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2011年のベストテン作ってみました

2011年も終わりですが、今年も思うように映画館に足を運べない1年でした。そんな中で、ベストテンを作らせていただきました。全体的に映画の作りの面白い作品がベストに上がっています。

第1位 「サラの鍵」
実際に起こった悲惨な事件で始まる物語が意外なところに落ち着くまでが、映画として大変面白いと思ったので1位です。直接事件に関与しなかった女性の、好奇心の着地点の見せ方に感心しました。映画としての構成の面白さということでは、「つぐない」のような意外性がありました。キネ旬での評価が低くても、私はこの映画推します。

第2位 「クロエ」
娼婦に自分の夫を誘惑するように依頼する人妻の話、と言ってしまうと実も蓋もない話のようなんですが、これが映画として大変面白くできていまして、ミステリアスであり、人間ドラマとしても、考えさせられるところあり、そして登場人物が大変魅力的に描かれていました。第1位と同じく、映画としての満足度が高い映画でした。

第3位 「くまのプーさん」
今年はあまりコメディの当たりが少なかったのですが、それでも面白かった映画で「宇宙人ポール」と争った結果、一番おかしかったのがこれ。ボケキャラばかりで、ツッコミがいない。物語らしい物語がない。それでも、全編に渡って、小ネタを仕込んで、メインでは大ボケかますという、見事に楽しい映画に仕上がっていました。感動も涙もありませんが、笑いはたっぷり、意表をつかれて、最後は大満足でした。

第4位 「キッズ・オール・ライト」
女性のゲイのカップルのホームドラマなんですが、ホームドラマとしての細やかな作りが映画として大変よくできていたので、これが4位になりました。大きな事件が起きるわけではないのですが、平凡なゲイカップル家庭に起こるささやかな波風を暖かい視点で描いているのが、心地よい映画でした。映画としての作りは平凡でも、その人間を見る視線の暖かさが映画としてのポイントを上げています。

第5位 「4デイズ」
アメリカの3都市に核爆弾を仕掛けた男と、彼からその場所を聞き出そうとする拷問のプロフェショナルの闘い。双方ともにギリギリの精神状態で、目的を達しようとします。手段を選ばない拷問人は最後の手段をとるのですが、果たして?という展開ながら、ゲーム感覚よりも人間ドラマを見せた構成が見事でした。ショッキングなシーンもありますが、着眼点の面白さと演技陣の好演によって、見ごたえのある映画に仕上がっていました。

第6位 「スリーピング・ビューティ 禁断の悦楽」
若い女の子が、金持ちジジイ相手の秘密クラブに就職します。そして、おおせつかった仕事は、睡眠薬を飲んでベッドで眠ること。そこへ老人がやってきて好きなことしちゃうわけですが、基本的にやってることはエロは抜き。なのに、映画として、これがエロチックでそそるのですよ。ドラマチックな展開があるわけではないのですが、不思議な映画的興奮があります。映像の面白さと、映画としての満腹感で、これが第6位です。

第7位 「白いリボン」
ドイツのある村、一見のどかに見えるけど、そこでは大人たちが表と裏の顔を持ち、それが子供たちに暗い影を落としていました。ミステリータッチで展開するけれど、結局何も解決しない。でも、村にひそむおそろしい魔の姿が浮き上がってくるというお話は、映画として大変面白かったです。映画館という切り取られた空間の中で、引き込まれて観ると観終わって、ぞっとする後味の残る映画ですから、まさに映画館で観るための映画と言えましょう。

第8位 「ゴースト・ライター」
元首相の自叙伝のゴーストライターになった男が巻き込まれる不可解な事件。今年の映画の中で、純粋にエンタテイメントとして一番よくできていた映画ではないかと思っています。ミステリーとして多少フェアじゃなくても、映像、演出が見事に映画としての満足感を与えてくれます。

第9位 「メアリー&マックス」
クレイアニメーションだからと「ウォレスとグルミット」みたいなのを期待すると、そのヘビーな展開に裏切られた気分になります。内向的な少女とアスペルガー症候群の中年男の文通を通した友情を描いた映画は、痛いけど心惹かれるものがありました。ブラックユーモアの先のシャレにならない部分も描いていますが、それでも心が穏やかになれる後味を持つ、不思議な映画でした。私にとっては、初めて観るジャンルの映画で、それだけに強い印象が残りました。

第10位 「ブラック・スワン」
今年はホラー映画はほとんど観ていないのですが、そんな数少ないホラーの中で、「ザ・ウォード」とこれで迷った結果がこれでした。とにかく、ヒロインを徹底的にいたぶっていく趣向と見せ方のホラーの古典的手法が見事にマッチしていました。なまじ、バレリーナのお話というきれいな衣装を身にまとっているだけに、中身のえげつないまでのホラー趣向が際立ちました。バレエのシーンで、観客の視点のカットを一切見せない演出からして、これはバレエ映画ではないですもの。

この他には、アイデア勝負プラスアルファの面白さがあった「ミッション:8ミニッツ」、、ベタなラブストーリーのようでいてドラマとしての奥行きを感じさせた「親愛なる君へ」、エンタテイメントとしての完成度が高かった「ミケランジェロの暗号」、静謐な空気感が心に残る「ラビット・ホール」、表現的にはうまいとは思わないけどその伝えたいポイントに共感できる「チェルノブイリ・ハート」といった映画が印象に残っています。


後、映画そのものはベストに入らないけど、ピンポイント的によかったベスト5を、ピンポイントベスト5として挙げさせていただきます。

第1位 究極のわんこ映画としての「木洩れ日の家で」
これは、ベストテンに入ってもおかしくない映画でもあったのですが、とにかくわんこ映画としての完成度が高かったです。私は泣かせを売り物にするわんこ映画は好きではないのですが、この映画は、すごくお気に入りです。主人公のおばあちゃんの一挙手一投足に必ずわんこのカットが入るという演出が見事。彼女を見守る天使みたいなポジションになっているのでしょうが、これには「やられた」という気分になりました。

第2位 「ブリューゲルの動く絵」のアート気分
これは、映画としてというよりは、テレビの美術番組の企画と言うべきものなのでしょう。ある絵ができるまでを、ファンタジックに絵解きして見せているという点がユニークでした。こういう映画を観ているとアート気分になれますし、また、美術館に足を運んでみようかなって気分にさせてくれます。

第3位 「親愛なる君へ」のアマンダ・セイフライド
今年の映画の女優さんでは、「マーガレットと素敵な何か」のソフィ・マルソー、「RED」のメアリー・ルイーズ・パーカー、「アレクサンドリア」のレイチェル・ワイズ、「ステイ・フレンズ」のミラ・クニス、「ザ・ウォード 監禁病棟」のアンバー・ハード、「ブルー・バレンタイン」のミシェル・ウィリアムズなどが印象的でしたけど、「クロエ」も含めてアマンダが一番輝いていたように思えます。単にかわいいだけじゃ、これだけ売れないでしょうし、来年も公開作が控えているようで、楽しみな女優さんです。

第4位 「ザ・ウォード 監禁病棟」での、ジョン・カーペンターの復活
カーペンターファンの私としては、彼の新作が劇場で観られたことがうれしかったです。相変わらずのシネスコ画面へのこだわりですとか、ホラー職人としての腕を堪能することができました。ラストがショックシーンで終わるとか、音楽が彼自身の手によらないといった不満点もあったのですが、よくある題材も料理の仕方でモンスターホラーになるというところがお気に入りでして、そのおどろおどろしいパワーが衰えていないことを再確認できました。

第5位「六ヶ所村ラプソディ」に見る、原発と住民の微妙な関係
2006年の映画なんですが、今年、劇場で観ることができて、色々と発見が多かったので、ここに挙げておきます。使用済み核燃料再処理施設を誘致するかしないかで、村の人や第三者といった人の意見を並べて描いた作品です。冷静に考えれば危険なものが、流れに流されるかのようにできあがって行く様子は、怖いと思いつつも人間の考えることを単純に二元論で割り切れないなあって、再認識しました。沈黙の中立などあり得ないということは、耳に痛い話でした。


