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「ゴーストライター」はミステリーとして面白いし、映画館でみるための絵になってる


今回は、新作の「ゴーストライター」を川崎チネチッタ5で観てきました。ここはキャパはそこそこですが、画面が大きいので、大劇場の雰囲気があります。シネスコになるとき、画面が横に広がる感じもいいです。しかし、チネチッタはフィルム上映中心でして、今や珍しい方に入っちゃうシネコンです。ちなみに、この映画のよどんだようなシネスコ画面は、大劇場で見てこその絵になっていまして、この劇場で観ることができてラッキーでした。

元英国首相アダム・ラング(ピアーズ・ブロスナン)は自叙伝を執筆していたのですが、そのゴーストライターのマカラという男が謎の死をとげてしまいます。そこで、新たにゴースト(ユワン・マクレガー)が雇われます。もともと、膨大な自叙伝の原稿があったのですが、ゴーストは大幅なリライトが必要であると考えていました。特に冒頭の、一族の歴史についてグダグダ書いてある部分は不要だからカット。そして、アダムに学生時代の頃のインタビューを始めます。アダムの邸は、フェリーで渡る島の中にあり、厳重なセキュリティがかけられていました。アダムの魅力的は秘書アメリア(キム・キャットラル)は、奥さんのルース(オリヴィア・ウィリアムス)よりもアダムのことをよく知ってるという関係。そんなとき、アダムに戦犯容疑が持ち上がります。テロ容疑者をCIAに引渡し、その際容疑者に拷問を加えたというのです。その調査を依頼したというのは、元外相ライカート。一方、ゴーストは、死んだマカラの残した資料を調べていると、写真と電話番号を見つけます。電話をかけてみたら相手は何とライカート。そして、マカラが乗っていた車のカーナビに従って車を走らせてみれば、そこは大学教授エメット(トム・ウィルキンソン)の家でした。ゴーストは、彼にアダムのことを聞いてみるのですが、接触はあったものの自叙伝に載るほどの関係はなかったと言います。その帰り道、何者かの車に尾行され、身の危険を感じたゴーストは、尾行をまいて、ライカートに連絡をとります。どうやら、元首相の戦犯事件に巻き込まれてしまったらしいゴーストの運命やいかに。

ロマン・ポランスキー監督の新作です。私はこの人の昔の映画は知らなくて、初めて観たのが「チャイナ・タウン」でした。それ以降も何本か観ているのですが、面白かったのは「死と処女」でしょうか。限定された空間のサスペンスが見事でした。今回はミステリー映画として始まって、最後までミステリーとしてのラインを崩さない、きっちりと楽しめる一編に仕上がっています。最近の刺激の強さだけで、大人向け映画かどうかが決まってしまうところがあるのですが、この映画は、その内容の面白さで大人向けの映画になっています。過大な期待は禁物ですが、大人が楽しめるミステリーとして、この映画、劇場での鑑賞をオススメします。

まず、元首相の自叙伝のゴーストライターという設定がミステリアスですもの。それも前任者がいて、その前任者が変死したとあってはまずます謎がありそう。フェリーで渡る島にあるお邸という舞台設定も期待させます。周囲が全部怪しげなのですが、そこへ赴く主人公を演じるユワン・マクレガーの陽性キャラがこの映画に不思議なユーモアを与えています。おどろおどろしい展開にならないあたりが演出のうまさと言えるでしょう。さて、もとあった分厚い自叙伝の改稿を始めるのですが、戦犯疑惑で邸の周囲にデモ隊が来たりして、様子がどうもものものしい。夫人のルースとは学生時代に知り合ったらしいのですが、今は夫婦の仲は冷え切っているようで、彼女の方からアプローチをかけてきて、ゴーストは彼女とベッドを共にしてしまいます。

そんな彼が、前任者の資料を調べているうちに、元外相ライカート、大学教授エメットといった人物の存在が浮かび上がってきます。前任者マカラはなぜそういう連中と連絡を取っていたのでしょうか。そして、ゴーストを尾行してきたのは一体何者なのでしょう。このあたりの展開をポランスキーは直球演出でスリリングに見せます。観客をミスリードしたり、無駄なシーンを入れることなく、謎が謎を呼ぶ展開は、さすがにベテランの仕事と思わせます。元首相の戦犯調査を依頼したライカートの話によるとアダムはCIAとつながっていたようで、それを紹介したのが大学教授のエメットだというのです。その結果、イギリスの政策は全てアメリカの得になるように動かされているのだという話に驚くゴースト。どうやら、前任者マカラは真実に近づき過ぎた結果、消されてしまったようなのです。ただ、そのカギとなる事実を自伝の中に書き残しているらしいのです。そこへ、アダムから電話が入り、迎えに来ると言うのです。断れば、疑われてやばいことになるかもしれないので、ゴーストはその申し出に従い、彼の私用ジェット機に乗り込みます。



この先は結末に触れますのでご注意ください。(純然たるミステリ映画ですから、観る予定のある方はパスしてください。)



ジェット機の中で、ゴーストは、ライカートから聞いた話を直接アダムにぶつけます。「そんなバカな話はない」と一笑に付すアダム。そして、島の飛行場に着いて、飛行機を降りた直後、アダムは狂信的なテロリストに射殺されてしまいます。犯人は、即逮捕され、全ては一応の決着を見ます。それでも、アダムの自叙伝は出版され、その記念パーティに、ゴーストも秘書のアメリアから招待されます。膨大なもとの原稿を、アメリアに渡そうとしたとき、パーティ会場に、未亡人ルースとエメットが一緒にいるところを発見します。何かに気づいたゴーストは空き部屋に原稿を持ち込み、冒頭部分の文節の単語を拾っていきます。すると、そこには「ラングの妻、ルースはエメットによりCIAに紹介された」という文章が浮かび上がってきました。CIAとつながっていたのは、アダムではなくルースだったのです。その文書のメモを書いてルースに渡したゴーストは、外に出て、通りを渡り、画面からフレームアウトします。その直後、猛スピードの車が走ってきて、画面の外で衝突音がします。そして、通りに原稿が何枚も舞っていくところで暗転、エンドクレジット。

ミステリーとしてフェアか、とか、意外性がどうなのというところは、微妙なところがあるのですが、とにかく、全編に渡って見せ方がうまいので、ミステリードラマとしてこの映画大変面白くできてると思います。善悪どちらなのかが曖昧なアダムをいうキャラをピアーズ・ブロスナンが地味に好演しているのが印象的でした。まあ、出てくる連中、変に際立ったキャラがいないだけに、そこにあるであろう謎の正体は、なかなかわかりにくいものでした。特に、ラストでCIAがカギになるとは思いませんでしたもの。さすがは、天下の大悪役、きちんとお勤めを果たしています。

パヴァル・エデルマンのカメラがシネスコ画面をあえてクリアに見せないで、沈んだ画調にまとめているのが印象的でした。これは、大劇場で見るための絵です。また、アレクサンドル・デスプラが小編成のオーケストラをつかって、どこかユーモラスなテーマを持った味わいのあるサスペンス音楽をつけていまして、これがなかなかに聞き応えがありました。ドラマの空気を確実に音楽に変えて観客に伝えるという意味で、いい仕事をしていると思います。

映画館に行った時、2本に1本は、このレベルの映画に当たってくれたら、映画館へ行くのがもっと楽しくなるだろうなと思いました。大傑作でも大感動作でもないですが、ミステリーという限定ジャンルの映画として面白い。でも、なかなか当たらないんですよね。
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「ハンナ」映像的にも展開的にも面白いんだけど、カタルシスがないような


今回は、新作の「ハンナ」を横浜ブルグ13シネマ8で観てきました。100席という小さめの映画館ですが、スクリーンはそこそこのサイズ。でもシネスコになると上下が縮むというよくあるパターン。ただ、やたら音が大きいのは何とかならないのかな、うるさいよ。

大自然の雪の中で、父親エリック(エリック・バナ)と暮らす16歳の少女ハンナ(シアーシャ・ローナン)。彼女は、鹿を狩り、エリックとは格闘技で五分に渡り合い、世界各国の言葉を話せるスーパー少女でした。どうやら、父親による英才教育(?)にはそれなりの理由があるようです。そして、ついにその日がやってきます。ハンナが無線装置のスイッチを入れたとき、CIAの幹部メリッサ(ケイト・ブランシェット)に彼ら親子の存在が知らされます。父親は一人で家を去ります。そして、武装した軍隊がハンナの家にやってきます。ハンナは捕らえられ、モロッコの米軍基地で尋問されることになります。ハンナは、メリッサに会いたいと言い出し、そこにやってきたメリッサを殺して、基地から脱走します。しかし、そのメリッサは替え玉で、本物のメリッサは殺し屋のアイザック(トム・ホランダー)にハンナの追跡を依頼します。ハンナにとって、メリッサは母親の仇だったのです。キャンピングカーでモロッコからフランスへ旅行中の家族と知り合いになり、一緒に行動するようになるハンナですが、アイザックたちの追跡の手が迫ってきていたのでした。

