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「孤島の王」は見応えは十分だけど、実録ものにしては寓意が多めなのが不思議な味わい


今回は新作の「孤島の王」を横浜シネマベティで観て来ました。DLPのシネスコサイズでの上映だったのですが、暗いところがつぶれたり、明暗のコントラストが強い画面では、動きに色が追いついてこなかったりして、フィルム上映より、明らかに見劣りしちゃうんだよなー。

1915年のノルウェー、バストイ島に非行少年の更生施設がありました。そこへ、札付きのワルらしいエーリング(ベンヤミン・ヘールスター)が送り込まれてきました。そこは、厳格な院長(ステラン・スカルスゲールド)によって統制が取られている別世界でした。エーリングを迎えたのは、後3週間で卒院予定のオーラブ(トロン・ニルセン)たち、そして陰湿そうなブローテン寮長(クリストッフェル・ヨーネル)は暴力によって寮を支配していて、目をつけた少年に性的虐待まで行っていました。寒さの中で十分でない食事、そして規則に違反すれば、過酷な労働を強いられる環境で、少年たちはただ生かされているような状態でした。エーリングは、すぐに脱走すると言い出すし、ケンカを起こしたりといわゆるトラブルメーカー。卒院を目前にして、ゴタゴタを起こすことは避けたいオーラブとも衝突します。しかし、ある夜、とうとうエーリングはボート小屋の鍵を壊してボートを盗んで脱走してしまうのでした。

あんまり聞いたことのない言葉だなあって思っていたら、ノルウェー語の映画でした。タイトルでたくさんの会社名が出て、エンドクレジットでたくさんのプロデューサーが出ていることからすると、日本の製作委員会方式で作られた映画みたいです。パンフレットによるとノルウェー、フランス、スウェーデン、ポーランドの合作となっていますから、国際的な出資による映画のようです。監督のマリウス・ホルストはノルウェーの人だそうで、実際にあった出来事に基づいたフィクションの体裁をとっています。冒頭で、鯨が銛で撃たれているシーンが登場し、そこに昔話を語るようなナレーションがかぶります。銛を3発食らっても泳ぎ回る鯨がいたという話から、島へ護送されるエーリングの姿になります。

俗世間から隔離された孤島にある非行少年の更生施設は不気味なまでに統制が取れていました。それは院長や寮長による厳格な規則によるものでした。少年たちはその権威に対して逆らうことはできません。少年たちは、収容されている棟の名前と番号で呼ばれていました。オーラブはC-1、エーリングは、C-19という具合です。その施設の規則を破ること、権威に反抗すること、それらは、食事を減らされたり、重労働をさせられたり、時には暴力を振るわれたりすることを意味していました。そんな過酷な状況のもとで、エーリングは入所早々から、脱走する気満々でした。6年間ここにいて、後3週間で卒院できる予定のオーラブは、自分のいる間にそんなトラブルを起こさないで欲しいというのですが、エーリングは脱走を決行してしまいます。わざと毒キノコを食べて診療所に入り、そこから抜け出してボート小屋へ向かうエーリング。その時、一緒に診療所にいたC-5のイーヴァルが彼を追ってきて、一緒に連れて行って欲しいと頼むのですが、エーリングは彼を足手まといだと相手にしません。イーヴァルは寮長から性的虐待を受けていたのです。そして、イーヴァルは寮長に報告に行き、大騒ぎになるのですが、既にエーリングは脱走した後でした。その結果、寮の全員が食事を半分に減らされてしまいます。

エーリングの行動は、他の院生にとっては、傍迷惑である一方で、希望の象徴でもあったようです。ただ、この映画では、エーリングとオーラブ中心にドラマが展開し、他の院生たちが、何を感じ、考えていたのかまでは具体的には描かれません。また、いわゆる優等生であるオーラブがエーリングに共感していたのかも曖昧です。海面が凍りつくような寒さの中での労働を強いられる少年たちの姿を、ホルストの演出は距離を置いた視点から描いているように見えます。非行少年の更生施設とそこにいる少年たちもドラマの背景として、エーリングとオーラブの葛藤が前面に出てくるので、虐げられたり、荒んでいく少年たちの姿は見えてこず、実録もののドラマとは違う味わいになっています。最終的に二人の少年のドラマに収束していく展開にしたのは、単なる悲惨な物語に希望とカタルシスを与えるためだったのかもしれません。

少年同士の衝突とか確執もあまりあるようには描かれておらず、この施設にはそれなりの秩序があるように見えます。そこに現れたエーリングはその底辺の秩序に対して反旗をひるがえす存在だったのです。後半は、ある事件をきっかけに堰を切ったように物語が動き出すのですが、それまでは、ひたすら忍耐を強いられる少年たちが描かれます。やはり、そこには、院長や教師側に権威があり、日本にあるような学校崩壊のような現象は起こっていません。むしろ、少年たちの連帯感が感じられる描き方になっています。非行少年と更生施設の被害者という、両者の顔が重ならないのですが、その曖昧な印象は映画の最後まで残ってしまいました。

それでも、ドラマとしての面白さは十分にありまして、自由を求めるエーリングと、義憤にかられるオーラブの友情の物語しては、きっちりと完結していますし、結末に救いもあります。極寒の孤島をバックにした、少年二人のドラマとして観るのが正解かもしれません。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



イーヴァルが寮長から性的虐待を受けていたことを、オーラブは院長に報告します。院長は、寮長を問い詰め、解雇を言い渡そうとするのですが、寮長は院長の金の使い込みを知っていると逆に脅迫してきます。ある日、少年たちが、森での作業をしているとイーヴァルの姿が見えません。彼は海岸の波の中で漂っているのが発見されました。エーリングは、彼の服の中に石が入っていることを発見し、彼が自殺したことを知ります。院長は、イーヴァルが脱走しようとして溺れ死んだということにして、事をうやむやにしちゃいます。オーラブは憤りますが、そんな彼に卒院の日がやってきます。しかし、解雇されたと思っていた寮長を見て逆上、寮長に殴りかかり、それに加勢したエーリングともう一人ともに、独房に入れられてしまいます。棺おけのような檻の中に閉じ込められ、気力も失せつつあったオーラブたちを救ったのは、日頃から寮長にバカにされてきた使用人でした。そして、独房から脱走した3人ですが、オーラブは逃げようとせず、寮長を迫っていきます。それを見ていた施設中の少年たちが決起し、施設は、武器を持った少年たちに制圧されてしまいます。寮長は半殺しにされ、院長たちは島から船で逃げ出します。しかし、それで事が済むわけがなく、ノルウェー軍の軍艦がたくさんの兵を引き連れてやってきます。武装した兵士たちに次々と捕らえられる少年たち。最後まで、残ったオーラブとエーリングは、凍った海を徒歩で渡ろうとします。しかし、途中でエーリングは氷の割れ目に落ちてしまいます。必死で引き出そうとするオーラブに「もういい手を放せ」と言い残して、海に沈んでいくエーリング。そして、年月がたち、バストイ島へ向かう船の中に大人になったオーラブの姿があったのでした。更生施設の実写と思われる古いフィルムが流れた後、エンドクレジット。

イーヴァルの自殺が引き金となって、オーラブは寮長や院長に怒りの感情を露にするようになります。それが、少年全員の暴動にまで発展してしまうのですが、施設側の人間に死人が出ていないのが、どこか腑に落ちないものを感じてしまいます。殺されそうになる寮長もエーリングに救われますし、本当にそんな程度に済んだのかなって。そして、結末は最初から見えているのですが、そこでオーラブだけが逃げ延びることで、物語に救いを与えています。映画の途中で、エーリングが、鯨と捕鯨船の物語をオーラブに語って書き留めさせるシーンが出てきます。その物語が、施設での少年たちの様子とだぶることで、映画にある種のファンタジーの空気を運んできます。実録ものではあるのですが、その描き方はリアリティよりも、自由と正義を求める人間の寓話という味わいが強くなっています。しかし、孤島の施設という風景と抑制された描写のリアリティからすると、どこかバランスが悪いかなって印象も持ってしまいました。とはいえ、映画としては、引き込まれてるものがありますし、見応えもあります。演技陣も見事で、院長役のステラン・スカルスゲールドはさすがの存在感を見せてくれますし、少年たちも熱演しています。寓意とリアリティの比重が、私の期待していたものと違っていたのかもしれません。

「ぼくのエリ」のヨーハン・ソーデルクヴィストが担当した音楽が重厚だけど美しい音で印象的でした。検索したのですが、サントラ盤が出ていないようなのが残念。以下のサイトでエンドクレジットの曲が聴けます。

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「空の大怪獣ラドン」は特撮演出が素晴らしいと改めて確認


今回は久しぶりにDVDで「空の大怪獣ラドン」を観ました。その昔、ブツ切れフィルムで劇場鑑賞し、その後、テレビ放映版をビデオに録って何度も観た映画ですが、DVDはさすがに画像がきれいです。ブルーレイも出ているらしいのですが、そう大差はないってのをどっかのレビューで読みました。昭和31年という自分が生まれる前の映画ではあるのですが、その出来栄えは素晴らしく、怪獣映画ファンだけでなく、一般の映画の中(例えば、キネマ旬報社の日本映画作品全集とか)でも、評価の高い一品です。

阿蘇の近くにある炭鉱で突然の出水。そして、普段から仲の悪かった二人が行方不明となりその片方が惨殺された死体で発見されます。さらに3人人間が殺されます。炭鉱技師河村(佐原健二)は犯人扱いされている行方不明の五郎の妹キヨ(白川由美)のことを気遣います。そして、巨大ヤゴのメガヌロンが出現、こいつが犯人だったと判明、警察と防衛隊で炭鉱の奥まで追い詰めますが、そこで落盤が発生、居合わせた河村が行方不明になります。そして、阿蘇山近くで大規模な地表の陥没が発生、するとそこに記憶喪失になって河村が発見されます。一方、福岡上空で謎の超音速飛行物体が目撃され、追跡した戦闘機はその物体に破壊されます。記憶を失っていた河村は、小鳥の雛が卵からかえるところを見て記憶を取り戻します。彼が目撃したのは巨大な卵から怪鳥が生まれ、メガヌロンを餌にしている様子でした。彼の証言から、阿蘇一体の調査に向かうと、地中から怪鳥ラドンが出現します。ラドンは、戦闘機部隊による攻撃をものともせず、北九州市方面から福岡市内へとやってきます。空陸からの攻撃を受けるラドン。そこへもう一匹のラドンが現れます。福岡市は二匹のラドンによって火の海と化してしまうのでした。

