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「フェイク・クライム」のビミョーな面白さは、観る人を選ぶかも。


今回は、新作の「フェイク・クライム」を横浜ブルク13シアター10で観て来ました。100席ちょっとの小さめの映画館なので、シネスコ上映だと上下だけ縮んじゃうのが残念。シネスコサイズは画面がでっかくなるからうれしいのですし、ワイドテレビとの差異をつけるためにシネスコサイズの映画になっているのに、画面が横に広がらないのは意味ないような気がします。

高速道路の料金所で働くヘンリー(キアヌ・リーブス)は夜勤明けに家に帰ると、そこに高校時代の友人エディがお腹こわした男ジョーと一緒にやってきて、ジョーの代わりに野球の試合に出てくれと言われて、他に二人も乗せて車を走らせます。銀行の前に止まると男たちはそのまま銀行強盗へ。車の中で待っていたヘンリーは、たまたま向かいのカフェにいた銀行警備員フランク(ビル・デューク)につかまって、銀行強盗として刑務所に送られてしまいます。服役中に妻のデビーはジョーとできてしまい、出所したヘンリーは帰るところもなくなります。そして、銀行の前でボーっとしてるところを車にはねられてしまいます。はねたのは女優のジュリー(ヴェラ・ファーミガ)で、銀行と隣接する劇場で「桜の園」の稽古中でした。ヘンリーはカフェのトイレで、かつて銀行の金庫室と劇場の間に密造酒を運ぶトンネルがあったという新聞記事を見つけ、そうだ「これがオレの夢だ」と目覚めてしまうのでした。刑務所で同房だったマックス(ジェームズ・カーン)を誘って、銀行の金庫室を襲おうとするヘンリー。交通事故が縁で仲良くなったジュリーに、ヘンリーは自分の夢を洗いざらい語ってしまいます。そして、トンネルがある部屋に入り込むために、ヘンリーは「桜の園」のロパーヒン役を演じる羽目になってしまうのでした。果たして、平凡な人生を送ってきたヘンリーの夢はかなうのでしょうか。

この映画の原題は「Henry's Crime」でして、「ヘンリーの犯罪」ということ。「フェイク・クライム」というのは、キアヌ主演の「フェイク・シティ」から取ったのでしょうけど、かなり安直。まあ、晩秋は、映画の在庫整理の時期ですから、公開する配給会社にもやる気がないのかなって感じです。この時期の映画は、あまり期待できないのが多いのですが、時に拾い物が見つかるので要注意です。それで、この映画はどうだったかというと、拾い物というほどの面白さまではいかないものの、珍品としての面白さを持った一品になっています。監督のマルコム・ベンビルという人は初めて聞く名前ですが、なかなか健闘していると思います。ただ、サーシャ・カヴァンによるストーリーに無理があったのが残念という感じでしょうか。

主人公のヘンリーは地味な男です。さらに、主体性がなくって、人に言われたことにすぐ左右されちゃいます。何を考えているのかわからないし、ひょっとしたら何も考えていないのかもしれないタイプ。わけもわからずに、銀行強盗の運転手にさせられ、自分だけ逮捕されても、エディの名前を言わずに自分だけ刑務所に入れられちゃいます。同房のマックスに夢を聞かれても「特にない」と答えてしまう。さらに、服役中に女房がジョーとできちゃっても文句一つ言いません。うーん、お人良しというのも違うような気がしてきます。とにかく、そんな感じでグダグダ感の強いヘンリーが、突然覚醒してしまい、銀行の金庫破りが夢だと張り切り始めてしまうのです。そして、服役中のマックスに面会に行って、一緒に自分の夢をかなえようと誘うのです。このあたりから、映画はオフビートなコメディの様相になってきます。ベンビルの演出は、キアヌをずっとアホみたいなキャラにしているのですが、そこを笑っていいのかどうか戸惑わせるところがあり、もっとキャラを立たせた方がわかりやすいドラマになったように思います。ボケに徹しきれないキアヌが半端に二枚目しているのですよ。

さて、ジュリーは、ロトのテレビCMに出ている女優だけど、もっと大女優になりたいと思っています。そんな彼女が今取り組んでいるのが舞台「桜の園」。そして、その劇場こそが、ヘンリーの夢をかなえるために必要な舞台だったのです。二人は意外と簡単にラブラブになっちゃうのですが、その後、ジュリーは、ヘンリーの夢に巻き込まれちゃうことになります。マックスは、銀行へのトンネルがある部屋が、ロパーヒン役の控え室だったところから、ロパーヒン役の役者にウソのオファーをして、舞台をキャンセルさせ、ヘンリーをロパーヒンに推薦するようにジュリーに頼むのでした。そして、なぜか演出家がヘンリーをロパーヒン役に使う気になっちゃうのですよ。そこで、ネズミ講に失敗したジョーを巻き込んで、控え室の壁を壊して、埋められていたトンネルを掘り返す作業に取り掛かります。

お話の展開としては悪くないのですが、何考えてるかわからない、ボーっとしてるヘンリーが舞台役者をやれちゃうってところに、相当無理がありまして、主人公がボケに徹することも、二枚目を演じきることもできない中途半端なキャラになっちゃいました。そのため、その先の展開が、説得力なくなってしまったのが残念でした。まあ、何考えてるのかよくわからないヘンリーに振り回されるマックスやジュリーのあたふたぶりを楽しむ映画なのかもしれません。この後、犯罪映画としても、ラブストーリーとしても、グダグダな展開になっていくのですが、そのグダグダさに、はまれば、結構楽しめる映画だと思います。展開がグダグダなので、キャラもハンパにしときましたというのであれば、さもありなんという気がしてきます。かなり、オフビートな味わいなので、普通の犯罪もの、あるいはコメディを期待すると「何じゃこりゃ」という気分になりますが、映画全体がボケをかましていると思えば、意外な面白さもあります。ただし、映画の宣伝文句である「信じたら、だまされる」を真に受けると、だまされるかも。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



トンネル掘りを始めたヘンリー、ジョー、マックス。そこへ割り込んできたのがエディでして、分け前を取ろうと乗り込んできます。マックスとしては面白くないのですが、ヘンリーがエディに何も言い返せずに結局一味に加えちゃいます。そして、フランクが彼らに大金が金庫に入る日時を教えてくれるのですが、その日が舞台の初日だったので、ヘンリーちょっと困っちゃいます。どうやら、ヘンリーとしては、ジュリーに本気で惚れてしまったので、彼女を見捨ててずらかるのがつらくなってきたようなのです。それでも、決行の日はやってきます。ヘンリーが真面目にロパーヒンを演じている裏で、何とかトンネル掘りは間に合い、あっさりとお宝ゲットしてしまいます。しかし、予想にたがわずエディが独り占めしようと銃を持ち出すのですが、そこでつかみ合いになって、マックスがエディをとりおさえます。その時の流れ弾でヘンリーは負傷。マックスとジョーは金を運び出し、舞台を抜け出してきたヘンリーと一緒に車で走り出すのですが、ヘンリーが車を停めろと言い出します。そして、車を降りたヘンリーは舞台へと戻り、舞台上のジュリーにアドリブで愛の告白をします。舞台をめちゃくちゃにされて、唖然とするジュリーを抱き寄せるヘンリー、そして二人がキスする寸前で暗転、エンドクレジット。

金庫までトンネルを掘って、札束をせしめるまでには何のサスペンスもなく、あっけない展開でして、結局、そこがドラマの中心ではなく、ヘンリーが舞台へ引き返すところがクライマックスになっています。とはいえ、そこにドラマチックな葛藤があるわけではなく、「あ、やっぱ、俺、戻るわ」というノリなので、わざとクライマックスをはずしている感じなのです。舞台へ無理やり乗り込んだヘンリーはロパーヒンの役のままで、ジュリーに愛の言葉をぶつけます。これが、一応「桜の園」のストーリーとかぶっているのが、ちょっとおしゃれな趣向になっています。それまでボケ倒してきたヘンリーが、朗々と愛のセリフを語るところは意外と言えば意外ではあるのですが、そこで大笑いできるかというと、「微妙...」って感じなのです。でも、その「微妙...」という感じがこの映画の持ち味なのです。演技陣も、キアヌのボケぶりも勿論ですが、相手役のヴェラ・ファーミガもいつもの知的な美形という感じではなく、「微妙..」なキャラになっちゃっています。悪役の多いピーター・ストーメアはハイテンションな演出家を演じましたがこれも変なキャラになっています。ジェームズ・カーンだけが、映画の中でマトモな人として機能していまして、そこで、映画が若干引き締まったのですが、それも全体の空気に流されていました。観終わって、こういう映画もあるんだねという意味で、悪くはない出来栄えですが、どこがオススメポイントかと聞かれると、「うーん、微妙...」って感じかしら。
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「テイカーズ」はクールに決めた犯罪ドラマの佳作、いやプラスアルファありかな


