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「ブラック・スワン」はバレエ素人の私には純粋ホラーとして面白かったです。

今回は、TOHOシネマズ日劇1で新作の「ブラック・スワン」を観てきました。デジタル上映なんですが、右手背後から音が聞こえてきたり、どういう音響システムになっているのか、気になってしまいました。

バレエ団の今度の演目は新振付による「白鳥の湖」です。これまでのプリマ、ベス(ウィノナ・ライダー)は引退となり、演出のルロワ(ヴァンサン・カッセル)はオーディションの結果、白鳥の女王役にニナ(ナタリー・ポートマン)を指名します。可憐な白鳥の踊り手としてニナは申し分ないのですが、邪悪な黒鳥を演じるには、まだ彼女には力不足なところがあり、彼女もそれを認識していました。同じくプリマ候補だったリリー(ミラ・ニクス)の方が奔放で官能的な黒鳥にはふさわしかったのです。ニナの母親(バーバラ・ハーシー)は昔ダンサーだったのですが、プリマにはなれませんでした。その分、ニナに期待をかけていたのですが、今回の抜擢を心から喜んでいるようにも見えません。それでも、このチャンスをモノにしようと頑張るベスですが、そのプレッシャーからか、彼女は幻覚を見るようになります。代役にリリーが選ばれたことで、ますます追い詰められていくニナ。それでも、初日の舞台は幕を開けます。果たして、彼女は無事に、白鳥と黒鳥の両方を踊りきることができるのでしょうか。

「ファウンテン 永遠に続く愛」「レスラー」などのダーレン・アロノフスキー監督の作品です。オスカーの作品賞、監督賞などにノミネートされ、ナタリー・ポートマンが主演女優賞を取りました。撮影のマシュー・リバティーク、音楽のクリント・マンセルは、アロノフスキー映画の常連です。評判がよかったので、どんな映画なのかなと期待してスクリーンに臨みました。なるほど、前半はバレエの映画になっていたのですが、後半は、アロノフスキーの「π」を思わせる、悪夢のイメージのつるべ打ちとなり、ホラー映画のような味わいとなります。私は、バレエの事、特にバレエの芸術性についての知識は全くありませんので、以下の文章は、バレエのことを全く知らない人間が書いたということを念押しさせていただきます。

ヒロインのニナは、どことなくはかなげな美少女がそのまま年を取ったという感じの女性です。プリマであるベスの持ち物を盗んで持っていることで、何とかプリマに近づこうとするあたりは、かわいげがあると思うか、いけずなヤツと思うか、判断が分かれるところです。バレエの技術的には満点なんですが、その端正すぎるところが、黒鳥を演じきれないというのは、何となくわかるような気がします。でも、化粧を濃くして、演出家を説得しようとするのですから、野心はあるみたいです。自分の背中を無意識に傷つけちゃう癖があるのは、精神的に弱そうな感じです。こういう女性がバレエの世界でリアルに存在するのかどうかが見当がつかないので、ヒロインが普遍的なキャラなのか、ちょっと変わり者なのかが気になりました。後半に向かって、だんだん彼女が壊れて行くのは、バレエという世界の魔力からなのか、ニナというヒロインの持つ狂気によるものなのかが判断つかなかったからです。私は単純に、このニナという特殊なヒロインの、特殊な物語として、この映画を観ました。どこか自信のないヒロインが、なりたい自分になれないストレスから、自分を解放する幻覚を見る物語とでも申しましょうか。

アロノフスキーの演出は、リアルな生活感のあった「レスラー」とは異なり、異世界の住人のようなリナを寄りのカットを中心に描いていきます。不思議な呼吸音やノイズを使った音響効果や、鏡を多用したり、影をたくさん残した絵作りによって、尋常でない世界が展開していきます。寄りのカットが多いのは、ポートマンの踊りの粗を出さないことにも貢献しているとはいえ、画面の外にあるものを意図的に見せないようにして、観客の不安を煽っているようにも見えます。これは、ホラー映画で使われる演出でして、この映画の全体的なトーンはやはりホラーなのだと思います。そして、いたぶられるヒロインとしてのポートマンの演技は素晴らしかったです。これで、オスカー取っちゃったってのはすごいと思うのですが、線の細いヒロインが、幻覚と現実の狭間でジタバタするあたりは見事でした。明らかに非現実とわかるカットを入れることで、もう彼女のあっちの世界に行っちゃってることがわかるのですが、それでも、彼女を完全な狂気として描かないで、最後までヒロインとして盛り上げたのもよかったです。また、出番が少ないながら、強烈な印象を残すウィノナ・ライダーも見事でした。「レスラー」のミッキー・ロークと同様、彼女の復活にも期待したいところです。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



舞台は幕を開き、まずヒロインは純粋な白鳥を無事の踊り終えます。そして、黒鳥への衣装替えのために控え室に戻ると、そこにはリリーが自分の衣装を着て待ち構えてました。彼女に、プリマの座を奪われると逆上したニナは、鏡の破片でリリーを刺してしまいます。すると、彼女の体に黒い羽根が生えてきます。そのまま舞台へ向かったニナは、黒鳥を見事に踊りきります。そして、さらに衣装替えのために控え室に戻ると、リリーの死体は消えてます。ドアがノックされ、開いてみれば、そこには死んだはずのリリーがいて、彼女の黒鳥に賞賛の言葉を伝えます。鏡の前に立つニナ、気付いてみれば、彼女の腹には血がにじんでいます。リリーを刺したのは幻覚で、実は自分を傷つけていたのです。その傷口から鏡の破片を取り出し、そのまま舞台に向かうニナ。そして、フィナーレを踊りきり、絶賛の拍手の中、彼女の傷口は広がり、そのまま意識が遠のいていくのでした。

自傷行為という伏線がラストで、自爆という形で結実する展開はうまいと思いました。ニナの見る幻覚の中にも、ベスの自傷行為を入れてますしね。相手を殺したつもりが、実は自分を殺していたというのも、実はホラーの定番の中にあるパターンです。母親とニナの親支配型、共依存という関係は「キャリー」のパターンを踏襲したものと言えますし、リリーと一緒に家に帰ってきたとき、実はリリーが存在しないというのは、ブラピ主演の某映画を思い出させます。他にも、自分の姿を見かけるドッペルゲンガーですとか、鏡の中の像と本人の動きがずれるなど、ホラー映画の様々な手法が盛り込まれていまして、アロノフスキーは、バレエよりも、そういう気色悪いものの羅列をしたかったのかなって気がします。「π」も数学の話よりは気色悪い方メインの話でしたし、バレエという設定は、ホラー的趣向を乗せるための舞台だったようにも思えてきます。そもそも、バレエの良し悪しを伝える意図は感じませんでしたし。(これは、前述の通り、私がバレエ素人だからでもありますが)

でも、ホラーとしてもこの映画、面白かったです。薄幸なヒロインがだんだんと恐怖の中で狂っていくというお話は、ナタリー・ポートマン演じたことでもお値打ちが出ました。そんな中で、リリーを演じたミラ・ニクスの健康的なかわいさがいい意味で際立ちました。

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「クロエ」はドラマとしてのさじ加減がうまくて面白い、こういうの好き

今回は新作の「クロエ」をTOHOシネマズシャンテ1で観てきました。この映画は、フィルム上映でした。上映後、「ぴあ」のインタビュー受けました。もう、廃刊したと思ってたのですが、あと少しやってますみたいな話でした。学生当時は、「ぴあ」買って、はみだしYouとPiaを読みつつ、映画館をチェックしたものです。

大学教授デビッド(リーアム・ニーソン)の奥さんキャサリン(ジュリアン・ムーア)は産婦人科医で、大学生の息子マイケルとの関係は今一つうまくいってません。デビッドの誕生日、サプライズパーティを企画したキャサリンだったのですが、当のデビッドが飛行機に乗り遅れてパーティはオジャン。その後、夫の携帯に、女子大生と写ってる写真付メールを見つけて、彼が浮気しているのではないかという疑惑を抱くようになります。ホテルで偶然知り合った若い娼婦クロエ(アマンダ・セイブライド)に、金を払うから、夫を誘惑してくれと持ちかけます。クロエは行動を起こし、キャサリンにその一部始終を報告するようになります。やはり、デビッドはクロエの誘惑に乗り、関係を持ってしまったようです。もともとは自分の疑惑とは言え、実際その通りになってしまうと、ショックで後悔しちゃいます。もう、デビッドとは、接触しないでくれとクロエに告げるキャサリンでしたが、心の揺らめきに耐えられなかったのか、クロエと肉体関係を持ってしまうのでした。一方でマイケルにも接触してくるクロエ、いったい彼女は何を考えているのかしら。

「スイート・ヒアアフター」「秘密のかけら」など知られるアトム・エゴヤン監督作品です。フランス映画「恍惚」のリメイクだそうで、エリン・クレシダ・ウィルソンが脚本を書いています。筆頭プロデューサーが「抱きたいカンケイ」の監督アイヴァン・ライトマンでして、この人、初期のクローネンバーグ作品を手がけたり、プロデューサーとしての実績も高い人です。撮影のポール・サロッシー、音楽のマイケル・ダナは、エゴヤン映画の常連でして、これらの人材によって、小品ではありますが、大変、クオリティの高い映画に仕上がっています。最近のハリウッドの大味な映画になじんでいた自分には、その細やかな味わいが新鮮に映りました。ハリウッドスターを使っても、こういう映画に仕上げられるんだというところに感心しちゃいました。96分というコンパクトな上映時間で、端正にまとまっています。

キャサリンは、ダンナは大学教授で、自分はお医者さんという上流の方に属する人。住んでるお家も立派ですもの。でも、最近はどこか疎外感を感じているようです。昔のように息子は甘えてはくれないし、ダンナとの関係もどこか希薄、一方、息子はダンナにプライベートなことも相談していて、父と子はいい関係にあります。そんな時、誕生日に帰りの飛行機に乗り遅れたダンナの行動に不信感を抱いてしまう、浮気してるのではないかしら。そんな時、ホテルで食事に出かけたキャサリンは偶然、ホテルで客をとる娼婦クロエと知り合いになります。彼女はいわゆるそっちのプロです。そこで、キャサリンはクロエにダンナを誘惑することを依頼します。よく考えると、すごく異常なことなんですが、エゴヤンの語り口は大変自然に事の成り行きを綴っていきます。キャサリンは、老いと孤独にじわじわと浸食されていく自分をよく知っています。単に嫉妬に狂った中年女の暴走に見せないあたりの演出が見事です。

そして、キャサリンは、クロエの報告を聞いて、夫の浮気を確信するのですが、そこでも逆上しません。そのあたりの微妙な表情は、ジュリアン・ムーアならではの名演と呼べるものでして、リアル中年女性を演じたら、彼女の右に出る者はいないのではないかと思わせます。クロエを訪ねて、そこで関係を持ってしまうあたりの説得力も彼女ならではのものでしょう。そして、クロエにとっても、キャサリンこそが特別な存在らしいことが見えてきます。かわいいし、一見、小悪魔的にも見えるクロエですが、その底にどこか、弱々しい人間としての影が見え隠れしてきて、ドラマはクライマックスへと向かいます。



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キャサリンは、全てを清算しようとカフェに、デビッドとクロエを呼びます。しかし、デビッドは浮気の事実は認めようとはしません。確かにいろいろな誘惑はあったが、キャサリンを裏切るようなことはしていないと言い切ります。そこへ、クロエが入ってくるのですが、彼女はデビッドを見て、すぐに出て行ってしまいます。デビッドは表情一つ変えません。クロエは、デビッドを誘惑したりはしていなかったのです。そして、キャサリンには、デビッドと関係を持ったと嘘の報告をしていたのでした。キャサリンは全てをデビッドに打ち明け、デビッドは彼女を赦します。一方、クロエはその足で、キャサリンの家に向かい、マイケルを誘惑します。キャサリンが家に帰ると、夫婦のベッドにいる二人を見つけます。クロエは、金で自分を思い通りにできると思い込んでいるキャサリンを非難し、二人はもみ合いになり、そして、クロエは二階の窓から転落して死亡。マイケルの大学の卒業式の日、大学の人ごみの中で、3人の親子は、お互いに距離をとりながら、視線を交わすのでした。

