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「マリリン 7日間の恋」は恋愛映画じゃないけど、その点で面白い。


今回は、新作の「マリリン 7日間の恋」を川崎チネチッタ10で観て来ました。デジタル上映らしかったのですが、プロジェクターのせいもあるのでしょうが、どこかフィルムと画調が違うんですよね。フィルムの方がシャープに感じられるのは私だけかしら。

ハリウッドの大スター、マリリン・モンロー(ミシェル・ウィリアムス)がローレンス・オリビエ(ケネス・ブラナー)と共演する「王子と踊り子」という映画の撮影のために、ロンドンにやってきます。マリリンにはメソッド演技のコーチがついていて、これが何かとうるさい。なかなか、撮影現場に出てこないは、出てきてもセリフ忘れるわで、みんなマリリンの扱いに手こずっています。それでも、一発決まるとものすごく素晴らしい演技を見せる彼女をどうにか機嫌よく現場に引っ張り出したいというのは、スタッフやオリビエの切なる願いでした。そんなとき、名門の家系から、なぜか映画のサード助監督になってるコリン・クラーク(エディ・レッドメイン)が、マリリンに気に入られてしまいます。何かというと彼女に呼び出され、一緒にいる羽目になるコリンですが、何せ相手がマリリンですから、カーッとのぼせ上がっちゃいます。彼女のマネージャから、自分も昔10日間だけそういうことがあった、深入りするなと忠告されるのですが、そんなことは耳に入らないほどメロメロ。一応は、衣装係のガールフレンド(エマ・ワトソン)もいるのですが、彼女にも冷たい素振り。でも、コリンのおかげもあって、マリリンは撮影所に現れ、なんとか撮影をこなしていくのでした。

世紀の大スター、マリリン・モンローですが、若くして亡くなったこともあって、伝説の謎の女性として知られています。そんな彼女自身に肉迫した映画には「ノーマジーンとマリリン」という映画もあったのですが、この映画では、そんなマリリンに7日間翻弄された若い助監督が主役となっています。何と原作がコリン・クラーク自身の日記だというからびっくり。一応は実録モノということになるのでしょうが、当人の若い頃自慢みたいな話じゃねえか。「オレ、若い頃悪くってさあ」なんていうのと似たようなもので、「オレ、若い頃、マリリン・モンローとラブラブだったんだぜ」という嘘みたいな飲み屋の自慢話。でも、豪華キャストとサイモン・カーティスの端正な演出によって、映画界(ハリウッドじゃなくて、ロンドンのパインウッドスタジオ)の裏話として、面白い映画に仕上がっています。

主人公のコリンは、家柄はいいのに、映画にあこがれて、ローレンス・オリビエの事務所に日参して下働きの仕事をもらい、彼の新作で、サード助監督の仕事をもらいます。いわゆる雑用の底辺の仕事ですが、映画の仕事ができてうれしくてしょうがない。そして、映画の共演女優が、スクリーンの憧れのマリリン・モンローですから、もうワクワクです。

ただのお色気スターから演技のできる女優として認められるようになった頃のマリリンは、ロンドンに招かれて、名優ローレンス・オリビエの監督主演映画「王子と踊子」に主演することになります。メソッド演技の講師をたずさえてやってきたマリリンですが、慣れない現場に気後れしたのか、なかなか現場にあらわれないし、ちょっとしたセリフにも納得できないとダダをこねる。監督としては、扱いづらいことこの上ない。雑用係のコリンは、マリリンの様子を監視する役をおおせつかるのですが、それがマリリンの目に止まります。彼女は、何か精神的に不安になると、コリンをご指名して家に呼ぶようになります。スタッフは取り巻きとしては気が気ではありません。でも、コリンを呼んだ次の日は、気持ちよく現場にやってくるマリリンにスタッフは一安心。でも、周囲から見ても、コリンがマリリンにのぼせあがっているのは一目瞭然でした。そりゃ、雲の上のマリリンから、必要とされる存在になったわけですから、それもまたやむなしでしょう。デートしたり、キスしてみたり、裸で湖で泳いでみたり、マリリンはコリンを挑発してきます。人妻なのに、そんなことをするのはどうなのとも思うのですが、マリリンならさもありなんというところに、スターの魔力があるようです。

それが彼女の計算なのか、天然なのか、よくわからないのですが、とにかく安心できる人に傍にいてほしい。色々な薬漬けの日々を送っている彼女なんですが、そんな彼女にコリンは心の安らぎを与えてくれるようなのです。若いコリンは、マリリンに命令も意見もしませんし、口説いてもきません。ただ、いて欲しいときに、傍にいてくれる男性。そう考えると、彼女にとってのコリンは、いくつもの仕事をこなすための道具の一つなんだろうなあと思いますが、そうは理解していても、コリンにとっては、彼女との1週間のラブラブだった期間は一生の思い出となります。ある意味、スターとファンの究極の関係ということになるのですが、なるほど、そりゃ一生の思い出になるよなあって納得でした。

ミシェル・ウィリアムズが熱演しているマリリンは、ミシェル自身が歌も歌って頑張っているのですが、マリリンにあまり似ていません。どこか、無理にお色気感を出しているように見えて、マリリンの素材としての魅力を表現しきれていないように思いました。熱演しているのですが、熱演すればするほど、本物の持つ天然の魅力から遠ざかる感じなのです。それでもオスカーにノミネートされているのですから、それなりに見事な演技だったのでしょうね。ケネス・ブラナー演じるローレンス・オリビエは、自分の老いを感じつつも、彼女との仕事を自分にとっての刺激にしようとしていました。結局、彼女に振り回されてしまうのですが、それでも、彼女の天賦の才能を認めざるを得ませんでした。彼の「彼女は天性の大女優だ」という表現がちょっと言いすぎかなって思えてしまうのが、ミシェル・ウィリアムスの限界かなとも思わせるのですが、そういう賛辞が与えられた女優と一瞬とは言え本気で愛しあったんだぜってのは、コリンにとっては自慢の裏づけになるものでしょう。

映画のタイトルは、「7日間の恋」なのですが、意外と恋愛映画の雰囲気は希薄です。多分、それはマリリンにとっては、恋愛ではなかったからなのでしょう。様々なプレッシャーの中でもがくマリリンと、憧れが突っ走るコリンが並行して描かれるのですが、その二人のドラマはあくまで独立していて、交わることはなかったように思いました。ラストでの別れのシーンでちょっとだけ二人の距離は縮まるのですが、それとて、コリンの思い込みの可能性が高いです。そういう若造のコリン視線でドラマが描かれているので、マリリンの人となりの部分はあまり見えてきません。繊細で奔放で我侭で謙虚という、色々な顔を持つ彼女のありそうでなさそうな存在感が印象的でした。

でも、考えてみれば、人間誰だって、繊細になるときもあれば、奔放になるときがありますし、我侭言うときもあれば、謙虚になるときがあります。そういう意味では、当たり前の普通の女性なのに、彼女は美しいだけでなく、特別なキャラクターのように見えます。それが、彼女のスターとしてのオーラなのでしょうが、そのオーラをもっと描いてくれたら、ドラマの味わいが深まったように思います。この映画では、彼女は普通の女性では成立しないのですから。特別の女性だったからこそ、コリンのとっての自慢の種になったのですし、実録モノの映画として成立しているのですから。

脇役になかなか豪華なメンツをそろえていまして、ビビアン・リー役のジュリア・オーモンドはずいぶんとおばさんになってましたし、マリリンの夫のアーサー・ミラー役のダグレイ・スコットはどっかで観たことあるなあと思いながら、エンドクレジットが出るまで気がつきませんでした。ハリー・ポッターを観たことない私にはお初のエマ・ワトソンはその華奢なかわいさがマリリンと好対照を成していて魅力的でした。ジュディ・デンチは相変わらずの貫禄でしたし、デレク・ジャコビはずっと歳をとってないんじゃないかってくらい変わってませんでした。(昔から老けていたのかな。)撮影のベン・スミサードは、撮影所の空間を暗い空間をたくさん残す絵作りをしておいて、主人公二人のデートシーンで光を多く取り入れる映像になっていて、両者のコントラストが印象的でした。また、コンラッド・ポープの音楽は、オーソドックスな映画音楽に徹する一方で、アレクサンドラ・デスプラによるマリリンのテーマが大変美しく、このテーマ音楽によって、映画のロマンチックさとノスタルジックな空気が深まりました。

この映画がオスカーの賞レースに入っていたというのは、意外でした。扱った題材が映画の内幕ものだからなのかしら。面白い映画ではあるのですが、そのホワワンとした全体の雰囲気は、純粋な娯楽映画以上のものではないように思いますし、主演二人も熱演は認めちゃうものの、演じた役が偉大だった分、過大評価されているような気がしちゃいました。でも、魅力的な女性の気まぐれが、若い男の子に一生忘れられない思い出を与えたというお話として、この映画、楽しめました。
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「家族の庭」は人と人の距離感という切り口で観たら、結構痛い映画でした。


今回は、東京での公開を終了している「家族の庭」を横浜シネマジャックで観てきました。デジタル上映だったのですが、プロジェクターのせいなのか、明らかにフィルムよりも解像度が落ちてます。ディック・ポープの撮影の成果も確認できませんでしたし。また、ビスタサイズ画面に上下にマスク入ったままのシネスコ上映って、これ上映ミスじゃないのかな。それとも、もともとそういう上映だったのか。映画そのものがすごくよかっただけに、上映が良くないと残念。

トム(ジム・ブロードベント)とジェリー(ルース・シーン)は長年連れ添って、今も仲の良い夫婦、ある日、ジェリーの同僚でバツイチ中年のメアリー(レスリー・マンヴィル)を家に招きます。どこか、一人上手ぶっているけど、孤独が身にこたえているメアリーは、無理にはしゃいだり、またグチってみたりとちょっと痛いキャラ。季節が夏になり、トムの友人ケンがトムの家にやってきます。トムの息子ジョーや隣人のジャック、ジェリーの同僚のメアリーやタニヤーも招かれて、バーベキューパーティが開かれます。車で来たのに、アルコールをパカパカ飲んでたメアリーが、一回り近く年下のジョーに彼女がいないと知って、妙に色目を使います。その一方で、ケンがメアリーに興味を示すのですが、あからさまに、けんもほろろの扱い。秋になり、ジョーがガールフレンドのケイティを連れて、家にやってきます。一緒に招かれていたメアリーは驚きと嫉妬で顔色が変わってしまいます。そして、季節は冬になり、トムの兄ロニーの奥さんが亡くなります。一人暮らしになってしまった兄を見かねたトムはロニーを家に招いて滞在することになります。そんなある日、ロニーが一人でいるときに、突然メアリーが訪ねてきます。何だかただならぬ様子のメアリーをロニーは家の中に入れてやります。その日は、ジョーとケイティが夕食に招かれていた日でしたが、メアリーの突然の訪問に当惑するトムとジェリー。それでも、夕食の席にメアリーは招かれ、会話が弾む食卓の中で、気詰まりな思いで席につくのでした。