「ゴジラ」を手がけた、製作 田中友幸、監督 本多猪四郎、特技監督 円谷英二によるSF怪獣映画の一品です。黒沼健による原作を、「ゴジラ」の村田武雄と、「マタンゴ」「ガス人間第1号」の木村武が共同で脚色しました。82分という短めの映画ではありますが、無駄のない展開とスケールの大きさが見事に融合してまして、映画としての満足度はかなり高い作品です。まず、炭鉱内の連続殺人からお話が始まり、それが巨大なヤゴの仕業とわかるのですが、このヤゴが体長5メートルくらいのそこそこの大きさで、警察官が追いかけるのですが、逆に鋭いハサミ状の手にやられてしまうという展開が、ちょっと小スケールの怪獣映画っぽい味わいになっています。しかし、炭鉱の奥に追い詰めて落盤というところで、お話としては一段落ついてしまいます。そして、謎の飛行物体のエピソードになります。戦闘機が飛行物体を追跡するシーンは管制室と戦闘機のやり取りがなかなかにスリリングでして、特撮と本編がうまくリンクして映画を盛り上げています。前半の炭鉱での日常的なシーンから、一気に空中戦という非日常の世界へと話が広がっていくあたりは脚本の妙なのでしょう。

また、特撮シーンも前半からたくさん盛り込まれていまして、メガヌロンがボタ山に登って警察官に切りつけるシーン、地震による陥没シーンなどの見せ場があり、それがラドンの誕生シーンで一つのピークになります。巨大な洞窟の中にある巨大な卵があって、それにヒビが入りラドンのヒナがかえるシーンはかなりインパクトがありました。そこから、ラドン出現から、戦闘機隊による追跡と攻撃がテンポのよい演出で描かれていきます。西海橋という巨大な橋の手前に墜落したラドンが、その橋の向こう側から飛び立って橋が破壊されるシーンが視覚的に素晴らしい出来栄えでした。さらに福岡市内に降り立ったラドンと戦車隊との攻防も迫力があるもので、スペクタクルとして非常に盛り上がりました。これは、「ゴジラ」の重いヘビーな見せ場とは一線を画すもので、純粋に楽しめるエンタテイメントとしての演出になっています。実際のところ、ラドンの着ぐるみが何本ものピアノ線で吊られているのが、DVDだとよくわかるのですが、そういう技術的な部分を、演出で補って、見せ場として成立させているというのがすごいと思います。確かにたくさんの実在する建物のミニチュアを組んで、それを壊していくテクニックも見事ですが、観客のテンションを上げているのは技術より、特撮演出であり、それをサポートしている本編演出なのだと改めて納得しました。今日の目で見れば、それが精巧なミニチュアであり、ピアノ線で操演された着ぐるみであることは一目瞭然なのですが、それでもスペクタクルとしての興奮度は落ちていないのです。それは、映像のアングルであったり、撮影であったり、編集であったりと色々な要素があるのですが、ひっくるめて演出ではないかなって思いました。

また、このシーンのバックに流れる伊福部昭の音楽もアップテンポのオーケストラ曲になっていて、重厚な「ゴジラ」の音楽とは一線を画す音作りが見事でした。前半では重いサスペンスフルな音楽が続いたあと、舞台が空に移ってからは、アップテンポの曲調となり、それにミリタリーサウンドを融合させて、画面を盛り上げることに成功しています。

ラドンをこのまま放置しておけば、また持って行き場のない被害を被らねばならないということから、阿蘇山のラドンの巣へ総攻撃をかけることになります。しかし、それは、阿蘇山の噴火を誘発する危険をはらんでいました。付近の住民を避難させ、ミサイルによる阿蘇山の火口付近への攻撃が始まります。このミサイル攻撃が、執拗に描かれているというのが、面白い見せ方でして、要は「ここまでやるか」的な見せ方が、ラドンに対するシンパシーを喚起するところがあるのですよ。遂に、阿蘇山は噴火し、二匹のラドンは飛び立つのですが、その一匹は噴火の炎から逃げ出せないでいると、もう一方のラドンがそれに寄り添うように降りていきます。そして、まず一匹が溶岩の炎に包まれていき、さらにもう一匹も力尽きて溶岩の中へ落ちていくのでした。このシーンはラドンをロングショットでのみとらえ、それを見つめる人間たちも言葉を失うという演出がされています。とはいえ、ラドンの悲劇性をクローズアップしていない、ある意味淡々とした演出が見事にはまっていたように思います。「ゴジラ」のドラマチックで悲劇的な結末とはまた違った味わいを出すことに成功しています。それは、自然災害の一つであるラドンが、同じく自然災害の一つである火山噴火によって死んでいくという、人間が直接介在していないという点にあるのかもしれません。とはいえ、人間側による阿蘇山攻撃のこれでもかという破壊描写に、ちょっとだけ、ラドンの悲劇性を感じさせる演出があったように思います。

人間側の演技陣は、一応、佐原健二と白川由美、そして警官役の小堀明男の3人がタイトルクレジットでトップになっていますが、ラドン発見者役の佐原健二以外は、全員脇役という位置づけになっています。むしろ、柏木博士役で登場する平田昭彦の方が印象に残る役まわりになっていて、これは儲け役といったところでしょうか。

当時としての製作規模がどの程度のものかはわからないのですが、九州でのロケ部分と、炭鉱や洞窟の原寸大セットとミニチュアセットなど、かなりお金がかかっているという印象を受けました。その一方で、マットペインティングを要所要所に入れ込んであったり、ラドンの飛行する影を合成したカットなど、視覚効果にもかなり手がかかっているようです。この翌年に「地球防衛軍」が製作され、東宝特撮映画は、SF度を増していくのですが、その一歩手前の段階、つまり「ゴジラ」「ゴジラの逆襲」に連なる怪獣キャラ立ち映画からSF映画への、一種の過渡期的な映画として位置づけられると思います。また、この映画は、怪獣映画としては初のカラー映画だそうで、撮影には、光量の調整などが難しかったようです。

「恋と愛の測り方」のサントラ盤は、夜に聴くのをオススメな、心をとらえるサウンド。


「恋と愛の測り方」の音楽を担当したのは、「レクイエム・フォー・ドリーム」「月に囚われた男」など色々なジャンルの映画を手がけて、どこかクセのある音を耳に残してくれるクリント・マンセルです。この映画でも、かなり音楽を前面に出してきていまして、映画の中でも音楽が大変印象に残る作品になっています。既成曲を使っているのかと思わせて、実は彼の作曲だったというのもありました。

オープニング、ジョアンナとマイケルがパーティへ行くバックに、ピアノソロによる曲が大変に印象的です。ドラマチックなようで、クールな音は、これから起こるであろうドラマを想起させます。どこか孤独と癒しを感じさせるメロディは、音楽としても聴き応えのあるものになっています。ラスト近くでは、もう一つのテーマに歌がついて流れるのですが、これもいいんですよ。

この他にも全体的に静かなタッチでピアノにシンセ、そしてチェロを交えた音が流れます。どこかコミカルだったり、環境音楽風だったりと、映画の展開に合わせて展開する音楽ですが、どこか別世界の音のような味わいは、リアルな男女のやり取りを描いた映画とは一線を画している筈なのですが、映像と見事にマッチしているのですよ。

映画のサントラ盤してもよいのですが、クリント・マンセルのリーダーアルバムとして、聴いても思わず引き込まれるものがあります。ピアノソロというのは、夜聞くと、心をどこかに持っていかれる気分になれますけど、このサントラ盤もそんな感じです。収録時間は短めですが、それでも密度の濃いアルバムに仕上がっています。映画をご覧になっていない方にもオススメしちゃいます。


「恋と愛の測り方」は邦題がダサいけど、既婚者の誘惑ものとしてスリリングで面白い、でもリアル地味め。


今回は、新作の「恋と愛の測り方」を川崎チネチッタ6で観てきました。ここはキャパの割りにスクリーンも大きくて観やすいポイントがたくさんある映画館。

ジョアンナ(キーラ・ナイトレイ)とマイケル(サム・ワーシントン)の夫婦は、結婚して3年目で、結構うまくいってる方。ジョアンナは雑誌の記事のライターをやっていて、マイケルは不動産関係の仕事をしてます。ある日、二人で出かけたパーティで、ジョアンナは、マイケルが魅力的な女性ローラ(エヴァ・メンデス)と一緒に仕事、それも出張まで一緒と聞いて、ちょっと不機嫌になります。それは、一時の嫉妬というレベルで収まり、翌日、マイケルはローラと出張でフィラデルフィアへと向かいます。ニューヨークに残ったジョアンナは道で、かつての恋人であったアレックス(ギョーム・カネ)と再会。後で会おうということになります。一方のマイケルも無事に仕事を終えたのですが、そんな彼にローラから飲みに行こうという誘いがかかります。同じ晩に、夫婦の二人が別々に体験する誘惑のひと時。その結末はどうなるのかしら。

イラン出身のマッシー・タジェディンが脚本と監督を兼任した、ちょっと洒落たラブストーリー風のお話です。「恋と愛の測り方」なんてタイトルは、何だかラブコメみたいですが、原題は「Last Night」で、「昨日の夜」というもの。中身もコメディではなく、そこそこシリアスで、ちょっとおしゃれ。アラサー女性向け雑誌に掲載されそうな短編小説の味わいが感じられる一編でして、意外な面白さがある映画でした。とにかく、邦題からは想像できない、夫婦のちささやかなすれ違いと危機を描いていまして、先の見えない展開は、ちょっぴりスリリングであり、その結末にちょっと驚き、ラストにうまい余韻を残しました。これまでの表現で「ちょっと」「ちょっぴり」「ささやかな」という表現を使いましたけど、映画全体がそんな感じなんです。ドラマチックとは言いがたいけど、リアルにありそうな夫婦間の揺らぎ。堅固な夫婦愛の物語ではないけれど、どろどろの不倫ドラマともまたちがう、そんなさりげなさが、この映画の味わいになっています。若い夫婦のドラマなので、大人のための映画とは言い切れないところもあるのですが、子供には伝わりにくい感情の揺らぎのようなものは、大人の映画だなって思いました。

ジョアンナは化粧も念入りに着飾って、アレックスの滞在しているホテルへと向かいます。彼は知人夫婦との会食にジョアンナも誘います。そこへ向かうタクシーの中で、マイケルからの電話を無視するジョアンナ。二人は、パリで知り合ったようなのですが、2ヶ月の短い恋でした。アレックスには今ガールフレンドはいるようなのですが、どうもジョアンナのことが忘れられないようで、あわよくばという意図がありありと見えます。そんな彼の態度に、ジョアンナの心も揺らぎ始めます。

