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「タハーン ロバと少年」は紛争状態にある山岳地方に住む少年のかなり怖いお話

NHKのアジア・フィルム・フェスティバルのインド映画「タハーン ロバと少年」を観ました。インド映画というとボリウッドの娯楽映画というイメージが大きいのですが、この映画は、ムンバイから撮影隊をカシミール地方に送ってロケをした作品だそうです。タイトルは全て英語表示です。

紛争状態にあるカシミール地方で、祖父、母、姉と暮らす8歳の少年タハール(プーラヴ・バンダーレー )は、父親が行方不明になって3年が経ちます。父がくれたロバのビールバルと大の仲良しのタハールですが、ある日、祖父がなくなり、それまであった借金のかたに、ビールバルを金貸しに取り上げられてしまいます。そして、母親の金を持ち出して、ビールバルを買い戻そうとすると、すでに、ダール(アヌパム・ケール)に売られていました。タハールは、商人であるダールについていくようになります。彼は町と町の間をラバやロバに荷物を乗せて行き来していました。ダールはビールバルを自分のかわいがっている甥っ子にあげてしまいます。ダールたちの道中には軍による関門がありましたが、そこで、タハールに目を止めた若い男がいました。ダールからロバを返してもらえず、意気消沈のタハールにイドリスという若い男が声をかけてきます。彼は、自分の導師に会わないか、彼ならきっとロバを取り返してくれるよ、とタハールを誘います。果たして、タハールは、仲良しのビールバルを取り戻すことができるのでしょうか。

インドの紛争地域であるカシミール地方を舞台にした映画で、監督のサントーシュ・シヴァンが、共同制作、共同脚本、撮影も担当しています。インドも山岳地方はかなり寒そうでして、そんな冷え冷えとした山の空気の中から物語は始まります。タハールの父親は行方不明で、母親は言葉が話せません、姉はお金持ちの家で働いていて、タハールは祖父の放牧の手伝いをしていました。ちょっと街道の方に出ると、軍隊がいっぱいいて、反政府組織と戦闘状態にあります。母親はいつか父親が帰ってくることを信じていますが、警察には始終身元不明の死体が届けられ、行方不明者の家族が集まって、その確認をするという生活が続いています。タハールは8歳という、大人の事情を薄々察しながらも、まだ子供の論理でものを言うというお年頃です。父親は借金をしていたのですが、今の暮らしでは、利息を返済するのがやっとです。

祖父が亡くなり、家のものを売って、借金の返済にあてようとしますが、その中には、ロバのビールバルも入っていました。金貸しのもとに行って、返してくれと頼むタハーンですが、当然相手にされず、ダールという男にビールバルは売られてしまいます。彼は、町と町の間を荷物を運ぶ商人で、家族を甥っ子一人を除いてみんななくしていました。ビールバルを返して欲しさに、ダールについてまわるタハーン。でも、高い金を出して買ったロバをそう簡単に手放すことはできません。

ロバやラバに荷物を積んで運んでいく様が自然の厳しさを雄大さを感じさせるいいシーンになっています。一方で、思わぬところに人がいる。山の裾野で、歌い踊る人々、廃墟に一人住んでいる(らしい)ダールの友人、そういった人々がいることが描かれます。道中の途中には、軍による検問所があり、荷物や身体検査が行われています。そして、田舎ではあるけど、携帯電話はちゃんと圏内になっていたり、自然と文明、戦争と平和がごっちゃになっているカシミール地方の風景は、まず珍しいものであり、そして、そこに戦争の疵を多く発見することで、痛ましくも感じられます。紛争状態であるから、タハールの父親は行方不明となり、ダールは家族を失ったのですから。

そして、その戦争の影が実体を持ってタハールの身に迫ってきます。導師に会えばロバを返してもらえると言う、謎の若者イドリス。ビールバルをとにかく返してもらいたい一心でイドリスについていく、タハール。行った先は、どうやら反政府組織のアジトだったようです。イドリスは、タハールに手榴弾を渡して、彼にそれを運ばせようとします。最初は、何なのかよく知らないタハールは、イドリスの言いつけを守って、それを隠し持ち、荷物の中に紛れ込ませます。ダールは信用ある商人だったので、彼の荷物は検問所でもノーチェックだったのです。さらにイドリスは、単なる運び屋以上のことをタハールにさせようとします。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ロバのビールバルは、ダールの幼い甥っ子にプレゼントされていましたが、タハールの事情を聞いた甥っ子は、ダールにこのロバは、タハールに返してやったほうがいいと言います。ダールは、それを驚きと甥っ子への誇らしい思いで受け入れます。一方、手榴弾以外にも、爆薬も運ばされてしまうタハールは何かおかしいと思いながらも、イドリスの言いつけに従います。さらに、イドリスは手榴弾を軍の兵舎に向かって投げ込めという指示を出します。それに従うタハールは、兵隊のたくさんいる中を通り抜けて、兵舎の前まで行き、手榴弾を投げようと安全ピンを抜きます。その時、兵舎の扉が開き、人が出てくるのを見て、一旦躊躇します。振り返ると、そこにはビールバルと幼い甥っ子がいました。手榴弾を握り締めて走り出すタハール、彼はそれを川の中に投げ捨てるのでした。そして、戻ってきた時、タハールは兵舎の中に父親の姿を発見します。朝、家の外を見ると、そこにはビールバルがいました。タハールとビールバルのツーショットがストップモーションになり、エンドクレジット。

クライマックスは、事態がどんどん悪い方向へ向かっていき、最悪の事態が見えてくるというかなり胃に悪い展開になります。タハールの無知が苛立たしく、それを操るイドリスとその仲間たちに憤りを感じました。この映画に出てくる大人は、イドリスを除くと、基本的に、女子供に対してひどいことはしませんし、軍人も、一人一人はそんなに悪い人間じゃないという描き方をしています。ですが、冒頭で、街道沿いに移動する軍隊の姿を大変威圧的に恐怖感を込めて描写することで、戦争に対する否定的な視点は明確に示されています。イドリスは、タハールに手榴弾を投げることを指示した時点で、彼を捨て駒に使っているのは明白で、ここはものすごく観ていて嫌悪感を感じました。後で、彼と彼の仲間が軍につかまったということがセリフで語られます。

映画上映前のインタビューによると、爆薬を運ぶ子供というのは、実際にあった話なのだそうです。そこから、この映画が作られたというのです。でも、映画としては、最悪の結末にせず、奇蹟の物語にまとめています。ビールバルは帰ってきたし、父親も戻ってくる予感で映画は終わります。でも、こういう形で、8歳の少年がテロに参加させられてしまうことには、ぞっとさせられるものがあります。映画の作り手は、あえてそこを糾弾しないまとめ方をしていますが、こういうことがどういう風にインド国内でとらえられているのかは興味があります。他の国でも、子供が兵士にされて機関銃をぶっ放すなんてことが起きているのですが、ここでは、もっと生活感のある形で、戦争が子供に侵食してくる様が描かれるています。その生活感ゆえに、余計目に子供を利用する大人に対する憤りが湧いてくるのですが、それは紛争状態に入ってしまうとどうしようもないことになってしまうのかなって思わせるところがありました。

子供は、純粋だといいますが、それは無知だということでもあり、無知ゆえに、利用されてしまいます。タハールは、導師のおかげで、ビールバルが戻ってきたと思い込むかもしれないのです。そして、再び導師の言うことを聞くことになるかもしれません。(この映画は、ラストを寓話風にまとめていますから、そういう突っ込みは野暮なのですが、実際にはあり得る話だと思います。)

タイトルで、デジタル色彩設計の人がたくさんクレジットされていました。この映画の美しい絵は、デジタルによる色補正がかなり入っているようです。最近の日本映画でも、そういう色補正をするようになってやけにCGっぽい絵の映画が見受けられます。この映画は、絵が不自然にならないレベルで抑制の効いた色補正だったようで何よりでしたが、実際の風景の絵はどんなだったのかなってところが気にはなりました。

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「脇役物語」は名脇役を主演にしている割には、イマイチ期待はずれのラブコメコピー

今回は新作の「脇役物語」をヒューマントラストシネマ有楽町1で観てきました。いわゆるミニシアターの作りですが、スクリーンはやや小さめ。有楽町駅のすぐ前で場所はいいのですが、私が行くときはあまりお客さんがいない。昔で言うと、有楽シネマあたりの位置になるのかしら。

有名劇作家松崎健太(津川雅彦)の息子で俳優をやってるヒロシ(益岡徹)は、脇役ばっかりやってきたせいか、街でよく別の人と間違われてしまう運のない人。初の主演作品(ウッディ・アレンの日本版リメイクですって)の話があったのに、忘れ物を議員の奥さんに届けたタイミングを写真に撮られて、不倫スキャンダルの相手にされてしまい、主役の話はなかったことになってしまいます。そんな意気消沈してるヒロシの前に現れたのが売れない女優のアヤ(永作博美)でして、元気キャラの彼女に魅かれる彼ですが、あんまり積極的になれません。一方、スキャンダルの汚名を晴らすには、議員の奥さんのホントの不倫相手を押さえればいいんだという理屈になって、奥さんのストーカーを始めちゃうヒロシ。一方、アヤは元彼が彼女の金を使い込んでたことが発覚、アパートを追い出されて、劇団の友人のところに転がり込みます。でも、ヒロシとの縁で、大作家である父親と知り合いになり、新しい芝居に出させてもらえそう、さらに夢みてたニューヨークでの演技修行の推薦書も書いてもらえることになります。さて、ヒロシとアヤの恋の行方はどうなるんでしょうって、これがベタな展開に......。

その昔、テレビドラマで菅原文太が刑事か何かの役で主演しているドラマで、竹井みどり演じる奥さんとの関係がうまくいかない新聞記者を演じて、すごく印象に残っているのが、この映画の主役益岡徹でした。それ以降もテレビ等で見るたびに気になる人でした。すごく脇役としての味わいがある役者さんでして、それが今度は映画の主役、そして脇役俳優を演じるということで興味が湧きまして、スクリーンに臨みました。原案、共同脚本、監督は緒方篤という人で、映像作家という肩書きらしく、「不老長寿」という短編を作っていて、今回の映画で、長編映画監督デビューだそうです。プロデューサーがニアリ・エリックという日本在住のアメリカ人で、映画の製作は今回が初めての人ということで、いわゆる娯楽映画の職人が作った映画ではないです。

全体に泥臭いドラマを作らないようにしようとしているのが伺えました。わざわざ、全編に英語字幕を入れちゃうあたりは、舶来偏重のいやらしさみたいのも感じさせるのですが、トータルなラインは、ハリウッドラブコメを日本人の設定で作りたかったんだなって気がします。議員夫人の携帯に仕掛けをして盗聴し、浮気の現場をつかもうとするドタバタは、向こうの俳優さんがやったら面白いんだろうなって思いましたもの。後、主人公が人違いされては、警察のご厄介になり、父親が引き取りにくるのを繰り返すパターンもなかなか面白く見ることができました。

正直、益岡徹が脇役俳優を演じるということで、結構な期待を持っていたのですが、あんまり、そっちの期待に沿ってくれる映画ではありませんでした。何でかって言うと、主人公が脇役俳優であるという設定が生きてないのですよ。自分が脇役俳優であることに、半端に否定的というキャラが、観客に共感を呼ばないのです。脇役俳優であることにそこそこプライドを持っている、あるいは逆に脇役にはもう飽き飽きしていて主役をやりたい、といった明確なキャラがあると、もう少し、主役を観客に方に近づけることができたように思いました。そこに、主人公松崎ヒロシのリアリティを持たせたのかもしれませんが、その先で展開するのが、ベタなラブコメ風ドラマなので、曖昧な人間のリアルなキャラはドラマを弾ませてくれないのです。

主人公二人の実年齢からすれば、アラフィフ男とアラフォー女なのに、物語はハリウッド風ラブコメという、ちょっと日本人の感覚からすると、不自然に感じられる部分もある映画です。益岡徹は、これまで演じた脇役的芝居でリアルに見せようとする部分が、ドラマと不一致になっていたように思います。その一方で、アヤ役の永作博美は、吹っ切れた演技が楽しかったです。女優しながら、酒屋でバイトをし、ニューヨークで演技修行をするという設定は、年齢的には20代中盤から後半といったところになるのでしょうか。エネルギッシュで頭の回転の早い若い女性というキャラをハイテンションで演じています。彼女の底抜けハイテンションがかなりこの映画を救っていまして、ラブコメという味わいが出たのは、彼女の熱演によるところが相当大きいです。津川雅彦演じる父親も、向こうのラブコメによく登場する、いい親御さんキャラですが、やはりテンション高い演技がラブコメに貢献していました。