そんなわけで、2012年もできるだけ映画館に足を運ぶようにして、このブログは細々と続けていきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
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「ハラがコレなんで」は舞台劇みたいな、落語みたいな、アニメみたいな。


今回は新作の「ハラがコレなんで」を静岡シネギャラリー2で観てきました。これが2011年最後の映画となります。今年のお正月映画って、大人向けの映画が全然ないので、結局、消去法で、これを選択することになりました。七間町の映画館街がなくなった今、映画ファンのためにもシネギャラリーには頑張っていただきたいものです。

原光子(仲里依紗)は現在妊娠9ヶ月。お金もなくなった彼女は、いく当てもなく、雲の流れる方向にタクシーを走らせます。着いた先は15年前に両親と一緒に夜逃げした長屋でした。大家さん(稲川美代子)の家に行ったら、大家さんは寝たきり状態。光子は大家さんからお金を借りて、幼馴染の陽一(中村蒼)のいる食堂で一息つきます。食堂の主人、次郎(石橋凌)と甥っ子の陽一が交代で、大家さんの介護をしています。光子は、いい風吹いてないときは、昼寝が一番、風向きが変わったら、その時どーんと行けばいいというのがモットー。前向きなのか、成り行き任せなのかよくわからない光子ですが、そんな彼女のことをずっと好きだった陽一は、彼女に生まれる子供の面倒は見るし、結婚もしようと言います。ただ、陽一には、自分のために結婚もしないで苦労してきた次郎への負い目がありました。そんな次郎は、喫茶店のママ(斉藤慶子)のことが好きなのですが、自分はずっと大家さんの面倒を見ると決めたんだからと、彼女に自分の気持ちを言い出せません。ママの方は、次郎からのプロポーズをずっと待っているのに。そんな状況を知った光子は臨月の体で、ママの故郷である福島へ、みんなを連れて車を走らせるのですが、果たして、いい方に風向きは変わるのでしょうか。

以前、「川の底からこんにちは」という大層面白い映画があったのですが、その石井裕也監督が、脚本と監督を兼任した新作です。「川の底からこんにちは」は巻き込まれ型ヒロインが吹っ切れるところが面白かったのですが、今回のヒロインの光子は、最初っから、人生達観してるところがありまして、人生なるようにしかならない、そのうち風向きが変わるまでは昼寝して待つというキャラ。舞台劇のようなテンションの高さでしゃべりまくる光子に、最初は少し引いてしまいまして、そのテンションに慣れるまでは時間かかりましたけど、その変なキャラはなかなかに面白く、共感よりは、「何だこいつはー?」って突っ込み入れたくなるようなヒロインになっています。アメリカ人のジャックと仲良くなって、成り行きで渡米して、成り行きで妊娠、で結局捨てられて帰国してきたという光子の身の上は、気の毒なような、身から出た錆のような。一文無しの逆境なんですが、あまり切迫した様子はなくて、空の雲をながめて、その方向に進んでいくという、バイタリティあふれる女性です。でも、一歩間違えるとものすごく迷惑な人になりかねないタイプの人。この映画では、周囲の善意の人に支えられるところもあって、ヒロインとして活躍することになります。

一見、彼女のパワーが周囲を動かしているように見えるのですが、実は何もしていないのがおかしかったです。結局、彼女は風向きが変わるまで待つだけなんですが、それで、事がいい方に転んでいくのですよ。まあ、強運なヒロインということができるのですが、ヒロインのキャラが立っているので、何となく周囲が彼女のパワーに引っ張られているように見えてしまうのです。仲里依紗が大きなお腹をかかえて、常にマイペースで強いヒロインを際立たせています。やたらと、「粋」にこだわったり、お金に関してまるで無頓着だったり、通常の社会生活を営む上では、正直迷惑な奴なんですが、この映画の世界観の中では、彼女は周囲に光と希望を与える天使のように見えてくるのです。損得勘定では動かないけど、「粋」か「粋じゃない」かで動いちゃうとか、「人情」にこだわったりするところは落語に出てくるキャラみたいなんですが、それが臨月の妊婦だというのがミソになっています。「粋だねい」「OK」といった口癖も落語の登場人物みたいなキャラ設定でして、そんな彼女には、落語の八っつぁん、熊さんみたいなおかしさがありました。

落語みたいというところでは、石橋凌演じる次郎もそんな感じでして、大家さんの面倒を一生見ると決めたんだから、喫茶店のママとの結婚なんてできないと思い込んでる頑ななオヤジです。そんな叔父より先に結婚するわけにはいかないと言いつつ、お腹の子供の面倒は俺が見るって言い出す甥っ子の陽一もかなり変な奴。一応二枚目の二人が演じているので、妙なおかしさが出ました。前半、おっとりキャラだった喫茶店のママの斉藤慶子が後半はテンションアゲアゲになるのも笑えました。まあ、出てくる連中がみんなテンション上がっちゃうお話でして、そのテンションが最高に上がる出産の寸前で映画は終わるのですが、そのドタバタのテンポは、「川の底からこんにちは」のラストみたいで、やりすぎ感もあるのですが、その無理やりな盛り上げも、勢いで落とす落語みたいでした。

15年前の回想シーンで、子供時代の光子を演じた大野百花がバツグンでして、普通の女の子が、長屋の大家さんや陽一に感化されているところが、ものすごくおかしかったです。この子、色々な映画に出ている名子役らしいですが、この娘あって、今の光子があるのかと納得しちゃうところがありました。雲をながめてるところは不思議ちゃんみたいなところもあるのに、「粋」にこだわっちゃうところや、陽一に「好き」と言われかけて何とも言えない表情をするところとか、何ともおかしいのです。彼女自身がテンション高い演技をしているわけではないのですが、それがきちんと現在の仲里依紗につながっているのがすごいと思った次第です。

「粋」とか「人情」なんて概念が廃れてきている現代には、光子のようなキャラは貴重なのかもしれません。ただ、映画のヒロインとしてはオーバーアクトな演出でして、こういうキャラは舞台劇に方が向いているように思いました。仲里依紗は振り切ったヒロインを熱演していて、それが彼女のキャラにもはまっていたのですが、それが映画という見せ方には、クドかったのかなあ。彼女のテンション、セリフをそのままに、今風の絵でアニメ化したら、もっと面白くなるのではないかと思いました。楽しい映画ではあるのですが、観ていて、映画に追いつけなかったって感じかしら。

「ブリューゲルの動く絵」はアートな気分になれる不思議な時間


今回は、新作の「ブリューゲルの動く絵」を横浜シネマベティで観てきました。DCP上映ということでしたが、画質的には問題ありませんでした。以前、この劇場は、デジタル上映だと画質的に落ちちゃうことが多かったのですが、最近はデジタル上映でも安心して映画を観られるようになって何より。

ヨーロッパの片田舎ブランドル地方の朝、人々の生活が始まります。その中には画家のブリューゲル(ルトガー・ハウアー)の一家もいました。丘の上の巨大な風車小屋は粉を挽き始め、樵は木を切り十字架を作っているようです。子牛売りの夫婦は赤い服の兵士に捕らえられ、夫はなぶり殺しにされてしまいます。兵士の暴挙を苦々しく思っているヨンゲリング(マイケル・ヨーク)は、こんな現状を絵にできないものかとブリューゲルに言います。そこで、彼は、その風景をキリスト受難の光景にだぶらせて一枚の絵を構築していきます。聖母マリア(シャーロット・ランプリング)の前で、刑場へ引き立てられていくイエス、そして二人の罪人。時間と空間を超越した世界がそこに展開され、最終的にブリューゲルの傑作「十字架を担うキリスト」が完成するのでした。

ポーランドとスウェーデンの合作で、「バスキア」で有名(だそうです)な、ポーランド人のレフ・マイェフスキが監督した作品です。全編、英語の映画であるのが意外でした。ポーランドの人の英語力が高いのか、それともグローバルな市場に売るために英語にしたのかもしれません。後から調べてみたら、ブリューゲルは、16世紀のベルギー(当時はネーデルランド)の画家だそうですから、ポーランド語でも英語でも正しくはないので、同じようなものなのですが。

