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「ブラック&ホワイト」はラブコメを前面に出したことで、期待以上の面白さでした。


今回は新作の「ブラック&ホワイト」を静岡のシネシティザートシアター3で観て来ました。できてからまだ間がないってこともあるのかもしれませんが、他のシネコンに比べるとスタッフというかサービスのクオリティが1ランク低い感じなのが残念。客さばきとかは、川崎チネチッタなんかうまいと思いますもの。何というか、正社員とバイトの違いと言ったら通じますかしら。

FDR(クリス・パイン)とタック(トム・ハーディ)はCIAのエージェントでコンビで活動しているのですが、やることが派手すぎて、デスクワークにまわされてしまいます。そんなタックが何を思ったか出会い系サイトに登録しちゃいます。そして、出会ったのが友人に無理やりプロフィールを掲載されてしまったローレン(リース・ウィザースプーン)。タックとローレンはお試しデートをやってみたら、これがお互い好印象。ところが、そうとも知らず、FDRもローレンと知り合って強引にアタックしてデートまでごぎつけてしまいます。オフィスでお互いの彼女を見せっこしたら、同一人物でびっくり、とりあえず紳士協定を結んでみたものの、お互いの部下を使って、隠しカメラや監視衛星を動員させ、ローレンと相手を監視しあうようになってしまいました。彼女の好みや趣味を調べ上げ、そこを突いて自分に振り向かせようとしたり、FDRは自分のおばあちゃんを、タックは子供(離婚した奥さんのところにいる)を使って気を引こうとしたりと、本業そっちのけで、CIAの機能をフル稼働して恋愛レースを始めてしまいます。ローレンは甲乙つけがたい二人に困惑気味。そして、一度寝てみれば、腹が決まるかもなんて口走った言葉は盗聴している二人にストレートに届いてしまいます。こうなる紳士協定もなきに等しくなっちゃうのですが、この恋愛レースの結末は如何に?

「裏切りのサーカス」に続いてトム・ハーディの映画を観ちゃいました。先日も「マーガレット・サッチャー」「家族の庭」でジム・ブロードベントを立て続けに観てしまったのですが、何か不思議な偶然を感じます。それは、さておき、「裏切りのサーカス」が地味でリアルなスパイものなら、こっちは派手でバカなラブコメディになっています。監督のマックGは「チャーリーズ・エンジェル」で名を上げ、「ターミネーター4」で名を下げた人なんですが、今回は、アクションラブコメという「チャーリーズ・エンジェル」のノリに近い題材だったせいか、快調なテンポで最後まで飽きさせない映画に仕上げています。一応、悪役としての武器商人との因縁といったサブプロットがあるんですが、これの扱いがものすごく軽い。で、何が重くなっているかというと、ヒロインとその友人トリッシュ(チェルシー・ハンドラー)の下世話な彼氏選びの会話に重きを置いているのです。ぞっこんだった彼氏に振られてしまい傷心のロレーンが、街で元カレに出会うたびに見栄を張ってしまうあたりもおかしかったです。そして、新しい男にめぐり合わせようと出会い系サイトに登録しちゃうのもトリッシュの仕業でした。

そんなスパイ映画あるのかと思うのですが、それを実際に作っちゃったから仕方がない。似たような設定の「トルーライズ」はそれでも悪党との戦いをメインに置いて、そこで映画を盛り上げたのですが、この映画では悪役の存在は大変あっさりとしていまして、冒頭で弟を二人に殺されて、その復讐にやってきたとは思えないくらい、あっけなく返り討ちにされちゃいます。それが悪いのかというと、悪くないんですね、これが。この映画の悪役は、あくまでヒロインがFDRとタックのどっちを選ぶかという時の小道具でしかないのですよ。全編を貫くお気楽感は、「裏切りのサーカス」の極北に位置づけられると言えましょう

オープニングでビルの屋上での派手なアクションを見せるのですが、それ以降はラブコメの変化球になっています。CIAのエージェントコンビが二人が同じ女性を好きになって、それ以降、CIAの技術を駆使して相手を追跡し、時には邪魔をする。巻き込まれたCIAのメンバーも最初は国家機密だと言われていたのですが、だんだん違うんじゃないかって気づいてくるのですが、結構その恋愛作戦に付き合っちゃうのがおかしかったです。部屋に忍び込んで彼女の趣味を調べて、それをデートに盛り込んで、気を引こうと頑張る二人はある意味ガキみたいなレベルなんですが、一方のローレンも二人の男を天秤にかけて、どっちにしようと迷っちゃうのですが、友人のチェルシーとの会話がいい年して高校生みたい。そういう子供っぽい恋愛模様とCIAのギャップがおかしく、マックGの演出もテンポよくまとまっていて、これは意外な拾い物でした。バカバカしいけど面白いし、ラッセル・カーペンターの撮影がよくって、画面を華やかに彩っていまして、娯楽映画としてのポイントはかなり高いです。

一方で、武器商人ハインリッヒとのマジな闘いの部分は、派手なアクションシーンはあるものの、サラリと流しているところが面白かったです。派手な銃撃戦あり、死人も出てるのに、どっか軽いのですよ。こういう映画によくある悪役のあくどさがドラマの流れを止めることがありません。ティル・シュバイガー演じる敵役は、結構凄味があるので、もっと存在感を示すことができたはずなのに、ドラマの前面に出てくることはありません。主人公コンビに比べたら、こいつの方が人殺した数は少ないのですよ。CIAのドンパチとラブコメのバランスで、ラブコメの方を取って、犯罪ドラマの部分を思い切ってカットしたのが成功しています。よく見りゃシリアスなドンパチなのにそれがラブコメの邪魔になっていないのは、なかなかのうまさだと感心しちゃいました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



結局、FDRがローレンと寝てしまうのですが、タックはそこまでには至りませんでした。それでも、彼女は二人のどちらかに決めかねている様子。一方、タックを監視していたFDRは、その監視映像に彼を狙う武器商人の姿を発見、ローレンとデート中のレストランまで乗り込んでいきます。そこで、激しい格闘になり、一方二人が知り合いだったことを知ってショックを受けるローレン。そして、レストランを出て行ったローレンをハインリッヒが誘拐してしまいます。ローレンにつけてあったGPSを使って追跡するFDRとタック、名コンビの復活です。次々とハインリッヒの一味をやっつけていきますが、建設中のハイウェイに追い詰められてしまう3人。そこへやってくるハインリッヒの車、ローレンの一言でヘッドライトを撃ってエアバッグを作動させ、彼を運転不能に追い込むのですが、それでも、ハインリッヒの車はつっこんできます。ロレーンに手を差し伸べるFDRとタック。そして車がハイウェイから落下した時、彼女はFDRの腕の中にいました。結局、ロレーンはFDRを選び、レストランでタックにそれを伝えようとしていたのでした。それでも、FDRとタックの絆は揺るぎません。息子と空手道場に行ったタックの前に前妻が現れ、改めて彼女からタックを食事に誘います。その後、現場復帰した二人がヘリコプターから、敵地へ乗り込もうとするとき、FDRが昔々にタックの奥さんで寝たことがあると告白、それに怒ったつかみかかるタック、もみ合いながらヘリから落ちていくところで、映画はブツっと切れてエンドクレジット。

クライマックスで誘拐されたローレンを追う、タックとFDRですが、これがカーチェイスで決着がついちゃうってのが意外でした。普通なら、どこかへ連れていかれたローレンを助けに行って、そこでアクションというのが相場なんですが、その連れて行く途中で追いついて、やっつけちゃうというのは、やはりラブコメ重視の構成なんだと納得。その分、テンポもよくなりました。定番をうまくカットすることで映画のカラーをうまくラブコメにシフトしつつ、CIAという設定をうまくドラマの彩りとして使い切ったマックGの演出は評価できると思います。タックを子持ちの離婚男として、ラストできちんと華を持たせているあたりのバランス感覚もマルです。リース・ウィザースプーンも「キューティ・ブロンド」から10年も経つんだなあと思いつつ、まだまだこういうキャラをこなせるんだなあって感心。単純に楽しめる娯楽映画なんですが、それでもあれこれ工夫をこらしているのが伝わってきまして、期待していたより、かなり点数高い仕上がりでした。まあ、ケチつけるなら「ブラック&ホワイト」という邦題でして、映画の内容とまるで関係ありません。原題の「This Means War」っていうセンスもどうかなあって思うのですが。
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「裏切りのサーカス」はわかりにくいところもあるけど、張り詰めた空気感に見応えあり


今回は新作の「裏切りのサーカス」をTOHOシネマズシャンテ1で観て来ました。シャンテはこれまで、銀座地区でフィルム上映を続けてきたのですが、ついにデジタル上映になっちゃいました。

東西冷戦状態の1970年代のロンドン、サーカスと呼ばれる英国諜報部のリーダー、コントロール(ジョン・ハート)は、幹部の中にソ連の二重スパイがいるという確信から、その情報を得るべく独断で工作員のジム(マーク・ストロング)をブダペストに送り込みます。しかし、情報提供者と接触する前にソ連の工作員に撃たれてしまい、もぐらと呼ばれる二重スパイは判明しないまま、コントロールとその片腕スマイリー(ゲイリー。・オールドマン)はサーカスを去ります。そして、コントロールが謎の死を遂げた後、スマイリーは政府高官から呼び出され、もぐらの特定を依頼されます。コントロールの下にいた幹部は4人、アレリン(トビー・ジョーンズ)、ヘイドン(コリン・ファース)、ブランド(キアラン・ハインズ)、エスタヘイス(デヴィッド・デンシック)がいました。そして、アレリンの情報ルートから、ソ連の情報を引き出すウィッチクラフト作戦が提案され、そのための別本部予算が組まれることになっていましたが、コントロールはその情報に懐疑的でした。また、スマイリーたちの退職と前後して、2人の職員が解雇されていました。一人はイスタンブールでの作戦で寝返ったとされるリッキー(トム・ハーディ)、そして、もう一人は、ソ連大使館のポリヤコフをスパイだと進言したコニーでした。スマイリーは、極秘でサーカスの中のピーター(ベネディクト・カンバーリッチ)を部下に使い、少しずつ二重スパイの正体に近づいていくのでした。

ジョン・ル・カレの原作を、ブリジット・オコナーとピーター・ストローハンが脚色し、「ぼくのエリ、200歳の少女」のトーマス・アルフレッドソンが監督した、いわゆるスパイものの一編です。米ソの対立が高まっていた冷戦時代、ヨーロッパの西側陣営の筆頭であった英国の諜報部に二重スパイがいたという設定で、二重スパイを探す元諜報員というドラマは、正直なところ、かなり込み入っていまして、人物関係を飲み込むまでに時間がかかってしまいました。さらに時制を越えたインサートカットが入るという凝った演出にも振り回されてしまい、結局、あのカットは何だったんだろうとわからないまま終わってしまった部分もありました。アホな私には不親切な映画ではあったのですが、全体を貫く緊張感はきっちりと伝わってきまして、そこにゾクゾクする映画的な快感はありました。「ぼくのエリ」の冷え冷えとした空気感とはまた違う、静かだけど張り詰めた空気が映画全体を支配していまして、これは、「ぼくのエリ」のホイテ・ヴァン・ホイテマの撮影の功績も大きいと思います。

諜報部の幹部4人の中にもぐらがいることは間違いないようです。ジムがブダペストで狙撃された晩に誰に情報が伝わって、誰が動いたのかということが問題になります。そこで、当日の当直の記録を調べると何者かに破りとられています。ジムは、その後、カーラと呼ばれるソ連のスパイによって拷問され、情報をしゃべらされた後、英国に返されて、退職して教師をやっていました。一方、イスタンブールでもぐらの情報を得るために提供者と接触したリッキーは提供者の妻に情が移ってしまい、結局逃げ回った挙句、スマイリーのところに転がりこんできます。リッキーは彼女がソ連諜報部に拉致されたことから、何とか彼女を救い出したいとスマイリーに頼み込みますが、スマイリーにはどうすることもできず、さらにリッキーは、英国諜報部からもKGBからも追われる身となっていました。実は、彼女はジムがKGBで拷問されているとき、彼の目の前で、カーラによって射殺されていたのでした。

