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「オレンジと太陽」のサントラは、静かだけど力強い音が聴かせます。


「オレンジと太陽」の音楽を担当したのは、リサ・ジェラルドです。かつてゴシック音楽グループ「デッド・カン・ダンス」のボーカルであり、その後ソロ・アルバムを出しつつ、「グラディエーター」などのサントラも手がけるようになり、「ミスト」でも、彼女の楽曲が印象的なシーンに使われています。神秘的な音に彼女のボーカルがかぶさると、一種独特な空気感をかもし出します。この映画では、社会的な題材を扱っているのに、彼女の神秘的なサウンドがマッチするのかという気もしたのですが、今回は、いつもの神秘的に歌い上げるタッチではなく、控えめにドラマを支える音になっています。

アルバム冒頭は、ピアノの単音から、小編成のストリングスがかぶさって、さらにエレキギターが重なるという音ですが、その後も静かにドラマを支える曲が続きます。ストリングスにはさらにシンセがかぶさって、音に神秘性を加えています。バイオリンやチェロのソロを入れて、さらに女性ボーカルを重ねた曲などは、アンビエント音楽風の味わいもありますが、柔らかいタッチが、重苦しい空気にしていないのがうまいと思いました。アルバムも後半になるとドラマチックな曲が増えてきますが、基本的には、ピアノとストリングスによる抑えた音になっており、ドラマを引っ張る音ではなく、がっちりと支える音になっています。そんな中で、女性ボーカルが入ると、希望の光が射し込むような感動があり、静かだけど、力強さを感じさせる音は、なかなかに聴き応えがありました。

シンセの音が幻想的な味わいを加えている部分に、いつもの彼女らしさが若干感じられるものの、彼女のリーダーアルバムに比べると、おとなしめで、映画音楽らしい音に仕上がっており、ストリングスの使い方はマイケル・ダナやレイチェル・ポートマンを思わせるところもありますし、女性ボーカルの使い方には、モリコーネ風の味わいもあります。それだけ、彼女が映画音楽の作曲家としてうまさを見せるようになってきたということだと思いますし、今後の彼女の映画音楽が楽しみになってきました。

今回はCDが入手できず、アマゾンからMP3ダウンロードによる購入となりました。サントラCDを出すには、地味な映画の地味な音楽なのかもしれませんから、ダウンロードで購入できただけよしとすべきなのかもしれませんが、リサ・ジェラルドのアルバムとしては、CD化してもよかったのではないかしら。

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「リンカーン弁護士」のサントラはドライなアンビエント音楽になってます。


「リンカーン弁護士」の音楽を担当したのは、スティーブン・ソダーバーグ監督とのコンビで知られるクリフ・マルティネスです。この映画では、既成の挿入曲が前面に出てきていて、彼のオリジナル楽曲はあまり印象に残りません。ですが、マルティネスはこの映画にクールでシュールな音をつけており、この音楽が前面に出れば、かなり映画の雰囲気が変わったであろうという気がします。

シンセサイザーによるドライな音に、ギターやパーカッションが入ってくるというもので、明確なメロディラインは出てきません。ライトなアンビエント音楽という感じでしょうか。全体に、荒野をイメージさせる音になっていまして、人間ドラマというよりは、砂漠のドキュメンタリー映画のバックに流れそうな音楽になっています。19曲あるのですが、各々の曲を聴くというよりは、アルバムを通して、その雰囲気を感じるような作りになっています。ところどころに人間味をちょっとだけ感じさせるメロディラインが聞こえてくるのですが、それでも、全体的には乾いた空間を音楽で表現しているように思えます。「ソラリス」でも、彼は似たタッチの音楽を書いているのですが、そういう意味では、SF映画の音のようにも聞こえます。その場合でも、静寂と神秘性に満ちた宇宙を描写するような音という感じです。

映画が、サイコスリラーであったならば、こういうドライな音もマッチしているのでしょうが、映画がコミカルな味わいも持つ裁判映画になったために、マルティネスの音楽が後ろに下がったような気がします。最初は、サイコスリラーの設定で、ドライな音楽をつけたものの、路線変更したために、音楽のカラーがあまりに映画にクールすぎて、既成音楽を前面に出す音楽構成に変えたような印象なのです。そういう意味では、映画本編を観て、このアルバムを聴きなおすと、映画と音楽の関係を考えさせられるところが面白いアルバムだと思います。ホント、映画の中では、ほとんど印象に残らない音楽なんです。縁の下の力持ちという言い方もできますが、やっぱり映画の当初のカラーが作っているうちに変わったんじゃないのかなって気がしました。

「封印殺人映画」は'80年代のスプラッタ映画ブームを知る人には懐かしい映画です。


今回はDVDで「封印殺人映画」を観ました。アマゾンで1000円を切る値段だったので、手が出ました。去年、劇場公開時はR18指定だったので、どこまで見せるのか気がかりではあったのですが、私には許容範囲で、かつ懐かしい映像が多かったです。

人間は、その昔から、人間を殺すことを楽しんでいました。ローマの闘技場しかり、楽しみとしての狩猟とか、様々な殺人鬼。映画もそういう題材とは無縁ではなく、1970年代以降、スラッシャームービー(当時、日本ではスプラッタ映画として親しまれていました。)が次々と公開されるようになり、これが時には大ヒットを飛ばすようになります。この映画では、その嚆矢を1960年代の「血を吸うカメラ」と「サイコ」に求めています。そして、エピックとなったのは1978年の「ハロウィン」でした。30万ドルという低予算で作られた映画は最初は限定公開から始まって、見る見るうちに大ヒットとなりました。それに続くヒット作が1980年の「13日の金曜日」でした。当時はこういうスラッシャー映画にたくさんの観客が集まったので、低予算で稼ぎのいい、このジャンルの映画をパラマウントやコロムビアといったメジャーな映画会社が配給しました。そして、殺人シーンに不可欠な特殊メイクの発達をうながしました。顔を隠した殺人鬼が若者たちを次々と惨殺するという映画が量産された時代でした。それは、世の良識者からは、女性蔑視とか愚劣な映画とかさんざんこきおろされました。でも、儲かるうちはそんな非難にはおかまいなくスラッシャー映画は作り続けられ、一度は下火になったものの、2000年代になって、また新しい世代の監督たちがホラーに挑戦し、それなりの成績を収めるようになりました。

