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「エクソシスト」をBDでやっと観たらすごい面白い、よく出来てて感心。


1974年の劇場公開当時はヘタレ中学生で怖くて観にいけず、テレビで観たときは「そんなに面白いかあ?」って今イチだった「エクソシスト」のブルーレイが最近発売され、お値段そこそこだったものですから、やっとまとも(?)に鑑賞することができました。劇場版とディレクターズカット版の2枚組なんですが、以下は劇場版の記事になります。

ワシントンDCのジョージタウンに住む女優クリス(エレン・バーンステイン)の12歳の一人娘リーガン(リンダ・ブレア)の様子がおかしくなります。変なことを言い出したりするのですが、本人もその自覚がないみたい。病院に行って痛い検査もするのですが、異常なし。精神科医に見せた方がいいと言われるころには、リーガンの中に別の人格がいるような状態で、獣のような声で卑猥なことをしゃべり出し、顔も醜く変わってしまいます。近代医学が太刀打ちできないことがわかってきたクリスは最後の望みとして、悪魔祓いをカラス神父(ジェイソン・ミラー)に依頼します。最初は、何かが憑依したなんて話を信じてはいなかったカラス神父ですが、リーガンが死んだ自分の母親のことを口走ったことで、教会に悪魔祓いの許可を得、教会は悪魔祓い師としてメリン神父(マックス・フォン・シドウ)を推薦します。メリン神父とカラス神父の二人は、リーガンの家へ行き、悪魔祓いの儀式を開始します。リーガンに憑依した悪魔は強力なパワーで二人を翻弄します。果たして、リーガンは元のかわいい娘に戻ることができるのでしょうか。

劇場公開時は、この映画とともにオカルトブームが起こって、劇場には長蛇の列、これと前後して「ノスタラダムスの大予言」とかが流行って、世紀末気分いっぱいでした。キリスト教会がこの映画を観てはいけないとか、この映画を観ると呪われるなんて話までありました。少年雑誌でも、この映画をベースにオカルトの特集記事とかが組まれていましたし、大人も子供も巻き込んでのブームだったように思います。また、この映画が実話ベースのお話ということで、悪魔は実在して、人間にとりつくのだというのも事実として考えられるようになりました。狐とか死んだ人の霊魂ではなく、絶対的な存在としての悪魔ということがミソでして、ものすごく強そうな感じがするのですよ。そんな悪魔が、身近な人間に憑依するのだというのは、世界の終わりが近いという世紀末感とすごくマッチするものがありました。今は情報が増えて、この原作のもとになったのが、悪魔憑きというには、ちょっと無理がある話だったなんてことも知ってますが、当時はホントに悪魔憑きが存在して、それがそんじょそこらに転がっていると信じる人がたくさん出たらしいですから、「ノストラダムスの大予言」に近いものがあります。

映画のオープニングはイラクの遺跡発掘現場、ここで、メリン神父が悪魔の石像と対面することで、後の対決を予感させます。そして、舞台はアメリカに移って、クリスとリーガン親子と、カラス神父の物語が並行して描かれます。原作、脚本のウィリアム・ピーター・ブラッティと、監督のウィリアム・フリードキンは際物的題材をあたかも本当にあった話のごとくリアルに見せることに成功しています。登場人物が脇役に至るまできちんと存在感を見せるのには、感心しちゃいました。最近の映画に何か足りないなあと感じているものが、こういう映画で再発見できるとは思いませんでした。とにかく、物語の積み上げが丁寧なのです。リーガンがおかしくなってから、病院で検査されるシーンを丁寧に描くことで、現代の不安のツボを突いてくる演出も見事ですし、12歳の少女が十字架で自分の股間を突くといったショッキングなシーンも、不快感以上の不安感を煽るのに成功しています。

また、カラス神父が、母を失った直後で、その弱点を悪魔につけこまれるという設定もうまく、人間の情の弱さに対する悪魔の絶対的な悪の強さを際立たせました。と、悪魔と簡単に書いてしまいましたが、この映画は、悪魔の存在を直接には描いてはいません。悪魔祓いの存在を最初にクリスに教えるのは医師ですし、それも精神療法の一つとして役に立つかもしれないと提案するのです。クリス自身も信心深いわけではありませんが、とにかく娘のためにしてやれることの最後の望みとして、悪魔祓いを選択するのです。なるほど、信心深い主人公の話じゃないからこそ、リアリティが出たのだなあとまた感心。

ショックシーンは今の時代では刺激が強いものではありませんが、当時の視点からすれば、緑色のゲロを吐いたり、首が180度回るシーンなんて相当なインパクトがあっただろうと思います。それも、12歳の少女がやっちゃうわけですからね。特殊効果、特殊メイクなどは、当時の最新の技術が使われていましたから、その仕掛けがわからないってこともあったでしょうから、余計目に「うわ、すごい!」というシーンが続出します。でも、あくまでそういう見せ場は、ドラマの要所要所に限定されて割り振られていまして、全体としては、地味めなドキュメンタリータッチに仕上がっています。でも、面白いのがすごいです。ストーリー的には、ものすごくシンプルなのですが、個々のシーンを丁寧に見せることで、ドラマに厚みを持たせ、特殊効果によってこれまでにないインパクトのある映像を作り出すことで、一級の娯楽映画に仕上げています。



この先は結末に触れますのでご注意下さい。(多くの方がご存知かとも思いますが)



ベッドに縛られたリーガンを前に、メリン神父とカラス神父の悪魔祓いの儀式が始まります。部屋の温度を下げ(息が白く見える)、ベッドを浮き上がらせ、部屋全体を地震のように揺らしたりとやりたい放題の悪魔に対して、聖書と聖水による悪魔祓いは、有効なように見えます。しかし、狭心症の病気を持つ老体のメリン神父にはきつかったようです。一時的に部屋を出ていたカラス神父が、戻ってきたとき、メリン神父はこと切れていたのです。それを見て逆上したカラス神父は、リーガンに飛び掛ると彼女をなぐりつけて、「オレに乗り移ってみろ」と挑発します。するとカラス神父の表情が変わり、リーガンを殺そうとするのですが、再び人間の顔に戻った彼は、窓から身を投げます。後には、泣きじゃくるリーガンとメリン神父の遺体が残されているのでした。このクライマックスだけが、ドラマチックに盛り上がります。それだけ、全体に抑制が効いているということなのですが、悪魔祓いのシーンにはインサートカットによるイメージショットがあったり、超常現象を直接見せるといったケレン味を出しています。ラストは、クリスとリーガンがその家を出て引っ越すシーンになります。顔には傷跡の残るリーガンですが、当時の記憶は残ってないのが何よりです。カラス神父の友人のダイアー神父が彼らを見送り、カラス神父が飛び降りて死んだ石段の上にたたずむところでフェードアウト、エンドクレジット。