という、お話が展開するのですが、この順番に映画が進行するわけではないので、物語を飲み込むになかなか手間がかかります。そんな中で、スマイリーの部下となって働くピーターが諜報部の内部資料を持ち出すシーンでの細かいサスペンス描写や、無残に殺害された死体だとか、印象に残るシーンが散りばめられています。一方で、スマイリーはほとんど表情を変えずに着々と事実を積み重ねていくことによって、二重スパイの正体に近づいていきます。ドラマ的な盛り上がりはほとんどないのに、その張り詰めた空気は、スマイリーによる部分が大きく、ゲイリー・オールドマンが静かな凄味のある演技で、ドラマを引っ張っていきます。また、登場人物の中で、マーク・ストロングがプライベートな部分も見せる儲け役で印象的でした。諜報部をやめた後、トレーラー暮らしで教師をしている彼が、おとなしい生徒と触れ合うところは、この張り詰めた空気を唯一和ませるシーンになっています。また、最後まで顔を見せないソ連の大物諜報員カーラの存在が映画の中で不気味に光っているのも印象的でした。かつて、スマイリーが寝返るように進めたときにそれを断って、祖国に戻った男、そして、その時の持ち帰ったスマイリーのライターを常に持ち歩いている謎の男は、映画の要所要所に姿を現すのですが、顔を見せない演出で、顔のないスパイの存在感を表現していました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。(といっても、私もどこまで飲み込めてるのか不安なのですが)



ソ連側の情報提供者から、ソ連の情報を入手するというウィッチクラフト作戦は着々と進められていましたが、スマイリーはそのルートのどこかにもぐらが絡んでいると確信します。そして、ソ連大使館のポリヤコフが情報提供者と目星をつけて、情報の受け渡しをする隠れ家を突き止めます。そして、英国諜報部に意図的にリッキーの情報を流します。このエサにKGBが動くはずだという、スマイリーの思惑どおり、隠れ家でポリヤコフと落ち合ったのは、諜報部の一人ヘイデンでした。彼はスマイリーの妻アンの愛人でもあったのですが、それは、スマイリーの判断を鈍らせるためにカーラの指示により、ヘイデンがアンを誘惑したというのです。ヘイデンはソ連へ送り返されることになるのですが、その前に、別の隠れ家に軟禁状態の彼を、ジムが射殺するのでした。結局、ウィッチクラフト作戦でソ連の偽情報に振り回された幹部たちは、姿を消し、スマイリーが英国諜報部のトップに返り咲くのでした。おしまい。

前半で、すごく地味なコリン・ファースが、後半でだんだん怪しくなっていき、隠れ家でしっぽをつかまれるあたりの展開が見事でした。結局は、スマイリーとカーラの頭脳戦だったことになるのでしょうが、両者傷み分けという結果になります。まあ、ウィッチクラフト作戦がそこそこ成功しているので、カーラの方が優勢だったのかな。国家間の冷酷なスパイ戦と、個人の葛藤を並行して描くことで、同じ人間に裏と表の顔があることが見えてくるという点が、私には面白かったです。無表情で冷酷に見えるスマイリーも妻アンのことは弱点だったですし、ラストで私人として銃口をヘイデンに向けるジムの怒りもまた人間としての弱さの裏返しとも言えます。ヘイデンがソ連に寝返った理由も、西側への絶望からでした。そんな人間としての葛藤を持ちあわせる一方で、諜報戦では非情にならざるを得ない、その象徴が、顔のない男カーラに集約されているというのは、映像化されることを前提にした脚本の妙なのでしょう。

音楽を担当したのは、アルベルト・イグレシアスでして、静かなドラマを彩る抑制の効いた音作りは、ヨハン・セーデルクヴィストの「ぼくのエリ」を思わせるものでした。こういう地味な音楽が今年のアカデミー作曲賞にノミネートされているのはちょっと意外でしたが、鳴らせばいいだけの映画音楽は食傷気味だっただけに、こういう縁の下の力持ちとしての音楽を認める人がいたってことはうれしく思います。しかし、この映画が、全く異なる題材の「ぼくのエリ」との共通点をたくさん持っているということは、それだけ監督のカラーがよく出ている映画ということになるのでしょう。わかりにくいところもありますが、面白い映画でした。

「バトルシップ」は大味だけど、意外と面白い視点を持ってて、そこは要チェック。


今回は、新作の「バトルシップ」を旅行先のフォーラム東根6で観て来ました。ここは、ボーリング場と隣接したシネコンなんですが、ショッピングセンターやフードコートとかはないので、果たしてやっていけるのかしらって余計なこと思っちゃいました。観た映画館は、スクリーンは小さめだけど高い位置にあり、傾斜のある座席配置なので、スクリーンの真正面だとかなりスクリーンが小さくなっちゃうのが弱点。

ハワイのオアフ島で行われる環太平洋海軍演習に、ストーン(アレクサンダー・スカルスゲルド)とアレックス(テイラー・キッチュ)の兄弟も参加していました。アレックスの恋人サム(ブルックリン・デッカー)は総司令官シェーン提督(リーアム・ニーソン)の娘さんで、軍の負傷兵のリハビリをしていました。演習が始まったとき、宇宙から5つの飛行物体がハワイ目掛けてやってきます。そのうち1機は人工衛星に衝突して爆発。ハワイの海に着水した飛行物体は要塞のような姿を海面に現し、そこから発射されたビームはオアフ島を含めた範囲に巨大なバリアを作ります。バリア内に3隻の戦艦が残されます。そして、要塞は攻撃型マシンに変形し、攻撃してきた駆逐艦サンプソンは、謎のマシンからの攻撃で爆破。艦長のストーンも死亡してしまいます。駆逐艦ジョン・ポール・ジョーンズも艦長も敵の攻撃で死亡、たまたまその艦に救助されたアレックスが艦長にさせられます。アレックスは即攻撃を命じます。そして、援護しようとした日本の護衛艦みょうこうが敵の攻撃され沈没、みょうこうの艦長ナガタ(浅野忠信)はアレックスの艦に救助されます。彼の提案で、観測ブイを使って敵の動きを察知し、攻撃の機会を狙います。一方、バリア内のハワイの宇宙衛星との通信を行うビーコン基地はエイリアンによって占領されていました。彼らは通信艦を失って、ビーコン基地を使って母星と連絡を取ろうとしていたのです。相手の攻撃マシン、バトルシップは重装備ではあるものの、人間側のミサイルでの攻撃には弱いことがわかって何とか反撃の機会を狙うのですが.....。

このバトルシップの製作に参加しているバスプロって会社は玩具メーカーもやっているそうで、自社ブランドの「トランスフォーマー」は「GIジョー」の映画化にも参加しているという日本で言うならバンダイビジュアルみたいな会社です。「バトルシップ」もその正体はボードゲームで、かつてタカラがアメリカンゲームシリーズとして日本でも発売されていた「レーダー作戦ゲーム」なのです。ただ、勘と推理で勝敗を競うボードゲームの部分は、中盤、観測ブイによって相手の動きを察知する部分になんとなく表現されているだけで、映画としては徹底したドンパチ映画になっていまして、そのドンパチだけで2時間10分を引っ張ったあたりのピーター・バーグの演出は評価できると思います。

予告編を観たときは、何だか大味な映画の予感がして、あまり食指が動かなかったのですが、旅行先で時間が合う映画がこれしかなかったので、まあ、拾い物ならめっけものというつもりでスクリーンに臨みました。冒頭で、地球に似た惑星が見つかって、そこに衛星から電波を送るというプロジェクトが始まるというシーンがあるのですが、これがどうも発端で、そこの住人が地球に攻めてきたというお話です。まあ、何だかわからないものはとりあえず攻撃しちゃうアメリカ軍と、敵意、もしくは兵器を備えたものだけを破壊するエイリアンという対決の構図が面白く、敵意がないものを攻撃しないというエイリアン側のルールによって、人類が勝機を見出すというジョン・ホーバーとエリック・ホーバーの脚本はなかなか面白いところを突いてると思いました。巻き添え食って殺されちゃう人間もたくさんいるけど、敵意を見せない者は見逃すってのは、イラクに派遣されたアメリカ軍の行動パターンです。つまり、エイリアンをアメリカ軍とみなせば、連合艦隊はアルカイダということになります。巻き添え食っちゃう一般市民はイラク市民ですね。特に、そういう説明はないのですが、日米連合軍をアルカイダにしちゃっていいのかよと思いつつも、おかげさまで敵に一矢報いることができ、敵をやっつけることに成功します。

エイリアンは重装備をしているものの、基本的に人間型をしており、その顔も映画の中でちゃんと見せます。類人猿っぽい顔にトカゲの目を持ったエイリアンは気色悪いものの、別の星の生命体だと思えば、人類だって似たようなものだと思わせる説得力があります。また、彼らのマシンには敵意検知機能がついていて、相手に敵意や攻撃の意思がなければ、攻撃は控えるというルールがあるようです。また、負傷したエイリアンを助けに来るという同胞愛もあり、単なる性根も頭も悪いエイリアンではありません。フェアプレイをするクリンゴンという感じでしょうか。クライマックスの戦艦同士の一騎打ちも、「スタートレック」のクリンゴン艦との闘いを思い出させるものがありましたもの。

ただ、ドラマはバリアの中に捕われた3隻の戦艦が中心となって展開しますので、エイリアン側のルールにはお構いなく、とにかく敵をやっつけることだけに専念することになります。そりゃ、地球に重武装してやってきた連中ですからね。そういう連中の好きにさせるわけにはいかないのですよ、そりゃ。時として、攻撃してこない人間も誤って殺してしまうことがあるってのもイラク戦争を思わせますし、それによって、ますます侵攻軍への敵意が募っていくってのは、まっとうな展開ではあります。戦争ってのは、立場が変われば同じことするんだというのがよくわかるお話になっていまして、果たしてこんな内容の映画がアメリカでヒットするんだろうかと気になってしまいます。まあ、趣向としましては、お役御免になっていたミズーリを退役軍人のじいさんたちが動かすというのがちょっと意外性があって面白かったですが、それとてゲリラ軍が旧式の武器で闘うという構図ですからね。

一応、サブプロットとしてダメダメな軍人だったアレックスの成長物語というのがあるのですが、これはあってもなくてもいいような話でして、単調なドンパチだけになっちゃう映画のスパイスにしているのかもしれません。また、日本の自衛隊のナガタに結構華を持たせているのは意外な展開でして、単なる添え物でない、使える男になっているのはなかなかカッコよかったです。

バトルシップが繰り出すヨーヨー型の兵器が行くところ敵なしの破壊ぶり、でも、無力な相手は殺さないという妙に抑制の効いた攻撃がむちゃくちゃ強くて、こいつには勝ち目がなさそうだと思わせるのですが、ラストで強引に、「親亀こけたら、皆こけた」パターンにしちゃうのは、かなり無理してます。無理してると言えば、朝日を背にして闘って、艦橋に銃弾を打ち込んで太陽光で目くらましするなんて、あり得ないような攻撃が功を奏したり、最新の駆逐艦を一気に爆破したバトルシップが老いぼれ戦艦ミズーリに負けちゃうとか、そもそも制空権を握っていて飛行兵器も持っているのに、戦艦と五分の戦いになっちゃうってのは変じゃないかと突っ込みは色々と入るのですが、それとて全ては人間側を勝たせないといけないという制約ゆえの無茶ということになります。

