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2012年のベストテンを作ってみました

2012年ももう終わりということで、例年のごとくベストテンを作ってみました。今年は劇場に足を運んだ回数が少なかったとは言え、映画鑑賞としては豊作だったようで、多くの作品がベストテンからこぼれてしまいました。選択の基準は、映画の印象が強い順です。観終わって「ふーん」という印象しか残らない映画はベストテンからははずれてしまいます。

第1位 「別離」
2010年の私のベストワン映画だった「彼女が消えた浜辺」のアスカー・ファルハディの脚本・監督による一編は、ある一家に起こった事件を様々な視点から描いていて大変に見応えがありました。そのクールな視点はサスペンスタッチでもあり、その中から垣間見える、善意、憎しみ、面子といった人間の感情が非常にリアルに描かれていて、共感もできちゃうという見事なドラマに仕上がっていたので、これが1位です。何よりもまずドラマに引き込まれてしまう面白さが決め手となりました。

第2位 「恋と愛の測り方」
これまたイラン出身のマッシー・タジェディンが脚本・監督を担当した、ある夫婦の夜から朝までを描いたドラマです。お互いが別の異性と一夜を過ごすことになり、その葛藤からの選択そして結末まで、ドラマとして大変面白くできていました。ものすごいドラマチックではなく、感情の揺らぎのようなものを捉えたセンスがすごく好き。映画館へ足を運ぶのはこういう映画が観たいから、ということで、第2位にしちゃいます。

第3位 「善き人」
普通の大学教授がいつの間にかナチスの幹部にさせられちゃっていたという、ある意味ホラーな一編。人間、良い行いをしているつもりでいても、いつの間にか抜き差しならない状態になっちゃっていることがあるというのを、リアルに見せてくれていて、ヘビーだけど見応え十分。ヴィゴー・モーテンセンをはじめとする演技陣の好演もあって、他人事とは思わせないところが見事。

第4位 「無言歌」
中国の現代史の中で、文化大革命の影に隠れたもうひとつの黒歴史を描いた力作です。こういう歴史の暗部にスポットライトがあたったということもすごいことだと思うのですが、極限状況における人間の尊厳と悲しみをきちんと描いているところが見事でした。とにかく、観たインパクトでは、今年一番ではないかしら。

第5位 「ヤングアダルト」
今年観たコメディの中で一番笑えたのがこの映画。30過ぎの自意識過剰ヒロインの暴走っぷりがおかしくて、そのリアルビッチぶりが見事でした。シャーリーズ・セロンのいけしゃあしゃあのヒロインは、最優秀主演女優賞。(キティちゃんが助演女優賞かな)とにかく面白い映画でした。

第6位 「ルルドの泉で」
ルルドの泉で起こった奇跡の物語から見えてくるのは、信仰への希望と妥協、そして善意と信念。さまざまな人間の持つ感情を描くことで、信仰とは何なんだろうと考えさせてくれる映画でした。不信心な私にも、神様を信じるってこういうことなのかなって思わせてくれるすごい映画でした。

第7位 「ドラゴンタトゥーの女」
横溝正史タッチの因縁ミステリーに、探偵側のドラゴンタトゥーの女のドラマを加えて、エンタメ度の高い映画に仕上がっていました。2012年に観た映画の中で、エンタテイメントとして一番面白かったのがこれです。デヴィッド・フィンチャー監督の骨太演出が2時間48分を退屈させません。

第8位 「死刑弁護人」
麻原彰晃や林真須美の弁護士として、良くも悪くもその名を知られる安田好弘弁護士を追ったドキュメンタリーです。現代社会、そして公正さと正義を考えさせられる映画として、多くの人に見て欲しいと思いました。映画として突っ込み不足と思わせる部分もありますし、安田弁護士に共感できない部分もありましたが、それでも観る価値のある映画です。

第9位 「ドリーム・ハウス」
超自然ホラーかと思わせておいて、意外な方向に展開するサスペンススリラーの一編。小品ではあるのですが、ジム・シェリダンの行き届いた演出、ダニエル・クレイグ以下演技陣の好演もあって、映画としての満足度が高かったです。クライマックスで一瞬だけ超自然ホラー展開するところが圧巻でした。

第10位 「少年と自転車」
親にネグレクトされた少年がある女性との出会いによって、未来が変わっていくというお話。ダルデンヌ兄弟のリアルだけど暖かい演出が、希望と癒しを与えてくれる映画でした。淡々と見せているけれど、でも後味がすごく暖かいってのは、やはり演出のうまさなのだと思いまして、10位にランキングです。