予備知識なしで、映画に臨んだもので、タイトルどおり、ブリューゲルの絵がまずあって、それが動き出すのかと思っていました。ところが、実際はその逆で、実際の16世紀の風景がまずあって、そこにブリューゲルのイマジネーションが加わって「十字架を担うキリスト」が生まれていく過程を描いた映画でした。変な言い方ですが、アートをアート風に描いた映画と申しましょうか、前半は、16世紀の田舎町の風景が描かれるのですが、そこにキリストの受難にまつわる要素がだんだんと加わっていくという不思議な構成になっています。現実とアートの境界を曖昧にしているところが面白い趣向だと思いました。プログラムによると、ブリューゲルの合図で風車が止まるシーンから世界が変わり始めるのだそうですが、観ている最中はそこには気づかず、いつの間にやら、聖母マリアやキリストが出てくるという印象でした。

この絵は、ものすごい数の人間が描かれていまして、十字架を背負ったキリストも小さく描かれているだけです。それらは、16世紀のブランドル地方の農村を舞台に描かれているのだそうです。そこから、映画は、ブランドルの農村の風景が、どうやってキリストの受難の絵に変わっていくのかのプロセスを描いています。でも、それはドキュメンタリー風の解説ではなく、ドラマ仕立てになっていまして、ブランドルの朝の様子を丹念に描いて、そこにキリストやマリアを登場させ、絵のイメージへと昇華していくという流れになっています。それは、ブリューゲルの視点から、絵を構築していくプロセスを映像化したものと見ることができます。

じゃあ、邦題の「ブリューゲルの動く絵」というのはまったくのデタラメかというと、そうではなくて、映画を作るプロセスで、ブリューゲルの絵を実景化して、そこの人々を動かすことをしているのです。あちこちの実景やらCGを組み合わせて、絵に近い風景を作り出しているようで、そういう意味では、ブリューゲルの絵を動かしていることになるようです。

映画は、96分の中で、絵に描かれている人々を丹念に描いていきます。セリフがあるのは、主要登場人物の3人だけで、それもほとんどモノローグです。後は、登場する村人たちに明確なセリフはなく、そこがまさに絵を見るような演出になっています。仲のよい子牛売りの夫婦(後でダンナが赤服の兵士に殺されちゃう)とか、ブリューゲルの6人の子供たちが元気に騒いでいる映像、巨大な風車小屋のセットなどが印象的でした。そのリアルな世界の中に、キリストやらマリアが入ってくることになります。キリストを追い立てるのはローマ兵ではなくて、16世紀の赤い服の兵士です。彼らは宗主国スペインの傭兵らしく、傍若無人に村人を殺して、高いポールの上にさらしたりします。そんな彼らはキリストを鞭打ち、他の罪人と一緒にゴルゴダの丘へと連れていきます。その様子を見て感嘆の言葉を漏らすマリア。そして、他の罪人と一緒に磔にされるキリスト。

他の映画ですと、ここで宗教的なイメージやらメッセージがたくさん登場するのですが、この映画はあくまで、16世紀の方がメインなのか、宗教的な部分への言及はありません。ユダらしき男が首を吊るシーンなども登場しますが、監督が描きたいのはキリストの受難そのものではなく、それを絵に描く過程の方にあるようです。そして、キリストやマリアといった、ブリューゲルのイメージが作り出したものよりも、ブランドル地方の人々の方が存在感やリアリティがあるのです。そういう描き方によって、ブリューゲルが誰をモデルにして、イマジネーションを広げていったのかが明快になりました。この「十字架を担うキリスト」自体が、ブランドル地方をモチーフにしたキリスト受難の絵というユニークなものなのですが、そのユニークさをさらに明快に表現した映画になっているのは演出のうまさなのでしょう。

キリストの死の後、また、16世紀に時間が戻って、輪になって踊る村人の風景となり、そして、実際の絵が映り、そこからカメラが引いて、美術館の内部となって、映画は終わります。ほとんどストーリーらしいストーリーもないのに、1時間半余が過ぎていたという、不思議な時間を体験した気分になる映画に仕上がっています。風車小屋の主人と奥さんの描写であるとか、ブリューゲルや子牛売りの夫婦の家庭などといった絵の中には描かれていない部分も描かれているのですが、それらによって、絵の背景に色々なものが詰まっていることが想像できるのが面白いと思いました。実際の絵(プログラムに縮小版が付いてますので、それで確認)には、もっとたくさんの人々が細かく描かれていて、それらの人々の中にも、生活やドラマがあるんだなって思いを馳せることができる映画に仕上がっています。

画家や絵を題材にした映画は何本もあるのですが、この映画は、時代を超越させたという特殊性を持つ宗教画が描かれる過程を絵解きしたという点に、オリジナリティがあります。他にも、こういう構成の映画があるのかしら。私は寡聞にして存じ上げないですが、テレビのNHKとかBSの美術番組だったら、やりかねないアイデアだとは思います。ともあれ、アートな気分になれるアートな作りの映画ですから、ちょっと気分を変えてみようかなといった時なんかにオススメの一品です。

「宇宙人ポール」は小ネタも多いけどメインの部分で笑えて楽しい


今回は、川崎チネチッタ7で、「宇宙人ポール」を観て来ました。東京のメイン館よりもでかいスクリーンで観られてちょっといい気分。プログラムではビスタサイズと書いてあったのですが、本編はシネスコでした。きっとマイナーな映画だろうなと勝手に思っていたら、冒頭でユニバーサルのロゴが出てちょっとびっくり。

イギリスからアメリカにやってきたグレアム(サイモン・ベッグ)とクライブ(ニック・フロスト)のコンビ。まずコミケに行ってオタク気分を満喫した後は、UFOにまつわる場所をキャンピングカーで回る予定でした。ところが、前が走っていた車が突然横転して大破。びっくりして、車を停めて様子を見に行った二人の前には、「未知との遭遇」に出てきたのとそっくりなエイリアンが現れて、さらにびっくり。流暢な英語で話す彼の名はポール(セス・ローゲン)と言い、自分を助けて北へ向かってくれと言い出します。UFOポイントを嬉々として回っていた二人にとっては、最高のサプライズであるのですが、何しろ、世事に長けた口数の多いポールの扱いに困り気味。さらに、途中で立ち寄ったモーテルの娘ルース(クリスティン・ウィグ)がポールを目撃してしまったことから、彼女も一緒に連れての旅となってしまいます。一方、政府組織の捜査官ゾイル(ジェイソン・ベイトマン)が二人のマヌケな部下ハガードとオライリーを伴ってポールの行方を追っていました。果たして、ポールは逃げ切ることができるのでしょうか。また、彼はどこへ向かおうとしているのでしょうか。

「ホットファズ」という映画(私は未見)で一躍有名となった、サイモン・ペッグとニック・フロストのコンビが自ら脚本を書き、主演しているSFコメディです。「スーパーバッド 童貞ウォーズ」のグレッグ・モットーラがメガホンをとりました。アメリカにやってきたイギリス人二人がさっそくゲイと間違えられる笑いから始まって、あちこちに笑い、そしてパロディやらもじりが散りばめられた作品になっています。基本は、普通の市民がエイリアンに出会って、友人となって、お互い助け合うというパターンでして、「E.T.」や「ウィッチ・マウンテン」「マック」といった先達があるのですが、その基本ラインに沿いながら、お笑いで通しているのがミソです。冒頭の、コミケでのオタクネタは私にもわかる部分(「宇宙大作戦」の宇宙人との格闘シーンとか)と、ついていけない部分と両方ありました。全編、そんな感じで、元ネタのわかる人はその脇道で楽しめる一方で、基本ラインでもきちんと笑えて楽しめる映画に仕上がっています。ただ、ベースになっている「未知との遭遇」は観ておいたほうがよさそうで、これが、ポールの見た目やラストのオチにつながっているので。

冒頭で、1947年のワイオミング州にUFOらしきものが落下するシーンが登場します。どうやら、このUFOにポールが乗ってきたようで、政府組織によって拘束された彼は、政府のアドバイザーみたいな待遇を受けてきたらしいのです。でも、ポールから得る知識も底をついてきたので、後は特殊能力を持つ彼の体から情報を得ようということになります。このままでは解剖されてしまうとわかったポールは、政府内の協力者の助けによって、拘束された場所から脱出し、その途中で、グレアムたちと会ったというわけです。最初は、ポールを気味悪がっていた二人ですが、だんだんと彼を何とかしてやろうという気になってきます。そのあたりの展開はあくまで成り行きのように描かれているのがうまく、ラストが盛り上がりました。

