、よかれと思ってたら、突発自体に身動きとれなくなるの巻」とまとめても、全貌は伝わると思います。最後に彼女はエリのメンツを守ったかのように見えるのですが、それは彼女自身のメンツと罪悪感を守ったとも言えましょう。

一方で、エリの存在感のなさが不思議な印象を残します。彼女がいる間は、映画がドキュメンタリーのような撮り方で、登場人物に近づかないので、結局、エリってどういう女性なのかが最後まで見えてきません。そこで、観客は彼女に様々な思いを馳せることができるのですが、見終わって思い出したのは、フランソワ・オゾン監督、シャーロット・ランブリング主演の「まぼろし」という映画でした。あの映画では、夫がまぼろしのように消えてしまうというお話でしたけど、この映画のエリも、あの映画の消えた夫のように、どこかはかなげで存在感がないのです。後半で、他の登場人物のキャラが突っ込んで描かれるようになればなるほど、前半での彼女は本当に存在したのだろうかという気にさせられました。たまたま、エリの失踪を境に演出のタッチが変わるから、そう思えたのかもしれませんが、どこか儚げなエリの姿は、人間の有り様の一つの形になっているように思えました。ある人がいなくなって、初めてその存在の大きさに気付くというのは、よくドラマになるのですが、実際のところ、普通の人間ってのは、いてもいなくなっても、大して存在感に違いのない儚いものなのかもしれないなって思えてしまいました。

「ミックマック」は、子供向けの絵本にしたくなるような映画です。

今回は新作の「ミック・マック」を109シネマズMM横浜3で観てきました。「ミック・マック」って、フランス語で「いたずら」って意味だそうですが、なかなか覚えられなくて、「ビッグマック」とか「ヨックモック」とか紛らわしいのが多すぎ。

地雷処理中の暴発で父を失ったバジル(ダニー・ブーン)は、ビデオ店で店番中、銃撃戦の流れ弾が飛んできて、頭に弾丸食らっちゃいます。九死に一生は得たものの、頭に弾は残ったまま、その上、職も家も失ってホームレスになっちゃいます。そんなある日、ギロチンで死に損なったというじいさんに声をかけられ、彼についていくと、スクラップ置き場の中の隠れ家のようなところに、タンブイユというおばさんが一癖ありそうな皆さんを住まわせていました。そこで暮らしてスクラップ集めをするようになったバジルですが、ある日、車を止めた場所が、2つの兵器会社が向かい合っているところでした。その会社のマークは、1つは父を殺した地雷についていたもの、そしてもう1つは自分の頭の中の銃弾についてるものでした。それを見たバジルは、2つの会社に対して復讐をしようと思い立ちます。そのことを隠れ家の仲間に伝えると、みんなも協力すると申し出てくれます。そこで、2つの兵器会社をハメてやろうという、ちょっとおかしな大作戦が開始されるのでした。

「アメリ」のジャン・ピエール・ジュネ監督の新作です。ちょっと変わった人が集まってる小さなコロニーみたいのがあって、その皆さんが、死の商人に一泡吹かせようという、一種のファンタジーになります。この人の映画というと「デリカテッセン」とか「ロスト・チルドレン」のように、ファンタジックな世界がまずあって、そこにちょっと変な住人がいて、そこでブラックな笑いを含んだおとぎ話が展開するというパターンがあります。この映画も、出てくる連中が一癖ある変な人たちでして、タンブイユおばさんの隠れ家には、ギロチンじいさんとか、くねくねねえさん、計算機お嬢、発明じいさんといった変わり者ばかりがそろっています。そして、この皆さんがやろうというのが、武器商人の社長2人をワナにはめようというのですから、リアリティはほとんどない、おとぎ話の世界なんです。何というか、小学校の学級文庫に置いてある絵本みたいなお話なのです。

でも、バジルが事を起こそうというきっかけになるシーンは結構シリアスでして、兵器会社のパーティで社長がいかに兵器を開発して売りまくっているかをスピーチするシーンです。これを聞いていたバジルの目から涙がこぼれ落ちるのですが、そこに死の商人への想いを凝縮した、ジュネ演出はかなりマジです。ですが、そこからシリアスにならないあたりに、映画作家としてのセンスを感じました。コケにされる兵器会社の社長もリアルな死の商人というよりは、マヌケな悪役的な描かれ方をしています。そして、2つの会社を手玉に取って、お互いを喧嘩させようってのは、「用心棒」と同じ古典的パターンですが、その段取りを小気味良く見せてくれて、小さなカタルシスを積み重ねていく手法は娯楽映画として成功しています。

相手にしているのがシャレにならない類のものなので、ラストで大きなカタルシスを持ってくると、現実とのギャップでかえって意気があがらなくなってしまうのですよ。今でも、戦争で何千何万という人が命を失い、たくさんの地雷が人を傷つけ脅かしている現実を考えると、どう考えたって、めでたしめでたしというストーリーを組み立てにくいです。だからこそ、この映画では、あえて絵本のようなビジュアルで、おとぎ話を展開させているのだと思いました。ある意味、現実離れした空気感を全編に漂わせることによって、娯楽映画として成り立っているのだと言えます。そういうと、何だかギリギリの線でOKみたいに聞こえてしまいますが、映画全体としては、キュートで楽しい映画にまとまっていまして、この題材をうまく料理しています。この映画の絵本版を、小学校の図書室に置いて欲しいなと言ったら感じ伝わりますでしょうか。(若干、途中で悪い人が死にますので、そこは丸くまとめて)



この先は、結末に触れますのでご注意下さい。



バジルたちは、まず、2つの会社の社長の盗聴作戦から始めます。そして、一方の会社にアフリカの某国から武器の契約を持ち込まれたことから、具体的な行動を開始します。まず、某国の連絡員のポケットに麻薬を入れて、空港で逮捕させ、その後、連絡員に成り済まして、もう一方に社長にも武器取引の話をもちかけます。さらに、両方の会社に、イタズラをしかけ、それがお互いのやったことのように見せかけて、両者の対立を煽ります。そして、両者が直接対決するところにまで来てしまうのです。一方の会社の社長が、もう一方の自宅に直接を攻撃をかけるのですが、そこに盗聴していたバジルもつかまってしまいます。そこで、バジルの仲間たちはB作戦を発動、二人の社長が乗った車をでっかい磁石で吊り上げて、二人を誘拐、バジルを救出します。目隠しをされた社長はどこか遠くへ運ばれたようで、目隠しを取ると、片方が片方を肩車した状態で、一人は手榴弾を口にくわえさせられ、もう一人は地雷に足を置かれていました。周囲は中東風の格好した人々が、戦争で負傷した子供の写真を抱えています。逆上した二人はこれまでの自分たちのした事を洗いざらいぶちまけてしまいます。

しかし、そこは実はパリの市内で、中東風の皆様はバジルとその仲間たちでした。社長たちの言ったことはYouTubeで世界中に配信され、さらには兵器会社には官憲の手が入ることになり、バジルは復讐に成功します。そして、バジルはくねくねねえさんとラブラブになって、ハッピーエンド。

と、ストーリーを書いても、映画の内容はまるで伝え切れません。とにかく、物語よりもビジュアルを楽しむ映画ですので、一度、劇場へ足を運ぶことをオススメします。荷物に化けて潜入するとか、人間大砲とか、とにかく、どこか変で、おかしな世界は、筆舌に尽くしがたいという感じです。よく考えてみれば、死の商人に大恥かかせて何になるんだという突っ込みは入るのですが、それを言うのは野暮だというものでして、寓話として楽しむのが正解のようです。むしろ、死の商人を敵に回す物語で、ハッピーエンドに持っていったってことを誉めたいですもの。

これまでのジュネの作品同様、やや赤みがかった独特の画面を切り取ったテツオ・ナガタの撮影も見事ですし、現代のようでありながら、建物などのデザインを20世紀前半を思わせるデザインにして、リアリティと一線を画した美術も見ものです。また、音楽にマックス・スタイナーの昔の映画音楽を持ってきて、ドラマチックな絵空事の雰囲気を出しているのもうまいと思いました。ラファエル・ボーのオリジナル音楽は、寓話のふわふわ感を出すことに貢献しています。

「瞳の奥の秘密」のサントラ盤はオススメです。


濃いドラマが見応えあった「瞳の奥の秘密」の音楽を担当したのは、Emilio Kauderer とFederico Jusidです。(発音がわからないのでそのまま書きました。)作曲者の二人が編曲もし、ブルガリア・シンフォニー・オーケストラをDeyan Pavlovが指揮しました。

テーマ曲とも言うべき「The Dought」が静かなストリングスから、情念のうねりのように盛り上がっていくのが圧巻です。そして、曲の終わりは再び静かなストリングスにピアノの響きが暖かな印象を残します。今は亡きジョルジュ・ドリュリューの楽曲を思わせる、ダイナミックで繊細な音作りは、この映画を大きく支えていると申せましょう。殺人ミステリーの部分を描写する音も、ストリングスとピアノが不安な音を重ねるという正攻法ながら、ある種の格調の高さを感じさせるものです。コーラスの使い方も、それを前面に出して歌い上げるのではなく、オーケストラの1パートとして使っていて、それが音楽全体の厚みを増すことに貢献しています。

