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「画皮 あやかしの恋」は異形の者の悲恋を描いた伝奇ロマンとして見応えあります


今回は、横浜ニューテアトルで「画皮 あやかしの恋」を観て来ました。DLPによる上映のようなのですが、ビスタサイズ画面に上下が黒いシネスコサイズでの上映。シネスコサイズの映画なんだから、画面を広げて横長スクリーンで上映しろよと思います。フィルム上映だったらこんなことはないんだけどなあ。

時代は漢の頃の中国。将軍王生【ワン・シェン】(チェン・ケン)は盗賊のアジトを襲撃した時、そこで捕らえられていた若い女、小唯【シャオ・ウェイ】(ジョウ・シュン)を助け出します。王生は、小唯を王生の家に住まわせることにします。王生には、愛する妻佩蓉【ペイ・ロン】(ヴィッキー・チャオ)がいました。それからというもの、町には、被害者は皆心臓を奪われるという殺人事件が頻発するようになります。ある日、王生の家の門にかつての将軍であり佩蓉の夫でもあったð@勇【パン・ヨン】(ドニー・イェン)が転がり込んできます。佩蓉は、かつての夫ð@勇にこの家には妖魔がいると相談をかけます。その妖魔とは小唯というのです。ð@勇は妖魔など一笑に付しますが、たまたま知り合った降魔師の夏冰【シア・ビン】(スン・リー)は、この町に妖魔がいると言います。小唯は本当に妖魔でした。彼女は、王生の寵愛を得て、本妻になろうとたくらんでいました。彼女が人間の姿を維持するためには人間の心臓を食べる必要があり、彼女を愛するもう一人の妖魔小易【シャオイー】(チー・ユー・ウー)が調達していたのです。妖魔を追ってきた夏冰が目障りだった小唯は、小易に彼女を殺させようとしますが、間一髪のところで、ð@勇に邪魔されてしまいます。ð@勇と夏冰は、王生に、小唯が妖魔であることを告げるのですが、王勇やその部下たちは誰も信用してくれません。佩蓉も、彼女が妖魔だと言うのですが、却って非難も視線を浴びてしまいます。そんな小唯は、本当に王生を愛するようになっていました。でも、王生は佩蓉への愛を貫こうとします。小唯が妖魔であることを知る佩蓉は、彼女に殺人を止めさせようとするのですが.....。

清の時代に蒲松齢によって書かれた短編小説集「聊齋志異」の中の「画皮」を原作にした怪奇ファンタジーの一遍です。人間を愛するようになった妖魔が、なんとか男の気持ちを自分に向けようとするのですが、相手の男は妻を心から愛しているので、つけいる隙がない。妖魔の正体を知りつつ、夫の信頼を裏切れなくて板ばさみになるというお話でして、要所要所にワイヤーワークを駆使したアクションシーンを散りばめ、CGによるSFXも盛り込んで、娯楽映画として楽しめる作品に、ゴードン・チャン監督が仕上げました。これが、意外とベタなメロドラマとしての盛り上がりを見せてくれていまして、妖魔のかなわぬ愛の結末へとドラマは高いテンションで突っ走ります。

タイトルトップは、ドニー・イェンでして、スター順位からしても彼がトップなのでしょう。しかし、彼はメインの三角関係の当事者ではなく、王生の兄であり、佩蓉の元ダンナというポジションです。それでも、ドラマの狂言回しとして出番は多く、アクションシーンは彼がメインとなっています。その分、三角関係の要であるチェン・クン演じる王生があまり目だたなくなってしまいました。その一方で、ジョウ・シュンと、この映画で主演女優賞をとったというヴィッキー・チャオが、愛憎うずまくドラマを熱演していまして、二人ともラストはお化けメイクになってがんばっています。ヴィッキー・チャオってアクション女優だと思っていたのですが、いつの間にか清楚な人妻キャラを演じるようになっていたのにびっくり。一方のジョウ・ウンはちょっとファニーフェイス(永作博美っぽい)な美人ぶりが、清純さと妖艶さの両方を演じて、なかなかの曲者ぶりです。

小唯は、王生に助けられてから、彼の家に住まわせてもらい、王生夫妻の妹として扱われ、使用人や王生の部下たちからも慕われていました。そんな彼女に疑いの目を向けていたのは佩蓉だけでした。でも、小唯を信じきっている夫にはそれを言い出せず、たまたま家に転がり込んできた元ダンナに相談したわけです。一方、小唯としては、王生の正妻になりたいので、何とか王生を自分に振り向かせたいのですが、なかなか思うようにいきません。そうこうしているうちに、本気で王生を愛するようになってしまいます。

この三角関係が描かれる間にð@勇と夏冰のドラマが描かれます。こっちは男女といっても凸凹コンビ的なコミカルな描かれ方をしていまして、夏冰を演じたスン・リーの勇ましくもかわいい降魔師ぶりが楽しく、シリアスな映画の中で、彼女がほっとさせる味わいを出しています。ドニー・イェンは、夏冰とのコミカルな掛け合いの部分と、元妻を心配する元ダンナの部分の両方で、いい味を出しています。この三角関係+凸凹コンビの5人がドラマを引っ張っていきます。

ゴードン・チャンの演出は後半の三角関係のドラマをテンション高く演出していまして、藤原いくろうのベタな音楽もあって、かなりな盛り上げを見せます。また、クライマックスにきちんとアクションシーンをつけて、娯楽映画としてのサービス精神も欠いていません。「愛」の尊さをストレートに押し出してくるところは古風なメロドラマですが、そこを大真面目に描いて、それなりの見応えが生まれました。いわゆる異形の者の恋愛を描いた怪異譚ということになるのですが、変に現代的な解釈や味付けをしないで、その時代の価値観で通したところが成功しているのだと思います。王生は妻を愛しています。小唯の恋は、いわゆる横恋慕になるわけです。佩蓉は、小唯が妖魔であることを知りつつ、連続殺人を止めたいと思っています。そして、各々の愛が命のやり取りにまでいっちゃうところが、ベタなメロドラマということもできますし、重厚な伝奇ドラマの面白さということもできましょう。そのツボにはまれば、各々の愛の深さに感動できるかもしれません。自分は、三角関係よりもð@勇と夏冰の男女バディムービーの部分の方でこの映画を楽しみました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



小唯は、佩蓉の目の前で、王生に自分を妾にしてくれ請いますが、王生は妻を愛しているからと彼女の願いをはねつけます。そして小唯は、佩蓉と二人きりになったとき、人間の皮を脱ぎ、醜いその正体をさらします。佩蓉は、夫を愛し、殺人をやめるのであれば、王生を譲ってもいいと言い、小唯の差し出す毒の杯を飲み干します。佩蓉は白塗り白髪の化け物のような姿になり、家の使用人や兵士から妖魔だとして追われますが、それをð@勇が助けます。何とか逃げ延びた先にも、王生や中唯が追ってきます。王生は、例え妖魔であったとしても佩蓉を愛していると言いますが、佩蓉は自分は妖魔でこれまでも人を殺してきたといい、王生の剣に身を差し出します。そして、王生も佩蓉の後を追います。二人の愛の姿を目の当たりにした中唯は自分の霊玉で佩蓉を生き返らせようとしますが、小易がそれをさえぎります。ð@勇と夏冰が小易に切りかかり、ここで大立ち回りになるのですが、二人かかりでも小易はなかなか倒せません。夏冰が祖父からの霊剣を抜き、小易に立ち向かいます。ð@勇は、小易を押さえ込むと、自分も一緒に剣で貫けと叫ぶのですが、夏冰はそれをためらいます。そしてð@勇は、夏冰の剣の上に小易を抱えたまま倒れこみ、小易を倒すことに成功します。中唯が、霊玉を操ると、光の柱が立ち上がり、あたり一面に光が広がり、小易に殺された兵士たち、王生、佩蓉、ð@勇が生き返ります。それと同時に中唯は光の中に崩れながら消えていくのでした。王生と佩蓉は以前の二人に戻り、そして、ð@勇と夏冰は二人で旅に出て行くのでした。

佩蓉が白髪白塗りの化け物になり、血の涙を流しながら逃げ回るシーンや、ラストで中唯が化け物になりかかったような姿になるあたりに、伝奇ものらしい味わいがありました。最終的には異形の者の悲恋ドラマということになるのでしょうが、自らを妖魔だと言いながら、最愛の人の前で死んでいく佩蓉の愛の物語ということもできましょう。一方で、ð@勇と夏冰の秘めたる恋愛ドラマの部分で映画に奥行きが出ました。男勝りなキャラで登場する夏冰のラストの健気さがなかなかに泣かせるのですよ。

複数の登場人物の間の錯綜する愛憎のドラマに加えて、派手なアクションの見せ場を織り込んで娯楽映画としての完成度は高いです。愛のドラマの部分は若干盛り込み過ぎの感もありまして、中唯へ想いを寄せる小易の愛までは、手が回らなかったのは残念。異形の者同士の愛も描ききれば、さらにドラマに奥行きが出たでしょう。ともあれ、ベタなメロドラマも、伝奇物語の中であれば、それなりのパワーとリアリティを持つようです。日本でアニメ化しても結構いける題材のように思いました。
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「ライク・サムワン・イン・ラブ」はバカップルのクズっぷりにドン引き。