クロエは、キャサリンに恋心を抱いたのか、それとも母親を感じたのか、そのあたりは若干匂わせる部分はありますが、はっきりとは描かれていません。ただ、キャサリンからすれば、ある意味、駄々っ子のようでもあり、とんでもない悪女のようでもあります。マイケルと肉体関係を持ったのも、キャサリンが憎いからではなさそうです。このクロエという女性のバックグラウンドを明確に示さなかったのが、ドラマに奥行きを与えました。彼女の過去を描いたら、2時間くらいの長さになってしまったでしょうが、それをコンパクトにまとめたセンスが好きです。クライマックスはサスペンス風味もあるのですが、むしろ、気の毒な二人のヒロインが際立つドラマとして収束します。彼女をサイコのような描き方をしていないのもマルでして、ちょっとした出会いの切ない結末という後味になったのも、アマンダ・セイブライトの好演によるものでしょう。かわいいけど、プロの娼婦、奔放で繊細、それが全ての面で極端に走らないで、危ういところで調和しているのです。その微妙な波長が、キャサリンと触れ合うことで、一瞬増幅するのですが、結局はキャサリンの心には届きませんでした。

裕福な家庭に魔が差したようなお話なんですが、エゴヤンの演出は細やかでかつ無駄がなく、誰かを悪者にすることなく、さりげないタッチでドラマをまとめています。全てが終わったわけではない、3人の親子の溝が、どうなっていくのかと思わせるラストもうまいと思いました。上手な短編小説のような味わいは劇場で確認する価値があると思いました。

「アジャストメント」を観て、NHKの少年ドラマシリーズを思い出してしまった。

今回は、新作の「アジャストメント」をTOHOシネマズ川崎4で観てきました。デジタル上映だったのですが、このシネコンでは、フィルム上映の映画は1本だけ。後は全部デジタル上映になっちゃいました。そういうご時世になったんだなあってしみじみ。昔の映画の再上映で、ニュープリントだったりすると得した気分になったという感覚も若い人には伝わらなくなるんだろうなあ。

下町出身で下院議員から上院議員を狙う若手政治家デヴィッド(マット・デイモン)は、上院議員に落選した日に偶然エリース(エミリー・ブラント)に出会います。その後、朝のバスで再会した二人はお互いが惹かれあっていることを実感します。しかし、会社に行ってみれば、みんなストップモーションみたいに止まって、そんな中を変な帽子を被った連中がウロウロしてます。彼らに拉致されたデヴィッドは、その中のリチャードソン(ジョン・スラッテリー)から、彼らが運命調整局という組織のメンバーで、そのトップである議長の指令のもとに、人間の運命を管理しているのだと説明します。そして、エリースの事は忘れろと言い、さらにこの組織の事を他人に話したら、ロボトミーにすると脅します。それでもデヴィッドは彼女のことが忘れられず、3年後、偶然の出会いから、二人は愛し合うようになります。リチャードソンたちは、彼らを別れさせようとするのですが、運命的な何かが二人を引き合うのでした。しかし、リチャードソンの上司トンプソン(テレンス・スタンプ)がデヴィッドの前に現れ、彼にエリースと別れるように迫ります。まあ、それには理由があることがわかってくるのですが、好きになっちゃったんだもの、しょうがないよねえ。

フィリップ・K・ディックの原作を、「オーシャンズ12」「ボーン・アルティメイタム」などの脚本を書いたジョージ・ノルフィが脚色し、初メガホンを取りました。地味なスーツに帽子というMIBみたいな運命調整局のみなさんが、人間の運命を調整しているのだそうで、彼らは運命の書なるものを持っていて、それは人間の運命マップのようになっています。ニューヨークのあちこちにどこでもドアみたいな仕掛けを持っていて、神出鬼没に現れて、デヴィッドとエリースの恋を邪魔しようとします。どうやら、人間ではない皆様らしくて、人間の歴史が極端におかしくならないように、微調整をかけているみたいです。でも、やれることには限界があるみたいで、人間の嗜好を変えたりするレベルはできるけど、人格を根こそぎ変えるといった荒業はできないのです。たまたま、デヴィッドの友人が調整を受けているタイミングに偶然割り込んでしまったため、運命調整局の存在を知ることになるのですが、その偶然がエリースとデヴィッドの再会につながってしまったために事が厄介になるのでした。

この映画を観て、思い出したのは、1970年代に放映された「NHK少年ドラマシリーズ」です。当時の小中学生を対象に作られたもので、「夕ばえ作戦」「タイムトラベラー」「つぶやき岩の秘密」など、印象的な作品が多く、大人じゃないけど、ちょっと背伸びしたいかなくらいの世代に的をしぼった作りになっていました。この映画の運命調整局の発想が、何かこう、少年向けSFみたいに思えてしまったのですよ。超自然的な能力を使える局のエージェントの皆さんからすると、どう見てもハードSFとは思えません。スーツと帽子という格好で、走り回ったり、カップルを見て「困ったものだ」というエージェントはどこかコミカルで、リアリティがありません。もう、SFじゃなくてファンタジーの世界ですね。局の中にも、自分たちのやっていることが正しいことなのかって疑問に感じてしまって、デヴィッドとエリースの恋愛に加勢するエージェントまで登場するという、かなりお茶目な展開になってきます。決して、コメディではなくて、マジ恋愛のシリアスなお話なんですが、設定がどこか変、何だかはしゃいでるよねって感じなのですよ。正直、ラストも大甘な決着になるんですが、それがどこか微笑ましく思えてしまいました。マジメに観てると「何じゃそりゃあ」ってツッコミ入りそうな結末も、少年ドラマシリーズの一編だと思えば、「少し不思議」の方のSFとして、悪くないんじゃないかしら。

運命調整局という組織は、神とか天使とかそんな類の位置づけになるのでしょうけど、上司との連絡に携帯電話使ったり、部下のヘマには上司が出てくるとか、やってることが人間臭いので、とっつきやすい皆さんになっています。脚本も兼任しているジョージ・ノルフィの演出は、大変わかりやすくお話を展開していまして、そういう意味でも、子供が見ても、中身が理解できる映画に仕上がっています。恋愛部分は、有無を言わせぬ運命的つながりという感じなので、変にリアルでない分、子供に見せても大丈夫。



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エリースは前途有望なダンサー兼振付師でした。そして、デヴィッドは、上院議員から将来は大統領にまでなる運命を持った男だったのです。ところが、二人が一緒になっちゃうと、お互いが悪い影響を与えちゃう。本人にとっては、ラブラブでOKだとしても、エリースは子供ダンス教室の先生止まり、デヴィッドも期待されてる大統領にはなれなくなっちゃうんですって。トンプソンに、そんな風に説明されると、エリースの夢を奪う部分でちょっと引けてしまうデヴィッド。結局、エリースの前から姿を消すデヴィッド、一方で、彼の上院議員選挙活動は順調で、エリースも振付師と婚約します。これで、一応は収まったように見えたのですが、デヴィッドの前に、エージェントのハリー(アンソニー・マッキー)が現れ、彼女の婚姻届を出す場所までのルートを教えてくれます。雨を隠れ蓑にして、局のどこでもドアを活用すれば、トンプソンたちを振り切って、彼女に会えるかもしれない。そして、ハリーの帽子を借りて、どこでもドアを活用して、婚姻届を出すエリースを説得し、どこでもドアで逃げ回るのですが、最終的に局のエージェントに追い詰められてしまいます。運命調整局のことをエリースに話してしまったので、もう洗脳されてしまうしかないデヴィッド。しかし、間一髪、局のトップである議長より、二人の真実の愛に免じて、自由にしてやるというお達しが出るのでした。めでたし、めでたし。

予告編を観たときは、SFスリラーだと思っていたので、まさか、こんな展開になるとは思いませんでした。運命調整局も粋な計らいをするんだねって、素直にハッピーエンドを受け入れるのが、いいみたいです。愛が運命をはねのけるというのは、青臭い話だと言えばそのとおりでして、若い人が観ると、ご都合主義が鼻につくかもしれません。私のような人生折り返したオヤジだと、まあ、こんな出来過ぎストーリーもたまにはいいよねって気分で楽しむことができます。マット・デイモンも変な映画に出たもんだという気がしますが、「オーシャンズ12」や「ボーン・アルティメイタム」の脚本家の初監督作品ということで、人脈絡みのご祝儀出演なのかなって思ってしまいました。ヒロインのエミリー・ブラントは、「プラダを着た悪魔」の時のイメージが強烈だったので、運命の女性というには、ちょっと弱かったかも。マイナー版マリオン・コティヤールと言ったら、ひどすぎるかしら。

音楽が「アメリカン・ビューティ」のトマス・ニューマンでして、彼らしい幻想的なサウンドが映画の内容とマッチしていたのですが、クライマックスで、走り回る主人公のバックに既成のボーカルを流したりするセンスは今イチでした。ジョン・トールの撮影は奥行きのある映画らしい絵を切り取っています。最近のハリウッド映画は、テレビの差別化か、シネスコサイズばかりなのですが、この映画は珍しくビスタサイズでした。

この「処刑教室」はブルース・ウィリスが校長です。でもムチャしません。

今回は、新作の「処刑教室」を横浜ニューテアトルで観てきました。シネスコサイズのデジタル上映だったのですが、劇場のチラシを観ると、この先「ソリタリーマン」「ザ・ホークス」もデジタル上映になる模様。音がモノラルだったのは残念。映画館で、フィルム上映を観るってことは贅沢になりつつあるみたいです。しかし、横浜ニューテアトルは、横浜のシアターN渋谷になろうとしてるのかしら。

高校の新聞部のボビー・ファンク(リース・トンプソン)は、いわゆるイケてない男の子なんですが、ジャーナリスト志望で、生徒会長ポール(パトリック・タイラー)の記事をかくように部長から仰せつかります。そんな時、全国共通テストの答案が校長室から盗まれるという事件が発生します。ポールのカノ女でもあり、憧れの人でもあるフランチェスカ(ミーシャ・バートン)から、「答案を捜し出して」と言われて、俄然やる気を出すボビー。盗まれた当日の事を思い返してみるに、バスケットの試合中に怪我をして保健室に運び込まれたポールの行動が怪しい、そして、疑惑は確信に変わり、ポールが盗難事件の犯人だという記事を書いてしまいます。そしたら、何と、彼のロッカーから盗まれた答案用紙が発見され、ボビーは一躍、時の人になっちゃいます。フランチェスカとの距離もすんごく縮まっていい感じになってくるのですが、その一方、もうひとつの疑惑が彼の胸に沸き上がってきます。「ひょっとして、ポールは誰かにハメられたんじゃないの?」校内でペイントボールを乱射して、施設に送り込まれてしまうポールを見て、これは何とかしなきゃと思って、事件を再捜査するボビーなんですが、一方で、フランチェスカとラブラブでハッピーという状況。果たして、事件の真相はどうなっているのかしら。

MTVや短編映画をつくってきたブレット・サイモンの初監督作品です。2008年の映画だそうですから、日本ではお蔵だし上映という感じになるのでしょうか。「処刑教室」という邦題からして、配給会社のやる気のなさを感じさせます。原題は「高校生徒会長の暗殺」なんですが、実際の殺人なんか出てきませんし、暴力シーンもほとんどなく、ミーシャ・バートンのおっぱいがちょっとだけ拝めるくらいの映画です。「処刑教室」と言えば、知る人ぞ知るマーク・L・レスター監督の学園バイオレンス映画の佳作なんですが、そっちを知ってる人が、この映画を同系列の映画だと期待してると大ハズレということになります。その分、まあ安心して観れる映画には仕上がっています。湾岸戦争で片足を失った(らしい)校長をブルース・ウィリスが演じていて、ちょっとしたアクセントになっていますが、彼とても、生徒をボコボコにしたりするなんてことはしません。

