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「ドリーム・ハウス」のサントラは今年最高の映画音楽で大満足


「ドリーム・ハウス」の音楽を担当したのは、「レリック」「ヴァレンタイン・デー」「アブナイ関係」などホラーからラブコメまで手がけて、ライトな音からシリアスな重厚路線まで器用にこなす職人ジョン・デブニーです。サスペンススリラーである本作では、オーケストラを使ってストリングスの厚い音を聴かせてくれています。ケヴィン・カスカが編曲し、ロバート・ジーグラーが指揮をしています。ロンドンで録音されているのですが、やはりハリウッドだと高くつくのかしら。

オープニングは女性コーラスがホラー風の味わいで始まり、そこへ木管によるテーマがかぶさってきます。シンプルなメロディながら、このテーマが全編に渡って、ある時はやさしく、またある時はドラマチックに展開されていまして、最近の映画には珍しい、一つのモティーフを一本通した音作りになっています。、ストリングスの美しい和音に、木管がやさしいメロディを奏でるもので、ドラマをきちんと語る音楽になっているのですよ。こういうきちんとした映画音楽が最近はなかなか聴かれないので、新鮮に感じられるのですが、かつてはこれが映画音楽の王道だったんだってのを、再認識させる音になっています。映画を観ているときは、画面と一体化した音楽として聞こえるのですが、サントラアルバムとして音楽だけ聴いてみると、映画の起伏以上にメリハリのある音が鳴っていることに驚かされます。

これが、物語の展開とともに、不安なサスペンスを奏でる音の変わっていきます。ストリングスの高音部と、低音のブラスとパーカッションがミステリアスな雰囲気を盛り上げています。ホラー映画風の衝撃音も入れていますが、そんなホラーサウンドの中にもきちんとメインテーマが鳴らされています。

さらに不安な予感が本当の恐怖に変わってくると、活劇調となってオーケストラを縦横に使った音になっていきます。クライマックスはダイナミックなオーケストラ音楽をガンガンに鳴らしてきて、ラストまで音楽はドラマチックに盛り上げます。音楽がドラマと一体となって、のびのびと鳴っているのが素晴らしく、音楽だけ聴いても十分聴き応えのあるものになっています。ただ、このアルバムは、トータルで57分もあるのですが、中盤の曲がサスペンスを描写する無調音楽が結構入っていて、これが結構たいくつなのですよ。せっかくのテーマを生かした楽曲がいっぱいあるのですから、ただストリングスの高音を鳴らしているだけの曲はカットして40分くらいにまとめてくれた方がより楽しめるアルバムに仕上がったと思います。これも音楽がいいだけに出ちゃう苦情なわけなんですけど。

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「ドリーム・ハウス」はスリラーとしても人間ドラマとしてもよくできてる、細やかな演出がマル


今回は新作の「ドリーム・ハウス」をTOHOシネマズ川崎6で観てきました。この時期は、正月映画の前の調整時期なのか、意外なヒロイモノがひっそりと公開されてきました。シネコンがメインになってから、そういう映画も少なくなってしまいましたが、この映画は、晩秋にふさわしい佳作でした。

ウィル(ダニエル・クレイグ)は、愛する妻リビー(レイチェル・ワイズ)とかわいい二人の娘トリッシュとディディの4人暮らしで、最近田舎へ引っ越したばかりです。長年勤めた出版社を退職し、執筆活動に専念することになり、ウィルが家にいるようになった家族は大喜びです。向かいの家に住むアン(ナオミ・ワッツ)は、元ダンナのジャック(マートン・ソーカス)と今も関係がよくない様子。ある日、夜中に家の地下室で物音がするので、ウィルが行ってみれば、若者が入り込んで怪しげなことをしていました。彼らが言うには、そこでかつて残虐な殺人事件があったというのです。そして、さらに家の周囲に不審な足跡を発見します。過去に起きた事件を調べ始めるウィル。彼の家ではかつて、母と子供二人が惨殺され、その犯人である父親は施設に入院していたというのです。その犯人ピーター・ウォードが最近、共同施設に移されたというニュースを読んで、そこを訪ねてみるのですが、ピーターはそこを出所して、現在の所在が不明なことを知ります。そして、ピーターが事件直後に収容されていたという精神病院を訪ねたウィルは意外な事実に直面することになります。

「マイ・レフトフット」「父の祈りを」などのジム・シェリダン監督の最新作です。彼にしては珍しいスリラーでして、ダニエル・クレイグ、レイチェル・ワイズ、ナオミ・ワッツという渋い豪華メンバーで、郊外の一軒家に引っ越してきた家族の遭遇した事件をミステリータッチで描いています。冒頭で、出版社を退社するシーンで出版社の人間を妙に意味ありげに撮っているあたり、シェリダンの演出はミステリー映画でもいい腕を見せています。デヴィッド・ルーカの脚本は、3段階のヒネリを入れて先の読めない展開になっており、ラストは家族愛でホロリとまとめているので、映画としての満足度はかなり高い仕上がりになっています。主人公のフォーカスした展開で、92分という時間にタイトにまとめたあたりも点数高く、役者も魅力的に撮られています。この映画が縁で、クレイグとワイズが結婚したのだそうですが、二人の夫婦愛の映画になっている部分もよく描けていました。

ホラー度はほとんどなく、新しい家の過去の殺人事件、そして不審な人物の影という2つの謎をメインにストーリーは展開していきます。ウィル一家は、この事件で不安な空気がよぎるのですが、それでも一家の絆は堅固でした。ただ、向かいの家のアンはどことなく不自然な様子がうかがえます。そして、アンが訪ねてきたときに、出てきて挨拶をしようともしないリビーもちょっと変。アンとリビーの間には何かあったのでしょうか。このような細かい伏線がきちんとラストで腑に落ちるようになっているあたりは見事でした。冒頭、出版社を退社して家に帰る電車で、イライアス・コーテスがなぜか意味ありげに登場すると、これが後半でちゃんと意味を持ってくる。そういう伏線をきちんと観客の印象に残るように見せるシェリダン監督の芸の細かさに感心。

ケイレブ・デシャネルの撮影は、陰影が深い画面ながら、夜間シーンでもきっちりと光を配して、見事な絵作りをしています。ジョン・デブニーの音楽は最近の映画に珍しく明確なテーマを持ったオーケストラ音楽でドラマを盛り上げました。メインの家族愛を描写した美しい音楽と、サスペンス部分をダイナミックな音をつけた部分でメリハリをつけています。SF,スリラー、ラブコメと何でも手がけるベテラン職人のデブニーですが、ここではオーソドックスがドラマ音楽をのびのびと展開させています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ウィルは、家の周囲をうろついている不審者に直接遭遇します。それを、殺人事件の犯人であるピーター・ウォードであると思い、彼の消息を捜します。警察もあてにならない状況で、ウィルはウォードが収容された精神病院へ行くのですが、そこの医師は、ウィルを待っていたかのような口ぶりで、ウォードの記録映像を見せます。病棟で暴れるウォードの横に映ったのは、何と向かいのアンの姿でした。そして、アップになったウォードの顔は、ウィルだったのです。ウィルは、妻子を殺した後、病院送りとなり、そこで5年過ごした後に退院したのです。新居で妻子と暮らしてきたことは全てピーター・ウォードの幻覚だったのです。呆然とするウィルを見つけた患者たちが声をかけますが、彼らは冒頭、退職するウィルを見送った出版社の社員でした。家に帰ってみれば、新しい筈の家はボロボロ。子供殺しという落書きもあります。そして、家に入ると、そこにまた、リビーと子供たちが現れます。愛情と後悔が交錯するウィルですが、娘に本名を尋ねるとそれは殺人事件の記事にあった被害者の名前でした。そして、熱を出す子供たち、抱き上げてみれば、その体には銃で撃たれた後があり、二人は息を引き取ります。呆然とするウィル、そこへ心配したアンが訪ねてきます。もうこの家にいてはいけないと言う彼女。ところが、そんな二人の前に現れたのが、アンの元ダンナのジャックと、ウィルの家の周りをうろついていた男。ジャックは、アンを殺させるために男を送り込んだのですが、男が家を間違えて、ウィルの家に押し入ったのです。子供二人が殺されるのですが、家の近くまで来ていたウィルが飛び込んできてもみ合いとなります。落ちていた銃を拾ったリビーは男に銃を向けるのですが、誤ってウィルを撃ってしまったのです。ウィル=ピーター・ウォードは殺人事件の犯人ではなかったのです。アンが現れてからも、ウィルの幻覚であるはずのリビーは画面に登場し続けます。アンとジャックには当然リビーの姿は見えません。

ジャックは、実行犯の男を射殺し、ウィルにクロロホルムを嗅がせ、アンを縛り上げ、そこに火を放って二人を殺そうとします。リビーは、ウィルの目を覚まさせようと必死で呼びかけます。そして、目を覚ましたウィルとジャックは格闘になり、何とかジャックを倒し、アンを燃え盛る家の外に連れ出すことに成功します。でも、中にはリビーがいると引き返すウィル。そこには、微笑むリビーと二人の娘がいました。彼らに別れを告げて、家を去るウィル。街中を歩くウィルが足を止めた書店の棚には、ベストセラーとなった彼の本「ドリーム・ハウス」が並べられているのでした。おしまい。