「秘密と嘘」「ヴェラ・ドレイク」など、人間の細かい機微を描くのがうまいマイク・リーの新作で、今回も彼が脚本と監督の両方を担当しています。でも、脚本は大まかなもので、リハーサルや実際の現場で俳優に自然な言葉や演技を演じさせることでドラマを積み上げていく演出方法のようです。即興演出とは違いますが、単に脚本のセリフを覚えて、ト書き通りに振舞うという映画の作り方ではないらしいのです。(これはプログラム読んで知りました。)映画の冒頭では、彼の映画に出演経験のあるイメルダ・スタウントンが登場し、彼女が医師であるタニヤに眠れないと訴えるシーンから始まります。自分のことをあまり語りたがらず、とにかく導眠剤を欲しがる彼女は、その後、ジェリーのもとも訪れるのですが、医師がプライベートな質問をすると、回答を拒否し、心を閉ざしてしまう扱いにくい患者です。彼女の登場シーンは冒頭だけなのですが、このシーンは、ある意味、後半への伏線になっています。それは、この映画は、自分と他人の距離のとり方について描いた映画だからです。

物語の中心となるのは、トムとジェリーの夫婦よりも、ジェリーの同僚のメアリーの方。舞台となるのは、トムとジェリーの家であり、一応の主人公はこの夫婦ではあるのですが、そのよくできた夫婦より、目立っているのは、ちょっと困ったタイプのメアリーなのです。最初に食事に招かれたときは、20年来の友人ということで、トム、ジェリー、メアリーの関係は良好です。トムとジェリーにとって、メアリーは、ちょっと変わったところもあるけど、ジェリーの同僚として歓迎される存在になっています。車を買うんだとか言って張り切っているのですが、どこかトム夫妻とは違う感じがする。一人相撲とでも言うのでしょうか。私が、私が、という話に持って行くのですが、人の話はあまり聞かない、どちらかというと空気の読めないタイプ。KYってのは日本だけじゃないんだなあって妙に納得しちゃいました。あからさまじゃないんですが、そういう雰囲気をかもし出すメアリーの存在感は、日本人の私にとってはずいぶんとリアルで生々しいものでした。

そして、夏になって、また、メアリーはトムの家に招かれます。今度は、他の同僚とか、ジョーとかジャックとか、トムの友人ケンとかと一緒。ケンはトムの古い友人で肥満体の独身中年男。いい奴っぽくて、メアリーに何となく声をかけたりするのですが、メアリーはあからさまに無視。ここは微妙感は全然なくって、はっきりきっぱりと拒否感を露にします。一方では、トムの息子のジョーに「今度、呑みに行きましょうよ」ってこれまた露骨に媚を売っちゃう。最初の会食では、ちょっと変わった人くらいだったメアリーがここでは、完全に変わり者というか、独善的な女性になっています。ドラマは他の周囲の人々の細やかな機微もきちんと拾っているのですが、やはり彼女が目立っていまして、「ヤング・アダルト」のヒロインほどのビッチ感はないけど、そこそこ迷惑な顔を覗かせてきます。

一方のトムとジェリーの夫婦は、本当に仲がいい。できた人間というわけではないけれど、普通の夫婦として、常識と思いやりを持った人間として描かれています。こういう役柄で、映画の屋台骨を支えるのは大変だと思うのですが、ジム・ブロードベント(たまたま「マーガレット・サッチャー」と2本立て続けに観てしまいました。)とルース・シーンは見事な演技を見せています。

季節が秋に変わって、息子のジョーにケイティというガールフレンドができ、そこへ招待されたメアリーは露骨に不快感を露にします。本気で、ジョーを狙っていたらしいのですが、だからって、そこまで顔色変えることないだろうと思うくらい、ケイティを睨み付けるのが、何だか物悲しい感じです。いや、物悲しいというよりはみじめ感の方が強いかしら。友人の息子のプライベートにまで目の色変えることはないと思うのですが、このあたりから、トム夫妻との距離感がおかしくなってくるメアリー。相手は、職場の同僚という距離感でつきあっているのに、それ以上に踏み込んでしまう、そのことに本人は気づかないってのは、「あるある」感がありました。

冬になり、兄ロニーの奥さんが亡くなって、その葬儀にトム夫妻とジョーは向かいます。そのロニーの息子カールってのが、ちょっとやさぐれていて、葬儀にも間に合わず、そのことを周囲に当り散らす困った人。このカールの存在がこの映画のアクセントになっていまして、マーティン・サヴェッジがカールを好演しています。一方の兄ロニーってのがほとんどしゃべらない寡黙な男という設定でして、節度ある陽気な弟ジェリーとはまるで正反対のキャラになっています。兄を見かねて、自分の家に来るように誘うトム。そして、ロニーが一人で留守番しているときに、ただならぬ様子のメアリーが予告もなしに訪問してきます。どこか精神的に追い詰められた感じで、プライベートで何かあったのか、はたまたなかったから追い詰められたのか、そのあたりははっきりしないのですが、とにかく、トムとジェリーに会いたいってやってくるのです。こうなると、同僚の域を超えて、ある種の依存状態になっちゃっています。帰ってきたトムやジェリーもまあむげに追い返すわけにもいかないし、困ったねえと思いながら、夕食の席に招待します。トムやジェリー、ジョー、ケイティが楽しく食卓を囲んで会話をしているのをカメラが回り込んでいくと、そこに寡黙だけどその空気に溶け込んでいるロニーが映り、さらにカメラが移動すると、下を向いているメアリーがフレームインしてきます。そこで、会話の声が消え、静寂の中にいる彼女をしばらく固定して映した後で、画面が暗転してエンドクレジットとなります。えー、ここで終わりなの?と、ちょっとびっくりはしたのですが、結局、メアリーは、自ら心を閉ざしていったように見えるラストでした。それは、冒頭に登場する、不眠症で何とかしてくれと言いながら、質問には答えない老婦人のイメージとだぶります。コミュニケーションを拒否というか失敗してしまう、メアリーの姿には痛々しいものがあります。でも、それは自分が蒔いた種ではあるのです。

メアリーの姿から、この映画を考えると、この映画は、距離感を描いた映画なのかなって思います。最初は、ジェリーの同僚という距離感で始まって、良好な関係だったのが、だんだんとその距離を狭めていくことで、相手から疎んじられるようになってしまう、そんな姿をリアルに描いているように思いました。野暮な表現をすれば図々しい奴ということになっちゃうのでしょうが、メアリーはそういう風に非難するには、どこか気の毒というか痛々しいところがあります。だからこそ、余計目に困った奴なのですが、ラストでは、本人がちょっとだけそれを自覚しているような見せ方になっています。所詮、他人は他人でしかないし、他人は自分の都合では動いてくれない。こう書くと当たり前のようなんですが、人は時として、それを見失ってしまうことがあります。自分が、気づいてないうちはいいのだけれど、相手から直接拒絶されると、そのダメージが意外なほど大きい。実は、メアリーは好意を寄せてきたケンに対して同じような拒絶の態度をとっていたのですが、自分がやられてみたら、それはすごく痛い。かく言う私も、そういうところが若干あるので、ラストのメアリーのダメージは他人事ではありませんでした。でも、そういうのって、「相手の都合」ってものを意識するだけで、かなり回避できるんですけどね。

この映画は、出てくる登場人物のリアルで細かい描写によって、様々な切り口、楽しみ方ができると思います。自分は、たまたまメアリーという女性に目が行ってしまったのですが、トムとジェリーの夫婦の有り様という視点から見れば、また違うものが見えてくるのかもしれません

「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」は確かに晩年の彼女は鉄の女だと納得


今回は新作の「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」をTOHOシネマズ日劇3で観て来ました。ここは映画の券の先売りは、1階の窓口でやってくれなくて、直接、劇場(9,11F)まで行ってくれと言われます。それで、行ってみると、今日はサービスカウンターがしまってるので、11Fまで行ってくれっですって。客なめてますね、ここ。1階で先売りしろよ。

夫に先立たれ、子供も独立して、晩年を過ごすマーガレット・サッチャー(メリル・ストリープ)は、認知症が始まったのか、夫のデニス(ジム・ブロードベント)の幻覚を見るようになります。そこにいるかのように話しかける幻覚につい答えてしまうマーガレット。昔の写真を見ると、彼女の記憶は過去へとさかのぼっていくのでした。食料品店の娘に生まれながらも、オックスフォードに進み、下院議員を目指しますが失敗、そこでデニスと知り合い結婚。双子をもうけた後、彼女はついに保守党から下院議員に当選し、そこで教育大臣にまでなります。現状の政治に満足できない彼女は、無理を承知で党首選に立候補します。彼女を支援する議員の協力も得て、1979年、彼女はついに党首に当選、さらに保守党が総選挙に勝利したことから、彼女は英国史上初の女性首相となります。しかし、その時の英国は不況で苦しんでおり、さらにフォークランド紛争が発生し、彼女にとって辛い日々が続きます。フォークランド戦争では、勝利をおさめたものの、貧富の差に関係なく税金を取ろうという政策はあちこちから反感を買います。しかし、彼女は常に強気でした。それでも、ついに彼女にも進退を考えねばならない日がやってきます。夫の幻覚に悩まされる彼女は、夫の遺品を整理し、夫に別れを告げるのでした。

今年のアカデミー賞で、主演女優賞とメイクアップ賞を受賞した作品です。実在の人物をもとにアビ・モーガンが脚本を書き、「マンマ・ミーア」のフィリダ・ロイドが監督しました。予告編では、サッチャーの伝記映画なのかなという期待もあったのですが、その期待は裏切られました。でも、原題の「Iron Lady」には納得させられるところがありまして、ちょっと意外な見せ方をしているのですよ。

冒頭は、コンビニへ行って、牛乳を買う年老いたサッチャー。夫とデニスとの朝食の場面となり、「牛乳も高くなって」なんて会話をしていると、家政婦がやってきます。すると、夫の席には誰もいない。ああ、これは、サッチャーにだけ見えてるダンナなんだなってわかります。ちょっとボケ始めてる感じのサッチャーをメリル・ストリープは絶妙のさじ加減で演じています。会食の席で、政治のことを語って、ちょっとマトが外れたことを言ってしまったり、他の人間がいる前でも、夫の幻覚に声をかけちゃったりして、本人が望んでそうなっているわけじゃないですが、そこには老いの残酷が見てとれます。彼女の伝記の本にサインを入れるサッチャー、そこで、ついマーガレット・サッチャーと書くべきところを、マーガレット・ロバーツと書いちゃいます。ロバーツとは彼女の旧姓、そして、回想シーンが始まります。

