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「星の旅人たち」いい話で、発見もある映画、ちょっと饒舌だけど。


今回は、ヒューマントラストシネマ有楽町1で「星の旅人たち」を観て来ました。この映画館にしては、珍しくもフィルム上映。しかし、映画をフィルムで観ることが特記事項になる時代が来ようとは。

眼科医トム(マーティン・シーン)に、世界を旅していた息子ダニエル(エミリオ・エステベス)が旅の途中に事故に遭って死亡したという知らせが届きます。ダニエルは、サンティアゴへの巡礼へと旅立った日に命を落としたと聞いたトムは、息子の遺品のバッグを背負い、息子の遺灰を持って、彼の代わりに巡礼の旅に行こうと思い立ちます。800キロを徒歩で行く巡礼は、結構ハード。それでも、旅の途中で、遺灰を撒きながら、歩みを進めるトム。まず、トムに声をかけてきたのはオランダ人のヨスト(ヨリック・ヴァン・ヴァーヘニンゲン)で、やせる為の巡礼とかで、ドラッグもやる陽気な男。そして、途中の宿泊所で知り合ったのは、ヘビースモーカーのカナダ女性サラ(デボラ・カーラ・アンガー)。他にもたくさんの巡礼者が同じ道を歩んでいる中で、3人は一緒に行動し始めます。さらに、作家だというアイルランド人のジャック(ジェームズ・ネズビット)も加わります。途中で、酒に悪酔いしたトムが警察のお世話になっちゃったり、バッグを盗まれて、その犯人の少年の父親にジプシーの宴に招かれたり。多少の諍いもありながら、この旅で知り合った4人はとうとうサンティアゴまでたどり着くのでした。

「張り込み」「ボビー」などで知られるエミリオ・エステベスが、脚本、監督をして、さらに助演しています。マーティン・シーンとの実の親子が、親子の役で共演ということになりました。巡礼の旅をスタートしたところで事故で亡くなった息子の遺品と遺灰をかついで、息子の代わりに巡礼の旅をスタートさせることになります。目的地はキリスト教の聖地であるサンティアゴ。パスポートみたいのを手にスタートし、行く途中の町でスタンプをもらい、サンティアゴまでたどり着いて、そのパスポートを示すと、巡礼の証明書がもらえるというもの。スケールのでかいスタンプラリーだと思えばわかりやすいかしら。行く途中の町には、巡礼者を相手にする宿屋があり、多くの人が巡礼の途中の疲れを癒すのです。トムはもともと巡礼なんかする気はなく、亡くなった息子の遺体を引き取りに行ったのですが、遺品を見ているうちに気が変わり、息子の遺体を火葬することにして、彼がやろうとしていた巡礼の道を自らの足でたどろうと思い立つのでした。

そんな事情もあってか、どこか思いつめたように歩くトムなんですが、陽気なオランダ人ヨストにペースを乱されちゃいます。信心よりも、やせたいから歩くんだというヨストですが、その本意は本人にも良くわかっていないようです。次に知り合うのは、カナダ人のサラ。しつこい男は嫌いだという彼女は、寡黙なトムと同行するのが、結構気に入ったらしい。旅行誌のライターで小説を書きたがっているジャックは、トムの境遇を聞いて、それを小説の題材にしたいと思って同道するようになります。

ドラマのほとんどは登場人物が歩いているシーンで、その淡々とした演出が、巡礼というにはテンション低めの道行きになっています。途中でコミカルなエピソードを挟みながらも、登場人物が感情を吐露したり、泣いたり喚いたりするシーンがないのは、巡礼という行動にドラマを絞り込んだと言えましょう。トムも息子の悲しみにとらわれているようには見えません。ただ、そこにある道をひたすら歩いていくという感じなのです。巡礼というのは、基本的に聖地にたどり着くことを目標にする旅ということになるのでしょうが、この映画の登場人物には、信仰の匂いがあまりしません。ただ、聖地と呼ばれるところまで、歩いて行くことを目的としているように見えます。ある意味、お気楽であり、またある意味では純粋な行動だと言えましょう。トムが、途中で同道する神父さんから十字架をもらうシーンが印象的でした。十字架は、信仰の象徴であり、巡礼の意味を問うアイテムでもありました。

その曖昧な信仰が、聖地サンティアゴ大聖堂にたどり着いてみれば、心の中を揺さぶってきます。正確には、揺さぶるというよりは、心を安定させるというのが当たっていると思います。それまでの、個人の悲喜こもごもの全てが一瞬心を離れていき、最後に何かが残っているという感じです。それを、純粋な信仰と呼ぶこともできるでしょうし、無我の境地ということもできるでしょう。バックボーンとなる宗教の文化によって、その表現は様々でしょうけど、雑念を取り払われた状態になるのでは、ないかしら。日本人なら、神道の信者でなくても、伊勢神宮へ行ったときに受ける感じ、仏教を信じてなくても、薬師如来像を見たときに感じるものと言えば、なんとなくでも、通じますでしょうか。

普段、あまり信仰に対する思い入れのないトムなのですが、巡礼の目的地であるサンティアゴ大聖堂にたどり着いたとき、心を奪われたような顔をのぞかせるのが印象的でした。息子の突然の死によって、打ちひしがれている一方で、巡礼に生きることを再認識しようとしている様子を、マーティン・シーンは控えめに好演しています。力んだ演技の入り込む余地のない映画ではあるのですが、その中で、主人公たちが大聖堂にたどり着いたシーンでは、演技を忘れて、素直に信仰の中に身をゆだね、そういう状態になっている自分たちに驚いているように見えました。

トムは旅の最後を、ジプシーの男のアドバイスに従い、サンティアゴの先の海岸まで行くことにします。大きな波が打ち寄せる海岸で、最後の散骨をしたところで映画は終わります。その行為に、意味づけは特に必要はいらないと思います。ただ、息子の死をきっかけに巡礼が始まり、ジプシーのアドバイスから、海岸までやってきた。それだけの話ではないのかしら。そこに、人間の心の不思議、信仰の不思議、神様の持つ底力を感じてしまいました。

ところが、エステベスの脚本と演出は、マーティン・シーンの朴訥な演技とは裏腹に、ちょっと語りすぎになってしまっているのが残念に思います。道中の途中で、息子の姿があちこちに幻のように登場します。ラストの散骨シーンでは、親子で会話するシーンまであります。正直に言って、そんなシーンは要らないと思います。音楽の使い方や、息子の幻は、この人間の不思議を描くドラマの中では、饒舌すぎるのです。息子の死がきっかけだったとしても、トムの巡礼は決して息子のためではなく、トムという人間が純粋に望んだ行動なのです。彼の行動に理由付けや因果関係は要らない。それは、彼と同行する3人も同じことなのです。聖地への巡礼のきっかけはきっと各々あるには違いないのですが、実際に巡礼の旅に出て、聖地に近づくに連れて、その感情がどんどん純化されていく、そして、聖地にたどりついたときには、純粋な信仰、敬虔で謙虚な心持ちに達するのではないかと思いました。キリスト教なんて、排他的だから、いかがなものかと思っている私でも、きっとこの場所に行けば、同じような心持ちになるんだろうなって気がします。

演技陣は知らない人も多いんですが、みなそれぞれに控えめに好演しています。感情を抑えたマーティン・シーンの渋い演技もよかったですし、デボラ・カーラ・アンガーのちょっと人生斜に構えているけど実は奥行きのあるキャラ作りも見事でした。タイトルで一枚看板だったチェッキー・カリョがどこに出ていたのか最後までわからなかったのですが、プログラムを読んで、冒頭で、トムに息子の死を知らせる警部役だったと知ってびっくり。「ニキータ」や「ドーベルマン」の時のようなアクの強さがすっかり抜けた渋いバイプレイヤーぶりは、年齢を重ねたというところもあるのでしょうが、意外な発見でした。また、この警部がいい味出してたのですよ。まさかカリョとは思いませんでした。

今、流行りのパワースポットというのは、サンティアゴの大聖堂と同じように、人の心を純化して無我の境地にさせてくれるところなのかもしれません。先日、観た「ルルドの泉で」のような、現世ご利益を望む巡礼とは違う形での信仰のありようを見せてくれたという点で、この映画は大変面白いと思います。ただし、それはいわゆる無信仰の私だから、聖地への巡礼を客観視できて、そういう感想を持てたのかもしれません。キリスト教を日々の暮らしの中で心から信じている人からすれば、聖地巡礼はもっと明確な意図とイメージを持ったものだと思いますもの。
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「ブレイクアウト」は手堅くまとまったサスペンスもの、もう少しお話を膨らませてほしかったかな


今回は新作の「ブレイクアウト」を川崎チネチッタ5で観てきました。ここもデジタル上映になっちゃいましたが、いつも気になるのが、デジタル上映って音響はどうなんだろうってこと。何チャンネルなのか。ドルビーデジタルよりも高音質なのか、まだまだ知らないことが多くって。

ダイヤモンドディーラーのカイル(ニコラス・ケイジ)と妻のサラ(ニコル・キッドマン)は娘のエイヴリー(リアナ・リベラト)とセキュリティの行き届いた豪邸に住んでいました。エイヴリーが親に隠れて女友達とパーティに出かけた日、警官だと偽って、銃で武装した4人の覆面の男女が家に押し入ってきました。家のセキュリティについてもかなり詳しく、どうやらだいぶ下調べをしてきたようで、連中の狙いはカイルの部屋にある金庫でした。その中には多額の現金とダイヤモンドが入っている筈だと。サラに銃をつきつけられ、金庫を開けるように要求されたカイルは何とその要求を拒否。ダイヤをそのまま盗んでもすぐに足がつくから、自分に加工させろと言い出します。サラは、4人組の中の一人に見覚えがありました。家のセキュリティ装置を設置しに来た男でした。そして、その男は金よりもサラが目的で、この一味に加わったようなのです。リーダー格の男は何としてもカイルに金庫を開けさせようとします。そんな時、パーティで出会った男にうんざりしたエイヴリーが家に帰ってきて、彼女も人質にされてしまいます。でも、強盗団にも何か事情があるようで、何としても金を手に入れる必要があったのです。果たして、カイル一家は無事に生還できるのでしょうか。

「メカニック」「アンノウン」のカール・ガイジュセクーが書いた脚本を、「フォーン・ブース」や「フォーリング・ダウン」などの職人ジョエル・シューマッカーが監督したサスペンススリラーです。突然、家に侵入してきた4人の男女によって、命の危険にさらされる一家という設定ですが、意外とムチャしない犯人と五分に渡り合う主人公との対立によって、駆け引きのサスペンスが生まれるあたりに、一工夫のある映画でした。でも、プログラムを作ってないってのは、配給会社もあんまり売る気がないのかな。それとも、急遽決定した隙間公開なのかしら。