メインのストーリーは、エイリアンを助ける主人公なのですが、サブプロットとして描かれるのが、キリスト原理主義のルースがポールの存在によって、その主義が揺らいでしまい、その反動で、やたらと下品になっちゃうのが笑えます。彼女は片目が不自由だったのですが、ポールの超能力によって目が見えるようになります。まさに神の奇蹟なのですが、神は我に似せて人を作ったというのがウソになっちゃいますし、地球以外の星に生き物がいたら、この世界を神が作ったという話がほころびてしまうのですよ。ルースの父親(ジョン・キャロル・リンチ)が娘を追ってくるのですが、彼もガチガチのキリスト教原理主義者。でも、彼は最後まで感化されずに、その先の色々な展開もすべて神の奇蹟として納得しちゃうところがおかしかったです。どうやら、ポールの起こす奇蹟が、キリストの起こした奇蹟と被るところがあるらしいので、単に見た目がエイリアンなポールが神のバックボーンで存在するのなら、原理主義は揺るがないみたいなんです。キリスト教原理主義を笑いのネタにしつつ、その根強さみたいなところも描いているあたり、この映画、一筋縄ではいかないようです。

ポールは、ワイオミングに入り、ある家を訪ねます。そこには、UFOが墜落したとき、ポールを助けてくれた女の子、今はおばあさんのタラ(ブライス・ダナー)がいました。彼女は、自分が宇宙人を助けたことを誰も信じてもらえず、引きこもりの人生を送ってきたのです。そんな彼女に、昔もらったぬいぐるみを返すポール。そこへ、ゾイルやその部下の追っ手がやってきて銃撃戦になっちゃいます。やっとのことで逃げ出す一行ですが、車がエンコしちゃいます。



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徒歩で森の中を歩く一行、先導するポールの指差す先には、「未知との遭遇」で登場したUFOとの遭遇場所デビルズタワーがありました。そして、そこで花火を上げて、迎えの宇宙船が来るのを待つことになります。そこに現れた光、しかしそれはヘリコプターでした。そこから降りてきたのは、政府側のトップであるビッグガイ(シガニー・ウィーバー)でした。武装した連中を前に、手も足もでないポールたち。そこへ、彼らを追ってきたゾイルが現れ、武装した連中に向かって発砲します。ポールを逃がした協力者というのは、実はゾイルだったのです。彼は追跡の任務を実行するふりをして、ポールが無事に合流地点に行けるように監視していたのでした。そこで乱闘となり、ビッグガイをタラがノックアウトします。そこへやってきたルースの父親がポールに向かって発砲。しかし、弾はポールではなく、グレアムの胸に命中し、彼は死んでしまいます。そこで、ポールは自分の超能力の限界に挑んで、死んだポールを蘇生させることに成功します。そして、別れを惜しむポール、グレアム、クライヴ。自分の星へタラを招き、宇宙船に乗り込むタラ。宇宙船は飛び立ち、さらに巨大な母船の中に収容され、いずこかへと飛び去っていきます。その2年後、グレアムとクライブは「ポール」という小説で賞をとり、コミケで万来の拍手を浴びるのでした。めでたしめでたし。

前半では、声だけで姿を見せなかったビッグガイがシガニー・ウィーバーだったというのも笑えるキャスティングでした。「エイリアン」と「ギャラクシー・クエスト」のウィーバーですからね。それがエイリアンを殺そうとする悪の親玉として登場するのが楽しい趣向でした。また、嫌味な有名作家をどこかで見た顔だと調べてみたら「ヘルボーイ」シリーズなどの名脇役ジェフリー・タンバーでした。「グラン・トリノ」でいい人を演じたジョン・キャロル・リンチの暴走ぶりも楽しかったです。この人はいかつい見た目で、善人悪人どっちもこなせて、しかも出る映画にハズレが少ない気になる役者さんです。ポールは基本的にはフルCGなようですが、エンドタイトルで、クリーチャー・マペッターもクレジットされていましたから、ロングショットなどは人形も使われているのかも。ともあれ、目の大きなポールの表情を作るのは大変そうですが、媚や可愛さをあまり出さないで好感の持てるキャラに仕上げたアニメーターの仕事は見事だったと思います。

ポールが息を止めると透明になれるとか、やたらタバコを吹かしてるとか、やたら世の中のことに詳しかったりする設定が、笑いをとるネタに使われていまして、細かく笑える映画に仕上がっています。全体を通して、SF映画のパロディということもできるのですが、作りとしては、パロディを笑い飛ばすような味わいがあり、パロディにわざと突っ込みを入れるようなおかしさがありました。まあ、あまり考えなくても笑えるお話になっていますし、映画やSFネタを知っていると余計目に楽しめ、さらにキリスト原理主義の根底にあるものまで垣間見えるという、何層にも楽しめるネタが詰まっています。でも、SFオタクの珍道中の笑える話として楽しむのが一番おいしいかな。個人的には、ラストで宇宙船が飛び立つシーンで時間がかかっていると、ポールが「間が持たないよな、おーい早くしろよ」ってのが一番のツボでした。

「ミッション・インポシッブル ゴースト・プロトコル」はシリーズものの一作として手堅く面白いです。


今回は、TOHOシネマズ川崎3で、新作の「ミッション・インポッシブル ゴースト・プロトコル」を観て来ました。座席数もスクリーンサイズもそこそこの劇場ですが、ミニシアターだったら、この座席数で、この大きさのスクリーンはすごいって感じでしょうか。

ロシアの刑務所で服役中だったイーサン・ハント(トム・クルーズ)がIMFの指令で脱獄させられます。彼のミッションはクレムリンの核兵器の情報を探ること。ベンジー(サイモン・ペッグ)とジェーン(ポーラ・パットン)のチームでミッションに臨むのですが、途中で何者かの邪魔が入り、その直後、クレムリンで大爆発が起こり、イーサンのチームが犯人にされてしまいます。長官(トム・ウィルキンソン)は、彼に核兵器に関する情報を渡した直後、銃撃されて死亡。そこに居合わせた分析官ウィリアム(ジェレミー・レナー)と一緒に逃亡するイーサン。組織のバックアップを失った、イーサン、ベンジー、ジェーン、そしてウィリアムは、核戦争を起こそうとしている狂信者ヘンドリクス(ミカエル・ニクヴィスト)に闘いを挑むことになります。まず、核ミサイルの解除コードの取引のためにドバイに向かうイーサンたち。果たして、彼らは核戦争を止めることができるのでしょうか。

もうお馴染みとなったシリーズの第4作でして、「Mr.インクレディブル」や「レミーのおいしいレストラン」のCGアニメの監督であるブラッド・バードがメガホンをとりました。アニメ監督が本編を撮るってのは、どうなんだろうという不安もあったのですが、意外やドラマとアクションのバランスがとれた娯楽作品に仕上がっていました。悪役側の小粒感はあるものに、ハント側のチームのキャラをうまく立てているのも点数高かったです。また、あまり込み入った話にしないで、シンプルなストーリー展開になっているのも、こういう娯楽映画としては正解だったと思います。主人公たちが、組織から切り離された存在で、独自に行動しているという設定、敵側が狂信者で、ミッションは核戦争を防ぐことなど、単純なストーリーを派手なアクションシーンでつないでいくことにより、2時間以上の映画を最後まで、息切れしないで引っ張った力量はなかなかのものだと思います。内容的には、007と「ボーン・アイデンティティ」シリーズのおいしいところを持ってきたという感じは否めないのですが、それでも、アクション映画として十分楽しめる作品に仕上がっています。

ブラッド・バードの演出は、物語の設定部分はセリフだけで簡単に語って、できるだけアクションシーンを一杯見せることに力点を置いたものになっていまして、アクションチームもその期待に応えて、生身の格闘ですとか、カーチェイスなど迫力のある見せ場をつくっています。また、最近の映画にありがちな必要以上に細かくカットを割って、何が起こっているのかよくわからないというパターンにおちいっていない点も評価されていいと思いました。

