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「ジョニー・イングリッシュ 気休めの報酬」はパロディに走らない丁寧な作りが好感度大


今回は、TOHOシネマズ川崎2で「ジョニー・イングリッシュ 気休めの報酬」を観て来ました。DLPによる上映だったのですが、本編上映になっても、ビスタ画面のまま、上下に黒枠を残したままのシネスコ上映でして、明らかに上映ミス。フィルム上映より手間がかからない分、チェックが杜撰になるのかなあ。

英国のMI7のエージェント、ジョニー・イングリッシュ(ローワン・アトキンソン)は、モザンビークでの任務の失敗の自信喪失から中国の山奥で修行中。そんな彼に本国から帰ってくるように指令が来ます。上司ペガサス(ジリアン・アンダーソン)からの指令は、英中首脳会談で中国首相暗殺の動きがあるので、それを阻止すること。助手タッカー(ダニエル・カルーヤ)と共に情報提供者フィッシャーのいる香港へ飛び、彼と接触することに成功します。彼は、ボルテックスという暗殺結社があり、3つの鍵が合わさったとき暗殺のための秘密兵器が入手できることを告げた後、何者かに射殺されます。犯人は、フィッシャーの持っていた3つの鍵の一つを奪い逃走します。香港の町の追跡劇の末、犯人を捕らえるジョニーですが、飛行機でカギを奪われてしまいます。一方、心理学者のケイト(ロザムンド・パイク)は、ジョニーの事を気遣い、催眠療法で事件時の記憶をたどらせます。すると彼の記憶の中にボルテックスの3人の姿が。その一人、カルレンコに接触するものの、彼もまた撃たれ、死ぬ直前、ボルテックスの3人目はMI7の中にいると言い残します。そして、どういうわけか、ジョニーがボルテックスの一員ということにされてしまいます。何とか追跡の手を逃れて、英中首脳会談の場所までたどりつくジョニーとタッカー。果たして、彼らは、中国首相の暗殺を阻止できるのでしょうか。

前作「ジョニー・イングリッシュ」は未見なのですが、これはその続編なのだそうです。監督が「オセロ」「理想の結婚」のオリヴァー・パーカーというのが意外だったのですが、ちゃんとしたドラマを作る監督らしい作品に仕上がっています。いわゆるこういうドタバタコメディですと、極端なキャラ設定ですとか、徹底したパロディとかに走るパターンが多いです。アメリカの「俺たち~」シリーズなんかは極端なキャラの主人公が暴れまわる映画ですし、ザッカー兄弟の一連の作品はパロディを前面に出したものになります。この映画は、一見、007のパロディではあるのですが、その設定以外は、きちんと独立した物語として仕上げていまして、アクションシーンやロケーションにもお金を使っていまして、単なる安っぽいパロディにしないで、かつ笑いのとれるコメディに仕上げています。

ローワン・アトキンソンは「ミスター・ビーン」で有名ですけど、この映画でも、人を食ったようなキャラクターで、独断とお間抜けぶりで、映画をかき回してくれます。そういう意味では、「ピンクパンサー」のクルーゾー警部に近いキャラ設定と言えそうです。冒頭の中国の修行シーンでナンセンスな笑いをぶち込んでくるので、その後、どうなることかと思わせるのですが、英国に戻ってからは、マトモなコメディの展開になってきます。お金と手間をかけて、丁寧な絵作りをしているのですが、それが軽く見えないように、きちんと抑制のとれた笑いになっているので、笑えるし、結構ハラハラするシーンもあるという、娯楽映画としては、ある意味王道の作りになっています。イギリス映画らしいシニカルな笑いもちょっとはあるのですが、全体としては、まろやかにまとまっていて、楽しめる映画に仕上がっています。

ローワン・アトキンソン演じるジョニーが意外と暴走しないボケのキャラになっていることも成功の一因でしょう。「ミスター・ビーン」に比べると、彼のクドさがずいぶんと薄くなっていて、その結果、かっこいいアクションをしたときに、結構決まってみえるのですよ。このあたりは、パーカーの演出のうまさなのでしょうが、素材をドラマの中でうまく活かしきっていると言えましょう。その一方で、クライマックスでは、アトキンソンのコメディアンぶりを前面に出した一人芝居を見せるあたり、ちゃんと主人公のキャラも立てています。