これは、オーケストラの演奏のよさもあるのかもしれません。ブルガリア・シンフォニー・オーケストラというのは、どちらかというと低予算B級映画の音楽を演奏することがあるのですが、ここでは、大変厚い丹精な演奏が素晴らしく、時としてドロドロとした方向に走りそうなドラマに格調と気品を与えていると言えましょう。本編と同じくドラマチックな展開をする音楽ですが、全体として、感情に流されない節度が感じられ、歌い上げているようで、抑制の効いた丁寧な音作りが見事です。この音が日本人の耳に馴染みやすいということもあるのかなという気がしました。メロディの美しさに加えて、情感と抑制のバランスが素晴らしいのですよ。

最近のハリウッド系映画では、こういう重厚な音楽が聴けなくなっていることもあって、ここ数年のサントラ盤の中では、最高の聞き物と言えます。日本盤は出ていませんが、輸入盤は、下記アマゾンから入手可能です。(2010/09/22現在)

最近の映画館の段取りがちょっとなじまない

今回はちょっとオヤジのグチでご容赦下さい。先日、日比谷有楽座で「食べて、祈って、恋をして」を観て、改めて思ったのですが、最近の映画館って、映画の始まりがダラダラしてるのが気になっています。

その昔、子供の頃は、映画館は、年に2、3回しか行けない特別な場所でした。で、映画館に入ると、スクリーン前には、幕があって(いい劇場だと緞帳でした)が、左右のスピーカーから音楽が流れていまして、レコード屋の名前が広告されていたように思います。家で見るテレビは19インチのモノクロでしたから、映画館で観る画面のでかさと美しさは大変インパクトがありました。

さて、映画が始まるときは、まず場外のベルが鳴り、その後場内のブザーが鳴って、幕が上がります、映画館によっては、左右に開く幕があるのですが、これが開く時間が、日常から非日常への転換ポイントになります。幕が開ききったころには、場内も暗くなっていまして、まずニュース映画が始まり、その後に予告編を何本かやった後、本編が始まります。二本立てだと、併映の上映の時には、ニュースも予告編もなく、即本編の上映となります。友達とガヤガヤ話していても、ブザーが鳴って幕が開く間には、なぜか姿勢を正して、さあ、映画だぞっていうある種の緊張がありました。場内の明かりが消えたら、そこから先は映画の世界、非日常の異空間になるというのが、大変、わかりやすい段取りになっていました。

今は、どの映画館も、基本がシネコン仕様になってしまいました。まず、スクリーンの前に幕がなくなりました。これによって、幕が開くというセレモニーがなくなり、映画が始まるというわくわく感が一つ消えました。スクリーン前の幕がなくなったということには一長一短ありまして、前に座った人間の頭が映画鑑賞の邪魔になるかならないかが、映画が始まる前にわかるというメリットは無視できません。空いてる映画館なら、他の席へ移動することも可能ですから。

さて、映画の開始時間が近くなってくると、いつの間にか、劇場の前の方だけ暗くなって、ケッタイなうさぎやリスがグダグダと会話するオチなしコントアニメが始まります。場内は暗くないので、お客さんも隣の人とのおしゃべりをやめる義理はないです。コントが聞き取れなくてイラっとくる人がいるかもしれませんが、そもそも観客全員に注目して欲しいわけではなさそうです。で、その後に、お馴染み鷹の爪団のアニメによる、TOHOシネマズの紹介コント。その後、場内がもう1段階暗くなって、コマーシャルが始まります。政府広報やらマヨネーズのコマーシャルが上映されて、その後、映画の予告編が始まります。このあたりまで来ると、場内はだいぶ暗くなってますが、その前からおしゃべりしてたおばちゃんたちは、おしゃべりを継続。何しろ、「映画が始まる」というきっちりとしたイベントがないんですから、気持ちを切り替えるタイミングがありません。そして、予告編が終わると、「ケータイの電源はオフに! 館内きーんえーん、上映中はお静かに、撮影禁止.... 」などの注意事項が流れます。さて、これで始まるかと思ってると、ドルビーデジタルのロゴがでます。さあ、これで本編が開始かと思うと、さらに予告編が出てくる。どうやら、本編フィルムの頭に予告編がついてるみたいなんです。そして、最近はおなじみになった著作権を守ろうキャンペーンの小芝居があって、やっと本編の始まり始まり。

正直言って、なげーよ。さらにいうなら、どこから映画鑑賞モードに入ればいいのかわかんなーい。日常から、映画鑑賞という非日常への切り替えポイントがきちんと設定されてないから、場内はずーっとざわざわしたままだし、どこから先が、映画鑑賞の時間になるのが曖昧だから、気に入らないと思っても文句を言う根拠がありません。映画館は、なぜこういうグダグダな映画の始め方をするのかしら。オヤジの言い方をすれば、映画鑑賞にけじめがないんですよね。確かに映画館の中で騒いだり、ウロウロするガキは、今も昔もなのですが、昔はニュース映画や予告編の最中でもうるさかったら注意の対象になりました。それが、今では、本編が始まるまでは、注意できない雰囲気なんです。

理屈で言うなら、徐々に場内が暗くなることで、観客の目を慣れさせるということもありますでしょうし、CMの時間までは、入場者を入れる前提で明るくしてるのかもしれないのですが、やはり、きちんとした線引きがないと、短気なオヤジはどこか落ち着かないのですよ。映画館によっては、まず「まもなく上映が始まります」という表示があって、しばらく間を置いて、かなり明るいままでCMから始めるところもあるのですが、これまた、ダラダラとしていて締まりがないのです。

確かに昔に比べると、場内で喫煙する人はいなくなりましたし(昔はひどかったです。おかげでタバコ嫌いになって今日に至っています。)、前の席に足を上げて観てるオヤジも見かけなくなりました。昔の映画鑑賞環境の方がよかっただなんて、口が裂けても言えません。でも、映画が始まるまでの、ダラダラ感はなんとかならないのかと思ってしまいます。テレビのコマーシャル時間みたいなトイレタイムのような扱いになってるような気がしますし、節目のない段取りは、結果的に行儀が悪くなると思うのですが、まあ、これは、オヤジのグチなのでしょうね。

あと、自分が何年か年をとって、オヤジからじいさんになったとき、この記事を読んで、共感するのか、「神経質なやっちゃ」と思うのか。どちらにせよ、その頃の映画館がより快適な場所になってくれていればと思いますです。

「食べて、祈って、恋をして」はバブル期のお気楽自分探しみたい

今回は新作の「食べて、祈って、恋をして」を日比谷有楽座で観てきました。周囲を見れば、若い人が少なくて、自分ひょっとして「おくりびと」の中に紛れ込んでしまったのかって思っちゃいました。若い人へのアピールポイントが少ない映画なのかなとも思ったのですが、本編を観て納得。若い人の映画の選択眼あなどりがたし。

ニューヨークで作家をしているエリザベス(ジュリア・ロバーツ)は、結婚8年目にして、ふと「自分とは何なんだろう」という問いに心奪われ、夜中に「神様、私はどうすべきでしょう」なんて言って、はらはらと枕を濡らす日々。遂には、良くも悪くもないダンナと離婚しちゃいます。その一方で年下のボーイフレンドもできるのですが、彼との関係も彼女の心を満たすことはできませんでした。そして、遂に一人で自分探しの旅に出ます。期間は1年、まずはイタリアへ飛びます。そこで、食べること、楽しむことの大事さを改めて認識します。そして、次はインドへ行った彼女は、修行の道場に入ります。瞑想の中で新しい自分を見つけることができたようで、さらに彼女はバリ島に向かいます。以前、行ったことのある薬療師のところに身を寄せているうちに、また新しい出会いが.....。

テレビなどで実績のあるライアン・マーフィ監督作品です。主演のジュリア・ロバーツを筆頭に、ジェームズ・フランコ、リチャード・ジェンキンス、ハビエル・バルデムといった豪華演技陣をそろえて一体どういう映画になるのかという、微妙な期待がありました。

映画は、バリ島旅行中のヒロインが有名らしい薬療師のもとを訪ねるところから始まります。悪気はなさそうだけど、信用もできそうもないじっちゃんの占いによると、2回結婚して、全財産失って、またここへ来ることになるのだそうですが、これがどうやら当たってるらしい展開になっていきます。ヒロインは社会的な地位もあり、友人にも恵まれ、ダンナにも特に不満はなさそうなんですが、なぜか、自分このままじゃダメだわ、今の自分は本当の自分ではないんだわ、とか真剣に思い始めて、なんとダンナと離婚してしまうのです。それまで、神様なんて思ったこともない彼女が、夜中に「神様お願い何とかして」って涙ぐんじゃうのですから、かなりの重症です。良く言えば、自分の人生を見つめなおす女性とも言えますし、悪く言えば、メンタル系地雷女と言うこともできましょう。

