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「アリス・クリードの失踪」は限定されたシチュエーションで見せるサスペンス


今回は、有楽町のヒューマントラストシネマ有楽町シネマ2で「アリス・クリードの失踪」を観てきました。62席の小さな映画館だけに、スクリーンもちっちゃい。フロアにもう少し傾斜をつけるかスクリーンを上に上げてくれるとありがたいのですが。

アンちゃん(マーティン・コムストン)とおっちゃん(エディ・マーサン)の二人組みが部屋を改装しています。窓をつぶして、ベッドを運び込み、手錠とか銃とか物騒なものを準備しています。そして、服を着替えて、でかいバンに乗って「行くぞ」。次のカットでは、ネエちゃん(ジェマ・アータートン)を車に押し込んで走り出します。そして、部屋に運び込んで、ベッドに縛りつけ、全裸にして写真に撮ります。彼女、アリスは誘拐されてきたのです。彼女はジャージを着せられて、手足をベッドに固定され、顔には袋を被せられた状態で監禁されます。おっちゃんは、この類の犯罪のプロみたいで、アンちゃんにあれこれ指図しています。どうやら、アリスの父親は大金持ちで、身代金目当ての誘拐みたい。アンちゃんの方はどこかこの仕事に迷いがあるのか、おっちゃんにハッパかけられてます。ところが、おっちゃんが外出したとき、ネエちゃんが大の方をしたいと言い始めてから、様子がおかしくなってくるんですわ。果てさて、この誘拐、うまくいくのか、果たして人質の運命やいかに?

イギリスのJ・ブレイクソンの長編初監督作品で、脚本も彼が書いています。登場人物がたった3人だけで、誘拐劇を作るってのは、なかなかにチャレンジャーですが、最後まで3人だけでお話を引っぱって行くあたりは、実力もあるみたいです。舞台となるのは、監禁部屋と後、森と倉庫みたいなところくらいですから、かなりの低予算とお見受けしますが、それでも、最後までテンションを維持して、緊張感のあるドラマに仕上げたのはさすがというべきでしょう。シネスコサイズの画面で、登場人物のアップと引きのバランスの良さは、フィリップ・ブローバックのキャメラの功績でしょう。

たった3人でどうドラマが展開できるのかというと、作りとしては、色々な新事実を観客に見せていくことによって、それが次の展開への興味をつないで行くという構成を取っています。登場人物が知恵を絞ったり、駆け引きしたりという「探偵スルース」的なものを期待すると、肩透かしを食らっちゃいますけど、二転三転するドラマはなかなか面白く、最後まで楽しめる映画に仕上がっています。とは言え、登場人物に感情移入できる人間はいませんし、キャラもきちんと描けてはいません。ブレイクソンの演出は、お話の展開だけで、物語を語りきろうとしていまして、ドラマとしての深みはありませんけど、その分、お話の捻りを効かせて、娯楽映画としての点数を稼いでいます。マーク・カンハムの音楽が、アンビエントとノイズ系の音で、殺伐とした誘拐劇を盛り立てています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



大の用を足したいというネエちゃんに、アンちゃんは縛っていた縄をはずすのですが、その時、ネエちゃんが逆襲して、アンちゃんの銃を奪ってしまいます。そこで、アンちゃんが覆面を取ったら、ネエちゃんびっくり「あんたダニーじゃない」。どうやら、二人は恋人同士だったらしく、ダニーは、おっちゃんのヴィックと刑務所で知り合い、誘拐のターゲットにアリスを推薦したのでした。彼女は、親から勘当同然の状態で、奪った金で一緒にどこかへ逃げようと言い出すダニー。そこへ、ヴィックが戻ってくるのですが、ここでコトがばれると、アリスもダニーもヴィックに殺されちゃう。ということに、彼女も納得したのか、元の監禁状態に戻されることに同意、ダニーとアリスのやり取りはヴィックには知られずに済みます。ところが実は、ヴィックとダニーは刑務所で恋仲だったのです。おっちゃんがアンちゃんに「愛してる」ブッチュー。

ダニーの本意はアリスにあるようなんですが、そこんところは曖昧のまま、またヴィックが外出。二人きりになったアリスとダニーはコトの及ぼうとするのですが、その一瞬のスキをついてアリスが逆転、警察に電話しちゃうのですが、ギリギリのところでアリスはダニーにつかまってまたベットに拘束状態。いよいよ、身代金交換に臨んで、ダニーとヴィックは、アリスを別の場所に移動して、また拘束監禁。身代金の場所に向かうダニーとヴィックですが、そこには金はありませんでした。ヴィックは、ダニーを殺すつもりで、金の渡し場所でないところに彼を案内したのです。ヴィックはダニーを撃つのですが、致命傷に至らず、そこで、金を受け取って、アリスのところに行き、彼女を殺そうとするのですが、そこに瀕死のダニーが現れてヴィックを射殺。ダニーはアリスを助けるかと思いきや、見捨てて逃げてしまいます。死ぬ直前のヴィックがアリスに拘束の鍵を渡して、彼女はやっと脱出。外に出れば、ダニーは車の中で死亡。アリスは、身代金とともに車でいずこへともなく消えていくのでした。ここで、初めて「アリス・クリードの失踪」とタイトルが出ます。なるほど、納得したところで、スタイリッシュなメインタイトルになり、エンドクレジットが続きます。

3人の関係を小出しにしていく展開で見せて行く方法は成功しています。まあ、3人が三角関係だったというのはやり過ぎの感もありますが、意外性はありましたもの。三角関係の頂点にいるダニーがカギを握ってるのかと思いきやそうでもなかったのは、ちょっと残念。ラストで拘束状態のアリスを見捨てちゃう意外性はありましたけど、生身の人間の心理ドラマというには、説得力を欠いてしまったのは、脚本の限界なのかもしれません。人間の奥行きが描けないなら、犯罪そのものに焦点をあてたサスペンスで走ったほうがよかったかも。何しろ、誘拐という犯罪自体は、全然描かれません。警察は出てこないし、アリスの父親との駆け引きも全く描かれず、誘拐ではなく、3人の力関係だけでドラマが進んでいくのです。その関係の緊張感を最後までキープしたブレイクソンの演出はうまいと思いました。アイデア勝負の映画ではあるのですが、脚本はもっと膨らましようがあったのではないかしら。

役者はそれぞれ好演してまして、アリスを演じたジェマ・アータートンは、他の映画ではストレートなヒロインを演じているらしいですが、ここでは、美形じゃない、性格もよくない、あるある系ビッチを演じてうまくはまりました。男性陣二人はゲイっぷりが説得力あってうまいと思いました。

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「メアリー&マックス」は辛い部分もあるお話をアニメによってリアルに描いてます



今回は出張先の仙台チネラヴィータ2で「メアリー&マックス」を観てきました。昔とは場所が変わってスクリーンも3つに増えてましたけど、ちっちゃな劇場なのは同じでした。63席で、スクリーンの下に3つスピーカーが剥き出しで置いてあって、壁面のスピーカーもありますが、奥行きのない横に長い映画館。映像から察するにプロジェクターによる上映だったようです。

1979年のオーストラリアの田舎町に額にウンコ色のあざのある8歳の少女メアリーが住んでいました。いじめられっ子で友達もいない女の子。ある日、彼女はたまたま見かけたニューヨークの電話帳から一人の名前を選び出し、手紙を書きます。自分のころ、そして赤ちゃんはどこから来るのかという疑問。その手紙を受け取ったのは、44歳のマックスという過体重者のセミナーに通う中年男。彼は、その手紙の内容に驚き、そして喜んで返事を書きます。彼は変わり者ではありましたが、根は善良な男でした。そんな、メアリーとマックスの文通が始まります。途中で中断があったものの、それは何年も続きます。メアリーは恋に落ち、大学に進学し、結婚までします。マックスは精神の病で入院したり、宝くじが当たったりと、お互いいろいろとあるのですが、手紙のやり取りは二人にとって大事な絆となります。しかし、メアリーのとった行動がマックスを怒らせ、二人の関係は途絶えてしまうのでした。

オーストラリアのアニメーション作家アダム・エリオットが脚本、監督した、長編クレイアニメーションの一編です。手紙のやり取りが中心という動きの少ないドラマで94分というのはアニメとしては長い部類に入るのではないかと思います。ナレーション中心で進む淡々とした展開は、最初はとっつきが悪いのですが、いつしか引き込まれてしまいました。

この映画に登場するキャラクターはみんな美しいというよりブサイクにデフォルメされていて、また、絵に描いたような善人も出てきません。人間の持つグロテスクな顔を前面に出したような所もあり、それは、ブラックユーモアとリアルの間のギリギリのラインで描かれます。メアリーはいじめられっ子で屈折したところがあり、マックスは偏屈な中年男、彼らの周囲の人間もどこか変、そしてどこか欠けてる人間ばかり。メアリーの父親は剥製が趣味で、母親は万引き常習犯のキッチンドランカー、マックスの隣人のおばあさんはモウロクしちゃってますし、素直に共感できる人は出てきません。唯一、メアリーの向かいに住む両足のない老人ヒスロップさんが、メアリーの味方で土壇場で彼女を救うのです。