一方のマイケルは、ローラとはしご酒をしているうちに、彼女から誘いをかけてきます。自分は結婚しているし、夫婦はうまくいってるからとやんわりと断るマイケル。でも、二人はだんだんといい雰囲気になってきます。しかし、マイケルの顔には、動揺と躊躇の表情が見てとれます。ローラもそれを知っていて、尚も二人の関係を盛り上げようとホテルのプールに彼を誘うのでした。

うまく行ってる夫婦だけど、外部からの誘惑には、やっぱり葛藤しちゃう部分があります。浮気の物語と言ってしまえば、そのとおりなんだけど、当の二人の頭にいつもパートナーの顔が浮かんでいる、そんな男女の有り様をタジェディンの演出は丁寧に描いていきます。アレックスやローラの描き方はストレートに相手を欲しているのがありありなんですが、マイケルとジョアンナはそんな彼らに振り回されそうでいて、一生懸命に地に足をつけて踏みとどまろうとしているように見えます。でも、ジョアンナは映画の冒頭で、マイケルとローラの間に何かあるんじゃないかと勘ぐっています。一方のマイケルはジョアンナにそんな心動かす男性がいるとは思っていないようです。このちょっとした疑惑と信頼のバランスもまたドラマの進行とともに揺らいでいくあたりに、この映画のうまさがあります。シングルの私には、かなり楽しめたのですが、実際に結婚されている方がご覧になると、この映画の二人がどう映るのか興味あります。

演技陣はみな好演でして、キーラ・ナイトレイが過去の恋愛に想いを馳せるシーンなどでうまさを見せ、サム・ワーシントンも生真面目堅物風のビジネスマンをうまく表現しています。また、脇役で久々に見るグリフィン・ダンがアレックスの知人として登場し、二人の関係を危惧するあたりが面白いポジションになっていました。また、ピアノを中心としたクリント・マンセルの音楽が素晴らしく、このドラマに見事な陰影を与えるの成功しています。その場面をフォローするのではなく、次の展開を予感させる音作りが見事でした。ホラー映画ですと、怖いシーンの前にそれを予感させる音楽をつけたりすることがあるのですが、こういうラブストーリーで、予感の音楽をつけているのは、今の映画では珍しいのではないかしら。

ジョアンナとアレックス、マイケルとローラのそれぞれの一晩の描き方が、なかなか予想のつかない展開になっていて、ある意味サスペンスもののような趣もありました。でも、結局は、映画みたいなドラマチックな展開にはならないってところがこの映画の面白さになっています。ダサダサな邦題にだまされないで、機会があればオススメの一品です。



この先は結末に結末に触れますのご注意ください。



アレックスは昔のような関係に戻りたいとジョアンナに言います。二人は抱き合い、キスまではいくのですが、それ以上は拒否します。そして、ジョアンナは、ベッドに横たわるアレックスに添い寝をして朝を迎えるのでした。一方のマイケルはローラの誘惑に負けたのか、彼女とベッドを共にしてしまいます。そして、朝がきて、出張の仕事を残していたのですが、それを同僚に頼んでマイケルはニューヨークへと戻ります。そこには、ジョアンナが窓辺で涙ぐみながらタバコを吸っていました。また、足元にはよそいきのハイヒールが転がっています。マイケルはジョアンナを抱きしめて「愛してる」と言います。それに対して、彼女が何か言いかけたところで、暗転、エンドクレジット。

マイケルとローラはベッドを共にしたものの、結局、それが一時の情事でしかなかったことをお互いが認識しあっていました。そのことを言い訳しようとするマイケルに「何も言わないで」というローラのせつなさが伝わってくるあたりがうまいと思いました。一方、結局何事もなかったジョアンナとアレックスですが、まだお互いへの愛情が残っていたことを確認しあってしまいます。でも、それは過去のことであり、今はどうにもならないというやるせない気持ちが二人の中に残ってしまいます。最初は、マイケルとローラの関係を嫉妬して疑っていたジョアンナですが、彼女の自分の夫に対する疑念は払拭されたように見えます。一方で、ラストシーンでは、ジョアンナの普通じゃない様子やハイヒールから、彼女に何かあったのかもしれないと思わせるあたりに、ドラマとしての面白さがありました。また、ラストの2分の夫婦のやりとりはなかなかにスリリングでして、夫の「愛している」という言葉の後に、ジョアンナが何と言うかを見せない結末も、二人の決着を観客にゆだねる見せ方が見事でした。

「幸せの教室」は、「ボーイ・ミーツ・ガール」もののあっさり風味、後はお好みでどうぞ


今回は新作の「幸せの教室」をTOHOシネマズスカラ座で、観て来ました。大劇場だけど、作りがシネコンっぽいので、その分、見易い映画館です。

ラリー(トム・ハンクス)は、大型スーパーの優秀店員だったのですが、本社からのリストラの対象になってしまいます。その理由が大卒じゃないから。落胆するラリーですが、求職活動を始めたものの不況で思うように行きませんし、家のローンも残っています。隣人のラマー(セドリック・ジ・エンタテイナー)から大学へ行けとアドバイスされ、コミュニティカレッジに入学し、スピーチと経済学を受講することにします。スピーチの講師テイノー(ジュリア・ロバーツ)は人生に行き詰まりを感じているようで、授業にも身が入りません。ガソリン代の節約のためにスクーターに切り替えたのが縁で、ラリーは、若いタリア(ググ・パサ・ロー)と知り合い、彼女の恋人が率いるスクーター仲間に入ります。彼らは、ラリーのヘアスタイルから部屋のインテリア、ファッションまでも変えてくれます。一方、スピーチの授業は徐々に盛り上がっていきます。もともと、海軍でコックだったこともあり、レストランの仕事も手に入れて、生活にも張りが出てきたラリー。一方、夫との関係もうまくいかないテイノーですが、ある夜、夫と喧嘩してバス停に座り込む彼女の前にスクーター集団が通りかかり、ラリーが彼女を家まで送ることになります。彼女は、酔った勢いでラリーを挑発し、キスしちゃうのですが、酔いがさめてすごく後悔。でも、何だかラリーのことが気になります。これって恋の始まりなのかしら。

「マイ・ビッグ・ファット・ウェディング」「コニー&カーラ」で脚本と主演をこなした才女ニア・ヴァルダロスとトム・ハンクスの共同脚本を、トム・ハンクスが監督した、いわゆるハートウォーミングドラマです。ラブコメというには笑いは少なめですし、恋愛ドラマというほどドラマチックではありません。強いていうなら、「ボーイ・ミーツ・ガール」ものの中年バージョンといったところでしょうか。

ラリーはリストラで職を失い、逆境にあるのですが、それでも、くじけずに大学に通い始めます。もともとスーパーで優秀な店員だった彼は人懐っこくて、楽しいキャラ。そんな彼は、大学の雰囲気にもなじみ、タリアという女性と知り合ってスクーター仲間もできます。そして、髪型もファッションも若返り、コックの仕事も見つかり、大学のスピーチと経済学の授業も彼に新しい発見を与えてくれます。失業したという発端にしては、その後、いいことが続きすぎなんじゃないかと思えるお話なのですが、どうもある種のファンタジーを狙っているのかなって気がします。失業者にだって、運はめぐってくるという話のように思えます。ローンが払えず、結局、家を手放すことになっちゃうラリーですが、そこにあまり悲壮感はありません。むしろ、他のいろいろないい事が彼を支えてくれるのです。

一方のテイノー先生は売れない作家のダンナとの関係がうまくいっていません。ある晩、ダンナと喧嘩して、ダンナの車から降りてバスを待ってる彼女に出くわしたラリーが彼女を家で送ります。途中で、ダンナは飲酒運転で警察につかまってました。家まで送られたテイノーは酔っていたこともあって、ラリーにキスを求めちゃいます。その先まで行きそうになるのをラリーに止められるのですが、朝になってみれば、「私やっちゃった」と後悔。でも、ラリーに対しての好意は大きくなり、一方のラリーも彼女を女性として意識するようになっちゃいます。いわゆる教師と生徒の恋なのですが、「高校教師」みたいなドロドロの生臭い展開になりません。それどころか、ヒロインが人妻であることすら、恋の障害にならないのです。

ラリーはスピーチクラスの最終試験で見事なスピーチを聞かせます。また、経済学の試験でいい点を取ったようです。一方、タリアは大学をやめて、念願の古着ショップを始めます。新学期になり、ラリーは、テイノーのクラスには現れませんでした。でも、彼女の部屋にメモが住所のメモが貼ってありました。そこを訪ねてみれば、新装開店したタリアの店、その2階に上がるとラリーが彼女を待っていました。抱き合う二人がラリーの部屋に入っていくとエンドクレジット。

普通のラブコメだと、クライマックス前に二人が仲違いするような事件が発生するのですが、そういう葛藤を一切パスして結末までなだれ込むのが、新しいというか、普通のこの類の映画と一線を画しています。スパイスの効いたコメディを書いてきたニア・ヴァルダロスの脚本とは思えないくらい、おっとりとした展開です。中年二人の恋は、すごくストレート。トム・ハンクスの若いおっさんぶりですとか、ジュリア・ロバーツのちょっと年の行った女教師ぶりですとか、単にタイプキャストでない、きちんとした演技設定がされていますので、きちんと大人のドラマに仕上がっています。一方で、若さの象徴としてのタリアを演じたググ・バサ・ローのはつらつとした感じが、ドラマに陽気な空気を送り込んでいます。

98分という時間もあってか、ドラマ的にあっさりとまとめた感がありまして、登場人物もラリー、テイノー、タリア以外のキャラは特に描きこまれているとは思えないのですが、それでも、ハンクスの演出の妙で、登場人物のアンサンブルは上々でした。それでも、もっとキャラが立ってもいいスピーチクラスの生徒をあっさりと流したりしているところは、ドラマ全体のカラーを控えめにしているという感じです。何というか、こってりしたスープに具を全乗せしたとんこつラーメンじゃない、あっさりした鶏がらスープの塩ラーメンみたいな感じなんです。私は、その日で、こってりがおいしかったり、あっさりが好きだったりするのですが、この映画も、観た日の気分で評価が変わるのかなって気がしました。きっと、落ち込んだ時に観ると元気になり、元気なときには、ちょっと物足りなく感じる、そんな映画だと思います。普段は、気分で味が変わる映画なんて意識したことないのですが、こういうあっさり系の映画の時に、ああこういう映画もあるんだなって気づく、それもまた映画の楽しみの一つということが言えるのではないかしら。