意外なほど、宗教臭さのない展開ですが、一方で、キリストの力を立てている部分もあり、邪悪な力を見せつつ、信仰の力も否定しないという見せ方がうまいと思いました。悪魔と悪魔祓い師の対決も、善と悪の戦いというよりは、力対力の勝負になっていまして、どっちが勝ったのかは、明確には示されません。リーガンが元に戻ったことで、ハッピーエンドで物語を締めていますが、悪魔と神の対決という部分は結局描かれていないのです。色々な解釈ができる余裕を持たせているところがうまいなあと感心しましたが、メイキングによると、オリジナルの脚本にあった説明的なシーンをフリードキンがカットしたのだそうです。なるほど、ドキュメンタリータッチは監督の手腕によるものだったようです。

全体として、見事と思ったのは、映像が的確で美しいこと、70年代の映画らしくない陰影があるのにシャープで奥行きがある絵は、オーウェン・ロイズマンの撮影によるものです。一方で、イラクのシーンのビリー・ウィリアムズによる撮影が光に溢れる美しい絵を切り取っています。

音楽は、マイク・オールドフィールドの「チューブラー・ベルズ」が使われて一躍有名になりましたが、確かにこの曲は、この後のホラー映画音楽のルーツとなる名曲でした。また、ショッキングなシーンに流れるストリングスによる神経を逆なでする曲は、ペンデレツキによる現代音楽が使われているようで、メイキングによると、その音楽に「カッコーの巣の上で」のジャック・ニッチェがグラスハープの音を重ねて効果を出したのだそうです。最初、音楽をオファーされたラロ・シフリンの音楽は、監督にリジェクトされたそうですが、メイキングの中で、シフリンがボロクソ言われているのは、ファンとしてはかわいそうな気分になっちゃいました。ただ、シフリンのリジェクトされたスコアもCD化されてまして、それはそれでそんなに悪くはないと思うのですが。(と、言いつつ「チューブラー・ベルズ」には敵わないかな。)
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「レオニー」は面白い歴史的題材を扱った映画、ちょっとわかりにくいのが難

今回は、新作の「レオニー」を静岡ミラノ1で観てきました。ビルの4階にあるのですが、中は意外と広くて天井も高い雰囲気のいい映画館です。来年、静岡にシネコンができると、ここもなくなっちゃうのかなあと思うと寂しい限りです。シネコンは、映画を観る環境としてはマルなのですが、昔ながらの映画館ほど、その場所としての魅力がないのですよ。若い人には、理解してはもらえないんだろうなあ。

大学で美術を学んだレオニー(エミリー・モーティマー)は、ニューヨークの新聞広告で、日本人の詩人、野口米次郎(中村獅童)と知り合い、彼の詩集の編集をするようになります。そして、いつしか愛し合うようになった二人ですが、日露戦争勃発による日本人差別が激しくなると、米次郎は日本に帰ると言い出します。その時、レオニーは妊娠していたのですが、それでも彼は日本に帰ってしまいます。レオニーはカリフォルニアの自分の実家に帰り、男の子を出産、そこで子供を育てていると、ある日、日本へ来るようにと、米次郎から手紙が来ます。子供のためと思って、渡日するレオニーですが、そこで待っていたのは、いわゆる二号さんとしてのポジション。米次郎の詩の編集をし、英会話教師をしながら暮らし始めたものの、米次郎の態度に我慢できなくて、いわゆる妾宅を出て、息子イサムと二人きりの生活を始めます。そして、漁師町に英語教師の職を得て引越し、そこで娘アイリスを産みます。その町の海沿いの土地に家を建てて、イサムとアイリスと3人で暮らすようになり、平和な日々を送っていたのですが、そこで徴兵される兵士を見て、イサムをアメリカに留学させることを決意、米次郎の反対を押し切って、息子をアメリカへと送り出します。しかし、そこで第一次大戦が勃発し、イサムの行方がわからなくなってしまうのでした。

有名な彫刻家(だそうです)のイサム・ノグチの母親、レオニー・ギルモアの半生を描いたドラマです。「ユキエ」「折り梅」の松井久子が、製作・脚本・監督をしています。ドウス昌代の「イサム・ノグチ~宿命の越境者」というノンフィクションをもとに、松井久子がインスパイアされたという形で作った物語です。歴史的にはそれほど有名ではない女性の少ない資料から、物語を膨らませていったということのようです。かなり長い話をエピソードでつないでいったという印象でして、2時間12分という長さは気にならないくらいお話のボリュームがありましたが、もっと長かった話を刈り込んだのか、展開のわかりにくい部分もありまして、映画としての満足度はありますが、全体のお話としては「ふーん」という程度の印象になってしまいました。語り口に、説明よりもイメージをつなげたいんだろうなと思わせる部分が多々あるのですが、でも、もう少し説明してくれないとよくわからないよって感じなんです。字幕で年と場所が出てくるのに、時制が前後する部分では、それがなかったりするのも不親切だなって思いましたもの。まあ、私が読み切れないだけなのかもしれませんが。

オープニングは、海の見える家の中に年老いた女性がたたずんでいます。その傍らでは、中年の男が一心不乱に何かを彫刻しています。映画の前半では、要所要所にこの彫刻家がカットバックされるのですが、彼が何者なのかはわかりません。そして、「僕の母の物語をきかせて」というナレーションで回想が始まります。そこで描かれるのは、若い頃から変わり者だったレオニーが、米次郎と知り合い、子供をもうけた後、日本に移ってから苦労するという、かなり波乱万丈な人生です。一度は米次郎に去られてしまって、実家で子供と暮らしていた彼女なのですが、そこで手紙によって編集の仕事はしていたらしく、ある日、米次郎の日本へ来いという手紙に日本行きを決心してしまいます。彼女の母親は、苦労するだけだからやめなさいと忠告するのですが、レオニーは自分の意思を曲げません。今風に言うと、思い込みの強い人、いや単に変わり者ってことになるのでしょうけど、ともあれ、3歳の息子を連れて日本にやってきてしまうのです。