原題は「Going to Pieces:The Rise and Fall of The Slasher Film」というもので、まあ直訳すると、「切り刻んで殺せ:スラッシャー映画の盛衰」ということになるのでしょうか。アダム・ロックオフの原作をもとに、ジェフ・マックイーンが監督したドキュメタリーです。1980年代のスラッシャー映画を中心にその盛衰を関係者のインタビューを交えて、そこに当時のフィルムの殺人シーンをインサートするという構成になっています。登場する監督では、一流どころ(?)では、ジョン・カーペンターやウェス・クレイブン、二流どころでは、ジョセフ・ジトーやショーン・S・カニンガム、それ以下では、アーマンド・マストロヤンニなど、そして、特殊メイクのエキスパートのトム・サビーニ、このジャンル映画のプロデューサーや評論家たちといった面々がインタビューに答えています。登場する映画で、日本でも有名なのは「ハロウィン」「13日の金曜日」「テラートレイン」「ローズマリー」「血のバレンタイン」「マニアック」「エルム街の悪夢」といったところでしょうか。低予算で大きな儲けを生むスラッシャー映画は、パラマウントやコロムビアといったメジャー映画会社も出資、配給するようになり、次々に殺人と血糊に満ちた映画が量産されるようになりますが、その結果、観客に飽きられるようにもなり、一度はブームは沈静化します。その後に、ちょっとひねりを加えた「スクリーム」が登場して再度このジャンルが脚光を浴びるようになります。「ラスト・サマー」「ルール」などストーリーに一工夫したスラッシャー映画がそれに続き、そして、2000年を迎えてからは、「SAW」「ファイナル・デステネーション」「ホステル」などの映画が、新しい世代のスタッフによって作られるようになってきました。

当時のスラッシャー映画は、女性蔑視の映画であり、その一方で女性のヒーロー化でもありました。悲鳴をあげながら血まみれで殺される女性たち、一方で、最後まで生き残って殺人鬼を仕留めるのも女性というパターンが多かったのです。評論家は前者を強調してスラッシャー映画を非難し、作り手側は後者をあげて、新しい時代の表現の形だとしました。さらに、評論家たちは、スラッシャー映画は病んだ時代の歪みから生まれた表現形式として非難しました。確かに人が惨殺されるシーンで、殺人者に拍手喝さいが起こるという現象はある意味どこか病的のようでもあり、日頃の鬱憤のはけ口でもありました。その一方で、この映画に登場する作り手たちは、スラッシャー映画は、人間性の本質を突いたものであり、その時代を反映したものだと言います。でも、時代を反映する鏡というのは、スラッシャー映画に限ったものではありません。恋愛映画や戦争映画、コメディなども、人間の本質を扱っていますし、時代の流れを反映しています。その時代の、不安、閉塞感、リベラル化、保守化、自由化などを映画は敏感に反映しています。それは、マーケッティングによるものもあり、作り手たちのセンスによるものもありました。

ともあれ、スラッシャー映画だけが、時代や社会を反映しているわけではないのに、そういう弁護の仕方をしてしまうところに、スラッシャー映画の作り手や観客の後ろめたさが垣間見えて面白いと思いました。やはり、スラッシャー映画が、映画の王道たりえないのは、単に低予算ノースターという理由だけではなく、人間の持つ後ろめたさを刺激する娯楽だからなのでしょう。そういう意味では、ポルノと同じような位置づけになります。とはいえ、恐怖を楽しむ心理は、遊園地の刺激的なアトラクションを楽しむのと似たようなところがありますから、娯楽の根源というところだけで考えれば、文句を言われたり、社会問題化することはなかった筈です。ただ、スラッシャー映画は、反道徳的な殺人という行為を残酷にかつショッキングな手法で描いたというところで、俗悪な映画というレッテルを貼られたのだと思います。

私自身は、こういうスラッシャー映画は嫌いではないのです。でも、これが時代の反映だとか、人間の本質に迫っているといった表現をされると、ちょっと違うぞという気がします。そんなたいそうな理由で、この類の映画が作られているわけがない。ただ、作ると儲かるから作る、刺激が強い方が儲かるから作る、それが事実だと思うからです。さらに付け加えるならば、とにかく映画を作りたい人がいたとき、最初の題材として安くて早く作れるスラッシャー映画は適しているということがあります。若い映画作家や俳優がメジャーになる前に、低予算スラッシャー映画に関わったという事実から考えても、こういう映画の存在理由は否定できないと思います。当時も今も若い映画人にとってスラッシャー映画は、映画作家への登竜門になっています。そして、作るときに、その時代の空気を取り込むというのは、考えてみれば当たり前のことでして、その時代に生きている作り手が、その時代の「今」を映画の中に反映させるってことは、ごく自然な流れだからです。

この映画に登場するエピソードで、目を引いたのは、クリスマスのサンタが殺人鬼になるという映画が公開されるときに、上映反対キャンペーンがかなり大々的に行われ、その結果、映画の広告を控えることになったという事件でした。これは、単に反道徳というだけでなく、子供への影響を考慮したものでした。確かに、こういう題材の映画を子供に見せるのは私も反対です。えげつない拷問映画や殺人映画を子供に見せるのも、反対です。こういうスラッシャー映画というのは、分別のある大人が楽しむ娯楽だと思うからです。こう書くと、自分がすごく保守的なのかなって気もします。でも、スラッシャー映画を親子で楽しむファミリー向け映画だとは言いたくないです。もし、子供が観るとしても、親の目を盗んでこっそりと観るもの、後ろめたさと一緒に観るものではないかしら。

一方の日本でも、1970年代以降は、血糊を豊富に使った映画を作っていましたから、そういう時代だったのかもしれません。でも、時代は確実に変わるものだというのも事実です。なぜ、そう言えるのかというと、今の日本では、血まみれ映画がメジャー公開されるのは、極めて少なくなっているからです。当時は、ヒビヤ有楽座やシネラマのテアトル東京で、こういったスラッシャー映画が上映されていました。それは、アメリカでのブームの後追いとは言え、それだけお客さんが集まっていたのです。今も、Jホラーとか言われて、そのジャンルの映画も作られてはいますが、もはや時代を引っ張るとか時代に乗ったということではなく、ある程度の固定ファン向けの映画として存在し続けているというのが実状なのではないでしょうか。

この映画の「スラッシャー映画の盛衰」というサブタイトルはいいところを突いてると思います。ブームが盛り上がるというのは、いつかは終わるときが来るということです。特に、1980年代はそのブームのピークだったのでしょう。それ以前にも殺人を扱ったホラー映画は作られていましたし、今も作られ続けています。でも、あの頃のような盛り上がりはありません。なぜ、あの時代にブームとして盛り上がったのかは、この映画は語りきってはくれません。ただ、「ハロウィン」「13日の金曜日」といったビッグヒットが生まれ、その後、粗製濫造で低いクオリティの作品がたくさん生まれて、結局は観客に飽きられてしまったというところまでは説明してくれています。でも、私としては、それだけでは物足りませんでした。時代の反映で、スラッシャー映画がブームになったというような説明でも納得できなかったのです。どうして、当時の観客がそういうスラッシャー映画に足を運んだのか、作り手ではなく、観客の視点から切り込んでくれたなら、もっと面白い映画に仕上がったように思います。結構、興味ある題材で、面白い構成でもあったのですが、作り手目線だけの映画になってしまったのは残念でした。

