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「ヤング・アダルト」は、共感できないビッチなヒロインを描いていて、でも面白い。


今回は、新作の「ヤング・アダルト」を109シネマズ川崎1で観てきました。このシネコンは、フィルムとデジタル上映が、半々(若干フィルムが多い)くらいの割合なんですが、ここもそのうち全部デジタル上映になっちゃうのかなあ。

ヤングアダルト向け小説のゴーストライターである37歳のメイビス(シャーリーズ・セロン)は、バツイチで犬との一人一匹暮らし。時には、男とデートすることもあるけど、そこそこ好きにしてる日々をダラダラと送っていました。そんな彼女に、元カレのバディ(パトリック・ウィルソン)から、子供の誕生パーティへのお誘いメールが。最初は、無視していたけれど、彼女のなかにムラムラと妄想が沸いてきて、バディと自分はもともと一緒になる運命だった、子育てに負われる今の彼は不幸、今こそ自分が彼とが結ばれる時なのだ。そこで、荷物をまとめて、自分の実家のある町へと向かいます。ホテルを借りて、バーに行ってみると、かつての同級生だったマット(パットン・オズワルド)と出会います。彼は学生時代にゲイ狩りに遭って、今も体に障害を抱えていました。そんなマットに、自分が何のために帰ってきたかを打ち明けるメイビス。幸せな家庭を破壊することはよせと忠告するマット。でも、メイビスはバディに電話したら、翌日会おうと即約束をもらってウキウキ。そして、会ってみれば、やっぱり彼は不幸だわ、私が何とかしなくちゃと妄想がさらに突っ走ってしまいます。バディの赤ちゃんの誕生パーティに、ばっちりメイクとファッションを決めて乗り込んでいくメイビス。果たして、この暴走ヒロインの行き着く先は?

「サンキュー・スモーキング」「ジュノ」「マイレージ・マイライフ」と面白い切り口のドラマを作ってきたジェイソン・ライトマン監督の新作です。どの作品もちょっと変わった主人公を距離を置いた視点から描いていて、今回も、いい年なのに、どこか子供みたいで、傍迷惑なヒロインを冷やかな視点で描いています。困ったちゃんというには、ビッチ度が強いヒロインを、シャーリーズ・セロンが、実年齢に近い役どころを面白おかしく演じています。高校時代に、美人でモテモテだったメイビスは、今だって美貌はそんな衰えていないし、まだまだ私イケテルという自覚があります。まあ、その程度のささやかな自信は、本人を美しく見せるし、人生に張りを与えてくれもしますから、あっても全然OKです。ところが、その自信に裏打ちされた妄想が、彼女の中でむくむくと頭をもたげてきます。元カレから、子供の誕生パーティのお誘い、これは元カレが私に会いたがっているから。もともと、彼と自分はお似合いのカップルだった、それは今も同じ、そうだわ、今こそ彼と人生やり直すべきなんだわ、彼のためにもそうでなくっちゃいけないの。と、まあ、どんどん暴走し始めるところがおかしいです。

バーで再開したマットは、高校時代のゲイ狩りのせいで、杖がないと歩けず、下半身に障害を抱えています。そんなマットと意外と意気投合しちゃうメイビスがおかしいのですが、常識人としてのマットは、メイビスのやろうとしていることにまじめ忠告します。一方、元カレのバディは、そんなメイビスの思惑などとはてんで無関係によきパパ、よきダンナでいます。メイビスと再開しても、まさか彼女が元サヤ狙いだとは思いもしません。その呑気ぶりを、ちょっとマヌケっぽく見せるあたりにライトマン監督の意地の悪さを感じました。ギンギンの格好で、メイビスがバディに会いに出かけた店が、ダイナーとバーの中間みたいなところで、思いっきり場違いな空気になっちゃうおかしさ。そこで、バディと交わした普通の会話を、妄想増幅して、「彼は今自分が不幸だと思っている。だから、きっと私を呼んだんだわ。やっぱり、私と彼は結ばれる運命なんだわ」となってしまう。

30代後半にして、こういうふうに妄想が暴走するってのは、子供じみてると言えましょう。そこが、「ヤング・アダルト」なのかと思っていたのですが、ヒロインの書く小説のジャンルが「ヤング・アダルト」というティーンを対象にしたものでした。日本でいうなら、ライトノベルみたいな立ち位置(厳密には違いそうですが)になるのでしょうが、そんな若者向け小説で、そこそこ有名らしいのです。ただ、表紙に名前が出ていなくて、裏表紙に名前が出ているというゴーストライターみたいなポジションです。人気シリーズを書き続けてきたのですが、そのピークも過ぎ、シリーズの最終作を執筆中です。本屋で平積みになってるのを喜んでみたら、在庫一掃セールだったりするシーンがおかしかったです。有名人だけど、やや右肩下がりというヒロインの微妙なポジションも、この映画にドラマとしての奥行きを与えています。40前のまだぎりぎり若い頃の面影が残っているという設定や、あまり可愛がっていない飼い犬も含めて、全体を包む微妙な感じがこの映画の面白さのベースになっていると思います。

バディから、奥さんのママさんロックバンドの演奏会に招かれたメイビス。またしても舞い上がっちゃって、エステで身なりを整えて、またしても着飾って出かけるんですが、また、場違い。そんな中で不必要にバディに親しげに絡んで顰蹙を買ってしまいます。酔った勢いで、彼の家の前でキスに持ち込むことに成功しちゃうのがおかしかったです。そして、いよいよバディの子供の誕生日に乗り込んでいくのですが、ここで、バディに直接アタックして撃沈、バディの奥さんにやつあたりしてパーティを台無しにしちゃいます。みんなの前で、悪態ついて、「私はあなたのために、ここに来たのよ」とバディに訴えるものの、「パーティに招こうと言い出したのは妻の方だ」と言われてしまいます。ここが、ドラマ的にはクライマックスになっているのですが、妄想が壊滅状態になって逆上しちゃうヒロインがおかしくてやがて哀しきという味わいになりました。

でも、やはり、何がおかしいって、ラストが一番が笑わせてもらいました。誕生パーティをムチャクチャにしちゃった後、マットの家に転がり込み、そのままマットと勢いで寝てしまうメイビス。朝、起きて下へ降りてみれば、マットの妹がいました。妹は「あなたは、作家で大都会で暮らしている羨望の的よ」とちょっとオドオドした感じでメイビスに話しかけます。「それに比べたら、ここの町の連中はみんなバカばっか。」そう言われて、ふむと納得して、都会へ帰ろうと思い立つメイビス。妹の「私も都会へ連れて行って」という必死の願いも軽くスルーして、ホテルへ帰って荷物をまとめて、車を走らせるのでした。と、このマットの妹とメイビスのやり取りがものすごく面白かったです。なんの躊躇も反省もないビッチぶりが、このくだりで際立ちました。よく言えば、全てを自分の都合のいい方に解釈しちゃう、メンタルの強い人ということにもなりますが、それは言い換えれば、大人としての葛藤から目を背けちゃっているということにもなりましょう。そんなヒロインが、最後、全然成長しないまま、シレっと元の生活へと戻っていくところが、この映画の面白いところです。全体を微妙なラインで引っ張ってきて、ラストで突き放してしまうところは、ちょっと意外性があり、そのクールな視点は、「マイライフ・マイレージ」のラストを思わせるところがありました。ただ、あれほど寒々とした後味にならないところにこの映画の味わいがあります。

最後まで共感を呼ばないヒロインというのも珍しいですが、このビッチぶりが微妙なおかしさにつながるところに、ライトマン監督のうまさがあります。冒頭、くたびれたオバさん風に登場し、キティちゃんTシャツで車を走らせるメイビスは、正体不明なキャラなのですが、妄想が走り始めると同時にだんだんキレイになってきます。でも、妄想破れるとまた、元の得体の知れないキャラにもどっていくというのが、大変面白く、うまく表現するのが難しいのですが、全体を妙な含み笑いで包んでいるという感じなのです。その笑いの部分によって、ラストでヒロインを突き放しても、後味を暗くしていないのが見事だと思いました。