イーサンのチームは核ミサイルコードの取引の行われるドバイの超高層ビル、ブルジュ・ハリファに向かい、そこで、双方の取引相手に成りすまして、間違ったコードを渡そうとするのですが、ドタバタの末に失敗します。緻密な作戦なようで、トラブルばかり起こるので、どんどんその場のプランが変わっていくという展開が面白かったです。このパターンは後半も同じでして、最初の計画はあるのですが、トラブル発生によって、どんどん作戦変更していって、そこでサスペンスを盛り上げるという趣向になっています。よく考えると、突っ込みどころがたくさん出てくる展開ではあるのですが、バードの演出は考える暇を与えない見せ場のつるべ打ちで、勢いで見せきってしまう手腕はなかなかのものです。

また、チームのメンバーがそれぞれの過去を抱えているのですが、それらが物語の中で、きちんと刈り取られていくあたりは、脚本のうまさを感じました。ラストで、前作の登場人物が二人、カメオ出演しているのも点数高かったです。一方、登場する数々のスパイ道具が万能すぎて、何でもできちゃうというところが、微妙な感じになりました。それらの扱いがコミカルだったり、大事なところで役に立たなくなるってのは、バードの演出の賜物なのでしょう。また、ピンチに陥ったときに、ギリギリのところで助かるってのは、何度もやられると、アニメっぽいコメディになっちゃうんだなあってのは発見でした。まあ、全体的にコミカルな味わいで演出しているので、その一部と思えば納得できます。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ドバイでのすり替え取引は、コードを持つ女殺し屋とコードを欲しがっているテロリストの各々に化けて、うそのコードを渡そうというものでしたが、これが失敗。ジュリアは女殺し屋と格闘になり、結局女殺し屋をビルから突き落としてしまいます。殺し屋は、ジュリアの恋人を殺して情報を奪った女だっただけに、私怨が入ってたんじゃないの?って後でチームメイトに責められちゃうことになります。一方、テロリストをイーサンが追うのですが、最終的に逃げられてしまいます。その武器商人はヘンドリクス本人が変装したものだったのです。そこで、イーサンは、武器商人に接触し、ミサイル誘導のための通信衛星の情報を得て、インドのムンバイに飛びます。そこで、インドの富豪から、通信衛星のパスワードを聞きだそうとジュリアがお色気作戦で接触。しかし、既にヘンドリクスは、ミサイルを発射すべく通信衛星を先に作動させ、最初の一発をロシア潜水艦から発射させることに成功してしまいます。何とか起爆装置を無効化すべく、ヘンドリクスの使ったテレビ局の通信機器を回復させ、ヘンドリクスの持つ起爆装置を押さえようとするイーサンたち。テレビ局ではイーサンの部下が主電源を落としてしまい、それを復旧させようとするウィリアム。そして、起爆装置を持ったヘンドリクスを追うイーサン。ここで、時間との闘いのサスペンスとなり、ギリギリのところでミサイルの起爆装置は無効になり、アメリカのビルの一部を壊しただけで川の中にドブン。ラストは、海辺のバーに集まった面々にイーサンから次の仕事をやるかどうかの選択をさせ、ミッションが開始するところで暗転、エンドクレジット。

ウィリアムはもとは腕利きのエージェントでしたが、イーサンの護衛役をまっとうできず、彼の妻を死なせたことで、自責の念にかられて、分析官となっていました。しかし、イーサンは妻の身の安全を守るために、彼女が死んだことに見せかけていたというオチがつきます。ラストでちょっとだけミシェル・モナハン演じるジュリアが登場するのも楽しい趣向でした。

この類のスパイものは、時代とともに悪役が変わってくるのが面白いです。その時代の国際情勢が反映されたりするのですが、今回の悪役ヘンドリクスは、そういう時代背景に関係ない狂信的核戦争信者というのが、ユニークでした。舞台は、プラハ、ロシア、中東、インドと国際色豊かなのですが、それらの国々への誤解、偏見を招かない形で、ドラマを作っているあたりは、なるほど21世紀の映画なんだなあって思いました。

演技陣では、トム・クルーズが今回は意外とコミカルな味わいを出していたのが印象的でした。サイモン・ペッグ演じるベンジーを中心にクスっと笑えるシーンを散りばめてありまして、そこにある意味シリーズ4作目の余裕を感じることができました。ポーラ・パットンは「プレシャス」の先生役の方が色っぽかったのは、メイクのせいなのかな。ジェイミー・レナーはハードなスパイの部分を担当して、手堅くドラマを支えています。音楽は「Mr.インクレディブル」「レミーのおいしいレストラン」でバード監督とも組んでいるマイケル・ジアッキノが担当し、オリジナル音楽のラロ・シフリンのタッチも意識しつつ、メリハリのあるアクション音楽をつけています。ただ、ロシア、中東、インドといった国際色のつけ方が派手すぎて、音楽として統一感が出なかったのはちょっと残念でした。(そう考えると、国際色豊かな007で常にマイペースな音をつけていたジョン・バリーって偉かったんだなあって、再認識しちゃいました。)

「灼熱の魂」はドラマとして大変面白くできてます、でも後味が.....。


今回は新作の「灼熱の魂」をTOHOシネマズシャンテ1で観てきました。何でも、TOHOシネマズつけちゃうのは名前としてつまらないです。日比谷シャンテシネでいいじゃんと思うのですが。ここはまだフィルム上映が基本で、きちんとドルビーデジタルのロゴも出ます。

現代のカナダ、母が亡くなって、双子の姉弟ジャンヌ(メリッサ・デゾルモー・プーラン)とシモン(マキスム・ゴーデット)に、公証人ジャン(レミー・ジラール)が二人に遺言状を公開します。資産の分配以外に、母親ナワル(ルブナ・アザバル)の遺言には、姉弟の父親と兄を捜すように書いてありました。そして、父親と兄に宛てた手紙と、二人を見つけた後で開封せよという姉弟宛の手紙がありました。ちょっと変わり者だった母親の過去をたどることに消極的なシモンですが、ジャンヌは昔の母親の写真を頼りに、母親の生まれ故郷へと向かいます。若いナワルは、中東のある村に住んでいました。難民の若者の子を身ごもったのですが、生まれた息子は孤児院へと送られ、ナワルは叔父を頼って大学へ進むのでした。その国では、キリスト教系武装勢力がムスリムの人々を殺してまわり、ムスリム側もそれに報復するという内戦状態でした。国情が悪化してきたのを見たナワルは息子を探しに南部へ向かいます。その途中で乗り合わせたバスがキリスト教系武装勢力に襲われ、クリスチャンだったナワル以外、女子供も皆殺しにされます。そして、彼女はムスリム勢力の加担し、キリスト教右派の指導者を暗殺して、刑務所へと送られます。昔の母の写真から、ジャンヌも母のいた刑務所にまでたどりついていました。一体、そこで何があったのか。そして、姉弟の父親と兄は見つかるのでしょうか。

ワジディ・ムアワッドの戯曲を、「渦」のドゥニ・ヴィルヌーヴが脚色し、メガホンを取りました。この人の「渦」は観ているのですが、どこかとんがったアート系の映画だったという記憶があります。今回は、中東の某国を舞台に、数奇な人生を送ったナワルという女性の物語をドラマチックに描いています。現代の、姉弟の過去をたどる旅と、ナワルの過去が並行して描かれ、謎の遺言状の意味するところが段々と見えてくるところはミステリーとしての趣がありました。しかし、ミステリーの興味以上に、ナワルという女性の人生がドラマチックでして、その真実にたどりついたとき、観客は打ちのめされることになります。

物語のバックグラウンドとして描かれるのは、クリスチャンとムスリムの対立でして、クリスチャンの武装勢力がムスリムを弾圧すれば、ムスリム側も報復としてクリスチャンを殺していく、その悪意の連鎖の中で、ナワルは過酷な運命に翻弄されることになります。そして、その事実は、ナワルの子供自身にとっても大変ショッキングなものとなります。このあたりは、ドラマとして大変見ごたえがあるものですが、それは、姉弟の母親の遺言がきっかけとなって、掘り起こされた真実でした。そこまでして、ナワルは過酷な真実を子供たちに知らせたかったのでしょうか。ナウルは棺おけも墓石も拒否します。そして、兄と父親が見つかったら墓碑銘を刻むようにと遺言を残しています。そのあたりに、ナウルのエゴのようなものを感じてしまいました。