ウィルがピーター・ウォードとわかってからも、物語が終わらず、その先の展開もなかなかに読めないもので、楽しめました。自分が誰なのかわかってからも、ウィルの前には妻と子供たちが現れ心配そうにしています。そんな彼らとどうやって決別するのかという葛藤から、真犯人が現れ、事件の全容が判明するあたりがなかなかにドラマチックに盛り上がります。特に、クライマックスで幻覚である筈のリビーが現実になる一瞬があり、その超自然的展開が圧巻でした。ラストの処理も単なる幻覚からの覚醒ではなく、愛のドラマとして盛り上げるあたりも見応えがありました。

クライマックス前に、家に帰ったウィルが家から追い出されてしまい、途方にくれて、アンの家に身を寄せるシーンがあり、そこで、アンがウィルと知り合いであったことなどが語られます。全てのシーンの意味が過不足なくドラマの中で説明されていくあたりは脚本のうまさでしょうし、その説明をドラマの中によどみなく描き込んだ演出も見事でした。

「これは映画ではない」は完全に映画、作りこまれたフェイクドキュメンタリー


今回は東京での公開は終わっている「これは映画ではない」を横浜ニューテアトルで観てきました。休日の昼間、お客は私を含めてたった3人でしたけど、こういう映画を上映してくれる心意気は、頑張って欲しいと思う映画館です。

イランの映画監督ジャファール・パナヒは、反体制的な映画を作ったということで、告発されて、禁錮6年、映画製作禁止20年の判決を受け、今は控訴中で第二審の判決を待つ身です。高級マンションらしい自宅に軟禁状態の彼は、友人でドキュメンタリー映画の監督モジタバ・ミルタマスブを家に呼び、自分を撮影してくれるように頼みます。パナヒには、製作途中で当局に中止された映画のシナリオを持っていました。チェーホフを原作にした、家に閉じ込められている少女を描いた物語を脚本を読み、家の中で再現しようとします。家の中にテープをひいて、娘の部屋とか家の玄関を作ってみるのですが、単に脚本を読むことで、何が表現できるのだろうと落ち込んじゃいます。俳優本人の心の底から湧き出す感情ですとか、舞台となる場所が、映画にパワーを与えてきた彼の映画からすれば、単なる脚本だけで魂をゆさぶる表現はできないようです。その日のテヘランは火祭りの日で、町は人出がすごくて、あちこちで花火の音が聞こえてきます。それでも、彼は家から出ることはできません。ミルタマスブが家に帰るとき、そこへ管理人の代理という青年がゴミを取りにやってきます。彼はパナヒの境遇を知っていました。青年のゴミ集めをカメラを持って追うパナヒ。そして、ゴミ容器を持って外へ出て行こうとするのをついていこうとします。既にパナヒは映像作家になっちゃってるんですが、大丈夫なの?

イラン映画というとアッバス・キアロスタミ、マジッド・マジディ、アスガー・ファルハディ、モフセン・マフマルバフの作品くらいしか観たことがないのですが、この映画の主人公ジャファール・パナヒ監督はこの映画で初めて知りました。ともあれ、映画を作ったせいで、政府ににらまれてしまい、告発されて、刑務所に入ることになりそうな状況です。第一審の禁錮6年、映画製作禁止20年の判決は、第二審では若干減刑されるだろう、映画製作禁止は減刑されるだろうけど、禁錮がなくなるとは思えないというのが弁護士の見解です。そんな状況にあるパナヒのある1日を描いたドキュメンタリーという作りになっています。少なくともパナヒは映画作っちゃいけないのですから、パナヒは映画の題材であり出演者にすぎないのです。

冒頭で、カメラの前で友人に電話をかけるパナヒの姿から映画は始まり、その後「これは映画ではない」というタイトルが出ます。でも、そのカメラをセットしたのはどうやらパナヒのようです。パナヒは映画を作っちゃダメな環境で、制約の隙をついて、映画にかかわることをやろうとしているようです。それは、体制へのプロテストのようでもあり、軟禁状態のヒマつぶしのようにも見えます。そして、こんなことして何になるんだろうとグチりだすパナヒ。このあたりから、気になってくるのは、この映画は誰が作っているのだろうということ。パナヒはこの映画の中では主演俳優のポジションとなります。彼を撮影する友人ミルタマスブはカメラでパナヒを追いますから、彼が作った映像、すなわち彼が作った映画ということができましょう。でも、気になるのは、きちんとカット割された映像、そして何も起こっていないところから、事件が発生するときのキャメラの動き、これらに明確な演出を感じることができます。映画全体が、フェイクドキュメンタリーかもしれないってことです。そもそも、ドキュメンタリーの線引きってのは難しいですから、その位はフェイクじゃないって言われちゃうのかもしれませんが、でも映画作っちゃいけない監督のドキュメンタリーとしたら、相当な演出が入っていると言えましょう。

手際よく監督の現在の状況を説明するくだりから、軟禁状態の監督が、監禁状態の女の子のドラマを自分の家で再現するという展開は、あきらかに狙ってやっているのが見え見えです。そこから、今度は、ゴミを集めて回る青年について回って(監督はエレベーターの中にいるだけですが)、最後に家の外に出ようとするところで映画は終わるのですが、その語り口のスムースさは、単なるドキュメンタリーとは思えません。ラストでは、自分を縛り付ける体制側に一矢報いたようにも見えるのですが、そういう流れを作る構成はなかなかにお見事。偶然撮れた素材をうまく編集しているようにも見えるのですが、なかなかに饒舌な監督の役者ぶりに、「うーん、これきちんと演出してるよね」という印象が強かったです。フェイクドキュメンタリーかどうかにこだわってしまうのは、やはり、タイトルの「これは映画ではない」ってのが気になっちゃうからです。ドキュメンタリーだって映画ですから、これが映画であることは間違いないのですが、では、パナヒ監督は、この映画の製作にどこまで関わっているのだろうってところは気にかかっちゃいます。何しろ、映画製作を禁止されている状態ですからね。ミルタマスブ監督が撮っているドキュメンタリーということはできるかもしれません。彼が、演出じゃないところから自然な演技が出てくると、自分の映画で説明するくだりが出てくるのですが、これも、画面上の自分が演技なのかどうかを観客に試しているかのように見えます。

パナヒ監督が、なぜ映画製作を禁じられてしまったのかは映画の中では語られません。何が反体制だったのかというのは、問題ではないようで、どんな映画を作ったにせよ、その作った映画によって逮捕されたり、刑務所送られたり、映画活動を禁じられることはあってはならないというのが、重要らしいです。イランでは、映画撮影には、政府の許可が必要らしく、その許可をもらうために色々と妥協しなければならないのだそうです。それでも、パナヒ監督のように身柄を拘束されちゃう人も出てくる。このおっさんは、いったい何をやって当局ににらまれてしまったのかは気になるところです。日本では、今のところは、こういうテレビや映画に対する検閲といったものは、基本的には存在しません。イランでは、ネットにも色々と規制がかかっているようで、この映画でも、見たいところが見られないとパナヒ監督が嘆くシーンがあります。なぜ、そこまで情報を規制しようとするのでしょうか。今の政治体制を批判することを許さないというのは、その体制が批判に弱いことの裏返しのように思えます。アメリカのように、メディアが強力な力を持って民意を操作している社会では、わざわざ政府が上から押さえる必要はなくって、メディアとぐるになって情報操作が可能です。そこまで、メディアが力を持たないイランでは、直接政府が手を下さないと国民を思うように動かせないという事情が垣間見えてきます。日本も、アメリカに近い国ということになるのでしょうし、中国はイランに近い国になるのでしょう。北朝鮮やエジプトのような独裁国家になってしまえば、映画活動を禁じるなんて生易しい処置では済まなくなるでしょうから、このイランの状態は民主化へ傾きつつある国の過渡期のようにも思えます。それが、民主化に進むのか、元の専制国家へ戻るのかはまだわからない状態です。でも、パナヒ監督のような映像表現の自由を侵害された人からすると、その怒りの矛先というかベクトルは明確です。日本やアメリカのように、メディアやメディアに操作された市民によって、行動に制約を受けてしまう先進国よりは、ある意味、自由なのかもしれません。この映画が、イランで作られ、日本やアメリカで作られないのは、日本やアメリカの言論弾圧が巧妙になっているのからかもしれません。

パナヒ監督を支援する映画人は、イランだけでなく国外にいます。そして、彼らは当局に対しての嘆願書も出しています。国外渡航も禁じられているので、外国で映画を作ることも、外国の映画祭に出席することもできません。そんな状況下で作られたこの映画には、パナヒ監督の言いたいことが一杯詰まっているように思います。

藤沢オデオンの記憶

過去の記事を読み返していたら、書いたつもりでいた藤沢オデオンについての記事がありませんでした。忘れちゃう前に備忘録として書きます。(写真は、今はなき、映画館のHPの写真を使っちゃいました。)

藤沢オデオン4館が閉館してもう5年がたちます。私が横浜に住むようになってから、関内にあった横浜東宝会館で映画をみることが多かったのですが、そこも2001年に閉館し、あまりシネコンに魅力を感じていなかった自分が、普通の映画館で、割と近くて、感じがよくて、そう混雑しないところを探したら、ヒットしたのがこの藤沢のオデオン4館でした。戸塚の近所に住んでいたもので、バスで湘南台駅まで行き、そこから小田急で藤沢駅まで行くというルートでよく通ったものです。どの映画館もきれいで観やすく、スタッフの対応も丁寧で、2007年4月に突然閉館しちゃったときは、藤沢の文化の灯が消えたような気分になりました。経営が大変だったそうですが、老朽化したわけでも、設備的にシネコンに劣っていたわけでもないだけに、本当に残念。どの劇場にもドルビーデジタル音響が入っていました。また、番組もメジャーな作品だけでなく、ミニシアター系映画も積極的に上映していまして、この4館に通っていれば、一通りの洋画が観られるという、町の映画館としては最高でした。