今回は、新作の「ライク・サムワン・イン・ラブ」を横浜シネマベティで観て来ました。いつもはDLP上映だったのですが、今回はDCP上映とのこと(Degital Cinema Projectorかな)でしたが、画面がDLPと違ってすごく鮮明でびっくり。デジタル上映は全部これでやれよ、ってそもそもどこが違うのか。

大学生でコールガールもやっている明子(高梨臨)は、つきあっている彼氏のノリアキ(加瀬亮)がやたら束縛したがるクズみたいな奴なんですが、そんな彼氏と別れることもできない優柔不断な女の子。田舎から出てきたおばあちゃんから、何回もかかってくる留守電を、全部シカトしている結構ひどいヤツ。そんな明子がある夜、送り込まれた仕事先は、老教授のタカシ(奥野匡)のアパート。80過ぎらしいタカシですが、どうやら今夜はロマンチックな夜にしたいと思っているようなのですが、明子は言いたいことだけ言って、即ベッドに入ってもう眠っちゃってます。翌朝、タカシはまだ眠そうな明子を車に乗せて、彼女の大学の前まで運転していってくれます。タカシの車を降りて大学の校舎に行く途中にノリアキが待っていて、二人は口論になっている模様。それでも、明子が校舎に入っていくと、今度はノリアキがタカシの車のところに「あなたは明子とどういう関係ですか」と聞いてくる。タカシは明子のおじいちゃんの態で、明子と結婚したいというノリアキに「そんな急ぐ必要はないよ」と諭すように語り掛けます。そこへ戻ってきた明子は車にノリアキが乗っているのにびっくり。二人は何を話したんだろう、すごいまずい状況じゃん。一方のタカシは割りとお気楽に考えているようです。ところがノリアキのクズっぷりに、タカシもニコニコしているわけにいかなくなるのでした。何だか、運悪いよなあ、このじいさん。

イランのアッバス・キアロスタミが日本を舞台に日本語の映画を脚本、監督しました。この人の映画、私は「友だちの家はどこ?」と「そして人生はつづく」をテレビで観ただけなのですが、変な時間の切り取り方をするなあってところと変な終わり方するなあってところが印象に残っています。この映画でも、冒頭のバーで、明子と友人が何か飲んでるところにノリアキから電話がかかってきて、今から来いって言われてます。ノリアキってのは猜疑心の強いバカ、というよりクズのようです。で、明子の言い訳は「おばあちゃんが来てるから」って、見え透いた言い訳の筆頭です。コールガールの元締めヒロシ(でんでん)は「今夜の仕事へちゃんと行ってくれなくちゃ」と彼女をタクシーに押し込みます。ここまでの件が時間的にかなり長い。カットをちゃんと割っているので、1カットの長まわしではないのですが、その呼吸がかつて観た2本の映画の印象と被ります。ひたすら、バーでのやりとりを流しているので、どこで物語が動き出すのか読めません。これは、後半でどこで物語が終わるのか見当もつかないというのとつながっています。そういう演出なんだなとは思うのですが、これ、どこかで観たような気がすると思って、思い出したのがビデオ「本当にあった呪いのビデオ」でした。このビデオは心霊映像が流れるまでに、その関係者に取材やインタビューしているシーンが流れるのですが、そのドキュメンタリー部分に近いタッチなのです。臆面もなく言ってしまえば、フェイクドキュメンタリーみたいなんですよ。音のデザインのリアル感ですとか、物語のない不安定なタッチは、心霊系の(フェイク)ドキュメンタリーで観た記憶がありますもの。

この冒頭のシーンからすると、明子がドラマの中心のように見えるのですが、実は、ドラマの主人公は後から出てくるタカシ老人の方なのです。それが、観客の視線を誤らせているところがあると思います。タカシよりも、この明子ってどんな女なんだろうという好奇心をあおってくるのです。大学生のくせにコールガールをやっている。クズみたいな彼氏がいるのですが、別れる気は全然ありません。おばあちゃんと本当に会う予定があるみたいのですが、実際のところ、朝から何度も留守電におばあちゃんから「会いたいよ」というメッセージが入っているのに全部無視しています。何なんだこいつは、彼氏もクズだが、こいつもクズだなって思えてきます。

そして、タカシ老人が登場するのですが、これはすごくわかりやすいキャラ。善意の人のちょっと背伸びした遊び。本当なら、楽しくロマンチックな夜を過ごせて、翌日は晴れやかな顔でまた新しい一日をおくれる筈でした。ところが、来た娘は、会話も食事も楽しもうとせず、眠いからとベッドで寝ているだけです。それなりのロマンチックになれる小道具も揃えて待っていたのになあ。でも、タカシは翌日も明子の前でいいおじいさんを演じてみせます。これだけ、演じているタカシにちょっとは応えてやれよとも思うのですが、老人のやさしさに明子は無頓着です。そこに、今度は明子の彼氏ノリアキの実物が現れます。これがまた、暴力系ストーカーの完全なクズ。どうやら、明子とノリアキは共依存の関係にあるようで、明子はノリアキを嫌がっているけど別れられない。ノリアキは明子に文句を言いながらもすがりついてしまう。割れ鍋に綴じ蓋というには、かなり痛い二人の関係。この二人の関係が前面に出てくるので、主役のタカシが影が薄くなってしまいます。

もし、これが登場人物が日本人でなかったなら、タカシ、明子、ノリアキの3人をもっと客観的に見る事が可能になり、「じいさんがちょっと夢見た恋の味、地雷踏んだらキチガイまで出てきた」というちょっとした人生悲喜劇として楽しめたのかなって思いました。ところが出てくるのが、地続きの日本人で、その上、クズっぷりがリアル過ぎるので、笑うよりも引いちゃうのですよ。キアロスタミの脚本で明子やノリアキのキャラがどこまで描き込まれていたのかわからないのですが、この日本人的にリアルなキャラクターは俳優の方が肉付けしたような気がしました。最初はそこそこタカシ老人に丁寧な言葉遣いをするヒロアキが最後に「おらああ、このクソじじい!」と叫ぶようになるあたりのキャラの振幅の激しさですとか、明子がヒロアキに殴られて、電話でタカシを呼び出しておいて、ひたすらタカシを拒否し続けるイライラ感とかですね。これが世界で普遍的なクズの姿だとしたら、それはそれですごい発見なのですが、やはり同胞(日本人)ならではの生臭さがぷんぷんとするのですよ。

どこか他人事で観れないというのは、この映画を楽しむにあたっては、残念なことでした。誰にも感情移入せず、あー、バカだね、このじじい、何だこのイカレた若造は、クズみたいなビッチだぜ、と突っ込みながら観られたら、もっと楽しめたのだと思います。ところが、明子、ノリアキのクズっぷりに辟易し、タカシの半端なエロじじいぶりにため息ついちゃったものですから、何だか楽しめませんでした。演技陣もよくがんばっていますし、演出もキアロスタミのタッチだと思えばそれなりに面白いのですが、何だか居心地が悪い。変な話ですが、この気詰まりな感じから、自分は日本人なんだなーってのを再認識させられてしまいました。

また、この映画では、明子とタカシ老人が、その場をとりつくろうために嘘をついてしまうことで、話がややこしくなっていることがポイントになっているようです。もともと優柔不断で煮え切らない明子は、彼氏のノリアキにも嘘ついちゃうし、クズ彼氏とわかれらないで関係をずるずると続けているのは、自分に嘘をついてるように見えます。おばあちゃんにも、コールガールやってることは黙っていいお孫さんを演じているようですし。一方、タカシ老人も、成り行きでノリアキに自分が明子のおじいちゃんであるかのように見せてしまいます。その成り行きに流されてしまう人間のもろさを描いた映画なのかもしれません。「しれません」と書きましたが、それはこの映画が情報量が少ない映画だからです。劇映画としての説明が少ないというだけでなく、3人のドラマの全てをわざと見せない演出をしているので、何でそうなったの?という部分が多いのです。かゆいところに手が届くような映画が面白いとは限らないのですが、この意図的な省略と、その一方で妙に1シーンを延々と引っ張るという演出は、正直何だかなーって気がしちゃいました。

でも、この映画のメインとなるのは、ちょっとだけ色気づいてしまったじいさんが呼んだ女の子がとんでもない地雷だったということになりましょう。ほんの一時の気まぐれというか、背伸びというか、ささやかな冒険心のせいで、踏んだり蹴ったりの目に遭ってしまうのは、ちょっとかわいそうな気もしますが、その不幸さを描いているように思います。ただ、外国人が演じたら、ちょっとした不幸に思えることなんですが、日本人が演じているノリアキというのがヤバすぎて、不幸度がシャレにならないように思えてしまったのは、やはり自分が日本人だからでしょう。タイトルにあるような愛の物語を感じ取ることはできませんでした。クズのリアリティの前では、愛のリアリティの出る幕はなかったという感じでしょうか。

「汚れた心」は実録再現ものというよりは、事実を元にした寓話という味わいでした。


今回は、新作の「汚れた心」を静岡シネギャラリー1で観てきました。ここは静岡唯一の「最強のふたり」の映画館なのですが、当初予定のキャパ42の劇場ではまかないきれず、別のホールも使っての上映になっていました。こういう映画がキャパ40程度の劇場でしか上映されないってところに静岡の映画事情がわかってしまって、何だか残念。DLP上映だったのですが、プログラムにはシネスコサイズと書いてあるのに、実際はビスタサイズでした。これはプログラムのミスなのか、DLP上映だとありうることなのか、はて?