「つぐない」という虚実織り交ぜた大変面白い映画を撮ったジョー・ライト監督の新作です。「つぐない」で少女時代のヒロインを演じたシアーシャ・ローナンが主役のハンナを演じています。CIAを敵に回したアクションものであり、思春期の少女を描いた青春映画の趣もあり、「つぐない」と同様、ひねりの効いた映画に仕上がっています。幼い頃、母親をメリッサに殺されたハンナは、父親からスパイとしての教育を受けて育ってきました。そして、ついに、メリッサへの復讐を開始することになります。わざとCIAの手に落ちて、メリッサと面会のタイミングで彼女を殺し、ベルリンで父親エリックと合流するという計画だったのです。計画は途中までうまく行くのですが、ハンナが殺したと思ったメリッサは替え玉でした。メリッサは、冷酷な人間で、自分の手を汚すことも厭わない手ごわい相手でした。ケイト・ブランシェットが人の命なんて何とも思わない、絵に描いたような悪役ぶりで、ドラマを引っ張っていきます。

一方で、ハンナが、キャンピングカーで旅行中の一家と知り合いになる過程が描かれていきます。年の近い娘ソフィと仲良くなり、一家の車に同乗させてもらうことになります。孤独な彼女が暖かい家庭に触れて、人間味を取り戻すエピソードなどは、もっとふくらませてもいいような気がしましたが、そこは、サブエピソードのレベルにとどまり、ハンナとエリックが、どうやって追っ手から逃れるのかが主眼になっています。もともと諜報員でプロの殺し屋であるエリックですが、ハンナもその教えをついでいて、冷酷な殺人マシンになっています。一方の敵役のメリッサも神経質な非道キャラで、自ら手も下す実践派の悪党です。メリッサに居所を宣言して、メリッサと接触するタイミングで彼女を殺そうとしたハンナの作戦は失敗に終わるのですが、その後は、メリッサが、エリックとハンナを追い詰めていきます。

「つぐない」で、驚異的な長回しを見せたライト監督は、今回もベルリン駅で尾行、追跡、格闘までを1カットで見せて、視覚職人の芸を披露しています。ただ、「つぐない」に比べると脚本には恵まれなかったようで、映画を観終わったときのカタルシスや余韻がないのが残念でした。追跡劇からの、最後の対決まで、見せ場の見せ方もうまく、廃墟遊園地という舞台設定をつかったクライマックスも面白い絵になっていました。それでも、映画を観終わって、娯楽映画としては今一息なのですよ。それは、ヒロインのハンナに勝利感もなければ、未来も感じさせてくれないからです。その少女ハードボイルドを気に入られる方もいらっしゃると思うのですが、美少女ものはもう少し明るい結末が観たいです。孤独な少女ファイターを扱ったタイの「チョコレート・ファイター」みたいに、ハードアクションの後に、彼女の未来を感じさせてくれたら、もっと点数が上がったのですが。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



キャンピングカーの一家と一緒にフランスに入ったハンナですが、その後を尾行してくる車に気づき、停まったとき、走って逃げ出します。追ってくる車の連中、彼らと格闘となり、相手を殺してしまうところを親友と思っていたソフィに目撃されてしまいます。追い詰められたハンナは海に飛び込んで姿を消します。しかし、メリッサが、ソフィの弟に尋問し、行き先が判明してしまいます。一方、ハンナはインターネットを使って、自分の過去について調べます。母親のヨハンナは、エリックが殺したことになっており、また彼女の実の父親ではないことがわかります。そこは、廃墟となった遊園地の中のグリムの家で、奇術師の男が待っていました。そこへ、メリッサたちがやってきて、男はハンナを逃がします。そして、エリックと再会するハンナ。彼女はエリックの子供ではなく、CIAの遺伝子操作による兵士養成プロジェクトの中で、ヨハンナから生まれた子供だったのです。プロジェクトの終了とともに関係者は全て消されたのですが、エリックとハンナだけが生き延びていたのです。そこへ追っ手がやってきて、格闘となるのですが、エリックはメリッサに撃たれて死亡。ハンナは、廃墟遊園地の中でメリッサとの1対1の対決となります。弓矢を使ってメリッサを仕留めますが、ハンナ自身もメリッサに撃たれてしまいます。息絶えるメリッサを見下ろして、ハンナが一言「心臓をはずしたわ」。そしてハンナというでかいタイトル文字が出て、エンドクレジット。

ハンナがスーパー少女だったのは、エリックの教育だけでなく、もともと優性となる遺伝子操作によって生まれた素質があったからだということがわかるのですが、ずいぶんとかわいそうな設定です。自分の出生の秘密を知って、泣き叫ぶハンナが痛々しかったです。親友のソフィも失い、父親も失い、メリッサも殺してしまったハンナには何も残っていません。この先、残されたのは、他人より秀でた殺人&スパイ能力。アンジェリーナ・ジョリーの「ソルト」に似た結末ですが、ハンナは彼女ほどタフでもありませんし、世間の常識を知らないのです。また、この映画自体が、ハンナが実の母親を殺した女への敵討ちなんですが、それ以上のドラマとしての膨らみを持てなかったところに物足りなさを感じてしまいました。

オープニングの雪原、モロッコの砂漠、オアシスなどのロケーションが魅力的で、アクションシーンも派手さを押さえて、リアルさを前面に出しているところなど、好感が持てるところも多いのですが、お話にどこか救いのなさが感じられて、娯楽映画として楽しめきれませんでした。「ハンナ、かっこいい」って感じで突っ走ってくれたら、まだ楽しめたのですが、出生の秘密でダメージを受けちゃうあたりで、普通の女の子の顔を見せるので、そうなると彼女の運命ヘビー過ぎるよなあって気分になってしまうのですよ。ジョー・ライトの演出がヒロインを細やかに描いた結果、リアリティが重くなっちゃったという感じかしら。

「エッセンシャル・キリング」はシンプルな映画なので、感じ方は人それぞれと思います


今回は、新作の「エッセンシャル・キリング」を横浜シネマベティで観てきました。フィルムでの上映でしたが、意外と音の立体感があって、設備を新調したのかしらって思っちゃいました。スクリーン前に幕がある映画館はやっぱりいいわあ。

アフガニスタンの山岳地帯、米軍のヘリコプターと陸上部隊が偵察中です。その山の中の洞窟に隠れていた男(ヴィンセント・ギャロ)が、陸上部隊にバズーカ砲を発射、3人を吹っ飛ばしてしまいます。ヘリコプター部隊に見つかった男は、捕虜として米軍基地に送り込まれます。しかし、彼は尋問されても拷問されても何もしゃべりません。他の捕虜と共に、さらに移送されることになったのですが、途中でトラックが事故を起こし、男一人だけがトラックから放り出されます。雪におおわれた夜の森を逃げ出す男。途中で、出会った民間人を殺して、その車と服を奪います。米軍の捜索部隊は、ヘリと猟犬を使って、彼を追跡していました。彼の脳裏をよぎるのは恋人らしい女性とイスラム教の教え。彼、犬の追跡をまき、製材トラックに乗って移動します。蟻や木の皮を食べて飢えをしのぎながら、ひたすら逃げ回る彼。追ってきた兵士を殺して、その衣服を奪ってさらに逃亡は続きます。途中で、製材所の男を殺してしまうのですが、彼自身も怪我を負ってしまいます。通りがかりの親子連れを襲って母乳をむさぼることまでする彼はどこへ行こうとしているのでしょうか。そして、とある家の前に来たとき、その中にいた若い女と目が合うのですが、意外なことに女(エマニュエル・セリエ)は男を家に招き入れるのでした。

ポーランドのイエジー・スコリモフスキーが共同脚本を書き、監督した作品です。この人の映画は「アンナと過ごした4日間」しか観たことないのですが、何だか変な感じの映画だなあっていう印象でした。この映画も突然、どこか山岳地帯を旋回するヘリコプターの絵でお話が始まり、アメリカ兵が山岳地帯を移動していると、そこへ主人公がバズーカ砲をぶっ放すのです。主人公が何者で、なぜ発砲したのかはわかりません。ただ、そこにいたという設定しか観客には示されないのです。彼が捕虜になってからも何も語らないので、その素性は不明のままです。

ただ、彼の中にイスラム教の教えがフラッシュバックしますので、アラブ側の人間らしいということはわかります。この教えというのが、神のために行動すれば、生き残っても死んでも祝福されるというもの。生と死が隣り合わせの世界を垣間見たような気がしました。私なんか、死へ至る道は山を登るようなもので、五合目あたりでボケ始めて、八合目あたりで体が自由に動かなくなって、最後に死に登りつめるというようなプロセスを考えています。だからこそ、死が、そこへ至るまでの過程も含めて怖いのですが、この映画の主人公の世界では、そんな面倒な段取り抜きに簡単に死がやってくるようなのです。だからこそ、死んだあとでの祝福が約束されてるって信じる必要がある。確かに、神の名のもとに戦争しているから、そういう思想教育をする必要があるのでしょう(日本だと靖国神社)けど、その死生観の違いが、私には驚きでした。その死生観があった上で、主人公は他人を殺すことも厭わずに生き残ることに執着するのです。

彼は、自分がどこにいるのかもわからず、ただひたすら逃げ続けます。どこへ行くあてもないようです。映画の前半は、追跡者のアメリカ軍が描写されますので、普通のアクション映画のように見えるのですが、やがて、追跡者が姿を消すと、主人公がひたすら逃げ回るだけのファンタジーのような趣になります。前半は、主人公が殺人を犯すシーンも出てきます。生き残るためには、殺人もやむなしという感じなのですが、そのあたりは、「ランボー」系アクション映画の味わいが感じられ、戦争映画の作りになっています。ところが後半、主人公の行動がただ「生きる」ことのみに絞り込まれると、寓話のような展開になってきます。自然の中でただ逃げるだけの男に目的地はありません。逃げるという行動は、さらに生き残る、究極的には生きることに純化されます。飢えをしのぐために、蟻や木の皮も食べますし、さらには赤ん坊の母親の母乳にまで食らいつきます。どこに行くあてもないのに、ひたすら走る主人公を見ていると、生きるということが、実はすごくシンプルなことなのかもしれないと思えてきます。突き詰めてしまえば、生きるってのはこういうことなのかもしれないという気分になってきます。ただ、監督がそれを狙っているのかというと、そうは思えない結末が待っているのです。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



