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「ミッション:8ミニッツ」は設定も面白いし展開も面白い佳品


今回は、新作の「ミッション:8ミニッツ」を、TOHOシネマズ有楽座で観てきました。キャパの割りには、スクリーンがちょっと小さめな映画館で、デジタル上映での鑑賞でした。最近のハリウッド映画にしては珍しくビスタサイズでした。

コルター・スティーブンス大尉(ジェイク・ギレンホール)は、気がつくとシカゴ行きの列車の中にいました。彼の前にいる女性クリスティン(ミシェル・モナハン)は彼のことを知っているみたい。そして、トイレの鏡に映った自分の顔が違っていることにびっくり。さらに、シカゴ駅に列車が近づいたとき、突然爆発が起こります。すると、コルターは今度はカプセルの中に固定されていました。目の前のスクリーンに映った女性グッドウィン(ヴェラ・ファミーガ)が、彼に状況を説明します。コルターはプログラムの中で別の人間になり、実際に起こった列車爆破の犯人を捜す任務を与えられたというのです。爆破の犠牲となった男の意識を遡れるのは、8分間だけです。列車を爆破した犯人は、次にシカゴの市街地で爆弾を爆発させることを予告しており、一刻も早く犯人を特定する必要がありました。コルターは何度も、爆破8分前に戻り、その間に爆弾を仕掛けた犯人を探し出して、次の爆破を止めなければなりません。再度、列車の中に戻ったコルターは列車のトイレに仕掛けられた爆弾を発見します。しかし、犯人を突き止めないとシカゴ市民の命が危ないのです。果たして、彼は列車爆破犯を見つけることができるのでしょうか。

「月に囚われた男」で小品だけど結構深いSF映画をつくったダンカン・ジョーンズの新作です。今回もやはりSF仕立てでして、死んだ人間の意識をさかのぼるプログラムを使って、事件の犯人を捜そうというお話です。設定が面白いのですが、決して出オチの映画にはなっていません。その中で、人間の意識と存在の仕方にまで言及し、ラブストーリーも放り込んで、1時間34分という時間の中で、色々なネタを盛り込んで、それをきちんと整理して、上々のエンタテイメントに仕上げています。きちんと人間ドラマとしても描きこまれていて、ジェイク・ギレンホール、ミシェル・モナハンといった面々の演技がきちんと生かされているのにも感心。特に、任務の実行者であるグッドウィンを演じたヴェラ・ファミーガの好演が光りました。

爆破の8分前に戻ることを繰り返すことで、コルターは列車の中を捜索したり、怪しいと思われる男を追跡したりと、色々とがんばるのですが、結局、最後は爆弾は爆発し、その時点で、コルターはカプセルの中に戻っています。そもそも、彼はそんな任務に志願したわけではなく、気づいたら無理やり任務に引きずり込まれていたのです。納得できない上に、列車の中から戻ってもカプセルに監禁状態ですから、不満たらたらです。そんな中で、彼は、自分と知り合いであるらしいクリスティンという女性に惹かれていくようになります。そして、彼女を救いたいという気持ちが任務に対する動機となってきます。コルターは列車の中では、ジョージという名前の教師で、クリスティンは彼に好意を持っているようです。同じシーンを繰り返していくことで、クリスティンという女性ですとか周りの乗客の輪郭が見えてくるという展開はうまいと思いました。その中で、コルターの使命感が増していく課程がきちんと描かれているのです。

任務は犯人探しなんですが、どうすれば列車を救えるかの方に話がシフトしていくのが面白いと思いました。でも、すでに列車爆破は起こった後であり、その犠牲者の残留意識をプログラムに取り込んで、事件を再現させているのです。その中で、どんな頑張っても、列車に乗り合わせた人間の死を救うことなんてできないのです。それでも、コルターは8分間の中で救える命があるかのように思うようになります。何度も繰り返される8分間は、それぞれにコルターの行動が違いますから、ある意味パラレルワールドみたいにも見えます。そう見えることが後半への伏線になっていまして、よく考えられた脚本だと思います。さらに、彼は、乗客の死だけではなく、彼自身の死とも向き合う羽目になってしまうのです。




この先は結末に触れますので、ご注意ください。(未見の方は読まない方がいいです。)




コルターは父親と連絡を取ろうとして、列車の中でクリスティンに自分の名前を告げます。すると、コルターは2ヶ月前にアフガンで戦死しているというではありませんか。彼は、生きているのか死んでいるのか。カプセルの中に戻ったとき、コルターはグッドウィンを問い詰めるのですが、そこで脳の意識だけが生かされている状態だと知らされます。国のために死ぬのは一度でたくさんだと、彼は言いますが、非情にも、何度も彼は爆破8分前へと送り込まれてしまいます。列車の中をしらみつぶしに当たってみても、犯人への糸口がつかめないコルター。そして、爆弾のところへもう一度戻ってみます。起爆装置は携帯電話と連携していました。その電話を外し、着信記録の番号へ電話してみると、途中駅で降りる男の携帯が鳴りました。男を追うコルター。そして、その男こそ、爆弾犯でした。車に乗り込もうとした男に銃を向けたコルターですが、逆に男に撃たれてしまい、そこへコルターを追ってきたクリスティンも撃たれてしまいます。そして、死に行くコルターの目に爆発の煙が見えました。

そこで、カプセルに戻されたコルターの報告によって、犯人の名前と車のナンバーが特定され、爆弾犯は無事に逮捕されます。これで、任務完了ですが、コルターは、グッドウィンにもう一度列車に送って欲しいと頼みます。そして、8分経ったら、自分の生命維持装置を外して欲しいと。グッドウィンの上司はこの結果に上機嫌で、また事件が起きたときのために、彼の記憶を消して生かしておこうと言います。グッドウィンは、上司に隠れて、コルターをもう一度列車の中に送り込みます。今度こそ、爆弾から予備の起爆装置も外し、爆弾犯を捕らえることにも成功します。これで、列車の乗客はプログラムの中では救われたことになります。クリスティンと抱き合ってキスをするコルター、そこへ運命の時間がやってきます。グッドウィンは上司の指示に逆らって、コルターの生命維持装置を切るのでした。プログラムの中ですべての時間が止まります。

しかし、再びコルターとクリスティンの時間は動き出します。二人はお互いを運命の人と感じていました。列車は無事にシカゴ駅に着きます。そして、シカゴの街を歩く二人の前にオブジェが現れます。それは、コルターが列車とカプセルを移動する瞬間に現れた映像にあったオブジェでした。そして、爆弾犯が事前に取り押さえられたという知らせを聞くグッドウィンに、コルターからのメールが届いていました。この事件は、自分とグッドウィンの共同作業の成果だということ、そして、脳の意識だけ生かされているコルターへ気を使ってやって欲しいという旨のメールでした。そして、新しいコルターとクリスティンの人生が始まるのでした。めでたし、めでたし。

ラストは、プログラムによる時間操作が実体を持ったようにも見えますが、いわゆるもう一つのパラレルワールドができたという追加エピローグというべきでしょう。ラストでコルターとクリスティンが生き残る世界が本物だとしたら、肉体を乗っ取られたショーンという教師がかわいそう、というかタイムパラドックスが生まれちゃいます。また、最後に死を望むコルターの姿に、「ジョニーは戦場に行った」を思い出しました。このまま、ずっと生きているのか死んでいるのかわからない状態のまま、軍に利用されるというのはかわいそう過ぎますもの。

ジョーンズの演出は、コルターの葛藤を丁寧に演出して、死を決意した彼が、列車爆破を止めるために最後にもう一度列車へ行くという展開をドラマチックに見せてくれました。彼の気持ちを汲んで、生命維持装置を止めようとするグッドウィンがためらうあたりの葛藤も見応えのあるもので、きちんと人間ドラマになっているのですよ。もう変えられない愛する人の運命を何とか変えたいと思う心、そして、死という運命を受け入れようとする想いの両方を、サスペンスドラマの形でまとめあげた手腕は見事だと思います。結構盛りだくさんな内容なんですが、1時間半にまとめたセンスも買いです。

音楽を私は初めて聞く名前のクリス・ベーコンが担当していまして、オーケストラによるオーソドックスながら、タイトにまとまった音作りが印象的でした。オケを鳴らしているのですが、大味になっていないところは、今後も期待できそうです。「警告 このラスト、映画通ほどダマされる」というキャッチコピーは、ものすごく的外れだよなあ。そういうラストでどんでん返しってわけじゃないもの。
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「東京オアシス」は、会話だけが流れる時間を楽しむ映画なのかも