人間、知らなくてもいいことがある、姉弟の兄と父親の秘密は、そういう類のものではないのかと思うのですが、あえて、ナウルは自分の言葉で真実を語らずに、子供たちに真実を捜させるのです。そうした方がドラマとしては面白いことは重々わかるのですが、そこまでして、姉弟にショッキングな真実を追わせるのは、ひどい母親なようにも思えました。全てを知った上で、自分の死後に、自分の過去を捜させるというのは、いかにもドラマの脚本家が考えたような設定でして、そこに母親の情というものを感じることができませんでした。確かに自分の言葉で語るには、過酷な事実だったかもしれませんが、だったら、墓場まで持って行けよと思ってしまったのは、私だけなのかしら。

ドラマとしては大変面白く、目の離せない展開が続きます。ですから、ヘビーな題材の娯楽映画としては大変よくできた映画だと思います。でも、それは、あくまで物語のドラマとして面白いということでして、登場人物に感情移入してしまうと、姉弟がかわいそうで、何だかすっきりしないのですよ。悪意の連鎖に決着をつけるといった言葉も登場するのですが、それにしても、姉弟が背負うものが重いのです。生前は変わり者の母親だったことが、姉弟の言葉で語られるのですが、それが壮絶な過去に原因があることに同情はしちゃうのですが、死んだ後も困ったお母さんなのかなあ。




この先は結末に触れますのでご注意ください。(未見の方はパスしてください、マジで)




刑務所に入れられたナウルは、そこで残酷な拷問を受けます。そして、そこへ名うての拷問人アブ・タレクがやってきます。タレクはナウルを何度もレイプし、その結果、彼女は妊娠し、子供が生まれます。刑務所で処分されるはずだった赤ん坊は、看護婦がこっそりと助けて引き取ります。そして、その後、15年の懲役を経て出所したナウルに子供は返され、親子はアメリカへと向かいます。その子供は双子でした。

一方、孤児院に入れられたナウルの息子ニハドは、ムスリム側の狙撃手として、その名をとどろかしていました。しかし、キリスト教側に捕えられ、洗脳された彼は、名前を変えて、拷問人として、再びその名前アブ・タレクで知られるようになるのでした。

これらのことが、姉弟や公証人の調査によってわかってきます。そして、今、アブ・タレクはカナダでひっそりと暮らしていることも知ります。姉弟は、名前を変えたアブ・タレクを訪ねて、母親からの父宛と兄宛の2通の手紙を渡します。そして、自分たちに向けた母親の最後の言葉を読み、母親の墓に墓碑銘を刻むのでした。

死んだと思っていた父親は、実は自分の兄であり、さらにレイプによって自分たちが生まれたというのは、あまりにもショッキングな事実です。その上、兄であり、父であり、母をレイプした男は生きているというのですから。母親の遺言によって、探し当てた結果がそれではあまりにむごいのではないかと思ってしまいました。映画は、ナウルの人生について語ることがメインで、子供たちについては、あまり描かれないのですが、この思い現実を背負った姉弟のこれからの人生を思うと胸がつまる思いがします。母親のドラマチックな人生に、気を取られていたのですが、映画を観終わってから、これから、この子供たちは、自分たちの境遇とどう折り合いをつけるのだろうと、気になってしまいました。

戦争があり、報復は報復を生み、悪意の連鎖はなかなか止めることができないというメッセージは伝わってくるのですが、それをこの姉弟に背負わせるのは、やはり残酷だなあって気がしました。二転三転するミステリータッチの展開は、映画として、大変面白く作ってあることは重々認めた上で、でも、主人公である母親には共感できませんでした。

「サラの鍵」は辛いドラマなのに最後の最後でなぜか泣かされてしまいました


今回は、川崎チネチッタ10で新作の「サラの鍵」を観てきました。こういうミニシアター系の映画をシネコンで上映してくれるのはありがたいです。わざわざ東京まで足を運ぶことなく観られるのですから。でも、地方でも順次上映のようで、東北では、フォーラム系映画館で上映されるようです。

1942年7月のパリ、フランス警察によるユダヤ人一斉検挙が行われ、少女サラ(メリュジーヌ・マヤンス)の一家にも官憲の手が及びます。サラは弟のミシェルを壁の隠し戸棚に入れて鍵をかけ、検挙の手から救うのですが、父、母、サラは、多くのユダヤ人とともに、屋内競輪場(ヴェルディブ)に監禁されてしまいます。サラの手には戸棚の鍵がありますが、どうすることもできません。一家は別れ別れになり、そのまま収容所に送られてしまいます。子供たちだけの収容所の中で、仲良くなった女の子と一緒にそこを脱走しようとするサラ。時は、移って2009年、アメリカ人ジャーナリストのジュリア(クリスティン・スコット・トーマス)は、記事の題材にヴェルディブ事件を取り上げることにし、取材を始めます。彼女の夫のアパートは、当時のユダヤ人街にあり、祖父たちが、1942年の8月に引っ越したことを知り、ヴェルディブ事件に関係があるのではないかと思い始めます。ユダヤ人の記録から、そこに住んでいたサラとミシェルを割り出したジュリアですが、彼らの名前は収容所の名簿にはありませんでした。そして、さらにサラの行方を追うジュリアでしたが....。

タチアナ・ド・ロネのベストセラー「サラの鍵」をジル・パケ・ブレネールとセルジュ・ジョンクールが脚色し、ブレネールが監督しました。現代のジュリアという女性が、夫のアパートの過去に秘められた物語に肉迫していくというお話です。過去と現代の間をドラマは行き来して、その中から悲しい過去と未来が見えてくるという構成は大変見ごたえがありました。ドラマとしての力強さを感じさせるもので、映画が終わって画面が暗転した時になぜか泣かされてしまいました。我ながら、なぜ泣かされたのかうまく説明がつかないのですが、心の琴線に触れるものがあったのでしょう。

物語は、フランス現代史の汚点とも言えるヴェルディブ事件から幕を開けます。これは、フランス警察が、ユダヤ人を検挙して屋内競輪場に閉じ込めた事件です。水も食料もトイレへも行かせてもらえない状況で、何日も拘留させられたユダヤ人はその後、男、女、子供と別れさせられて収容所へと送られました。これをナチスではなく、フランス警察が行ったのです。その中で、サラは戸棚の中に置いてきた弟のミシェルのことだけが気がかりでした。何としても、パリに帰らなければという思いが、彼女を脱走に駆り立てます。このあたりの描写は、リアルにユダヤ人迫害を描いていまして、大変ドラマチックな展開となっています。

一方、現代のサラは高齢での妊娠を夫に伝えるのですが、夫はこの年で赤ん坊の父親になることを喜んではくれませんでした。そんな時、ヴェルディブ事件と夫が暮らしてきたアパートに何か関係があるのではないかと気付き、過去の経緯を調べ始めます。ジャーナリストとしての興味が、だんだんとプライベートな関心へ変わっていく過程を、クリスティン・トーマス・スコットが控えめに演じています。過去のドラマチックな展開とは対照的な静かなドラマが印象的です。彼女が、過去の悲惨な歴史と今との架け橋になるのですが、なぜ、過去をそこまで追い続けるのは明確には描かれません。誰もが封印したいと思っている悲しい過去を掘り返すことに、彼女を駆り立てるのは何なのかがわからないままドラマは進んでいくのですが、それでも、ドラマの芯は揺らぎません。そして、サラの人生が見えてきます。



