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「プロメテウス」は面白いんだけど、何が何だかとっちらかってて


今回は新作の「プロメテウス」を川崎チネチッタ7で観て来ました。当然、3Dでも吹替でもない、2D字幕版なんですが、あまり3Dにするような絵ではなかったような。絵そのものはなかなかに美しくて見応えはあったのですが。

冒頭、マッチョな助清というか白いブルーマンみたいなお方が何かを飲むと、急に苦しみ出して体が変形していきます。そのまま滝壷に飛び込むでもその変化は止まりません。と、お話は変わって、ウェイランド社が出資した宇宙船プロメテウス号はある惑星に向かっていました。そもそもの発端は、考古学者の発見でして、時代や場所を隔てた遺跡から同じような星図が見つかったというもの。これを解読したところ、ある惑星が特定され、そこへ調査に行くことになったのです。監査官ヴィッカーズ(シャーリーズ・セロン)のもと、考古学者のエリザベス(ナオミ・ラパス)や船長のヤネック(イドリス・エルバ)、アンドロイドのデビッド(マイケル・ファズベンダー)といった面々は2年以上もかかって目的の惑星に到着します。そこには、人工的な直線のある広場とその線の先に岩山がありました。中はどうやら空洞のようです。調査隊の選抜隊が岩山の洞窟に入っていくと、そこには通路のような作りになっており、デビッドが岩盤のスイッチをいじっていたら、過去の記録と思われる立体映像が現れました。何やら逃げ回る人影、その先で宇宙人らしい死体が転がっていて、その奥には、巨大な人間のような像と壁画がありました。そして、そこには何本もの岩の棒が立っていて、何やら粘液がうごめいているような。切断されていた宇宙人の頭を持って宇宙船を戻ってみて調べてみると、それはヘルメットみたいなものらしく、はずしてみると、冒頭で登場したマッチョな助清が現れました。これが、人間の創造主なのかしら。そうなの? いやあ、よくわかんない。

リドリー・スコット監督が「エイリアン」の前日談を作ったということで興味がありました。「パッセンジャー」のジョン・スペイツとテレビ出身のデイモン・リンデロフが共同脚本を書いた、SFホラーらしいという話だったのが、宣伝では「人類の起源」をテーマにした映画みたいな売り方をしていて、どういう映画なのかよくわからなくなっちゃったのですが、基本線はエイリアンの前日談です。「人類の起源」というか創造主に会うために宇宙に行ったという設定が、私にはすごく無理があってピンと来なくて、あの「エイリアン」シリーズのえげつない守銭奴だったウェイランド社にしてはドリーム入りすぎなんです。一応、ウェイランド社の社主ウェイランド(老醜メイクのガイ・ピアース)が登場して、創造主に会いたいらしいってことは描かれるのですが、ものすごい金をかけて宇宙船を飛ばす根拠がよくわからないのですよ。創造主に会うためにはるばる宇宙をやってくるっていうと「スタートレック」のヴィージャーみたいな発想なんですが、狂信的という感じは一切なくって極めてクール。創造主に会うってことは、ほとんどの宗教を持つ人にとっては神(クリエイター)に会うということですから、ものすごいことです。それは信仰の根幹を揺るがす恐れ多いことだと思うのですが、そのあたりは、意外や素通りしています。あんまり、創造主に会う話とは思えない展開は、単純な宇宙探検ものという味わいになっています。

考古学者のエリザベスとかはすごくワクワクモードなんですが、前人未到の惑星に行くという割には緊張感がないように見えちゃうのは、こういう宇宙冒険もののお約束なのかしら。その他にも、得体の知れない宇宙生物にやられちゃう連中も行動が極めて軽率。「13日の金曜日」の中盤で殺されちゃうようなのが登場するのは、ドラマとして軽いなあって気がしちゃうのですよ。スコットの演出はサスペンスの見せ方とか映像の美しさとか見せ場を色々と盛り込んで、楽しめる映画に仕上げているのですが、ストーリーがどこか変。超A級映画の豪華セットを組んで、B級SFやってますって感じは、あんまり「エイリアン」っぽくないんですよ。中盤、エイリアンを身ごもっちゃったエリザベスが医療ロボットを使って帝王切開するシーンは「モンスターパニック」みたいだし、クライマックスの創造主の暴れっぷりは、ジェイソンみたいだし、趣向がBクラスっぽく見えてしまうのですよ。その一方で、創造主の意思のようなものがドラマの前面に出てくるので、哲学っぽい話と、下世話なホラーを一緒くたに盛り付けたって感じ。それはそれで面白いのですが、B級っぽい愛嬌がなくて、かなりマジ。もっと、お気楽なホラーに仕上げたら、スコットのサスペンス演出は快調なのですから、贅沢なゲテものホラーとして楽しめたように思います。

創造主というのは、他の惑星の住人だったというのが、この映画のポイントになっています。つまり、人類の起源は、宇宙人が作ったというものです。しかし、この創造主ともいうべき宇宙人も自分たちに似た巨像を作っているところから、どうやら彼らにも信仰の対象となる神がいるようなのですよ。創造主なんて大げさなものではなく、遺伝子操作のできる只の宇宙人(それもかなり気まぐれ)だったってことのようなのです。これなら、まだダーウィンの方が夢があって想像の翼が広がるよなあ。どうして、こんな話にしちゃったんだろう。また、解明されないネタを残して、続編へつなごうというのが見え見えなのも、映画としての格を下げています。「エイリアン」第一作は、確かに続編はできたけど、映画としてちゃんと完結していましたからね。いや、最初から格下の映画として作っているなら、それもありなんですが、妙な上から目線の作りが、映画の内容とうまくマッチしていないように思えてしまったのです。そこんところを善意に受け取れば、ハッタリをかましてるということにもなるのでしょうが、私には食べ合わせが悪くて、消化不良を起こしてるって感じでした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



洞窟の一部は、創造主の宇宙船でした。そして、その中に立っていた何本もの棒は、どうやら生物兵器らしいのです。デビッドはそれを持ち帰り乗組員のチャーリーに飲ませちゃいます。その後、チャーリーは恋人のエリザベスとセックスしちゃうものだから、チャーリーは体中が寄生されちゃって、最後は物体X扱いされて火炎放射器で焼き払われてしまいます。エリザベスのお腹の胎児は見る見るうちに成長。それを知った彼女は医療ロボットで帝王切開。お腹から出てきたのはタコみたいなエイリアン。一方、宇宙船の中には一人だけ創造主がカプセルの中で生き延びていました。ウェイランドやデビッドがそこへ向かい、カプセルを開けると創造主は目を覚ますのですが、これがジェイソンみたいに大暴れして、デビッドは頭ちぎられて、ウェイランドも殺されちゃいます。そして、巨大宇宙船で地球を攻撃しに行こうとする救世主。それを止めるべく、プロメテウス号を宇宙船にぶつけるという神風特攻。そして、宇宙船は大破して着陸。唯一生き残ったエリザベスは、デビッドと一緒に残っている別の宇宙船を使って旅立っていきます。彼女は、なぜ創造主が人間を作り、そして、今度は滅ぼそうとしているのかを知るために、地球ではなく、創造主の星へと向かうのでした。そして、エリザベスのお腹から出たタコエイリアンは、生き残っていた創造主に襲い掛かり、同化した結果、どっかで見た事のあるエイリアンに変化したのでした。ギエーの一声で、暗転、エンドクレジット。

クライマックスの畳み込みはなかなかドキドキハラハラさせるのですが、肝心のところ、エイリアンが生物兵器だったとか、創造主が地球を滅ぼしに行くとかが、登場人物のセリフで語られるだけなので、説得力がないんですよ。創造主が何も語らないので、説明しきれないのはわかるのですが、「へー、そうなんだ」って感じで見てしまいました。ひょっとしたら、映像できちんと見せているのを私が見逃したのかもしれません。に、しても、ラストのエリザベスが地球じゃなくて、創造主の星へ行こうと言い出すのにはかなりビックリでした。創造主なんてたいそうなものじゃない、地球人と見た目の似た宇宙人だってわかってる筈なのに、そこに神の意思みたいなものを感じちゃっているようなのが、すごく無理がありました。この後、エリザベスの物語で続編を作ろうってんだろうなあってのはわかるのですが、動機がやっぱり変。B級ゲテものSFの材料で「2001年宇宙の旅」を作ろうってのはやっぱり背伸びが過ぎるように思います。創造主をもう少し、神っぽく見せてくれたら、それらしく見えたのかもしれません。それとも、あれは創造主の下僕で、別に本当の神みたいのがいるのかしら。

宇宙人が人間を創造したとか、人類を文明に導いたといった話は、よくあるんですが、それを「エイリアン」という映画に絡めるとうーんと生臭くなっちゃうんだなあってところが発見でした。そういうネタは、もう少しおごそかにやらないと、ハッタリが効かないので、神とか信仰のレベルに拮抗するまでには至らないのだと思います。「エイリアン」の前日談としては面白かったですが、エイリアンのキャラを生物兵器にレベルダウンしちゃってるので、オリジナルのファンには好き嫌いが分かれるかも。
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「ヴァージニア」は目先の変わったダークファンタジーとして意外な面白さがあります


今回は、静岡シネギャラリー2で、新作の「ヴァージニア」を観て来ました。静岡でコアな映画ファンはおっきなシネコンのセノバではなく、ここの小さなスクリーンに頼るしかないというのは、不幸な現状なのかも。ちなみにDLPによる上映でしたが、前回の「来たりくる者へ」よりも格段に画質が向上していたのは何より。