タイトルは、007を意識したものになっていまして、なかなかにかっこよく、エンディングに流れる歌も007の主題歌と言ってもよい出来栄えとなっています。「英国王のスピーチ」のダニー・コーエンのキャメラは引きの絵をうまく使って、ゴージャスな絵作りに成功していますし、アイラン・エシュケリの音楽は、ロンドン・メトロポリタン・オーケストラを使って、アクションシーンにダイナミックな音楽をつけて画面を盛り立てています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。




ジョニーの憧れの存在であるエージェント、サイモン(ドミニク・ウェスト)こそが、実はボルテックスのメンバーでした。助手のタッカーが証拠を見つけて指摘するのですが、ジョニーはそれを全然信じません。その結果、サイモンの嘘の証言により、ジョニーこそがボルテックスのメンバーにされてしまい。MI7から追跡されることになります。MI7のメンバーの車椅子を奪ってのカーチェイスで何とか逃げ切ったジョニーはケイトに助けを求めます。そして、モザンビークでの事件の映像から、暗殺の秘密兵器とは、人間を思い通りに操る薬物であることをつきとめます。そして、二人は何となくいいムードになるのですが、すぐにサイモンが迎えに来て、彼らは英中首脳会談の行われるスイスの古城へと向かいます。そして、それを追う、ジョニーとタッカー。

暗殺用薬物のターゲットとなったのは、会談に立ち会うペガサスでした。ロープウェイでしか移動手段のない山の中の城で、会談が始まろうとしています。薬物の仕掛けられた飲み物をペガサスが飲もうとしたとき、ジョニーが現れ、事情を説明しながらその飲み物を飲んでしまいます。そこへサイモンが現れ、サイモンに操られるまま、英中首脳会談の席に赴くジョニー。そして、口紅に仕掛けられた銃を中国首相に向けるのですが、中国の修行の成果で、必死で抵抗するジョニー。タッカーがサイモンの指示する電波の周波数に割り込んで、何とか暗殺を阻止。しかし、薬物のせいで一度はこときれるジョニーですが、ケイトの熱いキスにより蘇生。ロープウェイで逃げようとするサイモンを追跡し、最後は、新兵器のミサイルでロープウェイごとふっ飛ばします。英国に戻って、女王より称号を与えられることになったジョニーですが、女王と思ったのが、何と、ずっとジョニーを狙ってきた殺し屋。彼女を追って、捕まえてボコボコにしたところで、よそで捕われた殺し屋が連れてこられます。ということはボコボコにしちゃった相手は?というジョニーのアップで暗転、エンドクレジット。

ジョニーとケイトがラブラブになっちゃうってのは意外な展開だったのですが、これは、スティーブ・マーティン版「ピンクパンサー」で秘書と結婚することになるクルーゾーと同じ趣向なのかしら。本家007にも出演しているロザムンド・パイクが、主人公の恋人になっちゃうってのはパロディ的な要素もあるのですが、意外性の方が大きいかも。また、神出鬼没の暗殺者クリーナーばあちゃんを演じたピク・セン・リムが強烈な印象を残します。これも、実はモトネタに思い当たるものがあるのですが、そんなこと言い出したらきりがありません。ともあれ、単なるパロディではない、独立したコメディとしてお金をかけて笑いをとるってのは、結構度胸がいることなのでしょうが、この映画は丁寧な作りでそのハードルをクリアしていると思います。手堅い仕事で、手堅く面白いという感じでしょうか。
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「無言歌」は中国の歴史の中の陰の部分にスポットライトをあてた力作です


今回は新作の「無言歌」を横浜ニューテアトルで観て来ました。伊勢佐木町にわずかに残った映画館の1つですが、シネコンでは上映しないようなラインアップを並べているのが、うれしい映画館。でも、採算合わなくて閉館なんてことにならないかちょっと心配。フィルムではなく、HDによる上映でした。