「アナザー・プラネット」のサントラは、映画の雰囲気とは距離を置いていて、でもマッチしている不思議な音。


不思議なSF風映画の音楽を手がけたのは、FALL ON YOUR SWORD という音楽ユニット。ウィル・ベイツとフィル・モッサンの二人によるもので、ジャンル的には、ハウス・ミュージックというか、環境音楽というか、とにかくシンセによる打ち込みサウンド。チェロやヴィオラ、バイオリンにボーカルもフィーチャーしていますが、全体に雰囲気は、アンビエントと環境音楽のあいのこという感じでしょうか。といいつつ、ちょっとクラブ風のパーカッシブな音も入っているという、なかなか面白いアルバムに仕上がっています。

孤独なヒロインと、虚空に浮かぶ惑星のイメージなんですが、静かな音よりも、パルス音やシンセのパーカッシブな音は、プログレッシブ・ロックみたいな雰囲気もあります。私はこの類の音には疎いのですが、ぜい肉をそぎ落としたタンジェリン・ドリームという感じでしょうか。鋭さの中に、どこかエモーショナルな味わいを残しているところが印象的です。一応、ドラマの流れに沿った音作りになってはいるので、映画のイメージをかきたてるサントラ盤になってはいるのですが、音楽の切り込み方が画面をサポートするというよりは、画面と並列的に鳴っているという感じの音になっていまして、その分、音としての主張が強く、サントラ盤としてよりも、FALL ON YOUR SWORD のアルバムとして楽しめるサウンドになっています。そういう意味では、「ドラゴンタトゥーの女」みたいなんですが、あのCD3枚分聴き通すのに比べたら、聴きやすくて、またバリエーションに富んだ音になっていると思います。

エンドタイトルで、オープニング曲がもう一度流れるのですが、これがパーカッションをベースにしたなかなかにかっこいい曲でして、映画の雰囲気とはちょっと違うかなという気もするのですが、最後の最後でテンションを上げようという演出の一部なのかもしれません。ラストカットにはいろいろと含みがあるんだぜいってのを音楽で表現しているという感じでしょうか。

ちなみに、Googleで検索してみたら、メディテーションサウンドですって。瞑想するときに流す音楽にしては、結構リズミカルでノリがいいんですけどね。でも、この音が、この映画にマッチしてるってのは不思議な感じです。映像と音楽の関係ってのを考えさせられてしまいました。

「アナザー・プラネット」は不思議な雰囲気で1時間半を一気に見せます。


ロマン・ポランスキー3作品で一応の一区切りとなった、pu-koさんに感化されたシリーズですが、番外編を一つ。DVDの1000円均一のワゴン販売で平積みになっていたDVDがどっかで見た事あるなあと思ったら、pu-koさんの記事で拝見した「アナザー・プラネット」だったので早速ゲット。1000円均一なので、昔の映画かと思ったら去年の映画だったんですね。

地球とそっくりの惑星の見つかり世間を騒がせていたころ、学生だったローダ(ブリット・マーリング)は飲酒運転で、交通事故を起こしてしまいます。相手は音楽家の一家で、妊娠中の奥さんと幼い息子は死亡、音楽家はこん睡状態となりますが命を取りとめます。ローダは刑務所入りとなり、4年の刑期を終えて出所してきます。例の惑星は月よりも大きく、空に輝いていて、その見た目は地球とそっくり。観測の結果、陸地や海の形まで地球と同じ双子のような存在でした。ローダは高校の清掃員の職を得て、ある日、事故現場を訪れるとそこにおもちゃを供える男がいました。それが事故の被害者であるジョン(ウィリアム・メイポーザー)でした。彼の家を訪ねて、謝罪しようとしたローダですが、それができず、清掃会社の者で、お試しキャンペーンをしていると嘘をついて、彼の家に入り込みます。家の中から、彼のすさんだ生活がうかがえました。ジョンは、ローダに週に1回の清掃を依頼するようになります。ローダの存在は、ジョンの心に少しずつ変化をもたらすようになります。一方、例の惑星との交信に成功したのですが、驚くべきことに、向こうの星にも、こちらと全く同じ人間がいることが判明します。まるで鏡の裏表のような関係だったのです。その惑星旅行に一般からの参加者を募っているのに、ローダは申し込みます。彼女にとって、自分の存在する場所がこの地球にないと思ったのでしょうか。そして、ローダが家族を殺した加害者とは知らないまま、ジョンはだんだんとローダに惹かれていくのでした。

ローダ役のブリット・マーリングとマイク・ケイヒルの書いた脚本を、マイク・ケイヒルが監督したSF風味の一編です。冒頭、FOX SEARCHLIGHTのロゴが出るところから、いわゆるインデペンデント系のミニシアター向けアート系映画であることがわかります。星が絡むところとか、ヒロインが星の光を浴びて全裸になるシーンがあったりして、「メランコリア」を思わせるところがあるのですが、そこまでワケのわからない話ではありません。ただ、雰囲気は結構アートしているというか、とんがったところがありまして、「あたしゃ、ハリウッド娯楽映画じゃないんだよ」という雰囲気を醸し出しています。

地球にそっくりな星が発見され、それがどんどん地球に近づいてきているようなのですが、衝突するような雰囲気ではありません。ただ、近づいてくればくるほど、それが地球にそっくりなことがわかってきます。そして、その星との交信ができたとき、地球側で交信していた女性と惑星側で交信していた女性が全く同一人物とわかり、その星は何から何まで地球と同じだということがわかります。これで左右真逆だと「決死圏SOS宇宙船」になっちゃうのですが、そういうことではなさそう。とにかく、地球は大騒ぎ。そして、その惑星に人を送ることになり、一般公募されることになります。ローダもそれに応募します。若くて自信たっぷりの時に起こした人身事故、体内の赤ん坊も含めて罪もない3人の人間を殺してしまったローダは自責の念から、厭世的になっています。奇跡に一命をとりとめたジョンに直接に謝罪することもできません。それでも、彼の家に通って部屋を掃除することで、少しでも心の負担を軽くしようとしているように見えます。

ジョンも、事故当時未成年だった彼女の素性を知らないので、清掃会社の人間だと信じて扱ううちに、その仕事ぶりから、だんだん彼女に興味を持ち、心惹かれるようになります。このあたりは、静かな映像の積み重ねで表現されますので、家のテレビで観るには不向き、映画館でないと雰囲気を感じ取れない部分もあります。フォール・オン・ユア・スウォードのアンビエント音楽も、どこかこの世でない世界の物語であるかの雰囲気を出すことに成功しています。マイク・ケイヒルの演出は、間の取り方とか映像の切り取り方に、アートな空気を出そうと頑張っていまして、それは成功していると思います。空に浮かぶ巨大は地球そっくりの惑星のイメージもなかなかに魅力的です。でも、「メランコリア」に似てるのはご愛嬌。どっちが先にやったのかわからないから何とも言えないのですが、こういう形で、映像イメージがかぶるってのも、一種のシンクロニシティかしら。

そのシンクロニシティが地球と惑星の間にもあるようなんです。両者の間には、全く同じ人間が同じことをしている。こうなるとSFの次元を超えて哲学の世界に入ってしまうのかもしれません。まあ、小難しい言い方を避ければ、超常現象ということになりましょう。こちらから、惑星へ人を送れば、同じ人間がこっちへやってくるかもしれない、そんな関係ということになります。それが、ローダとジョンの関係にどう絡んでくるのかというところがミソになります。物語は二人の関係に終始し、惑星の説明とかは、家のテレビの画面で説明されるだけで、惑星旅行云々のSFチックな描写は一切ありません。ただ、空に輝く巨大なもう一つの地球の絵だけが、非日常の世界を象徴しています。物語としては、ローダの贖罪の意識が前面に出てくるのですが、ラストの決着は、赦しや癒しを強調したものになっていないので不思議な余韻を残します。ある種の寓話として物語は収束していきます。全体として、空に浮かんだ地球の視覚効果以外はお金がかかっていない映画で、大風呂敷を広げないところは好感が持てました。小品として、この映画、結構好きです。雰囲気描写、例えば、彼女が電車で移動する絵とか、高校で清掃をする映像とかが、何となくいいのですよ。自らの視覚と聴覚をつぶしてしまう、彼女の同僚のエピソードは、やや饒舌に過ぎる気もするのですが、贖罪のイメージを明確にすることに成功しています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。(まあ、読んでもどうってことない結末ではあります。)



ジョンは、ローダを誘って、自分の音楽を聞かせます。ミュージックソー(のこぎりですね、横山ホットブラザースが「お・ま・え・は・ア・ホ・か」ってギャグに使うやつ)で奏でられる美しいメロディ。そして、二人は抱き合い一夜をともにします。そんな彼女に宇宙飛行士に合格したという知らせが舞い込んできます。二人は本気で愛し合うようになっていましたが、ローダはそれ故に自責の念にとらわれ、ついには、彼に自分が彼の家族を殺したことを告白します。感情の持って行き場をなくし、ローダを家から追い出すジョン。

一方、テレビでは、「お互いの星が近づいたことで、シンクロニシティが壊れてきている」という学者の意見が放送されていました。それを観たローダは、強引にジョンの家に入り込み、彼に宇宙飛行士のチケットを渡します。シンクロニシティが壊れているのなら、ひょっとしたら、ジョンの家族は向こうの星では生きているのかもしれないから。そして、ジョンは宇宙飛行士の一人として惑星へと旅立ちます。4ヶ月後、彼女が家に帰ろうとすると、そこにはもう一人の自分がいるのでした。暗転、エンドクレジット。

ラストはいかようにも解釈できるのですが、私は、このシーンで二つの惑星のシンクロニシティが壊れていることを示し、ジョンが向こうの星で、家族と会えたかもしれない可能性をほのめかしたのではないかと思いました。もし、向こうの惑星とシンクロしているのであれば、もう一人の彼女が地球にいる筈はないのですから。それとも、もう一人の彼女は向こうの惑星で事故も起こしておらず、冒頭の自信満々のまま人生をすごしてきたのかもしれません。そんな、異なる境遇の同じ人間が出会うことで、運命の皮肉を表現したのかもしれません。どちらにしても、運命は受け入れるべきものという結末のように思えました。その運命の捉え方も「メランコリア」と似たものを感じてしまい、色々な意味で、シンクロニシティの映画だなあって気がしました。SF映画だと思うと大ハズレになっちゃいますが、一人の女性の運命の捉え方の映画としてはなかなか面白い一編だと思います。このシンプルな内容で1時間半を退屈させなかったマイク・ケイヒルの演出はかなりうまいと言えるのではないかしら。

「ヘルプ~心がつなぐストーリー~」に素直に感動できない私は根性曲りかしら


今回は新作の「ヘルプ~心がつなぐストーリー~」をTOHOシネマズシャンテ3を観てきました。フラットでスクリーン位置が低いので、前に座高の高い人が座りませんようにというハラハラする映画館。