今回は、「東京オアシス」を川崎チネチッタ11で観てきました。ここはキャパもあり、その分、スクリーンも大きな映画館なのですが、そこで、ビスタサイズ、DTSステレオによる上映でした。普通は、ドルビーデジタルのロゴが出るのですが、アナログサウンドなので、JBLスピーカーのロゴが出ました。

〔エピソード1〕ある夜の東京、小型トラックにレタスを積んで運んでいるナガノ(加瀬亮)は、コンビニの前で、自動車に飛び込もうとしている喪服の中年女性トウコ(小林聡美)を助けます。彼女はナガノのトラックの乗せてくれと言います。彼の行くところまで乗せて行ってくれと。得体の知れない女性で、不審に思うナガノに妙に親しげに語りかけてきます。どこかから逃げてきたというトウコ。そして、高速を降りて、海辺で日の出を見た二人。そこで、二人は別れて、ナガノは一人でトラックを運転していきます。〔エピソード2〕映画館で終映後も席で眠りこけているトウコ。映画館のスタッフであるキクチ(原田知世)は、彼女を起こします。「トウコさん、お久しぶりです」トウコは映画女優であり、キクチはかつてはシナリオライターでした。自分を偽っていると思って筆を絶ったキクチ。そんな彼女に「もう一度、書いてみたら?」とトウコ。〔エピソード3〕動物園のアルバイトに応募してきたヤスコ(黒木華)に、トウコが声をかけます。5年浪人していて、自分は運のない女だと思っているヤスコと一緒に、園内を観て回るトウコ。ちょっとだけ元気が出たように見えるヤスコ。そして、今日も街の中を歩いているトウコ。

トウコという女性を中心に描かれた3つのエピソードをつなげた一品です。1つめのエピソードの脚本、監督をCM、PVで実績のある中村佳代が担当し、2つめと3つめの、共同脚本、監督を「マザー・ウォーター」の松本佳奈が担当しました。

映画の冒頭では、夜の東京を走る車の視点からの絵が結構長めに登場します。そして、トラック運転手のナガノがコンビニで買い物しているシーンから、トウコとの出会いとなります。道路に飛び出しかかっている喪服の中年女性というのは、何やら怪しげなのですが、さらに言うことが初対面の相手に対して馴れ馴れしいというか、相手の中に踏み込んでくるところがあります。小林聡美の演技によって、圧力を感じさせないようにはなっているのですが、初対面の二人の会話としてはちょっと不自然。何というか、お見合いのときみたいな会話なのですよ。「私ってこういう人なんだけど、あなたは?」ってな感じの会話です。それもどこか芝居がかった言い回しなんです。まるで、トウコという女性が何か別の女性を演じているようにも見えます。なぜ、そんなことをするのかよくわからないのですが、そういう彼女を狂言回しとして、相手側の人となりを浮き上がらせようという作者の意図がなんとなく伝わってきます。このトウコのポジションは他のエピソードでも同じです、

2つめのエピソードでは、かつての仕事仲間との再会で、今度は初対面ではありませんから、普通に会話が弾みます。でも、会話の中身は、自分のことを話しているのは、キクチの方だけで、トウコは自分のことは語りません。ニコニコしているようで、実は殻に閉じこもって、違う誰かを演じているようにも見えてきます。トウコが自分の実像を見せないことで、キクチの人生の有り様が際立って見えてくるという感じでしょうか。それはトウコの意思というよりは、映画の作り手の意思が透けて見えてくるようで、そういうドラマ(いや、ドラマにもなってないかな)というかスケッチを作りたかったように感じました。

この映画で交わされる会話は、かなり密度の濃いものであり、こういう構成ならラジオドラマでもいいんじゃないかなって気がしました。それでも映像にも、それなりの意図を含めようとしている節はありまして、主人公のトウコが街の雑踏を歩き回る長回しのシーンが何度も登場します。ちょっと東京メトロのコマーシャルを思い出してしまったのですが、彼女って、本当は実体が存在しない、街の妖精みたいなものかなって気もしてきました。ところが、3つめのエピソードになると、動物園のアルバイト募集に応募してきた女の子を相手に、俄然存在感を出してきます。今度は、年長者が若者をリードするような関係で、会話が進んでいきます。でも、トウコの会話にはやはり演技じみたものがついてまわります。別に女の子を元気づけるわけでもなく、諌めるわけでもない、ただ、女の子がどんな人間なのかを、観客に示すために存在する感じです。やっぱり、カメラのこちら側にいる作り手の意図が明確に感じられる作りになっています。

この映画、内容的には、ミニシアター向けの映画だと思います。主要登場人物は4人で、その会話によって成り立っているのですから。それを、大劇場の大スクリーンで観たというのは、普通じゃない映画鑑賞だったのかもしれません。ミニシアターの小さなスクリーンですと、スクリーン全体を眺めるという鑑賞になるのですが、大劇場の大画面は、一度に全体を見渡せなくて、ドラマの展開に合わせて、スクリーンの部分部分に焦点を絞り込んでの鑑賞になります。ミニシアターで観たならば、もっと「東京オアシス」の全体の空気感をつかめたような気がします。大画面だと、どうしても話している人に視線が行ってしまうので、このトウコってどういう人なんだろうねえ、何だか変な人だねえ、ってな方向に興味が向いてしまうのです。

この映画の中で、普通の人のオーラを出していたのは、最初のエピソードのナガノだけで、キクチは元シナリオライターという才女ですし、ヤスコも絵の才能を自認するくらい持っている五浪の女性です。普通じゃない人を際立たせることは、普通の映画でやっていることなので、スケッチ風映画を作ろうとしているのであれば、もっと平凡な人のキラリと光る瞬間を際立たせてもよかったかなって思ってしまいました。確かに、普通の人ナガノのエピソードはシチュエーションが非日常的でして、他のエピソードは、設定は平凡でしたから、そこでバランスをとっているのかもしれません。そもそも、そんな平凡さ非凡さとか関係なく、会話の流れる時間だけを作りたかったのかも。

「東京オアシス」というのは、東京砂漠(ああ、年がバレる)の中にある、オアシスのような場所を指しているのかなと最初は思ったのですが、どうも観客にとってのオアシスではなくて、トウコとの不思議な関係、会話が成り立つ場所が、作り手にとってのオアシスを指しているように感じました。何と言うか、映画を通して、作り手は、観客に何かを伝えたいというより、単純にこういう映画を作りたかったという気持ちの方が強く伝わってくるのです。リアリティという意味では、成立しないような会話が交わされる世界、それがオアシスなのではないかしら。

人によって感じ方はそれぞれだと思いますが、私はこの映画の主人公であるトウコにまるで存在感を感じませんでした。いわゆる、カメラに背を向けたインタビュアーみたいな感じだったのです。確かにエピソード毎に、会話のスタイルは変えていますが、それはあくまで、対象である相手に合わせているという感じなのです。だからこそ、あまりドラマ性のないスケッチ風映画と感じたのかもしれません。よく言えば一風変わった味わいの映画ですし、極論すると「だから、何?」という映画だとも言えそう。全体の空気感を丸ごと受け止めて味わうのが、一番楽しめるのかも。

「あしたのパスタはアルデンテ」はシリアスとコミカルのバランスのよさが好き


今回は新作の「あしたのパスタはアルデンテ」を横浜シネマベティで観てきました。DLPによる上映でしたが、以前よりもきれいな映像になっていました。プロジェクターがよくなったのか、デジタル媒体が直接配給されるようになったからかはわからないのですが、これくらいなら、フィルムでなくても気にならないです。

パスタ工場を経営するヴィンチェンツォには、娘が一人に息子が一人、長男アントニオ(アレッサンドロ・プレツィオージ)は、共同経営者のアルバ(ニコール・グリマルド)と一緒に工場を経営、次男トンマーゾはローマで経営の勉強をしてることになってましたが、実は文学を勉強し、家業は継がず、小説家になろうとしていました。その上、彼はゲイでローマにボーイフレンドがいました。帰郷したトンマーゾは、兄にそれをうちあけ、夕食会の場でそれを告白しようとします。ところが、トンマーゾが話を始める前にアントニオが「実は自分はゲイだ」と告白し、父親は彼を勘当したあと心臓発作を起こして倒れてしまいます。告白し損ねたトンマーゾは、父親から工場の経営を任されてしまい、それを断ることができません。アルバと一緒に工場に通うようになるトンマーゾはそれなりに仕事をこなし、そして若くて美しいアルバには、自分がゲイであることも告白するのですが、その一方で、孤独な彼女に心が揺れるのを感じるのでした。そして、ローマへ戻る機会を逸してしまった彼の元を、ローマの4人の友人が訪問します。4人ともゲイで、その中には、彼の恋人のマルコもいました。やっぱり本当に愛する人はマルコだと確信するトンマーゾ。そして、家族の前で、自分が小説家になりたいことを改めて告白するのですが....。