太平洋戦争終戦直後、ブラジルの日系移民は情報が遮断された状況が続いていました。ある者は隠れて聞いたラジオの情報から、日本の敗戦を知っていましたが、その一方で、日本の敗戦は敵国の陰謀だとして、信用せず、同じ日本人同士の中で、勝ち組と負け組という対立構造が生まれていました。写真館の店主高橋(伊原剛志)は妻みゆき(常磐貴子)と二人暮らしで、組合長(菅田俊)の娘あけみとも仲良くしていました。みゆきは子供たちを夜に集めて日本語教育をしていました。ある日、勝ち組の軍人渡辺(奥田英二)が集会を行っていたところを、現地の大尉にとがめられた挙句、日の丸を侮辱されます。渡辺を筆頭に高橋も含む一団が武装して、保安官事務所に大尉を出せと詰め寄ります。それは警官隊によて鎮圧されるのですが、彼らの尋問に日系人の青木が通訳として立ち会っていたことから、彼は国賊扱いされてしまいます。渡辺は高橋に命令を下し、高橋は青木を惨殺します。それは、高橋にとっては正義の行動の筈でした。今度は、組合長が自分の責務として、日本の敗戦をみんなに伝えるのですが、彼もまた負け組の国賊として暗殺のターゲットとなります。勝ち組の行動はエスカレートし、負け組とされた何人もが殺害されてしまいます。高橋は渡辺の命令のもとに、組合長を襲撃します。格闘の末、高橋は組合長にとどめを刺します。遠いブラジルの地で、普通の日本人同士が殺しあったという事実は、日本国内でもあまり知られることのないまま、歴史の中に埋もれてきたのでした。

終戦後のブラジル移民の間で、勝ち組負け組の対立で流血沙汰があったということは本で読んで知っていました。そういう題材の映画らしいというだけでは、あまり気が乗らなかったのですが、監督が「善き人」のヴィセンテ・アモリンということで食指が動きました。「善き人」では主人公の普通の男が日々のことにかまけているうちにナチスにとりこまれてしまう怖さを描いていて見事でした。今回は、日系ブラジル移民の社会における対立から殺しあいにまで発展しまうドラマにチャレンジしました。前作と同様、普遍的な人間の板ばさみを描いている点は見事でしたが、ドラマとしての密度は「善き人」の方が優れていたように思います。

ブラジルへ移民した日本人は主に綿の栽培で生計を立てていたようで、その中で、高橋は写真館を営んでいました。ブラジル政府によって情報が遮断されていたこともあり、ある者たちは日本が戦争に勝ったと信じ込んでいます。一方、隠れてラジオを聞き、日本が負けたことを知っている人もいます。勝ったと信じているのが、勝ち組、負けたことを知っている人間が負け組ということになるのですが、勝ち組からすれば、日本が戦争に負けるわけがない、日本が負けたなどと言っている輩は、非国民の国賊だというわけです。この映画の中には、国賊という文字が何度も登場します。時には負け組の家の壁に国賊という文字が書かれたりもします。これだけなら、単なる見解の違いということで済むのですが、勝ち組からすると、神国日本を信じない「汚れた心」を持った連中が許せないということになります。許せないがついには殺人にまでエスカレートします。この映画では、渡辺という元陸軍大佐が他の勝ち組の若い連中を使って、負け組を殺させるのです。禁止されていた集会をブラジル軍の大尉がやめさせたとき、大尉は日本の国旗を侮辱的に扱いました。それに腹を立てた渡辺たちは、大尉を殺そうと集合して、逮捕されてしまいます。最終的には釈放されるのですが、その取り調べで通訳をやった青木という男を敵に寝返った国賊だと彼らは見なすのです。そして、主人公の高橋は、渡辺の指示で、尖兵として青木を殺す役を仰せつかることになります。葛藤しながらも、彼は青木を惨殺します。

青木が殺された後、組合長の佐々木は、それが自分の生命を脅かすことを承知で、自分の義務として、全員を集めて、日本の敗戦を告げます。その説得の途中で、半数以上の人間がその場を立ち去ります。負け組には生命の危険が迫っていました。そして、ついに渡辺の命令のもと、負け組の人々は勝ち組によって粛清されることになります。高橋も、人として何の恨みもない佐々木を殺してしまうのでした。このあたりの展開は、リアルな再現というよりは寓話的な味わいを重視しているようで、昔、ブラジルでこういうことがあってねえ、という感じの語り口になっています。高橋は同胞を殺すことにためらいはあるのですが、結局は自分の手を血に染めることになります。相手は敵国人でない同じ日本人だというところに若干の迷いはあるものの、自分は正しいことをしているという確信のようなものがあります。それに比べると、自分は一切手を汚さない渡辺には、ある程度日本の敗戦を知っている節があります。彼の指示で、高橋が連合国との調印の模様や天皇とマッカーサーの写真に虚偽のキャプションをつけることになるのですが、そのことに疑いを持った高橋にも、渡辺は刺客を放ちます。この渡辺という男は、自分のプライドを守らないと生きていけない男として描かれています。そして、そのためなら、手段を選びません。人の命なんて、大和魂とか日本人のプライドの前にはとるに足らないものなのです。渡辺という男がそういう人間なのか、戦前の日本の教育がそういう人間を生み出したのか、そこのところは曖昧なのですが、現代の価値尺度では、人でなしのクズみたいな人間が大手を振って町を歩いていたわけです。大体において、勝ち組が負け組に対して攻撃を加えていたようで、最終的3万人が逮捕されたという字幕が映画の終わりに出ます。

ただ、ややこしいのは、単に勝ち組と負け組の対立だけでなく、勝ち組の凱旋帰国をさせてやるという詐欺が横行したのだそうです。その中には、勝ち組の連中が騙す側にまわった例もありました。この映画は、そのことにはちょっとだけ触れるのですが、映画の主眼はやはり日本人同士の殺し合いにあります。映画の構成として、高橋の妻みゆきをナレーターとして、彼女の視点から映画を描こうという演出がされているのですが、残念ながら、それは成功しておらず、懊悩するみゆきのシーンがドラマの流れを滞らせてしまっていたのが残念でした。

演技陣はみな熱演しているのですが、あまり感情を表に出さない人間として描かれているので、ドラマとしての盛り上がりを欠いてしまったように思います。あまり表情を出さないで苦悩する日本人というある意味ステレオタイプのキャラ設定がアモリン監督にあったようです。ブラジル保安官を演じたエドゥアルド・モスコヴィスの自然な演技からしても、日本人は特別な感情をもった人種だという思い込みがあったのではないかしら。しかし、そういう演出の中から、大変シンプルな形で、殺戮の怖さを描くのに成功していますので、それは監督の狙い通りだったのかもしれません。内輪もめというと、連合赤軍を思い出しちゃうのですが、連中もこんな無表情で、同胞を殺していたのかなあって思うと、人間の負の可能性の深さに驚かされます。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



高橋がまた人を殺しにいったことを知った妻のみゆきは飼っていた鶏を殺してしまって精神的にもおかしくなってきます。そして、普段、仲良くしていた、あけみの父親である組合長を夫が殺したことを知って、彼女は高橋のもとを去ります。ダンナを失った佐々木の妻と娘のあけみと同じ列車で、彼女は去っていきます。一方、敗戦の写真を戦勝写真のキャプションをつけることで、勝ち戦に疑問を持った高橋は、渡辺の送った刺客と殺し合い、自分も傷を負いながらも刺客を殺してしまうのでした。そして、その足で渡辺の家に向かった高橋は、落ち着いたそぶりで大和魂を語る渡辺を殺し、警察に出頭します。それから何十年かたったとき、若い女性が古ぼけた写真屋に写真をとるために立ち寄ります。写真館の飾ってあった1枚の写真が彼女の目を捕えます。それは幼いあけみの写真であり、女性はあけみの成長した姿でした。父の敵の写真館から足早に立ち去るあけみ。高橋は、みゆきの消息を彼女に聞くのですが、彼女「知らない」と答え、雑踏の中に消えていくのでした。当時、3万人が逮捕されたという字幕がでてエンドクレジット。