ヘタレ新聞部員のボビーは、答案盗難事件の犯人探しを、フランチェスカと校長の両方から依頼を受けます。何で、このヘタレにそんなことを頼むのか、理解に苦しむところはあるのですが、彼は、彼なりに捜査を開始します。学校からマークされてる不良グループには、それぞれアリバイがあり犯人ではなさそう。その晩にバスケの試合をしていて途中で負傷して、保健室に運ばれたマークが怪しいということで、彼が犯人だという記事を書いてしまいます。マークは学校の中でもトップの特別な存在です。そんな、彼が犯人だという記事は大反響。彼のロッカーから盗まれた答案用紙が出てくるに至って、ボビーは一躍ヒーロー、一方のマークは天国から地獄。しかし、彼が犯人だという確たる証拠があって記事を書いたわけではないので、ボビーとしては、何か、おかしいと思い始めます。ひょっとして、マークはワナにはめられたのではあるまいか。生徒会長であったマークは問題生徒として隔離され、その後釜は、副会長だったマーロンになり、そして、フランチェスカの彼氏の後釜は何とこれがボビー。

フランチェスカとラブラブになってる一方で、それでも事件の再調査を開始するボビー。どうも、マークは昔の彼女に結構貢いでいたらしい。また、マーロンや生徒会幹部の動向も何か怪しい。学園ミステリードラマという展開になってきます。面白いのは、いわゆる登場する不良の皆様が結構いいやつで、生徒会の連中の方が暴力を振るう嫌な奴らだということ。そんな中で、探偵みたいにあちこち聞きまわるボビー。彼のナレーションで物語が進むので、ハードボイルド探偵ものみたいな雰囲気を出そうとしてるみたいです。フランチェスカはファムファタールみたいなポジションになるのですが、ブレット・サイモンの演出は、ハードボイルド探偵ものと学園ミステリーの両立を図ったようで、ハードボイルドも若者のキャピキャピもほどほどのところにおさめています。まあ、ある意味、行儀のよい(出てくる学生が行儀がいいわけではない)映画に仕上がっていますので、安心して観ていることができます。まあ、ハードボイルドにも、学園モノ、どっちにも弾けなかったということなんですが、ずっと高校の中で展開するドラマは「ソーシャル・ネットワーク」みたいでもあり、あまり考えないで作ってみたら、普通に着地したって感じでしょうか。



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マーロンのパーティに呼ばれたボビーは、そこでフランチェスカと結ばれます。施設で投薬療法を受けているマークを何とかしてやりたいと思うボビーですが、実際は何もしてやれません。自動車運転研修中に、生徒会幹部の車が薬局をハシゴしているのを目撃します。何かのクスリがこの事件には絡んでいるようです。一方、新聞部の別の記者が今度は「ボビーがマークをワナにはめた」という記事を書いちゃいます。これが学校中に流れてしまい、ボビーは記事を否定しますが、フランチェスカにも振られ、彼も問題児として、隔離されてしまいます。しかし、問題生徒の隔離エリアで、ボビーに頭脳が回り始めます。そして、再テストの回答を盗み出そうとしている生徒会のメンバーたちの現場を押さえます。多勢に無勢で殺されそうになるボビーですが、実は、彼らの会話は学校中に放送されていました。

ガリ勉生徒は、クスリでテンションを上げる必要があり、生徒会幹部は親の白紙処方箋を使って、興奮剤などを、生徒にいい値段で売りさばいていたのです。そして、マークははめられました、さらにボビーもはめられたのです。フランチェスカの本当の恋人は副会長のマーロンでした。盗まれた答案の回答を悪い方へ改変することで、ガリ勉たちは点数がダウン、余計目にクスリが必要になるというマーロンたちの読みは大当たりとなるはずでしたが、ボビーがその事実を白日のもとにさらしてしまいます。フランチェスカがボビーに何を言っても、もう彼に届くことはありません。事件は解決したものの、ボビーと学校には大きな傷跡を残すことになりました。探偵は一人その場を去って行くのでした。おしまい。

ミステリーの部分にそれほどびっくりするような仕掛けはありませんでしたけど、きちんと伏線をひいているあたりは良心的です。ラストで、全ての事件のカギがフランチェスカにあることがわかるのですが、ミーシャ・バートンのビッチぶりは、おとなしめというか、ドラマに力不足なのが残念でした。前半でストレートなヒロインに思わせるというミスリードもあるんですが、やっぱり怪しいものですから、全てがバレたら、開き直ってほしかったところです。ただ、生徒会のクスリの横流しや、答案を隠したりしたのは、結局、金が欲しかったから、というところに集約しちゃうのは、あまり面白くありません。舞台が学校なんですから、それ以上の旨味があってもいいような気がします。動機の部分だけは、リアルにハードボイルドしてますってことになるんですが、ショボいハードボイルドでもあります。

高校の中のおかしな連中のスケッチですとか、隔離されてる不良生徒といった、面白いネタを盛り込んでいるのですが、それが、ミステリーの中に生かされてなかったのは残念でした。もし、単純に学園ドラマにしたら、結構シリアスな展開になり、クスリの犠牲になる優等生の葛藤とか、優秀な生徒を優遇したい学校の思惑とか出てくるのでしょうけど、映画は、結局、生徒会幹部の悪さに集約させておしまいですから、悪役をわかりやすくした、マンガタッチな展開とも言えます。やはり、リアルな人間ドラマにはなりきれず、学園ごっこ、ハードボイルドごっこというところに落ち着いちゃったことになるのかしら。ムダがないのは事実ですが、そのムダってのは、フランチェスカの葛藤、ボビーのへたれぶり、マークの逆境での打たれ弱さ、ボビーを囲む不良生徒のワルぶり。そんなのが、映画の彩りにもなったのでしょうけど、その辺の色づけをパスしちゃったもので、「へー、そーなの」という印象しか残りませんでした。やはり最後まで、行儀のいい映画で終わっちゃったという感じです。ラストで、ボビーと新聞部長がいい感じになるかな?という予感を持たせたところが、気になったくらいでした。

でも、この映画に「処刑教室」って邦題つけた奴は、かなりな確信犯だと思います。他の題名だったら、誰も観に来ないだろうって、わかってたんだろうなあ。ブルース・ウィリスが形だけでも銃持って構えてくれたら、映画の感じが変わったのにね。

「抱きたいカンケイ」のサントラは、中身の割にはライトなラブコメ定番風味


お下品な設定のラブコメ(と私は思ってます)の「抱きたいカンケイ」の音楽を手がけたのは、「バレンタイン・デー」「プリティ・プリンセス」などのラブコメの実績もあるジョン・デブニー。でも、この人、「アイアンマン」「プレデターズ」などのSFアクションもやりますし、かつて、ロンドン交響楽団をフルに鳴らしまくった「カット・スロート・アイランド」なんていう武勇伝(?)もありまして、何でも手がける職人さんのようです。ブラッド・デクターが編曲をし、デブニー自身がタクトを振っています。

アルバムトップの「Golf Date」のどこか、すっとぼけた感じの曲が、いかにもラブコメかなという味わいでして、それ以降の、セフレ生活のカットバックに流れる「Making Love」などもシリアスさのない味わいです。映画の展開をサポートするライトなスコアが多いのですが、愛のテーマとも呼べるものは、二人が始めてちゃんとデートするシーンで流れます。(「I'D Choose Adam/First Date」)この曲はちょっとフランス映画っぽい味わいもありますが、音楽自体の扱われ方が映画の中で小さいので、意外と聞き逃してしまいそうな佳曲です。この愛のテーマのフレーズは他の部分でも何度か顔を出すのですが、なかなか曲としてまとまらない、それがデートのシーンでやっと1曲通して聞かせるという演出で、ラブコメの王道を行くやり方ではないかしら。

静かな部分では、エレキにアコースティックギターがメロディを奏で、それをストリングスがフォローし、さらにピアノソロをかぶせてきます。決して厚い音にはしないけど、そこで、いろいろな思いを込めようとしているように聞こえます。軽いタッチの音だけど、どこかに感傷的な余地というか含みのある音は、聞き流しちゃうとそれでおしまいだけど、ちょっと耳を傾けると、「おや?」と思わせる味わいがあります。今時、30分にも満たないアルバムってのも珍しいですが、その中の聴き所はさらに半分くらいかしら。それでも、サントラ好きだと買ってしまうのですよ、こういうサントラ盤。

「私を離さないで」のサントラは音楽そのものがオススメ


何だか、意表を突いてくるすごい映画だった「私を離さないで」の音楽を手がけたのは、「ショコラ」「サイダーハウス・ルール」「ジャスティス」など佳作の多いレイチェル・ポートマンです。ポートマンとジェフ・アトマジアンが編曲し、デビッド・スネルがオーケストラを指揮し、ロンドンで録音されています。

なかなかとっつきどころの難しい映画なのですが、そのハードルを下げてくれているのが、美しい映像と、このポートマンの音楽でした。テーマはバイオリンのソロから、バックにストリングスとピアノが入ってくるというものなんですが、これが、どこか知らない世界へ入り込んでいくような幻想的な味わいになっています。変な言い方ですが、物語そのものは主人公の生と死の葛藤を描いているのですが、音楽は、そこの感情的な部分とはあえて距離をおいて、ドラマを支えています。彼らの人生には、すごく非倫理的な枠がはめられているのですが、その枠を甘くぼやかしているということもできます。音楽が、もっと登場人物に寄り添ったドラマチックなものだったら、映画のカラーが非道なシステムを告発するような映画になったのでしょうが、あくまで、音楽は美しく、悲しみや不安を描写する音はあっても、激情や怒りを表現していません。そういう意味では、この音楽は映画に不自然なカラーを与えているのかもしれません。とは言え、感傷的に泣きの音楽にしていないところは、ポートマンのセンスだと思います。ドラマチックな音楽は、時として、その音楽が、観客の感情を高揚させたり、感動させたりするのですが、この映画での音楽は、あくまでドラマの周りの空気を支えるもので、それ自体で感情を揺り動かすことはありません。(そういう使われ方をしていない、というのが正解かも。)


でも、サントラのアルバムと聞くと、いいのですよ、これが。バイオリンソロによるテーマが美しく、小編成のストリングスをバックに紡がれる音は、心を洗われるような気分にしてくれます。不安を描写した部分の陰影もほどよく音としてのメリハリとなっていて、ヒーリングミュージックとして、聴き応えがあります。アルバムには、終わりに、子供たちの歌う校歌と挿入されるジュディ・ブリッジウォーターの「わたしを離さないで」がついてますが、ポートマンの音との連続性はないので、この2曲をカットして、iPodに入れなおして聴くのがいいかも。


「ザ・ライト エクソシストの真実」の音楽は、映画同様で地味です


現代風リアル「エクソシスト」っぽく見せようとしたけど、本家にリアリティではまるでかなわかった「ザ・ライト エクソシストの真実」の音楽を手がけたのは、アレックス・ヘッフェス。この人、セガールの「ICHIGEKI」や「消されたヘッドライン」に「ラスト・キング・オブ・スコットランド」と、色んなジャンルを手がけてます。「Dear フランキー」の音楽がものすごくよかったので、そういうメロディアス系の人かと思っていたのですが、この映画はきっちりホラー音楽を書いていますから、いわゆる職人さんなのでしょう。編曲をジェフ・アトマジアン、アンドリュー・キニー、ベン・ウォルフィッシュが担当し、ヘッフェスがオーケストラを指揮しています。