冒頭では、花嫁衣裳の女性が思いつめた顔で、ある家に入っていきます。その家の中にいた男の前で銃を取り出して、自分の胸にあてる女性、それを奪い取る男。過去とも未来ともわからない、このシーンの後、ヴィンチェンツォ一家の現在のお話が始まります。いわゆるホームドラマのジャンルに入るのでしょうか。パスタ工場の跡取り二人ともゲイだったというのが、メインのお話として進められるので、なかなかオープニングのシーンが結びついてきません。そんなミステリーの趣向も交えて、フェルザン・オズペテクの演出は、コミカルとシリアスをバランスよく交えて、テンポよくお話を進めていきます。ヴィンチェンツォ一家には、他に妹と、娘婿がいまして、それぞれがキャラが与えられていますが、そんな中でスポットライトが当たるのが、トンマーゾとおばあちゃん、そしてアルバです。

お手伝いさんが二人もいる上流家庭のお話ではあるのですが、いわゆるホームドラマだなあと思うのは、食卓のシーンでいろいろな事件が起こること。かつての日本のホームドラマも大家族が食卓を囲むシーンが必ず登場してきましたから、そのあたりのタッチはかつて見たような親近感を感じさせ、そこにゲイがポンと放り込まれるところに、今風の味わいをみることができます。父親が跡継ぎを気にするあたりは、老舗の商売を舞台にした日本のホームドラマでも見かけることですし、おばあちゃんが特別な存在感を放っているというのもよくある(あった?)パターンです。

家庭内のドタバタをきちんと各々の立場から描いていくあたりは、非常に手堅い構成になっていまして、その中で自分の望む人生を選択することが一番だよねというところに落とすのですが、それが、きれいに竹を割ったように、全部クリアになっているように見えないところが面白いと思いました。みんなが和解して、お互いの誤解が解けて、しゃんしゃんしゃんという結末にならないのですよ。それでも、ドラマとしては一応の結末は迎えることになります。登場人物の思うところを全て示さないで、観客の想像の余地を残しているように思えたのは、私が単に物語を理解できなかっただけなのかもしれませんが、でも、全てのドラマを語りきっていないという後味は残っていたように思います。

特に、ゲイのトンマーゾが、アルバに心が揺れてしまうあたりの微妙な見せ方がドラマのアクセントになっています。精神病院に入ったこともあって、ちょっと感情に不安定なところがある嫌われ者の美女アルバと、トンマーゾが仕事の上から一緒にいるようになり、さらにプライベートの時間も一緒に過ごすようになります。トンマーゾは、自分がゲイであることを彼女に告白するのですが、それでも、二人の間に、男女の感情の揺らめきが垣間見えるあたりの見せ方はうまいと思いました。トンマーゾの恋人が現れて、二人の仲睦まじい姿を見つめるアルバの嫉妬ではない物悲しげな視線が印象的でした。この三角関係が、映画の終わりできれいに清算されたのかどうか微妙な感じのままなのが、ドラマにちょっとした奥行きを与えています。

さて、最初に登場した花嫁は、実はおばあちゃんの若いころだったことがわかります。その頃、彼女には、ニコラという愛する男性がいたのですが、結婚相手はその兄弟の方だったのです。つまり、愛する男への想いを秘めたまま結婚することに耐えられず、愛する男の前で死を選ぼうとするのですが、彼にとめられ、そして、彼に連れられて、花婿の待つ結婚式場へと歩みを進めていくのでした。このエピソードが寸断されて、物語のあちこちに挟み込まれるという構成をとっています。おばあちゃんは糖尿なのに甘いものを思い切り食べて死を選んでしまうのですが、彼女の葬儀の列の横を、恋人に連れられた若いころのおばあちゃんが通っていき、そして、ラストでは、おばあちゃんの結婚式の宴の踊りの輪ができて、その中に、現代のアントニオやトンマーゾ、両親といった面々が参加して大団円となります。

最初の花嫁が、実はおばあちゃんの若い頃だったらしいとわかってくると、彼女が俄然キーマンとして浮き上がってきます。プログラムによると、この映画の原題は「歩く地雷」というもので、それは、おばあちゃんのことを指しているのだそうです。自分が望まない結婚をしたまま一生を送ったおばあちゃんは、いつ爆発するかもしれない危険人物だったのでしょうか。その危険人物のおばあちゃんが、若いアルバに重なって見えるのも、この映画の味わいの一つになっています。自由奔放なようでいて、孤独でもろいヒロインをニコール・グリマウドは大変魅力的に演じきりました。ゲイであるトンマーゾに向ける視線には、性別を超えた愛情を感じさせるものがありましたし、自分の安心できる場所を見つけられない心細さを見事に表現しています。

兄弟の両親がやたらと世間体を気にするあたりのお笑いは定番でしたけど、やはり息子がゲイだというのは、まだイタリアでもダメージが大きいのかなあってのが伺えるのが勉強になります。日本でも、老舗の蕎麦屋とか煎餅屋の跡取りがゲイだったらというドラマを作ったら、こんな感じにあたふたするんだろうなあって気がします。ゲイの認知率が高まってきている、その過程の中にある今だと、保守的な老人は、やはり拒絶しないまでも隠しておきたいと思うんだろうなあ。

と、ゲイのトンマーゾの心の動きを細やかに描きつつ、普通のホームドラマを手堅くまとめたフェルザン・オズペテクの演出は、職人芸プラスアルファの味わいがありました。ラストのおばあちゃんのお葬式で父親、アントニオ、トンマーゾみんな和解させちゃえばきれいに終われたのに、そこをあえて傷の部分を傷のままに残して、リアルな苦味のある後味を残しました。おばあちゃんの結婚式のエピソードだって、結局、悲恋の結末なわけで、そんな世の中まるくおさまらないぞというのが伝わってきます。でも、コミカルなエピソードを散りばめることで全体としてのバランスは取れていまして、その中庸をいくバランス感覚が見事な映画だと言えましょう。

日本人の私からすると、早くローマに帰りたいのに、父親にゲイだとうちあけられないまま、工場の仕事をするというトンマーゾ優柔不断さには、あるある感を感じましたし、世間の評判を異常に気にしちゃう父母、叔母のおたおたぶりにも納得しちゃいました。人間、そんなもんだよなあって納得できるあたり、日本人とイタリア人の感覚って意外と近いのかも。

それにしても「あしたのパスタはアルデンテ」という邦題はやる気なさすぎ。毎日スパゲティを茹で損なってる人みたいで、ドラマの内容を少しも表現していません。配給のセテラ・インターナショナルさんは、もう少し、気を入れて邦題つけて欲しいわあ。

「4デイズ」はゲーム感覚じゃない人間ドラマとして見応えあります


今回は、「4デイズ」を銀座シネパトス2で観てきました。同時期に「スリー・デイズ」が拡大公開されて、紛らわしいのですが、こっちはひっそりと地味に上映されています。

FBI捜査官ヘレン(キャリー・アン・モス)は、突然一斉に放送されたスティーブン・ヤンガー(マイケル・シーン)という男の指名手配のニュースに疑問を抱きます。一方、家族と静かに暮らしていた通称H(サミュエル・L・ジャクソン)はFBIの訪問を受けます。一度は、ヘレンに拘束されたHですが、すぐに上層部から、彼の釈放命令が出ます。翌日、ヘレンのチームは特殊任務につくように指示されます。行った先には、Hと政府の上層部らしき男と軍人たちがいて、ヤンガーが拘束されていました。ヤンガーは、かつて特殊部隊にいて核兵器のエキスパートであり、そんな彼がアメリカの3大都市に核爆弾を仕掛けたと脅迫のビデオを送ってきたのです。Hとヘレンのチームに与えられた任務は、ヤンガーから核爆弾のありかを聞き出すこと。そして、Hはこれまでにも色々な政府の汚れ仕事をしてきた拷問のエキスパートであることがわかってきます。ヘレンは違法な拷問に反対するのですが、事態は切迫していました。後3日しか猶予は残されていません。そんな中で、Hはヤンガーに対して容赦ない拷問を加えて、口を割らせようとしますが、彼は、そういう目に遭うことも計算ずくだったようで、何も語ろうとしません。本当は核爆弾など存在しないのではないかという揺さぶりをかけてみると、ヤンガーはある住所を洩らします。そこを徹底して捜査していると、そのビルから見えるショッピングモールで爆発が起こり、53人の命が奪われます。そして、爆発まで後1日となったとき、彼は初めて要求を出します。それは、大統領に対中東政策の過ちを認め、すぐに全兵力を撤退させろというものでした。そんなことはできないと、政府の要人らしき男は言いますが、ヤンガーが核爆弾を仕掛けたことは間違いなさそうです。3000万人の命が危険にさらされている中で、Hの拷問はさらに激しさを増していくのでした。