でも、日本にきてみれば、米次郎はどこかよそよそしくて、期待とは大違い、自分が実はお妾さんだったと知って愕然とするレオニー。そこで、アメリカに帰ると思いきや、妾宅を出て、自活するようになるのですから、かなりすごい人です。その上、米次郎の詩集の編集は続けているようですから、なかなかに性根が据わっています。ともかくも、英語教師の職を得て、親子二人で暮らし始めるのですが、さらに子供ができちゃいまして、これが娘のアイリス。この子の父親は最後まではっきりとしません。異国の地で、子供二人のシングルマザーになっちゃったレオニー、これってすごい肝っ玉かあさんだと思うのですが、あまり母親としての強さは映画の中では語られないのが不思議でした。息子のお前は芸術の道で生きるように語るシーンもあるのですが、これも親心というよりは、思い込みの強さの反映のように見えちゃうので、母親としての強さが描かれていないのです。

イサムがアメリカに渡った先の学校がつぶれてしまい、イサムは行き先を失って路頭に迷ってしまいます。結局、その学校の経営者に拾ってもらって、医学の学校に進ませてもらえるのですが、その間、レオニーは、息子に会いに行くこともなかったようです。エピソードをつないでいく構成なのですが、このあたり、彼女が息子のことをどう思っているのかがよくわかりませんでした。そして、何年かたってから、娘のアイリスとともに、渡米し、また親子3人で暮らすようになります。医学の道に進むはずだったイサムがだんだんと芸術の道に目覚めて、個展を開くようにまでなるという展開をかなりあわただしく見せます。その後、レオニーは大自然の中で一人暮らしをしているようなのですが、ラストでは、娘との会話中に突然の病の倒れ、そのまま亡くなってしまいます。このあたりは、エピソードの並び順と時制が前後しているようにも思えるのですが、彼女が日本を離れてどこでどう暮らしていたのか、よくわかりませんでした。話を端折り過ぎているのか、わざと混乱させているのか、脚本と監督を兼任している松井久子が何を考えてるのかなあって思ってしまいました。最後は、イサム・ノグチのデザインした札幌の公園にたたずむレオニーからフェイドアウト、エンドクレジット。

何となく、雰囲気はわかるのですが、ストーリーを追えないってのは正直言って、あまり後味がよくありませんでした。冒頭で、登場する彫刻家は、イサムとは別人の何かの象徴らしくて、うーん、何だかヒロインと同様に監督の思い込みが強すぎるんじゃないかなあって気がしました。「ミック・マック」のテツオ・ナガタの撮影が淡い光をシネスコ画面に美しく見せていて見事ですし、美術や衣装もいい仕事をしているせいか、拙いという印象はないのですが、それでも、何というか、やりたい放題だなあって印象なのですよ。イサム・ノグチのことを知ってる人にはわかる話なのかもしれませんが、一見の私には、時間と位置関係がよく呑み込めないのが残念でした。

ヒロインを演じたエミリー・モーティマーは、「ラースとその彼女」や「ピンクパンサー」などのコミカルな演技が好きな女優さんなのですが、今回は、意志の強い(言い替えると頑固な)ヒロインを熱演しています。他の、中村獅童、吉行和子、竹下景子、中村雅俊といった面々は、彼女を脇で支えているという感じでした。時として、暴走しているとも思えるヒロインを客観的に描いているという点では、抑制の効いたドラマとも言えますが、その分、どこが山場なのかが見えない、大河ドラマの総集編を観ているような気分になってしまいました。波乱万丈の展開は、総集編なりの面白さはあって引き込まれるものはあるのですが、元の話をよく知らず、初見で総集編を見せられると、ストーリーを追いきれない、そんな感じなのです。変わり者ヒロイン、過酷な運命、異国情緒、芸術性、母性、女性の地位、人種差別などなど、描きたいことがいっぱいあり過ぎて、持ち時間に収め切れなかったのかなあ。

「ネバーランド」や「HACHI 約束の犬」などの、ヤン・A・P・カチュマレックが美しい音楽を書いていますが、繊細で悲劇的な音作りが、このヒロインにマッチしているのかなあって気もして、ちょっと違うかなとも思ってしまいました。運命に翻弄されるヒロインのテーマとしては見事なのですが、この変わり者で性根の据わったヒロインには、もっと骨太な音の方がいいかなって気がしまして。

ずいぶんとケチつけた文章になっていますが、芸術家の母の半生記としては、かなりドラマチックで、面白い映画だと思います。その題材の面白さでモトがとれる方にはオススメです。

「うつし世の静寂(しじま)に」は、今の日本を知る意味でオススメのドキュメンタリー

今回はドキュメンタリー「うつし世の静寂(しじま)に」を横浜シネマベティで観てきました。もともとビデオ素材なので、DLP上映なんですが、縦にコントラストのある画面で横線が出るのは何とかならないのかなあ。

神奈川県の政令指定都市である川崎市は、その北部に大きな住宅地を抱えていて、たくさんの人が流れ込んできて、首都圏の通勤圏として発展してきました。しかし、その一方で、昔からその土地に住む人々の間では、信仰に基づく様々な行事や暮らしぶりが残されています。お百姓の間で行われる無尽講や念仏講といった相互扶助イベントにもきちんと神様への敬意が刻み込まれています。また、お寺からお地蔵さんをかついで、家々で持ちまわって安置する「巡り地蔵」の風習は、現在もその形を残しています。毎年初山神社で行われる「初山獅子舞」は、実はもとは正八幡神社で行われてきたものですが、明治維新の神社合祀によって、正八幡神社が初山神社に統合されてしまったものでした。その獅子舞が、2009年、実に100年ぶりに、かつての正八幡神社跡で、舞われることになりました。まだまだ、人々の間に、神様への想いは引き継がれているのでした。

以前に観た「オオカミの護符」という映画が大変印象的でして、同じスタッフが作ったということで、食指が動きました。「オオカミの護符」では、川崎市に残る民間信仰(お狗さま信仰)を追ったドキュメンタリーでして、首都圏から電車で15分の通勤圏である川崎市にこんな民間信仰が残っているのに驚かされました。前作と同じく由井英が監督していまして、川崎市を舞台に、今も残る民間信仰の形をカメラに収めています。

講の風習は、私は落語のネタくらいにしか聞いたことがないのですが、金の総合扶助のための寄り合いというのは知っていました。その席の、上座には、神仏が描かれた掛け軸が掲げられています。それは、集落によってことなるようで、仏教の神様もあり、神道の神様もあるようでして、その信仰が様々だったんだとわかるのが興味深いところでした。また、念仏講は、車座に座った人々が長い数珠の輪を持って、その数珠をまわしながら、念仏や神仏の名前を唱えることによって、先祖を供養する行事です。