冒頭は、主人公の実家の葬儀屋での死化粧のシーンで、ここはピアノと小編成のオケによるピンと張り詰めた緊張感のある音に、ちょっとだけピアノがメロディを奏でます。ただ、このメロディがテーマではなく、後半は聞こえてこないのは残念。主人公がローマにやってくるシーンが音楽としては一番印象に残ります。その後、悪魔祓いのシーンはオーケストラによる打撃音中心の現代音楽風の音が多くなるのですが、要所要所にきちんとシリアスなドラマとしての音楽をつけていまして、ただの怖がらせるためだけの音になっていないのは評価しています。また、編成の大きなオーケストラを使っているようで、音に厚みがあるので、恐怖シーンの曲もシンセによる神経を逆なでするような音になっていません。ホラーな音から、ドラマチックな曲調への転調も自然でして、安い音になっていません。ストリングスだけに頼らず、ホーンセクションもきちんと使って、ドラマとしてのうねりを出すことに成功しています。同じような悪魔祓いを題材に扱った「エミリー・ローズ」では、クリストファー・ヤングが、恐怖を前面に出した音作りをしていて印象的だったのですが、こちらは若い神学生が主人公ということもあってか、全体を控えめだけどエモーショナルな音にまとめています。

とは言うものの、地味な映画だけに、音楽にも派手さやハッタリはなく、地味にまとまったという印象は否めません。音楽としての山場は、全ての終わった後の、神父と神学生の別れのシーンに集約されていまして、ここで、やっとテーマらしきメロディも顔を出しますし、音楽としての盛り上がりを聞かせてくれます。ここだけは、ホラー映画とは思えない美しい音が、映画としての後味をホラー映画から人間ドラマへと変えてくれます。そして、この映画が悪魔祓いを通した主人公の成長物語だったということを、再認識させてくれています。

でも、こんな映画のサントラをよくCD化したなあって気はします。CDになっちゃったってところが記憶に値するって感じです。

「六ヶ所村ラプソディー」に観る、当事者からの核燃への反対と賛成

今回は2006年のドキュメンタリー映画「六ヶ所村ラプソディ」を横浜シネマベティで観てきました。もともとは16ミリで撮影されていたようですが、DLPによるスタンダードサイズの上映でした。近くに、画面に向かってブツブツ言ってる変なオッチャンがいましたが、そういうことは居間のテレビに向かってやって欲しいものです。

2004年、青森県六ヶ所村に使用済み核燃料再処理施設ができました。実際の本運用前のテスト運用が始まります。地場産業の弱いこの地区にとって、核燃施設は、労働力の受け入れ先でもありました。そんな中で、菊川さんという女性は、核燃反対を表立って訴え続けています。県庁前で、ハンストをしたり、核燃反対のチラシを作って、街中で配ったりしています。一方で、核燃で働いて生計を立てている人もいます。漁師だったひとたちは、漁業権を放棄するかわりにお金を受け取りました。核燃施設は、核燃料の処理の際、放射性物質を大気と海へ放出します。施設の持ち主である日本原燃は、環境には影響のないレベルだと言っています。しかし、蓄積されていく放射性物質はじわじわと環境を汚染していくのではないかという不安を持つ人はそんなに多くありません。一方で、土地を売ってしまった人々は、核燃や関連事業の仕事につくしかありません。核燃は、様々なビジネスチャンスをもたらすと言い切る建設会社の社長さんもいます。実際、表立って核燃反対を訴えるのは少数派であり、表立ってそんなことを言う人は、逆に六ヶ所村や近隣地区の評判を落とすとみなされてしまっています。そして、映画の中では、語られていませんが、2006年からのテスト運用中に事故や不具合が発覚し、本運用は延び延びになっているのです。

鎌中ひとみ監督の2006年のドキュメンタリー作品です。前作「ヒバクシャ 世界の終わりに」では、現在も原発や核燃料再処理施設、劣化ウラン弾といったものから、被曝者は生まれ続けていることを描いていました。しかし、この監督は、観客に近い視点から事実に近づこうとしますので、政治的な胡散臭さが少なく、その分、結論は、観客の心に委ねられることになります。でも、切り口としては鋭く、私にとっても、知ってるつもりで知らなかった、気づける筈なのに、気づいていなかったことを教えられました。

原子力発電を行えば、使用済み核燃料が出ます。それを再処理施設へ持って行って、プルトニウムを抽出して、核燃料をつくりだそうというのが、単純な図式なのですが、その時に、大気と海に放射性物質を放出します。150メートルの高い煙突をつくって大気に、3キロのパイプを伸ばして海の中に、それぞれ放射性物質を捨てようというのですが、それがどの程度の環境汚染をもたらすのは、この映画では語られません。たぶん、わからないというのが正直なところなのかも。でも、イギリスの核燃料再処理施設の近隣では、子供の白血病が増えたという事実があったことが語られます。ただし、因果関係が立証されていないので、この事実は、核燃施設のせいだとは公式には認定されていません。でも、やはり不安材料が残ります。

この映画で、語られるのは、核燃施設が通常の操業をした場合のリスクに限定しています。でも、放射性物質が公道を運搬されていく様子には、何か事故でもあったらどうするんだろうと思わせるものがあります。2011年の東日本大震災後の福島原発のドタバタを見れば、どんなトラブルのリスクを持っているのかぞっとするものがあります。でも、原子力発電を続ける限り、使用済み核燃料はどんどん積み上がっていきます。それを何らかの形で処理する施設は必須だということになります。じゃあ、原子力発電はやめたら? と言いたくもなるのですが、そんなことを言うやつは電気を使うな、と言い返されちゃうご時世になってきているのも、また事実です。だって、そういうご時世じゃなければ、原発反対運動はもっと盛り上がってる筈ですもの。

私が知らなかった事実のひとつは、もともとは六ヶ所村に工場地帯を建設する計画があり、土地を高値で買い取った後、工業地帯建設が頓挫し、そこに核燃料処理施設ができたのだということ。つまり、先に金が動いて、後から核のリスクがやってきたということらしいのです。土地を失った農家の人にとっては、とりあえずお金は入ったのでしょうが、その先はどうだったんでしょう。やはり、核燃関係の仕事につくしかなかったのかしら。でも、インタビューの中で、出稼ぎが当たり前だったといった発言もありましたから、出稼ぎに行かなくてもすむ、雇用需要を生み出した事実は否定できないみたいです。また、六ヶ所村以外の土地からも核燃関連の仕事に来る人もいるようですから、生活者の立場で面と向かって、核燃に反対するのは難しく、菊川さんのように、現地で反対運動をするには、核燃から完全に独立した生活を営まなければなりません。

一方、現場の生活者でない人へのインタビューも出てきます。「プルトニウムはすごく危険なんですよ」「処分地は必要、どこに決まるかは、お金をいくら積むかでしょう」「よっぽど、儲かるんでしょうね、原子力発電は」などと、大学の研究者は笑いながら話します。カチンと来る言い方をするんですが、当事者でなければ、お気楽なことを言えるってのは、自分も同じですから、責めることはできないです。でも、彼らは核燃の怖さをよく知っている、一方のそこに住む人々はよく知らない。「大丈夫です」の一言で片付けられてしまいます。「でも、危ないんじゃないですか。」と言い返しても「どこがどう危ないのか説明してくれ。」と返されると、その先の言葉がない。でも、反対の立場をとる人は、核燃の不安を訴えます。その形にならない不安こそが大事なのだとこの映画は語っています。形になって見えたときには、後戻りができない、すなわち手遅れなのだから。

また、核燃に対して、反対、賛成という立場をとる人がいるのですが、中には中立の立場を取る人がたくさんいます。でも、中立のままで何もしなければ、賛成しているのと同じだということも語られます。これは、耳が痛いです。私も、六ヶ所村に住んでいたら、波風を立てるのがいやだから、きっと中立という殻に閉じこもってしまうでしょう。相手は国家の推進している事業です。自分が反対したところでどうにもならない、実際にインテビューにそう答える人もいます。でも、反対派が1%しかいないとしても、100人の村なら1人でも、100万人都市なら、1万人いることになります。核燃を人口の少ない田舎に作る理由は、そういうところにもありそうです。お金で丸め込むにしても、頭数が少ない方が安くつく。田舎のゴタゴタなんて、メディアは大々的に報道することもない。地場産業がないところなら、余計目に住民の経済的首根っこを押さえることができるという構図が見えてきます。

この映画では、核燃の仕組みを説明したり、原発事業を糾弾することはしていません。ただ、当事者には当事者の事情があること、不安の種は、実をつけたら手遅れであるということが語られます。原子力発電の専門家じゃない人がどういう態度で、核燃料処理施設というものに対処していくのかということを淡々と示されます。福島原発の事故のおかげで、私たちも、原発の仕掛けについての若干の知識がついてきましたけど、それでも、まだよくわからない。知ってる人は知ってるんだろうけど、言っても無駄だと思っているのか、金でまるめこまれているのか、凡人の理解できる情報レベルにはなっていないような気がします。よくわからないけど、核燃は怖い、原発は不安だという感情は決してバカにしたり、無視してはいけないということが、この映画から再認識できました。

「わたしを離さないで」は出オチの余韻で最後まで引っ張っていきます

今回は新作の「私を離さないで」を日比谷シャンテシネ2で見てきました。ここは、前の人の頭がスクリーンにかかるかどうかギリギリのつくりなので、座高の高い人が前に座るとつらいときあります。もっとスクリーンを上げてくれればいいのに。今回は体調があまりよくないときの鑑賞で、ところどころ記憶が飛んじゃってます。それでも記事にする度胸をご容赦のほどを。

科学の進歩によって1960年台には、人類に平均寿命は100歳にまで延びていました。そして、1978年のヘイルシャムの寄宿学校では、隔絶された環境で子供たちが暮らしていました。外部との接触を絶たれた空間で暮らす子供たち、そこへやってきた新任の先生は、生徒たちに、彼らが生きているのは臓器提供のためであり、それも3,4回行うと終了となるのだと告げます。同級生のキャシー(キャリー・マリガン)とルース(キーラ・ナイトレイ)、トミー(アンドリュー・ガーフィールド)の3人は成長してからは、コテージという管理施設に入れられていました。ヘイルシャムでは仲のよかったキャシーとトミーですが、今やルースとトミーがカップルとなってイチャイチャしてまして、キャシーとしては複雑な心境。それでも、キャシーは介護士になろうと決心します。そんな頃「愛し合うカップルが臓器提供の猶予期間を与えられる」という噂を耳にします。1994年、介護士のキャシーは、臓器の提供を2度行い体ボロボロのルースと再会します。トミーを奪ったことを詫びるルース。彼女の提案で3人は再会します。そして、ルースの死後、キャシーとトミーは臓器提供の延期を求めて行動を起こすのでした。

「日の名残り」で有名なカズオ・イシグロの原作をMTVやCMで有名なマーク・ロマネクが監督しました。「日の名残り」は好きな映画の1本でして、映像の美しさが大変印象的だったのですが、この作品でも大変美しい映像をシネスコのフレームに納めています。「ラースとその彼女」のアダム・キンメルの撮影が素晴らしかったです。

お話の方は、平均寿命が100歳になった世の中を支えるクローン人間の悲劇を描いたものです。極論すれば、設定だけの出オチ映画になりかねない題材を、どう膨らませるかというのがポイントと言えるのですが、ここでは、その設定を自明のものとして扱い、当事者がその運命とどう折り合いをつけるのかという方にドラマを進めていきます。それだけでもびっくりなのですが、結局、ラストまで彼らは運命との決着をつけられないのです。静かに進むドラマなのですが、それがドラマチックなピークを迎えることなく終了してしまうのです。出オチが余韻に直結するというかなり不思議な映画に仕上がっていました。