この先は結末に触れますので、ご注意ください。



何だかんだあって、ヒロシは議員夫人の不倫現場の写真を撮ることに成功します。しかし、不倫相手に見咎められ、小競り合いになるのですが、そこに議員夫人が割って入り、ヒロシに土下座して、写真を返してくれと頼まれてしまいます。彼女の体にはアザがあって、どうやらダンナである議員に暴力を振るわれているらしく、若い恋人といる時が一番幸せそうな彼女を見て、写真を公表することをやめてしまい、主役の話もあきらめて、俳優事務所もやめちゃいます。そして、その事をアヤに告白するのですが、アヤはアヤで彼の父親からのサポートを断ると宣言しちゃうのでまたケンカになっちゃうのでした。

ところが、映画のキャスティングディレクターがヒロシの演技を認めてくれて、再び主役の話が降ってきます。さらに、ところが、ヒロシはその役をアヤに推薦して、結局アヤがウッディ・アレンの日本版リメイクの主役に選ばれちゃうのでした。で、アヤは今度は、ヒロシを脇役にゴリ押しして、二人は映画で共演することになるのでした。二人抱き合って、キスしてるところをカメラが彼らの周囲をぐるぐる回って、めでたしめでたし。

とまあ、二人を結びつけるきっかけになった父親の存在が最後まで二人の関係を引っ張ることになります。父親との関係を主人公二人が清算することで、二人は結ばれてハッピーエンド。ハッピーエンドの映画は好きですけど、アラフィフ、アラフォーカップルの恋愛模様にしては、ちょっと軽かったかなって感じ。若くない者同士のライトなラブコメでは、アメリカ製でも、古くは「グッバイガール」から「理想の恋人.com」とか、いい映画はいっぱいあるんですから、もっともっと向こうの映画からパクれるところがあったように思いました。

とまあ、文句の一つや二つも出てしまうのは、益岡徹という俳優さんは、こんなもんじゃない、もっともっと映画の中で生かせるのになあって思うからです。ラストの見ていて恥ずかしくなるラブシーンとか、そんなことより、もっとヒロシという人間に奥行きをつけられただろうにって気がしてしまうのですよ。永作博美のハイテンション演技も、正直、無理して、ハリウッドコメディ演出に合わせてる感じがしてまして、もっとナチュラルな演技の方が彼女は光るんじゃないかと思ってしまうのです。もし、この映画が、ハリウッドラブコメに匹敵する面白おかしい映画でしたら、そういう突っ込みも入らないのですが、ラブコメとしては弾みそこねた感がありまして、その分、このキャストで、こういう展開はもったいないって後味が残ってしまいました。

後、脇役の名優が、映画の脇役俳優役で主演していて「脇役物語」というタイトルがついてるのですから、この映画の中の脇役にも気を使ってよという余計な突っ込みも入れておきます。マネージャー役の佐藤蛾次郎、プロデューサー役の角替和枝、後輩役の江本佑ですとか、キャラをふくらませて欲しかったところです。

総合的にはそこそこの仕上がりでして、映画としては、きちんとまとまっていますので、上に書いてあるほど悪い印象を持たないでください。私としましては、益岡徹と永作博美という逸材が出ていると思えば、かなり面白い映画を期待してしまうのです。音楽担当のジェシカ・デ・ローイは、ハリウッドラブコメ風のライトな音作りをしていまして、ここだけは、職人的うまさを感じました。

「ピノイ・サンデー」は、題材が興味深いのですが、映画としてはどうかなー?

恋さんのブログで知ったNHKのアジア・フィルム・フェスティバル、その中の1本「ピノイ・サンデー」を観ました。タイトルにでかでかとNHKのロゴマークが出るので、かなり出資してるのかしら。かつて、NHKが大盤振る舞いした底抜けSF超大作「クライシス2050」を思い出しました。別所哲也の黒歴史、あれで世界にデビューとか特番やってたもんなあ。結局、モーリス・ジャールのテーマ曲だけがごく一部で生き残っただけの映画でした。

フィリピンから台湾の工場に出稼ぎにきているダド(バヤニ・アグバヤニ)とマヌエル(エピィ・キソン)のある日曜日。ダドは妻子を本国に置いて、一方でアナ(メリル・ソリアーノ)とも付き合ってますが、妻子を大事にしたい彼はアナに別れ話を切り出して一悶着あったところです。マヌエルはカラオケ店で働くセリア(アレッサンドラ・ロッシ)をくどこうとしてますが相手にされません。二人はひょんなことから捨ててあった赤いソファを見つけます。マヌエルはこれを工場の寮の屋上に置きたいと言い出し、そのソファをかついで、寮まで帰ろうということになるのですが、もともとバスで出てきた市街地で拾ったもので、帰り道はかなり遠い。その上、寮の門限に遅刻してしまうと、強制送還されてしまうかもしれないというリスクも背負っています。あまり気の進まないダドですが、マヌエルの勢いに押されて、ソファを運ぶ羽目になっちゃうのですが、果たして門限までに寮に帰れるのかしら。

ドキュメンタリーで実績のある、マレーシア出身のウィ・デン・ホー監督の長編第一作です。脚本も彼自身が書いています。タガログ語台本を別の人が書いているところからして、ホー監督にとってフィリピン人は外国人ということになるようで、外国人の視点から、台湾で外国人であるフィリピン人を描いた映画ということになります。台湾で働く彼らにとって一番怖いのは強制送還されることです。そんな出稼ぎ状態の二人の休日、どっちも彼女とうまくいかなくなってます。

所帯持ちのダドは、実家の妻が怪我をしたことが気がかりでなりません。娘の誕生日のプレゼントといった荷物をまとめて国へ送るのですが、こういったシーンでホー監督はうまさを感じさせます。何てことないシーンを味わいのある絵に見せてくれます。公衆電話から家に電話するところ、ガールフレンドのアナとの夜のデート(彼女の住み込む家のおばあさんがなぜか一緒)のシーンなど、撮影のうまさもあるのですが、ドキュメンタリータッチの絵が、出稼ぎ労働者のリアルな息遣いを感じさせてくれます。一方、マヌエルは、カラオケ店の女の子セリアにお熱なのですが、セリアには別に彼氏がいて、マヌエルのことなんか相手にしてません。フィリピン人はクリスチャンが多いようで、台湾のフィリピン人が集まる日曜日のミサがあるのですが、そこには、ダドもマヌエルもセリアもアナもやってきます。母国を離れた人たちがこういうところに週に一度集まるんだあってところにも感心。ドキュメンタリーの監督らしく、こういう台湾のフィリピン人の様子を丁寧に描いていて、その映像の美しい見せ方が印象的でした。テレビの画面でそう思うのですから、劇場のスクリーンで観たい絵と言えましょう。

奥さんのことが気がかりなダドは、アナに別れをきりだすのですが、アナとしては彼と別れたくありません。それに今日は自分の誕生日なのに、よりによってそんな日に言い出すなんてとお冠状態。ダドは彼女にすまないとは思うのですが、やはり家族の方が大事です。このあたりの男女関係は日本だと不倫とか愛人関係になっちゃうのですが、この映画では否定的には描いていません。そういう関係もありだという見せ方は意外でしたが、そういう文化もあるのかなとちょっと発見気分でもあります。このあたりまでの展開は、シリアスなのかコメディなのか区別がつかない感じです。

ともあれ、ダドとマヌエルが出会って、二人でアイスを食べてたら、引越しの夫婦がソファを捨ててちゃうところから、メインの物語が始まります。二人でこれを寮まで運ぼうとするのが、コミカルなタッチで描かれます。二人がケンカしたり、バイクとぶつかってケンカになって警察に連行されちゃったりします。さらに、廃品回収のトラックに乗せてもらったのはいいのですが、居眠りしているうちにどこにいるのかわからなくなっちゃう。通りがかりの飛び降り騒ぎに巻き込まれテレビに映っちゃう。ソファで飛び降りようとした少年を救おうとした英雄なのに、取材カメラから逃げ回って逆に疑われてしまうと、まあ色々あるわけです。前半にリアルな人間描写に比べますと、急に主人公二人がコメディアンみたいな声を張り上げる芝居を始めるので、何かしっくり来ません。ホー監督は、長編映画は初めてだそうですが、前半のドキュメンタリータッチに比べると、芝居中心のドラマとしての部分は、こなれていないような印象を持ちました。マヌエルのソファへのこだわりとか、ダドの振り回され方が泥臭いコメディになっていまして、「えー、こんな話になっちゃうの?」ってちょっと残念に思ってしまいました。

川を渡るところで、ついにソファを運ぶことを挫折した二人、日も暮れてきます。ビールを飲みながら昔のことを語り合う二人、昔、二人はバンドをやっていたようで、川を流れていくソファの上で、ギターを弾きながら一曲歌います。このシーンも絵がきれいで、水中に照明を仕込んで、前半のリアルな絵とはまた違う幻想的な映像を見せます。そして、ソファの上で目を覚ます二人、バスで移動する彼らの姿と、川の中でゴミになっちゃったソファの絵が入ります。そして、海辺の夕方、なんかノンビリした二人は、フィリピンにいるようです。ふたりでバイクに乗って、「金持ちになるんだ」と話しながらエンドクレジット。と、結局、ソファは寮まで運べず、その中途のところでお話を無理やり終わらせたという印象でした。寮へ帰らなかった二人は、強制送還させられてしまったのでしょうけど、お話のスケールが前半、後半、ラストであまりに違うのは、映画としての統一感を欠いているような気がしました。出稼ぎ者のリアルな日常から、泥臭いコメディになって、ラストでちょっと人生語ってますって構成なのですよ。もっと、コメディの部分が弾んで、面白くできてれば、いい方に印象が変わったかもしれません。

二人が歌うシーンのバックに、映画に出てきた人々のスケッチ風カットを入れたりして、雰囲気を出そうとしているのですが、ソファを運ぶという設定だけ思いついたけど、結末に困っちゃったって感じなのですよ。娯楽映画としては、あまり誉められた結末ではないのですが、新人監督のアート系作品としては許されちゃうのかしら。

大筋の部分が決着つかないのが、映画としては不満なんですが、それでも、歌の絡むシーンなど印象的でして、中盤でセリアが歌うシーンも絵が美しかったですし、全体的に劇場で観るにふさわしい落ち着いた絵作りがされているところも魅力的でした。この監督さんの次の作品は期待できそうだなと思わせるところがあり、そういう意味では、観て面白い映画とも言えます。私ととっては、台湾で働くフィリピン出稼ぎ者の存在を知ることができ、その生活の一端を見ることが出来たという意味で面白い映画でした。

「エクスペンダブルズ」はスタローン監督主演のセガール風映画、大味だけど派手なお気楽アクション

今回は新作の「エクスペンダブルズ」をTOHOシネマズ川崎3で観てきました。予告編が正月第2弾の映画ばかりやってるんですが、お正月映画ってあんまり目ぼしいのがないのかしら。でも3Dが増えてるのはうれしくないです。「グリーン・ホーネット」や「あたしんち」の3Dとかもういいってば。

凄腕の傭兵部隊を率いるバーニー(シルベスター・スタローン)に新しい仕事が持ち込まれます。南米の小さな島ヴィレーナの独裁者ガルザ将軍を殺すというもので、バーニーは右腕のクリスマス(ジェイソン・ステイサム)を連れて、島に下見に出かけます。そこで情報提供者と接触する予定だったのですが、現れたのは若い女性サンドラ(ジゼル・イティエ)でした。彼女は島にモンロー(エリック・ロバーツ)というアメリカ人たちがやってきたからおかしくなったと言います。しかし、兵士たちに疑られたバーニーたちは、大暴れ。その時、サンドラの正体がガルザの娘だとわかります。彼女は、自分の身の危険を承知で島に残りますが、結局、モンローたちにつかまり拷問に遭います。彼女のことが気がかりなバーニーは仕事抜きで再度島に向かうことを決心します。クリスマスやヤン(ジェット・リー)たち仲間も彼と行動を共にすると申し出ます。果たしてサンドラを救出することができるのでしょうか。

シルベスター・スタローンが、デビッド・キャラハムの原案をもとに、彼と共同で脚本を書き、監督もしたアクション映画です。スタローン以下、ジェイソン・ステイサム、ジェット・リー、ドルフ・ラングレン、ミッキー・ロークといったB級アクションで主役を張る面々をそろえて、さらに、ブルース・ウィリスとアーノルド・シュワルツネッガーがカメオ出演するという、ある意味、大変豪華キャストの作品です。いわゆるプロの傭兵軍団が、軍事独裁政権の軍隊を相手に大暴れするという単純なストーリーのお話でして、スタローンの演出もひたすら見せ場をつないでいくというもので、かなり大味です。でも、そこは監督経験の豊富なスタローンだけに、単純な物語を退屈させることなく引っ張っていきます。前作「ランボー4」よりもさらにシンプルな内容は、スティーブン・セガールの映画に近いと言えましょう。