1956年、毛沢東は「共産党への批判を歓迎する」という政策をとったのですが、その翌年には、共産党への批判した人間を右派分子として、再教育のために収容所に送り込みました。これが「反右派闘争」というものでした。1960年前後は、飢饉と重なったため、収容所の食糧事情は最悪のものとなり、収容所の多くの人が栄養失調で死んでいきました。中国西部の甘粛省にある収容所でも、多くの人が送り込まれ、壕の中で飢えに苦しみながら砂漠での開墾作業にあたっていました。土に掘られた壕の中には寝台があり、そこに布団を引いて眠る彼らの3分の1は歩くこともできない栄養状態でした。死人が出ると、それは管理班の人間が運び出し、砂漠に埋められるのです。極限の飢餓は、死人の肉を食うようにまでなっていました。そんなある日、7日前に死んだ男の妻が夫に会いにやってきました。夫の死を聞いた妻は慟哭して、その亡骸を捜し始めます。しかし、墓の数は山のようにあります。見るに見かねた、同じ壕の李が墓の場所を教えてやるのですが、死体から衣類や肉の一部までが奪われている状況でした。夫の遺体を火葬して、遺品を持って帰っていくのを見守った李は、死期が近づいている駱先生と一緒に収容所を脱走します。しかし、駱先生は途中で力尽き、李は一人闇の中に消えていきました。そして、あまりにも死人が出ているのを見かねた当局は、ついに囚人を故郷に帰すことにします。しかし、それは一時的なものであり、彼らの名誉が回復したわけではありませんでした。

「鉄西区」というドキュメンタリーなどで、世界的に有名(らしい)な、ワン・ビン監督が、脚本と監督を兼任した作品です。日本では「無言歌」が彼の映画の初めての公開となります。原作はヤン・シエンホイの小説「告別夾辺溝」で、さらに生存者の証言をもとに脚本に仕上げたのだそうです。中国の歴史の暗黒部分を扱っていることもあってか、この映画は、香港、フランス、ベルギーの共同製作となっています。中国のゴビ砂漠でゲリラ撮影し、フランスで仕上げたのだそうです。

冒頭では、荒地に右派とされた人々が農場へと送り込まれてきます。地面に掘られた壕には、土を盛った寝台があるだけです。荒地の開墾作業をしているのですが、人員も食料も足りません。所長が班長の陳に作業状況を聞けば「3分の1が歩けない」状況だとのこと。動ける人間も動作が緩慢で、あきらかに栄養失調の状態です。至急される食事は重湯のような粥が一杯。自分の持っている衣類などを近在の農家に売って、食料に替えようともしますが、それも限界があります。その原因には、その年の飢饉があり、本当に食料が配給されないという状況があったのですが、それにしても、収容所の生活は劣悪を極めていました。彼らは疲れ果て、人間としての感情も失われ、単に生きているだけの状況に置かれていたのです。そして、ねずみや草の実、他人の吐瀉物なども食料とし、最後には、直接の描写はないものの、死んだ仲間の肉を食べるところまで、彼らは追い詰められていました・

もとは毛沢東による「百花斉放・百家争鳴」という「共産党への批判を歓迎する」運動に端を発しています。その際に共産党に対する批判的な発言をしたものが、その立場、階級を問わず、右派とみなされて、再教育のために、収容所へと送り込まれたのでした。有名な文化大革命はこの後に起きた事件でして、その分、この反右派闘争は歴史の陰に隠れがちでした。その歴史の暗部にスポットをあて、当時の生存者などから証言を得て、一本の映画にまとめあげています。映画としては、柱となるドラマは存在せず、収容所の壕での生活を中心に様々なエピソードが描かれるという構成をとっています。

栄養失調でばたばたと人が死んでいく、自分たちも飢えの状況に置かれているので、希望の持ちようもないであろう様子を映画は淡々と描いていきます。その中に、少しでも、人間でありたいという希望が垣間見えるところに映画としての重みを感じました。HDカメラによる映像は、壕に差し込む光や砂漠の風景を時として美しく描いています。その一方で、日常茶飯事として死体が壕から運びだされていく様子が何度も登場し、その地獄のような日々が実感できる形で描かれています。