食料品店の娘として生まれたマーガレットは、男優位の社会を目の当たりにします。そんな、彼女がオックスフォードを出て、政治家になろうと決心します。他人の嫁として家庭を守ることを潔しとしないのはわかりますが、政治家になろうというのはなかなかの野心家です。そんな中、デニスと知り合うのですが、デニスはそんな彼女の心根を見抜いても、あえて彼女にプロポーズします。このデニスってのが、すごくいいダンナとして描かれています。「アイリス」でも奔放なヒロインのよきダンナを演じたジム・ブロードベントが、この映画でも、政治的野心満々のヒロインを支える夫を見事に演じています。とはいえ、回想シーンに彼の出番はそんなに多くなくて、むしろ晩年のヒロインの前に現れる幻覚としての方が出番が多いです。そのデニスの印象がすごくいい人って感じなので、きっと生きてたときもいいダンナだったんだろうなあって思わせてくれます。

モーガンの脚本とロイドの演出は、彼女が実際に政治家として行動している部分を深入りせずに、さらりと描いているのが印象的でした。これは、誉めてるのではなく、私は、政治家のサッチャーの葛藤の部分を期待していたので、ちょっとがっかりの印象を指しています。IRAによる爆弾テロがサッチャーの身近でも発生し、さらに、不況の真っ只中にある英国は、国家としても大変な状態でした。そんな中で、首相まで登りつめてしまうのですから、大したものだと思うのですが、そこに至るまでの、なぜの部分を描いてくれていないので、「ふーん」としか言い様がないのです。なぜ政治家を目指したのか、なぜ当選できたのか、なぜ保守党を選んだのか、なぜフォークランド戦争で強気の姿勢を見せたのか、なぜみんなに嫌われる税制度をプッシュしたのか。色々と、出てくるのですが、そのあたりは、ただサッチャーの行動を描くのみで、その動機の部分には触れていないのが物足りませんでした。それとも、そういうことは、もう英米では、当たり前のことになっていて、改めて描く必要がないということなのかしら。

男性の政治家の中で、自分の政策を推し進めるために、強気の態度で臨むというところは理解できます。そんな生き方が、家庭に波風を立てるのも納得しちゃいます。ストリープの演技は、そのリアルなサッチャーを演じてはいるのですが、演出がエピソードをなぞっている以上のことがないので、どうして、組合活動を目の敵にするんだろうとか、不思議に思えてしまうのですよね。景気回復のためには、ストライキなんかやってる場合じゃないって理屈はわかるんですが、彼女がそう言い切るバックボーンを見せて欲しかったです。それとも、彼女がどんな女性かなんてところに作り手は興味がなかったのかなあ。まあ、政治的なことを描いてしまうと、映画にも政治的立場が出てしまうので、あえてそういう描き方をしないで、サッチャーの普遍的なドラマを描こうとしたのかもしれません。とは言え、現役時代のサッチャーが、自分の決断に迷いはなかったのかなあ。辞任の引き金になったと言われる人頭税の導入だって、その意図するところがわからないと、単に貧乏人いじめとか、財閥との癒着みたいに見えちゃうのですが、その真意はどこにあったのかしら。

じゃあ、ドラマとしてダメなのかというと、そうでもなくって、晩年の彼女が夫の幻覚とどう折り合いをつけるのかってところが見応えがあるのですよ。過去のサッチャーをエピソードを並べただけの淡白な味わいに比べると、晩年の彼女と夫とのやり取りは、ドラマチックで見応えがありました。生きていた頃と同じように、やさしく言葉をかける夫に、彼の死を忘れて会話しているのですが、だんだんと夫の死を認識し始めます。それでも、声をかけてくる夫の声に、拒否反応を示すようになるサッチャー。なぜ、あなたがここにいるの?死んでいる人なのに。あなたは、生きているとき幸せだったの?

そして、彼女は、家の中にあるデニスの服やら靴やら、彼の記憶を呼び起こすものを、ゴミ袋の中に放り込みます。そして、彼女の前に現れたデニスに、お別れを言うサッチャー。彼はカバンを持って光の中に消えていきます。サッチャーが声をかけてももう振り返ることはありませんでした。そして、普通の日々の暮らしに帰っていくサッチャーの姿で映画は終わります。夫の幻覚を振り切ることに成功したというのは、自分で認知症をある程度克服したと言えましょう。その心の強さは、鉄の女と呼んでもいいのではないかしら。この晩年の彼女の姿に原題の「Iron Lady」というのが腑に落ちました。晩年のストリープの熱演ぶりも見ものでしたし、その特殊メイクも見事でした。

でも、なぜ晩年をドラマの中心に置いたのかなあってのは気になるところです。彼女には賛否両論があるはずなんですが、その一番のピークであったところをサラリと流して、ウソかホントかよく判断がつかない晩年のドラマをなぜ丁寧に描いたのかなって。政治家のサッチャーについての見解は観客それぞれが持っているから、そこは映画の中で描くのをやめたのかもしれませんが、でも晩年を中心にしたことで、孤独でかわいそうなサッチャーというイメージが前面に出てしまったことも事実です。確かに強い政治家としての彼女は映画の中で登場するのですが、その時、彼女がどういう人間だったのかというところまでは描かれていません。彼女がガンガンに勢いづいて調子こいてるときはどんな人間だったのか興味あったのですが。実は、こういう感想は、日本の戦争映画に対する感想と同じなんです。ガンガン大陸へ攻め込んで行ってる頃のことは描かれず、戦争の終盤、負け戦になってからのドラマばかり作ってるのは、何か違うような気がするってのと同じ感じと言ったら伝わりますでしょうか。

「昼下がり、ローマの恋」はイタリア風のライトなラブコメ、でも味はちょっと濃い目


今回は新作の「昼下がり、ローマの恋」を川崎チネチッタ6で観て来ました。最近だと珍しいフィルムでの上映でして、ドルビーデジタルのロゴが出たのがうれしかったです。気分的なものかもしれませんが、デジタル上映より、ドルビーデジタルの方が音に立体感があるような気がするのですが、これはたまたま観た映画によるのかしら。

タクシー運転手の顔をした恋のキューピットが3本の矢を放つとそこに恋の物語が生まれます。若い弁護士見習いのロベルト(リッカルド・スカマルチョ)にはサラという婚約者がいます。そんな彼がトスカーナの田舎町へ立ち退き交渉に出かけます。そこで出会ったゴージャスな美女ニコルと一時の恋に落ちるのですが、果たしてその恋と情事の半々みたいなのはどこへ落ち着くのでしょうか。一方、テレビのニュースキャスターであるファビオ(カルロ・ヴェルドーネ)は、奥さんと娘がいるのに、パーティで知り合った女性エリアナ(ドナテッラ・フィノッキアーノ)とベッドを共にしています。彼女は精神科医だというのですが、どうも様子がおかしくなってきます。実は彼女、二度のストーカー歴がある統合失調症でした。彼女との情事はビデオに撮られちゃってるし、ファビオは身動きがとれなくなってしまうのでした。そして、ローマに住む元大学教授のアメリカ人エイドリアン(ロバート・デ・ニーロ)は友人の娘ビオラ(モニカ・ベルッチ)に心惹かれてしまいます。友人に追い出されていくところのない彼女を自分の部屋に泊めてあげるエイドリアン。20歳以上も歳の違う二人なんですが、そこで意気投合してしまいます。ビオラとベッドにいるところを彼女の父親に見つかり大騒ぎになるのですが、結局、二人は駆け落ちし、田舎町で二人の赤ちゃんが誕生するのでした。

イタリアのジョバンニ・ヴェロネージ監督の新作です。この映画は、「イタリア的、恋愛マニュアル」「モニカ・ベルッチの恋愛マニュアル」に連なるシリーズものの第3弾なのだそうです。(と、プログラムに書いてありました。)でも、特に物語としての連続性はないようで、この映画は、独立3つの愛の物語をオムニバス形式で語っていきます。若者の恋、熟年の恋、老いらくの恋と各々にタイトルが出まして、そこで各々の世代の男女の恋愛模様が描かれています。

若者の恋では、婚約者のいるロベルトが、仕事で行った田舎町の美女と浮気をしてしまうというもの。農場の立ち退き交渉が仕事なんですが、田舎町の皆様がなかなか個性的なメンツをそろえているのが楽しく、彼らと日々を楽しんじゃうのと並行して、ニコルという美女と知り合い、ベッドを共にしちゃいます。でも、実はニコルは人妻でした。ダンナがものすごくいい人らしくて、浮気性で浪費癖のあるところまでひっくるめて彼女を愛してくれているのでした。結構、本気で胸ときめかせてしまった分、婚約者への後ろめたさも大きくなっちゃうロベルトがおかしく、「あしたのパスタはアルデンテ」でも二枚目半ぶりがよかったリッカルド・スカマルチョがいい味を出しました。

熟年の恋、これが一番コメディ色が強いエピソードでして、とんでもない地雷女エリアナと浮気したばっかりに全てを失ってしまう中年ニュースキャスターファビオのお話。一緒にプールに落っこちるという滅多にない出会いをした女性、彼女がなかなかに積極的で、それについて乗ってしまい、浮気しちゃったものの、彼女は偽名を使っていました。精神科医をやってると言っていたのですが、実は、その患者の方だったのです。彼女の行動はエキセントリックなものになり、どんどん主人公を追い込んでいきます。家にまで来て、美術品を壊して大暴れしたり、留守の時にやってきて部屋を荒らしたり、情事を録画したDVDで脅してきたり。主人公は、本当のことを妻子に白状するのですが、そしたら、二人とも家を出ていってしまいます。一方、エリアナは病院に収監されてしまうのですが、そこへファビオを呼び出します。彼女は、ファビオに詫び、部屋のカギとDVDのありかを教えます。ここで、結構エリアナがしおらしいというかかわいく見えちゃうのがおかしかったです。それは、退院したら、また同じことやりそうなおかしさというところで。ニュースキャスターとしてのスキャンダルは致命的ということで中央アフリカの特派員にされてしまうファビオですが、そこでもテロリストの人質にされてしまい、最後まで踏んだり蹴ったりとなります。何をやっても悪い方へしか行かないファビオのドタバタが楽しく、カルロ・ヴェルドーネの好演も光りました。