今回は横浜ブルク13シアター13で、新作の「テイカーズ」を観てきました。デジタル上映ばかりのこの劇場にしては珍しいフィルム上映でした。

ゴードン(イドリス・エルバ)率いる5人のチームは大胆な手口で銀行強盗をやってのけました。捜査を担当するウェルズ刑事(マット・ディロン)は何とかして犯人をつかまえようと躍起になりますが、彼らの尻尾を押さえることができません。奪った金を山分けしてた5人のところに、かつての仕事で警備員に撃たれて逮捕されたゴースト(チップ・T・I・ハリス)が出所してきます。ゴーストはロシア人から現金輸送車のルートを手に入れ、これをもとに輸送車からの現金強奪をやろうと持ちかけてきます。実行日まで5日しかないのと、ゴーストを信用していいものかとためらう5人ですが、最終的にやろうという話になります。作戦は映画の「ミニミニ大作戦」と同じく、爆薬を使って、現金輸送車を落とし穴に落とそうというもの。一方、ウェルズは、別の事件から、チームが作戦会議をした後を発見し、その中の写真にゴーストの刑務所での認識票を発見、ゴーストをマークすることになり、マークと接触したゴードンを特定するのですが、それだけでは、ゴードンを引っ張ることはできません。そんなことをしているうちに輸送車強奪の日はやってきました。果たして、この事件の決着はいかに。

ジョン・ラッセンホップが脚本と監督を兼任した、犯罪ドラマの一編です。特定の主人公はいない群像ドラマのスタイルをとっていて、5人の強盗チームと、それを追う刑事、そして出所したばかりの元チームの男といった面々が絡み合う群像ドラマとなっています。特定の主役がいないのですが、その中で、刑事のウェルズと強盗団のリーダー格のゴードンが、プライベートな部分まで描かれていて、比重のかかった描き方になっています。ラッセンホップの演出は派手な追跡シーンといった見せ場も入れながら、ハードボイルド系の犯罪ドラマに仕上げていまして、娯楽映画として上々の出来栄えと言えましょう。いわゆる泣きの展開にならずに最後までクールな線から外していないのが、面白さにつながったのだと思います。

この強盗団は、やることはクールで鮮やか。映画の冒頭で見せる銀行強盗の手際の良いこと。貫禄あるゴードンに、血の気の多そうなジェイク(マイケル・イーリー)とジェス(クリス・ブラウン)の兄弟、二枚目のA・J(ヘイデン・クリステンセン)、そしてゴードンをクールにサポートするジョン(ポール・ウォーカー)というチームは慎重に仕事を選ぶ、いわゆる強盗のプロです。そんな彼らに出所してきたゴーストが持ち込んできた仕事は、準備期間が短いものでした。一仕事終えたばかりにすぐ次の仕事に手をつけるのは、彼らの本意ではないのですが、それでも、服役してきたゴーストに負い目があるのか、その仕事に着手することになります。信号機の操作や、爆破装置を仕掛ける準備が必要な大仕事です。

ウェルズは相棒のジェイ(エディ・ハッチャー)と共に、銀行強盗を捜査します。そして、別件の捜査から、次の仕事が計画されているらしいこと、それにゴーストの存在が浮かび上がってきます。しかし、それだけでは逮捕する理由にはなりません。休みの日、娘を連れて遊びに行こうという時に、ゴーストが保護司に会うという連絡があり、娘を乗せた車で彼を尾行し、ゴーストがゴードンたちと接触するのを目撃します。そのまま仕事モードに入ってしまって、娘と遊びに行くのがオジャンになってしまいます。一方のゴードンは、ヤク中の姉ナオミ(マリアンヌ・ジャン・パブティスト)がリハビリ施設から予定より早く退院してくるは、勝手に金を持ち出して、ヤクを買って警察に保護されたりと、仕事の準備以外にも心配事を抱え込んでいます。ウェルズとゴードンに丁寧なキャラ作りがされていることは、ドラマに厚みを与えていまして、犯罪ドラマに奥行きを与えています。特にマット・ディロンの、時に過剰な暴力を容疑者にふるってしまう不器用なオヤジぶりが印象的でして、子供連れでカーチェイスをやっちゃうあたりが痛いキャラになっています。

ウェルズはゴードンまでたどり着いているのですが、彼と強盗を結びつけるものがありませんでした。そして、強盗の当日の監視ビデオから、ゴードンが事件と関係していることを確信した時には、現金輸送車襲撃の当日でした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



強盗団は信号を止めて、そこに警官の扮装をしたゴーストが交通整理に立ち、輸送車を待ちます。ゴーストの情報が偽ならば、彼を殺すためにジョンが狙撃銃を構えてします。もう限界かと思ったとき、現金輸送車が交差点にやってきます。ゴーストは輸送車を爆弾をしかけたエリアへ誘導します。しかし、爆破のタイミングで自転車が道路を横切ったために輸送車は減速し、爆破してできる落とし穴の手前で輸送車は止まってしまいます。爆弾が爆発したので周囲は大混乱、落とし穴の中に構えていたゴードンたちと、輸送車の警備員の間で銃撃戦となります。ジョンが後続の輸送車を乗っ取って、金を積んだ輸送車を押して、無理やり落とし穴に落として、金を奪うことに成功します。現場についたウェルズは、強盗団が地下を逃げたことを知り、最寄の地下鉄駅に向かうと、そこにはゴーストと接触していたジェスを発見、追跡しますが逃げられます。

奪った金を持って、ホテルへ集まった面々。金は空港へと運ばせるのですが、そこにロシア人の強盗団が襲ってきます。ゴーストが彼らをロシア人に売ったのでした。激しい銃撃戦で、A・Jが死亡。生き延びた面々は各々空港へ向かおうとするのですが、面が割れてしまったジェイクとジェスは家で警官隊に包囲され、正面突破しようとして、蜂の巣にされてしまいます。一方、ゴードンは、ゴーストが奪った金を狙っていると読んで、空港へ向かいます。ウェルズはゴードンの家に向かい、彼の車が去るのを見つけて追跡します。ゴーストは空港で金を運んできた運び屋を射殺し、金を運び出そうとするのですが、そこへゴードンが現れます。さらに、ウェルズも現れ、3人の間で銃撃戦となり、ウェルズとゴードンが撃たれて、ゴーストがとどめを刺そうとしたとき、ジョンの銃弾がゴーストをしとめます。そして、ジョンは負傷したウェルズは殺さず、ゴーストと車で去っていくのでした。

2時間弱の映画の割には結構盛りだくさんな内容でして、サブプロットとして、ウェルズの相棒が賄賂を取っていたというエピソードや、ゴーストの元カノが今はジェスの彼女になっているなどがあり、「アバター」のゾーイ・サルダナが彼女役でちょっとだけ登場したりしています。大仕掛けな現金輸送車襲撃はなかなかの見せ場になっていますし、その後のロシア人との銃撃戦も迫力がありました。そして、ラストも、腹に弾をくらっているゴードンとその姉ナオミを乗せて車を走らせるジョン、ナオミに「もう大丈夫だ」というゴードン、というのがなかなかにクールでかっこいいのですよ。特に、儲け役とは言え、ジョンを演じたポール・ウォーカーがこの映画で一番かっこよかったです。また、ゴードンのお荷物になるナオミを演じたマリアンヌ・ジャン・バティストが「秘密と嘘」の娘だったとプログラムで知ってびっくり。確かにドラマのアクセントとしての曲者ぶりが印象的でした。

地味ながら曲者役者を揃えて、各々のキャラが立つようにドラマを捌いた演出は見事だったと思います。強盗団の面々も悪役という描き方でないため、警察側にも、強盗側にも感情移入できるようになっていまして、そこへゴーストが大ワルだったというドラマ展開が、きちんとラストに娯楽映画としてのカタルシスをもたらしています。

「追憶」のノスタルジックな味わいは映画として面白くて見応えがあります


今回は、午前十時の映画祭で、1973年の「追憶」をTOHOシネマズみゆき座で観てきました。ここはスクリーンが小さくて高いところにあるので、後ろに座ると画面小さいし、前に行くと画面を見上げて首がくたびれちゃいます。

第二次大戦前での大学のキャンパスで、ケイティ(バーブラ・ストライサンド)は反戦運動のアジテーターとして一際目立っていました。そんな彼女は、同じクラスのハベル(ロバート・レッドフォード)に心惹かれていました。ハベルには、彼女にはない文才があったのです。そんな二人はいい感じになりかけたところで卒業。戦争になって、ハベルは軍隊に、ケイティは放送局に勤めます。ある店で偶然出会った二人は急接近し、軍務を終えたハベルは作家になり、ハリウッドに居を構え、ケイティも一緒にハリウッドへ行きます。戦後のハリウッドでは赤狩りが猛威を振るっていましたが、ケイティは反赤狩りの政治運動を起こします。そんな彼女の政治的な闘争心にハベルはついていけなくなりますが、ケイティが折れて、二人はよりを戻し、子供もできるのでした。しかし、時がたち、街で、久々に再会した二人は既にに夫婦ではなく、ハベルは映画製作に忙しく、ケイティは反原爆運動のビラを配り続けるのでした。

アーサー・ローレンツが原作を脚色し、シドニー・ポラックが監督した、20年に渡る男女のドラマです。ラブストーリーということもできるのかもしれませえんが、強烈な個性を持ったケイティという女性の半生を描いたドラマというのがあたっているのかもしれません。とにかく、ケイティはクセの強い女性でして、政治運動は自分にとって一番大事なことのようなのです。誰かのために政治運動をするのではなく、政治運動をすること自体が目的になっているような女性。映画の製作当時にはない言葉で表現するなら地雷女とでも言いましょうか。彼女にとっての正義は、周囲のことを差し置いて表明して、突き進めなければならないことなのです。そこに駆け引きや妥協はありません。ハベルにとっては、人生とは、周囲との人間の関係で成り立っているものですから、周囲との軋轢をものともしないケイティの言動にはついていけないのです。さらに困ったことに、ケイティはハベルを愛していて、ハベルを心の支えとしていたのです。さらに、ハベルもそんなケイティのことを愛していました。