臓器移植を運命付けられた若者が、それを不当な扱いと思わないで、運命として認識しているのです。そりゃまあ、生まれたときから、そうなるための教育を受けているわけで、そこに疑問を差し挟まないような洗脳はされていることは想像がつきます。また、限られた命しか与えられていないというのは、観客である我々も同じであって、そこにどんな違いがあるのかということも言えましょう。私たちが、脳梗塞やがんで死ぬことが実はものすごく理不尽だとしても、そういうふうに私たちは教育されていませんし、そこにある死として受け止めている部分は、この映画の主人公たちと大差ないようにも思えます。自分たちとすごく遠いようで、意外と近い、そんな感じでしょうか。

しかし、その矛盾する感じが、登場人物への感情移入をためらわせるのです。共感するには、彼らの運命は過酷すぎる、でも、死への向き合い方は自分とそんなには変わらない、そのジレンマに引っかかるとドラマの中になかなか入り込めません。「限られた生」を扱ったSFと言えば「ガタカ」が思い浮かぶのですが、あっちはそれなりの救いと、サスペンスの面白さがあったので、画面に引き込まれました。今回の「わたしを離さないで」は、映像と音楽の美しさ、演技陣の見事さなど見所は多いのですが、ドラマとしての核が曖昧なようで、心に届くものが少なかったように思います。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



トミーは後1回の移植が行われれば終了という状態でした。そこで、彼の才能と情熱を示すスケッチなどをかきあつめ、キャシーとともに施設のマダムと呼ばれていた女性を訪ねます。そこには、寄宿学校の校長もいて、あらためて二人に臓器提供の延期などと言った話はないことを告げます。トミーは臓器摘出をされて命を落とし、キャシーにも初めての移植の通知が来るのでした。

確かに主演3人のドラマは見応えのあるものでしたが、それは、臓器提供の話とは直接リンクするものでなかったので、映画の中に入り込めなかったのかなって、気がしました。臓器提供のために生きている若者という設定の位置づけが曖昧だったからかもしれません。映画は、臓器提供のためのクローン作成についての是非については触れません。登場する子供たちは、それほどおかしな育てられ方をしているようにも見えず、若者になってからの、感情の流れもごく自然です。ただし、自分が臓器提供によって、命を縮められるということに対しても、自然な運命のような受け入れ方をしています。

異常な設定における、普通の若者のドラマという捉え方をするなら、この映画は、特攻隊の若者を描いたドラマに一本通じるものがあるように思います。客観的にはあまりに理不尽だけど、当事者としては、心の底で抗いつつも運命として受け入れなければならない。そんな状況を淡々と描いたお話ではないかしら。特攻隊の話なら、そこに反戦の心を込めることもできましょうが、この映画は、SFという設定の自由さが、強い想いを込めるポイントを見失わせたようにも思えます。全体として、淡い画面設計がされているのですが、そのふわふわとした感覚は、美しい悪夢を思わせるものがありました。

「ヒバクシャ 世界の終わりに」の視点を持つ大事さを再認識しました。

2011年5月に鎌仲ひとみ監督の「六ヶ所村ラプソディー」というドキュメンタリー映画を観ました。この監督の核を扱ったドキュメンタリー「ヒバクシャ 世界の終わりに」を、2004年に観ています。その時にパソ通サークルのHPにアップした記事を以下に記します。2004年8月にシネマジャックで観ました。(尚、この映画、2010年5月20日までシネマベティにて再上映してます。)


イラクのバグダッドでは、イラク空爆以降、子供の癌患者が異常に増加しています。その原因として、アメリカ軍の使った劣化ウラン弾が挙げられていますが、科学的な因果関係が証明されておらず、公的に劣化ウラン弾が癌を増やしているとは認められていません。白血病の少女ラシャやムスタファ少年には、には十分な治療処置がなされておらず、ラシャは取材の途中で亡くなってしまいます。一方、日本で間接的に被爆して、現在も被爆者医療に携わる肥田医師はアメリカのハンフォード核施設の近辺へ足を運び、そこの住民と会話します。そこでも異常に癌の発生率が高いのです。でも、その因果関係もまた公的には認められていないのです。核施設の出す微量な放射性物質はじわじわと世界中にヒバクシャを増やしつつあるのです。

横浜で毎年行われている横浜平和映画祭というイベントで、それでも通常興行として上映された作品です。この映画祭のいいところは、普通は特別な団体の上映会などしか観られない作品を普通にお金を払って気軽に観られるところにあります。この作品も、何たら団体の講演会付上映会だったら腰が引けて観ないで終わってしまうところを、通常の映画と同じ感覚で観ることができました。

記録映画を手がけてきた鎌仲ひとみ監督の視点は、被曝者の視点に立つことはせず、一般の市民のスタンスで、まずバグダッドの癌病棟をレポートします。そこでは、被曝したとしか思えない子供たちが癌と闘っています。そこから、日本の被曝者に対する興味という展開で物語は長崎、そして、同じ状況にあるアメリカのハンフォードへと移っていきます。妙に気負ったところもなく、例えばイラクの白血病の少年の家族の暮らしをかなり延々と見せたり、ハンフォードの農家の生活を追ったり、生活感のある映像を積み重ねていきます。

イラク空爆が始まってから、明らかに癌患者は増えていると言います。でも、その事は公式には認められていません。でも、劣化ウラン弾は落ちたところにウランの微粉末をばらまくことは事実のようです。実際に劣化ウラン弾が使われた地域での癌患者数はイラク以外でも増えていると言われています。しかし、科学的にはその因果関係は証明されていないのだそうです。確かに科学的因果関係を立証するには、精密なデータと冷静な判断が必要であることは事実です、それが科学的なのですから。でも、その科学が、多くの癌の子供たちを救うことの妨げになっているのかもしれないのです。やはり、科学も政治であり、そこには、政治の後ろには金がつきまとっていることを考えると、貧乏人を犠牲にして金儲けをしている連中の姿が垣間見えてきます。

アメリカのハンフォードにおける核施設に近所に住む人々にも癌患者が多く、ほとんどの女性が流産を経験しているのだそうです。でも、ここでも、核施設と癌の発生の因果関係は立証されていないのだそうです。鉄条網で区切られた向こうは危険でこっちは安全ということになっているというのも驚きでしたが、日本でも、爆心地から2キロという線引きで、お金の出る出ないということがあったそうですから、お上のやることはどこも同じようです。しかし、一方で核施設で働く人々は仕事に誇りを持っているようですし、癌の発生を関係付けるデータはなく、このエリアは安全だと言い切ります。ここで、カメラの視点は不思議と中立に立とうとしていました。事実を踏み越えまいとするのか、あくまで映画を動かすものは、好奇心、興味なのだという視点を崩すまいとするのか、癌と核施設の関係はあきらかだといった主張をしてきません。そこに住む人々のインタビューを中心に今そこにある姿を映し出そうとしています。

と、言いつつ、この映画の言いたいところは明快でして、今、現在も世界のあちこちでヒバクシャは作られていて、それが終わることはないということです。その時、日本の原爆体験はもっと語られ、人々との共通の意識として認識されるべきだと映画は語りかけてきます。見せ方は大変控えめでして、そこから見えてくるメッセージも過激なものではなく、あくまで生活の中の考え方、感じ方に向けられているように思いました。現代の我々を蝕むものは、放射能だけではなく、ダイオキシンかもしれないし、光化学スモッグや煤煙かもしれません。例えば、ダイオキシンで苦しむ人々からすれば、放射性物質なんて大した問題ではないかもしれない。でも、核施設や劣化ウラン弾が、公に認められないまま、癌患者を増やしているらしいという事実には目を向けるべきだというメッセージは結構耳に痛いものがありました。なまじ、原爆の悲惨さとかを前面に出さない構成が、自分の普段の生活感とこの問題は別のものだとは思わせてくれないのでした。

「抱きたいカンケイ」ってラブコメと呼ぶには共感できない下品さが気になる

今回は、静岡ピカデリー2で「抱きたいカンケイ」を観てきました。静岡に新しくシネコンができるので、たぶん、ここも閉館しちゃうんだろうなあ。かつて、名画座だったころ、200円で「海底二万哩」を観たのが懐かしい。

高校生の頃からの知り合いであるアダム(アシュトン・カッチャー)とエマ(ナタリー・ポートマン)、アダムはテレビ局のスタッフ、エマは医師になってました。アダムは、父親(ケヴィン・クライン)が、アダムの元カノとデキちゃって、大ショック。そんなときに何となくエマと関係を持ってしまったのですが、エマから、セックスだけの関係で付き合わない?って言われて、OKしちゃいます。エマはゴタゴタした人間関係が嫌い、アダムは失恋プラスアルファのショックで、このセックスだけの関係は意外とうまいこといってしまいます。でも、いい関係は長くは続かない。情の部分が動き出すと、アダムはこの距離感でいいのかなって思い出しますし、エマは契約した以上の関係に進むことに臆病になります。で、一度、ちゃんとデートしてみましょうってことになるのですが、やっぱりうまくいかないのかな、こういうの。

いわゆるラブコメなんですが、原案・脚本のエリザベス・メリウェザーは一捻り狙って、まずセックスフレンドから始める男女の姿を描き出しました。カナダ出身でプロデュース作品も多いながらも、「ゴースト・バスターズ」「デーブ」「Gガール 破壊的な彼女」といった面白い映画の監督実績もあるアイヴァン・ライトマンがメガホンを取っています。


この映画は題材が題材だけに以下は表現が下品になりますので、ご注意ください。しかし、これがPG12ってのは不思議、小学生に「セフレってなーに?」って聞かれたら保護者はどう助言したらいいのやら。


ナタリー・ポートマンでラブコメ? でも、アイヴァン・ライトマン監督なら、ライトな味わいな映画だろうなあって期待があったのですが、予想とは、半分はずれて、半分当たりという感じでした。オープニングでは高校時代の二人の出会い、そして大学時代にもニアミスあり、そして就職してからの再会と、クサレ縁的な発端。元カノと父親がデキちゃってるのを知って、逆上して、知ってる女の子に電話かけまくってるときに、酔っ払ってエマの共同アパートに転がり込んじゃいます。元カノと父親がねんごろになったショックとは言え、やれそうな女の子に絨毯爆撃かけるってのは、下司なヤリチン男なんですが、そんなのに、「いーよ、やるだけだったら」って軽くのってくれたのがエマ。周囲からすれば、付き合っている男女っていう見え方なんですが、当人にとって、二人はただのヤリ友、恋愛なんてそんな面倒な関係ではありません、ということらしいです。昼も夜も、場所を問わずにセックスする二人のモンタージュ。普通の恋愛映画なら、デートしたり、キスしたりというシーンがモンタージュされるのが、この映画が、ひたすら嬉々としてヤってます、ヤリヤリハッピー!