魔女ものの小説の作家ポール(ヴァル・キルマー)は、自分の小説を直売り営業で巡業中。家では妻が借金の督促状に追われてイライラ状態。また、彼はボートでの事故で娘を亡くしていました。ある片田舎の町を訪れて、金物屋でサイン会と称した手売り営業をしていたポールの目の前に、その町の保安官ボビー(ブルース・ダーン)が現れ、自分も小説家志望なので、共作しようと持ちかけてきます。そのヒントになるものが保安官事務所にあると言い出します。それは、ベールに隠されていましたが、胸に杭を打ち込まれた若い女性の死体でした。これをヒントに吸血鬼ものの小説を思い立つポールは、その町に留まることにします。真夜中、幻想的な雰囲気の町の何かに誘われるように表に出たポール。すると彼の前に12,3歳の少女ヴァージニア(エル・ファニング)が現れます。そして、昼間は廃墟だった筈のホテルには、明かりが灯っていて、女主人とそのダンナの時計職人が彼を迎え入れます。ホテルの床は実は墓になっていて、12人の子供が埋められているというのです。すると、ホテルの床から、子供たちが走り出してきました。子供たちの世話をしているらしいフロイト牧師が子供たちをまた墓の中へ誘います。さらに、ポールの前にかつてこのホテルに宿泊したことがあるというエドガー・アラン・ポー(ベン・チャップマン)が現れます。ポールは、エドガーに導かれるように森の中へ入っていきます。そして、気がつけばモーテルのベッドにいたポール。どうやら、ポールは夢を見ていたようです。しかし、その夢から新しい小説のネタをインスパイアされたポールは再びあの夢の世界へと入っていくことになります。

「ゴッド・ファーザー」「地獄の黙示録」などで有名なフランシス・フォード・コッポラ製作・脚本・監督による、ミステリーホラーの一編です。私は彼の作品は「ワン・フロム・ザ・ハート」と「レイン・メーカー」しか観たことがないので、どういう映画を作る人かは知らないのですが、この映画では、幻想的な物語を、凝った映像で見せてくれます。

映画は、ナレーション(トム・ウェイツ)による、ポールが訪れる町の紹介から始まります。7面を持った時計塔があって、その7つの時計は全て違う時刻を指しているという設定は、この町では時間が意味を持たないということを示しています。不気味な静けさを持った町が面した湖の向こう側には、無軌道な若者たちがたむろしています。現代のアメリカが舞台なのですが、どこか時代を超越したような空気感が漂っています。なぜか、保安官事務所に安置されている胸に杭を打たれた女性の死体。真夜中の幻想的な空間に現れる少女。一度に殺されたという12人の子供たち。その世話をしていたという牧師。ポールに何かを告げようとするエドガー・アラン・ポー。何度も時を告げる7面の時計台。さまざまなピースがちりばめられた舞台で、主人公は、翻弄されていきます。夢のようで、夢ではない。殺された少女のベールを取って顔を確認しようとしてなかなかできないポール。リアリティとは隔絶された世界は、彼にこの町の過去を語り、娘の死に直面させ、そして、彼の運命をも垣間見せることになります。

真夜中なのに光にあふれている町の様子。そして、時として、風景はモノクロになり、その一部だけが色彩を持つという不思議な映像が、観客を得体の知れない時間へと誘い込んでいきます。夢のような世界で見せられたもの、ホテルの床の墓、大量孤児殺人が、昼間に実際に廃墟ホテルや図書館で確認すると確かにあるのですよ。すると、あれは夢ではないのか。彼は保安官と共に「吸血鬼の処刑台」というタイトルの新作にとりかかるのですが、粗筋すら書くことができない状態です。そして、作家としての自分にインスピレーションを与えてくれるのはあの夢だと、睡眠薬を大量に買い込んで、眠りにつくポール。そこで、またヴァージニアやポーと出会い、かつてその町で起こった事件について新しい事実を知ることになります。その経緯の中で、ポールは自分自身のドラマとも向き合うことになります。それは、自分の娘の死について責任を感じていること、娘と一緒にボートに乗っていれば、死なせることもなかっという後悔の念でした。

12人の子供が殺された事件とヴァージニアには関係があり、また、なぜ彼女だけが殺されずにポールの前に姿を現すことができるのかの謎解きもあります。とは言え、超自然ホラーという枠の中のミステリーなので、論理的にはあり得ない、ある意味ファンタジーということもできる決着になっています。コッポラの脚本・演出は、筋道だてた展開には興味がないみたいで、見せたいイメージをつなげるために、無理やりストーリーをひねり出したような印象がありました。もう少し、理詰めで来るのかと思ったのですが、謎を謎のまま残したり、夢の世界を現実に引っ張り込んだりとかなりやりたい放題をしています。メインのストーリーは、冒頭とラストの保安官事務所だけで語りきれちゃうシンプルなものである一方で、詳細を語ろうとするとかなり複雑でして、そういう意味では説明しにくい映画です。それでも、面白く観ることができたのは、雰囲気描写と語り口のうまさにあります。映画全体の輪郭がなかなか見えてこなくて、ラストでやっとその全貌がわかったときに、また別のオチがくるという展開なのに、置いてきぼり感がないのは、ファンタジーのお約束をきちんと押さえているからだと後で気付きました。

演技陣は、コッポラの作り上げた幻想世界のパーツのような存在でしかないので、各々が存在感を前面に出してきません。すっかり中年のオッサン化したヴァル・キルマーもそうですし、どこか得体の知れない保安官ブルース・ダーンも、ドラマを引っ張っていくような強力なキャラにはなっていません。一番のキーパーソンであるヴァージニアを演じたエル・ファニングもファンタジーの駒の一つにしかなっていません。ラストで凄味を見せてはくれるのですが、彼女にもバックボーンとなるようなキャラクターは与えられていません。その結果、地に足がついていない、ふわふわした雰囲気で物語は進んでいきます。誰にも感情移入できないお話である一方で、るホテルの廃墟、7面の時計台、湖の風景、光に満ちた森の世界など、舞台となっている町が存在感を示してきます。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



夢の中で、ポーがポールに事件の全貌を語ります。ホテルでは以前、フロイト牧師が世話をしていた子供たちを殺してしまうという事件が起きました。湖の向こうにたむろしている若者たちは、不道徳で淫らなヴァンパイアだと信じていた牧師は、子供たちがヴァンパイアにされてしまう前に神の御許へ送ってしまおうと、子供たちに毒入りのレモネードを飲ませ、その喉を切り裂いて殺してしまいます。ヴァージニアもその場にいた子供たちの一人だったのですが、年長だったからか、レモネードがおかしいことに気付き、その場から逃げ出しました。彼女は、湖の向こうの若者たちのリーダーフラミンゴに助けられるのですが、彼はヴァージニアの首に噛み付きます。彼らは本当にヴァンパイアだったのです。しかし、その後、牧師によって連れ戻され、壁にはりつけ状態で固定され、その部屋はレンガで塞がれてしまうのでした。ここまでの、光景をポールに見せた後、ポーは、そのヴァージニアこそが自分の妻であり、自分の小説に登場するヒロインなのだと語ります。

夢の世界から現実へと戻ったポールは、保安官事務所へ向かいます。すると、保安官助手が殺されていて、その横で、保安官が首を吊っていました。保安官には血で「有罪」と書かれていました。ポールは奥においてある、杭の刺さった死体へと近づきます、覆われた布をゆっくりとめくると、やはりその死体はヴァージニアでした。ポールは思い切って、胸の杭を抜くと、大量の血が噴出し、そしてゆっくりとヴァージニアが起き上がります、と、ポールに向かって襲い掛かってきました。ここで、画面が変わり、出版社で、新作の出来栄えが素晴らしいと語り合うポールと編集者のシーンから暗転してエンドクレジット。

保安官は湖の向こうにいる若者を嫌悪していまして、かつての牧師と同じポジションにあります。そして、ヴァージニアはヴァンパイアになって年を取っておらず少女のまま、再び保安官に殺されるのですが、ポールが彼女を復活させることになります。その彼女をヒロインにした小説を書くことで、ポールとポーが重なるということになります。現在のシーンでも、過去のシーンでも、若者のリーダー、フラミンゴは年を取っていませんから、やはり彼がヴァンパイアであることは間違いなさそう。じゃあ、保安官事務所で血まみれのヴァージニアに襲われたポールはどうなったのか。そこは、映画では語られません。腑に落ちないまま、映画は、ポールが傑作をものにしてポーに近づいたらしいと感じさせて、幕を閉じてしまいます。

理詰めのようで思いつきのような展開は、かなり計算されたもののようで、異なる要素をうまくつなぎ合わせたり、切り離したりすることで、示唆に富むファンタジーというレベルにこの映画を押し上げているように思います。ただ、そのストーリーのベクトルは内へ内へとこもっていくタイプのものでして、そこから新しい世界や未来が示されるものではありません。人間の内面へと深入りしようとするアプローチとしては、こういう設定も面白いと思います。ただ、ファンタジーのカラーが濃いので、この映画が心の中へ切り込む映画だと気付くのに時間がかかってしまいます。見せたい(と思しき)ものと、実際に見せているもののギャップが、映画の観客にある種の戸惑いを与えてしまうのではないかと思います。ある意味「何じゃこりゃ」なお話である一方で、「なるほどね」と腑に落ちる部分もある、でも映画全体として観た時には、物語よりも、現代に存在する町の存在が際立ってくるという不思議な映画でした。

わかりやすいハリウッド映画とは一線を画すものですから、定型パターンに飽きてきた方にはオススメできます。かと言って、フランスやイタリア映画の情念の世界かというと、もっと淡白な味わいです。その目先の変わった面白さは評価できると思います。後は個人的な趣味なんでしょうが、エル・ファニングのヴァンパイア少女には、あまりそそられませんでした。彼女の見せ方次第では、ファム・ファタールにもなり得たポジションだったのですが、子供っぽさとヴァンパイア化したときのインパクトしか感じられなかったのは残念でした。

「ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳」はドキュメンタリーというよりは、戦後日本史の復習としてオススメ


今回は、銀座シネパトス1で「ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳」を観て来ました。もうすぐ、シネパトスが閉館というニュースが大ショック。これから、セガールの映画はどこで観たらいいのでしょう。もう新宿ピカデリー4も新宿東映パラス3もないのに。新橋文化でロードショーとか?!