愛があればすべてを乗り越えられる、のであれば、何とかなったのかもしれないケイティとハベルですが、愛よりも優先するケイティの政治信条は、二人を何度も破滅の寸前まで追い詰めます。文才と常識を合わせ持つハベルは、ハリウッドの政治に無関心な連中を見下すケイティをどう扱ったものか、困り果ててしまいます。それでも、子供ができて、二人の仲が収まるかに見えるのですが、ハベルの友人の奥さんと浮気したこともあって、二人の間の溝はなかなか埋まりません。ケイティの生き方はすごくシンプルでして、政治活動が最優先、でもハベルが好き。彼女の中では、それは両立できるのですが、ハベルにとって、そんな彼女を受け入れることは至難の業でして、トライしては失敗を繰り返し、ラストでは、二人は別れ、各々別の伴侶を見つけて暮らしていることが示されます。そして、ケイティは相変わらず政治運動に熱心で、原水爆禁止のビラを配っています。今度のダンナはそんな彼女に理解のある人らしいことをうかがわせ、彼女が道でビラを配るのをロングで捉えたショットにキャストがクレジットされて、おしまい。

二人が一緒にいることで不幸になるってのは、客観的にはよくわかるのですが、ケイティはハベルを必要としていました。彼氏としてだけではなく、親友としてハベルが必要だったのです。他人を見下して、自分の信条こそが最優先のケイティには、心を開いて語る友人がいませんでした。それまで、ハベルはケイティを彼なりに受け入れてきたのですが、いつしかそれに耐えられなくなるシーンは、男目線では、必然だと思います。そこへ泣きを入れてくるケイティを受け入れてしまうハベルは、やっぱりその人柄ゆえに地雷を踏んでしまったんだなあってしみじみしちゃいました。ですから、ラストで二人が別々の人生を歩んでいるのを観て、ほっとするところがありました。バーブラ・ストライサンドは、この周囲の見えない、意志の塊のような女性を存在感のある演技で熱演しています。観客の共感を得られなくても、私はこういう人間なのよという見得の切り方が見事でした。一方の、ロバート・レッドフォードは善良な男を静かに演じて、ヒロインをうまくサポートしています。

ラブストーリーとしては海べを歩くシーンが有名ですが、映画のタイトルナンバー「The Way We Were」がタイトルバックで流れ、そのバリエーションが映画のあちこちで流れることで、映画が現在進行形のラブストーリーではないことを示しています。全てが過去の思い出のように語られる映画のトーンが不思議なノスタルジックが味わいがあり、そういう時代があったんだなあっていう気分になります。1974年の公開当時でも、戦前からの描写はやはりそういうノスタルジックな気分で受け入れられたのではないかしら。マービン・ハムリッシュによる主題曲は、今やスタンダードというべき名曲ですが、映画の中では要所要所にそのバリエーションが流れて、きちんと映画音楽としての役目を果たしているのが見事でした。

登場人物は、この主人公二人に限定されてしまうのですが、それでも、脇役のブラッドフォード・ディルマン、コリン・チルズ、パトリック・オニール、ビベカ・リンドフォース、マレー・ハミルトンといった面々がきちんと印象に残るようにドラマづくりがされているのが印象的でした。その他大勢のポジションで登場する若いジェームズ・ウッズも印象に残ります。その分、映画のテンポは今のそれに比べればゆっくりとしています。思い切った時間の省略をしているので、ダラダラした感じはしないのですが、そのゆっくりした演出の中で、脇役のキャラがきちんと見えてくるところが、最近のジェットコースタームービーにはない味わいがありました。最近の映画はアクションだけでなく、ラブストーリーでも、テンポが上がっていて、脇役を引き立てる余裕を失っているように見えます。短時間にたくさんのものを盛り込むのがいい映画だという風潮なのかもしれませんが、この映画を観て、もっと映画はゆとりや遊びがあっていいよねという気分になりました。

シネスコの画面なのですが、脇のピントが甘いように思えました。ハリー・ストラドリングJrによる撮影は、最近のデジタル加工した画面ほどのシャープネスはありません。これは上映時の問題なのかとも思ったのですが、当時のフィルムの感度やキャメラの性能からすると、こういう絵になっちゃうのはやむを得ないのかなって気がしました。フィルム自体には傷はなく、退色もありませんから、昔からこういう絵だったのかも。

「チェルノブイリ・ハート」は焦点を絞り込んだだけ、訴えるメッセージは身近で重い


今回は東京での公開は終了している「チェルノブイリ・ハート」を静岡シネギャラリー2で観て来ました。座席数47のちっちゃな映画館で、こういう映画を観るにはふさわしい映画館。でも「ゴースト・ライター」や「ハンナ」も静岡ではここでの上映なんです。何か、静岡の映画興行大丈夫かなあって気がしちゃいます。

チェルノブイリの原発事故から、16年後、まだベラルーシ共和国のほとんどが危険区域になっていました。そして、事故の前後から、その後に生まれた子供たちに水頭症や知的障害がたくさんいるのです。若くして甲状腺ガンに苦しめらる子供たち。重度の障害児は、親からも見離され、遺棄乳児院に収容されています。チェルノブイリから200キロ離れた高校で、生徒の調査を行ったところ、体内のセシウムのレベルが高い子供が何人も見つかります。どうやら食べ物が放射能に汚染されているようなのです。そして、ベラルーシのミンスクの病院では、健常児が生まれる確率は15~20%という驚くべき言葉が語られます。「チェルノブイリ・ハート」と呼ばれる心臓疾患を持った子供が7000人も手術の順番を待っています。アメリカからの医師団による手術が行われてはいますが、その数はとても全体にまでは間に合わず、手術の順番待ちをしている間に多くの子供が命を落としていたのです。マキシムという若者は原発から3キロのところに住んでいました。何年かぶりに自分の住んでいたアパートを訪れる彼は、「もうここへ帰ってくることはないだろう。でも、ずっとここに住んでいたかった」と言います。

アメリカのマリオン・テレオが監督したドキュメンタリーです。チェルノブイリ原発事故は、土地や食べ物の汚染、補償の問題とか、さまざまな切り口を持っているのですが、この映画は、そういうところではない明快なメッセージを観客に叩きつけてきます。それは、「事故で子供たちが犠牲になり続けている」ということです。映画は、大人の被害者や土地を追われた人に興味を示さず、ガン病棟や、精神病院、乳児院の子供たちをひたすら追っていきます。危険区域に住む老人たちもちょっとだけ登場しますが、監督は大人には興味がなさそうです。事故によって未来を奪われた、あるいは奪われつつある子供たちの存在をこの映画は語りかけてきます。

もう少し、反原発とか、反政府といったイデオロギーが前面に出てくるのを想像していたのですが、実際に観てみれば、そういう政治的なメッセージはなく、そこにある子供たちをひたすら追う映像になっていました。悲しみこそあれ、怒りはこの映画からは感じられませんでしたから、人によってはそこを物足りないと思うかもしれません。また、怒りを直接見せない映画から、ある種の祈りを感じられるかもしれません。観る人によって、その感じ方は違ってくるでしょう。特に、今回の福島原発の事故で被災した方がご覧になったら、他人事ではないでしょう。子供たちが蝕まれるまでには時間がかかり、そして、それを原発事故との因果関係を証明することがすごく難しいということもこの映画では描かれています。確かに、日本の水俣病のことを思い返してみても、政府も企業も因果関係をなかなか認めようとはしませんでした。同じことがまた日本でも起こるのかもしれない、そういう警鐘を打ち鳴らすことには意味があると思います。原発事故の先達で、こういうことが起きているのだから、幼い命への配慮はいくらでもやりすぎることはない。結局、子供たちの健康に害が及ばなければ、それに越したことはありません。でも、チェルノブイリの周囲では、障害を持った子供、心臓に穴の空いた子供、ガンにかかった子供が異常な確率で存在しているのです。

なんだか「ガンバレ日本」の情緒的な掛け声だけでやりすごそうとしている風潮には、どこか変だなと思っていたのですが、その理由が何とかわかってきたような気がしました。それは、子供への被害は後になって出てくるから、今のうちに復興気分を盛り上げておいて、子供の被害が出たときに、因果関係を問う雰囲気を封じ込めてしまおうとしているのではないかしら。「ガンバレ日本」で盛り上がってしまえば、疑問や問いかけは、場の空気を損ねるものになってしまうからです。とはいえ、結論としては、福島周辺の子供たちに、障害や病気が発生しないことを祈るしかありません。もし、出てしまったときには、手厚い補償がされることが必要です。この映画で痛々しかったのは、子供たちの病院が経済的な問題で十分な治療や看護ができていないということです。