そんな中でキーとなるエピソードは、死んだ男の妻が、夫に会いに尋ねてくる話でしょうか。妻は夫の死を知って、慟哭します。そして、夫の遺体を捜してまわるのです。夫の遺体が身包み剥がされ、肉も切り取られていることを知っている同壕の人間は、最初はそんなことをやめとけと諭すのですが、妻は、何百何千とある土饅頭を探しまわるのです。見かねた同壕の男が、彼女を遺体の場所まで案内し、火葬してやります。遺品を抱えて妻は収容所を去っていきます。残酷なエピソードなのですが、妻に対する思いやりを見せる同壕の男たちの姿に、彼らの人間としての尊厳を見ることができます。

また、ある老人が自分の死期を悟って、若者と一緒に脱走しようとします。彼らは師弟関係なのですが、その老人は結局はほとんど動けない状態になって、若者に一人で逃げろと言います。師の最後の命令に従えと。若者は泣く泣く老人を置いて闇の中に消えていきます。結局、彼が逃げ延びたのかどうかは、映画の中では語られません。

収容所に送られた人間の中には、知識人や役人もたくさんいたようです。年老いたものもその中には混じっています。それは、文化大革命の前座とも言うべき出来事だったようです。反右派闘争でも、役人の独断や密告による収容所送りがあったことが、この映画でも語られています。そうやって、収容所に送られてきた彼らですが、意外や、共産党や毛沢東への恨み言は口にしません。ある意味達観しているのか、それとも、毛沢東を恨むという考え方がないのか、定かではないのですが、日本人にとっての天皇のようなある意味絶対的な存在なのかもしれません。

映画のラスト、あまりにも多くの死者を出しすぎたということで、右派の人間は収容所から帰されることになります。でも、帰った先で右派のレッテルのせいで迫害されることになるであろうこと、そしてまた、飢饉が一段落したら新たに右派の人間が送り込まれることが所長の口から語られます。なぜ、こんなことが起こったのか、どうやったらこの事態を回避できたのかといったことは、映画の中では、一切語られません。単に、過去に起こった事実をできるだけ忠実になぞろうという姿勢が見えます。その中から、垣間見えるのは、人間のやることがいかに残酷であるかということと、どんな逆境であっても人間は人間であろうとするということ。この映画は、直接的なメッセージを送ってくる映画ではありませんので、あくまで感じとるしかありません。ですから、その感じ方は人それぞれなのでしょうが、それでも、何かを感じ取れる映画だと思います。

「善き人」は時代を超えて、人間の弱さと怖さを伝えてきて、見応えあり


今回は、新作の「善き人」を川崎チネチッタ3で観て来ました。指定席を買うとき、スクリーンの中央に面した席というと、ちゃんと劇場の特徴に合った席を教えてくれました。こういうサービスって結構重要だと思います。座席の中央がスクリーンの中央にあるとは限らないので。

1938のベルリン、ハルダー(ヴィゴ・モーテンセン)は大学で教鞭を取る日々でした。妻はピアニストで家事には疎く、病身の母(ジェマ・ジョーンズ)は家の中で孤立していました。ユダヤ人の精神分析医モーリス(ジェイソン・アイザック)は親友としてつきあい、ヒトラーに対しては批判的な立場でした。そんな彼がある日、総統官邸から呼び出しを受けます。検閲委員会のボウラー(マーク・ストロング)は、ハルダーの書いた小説を総統が気に入ったので、そこで描かれている「人道的な死」についての論文を書くように言われます。断れないまま論文に着手するハルダー。そんな彼に親衛隊のフレディ(スティーヴン・マッキントッシュ)が入党を勧めてきます。これまた、断ることができないホルダー。文学者であるホルダーにとってはナチスとなってもそれは肩書きだけのはずでした。一方、私生活では、生徒の一人アン(ジョディ・ウィッテカー)の誘惑に負けてしまい、妻と別居し、彼女と暮らすようになります。ユダヤ人として身の危険を感じ始めたモーリスは、パリまでの切符を手配するよう、ハルダーに頼むのですが、彼はそれを入手できませんでした。そんな状況下で、パリ在住のドイツ人書記官がユダヤ人に殺される事件が発生、それを契機に大規模なユダヤ人狩が始まります。モーリスに何とかパリ行きの切符を渡そうとするハルダー。しかし、既に彼はナチスの幹部となっていたのです。