1921年生まれの福島菊次郎は、体力は衰えたものの、まだまだ現役の報道写真家として活躍しています。彼は、大東亜戦争の時の特攻隊の生き残りでした。彼が被写体として向き合ったのは広島で原爆に遭い、原爆症に苦しむ中村杉松さんでした。彼の闘病生活や家族を撮影するとともに、原爆被害者に対する国家の扱いに対して怒りを感じます。そして、瀬戸内海の離島の戦争遺族や戦争孤児の姿を追います。そして、学生運動や三里塚闘争でも、反体制の立場からシャッターを切り続けます。自衛隊や軍事工場を撮影したり、天皇の戦争責任展を開いたりと、中立ではない視点から、昭和から平成を追いかけてきたのです。一時は無人島に隠遁生活を送ったこともありますが、今は山口県で、犬と一緒に一人暮らしをしています。年金も拒否して、国家とは一線を画しながら、福島さんは、写真家として真実に肉薄し、嘘を告発しているのでした。

テレビのドキュンメンタリー作家として実績のある長谷川三郎の初監督作品です。90歳の報道写真家、福島菊次郎の戦後から今までの仕事ぶりを追ったドキュメンタリー映画です。報道写真家の仕事を追うことが、戦後の歴史を追うことになっているという構成が面白く、また報道写真家と言いながら中立でないスタンスで常に反体制の立場を取っているところが、この映画に単なる人物ドキュメンタリーだけでなく、極めて明快なメッセージ映画ともなっています。そして、戦後の歴史の中で、私が知らなかったこと、知っていたけど忘れていたことを思い出させてくれます。中立じゃない視点から語られる戦後史は、納得できる部分と、そうなの?と思わせるところの両方があるのですが、うなずける部分の方が多かったです。

彼が扱った題材で一番多くのフィルムを使ったのは、原爆被爆者でした。79年間草木も生えないと言われた広島の原爆ドームに草の芽がはえたという報道が、彼の心を動かし、広島へ向かい被爆者を撮影していきます。特に原爆で妻を失い、6人の子供を抱えて原爆症に苦しんでいた中村杉松さんとのエピソードが胸を打ちます。自分をこんなにした敵討ちのために自分の姿を撮影して欲しいと言う中村さん、しかし、彼が亡くなった後、弔問に訪れた時、彼の子供から「何しに来たんだ」と怒鳴りつけられます。福島氏は、人の家に土足で上がりこんでシャッターを切り続けてきた自分がその家族からどう思われていたのかまで、気がついていなかったのだと言います。この映画でも、色々な場所で写真を取り続ける福島氏が描かれるのですが、その時は、周囲の目を忘れているようなところがあります。ですから、時としてそれは無粋で配慮を欠いた行為に見えることもあります。被写体となる人間と常に共感する写真ばかりではありませんし、撮られる方にとって不愉快な写真もあるでしょう。それでも、撮るのは撮りたいからやってるって感じなのが面白かったです。報道写真家としての義務とか言い出したら、それはメディアは何をしても許されるという免罪符になっちゃいますもの。それでも、報道写真家として、法を破ることはありうると言ってます。そして、撮った写真は発表して、多くの人に知らしめることに意味があるのだとも言います。でも、写真が真実を伝えるとは限らなくて、「南京陥落」とか「オイルまみれの水鳥」の例があり、イメージ操作に使われる可能性は意識しておかなくてはいけません。

彼が扱った題材で改めて思い出したのは、学生運動と三里塚闘争です。前者については、今見ても、学生のくせに革命だとか、どっかおかしいんじゃないのかと思うところがあるのですが、福島氏にとっては、そんな自由な学生時代を送っている若者に惹かれたのだそうです。青春時代、国にだまされて不自由な日々を送っていたという認識の福島氏にとっては、学生運動に自分の青春時代になかった自由を感じたようです。一方の三里塚闘争は、成田空港建設を地権者の意向も聞かずに勝手に決めて、その上強制代執行という、機動隊による強制立ち退きをやった一件です。これは、子供の頃ですが、ひどいことするなあと思っていたのですが、今見ても国はムチャするなあと思いました。また、当時は機動隊がひどいと思っていたのですが、今見直すと機動隊の後ろにいる空港公団のホワイトカラー連中のひどさが際立ってきました。

また、福島氏が、天皇の戦争責任を問うことに執念を燃やしているところからは、目先の悪の奥の奥の根っこに怒りを向けているからだと気づかされます。戦争責任についての天皇の発言は、天皇をかばいたい日本国民にとっては、仕方ないなあで済んでも、福島氏やアジア諸国にとっては、単なる責任放棄の逃げの一言でしかありませんでした。そこに彼は、「ニッポンの嘘」の根っこを感じ取っていたようです。

そして、もう一つ発見だったのが、「ヒロシマの嘘」というくだりでした。原爆の直後から、家を失った人々がバラックの家を建てて暮らす一画が生まれます。生活保護の多い貧困地区で、原爆スラムと呼ばれていた地区はヒロシマの恥部として、撤去され、緑地帯として生まれ変わります。福島氏はもうヒロシマには撮影するものはないと言います。原爆や貧困で苦しむ人々を平和公園で覆い隠してしまうヒロシマ、聖地となってしまったヒロシマは嘘だと言い切ります。そして、ニッポン全体が嘘っぱちだと。

また、ヒロシマ絡みでは、ABCC原爆障害調査委員会のエピソードも知らなかっただけに衝撃的でした。アメリカ軍が放射線障害の調査のために被爆者のレントゲン写真をとり、血を採取した、それも強制的にMPが連れ出したというのです。被爆者が死亡するとわずかな金で献体を求めるなど、相当えげつないことをしていたようなのです。そして、生活に困窮していた被爆者の家族は、献体した金で葬儀をしたという話が語られます。どの時代にも、弱い者は徹底的に痛めつけられるという構図が歴史に脈々と引き継がれていることが、この映画から見えてきます。そして、それを写真という形で残し続けることは、語り続けることと同じくらい重要なことだというのも伝わってきます。人は歴史に学ぶと言いますが、実際のところ、どんどん忘れてしまって同じことを繰り返してしまいます。日本人は、水に流したり、忘れることが得意なので、福島氏のように執念を持って今を記録し、伝え続けることは大変重要な仕事だと言えましょう。福島氏には、報道写真家という言葉から連想される中立性はありません。でも、福島氏の写真には報道写真として価値があります。それは、歴史と事件を未来に伝える写真だからです。

2011年の東日本大震災の原発事故の時も、南相馬市に向かい、封鎖地域の境界まで行って撮影を行います。境界線を監視する警察官たちを撮影します。彼らもまた、捨て駒として使われている被害者に見えてきます。そして、彼らのバックで安全な場所で、被害者の健康を蝕み続ける政府や東電のトップの姿が垣間見えてきます。福島氏が、事件の最先端での写真を撮り続けることから、その奥にある嘘が浮かび上がってくるのです。年金をもらうのを拒否し、犬と一人暮らしの偏屈なじいさんではあるのですが、彼の言動、行動には一本筋が通っていますし、彼の作品である写真には、社会的、歴史的に大きな意味があります。そういう点がきちんと伝わってくる点ではよくできたドキュメンタリー映画だと言えましょう。

この映画はドキュメンタリーですから、当然、編集や演出が入っているはずです。特に、政治的な発言を持ったメッセージを持った映画ですから、福島氏の写真と同様、中立的なドキュメンタリー映画ではありません。福島氏の写真が、反体制の視点から撮影されているのと同じように、この映画は、福島氏寄り(美化してると言ったら言い過ぎか)の視点から撮影されています。そういう二重構造が、この映画に若干の胡散臭さを感じさせることは事実です。しかし、こういう人を扱ったドキュメンタリー映画の宿命と限界とも言えます。でも、こういう報道写真家を描くことで、ドキュメンタリー映画って何だろうって考え直させるところにも、この映画のお値打ちがあると言えそうです。

リメイク版「トータル・リコール」はSFというよりはアクション映画として楽しめます


今回は、川崎チネチッタ8で、新作の「トータル・リコール」を観て来ました。アーノルド・シュワルツネガー主演の同名映画のリメイクということになるのですが、オリジナルがインパクトの強い映画だっただけにその出来栄えは気になるところでした。