老いらくの恋、これは一番ストレートな恋愛ものになっています。アメリカからローマにやってきた元大学教授エイドリアンが、友人の娘ビオラと恋に落ちてしまうというお話。その娘というのは、フランスのブランド企業に勤めていることになっていたのですが、実はストリッパーだったことが父親にばれて、家を追い出されてしまい、エイドリアンの部屋に転がりこみます。最初から、彼女のことが気にはなっていたのですが、心臓移植手術をした以降、色恋沙汰とは距離を置いてきたエイドリアン。一方、そんな彼に積極的にアプローチをかけてくるビオラ。この歳で今更と思っていたエイドリアンも、高まる気持ちを抑えきれなくなって、二人は抱き合うのでした。ビオラは若いと言っても40歳という設定でして、そんな歳の差カップルが最後には子供まで作ってしまうのには驚きでした。ロバート・デ・ニーロがいい年したオヤジの恋をコミカルに演じていて、意外とライトな味わいもいけるんだなってのが発見でした。モニカ・ベルッチは撮影時は、45,6歳だと思うのですが、相変わらず若くてきれい。この二人だからこそ成り立つラブストーリーになっているのがうまいと思いました。老いらくの恋といいながら、燃えるような恋、でも生臭くならないあたりに、演技、脚本、演出がうまくかみ合っていたように思います。

この3つのエピソードの共通点は、女性の方が積極的だということ。それも、かなり挑発的です。フランス映画なら、もっと軽い感じで出会いを描くのでしょうけど、この映画では、そのあたりの口あたりはちょっと濃い目。男性目線からすれば、向こうからこっちにアプローチかけてくるわけですから、それを拒むのはヤボなもの。浮気ならそれですむのですが、多少でも本気が入ってくるとお話はややこしくなっていきます。若者の恋では、そこをうまく乗り切り、熟年の恋では、主人公は散々な目に遭い、老いらくの恋では、その恋が成就します。

特に恋愛の深みとか、人生と恋愛の関係といった難しいことを描いた映画ではありません。3つの恋愛パターンを単純に楽しむ映画に仕上がっています。それでも、ロバート・デ・ニーロとモニカ・ベルッチのエピソードは演出も気が入ったのか、3つのエピソードの中では恋愛ものという意味で出色の出来栄えとなっています。でも、面白さということでは、熟年の恋のドタバタぶりがおかしかったです。愛人にカツラを取られちゃって、結局、テレビのニュースにもカツラを取ってでるようになっちゃうですとか、彼女に付きまとわれて閉口していうのを、警官が知っていて、秘密を守ってくれるあたりの間のおかしさなどが楽しかったです。

この映画、イタリア系アメリカ人のロバート・デ・ニーロがイタリア語を話して、イタリア映画に出ています。その昔ですと、ハリウッドの俳優がイタリア映画に出るってのは大体都落ちパターンでして、晩年のヘンリー・フォンダ、メル・フェラー、ジョセフ・コットンなどがイタリア映画で、特に必要でもない役に箔付けのために出演していたりするのを見ると、切ない気分になりました。今回のケースが、デ・ニーロの都落ちパターンなのかどうかは、今後の出演作を観てみないとわからないのですが、映画の役柄にはうまくはまっていたように思います。

予告編も色々ありますが、観る映画を選ぶときには重宝してます

今は、映画の公式サイトから簡単に参照できるのが映画の予告編です。映画館でも上映前にかかるのが予告編なんですが、私の場合、観に行く映画を決める時、予告編を観て決めることが多いです。予告編次第で映画への期待度が変わりますし、予告編でわくわくさせてくれるものは、その予告編自体がお値打ちものだということが言えましょう。そこで、映画の予告編のポイントを以下にいくつか挙げさせていただきます。


1、映画のジャンルがわかる
これが、予告編の一番基本的なところではないかしら。その映画がラブストーリーなのか、人間ドラマなのか、コメディなのか、ホラーなのか、そこのところを明快にしてくれるのが短い予告編のポイントだと思います。逆に、予告編を観ても、これは一体どういうジャンルなのかわからない映画だと食指が動きません。何を期待してよいやらということになります。最近の映画ですと「戦火の馬」の予告編は、一体どういう映画なのか想像つかなくて、結局観に行くのをパスしちゃいました。丁寧に説明しているからわかりやすいというわけではありません。バットマンの最新作の予告編は断片だけ見せて何も説明がないのですが、ああ活劇なんだなってわかりますから、これはこれでOK。大体、ラブコメの予告編なんてのはわかりやすくていいですね。

2、あらすじを見せる
人間ドラマなんかですと、物語の発端を見せて、こういうお話なんですよって説明するものがあります。「灼熱の嵐」とか「アーチスト」「リアル・スティール」なんかは、物語の中盤くらいまで予告編で見せて、後は映画館で確認してねという見せ方になっています。結末までわかっちゃう予告編もたまにありますけど、それでも、ラストのサプライズは隠しているものが普通です。「ペントハウス」とか「サラの鍵」の予告編はそんな感じでした。恋愛もの、特にラブコメなんて結末は大体お決まりなので、予告編としては、あらすじを語るものは少ないようです。

3、雰囲気だけで見せる
これは、ホラーものなんかに多い予告編なんですが、とにかく何か怖そうな絵をつなげて、「どう?怖そうでしょ」って煽ってくるだけの予告編。こういうホラー映画の予告編はラストにショックシーンを持ってくるパターンが多いので、あまり心臓によくありません。後、映画本編そのものがわけわからないので、雰囲気を伝えるのが精一杯な予告編というのがあります「ツリー・オブ・ライフ」とか「メランコリア」なんかは、本編にイっちゃってるところがあるので、予告編もそのイっちゃってる感をほのめかしながら、何となく感動的な雰囲気にまとめています。後、ジャンルを不明にして雰囲気だけで、お客を惹こうとする予告編もあります。最近ですと「ドラゴンタトゥーの女」の予告編は、一体どういうジャンルの映画なのかもわからないが、雰囲気は何だかすごそうという見せ方をして成功しています。

4、観客をミスリードする
これは、ジャンルがわかるってのと反することなんですが、狙ってやっている場合と、何かの間違いでやっちゃた場合があるようです。最近ですと、冒険ファンタジーみたいな予告編を見せた「ヒューゴの不思議な発明」なんてのは確信犯でしょう。映画創世期の話だなんて言われても、若い層にはアピールしないし、ああいう映像だと年配の方は来ないでしょうし、ある意味苦肉の策だったように思います。ミスリードの成功例としては、「顔のないスパイ」なんてのも、映画の前半部分を映画のカギのように見せて、本編を観ると、予告編以上に面白いということにつながることもあります。ただ、予告編で期待したものと、違うものが出てくるわけで、本編を観て「ダマされた」と思う可能性があります。「いつか来たる君へ」の予告編からは、ドイツ軍による村一つ虐殺を題材にした映画だとは想像がつきません。映画館で本編を観て、「ええー」ということになります。

5、どっか間違ってる
これは、ミスリードじゃなくて、予告編と本編があきらかに違うというもの。コメディなのに、人間ドラマのような見せ方をしたり、シリアスな人間ドラマなのに恋愛モノみたいな見せ方をしたり。配給元がセールスポイントがないもんだから苦肉の策でやるんでしょうけど、劇場で「予告と違うだろ」って突っ込みが入っちゃう予告編があります。最近ですと「ルルドの泉で」の予告編で「奇跡を巡るサスペンスフルドラマ」だって。それは違うだろう。

6、ちゃんと内容を伝えている
これが1番に来るのが普通なんですけど、やはり予告編の醍醐味は、きちんと本編の内容を伝えていること。それができてれば、本編を観に来たお客さんを満足させることができます。こういうのはアクション映画が得意なようで、「ミッション・インポッシブル」なんてのがその典型。まあ、本編が面白かったら、予告編も面白く作れる筈だとは思うのですが。


というわけで、予告編は映画館に足を運ばせるための重宝なメディアで、そこには色々なパターンや役目があります。と、ゴタゴタ言いましたが、お客さんがその映画を観に来てくれたら、その予告編はよくできた予告編ということになります。最近の予告編は、ナレーションや字幕で観客を煽ることが少なくなり、ある意味お行儀のよいものが増えています。その中で、お客さんを映画館へ呼び込まなきゃいけないので、大変だと言えば大変だと言えましょう。最近の映画で気になった予告編は「オレンジと太陽」です。これはあらすじを語るパターンの予告編ですが、ぜひ本編を観たくなりました。

「ルルドの泉で」は、私のような無信仰な人間には考えさせるところが多すぎる


今回は東京での公開を終了している「ルルドの泉で」を静岡シネギャラリー1で観てきました。45席の小さいスクリーンで映画ファンのための映画を上映している貴重な映画館。でも、アカデミー賞受賞作「アーチスト」をここで上映するってのはどうなのかなあ。大劇場を持つ静活やシネセブンは何やってんだって思っちゃいます。静岡の映画ファンはなめられてるのかしら。

19世紀、ベルデナッタという少女が聖母マリアからさずかったとされるルルドの泉、その泉の水は奇跡を起こすと言われ、病気を持つ人たちが世界中から集まってきて、その奇跡が起こることを祈っていました。あるルルドの泉巡礼ツアーに参加したクリスティーヌ(シルヴィー・テステュー)は筋肉硬化症で首から下が麻痺した状態でした。車椅子の参加者にはボランティアの介護人がつき、クリスティーヌには若いマリア(レア・セドゥ)がつきました。クリスティーヌと同室になった老婦人は何か彼女の面倒を見てくれます。そして、ツアーのプランにしたがって、告解をし、水浴を行います。同じツアーの脳性マヒの娘と母親は、娘が一時的に言葉を発したことで、奇跡が起こったと思ったのですが、それは一瞬のことだったようです。一方、クリスティーヌの身にも奇跡が起こります。それまで、まるっきり動かせなかった体が動くようになり、杖をついて歩けるようにまでなったのです。これをツアー付の司祭は奇跡として登録しようとしますが、この病気は一時的に快方に向かうことがあると言われてしまいます。それでも、ルルドの泉による奇跡の女性として、クリスティーヌはツアーの中でも一躍有名になります。そして、介護人の中のハンサムなクニ(ブリュノ・デスキーニ)と何となくいい雰囲気になります。本当にクリスティーヌの身に奇跡が起こったのでしょうか。

ヴェネチアやウィーンの映画祭などで、様々な賞を受賞した作品で、ジェシカ・ハウスナーが脚本を書いて自らメガホンを取りました。奇跡を起こす水として知られるルルドの泉にまつわるお話なのですが、信仰のない私には、大変面白く、そして色々なことを考えさせられる映画になっていました。ドラマそのものは淡々と進むのですが、そこにある様々な人の想いが交錯し、そして信じることとはどういうことか、疑う心とはどこから生まれるのか、そして、なぜ人は理由を欲しがるのか、希望とは何なのか、神の意志とは誰のためにあるのか、などなど、様々な疑問が浮かんでくる内容になっていまして、単純に神様なんて信じられない私にとって、それらの疑問こそが発見につながっている、そんな映画でした。