オーストラリア出身のグレゴール・ジョーダン監督による犯罪サスペンスものの一編です。ただ、犯罪と呼ぶには、犯人は爆弾魔で、さらに仕掛けたのが核爆弾、それも3つも。普通の犯罪捜査ものではありません。犯人のヤンガーは米国民のイスラム教徒で、アメリカを相手に戦争を仕掛けてきたのです。彼は、脅迫ビデオを送りつけてきた後、わざとショッピングモールの監視カメラの前に立ち、逮捕拘束されたのです。FBIのヘレンのチームはヤンガーの足取りから、爆弾の仕掛けられた場所を割り出そうと奔走しますが、彼はアメリカ全土を横断していました。そして、ドラマの中心は、Hがヤンガーを拷問することで、爆弾のありかを聞きだせるかどうかにかかってくるのです。

セットはヤンガーが拘束されている施設の部屋ぐらいで、あまりお金のかかっている映画ではないのですが、その建物の一角で、3000万人の命のやり取りがされているところにこの映画の面白さと怖さがあります。指をつぶし、電流を流し、水責めでもヤンガーは口を割りません。ヘレンは、最初は拷問に猛反対していたのですが、事態の経緯に連れて、そんなことは言っていられなくなります。犯人のヤンガーがその辺にいそうな普通の男であるところが、ドラマの展開にサスペンスを生んでいます。これが、犯人がふてぶてしくゲーム感覚だったりすると、テンションが下がって面白さ半減なのですが、この映画には、そんな甘っちょろいゲームの雰囲気はなく、生死を賭けたせめぎあいが行われるところに見応えがありました。マイケル・シーンの押さえた演技がハッピーエンドを予測させない緊張感をドラマに与えています。また、一方のHは相当な修羅場をくぐってきた男らしく、CIAからマークされているのですが、それでも現場を仕切る権限を与えられています。彼の妻はボスニアで隣人の男にレイプされ、その報復に犯人と妻子を殺したと語るあたり、人間いざとなれば何でもやる、核兵器を爆発させることにも躊躇しないだろうということを見せ付けます。

犯人の要求を聞いたHが「そんな要求なら、聞いてやればいい」というのがおかしかったです。確かに自国の政策を誤りと認め、中東から手を引くことなら、やってやれないことじゃない。でも、脅迫テロに屈して、政策を曲げるなど論外だと、政府要人は言います。でも、このままでは、3000万人が死ぬかもしれない。一方、FBIはヤンガーの妻子がビザの不備で国外へ出られないいることをつきとめ、彼らの身柄を確保します。

グレゴール・ジョーダンの演出は、核爆発とか拷問といった際どいキーワードのある物語を淡々と演出していまして、ある意味盛り上げを拒否したような語り口と言えましょう。ヘレンだけでなく、Hもプレッシャーの中でかなりダメージを受けていることがわかってきます。ある意味、普通の人間が、限界を超えた行動に出る様子を、H,ヘレン、ヤンガーの各々の視点からリアルに描いていまして、スーパーヒーローも狂人も登場しないドラマは、なかなか先の見えない展開になっています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



いよいよ、爆弾の爆発する当日がやってきます。残り時間は数時間しかありません。Hはヤンガーの妻を連れてこさせて、彼と対面させます。妻と面と向かっても口を割らないヤンガーに対し、Hは妻の喉をナイフで切り裂きます。「もう時間がないんだ」とつぶやくH。そして、最終手段として、ヤンガーの二人の子供をヘレンに連れて来させます。さすがに、軍の人間も政府の要人もやりすぎだとして、Hを止めようとしますが、Hは子供たちに薬物を注射しようとします。ここに至って、ヤンガーは爆弾を仕掛けた3つの場所をしゃべります。ほっとする一同、しかし、Hは納得していません。核物質は4つの爆弾を作れる量を持ち出しているのだから、第4の核爆弾があるはずだと、子供に手をかけようとします。すると、そこにいた軍の連中が総出でHを取り押さえようとします。そのドサクサでヤンガーが銃を奪って、「子供のことを頼む」とヘレンに告げて自殺。子供二人を外へ連れ出すヘレン。そして、ヤンガーの告げた場所で、爆弾の無効化が行われます。しかし、無力化された爆弾のある部屋のさらに奥にもう一つの核爆弾が爆発の瞬間を迎えていました。と、暗転、エンドクレジット。

ヤンガーの妻を殺してしまうHにはびっくりでしたが、それによって、子供だって容赦しないことが示され、子供に手を出そうとするHにヤンガーも全てを自供したように見えます。アメリカ公開時は、第4の爆弾の存在は示さないで終わっていたそうですが、この映画では、さらに最悪の結末を示すと共に、Hの推理が正しく、最終的にヤンガーが勝利したことが明確になります。原題は「Unthinkable」というもので、想像を絶するという意味になりましょう。この映画では、拷問の最終段階が「Unthinkable」だという使われ方をしており、それが子供を使うことだとわかります。ヤンガーがそこまで想定していたのかどうかは、この映画からは読み取れないのですが、少なくとも、H以外の登場人物は、さすがにそれは拒否します。最終的に子供たちが無事で済んでしまうのは、ここまで積み上げたドラマとしては、詰めが甘くなったような気がします。ただ、その寸前のぎりぎりのところまで見せたのは、かなり頑張っていると言えましょう。

ヤンガーはイスラム教徒であり、アッラーの意志で動いているようなことも言いますが、映画の中で、宗教色は極めて希薄で、それよりも、Hとヤンガーの攻防がメインとなっています。Hが子供に手をかけようとして、逆に軍人たちから銃を向けられると、「53人殺した奴より、俺が悪者か。」と言い放ちます。確かにそれはごもっとも、でも、子供まで拷問の対象としようとするHの方も狂気と冷静の間を揺れ動いています。3000万人の命を救うために、それは必要なことなのか。それとも、単に論外の狂気の沙汰なのか。じゃあ、爆弾で死んだ53人はどうなるの? などなど、色々なことを考えさせるあたりの演出は見事です。ですから、第4の爆弾のことはあえて見せない方が余韻というか苦い後味が残ったような気がします。その存在を明らかにしてしまうことで、宙ぶらりん状態の観客の感情が落ち着いてしまうのは、ドラマ的に浅くなったように思えました。

それでも、爆弾テロを扱った映画として、異色の見応えを持った佳作だと思います。拷問のプロフェショナルを主人公に持ってくることで、ドラマのポイントを際立たせることに成功しているからです。絶対多数の人間を人質にしたテロリストに対して、理屈や感情は無力です。でも、肉体的、精神的暴力でどこまで太刀打ちできるかというと、それも危ういというのが見えてきます。人間の限りない負のポテンシャルということもできるのですが、そんなヤンガーも子供を盾に取られると人間的な弱さを見せます。Hも自責の念と闘いながら、子供に手を下そうとします。そんな、人間的な連中なのに、最悪の結果を見せる(アメリカ版だと予感させる)ところに、この映画の面白さがあると思います。こういうドラマはとかくゲーム感覚に走りがちなのですが、あくまで人間ドラマとして見せたところに、この映画のお値打ちがあります。(それだけに、日本版のラストは、決着を明らかに見せることで、ゲーム感覚になってしまったのが惜しい。)

「親愛なる君へ」は恋愛最優先にならない人生の選択がなかなかの味わい


今回は、「親愛なる君へ」をブルグ横浜シネマ11で観て来ました。この映画、予告編を観たときは、ベタなラブストーリーみたいで食指が動かなかったのですが、ご覧になった方のブログの記事を拝見して、その評判の良さに、劇場まで足を運んでみました。