あの頃、自分は学生だったのですが、今に比べたら、スラッシャー映画に代表されるゲテもの映画がたくさん大劇場にかかっていました。いわゆるゲテもの映画の格付けがずいぶんと高い時代だったように思います。当時はその映画が上映される映画館によって、その映画がどの程度のランクに扱われているかがわかるようになっていましたが、今は、シネコンの中で、集客力に応じて振り分けられてしまうので、劇場による格付けが見えなくなってしまいました。それでも、今のスラッシャー映画は、なかなかシネコンにもかからないで、マニア向けミニシアターみたいなところで上映されることが多く、ほかの映画に比べると1ランク下の位置づけになっているように見えます。そう考えると、あのバブル前のスラッシャー映画のブームってのは何だったんだろうなって、不思議な気分になります。日本ですと、スラッシャー(日本ではスプラッタ)映画流行の前兆として、「グレート・ハンティング」や「スナッフ」といった実録殺人もの(実はヤラセ)のヒットや、オカルト映画ブームがありまして、その延長に、スプラッタ映画のブームが起こったように思います。アメリカでも、やはり何か流行りの流れがあって、その中からスラッシャー映画のブームがきたのではないかと思うのですが、そういう描き方ではありませんでした。特に、オカルト映画には一切触れていないので、あちらでは、オカルトとスラッシャーはまるっきり別モノの扱いのようで、その点も興味深かったです。ショック演出や特殊メイクで怖がらせるという点では、似たようなものだと思うのですが。

「リンカーン弁護士」は意外や本当に法廷もののサスペンスでした。


今回は新作の「リンカーン弁護士」を川崎チネチッタ10で観てきました。シネコンとしては中規模クラスの劇場で、スクリーンサイズもややおとなしめな感じ、地味目ドラマを観るのによい映画館。

運転手つきのリンカーンで仕事をバリバリこなしている弁護士のミック(マシュー・マコナヒー)は、別れた奥さんで検事のマギー(マリサ・トメイ)の間に娘が一人いて、週末だけ会えるという関係。そんな彼に大口の仕事が舞い込んできました。ルイス(ライアン・フィリップ)という資産家の御曹司が、娼婦に暴行を加えたという容疑で逮捕され、その弁護でミックにご指名がかかったのです。ルイスはあくまで、自分は無実だと主張、娼婦の方から誘惑してきて、自分から慰謝料を巻き上げるための狂言をうったのだと言います。早速、調査屋のフランク(ウィリアム・H・メイシー)を使って、事件の調査を始めるのですが、確かにルイスの言うように、彼女の方からルイスに誘いをかけていたらしいことが、バーの監視カメラの画像からわかります。しかし、状況証拠としては、彼の指紋だとか、左手の血痕、さらに血の付いた彼のナイフまであることがわかってきて、形勢はかなり不利な状況。そんなミックが被害者の女性の写真を見ていて、ある事件を思い出します。それは、4年前に担当した娼婦の殺人事件で、圧倒的に不利な状況でした。あくまで自分は無実だと言い張る容疑者マルチネス(マイケル・ペーニャ)に、ミックは罪を認めることで、死刑から逃れられるという司法取引をさせたのです。その時の被害者の写真と、今回の被害者の写真がよく似ているのです。ひょっとして、4年前の事件で、自分は無実の人間を刑務所に送ってしまったのかもと思い始めるミック。果たして、今回の事件と4年前の事件は何らかの関係があるのでしょうか。そして、ルイスは本当に無実なのでしょうか。

マイクル・コナリーの原作をTV出身で「最後の初恋」などのジョン・ロマーノが脚色し、「ハード・クライム」のブラッド・ファーマンが監督した、裁判サスペンスものの一編です。主人公のミックは、弁護士の中でも、いわゆるお金をたくさん持ってる人らしく、暴走族の大麻所持の弁護なども引き受けて、結構稼いでいるようです。そんなところに飛び込んできた、大金持ちからの仕事、引き受けないわけはありません。早速、事件の全貌の調査にかかるとともに、大枚の保釈金を払って自由の身である本人とも面談します。ルイスは、あくまで自分は無実で、娼婦のワナにはまったのだと主張します。状況的にはかなり不利です。一体、どっちの言い分が本当なのかというところで、最後まで引っ張っていくのかと思いきや、ドラマの中盤で、ルイスがシロかクロなのかは判明してしまいます。そして、法廷での駆け引きがドラマの中心になっていきます。

ブラッド・ファーマンの演出は、ミックという男のキャラクターをかなり丁寧に描写しており、元妻マギーとの関係とか、事件への取り組み方とかもきちんと説明されています。金をもらえりゃ、犯罪者であっても司法取引とか、かなりのことまでやってのけるけど、無実の人間を有罪にすることは許せないというポリシーがあり、なかなか一筋縄ではいかない男を、マシュー・マコナヒーが熱演しています。清廉潔白ではないし、汚れ仕事もやるけれど、一本筋の通った男になっているのです。ヤク中から抜け出せない女の子のために動くこともします。映画は、主人公を基本的にはヒーローとして描いており、そのヒーローがある裁判で、窮地に立たされるという展開は、青年向けコミックを読むような面白さがありました。ただ、日本のこの類のヒーローのように、貧乏でもないし、やさぐれてもいない、リッチでスマートというところがミソです。

法廷モノってのは、色々な法律の縛りの中で行われる、いわゆるゲームのルールがあるお話でして、この映画でも、依頼人の守秘義務であるとか、証人喚問上のルール、さらにしきたりみたいなものまであるようで、その枠の隙間を縫って、主人公は、裁判を、そして司法そのものを正しい方向に持って行こうとするのですが、弁護士という立場が彼を窮地に追い詰めていきます。そのあたりの駆け引きのサスペンスに見応えがありました。いわゆる頼りになる正義のヒーローじゃないけれど、善悪の選択を迷わない主人公のガンバリはなかなか見応えがありました。

演技陣では、やはりマシュー・マコナヒーのタフじゃないけどシャープな主人公ぶりがよかったですが、その他、メインストーリーには絡んでこないけど、タイトルで2枚目の相変わらずマリサ・トメイが魅力的でした。また、ライアン・フィリップは、役どころの割にはインパクト少なめだったのは、主人公とのバランスを考えたのかも。ジョシュ・ルーカス、ジョン・レグイザモ、ボブ・ガントンといった渋い脇役陣も役どころを押さえた好演でした。お久しぶりのマイケル・パレやフランセス・フィッシャーとかも意外な儲け役だったりします。また、「ソラリス」のクリフ・マルティネスが、アンビエント風の音楽を要所要所に流しているのですが、既成曲に比べてボリュームも絞っているせいか、あまり印象に残らなかったのが残念。サントラ盤で聴き直すと結構面白い音をつけているのですが。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