メアリーは、マックスからの手紙を楽しみにしているのですが、一方のマックスは彼女の手紙に振り回されてしまいます。彼は、アスペルガー症候群と呼ばれる心の病でした。人の感情を読み取ることが難しく、普通の人以上に繊細で、時としてそれは彼を気難しい人間にしていました。他人の感情が理解できなかったり、パニック状態になってしまうマックスでしたが、それでも、彼は彼女の手紙に返事を書くためにタイプライターに向かいます。お互いの共通点は、同じアニメ番組が好きで、そしてチョコが大好きだということ。お互いに手紙で自分のことを語っていくのですが、それによって彼らがどんな人生を送っているのかが見えてきます。

メアリーはちょっと変わった女の子という印象ですが、マックスの状況は深刻でした。二人とも恵まれた環境にいるとは言い難いのですが、それでも何とか生きています。この映画の面白いところは、その生きる事の力加減の見せ方にあるのかもしれません。淡々と歩んでいけない、でも力一杯走れない、そんなもどかしいような人生が、手紙のやり取りの中から浮かび上がってきます。心の病ということでは、そっち方面の薬のお世話になっている私には、マックスの境遇は他人事ではないのですが、彼って、メアリーと文通してるし、宝くじが当たったりするし、結構恵まれているよなって気もします。ただ、自分をうまくコントロールできない辛さ、「思うように動けない」のではなく「思うように思えない」痛みはこの映画の中でうまく表現されています。

クレイアニメーションというと、「ウォレスとグルミット」が有名ですが、あんなかわいいキャラはこの映画には登場しません。人間も動物もグロめにデフォルメされていまして、ちょっと見に愛すべきキャラは登場しません。主人公からして欠点だらけで、その行動も共感を呼ぶものだけではありません。でも、その共感できなさが、デフォルメされたクレイアニメーションによって、拒否反応を緩和しているのです。同じ話を、人間が演じるドラマで作ったら、見ていて辛いだけの映画になっていたことでしょう。人間ドラマにしたら、逆にここまでリアルに描くことはできなかった、やったら誰も見たくない映画になってしまったと思います。そこで、文通だけをクローズアップするドラマにもできたでしょうが、そうすると生の人間としてのメアリーとマックスが見えてこなくなりますから、題材と表現手段のギリギリのせめぎあいの中から生まれた映画なのかなって、気がしました。モノクロベースに部分着色したような色使いも現実とファンタジーの狭間を表現しています。アニメのデフォルメの力はこういうところにもあるのかって、改めて気づかされました。この先の展開も生身の人間が演じたら、結構きついですもの。



この先は結末に触れますのでご注意下さい。



メアリーは大学に進学し、優秀な生徒として精神医学を学びます。そして、ギリシャ人のダミアンと結婚し、マックスの事を題材にアスペルガー症候群の論文を書き、その論文は高く評価され、何と本として出版されることになります。その初版本をつけた手紙をマックスに送るメアリー。でも、彼からの返事は、タイプライターのMのバーでした。彼は驚き、混乱し、そして怒ってました。メアリーは自分の行動を後悔し、出来上がった本を全部処分してしまいます。一方、彼女の夫は文通相手を好きになって、ニュージーランドへ行ってしまいます。メアリーは謝罪の手紙を書くのですが返事は来ず、生活は荒んだものになり、かつての母親のように酒びたりの日々。一方のマックスは、メアリーの手紙を無視していたのですが、ある日、いらだった彼が、タバコの投げ捨てをしたホームレスに怒り、首を締め上げた時のホームレスの「ごめんなさい」の一言に、メアリーの謝罪の気持ちに気付くのでした。彼は、もう一度、メアリーにプレゼントつきの手紙を書きます。一方、メアリーは人生に絶望し、精神安定剤をしこたま飲んで、首を吊ろうとしています。間一髪、マックスからの手紙とプレゼントが届き、彼女は人生を取り戻すのでした。1年後、彼女は赤ん坊を連れて、ニューヨークを訪れます。彼のアパートに行くと、彼は息を引き取っていました。そして、メアリーは部屋の天井一杯に彼女の手紙が貼られているのを見つけるのでした。おしまい。

メアリーの行動は、マックスを傷つけてしまうのですが、最終的に彼はメアリーを赦します。それは、彼女が、彼にとって、一番大事なたった一人の友人だったから。誰もが欠点を持っているが、それも自分の一部として受け入れることの大切さをマックスは悟り、メアリーに伝えます。ハッピーエンドとは言い難い結末なのに、メアリーとマックスがお互いの、そして自分自身の大切さを確認できたことで、穏やかな後味が残ります。

短い文章の中で書ききれないくらい、細かいエピソードの積み重ねで成り立っている映画でして、その各々がつながって、二人の人生が細やかに描かれています。いいことと悪いことを並べたら、悪いことの方が多い人生ですが、それでも、自分を受け入れることで穏やかに生きることができる、そんなメッセージが聞こえてくるお話は、見終わって時間が経ってからじわじわ来るものがあります。ちょっと、とっつきは悪いので、愛すべき映画とは言い難いのですが、愛されるべき映画になっています。

主人公の声をトニ・コレット、フィリップ・シーモア・ホフマン、メアリーの夫の声をエリック・バナと有名俳優が演じているのですが、映画を観ているときは全然気づかない、というより気にならないくらい、映像とマッチしていました。


「メアリー&マックス」予告編ですが、これはキレイに感動の映画みたいにまとめてます。ホントはもっと痛みや気色悪さのある映画です。

「ブルー・バレンタイン」はダメそうな予感がやっぱりそうなの?というお話かな

今回は、東京での公開が終了している「ブルー・バレンタイン」を横浜ニューテアトルで観てきました。ここはこの後「キッズ・オール・ライト」「スーパー」なんてのを上映してくれるようで、ラインナップから目が離せません。

一軒家に住むディーン(ライアン・ゴズリング)とシンディ(ミシェル・ウィリアムス)には一人娘のフランキーがいます。ディーンはペンキ塗りの仕事でそれほど稼いでいるようには見えませんが、フランクは父親の方になついています。一方シンディは、看護師として忙しく働いていて、新しい病院への異動を打診されていました。一家の愛犬がおりから逃げてその後死骸が発見されます。気分的に落ち込み気味の二人ですが、ディーンがラブホテルで酒飲んで忘れようという提案をします。シンディはあまり乗り気ではないのですが、しぶしぶダンナに従います。でも、ディーンは結構気難し屋でして、ホテルの途中のスーパーで、シンディが昔の彼氏と会ったことが気に入りません。ホテルについてからも、どこか会話がぎこちなくて、何だかダメなんじゃないこの夫婦?という予感。彼らの過去もだんだんと語られていきます。二人の出会いは、ディーンが引っ越しやのバイトで、シンディが医学生だったとき、シンディのおばあちゃんの養護施設で出会います。その頃、シンディには彼氏がいたのですが、今一つうまくいってなくて、一方、ディーンは彼女に運命的出会いを感じてしまうのでした。そして、意気投合する二人、そして、シンディは妊娠してしまいます。相手は元カレみたいなんですが、彼女は堕胎する決意をし、一度は手術台まで上るのですが、土壇場で拒否。一緒に病院にきていたディーンは、彼女に「家族になろう」とプロポーズ。そんな、馴れ初めの夫婦なんですが、果たして昔のような関係に戻れるのかしら。

タイトルからして、新しいドラッグの映画かと思ったら、中年夫婦のやるせない日々を扱ったドラマでした。ラブストーリーと言えばラブストーリーになるのかもしれませんが、中年に差し掛かった夫婦がどうにも噛み合わない様を見せられる映画です。ただ、その間に、二人の過去が挿入され、なるほど、そういう経緯で夫婦になったのねってのがわかるようになっています。映像は、暗めのアップの絵が多くて、圧迫感というか息苦しさを感じさせる絵になっていまして、「どうにもならない」感が全編を支配しています。

一家の朝のシーンが印象的で、ディーンとフランキーが仲良くふざけているのを、シンディが学校へせきたてるのですよ。ディーンは、朝からビール飲んでも仕事になるし、学校のイベントにもきちんと行けるくらいの余裕があるみたい。一方のシンディは看護師の仕事で、それなりに力量を評価されているみたい。ダンナは娘とうまくいってる割には、カミさんに対して気難しい態度を取り、シンディはそういうダンナへの気遣いに疲れてきているように見えます。ラブホテルで酒飲んで愛し合おうというディーンなんですが、これがシンディにとってはすごく矮小なつまらない男のように見えてるみたいなんです。ホテルでの会話で、「あなたは色々な才能があるのに何かしないの?」と聞かれて「夫であり父であり、家族が一番大事」と答えるあたりの噛み合わない会話は、痛々しいものがあります。どっちがいい悪いではなくて、ホントに噛み合ってないんですもの。いい悪いの問題だったら、どちらか善処するということもできるのですが、単に噛み合わないのでは、どうにもすり合わせようがありません。