陸軍特殊部隊のジョン(チャニング・テイタム)は、二週間の休暇で父の住む実家に帰ってきていました。サーフィンをしていた彼が知り合ったのは、休暇中の女子大生サヴァナ(アマンダ・サイフリッド)。二人は急接近、恋人関係になります。ジョンの父(リチャード・ジェンキンス)はコイン収集家でちょっと変わり者。サヴァナの友人ティム(ヘンリー・トーマス)の息子は自閉症でしたがサヴァナにはなついていました。その息子を知るサヴァナは、ジョンの父も自閉症であることを見抜きます。そのことで喧嘩になる二人でしたが、二人の愛は二週間の間に確かなものになります。軍に復帰したジョンは1年で除隊するつもりでしたが、その直前に9.11無差別テロが発生、国中が戦争に駆り立てられ、ジョンも除隊すると言い出しかねて、戦線へと旅立っていきます。お互いずっと手紙のやり取りをしていたのですが、しばらくサヴァナからの手紙が途絶えます。そして、久しぶりに来た手紙には、別の男性と結婚すると書かれていてジョンはショックを受けます。戦場で負傷した彼ですが、戦線へ戻ることを希望し、数年後、アメリカに帰還した彼が見たのは、脳卒中で身動きできない父親の姿でした。そして、父の死を見取った後、ジョンはサヴァナの家を訪ねてみるのですが....。

近作の「ザ・ホークス」「HACHI 約束の犬」などで、職人芸を見せてくれてきたラッセ・ハルストロム監督の新作です。原作は「君に読む物語」「最後の初恋」などのニコラス・スパークスでして、若い男女のラブストーリーですが、意外やドラマとして見応えのあるものに仕上がっていました。馴れ初めは単純なんですが、その後のドラマは、かなりドラマチックでして、恋愛最優先では生きられない、しがらみに縛られる部分が、リアルで共感を呼ぶものになっていました。ジョンを演じたチャニング・テイタムは「陰謀の代償」でもそうだったのですが、どこか陰のあるキャラクターで、ラブコメとかには向かないタイプなのですが、ここでは、その陰の部分がドラマとうまくシンクロしていました。サヴァナを演じたアマンダ・サイフレッドは、「マンマ・ミーア」のような陽のキャラから、「クロエ」のような影のあるキャラまで演じわける器用な女優さんですが、この映画では、陰と陽の両方の顔を使い分けて、運命に翻弄されるヒロインを熱演しています。また、サブキャラクターに自閉症の人間を登場させることで、思いが伝わらない主人公二人の関係を象徴させるあたりに、物語作りのうまさを感じさせました。オープニングで戦場で狙撃されて倒れこむジョンの手紙の文章がナレーションでかぶさります。この負傷の後に書かれたと思われる手紙で、撃たれた時に思い出したことが手紙には綴られています。

文字とおり、ひょんなことから出会った二人は、あっという間に急接近して、2週間でラブラブになっちゃうのですが、二人には別れの日が来ます。1年たてば再会できると約束した二人ですが、9.11無差別テロによって、ジョンは除隊のタイミングを逸してしまいます。同じ隊の他の連中が任期延長を申し出ると自分だけが予定通り除隊したいとは言えなくなってしまうあたりは、日本の特攻隊のエピソードみたいです。しかし、それくらい当時のアメリカが非常時だったことを改めて再認識しました。その間に、サヴァナが他の男と結婚しちゃったのですから、ジョンにはかなりショックです。その結果、負傷しても除隊を拒否してずっと軍務に従事しちゃいます。まあ、2週間の恋の後は文通しかなかったのですから、淡い恋の終わりとも言えないことはありません。ところがついに彼にアメリカへの帰還の命令が下ります。

原作は泣かせる話と思われるのですが、ラッセ・ハルストロム監督は、どうにもならない二人の関係をしっとりと描いていて、見た目若い役者さんに、大人の男女の機微を演じさせるのに成功しています。また、脇役の扱いがうまくて、父親を演じたリチャード・ジェンキンスにこれぞ脇役と言える演技をさせて、大変印象的でしたし、ヒロインの友人であるヘンリー・トーマスの時間の経過に伴う細やかな演技など、二人とも主役を食っちゃう好演なのに、それでもきちんと主役の二人を立てていることが好印象でした。これは、演出の采配のうまさなのでしょう。それでも、劇場の女性のお客さんはかなり泣いてたようですから、きっと、恋愛映画を堪能できる方には泣ける映画になっているのだと思います。かく言う私にもホロリとくるところがありました。それは恋愛ではなくて、親子の部分だったのですが。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



故郷に帰ってきてみれば、父親は脳卒中で寝たきりの状態でした。自分が一緒にいてやれば、早い処置ができて助かったかもしれないと聞いて、後悔するジョン。そして、彼は父宛に手紙を書いて、父親のベッドの横で読み上げます。これが、オープニングで朗読された手紙だったのです。オープニングでてっきり彼女に宛てた手紙だと思わせていて、ここで実は父に宛てた手紙だったとわかるところが結構泣かせるのですよ。声を詰まらせて手紙を読めなくなる息子を自由に動かない手で抱きしめる父親。この映画の一番の泣かせどころでしょう。この展開は意表を突かれました。

そして、父の死後、葬儀を終えたジョンは、サヴァナのいる牧場を訪ねます。そこにはサヴァナが一人でいました。彼が結婚した相手は、かつての友人ティムで、彼はガンで余命いくばくもない身の上でした。自閉症の息子の後見人として、彼はサヴァナに求婚し、彼女をそれを受け入れたというのです。なぜ、それを直接電話で話してくれなかったのかと問い詰めるジョンに、サヴァナはそれができなかったと泣き崩れます。病院を訪れたジョンに、ティムは「全て、私の企みだ。でも、彼女はまだ君を愛している」と言います。まだ、ジョンのことを想っているサヴァナを振り切って、ジョンは軍務に戻ります。その前に、ジョンは父親のコレクションのコインを全て振り払い、ティムの薬のために寄付します。

そして、ジョンは、サヴァナからの手紙で、誰かの寄付で彼に最高の治療ができたこと、それでも、彼が亡くなったことを知ります。時間が流れ、コーヒーショップにいるサヴァナの前を自転車で通りかかるジョン、二人の目が逢い、新しい愛情の始まりを感じさせつつ暗転、エンドクレジット。2週間のひと夏の恋だったのものが、すれ違いの結果、破局となり、それがまた新しい再生の瞬間で終わるところに、美しい余韻が感じられました。

ひと夏の恋を一度チャラにしてしまって、新しい愛の物語を始めるという構成に好感が持てました。ラブストーリーというと、恋愛最優先のお話になりがちなんですが、この映画では、当人たちが、あえて恋愛の優先度を下げる選択をするというところに、恋愛ドラマ以上の人生を感じさせることに成功しています。また、二人を支えまた支えられる人間(ジョンの父とティム)を登場させることで、ドラマに奥行きが出ました。ラストも出会いの瞬間をさらりと見せて、切って落としたあたりに演出のセンスを感じます。恋愛ドラマでは、二人の愛の障害になるものはよく登場するのですが、この映画では、それを本人たちに自分の意思で選択させているところに、大人なドラマの味わいを感じました。予告編だけでは、そのよさが伝わってこなくて、見逃してしまうところでしたが、スクリーンで観ることができてラッキーでした。いい感じの映画だと思います。

「猿の惑星 創世記(ジェネシス)」は、「猿の惑星 征服」ファンにはユルい映画


今回は、「猿の惑星 創世記(ジェネシス)」を川崎チネチッタ8で観てきました。かなり大きめの劇場で、背もたれの高い椅子が特徴の映画館です。
 
製薬会社ジェネシスの研究室でウィル(ジェームズ・フランコ)はアルツハイマー病の薬の開発をチンパンジーを実験材料にして行っていました。ある薬がチンパンジーの知能に驚異的な向上をもたらしたのですが、そのチンパンジーは研究所内で暴れまわって射殺されます。実はこの猿は妊娠していて、赤ん坊猿は無事に生まれ、処分されるところをウィルが引き取ることになります。ウィルの父(ジョン・リズゴー)はアルツハイマー病がかなり進んでいましたが、彼がその猿にシーザーと名づけます。シーザーは高い知能を持っていまして、手話でウィルと意思疎通ができるまでになってきました。シーザーの怪我が縁で、ウィルには獣医のキャロライン(フリーダ・ピント)と仲良くなります。ウィルが会社に隠れて開発中の薬を父親に試したみたところ、アルツハイマーが改善します。そして8年後、シーザーは自我が目覚めてきていました。一方、新薬の抗体が父親の体にできてしまい、病気は再発しています。そんな時、ボケた父親と言い争いになった隣家の男をシーザーが襲い怪我をさせてしまい、シーザーは動物保護施設に入れられてしまいます。そこで、虐待されたシーザーは人間に対する敵対心を持つようになります。一方、フィルはさらに強い薬を開発して、チンパンジーで実験したところ目覚しい成果が得られました。しかし、父親はその薬を拒否し、息を引き取ったのでした。動物保護施設のシーザーは他の猿たちを制圧し、フィルの家から新薬を盗み出し、猿の檻にまくと、猿たちは急速に知恵をつけ、そして、遂に猿たちは集団で施設を脱走してしまいます。しかし、その後、どうしようってのかしら。
 