ショッキングな映像としては、頭蓋骨が発達しないで脳が外に飛び出した赤ん坊や、腰に大きな腫瘍ができて仰向けに寝られない子供たちが登場します。病院に収容された知能障害の子供はどうやら栄養失調になっているようなのですが、扱いはかなりぞんざいです。そういう子供たちは、昔からある程度の割合で生まれてきているのでしょうから、その比率が上がったから、即、原発事故に結びつけるのは難しいとか言われそうです。でも、実際に医療の現場では、チェルノブイリの事故以降、障害を持った子供が増えたと語られています。日本で、そうならないことを祈るばかりですが、もっと、チェルノブイリから学ぶべき未来があるということを知ることができるだけでも、この映画は観る価値はあると思います。

映画の後半は、ある青年が自分がもといたアパートに帰るというエピソードが追加されています。原発から3キロという近いところで、廃墟となったアパートを見て回る青年。何も持って行ってはいけないという状況での避難命令。彼にとっての思い出が全て奪われたことに「クソッ」とつぶやく青年ですが、全ては奪われてしまったのです。

映画の中盤で、危険地域の村を監督が訪れるシーンがあります。そこに住む老人は、「自分たちはここに住むしかないし、今だって無事に生きてるじゃないか」と言います。映画はそういう老人を否定的に捉えることはしていません。年寄りはそれでもいいかもしれない。でも、未来のある子供たちはそうはいかない。そして、子供たちは大人たちよりもずっと弱いのだと映画は語りかけてきます。そうなんだよなあ、大人よりも、子供たちの方が未来は長いし、現時点では弱い存在なんだ、だから、大切に扱わなければいけないという静かなメッセージには耳を傾けざるを得ませんでした。

「コンテイジョン」はパンデミックを扱った、クールなエンタテイメント


今回は新作の「コンテイジョン」を、静岡ザートシネシティシネマ9で観て来ました、ここはできたばかりのシネコンでして、座席数の割にかなり大きなスクリーンの映画館。ただ、スクリーンはビスタサイズ上映でもシネスコサイズのままで、スクリーンサイズに合わせて幕が移動することはありません。これが今風の合理的なのかもしれませんが、映画館のスクリーン前の幕がなくなり、上映サイズのフレーム区切りもなくなるってのは、何だかつまらないぞ。

物語は2日目から始まります。香港から帰国したベス(グウィネス・パルトロウ)は咳きが止まらず何だか様子が変。立っていられなくなった彼女を、夫のミッチ(マット・デイモン)が病院に運び込みますが間もなく死亡。そして、その間にミッチの息子も発症して亡くなります。潜伏期間が短く発症すると脳に炎症を起こして死に至る病気は、香港のウェイター、東京のサラリーマンたちに感染していました。東京のサラリーマンが死亡する映像をチェックしたジャーナリストのアラン(ジュード・ロウ)はネットのブログ上でこの事件を書きたてます。一方、疾病予防管理センター(CDC)のチーヴァー博士(ローレンス・フィッシュバーン)は部下のエリン(ケイト・ウィンスレット)を発症者の出ているミネソタに調査のために送り込みます。ジュネーブのWHOではレオノーラ(マリオン・コティヤール)はベスの感染経路を調べるために香港へと向かいます。この病気のワクチンを一刻も早く開発する必要がありましたが、それは思うように進んでいませんでした。CDCのアリー(ジェニファー・イーリー)は何匹ものサルを使って有効なワクチンを見つけようと尽力していましたが、アランはワクチンなんか効かない、レンギョウが特効薬だというデマを流していました。ワクチンが作られても世界中に行き渡るには時間がかかることから、優先的にワクチンを得るために、レオノーラは拉致されて人質状態。伝染性の高いこの病気のために世界はかつてない混乱に落とし込まれてしまうのでした。

「トラフィック」「エリン・ブロコビッチ」などで知られるスティーブン・ソダーバーグ監督の新作です。マット・デイモンやジュード・ロウなどのスターを使って、ある病原体によって世界中が危機におちいる様をドキュメンタリータッチで描いています。特に、誰が主人公というわけではない、群像ドラマとなっているのは「トラフィック」と同じ趣向なのですが、「トラフィック」のような強いメッセージ性を持った映画ではありません。もし、パンデミックが発生したら、何が起こるのかをリアルに描いたシミュレーション映画としての趣がありました。

その日の朝は元気だった妻が突然亡くなってしまったミッチは驚きで感情がコントロールできなくなります。そして、息子も失い、残った娘を何とか守ろうとします。アランは東京の映像から、不安を煽ることで、自分を世界中に売り出そうとします。エリンは調査に向かった先で発病してしまい、チーヴァー博士は恋人に封鎖される前に街を出るようにと情報を漏らしてしまいます。街では略奪が起こり、街の機能はマヒしていきます。こういったエピソードを積み重ねることで、パンデミックの恐怖を見せていきます。特に誰かのドラマに焦点をあてることはしておらず、病原体が世界中に広まったらどうなるだろうということを絵解きした映画と言えましょう。

ドラマチックな部分をさらりと描いているので、なかなか感情移入しにくいのですが、それでも、面白いエンタテイメントとしてまとまっているのは、演技陣にいいところをそろえているのもあるのですが、パンデミックにまつわるエピソードをうまく抽出したスコット・Z・バーンズの脚本によるところが大きいでしょう。レンギョウが効くというデマが飛んだり、ワクチンは作られたものの、一度に全ての人には行き渡らないことから、抽選で特定の誕生日の人からワクチン接種を受けられるというのも、どこかコミカルだけど、実際にはあり得そうで説得力のあるシーンになっていました。登場人物の割り振りでは、市民の視点をミッチに集約させ、それ以外は、病原菌と戦う人々を描いています。その結果、わかりやすいドラマに仕上がってはいますが、病原菌の恐怖を描ききれていない部分も出てしまいました。特に、情報不足やデマに振り回される人々の姿がもっと描かれていたら、映画としての視野が広がったのではないかと思いました。

そんな中で、特に印象的だったのは、ワクチンの優先順位を上げさせるために拉致されるWHOの職員レオノーラのエピソードでした。中国側職員の実家の村に連れ去られ、彼らのためのワクチンと引き換えに解放されるのですが、病原菌が蔓延しつつある中で、生産量に限界があるワクチンを入手するためには、様々が不正な行為が行われるであろうことは想像がつきます。ワクチンがアメリカとフランスで生産されているという事実が広まれば、アジア、アフリカが後回しになるだろうことは予想がつきますし、保健機関の人間や家族に優先的にワクチンが接種されるであろうことも想像がつきます。それを手段を選ばず横取りしようという人間の行動には納得できるものがあります。そもそも、国によって、従事する仕事によって、ワクチンの優先度が変わってしまうことはフェアじゃないのですから、それを横取りしようとすることも同じことだと言えます。自分一人のワクチンならあきらめがついても、家族や大事な人の分を確保したいと思うのは人情ですもの。映画自体はそこにあまりこだわることはないのですが、観る人によって、強い印象を受けるシーンは異なっているように思います。できるだけ、思い入れの入らない演出で、パンデミックを様々な切り口から見せるという構成になっているからです。

豚インフルエンザとか鶏インフルエンザなどが、騒がれたことを思いかえすと、この映画で描かれていることは、非常にリアルな近未来映画ということが言えましょう。日本映画だと、誰が死ぬか、どう死ぬかというところを情緒的に描いて泣かせの映画にするところを、この映画では、死を非常にクールに扱っています。子供の死をあっけらかんと見せるあたりとか、死体を穴を掘って埋めていくシーンを淡々と描くくだりなど、死を一人一人の人生の集約点というよりは、生態反応の止まった死体として扱っています。しかし、この病原体の死は、簡単に感染して、あっけなくもたらされるものなのです。冒頭の、ベスの突然に死に、どう対応してよいかわからなくなる夫のミッチの姿に、生と死の紙一重の差が見事に表現されているように思いました。

映画は、2日目から始まるので、おかしいなと思っていると、ラストで、病原菌がコウモリからブタ、そしてブタを調理したコック、そのコックと握手するベスの姿が映るところで、感染の1日目が描かれるところで、暗転、エンドクレジットとなります。映画の中盤で、ベスは香港のカジノで色々な人に接触することで、病原菌を広めてしまったことが、カジノの監視カメラからわかってきます。実際、彼女に接触した人々が発症して亡くなっているのです。その一方で、ベスの夫であるミッチは、接触しているのに発症しません。どうやら、感染しても発症する人としない人がいるようなのです。それでも、世界の2600万人の人がこの病原菌のために亡くなってしまいます。それが、多いのか少ないのか、そして、発症する人と発症しない人はどこが違うのか、一般市民の視点からすれば、そういうことがすごく気になるのですが、そのあたりは、この映画では描かれません、というより、誰にもわからないようなのです。そのわからないというところに、不安、そしてデマの入り込む隙ができてしまいます。ネットの普及で、情報の蔓延する速度がどんどん加速しています。時として、それは世界的規模のデマを生んでしまうこともあると思うと、情報化社会で、情報をどう取捨選択すればいいのか考えさせられるものがありました。

クリフ・マルチネスの音楽が、ドキュメンタリーのような、ミニマル音楽を中心に、リアルなサスペンスを盛り上げるのに成功しています。

「ラビット・ホール」は深刻な題材なのに、不思議な静けさに味わいがあります。


今回は新作の「ラビット・ホール」をTOHOシネマズシャンテ1で観て来ました。ここは、まだフィルム上映が中心で、上映前にドルビーデジタルのロゴが出ます。このロゴもいつまで見ることができるのやら。