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「タイム」は目先の変わったSFアクションとして面白く、設定をよくこなしています。


今回は、新作の「タイム」をTOHOシネマズ日劇3で観て来ました。ここはフラットな劇場で、天井が高いのですから、もう少し画面位置を上げてくれてもいいかな。

近未来、人間は25歳を境に老化が止まり、腕に刻まれた時計が余命のカウントダウンが始まります。スラム地区の人々は大体1日程度の時間しかなく、これが貨幣の代わりとなっています。日雇い仕事で時間を稼ぎ、その時間を生活のために消費していく日々、時間を使い果たした時点で彼らに待っているのは死。一方富裕層の住むニューグリニッジでは一握りの人間が無限に近い時間を持っていました。スラム地区に住むウィル(ジャスティン・ティンバーレイク)は、時間を100年以上持つ男ヘンリー(マット・ボマー)をギャングから助けます。ヘンリーはこの世界は富裕層が時間を搾取していることをウィルに告げ、彼に時間を与えると、寿命を受け入れて死んでいきます。物がどんどん値上がりしていきます。バスの料金が払えなかったウィルの母親は、彼の目の前で時間を失い死んでいきます。ウィルは、ヘンリーの時間を使って、ニューグリニッジに乗り込んでいきます。そして、そこで大富豪の娘シルビア(アマンダ・セイフライド)と知り合いになります。一方、時間監視官レオン(キリアン・マーフィ)がヘンリーの失われた時間を追って、ウィルに迫りつつありました。

「ガタカ(脚本、監督)」「トゥルーマンショー(脚本)」で有名なアンドリュー・ニコルが製作、脚本、監督を兼任した近未来SFアクション映画です。時間が貨幣と同じになり、金持ちはたくさんの時間を持ち、貧乏人は文字とおりのその日暮らしを強いられています。そんな社会の構造に気付いた主人公が、奪われた時間を取り戻すために闘いを挑むというお話です。設定がかなり異常ではあるんですが、その設定に意外とすぐになじんでしまうのは、演出のうまさなのでしょう。スラムで住む人間は基本的に、日雇い労働者で、日当をもらうことで、次の日生きる時間を手に入れている状態。時間の銀行もあるんですが、これが高利貸みたいな利息をつけてくる。そして、ものがやたらと値上がりする。生活費が上がると、余計目に稼がないと、時間がなくなってあの世行きということになります。主人公のウィルはそんなスラム地区の人間なんですが、ある日、富裕層の男を助けて、彼の時間をもらったことから、社会の仕組みに疑問を持ち、搾取されている時間を取り戻そうと行動を起こします。いわゆる貧民層が富裕層によって搾取されている構図は、よくある話なのですが、搾取されているのは普通はお金です。貧乏人にはお金がない、金持ちはそのありあまる金で贅沢しているというわけですが、そのお金がこの世界では時間なのです。正確には、時間というより余命といった方がよいでしょう。コーヒー一杯飲むだけで、余命が何分か縮まるという世界。一方の富裕層は、何十年、何百年という余命を持っていて、その余命を使うことで贅沢な生活ができます。一握りの金持ちが山ほどの貧乏人から余命を搾取しているのです。富裕層に言わせれば、そうしないと人間が増えすぎて、社会秩序が保てなくなるらしいのですが、理屈はともかく倫理的には許される話ではありません。各人の余命は、腕に表示されています。そして、寿命の入ったカセットホルダーみたいのがあって、そこから、時間が貸し出されたり、支払われたりする仕掛けになっています。

ウィルは、もらった時間を使って、富裕層の住む街へ行き、ポーカーでさらに時間を増やします。そして、シルビアと何となくいい感じになるのですが、そこへ時間監視官たちが現れ、ウィルの時間を奪ったうえ、連行しようとします。ウィルはシルビアを人質に取って逃走し、スラム街へと向かうのでしたが、途中で、ギャングの罠にかかって車は転倒、ギャングによって、シルビアの時間も奪われてしまいます。後、数分の命だったのを、ダイヤのイヤリングを質屋に持ちこむことで何とか生きながらえた二人は、ダイアンの父親に電話し慈善施設に1000時間振り込むように要求するのですが、結局、要求は無視され、追ってきたレオンにダイアンが発砲したことから、二人ともお尋ね者になってしまいます。そこで、二人が始めたのは、時間ローンの店にトラックごと乗りつけ、金庫の時間ホルダーを奪うことでした。いわゆる、時間の銀行強盗というわけです。そして、二人は強盗を重ねて、奪った時間は人々に分け与えました。

この時間の銀行強盗というのは、前例がなかったのかなって言うのが、ちょっとお話として弱いのですが、スラムに住む貧民は、そういう反発をする気力もなく、その日の余命稼ぎに追われているとも言えます。また、ギャングたちの行動を、富裕層は見逃しているところもあります。ギャングたちによる目の前の恐怖によって、事の本質から目を逸らそうとしているようです。このあたりは、実際に、独裁政権ですとか、植民地政策で使われたやり口と似たものがあります。貧しいもの同士を対立させる、あるいはヤクザや私兵によって脅かすといったやり方です。SFっぽい作りをしていますが、結構、やっていることはリアルな統治政策をなぞっているようでもあります。しかし、そうなると、スラム側の人間一人が銀行強盗を重ねたところで、統治する側にとっては、目障りでこそあれ、彼らの足元を脅かすことにはなりません。強盗を重ねた結果、富裕層は、物価や時間金利を上げることで対抗してきます。トータル的には、却って、スラム地区に住む人々の命を縮めることになってしまいます。

アンドリュー・ニコルの演出は、力強くドラマを引っ張っていくので、観ている方も思わず引き込まれる展開になっています。ウィルがヘンリーを助けるくだりですとか、ヒロインとの出会いですとか、よく考えるとかなりご都合主義ではあるのですが、それを観ている間は感じさせないあたりに、演出のうまさがあるのでしょう。また、ヘンリーが長い余命を捨てて死を選ぶくだりとか、後一歩のところで、母親に手がとどかずに死なせてしまうシーンなど、要所要所をエモーショナルに盛り上げるのにも成功しています。これは、ドラマチックな絵づくりをした、撮影のロジャー・ディーキンスや、無機質じゃないちゃんとしたドラマ音楽をつけたクレイグ・アームストロングの貢献も大きいと思います。時間監視官も、実はその日暮らしの余命しか与えられていないという設定が、法に忠実であるレオンのキャラに奥行きを与えるとともにラストへの伏線になっているのもうまいと思います。富める者が貧しき者から搾取するという題材で、貨幣をうまく余命に置き換えて、面白いSF小品としてまとまった映画になっています。ただ、どうしたって、スラム地区にいるフィルとダイアンに勝ち目がなさそうな状況になったとき、そこに映画の魔法が登場しちゃうことにはなるのですが。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



このまま、物価は時間金利が上がってしまえば、スラム地区に住む全員の命が奪われかねません。そこで、フィルとダイアンは、ダイアンの父を襲撃して、人質にとり、彼の金庫を開けさせます。(この、ダイアンの父親をどうやって拉致できたかってところに映画の魔法が入っちゃいました。)その中には、100万年の時間が入ったタイムホルダーが入っていました。それを奪って、スラム地区へ逃走しようとする二人、追跡するレオン。タイムホルダーを慈善施設に渡すと、人々が群がって時間をもらいに来ます。そんな中を逃げるフィルとダイアン、そして、ついにレオンが二人の前に現れて銃口を向けます。しかし、時間の補給をしていなかったレオンにはもう余命が残っていませんでした。死んだレオンを前にする二人にもほとんど余命が残っていませんでした。最後の賭けで、レオンのパトカーに駆け込み、レオンの代わりに時間補給を受けることに成功、ぎりぎりのところで、二人は命を長らえることができます。100万年という時間がスラム地区に流れ込んだことで、都市の機能は停止し、その流れは他の地区にも広がりを見せ始めます。一方、さらに巨大な銀行を襲うべく乗り込んでいくフィルとダイアン、暗転、エンドクレジット。