たどり着いた家には、若い女が一人でいました。ダンナは酒場に行ったきりのようで、女は口がきけないようです。彼女は倒れた男を部屋の中に運び込み、服を脱がせて傷の手当をしてくれます。村の人間が「銃を持った危険人物がひそんでいるから気をつけろ」と言いに来ても、男のことを知らせません。なぜ、彼女が銃を持った得体の知れない男をかくまったのかはわかりません。このあたりも、リアリティよりは、ファンタジーの味わいがあります。しかし、生きるために一人で闘ってきた男に、手を差し伸べる者が現れるとき、ドラマは終幕に近づきます。そして、白い馬に乗って去って行く男を見送る女。傷が悪化したのか、血を吐きながら馬を進める男。そして、雪原を血のついた馬だけが走っていくところで、暗転、エンドクレジット。え、これで終わり?って感じ。83分という長さもあって、ドラマチックな盛り上がりを見せないまま、映画は終わってしまいます。

結局、主人公が目的地を見つけれらないまま、死んだことが暗示されるラストは、観客からしても、結末のないドラマを見せられたような気分になります。生と死が隣り合わせであることは、映画の前半から何度も出てくるのですが、ラストでもそれを念押しされたような気分になります。生きることを描いているのかと思っていたのですが、結局、死を描いた映画だったのかもしれません。「エッセンシャル・キリング」というのは、主人公が必然的に犯してしまう殺人を指したものかとも思ったのですが、結局、人間は死に向かって追いやられるということを表現した言葉なのかもしれません。逃げ回る男が最後に行き着くところは最初から決まっていたのではないかしら。前半のリアルな戦争映画から、後半の寓話的な展開になっていくとき、死は戦場の殺し合いの結果ではなく、普遍的な人間の行き着く先に変わって行くのです。監督の狙いはわからないのですが、前半と後半で映画のタッチが変わることで、死の持つ普遍性が高まっているように感じました。

物語がシンプルなだけに、観る方で様々な解釈ができる映画です。ひたすら逃げるだけの男から、生きることを感じ取ったのは、私がいつも逃げの生き方をしているからかもしれません。ただ、逃げること、生き抜くことの力強さは伝わってきます。一言も言葉を話さないヴィンセント・ギャロは熱演ではあるのですが、キャラが明確に伝わってこないので、そこに生きている存在感だけが強烈に前面に出てきます。キャラがないので、感情移入しにくいのですが、その分、純粋な生命感を感じさせることに成功しています。娯楽映画としてオススメできるかというと、微妙なところなのですが、懇切丁寧な説明過多映画ばかり観ている人には新鮮に感じられると思います。

「キッズ・オール・ライト」に見るいい感じの心地よさが好き


今回は夏休みで、伊勢神宮へ旅行しまして、そこで立ち寄った伊勢進富座の別館で、東京での公開を終えている「キッズ・オール・ライト」を観て来ました。住宅街の中に2スクリーンを持つ小さな映画館ながら、ラインナップの充実振りがすごいと感心。私が鑑賞した別館も48席の割りに、スクリーンサイズもそこそこあり、天井が高くゆったりした鑑賞空間を作り出しています。スクリーン前にスピーカー2台がむき出しに置いてあり、デジタル音響ではないのですが、まずシネコンでは上映しない作品を選んだ番組づくりが素晴らしく、近所にこういう映画館がある伊勢の人はうらやましいなあってつくづく思いましたです。

18歳の娘ジョニ(ミア・ワシコウスカ)と15歳のレイザー(ジョシュ・ハッチャーソン)は両親との4人暮らし。といっても、ママが二人、ニック(アネット・ベニング)とジュールス(ジュリアン・ムーア)のカップルがそれぞれ一人ずつ精子バンクから種を得て、子供を産んだのでした。ジョニは両親に内緒で、自分の本当の父親を探し出そうとします。当人が拒否しなければ、意外と簡単に情報を教えてくれるらしく、ジョニとレイザーの生物学的な父親は、レストランオーナーのポール(マーク・ラファロ)という割とまとも、というよりはちょっといい男。変なおっさんが父親でなくて一安心のジョニとレイザーですが、それ以上にだんだんとポールになついてしまうのですよ、この姉弟。そして、ニックとジュールスにも、ポールを紹介しちゃいます。それまでは、普通とは違う形をとりながらも、なんとなくうまくまとまってきた4人だったのですが、ポールの出現によって、その関係に微妙な力がかかり始めます。父親のようなポールになついた子供たちは、ニックやジュールスに距離をとるようになり、ジュールスはポールに男を感じるようになり、家長であったはずのニックはその地位を脅かされ始めてしまうのです。果たして、一家とポールの落ち着く先はいかに?

リサ・チョロデンコの監督作品で、チョロデンコがスチュアート・ブラムバーグと共同で脚本を書いています。ゴールデン・グローブ賞を受賞したとか、アカデミー賞4部門ノミネートなど、プログラムを読むとあちらこちらの映画祭で受賞やノミネートをされている映画です。まあ、そういうことは映画を観た後にプログラムを読んで知ったので、映画に臨んだときは、いわゆるアメリカのホームドラマの変化球なのかなという印象でした。「リトル・ミス・サンシャイン」とか「イカとクジラ」の類なのかなと思っていたのですが、斜に構えたり、笑いに走ったりしないマジメな映画だったのがまた意外でした。主演二人はコメディ部門の女優としてノミネートされているので、一応はコメディになるのかもしれませんが、実際のところは、そこそこうまく行ってた家族にささやかな波風が立つというお話でした。ただ、その家族が子持ちのレズカップルってところが今風な設定です。そして、家庭の中に起こるゴタゴタもその設定が原因になっているもので、普通の家庭ではあまり発生しないパターンのものです。そこが目新しいと言えば言えなくもないのですが、登場人物それぞれの心の動きは、うんうんわかるよね、そういう感じというものなので、奇をてらったドラマになっていません。そこが、脚本のうまさだと思うのですが、設定の面白さの方で過大評価されちゃってんじゃないのみたいなところが、ちょっと気になりました。

ニックは女医さんとして一家の家計を支えています。ジュールスはいわゆる主婦なんですが、ガーデニングの仕事をしたくて仕方がありません。ジョニは大学に進学して寮に入るので、もうすぐ家からいなくなります。レイザーは悪い友人との関係をニックたちにゲイではないかと勘違いされちゃいます。まあ、そんな平凡な風景の中に、ポールというこれまでとは異質の「男」が一家の中に介入してくるので、話がややこしくなっちゃいます。ポールは、子供たちにとってある意味、理想の父親のように見えます。そして、ポールは自分の家の庭づくりをジュールスに依頼します。彼女にとっては、初仕事のうれしい話です。ところが、さらにポールとジュールスが関係を持ってしまいます。一家の中で起きた不倫事件というわけです。ニックは、ポールの家で、二人の情事の証拠を見つけて逆上、でも、ジュールスはポールに走るつもりは毛頭なく、魔が差した過ちだったとニックに謝罪します。そのことをしったジョニも大ショック、理想の父親がただの不潔なオヤジになってしまったのですから。ジョニのところに弁解しにきたポールに、ニックは「家族は自分で作るものなのよ」と言ってドアを閉ざしてしまいます。

マーク・ラファロがポールというキャラを非常に丁寧に演じて、ドラマに深みを与えています。いわゆるいい男で、愛人もいるんだけど、その愛人には「人生の本当の伴侶を見つけたい」という理由で別れ話を持ち出します。レストランへの情熱もあるけど、何かが足りない、それをジュールスに求めているようにも見えるのですが、彼ら一家を崩壊に追い込む根性まではない、調子いいようで、どこか不細工ないい男という感じでしょうか。もともと実直なキャラを演じることの多いラファロだけに、今回のいい男なんだけど、根っこがないキャラは意外性もありました。

アネット・ベニングは相変わらず強い、というか強がる女性を好演していまして、勝気なキャラがうまくはまる人だなあと感心。一方のジュリアン・ムーアは対照的な弱めキャラを達者にこなしていまして、そのバランスの良さが一家のまとまりを感じさせ、それが異人種(表現不適切かな)であるポールによってかき乱されてしまうという構図がうまく表現されていました。ラスト近くの小さなエピソードにこんなのがありました。4人でジョニの寮に荷物を運んでやるのですが、一人で荷解きをするからとみんなを部屋を追い出したジョニが、不安になって外に出てみると、3人ともちゃんとそこにいて「何言ってんの、車を動かしてただけよ」ということで、ジョニはほっとするのですが、こういうちょっとした気持ちの積み重ねで家族ってのはつながってるんだよなあってのがよくわかる、心に残るエピソードになっていました。この母親二人の子供二人の家族に起こった、種親の出現と不倫騒動は、実はどの家族にだって似たようなことは起こりえます。この映画では、その事件を、普通の家族で起こったささやかな波風のように描いているところに味わいがあります。ただ、普通の家族に普通の事件が起きる映画では、魅力が今イチということで、レズカップルの2人の子供という設定をとったのかなって気もしました。