藤沢でオデオン関係の映画館は4つありました。まず、「藤沢オデオン座」そして「藤沢キネマ88」「藤沢オデオン1番館」「藤沢オデオン2番館」と続きます。藤沢駅の北口を降りて、左の方へ向かうと見えてくるのが、完全に映画館として独立して建っている「藤沢オリオン座」が見えてきます。そのたたずまいからはわかりにくいのですが、その2階が「藤沢キネマ88」になっています。逆に藤沢駅の南口に降りて右の方の路地へ入っていくと、藤沢オデオンビルが見えてきます。そのビルの一階の入り口にチケット売り場が2箇所あり、チケット売り場の左には2基のエレベーターがあり、これを上ると3階が「藤沢オデオン1番館」、5階が「藤沢オデオン2番館」になります。


「藤沢オデオン座」


外観のいかにも映画館という感じや、ピアノのあるロビーのたたずまいがなかなかに素敵な映画館でした。映画館の中は座席がスクリーンをやや囲むように配置されており、一部の座席がボディソニックになっていました。ボディソニックというのは、低音の刺激が座席に響くようになっている仕掛けでして、爆発音とかが体感できるものです。とはいえ、センサラウンドみたいに体にビリビリくるものではないので、ボディソニックという仰々しい名前ほどの効果はありませんでした。オデオンの映画館はどの映画館も座席数は多くはないのですが、作りが大劇場をそのままコンパクトにしたような作りなので、映画館で映画を観ているという気分を満喫できました。オデオン座も260席というキャパシティながら、ゆったりと映画を観るのにふさわしい空間になっていました。最後に観た映画は、ケビン・コスナー主演の「守護神」でした。最後まで、スクリーン前の幕の開閉をやっていた映画館です。


「藤沢キネマ88」


藤沢オデオン座の上の階にある映画館です。そこそこのロビーがあって、全席にリクライニングがついています。スクリーンがやや高めで、他のオデオンの3映画館に比べると、ミニシアター的なつくりになっていまして、大劇場感はありませんが、番組のせいか、ここで観ることが多かったです。大体、最後尾の列がスクリーンと同じ高さになるので、最後尾の真ん中が定席でした。157席というキャパでも、こじんまりというか狭さを感じさせないあたりがいい感じの映画館でした。最後に観た映画はメリル・ストリープ主演の「プラダを着た悪魔」でした。


「藤沢オデオン1番館」


エレベータを降りると狭いロビーがあるのですが、劇場に入るとそのゆったりとした作りに驚かされます。スクリーン前には立派な緞帳がありますし、天井もミニシアターと違ってきちんと高い。ゆるいスロープの先には、挨拶ができる舞台もあって、そこに見上げるような形でスクリーンがあります。176席という少なめのキャパに、昔ながらの映画館をそのまま小さくしたような作りが素晴らしく、こういう環境で映画を観たいと思わせる映画館でした。シネコンの殺風景さとは一線を画す映画館の逸品でして、オデオン4館の中でも一番好きだったのがここです。最後に観たのは、「筆子その愛 天使のピアノ」でした。こういう映画も上映してたんだよなあ、ここは。「山の郵便配達」を観たのもここでした。


「藤沢オデオン2番館」


作り的には、オデオン1番館と同じく、天井が高く、スクリーンを見上げる感じになる、昔ながらの映画館になっていまして、264席というキャパの分、1番館よりもスクリーンが大きくなっています。映画館としての雰囲気が1番館よりスッキリしている分、私としては、ちょっと物足りなく思ってしまったのですが、映画鑑賞のしやすさでは、他の3館にひけはとりません。オデオン4館の中で一番大劇場感があったのがここでした。最後に観たのは「幸せのちから」でした。


昔ながらの映画館にしろ、今のシネコンにしろ、スタッフの対応の仕方で、映画館のイメージがずいぶんと変わります。そういう意味でも、藤沢オデオンは最高の映画鑑賞の場所だったと思います。もう、藤沢に足を運ぶ機会もなくなってしまったのですが、こういう映画館があったことは記憶しておきたいです。

「ハード・ソルジャー 炎の奪還」はこのジャンルの映画としては頑張っている方ではないかと。


今回は新作の「ハード・ソルジャー 炎の奪還」を銀座シネパトス2で観てきました。もうすぐ閉館になっちゃうので、ジャン・クロード・ヴァン・ダムのロードショーを観るのも、これが最後になっちゃうんだなあ。この映画もシネコンや渋谷のミニシアターではやってくれない、ここならではの内容とクオリティでした。もう、こういうB級映画はスクリーンでは拝めなくなっちゃうのかなあ。

元傭兵で、色々な汚れ仕事をこなしてきたサムソン・ゴール(ジャン・クロード・ヴァン・ダム)ですが、人身売買組織から誘拐された子供を救出する仕事を請け負います。首尾よく子供を救出することに成功するのですが、脱出時にアジトを破壊した際に、そこに拉致されていた他の子供が犠牲になってしまい、それ以来彼は仕事から足を洗って肉屋を営んでいました。旧ソ連領モルドバ共和国に総合格闘技戦に出るために妻子を連れてやってきたフェイデン(ジョー・フラニガン)の、14歳の娘ベッキーが滞在先のホテルから誘拐されてしまいます。24時間たっても連絡がないことから、営利誘拐ではなさそう。アメリカ大使であるゴールの息子の紹介で、フェイデン夫妻が肉屋を訪れ、ゴールに娘の救出を懇願するのですが、ゴールは過去のトラウマから一度は協力を拒否するものの、過去の贖罪の意味も込めてベッキーの救出に乗り出します。この誘拐に人身売買組織が絡んでいると確信したゴールは、夜を仕切る組織のボスを脅して揺さぶりをかけます。想像とおり、組織の中のヴラドという男がベッキーを誘拐していたのですが、ボスからの指令でこの仕事から撤退することになってしまい、ヴラドは共犯者の死体と、酸で溶かされた少女の死体を残して姿をくらまします。死体の少女のDNAがベッキーと一致し、ゴールは再び大ショックとなっちゃうのですが、果たして?

チャド・ロウとイヴァン・ロウによる脚本を、「CUBE ZERO」を手がけたというアーニー・バーバラッシュが監督しました。幼い子供に売春させる人身売買組織を題材にしたアクションものでして、脚本は結構マジメに作られている節があります。ヴァン・ダム主演のアクション映画に仕上げるために細かいところはそぎ落とし感じはありますが、仕事人ゴールと娘の両親を同じ比重で描いたり、ゴールの結構えげつないやり口ですとか、ラストのボスの仕留め方とか、単独ヒーロー映画とは一線を画す内容になっています。また、ヴァン・ダムの映画なら1時間半が妥当だと思うのですが、この映画は1時間55分も尺がありまして、それなりのドラマに仕上げようとしている意欲が感じられる内容になっています。まあ、だからといって、面白いか、よくできてるかと聞かれたら、そこそこってところになるくらいのクオリティではあります。とはいえ、セガールの映画に比べたら、マジメにドラマしていますし、2時間近くを退屈しないで観ていられる内容にはなっています。

セガールの映画でも、東欧ってのは犯罪国家みたいに描かれていたのですが、この映画のモルドバも人身売買が幅をきかせているという、昭和30年代の新東宝映画の日本みたいな描かれ方です。誘拐された子供に強制売春させるという「闇の子供たち」みたいな設定は、ものすごく悲惨で、この映画の中でも十代前半の子供がひどい目にあっています。直接描写はないものの、その組織の根深さはかなりのものがあります。娘を誘拐された両親は、警察が頼りにならないので、藁でもすがる気持ちでゴールに助けを求めるのです。こういう金で動く仕事屋が実際にいるのかどうかはわからないのですが、組織犯罪に対して警察が無力なところでは、こういう誘拐救出屋という商売もありそうな気がします。

ゴールは、人身売買組織からの子供救出時に他の子供を犠牲にしてしまったことで、その子供たちの亡霊に悩まされています。実際に画面で死体の少女二人が恨めしそうに登場して、彼を苦しめます。こういう感覚は万国共通なんだなと感心。最初は、腰が引けていたゴールも、最終的にベッキー救出を引き受けることになります。そこで、何をするかと思ったら売春組織のボスを急襲して、娘を探し出せと脅すのですよ。その際には、組織のメンバーを何人も殺していますし、このゴールは目的のためには何でもやるという荒っぽい仕事ぶりです。でも、その後、ベッキーのものと思われる死体が見つかったがっくりきてしまいます。アメリカ大使館員のゴールの息子も心配げです。しかし、ベッキーがいつも右手にしていたブレスレットが左手にあったことから、死体は替え玉だと見抜き、DNA鑑定した医師を締め上げて、誘拐事件の黒幕が国家保安局のナンバー2のステルであることを知ります。旧ソ連の武器をアラブに売ろうとしていたステルが相手への貢物として、金髪の処女を送ろうとし、たまたまモルドバを訪れていたベッキーに白羽の矢が立ったのです。ベッキーは、監禁場所で自分の携帯から両親への連絡に成功、GPSからベッキーの居場所が判明し、フェイデン夫妻とゴールが、旧ソ連時代の刑務所へと向かうのでした。