これをエイリアン側からの視点で見れば、未知の惑星に重装備で探検に行ってみたら、事故で通信機が壊れてしまったので、地球の通信機を使おうとそこを一時的に封鎖したら、そこにいた連中が攻撃してきたということになります。エイリアンとしては、協定があるのか、敵意のないものは攻撃してはいけないことになっていることもあって、行動に制約があり、そこを突かれて、原住民のゲリラ攻撃の前に敗れたということになりましょう。

そう考えると、人類の宇宙進出ってのは、アメリカ軍のイラク派兵と同じだねという話が透けて見えてくるのがこの映画の面白さになっています。表向きはものすごく能天気なアメリカ万歳映画のようで、実はリベラルな視点も持った映画という二重構造がただのSFアクションではない映画に仕上げています。ピーター・バーグ監督は「キングダム 見えざる敵」でもアメリカの捜査官がサウジアラビアでテロリストも自警市民も区別なく殺しまくるお話を作った人で、この映画の二重構造も確信犯的なものを感じさせます。

ラストは敵母艦とミズーリの一騎打ちになり、万事休すまで追い込まれたところで、バリアが解けて航空戦隊がミズーリを救うという決着になり、めでたしめでたしになるのですが、エンドクレジットの後にまだ敵方の破片が落っこちているというオチがつきます。ひょっとすると、こういう連中を救出するために再びバトルシップが地球にやってくるかもしれません。何しろ、仲間は見捨てない義理堅いみなさんですから。

トビアス・シュリッスラーのキャメラは、一時期のマイケル・ベイやトニー・スコットの映画みたいで、シネスコ画面でやたら登場人物に寄る圧迫感のある画面なのが気になってしまいました。いかにもスタンダードサイズの画面からシネスコサイズを切り取ったような感じなのです。視覚効果はILMが中心となって、10社くらいが参加しています。また、スティーブ・ジャブロンスキーの音楽は、とにかく鳴らそう的な音作りで、大味な映画にはフィットしているのですが、その分、音楽も大味だねってことになっちゃいました。活劇映えする音ではあるのですが。

「水の中のナイフ」はメイキング込みで観ると、その面白さがよくわかります。


今回は、pu-koさんに感化されましたシリーズの第二弾で、ロマン・ポランスキーのポーランド時代の作品「水の中のナイフ」を観ました。本編だけ観たときは「ほー」てな感じだったのですが、付属のメイキングを観て「へー」と感心しちゃいました。時代背景がわかると映画に別の顔が見えてくるんだなあって、侮りがたし、DVD特典。」

アンジェイ(レオン・ニムチェック)は、妻のクリスティナ(ヨランダ・ウメッカ)と週末を過ごすために湖へ向かっていました。途中、車にぶつかりそうになった青年ヒッチハイカー(シグムンド・マラノウィッチ)も同乗させます。湖に着くと、アンジェイは自分のヨットにクリスティナと乗り込みます。青年も成り行きでクルージングに同行することになります。青年に横柄な態度をとるアンジェイに対して、クリスティナはやさしく接します。青年はナイフを大事そうに持っていまして、まるでナイフが彼のアイデンティティのようにも見えます。どこか、得体の知れないものを持った青年で、3人の関係は危ういバランスの上に成り立っているようです。アンジェイが青年のナイフを隠してしまったことから、二人は口論となり、泳げないと言っていた青年が湖に落ちてしまいます。ヨットを戻して青年を探すアンジェイとクリスティナ、しかし、青年は浮かんできません。これはえらいことになってしまいました。この週末の結末はいかに。

ロマン・ポランスキーのポーランドで撮った唯一のモノクロの長編映画だそうです。当時のポーランドはソ連の影響下にある共産党政権であり、映画にも随分と検閲が入ったとメイキングでポランスキーやプロデューサーは語っています。この映画に登場するアンジェイは高級車に乗って、個人用ヨットも持っているといるといういわゆる上流層の人間です。みんな平等が建前の共産党政権で、「赤のブルジョワ」と呼ばれる存在がおおっぴらに語られるようになった時代のお話です。アンジェイという中年男は、船のことにはかなりくわしいようで、奥さんのクリスティナの名前をヨットの名前にしています。クリスティナは肉感的な女性でして、いわゆる男心をそそるタイプ。きつめのメガネをしているときと外したときの色っぽさのコントラストがかなり魅力的な女性です。一方の青年は、学生らしく、休暇を使ってお気楽な旅行をしているようですが、家はそれなりに裕福なように見えます。

94分の映画のうち、ドラマが動くのは最後の20分だけでして、それまでは、3人のヨットでまったりしている様子が描かれるという構成になっています。ですから、正直なところ、前半から中盤にかけては、この映画が一体どういう話なのか、雲をつかむような感じでした。アンジェイが偉そうにしたり、青年がそれに反発したりもするのですが、そこらへんのやり取りから、物語が見えてこないのですよ。どうやら、政治的な暗喩がそこには含まれているようなのですが、その時代の人間でない私にはピンとくるところがなくて、この映画は一体どこに行くつもりなのだろうかと思ってしまいました。そんな中で、カギとなる小道具がナイフです。青年は、ナイフを指の間に高速で突き立てる度胸試しみたいな技が得意です。そして、彼にとっては、ナイフがすごく大事なものらしいのです。そのことを感じ取ったアンジェイが後半で、それを隠してしまって、青年を挑発するのですが、素直に見れば、駄々っ子なオヤジが若造に意地悪しているという図です。そして、それを妻の前でやるのか快感みたいなんです。

そこには、ある種の嫉妬が見え隠れします。自分の酔狂で、クルージングに動向させたものの、妻と青年の交わす視線が気に入らない、そんな感じなんです。別に、青年とクリスティナの間に恋愛感情が芽生えたとかそんな風には見えないのですが、何かが気に入らない。極端に感情を露にするわけではないのですが、3人のパワーバランスの微妙な揺れをポランスキーは細かくすくいとっていきます。そこに意味をつけようとすれば、いくらでもつけられるし、普通の普遍的な心の揺れを素直に描いたとも言えます。まあ、それはラストへ向けての伏線となっているのですが、前半だけだと、私の浅い見方では、長い前フリに思えてしまいます。それでも、メイキングによって、当時の赤いブルジョアと若者の対立構図が見えてきますので、そう考えると意外と含むところ多いのかも。

登場人物はたったの3人、そして、ドラマとしては淡々と流れていく。多少のいさかいはあるものの、青年はアンジェイに極端に反抗することもなく、時にはクルージングを満喫しているようにも見えます。アンジェイもどこか優越感に浸っているところもあります。そんな中では、クリスティナだけがあまり感情を表に出さず、何を考えているのかわかりません。そこに夫婦仲があまりうまくいってないようなところも見えるのですが、それも「かもしれない」のレベルで、長く夫婦やってるとこんな感じにもなるよなあっていうレベルなんです。そんな3人の揺れ動く感情が、ラスト20分で一気に爆発するときがきます。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



アンジェイが、青年のナイフを隠し、その挙句にナイフを湖に落としてしまうことで、アンジェイと青年が格闘になり、青年が海に落ちてしまいます。彼は泳げないと言っていただけに青くなるアンジェイとクリスティン。海に飛び込んで探しますが青年は見つかりません。しかし、誰も知らない湖でのこと、青年のことはなかったことにしようというアンジェイを責めるクリスティン。ジャスティンはヨットから湖に飛び込んで、一人で岸へと泳いで行ってしまいます。一人で呆然としているクリスティンの前に青年が現れます。彼は泳げたのです。ブイの影に隠れて、アンジェイとクリスティンのいさかいを眺めていたのでした。そして、どちらからともなく唇を重ねて抱き合う二人。桟橋に戻る途中で船を降りる青年。桟橋にはアンジェイが待ち構えていました。アンジェイとクリスティンは車に乗り込み走り出します。青年を死なせたと思いこんでいるアンジェイに、クリスティンはありのままを伝えます。彼は生きていて、彼と寝たことを。それを信じていいのか当惑するアンジェイ。車は、T字路に差し掛かります。右へ行けば警察署になります。そこに車を止めるアンジェイ。止まったままの自動車をロングでとらえて暗転。おしまい。

突然、青年が湖に落ちてしまうことで、サスペンスな展開になります。それまで、普通のうわべを取り繕ってきたクリスティンの感情が爆発します。青年のバッグを捨てて、全てをなかったことにしようとするアンジェイを責め立てるクリスティン。そんな彼女をヨットに残して逃げさるアンジェイの弱さ。そして、死んだと思っていた青年に体を与えてしまうクリスティン。このあたりの、クリスティンの艶かしさが見ものです。彼女は、演技経験のない素人を、見た目でポランスキーがスカウトしてきたそうで、ラスト10分のために彼女を選んだのなあと思わせる存在感でした。ラストで、アンジェイは警察へ行くのか。たぶん、行かないだろうなあと思いつつ、クリスティンの話を信じてもいないんだろうな。でも、自分に都合のいいように解釈をしそうな感じ。そこに、ジャスティンの弱さを見せることで、ブルジョワの弱みと、女性のたくましさを感じさせる結末が面白いと思いました。自動車の行く先を見せない余韻は、「運命の女」で使われていましたが、それより思い出したのがキューブリックの「現金に体を張れ」の結末の余韻でした。結末のシチュエーションはまるで違うのですが、間というか呼吸が似ているのですよ。ある程度、結末は決まっているのに、あえて余韻を残すという感じに同じような空気を感じました。

ラスト20分でドラマが突然動き出すことで、それまでの展開が全て伏線になっていることがわかってくるあたりが見事というか、してやられたという気分にさせられました。ポーランド以外の欧米でヒットし、ポランスキーの存在を世界へ知らしめたそうですが、やはり共産圏のポーランドからこういう映画が出てきたということが目を引いたということではないかしら。細やかで、エロチックで、政治的な映画。その評価は時代とともにあるんだろうなという気にさせる映画でした。

「反撥」はDVDで観てもかなり怖い、そして面白い。


今回は、pu-koさんの「袋小路」の記事に感化されまして、ロマン・ポランスキーの昔の作品、「反撥」のDVDをゲットしちゃいました。原価より高い中古品DVDでしたが、大枚はたいた甲斐のある面白い映画でした。

美容院に勤めるキャロル(カトリーヌ・ドヌーブ)は、姉のヘレン(イボンヌ・フルノー)とアパートで二人暮らし。ヘレンは妻子あるマイケル(イアン・ヘンドリー)と不倫中で、キャロルにはそれが不満の種でした。彼女に言い寄るコリン(ジョン・フレイザー)にもつれない態度。どうも、彼女には男性恐怖症の気があるようで、さらに彼女の周囲の状況が彼女を追い詰めてきます。神経症的なおどおどした表情のキャロルの様子は尋常ではありません。ヘレンがマイケルと旅行に出かけ、アパートにはキャロル一人だけになります。すると、突然壁に裂け目が入ったり、部屋に見知らぬ男がいたり、ついにはその男にレイプされてしまいます。美容院も無断欠勤、たまに出れば、お客さんの手を傷つけちゃって早退させられたりと、ますますおかしくなっていくキャロル。そして、アパートに引きこもり状態になった彼女を、コリンが訪ねてきます。いるのにドアを開けないキャロルに苛立ったコリンはドアをぶち破って入ってきます。本気で、キャロルに入れ込んでいるコリンですが、男なんて汚らわしいものでしかない彼女にとって、これは一大事だったのです。

ロマン・ポランスキー1965年作品で、ロンドンを舞台に英語で撮られたモノクロ作品です。まるで予備知識がないまま観始めたのですが、これがサイコホラーだったのにびっくり。才気走ったところもありますが、ホラーとしてもかなり怖い映画に仕上がっていまして、今も使われるショックシーンのパターンとかが登場しているの驚きでした。また当時それほど有名ではなかったカトリーヌ・ドヌーブの美しいこと。視覚的な仕掛けの面白さもあって、見応えのある映画に仕上がっていました。特にギルバート・テイラーの撮影が見事でして、アップの見せ方や、空間の切り取り方にうまさを見せています。