巡り地蔵というのは、いわゆるお地蔵さんの持ち回りの風習です。どうして、こういう風習が生まれたのかは映画では語られないのですが、お寺さんから地蔵を借り受けるのだそうですから、檀家内の持ち回りということなのでしょうか。地蔵はかついで運ばれて、縁側に安置されます。地蔵を借り受けた家には、幟が立って、近所の人もお参りに来たと言いますから、神様の巡業みたいな感じだったのでしょうか。

初山獅子舞というのは、秋祭りに奉納される舞でして、笛と鐘を伴奏に、一人の天狗と3頭の獅子が土俵の上で舞うというもの。今回の舞は獅子が新人の小学生が演じるということで、練習にも力が入っています。これが、動きもハードだし、獅子をかぶったまま太鼓もたたくというかなり技術を要する舞なので大変です。舞は、集会所から始まり、神社までを練り歩いて、境内の土俵で舞をします。前半は、神様に奉納するという趣旨があり、後半は祭りの余興という意味合いを持っているのだそうです。きちんとストーリーのある舞であることが映画でも説明されます。確かにこの類の舞って意味がわからないと、知ったような顔をして芸術鑑賞みたいに眺めるしかないので、意味がわかるってのは重要なんだと改めて納得しました。そして、今回は、特別にかつて神社のあった場所に土俵を作って、大元の場所で舞を行うことになります。70代、40代、10代という3世代によって、獅子舞が行われるのです。シニアの舞手にとっては、50年ぶりの獅子舞となるのだそうですが、お元気に舞う姿には驚かされました。

さらに、直接、信仰とは関係ないのですが、谷田地区での、昔ながらの田んぼを作る様子もとらえています。山の中にある、いわゆる棚田の作りなのですが、あぜを作って、土を泥にして耕していく様子が描かれます。こういう映像は記録的価値があるものと言えましょう。農業として、この棚田がいつまで成立するか、難しそうに思えるだけに、歴史を残すという意味でも、この映画の存在価値があります。

前作にあった信仰そのものの紹介は少なく、イベント紹介風の内容になっているのは、若干物足りなさを感じてしまいましたが、2本並べて観るとかなり面白いのではないかしら。私は、生まれは地方の新興住宅地で、今は築3年の共同住宅に住んでいることもあって、こういう信仰に根ざした風習にはまるで縁がありません。正直、神社に行くことはあっても、お参りしたことがないという不信心者なんですが、こういう映画を観ると、どこかで神様への畏敬の念があった方がいいのかなって気にもなってきます。でも、これは良し悪しの問題でなく、先祖から受け継がれているところには、まだ残っているという事実を知ることが大事なのかなとも思います。それが、今後どうなっていくのかというと、やはりコミュニティの存在の仕方が変わってきていることもあって、昔からのものが廃れていくような気がします。

民間信仰が失われていくのがいいとか悪いとかという問題ではなく、その時の流れを歴史として受けとめて、そこから未来への手がかりを学ぶのが、この映画の存在価値のように思えました。でも、「オオカミの護符」とこの「うつし世の静寂に」の2本は、現代の首都圏を映したドキュメンタリーとして一見をオススメしたいです。こんなのが、川崎市にあるんだというだけで、ちょっとした発見でしたもの。

「リミット」は生き埋めのまま展開するドラマ、でも出オチじゃなくて面白い。

今回は新作の「リミット」を川崎チネチッタ4で観てきました。ここは座席数はそこそこなのですが、スクリーンの大きさがあるので、大画面で映画を観てるなあって実感できるのが好きな映画館です。

ポール・コンロイ(ライアン・レイノルズ)が気付いたとき、彼は手を縛られ、さるぐつわをされて、棺の中にいました。ジッポーのライターの明かりで周囲を見回してみても、出口はありません。足元で、携帯電話が光りました。その携帯は彼のものではなく、イラク語の表示です。そこで、自分の家やら会社に電話で連絡をとろうとします。電話での会話から、彼がイラクで生活物資を運ぶ運転手をしていたのですが、彼の運転するトラック集団が襲撃され、彼がどうやら人質として拉致されたようなのです。電話をかけても、ポールがこんな状況なのを知らない相手ののらくらした応対にイライラしながらも、国務省の対テロ担当のダン・ブレナーに連絡をつけることに成功します。一方、その携帯に、誘拐犯から電話がかかってきます。9時までに500万ドル用意しろ、携帯のカメラを使ってポールの姿を撮って送れといった要求がきます。果たして、ポールは無事に生還することができるのでしょうか。

アメリカ人クリス・スパーリングの脚本を、スペインのロドリゴ・コルテスが監督したスペイン映画です。でも、主人公は、アメリカ人で全編英語、さらにずっと地下に埋められた主人公だけで物語が展開するという、ソリッドスリラーの一遍です。主人公が生き埋め状態ですから、まさに極限状態、ソリッド・シチュエーション・スリラーの王道と言えましょう。そして、そのシチュエーションだけで、1時間半引っ張って行って、出オチになっていないという、見事な出来栄えの一遍です。棺おけの中に生き埋め状態にされたら、それだけでパニックで何もできなくなっちゃうだろうなあって、閉所恐怖症の私は思うのですが、この映画の主人公は何とか自分を救うための行動を起こします。まあ、何もできなきゃドラマにならないのですが、そこに色々と知恵を絞っているのが、この映画の面白いところです。また、狭い棺おけの中を動かしたキャメラワークも見事でしたし、予想のつかない展開もあり、単に1アイデアだけの映画に終わっていないところが点数高いです。

映画の前半は、彼がどうやって外と連絡を取るかというところに重点を置いた一種アドベンチャーゲーム的な展開で、後半から、ポールの内面を描いていくという構成になっています。携帯電話の限られたバッテリーで、どうやって外部に救助を依頼するのかというサスペンスが一番リアルな引っ張りどころなのですが、そこに執着しなかった脚本にも驚きでした。後半、主人公が、認知症で施設に入っている母親に電話するシーンや、とにかく奥さんと話したいと何度も電話をかけるあたりに、人間ドラマとしてのリアリティを感じました。



この先は結末に触れますのでご注意下さい。



アメリカ政府は軍を使って、ポールの捜索を開始したようですが、一方で誘拐者は、ポールにビデオを撮れと脅してきます。彼がそれを無視していると、今度は映像を送ってきます。それは、ポールの同僚の女性が頭に銃を突きつけられているものでした。地上では、他にも人質がいたのです。彼はあわてて身代金を要求するビデオを撮影して送ります。しかし、テロ担当のブレナーは、ポールに身代金は払えないと言い切ります。要は身代金の交渉はしないつもりなのです。そうこうしているうちに携帯のバッテリーはなくなってきます。誘拐犯からは値段を100万ドルまで負けるから払えと要求してきます。そして、彼のもとに、同僚の女性が射殺された映像が送られてきます。