その昔の「猿の惑星」5作品はテレビで何度も観ています。第一作は、猿と人間の立場が逆になっていたら?というシニカルな視点が面白かったのですが、その最後のオチからお話をどんどん膨らませていって、続編が4本もできたのですから、かなり知恵を使ってお話をひねり出しているのですが、それでも、猿の特殊メイクとかタイムトラベルなどの趣向が面白い映画になっていました。そのシリーズの中で言うと、今回の作品は、第三作「新・猿の惑星」の後半から、第四作「猿の惑星 征服」の部分に位置づけられる内容になっています。猿の集団のリーダーであるシーザーの生い立ちから始まり、猿が人間に反旗をひるがえすところまでが描かれています。前シリーズのシーザーは、未来からタイムスリップしてきた猿の科学者の子供という設定だったのですが、今回は、もう少しリアリティをつけていまして、実験動物が薬物で知能が異常に発達し、その子供がシーザーという設定でして、科学者であるウィルのもとで人間の子供のように育てられるのですが、所詮、人間と猿の壁はあるわけでして、成長するにつれてシーザーもそれを感じるようになっていきます。
 
そして、ボケちゃったウィルの父親を助けようとして、隣人に怪我をさせてしまうことで、シーザーはウィルから引き離され、動物保護局の檻の中に他の猿たちと一緒に入れられちゃいます。家に帰りたいと最初は思っていたシーザーもだんだんと人間が猿と対立する存在だと目覚めちゃうのですね。そして、ついには、他の猿にも薬で知恵をつけさせてから、集団で脱走しちゃうのです。製薬会社のジェネシス社を襲い、そこの実験サルも連れ出しちゃいます。警察も、街で暴れまわる猿たちを射殺しようとするのですが、知恵もスピードも腕力もある猿たちにきりきり舞いさせられちゃいます。
 
と、このあたりは、第四作「猿の惑星 征服」の展開になるのですが、昔のシリーズを知るオヤジからすると、何から何まで手ぬるいのですよ。今回の猿は、人間の動きを元にしたCGによるもので、その技術はすごいと思います。「ロード・オブ・ザ・リング」のWETA社が視覚効果を担当し、ゴラムやキングコングを演じたアンディ・サーキスがシーザーを演じました。でも、猿が本気で暴れたら人間なんてボコボコにされちゃう筈なのに、暴れっぷりが中途半端で死人の山ができるわけでもなく、一方の警察も最新の武器で皆殺しにしちゃえばいいのに、何だか弱っちいのです。LAの黒人暴動をモデルにした「猿の惑星 征服」では、人間は徹底的に猿を虐待して、その結果、反撃を受ければ、銃で武装した機動隊で迎え撃つという、どっちも本気で殺しあうテンションの高さがドラマに迫力を生んでいました。でもって、猿たちが結局、自然公園の中に自分たちの居場所を見つけるという中途半端な決着には、唖然。さらに、そもそもの騒ぎの発端であるウィルが何だか善人のように主人公ヅラしてるのには、イラっときちゃいました。その昔のB級ゲテモノには、確かにそういうのがありまして、お前がいなけりゃこんなことにはならなかったんだぞって突っ込みが入る映画が結構ありました。でも、それはB級ゲテモノだから、笑って突っ込んで許せるのであって、マジな作りの映画で、それやっちゃダメでしょう。
 
そんなわけで、「猿の惑星 征服」を面白く観た自分には、この映画の展開が何だかすごく手ぬるい、というかユルかったです。主人公であるウィルが結局何考えてるのかよくわからないのも不満でした。恋人から、シーザーの未来をどう考えてるの?と突っ込まれても何も答えられない。暴れまわった後のシーザーに「家に帰ろう」というあたりは、何だこいつは?と思っちゃいました。お前が猿に知恵をつけた結果、死人まで出てるってのに、その辺りの責任感皆無なのです。このものすごい迷惑な主人公を肯定的に描いているように見える脚本はひどいですよ。メジャー大作は初めてというルパート・ワイアットの演出は、CG主体の画面をきちんとコントロールして健闘していると思うのですが、お話がひどいので、演出、撮影、視覚効果の頑張りが全部チャラになっちゃってるように思います。
 
 
この後、映画のオチに触れますのでご注意下さい。
 
 
ウィルが作った強い薬は猿をものすごく賢くする一方で、人間にとっては殺人ウィルスだったのです。研究所で実験中に新薬に触れた技師が死亡、死ぬ前に接触した、パイロットが空港へ向かうところで映画は終わります。このウィルスが世界中にバラまかれることを予感して、人間は滅んで、猿の惑星になっちゃうんだろうねという結末は、映画としてはありなんですが、こうなるとウィルが人類を滅ぼす種を2つも作ったというわけで、迷惑どころの話ではなくなってきます。世界最悪の男が生んだ知識猿シーザーはこれからどうなるのか。うーん、あまり気にならないなあ。最悪なお話なのに、妙なヒューマニズムを持ち込んじゃう作り手のセンスは、何だか拙い感じがします。「猿の惑星 征服」もラストで製作サイドが強引なヒューマニズムをねじ込んで、若干腰砕けてしまうのですが、それでも、この映画よりは、ずっと迫力がありましたし、娯楽映画としてもよくできていたように思います。(実は、「猿の惑星 征服」は世間の評価はあまり高くないのですが、私にとっては、マイフェイバリット映画の1本なんです。)
 
ラストで猿は人間社会の中に居場所を見つけたということになるわけですが、人間が重武装して攻めてきたら、あっという間に掃討されちゃうと思うと、全然お話を締めていないのですよ。それとも、人間側に犠牲を出しているのに、猿をそのまま見過ごしちゃうのかよって突っ込みも入っちゃいます。猿のみなさんの演技がいいから、何となく同情しちゃうところもあるのですが、これで矛を納めるほど、人間様は甘くないです。やっぱり、全部甘めに仕上げちゃってるよなあ、この映画。

静岡の七間町から映画街がなくなっちゃいました。

静岡の七間町の静活(会社の名前です)の映画館街が閉館しちゃいました。その街に映画街があるかどうかは、私にとっては、その街の文化の尺度だと思っています。でも、昔ながら映画街はどんどん姿を消しています。私の住む横浜の伊勢佐木町の映画街もなくなってしまいましたし、映画街まではいかないまでも、10館ほどの映画館を擁していた藤沢からも映画館はなくなり、そして、今度は故郷の静岡からもなくなってしまいました。七間町には、東宝系の静岡東宝会館という映画館ビルは残るのですが、昔からあった映画館が一気になくなっちゃうのは、静岡の街の顔が変わってしまったような気がします。
 
今回、閉館になったのは、大劇場としての、オリオン座、ピカデリー1、有楽座。中堅劇場のピカデリー2、ミラノ1、3、ピカデリー・ゼロ。小さな劇場の、ミラノ2と小劇場。9劇場がなくなっちゃったわけです。新しく静岡にシネコンができることがあって、古い映画館は一気に閉館ということになりました。施設の老朽化は確かにありましたが、それでもシネコンとは違う、それぞれに顔を持った映画館が街の一角に固まってあったというのは、静岡の大きな財産だったのです。ともあれ、映画の上映は、シネコンへ移るわけなので、こちらは10スクリーンありますから、差し引き1スクリーン増えたということになります。ただ、小劇場は、全国でも数少ないピンク映画の上映館でした。これはさすがに引き継がれないと見えて、静岡からピンク映画の灯は消えてしまったということになるのでしょう。
 
新しいシネコンのHPを観て驚いたのは、10スクリーン中フィルム上映ができるのは、4スクリーンのみ。後は、デジタル上映専門なんです。フィルムで映画を観るのが、贅沢になっちゃう日も近い、というかもう来ているのかもしれません。
 