このブラジルの勝ち組というのは相当長い間信じ続けた人がいたそうで、1973年に来日するまで、ずっと日本の勝利を信じ続けたという剛の者もいたそうです。信じることは、そう責められることではないけれど、自分と違う意見を持つ人を攻撃したり、殺しちゃえというのは、今の感覚では正気の沙汰とは思えません。「善き人」の主人公は、ナチスと彼自身の生まれ持つ倫理観の板挟みになっていたのですが、今回の主人公高橋は、勝ち組という勝ち信じるメンタリティと、殺してもいいのかという倫理観の間で板挟みになってしまいます。一方、渡辺には何の板挟みもないように見えます。彼の心の中には、あってはならない皇国の敗北、だがそれを否定する現実という相反するものが葛藤してはいるのですが、それは板挟みといったやむにやまれぬものではありません。どうすれば、自分が心おだやかに納得できるかといういわゆる自己満足のために、人を殺す、いや自分の手を汚さずに殺させるという、私から見ればサイテーな奴です。彼を歴史の被害者というなら、歴史の被害者の中にも加害者はいるのだということになります。渡辺は被害者の中の加害者であり、高橋も被害者の顔をした加害者なのです。

この映画では、この被害者と加害者の構図がある意味はっきりと浮き上がるような描き方をしています。それも単に善悪に二分されるのではなく、末端で小競り合いをしている被害者とそのバックにいる加害者という構図です。でもさらにその背後には、そんなメンタリティに導く教育をした連中、ブラジル移民を見捨てた日本政府といった本当の悪い奴がいるはずです。この映画はそういった現実の込み入ったところをスルーして、刺客となった高橋を中心にドラマを組み立てることで、板挟みの中で葛藤する人間の脆さを描きました。寓話的な展開にしてしまったぶん、ドラマとしての焦点がぼやけてしまったきらいはあるのですが、ブラジル人であるアモリン監督は、ブラジル人と全く異なるメンタリティをもった日本人をあまり深く突っ込まず、フェアに描くことに力を入れているように見えました。その分、ドラマチックな展開よりも、イメージショット的なインサートカットが多くなっているのかもしれません。でも、自国民でない、日本人を描くにあたってアモリン監督のアプローチは成功していると思います。もし、日本映画のスタッフがこの映画を作ったら、口角泡を飛ばす議論の応酬で、小うるさい展開になり、ラストももっときっちり全部見せていたことでしょう。本作では、そのあたりをわざと曖昧にすることで、日本人の得意な腹芸と、それによる悲劇が浮き彫りになったように思います。日本で映画化は無理でも、スペシャルドラマにはなりそうな題材なのですが、それをブラジル映画に先を越されちゃったのは残念かも。特に、この映画のように感情表現を抑え目にした演出でやられちゃうと、後で日本でリメイクするのは大変そう、ってこれは大きなお世話でした。

「ぼくたちのムッシュ・ラザール」はショッキングなオープニングから意外や静かな展開に


今回は新作の「ぼくたちのムッシュ・ラザール」を横浜シネマベティで観てきました。いつものDLPじゃなくて、ブルーレイ上映だとあってどんなものかと思ったのですが、これが意外ときれい。半端なDLPで粗い画面を見せられるよりはこっちの方がいいかも。

モントリオールの小学校で、ある冬の朝、女性教師マルティーヌが教室で首を吊っていました。学校は大騒ぎ、子供たちは大ショックで、カウンセラーのケアが必要なほどでした。なかなか後任の教師が決まらないでいたとき、校長の前に現れたのがアルジェリアでずっと教師をやっていたというラザール(フェラグ)という男。とりあえず、彼を亡くなった教師の後任として雇うことになります。ラザールは19年間教師をやっていたという割には、隣のクラスのクレール先生(ブリジット・プパール)のようにうまく生徒の心をつかむことができないようです。実は、クレール先生はアルジェリアから亡命してきて、難民審査中だったのです。一方、前任教師の自殺は子供たちにまだ影を落としていました。特に、自殺現場の発見者であったシモンと、同じく現場を目撃したアリスは、心の整理がついていないようです。それでも、少しずつ距離を縮めていく、ラザールと生徒たち。しかし、いい関係が出来上がる前に終わりを告げることになります。

エヴリン・ド・ラ・シュヌリエールの原作をもとに、カナダのフィリップ・ファラルドーが脚本を書いて、演出もしました。トロント映画祭で最優秀カナダ映画賞を受賞した他、色々な映画祭で賞をとり、アカデミー外国語映画賞にノミネートされた作品です。教師が教室で自殺しているというショッキングなシーンから始まる映画ですが、そこから先は、静かな展開でドラマは淡々と進みます。教師が教室で自殺ってのは、よほどのことがあったのか、よほどの人だったのか、どっちにしても尋常でない事件ですから、生徒のショックは大きいようです。教室の壁や床はペンキが塗り替えられたものの、そのクラスを別の教室に移すには教室が足りませんでした。そこへやってきたのは、ナイジェリアからきたというラザール先生。ここまでの展開からすると、ショックでまとまりを欠くクラスを熱血ラザール先生が建て直すという話を期待してしまうのですが、残念ながらそういうありがちな展開にはなりません。何かが解決するわけではなく、みんな人それぞれに悩みや問題を抱えているんだねというところまで描いて映画は終わってしまいます。教師の自殺についても、それによる生徒の心の傷も、そういうことがあってね、というレベル以上にお話は進みません。それが、何とも不思議な感じを与えるお話でして、それでも、ラストシーンにじんわりと感動がわいてくる映画に仕上がっています。

ラザール先生、いい人みたいではあるのですが、隣の教室のクレール先生のようなうまく生徒の心を捉える技術には長けていません。教師としてはまことにたどたどしいというか何か頼りないです。それまでのいわゆる進歩的な机の並びを旧態依然とした四角四面の形に戻しちゃうし、やけに難しい詩を教材にしたり。一方、前任教師の自殺はまだ教師にも生徒にも波紋を残していました。教師たちはさすがに大人ですから、その事実からできるだけ目を背けることで乗り越えることができるのですが、生徒にはそれができない生徒もいます。シモンはその中でも目立って荒れていて、いわゆる問題児になっちゃっていました。

シモンだけではない、他の生徒も、先生の死をそれぞれの形で受け止めようとしていました。いわゆる優等生のアリスはシモンを気遣いつつも、納得できない死を受け入れられずにいました。この映画では、冒頭での先生の自殺のよる死に対する回答は出てきません。どんと、そこに置かれた理不尽な自殺を、受け入れるか、目を背けるかは、各々の自由です。どうやら、先生たちは、その死を忘れることで、日常に戻ることに成功しています。しかし、ラザール先生には、別に忘れることで片付けられない過去がありました。

人間、それぞれに問題を抱えている、特にこの映画の登場人物は「死」という共通項を持っていました。そこにドラマ性が出たわけですが、物語は、意外なほど淡々と進みます。生徒の描き方もいわゆる学園ドラマのようなドラマチックなものはありません。ラストでちょっとだけドラマが動くのですが、それまでは、そしてラストも非常に静かに進みます。一方で、描かれる学校と父兄の関係が面白く、日本もカナダも同じような問題を抱えているようです。学校は勉強だけ教えてくれればいいという父兄がいます。今や、教師が生徒をなぐることはおろかハグすることも問題となるのだというご時世を嘆く教師たち。生徒のメンタルな問題は専門のカウンセラーに頼らざるを得ない状況。その状況下で、授業で自殺のことを扱ったラザール先生は、校長先生から怒られちゃうのですから大変です。それを親にチクったのは生徒の一人で、その結果、校長にクレームが入ってしまったのですから、先生も大変です。でも、先生たちは、自分たちが聖職だという変な気負いやプライドがないのが好感が持てました。日本のテレビに出てくる先生たちは、熱血で生徒の人望もあるのですが、一歩間違うと生徒を非常に偏った方向へミスリードする危うさを持っています。この映画の教師たちは、生徒と距離を取りながら、教師の仕事を誠実に全うしようとしているように見えます。

ファラルドーの演出は、静かに学校での日々を積み重ねながら、ラザール先生の行動を追っていきます。その中で、普通の人としてのラザール先生の顔を丁寧に描いていきます。クレール先生の家に食事に招かれて、ちょっとうれしくなっちゃうあたりですとか、他の男性教師陣との会話ですとか、とっつきはよくない、人付き合いも苦手そう、でも悪い人じゃなさそうな中年男のキャラが、彼の過去がわかることで、ぐっと奥行きが増してくるのです。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ラザールはただのアルジェリアからの移民ではなく、政治的亡命者でした。そして、難民審査を受けていたのです。アルジェリアで教師をやっていたなんてのも嘘。レストランの経営者でした。彼の妻は、現政権を批判する記事を書いて、脅迫を受けていました。そして、とうとうラザールの家に火がつけられ、妻も子供も失った彼はカナダへ亡命してきたのでした。彼は何とか難民審査を通り、カナダで正式に暮らせるようになります。そんな、彼がある日、授業で荒れるシモンを問い詰めたことで、自殺のことに触れざるを得なくなります。シモンは、マルティーヌ先生にハグされたことに拒否反応を示していました。そして、先生はシモンが教室に一番に入ってくる牛乳当番の日に首を吊っていたことから、先生が自殺をしたのは自分のせいで、それを自分に見せ付けるために、牛乳当番の日を選んで自殺したのだと思っていたのです。事実はどうだったのか、それはこの映画では語られません。ただ、それを真実として受け取ってしまったシモンがいたことだけは事実なのです。そして、それは周囲の人が否定しても、彼の心の傷はすぐには癒えないのでした。