カイルはダイヤモンドのディーラーで豪邸に住んでいるから、ダイヤと多額の現金を持っている、なのにカイルはその金庫を開けるのを拒否。でも、犯人の一人にサラ目当ての男がいたことから、彼女に手荒なまねは極力避けようとしている。リーダー格の男は、何とか金を奪ってずらかりたいのが見え見え。女の方は、サラの宝石等の方に興味があるらしい。もう一人の体のでかい男が何を考えているのかよくわからない。そんな連中を相手に、金庫を開けることを拒否し続けるカイル。そして、犯人の一人とサラには何か関係があるらしい。それぞれの登場人物が秘密と事情を抱えているというのがミソでして、極限状況の中で、その秘密が少しずつ見えてくるという構成は悪くありません。ただ、その秘密と事情ってのが、1本の映画を引っ張るほどのボリュームがなかったのが残念だったかも。双方の攻守が入れ替わるといった趣向もありますし、舞台を家の中にしぼって舞台劇のような見せ方にしているのも悪くないのですが、もっとネタを盛り込んでもよかったかなって印象でした。91分という時間でコンパクトにまとめているのは、シューマッカー演出のうまさだとは思うのですが、もっと二転三転の仕掛けがほしかったように思います。

ニコラス・ケイジも、ニコル・キッドマンも、腹にいちもつ持っているという設定で、ミステリアスである一方で、感情移入できないキャラになっています。一方の犯人一味の方も、素直に金とダイヤを渡すだろうと思っていたら、カイルが意外や面と向かって拒否してくるので、予定が狂ってしまい、若干アタフタしちゃってます。犯人グループもどうやら他の誰かから脅されてやっているってのがわかってきます。そして、何考えてるかわからない大男はそのお目付け役だったのです。犯人側も金が手に入らないと困る。カイルにしても、金庫は開けられない事情がある。サラと犯人の一人には過去に何かあったらしいということで、状況は膠着状態になっちゃうのですが、結局、金庫を開けざるを得なくなってしまいます。

室内シーンの多い映画ですが、そこにきちんとシネスコサイズの絵を作りこんだアンジェイ・バートコヴィアクの撮影が見事でした。この人、一時期はジェット・リーのアクション映画の監督なんかやってたのですが、シドニー・ルメット作品など撮影監督の方がいい仕事を残しています。半素人の強盗団があれやこれやで自滅パターンになる展開は、よくあると言えばよくある展開なのですが、主人公側の方にも肩入れできないってところは、この映画の弱点でもあり、また面白さにもなっています。ラストで「え、こいつそんな奴なの?」と思わせるところが、狙っているのかどうかわかりませんが、ちょっとしたアクセントになっていました。シューマッカーの演出はカットのつなぎも含めて手堅くさばいているのですが、脚本がもうちょっと中身の詰まったものになっていたらと思わせるのが残念でした。



この先は結末に触れますのでご注意下さい。



結局、カイルは金庫を開けるのですが、その中は空っぽ。実は、ダイヤ商売がうまく行ってなくてスッカラカンだったというのですよ。逆上する犯人たち。リーダー格の男は、組織のヤクを運ぶ途中で奪われてしまい、その弁償のために金が必要だったのです。そして、女はリーダーの愛人。サラを狙う男はリーダーの弟で、ちょっとメンタルに問題があって治療中。そんな弟は、仕事でこの邸に来たときにサラに一方的な感情を持って、サラも自分を愛してると思い込んでしまったという厄介な奴。サラの部屋にあったダイヤの首飾りもイミテーションとわかって、犯人側もどん詰まり。そこで、カイルの娘がパーティへ行った先の男の子の家の金庫に大金があると言い出して、それを奪うという提案をし、リーダーの愛人と車を走らせるのですが、途中の標識にわざと車をぶつけ、愛人を車に手錠で縛って家に戻ってきます。一方、兄弟の見張り役の男はリーダー格の男に撃たれて死亡。そして、逃げる娘を追って、邸の改築中の部分へと行くと、そこには札束が隠してありました。実は、カイルは家族のために金を隠していたというのです。そして、リーダーも弟に撃たれて死亡。しかし、カイルも撃たれてしまいます。カイルはネイルガンで弟の足を床に釘付けにして、妻と娘を逃がし、床にこぼれたオイルに火をつけます。しかし、サラはカイルを救いに戻ってきます。そして、金もろとも炎に包まれる弟、家族3人が抱き合うところで、エンドクレジット。

物語の途中には、家の警報装置が作動するのですが、警備会社が家に確認の連絡をとらないと警察に通報しないルールになっていて、やりすごしてしまうとか、確認に来た警備会社の男を、弟が即射殺してしまうというシーンもあるのですが、それほどサスペンスが盛り上がらなかったのは残念。全体として、強盗側もやることが手ぬるいし、警備会社もマヌケ、さらにあれだけ家族が銃をつきつけられていたのに、隠し金のことを黙っていたカイルも結構因業オヤジです。実は、犯人の弟の方がサラに抱きついてキスする映像が監視カメラに残っていました。サラには全然その気がなくて、単なるサイコな思い込みだったのですが、それを見ていたカイルがサラを疑っていたという事実があり、その疑惑は最後まで解けていないというところがちょっと面白いと思いました。ただ、その伏線が有効に使われなかったのは残念。というわけで、演出や撮影には工夫が凝らされていて面白かったのですが、お話の方が今一つ詰めが甘かったという感じでした。カイルのキャラが最後までよくわからなかったのは、狙ってやってるのか、お話を勢いよく流していたら、拾い損ねちゃったのか、まあ、どっちにしても、そこそこの仕上がりと言ったところでしょうか。

「ワン・デイ」は20年以上に渡る二人の愛情の物語、どこか前向きな感じが好き


今回は新作の「ワン・デイ」をTOHOシネマズ川崎8で観て来ました。ここは、やや小さめのスクリーンが上の方にあるので、スクリーンの正面あたりの席をとるとかなり後ろの席になるという微妙な映画館。

1988年の7月15日、大学の卒業式の後、エマ(アン・ハサウェイ)とデクスター(ジム・スタージェス)は初めて言葉をかわし、エマのアパートまで行くのですが、結局ベッドで添い寝するまでの関係にしかなりませんでした。それからは、お互いいい友達の距離感で行こうということで、二人のいい関係は何年も続いていきます。物書きになりたいエマはウエイトレスをやりつつロンドンで暮らし、デクスターはパリで好きなように暮らしていました。そのうちに、エマは教師を始め、デクスターはテレビ番組の司会者として有名になります。ウエイトレス時代の同僚イアン(レイフ・スポール)と同棲を始めるエマ、一方女遊びのし放題だったデクスターも大事な特定の恋人シルヴィ(ロモーラ・ガライ)と知りあい、彼女と結婚します。それでも、エマとデクスターは連絡をとりあっていました。時間が育んだ二人の関係は、友情とも、男女の恋愛とも違う堅い絆になっていたのです。そして、イアンと別れたエマと、シルヴィと離婚したエマが再会したときは21世紀になっていました。

デヴィッド・ニコルズの小説を彼本人が脚色し、「幸せになるためのイタリア語講座」「17歳の肖像」のロネ・シェルフィクが監督しました。ある男女の20年近くの人生を、その年の7月15日だけにスポットをあてることで描いていきます。毎年のある1日だけを描いていくので「One Day」という原題にもなっているのですが、これはアイデアとしては面白いのですが、その仕掛けで二人の人生を浮かび上がらせるのは、かなり至難のわざです。ニコルズの脚本は、二人の人生を語りきれないことを承知で、それでも、色々あったんだろうなあってことをほのめかしながら、1時間47分の映画にまとめることに成功しています。

1988年から始まって、二人の人生が少しずつ接点を持ちながらも別々に流れていく過程をテンポよく描いていきます。特に前半はあれ?と思うくらいに展開が早いので、ちょっとついていけないかなって思ってしまうのですが、二人の人生に波風が立ち始めるとじっくりとドラマが描かれていくようになります。アン・ハサウェイとジム・スタージェスの二人は20年近くに渡る時間を演技やメイクを使って巧みに演じ分けています。1年毎の二人を描いていくので、そう大きな変化はなさそうでいて、ラストでまた1988年に戻るときに、若い頃の二人とは違うんだなって実感しましたもの。

エマとデクスターは最初に出会った晩にベッドインするはずだったのですが、ちょっとしたすれ違いから友人関係ということになっちゃいます。男女間の友人関係なんて、どっかでくっついちゃうか破綻するかだろう?って思ってしまうのですが、二人はロンドンとパリという遠距離だったということもあってか、電話や手紙のやり取りをしつつ、たまに会っては、お互いの境遇について語り合える関係をうまく続けていました。エマだって自分の夢と現実のギャップに悩むときもあり、デクスターもテレビの仕事について悩むことがある。そこの心の底の底まではオープンにしない距離感とでも言うのでしょうか。お互いに好きあっているのですが、ある一線を踏み越えない関係がうまく機能しているように見えます。お互いの人生がそこそこうまく回っているときは、その距離感を保てるのですが、何かを失ったとき、その空虚さを埋めたいときに、お互いが相手を必要としていることに気づくのですが、かと言って、今までの成り行きが、そこを簡単には埋めさせてくれません。一度、固定された距離感は、自分の想いを抑制します。余程のことがない限り、その堰を切ることは難しいのですが、二人に、その堰を切るときがやってくるのでした。

あまり時代色を前面に出さないことで、映画の流れはスムースなものになり、シェルフィクの演出は、主人公二人と程よい距離感を保ちつつドラマを展開させていきます。エマ、デクスターどちらにも感情移入させないようにして、その中から、良くも悪くも時間を費やしていく人生のありようを丁寧に描き出そうとしています。人生は甘くないけど、苦すぎない、幸福も不幸も一時の心の持ちよう、長い期間の二人のドラマから、そんな普遍的な事実が見えてくるあたりにこの映画の見応えがあるように思います。生き方は人それぞれですし、向き合い方、乗り越え方、逃げ方もまた人それぞれなんでしょう。この映画では、主人公二人だけでなく、エマの同棲相手や、デクスターの元の奥さん、デクスターの両親などのそれぞれにある人生を、短いエピソードの中で、丁寧にすくい上げていまして、ドラマとしての奥行きを感じさせてくれました。飛び抜けてここがオススメとは言いにくいのですが、全体を流れる人生に対する肯定感のようなものが、心地よい映画になっていました。



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離婚した後、一夜をともにしたこともあるエマとデクスター。そんなエマも本を出版してひとかどの小説家となりました。一方のデクスターはテレビの司会をクビになってしまい、その後は、大学の同窓生の経営するレストランで働くようになっていました。そして、パリにいるエマを訪れるデクスター、今の彼女にフランス人の恋人がいることを知り、そのまま去ろうとするのを、エマが引きとめ、二人は抱き合います。二人はようやくお互いの想いを同時に伝え合うことができました。同棲から結婚と二人にとって幸せな時間が続きます。子供が欲しいと思いながら、なかなかできないことが二人の間でささやかな諍いの種になっていました。そんなある日、自転車に乗っていたエマがトラックに轢かれて死んでしまいます。失意の中で酒におぼれるデクスターですが、何とか立ち直り、レストランの店を出します。そして、画面は最初に出会った日の二人になり、添い寝だけの朝を迎えた二人が丘の上に散歩に出かけます。そして、また部屋に戻って続きをやろうと戻る途中で、デクスターの両親と遭遇、二人は電話番号を交換するのでした。