世界戦争が起こり、人類が生存可能な地域は地球の裏表にあたる2箇所だけになってしまいました。片方は富裕層が住むUFB,もう片方は労働者層のコロニーでした。コロニーの住人はフォールと呼ばれる地球の中心を突き抜ける乗り物で、UFBの工場で働かされていました。そんなコロニーの住人であるダグラス(コリン・ファレル)は警官である妻ローリー(ケイト・ベッキンセール)と二人暮らしでした。ある日、職場の同僚にリコール社のシステムを紹介されます。それは、人間の記憶の中に当人の望む思い出を刷り込むことができるというものでした。昇進がキャンセルされて、意気消沈していたダグラスは、思い切ってリコール社に向かいます。そして、諜報員の記憶が欲しいと言って、装置に入った瞬間、警官隊が突然入ってきて発砲してきました。取り押さえられたダグラスですが、彼自身も知らなかった戦闘能力で、警官たちをやっつけてしまいます。どうやら、彼には、彼自身が知らない過去があるようです。そして、家に帰って、事の次第を妻のローリーに告げると、今度はローリーが彼の襲い掛かってきました。一体、ダグラスの正体は何者なのでしょうか。

フィリップ・K・ディックの短編小説をベースに、オリジナル版の脚本を書いたダン・オバノンとロナルド・シャセットに、ジョン・ポヴィルとカート・ウィマーが原案を担当し、ウィマーとポール・ボンバックが脚本にして、「ダイ・ハード4.0」のレン・ワイズマンが監督をしました。この監督はケイト・ベッキンセールのダンナさんでもあります。(今のところ)なかなかのメンツが揃っているのですが、その中でもカート・ウィマーという人が要注意人物でして、カルト風SF「リベリオン」の監督でもあり、他にも「フェイク・シティ」「完全なる報復」「ソルト」など一筋縄ではいかない映画に脚本を提供していて、よくも悪くもクセの強い人です。

1990年のオリジナル版では、ポール・バーホーベン監督の悪趣味系演出が強烈なパワーで映画を盛り上げていました。今回は悪趣味度は控えめですが、その分アクションシーンが大変盛りだくさんでして、映画の半分はずっと格闘と追いかけっこをしているという印象でした。追っかけっこの合間にドラマが入って、ストーリーを説明してくれるのですが、オリジナルよりはシンプルなお話になっています。この映画のツボは、人間の記憶を人工的に入れ替えるというところにあります。主人公のダグラスは、実はダグラスではなく、別の誰かだったのが、その上にダグラスという人間の記憶が刷り込まれていたのです。そして、ダグラスの前の記憶が彼の夢の中に出てきたりするのですが、なかなかかつての人格の記憶は甦りません。しかし、逃げ回るダグラスに知らない男から電話がかかってきて、彼の指示する銀行の貸金庫から、過去の自分からのメッセージを受け取ります。そこにまた追っ手がやってくるのですが、夢の中に出てきた女性メリーナ(ジェシカ・ビール)が現れて、彼を救い、カーチェイスの末、なんとか逃げ切ることに成功します。かつての自分の家に向かったダグラスは自分がカールというレジスタンス側の重要人物であることを知ります。そして、もともとはUFB側が送り込んだスパイだったのが、レジスタンス側に寝返ったらしいのです。レジスタンスのリーダーであるマサイアス(ビル・ナイ)はUFBの情報を持っていて、かつレジスタンスの有名な闘士であったカールを捜していました。一方、UFB側のリーダーであるコーヘイゲン(ブライアン・クランストン)は裏切ったカールを追っていました。

カールの家から逃げ出そうとしたとき、彼の前に同僚ハリーが現れます。今いる世界は、リコール社が作った夢の世界で実体がないから、そこから脱出しないといけないと、ハリーを説得にかかります。この夢の中から脱出するためには、メリーナを撃てといいますが、ダグラスは、ハリーの頭を撃ち抜き、メリーナと共にそこから脱出します。オリジナルでも、似たようなシーンがあったのですが、サスペンスの盛り上がりは、オリジナル版の方が格段に上でした。新作では、ハリーの嘘がまるわかりなんですが、オリジナル版では、「ひょっとして、これは主人公の夢かもしれない」と思わせる説得力があり、ひょっとしたら主人公は夢の方を選択したんじゃないかと思わせる面白さがありました。

全編にわたるアクションと追跡シーンの連続はなかなかに迫力ある見せ場になっていまして、ラストあたりの引っ張り方は「ダイ・ハード4.0」のワイズマンらしい演出を見せています。特に、肉弾戦が多いのが意外性があり、落ちるアクションが多いのが印象的でした。上下の動きが多いのが、アクションシーンの迫力にもつながったように思います。一方、SFとしての部分は、たくさんの先達がある中でオリジナリティを出すのは難しかったようです。「ブレード・ランナー」「フィフス・エレメント」「マイノリティ・レポート」からのパクリのイメージがたくさん出てきます。それでも、かなり作りこんだセットなどは見応えのあるものでした。でも、リコール社の記憶の置き換えというメインとなる趣向があまり前面に出てこないのは物足りなかったです。彼が自分を認識できるのは記憶しかないのに、その根っこが怪しくなるところに、この設定の面白さがあるのですから、どこかで本人が自分がカールであることを確信するタイミングがあってもよかったように思います。そのせいか、主人公が最後まで「お前、誰やねん」状態になっちゃいました。

演技陣では、主人公を演じたコリン・ファレルは、正直あまり印象に残らなかったのが残念でした。最後までカールの記憶が戻らないままなので、キャラが弱くなっちゃったのかもしれません。一方で、執念に燃えてダグラスを追い続けるローリーを演じたケイト・ベッキンセールがインパクトありました。オリジナル版のシャロン・ストーンとマイケル・アイアンサイドが演じた役を一つにまとめたという儲け役ではあるのですが、ワイズマンも、カミさんの演出には力が入ったようです。彼女、この先、アクションものにおけるケイト・ブランシェットの後釜になれるかも。ジェシカ・ビールはレジスタンスの女戦士なので、もっと前面に出てきてもいい役どころだったのですが、控えめに脇役を演じきりました。「崖っぷちの男」のポール・キャメロンの撮影は、シネスコ画面の中で激しいアクションシーンを追いかけるのに成功しています。ハリー・グレグソン・ウィリアムズの音楽は、低音シンセから、打撃音の連続による派手なアクション音楽まで手堅くドラマをサポートしていますが、音だけ聴くと、刑事ものと大差ない音になってしまっています。ここはやはり、オリジナル版のジェリー・ゴールドスミスの、フルオケを使った、メリハリのあるダイナミックな音作りに軍配が上がります。



この先は結末に結末に触れますのでご注意下さい。



ダグラスとメリーナは、汚染地域にあるレジスタンスのアジトへ向かいます。ダグラスはカールとしてマサイアスと再会します。UFBのコーヘイゲンは、アンドロイド警官であるシンセティックを大量にコロニーに送り込んで、コロニーの住民を抹殺し、コロニーの土地を富裕層が奪い、コロニーの住民が担っている労働力をシンセティックにとって変わらせようと企んでいました。そのシンセテッィクを停止させるコードをダグラスが記憶しているということで、彼は記憶を取り出す装置にかかるのですが、そこへ警官隊を従えた、ローリーとコーヘイゲンがやってきます。ダグラスは、マサイアスの居場所への案内役として利用されていたのでした。マサイアスは殺され、ダグラスは寝返る前のカールの記憶へ戻されそうになります。しかし、警官に紛れ込んでいたレジスタンスのおかげで、脱出に成功します。

ローリーとコーヘイゲンは、大量のシンセテッィクをフォールに乗り込ませ、コロニーに向かいます。ダグラスは、フォールに追いつくと爆弾を仕掛け、メリーナを助け出すのに成功するのですが、ローリーたちに発見されてしまいます。追跡と格闘の連続で、最後はダグラスとコーヘイゲンの1対1の格闘となるのですが、そこで爆弾が爆発しダグラスとメリーナは間一髪脱出に成功。コーヘイゲンはシンセティックと共に爆発の炎に飲まれていきます。ダグラスが目を覚ますとそこは救急室の中でした、そこで彼を見つめるメリーナ。しかし、そのメリーナにあるべき傷がないことに気づくダグラス。すると彼女はローリーになり、そこで格闘となって、最後はローリーはダグラスの銃弾に倒れます。救急室を出たダグラスに本物のメリーナが寄り添い、二人は抱き合うのでした。コロニーがUFBから搾取される時代は終わりを告げるのでした。めでたし、めでたし。

ラストは無理やりな感もあるのですが、それでも、監督がケイト・ベッキンセールを見せたかったのかなって思うと微笑ましくもありました。また、ラストの闘いの結果、革命が成功したような見せ方になっているのは、カート・ウィマーの趣味かななんて思ってしまいました。オリジナル版ほどのインパクトというか、アクの強さはないですが、アクションの畳み込みで見せる映画としては、かなり頑張っていると思います。オリジナル版とは異なるアプローチをしている点は面白いと思ったのですが、SF的な設定を背景にしてしまった点は物足りなさが残ってしまいました。

「テイク・ディス・ワルツ」における、選択と後悔の繰り返しはちょっとだけ身につまされます


今回の新作のヒューマントラストシネマ有楽町1で「テイク・ディス・ワルツ」を観てきました。初日の初回のせいか、映画始まる前に配給会社のスタッフと思しき人が劇場の様子を見てました。(違うのかな、メイン館の初日の初回では、よく見かける光景なんですが。)