そして、外国に自分探しに出かけちゃうっていうのが、非常にストレートに描かれていて、そのあっけらかんとした行動にちょっと笑っちゃいました。行った先でも、ほとんど物見遊山の延長線で、何となく自分探し完了になっちゃうあたりは、悪く言えば安直なんですが、むしろ病状は軽症でよかったよかったという気分になります。イタリアやインドに対する紋切り型の描き方を観ていると、これバブル時代の映画なのかなって気もしてきちゃいました。OLさんがお金持ってたバブル時代の雑誌アンアンの「今、思いたったら、即実行の自分探し特集」みたいな感じなんです。イタリア、インドで自分を見つけたら、今度はバリ島で恋人も見つけちゃいましたという展開に、「リゾラバ」という死語を思い出してしまいました。観光半分のこういう至近距離内での自分探しを、この映画では臆面もなく正面から描いていますので、その滑稽さも、そこそこのマジメさも感じ取ることができます。でも、バブル期の空気を知っているオヤジからしますと、何だかおかしい、声を殺して笑ってしまうような映画に仕上がっています。

とはいえ、ヒロインが、変に宗教に走ったり、行きずりの恋を運命だとか思ったりはしないところに、それなりの節度は感じることができます。でも、ヒロインは、後になって、この時の自分探しを思い出したら、きっとものすごい恥ずかしいって思うんだろうなあ。私の世代の女性が、ベイ・シティ・ローラーズの追っかけをしていた過去を封印したくなるような感じです。(今でも、ファンの方、いらっしゃったらごめんなさい。)でも、それは、人生におけるちょっとした回り道程度のこと、そんなお気楽さが、この映画からも感じられるのはよかったと思いますです。

後半のバリ島の恋人役で、ハビエル・バルデムが登場したときは、「それでも恋するバルセロナ」のパロディかとも思ったのですが、ここで、大真面目に恋愛モードに入るのには、結構びっくりでした。スキー場の恋じゃないですが、こういうのを大の大人がやるのを、ストレートに見せるセンスはすごいかも。まあ、ヒロインの自分探しというテーマをストレートに描くという点では、徹底してると言えます。

ただ、気になるのは、ヒロインの年齢設定。ジュリア・ロバーツの実年齢と同じくらいのアラフォー世代だとすれば、こういう回り道をするには年が行き過ぎているような気がします。そういうのは、もっと若いうちにやっておけよ、と突っ込み入れたくなってしまうのは、私が保守的オヤジだからかもしれませんが、ちょっと子供っぽいよねって気はしちゃいました。ただ、これは、あくまでオヤジ目線なので、実際に女性、特にヒロインと同じアラフォー世代からすると、どう見えるのかは気になるところです。ファンタジーとして読むのか、バカにされてると思うのか、まだまだ見直しが効くんだって希望を持つのか、この映画をどういうふうに女性が楽しむのかというところにも興味が尽きません。

ところどころで聴かれるドラマを支える音楽がいいなと思っていたら、「つぐない」のダリオ・マリナネッリによるものでした。どっかふわふわしたタッチのドラマを人間ドラマのレベルに戻せたのは、彼の音楽によるところ大と言えましょう。

「瞳の奥の秘密」は、精神的なバックボーンのところで意外性がありました

今回は、新作の「瞳の奥の秘密」を日比谷シャンテシネ2で観てきました。地味な映画の割にはお客さんがたくさん入ってまして、誰かがメディアで宣伝したのかなって思っちゃいました。アルゼンチンの映画で、役者も監督の知らない名前ばかりですもの。

昔は裁判所の書記官だったベンハミン(リカルド・ダリン)は、引退した後、自分の担当した25年前のある事件についての小説を書き始めるのですが、なかなか筆が進みません。かつての職場に足を運ぶとそこには、かつての上司で今の現役判事であるイレーネ(ソレダ・ビジャミル)がいて、彼を迎えてくれました。かつて、彼女もその事件の担当だったのです。1974年、ブエノスアイレスの銀行員リカルド・モラレス(パブロ・ラゴ)の妻が暴行されて殺されるという事件が起こります。被害者のアルバムを見た、ベンハミンはその中に写っていたゴメスという男の異常な視線に注目し、ゴメスの身辺調査を始めました。しかし、そこで越権捜査を行ったため、彼は上司のイレーネ共々、判事から大目玉を食らいます。捜査は中断しますが、毎日駅に通っては犯人探しをしていた被害者の夫の姿を見て、ベンハミンは再度、リカルドを追います。そして、遂に彼を捕えて、自供まで持ち込むことに成功するのですが、事件はそれで終わらなかったのです。

アカデミー賞の外国語映画賞を受賞した作品で、アルゼンチンの映画祭でも数々の賞を受賞しています。私は、この映画については、予備知識なしで臨んだのですが、ある程度、アルゼンチンの歴史と、司法制度について知っていた方がいい映画です。主人公は、犯罪捜査をしているのですが、警察ではなく、裁判所の書記官であり、その職位はいわゆるノンキャリア組で、上司であるヒロインはキャリア組であること。また、1970年代のアルゼンチンは政情が不安定で、時としてお上の世界でもとんでもないことがまかり通った時代だったことは、知っておいた方がよさそうです。これは、映画のプログラムで説明されていました。高いだけで情報量のないプログラムも多いですけど、この映画は、鑑賞の補助資料として使えるプログラムになっています。

メインストーリーとしましては、25年前の事件の捜査の回想シーンが中心となります。亡き妻を想うリカルドの気持ちに打たれたベンハミンは、何とか犯人をつかまえようと奔走します。アル中の相棒パブロ(ギレルモ・フランチェラ)に振り回されながらも、そのパブロの活躍もあって、サッカーファンであるゴメスをサッカー場に張り込んで逮捕することに成功します。取調べのとき、ベンハミンと同席していたイレーネが、うまくゴメスを挑発して、自供を引き出すことに成功します。どうやら、ベンハミンとイレーネの間の男女の感情が湧いてきたらしいのですが、私にはそこがなかなか読み取れなくて、急に二人の間に気まずい空気が流れ出してびっくりしてしまいました。

イレーネは女性でもエリートでして、その身分相応の相手との縁談があったのですが、そのことをどう思うかなんて、イレーネは部下であるベンハミンに相談したりしているのです。このあたりの恋愛の流れですとか、その感情の変遷の見せ方は、日本映画やいわゆるハリウッド映画のパターンとはちょっと勝手が違っていまして、その分、わかりにくいという印象を持ってしまいました。感情というよりは、もっと底の方をゆっくりと流れる情念の動きとでも言うのでしょうか、お互いの腹芸の競い合いみたいな感じは、本編でご確認下さい。また、現在のシーンでは、ベンハミンは独身、イレーネは夫と二人の子供がいるので、余計目に二人の間にそんなドロドロしたものがあるようには見えなかったのですよ。

ともあれ、犯人は逮捕され、終身刑が言い渡されて、事件は一件落着ということになるのですが、ここで、回想シーンはまだ半分なのですよ。ある日、テレビを見ていたリカルドは、そこ大統領の護衛をしているゴメスを発見します。



この先は結末に触れますのでご注意下さい。



リカルドから知らせを聞いたベンハミンは、判事に事実を問いただすのですが、驚いたことに、ゴメスは刑務所で、反動分子の情報提供などの働きを認められ、釈放されていたのです。裁判所で、ベンハミンやイレーネの前で、これ見よがしに銃をひけらかすゴメスに対して、二人は何も言い返せません。さらに、相棒のペドロが、ベンハミンの家にいた時に彼と間違われて殺害されてしまいます。命の危険を感じたベンハミンはブエノスアイレスを離れて身を隠すことになります。イレーネとの別れの場でも、自分の想いを隠し通すベンハミン。そして、事件は一応の結末となったのでした。

さて、小説を仕上げるにあたって、どうにも腑に落ちないところのあるベンハミンは、リカルドとゴメスを探します。ゴメスは行方不明でしたが、リカルドは田舎で銀行員を続けていました。ベンハミンは、リカルドを問い詰めると、彼はゴメスを殺したと告白します。それでも、不審を感じた彼はリカルドの家を監視していると、彼が離れの家にゴメスを監禁しているのを発見します。リカルドはベンハミンに言います。「終身刑でしたよね。」

ブエノスアイレスへ戻ったベンハミンはイレーネのオフィスを訪ねます。自分の想いと向き合うために。そして、それはイレーネも待ち続けていたことなのでした。「簡単じゃないわよ」というイレーネの言葉にエンドクレジット。

正直、後半は大変濃い展開となります。正義なんてものが通用しない現実と、被害者に対する夫の愛情、さらにはベンハミンとイレーネの間の葛藤。イレーネとの再開は、ベンハミンにとってはパンドラの箱を開けたようなものなのかもしれません。それによって、彼は自分が事件と共に封じ込めていたものに向き合うことになるのですから。事件の結末を知ることは、彼にとって封じ込められていた恋慕の情を解き放つことにもなるのです。南米というと情熱的というイメージがあるのですが、その情熱にも、常に表に現れるものと、感情の奥底にマグマのように流れるものがあるんだなって気付かされます。エリートと高卒の身分違いの恋愛感情ってものもあったようで、あちらの国でもそういう階級差が恋愛の障害となるんだなってのは発見でした。

被害者の夫リカルドの執念とも呼べる愛情が、ベンハミンを揺り動かしたということも言えましょう。こういう感情は、日本人からすると尋常でないもの、非日常的なものになってしまうのですが、アルゼンチンでは、許容できるもの、日常と地続きにあるものかどうかが気になりました。リカルドの行った超法規的復讐が、どう受け取られるのかってことです。日本だと、その復讐自体が猟奇的、狂気の色合いを持って語られるのですが、もし、殺人犯がお上の手先になって銃を振り回せる国だと、正気の延長線で選択し得る行動なのかもしれないと気が付きました。文化の違いってのは、こういう映画を観て気付かされることもあります。普段、当たり前と思っていることが、それは、自分だけの当たり前、或いは日本だけの当たり前なのかなって、気付くことも大事ですもの。