誘拐というビジネスに憤るポールに、ブレナーは貧困が原因にあるということをほのめかします。妻子のためにイラクまで出稼ぎに来てるポールですが、その手段を選べない状況になったら、誘拐だってやるだろうとブレナーは言います。誘拐犯は、自分にも子供がいたがもう死んでしまったと告げます。そして、誘拐犯も必死なのだと。彼らにとっては、運転手だろうがアメリカ人は、アメリカ軍だと言うのです。でも、アメリカ政府は彼らにビタ一文払うつもりはないのですから、ポールが助かるためには、アメリカ軍による誘拐犯の掃討を待つしかないということになります。一方、会社の人事部長から電話がかかってきて、この誘拐事件の前に会社がポールを解雇していたことにでっちあげようとします。サラリーマンの私にはものすごくひどい話に思えたエピソードです。要は、そこそこ高い給料をちらつかせて、たくさんの契約書にサインさせ、危険地帯に送り込んで、何かあったら責任回避しようってわけですからね。何しろ、生き埋め状態の主人公に、君を誘拐前にさかのぼって解雇するって人事部長が電話してくるのですから、ヒド過ぎな話。ここはブラックユーモアの味わいもありました。

そして、爆撃音が聞こえ、棺の中にも砂が流れ込んできます。ポールは死を覚悟して、携帯のビデオに家族に向けての遺書を残し始めます。全てを達観したかに見えたところで、妻のリンダから電話がかかってきます。さらに犯人からの電話で、指を切断した映像を送れと言い、さもないと家族の安全は保証しないと脅してきます。犯人は、彼の住所も知っていました。さらに、ブレナーがポールの居場所がわかったと電話してきます。一気にお話が急展開してくるのですが、棺の中に砂がどんどん入り込んできます。そして、後3分間持ちこたえろというブレナーが連絡してきます。しかし、ブレナーが見つけたのは、他の誘拐された人の死体の入った棺でした。「すまない、ポール」という電話の声とともに暗転、エンドクレジット。

ええー、そういう結末かよーと思いつつも、想定されたバッドエンドでもあります。昔の映画って、結構バッドエンドの映画って多かったなあって思い出しました。最近、ハッピーエンドの映画を観すぎていて、こういう結末に驚いちゃってる自分に、ちょっとびっくり。とはいえ、最後まで、棺の中から一度もカメラを出さなかった演出は見事でした。普通なら、外部の動きとか、回想シーンなどで、どこか息抜きをするものなのですが、この映画は、それをストイックなまでに拒んだのは立派だと思います。それで、面白い映画に仕上げているのですから大したものです。企業の非情さ、イラクの社会状況といったことを織り込んで、ドラマに奥行きを出しているあたりも感心しちゃいました。

ビクトール・ルイスによる音楽が、シティ・オブ・プラハ・フィルハーモニックを使ったドラマチックな音になっているのも点数高いです。絵的には、棺の中だけなのに、エモーショナルに盛り上がる音楽をつけることによって、映画にメリハリをつけることに成功しています。

「ストーン」は面白い視点の人間ドラマとしてマル。役者のよさでさらにマル。

今回は、新作の「ストーン」銀座シネパトス1で観てきました。相変わらず地下鉄の音が聞こえてくる映画館なんですが、そういう映画館なんだと思えば気にならない。シネコンだったら大ブーイングなんですが、このあたりの許容範囲が我ながら不思議です。

刑務所の仮釈放管理官ジャック(ロバート・デ・ニーロ)は、43年連れ添った妻マデリン(フランシス・コンロイ)と二人暮らし。定年退職を後一ヶ月に控えて、担当したのは、ストーン(エドワード・ノートン)という殺人幇助、放火の罪で服役している男。最初は、ジャックに反抗的な態度を取るストーンですが、彼の機嫌を損ねることで、仮釈放が遠のくことを理解し、彼に対してきちんと話をするようになります。一方で、ストーンは妻のルセッタ(ミラ・ジョヴォヴィッチ)をジャックに接近させ、彼を懐柔させようとします。昼は子供相手の仕事、夜は娼婦みたいなことをやっているルセッタは、つかみどころのない奔放な女性です。担当受刑者との家族との個人的相談は受けられないと、彼女と会うことを拒否したジャックですが、彼女の色香に惑わされてしまい、結局会ったその日に関係を持ってしまいます。一方、ストーンは宗教的に目覚めちゃったみたいで、シャバへ出ることへの執着が薄れてしまったなんて言い出します。そんなことは、ハナから信用してないジャックですが、ルセッタとの関係もあって、書類に手心を加えてしまうのです。最初の面談から、段々と立場が逆転していくジャックとストーン、そして、ジャックは段々と追い詰められてしまうのでした。

アンガス・マクラクレンのオリジナル脚本を、ジョン・カランが監督した、心理ミステリー風の一編です。(脚本、監督とも私は初見です。)こういう晩秋の時期って、お正月映画までのつなぎに落穂拾い的な映画公開が多いのですが、この映画もそんな1本みたいです。公開劇場が銀座シネパトスということで、掘り出し物としての期待度は小さかったのですが、それでも、役者の顔ぶれから、食指が動きました。

観てみれば、意外と面白かったです。ストーリー的には、まあ面白いというレベルなんですが、キャラ設定と役者のよさで、かなり映画のポイントが上がりました。オープニングで若い頃のジャックとマデリンが登場し、どうも険悪な雰囲気です。マデリンが「もう耐えられない、出て行く」と告げると、ジャックは二階の窓から眠っている娘を外に投げるぞって脅すんですよ。こいつ、かなりひどい奴だなって思わせた後、タイトルが出て、今のジャックとマデリンが教会で説教を聞いているシーンになります。この映画のあちこちに、教会ラジオ放送というのでしょうか、宗教の時間みたいな放送が流れます。神との折り合いのつけ方に悩む人々が相談をしているのですが、ジャックも律儀な信者のようですし、マデリンはかなりのめり込んでるみたいで、聖書の輪読会とかやっています。ジャックは、仕事で仮釈放させた囚人が再犯で戻ってくるケースを山ほど見てきたもので、改心したとか神に触れたといった言葉に懐疑的になっています。こんな仕事をしていれば、人間不信になるのはもっともだという気はします。また、囚人の未来の人生を握っているというある種の優越感も持ってるみたいでして、ジャックの言葉の端々から、不信感と優越感が感じられるのが、面白いと思いました。ロバート・デ・ニーロがいわゆる「やな小役人オヤジ」を細やかに演じています。