原題は「Kids are all right」というもので、子供たちは大丈夫くらいの意味になるのでしょうか。大人たちがゴタゴタしている割には、子供たちは意外と平気でちゃんと成長していくんだなというお話になっています。大上段に振りかぶったところがなく、誰かを責めることもなく、かと言ってひいき目に見ることもしないで、淡々と描いているところが面白い映画でした。そんな、フラットな視点を持った映画だけど、ちゃんとコミカルな味わいでテンポよく展開するあたりにチョロデンコ監督の娯楽映画監督としての腕前を感じました。しんみりするシーンはないけれど、家庭内の危機とかいざこざ、そして和解がきちんと描かれているのが、心地よい後味を残します。

「テンペスト」は、「タイタス」のスタッフが作ったとは思えないライトなファンタジー


今回は、東京での公開を終了している「テンペスト」を静岡シネギャラリー1で観て来ました。50席弱の小さな映画館なんですが、最近、小さな映画館に慣れたせいか、小さくてもやっぱり映画館で観るもんだよなあって気分になってきました。大劇場が3Dばかり上映しているのでその反感からかもしれませんが、かつては気になった画面サイズが気にならない鑑賞となりました。シネスコサイズの画面がそこそこ大きく感じられましたもの。

嵐の海、ナポリ王アロンゾー(デヴィッド・ストラザーン)一行を乗せた船は難破して、とある島に流れ着きます。でも、その嵐は島に住むプロスペラ(ヘレン・ミレン)が魔法を使って起こしたものだったのです。彼女はかつてはミラノ大公の王妃だったのですが、夫の死後、弟アントーニオ(クリス・クーパー)の謀略により娘とともに船で追放されたのでした。かつての配下だったコンザーロ(トム・コンティ)の計らいで、本や着物などの身近な品々は一緒に船に乗せられ、母娘は島にたどりつき、そこでプロスペラは魔術の力で島をとりしきり、娘のミランダ(フェリシティ・ジョーンズ)は美しい娘に成長していました。プロスペラは空気の妖精エアリエル(ベン・ウィショー)を使って、自分を失墜させた連中に復讐しようとしているのです。アロンゾーたちは島の中をさまよい歩くことになりますが、アロンゾーの息子、ファーディナンド王子(リーヴ・カーニー)はミランダと出会い、一目で二人は恋に落ちるのでした。一方、アントーニオは、エアリアルの魔術で眠り込んだアロンゾーとコンザーロを見て、アロンゾーの弟セバスチャン(アラン・カミング)に二人を殺して、ナポリとミラノを牛耳ろうとたきつけます。絶海の孤島で展開する、プロスペラの復讐劇はいかなる結末を迎えるのでしょうか。

シェイクスピア原作の「テンペスト」を、「タイタス・アンドロニカス」を脚色、監督したジュリー・テイモアが、脚色し、監督もしています。「タイタス」が残酷・非道なお話をほぼそのまんま映像化していただけに、この映画もどういうお話になるのかちょっと不安でした。原作を読んでいなかったこともあるのですが、基本は、復讐譚ということなので、またドロドロなお話なのかなと思っていました。しかし、映画自体は意外や、コミカルな味わいと美しい映像、そして一応のハッピーエンドにまとまるという素直に楽しめる映画に仕上がっています。原作では、主人公は男性だそうですが、それを女性にしたのは、テイモアの脚色とのことで、そのこともドラマの殺伐さを和らげているのかもしれません。

サブキャラとして、登場する邪悪な怪物キャリバン(ジャイモン・フンスー)や、道化師トリンキュロー(ラッセル・ブランド)と酒樽係ステファーノ(アルフレッド・モリーナ)は、本筋とは絡まない、完全にコメディリリーフとしての扱いになっています。彼らが登場するとドラマのカラーが明らかに変わるあたりはご愛嬌というところなのですが、舞台劇の雰囲気もそんな感じなのだろうなと思いました。緊張と緩和でドラマが成り立っているですが、それをはっきり見せるのが逆に新鮮に感じられました。でも、メインのドラマもそれほどドラマチックに盛り上がるわけではありません。プロスペラが大見得きって恨みつらみを並べるシーンはありませんし、復讐される方も最後まで、自分たちが復讐の対象だったことを知らないという、復讐劇と呼ぶにはかなりのんびりとした展開になっています。

むしろ、ドラマ性を感じさせるのは、本筋と直接関係ない空気の妖精エアリエルですとか、プロスペラの雑用係をやっている怪物キャラ(島に昔いた魔女の息子だったらしいのですが、扱いはフリークですね、これは)のキャリバンといった、人間じゃない皆さんの方です。エアリエルは、島の木の中に埋め込まれていたのをプロスペラが助けたことから、彼女の僕となって、今回の復讐劇の実行者として活躍します。でも、早く自由の身になりたいという気持ちを持ち、妖精なのに人間に同情する心も持ち合わせています。キャリバンは、いわゆる醜い心と姿を併せ持つキャラでして、プロスペラからもひどい扱いを受けているのですが、文句を言いながら従っているという状態です。彼らは、最終的にプロスペラの復讐の完了とともに、自由の身になります。この映画の登場人物があまり直接行動を起こすことがないので、その分、この二人が目立ったということもありましょう。特にフリークのような存在のキャリバンは外見の奇怪さと愚かさ故に差別される存在になっていますので、どこか釈然としません。演じているのが黒人のジャイモン・ウンスーですしね。一方のエアリエルは白人の中性的なキャラ(いわゆるボーイズラブ系キャラ)で意図的に美しい見せ方をしていますから、意図的に差別感出している節はあります。主演陣の復讐部分が割と淡白に描かれているので、この二人のキャラの方に目が行ってしまいました。

一応、ドラマのキーになっているはずであろう、ミランダとファーディナンドの恋模様なんですが、二人とも大舞台を支えるには正直小粒感が否めませんで、田舎の坊ちゃんとおぼこ娘のお見合いみたいな感じになっちゃってました。それによって、微笑ましい味わいが生まれたのは事実ですから、狙ってやっているのかもしれませんが、もう少し際立つカップルであった欲しかったように思います。

メインのストーリーは、プロスペラの復讐ということになるのですが、結局、その対象となるアロンゾー、アントーニオ、セバスチャンの3人は、彼女の住む洞窟に招かれるのですが、そこで悪事を非難されるのですが、それ以上の罰を受けることはありません。そして、ミランダとファーディナンドの若い二人に未来が託されるという流れになり、最後にプロスペラは魔法の杖を海に投げ捨てるのでした。まあ、めでたしめでたしなんでしょうけど、復讐物語なのに、誰も死なない、誰も傷つかない、勧善懲悪なのかどうかも釈然としないというのは、かなり不思議なお話だと思いました。シェイクスピアの原作を読んでいないので、何とも言えないのですが、物語としてのカタルシスを欠くお話ではないかしら。

セリフ回しはいかにも舞台劇らしい、もってまわった言い回しになっているのですが、島のロケーションやセットに広がりが感じられないので、舞台劇そのものを見ているような気分で見ることができました。タイトルデザインで知られるカイル・クーパーの視覚効果は、エアリエルを美しく見せることに多用されているようで、嵐のリアルさや、魔術のおどろおどろしさは強調されていません。全体としては、美しいビジュアルを見せるための映画ということになりましょうか。ただ、正直、見終わった時の印象は、これは一体何の映画だったんだろうということでした。舞台劇風セリフ回し、コミカルな展開、ファンタジックな映像、重厚さをわざと避けた音楽、でも復讐劇。色々な要素が混然としたまま、一本の映画にぎゅっと押し込められている感じでしょうか。

私が、シェイクスピア+ジェリー・テイモアというと、「タイタス」のインパクトが強すぎて、その先入観に引きずられてしまったのかもしれません。深読みしないで、素直に観れば、根はやさしい魔女のファンタジーとして楽しめる映画なのかも。

「コンコルド」は映画はダメダメでも音楽はなかなかの佳曲、愛聴盤の一枚です。



1979年と言いますから随分と昔の映画「コンコルド」のサントラは、イタリアの職人作曲家ステルビオ・シプリアーニの手によります。映画は、「食人族」のルッジェロ・デオダートが監督し、主人公にジェームズ・フランシスカス、悪の黒幕にジョセフ・コットン、墜落したコンコルドのスチュワーデスにミムジー・ファーマー、危機に陥るコンコルドの機長にバン・ジョンソンと、イタリアB級映画らしい顔ぶれをそろえています。それでも、一応パニック映画の体裁をとっているのですが、やっぱり安い。そんな映画に、シプリアーニはメロディアスで美しい音楽をつけました。

メインテーマは、パニック映画らしい緊迫感のあるリズムにテーマのメロディが流れるもの。今のような勢いで押し切る音楽ではなく、きちんとメロディが前面に出てきます。この後の曲では、ゆっくりとしたリズムにメインのメロディが流れるというもので、これが当時のサントラ盤の必須アイテムであった「愛のテーマ」になっています。最近の映画音楽がやたら殺伐としてるのは、「愛のテーマ」をアルバムに入れないからじゃないあかという気がしています。その後の曲も「愛のテーマ」のバリエーションが多く、緊張感のある曲のバックにも、愛のテーマのメロディが流れていまして、その徹底ぶりはお見事と言うべきでしょう。クライマックスでコンコルドが遭難しかけるシーンはドラマチックなオーケストラサウンドをつけており、下手をすればC級になっちゃう映画をB級レベルにまで救い上げています。中盤のリゾートサウンドも楽しいですし、同じ愛のテーマを、やさしいラブテーマとドラマチックサウンドに使い分けているあたりの職人芸も堪能できます。

映画公開当時に、日本盤のサントラLPが発売されましたが、今回、別編集のアルバムが発売されました。といっても、mp3ダウンロードだけの販売のようです。曲数もぐっと増えて、サントラLPよりもサスペンス色が強い曲が増えています。でも、アルバムとして聞くには、曲数の少ないサントラLPの方がBGMとしても楽しく、シプリアーニの美しいメロディを堪能できます。使われている曲をありったけぶちこむサントラ盤も映画の再現として楽しいのですが、どちらかというとマニア向けになりがちです。アルバムとして聞くには、それなりに聞き手の立場に立って楽しめる音でまとめるというやり方もあると思いますし、BGMのCDとしてはそっちの方が楽しめたりします。最近、昔のサントラ盤を未収録曲を加えて再発売するケースがよくあるんですが、正直アルバムとしてバランスはよくないように思います。

「シャンハイ」舞台装置と設定はバッチリなのに、お話が弾まないのはなぜ?