ベッカ(ニコール・キッドマン)とハウイ(アーロン・エッカート)の夫婦は静かな暮らしを営んではいましたが、八ヶ月前に4歳の息子を交通事故で失った心の傷はまだ癒えてはいませんでした。できるだけ家の中から息子の気配を消そうとするベッカと、失った息子をまだ身近に感じていたハウイは、時として喧嘩になることもありました。同じように子供を失った親たちの集まりに出席した二人でしたが、「すべては神の意思だ」という告白にベッカは耐え切れなくなります。そんなある日、車を運転するベッカは、スクールバスの中にある少年を見つけ、バスを追いかけて、その少年の家をつきとめます。その高校生ジェイソン(マイルズ・テラー)は、息子を轢いた運転手だったのです。犬を追いかけて道路に飛び出した息子をよけそこなってはねてしまったジェイソンに、話をしたいと声をかけるベッカ。二人の間には、不思議と静かな時間が流れます。それは、心が揺れているベッカにとっても、ある意味安らぎを与えるものでした。ハウイは集会で一緒になった同じ境遇のギャビー(サンドラ・オー)と親しくなります。同じ心の傷を抱えた二人は意気投合するのですが、男女の関係にまではならないのでした。ジェイソンは、「ラビット・ホール」というコミックを描いていました。ラビットホールを通して様々なパラレルワールドを行き来する少年の物語です。でも、現実はそう簡単に別の運命を選択することはできません。息子の思い出の残る家を売る決心をするベッカとハウイですが、二人の心が昔のように戻ることはあるのでしょうか。

デヴィッド・リンゼイ・アベアーが自身の戯曲を映画用に脚色し、俳優出身のジョン・キャメロン・ミッチェルが監督した一編です。息子を失った夫婦の物語ながら、舞台劇とは思えない淡々と静かな展開で、ドラマチックな展開にならない不思議な味わいのドラマに仕上がっています。高校生が運転していた車にはねられたのですから、その当事者に対しての怒りとか恨みつらみが出てきてもいいと思うのですが、あえて、そういう部分を切り捨てて、悲しみといかにそれを乗り越えるかに焦点を絞ったドラマづくりになっています。92分という短めの映画なのですが、その中で、ストーリー的な山場を作らないまま、静かに物語が始まり、そして物語は収束しないまま、映画は終わってしまいます。

主人公も、加害者も、子供の死に対して嘆いたりわめいたりすることはしません。それは、もう動かし難い事実として、受け入れています。ベッカは、息子の服やおもちゃを処分して、息子の影を家の中から消し去ろうとします。一方のハウイは、元気だった息子の映像を見ては悲しい笑みを浮かべるのでした。悲しみに対する立ち向かい方は、明らかに違います。そして、それは二人の間の諍いの種となります。加害者であるジェイソンは、謝罪の気持ちはありますが、それによって自分の未来を封じ込めてしまうことはしません。実際、飛び出したのは息子の方で、ジェイソンの過失はほとんど問われなかったようです。だからこそ、ベッカもハウイも彼を責めることはしません。でも、彼が自分の描いたコミックをベッカに届けにきたとき、ハウイは怒りにまかせて「出て行け」と怒鳴ります。理屈では、彼を責められないのは、わかっていても、受け入れることはできない。ましてや、彼がベッカと会っていたというのは、ハウイにとってはショックでした。でも、ドラマはそこで盛り上げることはしません。物語の中の一つのエピソードとしてクローズさせています。それは、ハウイとギャビーが仲良くなる過程でも、同じでして、それによって、大きな変化が起きるわけではありません。ベッカの母親(ダイアン・ウィースト)や妹(タミー・ブランチャード)のエピソードもそれなりのドラマをはらんではいるのですが、映画全体を大きく動かすものではありません。

ジョン・キャメロン・ミッチェルの演出は、息子の死を物語の中心からずらすことで、愁嘆場をクライマックスにしないドラマに仕上げました。とはいえ、ベッカとハウイの再生のドラマかと言われると、そうとも言えませんで、たまたま息子の死というイベントにぶつかってしまった夫婦の有り様を淡々と描いたという感じなのです。いくらでも、ドラマチックになる要素はあるのに、同じく息子(ベッカの兄)を失っている母親との葛藤も、さらりと流し、妊娠している妹のエピソードもベッカにとっては心境の変化をもたらすものではありません。夫婦の間でも、様々なエピソードが登場するのですが、それが次のシーンでは、何事もなかったような日常になっているのです。この題材で、こういう静かな展開を見せるというのは意外性がありました。唯一、印象的なのが、タイトルにもなっている「ラビット・ホール」でして、もしもパラレルワールドがあるとしたら、もっと違う人生が歩めたかもしれないとベッカが感じるところに、ドラマチックな要素があったように思います。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ハウイは、ギャビーに電話をかけて会いに行きます。そこにはお互いに何かしらの期待があったのでしょうけど、ギャビーに会ったハウイは彼女に「すまない」と謝って、そのまま帰ってきます。一方、その時、ベッカはジェイソンに会いに行っていました。卒業式で着飾って友人たちと車に乗り込むジョナサンを見て、なぜか車の中で泣き崩れる彼女。いつしか時間が経って、気がついてみるとそこにはジョナサンがいました。ベッカとジョナサンは公園で自分たちの境遇と未来について語るのでした。ハウイは家に帰ったとき、ベッカがいないので、家を出て行ったのかと思ったのですが、帰ってきた彼女を見て、一息つきます。そして、これからどうしようと語り合う二人、パーティをやって、みんなを楽しませようと言い出す二人、画面は実際に二人が友人や家族を呼んでホームパーティをしているシーンになります。そして、パーティが終わり、みんなが帰った後、椅子に座って、手を握り合う二人のカットから暗転、エンドクレジット。

結局、何かが起こりそうで起こらない、でも二人は何とかやっていこうとしているところを見せて映画は終わります。劇的な変化はないけれど、それでも、人生乗り切っていかなきゃいけない。でも、そういうことを大きな声で言えるほど強くはない二人を、ニコール・キッドマンとアーロン・エッカートは抑えた演技で演じきりました。いつものような華もなければ、女優としての見得を切るシーンもないキッドマンでしたけど、そういうリアルな役どころを演じられるようになったということなのでしょう。スター性が後退した分、女優としての円熟味が増したということができると思います。アーロン・エッカートはどんな役柄を演じてもうまい人ですが、この作品では、存在感を控えめにすることで、あえてドラマ性を抑えた演出に応えて好演しています。

高校生の車に轢かれて、4歳の息子を亡くした両親の物語としては、意外なほど淡々としています。当の加害者と遺族のやりとりにも、どこか静謐というか、おだやかな印象さえ感じるほどです。事故から8ヵ月が経って、憎しみはおろか悲しみさえもが、枯れてきているような感じさえしてくる展開は、観る人によって様々な解釈ができると思います。ラストシーンは、今そこには、自分の夫、妻しかいないのだと気付いたように見えました。悲惨で残酷な話ではあるのですが、どこかに説明し難い安らぎを感じさせてくれるのが、不思議な後味を残します。いつもなら、ちょっとの出番でも存在感をアピールするダイアン・ウィーストもドラマの流れの中で、控えめにドラマに溶け込んでいるのが印象的でした。

「マーガレットと素敵な何か」はソフィー・マルソーが魅力的、でも設定がどうも腑に落ちない


今回は、新作の「マーガレットと素敵な何か」をシネスイッチ銀座2で観て来ました。その昔の銀座文化2ですが、久しぶりに行ったら、こんなに広くてスクリーンの大きな劇場だったのかと、ちょっとびっくり。お客さんがあまり入っていないのは、地味な映画だから仕方ないかな。

バリバリのキャリアウーマンのマーガレット(ソフィ・マルソー)は、仕事も順調で、仕事の同僚マルコム(マートン・ソーカス)といい関係で結婚ももうすぐのところ。そんな彼女の前に謎の老人が現れて、彼女に手紙を渡します。その手紙の差出人は何と7歳の頃の自分でした。当時は、差し押さえを食らって、父親は家を飛び出し、貧乏な暮らしだったマーガレット。そんな彼女が未来の自分への手紙を書いて、公証人のメリニャックに託し、その依頼どおり、今の彼女に手紙を届けに来たのでした。初めは面食らう彼女でしたけど、次々に届く手紙を楽しみにするようになってきました。自分にとって封印していた子供時代がだんだんと意味のあるものに見えてきたのです。それは、弟の和解や、幼馴染のフィリベールとの再会につながっていきます。彼女は、幼い頃の自分によってもう一度、人生を見直すことになるのでした。

「世界でいちばん不運で幸せな私」のヤン・サミュエルが脚本・監督を手がけたコメディです。7歳の頃の自分が、今の自分に託した手紙によって、自分の人生を見直すヒロインのお話です。ま、この説明で大体のところは表現できてると思います。でも、映画としては、どうも腑に落ちないところがありました。バリバリのキャリアウーマンのヒロインが登場するのですが、結構幸せそうだし、仕事もできるので、その人生に何か足りないものがあるようには思えません。英国人の彼氏との関係も良好ですし、ちょっと突っ張ったところはあるけれど、それは懸命さの裏返しみたいなものです。そんな彼女の許に届いた過去の自分からの手紙に彼女の心は揺らいでしまうのです。なぜ?