4年前の事件と、今回の事件が似ているところから、ミックは刑務所に入れられたマルチネスは無実だったのではないかと思うようになります。そして、家に帰ってみれば、ミックを待ち受けていたのはルイスでした。そして、4年前の殺人をあっさりと認めるルイス。しかし、守秘義務を持つミックはそれを口外できませんし、弁護を拒否することもできない状況に追い詰められます。その翌日、情報屋のフランクが殺され、殺される直前に、マルチネスを救い出す情報を入手したという伝言電話を残していました。フランクを殺した銃はミックのものでした。警察から家宅捜索されるミック。これもルイスの仕業に違いないのですが、証拠はありません。そこで、ミックはルイスが逮捕された時に、同じ留置場にいた男DJに目をつけます。そして、この男が検事側証人として呼び出されるように仕向けます。裁判は、証拠から攻める検事側に対して、被害者の周辺から狂言であることを導こうとするミックとの戦いになり、想定どおり、DJが証人として呼び出されます。そこで、DJは、ルイスが留置場で、自分が4年前の殺人の犯人だと話していたと証言します。しかし、ミックは、DJがかつて他の事件でも密告者であったことを指摘します。そこで、休廷となり、検察は訴訟を取り消すことになり、ルイスは自由の身となるのですが、その瞬間、4年前の殺人事件の容疑で再逮捕されてしまいます。しかし、またしても保釈金を積んで自由の身となったルイスは、ミックの元妻の家に向かいますが、既にそこにはミックが先回りしていました。脅しにかかるルイスに、ミックが一声かけると、ミックの顧客である暴走族のメンツが登場し、ルイスをボコボコにしちゃいます。そして、自分の家に帰ると、今度はルイスの母親(フランセス・フィッシャー)がミックを待ち構えていました。フランクを殺したのはルイスではなく、母親の方だったのです。そして、ミックを撃つのですが、致命傷にはならず、逆にミックの弾丸に母親は倒れるのでした。病院を退院していく、ミックのリンカーンを暴走族の連中が取り囲みます。また、新しい仕事の依頼でした。無料で引き受けるというミックに、いいんですかと問う運転手。「その次で、ふっかけるから」とこたえるミック。走り去るリンカーンのロングショットでエンドクレジット。

殺人犯であるルイスにどうやって尻尾を出させるか。ミックは、DJと取引して証言させ、検察の証人に呼ばれるように工作し、それが見事にはまりました。ルイスの唯一の前科であるところの、駐車違反は、4年前の殺人の夜、被害者の近所でされていたことが、彼の容疑を濃厚にする情報だったのです。なかなかに手の込んだ展開なので説明しにくいなのですが、ブラッド・ファーマンの演出はそこのところをわかりやすくさばきました。裁判以降の部分は、エピローグみたいなものなのですが、そこはあっさりと見せて、決着はちゃんとつきましたよという終わり方にしているのは好感が持てました。ルイスの復讐を暴走族を使ってやっつけちゃうあたりに、主人公のキャラがうかがえて面白かったです。

ルイスのキャラを前面に出さず、サイコスリラーにしなかったことで、裁判シーンをクライマックスにすることに成功しています。このパターンなら、シリーズものにするのも可能かなという作りになっていまして、この先、元妻との関係はどうなるのかなという期待も残しました。ただ、情報屋のフランクを呆気なく中盤で殺してしまったのはビックリというかやりすぎ感がありました。ウィリアム・H・メイシーが演じていただけに、この扱いはないよなあって気がしちゃいました。もし、シリーズ化するなら、絶対残しておかないとダメな駒だろうと思うのですが。

「オレンジと太陽」は、驚くべき歴史と普遍的な問いかけで二重の見応えあり


今回は、新作の「オレンジと太陽」を横浜シネマベティで観てきました。ここにしては珍しくフィルム上映でして、やっぱりフィルムの絵はいいなあと改めて再認識。質感が明確に出るんですよね。

1986年、イギリスのノッティンガム、福祉士をしているマーガレット(エミリー・ワトソン)は、養子に出された経験者の集いを実施していましたが、ある晩、集会の帰りにシャーロットという女性に声をかけられます。自分は、父母が死んでオーストラリアの孤児院へ送られ、記憶にあるものはノッティンガムという町だと言います。そして、自分が誰なのかを探しているので、助けて欲しいと。半信半疑でその件を調べてみると、シャーロットの母親が生きていることがわかり、彼女に会いに行きます。シャーロットの母親も、自分の娘が音信不通になっていて、気にしていたのでした。感動の再会を果たす二人。そこからわかってきたのは、英国政府とオーストラリア政府の間で密約があり、多くの子供たちが1930年代ころから、オーストラリアへ強制移民させられていたこと。集会の中の一人の女性が、突然いないと思っていた自分の弟から手紙が来たと告白します。その弟ジャック(ヒューゴ・ビューイング)もまた、児童移民によって、オーストラリアのフェアブリッジ孤児院へ送られていました。子供たちには、一着の服と一足の靴しか与えられず、暴力と重労働の過酷な日々を送ったのです。そして、出所した後は、そこにいた時の経費が借金として課せられていたというのです。マーガレットは、孤児院にいた子供たちのための調査活動を始め、イギリスとオーストラリアの間を行き来する日々が始まるのですが、それは、孤独な闘いに挑むことであり、夫や二人の子供との時間を犠牲にすることにもなってしまうのでした。

ケン・ローチの息子、ジム・ローチの長編第一作監督作品です。実話をベースにしたお話で、マーガレットを始め、その他の登場人物もみな実在しているそうです。そのベースにあるのは、1930年代から、1970年まで、行われた児童移民という事実。イギリスの施設の子供たちが本人の意思とは関係なく、オーストラリアへ強制移民されたというもの。子供たちは孤児院というひどい環境の中、空腹と暴行、時にはレイプに怯える日々を過ごしていたのです。この事業には、政府、教会、慈善団体などが関与していました。そして、その事実は闇に葬られてしまったのです。でも、その孤児院にいた子供たちは、オーストラリアで成人し、家庭も持ち、暮らしていました。そんな彼らの中に、自分が誰なのかを確認し、自分の母親に会いたいという想いは強く残っていました。多くの記録は失われ、彼らが自分の母親をイギリスで探しても見つけられないこともありました。

映画は、一切回想シーンを用いず、孤児院出身者の証言だけが示され、そこに事実に対する距離感が感じられるのですが、ドラマの中で、それが意図的にされていることがわかってきます。と、いうのも物語の軸足がマーガレットから離れず、常に彼女の視点でストーリーが語られているからです。過去の児童移民という事実が、今のマーガレットにどういう影響を与え、そこから、彼女が何を感じ、何を想うのか。彼女の事実との向き合い方の中に見えてくるのは、過去の罪と贖罪の意識、そして、今を生きる人間には、どうしても乗り越えることのできない壁でした。マーガレットは、孤児たちの家族を見つけたいという気持ちから、奔走するのですが、それは、イギリスとオーストラリアの政府や教会を告発することにもなってしまいます。彼女は、正面から彼らを糾弾するようなことはしません。それは、彼女の目的ではなかったのです。では、どうすることが彼女にとってのゴールなのでしょうか。それについて、映画ははっきりとした答えを示してはくれません。