今回は新作の「シャンハイ」を川崎チネチッタ9で観て来ました。そこそこのキャパとスクリーンサイズを持つ映画館なのに、シネスコサイズになるときは、横幅そのままで縦が縮まるのはちょっと残念。

1941年の上海は、いくつもの租界が各国の勢力分布を示していました。アメリカの諜報員ポール(ジョン・キューザック)は、同僚のコナーと連絡をとることになっていたのですが、彼は何者かに殺害されていました。コナーは中国人ランティン(チョウ・ユンファ)を捜査していました。カジノで偶然見かけた女性が気になっていたポールですが、実は彼女はランティンの妻のアンナ(コン・リー)でした。一方、コナーは日本人スミコ(菊池凛子)と関係を持っていた事実をつきとめます。そして、パーティで紹介された田中大佐(渡辺謙)もコナーの死に関係しているようなのです。アンナは、反日レジスタンス組織に一枚噛んでいて、衰弱したスミコをかくまってもいました。田中も、スミコの行方を追っていました。そして、太平洋戦争が始まり、上海に日本軍が侵攻してきました。ポールは、事件の真実に迫ることができるのでしょうか。

「1408号室」「ライト エクソシストの真実」などのミカエル・ハフストロームの監督作品でして、太平洋戦争直前の上海を舞台に、アメリカ諜報員、日本人大佐、中国人レジスタンスたちが暗躍するドラマを作り上げました。私は「ライト」しか観ていませんので、この監督さんの力量は量りかねるのですが、こういう歴史ドラマをさばくのは、意外という印象でした。正体不明のスミコという若い女がキーとなってドラマが展開するのですが、その一方で、ポールは、死んだコナーの集めていた情報から、日本軍の不穏な動きを知ることになります。ポールの上司(デビッド・モース、今回はもったいない使われ方)は、アメリカに追い詰められている日本が戦争にうって出るとは考えていませんでした。一方、ポールとアンナがお互いに何か特別な感情を抱き始める関係が描かれていきます。

ドラマの舞台として、1941年の上海というのは、最高の設定だと思います。戦争が間近に迫っていて、日中米欧の各国の思惑が交錯する歴史のるつぼともいうべき場所。そこには、ミステリー、サスペンス、ラブロマンス、政治ドラマ、あらゆるジャンルの物語が生まれる可能性があります。この映画の主人公は、アメリカの諜報員というのですから、どんなドラマへも発展させることができると期待させるのですが、これが、残念ながら、どっちへも発展しないのですよ。主人公のポールが何をしようとしているのかが見えてこないので、ドラマとしての腰を弱めているのかもしれません。映像的には、セットも撮影も見事で、重量感のある絵を見せてくれています。上海の町のセットもCGも交えて、時代感を見事に表現しています。ところが、そこで展開する物語には、ドラマが感じられませんでした。エピソードの羅列のようにしか見えないのですよ。ポール、田中、ランティン、アンナといった物語の中心人物にバックボーンというか奥行きが感じられないのです。全ての行動が思いつきみたいで、そこに至るまでの、過去やらしがらみやらが垣間見えてこないのです。映像が重厚な分、人間の薄さが余計目に目だってしまったという感じでしょうか。

ひとつだけネタばれをさせてもらうと、この映画は、太平洋戦争開戦前夜を描く政治サスペンスではありません。予告編を観たときはそういうお話かなと期待したのですが、開戦に向けての日本軍の動きに重きを置いたお話ではありません。そっちへお話を持って行ってくれたら、ごひいきデビッド・モースの出番も増えて、お話的にも盛り上がったのでしょうが、モースの扱いはほんの脇役で残念。じゃあ、反日レジスタンスと日本軍との対立を軸にドラマが進むのかというとそうでもない。結構な死人が出るお話の割りには、扱ってるネタが小さいんですよ、これが。それは、監督じゃなくて脚本の責任だということになりましょう。ただ、脚本としては、これを戦争という運命に翻弄される男女の生き様を描こうとした節は見えます。この映画に登場する2組のカップルの結末を見ると、何か切ないねと思わせるところがあるのもまた事実。ところが、脚本と監督が一体になったときに、変な化学反応が起こったのか、どっちつかずの物足りない映画になっちゃたようです。(これはあくまで私見です。この映画を堪能なさった方にはごめんなさい。)

なかなかシネスコの画面が美しいなと思ったのですが、撮影のブノワ・ドゥロームという人は、セドリック・クラビッシュ監督の「猫が行方不明」「家族の気分」で明るいが画面づくりをした人でした。題材によって仕事ぶりも変わるのか、登場人物をソフトフォーカスでとらえて、画面の奥行きを出すことに成功しています。そういう映像面ではなかなかに見せ場の多い映画だと言えましょう。ただ、ドラマの方は、オフィシャルな部分のパーソナルな部分のバランスに独特の配分がありまして、それに共感できると楽しめると思います。私は、オフィシャルな部分での開戦秘話とか抗日レジスタンスの部分に重きを置いて欲しかったと思った次第です。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



アンナがかくまっていたスミコという女性はアヘン中毒で、もう長くはありませんでした。そして、彼女は、田中大佐の愛人だったのです。田中は本気でスミコを愛していたようでした。それを知ったコナーはスミコに接触して日本軍の機密を聞き出そうとして、田中の部下に殺されていたのです。ランティンは、スミコの居場所を田中に密告し、その代わりにアンナの命を救う取引をします。スミコがかくまわれている場所に向かったポールとアンナですが、スミコは衰弱していてもう虫の息。そこへ田中がやってきて、彼女に薬を打って死なせてやります。その後、ランティンたちと銃撃戦になり、田中も撃たれてしまうのですが、そこへ日本軍が侵攻してきて、租界内は大混乱になります。外国人だけは何とか出国できそうだということで、ポールはアンナを自分の妻と詐称して、国外へ出る船に乗ろうとします。乗船口には負傷した田中が立っていました。田中とポールは目が合うのですが、田中は黙って、彼らの乗船を許可します。そして、上海を出たポールとアンナですが、アンナは再び自分を抗日運動に投じるために上海に戻っていくのでした。

もし、この映画にドラマチックになり得る要素があるのだとしたら、スミコの存在があると思いますが、菊池凛子は出番も少なく、出ても死にそうなだけで演技のしどころがなかったように思います。彼女に対する田中の思いも十分に描ききれたとは言い難く、スミコのために何人も人が死ぬ必然性はないよねって思えてしまうのは、この映画の弱点でしょう。アンナを演じたコン・リーも、その気になれば、ファム・ファタールとして位置づけられてもいい儲け役のはずなんですが、どこか芯を欠くというか弱っちい女性になっちゃっているので、ドラマを支えきれないのです。ドラマとしての決め手を欠くみなさんの群像ドラマということもできるかもしれませんが、それなら、それでもっと話を面白く見せて欲しかったように思います。街としては、繁栄しているように見える一方で抗日運動で緊張感がみなぎっている、そんなドラマにするには最適の舞台で、政治も歴史も絡まないドラマを作っちゃうってのは、企画の時点で無理があったのかもしれません。

演技陣では、コン・リーが貫禄の演技を見せて印象的でした。田中大佐を演じた渡辺謙も腹黒いけど人間性もある日本軍人を好演しています。一方、主演のジョン・キューザックと、チョウ・ユンファは何を考えているのかよくわからないまま、最後まで行ってしまいます。キューザックには、歴史の目撃者的なパートが割り当てられていたのかもしれませんが、優柔不断で共感を呼ばないキャラクターになっちゃっていました。そう考えると、誰に感情移入してドラマを楽しめばいいのかがよくわからない映画だということになるのかしら。登場人物みんな悪者という映画もあってもいいのですが、この映画では、キューザックが半端にヒーロー面するので、余計目にドラマの軸が見えにくい映画になったのだと思います。

なお、007シリーズのアクション監督、ヴィク・アームストロングが参加していまして、銃撃戦などのアクションに意外な迫力を与えています。そういう派手なアクションを生かすドラマ作りをすればいいのにっておもっちゃいました。