1960年代のミシシッピ州ジャクソン、作家志望のスキーター(エマ・ストーン)は大学を卒業し、新聞社に就職して家庭欄を担当することになります。かつての友人はみんな結婚して子持ちなのに、彼女は男に縁がないアウトロー。そんな彼女が、記事の参考に、友人エリザベス(アーナ・オライリー)の黒人メイド、エイビリーン(ヴィオラ・デイビス)に話を聞こうということになります。ミシシッピ州は黒人差別の強い地域で、黒人の女性は大体メイドになるのが当たり前、タクシーやトイレも区別されていました。特に、ヒリー(ブライス・ダラス・ハワード)は、慈善事業に熱心な一方で、黒人メイド用トイレ設置運動にもご執心でした。そこをクビになったミニー(オクタヴィア・スペンサー)は、育ちが貧しかったせいか奥様連から阻害されているシーリア(ジェシカ・チャスティン)のところにメイドとして働くようになります。そんな黒人メイドの実情に作家としての興味を感じたスキーターは、彼女たちの境遇を本にしてまとめようと話を聞いてまわろうとしますが、みんな口を開こうとはしません。とりあえずエイビリーンとミニーは協力してくれたのですが、それではネタが足りません。果たして、スキーターの本は完成するのでしょうか。

アカデミー賞の助演女優賞をとった作品です。キャスリン・ストケットの原作を、テイト・テイラーが脚色し、テイラーがメガホンをとりました。ミシシッピの美しい風景をバックに、黒人差別とそれに抗う人々の姿がコミカルに描かれます。メインキャストを全て女性にして、殺伐としたシーンや暴力シーンを一切見せないで、その中で黒人差別を描いたという点がユニークな作品と言えましょう。スキーターが黒人メイドについての本を書こうと思い立つのは、社会的正義感というよりは、ジャーナリストの若さから来る好奇心からですし、実際に、そういう行動によって、彼女が怖い思いをするシーンはありません。むしろ、差別感の中でぬくぬくしている奥様連を出し抜いてしまう爽快感の方が強いつくりです。

いわゆる悪役にあたる人間は、ヒリーとその取り巻きの一部くらいで、後は、スキーターに協力的ですし、エイビリーンやミニーにつらくあたる人間はそんなには出てきません。黒人差別がドラマの中心ではなくバックボーンとして存在するところが普通の黒人差別を扱ったドラマと一線を画しています。一家に一台、黒人使用人用のトイレを作ろうと提案するエリザベスとか、息子が事故にあった時、まともに病院に運んでもらえずに見殺しにされたエイビリーンのエピソードなど、ひどい話も登場するのですが、その悲惨さを前面に出してきません。むしろ、白人の奥様コミュニティで孤立しているシーリアのメイドになって彼女を助けるミニーのエピソードとか、黒人メイドと子供との絆の方に重点を置いた描き方をしていますので、全体がまろやかな味わいになっています。

ミシシッピ州を舞台にした黒人差別を題材にした映画というと「ミシシッピー・バーニング」を思い出します。暴力と差別意識が根っから染み付いている白人たちを描いた重厚なドラマでした。しかし、この映画は、意外やそういうハードなお話になっていないのですよ。暖かな光の中で展開するドラマは、どこかのどかで、笑いも結構入っています。白人の差別意識が前面に出てくることも少なく、教育によって差別意識が親から子へと引き継がれていく負の連鎖も微かにセリフで語られるのみです。人種差別を題材にした映画でも、こういう作り方もできるんだなあっていうのが、ちょっとした驚きでした。この題材で、コミカルでライトな映画を作れるようになったんだなあっていうのは、「ミケランジェロの暗号」を観たときと同じような感じです。ユダヤ人収容所を題材にして面白い娯楽映画を作れるようになったんだなあというのと似た印象なんです。

黒人差別をバックにした物語をコミカルに描いてもいい時代になったんだなあって感じてしまったのです。今さらそんなことを思うのは、時代錯誤かもしれませんけど、男性もほとんど登場せず、直接の暴力描写も抜きにして、黒人差別を描いてもいい時代なのは、そういう時代を過去のものとして認識できるようになったからではないかと思います。公民権運動を歴史の一部と認識できるようになったからこそ、それを背景にしたコメディタッチのドラマを作っても大丈夫になったのではないかしら。例えば、現状でも問題となっている移民問題を扱ったら、社会性を加味するか、ブラックな笑いの方向に走らざるを得なくなるでしょう。

演技陣では、スキーターを演じたエマ・ストーンが若さのエネルギーを感じさせて、こういう本を書いちゃう女性に説得力を与えています。ヴィオラ・デイヴィスとオクタヴィア・スペンサーは対照的なキャラクターをお互いを引き立てあう好演でした。悪役を一身に背負うことになるブライス・ダラス・ハワードの熱演も印象的でした。また、ちょっとだけの出番でしたが、シシー・スパセックとメアリー・スティーバージェンがいいところを見せますが、その分、白人側にいい人が多すぎるんじゃないかいって気もしちゃいました。

人種差別というのは、教育によって植えつけられるものなのですが、一方で、ジャクソンの母親たちは、子供の面倒をメイドに見させているので、幼いうちは黒人メイドを慕っているようなのです。ところが、成人したら、差別するようになってしまう。スキーターは、自分を育ててくれた黒人メイドを成人しても慕っていて、母親が彼女をクビにしたことを知ってショックを受けます。スキーターと他の奥様連と、どこが違うのかというところを映画は描いていませんので、そこは物足りなさを感じてしまいました。「差別意識を持っていたヒロインが、ジャーナリステッィクな興味を黒人メイドに感じて取材するうちに、黒人差別に批判的になる」といったドラマティックな展開になるわけではないので、どこか表層をなぞったというか、突っ込み不足な感じは否めません。特に気になったのは、白人男性で暴力を振るう人間は登場しないのに、唯一暴力を振るうのがミニーの夫だというのは、白人寄りの映画だという印象でした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



黒人メイドの一人が逮捕されたことをきっかけに、それまで腰が引けていた彼女たちが、スキーターの取材に協力するようになります。彼女たちの話した内容は仮名に書き換えられて「ヘルプ」という本にまとまります。本の内容から、ジャクソンの奥様連は大騒ぎとなります。そして、本はヒットし、スキーターはその印税を取材した女性たちに分配して送るのでした。さらにニューヨークの出版社から採用通知が来て、彼女はジャクソンを去ることになります。エイビリーンたちのことを気遣って、ここに残るというスキーターに、エイビリーンは「ここにあんたがいたって危険なことには変わりはない」と彼女を送り出します。しかし、エイビリーンがエリザベスの家に戻るとヒリーがいて、彼女に盗みの罪を着せて、クビにしてしまいます。そんなヒリーに何も言えないエリザベス。エリザベスの娘の「行かないで」という声を後に去っていくエイビリーンに、クレジットがかぶさります。

あくまで、女性同士の報復に留まるのが、品が良いというのか、何とかまろやかにまとまっています。暴力沙汰にならないところは、原作のセンスなのか、脚色によるものかはわからないのですが、娯楽映画の範疇にうまくまとめたという感じでしょうか。でも、何というか「白人にもいい人はいたんだよ」というメッセージが前面に出てくるのが少々鼻につく映画でもありました。2時間半を一気に見せるドラマ作りのうまさは見事だと思います。それだけに、きれいにまとめすぎてるところが気になってしまいました。まあ、こういう話に素直に感動できない自分の根性が曲がっているかなという気もするのですが。

「別離」は普遍的な人間の葛藤と不可解さを描いた映画として見応えあります。


今回は、新作の「別離」を川崎チネチッタ2で観て来ました。プログラムを見たら、35mmではなく、デジタルと表記あり、最初からフィルム配給するつもりのない映画だったのでちょっとびっくり。これからは、そういう映画が増えてくるんだろうなあ。

ナデル(ペイマン・モアディ)とシミン(レイラ・ハタミ)の夫婦は、娘テルメーのために海外移住を計画していましたが、ナデルが認知症の父親を置いていけないと言い出し、結局二人は離婚することになります。テルメーは父親と同居することになり、シミンは一時的に実家に帰ります。つてを頼ってラジエー(サレー・バヤト)という女性を父親の介護人に雇います。ボケた父親は目を離すと外に出て行ってしまい、ラジエーにとっては大変な仕事でした。ある日、ナデルがテルメーと一緒に帰宅するとラジエーの姿はなく、父親はベッドから落ちていました。手はベットに縛り付けられていました。戻ってきたラジエーにナデルは激怒し、家から出て行けと彼女を突き飛ばしてしまいます。その後、ナデルはラジエーが入院したことを知ります。シミンとともに病院へ様子を見に行ったナデルはラジエーが入院したことを知ります。そして、ナデルは、ラジエーの流産の責任を問われ殺人罪に問われてしまいます。彼がラジエーが妊娠していたことを知っていたかどうかがカギとなりますが、この事は、テルメーの家庭教師であるギャーライ先生の証言によって否定されます。一方、ナデルの保釈金を肩代わりしたシミンは事件を示談で済ませたいと奔走します。ラジエーの夫ホッジャトは失業していて借金も抱えており、示談で話が収まるかのように見えたのですが....。

「彼女が消えた浜辺」のアスカー・ファルハディが製作、脚本、監督したイランの映画でして、今年のアカデミー賞の外国語映画賞を受賞した作品です。「彼女が消えた浜辺」は、私の2010年のベストワン映画でしたが、実は、同じ監督だとは気づかずにスクリーンに臨みました。「別離」という曖昧なタイトルですが、内容は普遍的な人間の機微を描いたドラマでして、日本人でも共感できて、こういう葛藤はどこの国にもあるんだなあって改めて再認識できる映画でした。「彼女が消えた浜辺」を観たときも、人間ってどこでもそんな違わないんだなって感じたのですが、それはこの監督がうまかったんだなってことも、再認識しました。タイトルや売り方は、ちょっとアートっぽくて敷居が高そうに見せてますが、誰がご覧になっても、そのドラマに引き込まれ、登場人物の葛藤に共感できると思います。もう今年のベストテンに決定、ひょっとしたらベストワンかも。