100万年という時間が、スラム地区に流れ込んだところで、体制に変革が訪れるのかどうかは定かではありません。ただ、余命で人を縛り付けることが難しくはなるでしょうから、何らかの変化が訪れる兆しを感じさせて映画は終わります。そして、主人公二人が、時間強盗のボニーとクライドになっちゃうあたりは結構マンガチックなエンディングになっています。まあ、ラストでちょっと無理したから、勢いと洒落で落としたという感じでしょうか。娯楽映画としてのツボは押さえていますので、後味は悪くありません。時間による搾取と統治を結構リアルに見せた前半から中盤に比べるとラストは甘いかなという気もしなくもないのですが、問題提起とエンタテイメントのバランスという視点からは、うまくまとまっていると思います。

「人生はビギナーズ」は、父親のゲイネタより、息子の不器用ラブストーリーに味わいがあります


今回は新作の「人生はビギナーズ」をTOHOシネマズシャンテ2で観て来ました。ここは全席指定席なのに、前の人の頭がスクリーンぎりぎりに来る、安心できない映画館。もっとスクリーンを小さくしても上に上げればいいのに。

2003年、アートディレクターのオリヴァー(ユワン・マクレガー)は、父親の死を看取って、家の整理をしていました。父ハル(クリストファー・プラマー)は、44年の結婚生活の後、妻を亡くしてから、75歳で「自分はゲイだ」とカミングアウトします。そして、若い彼氏を作ってラブラブ状態になります。そんなハルも癌におかされてしまいます。元気な振りをしていましたが、余命を宣告されてしまいます。それでも、ボーイフレンドには知らせないようにと気遣いを見せます。そして、多くのゲイ友達を作って、人生の最後を楽しんだ父親に対して、オリヴァーはどうも内面的。友人が誘ってくれたパーティで、ちょっと変わった女性アナ(メラニー・ロラン)と知り合い、付き合うようになります。お互いちょっと他人に心を開くのが苦手同士なのがよかったのか、二人は本気で愛し合うようになります。でも、そんな幸せな瞬間にも、どこか満たされないものが心をよぎってしまうオリヴァー。どうしたら、幸せになる一歩を踏み出せるのかしら。

マイク・ミルズが、脚本、監督を兼任した、自伝的物語です。ホントに彼の父親は、75歳になってから、ゲイだとカミングアウトしたのだそうです。そこのインパクトが大きいので、映画の予告編でもそこがメインのような扱いになっているのですが、実際にストーリーの中心となるのは、息子のオリヴァーの不器用な恋愛物語でして、その合間に、生前の父親のエピソードが回想形式で入ってくるという構成です。主人公のオリヴァーは、父を亡くしてから、生気がありません。そんな彼が、アナという女性と出会うことで、ちょっとだけ変わり始めます。とはいえ、出会いは、彼女が声をかけたからですし、さらに親しくなったのは、彼女からのアプローチがあったから。そんな二人が付き合うようになるあたりは、定番なラブストーリーと言えましょう。ちょっと、普通はしないような詩的な会話も、恋愛中の二人なら許される、そんな関係を、ミルズの演出はどこか距離を置いて描いていきます。その距離感は、オリヴァーの恋愛感を反映しているようです。仲が良い二人ではあるのですが、そこに、もう一人のオリヴァーが冷やかに二人を眺めているような感じ。そんな恋愛関係がうまくいくのでしょうか。

オリヴァーは、これまで何人もの女性と付き合っては別れるというのを繰り返してきました。父親も、息子の長続きしない女性関係を心配していました。今度出会ったアナはどうなるのかしら。このアナという女性が一筋縄ではいかない女性なんですよね。変わり者という言い方もできますし、最後の一線で本音を出さないタイプとも言えましょう。客観的には、面倒くさそうなタイプなんですが、その普通と違うところが、オリヴァーの波長と合ったのかもしれません。女優という職業でホテル暮らしを重ねるアナと、デートを重ねるうちに、オリヴァーの方から、ウチに住まないかと誘います。ここで、オリヴァーが一山越えたように見えるあたりがおかしかったのですが、それで、全て丸く収まるとはいかないのですよ。

生前のハルや母親の回想シーンから、オリヴァーの両親がどんな夫婦だったのかが見えてきます。母親はまたしても変わり者ですが、オリヴァーにはよく接してくれています。でも、どこか父母の夫婦の関係が希薄なようにも見えます。やっぱり、ハルがゲイだったから、夫婦生活はうまくいってなかったのかなって思わせるところがあり、オリヴァー自身もそう感じていたようです。しかし、75歳にゲイをカミングアウトしたハルは、大変陽気で元気はつらつとしています。若い恋人とラブラブになり、ゲイの仲間と一緒にいるときは、すごく生き生きとしています。この映画の原題は、「Beginners」なのですが、それは、75歳にしてゲイ人生のビギナーになったハルを指しているようにも見えます。でも、そう簡単な話でもないところにこの映画の面白さがあります。

ユワン・マクレガーは、どこか、心の壁を作ってしまっているオリヴァーを控えめなコミカルさで見事に演じています。存在感のないキャラに説得力があるという感じでしょうか。クリストファー・プラマーは儲け役ではありますが、元気なゲイのおじいちゃんを溌剌に演じています。でも、ちょっとしたところに見せる、思いやりとか心の揺らぎをきちんと演じきっているのは、さすがベテランの芸なのでしょう。メラニー・ロランは、フランスから来てアメリカで仕事をしている女優という設定なのですが、そういう設定とは関係ない、繊細なヒロインのキャラクター作りの部分でうまさを見せました。魅力的ではあるんだけど、どこか儚げでもろそうな感じを、好感を持てる形で演じています。また、オリヴァーの飼い犬のアーサーが人間の事を理解している設定になっていて、字幕でセリフを言うのがおかしかったです。マイク・ミルズの脚本、演出は、現在と回想シーンを細かく分けて並べた構成になっていますが、全体のトータルなお話の流れをきちんと作っているので、わかりやすい展開になっています。画面構成や音楽の使い方にちょっとアート趣味が入ったところがあって、メジャーな俳優の出ているミニシアター系映画という感じに仕上がっています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



アナを父の家に招いて一緒に暮らすようになるオリヴァー。二人はそれなりにいい関係を築いたように見えるのですが、オリヴァーは、心の中で引いてしまうのです。それを、感じ取ったアナは、オリヴァーのもとを去っていきます。それまで、付き合ってきた女性とも、そんな感じだったんだろうなというのが伺える展開なのですが、このうまくいかなくなるまでの、細やかな見せ方が見事でして、楽しくしているようなんだけど、オリヴァーの心のまた壁ができていくプロセスを丁寧に見せています。

癌の侵されて余命いくばくもない状態になったハルは、オリヴァーに母親との関係を聞かれて答えます。「妻は、自分がゲイと知っていて、それを変えてみせると宣言して、プロポーズしてきた」と。ええ?と思う展開なのですが、ハルは75歳で初めてカミングアウトしたわけではなかったのです。うーむ、だとすると、Biginnersとは誰のことを指しているのかしら。

一度は別れた二人ですが、オリヴァーはやはりアナへの想いを断ち切りがたく、彼女を追ってニューヨークに出かけます。ニューヨークで出会う筈が、彼女はその時、ロスにいました。彼女のいないニューヨークの部屋で電話でやり直そうと説得するオリヴァー。そして、再び、彼女がオリヴァーの家にやってきます。二人が並んで座って、さて、これからどうなるのかしら、というところで暗転、エンドクレジット。

どこか、はっきりとしないオリヴァーの態度に対して、アナはやさしく寄り添っているように見えます。ちょっと変わり者に見えるアナの意外な懐の深さが、ラストを一応のハッピーエンドにしています。でも、ラストカットは、まだまだこれからだよねという見せ方になっていまして、なるほど、これが、Beginners なのかと個人的に納得してしまいました。どこか、女性との関係に腰が引けてる主人公を、アナが広い心で受け入れてくれたというふうに私は見ました。まだまだ、この二人には、色々ありそうだけど、頑張ってねという後味になっているので、この作品、好きな映画になりました。