ルルドの泉ってのはいわゆる聖地、奇跡で病気が治ったりするっていうから、強力なパワーズポット。日本で言うなら、現世ご利益がものすごくなった伊勢神宮みたいな感じです。巡礼ツアーも観光ツアーと紙一重。ですが、ちゃんとクリスチャンのボランティアが添乗員というか介護者としてついてくれるあたりは、真摯な信仰の場所になっています。そんな場所にやってきた全身マヒのクリスティーヌですが、常ににこやかな態度からは、強い期待とか信仰は感じられません。でも、告解の場では、こんな体になった自分が恨めしい、自分より不幸な人に対しても同情は起こらない、と正直なところを打ち明けています。実際にものすごくたくさんの不幸を抱えた人がルルドの泉を訪れているのですが、そこで実際に奇跡が起こったのはものすごく稀なようです。奇跡には審査官みたいのがいて、そこで奇跡と認定されないといけないようなのです。それでも、奇跡が起こったと認められた人はいるようです。

神は公平ではないけど、気まぐれなわけでもないと言ったことを司祭が語ります。この司祭が面白いポジションでして、信仰のリーダーである一方で、不公平で思うようにならない現実を、神を否定しない形で信者を説得しなきゃならない。でも、正直なところ、そういう時の司祭の話の中身は空っぽなんです。言い換えとか論点ずらしとかして、その場を取り繕ってはいるのですが、結局何の足しにもならないことばかり言ってる。でも、クリスチャンは懐が深いのか、その中身のない話をあえて突っ込むことはしません。神を信じるってことは、ある意味、妥協なのかもしれないなあって思わせるところがおかしかったです。

その一方で、ツアーのお手伝いをするボランティアの人たちの行動からすれば、信仰は希望であり、力であることが見えてきます。介護人のリーダー格のセシルはある晩、倒れてしまいます。彼女の髪は抜け落ちていて、何かの病気であったことが見てとれます。そんな状況下で、ルルドの泉の巡礼者に尽くす力の源はと考えると、それは信仰なのかなって気がします。一方、クリスティーヌの介護人マリアの語る動機は、信仰というよりは何か人の役に立つことがしたいということ。信仰というよりは善意と自分探しの合わせ技みたいな感じです。その分、マリアの行動には巡礼者への献身に徹しきれない部分が見えます。ただ、聖人君子とは程遠い私からすれば、その善意の部分に心惹かれるものがありました。セシルのような信仰を糧にして献身的な行動をとる人もいるかもしれませんが、そういう人はごくわずかで、ほとんどはちょっとした善意の人々がたくさんいることで、世の中は成り立っています。だからこそ、ちょっと抜けてたり、クリスティーナと二枚目介護人の関係に嫉妬したりするマリアの方に共感してしまいます。

演技陣は、淡々としたドラマをセミドキュメンタリーのタッチで好演しています。主演のシルヴィー・テステューはきれいな人で、どこかで見た顔だと思ったのですが、佳作「ビヨンド・サイレンス」の聾唖のヒロインでした。また、介護人のマリアを演じたレア・セドゥは、「ミッション・インポッシブル ゴーストプロトコル」のドバイで取引する美人殺し屋で、また、二枚目介護人を演じたブリュノ・トデスキーニは半分寝ちゃった映画「不完全なふたり」の主人公でした。他の脇役陣もヒロインの同室のおばさんですとか、気丈な介護人のトップ、セシルを演じたエリナ・レーヴェンソン、脳性マヒの親子など、それぞれが存在感を示してくれました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



奇跡的に体が動くようになったクリスティーヌは注目の的となります。彼女もルルドの泉の水を浴びたときに何かを感じたと言ってますが、それでも神への言及はなく、信仰心はそれほどなさそう。周囲の人は彼女を祝福する一方で、何度もやってきている脳性マヒの親子が直らないのに、大して信仰心のないクリスティーヌに奇跡が起きるなんて不公平だ思う人もいます。司祭もそれについては言葉を濁して答えることができません。クリスティーヌはこの後、仕事を見つけて伴侶を見つけてと夢が広がっていきます。そして、ピクニックに出かけたとき、二枚目介護人クノとキスするクリスティーヌ。同室のおばさんは何だか心配そうです。

そして、ツアーの最終日、パーティが開かれます。ツアーの一行の中で、唯一奇跡が起こったクリスティーヌは祝福と羨望の視線の中、クノとダンスを踊ります。その最中に崩れ落ちるクリスティーヌ。彼女に起こった奇跡は一時的なものだったのでしょうか。やっとのことで立ち上がったクリスティーヌですが、不安な表情がよぎります。同室のおばさんが持ってきてくれた車椅子に座り込むクリスティーヌのアップから暗転、エンドクレジット。

奇跡の結末は、映画の中では描かれませんが、この展開だと、また彼女は車椅子の日々に戻ってしまうのではないかという予感で映画は終わってしまいます。それは、単なる偶然なのか、神様のいたずらなのか、彼女の信仰不足のせいなのか。どのようにも説明できてしまうところに、この映画の見応えがあります。ルルドの泉で起こった奇跡、それは医学的に見てあり得ないことではありませんでした。でも、その場所で、水浴した結果起こったから、神の御業だという裏づけのある奇跡になる。じゃあ、それが一時的なものだとわかったときは、どういう解釈が与えられるのでしょうか。そこにある現実をどう解釈するのかというとき、信仰があるのとないのとでは変わってくるでしょう。でも、そこに違いをつけることに何の意味があるのでしょう。それを神と結びつけることで、その人が救われるなら、神と折り合いをつければいいとも言えます。一方で、そんな神の不公平ないたずらを受け入れるくらいなら、医学的な説明を受け入れる方が納得がいくかもしれません。その人の不幸をやわらげてくれる心の持ちようは、人それぞれに違うと言えましょう。

でも、ルルドの泉に集まってくる人たちは、奇跡を期待しています。そして、その奇跡が起きなければ、がっかりすることになります。クリスチャンであれば、それで信仰が揺らぐことはないとは言え、神の意志について疑問を感じる人も出てきます。特にこの映画のように特定に誰かに奇跡が起こってしまったときは、余計目にそれを感じてしまいます。でも、司祭はその問いに答えることはできません。それが信仰の限界だとすれば、ルルドの泉が奇跡を起こすというのは、神にとっても人間にとっても罪作りな話だと思います。でも、奇跡にすがりたい気持ちも十分わかります。それにすがりたいほど苦しんでいる人もいるのですし、そういう苦しんでいる人に何らかの救いの手を差し伸べるのは宗教の仕事の一つなのですから。

と、まあ、考えが堂々巡りをしてしまうのですが、それほどに、様々な問い、含蓄を持った映画だと思いました。普通の人からすれば、全身マヒのクリスティーヌの不幸を心から理解することは不可能でしょう。そういう人たちが感じること、ルルドの泉に思うことは、私の理解の範疇を超えてしまっています。でも、そこにある信仰は、普通の人間の日々の暮らしについてまわるレベルのものです。ああ、また話が同じところを回ってしまいます。信仰のある人、特にクリスチャンの方だとこの映画をもっと素直に受け入れられるのかもしれませんが、私のような信仰のない人間には、たくさんの「なぜ」が湧いてきて、それに対する答えが見つからないのです。無信仰な私にそれを考えさせるための映画なのかもしれません。

「いつか来たる君へ」のサントラは、重い題材を美しいメロディで支えています。


ポスターや予告編の内容とは裏腹に、ドイツ軍によるイタリアの村での虐殺を題材にした映画「やがて来たる者へ」の音楽を担当したのは、マルコ・ビスカリーニとダニエレ・フルラーニです。完全に共作なのか、曲毎に分担したのかは不明なのですが、曲調が変わる部分があり、場面ごとに担当分けしているように思いました。CDでは入手できず、ダウンロードでの購入でした。

水滴のような音から、始まるメインテーマはどこか不安げだけど美しい旋律で、その先のドラマを予感させるものです。そのテーマはバイオリンやギター、子供のハミングなどで繰り返し登場します。それは、物悲しく素朴でこの映画の舞台であるイタリアの山村にマッチしていました。感情的にならない、静かなメロディが印象的です。一方で、のどかな村の様子を描写した曲も登場しますが、どこか戦争の影を感じさせる音になっています。

ドラマに戦争がどんどん侵食してくると、音楽はそれに合わせて陰鬱なタッチになってきますが、それでも、メロディアスな旋律を維持しているのが聴き応えのある音になっています。事件が起こったとき、少年のコーラスをパーカッションみたいに聞かせるシーンがありまして、一瞬、音楽ではなく効果音かと思ってしまったりしたのですが、そういう現代音楽的なテクニックは少しだけ使って、虐殺シーンにあえてドラマチックな曲を流さず、全体を美しいテーマを中心に構成した音楽は、サントラ盤としても聴き応えがありました。

「TIME タイム」のサントラは、意外とドラマチックなところが好き、オススメ


滅法面白いSF映画「タイム」の音楽を担当したのは、「ラブ・アクチュアリー」「ボーン・コレクター」「ムーラン・ルージュ」などを手がけたクレイグ・アームストロングです。この人、映画音楽以外でもリーダーアルバムを出していまして、それもまた聴き応えのあるものになっています。ビョークやマッシブ・アタックのアレンジャーだった人らしいですが、そのスコアは重厚でメロディアス。聴く者の心をとらえて離さないところがあります。

今回はSFアクションということもあって、アップテンポのアクションをサポートする曲も書いているのですが、やはりこの人のよさは、厚いストリングスによるドラマチックな盛り上げにありまして、この映画でも、SF映画とは思えない人間ドラマとしてのスコアを提供しています。特に、中盤の母親の死のシーンの盛り上げなどは、最近の乾いたスコアに慣れた耳には大時代的に聞こえるかもしれませんが、私はそこの今風でないところがファンです。

アクションシーンでは、シンセによる打ち込みや女声コーラスを入れたりしてはいますが、そのバックにきちんとストリングスを鳴らしているのが彼らしい音になっています。その味わいを表現すると最近の映画音楽に少なくなった人間味が感じられるということ。ラブストーリーとか人間ドラマでないこういうジャンル映画で、そういう味わいを持った音楽を書ける人はこの人くらいではないかしら。映画を観ている間は気がつきにくいですが、聞き返すと、こんな音楽が鳴っていたんだと驚かされます。

「顔のないスパイ」は丁寧な職人芸の映画、かなり面白いです。


今回は新作の「顔のないスパイ」を川崎チネチッタ2で観て来ました。座席指定の時、前後はともかくスクリーンの中心にしてってお願いするんですが、劇場の構造を知らないチケット係りが変にズレた位置をよこすことがあります。座席的に真ん中でもスクリーンに対して真正面とは限らないんだぞ。