シミンもナデルも、11歳の娘テルメーの教育に熱心だというのは共通していて、やっとのことで移住許可をとっていました。ところがいざとなったら、ナデルが認知症の父親を置いてはいけないと移住を拒否します。プログラムを後で読んでみたら、イランでは、親を介護施設へ入れることは親不孝であり、恥だと思う文化があるようです。テルメーは二人に離婚して欲しくなくて、母親が戻ってくることを期待して、父親の家に留まります。離婚してしまえば、父親を介護する人間がいなくなるので、ラジエーを雇うことになります。幼い娘を連れてナデルの家にやってくるラジエーですが、粗相をしてしまった父親を着替えさせていいものかどうか、聖職者に電話で確認するほど信仰に厚い女性です。そんな彼女が、父親をベッドに縛り付けて外出してしまったのです。そこへナデルが帰ってきたら、父親はベッドから落ちて擦り傷を作っている。まあ、彼が怒る気持ちは納得できます。戻ってきたラジエー母子をなじるナデルは、母親が金を盗んだとも言い出します。泥棒呼ばわりされるのには、納得できないと食い下がるラジエーを無理やり部屋から追い出してしまいます。

という展開なんですが、どういうつもりでラジエーが父親を縛り付けたのか、本当に金は盗まれていたのか、本当にラジエーが流産するほど強く突き飛ばしたのか、本当のところが最後まではっきりとしません。事実は曖昧なままドラマは展開していきます。また、その以前に、家庭教師の先生とラジエーとの会話で、彼女が妊娠していることがわかるのですが、それをナデルが知っていたのかどうかも、はっきりとしません。そして、ナデルを雇ったつてがシミンであったことから、彼女に連絡があり、二人は、ラジエーが入院したことを知ります。病院へ向かった二人はラジエーが妊娠4ヶ月で流産したことを知ります。彼女の夫は無職で借金もちで、プライド高い気の荒い男で、ナデルが彼女を突き飛ばして流産させたと信じ込んでいます。警察は殺人の嫌疑で、ナデルを尋問します。その一方で、父親をベッドに縛り付けたことで、ナジエーを告訴しようとするナデル。一方、事の発端が別居にあったことで、責任を感じるところがあったのか、高額な保釈金をシミンが肩代わりします。そういう大人たちを目の当たりにして困惑するテルメー。各々の想いが交錯する中で、少しずつ事実が観客の前に現れてきます。

ファルハディは、この物語を家庭のごたごたのように見せながら、ミステリーの要素を加味し、さらに社会的な視点をいくつも盛り込んで、ドラマに厚みを与えています。離婚の問題、介護の問題、失業者の問題、子供の教育問題、などなど、日本人でも、他の国の人も抱えているであろう問題を提示していて、他人事ではありません。そして、人としての善悪の葛藤まで描いていて、ドラマチックな展開はないのですが、非常に内容の濃いドラマが見応えがありました。色々なことが重層的に重なって、流産、そして殺人罪にまで行ってしまうストーリーの組み立てが素晴らしく、各々のキャラに感情移入できてしまう人物設定も見事でした。ラストの余韻のつけ方がまたいいのですよ。夫婦の娘テルメー役を演じたサリナ・ファルディが素晴らしい演技を見せてくれるのですが、彼女は監督の娘さんなのだそうです。



この先は結末に触れますのでご注意ください。(未見の方は読まない方がいいです、マジで)



事件の争点となった、ナデルが、ラジエーの妊娠を知っていたかどうか。ナデルは知らなかったと証言しますが、娘のテルメーは、父親の言った言葉から、それが嘘であることを見抜きます。そのことを父親に尋ねると、「父親やお前を置いて監獄に入るわけにはいかない。でも、お前が望むなら本当のことを話す」と言い、テルメーはそれに沈黙します。一方、そんな父娘のやりとりも知らず、示談で話をつけようとしていたシミンは、ラジエーから意外な事実を聞きます。ラジエーは前日、街を徘徊していた父親を連れ帰ろうと道を渡ったとき、車にはねられ、その夜からお腹に痛みを感じていたというのです。信仰の厚い彼女は嘘はつけないと言います。でも、流産の原因は実際はグレーゾーンのまま、示談の日を迎えます。その辺の事情を知らないナデルは、示談金を払う条件として、告訴を取り下げることと、「流産の原因はナデルにあったこと」をコーランに誓うことをラジエーに要求します。しかし、そのことに確信のない彼女はコーランに誓うことができません。そして、場面は裁判所に変わります。テルメーが父親についていくか、母親についていくかを決めるのです。彼女は「もう決めている」というのですが、なかなか口に出せません。そこで、両親を退出させ、決定を宣言することになります。カメラは、裁判所の通路をはさんで、結論を待つナデルとシミンの姿を捉え、その上にエンドクレジットが出て、映画は終わります。

物事には白黒はっきりしていることとグレーなことがあります。この映画では、その両者が混在するという、実は当たり前のことを見せているのですが、その見せ方が見事なので、ドラマの中にぐいぐいと引き込まれてしまいます。嘘をつくナデルと、嘘はつけないラジエー。映画はナデルを責めることはしません。娘のテルメーはそのことを知っていますが、とにかく両親に離婚して欲しくないという気持ちが強いです。やや、家を去る母親に批判的な視点が感じられるのですが、父親の嘘をどう受け入れるのか、そして、父親と母親のどちらを取るのかというのは、観客の判断にゆだねられます。でも、そこまでの、映画の流れからすると、「わからない」が正解になるのではないかと思わせるところに、この映画の見応えがあるように思います。映画の中で、全貌を知っている人は登場しません。個々の事実はあるのですが、真実というべきものは、誰も握っていないのです。それが普通の人間のありようなのだと映画は語っているようです。誰も悪意を持っていないかのように見える人間関係の中で、降ってわいたような流産事件が殺人罪にまで発展してしまいます。でも、そのどこかに人間の魔が差す瞬間があるんじゃないかと思わせる演出が見事です。何というか、映画にしてやられたような気分になってしまいました。マームード・カラリの人の表情を執拗に追うキャメラは、人間の不可解さに迫ろうとしているようでした。

ちょっとシネコンについて備忘録

今回はまた、オヤジ語り(グチかな)で、シネコンについて書いてみたいと思います。(忘れないうちに書き残すという意味もありまして)


シネコンというのが、日本で初めてできたのは、ワーナーマイカルシネマ海老名だと言われています。大きめのロビーに複数の発券ブースがあり、そこで、指定席券を手に入れます。直接、お金を払うか、前売り券、招待券との交換という形で、作品名、劇場名、時間を印刷した当日券をゲットすることになります。1箇所の入場口から、入るといくつものスクリーン(映画館)が並んでいて、その中のチケットに書いてあるスクリーンに入って、映画を楽しんで、終わったら出る。繰り返し観ることは不可。大体こんな感じでした。ただ、できた当初のシネコンは必ず座席指定というわけではなく、自由定員制でした。とにかく、画期的な映画館ができたということで話題になりました。また、この映画館の特徴は、ショッピングセンターに直結していたこと。映画を観る前後、待ち時間とかは、お買い物したり、フードコートで食事をどうぞというパターンです。中には映画館だけで勝負するシネコンもありますが、それでも、その周囲に何らかの集客施設を持ったものがほとんどでした。

ただ、ワーナーマイカルシネマ海老名が出来る前に、そういう映画館がなかったかというと、私が知っている限りでは、川崎チネチッタがそんな感じでした。(今の川崎チネチッタの前身)そこでは、9つの映画館の共通の発券窓口で当日券を購入して、各々9つの映画館に行って映画を観るというもの。シネコンのように入り口が1箇所ではありませんが、9つの映画館は同じ建屋の中にあり、比較的大きめのチネ1~4、ちっちゃい劇場のチネ5~7、地下にある、8,9というもの。また別の建物に別格として、800席を誇る大劇場チネグランデがあって、そこのチケットはチネグランデ入り口で購入することになっていました。同じく、横浜関内の横浜東宝会館も、チケット発券窓口は1つで、そこで5劇場分のチケットを販売していました。

シネコンの特徴として大きかったのは、番組の組み方です。当時の映画館は、普通1つの映画館で1番組(1本立ての場合もあるし、2本立ての場合もあります)で上映していたのですが、これを集客状況に応じて、週単位で上映劇場を変えていくというシステムになりました。それまでにも、大劇場で上映していた映画を中小クラスの劇場に移動させて上映するムーブオーバーというシステムはあることにはありましたが、それを週単位で細かくやるようになったのは、シネコンができてからだと思います。お客が集まるピークを過ぎた映画ですとか、当たらなかった映画は、翌週には小さなスクリーンに回されるということが普通に行われるようになったのはシネコンができてからの現象です。また、1枚のチケットで、1回こっきりしか映画が観られないということで、1つのスクリーンで、何本もの映画を上映するというのも当たり前になりました。そうなると、1日に1回とか2回しか上映しない映画が出てきまして、観たい映画の時間をあらかじめ知っておく必要があります。

また、シネコンの登場により、映画の最終回が遅くなったということは、大きな変化だったと思います。それまでの映画館でも、週末のオールナイト上映とかあったのですが、普通の日でも、23時過ぎに終了する回が出てきたのはシネコンができてからのことだと思います。これにより、1日の用や仕事を終えた人が映画館へも来られるようになりました。

また、シネコンの特長の一つに設備の向上も挙げられましょう。特に音響のデジタル化を推進したのは、シネコンが中心でした。それまでの映画館でも、やってきたことではあるのですが、シネコンではそれが顕著になりました。ドルビーデジタルやDTSの設備が標準になったのはシネコンからではないでしょうか。でも、創成期のシネコンでは、まだ完全ではなかったことを付け加えておきます。ワーナーマイカルシネマ海老名でも、最初は全スクリーンがデジタルではありませんでした。また、前述の川崎チネチッタは、ドルビーデジタルがなくて、比較的DTSを装備した映画館が多かったという記憶があります。ともあれ、映画館の音響がよくなるのは、観客にとってはありがたいことでした。

また、シネコンならではの独特な劇場構造も登場しました。座席数の多いスクリーンは従来の大劇場と同じような形なのですが、座席数が100以下の小さなスクリーンだと、縦長の壁面に小さめのスクリーンを設置して、座席に傾斜をつけた、ミニシアターとも違う映画館が登場します。最近できたシネコンでは小さいキャパの映画館でも、スクリーンサイズを大きくしているところが多くなりました。昔のタイプだと、3D効果とかが出ないのかもしれません。

また、基本的に言えることは、前の人の頭でスクリーンが見えなくならないような座席配置になっていること。昔なら、他の席に移るという選択肢があったのですが、全席指定では、それがままならず、前に座高の高い人が座って、画面が見えなくなったら、泣き寝入り状態になっちゃいます。そうならないような座席配置になっているのは観客にとってはありがたいことです。でも、もともとは普通の映画館だったのをシネコン化したような映画館では座席によっては、ちょっと頭の高い人が座ると画面が見えにくくなります。シネシャンテとか、ムービルとかそんな感じでしょうか。映画館によっては、スクリーンを小さくしても位置を上げることで、見えやすくする工夫をしているところもあるようです。