ああ、レオンの子が、こんなになっちゃって、と、まるでマナカナが「花と蛇」に出るような衝撃。そこまでは、いかないまでも、こんな役やっちゃうんだなあとしみじみ。(ちなみに私が一番好きなポートマン映画は「宮廷画家ゴヤは見た」です。「ブラックスワン」にも期待。)ともあれ、ヤリチン、ヤリマンの奇跡の邂逅は、幸せな性生活をもたらすのですが、アダムの方がだんだんと彼女にホの字になっちゃうのですよ。まあ、ナタリー・ポートマン相手にセックスオンリーの関係で満足しちゃう男がいるのかってところなんですが、そもそもの発端からしたら、そりゃあ望み過ぎってものでしょう。ヤれる女なら誰でもいいってコナかけまくっていたら、大当たりを引いたのですから、その先を狙うのは、身の程知らずではないかなって気がします。この映画のヒロインが、キャサリン・ハイグルやエイミー・スマートあたりだったら、まあ、その成り行きもありかなって気もするのですが、ちょっと上玉過ぎて、ポートマンは、この映画にはミスキャストのような気がしちゃいました。

しかし、ヤリ友に端を発したお話のくせに、この後は、まともなラブコメの展開にもっていくのですよ。「出会い → ラブラブ → 諍い → 別れ → ラブ再燃 → 最後の告白」でハッピーエンドのパターン。アダムは一度はエマをあきらめようとします。一方、他の女に走ろうとするアダムにエマの嫉妬心がむらむらと沸き起こってきます。エマって、バカだねー、という見せ方にしてくれれば、ちょっとひねったお笑いにもなったのかもしれませんが、エマの心境をマジメに演出しているので、「それは、ねーよ」というツッコミを入れたくなります。ややこしい恋愛関係なんかいらないわと思っていたエマではあるのですが、やっぱり好きになっちゃった。日本流に考えると、遊びまわっていた女子が30を手前に、将来のことを考えて、本気で伴侶を探し始めるような話にも思えてしまいました。エマの妹が結婚するということで、将来の伴侶に想いが至ったのかもしれません。

妹の結婚式の前夜に、妹にプッシュされたエマは、アダムの家を訪ねるのですが、そこで他の女性と一緒のアダムを見て意気消沈。ところが、タイミングよく、父親が倒れて入院したころから、二人は病院で出会い、二人はお互いの愛情を確認するのでした。めでたし、めでたし。

とまあ、一応ラブコメの体裁をとってはいるのですが、ヤリ友から始める恋愛って、私のようなオヤジには理解し難いところがありまして、セックスが愛情表現じゃないわけですから、この後、恋愛関係が始まったら、これまでのセックスでは愛情が感じられずに、すごいプレイの方に走るのではないかしらなんて、妙な詮索までしてしまいます。ヤリマン、ヤリチンの出会いってところに、恋愛動機の不純さを感じてしまうのは、私が古い世代だからかもしれません。それとも、主人公二人が妙に二枚目ヒーロー、ヒロインを気取ってるから、抵抗を感じるのかな。欲求不満ヒロインの「ブリジット・ジョーンズの日記」なんか、共感できて、大笑いできたのになあ。

「アンノウン」はネタばれが出回る前に観れば、かなり楽しめます。

今回は新宿ピカデリー8で「アンノウン」を観てきました。そこそこのサイズのスクリーンにシネコンの中規模劇場の典型パターンとでも言いましょうか。ただ、この映画館は、3Dの料金体系とか、前売券の扱いがあまりよろしくないのですよ。

植物博士マーティン・ハリス(リーアム・ニーソン)は、妻のエリザベス(ジャニュアリー・ジョーンズ)とともにベルリンにやってきます。空港でアタッシュケースを置き忘れたことに気付いたマーティンはホテルに妻を残して、タクシーで空港に戻ろうとするのですが、そこで交通事故に遭遇し、車ごと川に転落、運転手のジーナ(ダイアン・クルーガー)に助けられます。4日間の昏睡から目覚めたマーティンは病院からホテルに向かうのですが、エリザベスは自分のことを知らないと言い、さらにそこにはマーティン・ハリスを名乗る別の男(エイダン・クイン)がいました。自分の身元を証明するものを何も持たず、ホテルを追い出されたマーティンは結局病院に戻ることになります。でも、誰かに尾行されているみたい。病院で再検査することになるのですが、そこに彼を尾行していた男が現れ、看護婦を殺し、マーティンも殺されそうになります。何とか脱出したマーティンは、看護婦が紹介してくれたユルゲン(ブルーノ・ガンツ)を訪ねます。元東ドイツの秘密警察だったユルゲンは、マーティンの話に陰謀の影を感じます。マーティンはジーナのもとを訪ねて彼女から前後の事情を聞きだそうとしますが、そこにまた殺し屋風の二人組が現れます。マーティンの命を狙う男たちの正体は?そして、彼が巻き込まれた陰謀とは何だったのでしょうか。

「蝋人形の館」のジャウム・コレット・セラ監督の新作です。タイトルで「ダーク・キャッスル・エンタテイメント」と出たので、ひょっとしてホラーなのかと思ってしまったのですが、まっとうなサスペンススリラーになっていたので、何より。ベルリンに来たアメリカ人という設定が、孤立無援な主人公を浮き上がらせることに成功しています。空港からホテルにやってきたのに、アタッシュケースがないのに気付いて、タクシーで空港へ引き返す途中で事故に遭遇、記憶に障害を残したまま、ホテルに行けば、妻は自分のことを知らないと言うし、自分の名前を称する別人がいる。自分のHPを見れば、写真は別な男の顔。いったい、自分はどこへ行ってしまったんだろうという出だしは快調です。昔に比べると、あちこちに監視カメラはありますし、インターネットもありますから、自分の存在が消されても、それをたぐる術は結構あります。そこをうまくはずして、主人公を追い込む脚本はうまく、セラの演出もストレートにサスペンスを盛り上げていきます。

頼みの綱となるのは、不法移民のタクシー運転手ジーナと、元秘密警察のユルゲン、ユルゲンはマーティンの正体を調査し始めるのですが、並行して殺し屋がマーティンやジーナの命を狙ってきます。地味ながらカーチェイスやアクションもあり、あまりスマートでない(無駄殺しが多過ぎる)殺し屋部隊の追跡が見せ場になっています。マーティンは、ベルリンの大学の教授に会う予定がありました。環境に対する研究により、某国の王子との親交も深い有名人です。でも、環境優先の王子の政策は、内外に敵を作っていて、暗殺未遂事件が起きたばかり。このあたりを調べ上げたユルゲンは、事件の全貌が見えてきます。一方、マーティンの上司であるロドニー・コール教授(フランク・ランジェラ)がベルリンにやってきて、ユルゲンに接触してきます。



この先は結末に触れますのでご注意ください。(映画を未見の方は読まない方がいいです。→ 念押し)



ユルゲンは、コールの正体を暗殺組織の人間だと見抜いていました。そして、逃れられないと悟ったユルゲンは自ら毒をあおって、命を断ち、マーティンを守ります。ジーナと分かれたマーティンは、コールの術中に落ち、連れされられてしまういます。それを目撃したジーナは、コールの車を追跡し、殺し屋とコールを車で殺害、半殺しの目に遭っていたマーティンを救出します。その時、マーティンは記憶を取り戻します。彼は、もともとマーティン・ハリスではなかったのです。彼も、妻のエリザベスもコールの一味の人間でした。彼らは教授の友人の王子を暗殺するために、マーティン・ハリスという架空の人間を仕立て上げ、教授に接近したのでした。ところが、マーティンが事故に遭って、記憶を失ったことで、一味は計画を変更、別の男をマーティンとしてホテルに送り込み、元のマーティンを消そうとしていたのです。司令塔のコールは死んでも、暗殺計画は着実に進んでいました。

爆弾の仕掛けられた場所も思い出したマーティンは、ホテルに乗り込んで、みんなを避難させて、王子暗殺を阻止させようとしますが、爆弾は爆発し、ホテルは大混乱になります。実は暗殺団のターゲットは植物学者が合成に成功したどんな気候にも強いトウモロコシの品種のデータだったのです。それに気づいたマーティンは、教授を殺そうとするニセマーティンと格闘になり、彼を殺した後、ジーナと共に混乱のホテルを後にします。ベルリンの駅に新しいパスポートを手にしたマーティンとジーナの姿がありました。おしまい。

結構、意外性があって、面白かったですが、観終わってみれば、「ボーン・アイデンティティ」と「ソルト」を足して2で割ったような映画でした。こういうミステリーネタはもう使い尽くされたところがあって、よほどの反則をやらないと新機軸にならないところがあります。この映画の反則ギリギリ度は、主人公の記憶喪失の範囲が都合よすぎるところ。それまでの暗殺者としての、犯罪計画がすっぽりと抜けて、なりすました人物の記憶だけが残っちゃってるってこと。とはいえ、謎解きを後半まで引っ張った演出のおかげで、このムチャが気になる前に、映画は終わってますから、この手のサスペンススリラーの仕掛けとしては上々と言えます。また、演技陣の渋さが映画に落ち着きを与えていまして、「ボーン・アイデンティティ」や「ソルト」のようなライド感はありませんが、きちんとドラマを観ている気分にさせてくれるところはマルです。

リーアム・ニーソンに加えて、ダイアン・クルーガー、エイダン・クインにブルーノ・ガンツとフランク・ランジェラとくれば、重厚なスパイもののキャスティングみたいです。ちょっと、ムチャかましたところあっても、ドラマが浮き足立たないのは、この顔ぶれがあってのことでしょう。ベルリンという設定や、フラビオ・ラビアーノの落ち着いた色使いのキャメラが、映像的にもちょいと上ランクの映画を感じさせてくれまして、娯楽映画として、地に足の着いた映画に仕上がっています。

ちょっとの間に、自分のことを誰も知らないって言い出す、あるいは、会ったこともない人が自分の近親者だと言い出すミステリーってたくさんありまして、結構、映画にもなってます。ものすごい無理な設定なんだけど、それにどうオチをつけるのかにわくわくさせるものがありまして、こういう題材は好きです。今回は、ギリギリ感もあるけど、このジャンルの中ではかなり面白い部類に入るのではないかしら。

「ザ・ライト エクソシストの真実」はマジメさとケレン味の二束のわらじ、マジメに徹したほうがよかったかも

今回は新作の「ザ・ライト エクソシストの真実」を静岡ピカデリー2で観てきました。一応、ドルビーデジタルの音響設備の筈なんですが、大きな音が歪んで聞こえたり、あまり調子がよくないみたい。もう、映画館の寿命がないから、改善は期待できないかなあ。

葬儀屋の息子で、神学生のマイケル(コリン・オドノヒュー)は優秀な成績でしたが、司祭になることにためらいがありました。教師である神父の勧めもあって、バチカンのエクソスシト養成講座を受講することにします。しかし、マイケルは悪魔の存在に対しては懐疑的でした、それを知ったザビエル神父(キアラン・ハインズ)から、ルーカス神父(アンソニー・ホプキンス)に会うことをすすめられます。彼のもとを訪れたマイケルですが、ちょうど、そこに悪魔にとりつかれたという少女が悪魔祓いにやってきます。彼女は幼そうでしたが妊娠していました。悪魔祓いの儀式を始めると、少女の口から悪魔の言葉が発せられます。これは本当に悪魔つきなのでしょうか。儀式を繰り返すことで、彼女の悪魔は様々な言葉を口走り、英語でマイケルの過去を語ったり、口から釘を吐き出したりします。マイケルは彼女に医療処置が必要だと、ルーカス神父を説得するのですが、ついには彼女は自殺を図り、病院に収容されます。暴れる彼女は、ベッドに縛り付けられてしまいますが、一度は落ち着きを取り戻します。しかし、目を離した隙に出血して、彼女も胎児も死んでしまいます。悪魔を祓うことができなかったルーカス神父は落ち込みますが、そこを悪魔につけこまれたのか、神父の様子がおかしくなってきました。

私は未見なのですが、スリラー「1408号室」のミカエル・ハフストロームによるオカルトホラーです。題材は悪魔祓い、若い神父とベテラン神父のペアで悪魔に挑むというと「エクソシスト」を思い出すのですが、この映画は、悪魔憑きというより、若い神父マイケルの成長物語という形を取っていまして、ちょっとシャマランの「サイン」の味わいもあります。ショックシーンも盛り込まれていますが、どぎつい描写は控えめで、刺激重視の映画ではありません。(と、言いつつも、主人公の夢の中で超自然なビックリショックドッカーンというパターンは、禁じ手にして欲しいです。もう、定番のパターンだけど、心臓に悪いから。)アンソニー・ホプキンスは、ベテランのエクソシストを飄々と演じていまして、重々しくならないところがリアルでよかったです。