キャロルの目のドアップにタイトルが出て、カメラが引いていくオープニングからどこか尋常じゃない感じがします。それでも、美容院で働いている彼女はまあまともな感じなんですが、コリンに声をかけられた時のリアクションが妙におどおどしているのが気になります。そして、家に帰ってみれば、姉のヘレンとの関係が何だかぎくしゃくしています。その原因はマイケルが現れるとはっきりとしてきます。キャロルからすれば、男はみんな汚らわしいもので、その筆頭がマイケルらしいのです。確かにイアン・ヘンドリー演じるマイケルという中年男は、キャロル目線ではすごい不快な人物として描かれています。そんな男と姉の情事の声を毎晩聞かされているのですから、キャロルにしてみれば、たまったものではありません。

キャロルの周りには、彼女の神経を逆なでするものがいっぱいです。姉が料理しないで腐らせたウサギの肉、芽の出たジャガイモ、汚らわしいマイケルの洗面道具、部屋の壁に入ったひび割れ、なぜか真夜中にも鐘を鳴らす修道院。もともと繊細なキャロルがだんだんと壊れていく様子を、彼女のアップを執拗に積み重ねることで、丁寧に描写していきます。そのアップの連続に耐えたドヌーブがお見事でして、観客とキャロルが同化してしまうあたりは、演出の妙もありますが、彼女の熱演によるものが大きいと思います。特に、普段は無表情な彼女に時折よぎる不安とか怒りの表情の不気味さが見事でした。ポランスキーは、彼女が道を歩くシーンやベッドで目を見開いているショットを長めに撮って、思わせぶりで、不気味な雰囲気を作ることに成功しています。また、小道具としての鏡とか、ウサギの肉や、マイケルのカミソリ、ジャガイモなどを執拗に映すことによって、病的な感覚を観客にまで投影してしまい、観る方は、監督の術中にまんまとはまり、静寂とショック描写の組み合わせにいいように翻弄されることになります。

キャロルは壁の亀裂や謎の男の幻覚に振り回されるようになります。壁がボロっと崩れ落ちたり、突然男が現れるショック描写がある一方、壁を眺めたり、ベッドで目を見開いたキャロルの長回しのショットが不安感を募らせます。家のテレビでこれだけ引き込まれるのですから、劇場で観たら、常軌を逸していくキャロルに感情移入しちゃうのではないかしら。精神に異常を来たしたヒロインに感情移入させる演出ってかなりすごいかも。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ドアを壊しても、キャロルに会いたかったコリン。キャロルはそのコリンを蝋燭立てで撲殺してしまいます。コリンを浴槽の中に沈めるキャロル。無表情なんだけど、目が虚ろじゃない、何かの意思を持っているキャロルがどんどん怖くなっていきます。壁に多数の裂け目ができたり、さらには、壁の中から何本もの手が出てきて、彼女の体をまさぐります。そして、アパートの大家が家賃の取立てにやってきます。最初は高飛車だった大家も、キャロルが一人と知ると、彼女に言い寄って、覆いかぶさってきます。キャロルは逆上して、マイケルのカミソリで大家に切りかかり、彼も殺してしまいます。謎の男は何度も彼女の寝室に現れて彼女をレイプしていきます。もはや正気を失ったキャロル。そこへ、ヘレンとマイケルが不倫旅行から帰ってきます。そこで、コリンの死体を発見して悲鳴を上げるヘレン。アパートの住人たちも集まってきます。キャロルはベッドの下から発見されます。マイケルによって抱きかかえられて運び出されるキャロルのカットから、カメラはリビングへとゆっくりと移動していき、子供時代のキャロルの家族写真のアップになります。その写真でヘレンは笑っておらず、カメラから目をそらせて、あさっての方向をにらんでいました。おしまい。

殺人シーンの見せ方などには、ヒチコックの絵作りを思わせるような仕掛けがあります。また、彼女の心理状態を表現するために、部屋を実際より広く見せる仕掛け(本当にセットを広げるのと、カメラの焦点深度を変えるのと両方使っているらしい)をしたり、壊されたドアの向こうに、アパートの住人である老婦人を入れたカットなど、視覚的な様々な工夫が、映画にリアリティよりも幻想的な恐怖を与えています。映画としては、ラストまで、全てがキャロルの幻想かもしれないという見せ方にしておいて、殺人だけは実際に行われていたという決着となります。そして、彼女の子供時代の写真のアップによって、この病的なヒロインが子供時代からの延長にあるのだと暗示されます。男性恐怖症になるようなトラウマが少女時代にまでさかのぼってあったのかもしれないという見せ方になっているのです。

ともあれ、幻想的なサイコホラーとしてこの映画は大変面白く、また男性恐怖症を性的コンプレックスとして描くことで、ある意味エロチックな映画に仕上がっています。カトリーヌ・ドヌーブが男目線からすると大変魅力的だというところがミソでして、それは、彼女に言い寄ってきた男が何人もいただろうということを想像させます。その積み重ねが彼女をじりじりと壊していったのかもしれないとか、色々な解釈の余地を残しています。腐っていくウサギの肉とか、芽をふくジャガイモ、壁の亀裂といったもの全てが彼女の狂気を投影しているように見えるあたりは、サイコホラーの常套手段になるのでしょうが、ヒロインの美しさと対照を成しているのが面白く、謎の男や壁から出てくる手は、彼女にとって畏怖するものが具象化したということになるのでしょうが、彼女の狂気がドロ沼化していく様子を表現しています。様々な趣向を凝らした見せ方が大変面白く、また、怖い映画に仕上がっています。DVDにはメイキングがついていまして、この映画がイギリスでソフトポルノを作っていた弱小プロダクションが出資し、低予算、短期間で撮影されたと関係者から語られます。確かにあまりお金がかかっているようには、見えませんでしたが、その視覚的な仕掛けの面白さからして、映画はお金じゃなくて知恵なんだなあって思わせる映画でした。

「ピラミッド 5000年の嘘」はこういう話が好きな私には残念な出来栄え


今回は、東京での公開を終了している「ピラミッド 5000年の嘘」を横浜ニューテアトルで観て来ました。デジタル上映ながら、画面は良好でした。

ピラミッドで有名なのが、エジプトはギザのピラミッド。これが今の技術からしても、ものすごい精密な建築だと認めざるを得ません。当時の単純な道具だけで作られたとは到底思えない。さらに調べてみると、その方角は正確に東西南北を向いており、その寸法には円周率や黄金数が隠されています。さらに、ピラミッドに似た石組みがイースター島とかサクサイワマン遺跡やマチュピチュ遺跡にも見られます。そして、多くの遺跡群は、赤道と30度で交わる線上に点在するのです。これは単なる偶然ではありません。これらの遺跡は、巨大な文明を築いていた過去から現代の我々へ向けてのメッセージではないでしょうか。

その昔、ピラミッドは宇宙人が作ったというエーリッヒ・フォン・デニケンという人がおりまして、私はこの人の本を読んで、「なるほど、そうだよなあ、昔の人があんなの作れないよなあ」って本気で思っていた時期がありました。その後、ピラミッドには色々な秘密が隠されているとか、実は当時の技術でも作れたとか、公共事業として作られたとか、本で読んだり、テレビで観たりして、まあさすがに宇宙人はないよなあって思っていたところ、「ピラミッド 5000年の嘘」なる映画が公開されているではありませんか。この「嘘」ってところがミソでして、これまでの定番であった、当時の技術ではピラミッドは作れないってのが嘘なのか。神とか宇宙人とか色々な神秘的な秘密が嘘なのか、どっちの方向へ転ぶのか興味ありました。マジメなのか、オヤジのヨタ話なのか、正直なところ、マジメな話を期待するところありました。

パトリス・プーヤールが脚本と監督を兼任した一応ドキュメンタリー仕立ての作品です。「私」がピラミッドに何か秘密があるんじゃないかって興味を持って色々と調査を始めるという設定で、ピラミッドにまつわる様々な秘密を暴いていくという構成を取っているのですが、まあ、最初は、ピラミッドがいかに精巧に作られているのかが示されますので、普通にドキュメンタリーしているのかなって気分です。でも、あのピラミッドが20年という短期間で建設されたと言いながら、当時の歴史ははっきりしていないと矛盾したことをのっけからかましてくるので、「おや?これはひょっとして」と思い始めると、案の定、展開が暴走し始めます。黄金数はあまりくわしくないのですが、円周率は車輪を転がして測量すれば、必ずあちこちに出てくるので、驚くにはあたらないくらいは私にも想像つくので、そういうことを新発見でもあるかのように、熱っぽく語り始めると、どんどん胡散臭さが増してきます。ピラミッドには色々な数字が隠されていると言い出すのは、都市伝説なんかでも、よくあるパターンですが、偶然半分、必然半分くらいの盛り合わせで、ところどころにウソをまぶしているという感じです。一気にハイテンションなナレーションでまくしたてられてると、すごいことだと思ってしまうのですが、実は「だから何なの?」という話なのです。

ピラミッドが正方形でなく、四辺の真ん中が少しへこんだ八角形になっているというのは初めて知りましたが、それが東西南北向いてたら、秋分、春分の日の出、日の入りできれいな影ができるのは当たり前だと、予備知識がなくてもわかるようなことを、さも大発見のように言ったりしてるのは、やや詰めが甘いという感じでしょうか。ピラミッドの内接円と外接円の関係から光速が導かれるというのは、正方形なら何でも当てはまるじゃんというところも同様です。こういうのは、すぐばれちゃうネタを盛り込むのはダメでして、誰も知らないから、ウソかホントかよくわからないというグレーなラインで話を進めてもらわないと、観ている方のテンションが下がっちゃうのですよ。突っ込みが入れられないというところにヨタ話のヨタ話たる所以があるのですから。

インタビューに登場する人々は大学教授とか建築家とか一応それなりの肩書きのある人々。それが、エジプト学(そんな学問があるんですね)について、保守的だったり、既存の概念にとらわれない人だったりと色分けされて登場します。こういう見せ方は、定番ですが、権威に逆らう新しい発見というのを盛り上げるために、有効に機能していました。後、「私」のブレインと呼ばれる謎の人物が登場して、「私」に様々な驚くべき情報を提供するのですが、この構成は、胡散臭さを増しただけで、失敗だったようです。謎の人物からの情報というのは、「友達の友達から聞いた」話と同じレベルになってしまって、その分、都市伝説度が増してしまうのですよ。嘘でも、肩書きと名前をでっち上げた方が話が面白くなったように思います。

この映画は、日本語吹き替え版でして、それも「超ナレーション」で語られているそうなので、ハッタリかまし度は、日本で増量させたのかもしれません。しかし、何でしょうね「超ナレーション」って。「超訳」みたいなものでしょうか。ひょっとしたら、オリジナルが言ってないことを語っているのかもしれません。でも、だんだん後半になるにつれて、単なる解説から、「私」の想うところを語り始めます。どっかで聞いたことあるなあって思ったのですが、これ、その昔の木曜スペシャルのUFO番組のパターンだと気づきました。当時は、田中信夫氏によって、UFOとかUMAのヨタ話(今はそう言えますが、当時はまだ子供だったので、マジで聞いてました。)を盛り上げていました。若い人には新鮮に聞こえるかもしれない「超ナレーション」も、オヤジには、懐かしのフレーズでした。

後半は、謎の情報提供者が長年の研究成果を示すということで、色々なことを言い出すのですが、まあこれがかなりぶっ飛んでいるのがご愛嬌というべきか。どうして、ピラミッドの話から、未来の災害への警告の話につながるのか、わけがわからないのですが、勢いだけで押し切る潔さは認めてしまうところがあります。昔はこういうテレビ番組とか本とかが一杯あったので、何だか懐かしい気分になってしまいました。子供の頃って、こういう話に結構感心しちゃうと共に、その恐ろしい未来予想図にビビっていたものです。そういう純心な子供、若しくは純心な子供の心を持った人には、この映画は結構のめり込んで楽しめるものではないかしら。私のように心の汚れた人間には、「あー、そこは、そういう風に語るとウソっぽく見えちゃうのに」というツッコミの方が先に出てしまいます。冒頭の、ピラミッドがものすごく精密に作られた建築であるというところは、結構納得しながら見ていたのですが、その先の、ピラミッドに隠された数字のあたりから、映画のほころびが見えてしまうのは、プーヤールの演出が、今一つだったということでしょう。