また、上映マナー向上のためのアニメを流すようになったのもシネコンからだと思います。最初は大きなお世話だと思われたようですが、世間の分煙運動の活性化もあって映画館での喫煙はほぼ絶滅。劇場内で携帯電話を使う人も大変少なくなりました。最初の頃は、携帯電話を使う人(大体ご高齢の方)が結構いましたもの。現在もマナー向上アニメはやってますが、新しく映画を観始める人もいるのですから、継続していただきたいものです。

でも、シネコンで大きいのは、人件費の合理化でしょう。それまでは、1つの劇場には、キップを売る人、入り口でそれを切る人、さらにプログラムや飲食物を売る人と、最低でも2人は配置しておく必要がありました。複数劇場分を1箇所でやってしまえば、その分、人は少なくてすみます。さらに、フィルムを全巻つなげたでかいリールを使った上映スタイルをとることで、フィルム交換の手間を減らす、さらには、デジタル化上映によって、フィルムそのものをなくしてしまう。とにかく、手間賃を減らそうという工夫が見られます。その一方で、上映1回ごとに場内清掃をしたり、スタッフの制服をアミューズメントパーク風にしたり、お客さんへのケアを向上させていることも認めないわけにはいきません。ただ、最近、シネコンごとのスタッフのクオリティに差を感じるようになってきました。スタッフへの教育という問題なのかなって気もします。同じ広さのロビー、スクリーン数も同じなのに、何でこんなに行列ができるのだろうって不思議に思うことあり、片や整然とお客さんが入場していく。たとえば、同じ時間にいくつもの上映開始する番組を組めば、入場口は大変混雑するわけでして、そういった番組の組み方のセンスもシネコンによって差があるようです。

個人的に、シネコンに初めて行って驚いたのは、スクリーンの前に幕がなかったことでした。それまでは、映画館のスクリーン前には、幕(ちょっと高級感のあるところは緞帳)があって、上映開始のベルとともに、それが開いて映画が始まるという、ちょっとしたワクワク感があったのに、それがなくなっちゃいました。また、照明を段階的に落とすようになったのもシネコンになってからの現象ではないかしら。CMでは比較的明るく、予告編になると若干照明を落とし、本編が始まると完全に照明を落としてしまうというシステムです。これは、一長一短がありまして、昔は、一気に照明を落とすので、そこからは、映画の時間になるというケジメがついて、場内は静かになりますが、今はそのあたりが曖昧になっちゃいました。一方、昔の映画館は消防法のせいなのか、完全に真っ暗にはなりませんでした。非常口のランプもついたまま。今は、完全に真っ暗になりますから、その分、映画に没頭できるようになりました。

また、シネコンは、意外なところに出店することがあります。郊外型ショッピングセンターに併設されるケースがそれです。既存の映画館が全くなかったところに映画館ができるわけです。それまで映画館に行く機会の少なかった方が、お買い物ついでに映画を観ることができます。そういうことが映画観客数の底上げにつながっていることは事実だと思います。でも、いいことばかりでもなくって、シネコンの台頭によって、多くの従来の映画館が閉館に追い込まれています。確かに施設の老朽化によって、遅かれ早かれ店仕舞をしなければならない映画館もありました。(私の実家にあった、七間町の映画館街はそんな感じでした)一方で、立派な設備、きれいな場内と最高の映画鑑賞の場であっても、経営が立ち行かなくなって閉館してしまったケースもあります。(藤沢オデオン系4館とか)そういうシネコンは、既存の映画館を淘汰してしまったのですから、その後をきちんと引き継いで、映画ファンの望む映画(主にミニシアター系映画)もきちんと上映して行って欲しいものです。アニメや3Dばかり上映されたのでは、それまでの映画ファンは取り込めませんし、高齢化が進むご時世ですから、高齢者向けの味のある映画を上映していただきたいものです。

今のシネコンに足りないものとして、少数の映画ファンのための映画を上映する映画館が挙げられます。そういう需要に対応するかのように、大体、各県に1~2館、ミニシアター向け映画を積極的に上映する映画館が出てきています。それは昔から地域になじんできた映画館だったりすることもありますし、新しく小奇麗なミニシアターが地方都市にできることがあります。東北の「××フォーラム」と名のつく映画館は、ミニシネコンとでもいうべき作りで、色々なジャンルの映画を上映してくれています。こういったミニシネコンと大資本のシネコンがうまく棲み分けをして、小さいところもきちんと採算が取れて、つぶれないように頑張って欲しいと思います。

「袋小路」は奇妙な味わいのサスペンスものでした


今回は、pu-koさんに感化されましたシリーズ最終編ということで、ロマン・ポランスキーの初期作品の中から、「袋小路」をDVDで観ました。

ギャングのリチャード(ライオネル・スタンダー)とアルバート(ジャック・マッゴーワン)は仕事にしくじって負傷した状態で、車を運転してきましたが、特に深手を負っているアルバートが虫の息。そこでリチャードが周辺に電話を探しに行きます。着いたところは、古城で、そこには中年男ジョージ(ドナルド・プレズンス)と若い妻テレサ(フランソワーズ・ドルレアック)が住んでいました。実はそこは島になっていまして、満潮になると道がなくなって、孤島になってしまうという風変わりな場所。リチャードは、二人を脅して、水の中につかっている自動車とアルバートを城まで引っ張ってきます。リチャードは、ギャングのボスに電話し、居場所を伝えて、助けにきて欲しいと伝えます。がさつな大男に反抗できず、何も言えないジョージをなじるテレサ。明日の朝には、ボスが来るということで、リチャードは夫婦を寝室に監禁して朝を待つことにするのですが、その間にアルバートが死亡。墓穴を掘っているリチャードの前に、窓から抜け出したテレサがやってきます。テレサは、酒を持ってきたり、墓穴堀りを手伝ったりと得体の知れない行動をとります。その後もリチャードと一緒にジョージをからかったり。そして、朝が来て、ボスを待ちわびているリチャードですが、そこにやってきたのは、ジョージの友人のフェアウェザー一家、特に悪ガキが目障りな皆様です。そこで、リチャードを使用人ということにして、その場をしのごうということになります。リチャードに横柄な態度を取るテレサにはらはらするジョージ。果たして、ギャングのボスは迎えに来るのかしら。

ポランスキーがジェラール・ブラシュと書いた脚本をもとにポランスキーが演出したサスペンスものの一編です。孤島の城で、世間から離れて暮らす年の差夫婦のところにやってきたのは、手負いのギャング二人。一人は虫の息なので、実質は一人。ギャングは、夫婦を脅して、ボスが来るまで、そこに居座ることになります。手も足も出ない夫に対して、妻は言いたいことは言うし、ギャングと対等に会話するなかなかの曲者。ギャングは、夫婦に無茶な暴力は振るわないですし、色っぽい妻に色目を使うこともしない一方で、銃をちらつかせて、逆らったら只ではおかないと脅してきます。その一方で、ジョージも、若い妻にメロメロな一方で、彼女の前では妙に強がったり、酒が入るとギャングに絡んだり。この個性の強い3人の関係が映画に不思議な緊張感を運んできます。不思議というのは、張り詰めた関係の筈なのに、どこかオフビートというか、ユーモラスな感じなのです。銃を持った怪我をしたギャングがやってきて銃で脅されているのに、あまり動じる様子のないテレサの行動がそう思わせるようです。また、凶悪なギャングのリチャードにも、そうは無茶はしそうもない空気があります。唯一、得体の知れないジョージは今のところ小心者以上のキャラを見せていません。そんな、妙にバランスのとれている三角関係が、テンポよく描かれていきます。一応、サスペンスの体はとっているのですが、自由奔放なテレサの行動が、それを打ち消してしまい、奇妙な味わいのドラマが展開していきます。

テレサは言動がその場その場でくるくる変わるので、何を考えているのかわかりません。でも、難解なキャラではなく、いわゆる典型的小悪魔タイプ。ジョージはテレサのそういうところにぞっこんなのですが、リチャードはそんなテレサに心乱されません。自分の魅力に振り向いてこないリチャードに若干不満を感じているように見えるのがおかしく、その奔放な言動に、ジョージも嫉妬の感情を抱いているようです。そんなところに、割り込んでくるのが、フェアウェザー一家、奥さんと息子夫婦とその子供。これがまた、微妙にやな奴、特に奥さんが嫌われる典型、子供はいわゆるクソ生意気なガキ。レコードに傷をつけるわ、挙句の果てには自分の父親の銃を持ち出して発砲してステンドグラスを壊しちゃいます。これを子供のやったことだからで済まそうとするフェアウェザー夫婦にブチ切れたジョージは、みんな追い返しちゃいます。前日にテレサといちゃついていたジョージの友人の息子もやってくるのですが、これも追い返しちゃいます。

フェアウェザー一家がいる前では、リチャードは使用人という設定で切り抜けることにしたのですが、そうしたら、テレサがリチャードに向かってやたらきつくあたるのがまたおかしい。でも、今までの関係が逆転したというよりは、共犯関係の確認のようにも見えます。フランソワーズ・ドルレアックは、カトリーヌ・ドヌーブのお姉さんで、25歳で夭折したそうですが、つかみどころがない刹那的な小悪魔を熱演しています。また、ライオネル・スタンダーは、無教養な悪漢をわかりやすく演じています。一番、得体の知れない役を演じたドナルド・プレズンスは、正気と狂気の狭間にいるような不気味さを感じさせ、この映画の中で何をするかわからないキャラを好演しています。この先もこういう役を得意とするプレズンスにははまり役だと言えましょう。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



一方、リチャードは一度は切った電話線をつないでもう一度ボスに連絡しようとしますが、「好きにしろ」と言われて、これまた追い詰められてしまいます。その電話の隙に、リチャードの銃を盗み出すことに成功します。そして、テレサのいたずらに怒ったリチャードがテレサをベルトでぶちまくってるところで、ジョージが銃を抜き、リチャードに向かって発砲、弾を食らったリチャードは最後の力をふりしぼって、自分の車から機関銃を取り出したところで、力尽きて、機関銃は暴発、車は爆発しちゃいます。そこへ、銃をとりにやってきたフェアウェザーの息子がやってきて、テレサは彼の車に乗って去っていきます。自分のしでかしたことに酔ったようにわめきちらすジョージは、その辺りのものを叩き壊し、城の外へと走り出しますが途中でうずくまり、泣き出したのでした。その時に出た言葉は「アグネス」と、彼の元妻の名前でした。おしまい。