20年前、冷戦構造が終結しつつあった頃の伝説のソ連のスパイ、カシウスと同じ手口で上院議員が殺害されました。CIA長官(マーティン・シーン)は、かつて諜報員だったポール(リチャード・ギア)を呼び出して捜査を依頼します。FBIからは修士論文でカシウスについて書いたことのある若い捜査官ベン(トファー・グレイス)が選ばれて、二人で捜査をすることになります。カシウスの手口はワイヤーを首に巻いて絞め殺すというもの。ポールはカシウスは既に死んでいるはずだと言うのですが、ベンはこの捜査にやる気満々です。まず、カシウスの部下だった男に話を聞くべく刑務所に向かう二人ですが、彼からは収穫なし。ところが、その直後、男は脱走を図り、その逃走中にカシウスの手口で殺害されてしまいます。いよいよ本当にカシウスが動きだしたようなのです。若いベンには妻とかわいい子供が二人いました。ポールはその家族の様子を見て、カシウスなら邪魔者は容赦なく殺す、この捜査から手を引いた方がいいと忠告します。一方、メキシコ国境を越えてロシアのスパイが入国したことが判明、その男ボズロスキーは元KGBでしたが、この男がカシウスではないのかと目星をつけて、ボズロスキーの足取りを追うポールとベンですが、ここで、ポールが大変手荒なやり方でボズロスキーの居場所を探そうとします。そして、娼婦の兄という男が二人をボズロスキーのもとに案内するのですが....。

予告編を観たときはあまり印象に残らなくてパスしていたのですが、pu-koさんのブログの記事を拝見して食指が動きました。「3時10分 決断のとき」「ウォンテッド」の脚本家コンビであるマイケル・ブラントとデレク・ハースが脚本を書き、マイケル・ブラントがメガホンを取りました。冷戦時代にその名を馳せたカシウスというスパイがいて、それが20年ぶりに帰ってきたというお話です。彼は部下を育成し、カシウス7なるチームを作っていた、殺しのエキスパートでした。ポールは当時カシウスを追っていたのですが、彼の言うには、カシウスは死んでいるはずでした。ところが、カシウスのやり口で殺人事件が起こったのも事実。そして、彼の部下だった男も脱走途中でカシウスに殺されてしまいます。これが映画の序盤なんですが、ここで、殺害シーンが描かれていて、カシウスがポールであることが観客に知らされます。予告編だと「カシウスは誰なのか」で引っ張るミステリーかと思っていたので、この展開は意表を突かれました。

その後は、ポールがカシウスであることを隠しながら、ベンの家族と仲良くなり、ベンとともにカシウス捜査をしていくことになります。観ている方としては、カシウスがいつベンに牙をむくのか、そして彼の本当の狙いが何なのかというところが気になってきます。ブラントの演出は、カシウスの正体をすぐにばらしてしまっても、快調にドラマをさばいていきます。カシウスの行動の理由がわからないところにミステリーの興味を置いて、話を進めていくあたりに、ドラマとしてのうまさを感じました。特に、ベンの家族を丁寧に描いているのですが、これもきちんとドラマの伏線になっており、ボズロスキーをカシウスだとして追跡していくあたりのサスペンスも上々でして、大作でもないですし、傑作でもありませんが、娯楽映画としては佳品と言える出来栄えでした。リアルなスパイものと考えると突っ込みどころも出てしまいますが、小品としてはよくまとまった映画に仕上がっています。

冷戦後も、ロシアのスパイがアメリカにたくさんやって来ているという状況(て、ことは、アメリカのスパイもロシアに潜入してるってことでしょうね)だということは、今も昔も大して状況は変わっていないということになります。そこも実は伏線になっているあたり、ドラマ作りのツボを押さえた脚本になっています。カシウスが上院議員を殺害したのは何のためだったのか、彼はロシアの指令で動き出したのか、色々な謎を引きずったまま、ドラマはポールとベンの二人のやりとりを中心に展開します。そして、そのやり取りこそがドラマの中心であったことが後半判明するあたりは脚本のうまさでしょう。さっきから、よくできてるとかうまいと言った表現を使っていますが、ホントに作りが細かくよくできてるのですよ。込み入った設定ではなく、メインストーリーはすごくシンプルなのですが、その見せ方の工夫にドラマとしての満足度が高いのです。冷血な殺し屋カシウスをリチャード・ギアがクールに演じているのですが、そこにさらにひねりの入れたキャラ設定になっているのもうまく、冒頭でカシウスの正体を明かしてしまってどうなるんだと思わせていて、きちんと面白い映画に仕上がっていまして、意外なヒロイモノでした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ポールはベンの妻に彼が危険な状態にあると警告します。そしてベンの車のワイパーには1枚の写真が挟まれていました。それには、ポールとその妻子と思われる女性と子供が写っていました。ベンはポールの行動を怪しむようになり、再度、資料の調べなおしをします。世界各地で起きたカシウスによる殺人の現場写真には必ずポールの姿が写りこんでいました。そして、さらに、カシウスの偽装殺人のファイルを発見します。その事件の犠牲者は、ポールの家族写真に写っていた女性と子供でした。カシウスは掟を破って家族を持ってしまい、その結果、ボズロスキーによって、家族は殺されてしまったのでした。そして、ポールはボズロスキーへの復讐のチャンスを狙っていたのです。ロシア人の売人から、ボズロスキーの居場所を突き止めたポールは、彼を追い、カーチェイスの末、彼に殺されかかるのですが、それをベンが救います。ベンはポールがカシウスであることを確信していましたが、ポールもベンがロシアのスパイだという証拠を持っていました。ベンは、ロシアのスパイのアメリカ入国をサポートするための二重スパイだったのです。捜査をかく乱させるために、カシウスの手口で上院議員を殺し、カシウスが復活したように見せかけていたのです。しかし、その時はまだポールがカシウスであるとは知りませんでした。一方、かつて家族を持っていたポールからすれば、ベンもまた家族を持ったスパイであり、同じ立場の人間だったのです。

二人は逃げたボズロスキーを追い、倉庫の中を捜索します。そして、今度はベンがボズロスキーに襲われたところをポールが救いますが、彼はボズロスキーに撃たれ、そのまま死亡してしまいます。ベンは、カシウスの凶器であったワイヤーを仕込んだ腕時計をボズロスキーにはめて、ボズロスキーがカシウスであり、ポールによってカシウスが殺されたことにします。本当なら、ベンはこのまま飛行機でモスクワへ帰ることになっていました。しかし、彼は、自分の家へ戻って車の中から妻子の様子を伺います。そして、意を決して車から降りて自分の家へと向かうベン。暗転、エンドクレジット。

ベンが家族を選択してハッピーエンドのようですが、彼がカシウスの二の舞になる危険をはらんだエンディングは、この先どうなるんだろうという不安な余韻を残します。原題が「DOUBLE(二重スパイ)」というもので、最初、ポールがそうだと思っているとベンも二重スパイだったという意外な結末となっていまして、そういう仕掛けの面白さ、そして、ポールとベンのキャラクターを丁寧に描いたことで、ドラマとしての奥行きが出ました。非情なスパイ戦と家族愛とを共存させることに成功した脚本も見事でしたし、あちこちに仕掛けた伏線がきちんと刈り取られているのにも感心しました。リチャード・ギア以外にスターどころのいない地味なキャスティングながら、撮影のジェフリー・キンボールや音楽のジョン・デブニーの手堅い職人仕事もあって、映画としての満足度は上々でした。今年のベストテンの8位か9位くらいに入りそうな感じがする、そんな印象の佳品です。

「ヒューゴの不思議な発明」はいい題材でいい話で役者もいい、なのですが....


今回は、新作の「ヒューゴの不思議な発明」をTOHOシネマズ川崎1で観て来ました。3Dは追加料金をぼったくられるので、2Dで。確かに3Dを意識したようなカットはありましたが、ドラマに直接関わる部分ではなく、2Dで十分だと改めて思いましたです。

父を亡くしたヒューゴ少年(エイサ・バターフィールド)は、駅の時計の調整をしながら、駅の中で暮らしていました。鉄道公安官(サシャ・バロン・コーエン)は、親のない子は皆孤児院へ送り込んでしまう怖い存在でした。ある日、彼が玩具店にあるネズミのオモチャを盗もうとしますが、店の主人ジョルジュ(ベン・キングズレー)に見つかってしまい、彼の持っていたノートも取られてしまいます。そのノートはヒューゴの父が修理していた機械人形についてのメモでした。父の形見となったその機械人形をヒューゴは動かそうとしているのですが、ハート型のカギが見つかりません。ジョルジュにノートを返してもらおうと彼の家に行ったヒューゴはそこの養子イザベル(クロエ・グレース・モレッツ)と知り合います。そしてイザベルの首のペンダントがハート型のカギであることを見つけ、彼女にそのカギを借りて機械人形に差込みます。すると、機械人形は動き出し、絵を描き始めます。それは、月の顔の目にロケットが突き刺さったものでした。そして、ジョルジュ・メリエスというサインも。何か父の遺志を感じたヒューゴはその絵の意味を知りたいと思います。ジョルジュの家へ行き、その絵をジョルジュの妻(ヘレン・マックロリー)に見せると、彼女はそれを決してジョルジュに見せるなというのでした。果たして機械人形の描いた絵の秘密とは?