そんなシンプルなストーリーにアクセントとして2人の女性が登場してきます。クリスマスの恋人レイスは、他の男になびくのですが、最後は彼のもとへ戻ってくるという設定で、色恋沙汰のないこの映画での息抜きみたいな存在になっています。もう一人は、将軍の娘サンドラでして、彼女は将軍殺害計画に加担している一方で、将軍は娘を愛していて傷つけることができないというのが、全体大雑把な話の中では、ドラマチックな展開となっています。ラストは、娘の行動に打たれてモンローと手を切ろうとするのですが、逆にモンローの銃弾に倒れます。このあたりが原案の面白さだったのでしょうが、後半のドッカンドッカンの連続で、このドラマもかすんでしまいました。正直、この映画は、たくさん出てくる登場人物をそこそこ均等に描こうとしている節がありまして、その結果、全体的にドラマは誰も皆薄めという形に落ち着いてしまいました。その分、スタローンの演出のおかげで、モンローの部下を演じたスティーブ・オースティンやゲイリー・ダニエルズといった悪党の皆さんも結構印象に残りましたから、このあたりは一長一短でしょう。

後、本筋と直接絡まないのですが、傭兵部隊で精神的にちょっと危ういガンナー(ドルフ・ラングレン)がこの仕事をはずされたせいで、モンローにバーニーの情報を売り、バーニー殺害部隊に加わるというエピソードもあります。中盤にバーニーとヤンの乗った車が襲われて、カーチェイスの末、ヤンとガンナーが肉弾戦をするという見せ場がありますが、ジェット・リーとラングレンの見せ場を作るために設定されたエピソードのようで、コーリー・ユエンがリーの絡むアクションを殺陣をつけているので、それなりに見応えがあります。ただ、この映画、肉弾戦が多い割には、ジェフリー・キンボールの撮影はアップのカットばかり、ケン・ブラックウェルとポール・ハーブの編集はやたらカットを細かくすればいいと思ってるみたいで、せっかくのアクションがよく見えないのですよ。シネスコの横長画面で引きのカットがなくって、アップのカットをつなげれば迫力が出るのはわかるのですが、それは、肉弾アクションには不向きなのではないかと思いました。

クライマックスはバーニー以下5人で島に乗り込んで、サンドラを助けて、モンローと将軍をやっつけようという展開ですが、5人が行動開始してからは、ひたすらドッカンバリバリの連続で、前述の将軍と娘の葛藤もその中に埋もれてしまいました。5人がひたすら強くて、敵の兵士が文字通り木っ端微塵になっちゃうあたりは、いわゆる頭使わないB級アクションとして楽しめます。武器もナイフから、拳銃、マシンガンに、一発で人間が吹っ飛ぶすごい銃までバラエティに富んでいまして、爆薬による屋台崩しもあって、派手な見せ場になっています。実際、よく見ると、それほどお金かかっていないような気もするのですが、勢いで見せるのには成功しています。このクライマックスの無敵アクションがセガールっぽい感じなんですよね。変な理屈をこねない分、目の前にいる連中はとにかく皆殺しという展開は、お気楽娯楽アクションとして、よくできていました。ただ、良くも悪くもスタローンが登場人物を立て過ぎたので、盛り上がり的には今一つだったかも。ヒーローは一人にして、その一人にドラマを集約していくお話の方がスタローンには似合っているのではないかしら。

音楽を担当したのは、「ランボー4 最後の戦場」でもスタローンと組んだブライアン・タイラーでして、チェコ・フィルハーモニックが演奏しているという、なかなかに重厚な音にはなっています。ただ、「ランボー4」の時のようなジェリー・ゴールドスミスのテーマ曲を使えなかったせいか、ヒロイズムばりばりの映画にヒーローのテーマをつけられなかったのは残念。また、クライマックス、主人公5人が行動開始してから敵を皆殺しにするまで、音楽が駄々漏れ状態だったのは、いただけませんでした。まだ戦闘開始していない、準備段階からコーラス交えた盛り上げ曲を入れたりして、何というか、鳴らすツボを外している感じなのですよ。あ、後、エンドクレジットに長渕剛の歌を入れてたのも減点。まあ、音楽的には全体的にイマイチだったので、減点度は少ないですけど。

細かい話ですが、視覚効果プロデューサーには、ジャン・クロード・バン・ダムの一連のB級アクションの視覚効果を担当してるスコット・コールターがクレジットされており、視覚効果チームはその名前からブルガリアのチームが担当しているようです。さらに、ミニチュア特撮を、ジーン・ウォーレンJrが率いるファンタジーⅡを手がけています。ファンタジーⅡは、80年代のSFXファンには懐かしいSFXスタジオの名前でして、「ターミネーターⅠ&Ⅱ」「トレマーズ」などを手がけています。

「キャプテン・アブ・ラーイド」はヨルダンの映画ですが、日本人にもわかりやすい共感できるお話

今回は恋さんのブログでご紹介のあった「キャプテン・アブ・ラーイド」を衛星放送で観ました。ヨルダンの映画だそうで、監督はアメリカ育ちのヨルダン人だとのこと。

空港の清掃員をしているアブ・ラーイド(ナディム・サワラ)は妻を亡くして一人暮らしの定年間近の老人です。仕事を終えて帰ると妻の写真に話しかけ、アンマンを一望できるテラスでお茶をするのが彼の日課でした。ある日、空港のゴミ箱で機長の帽子を拾います。家までの帰り道にそれを子供に見つけられ、「おじさん、機長なんでしょ? 旅の話を聞かせてよ。」と言われちゃいます。次の日は家の前に子供たちが押しかけてきます。彼も悪い気はしなかったのか、子供たちに色々な話を聞かせてやるようになります。子供たちの中には問題のある子もいます。ターレクは勉強ができるのに父親が彼に物売りをさせるので、学校にもろくに行けません。隣家のムラードの父親は子供や妻を虐待する暴力夫です。そういう現実に、アブ・ラーイドは子供の視点から何とかしてやりたいのですが、なかなか思うようにはいきません。ムラードが父親に火傷させられたのを知ったアブ・ラーイドは、友人の女性機長ヌール(ラナ・スルターン)に相談をかけ、ある決心をするのです。

2008年のサンダンス映画祭で賞を取った作品で、ヨルダン映画では、海外で上映された珍しい作品だそうです。タイトルクレジットは英語併記で、プロデューサーにも英語名の人が入ってますので、アメリカ資本が入っているようです。監督、脚本のアミン・マタルカはアメリカ生まれのヨルダン人でアメリカで映画の勉強をした人だとのこと。

アブ・ラーイドは、清掃員をやっていますが、フランス語を話せるし、読書好きのなかなかのインテリみたいです。子供たちを相手に世界各国の話をしてやれるくらいの知識もある男。そんな彼が、子供たちから、アブ・ラーイド機長(キャプテン・アブ・ラーイド)と呼ばれ親しまれるようになります。その中で、彼の隣の家のムラードだけは、彼の正体が機長じゃなくて清掃員だと知っていて、子供たちにもそれを教えようとするのですが、相手にされません。そんな反抗的な態度をとるムラードにもアブ・ラーイドはやさしく接します。彼はある日、困っていたフランス人の荷物を見つけてあげたのがきっかけで、女性パイロットのヌールと知り合います。彼女は、30過ぎても仕事優先のバリバリキャリアウーマンなわけですが、両親は早く結婚させたくて仕方がない、そんなお仕着せの結婚なんてごめんだわと言ってはみたものの、やはり周囲と自分を比べるとこれでいいのかなとも思っているようです。ヌールは、アブ・ラーイドのやさしくて知的な人柄から親しく接するようになります。

マタルカの演出は、素直にエピソードを積み上げていくもので、カメラアングルとか編集のテンポは普段見慣れたハリウッド映画のそれと変わりません。特に音楽がちょっと前のハリウッド映画のドラマ音楽になっていて、大変抑制の効いた音楽設計になっていたのが、気になりました。音楽を担当したのはオースティン・ウィントリーという人で、エンドクレジットで確認すると音楽はハリウッドで作られたようです。(ハリウッドのオケがハリウッドで録音しています)サントラ盤も限定盤ながら発売されています。

この映画で、主人公であるアブ・ラーイドが、どういう過去を持つ、どういう人柄の人物なのかというのをあまり見せません。観客としては、このおっさんがどういう人なんだろうというのを、今の彼の姿から想像することになります。インテリのように見える彼がなぜ清掃員の仕事をしているのか、また、なぜ彼が気の毒な子供に深入りしてしまうのか、映画はそこのところを語らずに彼の行動だけを見せます。そして、アブ・ラーイドは、大変思い切った行動に出てしまうのですが、そこに至るまでの葛藤も映画は見せません。最終的な行動だけを見せるのですが、その結果、「昔、こういう人がいてねえ」という感じの「お話」に収束します。でも、人としてのアブ・ラーイドはリアルな存在感を持って描かれているので、ちょっと不思議な後味を残します。



この先は結末に触れますので、ご注意下さい。



アブ・ラーイドが特に気にかけた子供は、ターレクとムラードの二人でした。ターレクは勉強ができるのに親からウェハース売りをやれと言われて、学校に行けません。たまたま、ターレクを街で見かけたアブ・ラーイドは、彼のウェハースを買ってやるようになるのですが、それが、結局は、彼のノルマを増やしてしまい、ついには、アブ・ラーイドが買いきれない量を売らされるようになってしまいます。アブ・ラーイドは、ターレクの親にも直談判に行くのですが、「ウチの教育方針に文句つけるのか」と言われてしまうと、それ以上何も言えなくなってしまいます。昔の日本でも、農家の子が学校に行かせてもらえなかったという話があったようですから、ありえない話ではないです。結局、ターレクを助けられないのです。

一方のムラードの父親はいわゆる酒飲んで家族を虐待するDV亭主のひどい奴。アブ・ラーイドは警察にも話をするのですが、結局警察は父親に言いくるめられてしまいます。酔いつぶれて道端に寝転がってる父親を見かけたアブ・ラーイドは、彼を殺そうと石を振り上げるのですが、寸でのところで思いとどまり、ヌールに相談をかけます。彼女の家は金持ちなので、ムラードと母親、そして弟を一時的にかくまってもらうことになります。彼らをヌールの車に乗せると、アブ・ラーイドはムラードの家で父親が帰ってくるのを待って直談判するのですが、そんなのを聞く耳持たない父親は、アブ・ラーイドをボコボコにしてしまいます。ここで、映画は、アブ・ラーイドが実際に殴られる様子を見せず、ただ父親が「家族の居場所を言わなきゃ、おまえをたたき殺してやる」というセリフの後に、音だけで暴力の様子を聞かせるのみです。そして、一気に時間が経過して、空港にたたずむ男に、後ろから「ムラード機長」と声をかけるというラストになります。たぶん、アブ・ラーイドは父親に殺されちゃったんだろうなあ、で、結局、父親が逮捕されて、ムラードたちは自由になったんだろうなあとか、色々と想像はつくのですが、そのあたりは一切見せません。

この映画で描かれる家庭の問題は、どれも日本でもあり得る(あり得た)もので、その意味では、理解し、共感しやすい話になっています。年を取って独身のキャリアウーマンのヌールが両親から早く結婚してくれと迫られている話、ターレクが仕事をさせられて学校へ行かせてもらえない話、ムラードと家族が父親から暴力を受けている話、それらの問題は、ヨルダンでも日本でも時代的な差はあれども、まるっきり他人事ではありません。それに対する、アブ・ラーイドの行動は、結果的には、どれも丸く収めることはできないのですが、最後、自分の身を犠牲にすることで、ムラードの未来を救ったということが映画では示されます。なぜ、彼がそこまで思い切ったことをやったのか、映画の中では説明されません。ターレクのことを救えなかった後悔があったのかもしれませんが、それとて想像の域は出ません。ただ、彼は自分のできることを自分の望む形で行ったのだということもできます。でも、どこか腑に落ちない、一人の人間の行動としてのリアリティが見えてこない、そんな後味もあって、映画は最終的に「昔、こういうことがあった」お話に落ち着いたように見えました。これは「キャプテン・アブ・ラーイド」という老人の半生を描いた映画ではなく、昔いた「キャプテン・アブ・ラーイド」のお話なのです。(表現が拙くて、うまく伝えられなくてすみません。)

ヨルダンという国の、「キャプテン・アブ・ラーイド」のお話として、この映画は見応えがあります。主演のナディム・サワラは、映画の中で語られない彼の人となりをうまく補って、存在感を見せ付けます。ヌールを演じたラナ・スルターンは朝のテレビ番組のキャスターで演技は初めてだったそうですが、その本人の持ち味であるリアルなキャリアウーマンぶりが好印象でした。普段、知ることのできない、ヨルダンについて、日本とそんなに違わない様子を知ることができると、ほっとするところがあります。この映画だと、悪いところが似てるってことになるのですが、それでも、お互いに悩みや苦しみを共有できる近しい人間だと感じられるのです。そういうことを感じられる意味でもこういう映画を観る機会は大事にしたいと思います。