ドキュメンタリーに必要なのは、少なくとも、そこで見せているものが本物だと思わせることです。でも、ドキュメンタリー映画には、その昔(映画の創世記)からヤラセは付き物でして、いわゆる再現ドラマのようなものもドキュメンタリーとして上映されていましたし、再現どころか、完全にウソだというものもドキュメンタリーの看板を掲げていました。この映画では、基本的には本物風なつくりをしているのですが、そこにあるものが本物とは思えないのですよ。それは、こういう神秘的な題材を扱った映画の宿命ではあるのですが、ウソも上手につけば、少なくとも上映中はその気になって楽しめるのですから、がんばっていただきたいものです。ドラマだって、つきつめればウソなんですが、面白いドラマは観ている最中は心を奪われ、観終わっても何かが心に残ります。この映画がそうならなかったのは、結局、脚本と演出に無理があったというところに落ち着くのではないかと思います。こういうヨタ話は好きなだけに、その面白さを堪能できなかったのが残念でした。

「イエローケーキ クリーンなエネルギーという嘘」は、ウラン鉱山を生活者の視点から捉えたユニークなドキュメンタリー


今回は、東京での公開は終えている横浜シネマベティで「イエローケーキ クリーンなエネルギーという嘘」を観てきました。DLP上映なんですが、ここのはクオリティが今イチなのか、エッジの効いた部分だと横縞のノイズが出るんですよね。いい映画やってるんだから、何とかして欲しいわあ。

イエローケーキとはウラン鉱石を精製したウランの粉末のこと。ドイツ統合前、ソ連と東ドイツの合弁事業ヴィスムートというウラン採掘が行われていました。1990年末に採掘は中止されたのですが、採掘の際に出た放射性廃棄物は、ボタ山となって残っていました。そして、それはまた露天鉱へと戻されたりしているのですが、その塵灰が風で運ばれないとも限らないのです。また、元作業員もガンで多くの人が亡くなっていました。それでも、ウランの需要は高く、今はナミビアに鉱床が発見され、大きな鉱山が開かれました。そこには大きな雇用と金が生まれます。オーストラリアでも、大きな鉱床が見つかったのですが、先住権を持っていたミラー族はウラン採掘を拒否したのですが、政府の説得によって一つの鉱山が開かれてしまいます。さらに無断で別の鉱山を開こうとしたとき、族長のイヴォンヌが立ち上がり、ウラン会社と政府を相手に闘い、そこを閉山に追い込むことに成功します。モンスーン気候で大雨による洪水で元からある鉱山から放射生物質が流れてくる不安があります。カナダのウラニウム市は、元はウラン鉱山で栄えた町でしたが、近くに別の鉱床ができたことで、人口は激減、でも近所の湖には、廃棄物が捨てられたままで死の湖になっています。一方で、オーストラリアでウラン鉱床が見つかりながらも、土地の所有者が売却を拒否し、鉱山を開かせなかったケースもあります。しかし、核兵器や原発にウランは輸出され続けているのです。

ドイツのヨアヒム・チルナー監督によるドキュメンタリーです。この映画は反核とか反原発を訴える映画ではありません。その原料となるウラン鉱山の今の状況を描いています。ウランというのは、鉱山で採掘した原石の中から、ほんのちょっとだけ抽出されるイエローケーキがあって、後の膨大な土砂は廃棄物として捨てられることになります。ボタ山として山積みされるところもあれば、湖沼に廃棄されているところもあります。それが、どの程度の放射能を持っているのか、どの程度危険なものかまでは、映画では語られません。原発事故を目の当たりにした日本人からすれば、その辺りに物足りなさを感じるところもあるのですが、そのウランが日本にも輸出されていることを考えると、その環境への影響は他人事ではありません。

一方で、ウランはお金になります。そして、雇用も生みます。私、サラリーマンなんですが、実は私の勤める会社も原発に関わりを持っていて、それでお金を稼いでいます。ですから、偉そうに原発なんかなくなればいいと言える立場ではないのですが、個人的には、地球温暖化してもいいから、原発止めて欲しいと思っています。この映画に出てくる、廃鉱になった町では、またウラン鉱脈が見つからないかと、そこ出身の大学生が森の中で調査をしています。彼らにしてみれば、放射能が高い方がうれしいのです。また、鉱山が再開すれば、町に人が戻ってくるからです。核処理施設問題を扱った「六ヶ所村ラプソディー」に通じる複雑な事情がそこにはあります。

さらに、この映画で、語られることがあります。当事者に与えられる情報が明らかに少ないということ。ウラン鉱山で働いていた元作業者の口から語られる当時の作業が、放射性物質にさらされていたということ。ウラン鉱山を開くように土地を買おうとする会社の人間が、ウラン採掘の内容を語らないということ。そして、鉱山で現在働いている人間の口が重く、会社側は一切の取材を拒否しているということ。そのくせ、会社側の人間は、ウラン鉱山は全てがオープンになっていて隠し事はないと言う。どこかおかしい、何かが隠蔽されているとしか思えません。もちろん、ドキュメンタリーとは言え、意図的な編集、映像の取捨選択が入っているわけですから、ある主張への誘導があることは認めます。でも、ウラン採掘によるボタ山や汚泥の池はどうなるのか、そして、ドイツでは、その対策に税金が使われているというのです。放っておいては、危険なのだということなのでしょう。どの程度、危険なのか、それがよくわからない、あるいはわかっている人間は語らないというところが問題なのでしょう。いや、語っている人の言葉が私たちの耳に届いていないだけなのかもしれません。

チルナー監督は、ウラン鉱山の解説をするつもりは一切ないようで、それに関わる人々のありようだけを丹念に追っています。そこから見えてくるのは、ウラン採掘によって、潤う人間がいて、ウラン鉱山を歓迎する人間がいるということ。一方で、それに反対する人がいるということです。それも、学者とか専門家と言った、ある意味部外者ではなく、そこに生活する人間の立場に絞って描かれている点がユニークです。でも、ウラン鉱山がどれだけ危険なものかは直接語られません。あくまで、多数のボタ山や、広範囲にわたる汚泥池の映像でしか伝わってこないので、ちょっと物足りない部分もありました。とはいえ、放射能は、長期に渡って人間の体を蝕む一方で、ウラン鉱山はそれに比べれば短いスパンでお金をもたらすという構図は鮮明に見えてきます。そして、目先の経済効果を優先した結果、その後始末に膨大が税金が使われ、その後始末も成功の目処が立っていないという事実は知っておく必要があると思いました。

会社側の人間は言います。ウランは他の鉱物と基本的には同じだ、ただ放射性物質としての注意が必要なだけだと。そこのところが肝心なのに、うまくはぐらかされたような気がします。ただ、今回の地震での原発の一件から、いたずらに危険を煽られるのはイヤだし、安全だとだまされるのはもっとイヤだと感じています。誰かに言われたことを鵜呑みにせずに、こまめに自力で調べないとホントのところがわからない。そうしないと、また誰かのいうことにだまされる、何を信じていいのかわからない、そんな時代に生きているんだなあって実感させられる映画でもありました。

でも、感覚的な部分で、ウラン鉱山は環境を壊すよなあ。そして、それを扱う原発は危ないものだというのは感じます。人間は、そういう危険なものを扱うには、慎重さと正直さが足りないと思うからです。

「アーティスト」はサイレント映画という趣向に乗っているラブストーリーは意外と新鮮


今回は、新作の「アーティスト」を川崎チネチッタ8で観てきました。日曜日の1回目というのに、500席クラスの大スクリーンにお客さんは20人ほど。こういう映画はやっぱりミニシアター向けなのかな。まあ、私も映画にそれほど魅かれたわけではなく、とりあえずアカデミー賞取った映画ってどんなんだろうっていう興味だけで、劇場に足を運んだのですが。

時は1927年、映画はまだサイレントの時代、キノグラフ社の映画スター、ジョージ・ヴァレンティン(ジャン・デュジャルダン)は次から次へと映画に引っ張りだこでお客さんからも大喝采。ちょっと、女の子とぶつかっただけで、その写真が新聞の一面を飾るくらいの大スター。その女の子ペピー(ベレニス・ベジョ)は女優志望でダンスがうまくて、ジョージに憧れている女の子。彼女は映画のバックダンサーから、端役を経て、徐々に有名な女優となっていきます。そんなときに登場したのは、映像と一緒に音も出るトーキー映画。そんなもの芸術じゃないと一蹴したジョージですが、キノグラフ社はこれから撮影する映画を全てトーキーにすると発表。それならばと、ジョージは自分で製作、脚本、監督まで兼任してサイレント映画を作ったものの大コケ。同じ日に封切られたペピー主演の映画には行列ができていました。その夜、話したいと訪問してきたペピーをむげに追い返してしまうジョージ。さらに悪いことに大恐慌も始まり、かつてのスター。ジョージ・バレンティンは、運転手に給料を払えないほど落ちぶれて、酒びたりの日々。一方、スター街道を邁進するペピーは順風満帆。しかし、ペピーにとって、ジョージは単なる映画スター以上の存在だったのです。

アカデミー賞の作品賞、監督賞、主演男優賞、作曲賞、衣装デザイン賞と5部門を受賞した作品です。作品賞と監督賞の両方を押さえたということは、今回のオスカーの最高の映画とランク付けられたと言っても過言ではありません。予告編を観た限りでは、昔のサイレント映画のスターが落ちぶれて、恋人の若い女優が逆にスターになっていくというお話だという印象だったのですが、本編はちょっと違う味わいになっていまして、監督、脚本、編集を兼任したミシェル・アザナヴィシウスのセンスが光る一編となっていました。期待していたのより、かなり面白かったです、この映画。

キノグラフ社の映画スター、ジョージは愛犬といつも一緒でして、このわんこが映画で共演することもあります。ぽっと出の女の子ペピーにとっては雲の上の人。ダンサーの一人に選ばれた彼女が踊っていると、その隣へ行って一緒に踊ってみせるジョージといった微笑ましいシーンが二人の最初の出会いとなりました。とりあえずエキストラとして撮影所に入ったペピーですが、ジョージと共演することになります。ジョージとペピーが本筋とは関係なくダンスをちょっとだけ踊るシーンがあるのですが、そこでなぜかNG連発でリテイクを繰り返すことになります。このシーンで、二人が相手を想うようになるきっかけになっていまして、そのNGも映画の後半でちゃんと生かされているのに感心しちゃいました。でも、それ以降、二人はほとんど接点のないまま、トーキー映画の波が撮影所を一変させます。それまでの、サイレントの大仰な芝居から、トーキーの自然な演技へと演出も変わり、また、スターも変わっていきました。ジョージは忘れ去られた存在となり、ペピーは新進スターとして脚光を浴びるようになります。ジョージにはドリス(ペネロープ・アン・ミラー)という奥さんもいたのですが、彼女もジョージのもとを去っていきます。

再起を賭けて、自分でプロダクションを興して作ったサイレント映画が大コケした夜、ペピーがジョージを訪ねてくるのですが、それは失意のジョージのプライドをさらに傷つけるものでしかなく、ジョージは彼女を追い返してしまいます。かつて、大スターだっただけに、そのプライドは高かったようで、トーキー映画に出ることはありませんでした。スターがその人気がなくなって、脇役としてスクリーンに生き残るというパターンもあるのですが、彼はそういう選択はできなかったのです。運転手のクリフトン(ジェームズ・クロムウェル)にも給料を払えず、それでもジョージに尽くそうとする彼を無理やりクビにしてしまいます。金に困った彼は持ち物全てをオークションにかけて売り払ってしまいます。