静岡の映画街がなくなるにあたっては、オリオン座についての記事はたくさん見かけますので、閉館する映画館の中で最もマイナーなミラノ2について書いてみます。

映画館街に最後に行ったのは、9月18日、静岡ミラノ2での「くまのプーさん」が最後でした。ここは、写真にもありますように、普通の映画を上映している中では一番小さいところでして、もとは、そこそこあった映画館の2階席を映画館として独立させたものです。座席の前後も狭いですし、2chでの評判もよくないのですが、なぜか静岡に帰ったときはここで映画を観ることが多くて馴染みの深い映画館です。音響はデジタルではありませんし、スクリーンはやや見下ろす感じになるのですが、それでも快適な映画鑑賞ができました。

 

その昔、静岡日活が、ロマンポルノになってから、並木座と名前を変え、その2階席を独立した映画館として、静岡カブキとしたのが、ミラノ2の前身です。静岡カブキは、洋画ポルノの専門映画館だったのですが、洋画ポルノの衰退とともに、ミラノ2に名前を変えて普通の映画を上映するようになりました。ここで初めて観た映画は、中国映画の「紅いコーリャン」でした。当時は、スクリーンが妙にギラギラ反射する材質のもので、あまり見易い映画館とは言えませんでしたが、それでも、メジャーでない映画をたくさん上映する映画館として位置づけられていました。
 
その後、スクリーンは張り替えられて見易いものとなり、ドルビーステレオの音響も設置されました。そして、静活が、映画館街を一つのシネコンのように見立てた運用をするようになってからは、大きな映画館で上映されていた映画をムーブオーバーする、シネコンの小さなスクリーンのような役割も担うようになりました。最近は、アート系の映画は、静岡シネギャラリーで上映されるようになり、この映画館としてのカラーもなくなってしまいました。
オリオン座が静岡を代表する大劇場なら、ミラノ2は下駄履き感覚の敷居の低い映画館です。以前は、エンドクレジットの出ている途中で、掃除のおばちゃんが入ってきちゃうようなこともありましたけど、それもまたご愛嬌ということで。
 
ともあれ、静岡から映画街が消えてしまいました。

「ステイ・フレンズ」はまたしてもベッドインから始まるラブコメ、ってこういうのが流行りなのか?


今回は、109シネマズ川崎4で新作の「ステイ・フレンズ」を観てきました。ここは大きくもなく小さくもなくほどほどの大きさのいかにもシネコンという感じの映画館。

ロスのアートディレクター、ディラン(ジャスティン・ティンバーレイク)が、ニューヨークのGQ誌へと転職のお誘いがあり、彼は、ニューヨークへと向かいます。彼を出迎えたのはジェイミー(ミラ・クニス)という魅力的なヘッドハンター。実は二人とも恋愛が破局した直後でして、二人はよき友人となっていくのですが、そこは男と女、でも恋愛関係なしのセックスだけの関係で行こうと意気投合します。お互いによき友人としての距離を保ちながら、セックスで結ばれている関係、これが結構うまく行ってしまうのは、お互いの趣味が合っているからかもしれません。ジェイミーの母親ローナは自由なシングルマザーで、ジェイミーは自分の父親を知りません。そのせいもあってか、彼女は若干情緒不安定なところがあります。ある日、ディランのロスの実家に帰ることになり、彼はジェイミーも誘います。ディランの姉アニー(ジェナ・エルフマン)と甥っ子、そして父親ハーバー(リチャード・ジェンキンス)が彼らを迎えます。父親はアルツハイマーが進んでいて時々奇行に走ることもありますが、それでも時には、彼にアドバイスをくれるのです。ロスにいた時、ディランがジェイミーの情緒不安定なことを姉に話しているところを彼女に立ち聞きされ、二人の関係は気まずいものになってしまいます。ニューヨークに帰った二人は連絡も取らなくなってしまうのですが、ディランの父の言葉に押されて、ジェイミーに再度のアプローチを試みるのですが.....って、そりゃハッピーエンドにしかならないわな。そういう映画なんだもん。

セックスフレンドから始めた関係が、だんだん本気になっちゃってって、どっかで観たことあるようなと思ったら、「抱きたいカンケイ」と同じパターンですね。主演が「抱きたいカンケイ」がナタリー・ポートマンで、こちらはミラ・ニクスと、「ブラック・スワン」対決になっちゃいました。どっか下品なのが気になった「抱きたいカンケイ」に比べたら、こっちはあっけらかんと楽しめて、さらにアメリカのラブコメの定番を手堅く押さえています。ヒロイン、ミラ・クニスの陽性の魅力もあって、素直に楽しめるラブコメに仕上がっています。ウィル・グラックの演出は、セックスシーンも生臭くならない描き方でコミカルな雰囲気を盛り上げ、光を取り込んだ明るい画面作りをしているところも好感が持てました。また、二人の気持ちが接近していく展開もドラマチックにしないで、なんとなく気持ちが変わっていく過程をうまく描いています。ジェイミーが公園で逆ナンした男が外科医でいい関係になりかけるのですが、ちょっとしたところで壊れちゃうあたり、結構面倒くさい女性として描かれているのが面白いと思いました。陽気で明るいキャラと、ちょっとしたところで気難しくなっちゃう二つの顔をミラ・クニスは達者にこなしています。だから、こいつダメじゃんということでなく、ああ、こういう女の子いるよねっていう見せ方になっているのがうまいと思いました。だからこそ、ディランも彼女に惚れちゃうわけでして、このあたりの恋愛プロセスが抵抗なく描かれているのは、脚本のうまさではないかしら。

「ソーシャル・ネットワーク」では胡散臭い投資屋を演じたジャスティン・ティンバーレイクですが、ここでは、ストレートなキャラを好演しています。オヤジ目線では、ミラ・ニクスの魅力に霞んでしまった感もあるのですが、嫌味やエゴを感じさせない誠実なキャラを手堅く演じて好印象でした。また、主人公二人をとりまく、ウッディ・ハレルソン、パトリシア・クラークソン、リチャード・ジェンキンスといった面々がただ出てくるだけでなく、主人公たちにきちんと影響を与えるキーマンとして描かれているのもマルでして、ドラマ作りのうまさを感じさせました。

セックスから始める男女関係のドラマは、これまでにも色々とあるのですが、それを伝統的なボーイ・ミーツ・ガールのラブコメの形にはめ込むというのは、ハリウッドもネタ切れなのかなって気がします。「抱きたいカンケイ」はそれに果敢にトライしたものの、生臭さを抜ききれなかったところがありましたが、この「ステイ・フレンズ」は陽性のドラマにすることで、従来のラブコメの空気を吹き込むことに成功しています。軽快なテンポと、膨大なセリフ量で、コメディとしてのカラーを強めていることが成功の一因でしょう。また、ラブコメの起承転結の転の部分で、お話を沈ませないでテンポを維持して、調子よくお話を運んでいるところもマルです。

恋愛ドラマの定番である、起承転結、つまり出会い、愛し合い、諍い、結ばれるという段取りで、普通の恋愛ドラマだと、セックスは結のところで来ます。ラブコメの場合ですと、セックスまで行かないことも結構ありますが、この定番を壊して、起の出会いのところでやっちゃおうというのは、セックス観が変わってきたのかもしれません。まじめな恋愛ドラマでなく、ある程度、広い観客層をターゲットにしているラブコメでそれをやっちゃおうってのは、それだけ恋愛とセックスがリンクしにくくなったということなのでしょう。でも、最近のラブコメを観ていて思うのは、意外とキスしてないんですよね。すぐベッドインするご時世の割には、ブッチューっていうキスシーンになかなかお目にかかれなくなったような気がします。最近の映画から喫煙シーンが減っているように、恋愛表現もトレンドのようなものがあるのかもしれません。メグ・ライアンが出ていた頃とはラブコメも様変わりしているんだなって感じますもの。って、感じるだけ年をとったってことなんでしょう。まあ、「七年目の浮気」とか「或る夜の出来事」までさかのぼるには、若いんですけど。

「カンパニー・メン」はアメリカの雇用事情のお勉強になりました、日本もこの方向なのかな?