私にとっては「エイジ・オブ・イノセンス」以外はあまり相性のよくないマーティン・スコセッシ監督の新作です。予告編を観ると、子供が主人公のファンタジーらしいのと、評判がよいので、食指が動きました。ただ、予告編だと、少年の冒険モノみたいな見せ方をしているのですが、そういう映画ではありませんでした。かつて夢を作ってきた男が、夢破れて沈んでいるときに、ある奇跡が起こって、捨て去った筈の過去と自分自身を取り戻すというお話なのです。画面はよく言えば絵本のようにファンタスティック、悪く言えばCGバリバリなんですが、そんな絵本のような映像にさらにもう一つの映像が加わって、ドラマチックな展開を見せます。それは、昔の映画。映画の歴史が語られると同時に、その昔のフィルムが映し出されます。そして、その昔のフィルムが、この映画のクライマックスになっているのです。

ヒューゴは叔父の仕事を引き継いで駅の時計の調整をやっていました。構内の時計や塔の上の時計などのネジをまいたりする仕事。駅の裏側を縦横に動き回り、食べ物をかすめとっては日々暮らしていました。そんな彼の宝物が、父が残してくれた機械人形でした。博物館の倉庫にあったのを修理しかけていたのですが、なかなか動いてくれません。その人形の事が書かれたノートを見た玩具店の店主ジョルジュは顔色を変えます。どうやら、この老人と機械人形は関わりがあるようなのです。

ジョルジュの養子であるイザベルのおかげで機械人形は動き出して絵を描きます。しかし、その絵はジョルジュにとっては辛い過去を思い出させて苦痛を与えるものでしかありませんでした。月に顔があってその目にロケットが突き刺さっている絵、それは、かつてヒューゴの父親が映画館で観て、彼に語った絵そのものだったのでした。

魔法とか妖精の登場するお話ではありません。ファンタジーとしての小道具は機械人形だけでして、後は普通の人間ドラマ(絵本みたいにデフォルメされてはいますが)です。時代は第一次大戦から何年か後でして、その戦争の影が登場人物のバックにあります。イザベルの両親も花屋のリゼット(エミリー・モーティマー)の家族も戦争で亡くなっていますし、鉄道公安官の足も戦争で不自由になったようです。そして、戦争はジョルジュの希望も奪っていたのでした。

映画として面白いし、よくできてると思います。特に、悪役として登場する鉄道公安官に最後の華を持たせて、かつ恋人までできちゃうというあたりはうまいと思いましたもの。過去の出演作からすると、何をしでかすかハラハラさせるサッシャ・バロン・コーエンも好演していますし、もういい歳だけど相変わらず魅力的なエミリー・モーティマーが恋人になるあたりも好印象でした。主演のベン・キングズレーは、夢を与えようとして、結局自分の夢を見失った老人を熱演していますし、ちょっとだけ登場のジュード・ロウとかクリストファー・リー、レイ・ウィンストンといった脇役陣もいい味を出しています。また、クロエ・グレース・モレッツが「(500)日のサマー」「キック・アス」に続いて(「モールス」は未見)が素晴らしくよいのですよ。子役なのに、その年齢に一番ふさわしいときにいい役にあたってるなあって感心しちゃいます。ヒューゴを演じたエイサ・バターフィールドは、主役のようで実は脇役という難しいポジションもあってか、演技としては未知数な感じでした。

全体としては、深読みすると色々出てきそうな一方、上っ面だけ観るとどこか物足りない感じがしてしまう、そんな印象が残る映画でした。このあたりが難しいところでして、ドラマの軸がヒューゴで始まって、ジョルジュに収束するのですが、そのあたりがうまくドラマとしてつながっていないような気がしてしまって、クライマックスが駅のシーンと昔のフィルムを観るシーンと2段階になっているのも、ドラマの軸足が落ち着かない印象でした。昔のフィルムを観るシーンがエピローグだとは思えないのですよ。そこにこそ、この映画を作ったキモがあるのですから。文章のお話なら、駅のシーンがクライマックスになるのでしょうけど、映画では、この後に本当の昔の映像が出てくるので、そこがクライマックスになりうるのです。うーん、いい題材でいい話だけど、そのさばき方が気になっちゃったというところでしょうか。このあたりが監督との相性ってことになるのかも。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



この映画は、サイレント映画の頃に数々の映画、特にトリック撮影を使った映画を作ったことで有名なジョルジュ・メリエスを題材にしたお話(フィクション)なのです。ジョルジュ・メリエスという名前は、映画の歴史についての本だと必ず登場する名前ですし、月の顔の目にロケットが突き刺さっている絵も有名です。もともとはマジシャンだったメリエスが、映画作家となり何百本という映画を作って、人々に夢を与えました。しかし、第一次大戦の残した傷は、そういう夢のある映画へのニーズを奪ってしまい、映画に客は集まらず、経済的に困窮したジョルジュは撮影所もフィルムも売り払ってしまったのでした。(なぜ、戦争後だとファタンジックな映画作家が破産するのかがよくわからなかったです。)

失意のジョルジュは全てを売り払った金で駅の片隅で玩具店を営むようになりました。機械人形は、ジョルジュが作ったもので唯一博物館に寄贈したものだったのです。その事情を知ったヒューゴは駅に戻って、機械人形をジョルジュのもとに届けようとするのですが、鉄道公安官に見つかり、彼に追われて人形をホームに落としてしまいます。それを拾おうとしたところに列車が入線してきました。危機一髪のヒューゴを救ったのは鉄道公安官でした。ヒューゴを連れて行こうとした公安官の前にジョルジュが現れ、ヒューゴは自分の子供だと言うと、公安官もそれ以上は追及せず、ヒューゴを自由にしてやるのでした。そして、映画アカデミーの場となり、全てが失われたと思われていたジョルジュのフィルムがあちこちから発見されたと説明され、ジョルジュのスピーチの後、彼の映画の上映が始まります。

ジョルジュ・メリエスという人の映画は、マジシャンとしてのトリックや、いわゆる特殊撮影を用いたファンタジックなものが多かったようで、その映画がラストで上映されるところが圧巻です。ちょっとだけ垣間見られるだけとは言え、その映像は本当に楽しく、映画が生まれてまだ間がない頃にこういう映像を作っていたというのがすごい。月に行くと、目にロケットが刺さる。そこにいた人物が突然消える。SFだったり歴史ものだったり、題材は様々だけど、そこには映画の魔法があるのです。かつて、そういう映像の作り手がいたことを再認識させてくれたということにも、この映画の意義はあると思います。

というわけで、メリエスの奇跡の映像が流れた後、ジョルジュの家にみんなが集まっているシーンとなり、隣の部屋にある機械人形へとカメラが寄っていって暗転、エンドクレジットとなります。結局、謎の中心であったと思われた機械人形も脇役だったというのが、微妙な後味になってしまいました。駅の内部とか時計塔とか、CGや機械人形も含めて、色々な物語の仕掛けがメリエスの実際の映像に負けちゃったという感じでしょうか。そして、残ったのは、個々の登場人物の名演技、つまり生身の人間だったというのはちょっぴり皮肉な面白さがありました。

「おとなのけんか」は深読みするより他愛ない話を楽しむのがいいかも


今回は新作の「おとなのけんか」をTOHOシネマズ川崎2で観て来ました。ここは、150席ほどの劇場で、スクリーンの大きさそこそこ。でも、シネスコサイズになるとき、縦幅はそのまま横に画面に広がるのが、OK。

舞台はニューヨーク、子供の喧嘩で、一方は歯を2本折られてしまいます。そこで、折られた方の家に双方の両親が集まって話し合いをすることになりました。歯を折られた方の父親マイケル(ジョン・C・ライリー)は金物商、母親のペネロペ(ジョディ・フォスター)は本も書くインテリ主婦。一方、怪我させた方の父親アラン(クリストフ・ヴァルツ)は弁護士で、母親ナンシー(ケイト・ウィンスレット)は投資ブローカー。話し合いは最初は穏やかに進み、ペネロペお手製のコブラというお菓子も出て、話は穏便に収まりかけるのですが、まず、アランの携帯電話にひっきりなしにかかってくる仕事の話になんとなく雰囲気が悪くなり、マイケルが子供のペットのハムスターを捨てたという話が雲行きを怪しくさせ、次の話し合いを持とうという話がまとまらなくなり、さらに、気分が悪くなったナンシーがリビングで大ゲロ吐いちゃったところで、話がややこしくなっていきます。相手側への不満ばかりでなく、自分の妻や夫への不満もぶちまけるに及んで、最初の和やかな空気はどこかへ吹っ飛んでしまうのでした。

「戦場のピアニスト」「ゴーストライター」のロマン・ポランスキー監督の新作です。ヤスミナ・レザの戯曲「大人は、かく戦えり」を、ポランスキーとレザの二人で映画用に脚色しました。登場人物は4人だけで、舞台となるのは、マイケルの家だけといういかにも舞台劇という設定で、登場人物の台詞まわしや、セリフ量など、あえて原作の戯曲のタッチをそのまま映像化しているような印象を受けました。

冒頭はニューヨークの公園のロングショットで、向こうにいる子供たちの中から二人が飛び出してきて、それを他の連中が止めようとするのですが、片方が木の枝でもう片方をなぐりつけます。そして、お話はすぐに、マイケルの家に移り、お互いの両親が話し合いをしているシーンとなります。お互い、そこそこ収入のある中流家庭で、そこそこにインテリで、穏便に話は収まりかけるのですが、マイケルがハムスターを捨てたとか、アランにやたらかかってくる携帯電話などが、雰囲気をおかしくしていきます。そして、最初は言わずに胸の中にしまっておいたことを口に出すようになっていくのです。

たかが子供の喧嘩ではあるのですが、片方は歯を2本折られているのですから、ペネロペは相手の子供の反省を求めます。でも、そこまで子供を思うようにはできないというアランの言い分に、だんだん腹が立ってきます。しかも、話の途中で、携帯が何度も鳴るので、話の腰を折られてしまうのにも、イライラ度が募ってきます。しかも、話の内容がクライアントの製薬会社の薬に副作用が出ることがマスコミ報道され、それに対抗する手段の指示を出していました。また、アランは子供のことにはあまり関心がなさそうなことがわかってきます。ナンシーはそんな夫の態度を最初はたしなめていました。そして、気分が悪くなった彼女が大ゲロをぶちまけて、ペネロペの大事な美術の本をゲロまみれにしちゃうことで、雲行きはますます怪しくなっていきます。それでも、部屋の片付けをして、落ち着いて話し合いを再開しようということになるのですが、今度は、ナンシーが、ウチの子が一方的に悪いわけじゃないと言い出して、またしても口論になっちゃいます。

最初のうちは、見栄もあって、事を穏便にすませる大人の対応をしている4人なのですが、だんだんと相手の細かいところが気になってきて、いい人でいることに我慢できなくなっていく様子がコミカルに描かれています。最初は、相手夫婦への不満だったのが、今度は自分の配偶者に怒りが向けられていきます。そうなると、夫婦対夫婦だった構図が、夫たち対妻たちに形を変えていくのがおかしかったです。特に、格調高く、人生の深遠さについての口論ではなく、話題はあくまで下世話なもの。そこへマイケルが一杯やろうとウイスキーを持ち込むものですから、ますますテンションが上がっていきます。夫婦喧嘩を他人様の前でやることもないだろうと思うのですが、アルコールも手伝ってか、言いたい放題。映画の前半は、やたら携帯電話がかかってきて、話の雰囲気を壊すアランに目が行くのですが、後半は酔っ払って大暴れするナンシーが話の中心になっていきます。