後、この映画のエンドクレジットの先頭で、「マイケル・ケイメンとベイジル・ポレドゥリスの思い出に」と出るのがちょっとびっくり、で、かなりうれしかったです。ケイメンもポレドゥリスも骨太の力強い映画音楽を書く作曲家でした。この映画の監督がファンなのか、音楽担当者がファンなのか、どういう関係なのか、気になりました。この映画のオースティン・ウィントリーの音楽は静かに品よくドラマを支えるタイプのもので、ケイメンやポレドゥリスのタッチとは明らかに違いますから、監督がファンなのかなあ。

「リング0 バースデイ」のサントラは聞き応えあるドラマチックな音


「ビヨンド」「地獄の門」とホラーサントラの記事をアップして、もう一本、ホラー映画のサントラで記憶しておきたいのを思い出しました。日本のホラー、いわゆるJホラーで大ヒットになったのが「リング」「リング2」ですが、この3作目、物語的には、1作目の前日談にあたる「リング0 バースデイ」です。鶴田法男が監督したこの映画は、前2作とは趣を変えて、ショックシーンを控えめにしてその分ヒロイン(仲間由紀絵)の悲しみを際立たせることで、怖いけど悲しみに満ちたドラマに仕上がっています。

音楽を担当したのは、尾形真一郎という人で、「案山子」や「ほんとうにあった怖い話」シリーズで鶴田監督とは組んできた実績があります。(今も「ほん怖」シリーズのドラマ部分の音楽を担当してます)前2作では、川井憲次が恐怖をさらにパワーアップするシンセサイザーによる無調音楽をつけていたのですが、この作品では、非常にドラマチックな音楽をつけています。

映画の冒頭は、女子高生の噂話から、山村貞子の過去を調べる女性の行動を描くという、本筋に入るまでの前置きが長いのですが、ヒロインが登場してくると、やっと彼女のテーマともいうべき曲が登場します。アルバムでは2曲目の「プロローグ」という孤独で幸薄そうな貞子を描写する静かな曲です。薄いシンセの音に、ピアノのソロとフルートによるシンプルなフレーズが乗り、フレーズの反復が盛り上がっていきます。このフレーズはその後も何度も登場します。3曲目の「孤独」では、テーマフレーズから、さらにメロディが展開していきますが、そこにあるのは孤独で悲しみに沈むヒロインの姿を静かに描写する音楽です。

「うごめく妖気」「悲しみの井戸」「2人の貞子」といった曲では、不協和音による恐怖を前面に出してきますが、そういう曲はあまり多くありません。一方で、ヒロインを翻弄する人々を描写する「パニック~公開実験」「逃亡」「エピローグ」では、運命のテーマともいうべきメロディがドラマチックに鳴ります。オケ部分を全てシンセサイザーでカバーしてるようで、その分、音の厚みは今一つなのですが、そのフレーズとアレンジによって、ドラマをストレートにサポートしています。後半の曲では、運命のテーマの中に、ヒロインのテーマフレーズが入って、運命の中で翻弄されるヒロインの姿が浮かび上がる音作りになっています。

作曲者の尾形真一郎という人は、手がけた映画も多くないのですが、このサントラ盤を聞く限りは、オーソドックスなドラマの音楽を書ける人で、この映画でも、ヒロインのテーマが大変印象的でして、悲劇のヒロインを音楽が見事に描写しているように思います。ホラー部分も恐怖を煽る音をつけていないで、むしろ、彼女を追い詰める人間側の描写に運命のテーマともいうべき音をつけているあたりで、このドラマの構造が明確に見えてきます。音楽が映画のテーマをきちんと消化していて、さらにドラマの輪郭をくっきりと際立たせている点は、高く評価できると思います。はったりやこけおどかしを排除してまして、音楽としては地味目の音になっちゃうのでしょうけど、サントラ盤も聞き応えのある1枚になっています。

以前、別のHPで「リング0 バースデイ」の紹介記事を書いたので、リンクさせてもらいます。
「リング0 バースデイ」紹介記事

「地獄の門」のサントラは音楽としても「ビヨンド」の姉妹版として楽しい


この前の記事で「ビヨンド」のサントラを紹介しましたが、同じく最近DVDがリリースされたのが「地獄の門」です。「ビヨンド」と同じく、イタリアのルチオ・フルチが監督したホラー映画で、「ビヨンド」と同様に地獄とこの世がつながってしまう恐怖を描いていて、グロテスクな特殊メイクと病的とも言える演出ぶりが有名です。音楽は、「ビヨンド」と同じファビオ・フリッツィが担当しています。

音楽の構成は「ビヨンド」と似ていまして、冒頭で、ストリングスとギターによる不安をあおるテーマが流れます。ドラムを前面に出すというところも同じでして、チープなようでいて、きちんとホラー映画の音になっています。シンセによるコーラスも加えているというところも同様ですが、それでも「ビヨンド」と同様、音楽としての美しさが感じられるところもあり、イタリアンホラーあなどりがたしという感じです。

ドラマをサポートする曲では、シンセやギターによる衝撃音を入れてショッキングな音も作っています。ショックシーンそのものでは音楽を入れない(ビヨーンといった効果音は使ってますが)演出なので、全体としてはきちんと音楽として成立しています。中身のえげつなさに比べたら、まっとうな映画音楽と言えましょう。

この映画のメインテーマとも言うべき曲は、主人公たちが謎の正体に闘いを挑むシーンに流れるもので、シンセのコーラスによるちょっと陰影のある、でも勇壮な感じのテーマが流れた後、マイナーコードのファンファーレのようなフレーズの反復によるミニマルミュージックに転調します。これがなかなかの聞き物でして、これまでの他のホラー映画にない味わいのある曲になっています。この曲のパターンから、勇ましさを取り除くと、「サンゲリア」のテーマになるのですが、それはまた別の逸品となっています。「ビヨンド」と同様、エグいホラーでも音楽はなかなかに聞かせるものになっていまして、サントラ盤も聴き応えのある1枚になっています。これも、何種類もサントラ盤が出ているようで、私が持っているのは、「悪魔の墓場」とのカップリング盤です。「悪魔の墓場」の方はフリッツィによるものでなく、聴いていて、それほど面白くないのが残念。


「ナイト&デイ」はちょっと捻った展開を手堅くまとめた娯楽アクション

今回は、新作の「ナイト&デイ」をTOHOシネマズ日劇1で観てきました。デジタル上映でしたが、画像くっきりでよかったです。しかし、音響はフィルムと同じく、5.1チャンネルで再生されているのかしら。土曜日の朝の初回とはいえ、お客さんは半分は埋まってなかったような。

カンザスからボストンまで飛行機で家に帰ろうとしていたジューン(キャメロン・ディアズ)の前に、ロイ(トム・クルーズ)という男が現れます。最初は、空港でぶつかって、その後、同じ飛行機に乗ります。すると、飛行機の中で、乗客や乗務員とロイが殺し合いを始めちゃいます。相手を全部倒したロイですが、パイロットを失った飛行機は不時着。ジューンは眠り薬を飲まされて自宅に帰されるのですが、今度はCIAのフィッツジェラルド(ピーター・サースガード)と名乗る男が現れて、彼女を連れ去ろうとするのですが、そこへロイが現れてジューンを救い出します。どうやら、ロイもCIAの人間らしいのですが、ある発明品を巡って、彼とCIA、そして武器商人のアントニオの組織との間で、争奪戦が繰り広げられているようなのです。そんな三つ巴戦に巻き込まれてしまったジューンなのですが、ロイがだんだん白馬の騎士みたいに見えてきちゃったみたいで、ロイにとっても想定外の行動を起こすことになるのでした。

トム・クルーズとキャメロン・ディアズという2大スター競演のサスペンスアクションです。監督は「コップ・ランド」「17歳のカルテ」から「アイデンティティ」「ウォーク・ザ・ライン」へと色々なジャンルに守備範囲を広げてきているジェームズ・マンゴールドでして、この映画では、世界ロケ、SFX盛りだくさんの大作を手堅く仕上げています。

映画の基本ラインは、オタク学生の発明した永久電池の争奪戦なのですが、そこにヒロインが巻き込まれてしまう展開で、派手なチェイスシーンなど見せ場をたっぷり盛り込んで、ジェットコースター映画の作りになっています。マンゴールドの演出は、リアリティよりも「ウソみたい」な派手さを優先していまして、その「ウソみたい」な展開が、後半の伏線にもなっています。また、要所要所の描写をわざとすっとばかす演出も、物語の「ウソみたい」度を上げることに貢献していまして、派手な銃撃戦があるわりにどこかすっとぼけた味わいもあり、全体をライトな味わいの映画に仕上げています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



巻き込まれヒロインと謎のヒーローが恋愛関係になっていくというのは、ある意味定番なんですが、この映画では、さらにヒロインの思い込みの激しさから自ら行動を起こすという展開になります。二人の逃亡劇は一応の決着を見て、ロイは死んだことになり、発明品は彼とともに行方不明ということになって、彼女は元の生活に戻ります。ところが、ジューンの方から、CIAや武器商人を挑発して「自分は発明品を持っている」と宣言。武器商人のアントニオに拉致されちゃうのですが、こういうムチャすれば、ロイに会えると思った上での行動でした。偶然、アントニオに同じく拉致されていた発明者の方を助けにきたロイによって、彼女も救い出されます。牛追い祭りを舞台にした派手なカーチェイスの後、実は裏切り者だったフィッツジェラルドも倒すのですが、ロイも負傷し、CIAの監視下に置かれてしまいます。ところが、そのロイを今度はジェーンが誘拐(救出?)して、二人して南米にバカンスに出かけてハッピーエンド。

冒頭の旅客機内皆殺し&不時着で、ヒロインの頭のネジがゆるんじゃったのか、かなりのムチャをかますところがおかしかったです。これは脚本のお手柄のようで、マンゴールドの演出は、ぶっとんだ後半の展開をマジメに手堅く演出していました。もっと、ヒロインの変なやつぶりを強調してもよかったように思いましたけど、そこはスターの顔を立てたのかもです。とは言え、最後までトム・クルーズは、派手に殺しまくる割には善良でいい人やってますし、キャメロン・ディアズは意外と強い夢見る夢子さんという、どこか一捻りしたキャラ設定になっているのがおかしかったです。お気楽に楽しめる一編になっているのは、作り手が変にぶれることなく、娯楽に徹しているからでしょう。脇のピーター・サースガードやヴィオラ・デイヴィスといった曲者役者は、今回はおとなしく脇役に徹していまして、強いて言えば、発明者のオタク学生を演じたポール・ダノが妙な人ぶりで存在感を見せました。

オリジナル「死刑台のエレベーター」はお話がサクサク進んで心地よく乗れます

リメイクの「死刑台のエレベーター」を観て、ボロクソ言う記事を書いてしまったので、ここはやはりオリジナルを観ておかなくてということで、DVDをゲットしました。たまってたポイントを使ったら、千円ちょっとで買えてラッキーというのは置いといても、やっぱり観てよかったです。

会社社長の右腕ジュリアン(モーリス・ロネ)と社長夫人のフロランス(モーリス・ロネ)は不倫関係。そして、ついに二人は共謀して社長殺しを実行に移します。ジュリアンは社長を射殺して自殺したように見せかけるところまでは成功しました。ところが現場の証拠品を取りに現場に戻ったとき、エレベータに閉じ込められてしまいます。そして、その隙に彼の車がチンピラ、ルイと花屋の店員ヴェロニカのカップルに盗まれてしまいます。待ち合わせ場所でフロランスですが、ジュリアンは現れません。彼の車にヴェロニカの姿を目撃して、一抹の不安と疑惑を持ちながら、彼を探してパリの街をさまようフロランス。一方、車を盗んだカップルは、スピード競争がもとで、ドイツ人旅行者カップルと意気投合しますが、彼らの車をも盗もうとしたところを見咎められ、ルイはドイツ人カップルを銃で殺してしまいます。この事件で、残っていた車と彼らがジュリアンの名前を使っていたことから、ジュリアンが指名手配されてしまいます。そして、夜が明けてビルの主電源が入って、エレベーターが動き出し、ジュリアンはビルから出ることができるのですが、立ち寄ったカフェで警察につかまってしまいます。殺人事件にヴェロニカが一枚噛んでいると核心したフロレンスは彼女のアパートを訪ねて、彼女らを詰問します。しかし、ルイは彼が犯人であることを示す唯一の証拠品があることを知って、それを手に入れるべくバイクを走らせるのですが.....。

リメイク版を先に観てしまって、「うーん、これはダメかな」と思った後で、オリジナルに臨んだわけですが、こういう鑑賞の仕方もあるなあってのは発見でした。(半分、負け惜しみ)