エマの死は、若干の予感を漂わせながらも唐突にやってきます。え?そんな風にあっけなく逝っちゃうの?と思うのですが、ドラマはそこをあっけらかんと描きます。(そういえば、途中で突然ヒロインが死んじゃうって映画がありました。あれも切なかったけど。)そして、あえて愁嘆場をパスして、酒に溺れるデクスターと、なんとか人生のやり直しに成功する姿を描きます。そういう描きかたができるのは、1年のある1日だけを描写するという仕掛けのおかげではあるのですが、そこには、人は死なない限りは生き続けるという、ある種の運命が感じられて、じわっとくるものがありました。ラストで、出会いの日の翌日の二人が描かれるのですが、これはあくまでエピローグでして、そこに余韻と救いを残したかったのだと思います。

そんな中で好きなエピソードがありました。エマの死でボロボロになったデクスターが、ガンで妻を亡くした父親と二人でテレビを観ているシーンがあります。父親が息子に向かって言います。「彼女が生きているというつもりになって生きてみろ」、それにデスクターが「そんなことできない」というと「わしは10年もそれをやってる」と父親は答えます。それまで、あまり仲のよくなかった父子の会話だけにホロリと来るものがありましたし、そういう人生への向き合い方もあるんだなってのが印象的でした。

「ミッドナイト・イン・パリ」は浅く軽く楽しむのがいいかも、突っ込むと嫉妬の感情が。


今回は新作の「ミッドナイト・イン・パリ」を109シネマズ川崎8で観てきました。スクリーンはシネスコ状態で、予告編から本編まで全部ビスタサイズ。スクリーンをマスクするのをやめたのかな。ちょっとしたところで手を抜くなよって思っちゃう。

ハリウッドの脚本家ギル(オーウェン・ウィルソン)は、小説家になりたいと思って処女作を執筆中。そんな彼が婚約者イネズ(レイチェル・マクアダムス)の両親のビジネストリップに同行して、パリに婚前旅行にやってきます。そこで、イネスの友人のポール(マイケル・シーン)夫妻と出会って、彼らと行動を一緒にすることになりますが、あまり気が進みません。インテリ丸出しのポールにうんざりしたギルは夜、一人でホテルまで歩いて帰ろうとしますが道に迷ってしまいます。そこへ旧式のプジョーのタクシーがやってきます。パーティに行くというタクシーの客に誘われるままに乗り込むと、何と行った先は1920年代のパリの夜。パーティでスコット&ゼルダ・フィッツジェラルド夫妻に出会い、バーでヘミングウェイに出会い、ギルは自分の小説をガートルード・スタインに読んでもらう約束もします。ギルにとって、それは黄金時代への旅であり、夢のような時間でもありました。朝には現代のホテルに戻っているギルは、昼間は、ポールを崇拝するイネスに付き合わねばならないのですが、夜になるとまた同じ場所に行き、旧式のタクシーに乗り1920年代へと行くのでした。そこで知り合ったピカソの愛人アドリアナ(マリオン・コティヤール)に魅かれるギル。彼女もジルへの特別な感情を持っているようでした。昼と夜で時代を行き来するギルに待っている人生の転機とは?

ウッディ・アレンが脚本、監督したロマンティックコメディです。パリという特別な場所で起こった不思議な体験を描いたもので、主人公ギルが1920年代にタイムスリップして、当時の著名人と交遊を持つというお話。もともと、主人公はパリに対して思い入れがあって、パリに住みたいと思っていましたが、婚約者のイネズはマリブでリッチに暮らしたいという現実派。そんなイネズからすれば、金になる仕事を捨てて、パリで小説家になりたいというギルは夢見る夢男君です。そんなギルにとって、1920年代への旅は、彼にとっては黄金時代へのトリップであり、有名人との交遊にすっかり有頂天になってしまいます。小説への批評ももらえて現実世界へ返っても、パリの観光をさしおいて小説の推敲にかかってしまい、イネスや彼女の両親からは、どこかおかしくなったんじゃないかと思われてしまいます。

毎晩、黄金時代へとトリップする中で、ギルは自分の小説に自信を持ち始めると共に、アドリアナにどんどん惹かれていくのでした。現代に婚約者がいるのに、そういう気持ちになっちゃうのは大丈夫なの?という気もするのですが、想いを抑えることができなくなるギル。1920年代はあくまで向こうの世界でリアリティは現代にあるからできることなのかもしれませんが、だんだんイネズから気持ちが離れつつあることも事実なようです。

この映画の面白さは、タイムスリップした先で、様々な芸術家とギルが出会うところ。私は予習不足で、半分くらいしか理解できなくて、プログラムで復習することになっちゃいましたが、そこを楽しむのがメインらしいのです。タイムスリップによって、主人公がどうなろうがあまり気にしてないようなドラマ展開でして、作り手もパリの黄金時代を再現することを楽しんでいるように見えます。でも、映画はラスト近くで、過去を懐かしんでいるのはいけないというようなことも言います。過去は過去でしかないと。でも、あれだけタイムスリップを楽しそうに描いておいて、土壇場でそんなこと言わなくてもなあって気もしちゃいました。いや、過去は過去でしかないというのは、私も同感でして、昔ならよかったという考え方はあまり好きじゃないのですが、それがおまけの言い訳みたいに言われるので、全体のバランスを崩してしまったような気がします。

注意すべきところは、主人公がパリへやってきた観光客、すなわちお上りさんだということ。パリへの憧れも地に足がついたものというよりは、イメージ先行のどこかふわふわしたものを感じさせます。そんな彼がトリップした先では有名人ばかりと出会うというのは、上っ面だけの観光ツアーと同じです。「パリ・ジュテーム」のようなパリの様々な顔を見せて、パリの本当の魅力に迫ろうという気は映画にはありません。それよりも、パリを夢のような存在にして、主人公がちょっと楽しい夢を見ましたというコメディと思った方が当たっているでしょう。ただ、ラストシーンを観ていたら、これ映画全体が主人公の夢なんじゃないのかなって気もしちゃいました。夢の中で、さらに昔のパリの夢を見たという映画なのかもって思えたのです。そこまでひねくれて考えず、浅く楽しむ方が変な突っ込みが入らなくて楽しめる映画だとは思いました。

演技陣では、アドリアナ役のマリオン・コティヤールの美しさが印象的でした。また、ちょっと嫌味なインテリ野郎を演じたマイケル・シーンがうまくて、ギリギリのところで気に障る奴を見事に演じていました。「デリカ・テッセン」「セブン」のダリウス・コンジのキャメラは、パリの夜の隅々まであたたかい光で満たした映像を作り上げています。



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ギルは現代の古本屋でアドリアナの回想録(日記なのかな)を買い求めると、そこには、ジルというアメリカ人を好きになって、彼からイヤリングをもらったとか書いてあるのでびっくり。そこで、彼はイヤリングをゲットして、その夜、アドリアナに会いに出かけます。夜のパリでの二人のデートはいい感じになって、イヤリングを渡すのにも成功するのですが、そこへ現れた辻馬車が二人をどこかへ連れていきます。それはさらに時代をさかのぼった1890年代でした。マキシムで食事をし、ムーランルージュへと行き、ロートレック、ドガ、ゴーギャンと会って、今度はアドリアナが有頂天。アドリアナにとっての現在、1920年代はつまらない時代であり、1890年代こそが黄金時代なのでした。それを見て、ギルは、自分も彼女と同じように現在をつまらなく思っていて、1920年代を黄金時代と思っていたことに気づきます。過去を過去として、現在を受け入れることが大事だと気づいた彼は、1890年代に留まりたいというアドリアナに別れを告げます。そして、1920年代に戻り(ややこしいな)、ガートルードに小説の批評をもらい、さらにヘミングウェイからの伝言を聞きます、「婚約者がインテリと浮気しているのに気づかないでいるなんて」。そして、現在に戻ってイネズを問い詰めてみたら、インテリ野郎のポールと浮気したことをあっさりと認めます。そして、二人は別れることに決め、ギルはパリに住むことに決めます。また、一人でパリの夜を歩き回るギル。すると、橋の上で、コール・ポーターのレコードを売っていた女の子(レア・セドゥ)と出会います。なんとなくお互いに好感情を持っていた二人。ギルは、食事の帰りだという彼女をコーヒーでもどう?と誘うと彼女もそれにこたえます。急に雨が降り始めますが、雨のパリも好きだというギルに、私もそうよとこたえる彼女。雨の中、肩を並べて歩き始めるふたり。「君の名前は?」「ガブリエル」暗転、エンドクレジット。

結局、現実の世界では、婚約者とうまくいかなくなるのですが、それはアメリカやハリウッドとの決別を表したものと言えましょう。そして、ラストのガブリエルとの出会いは、彼が本当にパリに住むことになることを示しているのでしょう。そのあっけらかんとした展開は、わかりやすいというよりは、何かお気楽だなあって感じでした。結局、現代版「パリのアメリカ人」はへんな夢を見たせいで、パリという町に取り込まれてしまいましたとさ。

これを夢のある話かというと、あくまでセレブの夢物語なのですよ。主人公はハリウッドの脚本家として、どんどんオファーが来る売れっ子(これはすごいことです)でして、いわゆるハリウッドセレブ。そんなセレブの見た夢がパリで小説を書くこと。日々をあくせくと暮らしている我々一般庶民には手の届かない世界の人間が、ちょっと芸術家やってみたい夢を見たら、パリに後押しされて、その夢が現実に近づいたというお話だということもできましょう。でも、それは、セレブの酔狂のようなもので、現実逃避を実際に行える人種だからこそ成り立つお話なのです。ですから、私のようなビンボーサラリーマンにはとりつくしまがなくて、共感するよりは、うまくやりやがったという嫉妬の方が先に立ってしまいました。後、嫉妬の原因は、登場する有名人を知らないってところもあります。この映画に登場する有名人は一般常識のレベルで知っておくべき人なのかしら。スコット・フィッツジェラルドとかガートルード・スタインとかジューナ・バーンズなんて私にはさっぱりでしたもの。一見さんお断りの会員クラブみたいな映画だって言ったら、悪口言いすぎですよね。でも、その一方で、主人公がパリを有名人を通してでしか感じることができないというのは、ずいぶんとパリに対する浅い見識ではないのかなって気もしてしまいます。行き着くところ、パリってそんな特別なところなの?ってことになります。どうやら、「パリ・ジュテーム」で復習した方がいいみたいです。

「ハングリー・ラビット」は題材を消化しきれてないけれど、サスペンス部分は見応えあり


今回は新作の「ハングリー・ラビット」をTOHOシネマズ川崎1で観てきました。もうシネコンはデジタル上映が普通になっちゃいました。フィルム上映の機会がもう稀というか、この先、フィルム上映ってないのかもしれないです。