上記のベスト以外では、ドラマとしての見応えという意味で、「オレンジと太陽」「最強のふたり」などが印象に残りました。また、正統派バカコメディとしての「ジョニー・イングリッシュ 偽りの報酬」も楽しい一編でした。もう一本バカ映画として「エクスペンダブルズ2」も挙げておきます。


また、例年の、ベストテンには入らなかったけど、どっか気になるピンポイントベスト5を以下に挙げます。

第1位 「ディクテーター 身元不明でニューヨーク」の最後の演説
サッシャ・バロン・コーエン扮する中東の独裁者がアメリカで迷子になるという、お下劣ネタと風刺ネタ満載のコメディなんですが、クライマックスで「独裁政治のどこが悪い」という演説が圧巻でした。「独裁政治下なら、国民の1%が90%の富を独占できる、報道も一族独裁で自由にできるし、福祉や教育予算を減らすことができ、理由をでっちあげて戦争を始めることができる」と今のアメリカの現状をあげつらうのですよ。ここまで言うかと思うのですが、日本では絶対できない風刺ギャグだよなあって感心。ただの下品コメディではありません。

第2位 「ルート・アイリッシュ」の戦争はビジネスだ。
ケン・ローチ監督の「ルート・アイリッシュ」は、傭兵ビジネスを扱った戦争サスペンス映画でした。民間軍事会社の傭兵たちは、治外法権を持ち、イラク市民の生活を蹂躙しても罪に問われることはありません。会社の目的は、イラク市民の保護でもなく民主化でもなく、お金をもうけることです。国際化、自由化はとうとう戦争そのものをビジネスとし始めました。そこには倫理とか理性よりも利益が優先されてしまうのです。恐ろしい現代の仕組みをつきつけてくる映画として、この映画の存在価値があると思いました。

第3位 「テイク・ディス・ワルツ」のミシェル・ウィリアムス
2012年の女優陣では「ドリーム・ハウス」のレイチェル・ワイス、「ペント・ハウス」のティア・レオーニ、「人生はビギナーズ」のメラニー・ロラン、「ブライズ・メイズ」のローズ・バーン、「ブラック&ホワイト」のリース・ウィザースプーン、「ディクテーター 身元不明でニューヨーク」のアンナ・ファリス、「君への誓い」のレイチェル・マクアダムス、「だれもがクジラを愛している」のドリュー・バリモア、「崖っぷちの男」のエリザベス・バンクスなどが印象的でしたが、等身大のヒロインをリアルに演じたミシェル・ウィリアムスが特に光っていたように思います。マリリン・モンローの時とは別人のようなもの憂げな人妻ぶりが見事でした。

第4位 「バトルシップ」の意外に面白い視点
世間の評判はバカSFみたいに言われていますけど、これが結構面白い構成になっているのですよ。エイリアンは他国から武装してやってきた調査団で、地球人は原住民。エイリアンは敵意のない者には攻撃してこないけど、攻撃に対してはすごい武器で反撃してきて、地球人はゲリラ戦を挑むしかなくなります。これって、エイリアンがアメリカ軍で、地球人がイラクやアフガニスタンという構図になるのですよ。エイリアンが傷ついて地球人に捕らえられた仲間を助けるシーンとかもあって、エイリアン側が決してバカでも非道でもないってところがよく考えられていました。

第5位 「ピラミッド 5000年の嘘」の木曜スペシャル度
ピラミッドに色々な秘密の数字が隠されているというところから始まって、ラストにはなぜか未来の警告になっちゃうという大ハッタリの強引な展開。若い人には目新しいかもしれないけれど、40歳以上には、昔懐かしい木曜スペシャルの世界です。今は未来の心配というとお金のことばかりになっちゃうのですが、昔は人類の滅亡とか大災害とかを心配していました。そういう大らかな時代を思い出させてくれた映画でした。

そんなわけで、来年もまたよろしくお願いいたします。
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「100万回生きたねこ」のどこがドキュメンタリー映画やねん


今回は静岡シネギャラリー1で新作の「100万回生きたねこ」を観て来ました。ここは1年期限の会員制度がありまして、なかなかにお得感があります。シネコンで観る映画がないなあと思った大人の人はここに来るしかないんだよなあ。