エクソシスト講座の中でも、本当の悪魔憑きか、精神疾患なのかを見分けないといけないと語られます。確かに、単に「悪魔の声が聞こえる」というだけでは幻聴の可能性の方が大きいですもの。この映画の中では、悪魔は存在するという立場を取っていまして、悪魔に憑依された人間が、知らない言語しゃべったり、神父しか知らないプライバシーを語ったり、口から釘を吐き出したりと、病気では説明しきれない現象が発生します。でも、悪魔って人間に憑依して何をしようとしてるのかは、よくわからないんですよね。始めに登場する妊娠していた少女は死んでしまっておしまいってことなので、どうやら人間を殺したがっているようでもあります。また、人間を支配して苦しむのを楽しんでいるように見えます。

人間で言うなら、ワルというか、外道というか、まあ悪魔のようなやつ、ということになります。無神論な私に言わせると、悪魔って、全能なる神と対峙するには、ずいぶんと小物です。女の子一人をいたぶってるってのは、何だかやってることみみっちくないかい?って気がしちゃうのですよ。それは、悪魔に対する人間のイメージが貧困なのかも、とも思えてしまうのです。世界を作る神くらいのでかいことをやってみろよとも思うのですが、そういうスケールの大きな悪魔の話ってのはあまり聞きません。まあ、神の方にも「神かかり」という普通の人に憑依しちゃう、こじんまりした技を使いますから、似たようなものかもしれませんが、「神かかり」が胡散臭さ満点なのに、「悪魔憑き」の方は胡散臭さ50点くらいなのが面白いところです。人間にとって、悪魔ってのは身近で馴染みやすい存在なのかもしれません。

でも、悪魔祓いのときは、単に儀式をなぞるだけでなく、悪魔の存在を信じ、さらに神への信頼を確信しないと勝てないみたいなんです。「神なんて信じられないよねえ」という状態よりは、「神の名において云々」とやってる時の方が精神的に強そうな気がします。気が弱いと悪魔に負けちゃうってのは、神の存在とは無関係に、納得できるところがあります。で、この映画のマイケルは、神の存在を信じきれていないので、弱気になっちゃて、悪魔に勝てないのですよ。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



マイケルは、悪魔の存在を信じるようになる一方で、神への信頼を確信できなくなっています。一方でルーカス神父は、悪魔にとりつかれたように行動がおかしくなります。マイケルは、ルーカス神父の悪魔祓いに臨むことになるのですが、何だか弱々しいマイケルはまるで勝ち目なさそう。幼い頃に母を亡くしたマイケルは、その時に神への信頼を失っていたのでした。だから、ルーカス神父の中の悪魔と対峙しても、勝てる気がしません。しかし、マイケルの中の母親の記憶、天使のカードをマイケルの母親が彼に渡す映像が甦ったとき、マイケルは神への信頼を取り戻し、悪魔を攻め立て、悪魔の名前を聞き出すことで、ルーカス神父の悪魔を祓うことに成功します。ルーカス神父のもとを去るマイケル。彼は、司祭になる道を選び、アメリカで何件もの悪魔祓いを行っています、って、これは実話だったんかい?

最初は、ルーカス神父のやっている悪魔祓いは、病人を悪化させているだけだと思っていたマイケルですが、悪魔祓いに行った先で、自分の最近の体験をあてられたり、自分の父の死を予言されたり、釘を吐き出すところを目撃したりと、マイケルは悪魔の存在を信ぜざるを得なくなってきます。でも、悪魔信じてるだけでは、悪魔に勝てないらしいのですよ。神に対する信頼(信仰?)がないと、パワーが弱い、それが神への信頼を取り戻すと、一気にパワーアップするという展開は、精神的に不安定だと気力が出ないけど、何かを確信すると気力充実っていうのと似ています。強気で行かないと負けちゃうってのは、動物の調教と似たところがあるのですが、悪魔ってのは、イメージ図でも、人間より獣に近いですから、どっかで通じるものがあるのかも。

ルーカス神父は、自分の扱う案件が全て悪魔憑きだとは思っていないようで、時としてセラピストの顔も見せるあたりが面白いと思いました。もっと、悪魔と病気の境界を曖昧にした方が映画としては面白くなったような気がします。クライマックスのルーカス神父の悪魔祓いでは、アンソニー・ホプキンスに特殊メイクを施して「エクソシスト」風の絵にしちゃっていますが、これはやりすぎなのかも。確かに悪魔存在側に立った映画としては、悪魔がいるんだよーっていう絵が必要だったのかなとも思うのですが、マイケルの信仰を取り戻すストーリーとしては、余計な見せ場になっちゃいました。

前に何かの本で「エクソシスト」の映画が公開されてから、悪魔憑きが増えたというのを読んだことがあります。世の中には、科学では説明しきれない不思議な出来事がいっぱいあると思うのですが、安直にレッテルを貼るのは避けたいものです。精神疾患だった人を悪魔祓いと称して死に追いやるケースがあってはならないと思いますもの。ただ、本当の悪魔が憑いた人には、悪魔祓いの儀式が必要なのかもしれませんし、医療措置が悪魔憑きを快方に向かわせる可能性も否定できません。要は、よくわからないことは、わからないこととして対処すべきかなあって思うのですよ。ただ、本当の悪魔に対しては、強い信仰と確信がないと勝てないらしいので、あまり悠長なことを言ってられないのが困りものです。

「アレクサンドリア」は、昔も今も変わらない人間の可能性と限界を見せてくれます

今回は、神奈川県の数少ないシネコンじゃない映画館の一つ横浜シネマリンで「アレクサンドリア」を観てきました。小さな画面なのですが、字幕にピントを合わせると、画面中央がボヤけちゃうってのは、減点。劇場の構造上の問題なのか、映写技術の問題なのか、はてさて。いや、つぶれて欲しくない映画館なんですよ、マジで。

舞台は4世紀のエジプト、アレクサンドリアはセラピス神の信仰が主流でしたが、新興のキリスト教が貧しい人を中心にその勢力を伸ばしてきていました。大きな図書館で、若者たちに学問を教えていた女性ヒュパティア(レイチェル・ワイス)は、その美しさと聡明さで多くの生徒の心をつかんでいました。ある日、セラピス神をあからさまに侮蔑するキリスト教信者に対して、セラピスの信者たちが剣を持って襲撃します。多くのキリスト教信者が殺されるのですが、キリスト修道兵の反撃に、セラピスの信者たちは、図書館に篭城させられてしまいます。この抗争に、ローマ帝国皇帝は、セラピス信者の罪を問わないが、図書館をキリスト教信者に明け渡すという裁定を下します。そして、多くの書物が灰になります。しかし、それでもヒュパティアは学問に打ち込むのでした。数年後、今度は実権を握っていたキリスト教がユダヤ教を迫害するようになってきます。ローマ帝国の長官やキュレネの主教になっていたヒュパティアの生徒たちは何とか事態を収拾に向かわせようとするのですが、アレキサンドリアの主教のキュリロスは、強硬姿勢を崩さす、キリスト教を非難したヒュパティアにも迫害の手を伸ばしてくるのでした。

「オープン・ユア・アイズ」「海を飛ぶ夢」などで知られるスペインのアレハンドロ・アメナバール監督の新作です。全編英語によるスペイン映画で、モブ・シーンやアレクサンドリアのセットなど、かなりお金のかかった大作になっております。

主人公であるヒュパティアは、数学、天文学に秀でた女性で、生徒たちに講義をしています。実在した女性だそうですが、彼女の残した文献は現存していないとのことで、いくつかの伝説が伝えられています。映画の中の彼女は、真理を追い求める知性と暴力に屈しない強い意志を持った女性として描かれています。男性からの求愛も拒否して、ひたすら学問に励むヒュパティアは、当時の社会の中では特異な存在でした。そんな彼女を中心に描かれるのは、宗教対立の血生臭い抗争です。そして、彼女に影響を受けた3人の若者が登場します。ヒュパティアに求愛し、セラピス神からキリスト教に改宗してローマ帝国の長官となるオレステス。ヒュパティアの生徒でありキリスト教徒であり、主教にまでなるシュネシオス。ヒュパティアの奴隷でありながら、彼女への恋慕の情を抱きながら、キリスト教の修道兵となるダオス。彼らは、ヒュパティアの理解者である一方で、彼女を思うようにできない歯がゆさを感じています。一方で、彼らの思惑とは関係なく、自由と真理を愛するヒュパティアの絶対的な存在は、現実と理想のギャップをあらわしていると言えましょう。

この映画の中で、キリスト教は悪役としての位置づけになっています。攻撃的で、他者を排斥し、そして、権力に対して貪欲です。最初は、シリウス神に対する抵抗勢力としてのマイノリティだったのが、後半、力をつけて、自分たちにとっての異端であるユダヤ教徒を迫害、殺戮していきます。信仰というのは、人を良くも悪くも後押しします。「信仰に身を委ねる」というとちょっと胡散臭いようにも思えますが、言葉を変えれば「絶大な信頼を置く」ということですから、無信仰な私にも理解でき、他人事とは思えない感情です。しかし、ヒュパティアの生徒たちは、様々な宗教、階級に渡っていました。異端者であっても、ヒュパティアを中心とした同胞、友人であるのです。排他的な信仰に対するためらいや葛藤がそこに生じます。自分の神に疑義をさしはさむことは許されない冒涜となりますが、ダオスのように、自分たちのしていることが正しいことなのか、と疑問を持つものも出てきます。でも、ダオスと同じ修道兵は、偉大な神の導きに、愚かな人間が疑いを持つ余地はないと言い切ります。

一方、ヒュパティアは、それまでの常識であった、地球中心説(地球を中心に他の天体が周囲を回っている)に疑いを持つようになります。それは理論的に美しくないから、他のもっとシンプルな理論体系によって、天体の動きは説明できるのではないかと考えるのです。信仰に疑いをはさむことができない多くの人々、一方で、既存の常識に疑問を抱くヒュパティア。彼女は、自分を哲学者と呼んでいますが、彼女の考え方は、事実と仮定をつきあわせていく、科学的思考であり、現代の、科学者と宗教原理主義者との関係をそこに見てとることができます。(ここで言う科学者とは、科学的思考を意味してまして、科学絶対主義者、科学信仰者とは別ものです。科学者を名乗りながら、排他的で自分と違う考えを持つ人を頭から否定する人もいますから。)



この先は結末に触れますので、ご注意ください。



キリスト教からすれば、自由奔放なヒュパティアは目障りな存在となります。キリスト主教は、女性を差別する表現を聖書から切り出して、彼女を魔女だと非難します。彼女の生徒たちも、こうなると事態を収拾することができません。修道兵によって連れ去られるヒュパティア、その修道兵の中には、かつての彼女の奴隷であり生徒であったダオスもいました。何とか彼女を救おうとしても、何もできないダオスはなぶり殺しにされるまえに、彼の手でヒュパティアの命を絶つのでした。

ダオスは、ヒュパティアへの愛と嫉妬に懊悩し、そして、キリスト教に自分の居場所を見つけるのですが、それも彼にとっては、全幅の信頼を置くには足りませんでした。ヒュパティアの他の弟子たちとは違って、色恋沙汰が彼の行動の大きな動機となっています。キリスト教が一度は彼の心を捉えるのですが、それよりもヒュパティアへの愛が優ってしまうというのは、面白いと思います。「恋は盲目」という言葉がありますが、ダオスはまさにそんな状態。その恋慕の情によって、彼は自分自身を追い詰めてしまいます。自由なようで、もっとも不自由な生き様となるダオスの姿は、人間の限界を示しているようでもありました。

この映画では、キリスト教は、野蛮で排他的で残酷な集団に描かれています。特にヒロインを死に追いやるキリスト主教キュリロスは、歴史の中では聖人と見なされています。歴史なんてものは、立場を変えると正邪の境目は大変曖昧でして、大きなことを成した人間ほど、その評価は見る人間の立場によって大きく分かれることでしょう。だからこそ、真理を追うならば、疑うことが重要になります。ヒュパティアは、宇宙の姿について従来の定説に疑いを持つ自由な視点を持っていました。しかし、彼女のような自由な人間は、数少ない存在でした。それは、現代にも言えることです。この映画は、キュリロスを悪役として描いていながら、ラストの字幕が彼が聖人として伝えられているという事実も説明します。どちらが本当なのか、いやどちらも本当なのかもしれない、それを考えること、考える自由の大切さを再認識させられます。