アランとナンシーがさっさと帰ればその場は収まるのに、なかなかそうさせないところに脚本のうまみがあります。家を出てエレベーターの前まで行くシーンが2度もあるのに、また部屋の中へもどってきちゃう、そして、また相手にケチをつけあうことになります。舞台劇がもとになっているせいか、かなりデフォルメされた展開になっていまして、それは、何年もかけた隣人関係、夫婦関係の破綻をぎゅっと濃縮したような印象になっています。ですから、ドラマとしては大変中身の濃い内容になっていると言えましょう。最初はジェントル、でも相手のちょっとしたところが気になり始め、それをつい口に出してしまい、さらにその上に言わなくてもいいことまで上乗せしてしまい、お互いに売り言葉に買い言葉の応酬になってしまうのです。最初は「まあまあまあ」がだんだん「ちょっと待てよ」的展開にシフトしていく、そんなプロセスを80分弱の映画の中で、テンポよく見せてくれます。

人はプライドとか優先順位の高いものを持っているのですが、それぞれ自分と他人が違っていることに我慢ならなくなるときがある、その瞬間が立て続けにやってくるところにドラマとしての面白さが出ました。普通なら、二人だけの時にやる夫婦喧嘩を他人の前でやってみたり、子供の怪我とは全然関係ないところで相手への不満をぶちまけてみたり、相手の考え方に因縁をつけてみたり、正直なところ、言ってることは他愛ないことばかりなんですが、一度堰を切ってしまったら、止まらなくなってしまうところが面白かったです。ラストはまた、公園のショットに戻り、ハムスターの生存を確認し、子供たちがいつものように遊んでいる絵でおしまいとなります。

主演の4人はそれぞれ適役適演でして、特に一応インテリ風でリベラルキャラを一生懸命演じようとしてだんだん壊れていくジョディ・フォスターの演技が光りました。マイケルの家の中だけで展開するドラマなのに、シネスコサイズの絵にしたのは意外でしたが、パヴェル・エデルマンのカメラは登場人物に寄るときは手持ちカメラでリアルな絵を切り取る一方、引きの絵はいかにも舞台を撮っているような見せ方をしているのが印象的でした。アレクサンドル・デスプラの音楽は、オープニングタイトルとエンドクレジットでしか流れませんが、小編成のオケでコミカルな味わいを出してくれています。

また、この映画、ニューヨークを舞台にした英語による作品なのですが、フランス・ドイツ・ポーランドの合作となっていまして、製作会社も10社くらいクレジットされていました。日本映画でよくある製作委員会方式による映画なのかしら。また、配給元もソニー・ピクチャーズのアート系部門のソニー・クラシックになっています。最近の映画は、上映前の製作会社のロゴがやたら多かったり、プロデューサーの肩書きのつく人がたくさんクレジットされたりしていますが、これらの人が映画作りにどう関わっているのか気になるところでもあります。(ただの大口出資者もいるんでしょうけど

「ドラゴンタトゥーの女」は「金田一タッチ」プラス「ニキータ」風でかなり面白い


今回は、新作の「ドラゴン・タトゥーの女」を川崎チネチッタ9で観て来ました。ここは、チネチッタの中ではキャパ少な目で、スクリーンがシネスコサイズになるときは、横が広がらず、縦だけ縮まります。今みたいに、大画面横長テレビが普及してくると、シネスコで画面が最大になる劇場でないと物足りないですよね。

舞台はスウェーデン。名誉毀損で敗訴した記者ミカエル(ダニエル・クレイグ)は老いた大富豪ヘンリック(クリストファー・プラマー)から、呼び出しを受けます。彼は、兄のリカルドの息子ゴットフリードの娘ハリエットが40年前に失踪しました。一族の誰かに殺されたのであろうというヘンリックは、犯人の調査をミカエルに依頼してきたのでした。失踪当日は、ヘンリックの邸のある島を唯一外界と結んでいる橋で事故があり、人の出入りはなかったはずでした。ミカエルは、当時の警察の捜査資料などをもとに調査を開始します。ハリエットの残したメモが当時の猟奇殺人に関わっていることを見つけたミカエルは、助手を必要としていました。そして、当のミカエルを調査したという敏腕調査員リスベット(ルーニー・マーラ)に捜査協力を依頼します。彼女は、23歳の天才ハッカーであり、また精神異常者のレッテルを張られていて、後見人への出頭、報告が義務付けられていました。しかし、彼女はミカエルを上回る調査能力で、過去のヘンリックの会社の記録を調べ、当時の殺人事件が連続殺人であるところまで突き止めます。一方、ミカエルも独自に犯人へと近づきつつありましたが、それは彼に生命の危険をもたらすことになるのです。

原作はベストセラーだそうでして、スウェーデンでも3部作として映画化されていますが、今回のは、そのハリウッドリメイク版ということになります。「シンドラーのリスト」「マネー・ボール」のスティーブン・ザイリアンが原作を脚色し、「セブン」「ソーシャル・ネットワーク」のデヴィッド・フィンチャーがメガホンを取っています。ハリウッド映画といっても、撮影はほとんどがスウェーデンで行われました。とは言え、話してるのはみんな英語ですから、スウェーデンの人から見れば奇異にうつるかもしれないでしょう。

2時間38分というかなり長い映画ですが、その長さも微塵も感じさせない脚本、演出は見事でした。正直なところ、前作「ソーシャル・ネットワーク」が退屈だったので、フィンチャー監督どうなのかなって気もしたのですが、今回は波乱万丈のストーリーで最初から最後まで面白くできていました。どこか、金田一耕助モノを思い出させるおどろおどろしさがありまして、登場人物が多くて、人間関係を飲み込むのに時間がかかるところも似たような感じでした。40年前の失踪事件を追うという設定も面白く、クリストファー・プラマーやロビン・ライト、ステラン・スカルスゲールド、後アメリカ映画ではあまり名前を聞かない面々が重厚なドラマを支えていて、見応えがあります。

映画の前半は、ミカエルがハリエットについて調査を行うシーンとリスベットの様子が並行して描かれます。リスベットの後見人が脳溢血で倒れて、新しい後見人がつくのですが、これが変態野郎でして、金を渡すたびに変態行為を要求してきます。しかし、彼女が仕掛けたカメラにそれが収められ、逆に彼が脅されて、体に刺青を入れられてしまいます。ルーニー・マーラが熱演しているリスベットは登場シーンから、どこか普通じゃない空気を醸し出していまして、繊細でしなやかだけど、どこかもろくて危うげな感じがします。華奢な体でピアスだらけで病的なメイク、でも記憶力が抜群で、さらにハッカーとしても天才的な腕前を持っています。一方で、幼い頃にあった不幸が彼女の精神を蝕んでいることがわかってきます。フィンチャーの演出は、彼女のキャラクター説明にかなりの時間を割いていまして、殺人ミステリーより、リズベットの方に重心を置いているようにも見えます。

とは言え、ミステリーの部分も丁寧に描かれていまして、リズベットとミステリーの両方を欲張った結果、2時間半の長さになってしまったのでしょうが、その2時間半に隙間なくドラマを詰め込んで、一気に見せてしまう演出は見事でした。前半で、リズベットのキャラを丁寧に描き込んだことで、後半の彼女の超人的行動にリアリティが出たのも見事でした。ミカエルが基本的に主人公なので、普通のミステリー映画だと、脇の有能な相棒というポジションになってしまうところを、彼女のキャラを際立たせたおかげで、ミカエルとリズベットの二人が対等なポジションになっているのもうまいと思いました。

原作では、どうなっているのか知らないのですが、物語の要所要所に写真がたくさん登場します。写真に誰が写っているのかというところがドラマのカギになっており、そこに映画ならではのサスペンスが生まれています。また、スウェーデンの寒々とした空気感が、映画全体に独特の緊張感を与えており、派手なアクションとかはないのに、サスペンス映画としての点数も高いです。中盤で、当時の猟奇連続殺人事件が、ハリエットに関係しているとわかってくると、その禍々しさが増してきます。何やらおぞましい因縁の世界に入りそうなんですが、展開は意外とマトモにミステリーしているのが意外でした。ミカエルやリズベットが偶然に頼らずに、過去の膨大な資料の中から、事実を見つけることで、事の真相に迫っていくという構成なのです。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ハリエットの失踪した日、町でパレードを見ている彼女の写真がありました。その連続写真から、誰かを見つけて動揺しているのがわかります。そして、彼女の背後で、カメラを構えている女性を探し出し、逆の方向から撮った写真を手に入れます。一方、リズベットは、当時に発生した猟奇連続殺人を追っていました。そして、ヘンリックの会社の資料室を捜索し、ヘンリックの弟ゴットフリードが事件の発生日にその町に居合わせたことを突き止めます。しかし、連続殺人はゴットフリードの死後にも発生していました。一方、パレードの写真に写っていたのが、ゴットフリードの息子マルティン(ステラン・スカルスゲールド)であることをつきとめ、彼の家に忍び込むのですが、逆に彼に捕らわれてしまいます。マルティンは父親の後を継いで、連続殺人を楽しんできた変質者だったのです。しかし、危機一髪のところで、リズベットが現れてミカエルを救います。車で逃亡しようとしたマルティンは事故を起こして死亡。

しかし、マルティンの言動から、彼がハリエット殺しの犯人ではないことに気付いたミカエルは、他の可能性を探し始めます。ひょっとしたら、彼女は生きているのではないか? そこで、ロンドンにいる従姉妹のアニタ(ジョエリー・リチャードソン)が知っている可能性が高いと彼女をマークし、カマをかけているのですが、彼女はどこかへ連絡する気配は見せません。実は、アニタこそが、40年前に姿を消したハリエットだったのです。父親のゴットフリートから性的虐待を受けてきた彼女は、ある晩、彼を海に突き落として殺してしまいます。しかし、それを兄マルティンに目撃され、今度は兄から虐待を受けることになってしまいます。一度は、別の街の学校にマルティンは追いやられてほっとしたのですが、あのパレードの日、町でマルティンを目撃したハリエットは、あの地獄がまだ続くことを実感します。彼女は従姉妹の協力もあって、家を抜け出して、姿をくらましたのでした。その時、何の荷物も持たずに逃げたことで、彼女の失踪は殺人として扱われることになったのでした。ヘンリックと再会するハリエット。これで事件は終わりとなりますが、リズベットにとって、ミカエルは大変特別な存在になっていました。彼女は、彼へのプレゼントを持って、家を訪ねるのですが、そこから出てきたミカエルと恋人の様子を見て、一人また夜の闇の中に消えていくのでした。エンドクレジット。

殺人事件から始まったお話が、被害者が実は生きていたというのが意外性がありました。また、終始無表情だったリズベットの想いが最後まで伝わらないという切ない後味も印象的でした。物語の面白さと映像の美しさ、さらに演技陣の好演があって、見応えのあるドラマに仕上がっています。原作はまだ2本あるそうですから、また、リズベットの活躍を見たいという気分にさせられました。ジェフ・クローネンウェスの撮影はデジタルカメラを使って、陰影の濃い映像をつくるのに成功しています。シネスコサイズの絵をきっちりと切り取っているのが見事でした。
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einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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