佐野洋子が文と絵を書いた「100万回生きたねこ」という有名な絵本があります。作者はがんで2010年に亡くなっているのですが、生前の彼女へのインタビューに、この絵本を子供に読み聞かせる母親へのインタビュー、さらに色々な世代の女性の人生の断片を見せていくという構成で、絵本の持つ世界、そして佐野洋子の世界を絵解きしようとしているみたいです。そして、その合間で、「100万回生きたねこ」の全編が少しずつ紹介されていきます。

何か映画観ようかと思ったとき、シネコンで興味をひく映画をやっていないもので、何となく選んでしまった映画です。絵本についての映画でして、タイトルで「ドキュメンタリー映画」ってわざわざことわりが出るので、ほー、結構面白そうかなあっと思ったのですが。

と、こう書いてしまうと実はつまらなかったですって文脈になっちゃうのですが、実際のところ、結構楽しめました。それは「100万回生きたねこ」という話が面白かったからです。お話は割りとシンプル。ねこがいまして、ねこは色々な人に飼われては死ぬということを繰り返します。飼い主は、女の子だったり泥棒だったり王様だったり、そしてねこが死ぬと飼い主はみんな涙を流し、ねこを葬るのです。そんなことを100万回やってきたねこが、今度は野良猫になって、誰のものでもない自由の身となり、そして、一匹の白い猫を愛するようになり、子供が生まれ、子供が旅立ち、そして白い猫が死に、ねこは泣いて泣いて100万回泣いて、そして死んでいくのでした。人生とか死といったものを考えさせるお話でして、これはいい絵本だなあって思いました。100万回他人の人生の中で生きてきたねこが、最後に自分の人生を生きて死んでいく。なかなか示唆に富むお話でして、子供よりもいい大人の心に響く内容といえましょう。

この絵本から膨らませた映画の中身なんですが、これが、何というか、気取ってるというか、上から目線なのですよ。これまで、ドキュメンタリー映画を何本か観て来ましたけど、ドキュメンタリー映画の対象への向きあい方というのは、大体3パターンありました。一つは、対象と同じ目線に立って観客を対象の中に引き込んでいくというもの。もう一つは、ぐっと引いた視点から、対象を客観的にとらえて、観客に事実を冷静に伝えようとするもの。でも、この映画は、前述の二つのアプローチではなく、対象を上から目線でこねくりまわしてしまっているのです。伝え方が下手で申し訳ないのですが、この映画の作り手が、神の目、神の手の立場に立って、対象を自分の視界の中に押し込んでいるという感じなのです。ドキュメンタリー映画の名を借りた私小説というのか、作り手が「オレのアート作品を見てくれ」って感じのナルシシズムが見えるのです。映像作品として、自分の感性に忠実に作ったということになるのかもしれませんが、それはドキュメンタリー映画じゃないぞと私は思いました。ドキュメンタリー映画じゃなくても、それが映像作品としてよくできてればいいじゃないってのは、もちろんなんですが、どうも、対象に対する敬意が感じられないというか、上から目線というか、何様度が高いというか、そこのところが観ていてしっくりきませんでした。

様々な年代の女性が登場し、それぞれの人生を垣間見せます。若い頃から家族から精神的虐待を受けてリストカット痕が痛々しい三十代女性。人工授精で子供を授かった四十代女性。ダンナと死に別れてからも元気に過ごす七十代の女性。他にも様々な世代の女性が登場します。それぞれの人生のごく一部を見せてくれています。そこに生きることと死ぬことの色々なサンプルを見せようとしているみたいなのですが、生身の女性に肉迫するというよりは、凝った映像を見せたいだけのように思えてしまいました。女性の母親であることへのこだわりとか、女性は自分語りで簡単に泣くんだなあとか、オヤジから見ての発見はありました。でも、「100万回生きたねこ」につながる糸を見つけることはできませんでした。

この映画で、絵本と同じ重さで描かれるのは作者の佐野洋子という人です。彼女の言葉、著書からの引用があちこちに登場します。自分がガンであることを知っている彼女ですが、「どうせ、人間はいつかは死ぬんだから」と威勢のいいところを見せます。ただ、これが演出のせいなのか、本気でそう思っているように聞こえないのが気になりました。どこか、無理しているって感じがしてしまうのですよ。それは、演出が狙ってそう聞こえるようにしているのかなもしれません。契約のため、彼女の顔が映せないってところはあるのですが、佐野洋子という女性が伝わってこないのですよ。きっと、彼女の著書をたくさん読んでいる人には、十分納得できる内容なのかもしれませんが、私のような一見さんには、彼女の人となりは見えてきませんでした。