彼女の子供時代はあまり恵まれたものではありませんでした。家財が差し押さえられている最中のバースデーパーティ。有り金残して、父親は蒸発。生活に困窮して、マーガレットのクラリネットも売られてしまいます。そんな中での楽しい思い出はフィリベールとの結婚式ごっこ。そして、寄宿学校に行くことになるのですが、それ以降、彼女は過去をどっかへ置いてきたらしいのです。弟ともずっと音信不通にしていましたし、フィリベールもどうなっているのかわからない。マーガレットは、手紙を読んで、置いてきた過去にもう一度会おうとするのです。弟との再会は、あまりうまくいかず、フィリベールとの再会もどこかぎこちないものが残ってしまいました。そりゃそうだよなあと納得しちゃうところがあります。でも、ここまで、過去の自分に振り回されるヒロインがどうにも解せない。さらに、未来の自分を振り回すような手紙を書いた7歳のマーガレットの意図も理解できませんでした。

確かに、一度は捨て去った過去に、もう一度向き合うことは大変なことですし、そのことによって、今の行き方を見直し、人生を修正しようとすることもあるでしょう。マーガレットが、手紙をもらって、動揺して公証人のメリニャックに苦情を言いに行くのも何となく理解できます。でも、だんだんと彼女は手紙が来るのを楽しみにするようになります。7歳のときに自分がやったことを忘れてるのか、忘れているふりをしているのか。子供の頃、ここまで手の込んだことをしているのですから、覚えていそうなものなのに、自分の書いた手紙に一喜一憂するマーガレット。というわけで、過去から未来を見直すお話はありなんですが、そのお膳立てが不自然、というか無理やりな感じなのです。

そして、ちょっとだけ人生の軌道修正をすることでハッピーエンドになるわけですが、過去の自分に認められることを気にするヒロインに、どうにも共感できませんでした。過去の自分は否定すべき存在ではありませんが、自分の方が未来の近くにいるのですから、遠い昔から、自分の未来を左右されるのはかなわないよなあって気がしてしまったのです。ここは、人それぞれの感じ方だと思うのですが、過去を遠ざけるという生き方も否定できないし、その上で頑張っているのならそれでいいじゃないかという気がしてしまったのです。一方で、7歳の彼女の手紙は、未来の自分を知らない分、純粋で辛辣です。それでも、その手紙で、ヒロインの心が揺らいでしまうのは、映画の作り手の術中にヒロインがはまってしまったように見えました。

この感じ方は、7歳の頃の自分をどういう風に受け入れられるかによると思うのですが、私にとっての7歳の自分は、人生経験もなくって、生意気なことばかり言ってるガキでした。ただ、その不完全さは、子供であることで許されていました。そんな自分に今の自分をとやかく言われたときに、それが否定的であれ、肯定的であれ、「お前が言うな」と思ってしまうのです。私の中に自己否定の側面があることも認めちゃうのですが、この映画のようなファンタジーを素直に受け入れられないのは、残念だけど仕方ないのかもしれません。

ソフィ・マルソーは40過ぎてもまだまだきれいですけど、この映画の年齢設定は、アラフォーじゃなくてアラサーのように思えました。恋人とラブラブで、仕事も上昇志向、子供も欲しいわねって言ってるあたりは、アラフォーには見えませんでした。これが、最初に、人生に行き詰っているような女性なら、過去の自分の手紙で、自らを奮い立たせるという展開も納得できたのですが、そういう振幅の大きな展開は狙っていないようです。順風満帆のように見えるヒロインを、ちょっとだけ人生の変化へと導くという展開になっています。その節度は認めちゃうのですが、それでも、ヒロイン振り回されすぎだよなあって思ってしまいます。

彼女が、自分の過去をもう一度探してまわる展開は、時には人間、自分の原点に変えるのもいいよね、という感じではあります。井戸の中から宝箱を掘り出したり、幼馴染の今の姿に安堵したりするのは、人生の中でそういう時があってもいいよねという空気を感じさせてくれます。それだけに、過去の自分からの手紙に振り回されるヒロインという設定が、どうにも腑に落ちませんでした。人間、もっと、さりげない一瞬に、昔の自分を振り返る時があると思うのですが。

「スリーピング・ビューティ 禁断の悦楽」は映画としての面白さがあります、説明するのは難しいけど。


今回は、新作の「スりーピング・ビューティ 禁断の悦び」を横浜ニューテアトルで観てきました。DLPによる上映でしたが、ビスタサイズでステレオ。でもサラウンドスピーカーは鳴っていないようでした。デジタル音響設備のない劇場でのDLPの音響ってどうなっているのかしら。

ルーシー(エミリー・ブラウニング)は、大学に通いながらも、オフィスでの仕事もし、ウェイトレスもやってます。大麻もやるし、刹那的に男と寝ることにも躊躇しない一方で、友人なのか恋人なのかバードマンという男の部屋にちょくちょく通っています。部屋を追い出されそうなこともあって、ルーシーはシルバーサービスという触れ込みの仕事の面接に行きます。時給もいいことから、その仕事をするようになるルーシー。でも、それは裸に近い下着姿で、老人たちのパーティの給仕をすることでした。そこはどうやら秘密クラブのようなところで、彼女以外にも、女性たちがより露出の多い格好で働いていました。オフィスをクビになり、お金にさらに困るようになった彼女に新しい仕事がきます。それは睡眠薬を飲んでベッドに何時間か眠ることでした。その間に何がなされているのか、彼女は知りません。いつしか、彼女はその仕事を何度もこなすようになる一方で、自分が何をされているのか知りたいと思うようになりました。

オーストラリアのジュリア・リーが脚本&監督した作品です。タイトルにクレジットはなかったのですが、川端康成の「眠れる美女」をベースにしたお話だとか。オーストラリア映画の名匠ジェーン・カンピオン提供となっていますが、クレジット中では、special thanksの扱いでした。

101分の時間は、ドラマチックな流れはなく、短いエピソードが淡々と綴られ、その中でルーシーのちょっとふわふわしたつかみどころのないキャラクターが見えてきます。学生なんだけど、オフィスでダラダラと仕事もしていて、ウェイトレスは割とがんばっているように見えます。そして、バーで男を引っ掛けて寝ることもしている。一方で、バードマンという病弱な男とはプラトニックな恋愛関係のように見える。このつかみどころのないルーシーの描写に、観客はどんどん引き込まれていきます。ジュリア・リーの演出は、淡々としているようで、そそるドラマを作ることに成功しています。何と言うかドラマとしての醍醐味が感じられるのです。これは、観る方によって異なる感じ方の一つですので、すべての人がそう感じるとは思えないのですが、この映画、私は大変面白く観ました。言葉で説明しきれないのですが、これは、一度ご覧になって感じていただきたいと思います。

さて、そんなルーシーが新しくついた仕事は、あくまで正業あっての副業だと、雇い主のクララから言われます。シルバーサービスという名目ですが、仕事は普通じゃありません。胸が見えちゃうような衣装で、金持ちの老人の食事会の給仕をするのです。他にも女性がいて、彼女たちはもっと露出のきつい衣装で給仕をしています。いわゆる、金持ちのエロ道楽要員とでも言いましょうか。それでも、セックスの相手をさせられるわけではありません。彼女の送り迎えをする運転手がいるのですが、彼がちょうど、結界の境目にいるような感じで、彼女を非日常の世界へと運んでいくという構図が面白いと思いました。

他の女性がかなりセクシーなのに比べると、ルーシーは、胸は小さいし体型も幼児体型で、どこか乙女っぽさを感じさせるところがあります。そこを見込まれたのかどうかはわかりませんが、彼女に別の仕事のオファーが来ます。ルーシーはそれを受けることになるのですが、それは睡眠薬を飲んで、全裸で眠ること。何かあるに違いないとルーシーは感じているのですが、ペイがいいので、その仕事を受けることになります。映画は、このあたりもドラマチックな展開は一切ありませんが、一つ一つのシーンを丁寧に描くことで独特の間と端正な流れを作ることに成功しています。こういう呼吸の映画を観ていると、何となくアートな気分になってくるから不思議です。語り過ぎないけど、じっくりと丁寧に見せるという方法そのものがストーリーの良し悪しを超えて、映画としての魅力を運んできます。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



眠るルーシーのベッドをカメラは距離を置いてとらえています。そこへクララと客がやってきて、セックスや傷をつけるのはなし、それ以外をお好きにと説明があり、クララが去り、客の老人は服を脱ぎ始めます。ある老人は彼女に添い寝し、ある老人は彼女を言葉でなぶり、ある老人は彼女を持ち上げて振り回したりします。眠っている間は何が起こっているのか知らない彼女ですが、それが気になって、盗撮用の隠しカメラを買って、部屋の電気スタンドに仕掛けます。そこへやってきたのは初めて彼女と一緒に寝た老人でした。クララの作った薬を飲んで眠りにつく老人。時間が経ち、クララがやってきて、ルーシーの様子がおかしいのに気付いて、あわてて叩き起こすと、ルーシーは目を覚まします。そして、自分の横に冷たくなった老人がいるのに気付いて、大声を上げて泣き叫ぶルーシー。隠しカメラの捉えたルーシーと老人の映像になり、暗転、エンドクレジット。