まず、リメイク版はオリジナルとほぼ同じストーリーをなぞっていることがわかって、そこがまず意外でした。だって、あんな偶然の重なる話はないよなあって思いましたもの。でも、オリジナルで出来過ぎの偶然は、ヒロインが盗まれた車の助手席に花屋の店員がいるのを目撃したくらいでして、それ以外の偶然は、リメイク版で無理にとってつけたようです。ヒロインのモノローグが入る趣向も同じですし、警察の動きがうますぎるのも同じ、オリジナルもかなりキザというかかっこつけた映画でした。

でも、オリジナルの方が面白くできてました。それは、お話がサクサクと進むからです。オープニングで二人が殺人計画の電話をしていてから犯行、エレベーターに閉じ込められるまでは、一気に展開します。必要最低限の説明で、お話をぐいぐいと引っ張っていくのですが、その展開に素直の乗れるので、突っ込み入れるヒマがありません。ラストの切って落とすような演出もムダがなく、最後にちょいと気取ってみましたという感じのモノローグがささやかな余韻となっています。

また、モノクロ画面の美しさも観ていて楽しめる一因になっています。アンリ・ドカエの撮影は、光源を意識した絵作りがシャープな陰影を出していまして、夜間シーンでも、画面の隅々に光を入れることで、絵がスカスカにならないのです。日本のカラー映画って、画面が暗いという印象がありまして、リメイク版も、昼も夜も絵が暗めだったので、オリジナルの抜けるような明るさが大変印象に残りました。リメイク版は、やたら絵の具を盛り付けた油絵みたいな感じで、それが好きな人にはOKなのでしょうけど、映像全体がローキーになってしまい、光と影のメリハリが少なめになります。一方のオリジナルの絵は、陰影のコントラストが明快で、映像全体に光が溢れているように感じられます。どっちがいいかは、好みになるのでしょうが、私はオリジナルの映像をとります。



この先は結末に触れますので、ご注意ください。(まあ、それほど大げさなラストじゃないですが)



ルイにとっての殺人の証拠とは、モーテルで撮られた写真でした。そのカメラはジュリアンのもので、たまたま車にあったものをヴェロニカが持ち出したものでした。そして、そのフィルムはホテルの写真屋に預けられていたのです。しかし、写真屋に行ったルイを待ち受けていたのは先回りしていた刑事でした。ルイは逮捕され、そこへルイを尾行していたフロランスも現れます。刑事は、フロランスに他の写真もあるんですよ、彼女を促します。そこには、ジュリアンとフロレンスの幸せそうな写真が何枚もあったのでした。ここで、彼女のモノローグが入って、おしまい。

ラストは、刑事コロンボみたいなオチが鮮やかに決まると同時に、初めて主人公二人の愛情がどんなものか見えてくるという、なかなかにしゃれたものです。リメイク版は同じ趣向をやってる筈なのに、なぜかびしっと決まらないでダラダラって感じになっちゃってました。オリジナル版は、きちんとミステリーとメロドラマの両方を完結させているという点がお見事でした。

とは言うものの、主人公がエレベーターに閉じ込められて、ヒロインがパリの夜を彼を探して歩き回るというあたりは、ドラマとしてはあまり面白いものではありませんでした。マイルス・デイビスの音楽を聞かせ、アンリ・ドカエの絵を見せるための時間のように思えたのですが、こう言うと、オリジナルまでけなしてることになるのかしら。でも、娯楽映画として、この時間も楽しめたのは事実ですし、音と映像だけで見せる映画もあっていいと思いますもの。そして、後半はミステリーの展開となり、主人公がドイツ人カップル殺人犯として逮捕されてしまい、それを救うべくフロレンスが行動を起こすという展開は、物語で見せる映画になっています。

オリジナルとリメイク版の細かい違いを挙げていくときりがないですが、一つだけ挙げるなら、演出のテンポの違いでしょう。オリジナルはとにかくお話に乗せられてしまう語り口のうまさがあります。一方、リメイク版は突っ込みの入る隙が多すぎたようです。両方とも、同じウソ(フィクション)をついているのですが、片方には気持ちよく騙されちゃうのに、もう片方はウソがバレバレでイライラしちゃうという感じなのですが、伝わりますでしょうか。

〔追記〕
リメイク版の記事に、登場人物の描き方が浅いとか足りないといった文句をつけていたのですが、それはオリジナルも同じだったことを追記しておきます。登場人物のキャラの深みがないのは、オリジナルもリメイク版でも同じなのですが、オリジナルはその点が映画に対する不満になりませんでした。登場人物をきっちり描くような作りになっていませんし、そんなことが気にならないほど、面白かったのです。まあ、リメイク版の方が登場人物にいかにもな大芝居をさせているところが多くて、そこに突っ込みが入る余地があったのかなって、今、気がつきました。

「ビヨンド」は映画はゲロゲロだけど音楽は名曲(だと思う)



最近、DVDが再発売されて、その趣味の方(含む自分)には話題になっているのがルチオ・フルチ監督のイタリア映画「ビヨンド」です。1980年代のホラービデオブームの時に劇場未公開作品としてリリースされて、その残酷メイクとわけわからん演出で、カルトムービー化しました。音楽を担当しているのは、フルチ監督作でしか日本では知られていない、ファビオ・フリッツィという人。この人、ギャングものや子供向け映画も手がけているようで、ホラー専門ではないようです。

ピアノのアルペジオに、フルートやギターがかぶさって、じわじわと盛り上がっていくテーマがまず印象的です。いわゆる不安を煽る音になっていまして、さらにドラム、ストリングス、シンセサイザーが絡んできます。これから何かが起こるぞという雰囲気を盛り上げる曲でして、ドラムが前面に出てリズムを刻んでいくあたりは、ゴブリンと通じるものがあります。

この映画のメインテーマになっているのは、タイトルバックに流れる、シンセサイザーをコーラス風に使って、幽玄な雰囲気を盛り上げていきます。曲はさらに転調して、実際のコーラスと交えてさらに地獄のテーマとも言うべき展開になります。編成が小さいので重厚さはないのですが、大変、印象的なメロディで、映画本編がある意味グダグダなのに比べて、音楽のクオリティは高いです。

その他の曲も、小編成のオケながら、きちんとドラマをサポートするメロディを持っていまして、最近のシンセによるどよーんびよーんだけの音楽とは一線を画するものです。サントラ盤として聞いても楽しめますし、耳に残るテーマは、最近のホラー映画に比べて、ある意味、豊かさを感じさせるもので、他のサントラ盤と比べても聴き返すことの多い一枚です。(ヘビーローテーションまではいきませんけど)サントラ盤は何種類も発売されているようで、以前発売されたDVDにも同じ内容が「アイソレーテッド・スコア」特典として収録されています。

「月に囚われた男」のサントラは聞き返すと発見があって面白いです


今年公開された映画の中で、かなり印象に残った作品「月に囚われた男」のサントラ盤が発売されていました。音楽を担当したのは、「レクイエム・フォー・ドリーム」(テーマ曲が映画の予告編でよく使われます)や「ファウンテン」「レスラー」などが有名なクリント・マンセルです。

映画の舞台が静寂の宇宙だけに、大々的なテーマメロディで歌い上げる音楽ではありません。だからと言って、硬質なシンセサイザーだけの音になっていないのが面白い音楽に仕上がりました。1曲目のテーマからして、シンセサイザーによるミニマル音楽にピアノの単音によるメロディがかぶさって、さらにドラムが16ビートを刻んでいきます。単調な曲でありながら不思議な躍動感のある音楽は、ドラマと距離を置いた感じです。現代を描くドキュメンタリー映画で使われそうな曲なのです。このテーマ曲は結構耳に残るもので、映画とこの曲がイメージとしてつながります。

ドラマを支える部分では、シンセサイザーによる乾いた環境音楽が中心なのですが、その中にピアノやチェロによるアコースティックな音楽を入れています。静寂と暖かさが共存した音は、ドラマに情感を与えるのに成功しています。また、アコースティックな音とシンセサイザーを掛け合わせることで、ドラマチックに盛り上げる曲を入れるなど、映画のイメージとは違って、バラエティ豊かな音を聞かせてくれます。基本的には、静寂な宇宙を描写する硬質な音楽なのですが、その要所要所にエモーショナルなアクセントを入れていて、ミニマル音楽になっていないのが面白いと思いました。

こういう宇宙を舞台にした映画の音楽で思い出すのは、マイケル・ナイマンの「ガタカ」、クリフ・マルチネスの「ソラリス」があります。これらが、静寂で無機質な宇宙を描写するという点では共通しているのですが、それぞれにそこからの発展の仕方が違うのが面白いところです。「月に囚われた男」はラストがデッドエンドではないということもあって、どこか明るさというか希望が感じられ、また、ドラマとの距離を取ったシニカルな視点も見えるという面白さがあります。聞き返すと、音楽が色々な顔を見せてくるのが、サントラ盤としても楽しめる1枚と言えましょう。


「ようこそ、アムステルダム国立美術館」はどっかに見せ場とか突っ込みどころが欲しい

今回は新作の「ようこそ、アムステルダム国立美術館へ」を静岡シネギャラリー1で観てきました。もともとがビデオ素材なので、DLPによる上映でした。ここは、売店もないし、飲食物一切持ち込み禁止なんですが、それでもラインナップが充実しているので、結構混雑してます。ロビーにはキネマ旬報のバックナンバーが置いてあったりして、いかにも映画ファンだけいらっしゃいの雰囲気。

2004年、アムステルダム国立美術館の大々的な改装が行われるプロジェクトが始まりました。オープンは2008年の予定。設計は、コンペの結果、スペインの建築家が行うこととなりました。まず、美術館の南北を通っている通路の扱いで、揉めてしまいます。自転車使う人からブーイングが出てきて、早速の紛糾。とにかく、話を進めたい館長なのですが、関係者の思惑とかお役所の認可が遅いとかで、なかなか着工できません。学芸員が展示物をああだこうだと言ってるうちに、時間は経過してしまい、今度は関係者のテンションが落ちてきちゃいます。工事業者を入札で決めようとしたら、一社しか入札してこないとか、プロジェクトは混沌としてきちゃいます。結局、2009年の時点で、まだ着工できないでいるうちに館長は辞職。今のところ、オープン予定は2013年だそうです。はあ、そうですか。

私は、この映画の予告編を観ていたので、この映画が、美術館改築をめぐるドタバタを描いたドキュメンタリーだと知ってましたけど、タイトルだけでは、この映画を、美術館紹介映画だと思っちゃう人がいるかもしれません。上映中、場内からイビキが聞こえてきたのですが、確かに美術品目当てのお客さんだったら「話が違う」って思うかもしれません。オープニングは古い美術館の壁が壊されて、そこに光が入ってくるという幻想的な絵なんですが、映像がビデオクオリティなので、劇場のスクリーンでは見劣りしちゃうのは減点。そこから、先は美術館改築をめぐるたくさんの人へのインタビューを中心に、2004年から2009年の経緯を、ドキュメンタリーとして見せてくれます。監督はドキュメンタリーを中心に活躍しているというウケ・ホーヘンダイクという人。

冒頭で、描かれるのは、美術館の中心を貫く通路の問題。この通路は、歩行者と自転車が活用してきたものなんですが、改築後のデザインだと、自転車が通りづらくなるので、サイクリスト(初めて聞いた言葉です)のみなさんが強力に反対し始めちゃうのです。サイクリスト協会ってのがあって、これが圧力をかけてきて、さらに市民運動家の皆さんも一緒に騒ぐので、このデザインを変えざるを得なくなります。確かに、国民の財産である美術館が、外国のデザイナーの思いつきでいいようにされてはかなわないってのはわかります。実用がデザインより後回しにされても困りますもの。そして、さらに美術館内に建てられることになっていたタワーが美観的によくないということで、ちっちゃくされちゃうことになります。これなんかは、デザインの問題なので、デザイナーが振り回されてるなあって気がします。コンペに勝って採用されたのに、後から色々言われてテンションが下がっていくデザイナーの姿は気の毒ではあるのですが、万人のためにあるものですから、それは仕方のないことだという気もしてきます。

一方で、展示物をどうしようかという検討が学芸員の間でされていきます。日本の仁王像を取り寄せるくだりとかも登場します。また、美術館の警備員であるとか、美術品の補修員といった美術館に関わる人々の様子も描かれます。所蔵品の中で、展示されているのはごく一部で、どれをどこに展示するのかということに、学芸員のセンスが要求されるなど、美術館を楽しむための裏モノとしても楽しむことができます。