退職直前に受け持ったストーンという男は、とにかく仮釈放を手に入れたいと思い、ジャックに話を合わせるようにします。一方で、妻をジャックに接近させて、審査に手心を加えてもらおうと画策します。ところが、ある日、刑務所の中の宗教のパンフレットを手にしたとき、彼の中でちょっとした変化が起こります。耳を澄ませて、音に集中していくことで神に近づくことができるんだそうです。実際にやってみると、ホントにそんな気分になるらしくて、それまでの彼の発言が、シャバに出たいってのがギラギラしてたのから、ちょっとクールな感じになってきます。これまで、ストーンが仮釈放を欲しいから、ジャックとストーンの力関係が成り立っていたのですが、このあたりから、その力関係が崩れ始めてしまいます。ジャックとしては、ストーンが神への信仰に目覚めたことなんて、まるで信用してないのですが、そのどこか達観した物言いは、ジャックの優越感をぐらつかせる力はありました。

一方で、ルセッタは、ジャックに電話アタックをかけて、強引に面談の約束をとりつけます。そして、何だかんだと理由をつけて、自分の部屋で連れ込んで、アルコールで雰囲気を盛り上げて、ジャックと関係を持ってしまいます。ジャックも若い女性との不倫がうれしくなっちゃって、まんまとルセッタの若い肉体にはまってしまうのです。いい年した中年男が、まんまと若い人妻の術中にはまってしまうのが、おかしくもリアリティがありました。このジャックの凡人ぶりが、この映画のカギになっていると言えましょう。自分で自分のプライドを叩き潰して、自分で自分を追い詰めていく過程が、なかなかの説得力を持って描かれています。

このルセッタというのがなかなかの曲者で、ストーンが「あいつはエイリアンだ」というだけあって、すぐに他の男と寝る一方で、ストーンにもラブラブというのを両立させちゃうのです。ジャックとの関係もストーンからの指示でいやいやという感じではありません。関係を持ってからも、ジャックに向かって「ストーンが出所してからもお友達でいいのよ」とぬけぬけと言い切る、はっきり言って、何考えてるのかさっぱりわからないタイプ。こういうキャラを、ミラ・ジョボヴィッチが大変魅力的に演じていまして、人ってのは、なかなかわからないもんだってのを、見事に表現しています。囚人、管理官、保育士なんていう肩書きだけでは、その人となりはわからない。いや、肩書きなしの、人間としても、何層にも入り組んだ人間の真の姿なんてわからない。この3人のドラマから、「人間ってのはよくわからないもんだね」ってのが浮き上がってきます。ストーンが自分の犯罪を犯したときのことを、ジャックに語るシーンで、善悪の線引きのもろさが際立つあたりのドラマ作りも見事でした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。(といっても、あっと驚く展開はないです。)



ジャックは、ストーンについての報告書を書き上げます。まあ、ルセッタとの関係もあって、情状酌量が入っちゃってるみたいです。でも、面接の席で、ストーンに自分の弱いところを見透かされるし、ルセッタが家まで押しかけてきちゃうしで、やっぱり気が変わっちゃいます。書類書き直しちゃうぞって思ったところが、既に提出書類の変更は不可と言われてがっかり。そんな、ジャックの書類が功を奏したのか、ストーンの仮釈放は認められます。出所のとき、「妻とあんたの関係を知ってるぞ」とストーンに言われて、ジャックはまたパニックになります。そして、ある夜、ジャックの家から不審火が出て、家は全焼してしまうのです。そして、そのことから、妻との関係が修復不可能なところまできていたことも、ジャックは思い知ることになります。結局、ジャックは定年離婚という形になってしまいます。退職パーティで酔っ払ったジャックは、ストーンを待ち伏せして、「オレの人生をぼろぼろにしやがって」と絡んで銃を向けてしまいます。それも軽くいなされてしまい、ますます惨めに落ち込むジャック。職場で荷物をまとめる彼のアップから暗転、エンドクレジット。

それまで、綱渡りのような形で、自我を生きながらえさせてきたジャックが、ストーンとルセッタと知り合ったことによって、そのプライドをズタズタにされてしまうというお話でした。何となく、ジャックがかわいそうなようにも思えるのですが、ある意味、自業自得ともとれる展開でした。一方、それまで一番ひどい目にあってきた(らしい)ジャックの奥さんが、最後でやっと自由を手に入れたようにも見えるのが、面白かったです。決して、ジャックが日々奥さんを虐待していたわけではないのですが、ラストで娘が奥さんに「今まで、よく我慢してたものね」と言うあたりで、その関係が何となく察することができます。そういう、俗物で凡人だったオヤジは、普通なら、自分のボロに気付くことなく一生を終えることもできたのでしょう。でも、たまたまの出会いから、自分のやなところを全部目の前につきつけられてしまったわけです。自分も、いい年のオヤジですから、この映画のジャックのように、魅力的な女性に誘惑されたら、ズルズル行っちゃう気持ちもわかりますし、目下の人間から自分の弱みを直接突き付けられたらダメージ大きいだろうなあってのも察しがつきます。それだけに、この結末は、痛い後味があります。普通に生きて、普通の自分に気付いて、一生を終えられたら、それに越したことはないなあって、思わせる映画でした。でも、ジャックは、冒頭シーンからあるように、若いうちから、ダメダメだったみたいですから、神の視点から見れば、あまり同情の余地はなさそうです。

地味なドラマで、地味な展開の映画でしたけど、なかなか面白い視点を突いてると思いました。この類の映画って、なぜか秋口に公開されることが多いです。興行的に難しい映画をあっさりと公開する時期なのかなって気もします。銀座シネパトスの映画でも、チェックしといて損はないぞと思える佳品でした。

「ぼくのエリ 200歳の少女」は評判どおり面白い、ホラーとラブストーリーの配分がお見事

今回は、「ぼくのエリ 200歳の少女」を川越スカラ座で観てきました。東京で見逃して、何とか劇場で観たいと、横浜から片道2時間の小旅行になりました。ここは初めてでしたが、昔ながらの映画館で、いい雰囲気があります。ビスタサイズの画面に上下マスクが入るシネスコサイズだったので、どうやらフィルム上映ではなかったようです。画面は鮮明だったのですが、ちょっと残念。川越は小江戸として今すごく活気があるのですが、映画館はあまりお客さんが入ってなくて、何だか気の毒みたい。1区画向こうの人の流れの一部でも取り込めるといいのになあって思っちゃいました。