ミステリーとしての面白さもありますし、普段知る機会のない、アルゼンチンの文化に触れることもできますから、こういう映画が公開されるのはうれしく思います。

観た映画〔あ〕

〔あ〕
「アーティスト」
「嗚呼 満蒙開拓団」
「愛、アムール」
「愛さえあれば」
「愛されるために、ここにいる」
「アイズ」
「愛する人」
「アイム・ソー・エキサイテッド」
「愛を読む人」
「アウェイ・フロム・ハー 君を想う」
「赤い鯨と白い蛇」
「赤い文化住宅の初子」
「アクトレス 女たちの舞台」
「アザー・ガイズ 俺たち踊るハイパー刑事」
「あしたのパスタはアルデンテ」
「あしたの私のつくり方」
「アジャストメント」
「アスファルト」
「アデライン、100年目の恋」
「アドレナリン」
「アナザー・プラネット」(DVD)
「あなたになら言える秘密のこと」
「あなたは私の婿になる」
「アナと雪の女王」
「ANNIE アニー」
「あの頃エッフェル塔の下で」
「あの日のように抱きしめて」
「あの日、欲望の大地で」
「アバウト・タイム」
「アバター」
「アヒルと鴨のコインロッカー」
「アフター・ウエディング」
「アメイジング・スパイダーマン」
「アメリカを売った男」
「アメリカン・スナイパー」
「アメリカン・ハッスル」
「アリス・クリードの失踪」
「アリスのままで」
「蟻の兵隊」
「ある愛の風景」
「ある海辺の詩人」
「ある過去の行方」
「アルゴ」
「ある終焉」
「あるスキャンダルの覚え書き」
「ある天文学者の恋文」
「アレクサンドリア」
「アンジェリカの微笑み」
「アンストッパブル」
「アンドロメダ」(V)
「アンナと過ごした4日間」
「アンノウン」(監督サイモン・ブランド)
「アンノウン」(監督ジャウム・コレット・セラ)

観た映画〔い〕

観た映画〔う〕

観た映画〔え〕

観た映画〔お〕

観た映画〔か〕

観た映画〔き〕

観た映画〔く〕

観た映画〔け〕

観た映画〔さ〕

観た映画〔し〕

〔し〕
「Gガール 破壊的な彼女」
「幸せになるための27のドレス」
「幸せの教室」
「幸せのちから」
「幸せのレシピ」
「しあわせはどこにある」
「しあわせへのまわり道」
「ジェイソン・ボーン」
「死刑台のエレベーター」(オリジナル版)(DVD)
「死刑台のエレベーター」(リメイク版)
「死刑弁護人」
「地獄の変異」
「シッコ」
「縞模様のパジャマの少年」
「ジミー 野を駆ける伝説」
「シャーロットのおくりもの」
「邪願霊」(DVD)
「灼熱の魂」
「ジャッキー・コーガン」
「ジャッジ 裁かれる判事」
「シャッター・アイランド」
「シャッフル」
「シャドー・ダンサー」
「シャトーブリアンからの手紙」
「ジャンパー」
「シャンハイ」
「終戦のエンペラー」
「16(jyu-roku)」
「16ブロック」
「守護神」
「主人公は僕だった」
「JUNO ジュノ」
「ジュリー&ジュリア」
「ジュリエットからの手紙」
「シュレック3」
「ショート・ターム」
「少女は自転車にのって」
「少年と自転車」
「処刑教室」(監督ブレット・サイモン)
「処刑剣 14 BLADES」
「女工哀歌エレジー」
「女帝 エンペラー」
「ジョニー・イングリッシュ 気休めの報酬」
「女優霊」(DVD)
「ジョン・ウィック」
「白雪姫と鏡の女王」
「シリアの花嫁」
「シルク」
「シルビアのいる街で」
「白い沈黙」
「白いリボン」
「親愛なるきみへ」
「シング・ストリート 未来へのうた」
「シングルマン」
「シン・ゴジラ」
「人生スイッチ」
「人生は小説よりも奇なり」
「人生はビギナーズ」
「シンドバッド 七回目の航海」
「しんぼる」
「親密すぎるうちあけ話」
「心理学者 原口鶴子の青春」

観た映画〔す〕

観た映画〔せ〕

観た映画〔そ〕

観た映画〔た〕

観た映画〔つ〕

観た映画〔と〕

観た映画〔な~の〕

観た映画〔は〕

〔は〕
「ハーヴェイ・ミルク」
「パーカー」
「her 世界でひとつの彼女」
「ハード・ソルジャー 炎の奪還」
「バードマン」
「ハード・ラッシュ」
「ハート・ロッカー」
「パーフェクト・ストレンジャー」
「ハーブ&ドロシー」
「ハウエルズ家のちょっとおかしなお葬式」
「白鯨との闘い」
「箱入り息子の恋」
「パシフィック・リム」
「はじまりのうた」
「バチェロレッテ あの子が結婚するなんて」
「Hachi 約束の犬」
「バツイチは恋のは始まり」
「ハッシュパピー バスタブ島の少女」
「パッセンジャーズ」
「バッド・ティーチャー」
「happy しあわせを探すあなたへ」
「ハッピー・フィート」
「初雪の恋」
「ハドソン川の奇跡」
「バトルガンM-16」(DVD)
「バトルシップ」
「花と兵隊」
「花の夢 ある中国残留婦人」
「花はどこへいった」
「パパが遺した物語」
「ハプニング」
「バベル」
「ハムナプトラ3 呪われた皇帝の秘宝」
「ハラがコレなんで」
「パラダイス・ナウ」
「パラノーマル・アクティビティ」
「パリ3区の遺産相続人」
「パリ・ジュテーム」
「パリよ、永遠に」
「パレードへようこそ」
「パレスチナ1948 NAKBA」
「バレッツ」
「バレット」
「バレンタインデー」
「ハングリー・ラビット」
「ハンズ・オブ・ラブ」
「パンズ・ラビリンス」
「ハンター」
「バンテージ・ポイント」
「パンドラの約束」
「ハンナ」
「ハンナ・アーレント」
「反撥」(DVD鑑賞)

観た映画〔ひ〕

観た映画〔ふ〕

〔ふ〕
「ファーストフード・ネイション」
「ファイヤー・ウォール」
「ファインド・アウト」
[ファウンテン 永遠に続く愛」
「フィクサー」
「封印殺人映画」(DVD)
「フェア・ゲーム」
「フェイク・クライム」
「フェイク・シティ」
「フォース・カインド」
「4デイズ」
「フォックス・キャッチャー」
「不完全なふたり」
「複製された男」
「袋小路」(DVD鑑賞)
「二つの祖国 日系陸軍情報部」
「フツーの仕事がしたい」
「不都合な真実」
「筆子その愛 天使のピアノ」
「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」
「冬の兵士」
「ブライズ・メイズ 史上最悪のウェディングプラン」
「プライスレス 素敵な恋の見つけ方」
「フライト」
「フライト・ゲーム」
「ブラインドネス」
「ブラインド・フィアー」
「フラガール」
「プラダを着た悪魔」
「ブラック&ホワイト」
「ブラック・サイト」
「ブラック・スワン」
「ブラック・ブック」
「ブラッド・ダイヤモンド」
「フランケンウィニー」
「フリーダムランド」
「ブリジット・ジョーンズの日記 ダメな私の最後のモテ期」
「ブリッジ」
「ブリッジ・オブ・スパイ」
「ブリューゲルの動く絵」
「ブルー・ジャスミン」
「ブルーノ」
「ブルー・バレンタイン」
「フル・スロットル」
「ブルックリン」
「ブルックリンの恋人たち」
「ブレイクアウト」
「プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ/宿命」
「ブレイブ・ワン」
「プレシャス」
「プレステージ」
「フレンチアルプスで起きたこと」
「ブロークン・イングリッシュ」
「ブロークン・フラワーズ」
「プロヴァンスの贈りもの」
「プロジェクトBB」
「フロスト×ニクソン」
「プロデューサーズ」
「プロメテウス」

観た映画〔へ〕

観た映画〔ほ〕

「ボローニャの夕暮れ」は期待どおりにならない、かなりケッタイな映画です。

今回は、東京での公開を終えている「ボローニャの夕暮れ」を横浜シネマベティで観て来ました。DLPによる上映だったのですが、エッジがにじんだりディティールの解像度があまりよくなかったのが残念。フィルムで上映して欲しいわあ。ところで、この映画の東京での封切りが銀座シネパトス、でも、イタリア映画でちょっとアートっぽい香りもするし、何だか、怪しい......。