現在のドラマと並行して、過去のいきさつが語られます。運命的な出会いがあり、たまたまシンディと彼氏の間が微妙になっていたこともあって、一気にラブラブになります。でも、そのプロセスの中に現在のシーンの伏線があちこちに散りばめられています。ディーンの才能ありげで実は凡人なところ、妊娠をめぐるシンディの優柔不断さ、シンディの家庭の空気が悪くて幸福な家庭へのあこがれが強いこと、ディーンのあまり後先考えてない生活感、それらの要素が、現在の二人の関係の中にきちんと反映されてしまっているのです。ある意味、理詰めに攻めてくるストーリーと呼ぶこともできましょうが、そこまで、腑に落ちてしまうと、むしろ人間、割り切れない部分があるんじゃないの?という突っ込みも出てきてしまいます。やはり、人間、なるようにしかなれないというお話なのかもしれません。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



結局、ホテルの寝室から締め出されてしまったディーン。朝が来て、電話で目覚めたシンディはディーンをそのままにして仕事に出かけてしまいます。後から目を覚ましたディーンは、彼女を追って、勤務先の病院にまで押しかけて喧嘩の続きをしようとし、仲裁に入った医者を殴ってしまい、シンディはクビを宣告されてしまいます。娘を引き取りにシンディの実家へ行く二人。そして、離婚しようというシンディに、泣きを入れて、何とか元に戻そうとするディーンですが、シンディはもう我慢の限界だと言い切ります。シンディの実家を立ち去ろうとするディーンに娘のフランキーがついて行こうとしますが、それをシンディが引き離します。歩いて画面の向こうに去って行くディーン、その向こうでは建国記念日の花火が上がろうとしていました。暗転、クレジットは花火と映画のシーンのコラージュになっています。

ディーンがシンディの勤務先にやってくる時点で、ああダメだなと思わせるのですが、これがもうそのまんまの醜態をディーンはやってくれます。二人は、決して悪い人間だとは思わないのですが、このディーンの行動だけはやっちゃダメの典型です。どうにも、切ないものがあるのですが、お互いが引け目を持っている関係は、時間をかけてゆっくりと壊れていくんだなあって気づかされる映画です。もともと、キャリア志向で医者になりたがっていたシンディに対し、バイトのディーンは自分たちに不釣合いさを感じていました。一方のシンディは、実の父親ではないディーンに子供の父親になってもらうことに引け目があったようです。それでも、娘のフランキーを間に置いてうまく回っているように見えた関係が実は少しずつ壊れてきていたらしいことが見えてきます。私はシングルなので、夫婦間の機微や駆け引きはまるでわからないのですが、なるべくしてなってしまったような結末に見えてしまいました。

映画の見せ方が、過去の回想で、今の二人がなぜこうなったのかをきれいに絵解きしていく構成になっているのですよ。普通のラブストーリーなら、そこに映画の魔法を使って、ハッピーエンドに持っていくのですが、この映画は、クールに「だからやっぱりダメでした」という締め方になっています。主演の二人は、ダメの種を仕込んだ普通の男女を丁寧に演じています。ライアン・ゴズリングは「ラースとその彼女」のラースですが、家族を愛することにすがってしまう弱さを好演しています。ミシェル・ウィリアムスは、好きな人には「スピーシーズ」のモンスターの幼女時代を演じて有名なんですが、こちらも普通の女性を演じて見応えのある演技を見せます。要は、二人とも特別な人間のようで、特別でも何でもない凡人なのです。恋愛中は、お互いが特別な存在に見えちゃうけど、時間が経つとお互いの普通さがわかってきちゃいます。それでも、相手を愛することで、「相手は特別な存在である」と信じることも可能なのかもしれませんが、この映画では、それがうまくいかなかったようです。でも、もう一つ、相手への期待をあきらめるという選択肢もあるのですが、あきらめを選択するのに、二人はまだ若いのではないのかなって気がしました。色々な形での再生の物語がこれから始まるのではないかと思わせるエンディングでした。

「神々と男たち」は事件実録モノというより、修道院の暮らしぶりに発見がありました

今回は、東京での公開が終了している「神々と男たち」を横浜シネマジャックで観てきました。デジタル上映の多い映画館ですが、今回はフィルムでの上映。やっぱ、オヤジ的にはフィルムだよなあ。

1990年代のアルジェリア、山沿いの村にカソリックの修道院がありました。村の住民はイスラム教徒なのですが、彼らと良好な関係を持ち、修道院内の診療所には、たくさんの村の人がやってきます。しかし、イスラム過激派による外国人殺害は、この村の近所で起こっていました。アルジェリア軍と過激派の抗争も激化の一途をたどっており、アルジェリア軍が修道院を警護すると申し出てきますが院長のクリスチャン(ランベール・ウィルソン)は拒否します。そんなある夜、過激派の男たちが修道院に現れ、医者と薬をよこせといいますが、院長はそれを拒否します。過激派のリーダーは聖職者に対する敬意を示し、その場はなんとかおさめることができましたが、以降、修道士の間にも不安が増し、フランスへ帰ることが話題にのぼるようになってきます。村人にとっては、修道所は村の中心であり、それがなくなることはあり得ないと言います。最初は、帰国を口にしていた修道士たちですが、最終的に全員が修道院に残ることを選択します。ある日、他の修道院からの支援物資が届きます。それを運んできた修道士と共に食事となり、そこでラジカセで「白鳥の湖」が流れます。そして、その夜、事件は起こるのでした。

実際に起きた、武装イスラム集団によるカソリック修道士殺害事件をもとにしたフランス映画で2010年カンヌ映画祭グランプリを受賞しています。グザヴィエ・ボーヴォワが共同脚本と監督をしています。アルジェリアと言えば、かつてフランスの植民地であり、その独立にあたっては多くの血が流されたことで知られています。そして、この事件の当時は、アルジェリアは内戦状態にあり、イスラム原理主義の武装集団とアルジェリア政府は対立状態にあり、フランスは政府側と協調路線を取っていました。ですから、アルジェリア軍は、修道士たちを保護しようとし、政府側は、彼らに帰国するように何度も説得していました。武装集団は、コーランの教えから外れる行動をとる市民や外国人を次々に殺害していました。(政治的位置関係からテロリストと言ってもいいでしょう。)彼らの存在は、一般市民に動揺を与え、精神的に追い詰めていきます。外国人の異教徒である修道士は、さらに危害を加えられるリスクは大きかったのです。

映画は、日々の修道士の暮らしを淡々と追っていきます。畑を耕し、聖歌を歌い、黙想する、その繰り返しを描く一方で、不安な影のエピソードが挟みこまれていきます。でも、村人との交流や、村の美しいロケーションの方が印象に残るようなつくりがされており、そんな日々の中で、修道士の各々の想いが交錯することとなるのですが、かれらはあくまで、宗教家であり、神に仕える身だという立場を崩しません。生命の危険にさらされている人間ですが、その危険から距離を置き、自らの使命に対して従順であろうとします。世間話の中で、心情が吐露されるといったシーンはなく、全編が静かな緊張感の中で展開しますので、彼らの思うところがどの程度のものだったのかは察するしかないのですが、卓を囲んだ修道士たちが、最終的に修道院に残ることを決意するシーンなど、あまりにも淡々とした会話で行われるので、逆に彼らの想いの強さを感じることができます。

修道院の診療所では、時には武装集団の人間の怪我の治療をすることもあります。また、アルジェリア軍がときに修道院に乗り込んできて、不審者がいないか確かめに来ることもあります。修道士はあくまで中立の立場で行動しているようで、政府の役人との会話でも政治的発言は控えています。そこまでして、彼らを修道院に引き止めるものは何なのでしょう。使命感という言葉では片付けられない、何か内側から湧き出る感情が彼らを動かしているようなのです。宗教にうとい私には理解できない部分なんでしょう、ここは。(何しろ、神との契約の意味すら理解できてないので。)

そして、「白鳥の湖」を聞きながらの晩餐の夜、イスラム武装集団が、修道院を襲撃し、9人いた修道士のうち7人が拉致され、彼らはフランス政府との交換用人質とされてしまいます。雪の山の中を武装した男たちにせかされて進む7人の修道士たち、彼らが雪の向こうに見えなくなるところで、暗転、その後、彼らが殺害されたという字幕が出て、エンドクレジット。

事件の背景は、700円のパンフレットを読んで、やっと理解できたのですが、その歴史的背景を知らなくても、ドラマを堪能するのに問題はないと思います。むしろ、聖職者という人間がどういう動機で、その仕事を選び、どういうモチベーションでその使命を維持しているのかという点に重点が置かれているので、そっちの感度が低いと、私にとってのように、敷居の高い映画になってしまいます。そんな私にも印象的だったのが、聖歌を歌うシーンがたくさん登場することでした。歌というものに、特別な力があると思っている私にとって、聖歌が彼らの心の大きな支えになっていることは理解できました。修道院の近くにヘリが爆音を立てて近づいてきたとき、やはり彼らは聖歌を歌うのです。祈りの心を合わせるという意味があるのかもしれません。

演技陣では、院長のランベール・ウィルソンと、医師でもある修道士リュックを演じたミシェル・ロンスデールが印象的でした。高貴さを感じさせる意思の強さを見せる院長をウィルソンは熱演していますが、コミカルな人間味を見せるリュックが儲け役とは言え、ロンスデールの腹芸が光りました。昔は、悪役専門みたいなイメージのあるロンスデールですが、近作「アレキサンドリア」やこの映画では、貫禄と人間味のバランスのとれたキャラを好演しています。キャロリーヌ・ジャンプティエの撮影は、修道院の内部の絵をシネスコサイズにきれいに切り取り、渋い光の中の修道士たちの姿を一幅の絵のように描き出しています。