「ツリー・オブ・ライフ」は万博のパビリオンで見た映像を思い出しました。


今回は新作の「ツリー・オブ・ライフ」を川崎チネチッタ4で観て来ました。そこそこのキャパながら、画面が大きい映画館で、この映画を観るにはふさわしい映画館。というか、ミニシアターでこの映画は無理だよなあ。


オブライエン(ブラッド・ピット)には3人の息子がいました。厳格な父親に子供たちは反発を感じ、寛容さに満ちた母親(ジェシカ・チャスティン)になついていました。そんな兄弟の次男は19歳で死亡、そして、成長した長男ジャック(ショーン・ペン)は父親との間の確執がまだ癒えていなかったのです。

「天国の日々」や「ニュー・ワールド」で知られるテレンス・マリックの新作でして、彼が脚本を書いて演出し、カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞しました。そう書くと、何やら小難しい映画を想像してしまうのですが、その通り、素直にストーリーを楽しむ映画にはなっていません。この先は、アートとは無縁なオヤジ目線でこの映画について書きますので、芸術的鑑賞を期待されている方はパスしてください。

記事の冒頭で、あらすじを3行でまとめてしまったのですが、実際、そういう映画なんです。ブラピ演じる父親は、利己的で家族を支配したがる生臭いオヤジです。一方の母親は、正反対の天使みたいな人です。その狭間で長男のジャックは、最初は父親のご機嫌を伺うような子供だったのですが、成長するに連れて、父親への反抗心がどんどん大きくなっていきます。その過程を素直なドラマで描くのではなく、色々なイメージ映像をつなげながら何となく見せていくのですよ。特に、途中、ドラマを離れて宇宙創成から、地球が生まれ、生命が生まれるなんていうイメージを延々と見せられるのですよ。地球誕生のドキュンメタリーをCGとか火山噴火の実写映像で見せたりするテレビ番組がありますけど、あんな感じです。音響と映像がなかなかの迫力がありまして、こういうのどこかで見たような気がするなあって思い出したのが、万博の映像パビリオンの大画面映像でした。ああいう、博覧会の映像展示って、イメージ先行のよく意味がわからないのを勢いで、どっかんと見せるのがあるじゃないですか、あんな感じなんです。ですから、テレビ画面やミニシアターで観るにはふさわしくない映画と言えます。万博のパビリオン(使っていて気付いたのですが、この単語、若い人には通じるのかな。企画ものの映像アトラクションと同じ意味です。)気分を味わえるでかい映画館のやや前の方で観る映画になっています。テレビ画面で観たら、ワケわからなくて退屈するのではないかと思えるのですが、大画面と立体音響効果の中では、「何だかすごい」ってな感じで惹きつけられるものがありました。また、既成曲の使い方もツボを押さえていて、スメタナの「モルダウ」の冒頭が流れるだけでゾクゾクするものがありました。音楽担当は、アレクサンドラ・デスプラなんですが、彼の音楽はどこで流れていたのかしら。全部、既成曲みたいなインパクトのある音楽でした。

そのイメージ映像で描かれる生命誕生までの時間の流れが、ドラマとどう絡むのかというと、正直なところ、あまり絡んでこないのですよ。主人公のジャックとその母親が、ナレーションで、神に対して語りかけるのですが、それを映像化しているようなのです。でも、ブラピを中心に回るドラマは、よくある親子の葛藤と対立です。兄弟の関係にせよ、嫌われ者の父親の存在にしろ、やたらやさしい母親の存在にしろ、それらは、よくある設定です。だからこそ、観客にも思い当たるところがたくさん出てくるのですが、見せ方が普通じゃない。編集や映像表現にやたら凝ったところは、「正気のデビッド・リンチ」と言いたくなるようなやりたい放題な映像になっています。クライマックスでは、海辺のようなところを多くの人が歩いていて、そこに父親や母親、少年時代のジャックや、今のジャックがいるなんてイメージが登場しまして、私は「これは三途の川か」と思ってしまいましたが、どうやら、生命の連鎖を表しているみたいです。解釈が色々とできる映像をつなげていまして、これ、まずコンセプトと予算があって、その後に物語をつけたという印象でした。コンセプトアートの中で、予算に収まるものを具象化して、後から親子の物語をつけたような感じなのです。まあ、そう感じたのは私だけかもしれませんが、観ている人の感情を揺さぶったり盛り上げる編集になっていないことからも、そういう印象を持ってしまいました。

ブラピ演じる父親は、いわゆる亭主関白で、子供にも自分への尊敬と従順を強制する、昔ならいくらでもいただろうなと思わせるやなオヤジ。それでも、幼い頃は父親の存在は絶対ですから、それなりに慕われているのですが、子供が成長するに連れて「死ねばいいのに」と思われちゃう、ある意味、自業自得、まあある意味かわいそうな人。一方の母親は、神か天使のごとき描写がされていて、人間的な評価は置いといて、子供たちにとっては安らぎの場となっています。そんな両親に育てられ、思春期を迎えたジャックは、「何も思うようにならない」と不満がばんばんたまってきます。自分を思うように扱うことができないので、それが自責の念にならず、欲求不満の形をとってしまいます。ああ、そういうの何となくわかるなあと思いつつも、ジャックに共感できませんでした。弟が、その欲求不満のはけ口みたいにされちゃうのがかわいそうでした。私も、子供の頃、歳が4つ離れた弟をよくいじめていたのを思い出して、自分のことみたいで、近親憎悪みたいなものを感じたからかもしれません。ともあれ、ブラピ一家のありようは、すごくリアルで、ありがち感ありあり。

そのリアルホームドラマが、原題である、生命の木につながるのかというと、ピンと来ないのですよ。普通にやったら、その飛躍ができないから、凝った編集や映像表現を入れ、さらに宇宙から生命の誕生までのイメージ映像を挿入して、お話の間口を広げましたという感じなのです。脚本、監督を兼任したということは、かなりやりたい放題やってると思うのですが、ちっちゃい話とでっかい話の両極端を並行して描かなきゃダメだったのかなあって気はしちゃいました。特に、大人になったジャックの存在がよく理解できませんでした。生命の連鎖の一部として描かれたのか、それとも、生命の連鎖を見届ける目撃者として登場したのか、どうとでも解釈できる部分ですが、ラスト近くで、海辺を若い頃の両親や、子供たち、そして年とったジャックが一緒に歩いているシーンがどうにも釈然としなくて、観終わってすっきりしない後味が残ってしまいました。前半のイメージ映像のつるべ打ちで、万博のパビリオンを思い出したというのが収穫だったかな。

ちなみにこの映画、2時間18分とかなり長めなんですが、その長さはあまり感じませんでした。ドラマ的な展開はあまりないのですが、映像のつながりでずっと見ていられる映画になっています。5人がかりで編集しているだけあって、観客を引き付ける映像のつなぎになっていることは事実のようです。また、余談ですが、視覚効果コンサルタントに「未知との遭遇」のダグラス・トランブルの名前を見つけたときは懐かしかったです。まだ、映像の世界で仕事してるんだなあって。

「スーパー!」は、スーパーヒーローもののパロディ? いや、でもマジに観るものでもなさそうな


今回はそこそこ新作の「スーパー!」を横浜ニューテアトルで観てきました。ここはシネコンにかからない映画の上映をするようになって、最近、足を運ぶことが増えた映画館です。

ダイナーのコックであるフランク(レイン・ウィルソン)はさえない中年男なのに、奥さんサラ(リヴ・タイラー)は超美人。同じ職場で知り合って、薬物依存症の彼女を助けてあげたのが縁だったのですが、そんな彼女が麻薬ディーラーのジョック(ケヴィン・ベーコン)について家出しちゃいます。連れ戻そうとして、ボコボコにされちゃうフランク。そんな彼がテレビのヒーローもの「ホーリー・アベンジャー」を観た後、神の天啓がひらめき、彼は変な仮装をした正義のヒーロー、クリムゾンボルトに変身しちゃうのでした。とは言え、普通の人ですから、スーパーパワーもなく、悪いことしてる人をレンチで殴るのが関の山。ヒーローになるためのネタを仕入れたコミックショップの店員リビー(エレン・ペイジ)と知り合いになるのですが、彼女がまた強烈なヒーローオタクで、自分もコスプレしてクリムゾンボルトの相棒ボルティになると宣言。ジョックの手下に襲われたジョックを助けたことで、彼女も相棒として認められ、そして、サラを取り戻すために、ジョックの屋敷に二人して乗り込んでいくのでした。

グロホラー「スリザー」の監督で知られるジェームズ・ガンが脚本と監督を兼任した、ヒーローものの変化球の一編です。そういうと「キック・アス」みたいと思われる方もいらっしゃる方もいるかもしれませんが、実際のところ、あたらずとも遠からず。パロディのようで、シリアスな味わいも入っていて、正義って何だろうってところに若干の突っ込みが入っているところは同じです。ただ、こっちの方が生身の人間度は高いですし、リアルな悲哀度もあります。ただ、それらひっくるめて、映画全体におちょくられているような気がするのも事実でして、「キック・アス」のシリアスさを、この映画で正面から受け取る必要はなさそうです。