スウェーデンの冷たい空気の中、ある集合住宅に父親と娘が引っ越してきました。隣室に住む12歳のオスカー(カーレ・ヘーデブラント)は離婚した母子家庭で、学校ではいじめらていました。彼の趣味は、殺人事件の記事のスクラップとナイフ。結構、屈折してる彼なんですが、隣室に引っ越してきたエリ(リーナ。・レアンデション)という同い年の少女と友達になります。そんな頃、少年が殺されて逆さづりにされて、血を抜かれるという猟奇的殺人事件が発生します。実はこの犯人は、エリの父親でした。そして、今度は集合住宅の近所で飲んで帰る途中の男が子供によって殺される事件が発生。実はこの犯人はエリ、死体は父親が池の中に隠します。どうやら、エリは人間の血を必要とする吸血鬼らしいのです。一方、オスカーはエリのことが好きになってくるのですが、エリはどこか彼を突き放したようなところがあります。それまで、いじめられるままだったオスカーに、エリはやり返せと言います。オスカーは、思い切って逆襲に出るのですが、それが思わぬ事件を引き起こすことになるのです。

世界中で60もの賞を獲得した、スウェーデン製ティーンものヴァンパイア映画として、評判の高かった作品をようやく観ることができました。いやー、これは面白かったです。物語を説明するのがすごく難しい映画でして、上記の粗筋では、残念ながら映画の全体像を語りきれていません。様々なエピソードが絡み合って、物語の全貌が見えてくるという構成になっていまして、説明的なシーンは一切ないため、観客が「そういうことなのね」って解釈しながら観る映画でして、最近の懇切丁寧な映画に比べると、素っ気無い展開にも見えます。原作者であるヨン・アイヴィデ・リンドクヴィストが脚本も書いているのですが、込み入ったストーリーをうまくエピソードに振り分け、監督のトーマス・アルフレッドソンが詩的な映像に仕上げました。

小さなエピソードを積み上げる構成ながら、その中から、孤独で変わり者の少年と、人外の少女とのラブストーリーが浮き上がってくるところに、映画的な興奮があります。「狼男アメリカン」「トワイライト・サーガ」みたいな話ではありますが、12歳という設定は、いわゆる淡い恋みたいな感じですし、静謐とも言える映像もあって、不思議な透明感のあるラブストーリーになっています。一方で、ホラー映画らしい描写もありまして、特殊メイクのグロな絵もありますが、それも全体の空気感の中で、うまく調和が取れていました。全編、雪景色の中で展開するのですが、その空間の見せ方に、どこか閉塞感があって、それがオスカーの毎日を表現しているようでもあります。学校でいじめられ、夜は木に向かってナイフを突き刺してうっぷんを晴らしているオスカーは、単に気の毒という以上に変わり者キャラになっています。

エリが吸血鬼であることは、序盤で通りがかりの男を襲うシーンがあるので、すぐにわかるような見せ方になっています。彼女と同居する父親らしき人は、吸血鬼ではない普通の人間で、彼女のために殺人を犯して血を集めているようです。彼女を愛するが故に自分の人生を捧げているようであり、これがラストでの不思議な余韻に結びつきます。一方、オスカーは学校でいじめられるもので、先生に特別にトレーニングを申し入れて、何とか強くなろうと行動を起こします。離婚した父親に週末会いに行くエピソードも挟まれ、父親が好きでたまらないのに阻害されている状況から、彼の孤独が浮き上がってきます。

また、吸血鬼のお約束もきちんと描き込まれてまして、血液しか受け付けないとか、招待されないと家に入れないとか、噛まれた人間もヴァンパイア化するなど(血が足りないと臭うというのもお約束なのかな)のエピソードもドラマの中できちんと機能しています。エリに噛まれた女性が、おかしくなった挙句、看護士に窓を開けてと頼むシーンは、静かなドラマの中で、ドラマチックに盛り上がる見せ場になっています。父親らしき男は、若い学生を殺そうとして失敗し、自らの顔を酸で焼き、病院にやってきたエリに自分の血を与えて、窓から落ちて死亡します。

一方、どこかクールに構えていたオスカーとエリですが、だんだんとお互いを好きになっていきます。しかし、いつしかオスカーはエリが人間じゃない吸血鬼だということに気付きます。彼女は、ずっと12歳のままでいるようで、人の血を吸いながら、土地土地を流れてきたようです。(ここも、彼女がそう語るわけではなく、あくまでそうらしいというレベルです。)




この先は結末に触れますのでご注意ください。




エリに噛まれて女性は、自分の変化に気付き、自ら太陽の光に身をさらし、炎の中で死んでいきます。死んだ女性の愛人が、エリに復讐しようとして、昼間眠っている彼女を殺そうとするのですが、間一髪オスカーが間に入り、愛人はエリにかみ殺されてしまいます。吸血鬼で殺人鬼であるエリに、オスカーは引いてしまうのですが、それを感じたエリも姿を消します。彼女の事を想う日々のオスカーですが、ある日、いじめっ子の兄といじめっ子たちがプールでトレーニングしているところに現れ、彼をプールの中に無理やり沈めてしまいます。しかし、次の一瞬、いじめっ子たちは惨殺され、水面に顔を出したオスカーの前には、エリが微笑んでいました。そして、長距離列車の中で、大きなトランクを前に置いて座っているオスカー、トランクの中にはエリがいるようです。そして、暗転、エンドクレジット。

ある意味、一種の開放感のあるラストと言えましょう。それまで、どこか抑圧されていたオスカーの日々が、エリによって解放されたと見ることはできます。そういう意味では、ハッピーエンドのラストシーンと解釈することができます。一方、ホラーサイドから見れば、この二人のカップルは、オスカーの方だけが年を取るわけですから、行き着く先は冒頭の父親風の男と娘の関係となり、オスカーは彼女のために殺人を重ねることになるのかもしれないのです。ラブストーリーとホラー映画の両方の余韻を持たせたあたりのうまさが圧巻でした。

細かいエピソードの作りこみが、ドラマに厚みを与えていまして、2時間弱の時間をきっちり使い切って無駄のないドラマは見事だと思います。スザンネ・ピア監督作品で知られるヨハネ・ソーデルクヴィストが担当した音楽が素晴らしく、美しくも悲しいテーマが、雪に包まれた映像と見事にマッチしていました。