「さや侍」は意外と言えば意外、でも期待してたのとはちょっと

今回は、新作の「さや侍」を川崎チネチッタ6で観て来ました。ここは基本はフィルム上映なんですが、上映前にドルビーデジタルのロゴが出ますので、フィルムだと確認することができます。ただ、ロゴのフィルムが2003年以来のSTOMPバージョンで、フィルムに雨降っちゃってます。

妻の死から、脱藩して逃亡生活を送っていた野見勘十郎(野見隆明)は、多幸藩でついに捕らえられてしまいます。娘のたえ(町田聖亜)は、刀を持たずさやだけを腰にする父親を武士として恥ずかしいと思い、何かあると「自害なされまし」と言うかわいげのない女の子。その藩の決まりで、野見は三十日の業というのをやらされることになります。30日、1日1ネタずつやって、それで若君が笑ったら無罪放免。30日やっても笑わなかったら切腹という決まり。若君は母親をはやり病で亡くしてから、笑顔を失っていて、殿様(國村準)はそれが気がかりだったのです。牢番の倉之助(板尾創路)らとともに生き延びるためのネタを考えることになる野見ですが、本人にやる気があるのかないのかよくわかりません。最初は、自害を勧めてばかりいた、たえですが、若君を笑わせることに協力するようになってきます。しかし、若君はなかなか笑いません。そして、ついに30日めを迎えることになります。

松本人志の脚本、監督による新作です。彼の映画は、「大日本人」「しんぼる」と観ましたけど、映画というメディアを使って、やりたい放題をやっているという印象があります。観客を楽しませることよりも、自分の思いつきを具象化することを重視しているという感じでした。そこが、面白いところでもあり、お客に無愛想な映画でもあったのですが、今回は、予告編を観ると、時代劇で、女の子が出てきて、感動方面へ向かっているふしがありました。特に小さい女の子を出してくるあたり、今の流行(芦田愛菜ちゃんとか)に迎合しているようでもあり、これまでとは毛色の違う映画になっているのかという予感がありました。主演の野見隆明というのは、素人さんということで、あまり演技をさせていないというところに、松本映画の予感が伺えました。

冒頭で、山道をぜいぜい言いながら走る主人公が登場し、それを娘がついてまわるという展開になります。彼は、刀を捨てて、さやだけを持っています。それが、どういう意味があるのかは、最後まで語られることはありません。3人の賞金稼ぎが彼の命を狙うのですが、ことごとく失敗。そして、ある晩、勘十郎はあっけなく捕らえられてしまいます。そこから、三十日の業なるものが始まるのですが、いわゆる一発芸を見せて、若君が笑えばOK,笑わなかったらNG、そして、30日30ネタやっても笑わないときは切腹というルールです。まあ、バカバカしい設定ではあるのですが、1日1ネタの行が始まります。最初は、まるで受けなかったのですが、たえが協力するようになり、そのネタ見せを町人にも公開でやらせてくれと提案することになって、お話はだんだん元気が出てきます。

やることも、最初は小ネタだったのが、次第に大仕掛けになっていきます。相変わらず若君は笑わないのですが、殿様は結構面白がって見ています。そして、30日め、若君の好きなものが風車と聞いて、大きな風車を回すというネタに挑戦します。神風が吹いて、風車は回り始めたものの、結局は、若君を笑わせることはできません。しかし、殿様としては、このまま、この男を殺すのは気の毒と思い、明日の切腹のその時までに笑わせればよいという猶予を与えます。

ネタもだんだんとバカバカしさが増してきて、そこそこ笑えるものになってくるのですが、その間にドラマ的な展開はあまりありません。「自害なさって下さい」と言ってた娘のたえが、「父は刀なしで闘っているのです」と言い切るようになるのですが、そこはお約束の範囲でして、30日めのネタで結局笑いが取れなかったところで「おや?」というドラマが生まれてきます。ところがこの先で、松本監督はやりたい放題やるのですが、どうも私には、話がしぼんでしまったように感じました。「大日本人」や「しんぼる」にあった「なんじゃこりゃ」と思わせるパワーが息切れしちゃったみたいなんです。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



いよいよ切腹の場となり、辞世の句で笑いをとってくれるのではないかという期待で、殿様も町民も固唾を飲んでいます。殿様は、若君を傘で隠して、笑わなくても笑ったことにして放免してやろうとまでしています。しかし、勘十郎は何とホントの切腹しちゃうのですよ、そして、介錯人を制して、切腹の刀を自分のさやに納めるのでした。そして、介錯。たえは一人でこれまで来た道をとぼとぼと歩いています。川のほとりにきたとき、そこに坊主がたえを待っていました。勘十郎は最後の日、彼に手紙を託していたのです。その手紙を読み上げる坊主。娘への想いを綴った手紙の内容は、やがて歌になり、坊主は歌い上げます。場面変わって、勘十郎の墓の前で手を合わせるたえ、そこに若君もやってきます。墓の後ろからおどけて現れる勘十郎、はしゃぐ子供たち。エンドクレジットの後、現代にも墓が残っているというカットが出て暗転です。

坊主が手紙を歌い上げるシーンは何だか感動的でもあるのですが、結局、勘十郎はたえに何もしてやれなかったのです。最初から、最後まで、たえに面倒をかけ続けたのです。うーん、ダメおやじなんだけど、それを感動的に盛り上げるのは、話をちっちゃくまとめてないかい?って突っ込み入ってしまいました。そもそも、非情な「切腹」という儀式と、「父が娘を思う気持ち」ってのが、どっか噛み合わないのですが、それがぶっとんでかけ離れているのかというと、ボタンの掛け違えみたいなレベルなので、奥歯にモノがはさまったような違和感が残ってしまいました。前二作は、ラストで変な方向にはじけちゃってるところがお気に入りだったので、ホントに切腹しちゃうところまではありなんですが、その先を親子愛に丸め込むのは、ホームランバッターがバントするみたいな妙な後味になってしまいました。

主人公を素人が演じたということを映画の話題にしてますが、この野見勘十郎を普通の俳優がやったら演技のしようがなくって困っちゃうんじゃないかなって気がしました。それくらい、キャラが不明なんですよ。唯一、切腹の時に介錯人を制して刀をさやに収めるシーンが演技のしどころなんですが、それ以外は、ただいるだけ。その分、娘のたえは演技過剰に見えて、ちょっと気の毒でした。なまじ、普通に展開させると、アラが見えちゃうから、玉石混交で観客の目をくらまして欲しかったのですが、私の期待とは違った映画に仕上がっていました。まあ、その期待に反するところを意外性と言い換えれば、意外な映画だと言うことはできます。

「処刑剣 14 BLADES」はよくできたチャンバラアクションに、ヒロインがマル

今回は新作の「処刑剣 14 BLADES」を横浜ブルグ13シアター11で観て来ました。ここは、当日券を自動販売機で買うので、好きな席を直接選べるのがありがたいところ。ここもほとんどがフィルムでなく、デジタル上映が中心で、この映画もデジタル上映でした。

中国の明王朝の時代には、錦衣衛(きんきえい)と呼ばれる秘密警察がありました。その指揮官である青龍(チンロウ)(ドニー・イェン)は14種類の剣を持つ達人でした。宦官ジオは、チン親王と結び、皇帝の証である玉璽を奪って、中原地域を手中に収めようと策謀していましたが、錦衣衛はそれに利用され、チン・ロウの部下は殺され、ロウはお尋ね者にされてしまいます。彼は運送屋ヨン(ウー・マ)の協力を得て、警戒網を潜り抜けようとしますが、追っ手に素性がばれてしまうロウ、手を引くというヨンに対し、ヨンの娘ホア(ヴィッキー・チャオ)を人質にさらって、さらに逃亡を続けます。ある宿場町にたどり着いたロウは、そこでジオたちが取引をすることを知り、盗賊団ウーズンの力を借りて玉璽を奪い取ろうとしますが、刺客トゥオトゥオが彼の命を狙ってきていました。

中国のいわゆる武侠ものというのに入るのでしょうか。武術が強くて、義理人情に厚い主人公による活劇です。ひらたく言えば中国チャンバラです。日本のチャンバラ映画と同様、お家騒動とか政争とかのバックグラウンドは、玉璽と言われる皇帝の印をめぐる争奪戦なんですが、そっちの込み入った話はどうでもよくって、主人公チン・ロウのかっこよさを楽しめればそれでOKという作品です。ダニエル・リー監督は、お話の込み入った部分はできるだけ端折って、主人公たちのアクションをたっぷりと見せてくれています。正直、ストーリーを追いきれない部分もあったのですが、それが映画に対する不満にはなりませんでした。追うもの、追われるものが明快で、そこにアクションをたっぷりと盛り込んであり、さらにヒロインの恋心まできっちりと描いているので、娯楽映画としての満足度はかなり高いです。