というわけで、「100万回生きたねこ」は面白いお話だったのですが、この映画は私が期待したものとは違っていたようです。そもそもドキュメンタリー映画と看板をつけてるのがダメなのかなあ。どのシーンも演出過多で、インタビュー部分ですら、台本ベースの進行に見えてしまうのです。イメージカットが多いのですが、それが映画のテーマにつながってきませんでした。作りとしては、気取ったNHKスペシャルという感じでして、それが上から目線という印象につながってしまったのかもしれません。

いつの間にか変わっていること

映画を観てきて昔と違うことってあります。普通に映画を観てきて「そういえば」とふと思い出すことが結構あるんですよ。そんなこまごまネタを、いくつか挙げてみます。

「昔は、007映画の始まる前に、ユナイト映画のロゴが出ていたのだけれど、いつのまにかMGMのライオンが登場するようになってました。」

「昔の映画館では、2時間を超える映画では、必ずお尻が痛くなったのですが、最近は椅子がよくなったらしくて、お尻の苦痛を感じなくなりました。」

「昔の映画館では、コーラやジュースは瓶だったのですが、いつの間にか紙コップになってました。」

「映画館のスクリーンには幕があって、上映開始時に幕が開いているのですが、今は幕そのものがなくなってしまいました。」

「昔は、前に人が座ると画面が見えなくなっちゃうような作りの映画館が多かったのですが、最近は見やすい映画館が増えました。」

「コロムビア映画が、いつの間にか、コロンビア映画になってました。」

「昔に比べると、上映前に流れる映画会社のロゴが格段に増えました。」

「いつの間にか、プロデューサーの肩書きがつく人が10人くらいクレジットされるようになりました。」

「いつの間にか、日本語字幕は、画面右端に縦書きではなく、中央下に横書きになっていました。」

「昔の映画館の前には、ガラスのケースに映画の写真が貼ってあったのに、いつの間にかなくなっていました。」

「昔の洋画では、監督がクレジットされた後に、日本語字幕監修者の名前が出てましたけど、いつの間にか映画のエンドクレジットの一番最後に出るようになりました。」

「東宝マークの下の、東宝株式会社の文字がいつの間にか、明朝体からゴシック体になっていました。」

「いつの間にか、どんなジャンルの映画のも、視覚効果チームがクレジットされるようになっていました。」

「いつの間にか、どの映画館でも映画の上映前に、マナーの注意喚起を上映するようになってました。」

「昔は、映画のパンフレットはみんな大きさが同じだったので、専用バインダとかも売っていたのに、いつの間にか、サイズとか製本がバラバラになって保存しにくくなっちゃいました。」

「いつの間にか、ケータリングの人まで、クレジットされるようになっていました。」


「2本立てが体力的にしんどくなりました。」


こういう気づきはその人の年齢で違ってくると思いますし、他にももっとありましょう。他に感じていることでは、映画館の名前が昔の方が色々あって面白かったというのもあるのですが、こういうのはいくらでも出てきそうです。

「サイド・バイ・サイド」で今が映画の過渡期であることをおさらいしましょう。


今回は新作の「サイド・バイ・サイド フィルムからデジタルシネマへ」を横浜のシネマベティで観て来ました。東京と同時封切というのは、この映画館ではかなり珍しいのではないかしら。

映画のデジタル化は、まずカメラのデジタル化から始まりました。1990年代に導入されたデジタルカメラはまだまだ画質が鮮明ではなく、映像のクオリティではフィルムにはかなうものではありませんでしたが、その機動力と撮影した映像を現像のプロセスを経ないで即確認できることから、徐々に映画に使われるようになりました。その後、カメラの進歩があり、「スターウォーズ」のような大作もデジタルカメラで行われるようになり、急速に映画のデジタル化は普及していきます。また、撮影したフィルムを1度デジタル化することで、編集作業は格段に容易になり、またデジタルデータに対する色補正が行えることになって、監督や撮影監督の望む絵が作れるようになったのです。また、視覚効果でもデジタル合成が、フィルム合成の画質劣化を過去のものとし、またセットもCGで作成する「アバター」のような映画も登場します。今や、大手の会社でのフィルムのカメラ、映画用フィルムは生産中止となり、フィルムによる映画製作は過去のものとなりつつあります。果たして、フィルムによる映画撮影はこの先生き残ることができるのでしょうか。