単独ヒーローの映画になっていないのが、この映画の特徴になっていると書きましたが、それは、言い換えるとあまり主人公が活躍していないということです。俺に任せろというのですが、やることが荒っぽくて、それが足を引っ張ることもあるという、頼りになるのかならないのかよくわからないキャラになっています。ムチャな暴れっぷりとお役立ち度の微妙さのバランスがうまくとれていないのは、バーバラッシュの演出の問題だと思いました。また、この手のアクションのお約束の盛り上げどころとカタルシスが弱いのが残念。シリアスなドラマの脚本を、演出が娯楽アクションに仕上げそこなったという感じでしょうか。セガールの一連のアクション映画よりはよくできていて、それなりにドラマもありますが、ヴァン・ダムの立ち位置が曖昧だったのが惜しいという感じでした。後はもっとアクションがあってもよかったかな。ヴァン・ダムの体技は、冒頭のナイフアクションくらいで、ほとんど格闘シーンがなかったのは、やはり年齢のせいかしら。まあ、マーシャルアーツのアクションが必要なお話ではないのですが。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ベッキーが監禁されている刑務所へ潜入するフェイデン夫妻ですが、ヴラドはベッキーが両親に連絡を取ったことを知っていて待ち受けていました。ヴラドの部下に銃を向けられて危機一髪の夫妻を、ゴールが救います。ベッキーは発見できなかった3人は別のロシア人少女を見つけて保護します。そんな彼らをヴラドの部下が次々と襲ってきますが、重装備してきたグールの前に次々にやられていきます。部下の犠牲に業を煮やしたブラドは、3人にベッキーとロシア人少女との交換を申し出ます。少女はまた戻るのはいやだと言います。彼女の妹はベッキーの替え玉として殺されていました。ヴラドはベッキーの指を切り取り、その悲鳴を夫妻に電話してきます。ゴールは自分を信じろと言い、夫妻や少女に取引に応じるように言います。取引のために姿を現した3人を狙撃手が狙っていました。ゴールも監視カメラの前から動けないでいました。ベッキーと少女の交換が行われ、狙撃手の引き金に指がかかったとき、ゴードの銃弾が狙撃手の頭を撃ち抜きます。監視カメラに細工をして、同じ画像をずっと見せていたのです。そこへ警官隊がやってきます。少女はヴラドの前に連れ出されるのですが、ゴールに渡されていた銃をヴラドに向かって発砲し、ヴラドは死亡。フェイデン一家も少女も無事に保護されるのでした。黒幕のステルが教会の懺悔室に入ったとき、そこに待ち受けていたのはゴールでした。神は許しても俺は許さないと銃口を向けてズドン。おしまい。

ヴラドにとどめを刺すのが、ゴールではなく、妹を殺されたロシア人少女だったというところに意外性とドラマ性がありました。アクション映画としての見せ場は地味目で、爆破シーンも映画の冒頭は派手にやってますが、クライマックスはCG合成の爆破にスケールダウンしているのが、今一つ盛り上がりませんでした。全体的にもたもたした部分もありましたが、エピソードを過不足なくならべたあたりの演出の手堅さは評価できると思います。こういうジャンルの映画の中では、及第点ではないかしら。後、題材のせいか、笑いが一切ないってのも、マジメすぎるよなあって思っちゃいました。マジメが悪いってわけではないのですが、マジメすぎるのは面白くないのですよ。ゴールの度を越した暴れっぷりをユーモアに見せる余裕はこの映画にはなかったようです。

特殊効果にニック・アルダーの名前があったのにちょっとびっくり。この人は、「エイリアン」や「スターウォーズ 帝国の逆襲」などそうそうたる実績を1980~90年代に残している特殊効果マンです。そんなベテランが参加しているんだなあ、こんな映画に、と微妙にしみじみしちゃいました。

「チキンとプラム」は1950年のイランを舞台にした音楽家の物語、で興味出ましたかしら


今回は、新作の「チキンとプラム」をヒューマントラストシネマ有楽町1で観てきました。ロビーも劇場もちっちゃい映画館ですが、コンパクトに見やすい映画館です。

イランの有名なバイオリニストであるナセル・アリ(マチュー・アマルリック)は、妻ファランギース(マリア・デ・メディロス)と口論になったときに大事なバイオリンを壊されてしまい、死ぬ決心をしてベッドに横たわります。彼は八日後に神に召されることになるのですが、その死に至るまでの八日間を一日ずつ綴っていくことになります。その中で、ナセル・アリと妻の関係、子供たちとの関係、そして、若き日の恋の物語が語られていきます。プライド高くて気難しい芸術家であった彼の人生の終わりに見えたものは何だったのでしょうか。

「ベルセポリス」というイランの女の子の半生を描いた面白いアニメ映画がありました。その脚本監督兼任コンビ、マルジャン・サトラビとヴァンサン・パロノーが同じく、共同脚本、共同監督をした劇映画です。前作は、監督のサトラビの自伝的映画で、イランの文化や現代史を知る意味でも興味深い映画でしたが、今回はフィクションでして、全体の雰囲気はファンタジックで、映像の作り方には絵本のような味わいがありました。舞台が、1950年代のテヘランというのも珍しくて、その設定からして、どこかリアリティから離れたお伽話のようでした。サトラビがフランス在住ということもあってか、舞台はテヘランですがフランス語の映画になっていますし、主演のアマルリックはフランス人です。

ナセル・アリは妻に壊されたバイオリンの代わりを探そうと楽器店へ行くのですが、思うようなものはなく、遠い町まで訪ねて、ストラディバリウスだというバイオリンを大金を出して買うのですが、これもダメ。で、絶望した彼は、死のうと決意してベッドに横たわります。奥さんのファランギースは、子供の世話も十分にしてくれず、収入もあまりない甲斐性なしの夫にうんざりしています。そもそも、ダンナの楽器を壊してしまったのも、不甲斐ないナセル・アリとの口論の挙句に逆上してしまったからです。当時のイランでは、高名なバイオリニストも稼ぎはよくなかったようで、ファランギーヌが教師をやって、家計をささえていたのでした。子供は二人、厳しい母親であるファランギーヌに教育されてきたのですが、それでも元気に育っていました。この映画で面白いのは、その二人の子供の未来まで見せてしまうところ。ナセル・アリの最後の八日間の中で、彼の過去が回想形式で登場するのですが、それと同じ扱いで、子供たちの未来も見せてしまうのです。それも含めてエピソードの切り取り方や、その見せ方はかなり凝っていまして、死の天使の登場ですとか、アニメの挿入、淡いパステルカラーの色使いなど、色々な趣向を盛り込んでいて、アートな映画に仕上がっています。

八日間の中で描かれるエピソードには、ナセル・アリと母親(イザベラ・ロッセリーニ)の関係、奥さんとのなれそめから結婚生活、そして、バイオリン修行中の恋物語などがあります。ファランギーヌは、昔からナセル・アリのことが好きだったメガネの不美人女性、30過ぎていき遅れていたのですが、ナセル・アリの母親のプッシュもあって結婚し、子供も二人設けるのですが、ダンナの愛情を得ることはできませんでした。ふがいない夫に対して、声を荒げることもあるファランギーヌでしたが、それでも彼女は夫を愛していたという、考えてみれば気の毒な女性です。バイオリンを壊して、ナセル・アリが死ぬきっかけを作ったのも張本人として登場する彼女ですが、だんだんとその心根が見えてくると、甲斐性なしのダンナの方が悪いんじゃないのって気がしてきます。彼女を演じたマリア・デ・メディロスの演技が素晴らしく、死の床についてしまった夫を元気にしようと、彼の好物のチキンのプラム煮を作るいじらしさが印象的でした。一方で、ナセル・アリという芸術家の面倒くさいキャラが引き立ちましたが、これが、過去の悲恋エピソードによって、さらにナセル・アリの別の顔が見えてくるという構成はうまいと思いました。

この映画には、主人公の死、そして、子供の未来における死、主人公の母親の死、死の天使アズラエルの出現と、いくつもの死が登場します。その描き方は、死をある種の解放という解釈をしているように見えました。誰かがその人のために祈り続けることで、その人は死ねない、死んでも魂は自由にならないというのは、面白いと思いました。これがイランの死生観なのかはわからないのですが、死によって、苦悩やしがらみから自由になれるというのは、輪廻転生とか前世とかとは一線を画すもので、死をあっけらかんと受け入れるその姿勢には、異文化に接する面白さがありました。

前半のケッタイな死の選択から、後半の恋愛ストーリーへの転換(時系列的には逆なんですが、映画の流れはこの順番)で、気難しい芸術家の二つの顔が見えてきます。そのどっちが強く印象付けられるかは、個人の好みによるところだと思います。私は運命のヒロイン、イラーヌよりも、奥さんのファランギーヌの方に感情移入してしまったので、面倒くさい芸術家の方の印象が強かったです。主演のマチュー・アマルリックは出る映画によって印象が全く異なる俳優さんなのですが、この映画では、気難しくて滑稽な芸術家をどこかコミカルに演じていまして、2つの顔を持つドラマの両方を見事に演じています。1950年代のイランを舞台にした映画というのがまず珍しく、イラン人の脚本、監督であるというところから、異文化に触れられる点でも一見のオススメです。