「ものすごくうるさくてありえないほど近い」は心打つところと、「うーん」なところが共存してます


今回は新作の「ものすごくうるさくてありえないほど近い」を川崎チネチッタ8で観て来ました。しかし、何でこういう長ったらしい邦題にしちゃったんでしょうね。チケット買うにも面倒くさいのに。まあ「ものすごくうるさいの下さい」で通じたんですが。

オスカー(トーマス・ホーン)は、9.11無差別テロで父親トーマス(トム・ハンクス)を亡くします。大の仲良しで、オスカーは父の薦めで、ニューヨークの6つ目の州を見つける調査探検ゲームをしていました。そんな父親が空っぽの棺おけで埋葬されるのが納得できないオスカー。それから一年後、オスカーの母親リンダ(サンドラ・ブロック)は、抜け殻のようになっていて、息子オスカーとの関係は冷たいものになっていました。ある日、オスカーは父親の部屋で偶然一つの封筒を見つけます。「ブラック」を書かれた封筒には鍵が一つ入っていました。父親とのつながりを探すために、その鍵に会う鍵穴を見つけようと決心したオスカー。彼は、電話帳からニューヨーク中のブラックという名前をピックアップ。そして、彼は、ブラックさんを一軒一軒訪ね歩いては、この鍵に見覚えはないか聞いて回り始めます。そんなある日、向かいの家のおばあちゃんの部屋で不審が明かりが見えたのを発見したオスカーは、おばあちゃんの家へ行きます。するとそこには、口を聞かない筆談の老人(マックス・フォン・シドウ)がいました。何も言わない老人に、これまで誰にも話せなかったことを一気に語るオスカー。おばあちゃんの家の間借り人だという彼はオスカーのブラック探しに付き合ってくれます。それでも、鍵につながるブラックさんにたどりつくことはできません。果たして、オスカーは父親の残した鍵の秘密を見つけることができるのでしょうか。

「めぐりあう時間たち」「愛を読む人」のスティーブン・ダルドリー監督の新作です。ジョナサン・サフラン・フォアの原作を「ミュンヘン」「ラッキー・ユー」のエリック・ロスが脚色しました。いわゆる、9.11の後日談モノの一遍でして、父親をあのテロで失った主人公にした、ある種の再生の物語であり、また赦しの物語になっています。物語としては、すごく心を打つシーンと、何だかなあというシーンが共存しておりまして、全体としての見応えは、私としては微妙なところになってしまいました。

正直、子供が苦手な私には、オスカーの第一印象は最悪でした。生意気だし、ドアマンに悪態をつくし、借りた電話帳切り取っちゃうし。ただ、そんな彼の中から、無差別テロの傷跡が垣間見えてきます。アスペルガー症候群のテストを受けたことがあるというのは、その傾向があるということです。妙に潔癖症だったり、公共交通機関に乗れなかったり、常にタンバリンを鳴らしていないと安心できなかったり、やたら数字に細かかったりと、どうもメンタルに問題ありそうな主人公なのです。そんな息子に母親のリンダはなすすべがないというか、息子の心に入り込むことにためらいを感じているようです。

1年たっても、父親を失ったショックが癒えないオスカーが、鍵を見つけてニューヨーク中のブラックさんを探し始めます。それまで失っていたものを取り戻すかのように、彼はニューヨーク中を走り回ります。空っぽの棺おけでは、決別できなかった父親へのつながるカギが見つかったのです。それを見つけたら、父親とつながることができるのです。そんな時に出会った老人は、自分は言葉を発しませんが、彼の心の開かせ、彼の友人となります。自分から話すことを拒否したという老人を演じたマックス・フォン・シドウが素晴らしく、ある意味、道化役のようであり、ペーソスも運んでくるというチャップリンみたいな名演を見せてくれます。

父親と息子が一緒にいるシーンが回想として何度も登場してきます。そこから、父親と息子の密接な関係が見えてくるのですが、母親との関係が見えてこないのです。一方で、おばあちゃんとは仲が良いようで、向かいの建物に住んでいるおばあちゃんとトランシーバーでやりとりをしています。この母親の不在感は、物語上のミステリー的趣向になっています。また、オスカーは、テロのあった日の電話機を隠してしまっています。そこには、父親からの伝言がいくつも入っていたのですが、それを母親にも聞かせていませんでした。そして、それを初めて老人に聞かせるのですが、老人は最後まで聞くのを拒否するのでした。この電話の伝言の秘密は後半で明らかになるのですが、そこは泣かせるものがありました。また、鍵の正体もつきとめるのですが、そこにもホロリとさせる趣向がありました。ただ、そのいいところへ至るまでの展開が長いので、感動が盛り上がるところまで行かないのは、ちょっと残念。オスカーが、ブラックさんを探していく中で様々な人々と触れ合うという趣向も悪くないのですが、そこから本筋に戻るまでが長いという感じなのかしら。

そして、最後には、オスカーは父親との死に初めて正面から向き合うことになります。そこもいわゆる泣かせどころではあるのですが、演出はあえて愁嘆場にすることを避けているところは好印象でした。そして、エピローグがつくのですが、これがまた無理やりな感があって、困ってしまいました。何と言うか、すごくいいところもあるのに、何だか乗れないところもある、私的には、玉石混交な映画になってしまいました。

演技陣では、マックス・フォン・シドウが際立って印象的でしたが、その他、サンドラ・ブロックが前半はほとんど顔に照明が当たらない演出のもとで、脇役として熱演していました。また、鍵の調査に協力してくれるヴィオラ・デイビスとジェフリー・ライトがうまく、全体的に脇役の演技が光りました。トム・ハンクスは演技の良し悪しはよくわかりませんでしたけど、その存在感が映画を支えています。



この先は、結末に触れますのでご注意ください。



口を閉ざした老人の正体は、かつておばあちゃんを捨てて失踪したというオスカーのおじいちゃんでした。彼は、オスカーの前から姿を消します。一方、オスカーがずっと大事にしていた、父親のメモがある新聞に、マークされた電話番号に試しに電話してみると、一度、会いにいったアビー・ブラック(ヴィオラ・デイビス)が電話に出ます。それは遺品市の広告でした。遺品市の主催者であるウィリアム・ブラック(ジェフリー・ライト)を訪ねたオスカーは、鍵はもともとウィリアムの父親の遺品の花瓶の中にあったものを花瓶ごとトーマスに譲ったものだったのです。それを聞いて、オスカーはウィリアムにそれまで誰にも話していなかった秘密を打ち明けます。それは、テロの日、彼が家に帰るまでに父親から何通もの伝言メッセージが入っていたのですが、彼が家に帰ってからも電話がかかってきたのでした。しかし、オスカーは怖くて電話に出ることができません。そして、父親の最期のメッセージを聞きながら、崩れ落ちるビルの実況中継を見ていたのでした。ともあれ、鍵の正体はウィリアムの父親が息子に残したものだったのです。それを聞いて、家に帰ってから泣きじゃくるオスカー。そんな息子にリンダは、彼の行動は全て知っていたと語ります。彼の部屋にあるものから、彼のやろうとしていることを知り、彼の訪問と前後して、すべてのブラックマンさんを訪ねていたのでした。心の平穏を取り戻したオスカーは全てのブラックさんにお礼の手紙を書きます。そして、公園でかつて父親に薦められたけど乗らなかったブランコに乗ってみます。ふと、あることに気づいたオスカーはブランコの下に埋め込まれた父親からのメッセージを見つけるのでした。

色々と盛りだくさんなお話でして、エピローグでは、オスカーのおじいちゃんがおばあちゃんのもとに帰ってくるシーンも登場します。鍵の正体が、父親とは直接関係ないというのは、意外性と説得力がありました。それを知ることで、オスカーは自分の父親の死に向き合うようになるのでした。でも、それまでの行動全てを母親がトレースしていたというのは、「へえ?」って感じでした。最後に真実を知るまで、それを隠し通すというのは、前半に伏線があるものの、どこか釈然としないものを感じました。また、ラストでブランコからメッセージを見つけるというのも出来過ぎな展開だなあって思っちゃいました。