イギリスのC・P・テイラーの書いた戯曲を、ベルギー出身のジョン・ラザールが脚色し、オーストリア出身でブラジル在住のヴィンセンテ・アモリンがメガホンを取りました。ドイツがナチス一色の時代になっていく中で、主人公は批判的で、大学にも及んでくる文化統制にも反対の意を唱えていました。しかし、そんな彼が以前出版した小説から、ナチにマークされ、結局、ナチスに入党することになってしまいます。彼の心情には、ナチへの傾倒もなければ、ユダヤ人への嫌悪や過度の同情もありません。そんな彼は、ナチに入党したからと言って、変わるわけではありません。ただ、時代の流れの中に身をゆだねているだけなのですが、それが彼に罪を重ねさせてしまう経過を静かに描きます。1時間36分という短めの映画なので、「え、これで終わり?」という感じの結末になるのですが、その中で、普通の人間が自分の望まぬ方向へ進んでいく様子、そして、それに抗うことのできない弱さが描き出されています。

主人公が、ナチに入党することで、考え方や価値観が変わってしまうドラマではありません。彼の中身は何も変わらない。でも、現実に対して無力であることによって、大きな罪に加担してしまうことになります。ドキュメンタリー「六ヶ所ラプソディ」の中で、沈黙の中立などあり得ないと語られていたのですが、この映画でも同じようなメッセージが伝わってきます。ハルダーには悪意はありませんでした。しかし、彼の書いた小説は、ナチスにとってある意味で魅力的でした。そこを買われたハルダーは自分にとっては不本意な形でナチスに取り込まれていきます。文学者としてのハルダーは、党員といっても、肩書きだけのもので、実態はないのだ、そんな風に自分に言い聞かせて、現実を回避しようとします。そして、クライマックスのユダヤ人狩りでは、ついにナチスの軍服を着て、現場に送り込まれてしまうのです。

彼が現実逃避をしようとすると、必ず音楽が聞こえてきます。そこにいる人間が歌っているかのように、彼には感じられるのです。その幻聴が時に彼を襲います。それは、彼の良心の悲鳴のようなものなのでしょうか。そこまで、良心の痛みを感じられるだけ、彼は人間としては、上の部類に入るのだということもできます。私も含めて、多くの人は、良心の呵責にさいなまれることは少ないまあ無為に日々を送っているのではないかしら。彼の場合、ナチスへの参加という大きなイベントがあったとは言え、それでも、良心を捨てきれなかったのです。

この映画の中では、ナチスとの関係が彼の心の全てを占めているような描き方になっていません。母親との関係、若い愛人や妻との関係、大学での立場など、大半が日常の出来事なのです。ナチ党員であることは彼にとって、諸々の出来事の中の一つでしかありません。しかし、友人モーリスからパリ行きの切符の入手を頼まれると、自分が特別なポジションにいるという事実に直面することになります。そしてそれは、既に自分が抜き差しならないところまで踏み込んでいるということを意味していました。ユダヤ人狩の直前に、彼はパリ行きの切符を入手し、彼に届けようとします。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ナチスの制服に身をつつみ、幹部として、ユダヤ人狩に参加する羽目になるハルダーですが、暴力と悲鳴の只中で立ち尽くすばかりです。それでも、モーリスの家を探しますが彼の姿は見当たりません。輸送トラックの中に彼を見つけようとしますが、その姿を発見することはできません。その時、また、彼に音楽が聞こえてきます。トラックに乗ったユダヤ人が歌っているのです。彼は、罪の意識にさいなまれながら、その場を立ち去ることになります。