政府や慈善団体の人間も登場して、コメントするシーンがあるのですが、彼らの年齢からすれば、児童移民の当事者ではないでしょう。それでも、彼らは、自分たちの先達が行った行動を失態として認めようとしません。あくまで、不幸な歴史として、風化させようとする意図が彼らにはいます。当時の価値観は今と違っているし、基本的に慈善的な意図で行われた移民なのだから、今になって掘り返して非難しなくてもいいじゃないかというのが、彼らの言い分です。でも、自分自身のアイデンティティを押し潰され、母親に会いたくても会えない孤児たちがまだまだたくさんいるのです。日本の歴史の中にも同じように、「不幸な過去」で片付けられてしまって、苦しんでいる人がまだまだいるのではないかということに気づかされる映画でもあります。でも、苦しんでいる人々に手を差し伸べるというのは、どういうことを意味するのでしょうか。それによって、彼らの痛みをやわらげることができるのか、そんなところまで、この映画は語りかけてきます。

彼女の行動は、新聞記事となり、彼女への共感の寄付が集まる一方で、彼女を非難する人々も出てきます。過去を掘り返すことで、年老いた神父たちが苦しめられている。マーガレット自身への脅迫もあり、時には家まで脅しをかけてくるものがいます。彼女は、精神的ストレスから、PTSDと診断されてしまいます。それは、孤児たちの証言を聞くうちに彼らの苦しみを背負い込んでしまうために発症したのだと言われます。家庭を犠牲にし、そこまで、自分を追い込むことで、彼女は何を得るのでしょう。そして、それは孤児たちにとって意味のあることなのでしょうか。

ジム・ローチの演出はドラマチックな要素を極力おさえて、淡々とドラマを進めていきます。孤児たちの証言は、衝撃的な内容ですし、それが1970年まで行われていたというのは、信じられないほどショッキングです。でも、その事実をドラマの前面に出すことなく、背景として位置づけて、マーガレットに軸にストーリーを展開させることで、過去の不幸な出来事に対して、今なすべき事を問いかけてくるのです。そのことで、この映画は、全ての人間に問いかけをしてくる、かなりヘビーな内容になっています。おだやかな語り口の中で、突きつけられる問いかけに、残念ながら、私は答える言葉を持ち合わせていません。

エミリー・ワトソンは、おだやかな母親の顔の中に、強い意志を感じさせる抑制のとれた熱演を見せてくれています。決して、高ぶらず、静かに事実を追い詰める強さを見事に表現しました。デンソン・ベイカーはシネスコの画面で、イギリスとオーストラリアで画調と色調を変えて、ドラマを支えています。また、音楽を、アンビエント系ロックサウンドで自身のアルバムも多数出している、リサ・ジェラルドが担当し、ここでも、アンビエント風サウンドで、ドラマの支えになっています。演技、絵、音が決して、ドラマを煽ることなく、抑制がとれているところが見事に演出の意図に応えていると思いました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



マーガレットは、脅迫やPTSDにも負けず、仕事を続けていました。彼女によって、母親を見つけることができ、個人的にも親しくしているレンが、彼女にフェアブリッジ孤児院へ行くべきだと言います。そのことで、体験を共有して欲しいと。しかし、マーガレットは、そこに距離を置くべきだ、そこまで近づきすぎるのは、お互いのためにならないと、拒否します。でも、結局、レンに説得されて、孤児たちが悲惨な日々を過ごしたフェアブリッジ孤児院へと行くことになります。人里離れた荒野にたたずむ孤児院は、外観は大きくて立派な建物です。中に入ると、そこには神父たちが朝食を取っていました。レンとマーガレットはいわゆる招かれざる客です。そこで、お茶をくれというレン。神父たち、レン、マーガレットは引きつった時間を共有することになります。マーガレットは、レンに向かって、過去の過ちが全て正されることはなく、全ての傷が癒される時も、失った時間が戻る時も来ないのだと言い切ります。それに対して、レンは、マーガレットが自分たちの気持ちを聞き、闘ってくれていることに満足していると言います。オーストラリアの事務所での、クリスマスパーティ、マーガレットの家族もいます。翌日、タクシーで去っていく家族を見送るマーガレット。昔の児童移民の実際のフィルムが流れ、後日談の字幕が流れてエンドクレジット。まだ、マーガレットと彼女の夫は、調査を続けているという。

フェアブリッジ孤児院へ行くシーンが一応のクライマックスということになります。孤児院の中で、神父たちと向き合うマーガレットに、孤児たちの証言がカットバックされます。でも、そこで、彼女が怒りの言葉を発することはありません。孤児院への訪問は、彼女にとって自分の無力さを再確認させてしまうことになってしまうのですが、レンはそれを否定します。そこに、この映画の救いと問題提起があります。その普遍的な問いかけが、この映画にある種の感動と奥行きを与えています。エンドクレジットが始まってから、じわっと泣けてくる映画って、そうはないですもの。

「崖っぷちの男」は設定の面白さと展開のうまさでかなり楽しめる出来栄え


今回は新作の「崖っぷちの男」を川崎チネチッタ12で観てきました。ここは、大劇場の作りになっていて、天井が高くて、スクリーンも大きい。シネコンの中のスクリーンとしては、かなり当たりの映画館です。

ニューヨークのホテルの21階の窓の外に一人の男が立っています。自殺志願者かと、警察と消防が出動し、その一帯が封鎖されます。その男、ニック(サム・ワーシントン)は、元警官で懲役25年をくらっていたのが、父親の葬式に参列したときに脱走した脱獄犯。彼は、交渉人としてマーサー刑事(エリザベス・バンクス)を指名します。その頃、ホテルの向かいのビルの屋上から、忍び込もうとしている男女がいました。それは、ニックの弟のジョーイ(ジェイミー・ベル)とその恋人のアンジー(ジェネシス・ロドリゲス)でして、二人とニックは無線で何か会話をしているようです。マーサーは、ニックの素性を知らないまま、自殺を思い直すように説得します。しかし、彼に渡したタバコの指紋から、ニックが元警官の脱獄犯とわかると、彼がただの自殺志願者ではなく、何か企んでいるのではないかと疑うようになります。一方、ジョーイとアンジーはビルの屋上を爆弾で壊して、中に潜入していきます。ニックたちの狙いは一体何なのでしょう。

パブロ・F・フェンヤヴェシュの脚本を、ドキュメンタリー出身のデンマーク人アスガー・レスが監督した犯罪サスペンスです。ホテルの21階の窓の外に立つ男からドラマが始まり、なぜ、男がそこに立ったのかをミステリーの軸にし、並行してビルに潜入するサスペンスを描いていきます。主人公の素性は映画の冒頭で観客に示されます。懲役25年をくらった元警官の脱獄犯。でも、彼がどういう罪でつかまったのかは、映画の中盤まで示されません。一方で、大金持ちだけど悪そうなデビッド(エド・ハリス)が登場し、この男が、ニックの行動と何か関係があるらしいということが見えてきます。