雑誌ライターのマーゴ(ミシェル・ウィリアムズ)は結婚して5年、チキン料理のレシピ本を書いてる夫ルー(セス・ローゲン)と二人暮らし。一応ラブラブな関係をキープしているように見えます。ある日、雑誌の取材で史跡を訪れたマーゴは、ダニエル(ルー・カービー)という青年と知り合います。帰りの飛行機でも隣の席となり、何となくうちとけた二人、タクシーで帰ろうということになったら、家がなんと筋向いの関係でびっくり。近所の湖畔で人力車で稼いでいるダニエルのことが、気になりだすマーゴ。ダンナのことは愛してるし、不倫願望なんてこれっぽっちもない筈のマーゴですが、彼女とダニエルはだんだんと接近していきます。夫との関係は、子供のこととか会話とかが微妙に噛み合わなくなってきています。。ある日、彼女はダニエルの仕事をしているところまで出かけ、二人は1日デートを楽しみます。その最後で、一線を越える寸前で踏みとどまる二人ですが、二人の間に決定的な感情が生まれてきていたのでした。

「死ぬまでにしたい10のこと」「あなたになら言える秘密のこと」で印象的なヒロインを演じたサラ・ポーリーは「アウェイ・フロム・ハー」で監督デビューして高い評価を受けました。今回も、彼女が脚本を書き、監督も兼任した人間ドラマの一編です。恋愛ドラマというのも違うような気もしますし、ホームドラマでもないので、そんな表現になっちゃいました。

ヒロインのマーゴは28歳という設定で、ちょっとずんぐりとした体型がリアルな人妻感を出しています。ミシェル・ウィリアムズの、マリリンを演じいたとは思えない、そんじょそこらにいそうな女性ぶりが見事でした。全裸のシーンもありますし、ボカシ入りラブシーンもあるせいか、R15指定になってますが、映画の中身そのものも、子供向けのものではありません。希望と現実の狭間を乗り切った大人のための映画に仕上がっています。監督は、まだ33歳なんですが、前作(6年前)では、アルツハイマーの老いた妻を持つ夫の物語を意外な切り口から描いていましたし、今回は、リアルな夫婦の間に切り込んでくる微妙な感情を描き、その年齢からは想像がつかない繊細なドラマを作り上げています。冒頭では、何か料理を作っているヒロインが登場しますが、その表情はどこか物憂げです。その向こうに男の姿がぼんやりと映るのですが、多分、ダンナなのでしょう。

マーゴには、アル中治療中の義姉(サラ・シルヴァーマン)がいて、その娘のトニーはマーゴによくなついています。よくホームパーティを開き、水泳教室に通うマーゴの日常は、平凡ですが、平和でした。そこに割り込んできたのがダニエルという男でした。出会ってすぐに、マーゴは自分が人妻であって、夫を愛していることをダニエルに告げていました。それなのに、何となく筋向いに住むダニエルが気になってしまうマーゴ。そんなマーゴの視線を感じて接近してくるダニエル。でも、すぐにキスとかベッドインになるわけではありません。その一方で、両者の接近はとてつもない危険をはらんでいることが観客にも伝わってきます。昼間のカフェで、もしダニエルならマーゴをどんなふうに愛撫するのか語るシーンや、夜のプールで二人がイルカがじゃれあうように泳ぐシーンなど、恋愛映画であるなら、愛情表現としての見せ場になるのでしょうが、監督の視線は、意外なほどクールです。絵的な美しさは感じるのですが、危うさというか脆さといったものが前面に出てくるのです。人妻と同じ年代の男性の恋愛ものというのなら、不倫ドラマになるにせよ、ストレートな恋愛映画になるにせよ、その行き着く先のゴールは明快です。ところが、この映画は、そういうストレートなドラマにある安定感が感じられません。遊園地で1日遊んで帰ってきた二人は、家の前で別れようとするのですが、マーゴの方が積極的にダニエルの家に入り込み、一人でベッドに入り込みます。それを見て、とまどうダニエルに対して、「やっぱりできない」と泣き崩れるマーゴ。彼女は、一体、誰を本気で愛しているのか、そこのところは最後までよくわかりません。ただ、彼女は揺れつづけるのです。それまでの5年間の結婚生活は決して不幸なものではありませんでした。それでも、5年も夫婦をやっていれば、相手に対しての不満も少しは見えてきます。一方で、突然目の前に現れたダニエルは、どんな人間なのかまるで知らないのに、何だか心が惹かれてしまう。そもそも、夫とダニエルを二者択一の選択肢にすることなんてできないマーゴです。でも、揺れる心の落ち着く先をなかなか見つけることができません。

これは、あくまで私見なのですが、人間が二者択一の選択をしたとき、どちらをとっても、後でそのことを後悔するときが必ずあると思っています。「やっぱり、あっちにしときゃよかった」というときが来たとき、それをどう乗り切るかで、その人の選択の正誤が決まるのではないかしら。「愛とは後悔しないこと」なんてのは、あくまで希望であって、現実の世界にはないものだと思っています。そして、人は時として、後悔の念に縛られてしまうときもありますし、その後悔を乗り越えるときもあります。突然、変な話になりましたが、この映画から、感じたのが、その点だったのです。「人は選択と後悔を繰り返しながら生きていく」、そんなことがこの映画から見えてきたのです。選択は熟慮の結果行われることもありますし、衝動的に行われることもあります。また、人間は弱っているときに、選択を急いでしまいがちだということもあります。元気なときなら、「それは、今すべき選択ではないから保留する」ことができるのに、心が揺れているときや弱っているときには、そういうコントロールが効かなくなってしまうのです。平常心でない時に行った選択は、心の揺れを安定させることができないのではないでしょうか。この映画は、直接にそう語っているわけではありませんが、この映画を観ていると、心の安定を失ってしまうヒロインが、衝動にかられてしまっているように見えます。

ミシェル・ウィリアムズは、リアルなヒロインのちょっとした心の揺れが大きな衝動につながっていく様を見事に演じきりました。また、ダンナを演じたセス・ローゲンの不器用ないい人ぶりも見事でした。この映画では、誰もが不完全で、その不完全さゆえに、リアルな存在感を感じさせるようになっています。その結果、映画はきれいに着地しないで、ある意味、宙ぶらりんな形で終わるのですが、その状態こそ、人間のリアルな有り様だと思わせるところにこの映画の味わいがあります。サラ・ポーリーの演出は、夫婦の日常生活の積み重ねを丁寧に描くことによって、ヒロインの心の揺れと意外な選択を観客に納得させることの成功しています。



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一線を越える一歩手前で踏みとどまったダニエルとマーゴ。そして、ダニエルは引っ越して行ってしまいます。そこで、感情が高ぶってしまうマーゴの様子から、夫のルーも彼女が普通の状態でないことに気づきます。そして、ルーは、全てを打ち明けるマーゴに対して、驚きと苛立ちを感じつつ、彼女の選択にまかせようとします。この告白シーンは、マーゴの姿やセリフを一切カットして、ルーのリアクションだけをつないで見せるという変わった演出をしていますが、それによって、観客をマーゴに感情移入させないようにしているようにも見えました。

そして、マーゴは家を出て、ダニエルのもとに文字通り走ります。二人は新居で暮らし始めます。ここで、セックスシーンとかが結構リアルにでもスケッチ風に登場し、時間の経過を見せてくれます。ある日、義姉が行方不明になり、その娘のトニーがマーゴに会いたがっていると、ルーから電話があり、マーゴはルーの家に向かいます。そこへ帰ってきた義姉は、アル中が再発したらしく、飲酒運転で警察に逮捕されてしまいます。その時、彼女はマーゴに向かって「完全な幸せなんて求めたってあるわけがない。あなたも自分も同じようなものだ」と言います。ルーは、マーゴに対してやさしい態度で接し、マーゴは自分が選択した新しい人生へとまだ戻っていくのでした。冒頭にあった何か料理を作っているマーゴの向こうに男性が見えるというシーンが繰り返されて、その物憂げがマーゴのアップから、彼女がダニエルとデートした遊園地の乗り物に一人で乗っている姿になり、暗転、エンドクレジット。

マーゴは、自分の衝動をコントロールできなくなったように見えます。それが、ずっと鬱屈していたものが爆発したとか、押さえてきた感情が表に出たという見せ方にしていないところが面白いと思いました。決して、ルーとの生活がマーゴを悩ませてきたわけではないのです。ルーがまだ子供を作る気がないとか、食事のときに会話がないといった不満な点はあるのですが、それは妥協できるものとして、この映画では描いています。でも、そういう不満の積み重ねによって、彼女の心に弱い部分、揺れる部分ができてしまったこともまた事実でした。そこへ現れたダニエルによって、彼女の理性の堰が切れてしまったように見えました。

でも、ラストでは、彼女は自分の行動を後悔しています。結局、自分のとった行動は、ルーを傷つけただけだったのかと感じ始めたのかもしれません。或いは、ダニエルとの今の暮らしが、ルーとの5年間に値するのかどうかわからなくなってきたのかもしれません。この後悔をどう乗り切るか、映画はそこまでは見せないで終わります。まだ、彼女の人生の選択が正しかったのか、間違っていたのかはわかりません。それは、この後悔の乗り切り方で、彼女自身が決めることなのです。でも、映画としての後味は、なかなか苦いものがあります。その苦さは、誰も責めない、誰にも感情移入させないという映画の作りから来るものなのでしょう。