その後、親衛隊の幹部として収容所の情報収集をすることになったハルダーは、最新の情報検索システムを見せられ、試しにという理由をつけて友人のモーリスの情報を引き出します。そして、モーリスがユダヤ人狩の日、ハルダーの家でゲシュタポに逮捕されたことを知ります。アンが、ハルダーを頼ってきたモーリスを、ナチに売ったのでした。ショックを受けるハルダー。そして、彼は収容所の視察へと出かけます。多くのユダヤ人が生死の狭間にいる収容所を見てまわるハルダーの耳に、また音楽が聞こえてきました。音楽のいる方へ向かうハルダー、そこには楽器を演奏する囚人の姿がありました。そして、その向こうには、送られてきたユダヤ人が収容所の中に追い立てられています。もうハルダーには、何が現実なのかわからなくなってきていました。暗転、エンドクレジット。

ラストは恐ろしい余韻を残します。彼は、自責の念からの逃げ場を失ってしまいます。自分が気付かないうちに、多くの人が家を、家族を、そして命を失っていたのです。そして、自分はそれを実行している連中の幹部クラスにいたのです。この映画の怖さは、自分の意図しないところで、自分の責任で恐ろしいことが行われてしまうところにあります。それに気付くことも可能だったのですが、彼は日々のことにかまけて、現実から目を背けていました。でも、それって普通の人ならありがちなことだよねという描き方をこの映画はしています。ハルダー自身は、映画のタイトルである「善き人」と言ってもよいくらいの人となりの持ち主ですが、それでも、「罪を犯してしまう」という罪を背負ってしまいます。その理由に、時代ですとか、運命といったものを持ち出すことは可能です。でも、それよりも「善き人」でさえ、その罪の罠にとらわれてしまうことがあるのだということが、怖いメッセージを運んでくる映画でした。

演技陣は、やはり主人公のヴィゴ・モーテンセンがうまく、いい人なんだけど私生活がうまくいかないというキャラを見事に演じています。また、主人公を振り回す母親役のジャマ・ジョーンズの嫌な存在感ですとか、時代の空気に迎合していく普通の女性アンを演じたジョディ・ウィッテカーが印象的でした。「ミス・ポター」「プレシャス」と作品によって色々な絵を作るアンドリュー・ダンのキャメラが、シネスコ画面を使って、あえて時代色を出さない、色調を抑えた今風の絵作りをしているのが見事でした。それによって、このドラマの普遍性が高まったと思います。

「ニュー・イヤーズ・イブ」は無難に面白いけど、それ以上のものはちょっと


今回は新作の「ニュー・イヤーズ・イブ」を丸の内ピカデリー3で観て来ました。ゆるい傾斜の座席にかなり大きめのスクリーンは大劇場で観ている感があって、シネコンとは一味違う映画館です。

2011年の大晦日、タイムズ・スクエアでは、新年のイベントの準備に大わらわ。特にボール・ドロップという電飾でデコレートされたボールを落とすイベントの準備は大変。イベント責任者のクレア(ヒラリー・スワンク)は気が気ではありません。一方、レコード会社のパーティには有名歌手のジェンセン(ジョン・ボン・ジョヴィ)がゲストに招かれています。パーティの料理を仕切るローラ(キャサリン・ハイグル)とジェンセンは、以前は恋愛関係だったのですが、プロポーズしたジェンセンの腰が引けて破局。何とかよりを戻したいジェンセンの想いは彼女に伝わるのでしょうか。そのレコード会社のオールドミスのOLイングリッド(ミシェル・ファイファー)は思い切って会社をやめて、自分が今年中にやりたいリストを実現するためにバイクメッセンジャーのポール(ザック・エフロン)を一日付き合わせることにします。その他にも、臨月の夫婦とか、死を迎えつつある老人、ママとうまく折り合いをつけたいティーンの女の子、エレベーターに偶然一緒に閉じ込められた男女などなどが、新しい年を迎えようとしていたのでした。