かつてのニックの相棒であったマイク(アンソニー・マッキー)、本件の指揮官ダンテ(タイタス・ウェリヴァー)、マーサーが呼ばれる前の交渉人だったジャック(エド・バーンズ)と、警察官が色々登場するところも映画の後半で意味があることがわかってきます。また、路上に集まった野次馬が、最初は「飛べ、飛べ」と囃し立てていたのが、後半はニックを応援するようになるのも面白く、それがちょっとした伏線になっているのもうまいと思いました。そもそもの発端は、ニックがデビッドの持つすんごいダイヤを運ぶ途中に強盗に襲われ、それがニックがダイヤを盗んだとされてしまったことにありました。ニックは冤罪だと言ったのですが、結局それは通らず、懲役25年が言い渡されてしまったのです。一方、ジョーイとアンジーの忍び込んだビルは、デビッドのいるビルだったのです。ニックは、眼下の野次馬をうまく煽り、二人の侵入をサポートします。

ニューヨークのロケをうまく使っていますし、ビルの端に立つ男という絵も面白く、見た目の面白さと、先が読めない展開がなかなかに楽しめる映画に仕上がっています。そして、登場人物を駒として全部うまく使い切っているあたりは、脚本のうまさを感じました。演技陣では、儲け役とは言え、交渉人を演じたエリザベス・バンクスと、彼女をサポートするエド・バーンズが光りました。名優エド・ハリスは今回はあまり演技のしどころのない単純な悪役だったのが残念。また、以前はクセのある悪役の多かったビル・サドラーがチョイ役のようで、意外な儲け役を好演しています。ミステリーの意外性もあり、サスペンス描写の積み重ねもうまく、よくできてる映画なのですが、ラストの詰めがやや甘くなってしまったのが、残念。勝ち目のない主人公の逆境に、悪役が自爆するパターンになってしまったのですよ。話を面白くするネタを盛り込みすぎて、収束させるのに無理をした感じでした。仕掛けのたくさんある話は、最後にまとめるのが大変なようです。



この先は結末に触れますのでご注意下さい。



ニックは、自分が犯人扱いされた、ダイヤ盗難事件は、デビッドの保険金目当ての狂言だったと気づき、彼の金庫室にある筈のダイヤを盗み出すことで、自分の無実を証明しようとしていたのです。そして、ニックを襲って、ダイヤを強奪したのは、警官であることも確信していました。マーサーは、ニックが警官時代に内務調査班に協力したことがあり、そこで告発された警官が直後に不審死していることを突き止めます。そして、ニックは、自分を襲った犯人も知っていました。一方、ジョーイとアンジーはビルの中の金庫室までたどり着くのですが、そこにはダイヤは発見できず、そこで、警報装置を作動させます。デビッドは、金庫室の中のさらに隠し金庫にあるダイヤが無事なのを確認して、それを持って部屋に戻ると、そこにジョーイとアンジーが待ちかまえていて、ダイヤを奪われてしまいます。一方、ダンテは強行突破を命令しますが、マーサーは自分も窓から出て、時間を稼いでくれます。そんな、ニックのところに相棒だったマイクがやってきますが、ニックはマイクが彼を裏切った一人だと知っていました。そして、もう一人の裏切り者は、現場指揮官のダンテでした。

強行突破は行われ、さらに射殺命令まで出て、ニックはホテルの中を逃げ回ります。その途中で、ホテルのボーイからダイヤを渡されるのですが、ビルの屋上に追い詰められます。マーサーは、彼を救おうとしますが、逆にダンテによって逮捕されてしまいます。そして、ニックの前には、ダンテとジョーイを連れたデビッドがやってきて、ニックに飛び降りないとジョーイを殺すと脅してきます。ニックが、デビッドにダイヤを渡すと、後始末をダンテに任せて去っていくデビッド。そこに現れたマイクとダンテが銃撃戦となり、ダンテは死亡、マイクも重傷を負います。自分のビルへ戻る途中のデビッドを発見したニックは、ビルの屋上からダイブして、飛び降り用のマットに着地し、デビッドからダイヤを奪いテレビカメラにアピール。刑務所を出所するニックを迎えに来たのはマーサーでした。二人はにぎやかなバーへと向かうと、そこのオーナーは、ホテルのボーイでした。そのボーイを「僕の父親だ」と紹介するニック。そして、ジョーイはアンジーにプロポーズし、ニックとマーサーは何となくいい雰囲気になるのでした。めでたしめでたし。

物語の中では、マーサーはかなり活躍しますし、ジャックもそんなマーサーのサイドに立って、結果的にニックをサポートすることになります。その一方で、悪党のダンテやデビッドが、そんなことをすれば自分たちが疑われるだろうにと思わせる行動をとってしまうのが残念。あと一息のところで、物語としての詰めの甘さを感じてしまいました。また、あれだけムチャやった、ニック、ジョーイ、アンジーが、何の罪にも問われなかったのかなってところも気になってしまいました。まあ、そこは細かいところになっちゃうので、目をつぶるとしても、どうやって主人公が、悪党に逆転をかけるのかというところは、もう少し丁寧に見せて欲しかったです。とは言え、そこまでの展開がかなり面白かったので、全体としての点数はかなり高いです。アスガー・レスの演出は、サスペンス部分で点数を稼いでいますが、ラストの展開で無理したところは、もっと勢いをつけて一気呵成にやっつけた方がよかったかも。

「happy しあわせを探すあなたへ」を観て、幸福の追求ってのは、貴族の遊びのような気がしてしまった


今回は、新作の「happy しあわせを探すあなたへ」を横浜シネマジャックで観てきました。DLPがやっぱりフィルムより見劣りしちゃうので、いいプロジェクターを入れて欲しいわあ。

現代人が求めるものの筆頭が「幸せになる」こと。インドで人力車を営む男は家族や隣人に囲まれて幸せに暮らしています。一方のアメリカ人は、所得がどんどん上がってきているのに、幸福度が下がってきているんですって。そして、今は幸福度を上げること、幸福を科学する幸福学がブームらしいのです。日本は経済大国なんだけど、幸福度はすごく低い、経済の繁栄を追い続けた結果は過労死なんですもの。でも、同じ日本でも沖縄には長寿の町があって、そこにいるお年寄りはすごく幸せそう。美しくて幸せだったのが交通事故で、顔が醜くなってしまった女性は、最後にはその不幸を乗り越えて、今はすごく幸せそうに見えます。人の幸せの求め方には2パターンあるそうでして、お金、見た目、地位を求めるタイプと、自己実現、人間関係、社会貢献を求めるタイプで、後者の方が幸福度が高いのだそうです。その一方で、幸福度というのは、遺伝で5割が決まり、環境で1割、残りの4割が心の持ちようで決まるという、結構ショックなことを言ってくれます。それでも、幸福になるってことは、スキルを磨くようなものだそうです。というわけで、その気にならないと、幸福になれないってことらしいのですが、そういうこととは関係なく、幸福そうに生活している人もいるという、まあ、人それぞれの幸福らしいというところに落ち着くようなのでした。