「ローマ法王の休日」はコメディ風食いつきだけど、実はシリアスなドラマ


今回は新作の「ローマ法王の休日」を川崎チネチッタ1で観てきました。ここのスタッフはすれ違うときに「いらっしゃいませ」って声かけてくるんですよ。ちょっとしたことなんですが、そういうところも含めて、このシネコンはお客さんのさばきがうまいです。シネコンのスタッフって意外と差があるんですよね。

亡くなったローマ法王の後継者を決めるために枢機卿たちがバチカンに集まりました。枢機卿たちが一室にこもって投票を行い、新しい法王を決めるのですが、そこで選ばれたのは意外な人選としてのメルヴィル(ミッシェル・ピッコリ)でした。広場に集まった人々の前で挨拶することになるのですが、その寸前で、メルヴィルは「私には無理だ」と絶叫して、その場を逃げ出してしまいます。報道官(イエルジー・スチュエル)は、法王は祈祷に入ったと嘘をついて時間を稼ぐ一方、イタリア一の精神分析医(ナンニ・モレッティ)を呼んで診察をさせようとしますが、名前も聞けない、二人きりにもなれないのでは、何もできない。法王という身分を隠して、外部の精神科医に診察させることになります。メルヴィルはローマの精神科医のもとを訪れて診察を受けますが、幼児期の保育障害だと診断されてしまいます。そして、クリニックを出たところで、メルヴィルは逃亡してしまいます。法王が決まって、でも逃亡しちゃってることを表沙汰にできないので、枢機卿たちは礼拝堂の足止め状態。報道官は衛兵の一人を法王の部屋に入れて、さも法王がいるかのように見せかけて時間を稼ぎます。ローマの街をさまようメルヴィルは果たして法王の座に戻るのでしょうか。

「息子の部屋」などで知られるイタリアのナンニ・モレッティが脚本と監督を兼任し、助演もしている人間ドラマです。邦題からすると「ローマの休日」をもじったコメディのようにも思えるのですが、意外と笑いは少な目で、ペーソスは感じさせるものの、12億人のキリスト教徒の頂点に立つローマ法王という大役を演じるはめになって、くじけてしまうダメ役者メルヴィルという図式がこの映画のカギになっています。ローマ法王って、ある意味象徴であり、バチカン市国の元首でもあります。この映画の冒頭、投票のとき、枢機卿たちが自分に当たらないようにと祈るところが面白かったです。ちょうど、学級委員になりたくないのと同じような感じに見えておかしかったです。全てのキリスト教徒を指導する立場になるわけですから、それは重い役どころです。そのプレッシャーは大変なものでしょう。

法王になんかなりたくないと思っている枢機卿たちの中で、投票で選ばれたメルヴィルが土壇場でだだをこねて、逃げ出してしまいます。彼はその昔、役者になりたくて、チェーホフの戯曲を今でも暗誦できるくらいの芝居好き、結局、役者になる夢はかなわなくて、聖職についたということらしいのですが、彼が過去の夢にちょっとだけ首を突っ込もうとするあたりに老いた男の滑稽さと物悲しさが出ていまして、設定からするとコメディ風なんですが、実はシリアスなお話が見えてきます。精神科医にところに再び押しかけて、自分がどういう人間なのかを確認したがったり、かつて自分が上りたかった舞台を見に行ったりと、何だかすごく頼りない。過去との清算もまだ済んでないし、今の自分も見えていないメルヴィルには、とてもローマ法王の威厳はありません。

一方、話が片付くまで礼拝堂から出られなくなってしまった枢機卿たちは、同じ理由で軟禁状態になってしまった精神科医の発案で、チームに分かれてバレーボールをすることになります。これが結構盛り上がっちゃうところがおかしいのですが、所詮は同じ人間、それも意外と素直な皆さんなんだなって思えてくるのが微笑ましかったです。普段は偉いポジションで偉そうに見せてる皆様が、バレーボールの攻防に一喜一憂している。結局、人間だからそうは大きな違いはないのです。でも、時として、枢機卿という肩書きが彼らに聖職者を演じさせている、そんな図式が見えてくると、彼らも役者なのかもしれません。役者になりそこなったメルヴィルは、自分にはローマ法王という役を演じ切れないことを、敏感に察知したのかもしれません。ひょっとしたら、役者になれない自分を再認識することで、測りかねていた自分の身の丈に気づいたのかも。

人にはそれぞれの人生があって積み重ねてきたものがあり、それにふさわしい生き方があります。そこに舞い込んできた、自分には荷が重過ぎる役柄をメルヴィルはどう割り切るのでしょうか。メルヴィルだけに注目すると、短編小説みたいな味わいのあるお話で、そこに絞り込んでしまえばテーマが明快になったのかもしれません。でも、それでは、1本の長編映画として成り立たないので、報道官があたふたしたり、偽者をでっちあげたり、枢機卿がバレーボールをしたりといったサブプロットを盛り込んだのですが、その分、お話の中心がぼけてしまったような気がします。

最近の映画には珍しいビスタサイズの画面で、アレッサンドロ・ペシの撮影は、ロケとセットの撮影に統一感のある光を与えることに成功しています。またフランコ・ピエスサンティは重厚な宗教音楽を鳴らしていまして、コミカルな要素はほとんどありません。メルヴィルを演じたミシェル・ピコリは細やかな演技で、自分とは誰なんだろうということを問い詰めていきます。こういう映画だと、抜け出した庶民の世界で、新しい人生や楽しみを見つけるというのが定番で、それがコメディとして成立させているのですが、この映画では、そういったエピソードが入ってきません。主人公は、もっとリアルに自分と向き合うことになるのです。



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メルヴィルは報道官に居所を告げていました。そして、メルヴィルが観劇していた劇場に枢機卿たちが大挙してやってきます。メルヴィルは礼拝堂へと戻り、翌日、大挙して、新しい法王の言葉を待っている群衆の前に姿を現します。そこで、通り一遍の言葉を述べた後、メルヴィルは、法王は人を導く立場の人間だが、自分にはそんな能力はないと告白し、ローマ法王の辞意を表明して、お立ち台を後にするのでした。暗転、エンドクレジット。

これで、終わりなの?とも思える結末なのですが、それまでの展開から、この映画の見えてくるものは、自然な人間のあり方と、不自然なレッテルのギャップです。そこに悩んだ末にメルヴィルのたどりついた答えは、とんでもない常軌を逸してるけど、人間的でもあります。本音とレッテルのギャップという問題は全ての人間が感じていることでして、そこまで絞り込むと、普遍的なテーマが見えてきます。主演のピコリが妙な茶目っ気を見せないマジメなキャラでメルヴィルを演じたことで、この映画が引き締まったように思います。一見、コメディのような発端を見せておいて、実は、普遍的な人間のあり方をかなり正面から描いた映画になっているところが、面白い映画だと思いました。まあ、そんな中では、わがまま放題のローマ法王に振り回される報道官がコミカルな味わいを見せてくれていましたし、枢機卿のバレーボールもユーモラスなエピソードとして、この映画を娯楽映画に仕上げることに貢献しています。ただ、ストレートな映画なのか、シニカルに斜に構えた映画なのか、私には判断がつきませんでした。異色作といえば、かなりの異色作だと申せましょう。

「だれもがクジラを愛してる」は、感動ネタをいい話のレベルにまとめたセンスが好き


今回は新作の「だれもがクジラを愛してる」をTOHOシネマズ日比谷シャンテシネ2で観てきました。ここはフラットな作りなのに、全席指定席なので、前の席にちょっと座高の高い人が座ると悲惨なことになる映画館。ところで、この劇場のベストと思っているポジションを指定して買おうとしたら、そこは売れませんと言われちゃいました。理由は「事故があったときに...」とかゴニョゴニョ言ってるのですが、空いてる席なのに売れないってのはどういうこと?! すごい感じの悪い映画館です。

1988年のアラスカ州バロー。ここには鯨漁を生業としてきたイヌピアックが今も昔の方法で捕鯨を続けていました。この極寒の地でテレビ局のレポーターをしているアダム(ジョン・クラシンスキー)は、偶然3頭の鯨親子が氷原から抜け出せず、氷に空いた穴で青息吐息なのを見つけて、その映像をテレビ局に送ります。その映像は波紋を呼び、世間の声は3頭を救えという方向になります。石油採掘会社社長のアグロー(テッド・ダンソン)は会社の宣伝のために砕氷機械を提供するから軍に運ぶように要請。かつてアダムの恋人だったグリーンピースの闘志レイチェル(ドリュー・バリモア)や、テレビレポーターのジル(クリステン・ベル)をはじめとする取材陣がバローの街にやってきます。最初は、どうにもならなくなったら鯨は従来のように食用にすべきだと言っていたイヌピアック族も族長が「世界の注目が集まっている中で、そんなことをすれば捕鯨を続けられなくなる」という説得で、鯨救出に協力することを申し出ます。砕氷機が到着するまでは、イヌピアックが中心になって、氷の穴がふさがらないようにチェーンソーで氷を削り続けます。果たして、3頭の鯨を助けることはできるのでしょうか。