と、言うと、改造のドタバタと、美術館の裏側の両方が見られるボリューム満点の映画のようにも思えてしまうのですが、全体の印象では、それほどのボリュームはありません。あれもこれも盛り込んでみたものの、みんな中途半端で、117分というそれなりの長さがある割には、見終わった印象は、「何か物足りない」のですよ。ホーヘンダイクの演出は、アムステルダム美術館に関するものを館長を中心に並べてはいるのですが、そこから、今ひとつ浮かび上がるものがありません。特に、なぜ美術館の改装が遅れに遅れているのかという一番面白そうなところがよくわからない。ここで示される改装に関するトラブルは、美術ド素人の私でも何となく察しがつくものです。入札者が一者しかないなんて、絶対、そうなるまでの業者間のせめぎあいや、美術館側の無理難題とか色々とあるはずなんですが、そこは全然示してくれません。サイクリストとつるんだ市民運動家がうっとうしいという視点だけはなぜか明確に見えてくるのですが、それ以外は、何となく遅れてますという風にしか見えないです。また、アムステルダム美術館だからこそ、こんなにゴタゴタするのだというところも出てきません。

全体にあっさりした見せ方の割には、館長の言動は丁寧に拾っているように見えます。言い方は悪いですが、館長に密着取材するかわりに、あまりゴタゴタの核は描かないようにしているようにも感じられてしまうのです。ラスト近く、館長の辞任に伴い、後任は誰かとか、彼の辞任記念コンサートなんて展開を延々と見せられるのは、正直言って退屈でした。美術館の改装というイベントには、単なる利権とお金のせめぎあいだけでない、美術館ならではの、アートな葛藤があるんだろうなって期待もしたのですが、その辺への突っ込みは一切なし。いや、突っ込みが感じられたのは、サイクリストの自転車通路の問題だけで、全体に突っ込みがないのです。面白いタイミングでいい題材を取り扱いながら、何だかもったいないという印象でした。

一方で、建物の取り壊しとか、補修員や警備員の描写にアートっぽい絵作りをしているのですが、それがビデオ映像なので、映画館のスクリーンに乗せるには解像度が貧弱で物足りませんでした。

というわけで、実物を見ないで、話だけ聞くと、すごく面白そうに思えるのに、実物を見てみれば、それほどでもない映画でした。美術館ファンの方にも、美術館の改装裏話を期待する方にも、あまりオススメすることはできません。NHK特集の中の下クラスの出来栄えといえば、伝わりますでしょうか。

「死刑台のエレベーター」は、言い方悪いけど隅々までバカばっか(ボロクソでございます)

今回は新作の「死刑台のエレベーター」を静岡ミラノ1で観て来ました。ルイ・マル監督「死刑台のエレベーター」は未見ですので、全く新しい映画としてスクリーンに臨みました。タダ券をもらって、どれを観に行こうか迷った結果の選択でしたが、いやー、良くも悪くもタダで観てよかったです。(理由は後述)

手都グループの会長(津川雅彦)の妻、芽衣子(吉瀬美智子)は、会長の配下でもある医師時籐(阿部寛)と不倫関係にありました。芽衣子の発案で、会長殺害計画を実行にうつすことになり、時籐は、銃を持って会長室に向かい、会長を殺し、ビルを一度は出るのですが、移動時のロープの回収のために、またビルにもどってロープをとって帰ろうとしてエレベーターに乗ったのですが、そこでビルの主電源が落ちて、エレベーターの中に閉じ込められてしまいます。一方、外では、ヤクザといざこざを起こした赤城巡査(玉山鉄二)が拳銃を奪われてしまう、そこにたまたま居合わせた美容室の店員美加代(北川景子)が、時籐の車を盗んで、奪われた拳銃を追跡します。追った先はヤクザのボス神(平泉成)と愛人朔美(りょう)の車。なんとびっくり朔美と赤城は愛人関係だったんですって。一方、時籐からの連絡がないまま、芽衣子は横浜の街をさまよっていたのです。


この先、この映画を(本気で)ボロクソに言ってますので、未見の方、またはこの映画を堪能された方はパスしてください。



名作のリメイクということなのですが、オリジナルを知らないので、期待できるところありました。タイトルでも、「オリジナル ルイ・マル監督 死刑台のエレベーター」と出ますから、正式なリメイク作品のようです。「のんちゃんのり弁」の緒方明が監督しているということで、まあ期待は半減、そこそこのデキなら御の字というつもりだったのですが。

主人公時籐は、戦争地域に病院を建設すべく会長を説得していて、会長もそれに対して前向きに相手してくれてました。という、設定に関係なく、奥さんとデキちゃったからという理由で、その奥さんのほとんどそそのかされた感じで、時籐は、会長を殺しちゃうのです。ところが証拠品回収のために一度ビルに戻ったら、エレベーターに閉じ込められちゃったから、さあ大変。と言いたいところですが、あんまり大変そうでもないんですよね。いやいや人を殺したって風情でもないし、時間に追われてるわけでもないので、共感もサスペンスも湧いてきません。ヒロインである芽衣子も、なぜダンナを愛人に殺させなきゃならないのかという説得力がないですし、ひたすら、連絡を待って横浜の街をウロウロしてるってのがかなりマヌケ。ダンナの生死くらい確認できないのかと思うのですが、ヒロインがバカというより、脚本がバカに見えてきました。例えば、主電源オフにしなきゃエレベーターを止められないし、非常電話もないエレベーターにしなきゃいけないせいか、歴史あるビルを舞台にしてますが、そういうときって、現代ならではの工夫とかするんじゃないの? 今時、主人公がたまたま車に携帯電話を忘れてエレベーターで孤立してしまうとか、盗まれた車を芽衣子が目撃して愛人に女ができたのか疑うなんて、偶然が強引すぎるんでないかい? 

並行して描かれるのが赤城巡査と美加子が、ヤクザのボスと愛人を追いかけて、ついには殺してしまうという展開です。この赤城ってのが、登場してからずっと得体の知れないビョーキキャラで、自己チューを通り越して、精神疾患の人でないかと思わせるのですよ。そんな得体の知れない気色悪い男についていっちゃう美加代って一見バカっぽいのですが、これがホントにバカ。さらに、偶然のなりゆきか、ボスと愛人と一緒に箱根のコテージに宿泊しちゃう。そして、赤城は、愛人に「私のために、ダンナを殺せる」とかそそのかされて、勢いでヤクザのボスをホントに殺しちゃう。愛人に逆上されたら、ついでに愛人も殺しちゃう。そして、美加代の家に転がり込んじゃう。どういう成り行きの話やねん、本田薫子って人が脚本書いてるのですが、正直、話がいいかげんすぎないかしら。登場人物がバカ過ぎてイライラするってことは、時としてあります。この映画の場合は、滅多にないことですが、作り手がバカすぎじゃないかってイライラしてしまいました。お話が面白かったり、役者がいいとか、音楽がいいとか、目の保養になるとか、どっかいいところあれば、そこでモトを取れるというのが、私の映画の見方なんですが、とにかく、この映画はイライラさせられっぱなしでした。(私は、オリジナル観てませんから、オリジナルとの比較はなしで、この映画、評価してます。)

そして、お話の軸が、ヤクザと愛人殺人事件に移ってしまい、現場に残っていたのが時籐の車だったので、彼が指名手配されてしまいます。一方、時籐はエレベーターに一晩閉じ込められて、朝、主電源がオンになって、外に出ることができました。で、外に出て喫茶店に行ったところで通報されて逮捕されてしまいます。一方、芽衣子は一晩中ウロウロしてただけのようで、自分のダンナが死んだことを警察からの電話で知ります。そして、美容室の女が時籐の車に乗ってたことを(ものすごい偶然に)知り、美加代の部屋に乗り込んで、タンカをきった後、部屋から出て殺人の証拠が残っている箱根の写真屋へ行く赤城を尾行します。殺人現場の遺留品のカメラから、写真の存在にきづいた柳町刑事(えもとあきら)ら警察が先回りしていて、赤城は逮捕されます。後から、写真館の現像室に入った芽衣子を待っていた柳町が、芽衣子と時籐の不倫の証拠写真を示して、もっともらしい理屈を言って、おしまい。

ヒロインである芽衣子のモノローグがナレーションのごとく随所に現れるのですが、結局、彼女も最後まで事の全貌を把握していないので、お話の支えになっていません。また、緒方明の演出は、シーンのつなぎが全体的におかしいので、物語がうまく流れていきません。シーンごとに別人がバラバラに統一感のない演技をするという「のんちゃんのり弁」と同じパターンでして、登場人物の存在感が出ず、ツッコミはできるけど、共感はできない皆さんのコント集みたいな感じになっちゃいました。

つながりというのは、例えば、主人公の時籐は殺人を犯した後、エレベーターに閉じ込められるというめったにない出来事に遭遇しますが、それが翌日、彼の行動や言動に何の影響ももたらしていないようなのです。美容師の美加代は、殺人を犯した赤城と心中しようとして、ビンで彼をなぐって、自分も睡眠薬を飲むのですが、翌日は「死ねなかったー」ってゲロ吐いてるだけですし、赤城も何事もなかったようにしています。だったら、エレベーターに閉じ込められるというアクシデントも、心中し損なうという事件も、ドラマとして「なくてもいいじゃん」ということに見えます。普通、ドラマを観ていて、その流れに身をゆだねることができれば、そんなことに気付いたり、感じたりすることはありません。でも、この映画は、主要エピソードが意味ないじゃんって思えてしまうのです。これは、脚本が基本ストーリーを消化できていないのか、演出が観客を引っ張るのが下手なのかのいずれかではないかしら。

趣向としては面白いのですから、お話の膨らませ方で、ドキドキハラハラも、感情移入もできたかもしれません。でも、出てくる連中みんなバカに見えちゃう。たくさんいる登場人物の中で、それなりに役柄を貫徹できているのは、女刑事役の熊谷真美くらいで、後はみんな登場シーンごとに別人のような行動に出る、底の浅い皆様なのです。確かに映画の中で、そういうアラが出ちゃうこともあるのですが、この映画はアラばっかで、アラ以外のところがなかったという点で、私にとって非常に珍しい映画になっちゃいました。そういう映画にあたる機会がなかったことが幸運だと思うべきなのかしらん。

〔追記〕
この映画を観たあと、DVDでオリジナル版を確認しました。基本的には同じ話なのがびっくり。また、登場人物のキャラの描き込みが浅いのも同じでさらにびっくり。でも、一番びっくりだったのが、そんなオリジナル版なのに突っ込みどころが少なくて、見所聴き所がたくさんあったということ。この記事で書いた映画に対する文句(苦情?)は、オリジナル版にもあてはまるのですが、それが気にならないのですよ。突っ込む隙を与えずに、お話がサクサクと進んで、要所要所の映像や音楽で観客を楽しませるので、見終わってみれば、なかなかに面白い映画でした。やはり、映画ってのは、上映中は観客を引き込んで、あの手この手で楽しませてくれれば、多少のアラも気にならない、むしろ多少の欠点もかわいく見えちゃうってところがあるようです。

フジサワ中央が閉館して一ヶ月  藤沢から映画館が消えて一ヶ月

もうタイミングを逸してしまった感がありますが、忘れる前に記録しておきます。2010年の8月31日に神奈川県藤沢市のフジサワ中央が閉館しました。これで、藤沢市から映画館はなくなってしまいました。昔は、藤沢オデオン系4館に、藤沢みゆき座とか藤沢中央とかありまして、映画を観に行く町だったのですが、遂に映画館のない町になっちゃいました。

フジサワ中央は、藤沢駅の北側、かつての繁華街と思われる通りの3階と地下1階にある映画館です。中央1は207席の街中の映画館としてはそこそこ立派な作りです。中央2は126席の小さな映画館で、こっちは1度行ったことあるのですが、狭くて小さなスクリーンとあまりいい印象はなかったです。

フジサワ中央1は、最近も「エリザベス・ゴールデン・エイジ」「パラノーマル・アクティビティ」を観に行きました。音響はアナログのドルビーステレオだけですが、座席数の割りに空間は広く、スクリーンもミニシアターというよりは、見上げる感じの昔ながらの映画館のつくりになっています。ビルの作りも古いと言えば古いのですが、昔の映画館のあるちょっとした敷居の高さと大人の世界っぽさが感じられます。こういうところに、小さいころたまにマンガ映画に連れてきてもらうことで、大人の世界に入った気分になり、それから、映画人生やヤンキー人生とかが始まるという、大人への入り口だったのではないかしら。今の整然としたシネコンは昔の映画館のようないかがわしさがないので、老若男女がみんな平等に並んで待っていたりするのですが、フジサワ中央のような映画館に大人向け映画を観に来ると、やはり大人の世界というか、大人優先ってこういう感じなんだよなあって実感できます。でも、その敷居の高さは、地方都市の映画館ではお客さんの足を遠ざけてしまうので、いろいろなサービス企画を立ち上げたり、いろいろなアート系映画の上映をしたり、と頑張っていたようです。私は、あまり来てなくて、これからは足を運ぼうかしらと思っていたところでの閉館でびっくり。