リチャードの銃を盗めとそそのかすのがテレサなら、いたずらして彼を怒らせるのもテレサ。彼女が計算ずくでやっているようには見えないのですが、全て彼女の狙ったとおりになっていくように見えるところが不思議な後味を残します。そして、リチャードを撃ち殺して、歓喜の叫び声を上げるジョージは正気を失ったように見えます。不条理なドラマにも思えるのですが、全てのパズルのピースがしかるべきところに収まったという印象の方が強いです。サイコスリラーなのに、どこか腑に落ちる「反撥」といい、見せない結末がなんとなく透けて見えてくる「水の中のナイフ」といい、どこか計算ずくを感じさせるポランスキーらしい映画と言えるのではないかしら。

映画としては、先の見えない展開で見せるサスペンスタッチの作品と言えます。その先の見えなさは、テレサとジョージのキャラがよく見えないというところにあります。そこに人間ってよくわからないねってところを感じることもできますが、単純にだんだんキャラが見えてくるミステリーということもできます。それが撮影当時は斬新だったのかどうかはわかりませんけど、今の視点ではよくあるパターンではあります。それでも面白かったのは、展開と見せ方がうまかったということになりましょう。特に、満潮になると孤立する島にある古城という舞台が大変インパクトありました。ただ、DVDのメイキングによると、もとの脚本では普通の家だったのが、ロケハンの途中でこの城を見つけて舞台に選んだのだそうです。しかし、このロケーションが映画に奥行きと風格を与えていまして、ドラマそのものにも陰影をつけたことにより、映画自体の格が上がりました。

「ブライズ・メイズ 史上最悪のウェディングプラン」は下品ネタもあるけど意外とマトモなコメディしてます。


今回は新作の「ブライズ・メイズ 史上最悪のウェディングプラン」を静岡のシネシティザートシネマ、8で観てきました。ここはスクリーンが変わっていて黒枠のフレームがなく、ただシネスコサイズのスクリーンが壁に取り付けられているという状態。ビスタサイズでもシネスコサイズのままの上映。シネコンもどんどん合理化されてるんでしょうけど、スクリーン前の幕が取っ払われて、スクリーンの黒枠もなくなっていくってのは何だかなあ。夏休みの野外上映会じゃないんだし。

アニー(クリスティン・ウィグ)は、恋人なしセフレありの30代シングル女性。恋人とケーキ屋を開いたものの失敗、恋人も去ってしまいました。そんな彼女の親友リリアン(マーヤ・ルドルフ)が結婚することになり、彼女は結婚介添人のトップ、メイド・オブ・オナーを引き受けちゃいます。盛大な婚約パーティにオンボロ車で乗り込むアニー、そこで他のブライズ・メイドも紹介されるのですが、婚約者の上司の妻であるヘレン(ローズ・バーン)が、自分より付き合いが浅いのに親友みたいに振舞うのがどうにも気に入らない。ヘレンはお金持ちで行動もスマート。リリアンたちがブライズメイドの衣装選びに行ってみれば、アニーの連れて行ったレストランの料理にみんなあたってしまい、肉を食べなかったヘレン以外、上下ダダ漏れ状態になっちゃいます。独身最後のパーティはみんなでベガスに行こうということになったのですが、酔っ払ったアニーが機内で大暴れして途中で強制退去。一方、車のブレーキランプが壊れていたのが縁で、警官のローズ(クリス・オダウト)と知り合い、何となくいい関係になってベッドを共にするのですが、なぜか彼を彼を拒否してしまうアニー。そして、ヘレンの実家の豪邸で行われた婚前パーティで、自分のアイデアがことごとくパクられているのに怒ったアニーは大暴れ、みんなの前で醜態をさらしてしまいます。どっと落ち込むアニーですが、果たして親友との関係修復はできるのかしら。

30代の困ったちゃんなヒロインを主人公にしたコメディです。でも、オスカーの脚本賞と助演女優賞にノミネートされたという一筋縄ではいかないお話です。主演のウィグとアニームモーロの共同脚本を「アイ・アム・デビッド」やTVシリーズの実績を持つポール・フェイグがメガホンを取りました。ケーキ屋で失敗し、宝石店の店員をやっているのですが、そこでもお客に気のない対応をしてしまい、マネジャに怒られちゃう日々。セックスフレンドはいるのですが、恋人に発展する気配なし。何となく怠惰な日々を送るヒロインですが、親友の結婚で、ちょっとだけテンション上がっちゃいます。そしたら、ヘレンという鼻につく女がいたもので、さらにテンションが変な方向に上がってしまうという展開。セックスネタの会話とかゲロネタとかかなり下品度のお高い映画なのですが、その割には、映画はマトモな方向へと収束していきます。ヒロインが、最後までクソビッチだった「ヤングアダルト」に比べると展開としてはマトモ。笑いを誘うネタはこっちの方が玉数が多いという感じでしょうか。

アニーが、とにかくヘレンにライバル意識を燃やしてしまうのがおかしかったです。それに対して受けて立つヘレンもどうかと思うのですが、傍から見ればヒジョーに下らないオンナの闘いが、オヤジ目線では、いわゆるバカ映画のジャンルに見えちゃうのですが、女性の目にはどう映るのか気になるところです。アニーを演じるのが、「宇宙人ポール」ちょっと変わったキリスト教原理主義を演じたクリスティン・ウィグ、対するヘレンは「ホワイト・ライズ」などのちょっとクセのある美形ローズ・バーンでして、見た目には、ヘレンの方が圧倒的に有利。それに対して、ライバル意識むき出しにするアニーが明らかに痛い。アニーは部屋代の払いもままならないビンボー、方やヘレンは家も門から屋敷まで馬でご案内する大金持ち。何がアニーの闘争心に火をつけたのかはわかりませんけど、やめときゃいいのにと思っちゃう展開。一方で、ヘレンはちょっといい人ふうのおまわりさんと知り合いになるのですが、何かうまくいかない。それも、彼が悪いというよりは、ヘレンの方が一方的に理由もなく引いてしまうという謎の行動。とことん、ネガティブなんだなあと思いつつも、ちょっとかわいそうにも思えてきます。

ベガスの独身最後のパーティも飛行機の中で酔って暴れて台無しにしちゃうし、じゃあと、ヘレンの家でやったパーティでも大暴れしてムチャクチャにしちゃう。このあたりは面白いけど、結婚するリリアンにしてみればたまったものではありません。人生最大の自分が主役のイベントをぶち壊されていまうのですから。で、結局、メイド・オブ・オナーの役もヘレンにお願いすることになっちゃいます。このヒロインのダメダメぶりにどう決着をつけるのだろうと思っていると、これが、意外とまともなところに落としてくるのです。というより、落としきってないじゃん。ポール・フェイグの演出は下品な描写とか、ヒロインのダメっぷりにうまくオブラートをかぶせてまして、だからこそのオスカー候補なのかもしれませんが、観客が引くほどのえげつなさはありません。それが良かったのか悪かったのか、痛い30代を描いた映画としては、私は「ヤング・アダルト」の方に1票を入れます。単純コメディとしてはこっちなんですけどね。

演技陣では、クリスティン・ウィグ演じるヘレンの徹底したネガティブぶりと、時としてタガが外れたときの暴走ぶりが面白かったです。また、ローズ・バーンが意外とこういうコメディもこなして頑張っていまして、すごくスマートなんだけど、アニーにとってはものすごく気に障るキャラを見事にこなしていました。また、コメディリリーフとして登場し、オスカーにもノミネートされたメリッサ・マッカーシーのお下品キャラぶりですとか、二枚目というよりお人よしキャラのローズ巡査を演じたクリス・オダウドが印象に残ります。また、アニーの母親役でジル・クレイバーグが登場していたのが懐かしかったです。「大陸横断超特急」とか「結婚ゲーム」などのコメディでも実績のあった彼女ですが、年取っちゃったなあって、しみじみしてたら、2010年に白血病で他界したとプログラムにあってびっくり。この映画の撮影のときは、病魔に侵されていたのかあと思うと余計目にしみじみ。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ヘレンのお邸で大失態を演じてしまったアニーは引きこもり状態に。それでも花婿の妹メーガンの励ましもあり、ケーキを焼いてローズの家の前に置きますが、それも相手にされずがっかり状態。リリアンの結婚式当日になっても出席する気になれないでいるアニーを訪ねてきたのは、意外にもヘレンでした。花嫁のリリアンが行方不明なのです。それはさすがに放ってはおけず、パトロール中のローズにリリアンの捜索を依頼するのですが、全然相手にしてもらません。彼のパトカーの前でスピード違反したり手放し運転したりして気を引こうとしてもダメ。最後はパトカーに追突して、何とか彼女を探してもらうのですが、携帯をたどった居場所は何と彼女のアパート。ヘレンが訪ねて行ってみれば、もう結婚式なんてできない。金持ちのヘレンに任せたら、予算がどんどん膨れ上がっちゃって、大変なことになっちゃったですって。まあ、マリッジブルーも入ってるのでしょうけど、アニーはリリアンを説得し、二人の友情も回復して、二人は結婚式に向かいます。ヘレンもこれまでの非を詫び、何となくいい感じの状態になります。結婚式を終えたアニーを待っていたのはローズのパトカーで、二人の関係も修復してみんな丸く収まって、おしまい。

結婚式の費用は結局どうなったのかよくわからないまま、とりあえず盛大な結婚式になって、ま、いっかという強引に丸く収める結末は、ハリウッド映画の定番を踏襲しています。 途中の描写が下品だったり、ヒロインのダメっぷりが際立つところもあるのですが、そのままとんがった方向に突っ走らない演出は、ちょっと物足りないところはあるものの、後味は悪くありません。ヘレンがラスト近くで「あたしには女の友達がいないの」とかさめざめと泣いちゃうところとか、アニーがそんなヘレンとあっさり和解しちゃうあたりの甘さはあるものの、そこはまあ、ご愛嬌ということで。

謳い文句に裏「SEX AND THE CITY」かとかありましたが、映画としてのうまさは、「SEX AND THE CITY」の方に分があったようです。それでも、面白かったのは、単純に笑えるネタをたくさん入れてあったからで、女性の描き方の辛らつさとか、したたかさ、えげつなさは、「SEX AND THE CITY」「ヤング・アダルト」なんかの方に軍配が上がります。これは、監督の視点が女性にやさしいから、裏返して言えば、女性に対して上から目線なのかなって気がしました。もっと女性の目線に立ってみれば、アニーの問題児ぶりはより痛いものになり、ヘレンのいい子ちゃんぶりに対するしっぺ返しはもっときついものになったのではないかしら。女の敵は女というくらい、女性は同性に対してシビアですから、そこんところを、監督がまろやかにまとめちゃったのかなあという印象でした。
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einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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