この先は結末に触れますので、ご注意ください。



幼いサラは子供だけの収容所に移され、そこで仲良くなった少女とともに脱走しようとします。鉄条網をくぐろうとしたところを警察官に見つかるのですが、彼は二人を見逃すのでした。二人は、たどり着いた村の老夫婦に匿われるのですが、仲良しの少女はジフテリアで死亡。サラは老夫婦に伴われ、パリの自分のアパートにたどりつきます。そこには、少年時代の夫の父親がいました。壁の隠し戸棚の鍵を開けるとそこには、ミシェルの変わり果てた姿があったのです。夫の父親の告白から、その事を知ったジュリアはサラの消息をたどろうとします。サラが世話になった老夫婦の孫から、サラが家を出てアメリカに行ったことを知り、アメリカに渡り、サラの夫の家で、サラが1966年に自殺とも思える交通事故で死んだことを知らされます。彼女には、息子ウィリアム(エイダン・クイン)がいました。ウィリアムはイタリアにいることを知り、フィレンツェまで行って彼に会って、サラの話をするのですが、彼はそれを取り合いませんでした。しかし、サラの夫が死ぬ前に、ウィリアムに母の過去の話をして聞かせ、彼は事実を知ることになります。

物語は2年後に移り、ジュリアは、夫と別居し、ニューヨークで長女そして、幼い娘と暮らしていました。そこへ、ウィリアムが彼女に会いに来ます。事実を知ったウィリアムは彼女に感謝するようになっていました。彼は父親から聞くまで、母親がユダヤ人で収容所の生き残りであることを知らなかったのです。50歳になって初めて知る母親の本当の姿は彼にとって驚きでした。語り合う二人の横で、よちよちと歩き回る娘。「この娘の名前はサラ」、それを聞いて「ありがとう」と言って、涙で顔を覆うウィリアム。画面が暗転し、エンドクレジット。

最後まで、希望をつないでいた弟ミシェルの死に直面するシーンはショッキングでしたが、そこでお話が途切れず、サラのその後を描いていることで、さらにドラマとしての奥行きが出ました。また、サラの過去をたどっていくジュリアの後ろめたさのようなものもきちんと描いているので、ラストでサラとウィリアムの会話にほっとさせるものがありました。ごひいきエイダン・クインは、なかなか出てこないので、どっかで見逃していたと思っていたら、ラスト近くで登場し、久々のいい役を演じていまして、ドラマのキーパーソンとして見事でした。悲しい運命を背負って生き、そして死んでいったサラの人生を掘り返すのは、正しいことなのかという疑問が出てしまうのは事実なのですが、ラストで救いを見せることによって、静かな感動がもたらされます。

ヴェルディブ事件を糾弾する映画にはなっていませんが、それをフランスのやったこととして忘れてはいけないということをきちんと伝えているのは印象的でした。パスカル・リダオの撮影は、特に現代のシーンで、シネスコサイズを効果的に使った絵を切り取っていて見事でした。また、マックス・リヒターの音楽が、ドラマチックに走りすぎずに美しい旋律を聞かせてくれました。ラストで泣かされたのは、リヒターの美しい音楽がエンドクレジットにかかったせいかもしれません。

「マネーボール」は主人公に共感はできないけど、映画としては面白くできてます


今回は、川崎チネチッタ1で新作の「マネーボール」を観てきました。ここは、一番前だとものすごく画面を見上げることになる、作りがちょっとおかしい映画館。その一番前の端っこに車椅子用のエリアがあるってのは、ちょっと嫌がらせではないかしら。まあ、劇場の作りが悪いからそうなっちゃうのですが。

高校卒業して、ニューヨーク・メッツにスカウトされたビリー(ブラッド・ピット)は選手としては結局ぱっとしないまま、オークランド・アスレチックスのスカウトマンとなり、今はアスレチックスのジェネラル・マネージャになっています。しかし、他球団に比べて資金力に劣る貧乏球団では、なかなか優勝の機会には恵まれません。そんなある日、インディアンズにトレードの交渉に行ったとき、ピーター(ジョナ・ヒル)という青年と知り合います。彼は「マネーボール理論」というものから、今の野球界の体質に不満を持っていました。ピーターの言葉にビリーは動かされ、ピーターをアスレチックスにスカウトして、球団の改革を図ります。しかし、古手のスカウトや、監督のハウ(フィリップ・シーモア・ホフマン)は、そんなビリーに反発します。しかし、ビリーは、少ない資金で、他の球団は目を向けない選手をスカウトし、思い切ったコンバートしたりと、思い切った改革を断行します。果たして、ビリーのマネーボール理論に基く球団改革はうまくいくのでしょうか。

実際にアスレチックスを優勝に導いたビリー・ビーンを主人公にした、野球チームを舞台にした人間ドラマです。「ソーシャル・ネットワーク」のアーロン・ソーキンと「シンドラーのリスト」のスティーブ・ザイリアンという、実録ものに実績のある二人が脚本を書き、「カポーティ」で実在の人物のドラマを掘り下げたベネット・ミラーが監督をしています。実在の人物をモデルにしつつもそこには多分、ドラマとしての脚色がかなりされていると思われるのですが、映画としては大変面白くできていました。2時間13分と長めの映画なのですが、映画としての魅力を持った作品に仕上がっています。私は、野球があまり好きではありません。幼い頃に、父親にチャンネル権を握られてナイターの裏番組を見せてもらえなかったとか、中学高校で野球部だけが特別扱いされるのを目の当たりにしたとか、そんなつまんない理由で、高校野球もプロ野球も好きになれません。そんな私でもこの映画は楽しめましたから、野球好きでない方にも、この映画はオススメできます。

主人公のビリーは、もともと資金力のない球団では、ニューヨーク・メッツのような金持ち球団に勝ち目はないと思っていました。実際、シーズンが終わったところで、主力選手が、他球団に年俸の差で引き抜かれてしまいます。スカウト陣は、抜けた選手の穴を同等の選手で補填しようとしますが、お金もない球団では思うに任せません。そこで、怪我をしてたり、私生活で問題があったりして、値段の安くて、使えそうな選手を集めて、金のかかるスター選手を使わないでも勝てるチームを作ろうとします。しかし、それは、従来の球界の考え方に反するものであり、ビリーは、監督たちからも、スポーツマスコミからも反発を食らうことになります。シーズンのスタート時は負け続きのアスレチックスでしたが、ビリーが直接、選手と会話してチーム作りに手を出し始めてから、徐々に勝ち星を増やし、ついには20連勝という偉業まで成し遂げてしまいます。しかし、いいところまで行ったチームのリーグ優勝戦まで駒を進めることができず、結局、彼のマネーボール理論によるチーム運営は失敗という烙印を押されてしまいます。でも、見ている人はいるもので、彼のチーム運営を高く評価したレッドソックスのオーナーは破格の値段で、ビリーをジェネラル・マネージャとして引き抜こうとしますが、彼は結局、アスレチックスに残り、2年後、チームを優勝に導くころに成功するのでした。

野球チームのジェネラル・マネージャがどのくらいの権限を持っているのかは知りませんが、実際の試合のスターティングメンバーや試合の采配は、監督が決めるものだと思います。ところが、ビリーはそこのところまで、ちょっかいを出すのです。それが結果オーライになるようなのですが、チーム運営と試合の采配は役割分担としては別ものというか、そこは監督に委任している筈なのに、ビリーはかなりやり過ぎなところがあります。それが選手にどう思われていたのか、細かくは描かれないのですが、監督が自分の思い通りの選手起用をしないから、シーズン中に選手をトレードに出してしまうなど、やり方はかなりえげつない。それが、マネーボール理論の延長にあるものだとしたら、勝つためには手段を選ばないことに徹底しているということはできるでしょうけど、それが娯楽としての野球としてはどうなのかという気がしました。

金のモノを言わせる球団が勝つのは当たり前だというのは、日本の巨人なんか見ているを納得してしまうのですが、では、貧乏球団が勝つために、数字のデータに基くチーム経営をするってのは、ファンの期待に沿うものなのかというのがポイントだと思いました。結局、野球なんてのは、ファンで成り立っているのですから、ファンにどう見せるか、ファンの期待にどう応えるのかが、大事なところでしょう。そして、ビリーは、勝つこと、優勝することが、ファンの期待に応えることと判断したようです。そのための手法は、これまでの野球界の常識を破るものだったので、あちこちから批判を食らうことになります。確かにそれまでの先達の積み上げた歴史に反することですから、そうなることはやむを得ないのですが、それでもビリーはひるみません。自分の信じるやり方でチームを優勝に導こうとします。やはり、野球界に限らず封建的な伝統というものがあるわけでして、それに逆らうのは大変なことのようです。映画はそのことを意外と中立な立場で描いています。ベネット・ミラーの演出はビリーへの過度の思い入れを排して、ちょっと変わり者の主人公のチャレンジをじっくりと描きました。2時間を越える長さもこのドラマを語るのには必然と思わせる見応えがありましたもの。