「バレンタインデー」のゲイリー・マーシャル監督が、今度は大晦日を舞台に様々な人間模様を描いたコメディタッチの人間ドラマです。「バレンタインデー」の共同脚本家だったキャサリン・ファゲイトが引き続いて脚本を書いてますから、「バレンタインデー」の姉妹編と言っていいでしょう。大晦日のニューヨークを舞台に、たくさんの登場人物のエピソードが手際よく描かれていきます。そこに、豪華キャストをちりばめているのがミソでして、上記の他にも、ロバート・デ・ニーロ、サラ・ジェシカ・パーカー、ハル・ベリー、ジェシカ・ビールといった面々が登場し、ノンクレジットで、マシュー・ブロドリックやジョン・リスゴウなどもカメオ出演しています。そんな中では、「バレンタインデー」でもいい演技を見せたジェシカ・ビールが光りました。飛び抜けた美女ではないのですが、その楽しいコメディエンヌぶりが印象的でした。今回も、臨月の妊婦をコミカルにそして羽目をはずさない範囲で、好感の持てる形で演じきっています。彼女のコメディが公開されたら観に行きたいと思うのですが、彼女の公開作品に意外とコメディってないんですよね。

人気歌手ジェンセンと名シェフ、ローラの復縁するかどうかというお話と、エレベーターに閉じ込められたランディ(アシュトン・カッチャー)とエリース(リー・ミシェル)の顛末の、2つのエピソードが恋愛もので、それ以外は、自分のやりたいことを1日でやっつけようとする中年OL、今日か明日かの病状の老人、賞金のかかった出産競争に躍起になる二組の夫婦、ニューヨークへ向かおうとあせる訳ありげな若者、新年をボーイフレンドと迎えたいティーンの娘と母親の葛藤、イベントを成功させようと躍起になるスタッフなどのエピソードが並行して描かれます。ゲイリー・マーシャルの演出は手堅く、エピソードの交通整理を見事にこなしています。また、各エピソードの登場人物が相互に関係があったという仕掛けが後半に出てくるのですが、今回はかなり込み入った関係になっていまして、マーシャルの演出をもってしても、ちょっとやり過ぎの感が出てしまいました。

でも、いいなあと思うのは、ちょっとした会話の中に盛り込まれるユーモアの部分。脚本なのか演出なのか、登場人物のちょっとした会話やリアクションがしゃれていて、大変いい感じなのです。これは、日本映画でも、真似しているものもあるんですが、日本映画だとどうしても舞台調に声を張ってしまうので、さりげないおかしさというところまではいかないんですよね。このあたりの呼吸はアメリカ映画に一日の長があるように思いました。

前作の「バレンタインデー」では、各々のエピソードがライトなラブコメになっていたので、並行して描くことで、テンポが出て、面白くまとまったのですが、今回のエピソードはそこそこに重さを持ったものが多く、並行して描くのには不向きだったように思います。一つのエピソードで登場人物に感情移入しかかったところで、次のエピソードに話が飛んでしまうので、消化不良な印象が残ってしまうのです。これは、エピソードを細切れにし過ぎたのか、それともエピソードの数が多すぎるのか、理由は色々とあると思うのですが、これなら、「ニューヨーク、アイ・ラブ・ユー」のようにエピソード毎にオムニバス形式にした方がじっくりとドラマを楽しめたのではないかしら。

大晦日が、アメリカの人にとってはどのくらいの意味があるのかはわからないのですが、クリスマスほどではないけど、バレンタインデーよりメジャーな感じなのかなって思いました。特にプレゼント交換はしないけど、みんなで騒ぐ日くらいのポジションなのかなあって。そう考えると、一本の映画の舞台にするには、ドラマ性があまりないのかもしれないなあって、後で気付きました。ニューヨークの市井の人々の悲喜こもごもを大晦日を舞台に描きましたということなのでしょうけど、クリスマスの1週間後にまたドラマチックになるの?って、気がしてしまって。日本人だって、クリスマスとお正月と両方とも飲んで騒ぐ人は少ないのではないのかなあ。あ、でも、忘年会やって、新年会もやってる人はいますから、似たようなものなのかしら。