高校教師のウィル(ニコラス・ケイジ)は、オーケストラのチェロ奏者の妻ローラ(ジャニュアリー・ジョーンズ)と心から愛し合っていました。ある晩、彼女がレイプ常習者に暴行されて重傷を負ってしまいます。怒りに震えるウィルの前にサイモン(ガイ・ピアース)という男が現れ、犯人が逮捕されても、奥さんは裁判でつらい思いをして、結局大した罪にもならないことを告げます。そして、自分の組織が彼の代わりに正義を実行してやるがどうする?と聞いてきます。最初は拒否していたウィルも最後には彼の申し出を受けてしまいます。するとその晩のうちに暴行犯は殺されてしまいます。それからしばらくたち、ローラの傷も癒えてきたころ、サイモンからウィルに電話がかかってきます。そして、彼はサイモンの指示に従わざるを得なくなってしまいます。最初は動物園である親子を尾行するだけだったのですが、次の指令は、小児性愛者を歩道橋からハイウェイに落として自殺に見せかけろというものでした。拒否するウィルですが、謎の組織は彼の家にまで入り込んできて、無言の脅しをかけてきます。そして、ついにウィルは指定の場所へ向かうと、そこへターゲットの男がやってきました。すると男の方からウィルに攻撃してくるではありませんか。それをかわそうしたところ、勢い余った男の方が自分から歩道橋から落ちてしまいます。あわてて、その場から逃げ出すウィルですが、家に帰ると刑事がやってきて、ウィルを新聞記者殺しの犯人として逮捕されてしまいます。小児性愛者だと言われていた男は、新聞記者だと言うのです。歩道橋の監視カメラの映像は、肝心の二人がやり取りしている映像が抜けていました。このまま、ウィルは濡れ衣殺人の罪を着せられてしまうのでしょうか。

「世界最速のインディアン」「スピーシーズ」など、どんなジャンルの映画も手堅くこなすロジャー・ドナルドソン監督の新作です。妻を暴行された高校教師が、巻き込まれる自警市民組織のお話でして、それなりのアクションあり、サスペンスありで、スリラーとしてもなかなかの出来栄えでした。法で裁けぬ悪を討つというと必殺仕事人なんですが、今回のは、お金でやるんじゃなくて、互助会みたいになっているのがミソ。つまり、悪の被害者が、その悪を裁いてもらったら、他の悪を裁くときには手を汚さなければいけないというもの。で、その互助会の元締めがいて、これがサイモン。でも、ウィルみたいに言うことを聞かない人間がいると、ものすごい脅しをかけたり、罠にはめようとするのです。そこまでやらないで、とにかく裁けぬ悪を法の代わりに裁くのならいいのか?ってところは、この映画は曖昧にしちゃいました。そこまで、突っ込んでいたら、「密殺集団」(ピーター・ハイアムズ監督の佳作、未見の方はオススメ)くらいの面白さになったのですが、単純な善玉悪玉の映画になっちゃっていたのは残念でした。それに、互助会ということは、素人が殺しをすることになるのですが、自殺に見せかけたり、確実に殺したりできるのかというところのリアリティも今一つでした。人一人殺すってのは、すごいエネルギーが要ることですし、直接には何の恨みもない人間を殺すのですから、倫理感が先に立つのではという気もします。

法というものが、加害者に甘く、被害者にひどい扱いになっているというのは、よく言われることです。やられた方は泣き寝入り。加害者は軽い罪で、すぐにシャバに復帰する。そんな世の中では、法を逸脱した裁きを下してくれる組織があってもいいのかもという気にはなります。少なくとも、映画やドラマの世界でなら、その方がスカっとした気分になれます。だからこそ、「必殺仕置人」ですとか「デス・ウィッシュ」シリーズのような映画が娯楽として成り立つのです。でも、実際にこんな組織があったら、人違いで殺されちゃったり、死刑に値しない罪でもどんどん殺されちゃうというやばい社会になります。この映画では、組織がどんどん暴走を始めるという展開になっていまして、いわゆる悪役自爆型のサスペンスになっているのが、ちょっと物足りなく感じてしまいました。それでも、結構面白く観れたのは、組織の人間が町のそこら中にいるのではないかと思わせるところです。タイトルの「ハングリー・ラビット」というのは、組織の合言葉でして、裁きの実行時には「ハングリー・ラビットが跳ねた」という表現をするのです。これを知ってる人間は組織の人間ということになります。そして、映画の中でもウィルが組織の一般市民に命を狙われたりします。

ロジャー・ドナルドソンの演出は手堅くストーリーをこなしていますし、逃走中にハイウェイを横断するシーンがなかなかの迫力で頑張ってはいるのですが、脚本が「裁きの互助会」という基本設定を消化しきれていないのか、物語としての重みが感じられないのが残念でした。法によらない裁きというと、近年では「完全なる報復」を思い出すのですが、あの映画のジェラルド・バトラーほどにも組織側の説得力がないのですよ。基本設定を離れたサスペンススリラーとしては及第点だとは思います。デビッド・タッターサルの撮影が、アップや斜めの構図を多用して不安感を煽るのに成功していますし、作りとしては悪くないのですが、やっぱり脚本が弱いってことになっちゃうのかな。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ウィルは、小児性愛者を殺せと言われるのですが、それができず、相手に話しかけようとしたら、相手の方が逆上して襲い掛かってきて格闘となり、男は自分から歩道橋から落ちて死んでしまいます。ところがウィルは、殺人の濡れ衣を着せられて警察に逮捕されてしまいます。それに死んだのは小児性愛者ではなく、新聞記者だったことを知ります。逮捕した刑事の上司の警部補が彼にいくつか質問してきて、「ハングリー・ラビットは?」と訪ねられ、ウィルが「跳ねる」と答えると、ウィルの手錠が外され「逃げろ、さもないと自殺に見せかけられて殺される」と言われます。警察の中にまで組織が食い込んでいるのか、それとも警部補は反組織の人間なのか。とにかく、その場を逃げ出すウィルは、奥さんのローラの身を案じ、彼女に家を出てホテルに隠れろと告げます。そして、事件の謎を探るべく新聞記者の追悼パーティでIDカードをゲットし、記者の机を探し、そこにあるガソリンスタンドのレシートが多数あることを見つけます。一方でサイモン一味もウィルを追跡してきます。ガソリンスタンド横の倉庫にあったボートから、組織についての証言が入ったDVDを見つけたウィルは、自分の無実を証明する監視カメラの映像と引き換えに、DVDを渡すという取引をサイモンに持ちかけます。そこまでは五分五分の勝負だったのですが、ウィルの親友も組織の人間だったことから、妻のローラがサイモンの部下に拉致されてしまいます。そして、廃墟となったショッピングセンターで、DVDとローラの交換になるのですが、銃を突きつけられて絶体絶命。その時、サイモン側にいた親友が逆襲に出て撃ちあいとなります。ウィルとサイモンが格闘となり、ウィルがサイモンの頭に銃口をつきつけた時、ローラがサイモンを射殺します。そこへ現れたのが、ウィルを警察から逃がしてくれた警部補。そして、ウィルにこっちの組織に入らないかと勧誘してくるのですが、ウィルは拒否。それでも、警部補はウィルとローラをいなかったことにして、二人を逃がしてくれるのでした。ウィルは、証拠のDVDを新聞社に持っていき、記者の遺品だから記事にしてくれと頼むのと、受け取った男は、「任せてくれ」と言った後「ハングリーラビットは跳ねるから」と付け加えるのでした。おしまい。

組織といっても、ほとんどが互助会のいわゆる準構成員みたいなもので、サイモンの直下の部下は2、3人しかいません。それで、組織が成り立つのか、また金にならないことをしているのは、これは金持ちの道楽なのか、そのあたりに説得力を持たせてくれたら、もっと奥行きが出たのでしょうが、そこまでの描きこみがなかったので、せっかくのラストのセリフも、観客をぞっとさせるまでには至らなかったのは残念でした。人間が悪さをする源は金であって、発端は義憤であったとしても、組織を維持するためにはやはりお金は必要でしょう。そのあたりのリアリティを欠いてしまうと、せっかくの設定も生きてきません。新聞記者は、組織の実態を探ろうとして殺されてしまうのですが、そういうことをすれば、組織としての結束に綻びが出てくるでしょう。それを、サイモン以下の数名で維持できるとは思えません。リアリティを重ねていけば、相当に面白く、怖い映画になる題材だっただけに、単純サスペンススリラーに小さくまとまってしまったのは、ちょっと残念でした。サスペンス描写に演出のうまさが感じられましたし、映画としては悪くないのですが、メインディッシュの部分が物足らなかったというところでしょうか。

「私が、生きる肌」は、私にはド変態映画でした、というか自分の正気を確認できる映画かな。


今回は新作の「私が、生きる肌」をTOHOシネマズ川崎プレミアスクリーンで観てきました。ここは普通の劇場より、椅子が大きくてリクライニング付き。基本的は特別料金の劇場なんですが、映画によっては通常料金で観られることもあります。この映画も1日1回の上映で通常料金でした。

有名な外科医ロベル(アントニオ・バンデラス)の家には、奇妙なタイツに身を包んだベラ(エレナ・アラヤ)という女性が監禁されていました。メイドのマリリア(マリサ・パレデス)は、そのベラがロベルの亡き妻にそっくりだというところに危惧を抱いているようです。ロベルは、遺伝子工学によって、特殊な人工皮膚を作っていて、ベラはその実験材料らしいのです。でも、監視カメラ越しにベラはロベルを誘惑し、「私はあなたのもの」と彼を挑発してきます。そんなある日、音信のなかったマリリアの息子セカがロベルの不在時にロベルの家にやってきます。彼は銀行強盗をしてきた後で、マリリアにしばらくかくまってくれと言いますが、それを突っぱねる彼女。セカは、マリリアを縄でしばり、テレビのモニターに映っていたベラを探し出して、抵抗する彼女をレイプしますが、帰ってきたロベルに撃ち殺されてしまいます。その昔、ロベルの妻ガルは、セカと駆け落ちしたのですが、その途中で自動車事故に遭い、全身に大やけどを負ってしまい、その後、自殺。でも、ロベルとガルの間には娘ノルマがいました。そして、6年前にお話が遡っていくことで、今のベラの境遇が見えてくるのでした。

「トーク・トゥ・ハー」「オールアバウト・マイ・マザー」などで知られるスペインのペドロ・アルモドバル監督の新作で、ティエリー・ジョンケの原作を監督とその弟アグスティン・アルモドバルが脚色しました。予告編で、「これは愛と呼べるか」とか「衝撃の問題作」と煽っていたので、すごく変な映画かもという予感はしたのですが、その予感どおりの、変態サイコドラマでした。

ロベルの研究は、怪我や火傷で体が欠損してしまった人に人工の体を作ってあげるというもの。その人工皮膚の研究に、人間の遺伝子を使ったことで、学会では非難を浴びてしまいます。それは倫理的に許されないことだと。でも、その時、すでに人工皮膚をまとったベラがロベルの家に監禁されていました。テレビやソファ、本も窓もあるきれいな部屋で、ベラは毎日を過ごしていました。それを監視カメラで見ているロベル。二人の関係がどういうものなのかは、映画の前半ではわかりません。ただ、両者の絡みつくような視線のやりとりに、男女のエロチックな関係を読み取ることができます。そんな生活が、セカの乱入によって崩されてしまい、レイプされたベラは、監禁を解かれ、ロベルのベッドで眠るようになります。マリリアはロベルに、亡き妻にそっくりなベラを殺すべきだと言います。そうしないと、ロベルが滅ぼされてしまうと。その意味するところが何なのか。それはロベルの過去と関わっているようなのです。