1988年に実際に起こった事件をもとにしたトム・ローズの原作から、ジャック・アミエルとマイケル・ベグラーが脚本を書き、「旅するジーンズと16歳の夏」や「そんな彼なら捨てちゃえば」などの佳品をものにしてきたケン・クワピスがメガホンを取りました。鯨を救えということで、様々な人々の思惑が駆け巡る様子をクワピスの演出はコミカルにテンポよくさばいていまして、問題意識をあえて抑えた映画作りをしているところに共感が持てました。「だれもがクジラを愛してる」という邦題もずいぶんだなあと思ったら、原題も「Big Miracle」というかなり実も蓋もない題名。ところが物語が進んでいくにつれて、邦題も原題もいいところを突いてるかもしれないと思わせるあたりがなかなかよくできてました。

鯨といえば、捕鯨反対、鯨保護といった話題に走りがちになるのですが、そっちへ走らないで、あくまで、そこにいる鯨をどう助けようという話に絞り込んでいるのが成功の一因と言えましょう。捕鯨反対でおなじみのグリーンピースや、このネタの取材で自分を売り込みたいレポーターとか、会社の宣伝に使って石油採掘権の交渉を有利にしたいプラント会社、そして大統領のイメージアップにつなげたいホワイトハウス、さらにそこでずっと捕鯨を営んできたイヌピアック族など、様々な連中の思惑が絡み合って、鯨救出は難航します。その間、鯨たちのために直接手を動かしているのは、イヌピアックの人々だというところに、この映画のうまさがあります。ちょっとしたさじ加減で、妙なメッセージ色が表に出やすい題材を丸くまとめた脚本のセンスは買いたいと思います。また、あちこちにユーモアを交えて、変にシリアスにならないで、コミカルさを前面に出しているところも、この映画の点数を上げています。例えば、ドリュー・バリモア演じたグリーンピースのレイチェルという女性も、狂信的とまではいかないけど、いかにも自然保護運動家然とした言動が、見ていて引いてしまうところもあるのですが、ラストでは好感の持てるヒロインにまで持っていったあたりも悲壮感や押し付けがましさを排した演出のうまさだと思いました。

また、そんな鯨の様子をテレビで見ている様々な人々のスケッチが挿入されます。テレビで鯨を見ていたアグロー社長の奥さん(お懐かしやキャシー・ベイカー)が、会社の砕氷機のアイデアをレイチェルに吹き込んだり、学校でのスピーチの時間では、みんな鯨のネタばかり話し出すといった小ネタもあり、テレビの前ではらはらする家庭のシーンも登場します。クワピスの演出にシニカルな要素はないのですが、捕鯨反対には抵抗ある日本人の私からすれば、その大騒ぎっぷりがどこかおかしくて、何だかミーハーだよなあって醒めた目で見てしまいます。今の若い人は、もっと素直に見ることができるのでしょうが、学校給食で鯨の大和煮やしょうが焼きを散々食べてきたオヤジにとっては、鯨が氷の中で動けないってのは、牛が泥の中で立ち往生しているのと大差ない事件なのですよ。ですから、グリーンピースよりも、鯨に敬意を表しつつ伝統的な方法で捕獲してきたイヌピアックの方の視点でこの事件を見てしまいました。実際、ドラマはかなりイヌピアックを立てるスタンスで描かれていまして、グリーンピースの方があまり役に立っていないという見え方になっています。一方、軍のヘリが巨大な砕氷機を運ぼうとするのですが、砕氷機があまりにもでかくてなかなか思うように動きません。そして、ラストは思わぬところからヒーローが登場することになります。

そんな人間側の思惑とは別のところに、死に掛けている鯨がいます。氷の穴から呼吸のために顔を出す3頭の鯨。メカニカルなロボット鯨を使っているのかと思ったのですが、エンドクレジットでは、CG関係者多数とミニチュアのチームしか登場しませんので、鯨は全てCGだったのかもしれません。3頭には名前がつけられるのですが、映画の中ではあまり各々のキャラが前面に出ることはなく、やはり人間ドラマこそが、この映画の眼目になっているようです。ラストでは、鯨を助けようということで、全ての思惑がすっとんじゃうというところへ落ち着くので、そこに原題の「Big Miracle」があり、やっぱり「だれもがクジラを愛してる」ということになるのでした。

と、お話がきれいに着地する分、グリーンピースやプラント会社の思惑とか、ホワイトハウスのイメージ戦略、テレビキャスターの野心といった部分は、笑いとばされることもなく、どこにも着地しないまま、ドラマは完結してしまいます。まあ、風刺劇ではありませんから、そこに切り込まないという選択もありということになりましょう。その分、娯楽映画としてのまとまりがよくなったのも事実でして、素直に楽しめる映画に仕上がっています。イヌピアックの少年がドラマの語り手となって、彼の視線からドラマが進んでいるように見せたことも成功しています。

演技陣は地味目のキャストでして、ドリュー・バリモアはもういい年なんだろうけど、手ごわい自然保護のおねえさんを丁寧に演じています。また、ヘリの操縦士として登場するダーモット・マロニーがなかなかの儲け役になっていました。イニピアック族長を演じたジョン・ピンガヤックは、映画初出演ということでしたが、鯨のことを一番よく知っているという、鯨に一番近いところにいる人間の存在感を示して見事でした。ジョン・ベイリーの撮影は、シネスコ画面を丁寧に切り取った室内シーンにうまさを見せていたように思います。外のシーンはセット撮影に背景を合成している部分も多々あるみたいなんですが、氷原の広さや寒さよりも、鯨を中心にした絵作りが印象的でした。クリフ・エイデルマンの音楽は、あまり感動とかドラマチックな音に走らずに、丁寧にドラマをサポートしています。



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プラント会社の砕氷機は途中で氷の穴にはまってしまい、結局使えないということになってしまいます。そこで、現地では、氷に順繰りに穴を開けて海まで誘導することを始めますが、その途中で子鯨が亡くなってしまいます。一方、その時、近くを航行していたのはソ連の砕氷船でした。ソ連のアカに、助けを頼むなんて真っ平だと、社長もホワイトハウスも言うのですが、鯨を助けるには他に手がないとなって、仕方なく、ソ連に砕氷船の協力を依頼します。ニュースで鯨のことを知っていた砕氷船の方でも、今にお呼びがかかるだろうと予想していました。氷に順ぐりに開けた穴のおかげで、鯨は海の近くまで誘導できていましたが、外海との間には、海底まで根を張った氷の塊がありました。砕氷船は、その氷の壁にアタックを繰り返すことで、氷原の下と外海の間をつなぐ穴をつくることに成功し、2頭の鯨は無事に外海へ脱出することに成功します。実話とは言え、ソ連の船が最後に鯨を助けるシーンはなかなかに爽快でして、それまで、内輪もめしていた人間側のゴタゴタがチャラになっちゃうおかしさがありました。

アダムはレイチェルとヨリが戻り、アグローは石油採掘以外の事業を始め、ヘリの操縦士はホワイトハウスの秘書官と結婚し、全てが丸く収まります。語り手であるイヌピアックの少年は、何となく腰が引けていた伝統捕鯨に興味を持ち、祖父である族長と一緒に海に出るようになります。めでたしめでたし。エンドクレジットでは、実際の当時の映像がインサートされます。

とまあ、見ようによっては大感動物語になるところを、ちょっといい話にまとめているところにこの映画のセンスを感じました。日本でやったら、大泣きの感動押し付け映画になっちゃったであろう題材を人間模様をこじんまりと描きつつ、全体をまろやかにまとめているあたりが、いい後味の映画になりましたいいい感じの好きな映画です。

「ダークナイト・ライジング」は、2時間45分見せきるパワーのある活劇としてマル


今回は新作の「ダークナイト・ライジング」を川崎チネチッタ8で観て来ました。このシネコンでは2つのスクリーンでの上映でしたが、大きい劇場の方は時間が合わなくて断念。それでも、こちらもなかなかのでかさで、この映画の扱いのよさがうかがえます。

前作から8年後のゴッサムシティ、ブルース・ウェイン(クリスチャン・ベール)は公式の場に姿を見せず隠居状態。バットマンは、英雄ハービー・デントを殺した犯人になっていました。それが事実でないと知っているのは市警本部長となったゴードン(ゲイリー・オールドマン)だけ。そこへ現れたのが、かつて、ウェインと同じく、ラーズ・アル・グールの弟子だったベイン(トム・ハーディ)。彼を追跡したゴードンは大怪我を負い、彼の部下である警官ブレイク(ジョセフ・ゴードン・レヴィット)がゴードンの手足となってベインの捜査をしますが、不気味なマスクに顔を隠したベインは地下水道をアジトに何かとんでもないことを企んでいます。一方、ウェインの会社は業績がよくありません。それはあるエネルギー研究に大枚をはたいていたから。その研究に興味を示す投資家のミランダ(マリオン・コティヤール)はブルースに接近しようとします。ある日、ブルースの部屋にウェイトレスに化けた泥棒セリーナ(アン・ハサウェイ)が入りこみ、彼の母親のネックレスを盗んでいきます。ブルースは彼女を調べ上げて会いに行ってみれば、彼女は何とベインにつながっていました。ベインと闘うために再びバットマンとなるブルース。しかし、セリーナの案内で連れていかれた地下のアジトで、ベインと1対1の対決となったバットマンはボコボコにされてしまい、地の果てにあるという地獄という名の地下牢獄に放り込まれてしまいます。そして、ブルースが投資していたエネルギー研究の成果は、ベインによって核兵器にされてしまい、ゴッサムシティの1200万人は人質となってしまうのでした。