主人公のロウは、幼い頃から錦衣衛の候補となり、その訓練の中で、兄を殺したことが心の傷となっていました。大明十四刀というのを、いつも持っていまして、飛び道具込みのすごい仕掛け。それを使って、むちゃくちゃ強いロウが、罠にはめられて逃亡者になってしまいます。運送屋の一行を使って逃げ延びようとして失敗、そこで、運送屋の娘ホアを人質にとって、さらに逃げ延びることになるのですが、その道中で、ホアはロウに惹かれていきます。定番と言えば定番の展開なんですが、ヴィッキー・チャオがかわいいのですよ。可憐な美人系ヒロインではないのですが、愛嬌のあるヒロインぶりがこの映画でも、自由な心をもった女性を演じて、好感度大でした。「クローサー」の時のように派手なアクションは見せてはくれませんでしたが、ドニー・イェンを向こうに回してのヒロインぶりは見事でした。主役のドニー・イェンは、先日観た「イップ・マン 葉問」のような奥行きはなかったものの、ハードな人生を歩んできた武術の達人をストイックに熱演しました。ヒロインとの不器用な恋愛模様も微笑ましく、こういうチャンバラものの主人公にふさわしい名演と言えましょう。

アクションシーンは、CGやワイヤーも使っていますが、人馬を使った合戦のシーンも迫力がありまして、アクション監督のクー・ヒンチウは見せ場を盛り上げました。また、登場人物が色々な武器をとっかえひっかえ戦うところ、また、かなり長い格闘シーンをダレずに見せたあたりも工夫が凝らされています。ドラマの葛藤とアクションがリンクしていないという欠点はあるものの、そのエンタテイメントとしてのクオリティの高さはさすがだと思わされます。特に全身武器みたいなトゥオ・トゥオを演じたケイト・ツィの不気味な存在感が光りました。クライマックスは、ロウとトゥオトゥオの一騎打ちとなり、彼女の強さから、最後にロウは相討ちを選ばざるを得ませんでした。

ラストは、ホアのナレーションでエピローグが語られ、父の死後、正義護送屋を継ぐことになったホアがある日、夕日の向こうからやってくるロウの影を見つけるところで暗転し、エンドクレジットとなります。それが本当にロウなのかどうかは、はっきりとは見せないのですが、望み続けることで希望はかなうという彼女のナレーションが物語を締めます。

ロウは、何のために戦うのかというとき、尊厳だと答えます。それまで、錦衣衛というある意味、皇帝の親衛隊のトップだった男ですから、それまでやってきたことは必ずしも人に誇れるものではなかったのでしょうし、この玉璽の一件が済めば、自分は死ぬと悟っているところがあります。そういう生き方しかできなかった男が生き残り、生まれ変わったのだと思えば、ラストの希望をハッピーエンドと見ることもできましょう。

撮影のトニー・チャンは、砂漠をバックにシネスコサイズの美しい絵を切り取りましたし、屋内のカットでも細やかな絵を見せてくれました。ヘンリー・ライの音楽も民族音楽っぽいメロディにオーケストラをかぶせて、スケールの大きな音作りになっており、ドラマを盛り上げるのに貢献しています。

「引き裂かれた女」は悲劇なのに、まろやかな味わいにしたところに旨味を感じる

今回は新作の「引き裂かれた女」を横浜シネマジャックで観てきました。HPではデジタル上映とあったのですが、今回はフィルムによる上映だったようです。スクリーンの前に幕がある数少ない映画館。

有名な作家シャルル・サン・ドニ(フランソワ・ベルレアン)は田舎に引っ込んで執筆生活を送っています。長年連れ添った妻との関係も良好です。新刊の宣伝のために、テレビのインタビュー番組にでることになるシャルル、そこで天気予報キャスターのガブリエル(リュディヴィーヌ・サヴィエ)と知り合いになります。一方で、金持ちのドラ息子ポール(ブノワ・マジメル)も彼女にお熱を上げていまして、しきりにアプローチをかけてきます。シャルルも浮気気分で彼女の気を引いてきます。結果、ガブリエルにとって魅力的だったのは、うんと年上のシャルルの方でした。シャルルと関係を結んだガブリエルは彼の仕事場に入り浸り、時には彼に連れられて秘密クラブの門もくぐります。ある日、ロンドンに出張に出かけるシャルル、残されたガブリエルはシャルルの仕事場に行きますが、鍵は換えられていました。ショックで寝込んでしまうガブリエルですが、そこに現れたポールに「そばにいてくれるなら、結婚してもいい」と言ってしまいます。心はシャルルの方を向いたまま、ポールと結婚することになるガブリエルですが、それは誰にとっても幸せな結果をもたらすことはなかったのでした。

去年亡くなったクロード・シャブロル監督の2007年の作品です。実際にあったスタンフォード・ホワイト事件をベースにはしていますが、実録ものではありません。(この事件を題材にした映画は、他に「ラグタイム」「夢去りぬ」があります。)才能あるテレビキャスターが初老の人気作家と不倫した結果、酷い目に遭うというお話。と、そういう言い方もできますし、あるいは、モテモテ女がそのモテぶりが発端になってだんだん壊れて行ってしまうお話でもあります。ヒロインのガブリエルが、被害者のようであり、自業自得のようでもあるところが面白い映画です。まあ、「泣き面に蜂」ってことになっちゃうのは事実なんですが、それは、二人の男にとっても同じことになります。そう考えると、大岡政談の三方一両損みたいな話だとも言えます。ただ、失ったのが一両どころではないのですが。

シャルルは、ガブリエルを大人の魅力で誘惑していきます。そして、性の深淵を彼女に仕込んでいきます。昔、「エマニエル夫人」で観たような展開。その一方、ドラ息子ポールはそのブルジョアの鼻持ちならない自信と財力で、ガブリエルをモノにしようとするのですが、なかなか彼女はポールになびきません。ガブリエルは本気でシャルルの虜になっちゃうのですが、シャルルは妻と別れるつもりは毛頭ありません。だって、円満な関係なんだもの。シャルルはそういう家庭もうまくやってる遊び人なんです。怪しげな秘密クラブにも顔を出していて、そこへガブリエルを連れ込んだりもしているんですが、それでも家庭は円満なアダルトなブルジョアです。一方のポールは、父親の才能と母親の財力によって生きてる気位の高い甘えっ子な息子さん。ガブリエルにつきまとうのですが、人間の器ではシャルルにはかないません。ガブリエルは、シャルルに夢中になります。彼女はお天気キャスターから、インタビュー番組のホステスに出世して、仕事の方も順調です。しかし、その甘い日々も長くは続かず、結果的に彼女は捨てられることになります。所詮は、若い娘との火遊びだったのですが、ガブリエルのダメージは大きくて寝込んじゃいます。彼女の母親は、状況打開のためにポールに連絡をとり、二人はリスボンに旅行に行きます。でも、ポールにしても気持ちが自分に向いていないガブリエルに不満をぶちまけます。そこで、意外や彼女は、ポールと結婚してもいいと言い出します。ポールは驚きますが、それを喜んで真に受けてしまいます。この辺の女心は理解できないのですが、思慮分別のあるヒロインではなさそう。一見、自由奔放なようで流されやすい軽い女性に見えてしまいました。特別なヒロインというよりは、ありがちな女性が、たまたま二人の特別な男(遊び人とボンボン)に愛された悲劇というのがふさわしいのではないかしら。



この先は結末に触れるのでご注意ください。(結末を知っていても映画の楽しみ方は変わらないとは思いますが。)



そして、ポールとガブリエルは結婚することになります。世間的にはガブリエルは玉の輿に乗ったということになっちゃいます。それを知ったシャルルは、彼女の前に現れて結婚はやめろというのですが、だからと言って、彼女と結婚する気はありません。そして、結婚するのですが、やっぱり気持ちはシャルルの方に向いています。それをわかっていても、ポールはどうすることもできません。ところが、ポールの母親のパーティの席に現れたシャルルを、ポールは何と射殺してしまいます。そして、裁判となり、ガブリエルはポール側の証人として喚問され、シャルルとの関係を赤裸々に証言させられてしまいます。その結果、情状酌量が認められ、ポールは医療刑務所に7年の懲役となり、ガブリエルは無一文で離婚されてしまいます。そんな、彼女に声をかけたのは、彼女の叔父でした。彼はマジシャンで、ガブリエルは彼の舞台に立ちます。胴切りのマジックで回転ノコギリにひかれるガブリエル、そして、無傷のまま、舞台の上で喝采を浴びる彼女にキャメラが寄り、そこでストップモーションとなって、エンドクレジットがかぶさります。

ラストでホントに引き裂かれちゃうのですが、このエピローグによって、物語は寓話のような後味になります。二人の男の間でズタズタにされたヒロインが再生するイメージとも思えてきます。ただ、そこに至るまでのヒロインの行動を共感を呼ばない描き方をしていますので、その再生も物悲しいものに見えました。彼女は若くてきれいで才能のある女性でした。でも、二人の男の誘惑によって、その人生を振り回されてしまうことになります。彼女の結婚とか、ポールの殺人ですとか事件を淡々と追っていくので、そこから、人間の機微というか、平たく言いますと「なぜ?」を読み取ることができなかったのが残念でした。パズルのピースとそのつなぎ方は見事なのですが、そこに人間の情緒を読み取れなかったのは、私が色恋沙汰に疎いからかもしれません。