ロベルの妻ガルはセカと駆け落ちした後、自動車事故でひどい火傷を負うのですが、ロベルの懸命な看護のおかげで、命はとりとめます。しかし、ある日、娘ノルマの歌声につられて、窓を開けたとき、窓ガラスに映った自分の醜い姿を見て、そのまま窓から飛び降りて自殺してしまいます。それも娘の目の前で。そのショックで、ノルマは精神病院に入院しますが、それでも少しずつ病状は回復してきて、知り合いの結婚パーティに顔を出せるようになります。しかし、そのパーティの夜からさらなる悲劇が始まるのでした。

ロベルとベラが一緒のベッドに眠るのですが、ベラはロベルに体を与えることを躊躇し、ロベルもそんなベラを待つと言います。恋人同士のようでもある二人なのに、それまでベラは監禁されていたのです。二人の間にどんな感情があるのか、正直なところはっきりしません。でも、この映画の登場人物はみんな衝動に動かされています。筋道だてて、ものを考えるというよりは、本能の赴くままに行動しています。その衝動が異常な事件によって、おかしな方向へと走ってしまうのが、この映画のメインプロットなのです。人間は、なんだかんだ言っても、衝動や本能で動いてしまう。それが、尋常でない状況下では、変態的な衝動に突き動かされてしまう、そんな感じの映画なんです。作り手側がこの映画をどの程度、変だという設定で作ったのかはわかりませんが、私の常識の中では、この映画は、ド変態映画でした。人間の負の衝動を、えげつなく描いたサイコスリラーという感じなのです。ラストは、ド変態ワールドからの帰還がほのめかされるのですが、それまでは、変態地獄巡りのような趣でドラマは展開していきます。人間は、衝動や本能が研ぎ澄まされてしまうと、こういう変態路線に走ってしまうのかもしれないと思わせるあたりに、この映画の面白さを感じました。少なくとも、この映画の登場人物の誰にも共感できなかった自分としましては、そこを面白く感じるのが精一杯だったということなんですが。

ただ、バンデラス、アラヤの熱演ぶりは、それなりの見応えを運んできますし、実験室やベラの監禁されている部屋のデザインや、撮影の美しさはなかなかのもので、マッドサイエンティストもののおどろおどろしいホラー映画の映像とは一線を画すスタイリッシュな絵になっているのが、見事でした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



精神病院を退院した娘のノルマは、ロベルと一緒に、父の友人の結婚パーティに出席します。ノルマはそこで声をかけてきたビセンテ(ジャン・コルネット)と、パーティ会場の外に連れ出されます。そして、事に及ぼうとするのですが、そのショックでノルマは正気を失ってしまいます。そして、逃げ出すビセンテと正気を失った娘を見つけるロベル。彼女は、母親の自殺のショックから完全に回復しておらず、そして、今度は父親の顔もわからないほどに精神が崩壊してしまいます。ついに、ノルマも母親と同じように窓から身を投げて死亡。ロベルは、その怒りにかられてか、ビセンテを誘拐して納屋に監禁してしまいます。そして、時がきて、ロベルはビセンテに性転換手術を施し、さらに、自分の作った人工の体と皮膚を移植し、亡き妻にそっくりな女性ベラを作り上げてしまうのです。そんな境遇のベラが、ロベルと男女の感情を抱くようになるとは信じがたいのですが、なーんとなく、そういうこともあるかもねえと思わせるあたりにアルモドバルのうまさがあると言えましょう。娘の敵を、自分の妻そっくりに改造しちゃうという変態復讐の後には、何が出てきても、ま、それもありかなって気になっちゃいますもの。

セカの事件以降、ベラ(元ビセンテ)はロベルに忠誠を誓います。きれいなファッションを身にまとい、メイクも進んでするようになります。そこへ、ビセンテの性転換手術に協力した医師がやってきて、行方不明者の新聞記事を見せ、その中にビセンテの写真があるのを指摘し、人体実験をやってのではないかと問い詰めます。そこへ現れたベラは、全て自分が望んでしたことだと言い切って、その医師を追い返してしまいます。ベラは過去の自分の写真が映っている記事を見て、そっと口付けをするのでした。そして、ロベルとベッドインしたベラですが、クリームを取りに行くと言って下に降りて、銃をとってきてロベルを射殺。銃声を聞きつけてやってきたマリリアも一緒に撃ち殺してしまいます。ロベルの家を出て、かつての自分がいたブテッィクへと赴くベラ。そこにいた、店員と母親に「私はビセンテよ」というところで、暗転、エンドクレジット。ラストで、ベラはまたビセンテに戻るという結末が、悪夢から現実への帰還というふうに見えました。

なぜ、ベラは一時的にも、ロベルを受け入れるようになったのか、なぜ過去の自分の写真を見てロベルを殺す気になったのか。そういったことは直接説明されるわけではないのですが、その時々の衝動によって行動しているように見えるところが面白いと思いました。そもそも、娘の敵で人体実験をしようと思い立ったロベルの精神状態も謎ですし、完成したベラを抱こうとする心理も理解できなかったです。深謀遠慮というよりは、ひたすら短絡的感情で動いてるように見えます。もともと人間なんてそんなものだと言われれば、その通りなんですが、そこに女がいるからレイプするセカと同じレベルの衝動なんじゃないのと思わせるのですよ。その意味では、映画としては、衝動と本能で一本筋が通ったものになっています。それが、自然な行動に結びつかず、なぜか変態地獄巡りになっちゃうあたりが、面白いを通り越して、「変」な映画になっちゃっているように思いました。

3人も人が殺される映画にしては、そこをあっさりと描いているあたりが、アルモドバルらしさなのかもしれません。その一方で、大きなスクリーンに映し出されるベラの視線をこれでもかとエロチックに描くあたりに、この監督の描きたいものが何となく見えてきます。でも、そんな情念の世界よりも、娘の敵を女に改造しちゃって抱こうという腐女子的展開の方が際立ってしまいます。BL(ボーイズラブ)系の同人誌に出てくるような設定じゃないのかしら、これって。

「君への誓い」は実録ものの地味めの恋愛映画、いい話なんですけどね


今回は川崎チネチッタ8で、「君への誓い」を観てきました。邦題だけだと「愛と青春の旅立ち」同様に中身がさっぱりわかりません。日本語って語彙が豊富だというけれど、こと映画のタイトルに関しては日本語って言葉が足りないって気がします。

音楽スタジオを経営するレオ(チャニング・テイタム)と彫刻家のペイジ(レイチェル・マクアダムス)は、仲のよい新婚カップル。ある雪の晩、後ろからトラックに追突されて、ペイジは最近数年間の記憶を失ってしまいます。当然、レオの出会いから今までのことも忘れちゃってまして、レオはショックと苛立ちを隠せません。病院に、長い間音信不通だったペイジの父親(サム・ニール)と母親(ジェシカ・ラング)がやってきて、彼女を引き取ると言うのですが、レオはそれを拒否。ペイジもそれにしたがい、家に帰った二人のぎこちない生活が始まります。ペイジは結婚式のビデオを見て、その事実を受け入れようとするのですが、記憶が戻ってこないので、二人の愛情に確信が持てないでいました。そんな彼女の様子に苛立つレオ。実家に帰ってみれば、そこには旧友や元の婚約者がいたりして、そっちの方が彼女を安心させてくれるのでした。ペイジの父親は彼女を法律家にしたかったようで、再び彼女をロー・スクールに通わせることにします。彼女は、自分が彫刻家であった記憶もなくしていたのです。レオの存在がすっかり記憶が失せてしまった彼女ですが、実はもう一つ、両親と疎遠になってしまった記憶も彼女の中から失われていたのです。

実話に基づく恋愛物語です。テレビで実績のあるマイケル・スーシーがメガホンを取りました。夫婦だった二人が事故に遭い、奥さんが記憶喪失になるという設定で、二人がそれをどう乗り越えていくのかを描いたドラマです。ちょっと見は、テレビの「奇跡体験 アンビリーバボー」の再現フィルムみたいなお話なのですが、最後の感動の瞬間をパスしているところに映画らしい奥行きが出ました。恋愛ドラマやラブコメのような山場はないので、その分、淡々とした仕上がりになりました。チャニング・テイタムとレイチェル・マクアダムスという地味目の主人公だったということもあるのですが、スーシーの演出が全体を抑え目なタッチにまとめているところがありまして、その分、盛り上がりは欠くのですが、個々の登場人物を細やかに描くことに成功しています。

レオは事態に冷静に向き合うことができず、過去を失って戸惑っているペイジに強引なプレッシャーをかけてしまいます。ペイジは、そんなレオを健気にも受け入れようとするのですが、それでも戻らない記憶に沈み込み気味です。レオの苛立ちはわからなくもないのですが、ちっともペイジの気持ちを理解できないあたりが、リアルで、言い換えるとうっとうしい。一方のペイジは無理してる感じがかわいそうって感じです。過去を知ることが、未来への第一歩となるのか、失われた過去を無きものとして、新しい一歩を踏み出すことがいいことなのか。この映画では、どちらかを肯定したり否定したりしていません。どうしようもないことは、どうしようもない、奇跡を待つにしても、いつまで待てばいいのでしょう、待っているうちに人生がひからびてしまいます。そんな事情の中で、一つの過去があぶりだされてきます。

映画は、決着をつけないまでも、二人の関係がいい方向へ進むかもしれないという見せ方をしています。ところが、その余韻がエピローグで「うーん」てなことになっちゃうのは、実話が前提だからでしょう。でも、変則的な恋愛ものとしては、及第点でして、チャニングの不器用な男と、マクアダムスの前向きな女性の愛情の展開はなかなかの見応えでした。ただ、あまりドラマチックではないので、そこで好き嫌いが分かれるかもしれません。レオが、自分のスタジオの女性スタッフに苦しい気持ちを打ち明けるところなど、いいシーンもあるのですが、全体として、レオに感情移入できないのは、リアルなんだけど、もう少しドラマとして救いを見せてくれよと思っちゃいました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ペイジの親友だったダイアンが、彼女の失った過去を教えてくれます。それは、ダイアンとペイジの父親が不倫していたということ。それが露見して、ペイジは家出をし、家族との音信を絶っていたのでした。なぜ、それを教えてくれなかったのかと、母親を問い詰めるペイジに、母親は、離婚することより家族の方が大事だから、父親を赦したと告げるのでした。これ以上、レオを失望させ続けるのに耐えられないと、ペイジは、レオと別れ、復縁を望む元婚約者も拒否し、新しい人生を歩みだします。そして、再び芸術の道を歩み始めるペイジ。ある雪の晩、かつて二人で行ったカフェへ行ったレオの前にペイジが現れ、食事に誘うレオに応えるペイジ。雪の道を二人で遠ざかっていく絵が暗転。実際のモデルとなった二人が、妻の記憶が戻らないまま再度結婚して、二人の子供をもうけたという写真が出て、エンドクレジット。

結局、別れた二人が最後にもう一度やり直そうかなって雰囲気になるエンディングはいいんですが、その後、実際のモデルの夫婦のエピローグが出ちゃうことで、その余韻が薄まってしまったのは残念でした。そりゃ、事実はそうかもしれないでしょうが、そこはぼかしておいてくれた方が、映画としてはいい感じになったのに、勿体ないなあって思ってしまいました。それだけ、主人公二人の危うい関係がよく描かれていたということになるのですが、その危うさのリアリティがこの映画の見所だっただけに、ラストは、二人の関係は最初の一歩を踏み出したという終わり方で締めて欲しかったです。

演技陣は、ペイジを演じたレイチェル・マクアダムスが記憶を失いながらも、自分の知らない過去を受け入れようとするヒロインを熱演していました。チャニング・テイタムはあまり表情が顔に出ない役者さんなんですが、この不器用な役にはうまくはまっていたように思います。また、脇にサム・ニールとジェシカ・ラングを配したことで、随分とこの映画の格が上がったように思います。二人のリアルな存在感が淡々としたドラマに奥行きを与えていました。

音楽をレイチェル・ポートマンとマイケル・ブルックが共同で担当しているのですが、ポートマンのいつものような美しいテーマ曲が前面に出てくることはなく、二人ともドラマをサポートする仕事に徹しているのが意外でした。

「ロボット」は劇場では短縮版しか観られません。と、思ったら完全版公開だって、ふざけんなー!