クリストファー・ノーラン監督による、バットマンシリーズ3部作の完結編です。デビッド・S・ゴイヤーとノーランの原案から、ノーランが弟のジョナサンと脚本を書きました。2時間45分という長さの活劇ですから、かなりの大作。その長さを耐えられるだけの展開の面白さと派手な見せ場を盛り込んで、娯楽映画の王道のつくりになっています。今回のお話は、「バットマン・ビギンズ」に登場したブルースの師匠ラーズ・アル・グールの弟子で、ラーズに破門されたというベインという怪人が、バットマンの敵として登場します。前作で、欲望に振り回されない純粋な悪であるジョーカーと闘ったバットマンですが、今回の悪は何かプランを持っていて、それを着々と実現していくというあたりが、新しい展開となっています。欲望でもなく、復讐でもない、何を動機に動いているのかよくわからないベインという怪人をトム・ハーディが熱演しています。また、脇役として登場するセリーナがバットマンと関わっているうちにいつの間にか、彼に協力するバットウーマンのポジションになってしまうところがおかしかったです。

このシリーズの特徴は、ドラマがとにかくヘビーなこと。それは、バットマンが颯爽としたヒーローではなく、善悪の狭間で葛藤を続けているところにあります。今回は、個人としての葛藤というよりは、彼が発端となって、ゴッサムシティが滅んでいくのを、目の当たりにさせられるというところにあります。どう見ても、形勢は不利、果たしてベインに対して一矢報いることができるのかというところが一番の見せ場になっています。ドラマとしての盛り上がりどころは、ブルースがどことも知れぬ大きな地下牢獄に閉じ込められ、脱出できなくなるところにあります。そこには多くの囚人がいて、井戸のような穴を登って上にたどり着けば脱出できるのですが、今までそれに成功したのはただ一人、それも子供だというのです。かつて、自分の恋人の代わりに牢獄に入った女性から生まれた子供が、脱出に成功したというのです。ラーズ・アル・グールの幻影がブルースの前に現れて、その子供の父親が自分であると告げ、子供とはベインのことらしいのです。(ここで、リーアム・ニーソンがちょっとだけ出演)ここから出て、ゴッサムシティを救わなければならないと焦るブルースですが、何かが足りなくて地上までたどり着くことができません。同じ牢獄の男から、死を恐れないことだけでは恐怖には勝てない。死の恐怖と向き合うことで恐怖を打ち負かすことができると教えられ、何とか地下牢獄からの脱出に成功します。このあたりの展開がよく言えば哲学っぽい、悪く言えば面倒くさい話になるのですが、ノーランの演出は、テンションを落とさず、こういうシーンを乗り切っているので、長時間が気にならないあたりが見事でした。

ただし、絶対的な悪であったジョーカーとか復讐の鬼であったトゥー・フェイスとかに比べると、ベインは凄みがたっぷりある割には、キャラクターがあまり明確ではありません。やってることは、中性子爆弾を作って、ゴッサムシティから誰も出てはいけない、逃げたら爆発させちゃうぞというムチャな脅しです。その前にゴッサム市警のほとんどを地下水道に誘い込んで爆弾で出られないようにしてしまい、そして、囚人たちを街に放ち、自警兵士を組織し、金持ちの家を襲撃するという無政府状態を作り出します。私設裁判所が設けられ、ムチャな判決で人が殺されていきます。結局、人間というのは、枠とか枷がないとろくなことはしないという話なのかもしれません。それは善意の否定であり、荒みきったゴッサムシティはなくなっても仕方のない、欲望と退廃に満ちた街という素顔をさらしたのかもしれません。そのあたり、性善説のエピソードを見せた前作とは異なり、今回のゴッサムシティがバットマンにとっても正義と悪の葛藤の対象になるのかなと思ったのですが、そういう展開にはなりませんでした。まあ、爆弾の発端は、ウェイン社のエネルギー研究だったのですから、事件の責任の一端を担っているわけです。バットマンは、どうあってもゴッサムシティを救う必要があったのです。

中性子爆弾はトラックに載せて常に移動させており、走り回るトラックは3台いて、2台はダミーでした。さらに爆弾は放っておいても数ヶ月で爆発するという代物でした。ベインは身代金を要求するわけでもなく、爆弾を止める取引もしません。単に破滅の過程を楽しんでいるように見えます。そこがラーズ・アル・グールの遺志の実現だということもできるのですが、そこがちょっと微妙な感じなのですよ。さて、そのタイムリミットが1日を切った頃、ブルースはゴッサムシティに帰ってきます。かなりの時間経過のあるお話でして、地下牢獄でブルースが傷を癒してたり、ゴードンやブレイクがレジスタンスのように街を動き回っていているうちに3ヶ月がたっているという設定です。そして、ブルースはセリーナに協力を仰ぎ、さらにゴードンたちと合流し、爆発を食い止めようと作戦をたてます。

クライマックスからエピローグまで、かなりドラマとしては中身の濃い展開を見せてくれますが、ちょっとベインの行動のバックボーンが弱いので、前作のような骨太感が薄れてしまったような気がします。クリスチャン・ベール演じるブルースも今回は弱さが前面に出過ぎた感があり、脇のアン・ハサウェイ演じるレリーナや、ゲイリー・オールドマン演じるゴードンの明快なキャラの方が光ってしまいました。特に、ゲイリー・オールドマンは儲け役で影の主役のごときかっこよさでした。「レオン」などでサイコな凶悪キャラを演じていたころとは大違いでした。後、ゴードンの部下で、マシュー・モデインが久々に登場するのですが、あまりいいところのない普通の脇役で、時の流れを感じてしみじみ。



この先は結末に触れますのでご注意ください。(未見の方は読まない方がいいです)



ベインは、市庁舎に陣取り、ミランダを人質にしていました。セリーナは地下道への入り口を爆破し、そこから警官隊が脱出し、市庁舎へ向かいます。そこにバットマンも現れ、ベインの私設軍隊との闘いとなり、両者は肉弾戦となります。バットマンは市庁舎に入り、ミランダを助けようとするのですが、彼女は何とバットマンをナイフで刺します。実は、ラーズ・アル・グールの子供で、地下牢獄からの脱出に成功したのは、ベインではなくミランダだったのです。そして、ベインはミランダに対する愛情から、彼女の野望に協力していたのでした。ミランダは爆弾の爆破ボタンを押しますが、電波遮断装置をゴードンが爆弾に仕掛けたので、爆破は失敗、しかし、早くもとの場所に戻さないと自然爆破の期限が迫っていました。装甲車で逃げて時間を稼ぐミランダたちを、バットマンとセリーナが追い、最後は爆弾を積んだトラックをハイウェイから落として止めることに成功します。しかし、起爆停止のプログラムが壊されていて、もう爆発を止めることが出来ません。バットマンは空飛ぶマットモービルで爆弾を海上へ運びます。そして、爆弾は爆発しますが、ゴッサムシティは救われます。ブルースの墓の前にたたずむ、ゴードン、ブレイク、そして執事のアルフレッド(マイケル・ケイン)。ブレイクは、滝をくぐって、かつてのブルースの基地へたどりつきます。この後、彼がバットマンを引き継ぐのかしら、で、暗転、エンドクレジット。

ミランダが全ての黒幕だったというのは結構な意外性がありましたが、その分、ベインのキャラが薄まってしまいました。二人とも、地下牢獄の出身という壮絶な過去の持ち主なのですが、ゴッサムシティを完膚なきまでに破滅させるという動機が正直なところよく読めませんでした。不正と偽善に満ちた人間社会を粛清するというには、ゴッサムシティだけってのはスケールが小さいですし、単にブルースを精神的にいたぶりたいだけのように見えてしまいました。また、自分たちの死と引き換えに何を得たいと思ったのかもよく見えませんでした。ラース・アル・グールの思想は殉ずるに値するものだったのか、うーん「バットマン・ビギンズ」を観たのが昔なので、そこんところが思い出せないぞ。ともあれ、派手なことをやってくれてるのですが、ミランダやベインがそこにどういう価値を感じていたのかしら。ラストで二人がただのキチガイでない、ペーソスを感じさせるキャラになっているだけに、もう少し、やってることの説得力を見せた欲しかったです。殺したがり死にたがりで、一応正気という、一番たちの悪い悪役ではあるのですが、ラストで垣間見えるキャラと、行動の暴走ぶりのバランスがよくないような気がしちゃいまして。

後、これは好みの問題になるのですが、ラストでブルースを死なせちゃうことはなかったような気がします。生と死とか、善と悪とか、対立するものの葛藤をドラマチックに見せてきた映画の割りには、成り行きで、主人公を殺しちゃうのは安直なように見えちゃうのですよ。その前に、ベインの陰謀にはまったブルースが破産しちゃうというエピソードもあるのですが、それでも、まだ、彼にはやり残したことがあるように思えたからです。ともあれ、3時間近くを使って、バットマンシリーズを完結させた映画としては、かなり面白かったです。予告編で見せた重厚なハッタリが本編でもパワーダウンしていないあたりは演出のうまさだと思います。「ダークナイト」ほどには、重いドラマになっておらず、活劇度がアップしているのは、観客サービスを狙ったものだったのかしら。
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Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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