この先は結末に触れますのでご注意ください。



バイオリン修行時代のこと、師匠からは技術は完璧だけど心が足りないと言われていたナセル・アリは、町で見かけたイラーヌ(ゴルシフテ・ファラハニ)という美しい女性に一目ぼれしちゃいます。彼女は時計屋の娘で、ナセル・アリは時計屋に通いつめるようになります。そして、ナセル・アリは思い切ってイラーヌに声をかけてみれば、彼女は意外にもOK。二人でデートに行くようになり、お互い愛し合うようになります。二人は結婚しようと、イラーヌの父親に話をするのですが、社会的にも経済的にも不安定な音楽家に娘はやれない、娘のことを思うなら身を引いてくれと言われちゃいます。そう言われては、何も言い返せないナセル・アリ。当時の社会事情からしても父親に逆らえないイラーヌ。こうして二人は別れてしまうのですが、イラーヌの心の中にはずっと彼への思いがありました。そして、ナセル・アリはその想いを自分の音楽に込めることで、師匠から免許皆伝をもらい、師匠が前の師匠より受け継いできたバイオリンを引き継ぐのです。それを奥さんが壊してしまったことが事件の発端だったわけです。そして、そのバイオリンが壊された日、楽器屋を出たところで、ナセル・アリは、孫を連れたイラーヌと偶然すれ違います。ナセル・アリは、イラーヌではありませんかと声をかけるのですが、イラーヌはあなたのことは知りませんがと答えます。肩を落とすナセル・アリ、角を曲がったところで泣き崩れるイラーヌ。そして、八日目に息を引き取ったナセル・アリの葬儀の場で、距離を置いて彼を見送るイラーヌの姿があったのでした。おしまい。

二人が別れてから、偶然出会うまでの数十年を映像のコラージュを美しい音楽でつなげていくシーンが圧巻でした。色々と盛り込まれた趣向の一つなのですが、やはり音楽の力は偉大でして、別々の人生を歩む二人の時間を一気に見せるところで、その映像の起伏に合わせた音楽によって、盛り上がるのですよ。オリヴィエ・ベルネの音楽は、場面場面で、オケを鳴らしたり、バイオリンやピアノのソロを入れたりとバラエティ豊かな音を聴かせてくれていますが、そのメロディの美しさでドラマを盛り上げる正攻法の音作りが見事でした。

ナセル・アリにとっての運命の女性となったイラーヌを演じたゴルシフテ・ファラハニは、「彼女が消えた浜辺」で、消えた女性の責任を負わされちゃうセピデーを演じた女優さんです。そこそこにインテリで善意の持ち主が、女性失踪という突発的事件にアタフタしているうちにイライラしてきちゃうキャラを丁寧に演じました。この映画では、ちょっとはすっぱなところもある、時計屋のお嬢さんという役どころがうまくはまっていまして、その美しさが映画の後半を盛り上げました。

「ゲットバック」はスター映画という制約が残念な一品


今回は新作の「ゲットバック」を川崎チネチッタ7で観てきました。DLPの上映になってから、予告編と本編の間に画面が暗くなる間ができるようになりました。フィルム上映だと切り替えは一瞬なのですが、しばらく真っ暗なままでいると、機材の故障かと思っちゃいます。

銀行破りのプロ、ウィル(ニコラス・ケイジ)は、ヴィンス(ジョシュ・ルーカス)や紅一点のライリー(マリン・アッカーソン)と共に銀行の大金庫に狙いをつけます。しかし、FBIのハーランド(ダニー・ヒューストン)は彼らの犯行を事前に察知して警官隊を配備するのですが、まんまと裏をかかれ、1000万ドルを奪われてしまいます。しかし、ヴィンスがそこにいた清掃員を殺そうとしてウィルと言い合いになり、ヴィンスは誤って自分の足を撃ってしまい、ウィルも取り残されて、結局、ウィルだけが逮捕され、8年の刑をくらってしまいます。1000万ドルは結局発見されず、出所したウィルはハーランドにマークされています。最後の仕事の後に死んだと聞かされていたヴィンスですが、実は生きていて、別人になりすましていました。そして、ウィルの娘を誘拐し、1000万ドル持ってこいと脅迫してきました。その金を工面できないウィルはハーランドに事情を話しますが相手にしてもらえず、単身でヴィンスの居所を探すことになります。しかし、その際にFBIを殴りつけたり、昔の仲間の情報を盗んだりしたものですから、FBIにも追跡される身にもなってしまいます。果たしてウィルは娘を救い出すことができるのでしょうか。

「デンジャラス・ラン」のデヴィッド・グッゲンハイムの脚本を、「コン・エアー」「エクスペンダブルズ2」のサイモン・ウェストが監督した犯罪アクションの一品です。金庫破りの主人公が、昔の仲間に娘を誘拐されて、金を出せと脅されるお話でして、ニコラス・ケイジ演じる「盗みはすれど非道はせず」の大泥棒が、娘のために祭りの日のニューオーリンズを右往左往するというもの。主人公には、犯人のヴィンスを追いつつ、FBIからは逃げ回るというハンディがあります。「デンジャラス・ラン」で丁寧な人物描写を見せたグッゲンハイムの脚本と、「エクスペンダブルズ2」でも職人芸が健在だったウェストの演出ということで、そこそこに期待するところがありました。

冒頭の金庫破りのシーンは、まず宝石店の隣のおもちゃ屋に入って、そこの壁を壊して潜入するのですが、実はターゲットは宝石店ではなく、500メートル離れた銀行の金庫だったという意外性が面白く、ウェストのサスペンス演出も快調でした。立体駐車場でのカーチェイスも狭さとスピード感の迫力でなかなかの見せ場になっています。そして、8年が経過して、ウィルが出所してきたところで、現在の物語が始まります。

この映画の主人公の設定を見て思い出したのが、1980年代の「ジャグラー ニューヨーク25時」という映画。娘が誘拐されて、警察からも追われる主人公が、ニューヨークの街を犯人を求めて奔走するというお話でして、設定とかロケを生かした撮影とかに似たところがありました。で、その「ジャグラー ニューヨーク25時」は、傑作というと御幣がありますが、絶品の面白さに満ちていました。それと比べるのは酷な気もするのですが、この映画は全体にゆるいのですよ。「ジャグラー」がノースター(主演はジェームズ・ブローリン)で全編に緊張感がみなぎっていたのに比べると何だか物足りません。(ちょっとこういう表現だと伝わりにくいのですが、「ジャグラー」は未見の方には、一見をオススメします。ホントに面白いですから。)

設定としては、娘のためになりふり構わず頑張る父親ということになるのでしょうが、その割には、主人公がお行儀がよすぎるってところが物足りなさの根本にあるのだと思いました。12時間以内に金を持ってこないと娘が殺される、FBIも頼りにならず、逆に彼を逮捕しようとしている。そういう八方塞がりの状況で、どうやって逆転するのかというところがこの映画の面白さになった筈なのですが、あまり緊迫感が感じられないのですよ。この映画が、ニコラス・ケイジ主演のスター映画だというところに、作りの限界が出てしまったような気がします。スターを主演に据えたとき、そのスターイメージを根本からくつがえす展開にはできないんだろうなってことです。今年になって、ケイジの映画は、「ブレイク・アウト」「ハングリー・ラビット」と観てきましたが、どの映画も、主人公はきれいなヒーローではなく、どこか後ろめたいところがあります。その後ろめたさを引きずったまま、追い詰められた主人公が起死回生の逆転をするというのが共通した展開なのですが、どの映画も、ニコラス・ケイジのお行儀がよすぎて、切羽詰った感じが出ないのですよ。「ブレイク・アウト」の主人公は、家族の命よりも隠し金の方が大事という因業オヤジなのですが、そのキャラが前面に出てこないで、何となくドラマは決着ついてしまいます。「ハングリー・ラビット」では、主人公は、自警市民組織の恩恵を受けておきながら、自分が手を下す番となったら逃げ出しちゃうという結構お調子者(?)なのですが、ラストでは、なぜか彼が正しい人のようなポジションになっちゃっています。

これらの映画の主演が、ニコラス・ケイジのようなスター俳優じゃなかったら、各々の設定の中で、主人公はもっと自由に動き回れたように思うのですよ。暴走して人を殺しちゃうのもありってことになりますし、ピンチを乗り切るためにヤクザの手を借りるのもありってことにもできます。でも、スターが演じるキャラという制約は、彼らにそこまでムチャをさせません。その結果、映画としては、クリーンじゃないけど、ダーティでもないヒーローの活躍ということになり、行動のめりはりがつかなくなってしまったのではないかしら。先述の「ジャグラー ニューヨーク25時」では、主演がスターでない分、変な縛りがなくって、娘のために何でもする父親像がリアルに描かれていました。一方で、「ゲット・バック」の主人公は、追い詰められてからの逆転で、リアリティの薄いスーパーヒーロー的な展開になってしまい、主人公ウィルの生身の存在感が薄くなってしまったのが残念でした。主人公側のリアリティが薄まってしまうと対立する悪者のキャラも目減りしちゃうってこともあります。この映画でも、ジョシュ・ルーカスが凝ったメイクでサイコキャラを熱演しているのですが、主人公のお行儀のよさのせいで、その狂気のワルっぷりが薄まって見えちゃったのはお気の毒でした。