下記の記事を書いた後、「ロボット」の完全版が劇場にかかることになりました。「ふざけんなー、金返せー」の気分なんですが、ホントに客をなめてるぞー。でも、観たい様な、死んでも観たくないような。


今回は新作の「ロボット」を109シネマズ川崎4で観てきました。このシネコンもフィルム上映をやめちゃったんですよね。というか、あっという間に全ての映画館からフィルムが消えてしまったようです。時代の流れとは言え、ずいぶんと早く切り替わったものです。

バシー博士(ラジニカーント)はロボットの開発に没頭して、恋人のサナ(アイシュワリヤー・ラーイ)も相手にされずにおかんむり。そんな博士がようやっと念願のロボットを完成させました。その姿は博士にそっくり。博士の母親がロボットにチッティと命名します。チッティは驚くべき速さで知識を吸収し、そして、学会で発表されると大きな注目を集めます。それを見て苦い顔をしていたのがバシーの恩師であるボラ教授(ダニー・デンゾンパ)でした。チッティはサナと電車に乗っていて、ゴロつきに絡まれたとき、スーパーパワーで大暴れ、サナを救うことに成功します。バシーは、このロボットを軍事利用しようと査問会で進言しますが、ボラは善悪の判断もなく命令に従うだけの機械では危険だとして、拒否します。そこで、バシーはチッティに感情を持たせようとさらに改良を加えるのですが、その結果、チッティはサナに恋してしまいます。軍にチッティの使用を進言しようとすれば、サナへの愛を告白する詩を朗読して、軍の幹部の笑いものにされてしまいます。怒ったバシーは、チッティをバラバラにしてゴミにして捨ててしまいます。そのチッティをゴミ捨て場から拾ってきたのはボラ教授。チッティを組み立てなおし、さらに戦闘用チップを組み込んでしまいます。それから、チッティは悪チッティになってしまい、自分のコピーを山ほど作り、サナを誘拐してやりたい放題。バシー博士は悪チッティを止めることができるのでしょうか。

インド映画というとちょっと昔、ラジニカーント主演の「ムトゥ 踊るマハラジャ」がミニシアター公開でヒットして、話題になり、その後、何本か公開されたあと、日本ではなりをひそめてしまいました。インドは世界一の映画大国で、ボリウッドと呼ばれるほど、たくさんの映画が製作されています。どれも大体3時間近い長さがあって、シンプルなストーリーの中にアクションあり、ミュージカルシーンありの豪華エンタテイメントに仕上がっていました。ラジニカーント主演映画では、「ムトゥ 踊るマハラジャ」「アルナーチャラム 踊るスーパスター」を観ましたけど、3時間を全然退屈させない勢いと娯楽精神が楽しく、ああこういう映画なら長いのも苦にならないなあって感心したことがあります。逆に言えば、恐るべき時間潰しとも言えるのですが、その屈託のなさが映画ってのはもともとこういうものだったんだと思わせるものがありました。

ということで、久しぶりにラジニカーントの映画が公開されると聞いて、結構期待してスクリーンに臨んだのですが、2時間20分という妙に短い上映時間に先に気づくべきだったと、観終わってから後悔しました。というのも、オリジナルは3時間弱の映画だったのを、日本公開用に30分以上カットした短縮版だったのです。妙に歌のシーンが少ないなあと思ったらそういうシーンがカットされていたのですよ。さらに、プログラムには、こういうシーンがカットされましたというページがついているというふざけたことをしてくれちゃってます。3時間だとシネコンでの回転が悪いからやったのかどうかは知りませんが、正直、あんまり映画館へ足を運ぶ客をなめるなよ、配給元のアンプラグドよ。なので、この映画を堪能されたい方は、完全版のDVDを待ちましょう。映画館で不完全なものを見せられるってのは、ホントかないませんです。その辺の事情を知らなかったら「今回はいつもの群舞もあまりない、物足りないものだった」なんて記事を書いちゃうところでした。

そんな、不完全版の鑑賞でしたが、今回は、ラジニカーントは博士とロボットの二役を演じています。そして、美しいアイシュワリヤー・ラーイを巡っての三角関係が一応メインのストーリーとなるのですが、ロボットによるアクションやスタント、さらに視覚効果にものすごく手がかかっています。エンドクレジットでは、視覚効果チームがものすごくたくさん登場します。アメリカやホンコンのVFXスタジオも参加していて、レガシー・エフェクツ(旧スタン・ウィンストン・スタジオ)がロボット効果を担当しています。共同脚本を書いたシャンカールがメガホンをとり、音楽をハリウッド映画にも進出しているA・R・ラフマーンが担当しています。また、アクションシーンにユエン・ウーピンが参加していて、国際的なスタッフが集まった映画になっています。

派手な見せ場はCGを駆使したものになっていまして、特にクライマックスはほとんどCGという状態でして、これまで、大スターのポジションだったラジニカーントにしては、本人が見得を切るシーンがあまりなかったのがちょっと残念。まあ、そういうスターを立てるシーンがカットされている可能性もあるので、きっぱりとは言い切れないのですが。派手なアクションシーンやカーチェイスなども、本人だとはっきり分かるカットは少なく、スティーブン・セガール同様、ラジニカーントにも年齢による限界がきているのかなって気もしちゃいました。それでも、娘みたいな大学生の恋人がいるってのがすごいんですが、この大学生役のアイシュワリヤー・ラーイが39歳ってのにまたびっくり。また、かつての肉付きのよかったヒロインとは打って変わったスリムなモデル体系で魅力満点。世界市場を意識しているのかもしれませんが、これは世界的な美人だわ。

バシー博士がこのロボットを平和利用ではなく、兵士にしようとしているってのには、ちょっと引いちゃいましたけど、まだ、インドは富国強兵の時代なのかなって思ってしまいました。軍への売り込みに失敗したバシーが怒りに任せてチッティを壊しちゃうあたり、スーパースターがこんなことしてもいいのかなあって思っちゃいましたが、それに共感できるお国柄があるのかなって複雑な感じでした。悪役のボラ教授に戦闘用チップを埋め込まれ、悪チッティになっちゃうのですが、これまたやりたい放題の暴れっぷりで、いいのかこれ?って思っちゃいました。警官や軍隊をバッタバッタと殺しまくる悪チッティにも引いちゃいました。スーパースターだから、悪役に回ってもこういうムチャが許されるのかしら。後、会話がタミル語と英語がチャンポンになっているところが面白いというか、発見でした。ところどころの英語が聞き取れるのですが、それが日常会話のあちこちに自然に登場するのが意外でした。インドの人は普段の会話でもバイリンガルになっているのかしら。



この先は結末に触れますのでご注意ください。(と言ってもサプライズないです)



悪チッティに誘拐されたサナを救いだすため、バシーはチッティに変装して、悪チッティ軍団のいるビルに乗り込んでいきます。そこには悪チッティのコピーが山ほどいるのですが、何とか潜入に成功、サナを救いだそうとするのですが、見破られて危機一髪。そこへ警官隊が突入してきて、バシーとサナはビルから脱出するのに成功します。一方、悪チッティ軍団は寄り集まって巨大な球体の形で攻撃してきたり、大蛇の形になったり大暴れ、バシーは悪チッティ軍団の磁気を消去したりと何とか対抗するのですが、思うように行きません。巨人のフォーメーションになった悪チッティ軍団は、バシーとサナの乗った車を追跡してきます。しかし、間一髪、悪チッティのオリジナルを磁石に引き付け、戦闘用チップを抜き取ることに成功し、悪チッティは元通りになります。バシーは裁判にかけられるのですが、チッティがボラ教授が戦闘用チップを仕込む映像を証拠に提出することで、無罪を勝ち取ることができます。しかし、チッティは破棄されることが条件でした。チッティは自ら自分の足や手、そして頭を外して、分解します。それから何年か後、博物館にバラバラになったチッティが飾られていました。小学生の団体がチッティの説明をうけています。その中の女の子が「どうして、こんなになったの」とつぶやくと、チッティの頭部が「感情を持ったから」と言い返します。驚く女の子、でも他の生徒はそれに気づいていないようです。フェードアウト、エンドクレジット。

チッティは、最初は人間としての善悪の判断を持たないので、警察官をナイフで切っちゃったり、火事現場から何人も救出するものの、最後に入浴中の女の子を全裸のままで連れてきちゃったりと、やることが大雑把。それが、感情を持ったらサナに入れ込んじゃうという、どっちに転んでも困ったキャラです。さらに、身体能力がむちゃくちゃ強いので、悪用されたら大変という危険な代物。リアルに考えれば、とんでもない厄介者なんですが、結局、その通りの展開となり、たくさんの人が殺されちゃうのですが、そこんところをさらりとスルーしちゃうあたりはお国柄なのかしら。でも、ラストで自分を解体するあたりは、泣かせの演出をしているので、何だかなあって気分にはなりました。

それでも、クライマックスのバカバカしさは特筆もので、たくさんの悪チッティが組み体操のみたいなフォーメーションを組んで攻撃してくるシーンは、笑いよりも呆気にとられるものがありました。フルCGによるものなんでしょうけど、アニメでもやらないようなバカ映像をお金をかけて作ってしまうところには感心。一方、歌や群舞のシーンはカットされているので、何とも言いがたいのですが、カットされずに残った部分は、ロボットの群舞がしょぼかったりして、スケールの大きさとか躍動感が感じられないのが残念。その分、ヒロインのアイシュワリヤー・ラーイのダンスがものすごくかっこよくて、結局は、短縮版では、彼女を観て楽しむのが正解かも。