階級制度、貧富の差が、人々の生活を縛り付けていた時代では、宗教はその硬直した状態に風穴を開ける存在として、受け入れやすいものだったことは想像がつきます。しかし、その宗教を軸にまとまった集団を維持するために、信仰への無条件従属という新しい縛りを生んでしまいます。なぜかと言えば、やはり集団の上に立つ人間は他人を自分の思うように動かしたい、さらに、そうしないと集団を維持できないのです。そして、その縛りに耐えかねた人々が、既存宗教にかわる新しい拠り所を捜すことになる、そんなことが繰り返されてきて、自由を謳歌できている筈の現代でも、その繰り返しの輪はまだ回っているのかもしれません。今だって、大は人種差別から、小は学校でのいじめまで、排他的な行動はなくなっていないのですから。

ヒュパティアの死によって幕を下ろすこの映画は、後味としてはあまりいいものではありません。しかし、映画としての見応えは十分でして、自由、真理、信仰、科学的思考、熱情、理性といった様々なキーワードが盛り込まれていて、色々なことを考え、感じさせてくれる映画に仕上がっています。波乱万丈のストーリー展開は娯楽映画としてもよくできています。演技陣もみな見事で、知性と美貌と情熱を兼ね備えたヒロインを演じたレイチェル・ワイスがすばらしく、彼女の生徒たちを演じたマックス・ミンゲラ、オスカー・アイザック、ルパート・エヴァンスといった面々もいろいろなしがらみやジレンマに悩む若者を好演しています。

「英国王のスピーチ」はシリアスな歴史をバックに描いたほんわかエピソード

今回は、オスカー受賞で、めでたく拡大公開となった「英国王のスピーチ」を日比谷シャンテ1で観てきました。最初は、ここでの単館公開だったのが、あちこちのシネコンで上映されてるのですから、大したものです。キャスティングも題材も地味なんですけどね。

第二次大戦前のイギリス、国王ジョージ5世(マイケル・ガンボン)の次男坊であるバーティ(コリン・ファース)はあがり症でどもり症。公務で人前でスピーチすることが多いのですが、グダグダになっちゃいます。妻のエリザベス(ヘレナ・ボナム・カーター)とともに色々な治療を試みるもののどれもはかばかしくありません。そんなある日、オーストラリア人の言語聴覚士ライオネル(ジェフリー・ラッシュ)の存在を知り、彼の診療所を尋ねてみるバーティとエリザベス。皇太子であるバーティとタメ口をたたくライオネルの吃音矯正の方法は、他の治療士のやり方とは一味違っていました。最初は、「何だこいつは」と思っていたバーティですが、段々とライオネルに信頼を置くようになってきます。実際に、スピーチも少しずつですが上達してきました。一方、ジョージ5世の体調は思わしくなく、ついに息を引き取り、次の国王として、バーティの兄のエドワード(ガイ・ピアース)が選ばれるのですが、国政よりも色恋沙汰を優先させる国王は、政府や国民の支持を得られず、結局、バーティがジョージ6世として、王位を継承することになります。時は、ヒトラー率いるドイツがポーランドへの進撃を開始し、イギリスもドイツへ宣戦布告することになり、ジョージ6世はこの非常事態を国民に訴える演説をする必要に迫られます。ラジオのマイクの前に立つジョージ6世の前にはライオネルが付き添います。彼は、この重要な演説を無事に乗り切ることができるのでしょうか。

アカデミー賞の作品賞、監督賞、脚本賞、主演男優賞を受賞したイギリス、オーストラリアの合作映画です。とはいえ、タイトルには、複数の製作会社が名を連ね、製作総指揮の中には、ボブ&ハーベイ・ワインスタインの名前までありますから、いわゆる多国籍映画ともいうべき作品です。(撮影はイギリスで行われてます。)テレビ出身のトム・コスターがメガホンをとり、脚本のデヴィッド・サイドラーもテレビの仕事の多かった人です。人前でのスピーチがうまくいかない国王という設定が面白く(いや、実話なんですけど)、予告編も期待させる出来でした。本編も、映画として大変満足度の高い作品に仕上がっていましたが、これがオスカーの主要部門を押さえてしまったというのは、ちょっと意外でした。というのも、変にとがったところもなく、ドラマチックってほどでもなく、大感動ってのとも違う、まろやかな佳品だったからです。ミニシアターの夜の回に、熟年夫妻が楽しむような映画に仕上がっているのです。

イギリス王室の皇太子がどの程度の公務があるのかは知らないのですが、やはり人前で挨拶することは多いみたいです。その時、うまく言葉が出てこなくなっちゃうってのは、かなり深刻な問題なようで、色々と治療の手を尽くすのですが、うまくいかない。正直、どもりという障害のシリアス度は微妙なところだと思うのですが、国の精神的な柱として、国民の心をまとめる立場の人間としては、重大な問題であるということは想像がつきます。その治療士として、オーストラリア人が選ばれ、皇太子との信頼関係を築いていくという過程をコミカルに、そして細やかに描いています。バーティとライオネルの心の機微を丁寧にくみとっていく展開が見事な一方、ドラマとしての密度は高く、おだやかだけど映画的興奮があるのが見事だと思います。主演二人への描きこみが深い分、他のキャラが脇に追いやられてしまったのは痛し痒しと言ったところでしょうか。私のごひいきである名優ヘレナ・ボナム・カーターですら、二人の前に霞んでしまいましたもの。

バーティのどもりは、先天性のものではなく、子供の頃からの様々なストレスによるものだというのがわかってきます。左利きを無理やり矯正させられたり、兄との関係が、彼から言葉を奪っているようなのです。そうだとすると、物理的に舌のまわりをよくしようという治療では、うまくいきません。メンタルな部分での支援が必要となってくるのです。ライオネルはそういう治療法を技術的に確立していたわけではなさそうですが、バーティとの関係の中で、結果的にそういう効果が現れてきます。治療士と患者の関係を超えた関係は、どもりを完治させることはできなくとも、ライオネルがバーティの心の支えとなって、国王のスピーチをサポートすることになるのでした。

ドラマの背景として登場する、ジョージ5世の死から、兄のアルフレッドの王位継承を巡るお家騒動、あるいはヨーロッパにおけるヒトラーの台頭といった事件は、かなりシリアスな問題ではあるのですが、この映画は、それをあくまで、バーティとライオネルの友情を高める要素としてしか使っていません。二人の関係だけに、ドラマを絞り込んでいるのですが、その結果、映画の味わいは、ライトでどこかのほほんとしたものになりました。いわゆるラブコメの定石をあてはめているようにも感じました。歴史の激動期を舞台にしているのに、このほんわかした雰囲気の映画が、オスカーを取っちゃったってところに意外性を感じてしまいました。

コリン・ファースとジェフリー・ラッシュの二人は、さすがに達者なところを見せ、国王と治療士という肩書きをうまく背後に回して、個人対個人の信頼関係の物語を前面に出すことに成功しています。一つ間違えると、王室スキャンダルものになりかねないところを、うまくすりぬけて、わかりやすくて共感しやすい人間関係のドラマに仕上げているのは、演出のうまさだと思います。脚本もいいのでしょうけど、全体を流れるいい感じに抑制されたタッチは、演出によるところ大だと思います。

脇役陣では、いつもはコミカルな役どころが多いティモシー・スポールが、チャーチルをモノマネ芸風に見せているのが、印象に残りました。デレク・ジャコビやマイケル・ガンボンといった面々がイギリス映画らしいアクセントをつけているのもマルで、映画としての満足度はかなり高かったです。全体に楽しかったですしね、刺激の強い映画は年のせいか食傷気味だったので。

「RED」はそこそこの面白さ、でもこの顔ぶれにしては何だかなあ

今回は新作の「RED」を丸の内ピカデリー2で観てきました。ここはスクリーンが大きいのはいいのですが、間口の割りに奥行きがない映画館で、ベストポジションがかなり後ろの方になります。またフラットな映画館なので、もうちょっとだけスクリーンを上に上げてもいいかも。

フランク(ブルース・ウィリス)の楽しみは役場の年金課のサラ(メアリー・ルイーズ・パーカー)とのおしゃべり。そんなフランクの家に重装備の男たちが現れて彼を殺そうとします。フランクはかつてCIAで汚れ仕事をしていた男です。事情が飲み込めないものの、このままではサラも危険だと彼女の家へ行って拉致しちゃいます。一方、彼を殺すように上司から指令を受けたCIAのクーパー(カール・アーバン)も行動を開始、フランクの跡を追います。フランクはサラを連れて、かつての同僚ジョー(モーガン・フリーマン)、マーヴィン(ジョン・マルコヴィッチ)を訪ね、彼らの協力を得て、なぜ自分が狙われたのかを調べ始めます。すると、1981年のグアテマラでの村一つを殲滅させた作戦に関わった人間が次々に殺されている事実にたどり着きます。CIAに乗り込んで、資料を調べてみると、そこには謎の人物の存在が示されていました。フランクたちはさらにヴィクトリア(ヘレン・ミレン)の協力を得て、謎の核心に迫るのでした。

「フライトプラン」「きみがぼくを見つけた日」というつかみどころのないフィルモグラフィを持つロベルト・シュベンケ監督の新作は、グラフィック・ノベルを豪華キャストで映画化したアクション映画です。冒頭は、フランクとサラが電話でダラダラと話してるところから始まるのですが、すぐにドンパチが始まって、そこから先はウソみたいというか、マンガのような展開となります。敵は次々と殺し屋を送り込んでくるのですが、それをバッタバッタとやっつけていくロートルの皆さんという図式。メインのストーリーは影に隠れてしまって、豪華なキャストのお遊び的展開を楽しむ映画に仕上がっています。

ブルース・ウィリスが年金生活者というのはあまり説得力がないのですが、モーガン・フリーマン、ジョン・マルコヴィッチにヘレン・ミレンといった名優陣が、マンガチックな演技で楽しませてくれます。ロートル陣の怪演によって、他の曲者脇役陣の好演もかすんでしまった感があります。お話の方は、なぜ命を狙われるのかわからないというミステリー仕立てはあるのですが、物語としての面白さはあまり感じられず、演技陣の見せ場をながめるという作りになっています。

アクションシーンは、CGを使ったマンガチックなものが多く、役者の演技との統一感がないのは、演出の責任でしょう。せっかくの役者を揃えて、そんな仕事しかさせられないの?という感じなのです。ジョン・マルコビッチが画面の隅にいるときも妙な存在感を示して、それはおかしかったのですが、モーガン・フリーマンとかヘレン・ミレンなんて、あまりいい扱いをされていません。お久しぶりのメアリー・ルイーズ・パーカーも魅力的でしたけど、彼女のよさもあまり出なかったような気がします。悪役のリチャード・ドレイファスに至っては、かなりもったいない扱いでした。

マンガチックな展開を名優たちが演じるという趣向は、ちょっと見は面白そうではあるのですが、コミカルとシリアスの配分が難しいネタでもあります。この映画では残念ながら、脚本を演出がこなしきれていないという印象で、もっと役者のキャラを立てて重量感を出すか、あるいは思い切りテンポをよくしてリッチなドタバタを見せるかしてくれたらなあって気がしちゃいました。何だか、中途半端なのですよ。エンタテイメントと一言で言い切るにしても、そのアプローチは様々なんだなあって気づかされる映画でした。どっかに徹する思い切りみたいなものがないと、ゆるいエンタテイメントになっちゃうんだなあって。まあ、そこそこの映画に仕上がっていますが、役者の豪華さで期待させた分、ハードルが上がってしまったって感じでしょうか。

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Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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