この授業中に自殺の話をした件が校長の耳に入ります。校長は、ラザールが経歴詐称していた亡命者であることも知っていました。そして、もう学校には置いておけないと解雇されてしまいます。最後に1日授業をさせてくれというラザールは、教壇に立ち、宿題にしていた寓話に対して、自分の寓話を語ります。そして、彼の最後の1日が終わり、彼のもとにやってきたアリスをハグするラザール。おしまい。

シモンの一件が映画の中で唯一のドラマチックなエピソードですが、ここで、死のもたらすものの残酷さが見えてきます。マルティーヌ先生がどういう理由で自殺したのかわかりませんが、それによってシモンは心に傷を負います。アリスは、皆が先生の死を避けていることに納得できないものを感じていました。でも、最後にはそれも癒されていくであろうことの予感で映画はしめくくられます。どういう風にこの映画を解釈すればよいのか、ちょっと困ってしまうところもあるのですが、異常なシチュエーションから始まる物語が、日々の暮らしの中に収束していくというところが見所ということになるのでしょうか。すごく、説得力があるお話なのに、感情移入することを拒否しているようなところがありまして、どの視点から、この映画を観たらいいのか、困ってしまうところがありました。これは観る方によって感じ方が異なってくるところだと思います。理不尽な死のもたらすものがどう人を傷つけて、どう癒されていくのかを感じ取ることができる映画ですから、お試しのオススメです。

「ディクテーター 身元不明でニューヨーク」はお下劣だけど、マジな風刺劇になっていて、でもホントに笑える


今回は、新作の「ディクテーター 身元不明でニューヨーク」をTOHOシネマズ川崎1で観て来ました。ここは、大劇場とは違ういかにもシネコンらしい映画館。上映前にやる恋愛プチドラマがウザダサいのは困ったものです。ホントCMよりも「早く終われ」って思いましたです。

ワディヤ共和国の暴君アラジーン将軍(サシャ・バロン・コーエン)は、徹底的な独裁政権でやりたい放題の日々。ちょっと気に入らない人間がいれば、即処刑。世界中の非難のまとになっていました。そんなワディヤに核開発疑惑が持ち上がり、アラジーン将軍が国連で演説しないと空爆するぞ脅しをかけられてしまいます。そこで、側近の叔父のタミール(ベン・キングスレー)や影武者を引き連れてニューヨークにやってくるアラジーン。ところがベッドから警備主任に拉致されてしまい、ボーボーの髭をそられて、殺されそうになったところを何とか逃げ出すことに成功しますが、ホームレスからうばった服と髭のないアラジーンは本人だと信じてもらえず、滞在中のホテルにも戻れません。これが、実はタミールの陰謀で、アラジーンを殺して、影武者にワディヤの民主化を宣言させようとしていました。一方、アラジーンを政治難民と勘違いした博愛自然主義者ゾーイ(アンナ・ファリス)に助けられ、新しい服も得たアラジーンは、自分が処刑命令を出した人間がニューヨークのリトル・ワディヤで生きていることを発見します。核兵器技術者ナダル(ジェイソン・マンツォーカス)と再会したアラジーンは、タミールの陰謀を阻止して独裁政権を守ろうと作戦を立てます。その一方で、アラジーンはゾーイに惹かれ始めていました。果たして、アラジーンはワディヤの民主化を阻止することができるのでしょうか。

「ボラット」「ブルーノ」といったお下劣フェイクドキュメンタリーの監督ラリー・チャールズ、主演サシャ・バロン・コーエンのコンビの新作です。今回はいきあたりばったりな展開ではなく、きちんと柱となるストーリーを持ったドラマになっています。(画面もシネスコサイズだし)また、「ボラット」「ブルーノ」では斜に構えて見せていたアメリカへの風刺ネタを、今回はストレートに前面に出してきます。とはいえ、「ボラット」「ブルーノ」のようなシモネタは相変わらずで、かつギャグの密度が濃くなっているので、相当笑える映画に仕上がっています。冒頭で、「キム・ジョンイルの思い出に」と出るあたりから、フツーの映画ではありません。アラジーン将軍の生い立ちを語る番組の内容もブラックな笑いを次々とぶち込んできて笑いをとります。核兵器開発施設には、なぜか牛がウロウロしていますし、核ミサイルの先っぽが尖っていないからという理由で、開発者を処刑しちゃうという独裁ぶり。ムチャクチャな奴なんですが、笑いに結びつけることで、ちゃんとコメディの主人公になっていまして、単なる不快な悪役になっていません。

そんなアラジーンがアメリカにやってきて、側近の陰謀にはまって殺されかかるところを何とか逃げ出すのですが、目印のヒゲを剃られちゃったもので、誰もアラジーンと思ってくれないという展開は、以外やマトモなコメディになっています。さらに、少年のようなゾーイという女性と恋愛関係になっちゃうのですが、これもラブコメの定番、出会い→急接近→諍い→和解 というパターンを踏襲しています。じゃあ、普通のコメディかというと、差別ネタ、シモネタのてんこもりに加えて、時事ネタに風刺ネタも盛り込んで、とにかく下品で、でもおかしい。メインストーリーの脇のエピソードとして、そういったネタをぶちこんでムチャクチャやっているようで、本筋から脱線していないという作りは、コーエンの映画としては、マトモ過ぎるように見えます。でも、1本のコメディとしては、口当たりがマイルドになり、一方で伝えようとしているメッセージが素直に観客に受け入れられるようになっています。

色々と放り込んでくるネタの中で面白かったのは、ヘリの遊覧飛行で老夫婦と乗り合わせたアラジーンとナダルがワディヤ語で会話するのですが、その中にビン・ラディンとか911とかエンパイアステートビルといった言葉が挟まるので、自爆テロと思われて逮捕されてしまうところ。ベタなネタなんだけど、アメリカでもこういう勘違いネタやるんだって妙に感心しちゃいました。後、小ネタでは、エドワード・ノートンの1カット出演とか、ヒゲだけ盗むつもりの麻薬王の死体の首まで持ってきちゃうところとか、とにかく笑えるシーンが多かったです。コーエンの作りこんだアラジーンというキャラもおかしいのですが、相手役のゾーイを演じたアンナ・ファリスがまたいいのですよ。自前の腋毛で、自然主義で博愛主義の活動家を演じていて、アラジーンのことごとく下品な突っ込みにマジメに受け答えするあたりがかなりおかしかったです。アラジーンみたいな男に惚れてしまうという変な奴という設定に説得力を与えたのですから、彼女只者ではありません。「最終絶叫計画」シリーズでは酷い目にばかり遭うヒロインを好演していたファリスですが、この映画では、コーエンという強力キャラを相手に正面から互角の勝負をしているからすごい。一方、アラジーンを殺そうとする側近で叔父であるタミールをベン・キングスレーが演じているのにはびっくり。「ヒューゴの不思議な発明」での共演が縁で出演することになったのいうのもすごい。コーエンがああいうファンタジーに出ているのが意外だったのですが、そこから、ベン・キングスレーをこんな映画に引っ張ってくるとは。下品なドタバタの中で、キングスレーだけはマジメに悪役を演じているあたり、きちんと名優の扱い方を心得ています。

単なる消費される笑いの物量作戦だけでなく、今のアメリカに対する明確なメッセージも持っています。メインストーリーは、タミールの陰謀でワディヤを民主化されようとするのを、アラジーンが阻止するというものです。タミールは石油の利権を外国の石油会社に売り渡すことで莫大な富を得ようと企んでいました。民主化の新憲法への署名を、公開の場で、影武者が行う予定だったのですが、土壇場で影武者とすり替わったアラジーンは、その憲法を破り捨ててしまいます。こんな民主化されたら、国は石油会社に牛耳られてしまうと彼は明言します。事実、民主化は資本主義化であり、民主化された国には世界の大資本が群がってきます。今のシリアだって、民主化されることで、国民への福祉がなくなって、もっと貧乏になっちゃう可能性があります。

さらに続けて、独裁政権のどこが悪いと開き直ります。独裁政権なら、国民の1%が富を独占できる、報道も一族独占で好きなように世論を動かすことができる、無理やり理由をでっちあげて戦争を始めることだってできる。これらは、全部、今のアメリカの実情です。今のアメリカが独裁政権なみだと言ってるわけではありません。民主主義ってのは資本主義とこみだから、金持ちが好き勝手するようになり、その結果、金持ちには金が集まり、中流がいなくなり、一握りの金持ちと山ほどの貧乏人という図式ができあがってくるのです。昔で言うところのブルジョアとプロレタリアートという構図なんですが、民主主義が共産主義に勝利した今、社会主義革命とか起こることもなく、金持ち(富裕層)は政治、メディアを押さえて、金になるなら、戦争だって起こす力を持ってしまいました。そんな、民主主義でいいのかという問題提起がこの映画にはあります。