最後の老人は、自殺の場所として、ルーシーの隣を選んだということのようです。しかし、そこにもドラマチックな要素はなく、静かに流れる時間だけが描写されます。眠るルーシーに、媚態といったものは感じられません。無垢な乙女がそこに横たわっているように見えます。sleeping beautyとはうまい表現だと思います。実際には、簡単に男と寝ちゃうようなヒロインなんですが、映画の中ではセックスシーンは登場しないということもあって、ルーシーの不思議な透明感が感じられる映画になっています。ルーシーという女性は、天使と娼婦の両方を持った、でも純粋な心も持った女性として描かれています。ある意味、存在感が希薄で、ふわふわと漂っているようにも見えるヒロインなんですが、そんなヒロインにこの仕事は妙にマッチしているようにも思えます。ベッドに横たわる彼女は、女性を主張しない、でもどこかにエロスを秘めています。ああこういうエロさが、アート映画としての、そそる要素なのだなと後になって気付かされました。彼女が眠るベッドを捉えた映像が一幅の絵になっているのも、映像としてのインパクト強いです。これは、撮影のジェフリー・シンプソンの功績でしょう。

ルーシーという女性は、共感を呼ぶとか、かわいいというタイプの女性ではないのですが、エイミー・ブラウニングは、その不思議な存在感を見事に演じきりました。彼女の横に寝る老人の一人にヒュー・キース・バーンがいたのにはびっくり。私の世代には「マッド・マックス」の敵役トーカッターとして忘れられない役者です。

「ザ・ウォード 監禁病棟」のサントラは、カーペンター映画の音楽としては物足りない


ジョン・カーペンターの新作「ザ・ウォード 監禁病棟」の音楽を手がけたのは、カーペンター本人ではなく、意外や「ツォツィ」のマーク・キリアンです。編曲もキリアンが担当しています。やはり、これまでのカーペンターサウンドを意識して作られているところはあるものの、ホラー映画の定番の音になっています。

ドラマとは独立したメインタイトルに流れるテーマ曲は、シンセによる衝撃音から、女性ボーカルをフィーチャーした物悲しいメロディが始まります。シンセだけでなく、小編成のストリングスも加えて、ホラー映画らしい、おどろおどろしい音楽は、どちらかというと無機質的でクールなジョン・カーペンターの音楽とは一線を画しています。カーペンター風のシンセのパルス音を入れた曲も登場しますが、それは、音楽のメインではありません。むしろ、サブテーマとして登場する女性ボーカル風による子守唄風の曲が不気味さを加えるのに一役買っています。

ヒロインたちと怪物の追跡シーンでは、活劇調の音で、サスペンスを盛り上げていまして、最近の映画の定番というべき、シンセとオーケストラをパーカッションのように扱う音楽で、ホラー映画というよりもアクション映画の音作りになるところが印象的でした。実際、映画もアクション映画的な見せ方になっているので、画面をサポートするという意味でも成功しています。また、ショックシーンも結構あるのですが、音楽もそのショックシーンに合わせて衝撃音を鳴らして、画面を盛り上げています。これまでのカーペンターの映画では音楽でショックシーンを煽る演出はなかったので、ちょっと鳴らしすぎじゃないのという気もします。それだけ、ドラマとシンクロした音作りになっているということが言えるものの、これまでのカーペンター映画に比べると、潤いを欠く音になっているのが意外でした。これまでのカーペンター映画の音楽は、シンセによる無機質な音が基調だと思っていたのですが、無機質なりの厚みを持っていたということになるのでしょうか。

ショックシーンの衝撃音の曲が多いと、アルバムとして聴いたとき、聴き心地がよくないのは事実でして、そういう意味では、今イチかなって、気がしました。ショックシーンの多い音楽だった「13日の金曜日」のサントラ盤の方がまだ、音楽として聴いていて面白かったですもの。クライマックスなどは、反復音楽で、サスペンスを盛り上げようとしているのですが、そこに人間の持つリズム感をさえぎる様に衝撃音を入れてくるのですよ。そういう不連続な音楽もあるのでしょうけど、ホラー映画だからって、人の神経を逆なでするような音楽を入れるのは、どうなのかしら。

「フェア・ゲーム」はアメリカの怖さと正直さを感じる映画でした


今回は、新作の「フェア・ゲーム」をTOHOシネマズ川崎8で観てきました。このシネコンは基本デジタル上映になっちゃいました。この劇場はキャパもスクリーンも小さめで、やや縦長な劇場です。

9.11同時多発テロ直後のアメリカ。CIAの秘密諜報員ヴァレリー(ナオミ・ワッツ)は、周囲には証券会社のキャリアウーマンの顔を見せつつ、中東での諜報活動を行っていました。ブッシュ政権はイラクが大量破壊兵器を保有しているとして、その情報収集を行っていました。しかし、その証拠となるようなものは見つかっておらず、イラクが大量に購入したアルミ管もそれが核兵器に使われるとは思えないものでした。また、ニジェールからウランを買い付けたという情報が入り、ヴァレリーの夫で元ニジェール大使のジョー(ショーン・ペン)に現地調査に行ってもらいます。その結果、大量のウランがイラクに送られた可能性はほぼないというものでした。また、イラクの科学者たちから集めた情報でも、もはやイラクに核開発能力は残っていませんでした。ところが、CIAの調査結果は、副大統領補佐官リビー(デビッド・アンドリュース)によって歪められ、イラクが核兵器のためのアルミ管と大量のウランを入手したことにされてしまい、ブッシュ政権はイラクに宣戦布告します。そのことに憤ったジョーは、イラクに核はないという記事をニューヨーク・タイムズに寄稿します。すると、その報復に、ヴァレリーがCIAの諜報員であることがメディアにリークされ、ヴァレリーの指示でジョーがニジェールに行ったという話が公にされてしまいます。世間に素性を明かされたヴァレリーはCIAの全ての作戦から外され、ジョーは共産主義者と呼ばれ、家には脅迫電話までかかってきます。巨大な権力がジョーとヴァレリーの前に立ちはだかっています。果たして、二人はこの戦いに勝つことができるのでしょうか。

「ボーン・アイデンティティ」も撮ってるし、「ジャンパー」も撮っちゃったダグ・リーマン監督の新作です。ずいぶんとひどいお話だなあって思っていたら、実話が原作というのでびっくり。大量破壊兵器がイラクにあるんだという前提で始めた戦争だけど、その戦争の根拠が虚構だったことは後年明らかになりました。その題材は「グリーン・ゾーン」でも扱われていたのですが、今回は実際に起きた事件に基づいて、アメリカという国のもう一つの顔を見せてくれます。

まず、興味深かったのが、ヴァレリーがCIAの仕事で世界中を駆け回りつつ、2人の子供を持つ普通の母親であり、ちゃんと家庭を持っているということ。夫のジョーは、彼女がCIAで働いていることは知っていますが、どこでどんな仕事をしているのかは知りません。一方で、ヴァレリーは情報収集の実働部隊として活動していました。007みたいな仕事をしていても、子供の送り迎えを夫と分担しているというあたりが妙にリアルというか、実話なんだなあっていう実感がありました。

一方で、恐ろしかったのは、ホワイトハウス。情報を操作して、戦争を始めようとしているのです。どういう利権が動いているのかまでは描かれませんが、少なくとも戦争したくてしょうがない人間が政府の中枢にいるという現実は、大国だけに怖いものがありました。そして、戦争が始まったら、「今更、あれは嘘だったとは言えない」という空気が、上から下まで流れてしまうのです。現代のアメリカで、こうなのですから、場の空気を大事にする日本なら、変な方向に走ったら、余計目に歯止めが効かなくなるでしょう。それに対して、個人が闘いを挑んだって、ホワイトハウスに敵うとは到底思えないのですが、この映画では、それを実際に闘った女性が登場するわけです。

戦争の根拠である、イラクの大量破壊兵器の存在が怪しいのに、ブッシュはそれが確実だと言い切ります。そこで、ジョーはそれに反論する記事を書くのですが、その結果、報復措置として、ヴァレリーがCIAの諜報員であることがメディアにリークされてしまいます。これにより、彼女が担当していた作戦は中止になります。その中には、イラクの核科学者の救出もあったのですが、それも中断され、アメリカに情報を提供した科学者たちは、CIAの手によって始末されてしまいます。救出はしないが、他国へ流れても困るという恐ろしい理屈の結果です。(正直、ここまで事実なのかな? フィクションも入ってるんじゃないかな?と思ったのも事実ですが。)

ナオミ・ワッツとショーン・ペンは「21グラム」「リチャードニクソン暗殺を企てた男」で共演していますが、今回は実録ドラマを押さえた演技で見事に演じ切りました。前半の諜報活動のシーンが007っぽいところもあるのですが、家庭でのシーンで、生身の人間を演じていまして、二人の演技で映画の点数がだいぶ上がったと思います。ダグ・リーマンの演出は、正直言って無難ですが、前半でドラマをあちこちに引っ張りまわして、二人にドラマの焦点が絞り込まれるまでが、モタついた感もありました。それでも、この題材をエンタテイメントに仕上げている点は評価できると思います。



この先は結末に触れますのでご注意ください。(といっても、意外な展開とかはないです。)