フランス映画によくある恋愛突っ走りというお話ではありません。むしろストレートな恋愛ドラマを迂回しているような展開に面白さがありました。若くて魅力的なモテモテなヒロインの筈なのに、出会ったのは、遊び慣れた老人と若いドラ息子、これは彼女にとっては、運のめぐり合わせの悪い不幸なことだったのではなかったのかしら。正直、どっちへなびいてもろくなことにはならない。ポールがシャルルを射殺しちゃうことで、ミステリーっぽい話のようにも思えるのですが、実際のところ、事件はヒロインの枠の外で起きたものでしかないので、たまたま降ってきた不幸のようにしか見えません。実らぬ想いを心に抱いたままポールとの結婚を決めてしまうヒロインがアホだと言えば言えそう。それでも、結婚しちゃうボンボンはもともとアホなので、あんまり同情されない。そうなると、大人の分別がありながら、ヒロインをもてあそんだシャルルが一番悪賢いってことになるのかもしれません。だとすれば、この結末は自業自得、神様はちゃんと見ているのだよっていうお話にも見えてきます。

三角関係のイヤなパターンを描いた映画なんですが、シャブロルの演出は、そのイヤな部分にどこかしゃれた味わいを入れて、大人のドラマにまとめています。私はこの人の映画は、劇場で「嘘の心」しか観たことがないですが、「嘘の心」では、細かい心の揺らぎを大変繊細に描いていました。しかし、今回は、心の動きよりも、その行動を追うことでドラマを組み立てていく方を重視しているようです。その分、脇役の編集者、シャルルの妻、ポールの母、ガブリエルの母といった面々に奥行きを与えることで、ドラマだけでは平板になりそうな映画に、陰影を与えるのに成功しています。よく見ると、主人公3人が、周囲の人間に対して受身になっているところに、運命に翻弄される人間のおかしさが垣間見えたのですが、それが悲しいとかかわいそうとは見えてこないところが面白いと思いました。ラストの突如登場する胴切りマジックによる締めも、どこか突き放したような、あっけらかんとした後味が残りました。

「バレッツ」は手堅く面白いフランスヤクザ映画、ジャン・レノ好演

今回はロードショー公開は終了している「バレッツ」を新橋文化劇場で観て来ました。ガード下にある84席の小さな劇場。一応ドルビーステレオはついてるみたいですが、しょっちゅう上から電車の音が聞こえてくるという映画館。ロードショーを見逃したときにごく稀に使います。

かつてはマルセイユのマフィアのボスだったシャルリ(ジャン・レノ)は、今は足を洗って静かに暮らしていました。そんな彼が、地下駐車場で、突然何者かに襲われ、銃でメチャメチャ撃たれちゃいます。食らった弾丸22発、ところが死なないんだなあ、このおっさん。病院にかつぎこまれて、警察の監視下に置かれることになります。かつての仲間だったカリムたちの調査で、彼を殺そうとしたのは、かつての親友で、今、マルセイユを仕切っているザッキア(カド・メラッド)でした。しかし、ザッキアを突き止めたことで、逆にカリムの面が割れてしまい、カリムは惨殺されてしまいます。そこで、病院を抜け出したシャルリは、ザッキアの一味の前に現れ、「お前たちを殺す」と宣言します。そして、次々に血祭りにあげられるザッキアの部下たち。ところが、マルセイユから身を隠させていた息子と娘が一味に拉致され、娘はボコボコにされて解放され、息子は、復讐をやめないと殺すと脅してきます。シャルリは刑事のマリー(マリナ・フォイス)に協力を求め、彼が逮捕されたというニセ情報を流させます。それを知れば、一味が息子を殺そうと動き出す、そこが救出のチャンスだというのです。かなり危険な賭けになるのですが、果たしてうまく行くのでしょうか。

リシャール・ベリの脚本、監督によるフランス映画です。かつてはマフィアのボスだった男が22発の銃弾を食らってもしぶとく生き残り、復讐をするというバイオレンスアクション、言い方を変えればフランスのヤクザ映画です。暗黒街ものと呼ぶには、フランスの陽光のもとで派手なアクションシーンもありまして、いわゆる今風フランス映画のライトな味わいもありますが、R15指定になるくらいには、暴力描写もあります。実話をもとにした原作があるのだそうですが、リアリティよりは、娯楽性を優先した作りになっていまして、ともかくも2時間弱を退屈させない映画に仕上がっています。

冒頭は、シャルリと母親と息子が仲睦まじく抱き合う微笑ましいシーンです。そして、シャルリと息子と犬が車で海沿いの道を走る美しい絵が続きます。車の中でオペラが流れます。オペラは、この映画の随所に登場して、ドラマを彩っていまして、シャルリや女刑事が聞いているシーンが何度も登場します。トマス・ハードマイアーのキャメラは、シネスコ画面に美しい絵を切り取っていきます。そして、息子を置いて地下駐車場に車を置きに行ったとき、突然の襲撃、マシンガンで撃ちまくられて、ボロボロのシャルリ。ここで急に映画のトーンはバイオレンスとなり、キャメラは血塗れのシャルリの姿をなめるようにとらえます。

この先は、九死に一生を得たシャルレの復讐を中心にお話が進むのですが、冒頭で主人公との家族との交流が美しく描かれたように、他の登場人物の家族との関わりが、血生臭い殺し合いと並行して描かれます。女刑事は、夫を殺されてアルコール依存気味のシングルマザー、それでも息子を大事に育てています。ザッキアにもかわいい子供たちがいて家長としての顔をきちんと持っています。シャルレに殺されるザッキアの部下たちも、命乞いするとき家族のことを引き合いに出します。麻薬で大金を稼いで、残酷な殺しをもする連中も家族は大事、そのこともあってか、殺しあっていても、家族にまでは手を出すことには躊躇する人間もいます。しかし、10人の中に一人、凶暴なのがいるとそっちの方向に全体が流されてしまう。シャルリの息子を殺す指令が下ったとき、躊躇して子供を逃がそうとして、逆に殺される男もいるのですが、全体として組織はえげつないことをやってのけようとします。

シャルリの元妻は、彼の弁護士であるマルティンの妻となり、元妻との間の娘と一緒に暮らしています。シャルリに足を洗わせたのが、今の奥さんで、その間にかわいい息子がいます。彼は、そんな家族を愛していましたし、家族を守るためなら何でもやる男です。一方で、仁義は守る男であり、無闇に殺人は犯しません。そういう意味では、ヒーローとして描かれているのですが、暗黒街の帝王が過去にどんなことをやってきたのかは、ほとんど語られませんので、そこにリアリティを深追いしない方がよさそうです。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



シャルリの襲撃犯は8人いたのですが、7人しか顔が割れていませんでした。後の一人は誰だったのか。その一方で、シャルリじゃない誰かが一味の何人かを殺しているみたいなのです。シャルリは、一味の一人を殺す前に麻薬の帳簿を入手し、それをマルティンに託します。そして、最後のターゲット、ザッキアの前に現れます、彼と格闘となりますが、そこへ警察が闖入してきて、シャルリとザッキアは逮捕されます。麻薬の容疑でザッキアは重罪、シャルリは軽罪で釈放されます。それを迎えるマルティン、二人は最初の事件現場へ向かいます。実は、シャルリ襲撃犯の8人目の男とはマルティンだったのです。金が入るとザッキアに誘われて、現場でターゲットを知ったマーティンは、わざと弾を逸らしていました。ここでも、家族のことを口にして命乞いするマーティンをシャルルは許します。そして、海辺で家族と一緒に楽しむシャルルの姿をとらえて、彼がカメラをにらみつけたところで暗転、エンドクレジット。

カーチェイスや派手な銃撃戦の見せ場はあるものの、昔の暗黒街ものに比べて、登場人物の葛藤があまり描かれないので、ドラマとしての重みは今一つでした。いわゆる、ヤクザ映画に必ず出てくる「義理と人情の板挟み」や「やむにやまれぬ」という部分がないので、タメにタメておいて爆発するといったカタルシスはありません。それでも、ジャン・レノが義理に堅い男を好演しているので、娯楽映画としては面白くまとまっていました。ただ、次々に殺されるザッキアの部下が全部シャルリの手によるものではないようなので、その犯人は最後までよくわかりませんでした。マルティンが殺していたとも思えないのですが、映画のどこかで、そのあたりが説明されていたのを見逃したのかも。

オペラをあちこちに使った音楽演出なんですが、オリジナルスコアは「パイレーツ・オブ・カリビアン」や「すべて彼女のために」のクラウス・バデルトが担当しています。派手に鳴らしてはいるものの、最近の映画のように、効果音のようなインパクト強調の音楽でなく、きちんとドラマの流れをサポートしているのが聞き応えがありました。

「ザ・ホークス ハワード・ヒューズを売った男」は実録詐欺モノなんだけど、どこかおっとりした味わい

今回は新作(といっても2006年作品なのですが)の「ザ・ホークス ハワード・ヒューズを売った男」を横浜ニューテアトルで観てきました。やはりデジタル上映でしたが、意外と画面はきれいだったように思います。