ニコラス・ケイジのこれらの映画の監督が、サイモン・ウェスト、ジョエル・シューマッカー、ロジャー・ドナルドソンといった実績のあるベテラン職人であるところは、よく考えられていると思うのですが、彼ら職人の腕をしても、追い詰められ主人公のスター映画を作るのは難しいのかもしれません。サイモン・ウェストも映画のストーリーを無難にこなし、要所要所の見せ場を盛り上げることにも成功していますし、ニューオーリンスのロケを効果的に使っていることも点数高いのですが、それでも、全体的に、大味薄味な映画に仕上がっちゃったのは、スター映画の宿命なのかもしれません。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ヴィンスは、事件の時に撃たれた足を失っていました。そして、散々やばいことをした挙句、自分の過去を消すために、他人の死体と自分の指数本を組み合わせて、自分を死んだことにしていたのです。一方、ウィルは、8年前、逮捕される直前に刑期を減らすために1000万ドルを燃やしてしまっていました。ヴィンスの要求には応えられないのですが、当然、ヴィンスは許してはくれません。ウィルはかつての仲間ライリーに頼み込んで、再度、8年前の銀行を襲います。大金庫の下まで下水道を伝っていって、そこからバーナーで床を抜いて、金塊を溶かして取り出すというシンプルかつ大胆な作戦。これがあっさり成功して、金塊を持ってヴィンスの要求した遊園地へと向かうウィル。待ち構えていたヴィンスは、娘がトランクに入れられている車に火を放ちます。ウィルは、車を池に落として消火しますが、トランクはなかなか開かない。さらにヴィンスが襲ってきますが、何とかヴィンスを仕留めて、娘を救出することに成功します。そして、(なぜか)自由の身になったウィルは、娘とライリーと仲良く暮らしています。トラックから見つけた金塊の残りをガメそうになるウィルですが、それを海に放り投げます。それを双眼鏡で見て安心するFBIのハーライン。でも、実際に海に沈んだのはパイナップルだったのです。おしまい。

後半の金塊強奪のあまりの安直ぶりがすごいのですよ。そんな簡単に盗める銀行の金庫なんて意味ないだろうに。そして、トランクに閉じ込められた娘を救出できるかどうかがクライマックスになるのですが、ヴィンスの狂乱モンスターぶりが描ききれていないので、危機一髪というまでには盛り上がりませんでした。FBIのハーラインのキャラも見せ方次第では、もっと奥行きが出たのでしょうが、せっかくのダニー・ヒューストンももったいない扱いになっちゃいました。でも、のんびり観る映画としては、退屈しないで楽しめる出来栄えに仕上がっています。ジェームズ・ウィテカーの撮影はニューオーリンズのロケシーンにうまさを見せ、マーク・アイシャムの音楽は、テーマはビッグバンドジャズを使い、アクションシーンでもジャズタッチの音で楽しませてくれています。

「エクスペンダブルズ2」と同じく、アヴィ・ラーナーのヌー・イメージが製作に参加しており、VFXはブルガリアのチームが参加しています。また、スタント・コーディネーター兼セカンド・ユニット・ディレクターをヌーン・オルサッティが担当していますが、この名字、若い頃観た映画のスタント・コーディネーターだったアーニー・オルサッティの血縁者ではないかしら。と、まあ、こういう映画でも、エンドクレジットを見ていると色々と発見があります。

「声をかくす人」のサントラは渋めのテーマでドラマチックな音楽


「声をとざす人」の音楽を担当したのは、数多くの映画音楽を手がけてきたマーク・アイシャムです。もともとはジャズ畑の人なのですが、映画音楽は1980年代から手がけるようになり、最初は「ネバー・クライ・ウルフ」「燃え尽きるまで」「レッド・アフガン」などシンセ主体のアンビエント系の音が多かったのですが、その後、どんどん映画、音楽のジャンルを拡大し、「タイム・コップ」「ブレイド」から近作の「メカニック」などのアクション映画のスコアや、「ハイウェイ・マン」といったスリラー音楽を手がける一方で、「クラッシュ」「ネル」といった幻想的なサウンド、さらに、この「声をかくす人」のようなドラマチックなスコアも手がけるようになりました。私としては、シンセを使った幻想的なタッチが彼の持ち味ではないかと思っています。というのも、彼の映画音楽でないリーダーアルバムではシンセやフリューゲルホルンを使った幻想的な音が聴かれるからです。

ブラッド・デクターが編曲をし、アダム・クレメンスがオーケストラを指揮し、チェロのソロをゾー・キーティングが担当しています。テーマ曲はストリングスを使った重厚な音をベースに、雄大なタッチの叙事的なイメージのメロディを奏でます。このメロディが映画のあちこちで使われ、全体を静かなタッチでまとめています。暗殺シーンに、サスペンス音楽から活劇調への展開を聴かせてくれていますが、映画の内容にふさわしい、真面目な音作りが印象的でして、ちょっとジョン・ウィリアムスのタッチを思わせるところもあり、最近の彼の作品のなかでは、なかなかの聞き物になっています。

後半の展開にも、高音の弦で泣きの旋律を入れることはせず、重厚な音でそのドラマの悲劇性をすくいとっており、映画のラストでは、その音の中に歴史の重みを感じさせてくれます。映画を観ているときは、地味目の音という印象だったのですが、CDを聴いてみると、意外やドラマチックな構成になっていまして、CDとしても聴きとおせる音になっています。

「声をかくす人」 エンドクレジット
(前半はドラマチックなスコアから始まり、後半はメインテーマの鎮魂のメロディという構成です)

「緯度0大作戦」で思い出したマイナー怪獣のみなさん

先日はビデオで「緯度0大作戦」を観たのですが、そこでは着ぐるみの怪獣グリフォンや大ネズミ、コウモリ人間とかが登場し、あまり活躍しないまま退場していきました。こういうみなさんは、ゴジラとかガメラと比べるとあまりにも地味でマイナーです。そこで、忘れちゃう前に、日本のSF・怪獣映画のマイナーキャラを集めてみました。好きな方には、こいつらみんなメジャーじゃないかと言われそうですが、まあ、そこはご容赦ということで。
 
1、ショッキラス:「'84年度版ゴジラ」


映画の冒頭で、難破船の中に登場する、放射能で巨大化したフナムシです。1シーンの登場でしかないのですが、キャッチーなネーミングのおかげか、今もマニアの間では親しまれている怪獣です。とはいえ、一般の方がどこまで知ってるかなーというレベルです。暗い画面でしか登場しないので、全貌がわかりにくいってところもマイナーな一因かも。
 
2、海蛇:「キングコングの逆襲」「竹取物語」
まあ、蛇ですし、名前だってカタカナじゃないですし、そのあたりがマイナーなのかしら。また、蛇形怪獣ってのは、ピアノ線の操演だとどうしても見劣りしちゃうってところもマイナー要因なのでしょう。ウネウネと動かすためには、CGか機械仕掛けのアニマトロニクスにしないといけないのですが、当時の技術では、これが精一杯というところなのかも。同様な意味で「海底軍艦」のマンダも蛇形怪獣で、正直あまり印象に残りにくいのですが、こっちは「マンダのいけにえにせよ」の決めゼリフでぐっとメジャー度が上がったようです。
 
3、ドゴラ:「宇宙大怪獣ドゴラ」


タイトルに名前が入ってる怪獣なのですから、マイナーというのもおかしいのですが、ドゴラの絵を描いてごらんといわれると、なかなか難しいんでないかいってところでマイナー怪獣に入れちゃいました。何回も変態するので、そのキャラが曖昧になっちゃう怪獣です。最初はゼリー状のブヨブヨ系なのですが、それがでっかいイカのような形になり、さらに結晶状になって、最後は石になっちゃうというもの。とりあえずは、イカみたいなスタイルで北九州市を襲うのが一番の見せ場になっているので、それがキャラということにもなるのですが、スクリーンではその全貌が見えるのが2カットしかなく、後は触手が漂っているという絵ばかりなので、イメージがつかまえにくいです。さらに、映画のポスターに登場するドゴラは、どう見てもスクリーンに出てきたものと同じには見えないということがあって、やっぱりマイナーかなあ。でも、こういう怪獣は珍しいので、個人的にはかなり好きです。
 
4、雪女:「悪魔くん」


雪女が怪獣というのもずいぶんなのですが、この「悪魔くん」に登場した雪女は、セリフもほとんどなくって暴れまわった挙句、巨大化して山荘を破壊しちゃうのですよ。どう見ても扱いは怪獣なんですが、見た目は雪女(でも、衣装は白いドレスなので、どっちかというと貞子みたい)というのは、画期的でもありました。まあ、「悪魔くん」ってのは掟破りの巨大化ってのが結構ありまして、円谷プロに低予算で対抗してたんだなあって感じでした。
 
5、グローブモンスター:「光速エスパー」
私にとっては「光速エスパー」という番組自体がマイナーなのですが、その中で珍しく登場した怪獣がこれ。ボクシングのグローブみたいのが、次元の裂け目から突然現れてビルを破壊したりするというもので、怪獣が都市破壊するというのが、ウルトラマンみたいだなあって、ちょっとだけうれしく思ったりもしたのですが、所詮はエスパー、やっぱりマイナー怪獣だよなあ。
 
6、大コウモリ:「ノストラダムスの大予言」
正確には怪獣ではなくって、放射能で巨大化したコウモリです。ニューギニアへ調査に出かけた丹波哲郎他のみなさんが遭遇する驚異の一つがこれ。こいつが現れた後、人食い人種やら放射能でボロボロになった先発隊のみなさんとか登場して、世紀末感バリバリの展開を見せてくれるのですが、この大コウモリの造形がショボいのですよ。顔の長い、ロクに羽も動かないのが滑空してくるのには失笑。この映画の前半に登場する大ナメクジとかは結構リアルに気持ち悪くできていたのですが、それに比べると見劣り感がすごい。蛇形怪獣と並んで、はばたき怪獣も操演がむすかしいのか、見劣りするものが多いです。モスラなんてのは、そんな中で奇跡的に成功しているのではないかしら。ラドンだってはばたき形ではなく、滑空形ですからね。
 
7、モッグス:「宇宙猿人ゴリ」


この怪獣はタイトルバックにも登場しますからメジャーといえばメジャーなのですが、ドラマの方には中盤に再生怪獣の一頭として登場します。再生ってお前初登場じゃねえかと突っ込み入っちゃうのですが、この怪獣はドラマ化される前のパイロット版に登場したのですが、本編に出す機会を逸したらしいのです。でも、タイトルバックに登場する中途半端な登場をして、その挙句に初登場が再生怪獣という扱いは、やはりマイナー。でも逆の意味で目だっているからメジャーなのかも。
 