それでも、この映画に共感できる点もあって、心に傷を負ったオスカー、それに対してどう接していいかわからない母親の関係は、9.11無差別テロの後遺症として、胸を打つものがありました。特に、父親からの最期の電話に出ることができなかったことは相当なトラウマになったことでしょう。オスカーのおじいちゃんもトラウマ(その理由は映画の中では語られません)によって、言葉を発することをやめてしまっていました。そういう心の傷がどうやって埋まっていくのかという物語の部分は見応えがありました。ただ、ブラックさんを探し回る部分に映画の中盤を費やしたせいか、その見応えが半減してしまったような気がします。これは、この映画をどういう切り口で観るかによって、評価がわかれるところだと思います。

最期に題名の「ものすごくうるさくてありえないほど近い」という意味ですが、私は、オスカー自身のことではないかと解釈しました。ものすごく心の中が振り回されていたのに、結局それは一番身近な自分自身の問題だったという意味かなという気がして。(一方で、大はずれかなって気もしてます。)

「メランコリア」はよくわからないけど、映画としての満足度が高い不思議な作品


今回は新作の「メランコリア」をTOHOシネマズ川崎3で観てきました。この映画館はキャパはそんなに大きくないのですが、画面がきっちり大きくて、前でも割りと見易いというシネコンある意味お手本のような映画館。

冒頭は、重厚な音楽(後でクレジット見たらワーグナーの「トリスタンとリゾルデ」らしい)がかかり、ヒロインや登場人物のイメージショット、地球と別の天体のショットなどがずっと続きます。「何だこれは」と思っているうちに、画面が暗転して、「第一部 ジャズティン」とタイトルが出ます。ジャスティン(キルスティン・ダンスト)は、マイケル(アレクサンダー・スカルスゲールド)との結婚式の日、お金持ちの義兄ジョン(キーファー・サザーランド)の家での結婚パーティに2時間も遅れてやってきます。それだけじゃなく、行動がどうも不安定、結婚そのものに乗り気じゃないのか、パーティの空気になじまないのか、姉クレア(シャルロット・ゲーンズブール)はやきもき、ジョンはイライラ。おどけたキャラを演じる父(ジョン・ハート)と結婚に懐疑的でスピーチでも場を凍らせる母(シャーロット・ランブリング)も含めて、クリスティンの関係者はみんなどこか変。そして、結婚式が終わってみれば、心を閉ざしたようなジャズティンに、マイケルは愛想を尽かして一人帰ってしまいます。そして「第二部 クレア」巨大な惑星メランコリアが地球に迫っていると言われています。ジョンはそんなことはないと一笑に付すのですが、クレアは本当に地球は大丈夫なのかと気が気ではありません。そんなクレアの家に、精神を病んだジャスティンが転がり込んできます。ジョンと息子は空を見て、惑星の様子を楽しんでいるようです。一方のクレアは不安からふさぎ気味、一方のジャスティンは重度のうつ病のようですが、それでも、クレアやジョンを冷静に眺めていました。そして、いよいよ空に月よりも巨大なメランコリアが現れるのでした。

ラース・フォン・トリアーが脚本と監督を兼任した新作です。私はエグいのが苦手なので、この人の映画は「奇跡の海」「ダンサー・イン・ザ・ダーク」しか観ていないのですが、どちらも物語を貫くテーマが強く出てくる映画でして、よくわからないところもあるのに、どこか圧倒されるところがありました。この映画では、惑星衝突という物語を中心に据えつつ、ジャスティンとクレアの姉妹の葛藤もメインの物語になっていまして、両者が並行に描かれながら、結末で一つになります。映画の冒頭に流れるイメージショットの嵐は、その後の映画のダイジェストと言えるものでして、映画の展開の中で、ある程度結末が見えてきちゃうところもあります。でも、凝った構図とスロモーションや視覚効果を駆使した映像は、その絵だけで見応えがあります。枝に絡みつかれて動きがとれないジャスティンの絵は、後のドラマで、そういう展開が出てきますし、ドレスで水に戯れるジャスティンのイメージも、別の絵としてドラマの中で登場します。

メインのストーリーは、ジャスティンの結婚式のシーンから始まります。会社の上司(ステラン・スカルスゲールド)のスピーチから、彼女がバリバリのキャリアウーマンであることがわかってきますが、その割には、華々しい門出に日に浮かない顔をしています。座を外してゴルフ場に出かけたり、風呂に入ってくつろいじゃったり、正直扱いづらい女性の典型です。パーティーの費用と場所を提供したジョンはイライラ。2時間遅れて始まったパーティはさらに押していってしまいます。自らの手でブーケトスもできないジャスティン、いわゆる、内にこもるタイプの女性のようです。その割には、会社の若手にセックスをけしかけたりするし、まあ、情緒不安定なんでしょうけど、そんな彼女に結婚相手も愛想をつかしてしまいます。それまで、有能なキャリアウーマンであったことからすると、昔から病気を持っていたのではなく、結婚を機会にうつ病が発症したようです。

結婚式の後も、ジャスティンはヨレヨレ状態だったようで、心配した姉のクレアが、義兄の家に彼女を招きます。一人で風呂に入れないほど、うつ状態は悪化しているようです。一方のクレアは一児の母としてちゃんとした女性です。そんな彼女の心に影を落としているのが、地球に近づきつつあるメランコリアという惑星。ひょっとしたら、地球と衝突するかもしれないと言われていて、空には青いメランコリアが不気味な輝きを投げかけてきます。これは、地球の危機という非常事態なんですが、ジョンの広い屋敷には、その危機感はまるっきり伝わってこないのが面白いところです。本当なら、テレビや新聞で大騒ぎになっている様子が描かれるはずなのですが、そこを全てオミットしたある種の閉鎖空間の中のドラマにしているところが面白いと思いました。ある意味、純粋な人間関係の中で、この世の終わりが語られていきます。

ラストの絵はある意味感動的であり、「奇跡の海」のエンディングとイメージがだぶりました。全てが超越されて、そこに想いだけが残るという後味は劇場で鑑賞していただきたいと思います。映像的には、引きのショットを除いては、人間のドラマは手持ちカメラの撮影でして、これがスコープサイズの画面でやられると結構目が疲れます。リアルな人物描写に迫る手法としては、多少の手ブレやピンボケもありと言えばありなんですが、全体の絵のトーンとしては、統一がありません。とは言え、その分、イメージショットやメランコリアの絵などのインパクトが高まったのは事実です。

キャスティングは意外と豪華で、キルスティン・ダンストとシャルロット・ゲーンズブールの二人が熱演している他、ぐっと渋くスリムになったキーファー・サザーランドが不思議な姉妹の世界と対照的な現実世界の存在として描かれ、ジョン・ハートとシャーロット・ランブリングが姉妹の父母として存在感を見せます。ああ、こういう親だからこその、あの姉妹なんだなあって妙に納得できちゃうあたりが見事でした。また、個人的にごひいきのステラン・スカルスゲールドもジャスティンの上司役で顔を見せていて、きちんと印象に残る演技を見せてくれます。

前半は結婚式の夜を通して、ジャスティンとクレアのキャラ設定をしておいて、後半で、世界の終わりに対する二人の受け止め方の違いを描いたという感じでした。メンタルに病気を抱えたジャスティンの美しい有り様と、事態を正面から受け止めてじたばたと苦悩するクレアのコントラストが、不思議な映画的な興奮をもたらします。うまく言えないのですが、メランコリアという惑星とジャスティンとクレアの3者が美しいトライアングルを形成しているのです。物語としてはとっつきにくい展開なんですが、それでも、最後には、映画としての満足感を得られたのは、ちょっと不思議な経験でした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ジャスティンがクレアの家に転がり込んできたとき、惑星メランコリアは月と同じ大きさくらいまで、地球に接近してきていました。クレアがネットで調べると、メランコリアは地球に衝突するといった情報が出てきます。しかし、ジョンはそんなことはないと明らかに否定して、息子と一緒になってメランコリアの観測を楽しんでいます。ジャスティンはそんな様子を冷ややかに眺めています。ある晩、一人で森に入っていくジャスティンを目撃したクレアが、後をつけていくと、ジャスティンは森の中で全裸で横たわり、メランコリアをまるで受け入れているようでした。メランコリアが再接近するという晩、ジョンは何事もないと言いながら、観測を続けています。そして、あるところまで近づいたメランコリアは遠ざかり始めます。一安心したクレアでしたが、その翌日、メランコリアを観測しているジョンの様子がおかしいのです。もう一度、メランコリアを見てみれば、また地球に接近してきているではありませんか。ジョンを探したクレアは厩で自殺しているジョンを見つけます。もうどうしていいのかわからなくなったクレアは息子を連れて車で村へ逃げようとします。そんなことをしてもむだだと見送るジャスティン。車は途中でエンコし、雹が降りすさぶ中、クレアと息子は家に帰ってきます。ジャスティンは息子に魔法のシェルターを作ろうといい、森の中から枝を集めてきます。枝を束ねてテント状にしたシェルターの中に入る3人。お互いの手を握り合う3人の目の前に巨大なメランコリアが迫ってきます。そして轟音とともに吹き飛ばされ光に包まれるシェルター。暗転、エンドクレジット。