1938年のイタリアはボローニャ、高校教師のミケーレ(シルヴィア・オルランド)は、美しい妻デリア(フランチェスカ・ネリ)とちょっと精神的に不安定な娘ジョヴァンナ(アルバ・ロルヴァケル)の3人暮らし。男の子に奥手なジョヴァンナのために、単位をたてに男の子を紹介したり、ちょっと変なオヤジでもあります。向かいの部屋の警官の友人のおかげで、ちょっとした贅沢をしたりしてるあたり、あまり人格高潔とは縁がない人のようです。ある日、変わり者のジョヴァンナの唯一の親友が行方不明となり、翌日、親友は死体となって発見されます。当初は、男関係のもつれかと思われたのですが、真犯人は実はジョヴァンナだったのです。でも、ジョヴァンナの自供は、自分は被害者だとか変なこと言ってます。裁判では、彼女の精神状態が尋常でなかったとして、責任能力なしで、精神病院へと送致されることになります。ミケーレはとにかく娘がかわいくて仕方がない、何度も病院へ面会に行き、戦争で鉄道が壊されると、病院の近所に引っ越してしまいます。一方、妻のデリアは、娘のことを一切語ろうとしなくなり、面会にも行きません。そして、戦争も終わり、ジョヴァンナは回復したと診断され、退院することになります。

プービ・アバーティが、原案、共同脚本、監督と3役をこなしました。「ボローニャの夕暮れ」というつかみどころのない邦題と、銀座シネパトスでロードショーということで、まあ、あまり多くは期待すまいと思いつつ、スクリーンに臨みました。第二次大戦の直前から、戦後までのある家族のありようを描いています。と、そういう映画だったと気付くのは、ラストでして、前半は、殺人事件にまつわるミステリーのような展開になっています。事件の夜、ミケーレは夜帰ってきて、かみそりとタオルに血がついてるのを見つけて、何だか変だぞと思うのですが、その翌日、娘の親友が刃物でめった切りにされて殺されてしまうのです。でも、男関係が怪しいという警察の話を聞いて、一度は胸をなでおろすミケーレ。ところが、警察が家にやってきて、ジョヴァンナを尋問に連れて行ってしまいます。

ドラマは、ほとんどミケーレの視点で描かれますので、実際のところ、ジョヴァンナが殺したのかどうかはよくわかりません。彼は娘かわいさもあって、誰かがジョヴァンナをはめようとしているのではないかと疑ったりもするのですが、本人が「私がやりました」と自供しちゃってるので、どうも本当のことらしいです。彼女が犯人であることは、すぐに街中に知れ渡ってしまい、周囲から白い目で見られてもう大変。ミケーレは、娘のことを思いながらも、周囲の冷たい視線を悲しむのですが、一方の妻のデリアはすごく冷ややかで、娘に会いに行くことも手紙を書くこともしません。ミケーレの娘への溺愛ぶりも尋常でないなら、母親のクールな対応もまた尋常ではなさそう。そんな、ぎくしゃくした親子関係をアバーティの演出は淡々と、でも淀みなく描いて行きます。

ムッソリーニの台頭から第二次大戦勃発から敗戦へという時間の流れを手際よく見せながら、どこかに山場とか愁嘆場を作ることなく、とんでもないことになった家族の悲劇をクールな視線で切り取って行きます。でも、メインのストーリーは、メンタルが怪しい娘が親友の女の子を殺して、精神病院送りになってしまうというかなりハードなドラマです。娘の精神が怪しくなったのには、親にも責任があるという見せ方になっていますし、この一家は映画の前半で悲劇のどん底に落とされたと言えるでしょう。日本でこういう発端のお話なら、最後は、一家心中か、家族離散で決着がつきそうな題材です。でも、この映画の舞台は日本ではありません。そして、私のような日本人には理解しにくい不思議な結末へと映画は走っていくこととなります。



この先は結末に触れますのでご注意下さい。



ジョヴァンナは自分の行った殺人について、責任の意識はあまりないみたいです。また、裁判での証言から、かなり自己チューで思い込みの強い子だったというのもわかってきます。普通のドラマなら、彼女を責める立場を取るか、或いは同情を持った視線で見るか、その立ち位置を明確にしそうなものですが、この映画では、距離を置いて、クールな視点で彼女を描写します。そのせいか、見た目からしてジョヴァンナは危ない感じがする、いわゆる、あまり関わり合いを持ってはいけないタイプの人なのですよ。一触即発な爆弾を抱えた、心の弱い人であるジョヴァンナは、精神病院に入れられるのですが、周囲は正気じゃない人ばかりで、余計目におかしくなりそうな環境です。まめに病院に面会に行く父親の前でも、心がどっかへ行っちゃってる感じです。そんな病院の医師が意外なことを言い出します。この精神の異常な状態の原因は、母親に対する嫉妬から来るのではないかと。確かにボワンとしたミケーレには不釣合いなきりっとした美人のデリアは、娘に対して距離をとっているのですが、どうもこの母娘の間には、何かしら確執があるみたいです。でも、ホントのところはわかりません。ミケーレの視点で描かれるドラマは、彼の窺い知ることのできないことは、わからないままにしてあるのです。

向かいの部屋の友人とデリアがお互いを想いあっている、なんてことを、ミケーレは言い出しますが、これとて、彼の妄想かもしれないし、ひょっとしたら本当かも、という見せ方になっています。そもそも、殺人の真相についても、よくわからないところがあります。家族なんて言っても、お互いにわからないところが多いということに気付かされるのですが、まあわからなくても、家族なんだしってところにこの映画の味わいが感じられました。ともかくも、精神を直すにはふさわしいとは思えない場所に数年いたジョヴァンナは、戦後になって、退院することができました。父と娘は久しぶりにボローニャの自宅に帰るのですが、そこには、デリアの姿はありませんでした。向かいの友人一家は、戦争中の爆撃で奥さんが死亡、友人は戦前戦中とファシスト党の支持者だったせいで、戦後、反動分子として処刑されてしまいます。でも、ミケーレとジョヴァンナは、何とか生き延びてるあたりで、うーん、こいつら結構しぶといんじゃないかってところに気付かされます。

そして、退院して、さらに7年後、ミケーレとジョヴァンナは仲良く暮らしているのですが、何だかやたら幼稚で下品な会話で盛り上がっていて、かつての高校教師の面影はありません。そんなある日、二人で映画を見に行くと、男と二人連れのデリアを見かけます。ジョヴァンナは母親に声をかけるのですが、ミケーレは娘を劇場の外に連れ出して、帰ろうとします。ふと振り返ると、そこに笑みを浮かべたデリアがいました。そして、ジョヴァンナのナレーションが入ります。「この3ヶ月後、3人は再び一緒に暮らすことになりました」おしまい。

ええー、そういうオチかい?と驚くとともに、最後まで見て、ようやっと映画の全貌が見えてきました。映画の冒頭で、ジョヴァンナの「これは私がまだ高校生だったころの話だ」という趣旨のナレーションが入ってました。そして、そのことを思い出すと、この映画は、家族に起きた事件を描いたのではなく、家族の生きた時間を描いた映画だと気付かされました。色々、あったけど、まあこんなものよ風な見せ方は、ふてぶてしくも思えるほどしぶとくて強いのですよ。尋常じゃない事件があったけど、それを右から左に受け流していく強さは、大変楽天的な人生観と言うことができます。ミケーレももともと人格的に大した人じゃないし、殺人事件の発端を作った張本人です。デリアだって、夫にも娘にも愛情が薄くて、父と娘の窮地も見て見ぬふりを決め込んでました。ジョヴァンナは親に甘やかされたからもしれないけど、自己チューで嫉妬深くて、逆上すると人を殺しちゃうような、正直言って社会不適合者です。

そんな、困ったちゃんな3人ですが、それでも生きて行くパワーがあります。どこか、社会常識とずれたところはありますけど、そのずれに無頓着でいられる強さは、ちょっとうらやましいかもって思ってしまいました。でも、端から見れば、やっぱり変な一家ということになります。特に、父と娘の不思議な絆は、普通の親子関係とはちょっと違うもののように思えました。二人は対等というか、運命共同体みたいな関係です。そんな関係が、殺人事件や精神病院や戦争といった、人生における大事件(大きなハードル)を乗り越えていくというのを淡々と描くことで、ラストに何とも言えぬおかしみを出すことに成功しています。

人生を描いたドラマというと、最初はコミカルに始まって、段々ヘビーな展開になるという「面白うてやがて悲しき」というのが定番なんですが、この映画は、オープニングでド悲劇をぶつけてきておいて、その先のドラマを淡々と描くことで定番とは逆の「悲しゅうて、やがておかしき」という展開になっているのです。観ている方としては、ドラマの構成がなかなか見えなくて、「何なんだこれは?」と思っているうちに、異常な状況に置かれた家族3人の意外なしぶとさに、さらに「何なんだこれは?」という気分にさせられるのですよ。特に、ラストのナレーションで示される、あっけらかんとした結末には、この映画は最終的にコメディだったのかと気付かされます。

普通じゃないドラマの構成は、普通の家族愛や感動をもたらすものではありません。そのあたりの、ある意味期待を裏切るとっつきの悪さが、シネパトス級の映画だと言えるのかもしれません。

「インセプション」のサントラはハッタリかましてるのが聴き所


クリストファー・ノーランの夢オチかもしれない大作「インセプション」の音楽を担当したのは、「バットマン・ビギンズ」「ダーク・ナイト」で、ジェームズ・ニュートン・ハワードと音楽を共作したハンス・ツィマーが、単独での登板となりました。ツィマーとハワード・スカーがシンセサイザーのプログラミングをし、オーケストラをマット・ダンクリーが指揮しています。