映画はスタンダードサイズのモノクロで音楽のみで進行し、セリフの説明部分には字幕が入るという昔のサイレント映画のスタイルを取っています。そんな中で、トーキーの出現によって、ジョージが悪夢を見るシーンのみ、実際の音が入ってくるのと、後、ラストに音が出ます。ですから、基本的に見せ方はサイレント映画。しかし、ドラマそのものはある程度リアルに見せなくてはいけないので、そのあたりの演出のさじ加減が難しかったようです。サイレント映画の感情過多な演出ではダメ、かと言ってセリフ抜きで微妙な感情を伝えて、かつサイレント映画らしさを損なってはいけないわけですから。そのあたりは、ルドヴィック・ブールスの音楽によって、かなりカバーしているように思いました。また、昔の映画への様々なオマージュが入っているようなのですが、昔の映画を知らない私には、さっぱりでした。それでも、この映画を楽しめましたから、誰にもオススメできる映画に仕上がっています。

また、何年にも渡るドラマなのに、ラスト近くになるまで、ほとんど二人が一緒になる機会がないラブストーリーというのも面白かったです。ある意味、秘めたる奥ゆかしい恋、言い換えると、奥が深い愛の物語。後者の意味するところは、一歩お互いの感情がすれ違っていたら、ドロ沼になっちゃうってことも含んでいますから、奥ゆかしい恋の物語が正解かも。また、ジョージの飼っているわんこがやたらと登場して愛嬌を振りまいていまして、この犬にもかなりスポットライトが当たっているのですが、わんこ映画としては、この犬が曲芸のうまい犬くらいにしか見えないのが残念。わんこ映画としては、「木洩れ日の家で」の方を断然オススメしちゃいます。

演技陣では、主役の二人がやはりよかったですが、この二人はフランスの俳優さん。一方脇をハリウッドの俳優が固めていまして、ジョン・グッドマン、ジェームズ・クロムウェルが渋い演技を見せてくれ、また、お久しぶりのペネロープ・アン・ミラー、ミッシー・ハイヤット、エド・ローターまで出てきますし、メインタイトルで二枚看板だったのですが、なぜか1カットしか出番のなかったマルコム・マクダウェルなど、なかなか面白い顔ぶれがそろっていました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



自暴自棄になったジョージは、家にあったフィルムを燃やしてしまいますが、それでボヤを起こしてしまいます。わんこが警官を呼びに行ったおかげで、ジョージは助け出されます。その時、彼は1巻のフィルムを抱きかかえていました。そのニュースを新聞で知ったペピーは、病院に向かいます。彼が抱えていたフィルムは、エキストラの頃のペピーがジョージと共演したときのNGフィルムでした。ペピーはジョージを自分の家(と言っても、複数の使用人がいるようなお邸)に連れて帰ります。すこしづつ元気を取り戻します。しかし、彼女の家で、ジョージは自分がオークションで売り払ったものを発見してショックを受けます。オークションで彼の所蔵品を買っていたのは、ペピーのメイドと執事だったのです。そして、彼は自分の家に帰り、拳銃を取り出して自殺しようとします。一方、ペピーも彼の家へ自ら車を運転して向かいます。この件は、いわゆるカットバックを意図的に使って、サイレント映画のハラハラ感を演出しています。ペピーは間一髪で間に合い、ジョージに映画で共演しようと提案しようと言います。今更、忘れられたスターなんか誰も観たくないと拒否するジョージですが、ペピーにはあるアイデアがありました。そして、撮影所のステージで、音楽に合わせて華麗に踊るジョージとペピー。二人はミュージカル映画に主演することになったのでした。めでたしめでたし。

二人の最初の出会いがラストへの伏線になっているというのには感心しちゃいました。また、最初の出会いから、4,5年後にやっとお互いの愛を確認するという構成も、今風でないようで、いいところ突いてると思いました。純粋に恋愛映画として観ても新鮮でしたもの。私にとっては、昔のサイレント映画へのこだわりよりも、今の映画としてのドラマの組み立ての方で楽しめる映画になっていました。それは、単に才気に走らなかったアザナヴィシウスのセンスが良かったということになるのでしょう。サイレント映画を模したのではなく、現代の目に新鮮に映るラブストーリーをサイレント映画のスタイルで撮ったという感じなのです。ハッピーエンドも楽しく、1時間40分があっという間に経ってしまいました。

「ヒューゴ」「マリリン」「アーティスト」と過去の映画志向の作品がオスカーレースに並んだのは、ちょっと不思議な気もしますが、それだけ、最近の映画に目新しい企画がないのかもしれません。まあ、映画ができて100年以上も経つわけですから、ネタも尽きてくるでしょうから、過去の映画のいいところを再発見するのは意味のあることだと思います。でも、それはあくまで趣向であって、描くテーマは現代であって欲しいものです。

「ルート・アイリッシュ」は戦争ビジネスをテーマに描いたヘビーなミステリー


今回は銀座テアトルシネマで新作の「ルート・アイリッシュ」を観てきました。この映画館はロビーとか狭いのに、映画館の空間がやけに広い、ミニシアターとしては不思議なつくりの映画館です。天井高いですし。

リバプールで一人の民間兵フランキー(ジョン・ビショップ)の葬儀が行われました。彼はイラクでグリーンゾーン(安全地帯)から空港へ記者を運ぶ途中で襲撃に遭ったのでした。彼は、死ぬ直前、幼なじみで友人のファーガス(マーク・ウォーマック)に電話で連絡を取りたがっていましたが、ファーガスが喧嘩で警察に逮捕されていたので、連絡を取ることができませんでした。フランキーは正式の軍人ではなく、戦争をビジネスとする会社に雇われたいわゆる傭兵でした。ファーガスは、葬儀での会社の態度に憤り、フランキーが何を伝えたかったのかを知ろうとします。彼は、共通の知り合いであるマリソルからある包みを受けとります。それは、イラク人の携帯電話で、そこに記録されていた動画で、ファーガスたち民間兵がタクシーを追跡して発砲、中にいたイラク人家族と撮影していた少年を殺します。車から降りたフランキーが民間人を殺害したことで逆上しているところで映像は終わっていました。どうやら、会社は何かを隠しているようです。ファーガスはフランキーの死に疑問を抱くようになっていました。果たしてイラクで一体何が起こっていたのでしょうか。

「麦の穂を揺らす風」「この自由な世界で」などで、戦争や社会の矛盾を描いてきたポール・ヴァーティの脚本、ケン・ローチ監督の新作です。今回の舞台となるのは、イラクで治安維持活動をしている民間軍事会社です。フランキーは国家の軍人として戦死した扱いにはなりません。会社に雇われて、仕事中に死亡したということになります。以前、テレビか何かでこういう会社があるという話は聞いたことはあったのですが、この映画で初めてその実態に触れることができました。彼らはアメリカによる命令17号に守られていました。それは、民間兵のイラクでの行動に、イラクの法は適用されないといういわゆる治外法権の命令でした。そして、民間兵はテロリストと思われる人間の家に乗り込んで、暴行を働いたり、拷問をしたりすることも許されてしまうのです。その結果、それまで、外国から来た兵士たちに中立的な立場であった人々たちまでアルカイダに肩入れするようになったと映画の中で語られます。昔は、戦争は金になるというのは、兵器を作って売りつけるというのがメインで、そういう連中をいわゆる死の商人と呼んでいたのですが、今は金で兵士を雇って送りつけることがビジネスになっているというのです。自由化民営化の行き着く先がこうなってしまうのかと思う一方で、そんな連中に日々の生活を蹂躙されても、誰からも、法からすら守られていないイラク市民がいるということは大変ショッキングな事実でした。傭兵というとスティーブン・セガールの映画みたいに、自分には関係ない世界のように思えるのですが、ここで語られる民間兵というのは、普通の人が選択する出稼ぎの一つであり、自分たちと地続きのところにいる存在であることは、この映画を他人事に思えなくしています。

そういう理不尽な話が映画の展開から見えてくるのですが、本筋となるのは、友人の死の真相に迫ろうとするファーガスの行動です。彼も元民間兵で、フランキーと行動を一緒にしていたのですが、その仕事をやめて、会社を興して、今では結構お金持ちらしい。フランキーの妻であったレイチェルと一緒になって、フランキーの死の事実を知ろうとイラクにいる友人に調査を頼むとともに、イラク人のミュージシャンに携帯電話の翻訳を依頼します。携帯の持ち主はどうやらイラク人の少年らしく、そこに収められていた動画は、民間兵がイラクの民間人を殺害するところでした。この一件は、正当な戦闘行為、対テロリストの行動として致し方ないこととして片付けられていました。この事件の当事者は、フランキーの他に、ネルソンという男と、コロンビア人3人がいました。ところが、フランキーが死んだ襲撃事件で、そのコロンビア人3人も死亡していました。何かがおかしいと感じ始め、レイチェルと共に、軍事会社のウォーカー(ジェフ・ベル)とヘインズ(ジャック・フォーチュン)に接触していきます。そして、フランキーは、事件以後、もっとも危険と言われるロード・アイリッシュと呼ばれる道路を行き来する仕事を何度もやらされていたという事実がわかってきます。それは会社によって、生命の危機の確率が上げられていたことを意味していました。

ファーガスはいわゆる兵士出身のタフガイで、見た目からして、鋭さと怖さを持っています。彼は、民間兵での体験でトラウマを持っているようです。そして、フランキーの死に隠されているものに対して異常なまでの執念を燃やします。しかし、彼は単純なヒーローとして描かれてはいません。怒りに任せた行動は正義とは別の怨念のようなものを感じさせます。ケン・ローチの演出は、今回はミステリータッチで、エンタテイメントとしても面白くできているのですが、その結末には、やはり苦い後味を運んできます。そして、今もまだ、民間軍事会社とそれに雇われた民間兵がイラクやアフガンで一般市民を苦しめているという事実が続いていることが示されます。そういう意味では、「この自由な世界で」の延長線上にある映画と言えましょう。金持ちが貧乏人を搾取する構図が、今度は金持ちが貧乏人を使って弱者を虐待するという構図に発展しています。彼ら、戦争によって国を荒らした後、復興計画だと称して、また金を稼ごうとする。マッチポンプなんですが、金になることなら、そこに住んでる人間の生活、命すらどうでもいいというのは、実は戦争の本質なのではないかという気がします。ビジネスというと耳新しいように聞こえるのですが、戦争を始めて、戦争に勝って、そこを統治するってことって、そういうことなのではないかしら。昔は国家しかやれなかったことが、自由化によって誰でもできる時代になったのです。恐ろしいことですが、それにより、人間の欲望のタガが一つはずれてしまったような気がします。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



フランキーはこの民間人殺害を公にして、残された家族に補償をしようとしていました。それに対して居合わせたネルソンは不満で、フランキーに対して様々な嫌がらせをしていました。ウォーカーやヘインズはその事件をもみ消そうとしていましたが、彼らに言わせると、ネルソンが誰かを使ってフランキーを殺そうとしたのではないかとほのめかします。一方、ネルソンは帰国し、ゴロツキを雇って、レイチェルとファーガスの家を家宅捜索し、証拠の携帯電話を探しまわります。そして、留守番電話から、イラク人のハリムの身元が割れてしまい、彼の家が襲撃され、携帯電話もPCも奪われ、ハリムも大怪我を負ってしまいます。もう、犯人はネルソンだと決まったようなものです。ファーガスは、ネルソンを拉致して、水責めの拷問で口を割らせようとします。最初は、フランキーは、フランキーが死んだ時は、自分はアフガニスタンにいたと殺害を否定します。また、誰かに殺害を依頼したこともないと言います。しかし、拷問の末、ネルソンは、自分がフランキーを殺したと自白します。そんな彼をファーガスは水責めで殺してしまいます。