8、ランホリンクス:「恐竜怪鳥の伝説」


制作費7億5千万円という振れ込みだけど、どうみても、その100分の1の予算で作ったんじゃないのと思わせるケッタイな映画。恐竜というのはプレシオザウルスで、怪鳥というのがランホリンクスなんですが、この主人公の出来栄えが映画のショボさを5割り増しにしています。ほとんど動かない人形が操演でピョコピョコ動くところは、出来の悪いマリオネットの如し。造型・操演を担当したのは、「獣人雪男」や「マグマ大使」などで名前だけは有名な大橋史典という人。首だけピアノ線の操演でフラフラ動く首長竜プレシオザウルスもなかなかすごいのですが、映画の後半に突然登場するランホリンクスのマイナー感の方が上かも。

もっともっと探せば出てくるのでしょうけど、有名だから自分も知ってるわけですから、マイナーではないのでしょうね。

「危険なメソッド」は精神分析の有名人の精神のもろさを描いてるところがおかしい


今回は新作の「危険なメソッド」を日比谷のTOHOシネマズシャンテ3で観てきました。地下にあるフラットな映画館で、スクリーンをもっと上げてくれないとちょっと座高の高い人が前に座ると画面が欠けちゃう映画館。全席指定だと、他の席にも移れないから、何とかして欲しいわあ。

チューリヒの精神科医のユング(マイケル・ファズベンダー)のもとにヒステリーの患者ザビーナ(キーラ・ナイトレイ)が送られてきます。彼女の治療にあたってフロイト(ヴィゴ・モーテンセン)の提唱する対話療法を試みるユング。その治療の中で、彼女が父親から暴力を受けていたこと、そして、彼女はその暴力に快感を感じて、どんどん被虐的になっていったことがわかってきます。ユングは、医学に興味を持っていた彼女の治療も兼ねて、精神分析の助手に彼女を使うようになります。すると、彼女は精神分析に意外な才能を見せるのでした。2年後、彼女は、ユングの治療を受けながら、大学にも通い、心理学を専攻するようになっていました。ザビーナは外でユングの唇を奪い、部屋へ来るようにそそのかしてきます。一応の理性と家族への思いがその誘惑をはねつけます。そして、彼女の症例のレポートを持って、ユングはオーストリアのフロイトに会いに行きます。同じ精神医学を伝統的手法から外れて研究二人には共通点がありました。意気投合したように見えた二人ですが、フロイトがユングに精神を病んでしまった精神医オットー(ヴァンサン・カッセル)を彼の病院へ送り込むことで様子がちょっとおかしくなってきます。オットーは患者の癖に、ユングにもっと自由になれ衝動に正直になれとそそのかします。オットーに感化されたユングは、ザビーナの部屋を訪ね、そのまま関係を持ってしまいます。しかし、二人の濃密な関係は長続きせず、ユングが愛人を持ったといううわさがウィーンにまでひろがってしまいます。ユングはだんだんと神秘主義に傾倒していきますが、それはフロイトの理論とは相反するものでした。そのスキャンダルがもとで一度はユングはザビーネと別れるのですが、ザビーネがユングに卒業論文を送ってきたとき、ユングはザビーナの卒業論文を指導するということになるのですが、やっぱり性衝動には勝てず、ユングがザビーナのお尻をべちべち叩くと、ザビーナひーひー喜んじゃいます。フロイトにしてみれば、ユングは、見込みがあるからかわいがったのに、へんなになっちゃってという気分ですし、ユングにしてみれば、フロイトはなんでも性衝動にからめて上からものを言う権威主義者ということになります。そして、フロイトとユングは決別してしまうのでした。

実話をベースにしてクリストファー・ハンプトンが書いた戯曲を、彼自身が映画用に脚色し、「スキャナーズ」「戦慄の絆」「ヒストリー・オブ・バイオレンス」のデビッド・クローネンバーグが監督しました。フロイトとユングという二人の偉大な功績を残した精神分析医の交流と確執の間にはある女性の存在があったというお話ですが、心理学とか精神病といった予備知識がなくても、人間関係のサンプルとして面白いお話に仕上がっています。私は、ユングといえば神秘系の人、フロイトといえば「とがったものはみなチ○コ」の人というくらいの認識しかなかったのですが、それでも、この映画は楽しめましたです。

ユングは精神科の臨床医としてチューリヒの病院に勤務していましたが、そこに運び込まれたザビーナという女性は典型的な統合失調症でした。しかし、フロイトの提唱する対話療法を使ってみたら、これが功を奏したみたいでして、経過は良好。さらに彼女の精神医学に対する才能まで見つかり、大学に通うまでになります。それまでは、接点のなかったフロイトとユングですが、彼女の事例が縁となり、ユングはフロイトに会いにウィーンまで出かけます。二人は同じ道を歩むものとして意気投合するのですが、誰にでも上から目線で、何でも性的衝動と結びつける(これが私のフロイトのイメージになっています)フロイトに対して、ユングはどこか相容れないものを感じていました。一方のフロイトは自分のようなユダヤ人ではない医師を取り込めば医学界の中で自分の理論が有利になると考えていましたが、ユングが神秘学やオカルトといったものにも傾倒しているのが気に入りません。

一方、ユングとザビーナは医師と患者として、また精神医学の師弟として良好な関係を保っていました。でも、ザビーネがユングに突然キスしてきたり挑発してくるのです。ユングはもうドギマギモードですが、何とか誘惑をはねつけます。奥さんとの間に2人も子供もいるし、彼には彼なりの倫理観がありました。でも夫婦仲は微妙でした。奥さんは資産家の娘でダンナよりもお金持ち、ユングが渡米しようというときに第一子を設けて、渡米が中止になったことを引け目に感じていました。そんな時に、フロイトの紹介で精神分析をすることになった彼の愛弟子であるオットーがまたユングを挑発してきます。自分は患者といいことしちゃったぜい、ユングさんも自分を開放してやりたいことやりなはれ。その言葉に後押しされたのか、ユングはザビーネの部屋を訪ねて、待ってましたの彼女と関係を結んでしまいます。何だか煮え切らなくて優柔不断なユングを、マイケル・ファズベンダーが繊細に熱演しています。性衝動がどうのこうのといった理論を研究しながら、自分の性衝動はどうしようもないという、文字通りの医者の不養生を見事に演じ切っています。

一方のザビーナという複雑なキャラをキーラ・ナイトレイがこれまた熱演。冒頭のヒステリー演技もすごいのですが、中盤以降の病気の焼けぼっくいを抱えたヒロインぶりが見事でした。そういう病気を抱えつつ、心理学者として、きちんと有能に見えるあたりがなかなかのものです。ドラマが進むにつれてどんどん精神的に柔になっちゃうユングに対して、女性としての強さを見せていくザビーナという関係の逆転。それが、ユングの夫婦関係にも見えてくるというところが面白かったです。最初は、夫に引け目を感じて、離別の不安も抱えていた奥さんが、後半になると精神的に弱っちゃうダンナに対して、愛情を捧げつつも逞しさを示していくのです。

一度は、ザビーナに別れを告げるユングなのですが、彼女が論文を抱えて現れると、その指導をする、でもって寝ちゃう、という展開は、繊細なのか図々しいのかよくわからないのですが、なまじお堅いインテリが一線を越えると後はグダグダになっちゃうんだなあって感じでした。フロイトとユングは渡米するのですが、その船上の会話で、自分の(文字とおり眠ってるときに見る)夢を語ったユングに対して、フロイトは自分の権威が失われるからと、夢を語ることを拒否します。これを聞いて、ユングはああこいつはダメだと思ってフロイトを見限ってしまいます。もともと反りが合わない二人だったようで、学問的な見解が異なる上にお互いに相手を見下しているような関係は長続きしないのも、もっともなことです。その後、ザビーナがフロイトに自分とユングのことを手紙を書いて、ややこしい書簡のやりとりがあるのですが、結局、二人は絶交しちゃうことになります。ユングはそれがショックで落ち込んじゃうのですが、それでもまた患者と愛人関係になっちゃうという何だかなーって感じ。結婚して妊娠中のザビーナがユングの家を訪れると奥さんが「ダンナが元気ないんで、精神分析してくれないかしら」と言われちゃいます。とりあえず会ってみれば、なんだかちんやりしてるユング発見。サビーナの大きなお腹見てもため息つくばかり。

ユングが、本当の精神分析医の実績を残すのは、この後の話というのですから、人間わからないものです。ザビーナも児童心理学者と実績を残した後、母国ロシアに帰るのですが、第二次世界大戦でドイツ軍に殺されてしまいます。この映画で描かれたドラマの結末としては意外な後日談ではあるのですが、それが人間の不思議なところであり、心理学で客観的に測ろうとしても測れない部分があるんだなあって感心。演技陣の好演もあって、舞台劇の密度をそのまま映像に展開していまして、映画としての見応えは十分でした。クローネンバーグの演出は舞台劇のドラマ運びながら、舞台のテンションをあえて控えめにして映画としてのドラマ作りをしているのですが、短いエピソードをつないでいく構成のせいで、やや見せ場を欠いたというか、平板に見えてしまうのが残念でした。

ピーター・サシツキーの撮影、ハワード・ショアの音楽とクローネンバーグ組が参加しているのですが、どちらもドラマを渋く支えています。お話としては、思い出してみると、1,2行で説明できちゃうものなのですが、そこで人物像を掘り下げることで、ドラマとしての奥行きが出ました。ザビーネという女性が、患者であり弟子であり愛人であるというややこしい存在で、ユングの心をかき乱すわけですが、ザビーネひどい、ユングかわいそうって感じがしないところがおかしかったです。フロイトにしても、ユングにしても、プライド高いわりに意外ともろいキャラクターになっていまして、他人の心を牛耳ってしまうような仕事についていても、自分のことだとからっきしだよねってところが面白く、実話ベースながら、その描き方の皮肉な味わいも楽しめますので、映画館でご覧になることをオススメです。映画に没頭できない環境だと、若干退屈しそうなので、鑑賞の時と場所を選ぶ映画かもです。

「声をかくす人」はマジメなメッセージを持った映画、エンタメ度はどっかなー?