「ル・アーヴルの靴みがき」はどこか懐かしい味わいのする人情ものの一編


今回は、新作の「ル・アーヴルの靴みがき」を川崎チネチッタ3で観てきました。上映終了ギリギリでの鑑賞となりました。

フランスのル・アーヴルという町に、靴みがきのマルセル(アンドレ・ウィルム)という初老の男が、奥さんのアルレッティ(カティ・オウティネン)と愛犬ライカと一緒につましく暮らしておりました。アルレッティは重い病気にかかっていてとうとう入院してしまいます。ある日、マルセルは橋の下に男の子の少年がいるのを見つけました。その男の子は、アフリカから密航してきて、警察に追いかけられていたのでした。マルセルは、男の子にお金と食べ物をあげるのですが、男の子はマルセルの家まで付いてきてしまいます。男の子の名前はイドリッサと言い、ロンドンへ行く途中で、他のみんなと一緒に見つかってしまい、イドリッサ一人だけが逃げてきたのでした。やさしいマルセルは、この男の子を何とかロンドンへ逃がしてやろうと思います。ところが何ということでしょう。隣人の一人がイドリッサのことを警察に密告してしまうのでした。警察のモネ警視(ジャン・ピエール・ダルッサン)がマルセルにつきまとってきます。マルセルは近所の人たちと一緒に何とか男の子をロンドン行きの船に乗せてあげようとするのですが、果たしてうまくいくのでしょうか。そして、奥さんの病状も心配です。

フィンランドのアキ・カウリスマキ監督が自ら脚本を書き、メガホンを取った、フランスで撮影されたフランス語の映画です。この監督さんの映画は観たことがなかったのですが、予告編が面白そうなので、食指が動きました。ストーリーとしてはシンプルな作りで、さらに独特の間がユーモラスな作りになっています。主要登場人物に善人しか登場しないドラマというと、ウソ臭くなってしまうのですが、それが不思議とすんなりと受け入れることができるのが、うまい映画になっています。味わいが素朴で暖かいのは、映画の作りが、リアルさを置いといて、シンプルな人間の感情を汲み取っているからでしょう。誰も泣いたり喚くこともない淡々とした流れは、「まんが日本むかしばなし」(若い人は知らないだろうなあ)を思い出しました。セリフも最低限に絞り込んでいるのが、あの市原悦子と常田富士男の語りと同じ間があるのですよ。

主人公のマルセルが貧乏だけどいい人なら、奥さんは彼には過ぎた女性と言われています。そして、マルセルを囲む、近所のパン屋の女主人とか、八百屋の夫婦、バーの女主人、同業のベトナム人とかがマルセルのために応援してくれるという状況は、人情長屋みたいな趣があります。映画の中では、それらの登場人物がリアルな存在感というよりは、マルセルの背景のような見せ方が面白いと思いました。キーマンである少年も、もっとドラマチックな役にもできたのですが、やはりマルセルの背景みたいなポジションになっています。そんな中へ入り込んでくるモネ警視もそんな悪い奴には見えません。警察組織の中で浮いてるアウトローみたいな設定なんですが、マルクスの周囲を嗅ぎまわる意図がなかなかわからないのがミソでした。

移民問題を扱っているのに、社会派映画の雰囲気がないところは意外でした。冒頭で、港のコンテナで物音がして、武装警官をコンテナをあけると、そこにアフリカ難民がいたという部分は、社会派かとも思わせます。警察が難民をキャンプから追い出すニュースを観ているシーンもあるのですが、ドラマの軸がそっちの方へ振れることはありません。マルセルが少年の祖父を探して、難民キャンプを回るシーンがあるのですが、淡々とした語り口で描かれているので、あくまで主人公の背景という感じでしかないのです。「背景」という言葉を何度も使いましたけど、要は、舞台の真ん中に常にマルセルがいて、彼は動かないで、背景が右から左へと流れていくような感じなんです。主人公が舞台の真ん中にいて、独特の間で語るというところは、落語みたいなところがあります。この映画をけなすつもりはさらさらないですし、私自身、映画を堪能したのですが、ちょっと変わった味わいが、何だろうと考えたら落語かなって気がしてしまって。長屋を舞台にした人情噺という感じがあるのですよ。

オープニングで、駅で靴を磨きにきた訳ありげな男が靴磨きを早々にやめさせて、画面からフェードアウトしたら、銃撃戦の音がするというエピソードがありました。本筋とは全然関係ないのですが、どこかとぼけた味わいが、映画の雰囲気を表していました。そこから先も密航少年を逃がしてあげるというシリアスな設定なはずなのに、あえてドラマを盛り上げることなく、主人公も感情を表に出さず、淡々と物語を語っていくところに、不思議なおかしさが生まれています。やっぱり、語り口の面白さということになるのかあ。音楽の使い方も既成曲をちょっと物語の展開とはずしたように鳴らすのが、全体にオフビートな味わいを生んでいます。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



男の子をロンドンまで密航させてあげるためには大金が必要でした。マルセルや近所の人は何とかしたいと思っていましたけどそんなお金はありません。そこで、マルセルは奥さんとうまくいってなかった歌手のリトル・ボブで、チャリティーコンサートを開こうとしました。リトル・ボブと奥さんの仲を取り持ってあげると、リトル・ボブはコンサートに出てくれて、その売り上げで男の子をロンドンまで送ってあげるお金ができました。男の子を船に連れて行く朝、モネ警視がマルセルを訪ねてきて、思わせぶりが言葉を言って帰ると、その直後に警官隊がやってきました。間一髪、男の子を八百屋の荷車に乗せて港まで運ぶのですが、そこへもモネ警視と警官隊がやってきます。モネ警視は船の荷物入れに隠れていた男の子を見つけますが、その上へどっかと腰を下ろして他の警察官を寄せ付けないようにしてくれ、無事に船は出港することができました。マルセルは奥さんの入院して病院へいくのですが、ベッドに奥さんはいませんでした。先生のところへ行くと、そこには奇跡的に病気が完治した奥さんがいたのです。二人で家に帰ると、家の前にある桜の木が花を咲かせているのでした。めでたし、めでたし。

モネ警視が男の子をかばってあげるところは、それまでにも伏線があるので、大きなサプライズにはならないのですが、それでも、ちょっといい話になっているところがよかったです。それより、びっくりなのが、奇跡的に病気が完治してしまう奥さんの方。ドラマの最後に唐突に放り込まれるサプライズは、冒頭のとぼけた味わいと共通したおかしさがあり、ハッピーエンドにあっけにとられるあたり、映画にしてやられたような気分になります。主人公のマルセルがすごくいい人ってのが、画面から伝わってくるせいもあって、そういう奇跡も受け入れられちゃうところがありまして、主人公のキャラがドラマ全体を肯定的な方向に進ませているような気がしました。

密航者の子供をかくまっちゃうってことは、普通の人にとっては大事件なのですが、そこを淡々と描いていく演出が、この映画に寓話というか、ある意味、昔話のような味わいを与えています。「まんが日本むかしばなし」みたいだと思ったのも、そのあたりに理由があるのですが、そうすることで、主人公マルセルの自然な善意を、素直に受け入れることができました。そして、その自然な善意というのは、誰でも心のどこかに持っている、そんなことに気づかされるところに、この映画のお値打ちがあるのかなって気がしました。淡白な語り口の分、ご覧になる方で感じ方は色々だと思いますが、どこかに懐かしさを感じさせてくれる映画、一見のオススメです。

「バッド・ティーチャー」は、ラブコメ風な作りからブラックコメディに変わっていく変化球な作りに好き好きがでるかも


今回は銀座シネパトス3で、「バッド・ティーチャー」を観てきました。キャメロン・ディアズ主演映画なのに、シネパトスでロードショーってのは随分な扱いです。シネコンでも上映回数が少ないし、ひょっとして、この映画、いわゆるシネパトスクオリティなのかなって、嫌な予感もしたのですが。

エリザベス(キャメロン・ディアズ)は、中学校の教師ですが、教職はあくまで玉の輿に乗るまでの腰掛けと割りきっていました。、金持ちの婚約者も捕まえて、教師もやめてみたら、金目当ての結婚ってのを婚約者に見透かされてあえなく破局。そして、教師に復職したのですが、やっぱりやる気なくって、授業はビデオを見せてばっかり。一方、教職にやたらハイテンションな同僚のエイミー(ルーシー・パンチ)はエリザベスをライバル視していますし、体育教師のラッセル(ジェイソン・シーゲル)はエリザベスにちょっと気がある素振りです。そこへ、現れた代理教師スコット(ジャスティン・ティンバーレイク)が金持ちの御曹司だと知り、エリザベスは早速モーションをかけます。彼の好みが巨乳と知って、豊胸手術にトライすることになりますが、手術代の1万ドルが払えない。そこで、今度は金策に走り回り、挙句は学校のチャリティ行事の上前をはねるなんてことまでやっちゃいます。ところが、当のスコットがエイミーといい感じになっちゃってます。それでも、スコットの気を引こうとするエリザベス。可愛げゼロのふてぶてしいヒロインの恋の行方はいかに?

テレビで実績のあるジェイク・カスダンが監督した、いわゆるラブコメの変化球です。ヒロインが仕事に全然やる気がないってところがおかしく、教職を選んだ理由は残業休出なしで休みが長いから。浪費癖があって、クレジットカードも作れない状況で、早く金持ちの男を見つけて玉の輿に乗るのが目標という明快なキャラクター。こんなのが、学校の先生やってるってのもすごいのですが、実際の授業もまるで手抜き。映画のビデオ見せながら自分はファッション雑誌読んでるし、机の中には酒や大麻まで入ってるという、学園ドラマの教師にはあるまじきビッチぶり。こんな教師に教わる生徒にしてみればたまったものではありません。原題も「バッド・ティーチャー」というだけあって、このキャラは最後まで揺るぎません。一方、その真逆のところにいるのがエイミーでして、こっちはテンションの高い熱血女教師なんですが、そのハイテンションぶりに逆に生徒が引いてしまうという、ある意味困ったキャラ。この二人が、イケメン代理教師スコットを巡って恋の火花を散らすことになります。とは言え、素直な三角関係のラブコメにはなっていません。全体を包むオフビートな味わいは、メジャーなラブコメとは一線を画す展開になっていまして、どう見ても共感しようのないヒロインを笑ってながめる映画になっています。

ヒロインを演じるキャメロン・ディアズの凄味のあるビッチぶりがお見事でして、映画の冒頭はきっついオバさん風に登場するのですが、ラスト近くにはちょっとだけかわいく見えてくるあたりが演出の妙なのか、一応スター映画のお約束なのか。それでも、とんでもない先生であることには変わりありません。そんな彼女のやりたい放題ぶりは、生徒に対しても容赦なくって、子供相手に言うことがえげつない。チャリティーの洗車イベントでは、セクシールックでお父さんたちを釘付けにし、その売り上げをちょろまかして、豊胸費用にあてようとするし、校内でのパーティの夜は同僚と一緒にマリファナを吸っちゃうし、犯罪すれすれどころか、犯罪そのもの。そういう描写をサラリと見せるので、困ったヒロインぶりが際立たないようになっています。よく見りゃひどい話なのに、そのえげつなさがうまく丸められているのが、「ヤングアダルト」とは違うビッチぶりになっているのが面白いと思いました。どっちのヒロインもビッチでふてぶてしいのですが、こっちのエリザベスの方が痛いキャラになっていないのですよ。マンガみたいな、リアルじゃないところがいいのかも。そのマンガキャラのせいか、ラストの着地がかなり変化球なのに、それなりにうまく収まってしまうのが面白かったです。