「ミッション・インポッシブル ゴースト・プロトコル」のサントラは作曲家の職人芸がお見事


「ミッション・インポッシブル ゴースト・プロトコル」の音楽を担当したのは、「レミーのおいしいレストラン」「カールじいさんの空飛ぶ家」などのアニメ映画を担当しつつ、「モールス」「クローバーフィールド」などの様々なジャンルの映画を手がけているマイケル・ジアッキノです。もともとラロ・シフリンの「スパイ大作戦のテーマ」という名曲があり、また、ミッションの経過を描写する「ミッション」というおなじみにフレーズがあります。このシリーズはそれらのシフリンの曲を織り交ぜつつ、担当作曲家のオリジナルの楽曲で構成されてきました。ちょうど、007でどの映画でも必ず007のテーマが使われるのと同じ音楽の組み立てとなります。

メインタイトルは当然おなじみの「スパイ大作戦」のテーマになっているのですが、オリジナルのシャープな感じとは違うアレンジがされており、ブラスセクションが前面にでてきて、パーカッション部分もブラスで鳴らすという音になっています。そのまま、ブラスバンドの曲として使えるアレンジになっているのがなかなかの聴きものです。ブラスバンド用の譜面が出るんじゃないかしら。

その他のアクションスコアもブラスセクションがメインになっている曲が多く、それが、この映画のアクションに勢いを与えています。メインメロディをブラスとストリングスでフルに鳴らすというハンス・ツィマー系とは一線を画す音になっているのが印象的でした。また、アニメで実績のある人らしく、映像の動きにシンクロさせた音をつけていくうまさがありまして、それが時としてコミカルな味わいにもつながっているのが面白いと思いました。

モスクワ、ドバイ、ムンバイと舞台を移動していくのですが、その国に合わせたご当地サウンドをつけているのですが、これが他の音楽と比べて浮いてしまっているのはご愛嬌というべきでしょうか。007が世界中どこへ行っても自分の音楽をつけていたジョン・バリーに比べると、音の統一感という意味では今イチかもです。ただし、その分、音楽的には華やかになっているのも事実ですから、そこは好き好きといったところです。

クライマックスの駐車場でのアクションシーンでも秒刻みサスペンスに走らず、ダイナミックなアクションに重きを置いた、ホーンセクションを縦横に鳴らした音作りにジアッキノらしさを感じさせ、ラストの決めの部分で、オリジナルのテーマ曲のコーダを持ってくるあたりの遊び心も見事に決まりました。この映画の流れ順に曲を並べたアルバムを聴くと映画の大体の様子がわかりますから、それだけジアッキノの映画音楽職人の腕が良さがよくわかるサントラ盤だと思います。

「サラの鍵」のサントラは美しいメロディが聴きもの


凝った構成の重厚なドラマ「サラの鍵」の音楽を担当したのは、新作の「パーフェクト・センス」が控えているマックス・リヒターという人。彼が作曲、編曲、指揮を担当しました。

大体、ドラマの流れに合わせてアルバムは構成されているようで、冒頭のシーンでラジオから流れる歌が一曲めに入っています。それから、サラの一家が競技場から収容所へと移送されていくシーンに流れる重厚でドラマチックな音楽が続きます。サラのテーマともいうべき物悲しい重いテーマがバイオリンによって奏でられます。このテーマ曲が美しく、要所要所で流れます。映画を観ているときは、ドラマに気を取られていたのですが、この曲だけ聴いてみると、改めて胸を打つ名曲だと実感します。

それから、現代のドラマに移っていくと、孤独なヒロインをテーマにしたような、ストリングスとピアノを中心にした静かな曲が続きます。ピアノによる切なくも美しいテーマ曲がアルバムの中盤で聴くことができます。最近の映画音楽の中では珍しく、きちんとしたモチーフをもった曲が複数盛り込まれているところが、アルバムとしての聴き応えがあります。映画の中では、それらがあくまで控えめに使われているところで、さらに好感度があがりました。

美しさと重厚さを持った音楽ながら、映画の中ではあくまで控えめに鳴ることでドラマを支えているのですが、こうやってサントラ盤で聴きなおすと、その素晴らしさを実感できるという映画音楽としての、最高の楽しみ方ができる逸品です。

サントラ盤の最後の曲は、収容所でサラの友人が、サラを元気付けるために歌う歌が入っています。そういう意味では、映画を堪能された方も満足できるサントラ盤と言えるのではないかしら。

プロフィール

einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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