ロコ・ベリッチ監督による、幸福についてのドキュメンタリーです。色々な切り口から、幸福に切り込んでいき、様々な幸福や不幸が示され、また、科学的な幸福へのアプローチもあり、テーマはシンプルながら、最後まで退屈せずに観ることができました。でも、エクササイスでドーパミンがたくさん分泌されると幸福だとか、友達がたくさんいると幸福だとか、好きなことをしていると幸福だとか、不幸を乗り越えた先が幸福だとか、言っていることは、割とまとも。まとも過ぎて物足りないところもありましたが、まあ、万人が認める幸福なんてのはそんなものなのでしょう。

実は、私、幸福ではありません。これまで、幸福だと感じたこともないですし、幸福になりたいと思ったこともなく、日々を何となくやり過ごしてきました。そういう人間から、幸福についての映画がどう見えるかというと、あまり身につまされるところもなく、「そうだったのかー」って感心もせず、「へー」と半信半疑で眺めてました。

自然と一緒に暮らしている人とか一芸を持った人、手に職を持ってる人が幸せに近いという描き方をしています。一方で、日本人は満員電車に揺られて、家族との時間も十分に持てず、幸福度が低いときっぱり言ってきます。ダンナが過労死した奥さんが登場し、ダンナが生きてた頃のビデオが出てきたりして、不幸度がグーンとアップします。田舎で自然に恵まれた環境で、友達がたくさんいる人が幸せだと、言われちゃうと、都会で金なし友なしの一人暮らししてる自分なんて、幸福から一番遠いところにいるってことになります。えー、そうだったのかー、オレは不幸だったのかー。遺伝が5割じゃないのかよー。でも、まあ当人の感じ方で、幸福にも不幸にもなります。黒地の上の灰色の点は白く見えますが、白地の上の灰色の点は黒く見えるって言うじゃないですか。いやいや、幸福ってのは、そういう相対的なもんじゃなくて、絶対的な価値観なんだよね。この映画は、一つの答えにこだわらないで、幸福というキーワードから色々とイメージを広げていこうとしています。まあ、その割には幸福がステレオタイプではあります。そこを素直に受け止めれば、家族がいて、子供がいて、近所付き合いがあれば、そこには、自己実現と他人との関係、社会との関わりがあるわけですから、幸福へのカギは握っていることになりそうです。

あまり現代文明に毒されていないアフリカの部族が描かれます。この映画は、彼らが幸福であるというスタンスで映画を描いています。うーん、どうなんでしょう。彼らは、決して幸福を求めているわけではないのです。ただ、生きることの中に幸福だと感じることがあるということではないかしら。昔は、生きること、食べることで、手いっぱいの状況だったのが、衣食住が足りてきて、後、何か足りないものを探したら、それが幸福だったということではないかというのが、映画から見えてきます。昔ながらの暮らしをしている人々は、生き方の選択肢がそんなになかったと思うのですよ。今は色々な選択肢があるせいで、どれを選ぼうかというとき、幸福になれる選択をしたいと思う余裕が出てきた、だから、幸福学とか、幸せになる方法とかがブームになってきたような気がします。バブル時代の時は、お金が価値尺度でしたけど、今はその物差しが幸福にとって替わっただけのような気がします。いわゆる流行り廃りの一つです。ただ、お金とか幸福というのは、アイテムとしては強力なので、何度も流行るのではないのかしら。

この映画の中では、選択によって幸福になったという人はあまり出てきません。人生の選択をしている人も中には登場しますが、幸福になるための選択をしている人はいません。でも、この映画は最後に幸福になることは一つのスキルであり、行動を変えていくことで幸福になれると言うのですよ。幸福自体を目的にする行動ってのに、何か意味があるのかって気がしてくる私は天邪鬼なのかもしれません。幸福というのは、目的地でも到達点でもなく、ある時点の状態でしかないでしょう。それも、客観的というよりは、主観的な精神の状態ではないかしら。映画の中では、瞑想によって、幸福感が増すという事例も示されます。何だか、幸福ってのは悟りの境地に近いものに思えてきました。普通に生きてる自分からすれば、そんな修行みたいなのは面倒なので、幸福でなくてもいいやという気になってきます。苦労して手に入れる幸福って何なんだろう。「幸福になりたい」と思うところに、新興宗教やお金の絡む余地が出てくるような気がしてきました。「幸福になりたいでしょ?」という質問には有無を言わせぬところがあります。だから、この本を読め、瞑想しろ、この壺を買え、とにかく、何らかの代償を払って、幸福になれと煽られているような気になってくるのです。

だったら、現状を受け入れることが幸福なのでしょうか。それもどこか詭弁なような気がします。「幸せになろう」と思うことはある種の向上心なのですから、それは否定できないですもの。冒頭で書いたとおり、私は自分がとても幸福だとは思えないのですが、この映画を観ても、やっぱり幸福ではないなあって実感してしまいました。また一方で、幸福になろうと思う必要もなさそうだとも感じました。「幸福学」というのは、幸福を追求する学問ではあるのですが、凡人の日々の暮らしの中では、幸福はそれ自体を追求するものではないなあって。「幸福学」ってのは、結局は、第三者的に他人の幸福度を測ろうというアプローチです。それは言い換えれば「あなたがどう思ってるか知りませんがあなたの幸福度は100点満点の××点です」と言われるようなものです。科学的に追求すること自体は、面白いし意味のある研究なのかもしれませんが、人生という現場で実践されてうれしい学問ではないように思います。他者への愛情、社会への貢献、自己実現、どれも、実践するのはいいことです。でも、それは幸福になるためにすることではない、もっと他にシンプルな動機やきっかけがあって、幸福は後からついてくるものだという気がします。

「アメイジング・スパイダーマン」は定番を無難にこなしているけど、それ以上のプラスアルファが欲しかったかな


今回は静岡シネシティザートシアター7で、「アメイジング・スパイダーマン」の2D字幕版を観てきました。このシネコンでは、3D字幕版を1日10回も上映してるんですよ。で、2D版は4回、他の映画は1~3回、バカじゃないの?と思いつつもシネコンてのはこんなもんなのかなあ。