主人公のフランクは見た目ぱっとしない中年男でして、これまでに幸福だったのは2回しかないという、ある意味かわいそうというか、私自身に近いキャラです。そんな彼の幸福の一つであった妻が麻薬ディーラーに奪われて、再びクスリ中毒になっちゃったのですから、これはかなり不幸度高し。そんな、彼に天啓がくだるのですが、そのシーンの描き方がまた変。部屋の周囲が光ったと思うと、あちこちから触手が出てきて、彼を押さえつけ、刃物を持った触手が、彼の頭を切開して、丸出しになった彼の脳みそを触手がなでなでするというもの。(文章で書くと、グロいですが、実際見てみるとバカバカしさが先に立って、そうでもありません。)そして、神からの天啓を受けた彼は自分で衣装をそろえて、正義のヒーロー、クリムゾンボルトとして、街を徘徊しては、悪いことをする連中をボコボコにするのですが、テレビのニュースでは連続暴行魔として扱われちゃいます。そして、サラを取り戻すべくジョックの家に向かうのですが、銃で逆襲されて撃たれてしまいます。彼が転がり込んだ先は、コミックショップの店員リビーの家。彼女が、また変なヤツで、彼がクリムゾンボルトとして大感激、彼の相棒となるべく自分もコスプレしちゃいます。エレン・ペイジが情緒不安定でテンション高い変な女の子を怪演していまして、結構かわいくてセクシーなんですが、どこか頭のネジがゆるんじゃっています。かわいいのに変なキャラということでは、日本で言うなら菅野美穂って感じでしょうか。興奮して、フランクを無理やり押し倒しちゃうあたりの暴走ぶりがおかしくも結構かわいかったです。

一方の、ジョックを演じたケビン・ベーコンは変なやつになりきっていて、これまた見事。相棒を演じたマイケル・ルーカーともども、どこか愛嬌と本気を持ち合わせた悪党を怪演しています。サラをクスリ漬けにしちゃうあたりのえげつなさが、R15指定になった理由なのかもしれません。まあ、クリムゾンボルトが、行列に割り込みした男をレンチで殴っちゃうシーンとかリアルな暴力シーンは結構登場しますから、お子様に見せるものではありません。後半は、さらにバイオレンス度アップして、派手な銃撃戦とか、人体爆発とか見せ場がたっぷり。そんな中で、ダメ男フランクの怒りに共感できるようになっているあたりに、ガンの演出のうまさがあります。もともとは、ささやかな正義の実行者であった筈の主人公が、殺戮にまで走ってしまうのは、唐突な展開ではあるのですが、そこに説得力を持たせたあたりがこの映画の不思議な味わいになっています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



サラを取り返すために銃とか爆弾とかの武器を調達したフランクとリビーは、ヒーローコスプレに着替えて、ジョックの邸に向かいます。そこでは、大きな麻薬の取引が行われていましたが、そんなことにはお構いなく、邸の外の見張りたちを次々と殺して行く二人。しかし、ジョックたちに発見された二人は、逆に銃で撃たれてしまいます。フランクは防弾チョッキで何とか無事でしたが、リビーは顔半分が吹っ飛んで絶命。しかし、爆弾やらショットガンで次々とジョックの部下を殺していくフランク。そして、最後に残ったジョックとの対決、「俺を殺して、世界が変わると思うのか。」「それはわからない、でも試してみる。」と、ジョックをナイフで刺し殺すフランク。サラを家に連れ帰るフランクですが、二ヵ月後、また彼女は彼のもとを去ります。しかし、彼の生活はかなり変わったようです。彼の部屋の壁にはかつて2つしかなかった幸福の瞬間が壁一面に貼り出されているのでした。フランクは、クリムゾンボルトになることによって、何がしかのものを得たようです。めでたし、めでたし。

相棒のリビーが呆気なく殺されてしまうショックシーンとかあるものの、クライマックスは暴力によるドラマチックな盛り上がりを見せます。ただ、面白いと思ったのは、主人公が敵を殺しまくるのが、正義なのか私怨なのか、曖昧にしているところ。とにかく怒りのエネルギーがみなぎっているのですが、その動機をわざとぼかしているようなのです。それによって、正義のヒーローへの賛美とアンチテーゼが共存しているような不思議な味わいが生まれました。でも、先に書きましたように、この映画全体が、観客をおちょくっているような節もありますので、そこまで深読みするのは野暮なのかもしれません。

全体をコミカルな味わいでまとめているので、観終わっての印象は悪くありません。クライマックスが盛り上がるので、映画を観た満足感もあります。オープニングのタイトルバックのアニメがなかなか楽しく、このアニメの印象だと、ヒーローもののパロディだと思うのですが、実際のところは、普通の男が一時的にヒーローになって、また元に戻るという、ダメ男の一瞬の夢を描いた映画とも言えそうです。そう思うとちょっと切ないお話であり、主人公を演じたレイン・ウィルソンのリアルなキャラ(ダメな奴なんだけど、マジメでストイック)がうまくドラマにマッチしていました。

この映画、DLPによる上映だったのですが、撮影自体もフィルムではなくデジタルカメラによるものだったそうです。軽い手持ちキャメラの絵は、普通の映画のような重みが感じられなくて、大きなスクリーンにで観るには、今一つのような気がしました。手ぶれが素人の家族ビデオみたいな感じなのです。せっかく、映画館の大きなスクリーンまで足を運んでいるのですから、それにふさわしい絵を見たいなと思ってしまいました。この先、こういう映像の映画が増えるのはやだなあって。

「この愛のために撃て」は85分をタイトに突っ走る犯罪もの、意外と面白い


今回は「この愛のために撃て」を有楽町スバル座で観てきました。考えてみれば、この映画館も久しぶりなのですが、フラットな場内にそこそこのサイズのスクリーンは、その昔の名画系映画を上映してきた名残というか、独特の雰囲気があります。

ある夜、交通事故で運び込まれた身元不明の男、何者かが呼吸器を切って、彼を殺そうとし、今は警察の護衛がついています。その病院で看護助手をしているサミュエル(ジル・ルルーシュ)は、妊娠中の奥さんナディア(エレナ・アナヤ)が愛おしくて仕方ありません。ところが、何者かが、彼の家に侵入しナディアは誘拐されてしまいます。誘拐した犯人は、例の入院中の男を外に連れ出せと指示してきます。奥さんのためには、手段を選んではいられないサミュエルは、護衛の警官を電気ショックで気絶させて、男を外に連れ出すことに成功します。その男サルテ(ロシュディ・ゼム)は強盗の指名手配犯であることがわかり、さらに実業家殺害の容疑もかかっているようなのです。サミュエルもテレビで全国指名手配犯にされてしまいます。サミュエルは、サルテを銃で脅して、妻と交換させようとするのですが、サルテもまた何者かに追われていて、交換は失敗。二人はサルテの隠れ家に身を潜めますが、なぜかそこにも警察がやってきます。果たして、サミュエルは、ナディアを救い出すことができるのでしょうか。

無実の罪で投獄された奥さんを助けようとするダンナの孤軍奮闘を描いた「すべて彼女のために」という滅法面白い映画がありました。その映画の監督フレッド・カヴァイエの新作です。脚本も彼が書いていまして、85分という短めの時間の中で、やっぱり孤軍奮闘するダンナの姿を描いた佳品に仕上がっています。前作が、細かいエピソードでドラマを積み上げていくやり方でしたけど、今回は、ジェットコースター型の走り出したら止まらないサスペンスアクションになっています。そして、平凡な看護助手と名うての悪党の変則バディムービーになっているところも面白い一品でした。

冒頭は、何者かに追われるサルテの姿が描かれ、逃げた先でオートバイにぶつかって病院に運ばれるシーンで、この男は何者で、なぜ、誰に追われているのかというミステリーで始まります。そして、仲睦まじいサミュエルとナディアの生活がちょっとだけ描かれると、すぐにナディアは誘拐され、彼女の命を救うため、サミュエルはかなりムチャをする羽目になります。この事件を女刑事のチームが追うのですが、同時に起きた実業家殺害事件を別のヴェルネール(ジェラール・ランヴァン)のチームが追っていまして、お互いのチーム仲はあまりよくない様子が描かれます。そして、映画の中盤でちょっとしたサプライズがあって、後は一気に展開していきます。

前作の「すべて彼女のために」では、普通の家庭人が妻のためにとんでもない行動をとってしまうというところに面白さがありました。この映画でも、普通の看護助手サミュエルが妻を突然誘拐され、犯人に脅迫されるままに犯罪者の逃亡に加担してしまうことになります。ただ、前作では、徐々にそっちの方向へ行ってしまう過程を丁寧に描いていたのですが、今回は突然否応なく巻き込まれてしまうところが違っていまして、その分、平凡な主人公が犯罪世界に巻き込まれるプロセスはカットされ、主人公がどうやって危機を乗り切るのかがメインのジェットコースタータイプの映画になってしまいました。シンプルな展開を小気味よく運んでいくカヴァイエの演出は快調ですが、その分、主人公のキャラクターを描ききれなかったなあという気がしました。前作の魅力は後退したものの、アクション映画としての見せ場は増えてますから、痛し痒しというところでしょう。ジル・ルルーシュの善良なキャラクターは最初にきちんと描かれていたものの、その後のムチャな行動とのギャップが感じられないのは残念かな。それでも、ラストにかけての盛り上げは見事で、妻を救い出すために犯人のアジトに乗り込んでいくあたりは見ごたえがありました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。(未見の方は、読まないことをお勧めします。)