そして、ワディヤの民主化は阻止され、アラジーンが宣言した選挙では(無理やり投票の末)大差でアラジーンがトップの座につきます。そして、アラジーンはゾーイと結婚して、アラジーン政権はまだまだ続くのでした。めでたしめでたし。まあ、結婚式で、ゾーイがユダヤ人だとわかっちゃうオチもあるのですが、ワディヤを民主化したり、アラジーンを名君にしちゃうようなヤワな結末を持ってこないあたりはお見事。

この映画は、R15指定でして、中学生以下は観られません。実際、ここには書けないお下劣ネタ(アラジーンの性の目覚めとか、出産立会いとか)があって、ご家族で楽しむには気まずい映画になっていますので、全ての人にオススメはできないのですが、そこそこのシモネタ耐性のある方には、相当笑えて楽しめる映画に仕上がっています。

「デンジャラス・ラン」はちょっとひねったバディムービーとして見応えあり、面白くてよくできてます


今回は、新作の「デンジャラス・ラン」を川崎チネチッタ5で観て来ました。デジタル上映でしたけど、きっちり横のスピーカーも鳴ってるってことは、5.1chの立体音響になっているようです。うーん、どうもデジタル上映の音ってよくわからない。

南アフリカのケープタウンで、CIAを裏切ってマークされていた伝説の男トビン・フロスト(デンゼル・ワシントン)は、世界の情報部の裏情報のファイルを取引した後、武装した連中に追われ、アメリカ領事館に駆け込みます。姿をくらましていたトビンの突然の行動に驚くCIAは、尋問部隊をケープタウンに派遣します。部隊とトビンは、CIAのセーフ・ハウス(隠れ拠点)に移動し、拷問込みの尋問が始まるのですが、そこにも武装した連中がやってきて尋問部隊は全滅、そのセーフ・ハウスの管理者である若手局員のマット(ライアン・レイノルズ)とトビンだけが生き残り、やむなくマットはトビンを連れて逃走することになります。激しいカーチェイスの末、何とか追っ手をかわすことに成功する二人。マットには、トビンがケープタウンで何をしていたのかもわからず、いつ逆襲されるのかもわからない状況下で、彼に手錠をかけて運転させながら、移動を開始。トビンを追っている武装しら連中は何者なのでしょうか。そして、マットは、トビンを生きたままCIAに引き渡すことができるのでしょうか。

デンゼル・ワシントンが悪役を演じているサスペンスアクションの一編です。新鋭のデヴィッド・グッゲンハイムが書いた脚本を、スウェーデンで実績があって、ハリウッド初進出のダニエル・エスピノーザが監督しました。かつては優秀なエージェントであったのですが、CIAを裏切ってずっとマークされていたトビンが突然ケープタウンに現れ、彼を確保しようとするCIAですが、彼を追っているもう一つの組織がありました。どうやら、彼が取引したファイルを狙っているようです。尋問中に襲撃されたトビンとたまたま一緒に居合わせちゃった若手局員マットがおっかなびっくりながら、彼を連れて逃げ回ることになります。マットは30歳で、ケープタウンのセーフハウスの管理人です。身分を偽ってアナ(ノラ・アルゼデネール)と付き合っていましたが、このポジションには不満で、上司のバーロー(ブレンダン・グリーソン)に異動したいと何度も申し出ていましたが、なかなか思うようには行ってません。セーフ・ハウスの管理人って、めったに仕事も振ってこないいわゆる閑職らしいのです。まだ、修羅場をくぐったこともなさそうなマットが、百戦錬磨の悪党トビンと行動を共にしなければならないという、ひねりの効いたバディ・ムービーになっています。

グッゲンハイムの演出は、テンションを維持したままずっと突っ走り、一方で、トビンとマットのキャラを丁寧に描いて、面白くて見応えのある映画に仕上げています。人の心を操作するのに長けているトビンは、マットに色々と揺さぶりをかけてきます。その一方で、マットはトビンから色々なことを学び取っていくという展開が面白く、トビンを絶対的な悪役にはしていません。中盤では、新しいセーフハウスの情報を得るために、試合中のサッカースタジアムに二人で向かいます。トビンから目を離せないマットは常に彼を連れまわす必要がありました。すると、人でごったがえすスタジアムで、トビンが「俺は誘拐されてる」と手錠のかかった手を振りかざしたので、マットは拘束され、トビンは警備員を殺して逃亡。一方、CIA本部は、内部に内通者がいると気づき、マットにも疑いの目を向け始めていました。トビンに逃げられたマットに、本部からの指令は、領事館へ行けでした。しかし、マットはそれを無視して、トビンの追跡を続行します。トビンに車を運転させたとき、ハンドルの方向を向けたランガ地区に何かあると思い、そこにCIA関係の偽造屋のところに向かいます。実際、マットはその偽造屋のところにいました。しかし、そこに謎の追っ手が現れて、銃撃戦となりますが、そこに間に合ったマットがトビンを救出します。トビンは撃たれて負傷していましたが、そこで初めてマットに問題のファイルを見せます。

最初はトビンに翻弄されていたマットが、だんだんとたくましいキャラになっていくのが面白い展開になっています。それにつれて、二人の間に連帯感が生まれてきます。内通者がいるCIA本部の動きに信用できないものを感じてきたマットが、本部の指令を無視して単独行動を取っていくと、ドラマ的にも盛り上がってきます。その一方で、本筋とは関係ない恋人との絡みも丁寧に描くことで、マットのキャラに奥行きが出ました。そういう寄り道をしてもドラマがだれないあたりは演出のうまさでしょう。アクションの見せ場もふんだんに盛り込みつつ、男二人のドラマとしても見応えありで、満足度の高い映画になっていました。

オリバー・ウッドの撮影が、シネスコ画面で、寄りの絵を多用し、細かいカット割りをしていて、臨場感を盛り上げました。アフリカの部分をざらついた画質にして、異世界感を出しているのも、映画の雰囲気づくりに貢献しています。銃撃戦や体を使ったアクションシーンも迫力がありました。特に後半の痛そうな肉弾戦はなかなかの見せ場になっていました。演技陣では、主演の二人が達者なところを見せて、特にライアン・レイノルズが丁寧な演出のバックアップもあって光っていました。一方で、FBI本部側のサム・シェパード、ブレンダン・グリーソン、ベラ・ファミーガなどが胡散臭さたっぷりで印象的でした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



マットとトビンは、本部の指定したセーフ・ハウスにたどり着きます。そこの若い管理人を銃で脅しながら、マットは本部に到着を報告します。南アフリカでもど田舎にあるセーフ・ハウスの管理人が、都心のセーフ・ハウスの管理人であるマットをうらやましがるのが面白かったです。自分の処遇に何だかんだ文句を言っていたマットより、もっと閑職にある局員もいたというあたりのおかしさがちょっとしたユーモアを運んできます。しかし、一瞬のスキをついて、マットと管理人は格闘になり、最後には管理人を殺してしまいますが、マットも重傷を負ってしまいます。そんなマットを置いてどこかへと去るトビン。マットが気がついたとき、目の前には、上司のバーローがいました。マットも誰が裏切り者かに気づきます。裏情報ファイルの中に彼の名前があることも。そこに現れたのは、ずっとトビンを追い続けていた連中のリーダーでした。と、そこに銃声が聞こえます。トビンが逆にバーローたちを襲撃してきたのです。

銃撃戦の末、追っ手部隊は全滅となります。そして、マットの前にトビンが姿を現します。そこで一瞬の銃声、バーローがトビンを撃ったのです。そして、とどめをさそうとするバーローを今度はマットが射殺します。虫の息のトビンはマットに「お前は俺とは違う」と言って、裏情報のマイクロチップを彼に渡します。FBI本部で、副長官の前で事件を報告するマット。でも、ファイルの件は聞いていないとしらを切りとおします。その直後、各国の情報部の裏工作の証拠ファイルが流出して大騒ぎになります。パリのカフェで友人たちと談笑するアナ、そこに現れるマット。マットがアナに向かって近寄ろうとしたところで、急に暗転、エンドクレジット。

結局、裏切り者はマットの上司だったのですが、その一方で上司はマットを信頼していた部分もあったのも事実でして、また、問題のファイルが公になって困るのは上司だけではなかったはずで、さらにその黒幕がいたかもしれないと思わせるところが、きれいに決着のつかない後味を残しました。一度は負傷したマットの前から消えたトビンですが、そこには、内通者をあぶり出す意図があったようです。そして、マットを救おうとしていたことも見て取れます。最後にお互いの信頼関係を確認できるところで、バディムービーとして完結しています。銃撃戦の後、瀕死のトビンがマットにファイルを託すあたりが、なかなか泣かせるシーンになっていまして、そこでドラマとしての点数が上がりました。