その後、ジェイミーというイラクで整備士をしていた友人が帰国してきて、驚くべき事実をファーガスに告げます。フランキーが殺害された時、ネルソンは本当にアフガニスタンにいたというのです。そして、ネルソンが殺害を依頼したと思われた男も、事件の1週間前に亡くなっていたのです。ネルソンは、事件のことを告発しようとしたフランキーを脅してはいましたが、殺してはいなかったのです。そして、合併によってさらに業務を拡大することに成功した、ウォーカーとヘインズが女性と一緒に自動車に乗った途端、その車が大爆発が起こります。レイチェルの留守番電話に、最後の言葉を吹き込むファーガス。そして、川を渡る船から身を投げるファーガス。川の水面のアップになって暗転、エンドクレジット。

ネルソンは最低な奴でしたが、フランキーを殺してはいませんでした。ウォーカーとヘインズの情報に誘導されて、ファーガスはネルソンが犯人だと思い込んで、彼を殺してしまったのです。明確には語られないものの、会社側がフランキーを危険にさらして、さらにひょっとしたら、何者かにフランキーを襲撃させたかもしれません。結局、ファーガスの復讐は、ウォーカーとヘインズに対して、再度実行されますが、その時、直接は関係していない女性も巻き添えにしてしまいます。ファーガスがやったことは、復讐であり、過ちでもありました。その中には、さらに復讐を生む種を含んでいます。その責任は、彼が負うには重いものだったのでしょうか。全て、口をつぐんで生き続けることもできたのでしょうが、彼は彼なりの落とし前をつけます。

しかし、それで、死んだイラク人の少年が生き返るわけではなく、彼の家族の悲しみが癒えるわけではありません。ラスト近く、ファーガスは、殺されたイラクの少年の母親と電話で話します。金でできるだけの補償をしたいと申し出るファーガスに対して、母親はそんなものはいらないと言下に拒否します。命に値段はつけられないですが、でも、イラクでは簡単に人が殺されています。金額で言うなら、安い値段で人が殺されているのです。ビジネス感覚で言うなら、コストが安いほうがいいことなのです。戦争がビジネスなら、安く人が殺せた方がよいことなのです。それが、自由化の行き着く先だとしたとき、人間の倫理感ってのは、金の力には勝てないのかなって気がしてきます。派手な銃撃戦や爆破シーンもある娯楽映画風の見せ方もしていますが、その扱っているテーマはシリアスであり、ずっしりと重い見ごたえがありました。

サントラビギナーにはいい時代でした

今回はちょっとサントラの話をします。オヤジの昔語りで、最後は、最近の若い人は気の毒だねえというところに落ち着きますから、そういうのが嫌いな方はパスして下さい。

その昔、私が映画音楽に初めて接したのは、東宝チャンピオンまつりのゴジラ映画でした。「ババババーン」という迫力がすごいなあって思い、その次はテレビで観た「猿の惑星」、「何だ、この音楽は。今まで聞いたことないけど、すごいぞ」って、再放送された時はテレビをカセットで録音しました。この頃は、まだ誰が作曲家なのかなんて興味はなかったです。

最初にサントラ盤を意識したのは、1970年代、映画館で「イルカの日」を観たときでした。映画もよかったのですが、このテーマ音楽がものすごく美しくて、この曲を作ったのは誰なんだろうと思い、ジョルジュ・ドルリューなる舌を噛みそうな名前を覚えました。再度、この音楽を聴きたいと思ったとき、それをサントラ盤というレコードで聴けることを知りました。とは言え、中学生の小遣いでは、限界がありまして、購入したのは、シングル盤レコード。いわゆるドーナツ盤というやつです。A面が「イルカの日のテーマ」B面は「ノクターン」という曲。やっぱり聴き返してもいい曲はいい。これでサントラ盤に目覚めました。

次にサントラ盤を欲しいと思ったのが、ジェリー・ゴールドスミスの「チャイナ・タウン」。これはテーマ曲もよかったのですが、ドラマを支える現代音楽風の音がよくって、頑張って、LP盤をゲットしました。1970年代は、親にもらった小遣いで映画を観ていたので、そうはたくさんの映画を観られなかったのですが、その中に映画音楽の当たりが多かったです。そのヒット率は、ここ数年の映画の比ではありませんでした。ジェリー・ゴールドスミスの「カサンドラ・クロス」「オスロ国際空港ダブルハイジャック」にスケールのでかさを堪能し、「オーメン」の音楽の持つパワーに驚嘆していました。さらにアストル・ピアソラの「サンチャゴに雨が降る」の美しさに感動し、ラロ・シフリンの「燃えよドラゴン」「ダーティ・ハリー」のかっこよさにしびれました。これらの映画には、サントラLPが出ていて、小遣いのほとんどをサントラLPにつぎ込んでしまいました。

さらにクリスチャン・ゴベールの「白い家の少女」、エンニオ・モリコーネの「エクソシスト2」「オルカ」に心奪われ、バーナード・ハーマン「愛のメモリー」に圧倒されました。だんだんと作曲家の名前も覚えてきて、モリコーネ、ゴールドスミスといったごひいきができてきました。この人が音楽をやっている映画なら観てみたいという映画の選択方法も出てきました。そして、その期待が裏切られることは少なかったです。映画は今イチでも音楽でモトが取れるという観方ができるようになりましたから。思い出補正かもしれないことを承知で言いますが、当時の映画音楽は当たりが多かったです。シングル盤を買えば、A面にメインタイトル、B面が愛のテーマという割り振りになっているのが多くて、あの「オーメン」でさえ、愛のテーマがあったのですから、音楽が豊かだった時代ではなかったのかしら。「ロッキー」のテーマだって、初めて聞いたのは映画館の中ででした。

そして、さらにジャンルとしてのホラー映画の音楽に目覚めていったのですが、この頃のホラー映画の音楽は、まだまだ創成期でして、色々な実験的な音作りがされていました。ゴブリンとジョルジョ・ガズリーニの「サスペリアPART2」におけるプログレッシブロックとジャズの融合。シンセサウンドのはしりとなった、ジョン・カーペンターの「ハロウィン」とフレッド・マイロウの「ファンタズム」、ピアノとオケが美しくも怖いキース・エマーソンの「インフェルノ」(「チューブラーベルズ」は純粋な映画音楽ではないので別格扱いしてます)といった印象的なサウンドに接する機会を持てました。

さらに、映画を観る前にサントラ盤をゲットするという先買いを始めたのも高校生の頃です。最初に先買いしたのは、ジェリー・ゴールドスミスの「エイリアン」でした。SFだけどホラーな映画の音楽は、フルオケによる厚くて鋭い音にびっくり。音楽だけ聴いてもイケてると思いました。そして、大学に行くために上京してからは、輸入盤に手を出すようになりました。今のCDと違って、LPはでかい分、ジャケットのデザインのインパクトで思わず手が出てしまいます。そして、日本で公開されるかどうかわからない映画のサントラにも手を出すようになってしまいました。それでも、聴いてその素晴らしさに震えたクリストファー・ヤングの「屋根裏部屋の花たち」ですとか、ピノ・ドナジオの「デビルズ・ゾーン」、リチャード・バンドとクリストファー・L・ストーンの「プリズン」といったゲテもの映画の先買いが始まって、こうなるともう病気状態です。

ともあれ、そうなるに至った理由は、1970年代から1980年代にかけて、映画館で色々な音楽に出会えたからです。私の後の世代になると、「トップガン」「フラッシュダンス」みたいな主題歌の時代となり、そこから映画音楽への興味が始まった方が多いのではないかしら。ところが、21世紀に入ってからは、映画音楽が氷河期というと大げさですが、ちょっと停滞しているなって気がします。今の若い人がサントラファンになる機会があるのかしらって思うくらい地味な音が多いです。音楽的に悪くはないのですが、入門編になるような音楽が少ないような思います。私の頃ですと、先述の「イルカの日」とか「燃えよドラゴン」「追憶」あたりの音楽で、サントラの魅力に引き込まれていったのですが、そういう、サントラビギナーを引き付ける音が最近は少ないような気がします。特に、心を捉えるメロディが少ない、AKB48の曲の方がずっとキャッチーなメロディラインを持っています。最初から、サントラマニアを相手にするのではなく、普通の人をこっちの世界へ引っ張り込むメロディラインやアレンジを持った音楽を期待しているのですが、なかなか少ないような気がします。そういう意味で、期待している作曲家にはレイチェル・ポートマンとクレイグ・アームストロングがいます。そして、彼らの音楽を生かした映画が作られますように。



「スーパー・チューズデー」は、え、そういう映画だったの?という点で意外性がありました。


今回は、新作の「スーパー・チューズデー」を川崎チネチッタ5で観てきました。映画の日の初回ということで、混雑してるかなと思っていたのですが、そうでもなかったのが意外。地味だし、オスカーとも縁のない映画はこんなものなのかなって思っちゃいました。

大統領選挙の民主党指名候補選は、オハイオ州の予備選挙が勝敗を決すると言われていました。プルマン上院議員に対抗するのはモリス知事(ジョージ・クルーニー)で、有能な選挙参謀ポール(フィリップ・シーモア・ホフマン)と広報官スティーヴン(ライアン・ゴズリング)はモリスを勝たせるべく選挙活動の日々を送っていました。モリスはリベラル派で、ある意味理想に燃えた革新的な男でした。一方、スティーヴンは選挙事務所の見習いモリー(エヴァン・レイチェル・ウッド)をデートの誘いベッドを共にします。そんなスティーヴンに、対抗馬であるプルマンの選挙参謀トム(ポール・ジアマッティ)が会いたいと言ってきました。会ってみれば、プルマンに乗り換えないかというお誘い。一応は拒否したものの、そのことをポールに報告するのをためらってしまうスティーヴン。一方、ポールは、たくさんの票数を持っているトンプソン上院議員(ジェレミー・ライト)と交渉していたのですが、うまく行ってませんでした。トムのことを結局モリスとポールに報告するスティーヴン。そんな時、モリーの口から、驚くべき事実が発覚します。その上、タイムズの記者アイダ(マリサ・トメイ)に敵方のトムと接触していたことを知られてしまいます。果たして、スティーヴンはこの難局をどう乗り切るのでしょうか。

ジョージ・クルーニーが共同脚本、共同製作に参加し、監督も担当したという一編です。原作は舞台劇だそうですが、映画としては政治の裏話ということになるのでしょうが、候補者であるモリスではなく、広報官であるスティーヴンを主人公にしているところがミソになっています。大統領選挙の仕掛けを完全に把握できてない私には、オハイオ州の予備選挙がどうしてそんなに大事なのか理解できないところがあったのですが、民主党の大統領候補になること、つまり民主党のトップに立つためにはオハイオが重要なポイントで、対抗候補との優劣の変化が日々報道されているということ。まるで視聴率に一喜一憂するテレビ局みたいなんですが、選挙参謀やスタッフは勝てば、国政の中央に食い込めるかもしれないし、負ければただの人になってしまう、まあ、日本の選挙と同じようなシビアな環境にいることが描かれていきます。そして、有能な人間なら、敵方の人材にも引き抜きをかけてきます。

スティーヴンも広報官として有能でしたが、オハイオ州の予備選挙では、2人の候補者の力は伯仲していまして、どっちが勝ってもおかしくない状態。カギとなっていたのは、たくさんの票を握っていたトンプソン上院議員でした。彼を自分の方へ取り込めた陣営が予備選挙に勝てると言っても過言ではありませんでした。また、スキャンダルが持ち上がることはどっちにとっても命とりでした。でも、映画の中では、具体的な選挙戦の中身はあまり語られません。テレビのインタビューや公開討論会でどんなことを言うかとか、そういうところがドラマの中心ではありませんで、スティーヴンの周囲で起こる事件がメインのお話なのです。その発端となるのが、選挙事務所の見習いモリーとスティーヴンが寝てしまうこと。その夜、モリーの携帯にかかってきた電話に間違えてスティーヴンが出てしまったことから、物語が回り始めます。