藤沢オデオンほど通いつめた映画館ではないのですが、昔ながらの地方都市の映画館がなくなっちゃうのは、その町の文化がなくなっちゃうように寂しく思います。(私は横浜市民ですけど)それだけ、経営が大変なのでしょうけど、町の映画館、本屋さん、喫茶店、蕎麦屋さんといったものは、その町の文化を支えていると思ってますが、最近、個人店がなくなっていくのは、チエーン店になっちゃっています。映画館で言うならシネコンがチェーン店に相当するのですが、藤沢は市外のシネコンに映画のお客さんを取られちゃった構図なので、余計目に寂しい気持ちがします。

「シルビアのいる街で」は、音が動き、光が動き、人が動いて、LRTが動く

今回は新作の「シルビアのいる街で」を、横浜シネマベティで観て来ました。DLPの上映でしたが、やはりコントラストの高いエッジがにじむ感じになるのは減点。どうして、フィルムで上映してくれないのかしら。今はほとんどみかけなくなったビデオシアターも画質がフィルムに劣ったそうですが、テレビの画面が大きく精細になってきているのに、映画館が画質落とすのはどうにも解せないです。

フランスのとある町、ホテルで目を覚ました青年(グザヴィエ・ラフィット)は、地図を手にカフェに出かけます。隣の女性に声をかけるが無視されてしまいます。翌日、またホテルを出た青年は別のオープンカフェに出かけます。たくさんの人がいるカフェで、周囲を見ながら、女性のスケッチを描き、「シルビアのいる街で」とメモを書きます。カフェの屋内にいたある女性(ピラール・ロペス・デ・アジャラ)に目を止めた青年は、店を出る彼女の後をつけていきます。街の中を追跡し、一度は見失いますが、LRT(路面電車)に乗った彼女に声をかけます。「シルビアでしょ? バーで6年前に会ったよね。」「人違いです。」「最低だ。」「ずっとつけてきたでしょ。気持ち悪かったわ。」なんて会話になって、二人は別れます。その夜、6年前にシルビアと会ったバーで飲んでる青年、そこで会った女性と一夜を過ごしたようです。そして、翌日、またカフェに座っていると、彼の視線の中にシルビアらしい女性が入ってきます。LRTの駅まで後をつけた彼は、駅のベンチに座って、人々をながめているのでした。おしまい。

スペインのホセ・ルイス・ゲリンが監督と脚本を兼任しました。フランスのドイツ国境近くの町ストラスブールを舞台にして、実験的というか、やりたい放題というか、アートっぽい雰囲気の映画に仕上げています。ちなみに、LRTというには、Light Rail Trainという、最新の都市交通のことでして、路面電車と書くとノスタルジックですが、実際は最先端のスマートなデザイン(日本の私鉄特急が路面を走っているような感じ)でして、日本でも導入されてきています。この映画の中では、LRTがかなり重要な要素になっています。窓が大きいので、光がたくさん入り、さらに窓は街の景色を写す鏡になっています。

ストーリーを追っても映画の全容は語れません。ほとんどの時間、カフェと街のスケッチ映像が流れていまして、そこに妙にやけに立体感のある音付けがされています。デジタル音響でない劇場で観たのですが、それでもやたら左右の音の移動が意識的にされています。もとが5.1チャンネルのドルビーデジタルだけに、サラウンドもつけるとそうとうリアルな音の空間につつまれることになったでしょう。特に自動車や人の足音などの移動感がすごく、普通の映画に比べて、映像のバックの音が前面に出てきて、その音圧もかなり強いつくりになっています。

カフェでも、そこにいる様々な人にカメラを向けて、会話する人、ただ黙っている人をえんえんとながめさせられることになります。カメラが街へ出ても、様々な通行人の様子を移動ショットやロングのショットで捉え、そのバックのリアルな音を聞かせることを繰り返します。ただし、そういうシーンでは、意味のあるセリフは登場しません。雑踏としての人声は聞こえてきますが、意味のある会話ではなく、効果音みたいな扱いなのです。カフェでの風景をえんえんと流した後、今度は、青年が女性を追跡する様子をえんえんと流します。それも、二人をカメラが追うのと、街の風景を流すのを半々くらいです。そんな中で、人の顔はきちんと押さえていまして、あれ、さっき見た顔がここでまた出てきたなんて気づくこともあります。また、ガラスに映る風景を捉えたカットも何度も登場します。また、LRTに乗り込んでからは、街はスピード感を増して動き出します。太陽の光がLRTのスピードに合わせて色々な影を落としていきます。

どうやら、この監督さんは、街を音と光を使って、色々な見せ方をしたいようです。通行人や通る自動車、街の看板などは全て計算されたもので、自分の思うような街を作り出そうとしているかのようです。ゲームのシムシティの映画メディア版とでも言えば感じが伝わるでしょうか。そういう見せ方をしてきて、青年がLRTの中で女性に話しかけると、何だか呼吸が乱れたような雰囲気になるのがおかしかったです。でも、その妙な雰囲気を、青年と女性の関係とシンクロさせているのがうまいと思いました。青年なやっとの事で、話しかけたものの、人違いと言われた上、それまで尾行していたことも知っていたと聞かされてがっかり。さらに追い討ちをかけるように、変なのに尾けられて気持ち悪かったと言われちゃいます。LRTが天井まで窓が伸びているので、外の光が入り込み、それがLRTの移動とともに変化するので、会話する絵も美しく見せてくれます。また、二人を演じる俳優さんも、透明感のある美形なので、絵が映えるのですよ。

そして、LRTの中で二人は別れて、青年は酒場に行き、酒を飲んだ後、女の子と一夜を過ごすのですが、ここは、映画の中のインターミッションみたいな感じです。翌朝、また街の風景がリアルな音とともにえんえんと描写された後、青年がカフェからLRTの駅まで行って、今度はLRTの駅の周りの人や風景をえんえんと映します。LRTへカメラを向けると、中の人が映ったり、窓に街や外にいる人が映ったりと様々な顔を見せてくれます。監督として、見せるものは見せきった気分になったのか、画面が暗転し、街の雑踏の音だけ流れて、エントクレジット。

青年はノートを持っていて、そこに女性の姿をスケッチしています。カフェでも、ウェイトレスや女性客のカットがたくさん登場して、彼が女性ばっかり見てるらしいことが示唆されます。とにかく物語が動くところは、LRTの中での二人の会話シーンだけなので、後は、監督が見せたい女性、街の姿をえんえんと映し出すだけ。普通の映画の感覚だと、物語がなさすぎて、何だこりゃという気分にもなるのですが、たまには、こういう映画も面白いと思うことができました。それは、音や映像そのものを聞かせたい見せたいというのが伝わってくるからです。こんな映画ばかり見せられたらかなわないけど、たまにこういう映画にあたるのも悪くありません。登場する青年と女性が美形なので、彼らをえんえんと追うだけの絵に耐えられるということもあるのかもしれません。また、街がどこか限定された空間に見えるのも、不思議な味わいに一役買っています。LRTが街の隅々に通っているようで、全部を歩ききれてしまうような雰囲気がありまして、そこにリアルな街とは違う、「街のような空間」を感じさせます。

この映画は、音と映像の両方あっての面白さが見えてきますので、家の小さなテレビや、立体音響の効果の得られない場所で鑑賞するには不向きです。音と光を劇場で楽しむ映画だと申せましょう。実験的な作りの映画ですので、観る方も「試しに」この映画に乗っかってみるかという、大らかな気持ちで臨むのがいいみたいです。

「シングルマン」は私にはとっかかりどころがなくて難しい映画でした

今回は新作の「シングルマン」を横浜ブルグ13シアター9で観てきました。100席の小さなスクリーンは悪くないのですが、朝1回目の上映20分前になってビルの入り口が開くってのは、ちょっとハラハラしました。こういう細かいところが、チネチッタはよくやってるんだろうな。

時は1962年、大学で講師をしているジョージ(コリン・ファース)は、16年間一緒に暮らしたジム(マシュー・グード)を交通事故で失い、失意の日々を送ってきました。そんな人生に、今日終止符を打とうと決意します。銀行の貸金庫を開けて、中を整理し、そこから拳銃を取り出すジョージ、大学へ出かけてみれば、教え子の一人であるケニー(ニコラス・ホルト)が声をかけてきます。ジョージの授業に何か感じるところがあったようなのですが、ジョージはやや邪険に扱ってしまいます。そして、友人で未亡人であるチャーリー(ジュリアン・ムーア)に会いに行きます。モーションをかけてきた彼女をサラリとかわしてしまうジョージは、人生に思い残すこともなさそう。そんな彼に、再度ケニーが声をかけてきます。ケニーとのひとときにどこか救われた気分にもなるのですが。

ファッションデザイナーとして有名なトム・フォードが、クリストファー・イシャーウッドの小説を、脚色して、メガホンも取りました。監督本人もゲイだそうですが、この映画で描かれるゲイは、「ミルク」のように社会的抑圧も受けていないらしい、きちんと地位もある普通の社会人です。そんな主人公ジョージが自殺を決意してからの1日を寓話のように描いたドラマです。自殺前を描く映画というと、その昔のルイ・マル監督の「鬼火」を思い出してしまうのですが、この映画の主人公は、それほど追い詰められておらず、社会からも見放された存在ではありません。ドラマも淡々と流れていくので、大きなドラマチックな展開は見せません。主人公が死ぬ意思を固めているようにはあまり見えず、普通の一日を追っているようにも見えまして、正直なところ、つかみどころがない印象でした。

身辺を整理して、銃を用意して、自殺に向けての段取りを重ねていきます。寝袋にくるまる件など、印象的なシーンもあるのですが、死を意識している人間にしては、あまりにも優雅というか、死ななきゃならない説得力がないのです。冒頭で、主人公が隣家の朝のにぎやかなやりとりをながめるシーンがあります。普通の人の普通の生活に初めて見るような視線を投げかける主人公が、何かすごく時代がかった繊細さの持ち主のように思えてしまいました。繊細なのが悪いわけではないのですが、何か私のような庶民とは違うセレブというか金持ちのデリケート道楽みたいに思えてしまって、なかなか感情移入ができませんでした。主人公が水中に漂うイメージ画像であるとか、独特の色彩設計とか、意匠をこらした映像が、確かに見せ場となっているのですが、それが人生の生き死にを目前にした人間の切迫さと噛み合わないのです。

それに、主人公は、愛する人を失ったとは言え、孤独とは言えません。彼の講義に何かを感じ、彼に興味を持つケニーにような学生もいますし、チャーリーのような旧友がアプローチかけてくるし、彼を求める人がいるのですよ。本当の孤独ってのは、誰からも愛されない、必要ともされない、興味も持たれない、「プレシャス」のお母さんみたいな人間のことです。愛する人を失ったからといって、自殺するには、彼の人生は恵まれすぎています。これは、作り手であるトム・フォードがファッション界のセレブだということと関係あるのかもしれません。何というか、上から目線の人生の岐路なので、私のような並以下の人間は、共感しにくいのです。まあ、これは映画の内容というより、私個人の受け取り方の問題となるでしょう。

主人公がゲイである点や1960年代という設定も、視覚的な面白さ以上につながってこなかったという点もあります。ジョージとケニーのシーンも最初は、教師と生徒という関係から、全裸になって海に入ったりして、そういう雰囲気にもなるのですが、意図的に生臭い方向に持っていかない演出をしています。このさじ加減にも、どこかカッコつけた感じがつきまといます。ラストで、自殺を踏みとどまるのかどうかというところが、ドラマの山場になり得なかったのは、人間を描こうという姿勢が希薄だからではないかという気がしました。もともと、そういう人の生死の境を描くのではなく、人生がぶれかけた中年男が若い男の子と出会って、ちょっとだけ軌道修正をかけましたというお話ではないのかしら。生きるか死ぬかというほどには、ドラマチックな揺れ幅はないように思います。



この先、結末に触れますのでご注意ください。



ケニーもゲイだったようで、ジョージの恋人の写真を見ても動じるところはありません。ジョージは、自分が準備していた拳銃を、ケニーが抱えて眠っているのを見て、微笑みます。そして、銃を引き出しにしまって鍵をかけます。どうやら、ジョージは、一つの決着をつけたようです。しかし、彼の胸に痛みが走り、そのまま彼は息を引き取ってしまうのでした。おしまい。うーん、困ったな、最後までリアリティや奥行きをすっとばかされたような気がします。原作もこういうお話なのかしら。


主演のコリン・ファースはこの演技で、ヴェネチア映画祭で男優賞をとっているのですが、このつかみどころのないドラマの中で、唯一の存在感を示したことに対する受賞ではないかしら。ジュリアン・ムーアでさえ、独特な視覚設計の背景の一部のような存在でしたから、ファースの演技力はやはりすごいと言うべきなのでしょう。