オーケストラとシンセの低音を思いっきり鳴らすことにより、映像を背後から支えるような音になっています。音楽的には、ドラマとシンクロして物語を盛り上げる音楽と、夢の世界観を音楽にしような環境音楽の2つのラインで構成されているようです。デジタル録音の低音部を最大限に使っているようで、よく言えば重厚、悪く言えばやたらとうるさいとも言えると思います。音楽的には現代音楽の響きがありまして、夢の世界の描写音楽は、フィリップ・グラスの「コヤニスカッティ」を思わせるものがありました。非日常の世界を描いた記録映画の音楽のように聞こえてくるところが面白いところです。

ツィマーの音楽は、ハリウッド以前のシンセサイザー中心のドラマチックな音作り、そして90年代のアクション映画で、シンセとオーケストラを同等にあつかって厚い音で映像を煽るような音が印象的でした。最近では、「リング」に代表されるような環境音楽のような音も盛り込んで、さらに奥行きを増してきたように思います。かつては、重厚だけど鳴りっぱなしという印象が強かった彼の音楽も、最近ではいい意味でメリハリがついてきているように思います。(「フロスト×ニクソン」なんか、そういう意味でかなり好きな音です。)

夢の中のインセプション作戦を描写する部分では、シンセパーカッションとオケによる秒刻みのサスペンス音楽をつけており、画面の動きよりもテンポの速いリズムを刻むことで、緊迫感を煽っています。最近のサスペンス映画における、定番とも言える音ではあるのですが、楽器をこれでもかと重ねていて、音としての圧力が強いことが、ツィマーの特徴になっています。これは、ある意味、映像以上のハッタリを含んでいるのですが、この映画では、そういうハッタリがいい方に作用していまして、夢の世界が現実とものすごく離れたところにあるというのが、音楽で表現できています。

この映画は、ドラマとしての起伏は全てアクションで描写されていますので、エモーショナルなシーンはほとんどありません。音楽も、感情とか情緒といったものをばっさり切り捨てていますので、ある意味潤いを欠いているのですが、それにより、アルバムとして聴いてみると、アンビエント風環境音楽という趣が出ました。その昔の映画音楽というと、どんなジャンルの映画でも、メロディラインが前面に出る「愛のテーマ」が入っていたのですが、最近はあまり見かけなくなりまして、このアルバムにも、愛のテーマと呼べる曲はありません。現代の映画は、愛も希望もない味気ないものになったのかということも可能かも知れませんが、それよりは、愛を描写したシーンに音楽をつけて盛り上げる演出をしなくなったように思えます。

こういう重厚で幻想的な音楽は聴いていてイメージが広がるので、音楽としても聴き応えがあります。同様のサントラというと、最近では「シャッター・アイランド」、先述の「コヤニスカッティ」、クリフ・マルチネスの「ソラリス」、ハワード・ショアの「コップ・ランド」などがあります。

「コップ・アウト 刑事(デカ)した奴ら」は懐かしいバブル期サウンドだけど若い人には新鮮かも


知る人ぞ知る監督による「コップ・アウト 刑事(デカ)した奴ら」は、一見さんには、ゆるーい刑事ものにしか見えないのですが、その音楽を担当したのが、ハロルド・フォルターメイヤーというのがちょっとビックリ。「トップ・ガン」「ビバリー・ヒルズ・コップ」などを手がけた人で、いわゆるバブル時代のBGMとしてしっくりする音を書く人です。

この映画でも、まず主人公を描写するテーマが、「ビバリー・ヒルズ・コップ」の続編かと思わせる似た曲調になっています。シンセパーカッションによるゆっくりしたビートに、キーボードによるシンプルなテーマがかぶさっていく、いわゆるフュージョン系サウンド。映画音楽でフュージョン系というとデイブ・グルーシンがいますけど、グルーシンがジャズ寄りなにの、フォルターメイヤーはロック寄りという違いがあります。軽めの音だけど、ノリのいいサウンドは、心地よく、サントラアルバムはBGM代わりにも使えます。パティ・ランベルの歌も1曲最後に入っていますが、これもフォルターメイヤーの手になるものなので、全体のトーンに合った、なかなかにかっこいい曲です。

ドラマ部分をサポートする音楽は、パーカッションが軽やかにリズムを刻みながら、キーボードの音が絡んでいくというものです。90年代以降、ハンス・ツィマー一派(メディア・ベンチャーズ→リモート・コントロール)がより、テンポを速めて、ビートを重くした、今風のアクションスコアが幅を利かせてくると、フォルターメイヤーの音はハッタリ不足なのか、段々と廃れて行ってしまいました。それでも、久々にこういう音楽を聴くと、これはこれでありだよなという気になるから不思議です。特にこの映画のようなライトコメディには、きっちりとはまるのですよ。


「コップ・アウト 刑事(デカ)した奴ら」は情報を仕入れて気分を盛り上げて観たほうがいいです

今回は新作の「コップ・アウト 刑事(デカ)した奴ら」を銀座シネパトス3で観てきました。この映画、前売券は発売されていないのですが、プロブラムは作られているという微妙な感じなのです。映画を観てみれば、さもありなんと納得してしまいました。銀座シネパトスと言えば、セガールの聖地、或いはビデオスルー寸前の映画のサルベージ映画館として有名なんですが、その劇場カラーがよく出ている映画でありました。

ニューヨーク市警のジム(ブルース・ウィリス)とポール(トレイシー・モーガン)はコンビを組んで9年になるんですって。麻薬取引の情報を聞き出して張り込んだはいいものの、余所見をしていて証人は殺され、売人には逃げられてしまい、無給の停職処分になっちゃいます。娘の結婚式を控えて、お金の必要なジムには大ショック。そこで、お宝のベースボールカードを売ろうとするのですが、そこへ強盗が現れてカードも持ってかれてしまいます。野球カードと言っても8万ドルもする代物ですから、ジムは犯人さがしに躍起になります。そして、ジムとポールは強盗デイヴ(ショーン・ウィリアム・スコット)を探し出すのですが、カードは既にヤクと交換した後でした。ヤクの元締めポー・ボーイ(ギレルモ・ディアズ)のところに乗り込んだ二人ですが、そこで、彼らが探している盗難車を見つけたら交換だと言われて、車を探し出すことになります。見つけた車のトランクには女が閉じ込められていました。どうやら、元締めの探しているのは、この女ガブリエラらしいのですが、さて、どうしたものかしら。

知る人ぞ知るケビン・スミスの監督作品です。とはいえ、私は知る人ではなくて、この映画がお初です。冒頭からして、刑事もののバディムービーであることはわかるのですが、どういう風な立ち位置だとこの映画が楽しめるのかがよくわからないまま、映画が終わってしまいました。冒頭の取調べのシーンでポールがやたらと映画のセリフを引用するシーンは若干クドいとは言え、そこそこ楽しめたのですが、その後になると、笑いのキューをうまく見つけられないって感じなんですよね。ポールを演じるトレイシー・モーガンというのは、有名なスタンダップコメディアンらしいのですが、こいつがイラつくバカっぷりを見せるのですよ。それもオチのないバカっぷりというのが、こっちが疲れちゃうって感じ。

さらに、ジムのベースボールカードを強盗したデイブってのが出てきて、かなり出番があるのですが、こいつもイラつくキャラの割りにオチがない。ポールやデイブがしゃべくってるのを楽しめと言われてもなあって感じ。英語がわかると、会話の面白さも読み取れるのかもしれませんが、少なくとも日本語字幕を追ってるだけでは、どこが面白いのかさっぱり(これは翻訳が下手なのかも)ですもの。でも、ポールもデイブもドラマの中では肯定的な扱いなんですよね、これが不思議。これが知る人ぞ知る監督のお約束事なのかもしれませんが、一見さんの私にはついてけないところ多かったです。ポールなんて、やかましいだけのホントに無能な警官なんですもの。ジムがなぜこいつをかばうのかがよくわからないのですが、ブルース・ウィリスの妙におとなしめのキャラもらしからぬって印象でした。

きっと、役者のことを知っていると笑えるのだろうなって思いました。志村けんのコント番組で、志村けんがものすごい不愉快で迷惑なキャラを演じることがよくあるんですけど、それはそれは面白いのですよ。でも、志村けんを知らない人が初めてそのキャラを見たら、やはりきっと不愉快に感じるのではないかしら。私は、トレイシー・モーガンもショーン・ウィリアム・スコットも初見なので、演じてるそのままのキャラしか見えないので、彼らの面白さが透けて見えてこないのですよ。同じやりとりを志村けんと柄本明がやったら、爆笑できるんだけどなあ。

刑事モノとしては、サスペンスも緊張感もなく、ゆるーく展開していくのですが、突然トランクの中から登場するメキシコの愛人ですとか、ジムの奥さんが、不自然に美人なのが、妙なアクセントになっています。特にジムの奥さんエヴァを演じたミシェル・トラクテンバーグがかわいいのですよ。この先、もっとメジャーな映画に出て欲しい逸材だと思いましたです。