1971年のニューヨーク、売れない作家のクリフォード・アーヴィング(リチャード・ギア)は、出版社のマグロウヒルに「ハワード・ヒューズの自伝」を書くという話を勢いで持ち込んでしまいます。もちろんヒューズとのコネクションなんて全然ありません。相棒の調査屋ディック(アルフレッド・モリーナ)と一緒に、一発でっちあげようということになります。ヒューズの元側近を尋ねたとき、彼の回顧録を入手し、それをネタに書き始めます。クリフォードは、マグロウヒル社やライフ誌に大ハッタリをかましつつ、彼らから100万ドルを引き出すことに成功します。ただ、ヒューズ宛の小切手だったので、換金するために妻のエディス(マーシャ・ゲイ・ハーデン)をチューリヒへ偽造旅券で行かせて、偽口座に振り込ませます。一方、クリフォードの元に、ヒューズの大統領関係者への献金記録が送りつけられてきます。どうやら、ヒューズ側からの情報リークみたいです。一方、半信半疑の出版社は、本人を知るジャーナリストを連れてきて確認を裏をとろうとしますが、クリフォードは彼をも信じ込ませることに成功します。ハッタリをかまして、出版社だけでなく、社会ごと煙に巻こうとしたクリフォードの「ハワード・ヒューズ自伝」は印刷までこぎつけるのですが、滅多に表に出てこないヒューズがテレビインタビューで自伝の信憑性を否定したため、全ては水泡に帰してしまうのでした。

「ギルバート・グレイプ」「ショコラ」などで知られるスウェーデン出身のラッセ・ハルストロム監督による実際にあった詐欺事件のお話です。2006年の作品でして、リチャード・ギアとの「Hachi 約束の犬」の前の作品にあたります。謎の多い大富豪ハワード・ヒューズを題材にした伝記を書こうとした作家がウソにウソを重ねているうちに、何だか自分がでかいことをしてる気分になっちゃうのですが、結局は、全てがばれてしまいます。その自伝の存在は、ホワイトハウスをビビらせて、ウォーターゲート事件の引き金になったらしいという尾ひれもついてくるのですが、どこまでホントなのかなあって思わせるところがあります。何しろ、この映画の原作はクリフォード・アーヴィング本人ですし、本人、まだヒューズの伝記を書くんだって言ってるらしいですから、真偽にあれこれ思い巡らすよりも、単純にお話として楽しむのが正解みたいです。

もともと、売れない作家だった主人公は、出版社に「歴史的作品」を書くと宣言してしまい、そこで困った挙句に、ハワード・ヒューズを引っ張り出してきたのです。特に、ヒューズでなきゃならない因縁も動機もないわけでして、その行き当たりばったりの感じは最後まで付きまといます。自伝の書き方が面白いのですが、クリフォードが付け髭とメークでヒューズになりきって、仮想インタビューで口から出まかせを録音し、それを相棒のディックがタイプして原稿にまとめるというやり方です。それに、それなりに調査データは取材しているようで、そこそこのホントにドッカンとハッタリを乗せて、何とか出版にまでこぎつけちゃう、その一歩手前まで行っちゃうのですから、ある意味すごい人ではあります。でも、ヒューズ側がストレートにクリフォードを攻撃して来ないで、ニクソンサイドへの献金情報をリークしてくるあたりで、主人公が大きなゲーム盤上の一つの駒になってしまいます。どうやら、献金情報が表沙汰になる寸前で、ヒューズ自身が自伝を否定することで、ニクソンサイドに恩を売るような構図らしいのです。そうなると、クリフォードは、ケチな詐欺師としての扱いしかされなくなってしまうのです。

そこに、人間としての物悲しさみたいなものが出ればドラマとしての奥行きが出たのですが、リチャード・ギアには、そこまでは難しかったようです。ギアの演技が悪かったという訳ではないのですが、脇のアルフレッド・モリーナとマーシャ・ゲイ・ハーディンが演技の部分はさらっちゃった感があります。最初から、こういう大掛かりなハッタリは苦手なディックは、ずっと及び腰なんですが、その小心な誠実さをモリーナはコミカルなようで奥行きのあるキャラに仕上げました。ダンナの浮気のせいで、どうしても信用しきれないエディスは、それでも、この一件でクリフォードに協力します。でも、ダンナの誠実さを信じたいけど信じ切れない悲しい女性を、ハーディンは見事に演じきりました。この人は、どんな映画に出てもうまいですし、印象に残る演技を見せてくれます。ギアは、自分をだんだんヒューズに同化していくクリフォードという男を熱演していますが、モリーナとハーディンに食われちゃった感じになったのは気の毒に思います。その他にも、ホープ・デイヴィス、スタンリー・トゥッチ、ジュリー・デルビー、エリ・ウォラックなどの曲者演技陣が登場して、ドラマに奥行きを与えています。

ハルストロムの演出は、ちょっとしたことから始まったウソがだんだん抜き差しならない方向へと向かっていく様子をテンポよく見せていきます。結局、刑務所に入れられてしまうクリフォード、まあ、それは自業自得とも思えるのですが、奥さんのエディスまでチューリッヒで1年間拘束されてしまうのは、かわいそうでした。ディックはその後、自力で別の本を出すことができ、奥さんとの関係もうまく行ってるとテロップに出まして、ほっとさせる結末になっています。後半、追い詰められていくクリフォードが精神に異常を来たしたかのように思えるエピソードもあるのですが、そこのところをあえて突き詰めない作りにしているのが、ハルストロムのセンスなのかもしれません。

この映画のプログラムは薄いのに、600円もする代物なんですが、中の記事に、この映画に登場する7つのシーンを取り上げて、それが事実なのかどうかを解説しているのがあって、これは面白かったです。虚実入り乱れたお話の中に、さらに映画としてのフィクションも入っているわけですが、映画としてのフィクションを切り出して説明してくれてるのは、面白いと思いました。最近の映画のプログラムの中では、特筆できるものだと思います。

ともあれ、5年前の映画を、ロードショー公開として劇場で観られるってのは、ありがたいことかなって思います。DVDだったら、この映画、絶対スルーしちゃいますもの。

「ジュリエットからの手紙」はロマンチックだけど、スキー場の恋のような気も

今回は新作の「ジュリエットからの手紙」を109シネマズ川崎8で観てきました。ここは、スクリーンの中心と座席の中心がズレている映画館なので、席を買うときにやや右よりの席がベストポジションです。ていうか、そういうことを座席売る方がちゃんと説明してほしいものです。初めての人は絶対失敗するもの。

ジャーナリストの卵ソフィ(アマンダ・セイブライト)は、婚約者でレストランオーナーのビクター(ガエル・ガルシア・ベルナル)とプレハネムーンということで、イタリアにやってきます。でも、料理やワインの情報収集ばっかりしてるビクターに、ソフィは別行動を取ってヴェローナの町を観光することにします。ヴェローナの町には「ロミオとジュリエット」のジュリエットの家というのがありまして、そこの壁には多くの女性がジュリエットへの手紙を貼っていくんですって。ソフィがそこでまったりしていると、女の人が壁の手紙をはがして持っていきます。その先には4人の女性が待機してまして、ジュリエットへの手紙の返事を書いてるのだそうです。ソフィもそれに混ぜてもらうことにしたのですが、偶然壁の中から50年前の手紙を発見、それに返事を書いたら、その手紙の主である老婦人クレア(ヴァネッサ・レッドグレーブ)が50年前に別れた恋人を探しにイギリスからイタリアまでやって来ちゃいます。付き添いの孫チャーリー(クリストファー・イーガン)は、今さらこんなことをしたって、残念な結果になるだけだと、返事を書いたソフィにも不満たらたら。すごくロマンチックな話に、記事にしたいと思ったソフィは、クレアの50年前の恋人探しに同行させてもらうことにします。でも、同じ名前の人が結構たくさんいるもので、なかなか目指す恋人は見つかりません。しかし、プレハネムーン中のソフィなのに婚約者を放っておいていいのかしら。

「シャーロットのおくりもの」でSFX満載の映画で抑制の効いたドラマを丁寧に描いたゲイリー・ウィニック監督の遺作です。「ロミオとジュリエット」のジュリエットの家があるってのはびっくりなんですが、まあ日本にもあちこちにアニメの聖地がありますから、あってもおかしくないんですが、そこにジュリエット宛の手紙を貼り付けてると、返事が返ってくるってのも、プログラムによると実際にある話のようです。14歳で死んだジュリエット宛に一体何を書くのかって思うのですが、町おこしの趣向としては、なかなかロマンチック。そこの壁に50年前の手紙が埋まっていたのを、ソフィは見つけて返事を書くのですが、驚いたことに書いた本人がヴェローナにやってきます。当時の恋人ロレンツォをイタリアに残して、イギリスへと戻ったクレア、彼女はその後イギリスで結婚しましたが、今は死別してシングルです。そんな彼女がソフィからの手紙に感化されて、別れた恋人を探しに来てしまったのです。付き添いの孫のチャーリーは、今更ながらの恋人探しには反対なので、そのきっかけを作ったソフィにもつらくあたります。それでも、3人でロレンツォ探しの旅に出ることになります。