今回は、ヒューマントラストシネマ有楽町シネマ2で、新作の「カンパニー・メン」を観てきました。有楽町の駅前なのに、こんな小さな映画館なの?というくらいのミニ劇場です。ロビーもないに等しいし、こじんまり度がすごい映画館。

総合企業GTX社の販売部長ボビー(ベン・アフレック)は、突然のリストラで会社をクビになっちゃいます。リーマンショックの影響下で、不採算部門の造船部門縮小に伴う措置でした。重役のジーン(トミー・リー・ジョーンズ)はこのリストラに反対でしたが、CEOのサリンジャー(クレイグ・T・ネルソン)には逆らえません。クビになったボビーは就職支援センターに通って職探しを始めますが、これまでの給与をもらえるような仕事は見つかりません。妻のマギー(ローズマリー・デヴィット)は仕事に復職し、生活も切り詰めることを覚悟しますが、ボビーは見栄があってなかなか現実を受け入れられません。GTX社はさらに大リストラを行い、勤続30年以上のベテラン重役フィル(クリス・クーパー)もリストラされてしまいます。そのことの不満をジーンにぶちまけに行ったら、ジーンもリストラの対象となっていたのでした。ボビーの義兄ジャック(ケヴィン・コスナー)は、大工でしたが、ボビーに仕事を世話しようと申し出てくれます。最初は、プライドから相手にしなかったボビーでしたが、どこにも就職口がなくなり、家を売り払うまでになってくると、ジャックに頼んで、彼の下で大工の下働きをするようになります。一方、フィルは60近い年齢もあって、仕事がなかなか見つからず、これまでの生活を維持する金もなくなり、追い詰められていきます。ジーンも自分の身の振り方を決める時期を迎えていました。リストラされた、ボビー、ジーン、フィルのそれぞれの人生の危機を無事乗り切ることはできるのでしょうか。

テレビシリーズの脚本、演出で実績のあるジョン・ウェルズが脚本、監督を兼任した、人間ドラマの一編です。私もペーペーのサラリーマンですから、リストラは他人事ではないのですが、それでも、自分の周囲で、クビになった人はまだ見かけたことはありません。滅多なことをしない限りクビになることはなさそうです。ところが、アメリカはシビアというか、文化が違うせいでしょうが、部長クラスでも「はい、今日で、あなたクビです」で職を失ってしまうのです。クビになるかもしれない不安の中で、日々仕事をするってのは大変なことだと思うのですが、それが文化として根付いていることがこの映画からも伝わってきます。主人公のボビーは、いい家に住み、子供も2人いて、かわいい奥さんもいる。でも、住宅ローンはあるし、それなりの贅沢な暮らしをしていましたから、職を失うということは、すごいダメージとなります。結局、家を売り払い、一時的に親の家に住まわせてもらうことになるわけですが、こういう雇用文化で、住宅ローンが組めるあたりがすごいなあって、どうでもいいところで感心してしまいました。一本の太い物語を持ったドラマではなく、リストラを巡るエピソードを積み重ねた構成になっていたこともあり、ドラマにのめり込むというより、「へえ、アメリカで仕事するってのはこういう事なんだ」という発見の方で見応えがありました。解雇後、就職支援センターというところに通って、そこで職探しをするシステムがあるというのも初めて知りました。ボビーの場合、そこに通って求職活動をして、12週間は手当てが出るのですって。その間は、失業保険をもらうような葛藤はないみたいです。

日本企業でも、モノ作りの拠点を海外に置くようになってきてますが、それに先んじるアメリカでも、第二次産業の人間がたくさんリストラされているようです。GTX社も不採算部門である造船部門を切り捨てた結果、3000人もの解雇者を出します。会社は社員のためでなく、株主のためにあるから、収支決算が最優先され、そのためには大きな人減らしが簡単にされてしまうようです。日本とアメリカを比べた場合、日本はそう簡単にはクビを切らない代わりに再就職が難しいと言われています。アメリカの方が解雇者の再就職が容易らしいのですが、この映画のボビーやフィルといった部長職以上の再就職はなかなか難しいというふうに描かれています。遠くへ引っ越すとか、収入が半減するとかを覚悟すればないことはないらしいのですが、それを簡単に飲むことは、家庭の事情やプライドが許しません。フィルは、再就職センターへビジネススーツで通い、午後6時前に家に帰ってくるなと奥さんに言われちゃいます。失業したことがわかっちゃうからですって。ああ、ご近所の見栄があるんだなあって「レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで」を思い出しちゃいました。ボビーも最初は、そういう見栄もあって、生活レベルを落とすことはやだって駄々をこねるのですが、現実的にものを見る奥さんに諭されて、車や家を売り、義兄の下で大工の下働きを始めます。

ジーンやフィルは、工員からの叩き上げの重役でして、彼らは、若い頃、造船所で働いていた時分を懐かしがります。そして、今の決算報告に追われる日々に対してグチをこぼします。とは言え、クビになる前のジーンやフィルは重役でしたから、相当な収入を得ていたのです。この映画では、CEOが普通の社員の700倍の給料をもらっている、さらに彼らにはストックオプションといった株の優遇も受けているのです。そこまでいかなくても、ジーンやフィルは高い給料をもらっていい生活をしてきたのです。一方で、モノ作りを軽視し、切り捨てていく今の企業のやり方はおかしいぞというメッセージをこの映画は投げかけています。極端な貧富の差、でも、富める者も実は砂上の楼閣にいるという構図は、日本でもあてはまるものなのかしら。でも、いわゆるグローバリゼーションとか国際化というのは、そういう文化を取り込むことでもあります。派遣社員が増えた結果、仕事の中間搾取が増えて、貧富の差は日本でも増大してきていますし、派遣社員の雇用状況は、正社員よりも遥かに不安定です。登録しておいて、仕事が来るのを待つというスタイルは、ひっくり返せば、今の仕事が簡単になくなるリスクを負っているわけですから、ジーンやフィルの立場に近いものがあります。

ジーンやフィルのようなカンパニー・メンの対極に位置づけられる存在が、ボビーの義兄ジャックです。彼は大工であり、もの作りをする人間です。それまで、ボビーとジャックは仲が悪く、ジャックはボビーのことを外国人を低賃金で搾取する人間だと揶揄していました。そんな、ジャックですが、ボビーが失業したのを知って、手を差し伸べてくれます。自分のことしか考えない、いや考えられない状況に追い込まれているカンパニー・メンとは違う、血の通った人間としてジャックは描かれています。そこは、ちょっと理想化しすぎのところもあるのですが、もの作りする人間の方を偉いという見せ方は、今のアメリカの企業の有り様へのアンチテーゼとなっています。

演技陣にいいところを揃えているので、その点では映画を観た満足感があります。トミー・リー・ジョーンズとケビン・コスナーは儲け役でしたが、その他でも、ボビーの奥さんを演じたローズマリー・デウィット、リストラ宣告人の人事部のサリーを演じたマリア・ベロもいいところを見せました。まあ、主要キャストはみんな儲け役みたいな感じでした。ジョン・ウェルズの演出がうまかったということなのでしょう。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



フィルは、なかなか仕事が見つからず、就職支援センターへも行かなくなり、昼間から酒浸りとなります。ジーンはそんな彼を心配するのですが、その心配は的中し、フィルは自殺してしまいます。一方、ボビーも、ジャックのもとで大工仕事をする一方で、就職活動を続けます。そして、ジーンは私財を投げ打って、造船会社を立上げ、ボビーも管理職として招かれます。そのことをジャックに相談すると「お前は大工には向いていない」と彼に復職を薦めてくれました。そして、廃工場となってた造船所の事務所に、かつての仲間が集まってきて、さあ、がんばろうぜいとボビーがぶちあげたところで、カメラは外へ移り、無人の造船所からカメラはさらに移動し、港から出航しようとしている船を映して(この移動カットが結構長い)暗転、エンドクレジット。

解雇された造船部門の人間を集めて、再度、モノ作りにトライしようとジーンが決心するわけですが、その辺りの葛藤はさらりと流して、映画は、不安半分に希望半分という終わり方をしています。それは、文字通り船出というにふさわしいもので、果たして、無事に荒海を乗り切れるかどうかはわかりません。それでも、もの作りに立ち戻ることをハッピーエンドとして持ってきたあたりに、この映画のメッセージを読み取ることができます。

最近のハリウッド映画はシネスコサイズばかりだったので、ビスタサイズの画面は久しぶりでした。ロジャー・ディーキンスのキャメラは深みのある絵作りで、ドラマに奥行きを与えています。また、アーロン・ジグマンの音楽は、現代音楽風の音と、メロディアスな音を使い分けて、非人間的な企業と、心ある人間を描写していてうまい音作りをしています。ただ、明確なテーマメロディが出てこないのがちょっと残念。というより、最近の映画はみんなそんな感じなのですが。
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Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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