演技陣に曲者をそろえていまして、「その土曜日、7時58分」で共演しているフィリップ・シーモア・ホフマンとマリサ・トメイがカギとなる役どころを好演していまして、また、そのトメイと「レスラー」で共演し、ミッキー・ロークの娘を演じたエヴァン・レイチェル・ウッドが重要な役に抜擢されています。ポール・ジアマッティも敵方の選挙参謀をいやらしいくらい見事に演じきりました。マックス・ミンゲラは「アレクサンドリア」ほどのインパクトがなくて、ちょっともったいない使われ方かな。ライアン・ゴズリングは、この映画の主役をポーカーフェイスで演じていまして、主役なのに腹芸で勝負しているのが面白かったです。クルーニーの演出は、どういうドラマになっているのか、なかなかわからない展開の意外性で見せる作りになっています。その展開の面白さは認めちゃうのですが、え、これで終わりなの?という終わり方をするのは、もとがそういうお話だったのかしら。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



モリーの携帯に電話をかけてきたのはモリスでした。実はモリスはモリーと関係を持ち、その結果、モリーは妊娠していました。この事が発覚すれば、大スキャンダルになります。スティーヴンは、彼女を産婦人科医に連れていき堕胎させるのですが、清廉潔白なイメージで売ってきたモリスがそんなことをしていたことは、スティーヴンにとってもショッキングな出来事でした。一方、スティーヴンとトムが接触していたことをアイダにリークしたのは、スティーヴンの上司と言ってもいいポールでした。彼は忠誠を重んじる男で、トムと接触した直後に報告せずにいたことで、彼を切り捨てることにしたのです。それはモリスも同意の話でした。スティーヴンは怒りに任せて相手陣営のトムに会いに行くのですが、彼がクビになることは、トムの計算内だったのです。自分陣営に取り込めればよし、それが知れて相手陣営をクビになってもよし。そして、クビになったスティーヴンを改めて自分の陣営で雇うことはできないと冷たく言い放ちます。そこで、スティーヴンはトンプソン上院議員に会いに行き、副大統領の椅子を約束するから、モリス陣営についてくれと依頼し、議員を取り込むことに成功します。

さらに、いいのか悪いのか、モリーが薬物の過剰摂取で死亡してしまいます。映画の中では、それが自殺なのか事故なのははっきりとは語られません。しかし、モリーの部屋から携帯を持ち去ったスティーヴンは、それを使ってモリスに揺さぶりをかけます。携帯の中にモリス宛の遺書があったというスティーヴンにモリスはしらを切りとおそうとします。遺書の存在も実際にあったのか、スティーヴンのハッタリだったのかはっきりしないのですが、スティーブンの要求とおり、ポールはクビになり、スティーヴンは彼の後釜になり、トンプソン上院議員とモリスの間を取り持つのでした。公開討論会の場所で、モリスの代わりにマイクテストをするスティーヴンのアップになり、暗転、エンドクレジット。

たぶん、予備選挙でモリスが勝つであろうというところで映画は終わります。そして、スティーヴンはある意味、瓢箪から駒で、ポールの後釜におさまることに成功します。スティーヴンのトムとの接触したというスキャンダルは、モリスの大スキャンダルに比べたら大したものではありません。そのあたりの駆け引きに面白さがあると言えましょう。予備選挙を政策で闘っている裏で、全然政治とは関係ないスキャンダルによって、もう一つの闘いがあったという構図は、よくあると言えば、よくある話なのかもしれませんが、その見せ方は大変がよくできていまして、展開で見せる映画に仕上がっています。ただ、もう少し、その先も見せて欲しかったような気もしまして、記者アイダや、相手参謀トム、スティーヴンの後釜ベン(アンソニー・ミンゲラ)といったメンツはどうなったんだろうってところが気になっちゃいました。本当にモリスのスキャンダルを隠し通すことができるのかってところも不安材料がありますし、そのあたりに触れずに切って落としたのは、スティーヴンにだけ焦点をあてて、余計なものをそぎ落としたかったのかもしれませんが、曲者たちが、色々な思惑をかかえてドラマを展開してきただけに、ちょっと物足りないかなって気もしちゃいました。

「少年と自転車」のリアルで淡々とした語り口はハリウッド映画に慣れた目には新鮮に映りました。


今回は、新作の「少年と自転車」を109シネマズ川崎9で観てきました。ここは突然変異的にこういう映画を上映するので、あなどれないシネコンです。まあ、全スクリーンにスペシャルシートが2列もあったりして、うっとうしいシネコンでもあるのですが。

父親がいなくなり、施設に預けられた少年シリル(トマ・ドレ)は、そのことが納得できず、学校をさぼって、もといたアパートへと向かいます。そこには結局父親はおらず、施設のスタッフに追いかけられたシリルは同じ建物の診療所に逃げ込みますがつかまって施設へ戻されます。その診療所に居合わせた女性サマンサ(セシル・ドゥ・フランス)が善意から、父親が売り飛ばしたシリルの自転車を買い戻して施設まで届けてくれます。シリルは、彼女に週末だけの里親になって欲しいと頼み、サマンサもそれを受け入れます。そして、自転車の転売元にあった張り紙から、父親の居場所を探し当てるのですが、食堂で働く父親(ジェレミー・レニエ)は、息子につらくあたり、連絡してくるなと言います。生活が苦しいからなのか、他に理由があるのか、父親にネグレクトされてしまったシリル。それでも、サマンサのところで過ごす週末に救われているようです。そんな彼が、密売人と噂されている青年に目をつけられます。やさしそうに接してくる青年に、心を開くシリルですが、彼はシリルに強盗をするようにそそのかしてきます。そして、その青年のために強盗に手を染めてしまう。果たして、サマンサの想いは、シリルに届くのでしょうか。そして、シリルは悪の道に入って行ってしまうのでしょうか。

ベルギー出身の、ジャン・ピエールとリュックのダルデンヌ兄弟が脚本と監督を担当し、カンヌ映画祭でグランプリを取った作品です。私はこの人の映画は「ある子供」だけ観ているのですが、にっちもさっちも行かない若者が最後に更生しようと思うところで終わる大変印象的な作品でした。ただ、娯楽映画かと言われるとどっちかというと映画祭向けのアートな映画という感じでした。この映画は、12歳の少年を主人公に、大人にはまだ遠い少年の心の有り様を丁寧にそしてリアルに描いています。何がリアルかって、まずシリルという主人公に全然かわいげがないんですもの。駄々っ子みたいに暴れたり、ぐずってみたりと、その辺に転がっている普通の子供。ただし、その境遇は父親にネグレクトされてしまってかなり気の毒。父親が行方不明になっている方がまだ希望が持てるのですが、せっかく見つけた父親に自分を拒否されてしまうのですから、どっか歪んでしまってもおかしくない状況です。

そんなシリルに対して、たまたまぶつかっただけの縁で、週末の母親になってくれるサマンサという女性はまるで女神のように見えます。いや、そう見えるのは、観客の方でして、シリルにしてみれば、週末に施設を抜け出るための理由だけの存在かもしれません。少なくとも、大人が思うほどには、シリルは彼女の献身的な行動には無頓着です。それが悪いというわけではなくて、子供はそんなところまで気が回らないですから仕方のないことです。ですから、ワルと付き合ったりして、サマンサに心配をかけてしまっても、彼女の心にまでは、気が回らない。むしろ、自分を男として認めてくれるワルの方に心が傾いてしまいます。サマンサは、自分の彼氏に「オレとシリルとどっちを選ぶんだ」と言われて、シリルの方を選ぶと言い切ってしまいます。それは、シリルの境遇に対する同情なのか、それともシリルに対して母性愛を感じたのか、はっきりとは見せませんが、何となく後者の方を思わせる展開になっています。

ダルデンヌ兄弟の演出は、そういう幼さを否定も肯定もしないで、淡々と描いています。あえてドラマチックにすることを拒否しているようかの演出は「ある子供」とも共通しています。そして、淡々としたドラマの最後に微かな希望を見せてくれるのも、同じような趣向でして、決してハッピーエンドとは言いがたいのですが、人間のリアルなドラマとしての充実感がありました。リアルなというのは、そこにいるシリルの存在感、実在する子供をリアルに写し取っているように感じさせる演出にあります。セミドキュメンタリータッチとでもいうのでしょうか。物語を語るのではなく、登場人物を語るというドラマ作りになっているのです。サマンサを演じたセシル・ドゥ・フランスは、ちょっと説明が難しいキャラクターをそこにいる人として演じきりました。また、父親役のジェレミー・レニエは「ある子供」でもダメダメな主人公を演じていましたが、ここでも、またどういう動機なのかわからないけど、子供を捨ててしまうダメ父親を静かに演じています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



密売人と呼ばれる青年にそそのかされたシリルは、集金してきた男をバットで殴りつけ、金を奪って逃げます。その時、男の息子に見つかってしまうのですが、その息子も殴りつけてしまいます。青年のところへ金を持っていくと、青年は口止めのために、シリルに金の一部を渡します。その金を持って父親に渡そうとするシリルですが、そこでも彼は父親に拒絶されてしまいます。サマンサの家に帰ってきたシリル。サマンサは警察が彼を捜していることを告げ、彼と一緒に警察に向かいます。密売人は逮捕され、シリルはサマンサが損害や医療費を肩代わりすることで示談に収めるのでした。ある晴れた日、サイクリングに出かけるシリルとサマンサ。シリルもサマンサになついたようで楽しそう。近所の家族をバーベキューに誘おうと言うことになり、木炭を買いに自転車を走らせるシリルですが、その彼を見咎めたのが、強盗の被害者の息子でした。彼はシリルを赦してはいなかったのです。彼とシリルはもみ合いになった後、森に逃げ込んだシリルに石を投げるとそれがヒットし、シリルは木から落ちて動かなくなります。息子に救急車を呼ぶように言う父親ですが、シリルに関わって息子に傷がつくのは恐れていました。しかし、傷だらけのシリルがむっくりと起き上がり、被害者親子を無視して、自転車に戻り、買った木炭を抱えて、自転車を走らせるのでした。暗転、エンドクレジット。

結局、シリルは強盗をやっちゃいます。青年が金を渡そうとすると「君のためにやったのだから」と一度は拒否します。事の善悪は薄々はわかっているものの、自分を認めてくれた青年のためだからと、強盗をやっちゃう。このあたりの幼さは、それを利用する方がものすごく悪いのですが、その構図は、子供に限ったことではありません。いい大人だって、自分の価値を認めてくれた人のために、多少の悪事に手を染めてしまうことはありますもの。でも、幸いなことに、警察と被害者のおかげで、示談で事がおさまります。それは、サマンサがいたからこそなんですが、そこにシリルも若干気づいたようです。全てを明確にわかるようには描かない演出なので、類推するしかかいのですが、シリルにとってもサマンサが大事な存在になったようなのです。だからこそ、被害者の息子ともみ合いになり、大怪我をするところだったのに、とにかくサマンサのところへ帰ろうするシリルの姿にささやかな希望の光を見てとることができました。

少なくとも、映画の冒頭のシリルとラストのシリルは別人のようです。慕っていた父親にネグレクトされて自暴自棄になっていたシリルの姿はラストでは見えません。これから先も色々なことがあるだろうなと思わせる一方で、その時、サマンサから愛されているという確信が彼を救うのではないかなって感じさせる結末の後味は悪くありません。でも、そこをドラマチックに盛り上げることをせず、そこに転がっている事実を淡々と見せていくだけの演出で、温かみは感じても、どこか口当たりはあっさりとしています。そこが、この映画の見所ということになるのでしょう。丁寧に説明されて描き込まれたドラマを見慣れた目には、結構新鮮に映りましたもの。そんな中で、シリルとサマンサがサイクリングに行くシーンだけが、美しくドラマらしく描かれていたのが印象的でした。
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Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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