結局、惑星の衝突は回避できず、世界は終わりを告げることになるのですが、そこに一種、神聖な空気を感じさせるラストは、不思議な余韻を残します。映画の作り手が、ジャスティン、クレア、メランコリアに同程度の思い入れをして描いているせいかもしれません。ジャスティンとクレアはまったく違う人生を送ってきたのですが、最後の1点で二人の人生が重なるというところに、不思議な余韻の理由があるのかなとも思いました。クレアは、ジャスティンに手を焼きながらも、それでも妹だから見捨てられない、一方で、ジャスティンは自由奔放で好き勝手やっている、そんな二人が世界の終局で何を思ったのだろうと考えると面白さが増すかもしれません。私としては、なぜかそういうこと抜きに見たまんまで圧倒されて、映画としておおいに楽しんでしまいましたけど。

「やがて来たる者へ」は実録戦争映画ながら、普遍的な反戦の心がこもった一品です。


今回は、静岡シネギャラリー1で「やがて来たる者へ」を観て来ました。DLPによる上映だったのですが、上映媒体がよくなかったのか、プロジェクターがショボいのか、動きの早い映像がぶれちゃってました。これまで、あちこちで観て来たデジタル上映のワーストかも。それでも、映画鑑賞としての満足感は高かったってのは、この映画すごい。

1943年、連合国軍とイタリア軍が休戦協定を結んだ後の、イタリアの山村マルザボット。村は、ワインや牧畜で生計を立てていました。ドイツ軍の占領下にある一方、それに反抗するパルチザンの組織に村の若者は参加していました。ファシスト党のやりかたにも不満があるという、村全体が微妙なポジションにある状態。そんな村で、両親や親戚と一緒に暮らす8歳の少女マルティーナは、自分の腕の中で生後間もない弟が死んでから、口をきかなくなっていました。母親のレナは再び妊娠し、新しい兄弟の誕生をマルティーナは持ち望んでいました。イタリアの都市部への爆撃が激しくなり、都会から村へ疎開してくる家族も出てくるようになります。そして、爆撃は村の近くまでやってくるようになりました。一方、ドイツ軍は、パルチザンの存在に手を焼き、いらだっていました。それまで、村にやってきても、暴力沙汰を起こしていなかったドイツ軍が、無差別のパルチザン掃討作戦を始めたのでした。

イタリアのジョルジョ・ディリッティが、製作、原案、脚本、監督、編集を兼任した実話に基づく戦争ドラマです。イタリアが連合国軍に屈した後、ドイツ軍がイタリアを占領し、連合国軍とパルチザンを相手に戦っていた頃、ドイツ軍がパルチザン掃討を名目に一般市民を虐殺したという事実がありました。その事実をベースに架空のキャラクターを設定して、虐殺までの過程を描いたドラマです。主人公を口を閉ざした少女にして、少女が何も語らない目撃者となることで、普遍的な戦争の理不尽さを際立たせることに成功しています。

そこに暮らす人間にとっては、ドイツ軍だろうがファシスト党だろうが、生活を脅かすものは敵となります。ドイツ軍の敵であるパルチザンでさえ、村人から食料や薬をタダで調達しているのですから、村人は政治の動きとは無関係に八方塞がりの状況になっています。その一方で、日々の暮らしは続けられています。のどかな山村の生活の中に突発的にドイツ兵やパルチザンが割り込んできます。マルティーナの父親はパルチザンを支持していましたから、大人にとっては、政治的な判断による立場がつきまとうことになるのですが、子供の視線には政治は入ってきません。しかし、落下傘がたくさん降って来る様子、パルチザンがドイツ兵を殺す様子をマルティーナは目撃し、彼女なりに今、村に起こりつつある事態を把握していました。そんなある日、村にもドイツ軍が侵攻してきます。男たちは森へ、女子供は教会へ避難します。そこへ、パルチザンがドイツ軍に反撃し、一時的にはパルチザンが勝利するものの、村へたくさんのドイツ兵が入ってきて、パルチザンの捜索をするとともに、家畜を奪っていくのでした。戦争は、もう村人を見捨てた形で、ドイツ軍とパルチザンの間で行われていたのです。

戦争は、戦場となった場所の住民にとっては、略奪と破壊をもたらすものでしかありません。勝つか負けるかという次元ではなく、どっちが勝とうが生きるか死ぬかが問題なのです。この映画では、連合国軍のイタリア侵攻により、ドイツ軍に占領されている村という、立場が複雑な舞台を選ぶことにより、戦争のもたらす本質的な非情さ残酷さを浮き彫りにしています。実録ものでありながら、どこか寓意を感じさせる作りになっているのも、戦争の本質に迫るためのものだったようです。後半、実際に起きた虐殺のシーンでは、あくまで被害者の視点でドラマは進行し、理不尽な暴力によって、わけもわからずに殺されていく人々の悲しみが見る者の胸を打ちます。ラストの不思議な余韻は、私の理解の範疇を超えるものがありましたが、「やがて来たる者」とは何を指すのか、考えさせられました。うーんと視点を広げれば、歴史が来たりくる未来に何を残せるのかともとれます。英語題の「The Man Who Will Come」からすると、もっと具体的な人間を指しているのかもしれません。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ドイツ軍が村へ侵攻してきて、村人は教会などへ避難します。マルティーナの母と祖母は生まれたばかりの赤ん坊がいることから家に残ります。マルティーナは教会まで皆と一緒に行動するのですが、一人家へと走ります。教会へ避難した人々は、ドイツ軍によって外に連れ出され、機関銃の一斉射撃を受けます。家にいた母と祖母はドイツ兵に射殺され、マルティーナもつかまって、他の人々と一緒に地下室に押し込まれ、そこに手榴弾が投げ込まれます。死体が転がる中で、奇跡的に生き残っていたマルティーナは、生まれたばかりの弟を連れ、隣村の司祭の家まで逃げます。父親は、何とか逃げ延びることに成功するのですが、母と祖母の死を知り、自らドイツ兵の前に躍り出て射殺されてしまいます。マルティーナはドイツ兵が乗り込んできた司祭の家も抜け出し、弟を抱えて自分の家へと帰ります。弟を抱いたマルティーナが初めて声を出し、一人歌うシーンにエンドクレジットがかぶさります。

虐殺シーンは直接的な見せ方はしていないものの、かなりショッキングです。被害者の視点から描かれるドラマは、何を言ってるのかもわからないドイツ兵に追い立てられ、殺されていく理不尽さを見る者に突きつけてきます。そんな中で、マルティーナが家族を失いながらも、弟と二人きりで、奇跡的に生き残るラストは不思議な余韻が残ります。マルティーナを未来への希望というような描き方をしておらず、何かの間違いで生き残ったというような突き放したような視線が感じられたのです。実際に虐殺から生き残った人は、プログラムの記事によるとほんのわずかだったようで、映画の中でも、全ての人が殺されてしまったような印象を与える見せ方になっています。映画の登場人物で生き残るのはマルティーヌ以外には、叔父一人だけです。そんな状況下で、少女と赤ん坊は未来への希望の象徴となるはずなのですが、映画はそこで現実の世界を離れ、時計の針が止まってしまったかのようなエンディングになっています。