組織の中では誰も信用できない、かと言って一人では何もできずに利用されるだけというジレンマを、これからマットがどうやって乗り切っていくのかが気になるところです。また、組織の中の個人という構図をうまく表現した脚本と演出も見事でした。組織の中の波風は、常に鎮める方向に流れていくというルールをうまく表現していたように思います。そして、波風を鎮めて、組織を安泰させるためには、個人なんてものは消耗品として利用されるだけなのです。これは、スパイといった特殊な世界の話ではなく、日頃の政治経済のニュースでも見かける、ごく自然な日常茶飯事だと気づくと、結構、怖いところを突いた映画なのかもしれません。

「夏の祈り」は原爆ドキュメンタリーだと思ったら、ちょっと違う、そこが気になりました


今回は新作の「夏の祈り」を横浜ニューテアトルで観て来ました。伊勢佐木町に残った数少ない映画館の割にはラインナップがなかなかユニーク。こういうドキュメンタリーを上映するのもすごい。でも、お客さんは年配の方が多くて、オヤジな私が一番若いみたい。シニアをターゲットにした番組づくりは重要なのかも。

長崎にある特別養護老人ホーム「恵の丘長崎原爆ホーム」には、長崎の原爆で被爆した方がたくさん入所していました。あの日から60年以上もたち、直接被爆した方も高齢化し、原爆の記憶も風化しつつあります。それでも、この原爆ホームには、小学生から高校生が各地から原爆を知るためにやってきます。入所者の皆さんは子供たちに、原爆の日の劇を演じて見せます。もう足腰もおぼつかない身で、車椅子から舞台に出て、当時の様子を演じます。「痛いよー」「水が欲しい」実体験者の演じる劇は、子供たちの心を打つようです。そして、劇の後は、お年寄りから、原爆体験を直接聞く場となります。入所者たちは、原爆体験を伝えることが自分たちの責務だと感じているようです。また、子供たちが訪問してくると、劇を演じてみせるのでした。

テレビドキュメンタリーの実績を持つ坂口香津美が演出と撮影をしたドキュメンタリーです。扱っている題材は、長崎の原爆被爆者。今はもう高齢となり、舞台となるのは、特別養護老人ホームです。大体、原爆のドキュメンタリーというのは、被爆者の証言や、当時の写真、フィルムを中心に構成されるのですが、この映画は、そういう素材を極力排して、今の被爆したお年寄りの姿を追っていきます。そして、さらに意外なのが、キリスト教(カソリック)色が濃いということ。原爆ホームはカソリック教会で運営されているのか、シスターがたくさんいますし、聖書を朗読するシーンや讃美歌を歌うシーンが登場します。クリスマスのミサですとか、被爆者とどういう関係があるのかと思うのですが、どうやらクリスチャンと被爆者を同じレベルで扱っているようなのです。見様によっては、被爆者をネタにしたカソリックの啓蒙映画に見えてくるところがあります。そこんところがどうも引っかかってしまいましたが、その話は後述。

長崎に原爆が落ちてから、60余年も経つわけですから、実体験を持っている方も少なくなっていますし、直接語り継ぐことも難しくなってきています。オープニングで描かれるホームの日常は、普通の老人ホームの姿です。いずれ、自分もこうなるのかなあって思うと色々と考えさせられるのですが、そんな時間が止まっているかのような日常に、イベントが発生します。修学旅行の中学生が、ホームにやってくるのです。そして、その中学生のために原爆の日の劇を演じるのです。普段はみんな車椅子暮らしをしているのですが、この時はがんばって舞台に立ちます。足元も危ないお年寄りの劇ではありますが、そこには当事者ならではの迫力と祈りがあります。中学生たちの中には涙ぐんでいる子もいます。彼らには、このお年寄りの劇はどう映ったことでしょうか。悲惨な原爆に対する怒りを感じるか、お年寄りたちの悲しみと祈りを共有するか、あるいは、とんでもないものを見せられたと拒否反応を起こす子供もいるかもしれません。ぐだぐだと書き連ねたのは、そこのところに映画は一切触れないので、想像するしかありません。子供たちが原爆の劇を見てどう思ったのか、気になるところなのですが、映画はそこに触れてくれません。何というか、この映画は、全体的に視点が曖昧なように見えます。そこにあるものをそのまま見せようという意図があるのかというと、映像はかなり取捨選択されているふしがあります。一方で、寺島しのぶによるナレーションや、ピアノとフルートによる音楽が、映像をバックアップしているのですが、これが意外と饒舌に思えたのは、映像から伝わる情感が少ないからかもしれません。

その中で、明確なメッセージを感じたのは、背中一面をやけどした老人のエピソードでした。肺が骨まで腐っていて十分に声も出せない老人の被爆当時のフィルムが残っていて、強烈な印象を残します。そんな彼が爆心地公園で、服を脱ぎ、やけどの体をさらします。自分の姿を目をそらさずに見て欲しいという意思表示でした。ここには、原爆に対する怒りが明確に出てきます。被爆者の方の感情が露になるのは、この部分だけで、他のシーン、特に原爆ホームのシーンでは、原爆に対する思いが語られることはありません。悲しみすらも、どこかへ飛んでしまったようなお年寄りの姿に、不思議な思いがしました。当時のことを語るシーンも登場するのですが、すごく淡々としています。原爆の惨状に感情が殺されてしまったのかとも思えたのですが、監督が、あえてそういう感情が発露される映像を取り上げなかったのかなという気もしました。原爆やそれを投下したアメリカ、或いは戦争の道を突き進んでしまった日本に対する怨嗟の気持ちはどこにも出てきません。このお年寄りたちにとって、原爆って何だったんだという部分が、すとんと欠落しているのです。そして、被爆者の日々の暮らしにキリスト教が密着していることが描かれてきますと、ちょっと待てよという気がしてきました。

原爆ホームのスタッフにはシスターもいますし、他のスタッフもクリスチャンのようです。朝の礼拝があり、折あれば賛美歌が歌われる環境です。クリスマスには子供たちがキリスト生誕の劇を演じます。キリスト教は、被爆者であるお年寄りを精神的な面で支えているようにも思えます。確かにどんな宗教であれ、逆境にある人の心の支えになるだろうということは想像がつきますし、この映画では、カソリック教会が、原爆ホームのお年寄りを支援していることが見て取れます。でも、映画の半分近くを、教会絡みのイベントに使っているという構成は何なんだろうという気がしてしまったのです。それらのイベントに必ずしも、原爆ホームのお年寄りが関わっているわけではないので、これカソリック教会のプロパガンダ映画ではないかい?って気がしてしまったのです。聖母マリアに祈るお年寄りの姿は理解できるのですが、賛美歌の練習をする高校生や、教会で行われるクリスマスイブのミサは、直接には、原爆ホームのお年寄りには関係ないだろうにと思ってしまったのです。ラストカットも賛美歌を歌う女子高生の絵になっているのです。今まで、原爆に関わるドキュメンタリーは何本か観て来ましたが、こんなに宗教色の濃いのは初めてです。

実際にカソリックが、お年寄りにとって心の支えになっているという部分がきちんと描かれていれば、納得もできるのですが、そこのところがすごく曖昧。賛美歌を歌う姿が単なるボケ防止リハビリにしか見えないのです。カソリックが生活の隅々までに根を張っているのが、長崎という町なのだということであれば、その事実にケチつけるつもりはないのですが、原爆ドキュメンタリーにそのネタをかぶせてくることはないじゃないかと言いたくなっちゃうのですよ。この間、テレビで観た「原爆の子」でも、教会で死を待つばかりの少女が登場し、イエスキリストが彼女の心の支えになっているという印象的なシーンがありました。一方、この映画では、ホームのお年寄りとキリストとのつながりをきちんと描いていないので、被爆者とキリスト教が、独立したネタとして並行して描かれ、かつ、どっちも中途半端になってしまったように見えました。単に今そこにあるものを描いている割には、カソリック教会への入れ込み度は偏っていると思いますし、一方で、被爆した老人への突っ込みは甘いので、全体のバランスがかなり変。クリスチャンの方がご覧になれば、納得できる内容なのかもしれませんが、無宗教な私には、「何だかなあ」って気がしてしまいました。まさか、原爆を神の試練とは考えていないでしょうが、せめて、カソリック教会は原爆をどういうものとして捉えているのかを示してくれるだけで、ずいぶんと印象が変わったと思います。

「もう戦争はいやだ」「平和を守ってほしい」といった言葉が、映画の中でちょっとだけ登場します。でも、あまり原爆へ対する想いは伝わってきませんでした。これは、ホームのお年寄りが高齢すぎるからではないのかという気がしてしまいました。この映画が、20年早く作られていていれば、もう少し原爆の証言が聞けたように思うのですが、今では、劇によって原爆を若い人に伝えることしかできません。限られた時間、限られた命で、原爆の真の姿を後世に残していくのには限界があります。だからこそ、こういうドキュメンタリーを作ることはすごく意義のあることです。しかし、この映画では、原爆の悲劇を伝えるには、言葉が足りず、クリスチャンがどのように被爆者を支えてきたのかも描かれません。老人たちの原爆の再現劇の映像はものすごく力があります。そこだけは、この映画の価値を感じました。でも、それ以外は、特に心に訴えてくるものはありませんでした。強いて言えば、自分が将来お世話になるかもしれない、特別養護老人ホームの様子を知ることができたくらいでしょうか。後は、カソリック教会の宣伝みたいで、どこか引いてしまっている自分がいました。