エリザベスのライバルというか敵役で登場するエミリーのキャラの方がむしろ痛いってのもおかしかったです。一応、教育熱心な教師らしいのですが、テンションが高くて、明らかに周囲から浮いてるんだけど、当人にはその認識はなし。「あたしって、教育熱心な教師なんだわ」というオーラをぷんぷんと出しつつも煙たがれちゃうのです。そんな彼女がイケメンのスコットと恋仲になっちゃうと、何だかスコットのお値打ちまで下がっちゃう。映画は前半でラブコメの相手役だと思われたスコットを、意外やダメキャラにしてしまいます。ラブコメとしてはかなりの変化球で、このあたりの展開に笑ってついていけるか、違和感を感じるかで映画の評価は変わってくると思います。

エリザベスは、一斉テストでトップをとったクラスの教師に賞金が出ると知り、これも豊胸費用にあてようと、これまでの態度を一変させ、スパルタ教師になって、生徒に無理やり勉強させるようになります。そして、さらにダメ押しに、テストの業者に乗り込んでいきます。テストの問題の管理者に、新聞記者だと偽って接触し、色仕掛けで迫り、最後は睡眠薬で眠らせて、テスト問題の奪取に成功しちゃいます。そして、彼女のクラスが一斉テストでトップになり、彼女は賞金を手に入れ、豊胸手術を予約することができます。


この先は結末に触れますのでご注意下さい。



エミリーとスコットがラブラブ状態になり、エリザベスとしては面白くない日々が続く中、泊りがけの遠足の日がやってきます。エミリーとスコットが一緒に引率する予定だったのですが、エリザベスはエミリーをうるしでかぶれさせて、その代役で引率する役を奪い取ります。そして、スコットに密着することに成功するのですが、ここでスコットが着衣セックス(実際にはしてない)の趣味を持つ変なやつだと判明。その頃、学校に残ったエミリーは、エリザベスの机と自分の机を入れ替えて、カギを開けさせ、彼女の飲酒、マリファナ、テスト問題窃盗の証拠を見つけ、校長に訴えます。遠足から戻ってきたエリザベスは校長と教育長に呼ばれ、エミリーの申し立てが本当かどうかを問われますが、そんなことはないとあくまでしらを切ります。そして、麻薬犬まで動員しての捜索が開始するのですが、犬が吼えたのは、エミリーの机でした。そこから、酒のビンやら大麻が発見され、エミリーは学校にいられなくなってしまいます。このあたりの展開は笑いを誘うのですが、エミリーの自爆振りがやっぱり痛いキャラになっています。そして、エリザベスの方はそれまでなんとなく友人の距離感だった体育教師のラッセルに告白し、「これはお金目当ての恋じゃないわよね」と迫ると、もともとエリザベスに気があったラッセルも彼女への想いを打ち明けるのでした。そして、夏休みが終わって新学期が始まるのですが、結局エリザベスは豊胸手術はやめにし、まじめに仕事を始めたようです、今度は生活指導の教師として。ちゃんちゃん。

ラストの彼女はそれまでよりもきれいになっていまして、ちょっといい感じに見えるのですが、それでも、中身まで変わったとは思えません。新しい恋人を見つけて、金に対する執着がおさまったようには見えますが性根が変わるような事件は起こっていませんもの。それでも、一応のハッピーエンドに見せるあたりは結構な力技ではあるのですが、クスリと笑えるオチにはなっています。結局、イケメンのスコットではなく、体育教師のラッセルの方に傾くというのは、意外性がありましたけど、あまり伏線を張っていなかったので、唐突な感じは否めませんでした。ドラマの展開よりは、ヒロインのバッド・ティーチャーぶりを楽しむ映画だったのかもしれません。そういう意味では、ラブコメというよりはブラックコメディと言った方がいいのかしら。ともあれ、キャメロン・ディアズのビッチぶりはそれなりの見ものなので、楽しめる映画に仕上がっています。ただ、全体的な変化球っぽさが、マイナー系の映画に見えてくるあたりが、シネパトスクオリティかのかもしれません。ブラックな部分をもっと暴走させれば、カルトムービーになったのかもしれませんが、それをスタームービーにまとめるにあたって、若干、毒を抜いてしまったので、微妙な出来栄えになってしまったようです。

「世界最古の洞窟壁画 忘れられた夢の記憶」は、色々と想像が広がって楽しい。


今回は、東京での封切りは終わっている「世界最古の洞窟壁画 忘れられた夢の記憶」を横浜シネマジャックで観てきました。この映画館にしては珍しく35ミリのフィルム上映でしたが、封切時は3Dでひっそりと公開された作品でして、撮影素材もフィルムではなさそうなところが微妙な感じなのかな。

フランスにあるショーヴェ洞窟は、1994年、3人の探検家によって発見され、その一人であるショーヴェにちなんで名づけられた洞窟です。もともとは外に面してあった洞窟ががけ崩れによって入り口が塞がれたもので、そのまま3万年近く、フランスの峡谷地帯の中で眠っていたものでした。そこには、時間が作り出した美しい鍾乳石や動物の骨以外に大きな発見がありました。それは、洞窟の壁面に描かれた動物や人間の絵、壁画だったのです。まるで、アニメ的な動きを表現するような重ね描きされた絵があったり、岩の立体感を意識した絵があったり、古代の芸術家たちの作品には目を見張らされます。そして、そこにある絵から、古代へ思いを馳せるとき、人間のこれまでの歴史、そして未来が垣間見えるのでした。

世界的に有名なドイツのヴェルナー・ヘルツォーク監督がドキュメンタリーに挑戦し、自らナレーションも担当しました。フランス政府によって管理されているショーヴェ洞窟は、その保存のために公開されることもなく、中へ入れるのは研究者のみでした。そんな中へ撮影隊が入るというのは初めてのことだそうで、照明や撮影時間も制限され、その中で、洞窟内の様子や壁画をカメラに収めることに成功しました。洞窟内には、鉄板の通路が敷かれていて、そこから出て撮影することはできません。地表が弱くなっていて、通路を敷くこともできないところがあって、そこの先の壁画は見ることができないのです。そんな状態でも映し出される動物の絵の数々はリアルですばらしく、まるで芸術作品を見るような趣があります。

それは、ヘルツォークの視線がそれらを歴史の記録以上としているからでしょう。映画は、その絵を描いた人々への思いを馳せるような作りになっており、また、当時の人々への敬意が感じられるのです。様々な関係者へのインタビューが挿入されているのですが、それらのインタビューからも、洞窟壁画の素晴らしさを賞賛する言葉が語られています。確かに、絵そのものが写実的であったり、動きを表すかのように足が8本あったりと、子供の落書きとは思えない絵が数々あるのです。また、洞窟の絵から、当時に存在した動物の姿が想像できます。さらに、驚くべきことに、並んで描かれた絵の作成時期に5000年の隔たりがあることが、炭素分析がわかっています。この洞窟が数千年に渡って、特別な意味を持つ場所として存在していたらしいのです。洞窟の中には祭壇のようなものがあり、そこで儀式のようなものが行われた痕跡もありました。

これらの事実からすると、この洞窟がある意味、宗教的な場所であることが見えてきます。映画の中ではスピリチュアルという言葉で語られていますが、古代人が霊的なものを信じていたらしいというのです。かつて、イヌイットにも壁画を描く文化があり、なぜそうするのかというと、霊が手に描かせるのだと言ったのだそうです。それでも、疑問は残ります。彼らはなぜ動物の絵を描いたのか。さらに、人間の体に、動物を頭をつけた絵も残っています。言葉より、絵の方が表現手段として、力があるからという説明が映画の中でされるのですが、それでも、彼らにそれを気づかせ、絵を描かせたのか不思議に思えてなりません。また、ネアンデルタール人も共存していた時代に、古代人に動物の絵を描かせた動機は何だったのでしょう。そこに、信仰の原点を見ることができそうです。

ヘルツォークの演出には、その壁画に対する好奇心を超えた畏敬の念が感じられ、それに沿った形のインタビューが挿入されています。観客は、そこにあった文化、人々がどんなだったんだろうという興味を喚起されていきます。壁画は洞窟の入り口ではなく、中に入ったところに描かれています。おそらくは松明のようなものの明かりの下で描いたのだと思われます。その理由は何なのでしょう。壁画が宗教的なものにしては、自由で趣向が凝らされています。四大文明以降の古代遺跡には、華麗な装飾が施されたものがたくさんありますが、それは明文化され、確立した宗教があった時代のものです。それと同じような思いが、壁画にも込められてのでしょうか。いわゆる自然信仰というものがあったという証拠なのかもしれないのですが、映画はそこへあえて言及せず、匂わせる程度の描き方しかしていません。それだけ、映像としての壁画のインパクトが大きいということなのかもしれませんが、観ている方としては、やはり、古代人がどんな思いで壁画を描いたのかということが気になってしまいます。日々を食べ物を得ることだけに追われている生活だったら、こういう壁画を描くこともできなかったでしょうし、これだけの作画技術も生まれていなかったはずです。そこには、単に生きている動物以上の存在としての人間がいたということになります。

壁画のあった地帯は、当時は様々が動物がいて、いわゆる食物連鎖が回っていた状態だったのだそうです。確かに壁画には、牛や馬、ライオン、マンモスなど様々な動物が描かれています。もともとは、3Dを前提にした映画のようで、映画の後半では、その絵に光の方向を変えながら壁画をじっくりと見せる映像が続きます。立体感のある壁画を描写するには、確かに3Dという方法は有効かもしれないなと思わせる映像でした。特に、こういう取材機会が極めて限られている文化遺産を残す手段として、3D映像に収めるというのは、うまいやり方だと思いました。普段は、3D映画に批判的な私ですが、この映画に関しては、3D映画にするのが意味のあることだと思いました。

この洞窟は、金庫のようなドアで封印されていて、普通の人が入れない形で保存されています。それはかつて公開されたラスコーの壁画が、観客の吐く息のせいでカビが生じてしまったため、同様のことを防ぐためになされた措置でした。ですから、ショーヴェ洞窟の内部を記録する映像はしばらくは出てこない可能性が高く、そういう意味でも貴重な映像だと言えましょう。

ラストで、この洞窟のすぐ30キロ先に原子力発電所があり、その排熱を使った熱帯動植物園が紹介されます。そこにはたくさんのワニがいるのですが、そこで繁殖したワニの中の体の白い奇形のワニが映し出されます。このワニと洞窟壁画がどう結びつくのか、正直言うと読み取れなかったです。ただ、この映画が壁画と同じように、今の時代のワニを記録したという事実には、ちょっと面白いものがあると思いました。なぜなら、白いワニは特別だから、映画に取り上げられたのです。だとしたら、壁画に描かれた動物も何か特別に珍しいものだったのかもしれないという可能性が出てきます。普通に日常に見かける動物ではないから描いたのかもしれないのです。そうなると単なる自然信仰以上のものが、3万年前にあったのかのかもってところまでいってしまいます。この映画は、そんなことは一言も言ってないのですが、色々なところへ想像の翼を広げる余地のある映画として、面白く作られていると思います。
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einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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