ドイツ兵の中には、機関銃で住民を殺すことにためらう者もいます。一方で、幼い子供を躊躇なく射殺する者もいます。戦争という場所が、人から正気を失わせるようにも見えます。また、パルチザンも、子供の視点から脅威であるという描き方をしています。日々の暮らしの中が、徐々に戦争に侵食されていく過程をじっくりと描いている点も見所でした。この映画は、イタリアでのドイツ軍による住民虐殺という事件を描きながら、戦争の持つ様々な側面をドラマの中に盛り込んであります。決してカタルシスをもたらすものではありませんが、見応えのある映画に仕上がっています。

マルティーナを演じたグレタ・ズッケリ・モンタナーリが素晴らしい存在感を見せて印象的でした。言葉を語らないという設定は、儲け役だったのかもしれませんが、村人、パルチザン、ドイツ軍を澄んだ瞳で見つめていく、その視線が映画の核になっていました。また、マルコ・ビスカリーニとダニエラ・フルラーティによる音楽が、明確なメロディを持つテーマも使いつつ、少年のコーラスを交えた幻想的な音楽を要所要所に鳴らして、ダークファンタジーのような音作りになっているのが印象的でした。

「ハンター」は疫病神の身の処し方としてみると、結構見応えあります


今回は、川崎チネチッタ3で、「ハンター」を観て来ました。ドルビー・デジタルのロゴが出なかったところを見ると、どうもフィルムではなく、デジタル上映だったようです。

マーティン(ウィレム・デフォー)は、バイオ関連のレッドリーフ社から仕事の依頼を受けます。その仕事とは絶滅したといわれているタスマニアタイガーを捕獲し、生体サンプルをとることでした。大学教授という肩書きで、タスマニア渡り、ガイドのジャック(サム・ニール)の紹介で、ある民家をベースキャンプにすることになります。そこの家は、父親は行方不明、母親は病気で臥せっていて、二人の幼い姉弟が家を守っていました。そこでは、森林の伐採を生業としている昔からの住民と、環境保護を訴えるよそ者が対立している状態でした。そんな中、大学の生態調査という触れ込みで森に入っていくマーティンは、旧住民たちから憎しみの目を向けられ、車にひどい嫌がらせをされたりもします。それでも、彼は森の中を歩き回り、タスマニアタイガーを探します。ある日、幼い姉弟から、彼の父親がタスマニアタイガーを見たという話を聞き出します。活発な姉のサスがその様子を話してくれ、一言も発しない弟のバイクがそのタスマニアタイガーの絵を描いてマーティンに見せます。一方、臥せっていた母親のルーシー(フランシス・オコナー)は、マーティンの介護のせいもあったのか、元気を取り戻します。バイクの絵からタスマニアタイガーの生息地のヒントを得たマーティンは、ついにタスマニアタイガーの巣と思われる場所にたどり着きます。一方、マーティンがルーシー親子と親密になるのをうぶかったジャックが会社に連絡を入れたことから、物語は物騒な展開になっていくのでした。

ウィレム・デフォー主演のオーストラリア映画で、オーストラリアのダニエル・ネットハイムが監督しています。タスマニア島を舞台にタスマニアタイガーを捕らえにやってきたハンターの物語を不思議な静けさの中で描いた作品です。とは言っても、人と動物の対決に焦点を当てたのではなく、ハンターがその仕事の中で何を感じ、何を悔い、どう決着をつけるのかを描いたドラマです。あくまで人間の視点で描かれた人間のドラマですが、タスマニアの自然をバックに不思議な後味の残る映画に仕上がっています。ある意味、人間と自然の関わりを描いたドラマということもできるのですが、最後は良くも悪くも人間ドラマとして収束していきます。決して後味の良い結末ではありませんが、そこに至るまでのドラマの丁寧な積み重ねによって、映画として見応えは感じることができました。

マーティンという正体不明の男がレッドリーフ社に依頼された仕事は、タスマニアタイガーを捕獲すること。どうやら、最近、目撃されたらしいのです。しかし、生体サンプルをとるということはタイガーを殺すということであり、それは違法なことでした。でも、金のための仕事と割り切って現地に乗り込むマーティン。ベースキャンプの家は、電気も水もロクに出ないありさまでしたが、町へ降りれば、敵意に満ちた視線を浴び、ホテルの部屋も借りられません。よそ者への警戒心が強いのは、大体のよそ者は、環境保護の名目で林業を奪おうとする連中だからです。環境主義者だった、姉弟の父ジャギーはタスマニアタイガーを目撃した後、森に入ったまま行方不明になっていました。捜索は行われたものの何の痕跡も残されておらず、そこに人為的な何かがあったのかもと、ジャックはほのめかします。

もともとマーティンにとって、ここの住民のことなどは、どうでもいいことで、とにかくタスマニアタイガーを捕らえることだけを考えていました。違法な鉄のワナを使い、ウサギの臓物を餌にタイガーを追うマーティンですが、獲物の影さえ見つけることができません。ここでの彼の手馴れた行動から、彼がプロのハンターであり、これまでにも相当な仕事をこなしてきたことが伺えます。それまで、仕事と金にしか興味のない人生を送ってきたようなマーティンが、幼い姉弟や母親に心が動き始めます。しかし、ルーシーの家からレッドリーフ社の便箋を発見するマーティン。ジャギーはレッドリーフ社の仕事をしていたようなのです。でも、彼はその仕事に反対していたと、ルーシーは言います。再び森に入るマーティンですが、そこで彼は思わぬものを発見することになります。

ウィレム・デフォーは、表情を変えないまま、少しずつ心情的にルーシー親子に感情移入していく過程を丁寧に演じてみせました。サム・ニールは、現地の人間の立場を代表する立場を控えめに好演していまして、うまさを感じさせました。環境保護と林業との対立をどちらか片方に悪役を押し付けなかったところに、この映画の見識を感じましたし、絶対的な悪役として、レッドリーフ社を設定したのは、ドラマとしてのうまさを感じさせました。シンプルな物語なのですが、そのドラマは結構奥が深いように思えるところに見応えがあり、映画としての満腹感を感じられます。ただ、見方によっては、結局人間のエゴを肯定的に描いているとも解釈できますから、オススメ度は微妙なところです。私は、疫病神の決着として、この映画、面白いと思いました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



タスマニアタイガーの巣の近くでワナを仕掛けるマーティン。そんな時、彼は白骨死体を発見します。遺品からすると、それは姉弟の父親ジャギーのものでした。頭には銃創があり、彼が誰かに殺され、死体を隠されたことは明白でした。遺品の水筒を持って、一度はルーシーの家に帰るのですが、死体のことは結局言い出せませんでした。親子と一緒にピクニックに行こうと支度しているところへレッドリーフ社から、早く森へ行けという脅迫とも思える電話が入り、親子を振り切って、再び森へ向かいます。すると、山の中を歩くマーティンに、レッドリーフ社の男が銃を向けてきました。男はルーシーの家に忍び込み、マーティンのメモやパソコンから居場所を探しあてたのでした。銃で脅されて、マーティンは男をタイガーの巣に案内することになります。途中で、男がマーティンの仕掛けたワナにかかって、格闘になり、最後はマーティンの撃った弾丸が男の胸を貫きます。そして、マーティンがルーシーの家に帰ってみれば、家は焼け落ちていました。ジャックを問いただすと、ルーシーと娘は死亡し、弟だけが生き残ったと言うのです。

意を決して、再度森の中に入るマーティン。何日もタイガーの巣の中で、獲物を待ち続けます。そんな彼の目の前にタスマニアタイガーが遂に姿を現します。彼は、タイガーに銃口を向け、一瞬ためらった後、引き金を引きます。そして、タイガーの死体を火葬し、その灰を山の上から森に向けて撒くマーティン。彼は、会社に電話し、もうタスマニアタイガーはいないと伝え、その足で、学校に向かいます。子供たちが遊んでいるなか、ぽつんと座り込む弟のバイクがいました。マーティンを見つけて、彼の名前を叫んで、すがりつくバイク。それを抱きしめるマーティン。暗転、エンドクレジット。