今回は、新作の「声をかくす人」を銀座テアトルシネマで観て来ました。臼を半分にしたような傾斜のある場内はスクリーンが見やすくてありがたいのですが、若干古い劇場のせいか、座席の前後が狭いのが残念。まあ、昔の劇場なら、このくらいは当たり前だったのですが、座席に段差がある分、狭さが気になってしまいます。

南北戦争が終結しつつある時、北部の大統領エイブラハム・リンカーンが劇場で暗殺され、主犯の俳優ブースは射殺され、共犯とされた人間が逮捕されました。容疑者は戦時中ということもあって軍法会議で裁判にかけられることになりました。その逮捕された中に女性が一人いました。犯人グループが暗殺のために集まっていた下宿屋の女主人であるメアリー・サラット(ロビン・ライト)は犯人たちのためのアジトを提供し暗殺の共犯とされたのです。若い弁護士エイキン(ジェームズ・マカヴォイ)はジョンソン上院議員(トム・ウィルキンソン)に呼び出され、メアリーの弁護を依頼されます。エイキンは、大統領暗殺犯を厳罰に処すべきと思っており、メアリーも有罪だという認識でした。それでも、裁判に弁護士は必要だという上院議員に説得され、彼女の弁護に着手します。スタントン陸軍長官(ケヴィン・クライン)はこの裁判をとっとと結審させて、犯人を処刑することで、国内の動揺を早く鎮めて、戦争で疲弊した国を立て直す必要を感じていました。そして、始まった裁判はフェアと言えるものではなく、容疑者全てを有罪にするベクトルの上で動いていました。弁護を進めるうちに、エイキンはこの裁判が公正さよりも国家の思惑で動いていることに気づき、また、メアリーが申し立てるとおり、彼女は無罪ではないかと思うようになります。しかし、裁判は彼女を処刑台に送るべく着々と進んでいくのでした。

もう若い人はこの監督がさわやか二枚目スターだったことは知らないんじゃないかなと思う、ロバート・レッドフォードの監督作品です。歴史的な事実、メアリー・サラットの裁判をドラマチックに脚色した一編で、ジェームズ・ソロモンとグレゴリー・バーンスタインの原案をもとにソロモンが脚本を書きました。地味な題材ではあるのですが、時代考証やセットにかなりお金がかかった大作の風格があり、ジェームズ・マカヴォイ、ロビン・ライトの他にも、ケヴィン・クライン、エヴァン・レイチェル・ウッド、ダニー・ヒューストン、コルム・ミーニー、さらにジャスティン・ロングまで出てくるという曲者を豪華に揃えたキャスティングになっています。

オープニングは、リンカーン大統領の暗殺シーンで、なかなかにスリリングな展開を見せます。そして、軍法会議での裁判が始まることになります。主人公のエイキンは、弁護人に指名されたものの、最初から裁判に勝てるとは思っていません。でも、裁判が進むにつれて、この裁判が単に容疑者を有罪にするための出来レースであることが見えてきます。動揺している国民を安心させ、国をまとめるためには、早く犯人を処刑し、この事件に決着をつけ、事件を過去のものにする必要があったのです。でも、それはフェアな裁判ではありません。憲法の精神にも反するものでありました。このドラマは2本の柱を据えて展開していきますが、その一つの柱は法と正義のあり方でした。エイキンは、最初はメアリーの無実には確信がありませんでしたが、この裁判のやり方に対する義憤から本気で弁護に乗り出すのです。

もう1本の柱になるのは、メアリーが本当に無罪なのかという、実際の事件の真実を巡るドラマです。メアリーは、何も語ろうとしません。彼女は南部の出身であり、南軍を制圧しつつあった北軍に対して憤りを感じていました。彼の息子ジョンは事件の日から姿をくらませていましたが、彼も南部人としての思いがあり、主犯のブースと友人関係がありました。メアリーはリンカーン暗殺事件には関与していないとエイキンに訴えます。ただし、ジョンたちがリンカーン誘拐を計画していて、それが頓挫したことは知っていました。

エイキンは弁護側の証人を探しつつ、裁判を進めていきます。検察側の証人は、証言の信憑性が乏しいものばかりでしたが、エイキンの異議は認められず、裁判はさくさくと進んでいきます。エイキンの熱を帯びた弁護は彼の地位をだんだんと危うくしていきます。しかし、それとは逆にエイキンはメアリーの無罪を確信するようになっていきます。しかし、弁護側の証人として召喚した大尉が法廷で当初の証言を翻すといったこともあり、状況はどう見てもメアリーに不利でした。一見、ミステリータッチの法廷劇に見えるお話なのですが、ポイントは、スケープゴートが欲しい政府側がとにかく容疑者全員を有罪にしたいという、割とシンプルなところにあります。政治の前に法は曲げられるという図式は、ある意味恐ろしいことですが、その一方でそういうこともあるよなあって納得しちゃうところもあります。この映画でも語られる憲法の精神というのが、肝心なところでして、憲法は国民のルールではなく、国家のルールを決めているということを再認識する必要があるというメッセージが感じられました。これは日本でも同じでして、国家のやることを規制する憲法を改めようと、為政者が言い出したら、それは自分が国を思うようにしたいからじゃないのかって疑ってかかる必要があります。そして、法を守ることを最優先するのが、司法の仕事ではないのかということをこの映画は語っているように思います。前作の「大いなる陰謀」でリベラルな立場からのメッセージを訴えていたレッドフォードの演出は、今回も政治に流されることの危険性を、正義の喪失という見せ方で描いています。とは言え、陸軍長官の立場、意見もきちんと描いていまして、その上で、そこに見える不正の許容については、明らかに否の姿勢をとっています。

一方のメアリーの描き方は、母親として、そして南部人としての情の部分を前面に出してきます。どうも息子は暗殺事件に何らかの形で関与しているらしい、でも、それは絶対に認めません。真実を追究する裁判の場で、それは正しいことではありません。ドラマのクライマックスは、法廷の場で、メアリーの無実を訴えるにあたって、息子のジョーが有罪であると言い切るところにあります。それは、メアリーにとっては耐えられないことでした。でも、それを事実だとしないと、メアリーは有罪にされてしまうのです。正義を優先する「法」のエイキンと、家族を守る母親を優先する「情」のメアリーという構図は、ある意味対立しているのですが、その一方で、人としての信頼感でつながっているのです。

ジェームズ・マカヴォイは真実を公正に追究する弁護士を真摯に演じていまして、監督がこのキャラクターに自分自身の政治姿勢を投影しているように見えます。その他の脇役陣も個々のポジション、立場を誠実に演じていて、このドラマに説得力を与えています。ラストの処理で、それでも、ある方向にこの映画が向いていることが明確になるのですが、そこに好き嫌いが出たとしても、示されたメッセージには耳を傾ける価値があるように思いました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



検察側が次々と彼女に不利な証人を示してくるのですが、その一方でエイダンも証拠や証人の信憑性を突いていきます。結審した後の審理の場で、軍法会議の面々も彼女を有罪とすることにためらいを見せます。しかし、スタントン陸軍長官は彼女を大統領暗殺犯にして処刑することを強要します。軍法会議の裁判員はみな軍人であり、長官の鶴の一声に逆らうことができず、彼女に死刑判決が下ってしまいます。エイダンは彼女の処刑が翌日に迫って、何とか彼女を救おうと人権擁護の申し立て書類を作成、判事の署名をもらいます。これで彼女は民事裁判所に移送され、改めて裁判を受けることができるようになります。しかし、処刑当日、大統領の署名入りの命令書が示され、メアリーは処刑台へ連行され、他の3人の暗殺犯ともに絞首刑となってしまいます。エイダンはその後、弁護士をやめ新聞社の社会部長となります。そして、戦時中であっても民間人が軍法会議で裁かれることのないよう法律が制定されるのでした。

エイダンが、メアリーの無罪を確信していたのかどうかは明確に示されませんが、彼はメアリーを救うために奔走します。そして、彼女が処刑される場面をかなり長く丁寧に見せることで、法の正義の喪失が前面に出てくる演出をしています。メアリーは毅然として処刑台に向かいますが、そこには、怒りも悲しみも達観も感じられませんでした。娘を気遣う情は見せるものの、それ以上の言葉は語りません。そこよりも、やはり、政治的判断による理不尽な法を描いた映画ということになるでしょう。国を守ることが、法よりも優先する、国なくして法もありえないとスタントン長官は言います。それは一理あったとしても、政治的な思惑で法や正義が侵されてはならないというメッセージは一聴に値します。9.11以降のアメリカの正義のもろさを改めて問いかけるものだと思うからです。エンタテイメントと言うにはマジメすぎる内容の映画ではあるのですが、今のアメリカ、そして日本の現状を考え直すきっかけとして観る価値のある映画だとオススメします。
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Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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