「遠距離恋愛 彼女の決断」は下ネタで大笑いできて、しかもいいとこ突いてる

今回は、新作の「遠距離恋愛 彼女の決断」を新宿武蔵野館シネマ2で観てきました。ここは、名前はすごいけど、もともとはシネマカリテというミニシアター。ちっちゃなスクリーンのちっちゃな映画館でして、他のミニシアターに比べて、従業員がややタカビーな感じがするのが今一つ。

舞台はニューヨーク、彼女に振られたギャレット(ジャスティン・ロング)は、その夜、友人たちと飲みに出かけた先で、エリン(ドリュー・バリモア)と知り合います。彼女はサンフランシスコの大学院生で、新聞記者になりたくて、ニューヨークの新聞社で研修中でした。6週間後には、別れ別れになる前提で付き合い始めた二人ですが、お互いに本気で好きになっちゃいまして、どっか不安を抱えながらも、長距離恋愛をスタートさせることになります。しかし、アメリカに西海岸と東海岸での間では会いに行くのも大変だしお金もかかります。ネットや電話でつながりはあるとは言え、浮気してないかしらって心配にもなるし、会いたくても会えない辛さは意外なほどダメージが大きいのでした。ニューヨークで就職したかったエリンですが、ニューヨークの新聞業界は不況で難しい、でもサンフランシスコで就職したら、完全に二人に人生は離れてしまう、そんな逡巡を繰り返していた二人にターニングポイントがやってくるのでした。

ドリュー・バリモアは「炎の少女チャーリー」以来のファンなんですが、やはり彼女はラブコメやるといい味出してくれます。今回は、プロデュースには名前を連ねておらず、女優としてのみの参加のようですが、作品の選択には確かな目を持っているようで、30過ぎて大学院生で就職活動中という設定で、年相応の女性を演じています。若作りのジャスティン・ロングより3つ年上の彼女ですが、意外とバランスとれたカップルになっていました。「くたばれハリウッド」などのドキュメンタリーで知られるナネット・バーンスタインがメガホンをとっています。

遠距離恋愛を直球勝負で題材にしたラブストーリーですが、もう一方でシモネタたっぷりのコメディでもあり、お笑い度はかなり高めです。間のおかしさで見せる笑いも点数高くて、ジェフ・ラトゥリーペの脚本とバーンスタインの演出は、仕掛けと会話の両方でまず笑えて楽しい娯楽映画に仕上げています。普通のラブコメよりも、セックスネタが多いせいか、R15+指定になっちゃってますが、それもイヤらしさより、バカな笑いになっているところが安心して観られる映画になってます。主人公の二人が事に及ぼうとしたタイミングでルームメイトがBGMをかけるといったシーンや、二人が久々に会って事に及んだらエリンの姉夫婦が居合わせてたシーンとか、かなり笑えましたもの。こういったシーンを間延びさせないでテキパキとさばいた演出は見事でして、下世話ネタでもスマートに見せることに成功しています。エレンがぐでんぐでんに酔っ払って店の客に絡んだりするシーンとかも思い切り下品なんですが、そこをサッパリとした笑いにしているのに感心しました。

ギャレットの友人二人や、エレンの姉(クリスティナ・アップルゲイト)夫婦といった脇役陣も丁寧にキャラ付けされていて、笑いもとるので、中身がいっぱい詰まっている感じがするのがうれしい映画でした。

遠距離恋愛を描いたラブストーリーの部分は、笑いとは別に意外とシリアスです。距離が恋愛の妨げになることは承知の上で始めた関係ですが、会えないことの辛さが二人にボディブローのように効いてくるところを丁寧に見せます。特に就職というシビアな話と絡ませることで、ドラマに厚みが出ました。30過ぎて大学院卒業ということで、人生の出遅れ感を感じているエリンは、姉夫婦の家に厄介になっているという引け目もあって、早く自立したいと思っています。でも、ニューヨークの新聞社は不況で就職の口はありません。でも、ジャーナリズムに就職したい彼女は、ニューヨークでウエイトレスをして糊口をしのぎながら、ギャレットと付き合うという踏ん切りもつきかねています。極論すれば、恋をとるか、職をとるかのところまで追い詰められちゃうのですよ。恋も職業も人生の大事な一部ですから、どっちを失っても後悔する時が来るでしょう、だからこそ、なかなか決断できないでいたのですが、そこに決断を迫る事件が発生します。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



エリンの書いた文章が、サンフランシスコの新聞社に認められ、彼女を採用するという電話が来ました。これで、念願のジャーナリストになれる、でも、それはギャレットと長距離恋愛を続けなければならないことを意味してました。しかし、エリンは会いたくても会えない状態に疲れきっていました。そして、それはギャレットにとっても同じ状況だったのです。エリンはニューヨークのギャレットを訪ねて、採用の話をします。彼女がサンフランシスコで就職することは、別れを意味していましたから、一度はケンカになっちゃうのですが、エリンはジャーナリストをあきらめて、ニューヨークに引っ越してくるという決断をします。ギャレットは、それを聞いて喜んだものの、やはり彼女の人生を考えたときには、このチャンスを逃すべきではないと彼女に告げます。後悔している彼女の姿を見るのに耐えられないというのですが、この微妙な責任回避風言い回しに、リアルなおかしさがありました。でも、それはある意味、30過ぎた大人の選択とも言えるものでした。

お互いに別の人生を歩み始めた二人、エリンは仕事も充実していました。そこへ、ギャレットから、あるバンドのコンサートのチケットが贈られてきました。二人が始めて一緒に聞きに言ったバンドです。姉と二人でコンサートに出かけてみれば、そこのギャレットが現れます。彼はニューヨークの会社をやめ、そのバンドのマネジャーの職を得て、ロスに住んでいるというのです。これで、二人の距離は縮まって、近距離恋愛が始まりました。めでたしめでたし。

と、まあ、一度は大人な別れをした二人が再度恋愛関係に戻るというのは、いかにもなハリウッド的展開と言えましょう。それでも、この映画から見えてくるのは、長距離恋愛ってしんどいってこと。二十代前半くらいまでの、未来は無限だと思える世代なら可能なのかもしれない長距離恋愛ですが、さすがに三十過ぎては、気力と体力の維持が大変。さらに、若い頃よりは、人生の中で恋愛が占める比率が小さくなりますから、他の色々なことも考えなきゃいけない。長距離恋愛ってのは、ある意味モラトリアム期間みたいなもので、いつかはそこから卒業するときがくる、年を取れば、そのことを実感するようになるってのをきちんと描いているところが、この映画の面白いところです。

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Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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