ラストは、それまで一言も言葉を話さなかったバイクが始めて言葉を発します。さらに、その実際の声をオフにすることで、ドラマチックな盛り上げを見せました。彼の母親や姉は、マーティンが来なければ死なずに済んだのかもしれません。そんな疫病神のようなマーティンでも、バイクにとっては唯一の心を開ける存在なのでした。そんな皮肉な結末は、タスマニアタイガーを絶滅させてしまうマーティンの行動ともだぶってきます。マーティンは、タスマニアタイガーにとっても死の使いではありました。しかし、それはタイガーの捕獲競争に終止符をうつことになり、タイガーのDNAが悪用されることを防ぐことでもありました。その行動は、マーティンが、自分が疫病神でしかないことに気づいて、疫病神なりの身の処し方を選択したように見えました。

人間、右か左、どっちに転んでも丸く収まらないとわかっていても、どちらかの選択をしなければならないときがあります。この映画では、それまで、物事を一面からだけ見てきた主人公が、人生の選択の葛藤に迫られた、その決着を描いています。ラストだけ切り出すと甘いように見えますが、それまでに、ジャギーの死体が発見され、火事でルーシーやセスが死んでいることを考えると、かなり結末はヘビーであり、その中に一縷の希望を見せたと解釈しました。

「ペントハウス」は、お話は今一弾まないけど、豪華キャストは楽しめます。


今年の風邪はしぶといのか2週間も引きずってしまい、なかなか映画館に足を運べずにいたのですが、久々の映画鑑賞となりました。ということで、銀座のTOHOシネマズ有楽座で、「ペントハウス」を観て来ました。

ニューヨークにそびえ立つザ・タワーは超高級マンション。最上階のペントハウスには大金持ちのショウ(アラン・アルダ)が住んでいます。敏腕マネージャのコヴァックス(ベン・スティラー)は、タワーを見事に切り盛りしていました。そんなある日、ショウがFBI捜査官クレア(ティア・レオーニ)に証券詐欺容疑で逮捕されてしまいます。さらに、タワーの従業員の年金も彼に委託していたことから、その年金もパーになっていたのでした。コヴァックスは、義弟チャーリー(ベン・アフレック)とエレベータボーイのエンリケ(マイケル・ペーニャ)と一緒に、ショウの部屋に乗り込んで、車をボコボコにしちゃいますが、その結果、3人はクビになってしまいます。一方、保釈でペントハウスに監禁状態のショウには、隠し資産があることがわかってきます。どこに隠されている現金を探し出そうと、コヴァックスは、一緒にクビになった二人と、家賃滞納で追い出されたフィッツヒュー(マシュー・ブロドリック)を巻き込んで、ペントハウスに隠されていると思われる金庫破りをやろうと計画します。さらに、彼は幼なじみの泥棒スライド(エディ・マーフィ)と金庫破りスキルのあるオデッサ(ガボレイ・シディベ)を仲間に入れ、ショウが裁判所に行ってる間にペントハウスに潜入するのですが.....。

「ラッシュ・アワー」シリーズや「レッド・ドラゴン」など、安定した娯楽作品を提供してきた職人ブレット・ラトナー監督の新作です。今回はジャンルとしては犯罪コメディということになりますから、「ラッシュ・アワー」系のノリになるのですが、主役が泥棒側ですし、集団ドラマとしてのテイストも盛り込まれていまして、そこをどうさばくかが期待どころでした。

舞台となるタワーというのは、豪華で居住者に最高の環境を提供するマンション。玄関にはドアマンがいますし、いたれり尽くせりのサービスも売り物。その最上階に住んでるってんですから相当なお金持ちのショウなんですが、これが金を集めてパクッてしまうという牛肉オーナーとかの類みたいな悪い奴。FBIに逮捕されても、高額な保釈金を払って、ペントハウスでのうのうと暮らしています。そんな、ショウのところに乗り込んで一暴れしたせいで、コヴァックスたちは一瞬にクビになってしまいます。そこで、ショウのところにある筈のお宝をいただこうということになるのですが、そこからの展開が結構無理してるので、お話としては、今一盛り上がりを欠いてしまいました。「完全犯罪」「マイレージ・マイライフ」のテッド・グリフィンと「ラッシュ・アワー2/3」のジェフ・ナサンソンは、お話をつなげるのが精一杯で、娯楽映画としてのカタルシスをもたらすことは失敗してしまったようです。

特に、スライドを仲間に入れたら、こいつがとんでもない奴だったとか、チャーリーがマンション側に寝返っちゃうところなど、伏線としたら、結構面白くなったのに、結局、うやむやにしちゃうので、どうもすっきりしないのですよ。メインストーリーであるはずの犯罪サスペンスの部分も、全然スリルもサスペンスもないので、盛り上がりませんでした。それでも、ラトナーの演出は手堅くストーリーを追っていますし、感謝祭のパレードの絵が見せ場になっていますので、「へー」と眺めているうちに映画は終わってしまいます。

ですから、まるでダメかというと、そうでもなくて、演技陣の豪華さとキャラの立ちっぷりで、結構楽しめてしまいました。ベン・スティラーは、狂言回し的なポジションで見せ場がなくて気の毒でしたが、他の脇の面々はそれぞれにおかしなキャラをきちんと演じています。ベン・アフレックのダメ男ぶり、マイケル・ペーニャのお調子モノキャラ、マシュー・ブロドリックのヘタレぶりなどが楽しかったです。エディ・マーフィはあまり持ち味を出す場面がなかったようです。また、個人的にごひいきのティア・レオーニが、ガラの悪いオバちゃんだけど、どこかチャーミングなFBI捜査官を演じていたのがうれしかったです。さらに、他人の金を騙し取る悪玉を演じたアラン・アルダがいかにもそういうデスクタイプのワルを演じていて見事でした。金の力でどこまでも強気なワルの余裕というのがなかなかに説得力がありましたもの。こういった面々の面白さで映画は若干救われたようです。これは、ラトナーの演出のキャラの描きこみがうまかったとも言えましょう。



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ショウが裁判所に行ってる隙を狙って、コヴァックスはタワーに忍び込みます。一方、スライドは金の独り占めをしようと単独で先回りをします。ペントハウスに到着し、壁の中の金庫を発見したコヴァックスの前に、銃を持ったスライドが現れます。でも、あっという間に情勢は逆転、スライドは取り押さえられてしまいます。しかし、開けた金庫の中は空っぽ。コヴァックスは、部屋の中にある車に気づき、その塗装を剥がしてみると、中身は純金。自動車本体がお宝だったのです。そして、その自動車をクレーンで下の部屋まで降ろして、さらにエレベーターで外に出そうとするのですが、ここで、ショウとFBIが帰ってきて、計画はオジャン。その後、事件に関係していた面々は全員FBIに逮捕されてしまいます。しかし、コヴァックスは、車の中で見つけたショウの手書きの元帳を使って、FBIと取引し、自分以外の仲間の釈放させます。チャーリーたちがペントハウスのプールの蓋を開けるとそこには例の自動車が。そして、タワーの従業員のもとに、純金の車のパーツが送り届けられます。一方、刑務所に入るコヴァックスのアップで暗転、エンドクレジット。

車を運び出すドタバタが長い割りに面白くなく、スライドの裏切りがいつの間にかうやむやになっちゃうこともあって、ドラマとしてははずみませんでした。その後の、同じ護送車に乗せられたショウとコヴァックスたちとのやりとりが、ちょっとだけカタルシスをもたらすのですが、全部スッキリとまでいかなかったのが惜しいところでした。

ダンテ・スピノッティのカメラがこういう都会派コメディ映画には珍しく、陰影の深い、しっとりした絵を作っていたのが印象的でした。また、クリストフ・ベックの音楽は、ラトナー監督から指示があったのか、「ラッシュアワー」のラロ・シフリンのタッチをそっくり踏襲していたのが、おかしかったです。まるで、シフリンが書いたような音楽でしたもの。でも、音楽としての出来栄えは上々でして、盛り上がりに欠く本編をがんばって支えていました。
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einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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