ピーター・パーカー(アンドリュー・ガーフィールド)は、幼いときに両親から叔父夫婦にあずけられて、今は高校生。写真を撮るのが趣味なちょっと暗めのキャラの男の子。クラスメートのグウェン(エマ・ストーン)が気になっています。ある日、父親が残していたカバンを偶然見つけたピーターはその中にオズコープ社の名前とかつての同僚であったコナーズ(リース・イヴァンス)の名前を発見します。そこで会社研修生に混じってオズコープ社に入り込み、コナーズとも面識を持つことになったピーター。彼はこっそりと研究室に入り込むと、そこにたくさんの蜘蛛が糸を張っていました。そして、その中の一匹に噛まれてしまうピーター。帰りの地下鉄の中で、思わぬパワーが出て大立ち回りをやってしまい、本人のそのパワーにびっくり。叔父夫婦はピーターの様子が気がかりでしたが、ある晩、家を飛び出したピーターを追った叔父のベン(マーティン・シーン)が暴漢に撃たれて死んでしまいます。それからというもの、叔父を殺した犯人を捜すために街を徘徊するようになるのですが、犯罪の街に直面した彼は、自らをスパイダーマンとして、特殊能力を世のため人のために使おうと決心するのでした。一方、片腕のないコナーズは失われた体の部位を再生させる研究を行っていましたが、なかなかうまくいきません。ところが、ピーターが父親のカバンの資料に書いてった方程式を教えたことから、トカゲの細胞をつかって欠損部位を再生させる薬を作りだすことに成功します。会社から完成を急がされたコナーズは思い切って自分を実験台にします。すると、失われたコナーズの腕は再生するのですが、さらに全身がトカゲの怪物に変化してしまいます。人間を幸福にするには、人間の殻を破るべきだと狂信的な考えにとりつかれたコナーズは、その薬をオズコープ社の上から、ニューヨーク全体にばら撒こうとします。オズコープ社のインターンでもあるグウェンに解毒剤の製造を依頼しつつ、スパイダーマンは怪物となったコナーズに向かっていくのでした。

マーベルコミックでおなじみ、日本でもその昔、東映でドラマ化されたことのある「スパイダーマン」。サム・ライミが監督した3部作もまだ記憶に新しいのですが、過去の映画は無視して、新しく物語を作り直したのが、「アメイジング・スパイダーマン」というわけです。ですから、普通の高校生ピーターが蜘蛛に噛まれて、蜘蛛の能力を身につけるところからお話は始まります。前シリーズでは3作目にちょっとだけ登場したグウェンがヒロインになるところが前シリーズと違うところでして、やさしい叔父夫婦の存在とか、叔父が殺されてしまうそのきっかけにピーターが一枚噛んでしまっているというところも同じです。ただ、今回は、ピーターの両親が登場して、その同僚であった男がモンスターになるという、因縁めいた設定がなされており、今回は名前だけしか登場しない、オズスコープ社のトップと思われるキャラなど、続編を前提にしたドラマ作りがされています。「ゾディアック」のジェームズ・ヴァンダービルトが脚本を書き、何と「(500)日のサマー」に続いて長編映画は2本目というマーク・ウェブが監督をしています。

学園ドラマの部分が意外と丁寧に描かれていたり、グウェンとのラブストーリーの部分にもうまさを感じさせるあたりは、あのマーク・ウェブなんだなあって感心したりもしたのですが、コナーズがトカゲの怪物リザードに変身してからの攻防は、迫力はあるのですが、誰がやってもこんなものではないの?って、気もしちゃいました。視覚効果部門のサポートもあって、宙を渡るスパイダーマンの絵は、サム・ライミ版より格段にリアルですし、007シリーズのヴィク・アームストロングによるアクションシーンも見応えがありました。クライマックスでスパイダーマンのために、クレーン運転手たちがオズコープ社までの道を作ってくれるあたりなど、なかなかいい感じではあったのですが、全体的には定番を無難にそつなくまとめているという印象になっています。007シリーズだと、定番を無難にまとめているというのは、ある意味ほめ言葉になるのですが、心機一転のシリーズ第一作ということでは、ちょっと無難すぎて物足りなく思ってしまいました。

脇役として登場する、グウェンの父親ステイシー警部(デニス・リアリー)が割と儲け役だったのですが、それ以外の、マーティン・シーン、サリー・フィールド、キャンベル・スコット、エンベス・デイビッツといった面々が勿体ない使われ方をしているのがちょっと残念。悪役を演じたリース・イヴァンスは、屈折したキャラを熱演しているものの、彼の望むところには、それなりの信念はあったわけで、単なる悪役以上の扱いになっていないのも物足りなかったです。後、これは完全に個人的な好みになるんですが、アンドリュー・ガーフィールドが最初から濃いキャラ(顔かな)なので、スパイダーマンになってからの落差があまり感じられず、前作のトビー・マクガイアのピーターが自分の能力をコントロールできずにあたふたしつつも、その変化に喜んじゃってたのと比べると、妙に重い感じなのですよ。重いのが悪いわけじゃないのですが、どこかヤンキーっぽい臭いがするのが、なじめませんでした。

2時間16分というそこそこに長い時間の映画でしたけど、最後まで退屈しないで観ていられたのは、演出のうまさということはできると思います。でも、新しい「バットマン」シリーズとかと比べるとお話が軽いかなって気がしちゃいました。前半の学園モノの部分は結構いい感じなのですが、本筋であるリザードが現れてからの展開が、あまりにもチャッチャとさばき過ぎかなって気がしちゃいました。クライマックスの薬品を市内にばらまくかどうかというギリギリのサスペンスになるはずも、「へー」という感じでドキドキハラハラまでに至らなかったのは、やっぱりこの監督には不向きなジャンルなのかもしれないと思いました。

ラストで解毒剤が散布され、コナーズも含めてトカゲ化しつつあった人間がみんな元の体に戻るというところも、大きなカタルシスにまでは至らず、エンドクレジットの途中で、独房にいるコナーズに何者かが声をかけるシーンが挿入され、まだ回収されていない伏線をほのめかすあたりも、やっぱり定番ってことになっちゃうのかな。

音楽は前シリーズでダニー・エルフマンが強烈な個性を前面に出した音を作っていたのですが、新シリーズでは「タイタニック」のジェームズ・ホーナーが担当し、個性よりも、絵に合わせた音作りを職人技を聞かせてくれています。自作の使いまわしとよく言われるホーナーですが、今回はそういうところは少なめで、コミックの映画化にしては地味目の音をつけています。エンドクレジットが結構長いのですが、ここに日本版の主題歌なるものを放り込んで台無し。スパイエアーなるグループの歌なんですが、これが安い。こんな歌でもOKってのは映画そのものを安く見積もってないかい?

思い出してみれば、サム・ライミ版の最初の「スパイダーマン」が出たときは、まだコミックの映画化の走りだったので、それなりに目新しかったのですが、これだけコミックが映画化されるようになったご時世では、普通の定番を押さえているだけでは、物足りないという印象を持ってしまいます。「バットマン」は新シリーズをドラマの重量感アップで乗り切ったのですが、今回の「スパイダーマン」は他のコミックの映画化と競うには素直すぎたのかもしれません。
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Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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