サミュエルとサルテが隠れ家にいるときに、サミュエルは女刑事の携帯に電話をして居所を知らせていました。ところがそこへやってきたのはヴェルネールとその手下、そして、その後やってきた女刑事はヴェルネールに射殺されてしまいます。そして、ヴェルネールの部下は、最初にサルテを追跡していた男たちだったのでした。ヴェルネールたちは、実業家殺害の実行犯で、その罪をサルテになすりつけるために、殺害後の現場に盗みに入るように仕向け、その場で殺そうとしたのですが、逃げられたのでした。盗みの共犯であったサルテの弟は、サミュエルに目をつけて、その妻を誘拐したのですが、盗みを仲介した男がヴェルネールに通じていたので、弟は殺され、妻ナディアは警察署に連れ去られてしまいます。そこで、サルテは裏世界のボスらしき男と連絡をとり、犯罪者のコネを使って何かを企み始めます。

突然、町のあちこちで強盗、放火、ひったくりといった犯罪事件が一度の発生し、警察署は大混乱になります。その混乱の中で、サミュエルとサルテは警察署の中に忍び込みます。サミュエルの目的は妻を救い出すこと、サルテの目的はヴェルネールの犯罪現場を撮影してあるビデオメモリです。犯罪者と警察官でごった返す署内で、妻を探し回るサミュエルですが、ヴェルネールの部下は妻をトイレの窓から突き落として殺そうとします。間一髪のところで、サミュエルがナディアを救い出すことに成功しますが、署内から脱出する前にナディアが産気づいてしまい、結局、サミュエルは逮捕されますが、その一瞬の隙をついてサルテがサミュエルにメモリを渡します。逮捕されたサミュエルは、メモリを刑事に渡して、その内容を確認しているところにヴェルネールがやってきて、遂に彼も年貢の納め時になります。そして、病院では、ナディアは無事に出産、サミュエルは刑事の取り計らいで赤ん坊と対面することができます。そして、7年後、刑務所を出たヴェルメールが首吊り死体で発見されたというニュースを見るマイケルと、サルテの姿がカットバックされて、暗転、エンドクレジット。

と、まあ、悪徳警官が真犯人で、最後は妻を助け出すために警察署に乗り込んでいくという趣向が意外性があって面白かったです。サミュエルの動きとサルテの動きをカットバックで見せるやり方も取り入れて、それなりの盛り上げをするのですが、サスペンスのポイントを絞りきれなかったのか、やや息切れしちゃった感じもありました。そんな展開を、クラウス・バデルトが映像より早めのテンポの音楽をつけることでカバーしていまして、娯楽映画としての及第点はクリアしていると思いました。中盤での、地下鉄駅で逃げ回るチェイスシーンの方が、なかなかの盛り上がりを見せていまして、やはりシンプルな設定の方が盛り上げるのが楽なんだろうなって、変なところで納得してしまいました。

サルテが、逆転のために犯罪者仲間に根回しするシーンをあっさりと流しているあたりは、突っ込みどころをうまくはずした演出になっています。相手が警官でチームなので、勝ち目はないのですが、そこを強引にハッピーエンドへもっていくために、ちょっと無理している感じは否めません。ナディアを救うのも偶然に頼っていまして、そのご都合主義な展開を許容できれば結構面白い映画だと言えましょう。設定がいいだけに、主人公の二人をもっと丁寧に描いて、ラストも偶然に頼らない展開にしてくれた方が面白い映画になったと思うのですが、全体的には、薄味な映画に仕上がってしまいました。これは好みの問題になるでしょう。期待しないでスクリーンに臨めば、意外な拾い物として、結構高評価をもらえると思います。私は、前作を観ていただけに、その分、辛口の評価になってしまいました。

「木洩れ日の家で」は、実は犬好き必見のわんこ映画でした。


今回は、ロードショー公開済の「木洩れ日の家で」を銀座シネパトス2で観てきました。岩波ホールの映画をなぜか朝1回だけの上映で、意外とお客さんも入っていて、その平均年齢もかなり高めでした。この映画館、シネパトス3の倍近いキャパなのにスクリーンサイズはちょっと小さめというかなりこじんまり映画館です。

ポーランドはワルシャワ郊外にある木々に囲まれた古ぼけた家、老婦人アニュラ(ダヌタ・シャフラルスカ)が、愛犬のフィラデルフィアと静かに余生を送っていました。かつては、多くの人が住み、活気があった家も、今やあばら家に近い状態です。バルコニーから見えるのは、金持ちの家と、子供たちの音楽クラブ。双眼鏡で、その様子を覗き見るのは、彼女の楽しみの一つです。たまにやってくる息子は、奥さんの尻に敷かれていてかわいそう。そんなある日、隣家の金持ちの方から、この家と土地を買いたいと申し出てきます。アニュラにしてみれば、思い出のいっぱいの家を売り払うなんてとんでもないと拒否しますが、相手は何度も電話攻勢してきます。彼女は、息子を間に立てて話をすることにします。ところが、息子は、この家を自分のものだと、勝手に売り払う話をしているではありませんか。むしろ、勝手なことしていいのか気にしてるのは嫁の方だったと知り、もう生きてても仕方ないと、家の窓を全部閉めて、正装して、自ら死の床につくのでした。と、やってみたところで、死ぬわけもなく、何やってんだと気づいて、ある決断をするのでした。

この映画に出演した時は91歳で、今もご健在の女優さんが主演しているというのが、売り文句の一つになっています。映画は、モノクロ画面で、老婦人の一人暮らしの様子を丹念に描いていきます。老人の一人暮らしの侘しさとか孤独感というものをあえて描かず、元気なおばあちゃんの日々を綴ったところがこの映画のいいところです。きちんとお迎えが近いことは認識しているヒロインなんですが、お話が湿っぽくならないのですよ。脚本と監督を兼任しているドロタ・ケンジェジャフスカは、凝った映像と、コミカルな味わいで、一人の女性の晩年を細やかに描きました。特に、ガラスや鏡を通した映像を多用する一方で、人物はアップで捉え、独特の映像のリズムをつけています。

彼女の生活は完全に孤立しているわけではありません。まず、愛犬のフィルがいます。彼女はいつもフィルに語りかけていて、フィルのリアクションから、まるで会話が成り立っているようなおかしさがあります。そして、彼女がベランダから覗いている金持ちの家(愛人宅らしい)の様子、音楽クラブの子供たちといった外部からの刺激もあります。このあたりの設定は、脚本のうまさでしょう。老人が一人でぶつぶつ言ってたら、ヤバイ雰囲気になるのですが、フィルという話し相手の存在によって、コミカルな味わいになりました。アニュラのアップとフィルのアップの切り返しが何度も登場して、フィルのリアクション芸(要は編集の芸ですが)が見事でした。全然、お話に興味なくても、犬好きな人はフィルを見ているだけで十分楽しめると思います。というより、わんこ映画として売った方がよかったのではないかしら。

アニュラはしわしわのおばあさんなんですが、でも、老人かと言うと、普通の老人のイメージとはかなりかけ離れています。若いオバアちゃんというのも違いまして、人生の終幕を迎えてはいるのですが、達観とかあきらめというものがないのですよ。人生を全て受け入れているわけでもないあたりがおかしく、生意気な孫にきついことを言っちゃうあたりに、枯れていない人格を感じさせました。アニュラを演じたダヌタ・シャフラルスカが素晴らしく、老体に鞭打ってる感じが一切ない、生き生きとした老人を表現しています。特に笑顔に芯があるのですよ。おばあちゃんが丸くなってニコニコしているのとは違う、意思を持った笑顔は、是非、本編で確認していただきたいと思います。老いることと人生の終幕を迎えることは似て非なるものなんだなって気づかされます。嵐が来た夜、「嵐が力を与えてくれる」と言って、外に飛び出して、嵐を体で受け止めるアニュラの姿には、ある種の神々しさがありましたもの。

また、舞台となる家のたたずまいも、アニュラの人生を象徴しているようです。かつては立派でたくさんの人が住んでいた家が、手入れもされないままのあばら家状態です。ラストで音楽クラブにするために改修がされるというところで、アニュラの人生にも再生の意味合いが生まれてきたように思います。でも、そんな難しいことを考えなくても、ある女性の晩年をコミカルに描いた映画として素直に楽しむことができます。モノクロで凝った映像を作り上げたところにアートっぽさを感じたのですが、それはそれで見応えがあるものの、わんことおばあちゃんの二人三脚を楽しむ映画としてオススメしちゃいます。


この先は結末に触れますのでご注意ください。



息子の裏切りにダメージを受けたアニュラですが、ここで一大決心して、隣の音楽クラブへ向かいます。彼女の決断とは、自分の家と土地を音楽クラブへ譲ること。自分の隠してあった宝石をもとでにして、家を改修し、自分も一緒に住めることが条件です。クラブの経営者もその申し出を受けて、音楽クラブの子供たちが、彼女の家へ楽器を持って集まってきます。ベランダに座って、子供たちの声を聞いているアニュラ。そこへクラブの女性が、アニュラに紅茶を持ってきます。ベランダに座っているアニュラに向かってノックするのですが、彼女はそれに応えません。それまで、傍らに座っていたフィルが彼女の正面に回って彼女の顔を覗き込みます。子供たちで賑やかな家の全景をとらえたカメラが上空へと上がっていったところで暗転、エンドクレジット。なぜか、やけに元気のいい音楽が流れます。

最後は大往生という結末は薄々予想はつくのですが、それをみとったのが愛犬フィルだったというあたり、わんこ好きの人にはたまらん映画なのではないかしら。アニュラの人生の最後の数週間ほどしか見せてないのに、この人はいい人生を送ったんだなって思わせるあたりが映画のマジックなのでしょう。

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Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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