まあ、リアルな生きるか死ぬかという話から離れて、ある種のファンタジーと考えれば、ケニーは、ジョージの前に現れた天使のような存在ですし、ゲイという設定は、登場する男女との関係の生臭さを消すために有効だったように思います。女性陣の60年代メイクもどこか別世界のような趣があります。正直、私にはとっかかりどころがなくて、難しい映画になっちゃいました。

この画面はシネスコサイズなんですが、最近の映画はシネスコサイズが多くなっているように思います。家のテレビがビスタサイズになって、それになじんでしまうと、映画館では、より広いくらいが、丁度よくなるのかもしれません。ただ、劇場の大画面で観る横長フレームを生かした絵作りになっているかというと、そうとも思えないところがあります。その昔、映画はテレビに対抗するために、シネマスコープを開発して、差別化を図ったのですが、ある時期、シネスコサイズよりもビスタサイズが主流の時期がありました。それが、1980年代以降、スーパー35というスタンダードネガから、シネスコサイズの絵を切り取るやり方ができてから、またシネスコサイズが盛り返してきました。そして、21世紀になってからは、シネスコサイズの方が多くなってきたような気がしてます。私はシネスコサイズの横長画面は好きなのですが、その大画面に似合う絵があってこその横長画面だと思ってます。人間のドラマ重視の映画なら、ビスタサイズの方が合っていますし、手持ちカメラ中心の絵で、シネスコサイズだと目がくたびれちゃいますもの。

「超強台風」はディザスター映画の定番のようで、実はすごく珍しい掘り出し物

今回は新作の「超強台風」を新宿ミラノ3で観て来ました。新宿歌舞伎町に残る数少ない映画館の一つです。でも、公開2週目にして、1日2回の上映になっちゃってるし、座席数1000のミラノ1では、韓国映画「TSUNAMI 津波」をやってて紛らわしいことこの上なし。ちなみに、こっちは今注目の中国映画でございます。

藍鯨と名づけられた巨大な台風は、中国の沿岸都市温州に接近してきていました。しかし、動きは迷走台風でして、行ったり来たり。市長(ウー・ガン)は人命を最優先させようというポリシーの持ち主でしたが、大規模な避難活動を行ったときの経済的損害も考える必要がありました。また、ダムの水位が危険になった時には、放水をしなければいけないのですが、それは彼の進めてきた新開発地域を水没させることを意味していました。招聘された気象学者は市長の小学校の先生でした。彼女の直感は、一度はそれたと思われた台風が再度上陸してくると言い切ります。市長は、市民への避難命令を発令し、自分の独断で、警察も軍も自分の指揮下に置いて、陣頭指揮を取ります。果たして、台風は温州市へ上陸します。港では船を救うべく海へ繰り出そうとする漁師たちと役人が押し問答になっています。すると市長は、自ら暴風の中、港へ赴き、命を落としてくれるなと漁師に嘆願し、漁師たちも彼の行動に打たれて避難誘導に従うのでした。一方、島に産気づいた女性を救うべく、台風の目の通過タイミングを狙って、軍のヘリが飛び立つのですが....。

冒頭で、宇宙の銀河から、太陽系に入って、キャメラが地球をアップにし、さらにその下の中国の街に座っている少年まで、一気に移動するという大仰なショットが、何だこれは?という気分にさせるのですが、この映画、その冒頭の大風呂敷がふさわしい作品に仕上がっているのですよ。ある都市を巨大な台風が襲うというだけのストーリーを寄り道させずに、骨太タッチに描いているのです。主人公は、市長でして、彼が人命を救うために、恩師である気象学者のアドバイスを受けながら、様々な決断をしていくのがメインストーリーです。脇のキャラでは、町のスリとか、漁師の男、台風が近いのに娘の結婚を祝っていてクビになってしまう町長、離島で産気づいた妻と、本土でそれを気遣う夫、さらに医師のいない離島の診療所でアタフタする看護婦といった面々が登場します。そういう意味では、グランドホテル形式の人間ドラマもあるのですが、物語は基本的に市長から脇道にそれないので、各々のエピソードが冗長になっていません。フォン・シャオニン監督は、もっと長くできそうな内容をうまく刈り込んで、1時間半を一気に見せるのに成功しています。

見ていて、市民も警察も軍も、ゴタゴタ言わずに人助けに頑張ってるってところがよかったです。この映画では、誰一人悪人は登場しませんし、誰かの足を引っ張るような足手まといもいません。そのストレートな展開が小気味よく、かつちょっとした感動を味わうこともできます。みんなとにかくガタガタ言わずに動くのですよ。恋愛模様も一切入らないのが気に入ってます。日本映画だったら、市長が呼んだ気象学者が女性で、市長と過去の因縁があるとしたら、絶対恋愛沙汰にしたでしょうけど、何しろこの映画のおばちゃん気象学者は、市長の恩師という設定です。離島にいる産気づいた妻を気遣う夫が登場しますが、嘆きの長ゼリフを言うよりも行動に出るあたりがいい感じなのですよ。

市長がとにかくかっこよく描かれていまして、躊躇することなくてきぱきと決断し、即行動に出るのが、まあ時代劇の主人公みたいに颯爽としているのですよ。要所要所で見得を切るのも、時代劇っぽいです。その一方で、ちょっとしたところで、人としての懐の深さを感じさせるエピソードを入れるなど、シャオニン監督は、必要なところはきちんと押さえています。細かいところでは、お年寄りは避難したがらないから、役所の人間が説得してまわらないといけないですとか、離島の妊婦のために、駐留している軍の中から献血者を募るですとか、そんな心配りが映画に一本筋を通しているように思いました。また、セリフを台風に関するものに絞り込んでいるのも成功していまして、ドラマの盛り上げをセリフではなく、登場人物の行動で見せるので、そこにじわりとくる感動があるのですよ。

特撮シーンも結構ありまして、宇宙のシーンや、台風のロングショット、竜巻や台風の目の描写などはCGを使っているようですが、高波が押し寄せる港や、浸水する街などはミニチュア特撮も多用しています。特に水の描写はミニチュアだとリアリティを出すのが難しいのですが、予算の関係もあるのか、そこをあえてCGにしなかった点のセンスは見事だと思います。実際の高波の実写とミニチュアセットをつなげることで、画面に一体感がうまれています。若干、ミニチュアにアラが出てしまってはいるのですが、ミニチュアセットの中に人間をうまくはめ込むことによって、ミニチュアのクオリティ以上の効果が生まれています。私は、ミニチュアやメカニカルイフェクトが頑張っている映画が好きなので、こういう映画はついひいきをしたくなります。CGで最良の効果が生まれるわけではないってことを、きちんと見せてくれているのがうれしい映画です。

いわゆるディザスター(災害)映画なんですが、驚くことに誰も死なず、誰も悪いことをしないで、人それぞれの行動をきちんと描くという、実は離れ業をやってのけている映画です。確かに、主人公の市長が大見得を切るシーンとか笑っちゃうところもあるのですが、それも、この題材に真っ向勝負している演出の表れとして評価したくなります。人命を優先するのが大前提という設定と、余計なものをそぎ落としたドラマ展開が清々しさすら感じさせてくれます。何だ、こういう映画も探せばあるじゃないかって、気分にさせられちゃう、掘り出し物としてオススメしたい一品です。

「恋愛遊戯 私と恋におちてください」は、恋愛も遊戯もどっちつかずでも深キョンかわいい。

今回は新作の「恋愛遊戯 私と恋におちてください」をヒューマントラストシネマ有楽町シアター2で観てきました。公開1週間で、座席数192のシアター1から、座席数63のシアター2へ移ってましたから、あまりお客さん入ってなさそう。映画の日でも余裕の鑑賞でした。

人気脚本家の谷山真由美(深田恭子)は、新作ドラマのシナリオが進まなくて、関東テレビのスタッフはハラハラしてました。営業部と編成部と制作部が仲悪くて、それぞれの思惑があるみたい。制作部から、ダメ社員と言われている向井(椎名桔平)をプロデューサーに仕立てて、彼女がカンヅメになっているホテルに送り込みます。真由美が言うには、「私は恋をしないと書けないの。私と恋に落ちてちょうだい。」ですって。そう言われても困っちゃう向井ですが、何とか締切りまでに書いてもらわないとということで、何でも言うこと聞きますと言ったものの、彼女のご機嫌をとるのは難しそう。編成部からは、イケメン柳原(塚本高史)を送り込んで、何とか彼女に書かせようと画策します。ところが、やっと彼女がひねり出したストーリーは、スポンサーに出した粗筋とは全然違う代物。そろそろ才能も枯れてきたと思われてる谷山真由美に、営業部と編成部はプランBを考え始めるのですが、向井は何とか、彼女にシナリオを書いてもらおうと頑張るのでした。

舞台で知られる鴻上尚史が、自分のヒット舞台劇を映画用に脚色し、監督も手がけた作品です。そろそろ落ち目の女流脚本家と新進プロデューサーが共同で愛のドラマのシナリオを創っていく過程を中心に、テレビ局の舞台裏を垣間見せながら、最終的に脚本家とプロデューサーのラブコメディに収束というお話です。シナリオの中身が映像化され、さらにその映画内映画の中で、シナリオが登場し、映画内映画内映画という「インセプション」みたいな趣向も登場し、各々のストーリーの中で、深キョンと椎名桔平がカップルとして登場します。一方、テレビ局の裏話的な部分では、局内の制作部、編成部、営業がいがみあってて、お互いに自部署の手柄のために奔走する様子が描かれます。

そして、真由美と向井の恋愛模様の方は、ラスト近くまであまり語られません。なんとなくいい感じをほのめかすシーンが何度か登場するのですが、タイトルに「恋愛」を謳う割には、恋愛ドラマしてないのは、何だか肩透かしを食らったみたいです。結局、才能に見切りをつけられて、ゴーストライターを立てられちゃうという手痛い仕打ちを受けて、一念発起して、改心のシナリオを一気に仕上げるという展開になります。そして、真由美が向井に、実はそれは向井のためにやったのよって告白して、そこが恋愛部分のクライマックスになるはずなんですが、鴻上の演出は、そこらへんをあっさりと流してしまっていました。恋愛部分と、シナリオ作りがシンクロしてない感じなのですよ。

深キョン演じる谷山真由美は、若くして才能を開花させ、それなりの実績のある30代のシナリオライターらしいのですが、彼女がかわい過ぎて、そういうキャラクターにはなかなか見えないので、ちょっとつかみで失敗してるかなって、気がしちゃいました。舞台なら、セリフや動きによって、キャラクターを組み立てられるのでしょうけど、カメラがアップで寄る映画というメディアの場合、俳優の持ち味と、演じるキャラにギャップがあると、それをカバーしきれないことがあります。今回の深キョンがそんな感じなんです。彼女はかわいくて大好きなんですが、自分の恋愛経験をシナリオ化してヒットドラマを作ってきたという女性にしては、何だか少女のようなウブな感じなのが、どっかキャラがフワフワしているような気がしました。「シナリオ書いて欲しけりゃ、私と恋に落ちて!」なんてセリフが、恋愛体験豊富な女性の口から出るとはどうしても思えないのですよ。夢見る夢子さんじゃないんですから。

テレビ局関係者を演じた、清水美沙、西村雅彦、井上順といった面々が濃いキャラを見せてくれているのに比べると、深キョンや椎名桔平が何考えてるのかがよくわからないので、なかなか感情移入しにくかったです。これは狙ってやってるのかなという気もしました。でも、主人公二人を距離感を置いて描くのなら、そこにシニカルな視線と笑いを弾ませて欲しかったように思います。ラストまでたどり着いた時、あまりにもベタなラブシーンを見せられるので、これはマジか?と思ってしまいました。30過ぎの大人のラブストーリーか?これは、と、突っ込み入れたくなってしまったのですが、これはあまりに汚れてしまったオヤジの発想なのかしら。

最近観た中国のラブコメで「ソフィの復讐」がベタな恋愛を扱いながら、思い切りヒロインのキャラをマンガチックにして、ファンタジックな映像で彩って、楽しかったのに比べると、何かこうフワフワしているというか、迷いが感じられてしまうのですよ。ヒロインのリアルなキャラに切り込むか、もっと華やかなビジュアルで嘘を盛り上げるか、どっちかに吹っ切れて欲しいように思います。そこはよく言えば、バランス感覚ということになるのかもしれませんが、こういうラブコメへ私が期待するところは、感情移入してのハッピーエンドの満足感か、徹底した底抜けの楽しさのどっちかなので、期待とは外れちゃったみたいです。

と、言いつつも、深キョンかわいさに最後まで付き合えちゃう映画でもあります。彼女の年齢不詳で、つかみどころのないキャラですとか、文字通りフワフワ(ぷよぷよかな?)したルックスですとか、彼女を観る映画と割り切っちゃえばかなり楽しい。相手役の椎名桔平が、あまり表情を変えないので、彼女の華やかさが余計目に際立ちました。ただ、余計目に、ヒットドラマ作家には見えなかったですけど。
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einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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