ここまでは、私もちょいとロマンチックな暴走かなくらいに思っていたのですが、この後、映画は、意外な展開になります。いや、考えようによっては、意外でも何でもないのかもしれないのですが、そこまであっけらかんと展開するのかって、私はびっくりさせられました。ジュリエットに手紙を出して、その返事をもらうというあたりまでは、ささやかにロマンチックかなって気分で見ることもできたのですが、それだけではドラマのロマンチックは止まらなかったのでした。でも、こんなところで、「スキー場の恋」が出てくるとは。




この先は、結末に触れますのでご注意ください。(別にミステリーの結末ってわけじゃないです。)




ロレンツォという男性は結構たくさんいるもので、会いに行ってはハズレというのを繰り返す3人。そんな道中のうちに、ソフィとチャーリーはお互いに引き合うようになります。婚約者がいて、かつプレハネムーン中のソフィなんですが、それはないよなあ。確かに、婚約者はイタリアの料理とワインに夢中だけど、それはイタリア料理店のオーナーだからだし、そんな悪い奴じゃなさそうだもの。確かに、50年前の恋人探しというあまりにもロマンチックな道中の道連れ同士が惹かれ合うってのは、理解できなくはないけど、それは相手に引かれてるのではなくて、雰囲気にノボせてるだけだと思うのですよ。スキー場で出会った異性が実物よりも良く見えてしまう「スキー場の恋」と同じパターンなんですが、ソフィが婚約中というところに、見ている観客のオジさん(私のこと)は釈然としないのであります。

さらに、驚きの展開というか、ついにロレンツォを見つけることに成功しちゃいます。ロレンツォもクレアのことを覚えていて、さらに偶然にも奥さんと死別していました。まさに50年ぶりの運命の再会を果たすのでした。それを見届けて、婚約者のもとへ帰るソフィ。チャーリーもソフィを追ったのですが、ビクターと抱き合う彼女を見てあきらめることになります。そして、ニューヨークに帰ったソフィは、クレアの50年越しの恋を記事にまとめて、編集長に認められます。でも、イタリア旅行で、一緒にいることをお互いに欲しなかったことから、ビクターに別れを告げてしまいます。そこへ、ロレンツォとクレアの結婚式の招待状が届き、再びイタリアへ飛ぶソフィ。結婚式には、チャーリーも出席していて、そこで二人はお互いの愛を確かめあって、抱き合ってるところで、カメラが空へアップして「The End」の文字、エンドクレジット。

人生とは思うに任せないもので、それでも、どこかに拾う神がいるんじゃないかと思えるから、日々をやり過ごせるところがありますが、この映画は、とにかくとんとん拍子に進んでハッピーエンドとなります。人生の晩年のロレンツォとクレアはともかく、ソフィとチャーリーは一生分の運を使い果たしたんじゃないかと思える展開には、かなりびっくりでした。ソフィとチャーリーには、親の愛情を十分に受けられなかったという共通点があるのですが、だからお互いを必要としたのだという話には見えませんでした。決して悪い話じゃないですし、ロマンチック突っ走りを否定する気はないのですが、オヤジの私には「何もそこまで」と思えてしまったのです。もし、自分の身内が、結婚式の日に他の運命の人が見つかったから、そっちに乗り換えると言い出したら、「結婚式をとりやめるのは仕方ないが、新しい人が本当に運命の人か、時間をかけて見極めなさい」とアドバイスすると思うのですよ。

そんな、ロマンチックが止まらないお話なんですが、イタリアの風景が美しくて、その雰囲気に乗れればハッピーな気分になれる映画です。バネッサ・レッドグレーブはきれいなおばあさんを元気そうに演じました。これまでの彼女の映画では、繊細ではかなげなキャラが多かったのですが、今回は品の良さはそのままにカドが取れた感じが好印象でした。アマンダ・セイブライトは、かわいいけど、どっかあぶなっかしい感じがこの映画には合っていたように思います。個人的には、「クロエ」の娼婦役の方が好きなんですが。

マルコ・ポンテコルヴォのキャメラがシネコスサイズの絵をうまく自然に切り取っていたのが印象的でした。旅行気分に浸れる映像がたくさんあったのも、この映画の点数上げてると思います。

「クロエ」のサントラは、抑制されたドラマを見事にサポートしています


小品ながらも映画としての旨味が詰まっていた「クロエ」の音楽を手がけたのは、アトム・エゴヤン監督作品にはずっと参加してきているマイケル・ダナです。その他にも「長距離恋愛 彼女の決断」「(500)日のサマー」「ニュースの天才」など、色々な映画を手がけている他、ケルト音楽のリーダーアルバムも出しています。あまり、ドラマチックな音をガンガン鳴らすタイプではなく、ドラマに静かに寄りそう形の作品が多い人だと思います。ニコラス・ドッドとダナが編曲し、ドッドが指揮をしています。ダナ自身もギターを演奏しています。

オープニングでは、娼婦であるクロエが着替えるシーンに彼女のモノローグが流れます。それがメインタイトルとなっていて、バックに「In My Line of Business」がかかります。ストリングスの流れる音(シンセも入ってるかも)をバックにつまびくようなエレキギターの音がシンプルなテーマを奏でます。どこか、物悲しげで都会風なタッチで始まり、そこにピアノとバンスリ(竹の縦笛みたいの)が入ってきます。この映画全体に流れる孤独感を音楽は見事に表現していまして、そこにある種の切なさと焦燥感が入ってきます。

ドラマからある程度の距離を置いて、ドラマの空気感を表現する音楽になっています。ストリングスをベースに、ギター、ピアノ、パーカッションが、ある時はアンビエント音楽風にまたあるときはジャズタッチで音の色づけをしていきます。ギターやパーカッションが前面に出るときはアンビエント風ですが、ストリングスが前面に出る曲はドラマを描写する音楽になっています。ドラマの淡々とした流れの中に、ミステリーやサスペンスの空気を出すためにも音楽は機能していますが、それでも音楽が前面で出てくることはなく、縁の下の力持ちに徹した音作りがされています。クライマックスはサスペンスタッチの音楽になります(「Your Parent's Room」)が、衝撃音や不協和音による煽りはなく、ドラマの支える音にとどまっています。

それでも、最近の映画音楽の効果音みたいな音とは一線を画する音楽とした潤いを持ったサウンドになっていまして、地味だけどいい感じの音楽に仕上がっています。抑制の効いたドラマの中で、余韻を生む効果も上げていますから、音楽としての力があるのでしょう。


「ブラック・スワン」のサントラ盤は、ホラーとバレエ音楽の相性の良さがわかります。


「ブラック・スワン」の音楽と言えば、もちろんチャイコフスキーの「白鳥の湖」なんですが、サントラ盤は、クリント・マンセルによるオリジナルスコア盤ということになっています。中身は、要所要所でバレエ音楽として使われる「白鳥の湖」、あるいは劇伴音楽としてアレンジされたものに、マンセルによるオリジナルスコアが混然となったものになっています。「白鳥の湖」のアダプテーションとアレンジには、クリント・マンセルとマット・ダンクリーがクレジットされており、編曲と指揮はダンクリーが担当して、ロンドンで録音されています。

「白鳥の湖」については、子供の頃、聞いただけなので、もうメインテーマ以外の記憶がないので、この映画の音楽がどこまでチャイコフスキーの原曲を使っているのか、私には判断つかないのですが、全体を聞いた感じでは、いかにもバレエ音楽という曲が、ドラマのバックにも流れています。そんな中で、ピアノが入ってくると、現代音楽の味わいになってきて、ホラー映画の音になっています。ショック音楽も入ってますし、バレエ音楽の中にも奇妙なノイズ系の楽器を入れたりして、神経症的なピリピリとした音が結構出てきます。すごく、かわいそうなヒロインのお話なんですが、音楽はあまり彼女にシンパシーを寄せておりませんで、悲劇と恐怖を歌い上げる形になっています。ヒロインの孤独やかわいそうな感じは音楽ではほとんど描写されていません。「白鳥の湖」のテンション高い音楽が、ヒロインを追い詰めるようにガンガン鳴っているあたりは、ホラーとバレエの相性って意外といいんだということを再認識させられます。

クライマックスでは、見事に白鳥を舞うヒロインのシーンに当然「白鳥の湖」が流れるのですが、ここでやっとストレートな美しい演奏が聴かれます。ヒロインを素直に美しく彩る音楽になっているのです。そして、フィナーレを迎え、画面が暗転した後、「白鳥の湖」のテーマがピアノソロにアレンジされたものが物悲しく響きます。それまで、バレエの盛り上がりと同様にドラマを煽ってきた音楽が始めて静かにヒロインに寄り添う音楽を奏でます。ちょっぴり少女趣味も入ったような物悲しい曲は、暴走してきたドラマを孤独なヒロインに戻すような趣がありました。しかし、そのバックにガラスの割れるようなノイズを入れたりしているので、結局はホラー音楽になってしまいます。映画そのものが、ヒロインをいたぶっているような印象があったのですが、音楽もそれに加勢して、一緒になって、ヒロインを痛めつけているという印象でした。その際に、「白鳥の湖」の音楽は、流麗なメロディと残酷なパワーの両面を持っているので、大変有効だったように思います。ホラーとバレエ音楽のコラボということで、なかなかに聞き応えのあるサントラアルバムになっています。

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Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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