この先は(ゆるーい)結末に触れますので、ご注意ください。



トランクから出てきた彼女は、一緒にいるとジムやポールに迷惑がかかると思い、姿を消します。彼女が残した十字架のネックレスは実はUSBメモリでそこには麻薬の顧客情報が入っていました。ポー・ボーイの狙いはこの顧客リストだったのです。一方、ジムとしては何としても、娘の結婚式の費用のためにカードを取り戻すべく、ポー・ボーイの家に忍び込むのですが、そこへ戻ってきたポー・ボーイたちがガブリエラを捕まえて戻ってきます。このままでは彼女の命が危ないということで、ギャングたちを分断する陽動作戦をとって、最後はポー・ボーイを仕留めることに成功します。でも、8万ドルの野球カードは、ジムとポールの撃った弾のおかげでおじゃんになっていました。

ラストは、娘の結婚式。結局、元妻のダンナが費用を出して式は無事にとりおこなわれることになりました。式での父親役にジムと元妻のダンナの二人が名乗りをあげようとしたとき、ポールが元妻ダンナに銃を突きつけて黙らせてハッピーエンド。うーん、ラストは笑いどころなのかな、なーんか違うような気もするのですが、ま、ゆるーい映画に細々とケチをつけるのも野暮かなってところでおしまい。

クライマックスの銃撃戦もどこかゆるーい感じ。これをかっこつけていうと、オフビートな笑いって言い方もできるのかもしれませんけど、まあ、銀座シネパトス3でロードショーする映画だから、こんなものかなって納得してしまいました。私は、いわゆるB級映画って嫌いじゃないですし、世間からボロクソ言われる近年のスティーブン・セガールのローバジェット映画も結構楽しんでしまう性質なんですけど、この映画は、終始「ふーん」って感じでした。こういう映画はある程度の予備知識を持って臨んだ方が楽しめるんでしょうね。あの(?)ケビン・スミスが、ブルース・ウィリスと、あの(?)トレイシー・モーガンと組んだバディムービー、それにあの(?)ショーン・ウィリアム・スコットも出てるんですよ、すごいでしょ? という気分を盛り上げて観るのがいいみたいです。

そんな一見さんには敷居の高い映画でしたけど、同僚刑事役のケビン・ポラックがまともな脇役演技をしていて結構光っていたのが印象的でした。また、音楽を「ビバリー・ヒルズ・コップ」のハロルド・ファルターメイヤーが、90年代をほうふつとさせるかるーいスコアを書いていまして、雰囲気作りに一役買っていました。

「インセプション」は大作風のハッタリが意外なところに落ち着くのでびっくり

今回は、新作の「インセプション」を川崎チネチッタ6で観てきました。元のフィルムがそうなのか、劇場の設定のせいなのか、やたら、やかましい上映でした。音のでかさは、この映画のカラーに合っていることから、フィルムへの録音レベルが高かったのかしら。に、しても、うるさい。

コブ(レオナルド・ディカプリオ)は、ターゲットとなる人間の夢に入り込み、そこから情報を盗み出すことを生業としていましたが、ある時、標的となったサイトー(渡辺謙)に見破られて失敗してしまいますが、逆にサイトーから、ライバル企業をつぶすために、情報を盗むのではなく、情報を刷り込むインセプションの仕事をやらないかと申し出を受けます。コブの相棒アーサー(ジョナサン・ゴードン・レヴィット)は反対するのですが、サイトーから「家に帰れるようにしてやる」という条件を言われて、その気になります。コブは、妻モル(マリオン・コティヤール)を殺した容疑がかけられていて、子供に会えない状態にありました。そして、コブは、インセプションのためのスタッフを集めます。夢の構築師アリアドネ(エレン・ペイジ)、鎮静剤の調合師ユスフ(ディリーブ・ラオ)、偽造師イームス(トム・ハーディ)たちが集められ、標的となるロバート(キリアン・マーフィ)の調査とインセプションの準備が始まります。夢の中の夢のさらに夢の中にまで入り込む作戦が立てられるのですが、果たしてうまくいくのかしら。

「ダーク・ナイト」のクリストファー・ノーランが脚本、監督を兼任したSFものの一編です。夢の中に入り込んで、情報を盗み出すという産業スパイが、さらに難しい情報の埋め込みをやることになるというお話ですが、冒頭の夢のシーンからして、何だかやたら重々しくてハッタリを効かせています。最近の映画だと、「シャッター・アイランド」みたいな感じで、ものすごく思わせぶりで、夢を作ってそこへターゲットを誘い込むってのはすごいことなんだなあって思わせる展開です。やり方としては、ある機械にみんながつながって、その中の誰かの夢に入り込むというもの。そして、その夢の中で、同じように機械につながって夢の世界に入ると、ターゲットの心理のさらに深層に踏み込むことができるのだそうです。今回の作戦は3層目の夢の中で、ターゲットに親の企業を継ぐことを断念する意識を植え込もうというわけです。

しかし、このチームの中で、コブが弱点であることがわかってきます。コブの死んだ妻モルが現れて、ミッションの邪魔をするのです。コブが妻の死に対して罪悪感を持っていて、それがモルの姿形となって、夢の中で悪さするわけです。チームリーダーがメンタルに爆弾抱えていて、ミッションがうまくいくのかって気がするんですが、この主人公、結構エゴイストでやな奴です。さらに、今回は、3層の夢に入り込むことで、夢の中で下手に死んだりすると、精神が虚無の中に陥って、正気に戻れなくなるんですって。これも、コブは知ってて、チームには黙ってたというのですから、ひどい話です。

夢の世界に置いては、視覚的な見せ場がふんだんにあり、なかなか見応えがあります。夢の世界が崩壊したり、超自然的な動きをするあたりをかなりお金をかけた絵作りをしています。役者も上記の面々の他に、マイケル・ケインやピート・ポスルスウェイト、トム・ベレンジャーとなかなかに豪華で、大作感があります。2時間半という長さを感じさせない演出のうまさもあって、観終わってからの満足感は十分です。

夢の中で意識の埋め込みをやるというミッションが、映画の後半なんですが、ラストで、コブとモルの関係が再度ドラマの中心に据えられます。夢と現実の線引きの問題が出てくるのですが、これが2時間半の映画を支えるには、弱かったようで、前半のハッタリで逃げ切ったという印象になっちゃったのが残念でした。特に、後半に明らかになる映画のテーマが、それほど大したことじゃないよなあって内容なのは、残念でした。所詮、夢の話なので、大山鳴動鼠一匹みたいになるのはやむを得ないところはあるのですが、そこんところは、この後、触れます。



この先は結末に触れますのでご注意下さい。



ターゲットであるロバートの夢の中に入り込んだコブたちなんですが、ロバートの防衛本能による、武装した連中に追い掛け回されて、サイトーが負傷、さらに、コブの夢のイメージが登場したりと、様子がおかしくなってきます。それでも、ロバートをだまして、さらに深い夢の世界へ誘い込むことには成功します。しかし、そこにまたしてもモルが現れて、ロバートを射殺してしまいます。実は、モルは自殺していたのですが、その原因となったのは、コブによる「夢から覚めて現実へ戻るべき」というインセプション(刷り込み)でした。モルは現実世界に戻っても、さらに夢から覚めるべきだと思い込み、夢から覚めるために、その世界での死を選んだのでした。そして、コブの深層意識の中で、彼の罪悪感がモルの形となって、彼を苦しめ、ついには夢の世界に彼を留まらせようとしていたのでした。

このままでは、ロバートが夢から無事に戻れなくなるので、アリアドネの提案により、さらに深い夢の世界に入り込んで、生きてるロバートを引き上げようということになります。さらに深い層の夢の中で、コブは、モルと正面から向き合うことになります。モルは夢の世界に留まることを要求し、コブは自分は夢の中に残るというそぶりを見せるのですが、ここでドラマが若干見えなくなって、みんなが無事に現実世界に戻ってきちゃいます。そして、ミッションは成功したらしく、コブは無事に家に帰り、子供たちと対面するのですが、これが実は、コブの夢なのかもという余韻を残してエンドクレジットとなります。

コブという人間の罪の意識の葛藤が、他のメンバーを危険にさらすという設定は、あんまり愉快なものではありませんでした。それに、この映画で語られるインセプションってのは、特に新しい概念ではなく、「洗脳」ってのがモロにそれです。CMや教育による洗脳、催眠誘導による記憶の刷り込みなど、別に夢を使わなくて達成できるものです。モルは、夫であるコブによって、洗脳された挙句に、その刷り込まれた意識の延長で自殺したわけですから、倫理的に見れば、コブが殺したといっても、そう外れていません。その割には、コブ本人は妻を殺した意識があまりないんですよね。他の連中を危険にさらしても、とにかく家に帰りたいだけで、妻の死を背負い込む根性もありません。うーん、考えれば考えるほど、やな奴だなあ。ラストも、現実だろうが、夢の世界であろうが、コブにとってはハッピーエンドですからね。

そして、事の発端になったのは、コブとモルが夢を共有し、そこで理想の世界を構築した結果、モルがそこから現実に戻るのを拒否したからということらしいのです。それが特別なことかというと、そうではなくて、快楽を求めた結果、抜けられなくなった、ドラッグ中毒と同じようなものです。快楽を追求した結果の中毒状態だと言ったら酷かもしれませんが、でも、「夢と現実」なんてもの使わなくても、ごく日常的に語られうる題材です。