ただ、このビリーのやっていることに共感できるかと言われるとそうでもありません。彼のやり方は、監督とは1年契約しかしませんし、自分の方針に合わない選手をシーズン中に放出するなど、チームのモチベーションといったものには無頓着に見えます。確かに上司が部下を簡単に解雇できちゃうアメリカの雇用制度からすれば、ありがちなことなのかもしれませんが、スター選手よりもチームプレイで点を取ろうとする方針の割には、選手や監督に冷たいように感じられました。それは、マネーボールからすれば、選手は数字のデータでしかないのですから、一応は筋が通っているように思えるのですが、過去にスカウトの甘い言葉で苦い人生を選択したことを後悔しているビリーにしては、選手に対してもっと思いやりを持ってもいいじゃないかって気がします。

データに基く野球というのは斬新だと思うのですが、生身の人間である選手をデータとしてしか扱わないのは、正直好きになれませんでした。情に流されていては、貧乏球団が優勝することなんかはできないというのも一理あるのですが、そうまでして優勝する必要があるのかという気がします。この映画に登場するオーナーは貧乏球団であることを承知していて、優勝できないビリーを責めたりはしません。そういうスタンスの人間も登場させて、ビリーのやっていることを絶対視しないところが好感が持てる映画に仕上がっています。ビリーのやっていることは斬新でそれだけに障害も多いのですが、だから、正しいこととは限らない。そもそも、正しいということ自体、様々な視点で異なっているのですから、この映画の描き方はフェアだということができると思います。そして、ドラマとしての丁寧な組み立てもあって、よくできた映画だと思います。まあ、実際のところ、そんなに野球に興味ない私ですが、それでもこの映画は楽しめました。

「沈黙の春を生きて」は前作の4年後に作られたことに意味があるドキュメンタリー


今回は、東京での上映は終了して、全国で拡大上映中の「沈黙の春を生きて」を横浜シネマジャックで観てきました。ビデオ撮りのDLP上映でした。

ベトナム戦争での枯葉剤は、そこに居合わせたベトナム人に糖尿病やがんをもたらし、さらにその子供、孫までに障害をもたらしています。さらに、枯葉剤を散布したアメリカ軍の兵士、そして、その子供たちにも大きな傷を残していました。父親がベトナムで軍務の従事していたヘザーは指と片足に欠損があります。そんな彼女が夫と一緒にベトナムを訪れます。訪れた家庭には、脳の障害を持つ子供や、体中が皮膚病で侵された子供たちがいました。彼らの中には、20歳を過ぎた人もいて、その介護は親から彼らの兄弟に引き継がれざるを得ない現実も見えてきます。シャリティはやはりアメリカ軍兵士を父に持つ40歳の女性ですが、彼女には女性としての機能が欠損しています。アメリカ軍兵士の妻モナは娘が内臓が外に出た形で生まれてきました。結局、娘は38歳で母親より早く亡くなりました。ホーチミン市のの病院には、障害を持った子供たちの病棟があります。子供たちは、枯葉剤が原因と思われる、脳障害や四肢欠損の子供たちでした。ベトナム戦争は既に過去の歴史となってしまいましたが、枯葉剤のもたらす被害は、現在進行形で、今、そこに存在するのです。

以前、「花はどこへ行った」という映画がありました。夫を肝臓がんで失った坂田雅子監督が、夫が関わった枯葉剤の存在に興味を持って、ベトナムにカメラを持ち込んで、その後遺症の実態をレポートしたドキュメンタリーです。この映画は、この映画の4年後に、同じく坂田監督によって作られた続編とも言うべき映画です。この映画の冒頭で「沈黙の春」という本とその作者が登場します。その本は、1962年の時点で、我々の生活が科学物質によって汚染されていくであろうことを取り上げたもので、この映画のタイトルはこの本から取っています。

前作では、夫の死から、枯葉剤の存在を知った監督が、枯葉剤の残した傷跡を探すといういわゆる発見の物語でしたが、今回は、その事実をさらに掘り下げようという内容になっています。今回は、アメリカ兵の子供たちに焦点をあてて、彼らの辛い人生に視線を向け、その一方で、4年前に訪れたベトナムの枯葉剤の被害者を再度訪れることで、その悲劇を改めて浮き彫りにしました。

アメリカ軍は、ジャングルに潜むベトコンを掃討するために、有毒のダイオキシンを含んだ枯葉剤を10年に渡って、ベトナムに散布しました。その影響を受けた人間は400万人と言われています。枯葉剤の宣伝映画では、1年以上耕作不能になることはないと伝えていますが、今もその影響は残っています。その枯葉剤によって、障害のある子供がたくさん生まれました。その子供の子供にも影響は及んでいます。そして、ベトナム人だけでなく、ベトナム帰還兵の子供にも影響を及ぼしたのです。戦争が当事者だけでなく、その子孫までに影響を及ぼすのです。映画は、その被害者のインタビューを交えながら、彼らのそれまでの辛い人生を垣間見せます。そこからは、枯葉剤の被害だけでなく、PTSDですとか、アルコール中毒に悩まされるベトナム帰還兵の姿も浮かびあがってきます。この映画は、反戦を声高に訴えてはいませんが、結局、つまるところは、全て戦争が悪いのだというメッセージを感じ取ることができます。

舞台をベトナムに移すとさらに悲惨な現実に直面することになります。障害を持った子供たちは、成人となり、四肢欠損の障害を持った人はそれなりに人生に立ち向かっています。しかし、脳に障害を持ち、寝たきりの子供も成人となり、親による介護も先が見えてきている様子が描かれます。障害を持った子供の親ではなく、その兄弟が将来の面倒をみなければならないという現実も描かれます。そういう辛い運命が人為的にもたらされたことには怒りを感じずにはいられません。ただ、当事者にとっては、怒りよりも、悲しみと、同じ運命を持つ人たちへの同情の念の方が強いのです。当事者もある程度、客観的に現実を眺めることができるようになると、怒りの念が沸いてくるようなのですが、渦中にいる人にとっては、怒りまで感情が及ばないように見えます。そう思うと当事者でない人が怒りを持って、現実に戦いを挑むことに意味があるようにも感じられてきました。

さらに、4年前と今の映像を並べて見せることで、被害者の苦しみが過去も今も、そして未来も続いていくのだということが示されます。前作を観ただけでは、気づかなかったポイントですが、それを目の前に突きつけられるのは辛いものがありました。坂田監督の視点は対象をつかず離れずの距離で捉えて、必要以上の感情移入は避けています。でも、そのことで、枯葉剤の被害をベトナム戦争の40年後に撮った記録映像としての価値が出ました。

そんな辛い映像の中にも、障害を持って生まれても、それを乗り越えて生きていこうという人々の姿も描かれています。残酷な現実の前では、微かな光かもしれませんけど、この映画を単なる悲惨なドキュメンタリーにしていないのは、うまいと思いますし、ほっとさせられるところもあります。その光の部分の描き方も、特別じゃない普通の人の頑張りという見せ方をしてくれている点はうれしくもありました。

記憶は風化します。ベトナム戦争に行った兵士も年を取り、亡くなった方もいます。その場所にいた当事者がいなくなっていくことによって、枯葉剤の記憶も薄れていってしまいます。でも、その一方で、枯葉剤は、その子孫を苦しめ続けています。その記憶を留め、改めてその事実を再認識するためにも、この映画は意味があります。記憶すること、伝えること、そのためにも、この映画の続編が、何年か先に作られて欲しいと思います。そして、この映画が多くの人の目に触れることを期待したいです。若い人が枯葉剤とか、それによる被害を知る機会は、他にないでしょうから。そして、知っている人も現在進行形の被害を再認識することは意味があると思います。
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einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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