原爆の悲劇と、キリスト教の神を結びつけるのには、無理があったのではないかしら。原爆で何十年も苦しめることが神の意思だとは思いませんし、思いたくもありません。そんな、理不尽な現実に対して、神を信じることで心の平安を得られるのであれば、それは意義あることでしょう。そこを何となく流されてしまうので、神がどこにいて、何を考えているのか、クリスチャンでない人間には伝わってきません。監督は、そこを描くつもりでこの映画を作ったのではないのかもしれませんが、じゃあ、被爆者とカソリック教会を結びつけるものは何なのって質問したくなります。ぶっちゃけ、期待した映画とは違うものを見せられた気分になりました。

「最強のふたり」は笑えて楽しく最後にホロリ、キャラの描き込みも丁寧でオススメ


今回は新作の「最強のふたり」をTOHOシネマズシャンテ1で観て来ました。シャンテは日劇よりもしぶとくフィルム上映をしてきた映画館ですが、ついにデジタル上映になっちゃいました。家のでかいテレビとの差が気分的に縮まっちゃうので、やっぱりフィルム上映がいいなあ。

首から下が事故のせいで動かなくなった大富豪のフィリップ(フランソワ・クリュセ)は、新しい介護人を募集していました。介護経験のある皆さんが多数応募してきた中、スラムに住む黒人青年ドリス(オマール・シー)は生活保護をもらうための求職のサインをもらうためだけにやってきたのですが、なぜか、そんなドリスをフィリップは気に入ってしまい、ドリスは試用期間ということで、フィリップの家で働くようになります。ドリスは、たくさんの兄弟をがんばって育てている母親にとっては不肖の息子、母親に家を追い出された彼にとって、この仕事は好都合でした。でも、介護なんてやったことのないドリスですから、失敗の繰り返し。それでも、冗談を飛ばしてめげずにこなしていくドリスに、フィリップも思わず笑ってしまい、二人はいいコンビになっていくのでした。お屋敷に勤めるイヴォンヌやマガリーもドリスの明るさに感化されていきます。元気に日々を送るようになるフィリップには、ペンフレンドがいました。どんな相手なのかも知らないフィリップは、彼女に向けて詩を送っていました。顔も見たことない相手にそこまで入れ込むフィリップが理解できないドリスは、相手の女性エレノアに直接電話をかけて強引に会話させちゃいます。そして、初めてのデートということになるのですが、結局彼女は待ち合わせの場所に現れませんでした。
   → ここで、そうじゃなくって、フィリップの方が逃げちゃったんだよというコメントを複数
     いただきました。どうやら、私の記憶違いのようです。ども失礼しました。
傷心のフィリップはドリスを誘ってパラグライダーで大空を飛び回るのでした。しかし、そんな二人の関係にも終わりが近づいていたのでした。

実話に基づいたお話をエリック・トレダノとオリヴィエ・ナカシュが共同で脚本を書き、共同でメガホンを取りました。大富豪と介護人の関係を描いた感動のお話ではあるのですが、全体をコミカルなタッチでまとめているので、お涙頂戴にならずに、ラストに暖かい感動をもたらすのに成功しています。フィリップが自分の障害について泣き言を言わない強いキャラに設定されていること、ドリスがジョークを飛ばしながら介護のつらさを表に出さないこと。ハンディキャップを簡単にスルーしちゃっているのは、映画としてのリアリティを欠くのですが、そこを突っ込み入れさせずにテンポよく運んでいく演出は快調です。これまで、続いた介護人がいなかったということで、どうやらフィリップは気難しいタイプらしいのですが、ドリスが自分を対等に扱うからというところが気に入ってしまいます。すっかりドリスのペースにはまってしまうフィリップが結構楽しそうにしているのがいい絵になっています。

また、ドリスがフィリップの秘書である若いマガリーを口説いたり、同じく看護をしている中年女性とのやりとりが楽しいエピソードになっています。また、ドリスが描きなぐった絵を抽象画だといって、フィリップが1万ユーロで売っちゃうエピソードですとか、フィリップの養子の娘のしつけがなってないと文句つけたり、その娘がチャラ男に振られちゃうと今度はそのチャラ男を脅したりと、ちょっとだけやりすぎだけど、おかしいエピソードをたくさん散りばめているので、コメディ色の強い映画になっているのが、意外な面白さになっています。

フィリップの状況は結構ヘビーな筈なのに、そこを前面に出さないセンスは買いでした。一方、彼がペンフレンドと文通しているエピソードの方に重心を置いています。過去に病気で妻を亡くしているフィリップですが、文通相手の女性には、言葉を尽くした手紙を送っています。でも、自分の状況を考えると先に進むことができません。そんなフィリップをドリスが後押しします。強引に相手に電話しちゃうあたりは微笑ましいところもありますが、お互いに写真の交換となったとき、ドリスが選んだ車椅子のフィリップの写真を、フィリップがこっそりと元気だった頃の写真と入れ換えるあたりに、ホロリとさせられるものがあります。ドリスはドリスで、弟が悪い連中とつるんでいるという悩みがありました。そんな弟に説教し、弟と一緒に仕事帰りの母親を、駅に迎えに行くシーンもじんわりとくる感動がありました。普通の人としての葛藤があると、登場人物に感情移入できるというツボもきっちりと押さえていて、映画の作りとして、うまさを感じさせてくれます。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



弟が会いにきたことを契機に、ドリスはフィリップの介護人をやめることになります。ドリスは新しい仕事につくことができ、フィリップには新しい介護人を雇うことになるのですが、やっぱりドリスのようにはいきません。介護経験者を面談して選んでいるのに、やっぱりドリスとのようないい関係にならない。不機嫌になり、孤独を感じるようになるフィリップは、ある夜、ドリスを呼び出します。夜の街に車を走らせるドリスとフィリップ。スピード違反で警察につかまりそうになったら、フィリップが重病人のふりをして、逆に病院まで先導してもらったりして、海辺の別荘にたどりつきます。そして、予約した店にランチに行った時、ドリスは自分はその相手じゃないと席を立ってしまいます。そして、そこへ、あのペンフレンドのエレノアがやってきます。窓の外から、二人の様子を見てうれしそうに去っていくドリス。ラストは本物の二人が登場してエンドクレジット。

フィリップとドリスの絆のようなものを演出は丁寧に拾っていきます。そして、そこには常に笑いが伴うのです。そして、その中には障害者への接し方のヒントも隠されているように思いました。他の介護人は、自分が障害者を介護していることを意識しすぎて、上から目線になったり、相手の気持ちを思いやる余裕をなくしちゃう。ドリスは、そういう気負いがなくて、フィリップだけを見ているわけではありません。秘書に色目を使うし、フィリップの娘の態度に腹を立てたり、介護だけに専念していないし、フィリップを単なる介護の対象として見ていません。フィリップの障害もジョークの対象にしちゃうあたりは、やりすぎ感もあるのですが、そこをフィリップは気に入っちゃいますし、一方で、他の介護人は気に入らないところは結構好き嫌いが激しいみたい。ですから、この関係は、あくまでフィリップとドリスの間でしか成り立たないという点は意識しといた方がいいです。ドリスのような介護人がいい介護人だというわけではなく、たまたま二人の相性がよかったのです。だからこそ、かけがえのない二人になり、最強の二人になれたのです。映画は実話ですけど、奇跡の物語でもあります。それは、人の出会いの奇跡であり、だからこそ、映画になったのだと思った方がよさそうです。

また、この映画では、音楽が効果的に使われています。ドリスの趣味は、「クール&ギャング」とか「アース・ウィンド・アンド・ファイヤー」などのポップなちょいと懐かし系。一方のフィリップの趣味は、ビバルディとかシェーンベルクなどのクラシック系。フィリップの誕生日のパーティで、小編成オーケストラがやってきていて、フィリップの好きな音楽を演奏すると、ドリスが「あ、これCMで聞いた」「職安の電話の待ちメロだ」「トムとジェリーだな」といちいち茶々を入れるのがおかしかったです。そして、今度はドリスが「アース・ウィンド・アンド・ファイヤー」の「セプテンバー」をかけると、それに合わせて居合わせた面々が踊りだすという展開で、すごくいいエピソードになっていました。劇伴音楽としては、ルドヴィコ・エイナウディのピアノソロ曲が、コミカルに走りがちなドラマをうまく押さえていました。音楽の扱いも含めて、全体に大変バランスのよい映画に仕上がっていまして、ラストのフィリップとペンフレンドの様子を見て去っていくドリスの姿にはじわっと泣かされてしまいました。感動を押し付ける映画ではないのですが、ある意味、運命の恋愛ドラマと同じような、人と人との絆を描いた映画として、オススメしちゃいます。
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Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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