そんな理不尽な政府のやり方に、ジョーとヴァレリーの夫婦仲も悪くなっていきます。あくまで言論で闘うんだと息巻くジョーに対して、ヴァレリーは、世界中に所在を知らされ、イラク科学者の件もあって、弱気になっていました。ジョーも、打ちのめされているヴァレリーに対する思いやりが足りないのですが、その結果、ヴァレリーは実家へと子供を連れて帰ってしまいます。しかし、思い直した彼女は家に帰り、どんなことがあってもこの結婚は壊さないし、自分も闘うとジョーに宣言します。そして、調査委員会の証言席に登るヴァレリー。そこで、証言するヴァレリー本人の画面となり、彼女が今も子供と一緒に暮らしていることが示されてエンドクレジット。

ほんの10年前の自国の悪事を娯楽映画の枠で作ってしまうのですから、アメリカというのは、やはり自由がある国なんだなと思います。ただ、その自由は自分で守らなきゃいけないというのもこの映画は語っています。国家と個人が対立することもある、ただその時、個人は国家並みの強さを持たなければ勝てない。そして、周囲もその勝負を冷静に見つめていますので、判官びいきといった情の入る余地は日本よりも少ないようです。アメリカに情がないというわけではないのですが、そこに国の持つ歴史というか文化の違いを感じました。それでも、戦争が始まったらやめられないというのは、アメリカでも、日本でも同じだというのは、恐ろしいことだと思います。後、どこにでも、戦争したがる人間がいるということも。戦争をする自由ってのがあるのだとしたら、それを何とか押さえるものがあって欲しいと思います。それが、理性とか倫理でもいいですし、情でもいい、お金だっていい、とにかく戦争を止められるものを持つことが大切であり、戦争したがる人間に騙されない強さが必要なのだと思わせる映画でした。

「未来を生きる君たちへ」は暴力の連鎖を描いていて、甘めのラストでも観る価値のある映画


今回は、東京では公開済みの「未来を生きる君たちへ」を横浜シネマベティで観てきました。DLPによる上映でしたが、最近はこちらもフィルム上映でないものに慣れてきたのか、あまり気にならなくなってきました。明らかに見劣りすることもなくなってきたのも事実ですし。

スウェーデン人の医師アントン(ミカエル・パーシュプラント)は、アフリカの難民キャンプで医師をしていました。彼の元には多くの患者が来ますがその中には、ビッグボスと呼ばれる男とその手下にひどい暴力を加えられた女性がたくさんいました。彼の離婚した妻マリアン(トリーネ・ディアホルム)と息子二人はデンマークで暮らしていて、仕事の合間にアントンは子供たちに会いに戻ってきていました。長男のエリアスは学校ではいじめられっ子でした。母親をガンで亡くして、ロンドンから引っ越してきたクリスチャンは、エリアスと仲良くなり、いじめっ子をメッタ打ちにして怪我をさせてしまいます。クリスチャンは、母親の死を望んだ父親に不信感を持っており、暴力にはそれを上回る暴力で仕返ししなくてはならないと考えていました。アントンが、クリスチャンやエリアスと一緒にいた時、自動車修理の男に絡まれて殴られてしまいます。報復することはいけないと諭すアントンですが、クリスチャンは、その男の車に花火で作った爆弾を仕掛けようとエリアスをけしかけます。一方、キャンプのアントンの前にビッグボスが現れます。彼の足の傷が化膿していて、その治療をしてくれというのです。医師の仕事として、彼を治療するアントンに周囲の視線は冷たいものでした。果たして、暴力と復讐の連鎖は止めることができないのでしょうか。

「ある愛の風景」「アフター・ウェディング」などで知られるデンマークのスサンネ・ビア監督の新作です。暴力と復讐をテーマに、その連鎖を断ち切れるかどうかについて描いています。ちょっとデビッド・クローネンバーグ監督の「ヒストリー・オブ・バイオレンス」と同じような視点を持った映画ですが、子供の世界に重心をシフトしています。映画の中で描かれる暴力は、かなりシビアで残酷です。それに対して、どういう態度をとるべきなのか。映画の中で語られる「やられたらやり返すの繰り返しで戦争が始まるんだ」という言葉は、確かにそうなんだけど、それが現実として存在します。その連鎖を断ち切れるかどうかに、未来はかかっているのですが、それを大人が子供に伝えているのかどうか、残念ながら、それがうまく伝わっていない現実として描かれています。

物語は、二つの世界が並行して描かれます。片方はデンマーク、もう片方はアフリカです。アフリカで難民キャンプの医師をしているアントンのところに、無残に腹を切り裂かれた妊婦が何度も担ぎ込まれてきます。銃で武装し子分どもを引き連れたビッグボスという男の仕業です。彼による理不尽な暴力で何人もの人が命を落としています。そんな彼が足の怪我で診療所にやってきます。銃で武装した部下をキャンプから追い出して、治療をしてやるアントン。看護婦も誰も手伝ってくれません。同僚からも、変わり者だと言われるアントンですが、仕事だからという理由でビッグマンを治療します。

一方のデンマークでは、クリスチャンがやたら過激な行動をとり、エリアスもそれに引きずられるようになります。アントンを殴った自動車修理工のオヤジの車に爆弾を仕掛けようというのです。アントンが実際に子供たちを連れて、オヤジに会いに行き、もうあんなバカにはかかわるなと諭しているのに、クリスチャンの暴走は止まりません。ナイフを持って学校に来たり、爆弾仕掛けようとしたり、クリスチャンって、いわゆる陰湿な不良少年ということになりましょう。彼には彼なりの心の傷があるのですが、だからって、花火で爆弾作っちゃうあたりは常軌を逸しています。

この二つの物語が並行して描かれるのですが、暴力の連鎖についての回答はこの映画では描かれません。多分、きれいな答えを導くことは不可能な問題なのでしょう。前述のクローネンバーグの「ヒストリー・オブ・バイオレンス」はそこを不快ながら正面から描いていて、ある意味見応えがありました。この映画では、土壇場で、問題点をすり替えることによって、娯楽映画としてのカタルシスをもたらすことに成功しています。どちらかに優劣をつけることはできませんが、問題提起という面では、どちらも重い題材に正面から取り組んでいると思います。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ビッグマンは、おとなしくアントンの治療を受けていたのですが、ある日、やはり腹を切り裂かれた女性が運び込まれて命を落としたとき、とても人間とは思えないひどい事を口にします。アントンもさすがにブチ切れて、彼を診療所から追い出してしまいます。すると、キャンプの人たちが彼を引きずっていってリンチにかけてしまいます。それを黙って見ているアントン。でも、ビッグボスの後釜がまた現れて、同じことが繰り返されるであろうことは暗示されています。

一方、クリスチャンは父親からナイフを見つけられて、問い詰められると、「パパはママが死ぬことを望んだ」と逆に言い返します。彼の父親は、末期ガンに苦しむ母親を見て、彼女と合意の上で延命治療を止めていたのです。それが、クリスチャンからすると、父親が母親を殺したように映っていたのでした。いよいよ、暴力オヤジの車の爆破決行の日がやってきて、早朝、クリスチャンとエリアスは車の下に爆弾を仕掛けます。しかし、爆発寸前にジョギングの親子が通りがかり、それを止めよう飛び出したエリアスは爆発に巻き込まれ重傷を負ってしまいます。

警察に取り調べられたクリスチャンは、自分がエリアスを殺してしまったと思い込み、いつも二人で上った倉庫の屋上から飛び降りようとします。しかし、寸でのところで、アントンが駆けつけ、エリアスは無事だと告げます。翌日、入院中のエリアスをクリスチャンが見舞い、エリアスに謝ります。そんなクリスチャンを受け入れるエリアス。そして、アントンはまたアフリカに戻り医療活動を続けます。彼を乗せたトラックをキャンプの子供たちが追いかけてくるところで暗転、エンドクレジット。

というわけで、アフリカでは、復讐の連鎖を断ち切ることはできないことが描かれ、デンマークでは、復讐の連鎖の話が「身近な人の死をどう受け入れるか」という話に落ち着きます。正直、どちらも苦い結末なのですが、どちらにも希望の予感は持たせています。ただ、クリスチャンのやったことは、エリアスが許したことだけでは収まらないように思えて、そこに若干の甘さを感じてしまいました。

原題は「復讐」だそうで、英語題は「In a better world」と若干意味合いが変わっています。邦題は、英語題の意図を汲んでいるように思いますが、実際に映画の中で描かれるのは、暴力と復讐です。クリスチャンの復讐は一応の終結を見ることができますが、アフリカで日常化している暴力への復讐の連鎖は終わっていないように見えます。作り手の視線は、そのあたり、かなりシビアなように私には思えました。アントンが医師として父親として頑張っても、それでも、世界がよくなるのかは見えてきません。ただ、彼の行動の中に、「In a little better world」の空気を感じることができれば、それでよしというふうに見えました。でも、そういう思いや行動の積み重ねが、今よりはいい未来へとつながっていくという映画のメッセージは耳を傾ける価値があると思います。

シネスコサイズの画面で、アフリカとデンマークを統一感のある絵で切り取ったモーテン・ソーボーの撮影が見事でした。また、音楽を「ぼくのエリ 200歳の少女」のヨハン・セーデルクヴィストが担当しており、アンビエント風な音楽と、スロヴァク・シンフォニー・オーケストラによる美しい管弦楽とを組み合わせて印象的な音作りをしています。
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einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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