結局、この映画、冒頭で夢の中に入ることを大ハッタリをかまして見せてくれてはいるのですが、その核となる部分は、夢の中に入り込むこととは大して関係なかったのです。だから、観終わった感じが大山鳴動鼠一匹なのは、結局、「夢の中に入り込む」という魅力的な題材に、それにふさわしい物語をつけ損なったのかなって気がしました。

夢の世界の映像化はなかなか魅力的でしたし(夢の町が変形するところが圧巻)、007シリーズのクリス・コーボールドによる特殊効果も迫力あるアクションシーンを生み出しています。役者もそれぞれ好演していまして、映画としての作りは充実しています。「バットマン・ビギンズ」では、半端な役どころだった渡辺謙も今回はいいところを見せます。それだけに、前半の大ハッタリが、後半で主人公の内面の葛藤に収束してしまうのは、何だか「やられたなあ」って気もしてしまうのでした。

ハンス・ツィマーによる音楽が、「ダークナイト」での、ジェームズ・ニュートン・ハワードの音に近い重厚な音作りで、この映画のハッタリ部分をうまく支えていました。

「ソルト」は、ヒロインかっこいいだけじゃなく、かなり面白いから好き

今回は新作の「ソルト」を横浜シネマリンで観てきました。フジサワ中央も閉館してしまって、神奈川県でも珍しくなってしまったシネコンじゃない映画館の一つになってしまいました。デジタルじゃない音響ってのも珍しくなっちゃいました。アナログの音も、それはそれで嫌いじゃない私としては、生き残って欲しい映画館です。

CIAのエージェントであるイブリン・ソルト(アンジェリナ・ジョリー)は、その素性をかくして、生物学者に近づいて、そのまま結婚していました。今は愛すべき夫となった男との結婚記念日に、ロシアの特務機関にいたというオルロフ(ダニエル・オルブリスキー)という男が情報を提供すると言ってきました。イブリンの同僚テッド(リーヴ・シュライバー)と防諜部のウィリアム(キウェテル・イジョフォー)たちが立会い、イブリンがオルロフを尋問します。彼の話は驚くべきものでした。米ソ冷戦時代に、ソ連が多く子供たちを忠実なスパイに仕立て上げ、アメリカに送り込んでいたというものでした。そして、イブリンもそんなスパイの一人だと言い出します。そして、彼女の使命は、訪米中のロシア大統領の暗殺だと。身柄を拘束されそうになったイブリンですが、夫の身を案じて脱走、そして、彼女はニューヨークに現れ、ロシアの大統領暗殺を実行してしまいます。やはり、彼女はロシアの送り込んだ二重スパイだったのか、それとも?

アンジェリーナ・ジョリー主演のスパイアクションです。「リベリオン」で孤高のヒーローをマンガチックに描いたカート・ウィマーが脚本を書き、「パトリオットゲーム」「ボーン・コレクター」で重量級のサスペンスアクションを演出したフィリップ・ノイスが監督しました。この監督さん、作品数は多くないんですが、きちんと娯楽映画を作れる腕のある人でして、「裸足の1500マイル」のような感動作も手堅く作っています。そんな彼の新作ということで興味が出ました。

物語は、すぐに動き出します。オルロフがCIAに情報提供してきて、イブリンを逆スパイだと言い出して、イブリンがその場から脱出しようとするのですが、そこからはかなりの尺で、CIAとイブリンの追跡劇となります。部屋にあるものを使って爆弾を作ったり、一瞬の判断でトラックの飛び乗ったりと、イブリンが只者でないことがわかってきます。派手な追跡シーンの連続ですが、CGを前面に出すことなく、リアルな生身のアクションの見せ方をしていることで、かなりはらはらする見せ場になっています。アクションシーンを監督したのは新しい007シリーズでスタントを指揮したサイモン・クレーンでして、華のある見せ場を盛り上げています。

家に帰ってみれば、夫はいない。どうやら、どこかへ連れ去れらたようです。一方、CIAの追っ手がやってきて、またまたここで追跡シーンとなります。その追跡に合間に、イブリンとダンナの出会いの回想シーンが挿入されるのですが、ヒロインが逃げ回っているうちに、お話のバックボーンが見えてくるというのは、演出がうまいのだと感心。でも、ヒロインの正体や、なぜそういう行動をとるのかは、なかなかわからない、ミステリーとしてもドラマが進んでいくのです。ミステリーとアクションを並行に描いて、お話は一度も止まることなく、最後まで突っ走る構成なんですが、それでも、ただのライド感だけの映画に終わっていないので、映画としての見応えもありました。

また、ヒロインの容赦ない暴れっぷりは、最近の映画には珍しいハードなものでした。一つ間違えるとリアルなバイオレンスアクションになってしまうところを、主人公にある種のスーパーヒーローのようなキャラを与えることで、タフでかっこいいヒロイン像になっています。アンジェリーナ・ジョリーはこの骨太ヒロインを好演していまして、一瞬だけ表情が変わるシーンに演技の奥行きを見せ、また、誰も信頼できない八方塞がりの中での圧倒的な強さを見事に表現しています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



CIAの追跡をかわしたイブリンは、ニューヨークに乗り込んで、教会の地下に潜り込んで、ロシア大統領のいる床をぶち抜くという荒業を見せます。そして、ロシア大統領が暗殺されたというニュースで、米ロは一触即発の状態となります。一方、大仕事を終えたイブリンが向かった先には、オルロフと彼の部下たちが待ち構えていました。イブリンは本当に、旧ソ連から送り込まれたスパイだったのです。そして、同様に子供の頃からエリートとして育てられたスパイたちがアメリカ人の中に多数潜入していたのです。でも、彼らはロシア政府の意向で動いているのではなさそう、いわゆる旧勢力のみなさんなのです。オルロフのアジトには、イブリンの夫が誘拐されてきていたのですが、彼女の前で殺されてしまいます。ここだけ、一瞬彼女の表情が揺らぐのですが、その後はふてぶてしいとも思える無表情で、オルロフと部下たちを皆殺しにします。

そして、オルロフから指示されていた通りの場所に行くと、そこには幼い頃、一緒だった男が米軍の情報将校になっていました。彼はホワイトハウスにも出入りできる立場の男であり、そこでアメリカ大統領を暗殺しようというのです。イブリンも彼に同行してホワイトハウスに入り込みます。そして、彼が暴れた結果、大統領やテッドは地下の執務室に避難します。それを追うイブリン。大統領は、これをロシアのテロと判断して、核兵器を使用可能な状態にします。すると、テッドがそこに居合わせたホワイトハウスの人間を皆殺しにし、大統領だけ生き残らせて、イスラム国家へ核兵器を撃ち込もうとします。そこへ現れたイブリンは、テッドの行動を阻止しようとします。実は、イブリンはロシア大統領を殺してはおらず、蜘蛛の毒で仮死状態にしていたのです。そして、テッドとイブリンは格闘となり、何とか核ミサイル発射システムの解除に成功します。そこへ現れたSPたちにより、イブリンは逮捕されますが、一瞬の隙をぬって、イブリンはテッドの息の根を止めることに成功します。ウィリアムによって、ヘリで移送されるのですが、そこで、イブリンは事実を話し、ウィリアムはわざと彼女を逃がしてやるのでした。まだまだ、彼女の敵は山ほどいるのです。これから、彼女はどう出るのか?というところで、エンドクレジット。

オルロフが、政府のメインストリートでない過激派で、かつスパイをアメリカ人として潜入させて、活動の時を待つ、という設定は、ドン・シーゲル監督の「テレフォン」を思い出させます。そして、徹底してヒロインをボコボコにしちゃう一方で、ヒロインも容赦ないタフネスぶりを見せるというのは、レニー・ハーリン監督の「ロングキス・グッドナイト」みたいです。ヒロインをミステリアスな存在にして、その行動の真意がわからないという設定は、私には目新しかったのですが、これも他の映画からいただいてきたのかも。ラストは「007 カジノ・ロワイヤル」風味だったかな。

と、まあ、確かに既視感も感じるところはあるのですが、アンジェリーナ・ジョリーの魅力がそれらをカバーしています。夫を殺されてからは、人間味を封印して、マシンとして行動するのは、ジェームズ・ボンドみたくもあるのですが、実は、自分の意思、信念で行動してたってところがすこぶるカッコいいのですよ。突き詰めると、とんでもない過去を持ったヒロインが、そのしがらみをすべてぶっちぎるというお話なんですが、その展開の中で、やってのけることがすごい。ロシアの過激派スパイ集団を壊滅させ、ロシア大統領暗殺を阻止し、核戦争を回避するという活躍ぶりは、只事ではありません。でも、その仕事のスケールで、映画を大味にすることなく、ヒロインの行動に絞り込んだ演出は、よく言えばタイトで無駄がない、悪く言えばこじんまりということになりましょう。でも、ミステリーの部分でかなり点数を稼いでいるので、私はこの映画かなり好きです。ただ、続編は期待していません。この映画の面白さは、ヒロインのキャラがよくわからないまま、アクションで突っ走るというところにあったのですが、次からは孤高のハードなヒロインという設定ができあがっちゃってまして、同じ構成は使えなくなります。そうなると、まあ悪役側のバリエーションでしか、お話を膨らませられなくなっちゃいますからね。ラストの余韻は、あっていいけど、これで決着ということにした方がいいのではないかしら。

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Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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