クリス・ケニーリーの構成、監督によるドキュメンタリーです。映画のデジタル化について、たくさんの映画関係者のインタビューをもとに構成されていまして、プロデューサーも兼ねるキアヌ・リーブスがナビゲーターとして登場します。いわゆるデジタルの人だろうなあって思うジョージ・ルーカスやジェームズ・キャメロンも登場しますし、この人はどうなんだろうと思う、マーティン・スコシージですとかクリストファー・ノーラン。さらに、デジタルとは相容れないんじゃないかというイメージがあるヴィルモス・ジグモンドやミヒャエル・バルハウスといった皆さんまで登場します。この映画の中では、映画のデジタル化はもう避けようのないことであるという認識であり、フィルムは淘汰されていくという認識の人がほとんどでした。現在でも、フィルムで撮影される映画もあることはあるのですが、今後は趣味人の贅沢になっていくみたいです。

デジタル撮影の利点は、フィルムからハードディスクにメディアが変化しただけで、まず映画を作るハードルが低くなり、フィルムという金のかかるものに振り回されない撮影ができるようになったという点が大きいそうです。その分、金食い虫のフィルムによる撮影時の緊張感がなくなり、一方で、カメラを回しっぱなしにして一番いいタイミングを撮影することも可能になりました。アートな映画から導入されるようになったデジタル映像は、その画質の悪さもあって、最初のうちは、ままっこ扱いでした。しかし、「スターウォーズ エピソードⅡ」が全編デジタル撮影され、また上映時にデジタル上映されるようになり、急速に普及していきます。

映画は今更デジタルかフィルムかを云々する気は毛頭ないようで、むしろ今の映画界での関心事は何かということに主眼が置かれています。この映画の中で多く語られるのは、カメラの進歩によってデジタル化が進んできたということ、そしてそれは安定していなくて現在進行形であるということです。現在のデジタルカメラは、フィルムメーカーの全てを満足させるクオリティには至っていないようで、機動性や画質などから、映画の撮影時にどのデジタルカメラを選択するかで、今も作り手は頭を悩ませているようなのです。自分の行動範囲内の映画館のほとんどがデジタル上映するようになったので、映画のデジタル化は完成されていたようなイメージがあったのですが、まだまだ発展途上なのだそうです。「ダークナイト・ライジング」「マネーボール」のようにフィルム撮影されている映画もまだある状況ですが、これまでフィルムのカメラを作ってきたパナビジョンやアリがデジタルカメラを開発するようになり、またソニー、パナソニックといった電子機器メーカーからの新製品の投入もあって、群雄割拠のデジタルカメラ戦国時代になっているようです。

また、この映画で語られるのは、デジタル化による編集作業の簡略化と色補正です。編集というのはこれまでもフィルムを切ってつなぎ合わせることで行われてきたのですが、今はコンピュータの画面上の操作で全て行えるようになりました。ウォルター・マーチやアン・コーツのような大ベテランまでがコンピュータ操作を覚えてデジタル編集をするようになりました。フィルムを取り扱うことは編集者にとっての技術習得の場であったことは事実らしいのですが、今や若い人はそれを経験する機会を失ったとも語られます。色補正は昔は現像の段階で赤を強めに焼くといったことで行われてきたようなのですが、この作業がデジタル化によって、カラリストと呼ばれる職種の人が、例えば画面の一部の赤みを増量し、他の部分は青みを増やすといったことも可能になりました。これで、撮影監督の望んだものにより近い映像をスクリーンに乗せることができるようになりましたが、一方で、撮影した素材を誰でも触れるようになったわけで、撮影監督の権威を落とすことにもなったようです。これから、あるカットの美しさを堪能したとき、それが撮影監督によるものなのか、カラリストの技術によるものかを判断するのは難しそうです。

また、完成品を上映するにあたり、従来のフィルム上映では、フィルムごとの画像のばらつきが問題になっていました。必ずしも作り手の望む映像にプリントされていなかったという証言が登場します。さらに、映写機にかけて上映するにあたって、映写機や映写技師の腕によって映像が左右される部分も大きかったのです。同じ映画でも、劇場によって上映される映像にはかなりの差があったのだそうです。デジタル上映にすることで、それがどこまで改善されるのかまではこの映画では語られませんが、少なくとも劇場に送られるフィルムのレベルでのばらつきはなくすことができるのは事実です。

さらに映像の保存の問題があります。意外なことにフィルムの方が規格がちゃんとしていることもあって、100年以上前の映像を観ることが容易なのだそうです。1980年代はフィルムの退色問題が話題となり、デジタル化によって保存の問題が解決すると言われているのですが、ハードディスクは1年放っておくと動かなくなるし、多用すれば磨耗するので、長期保存にはフィルムの方が有利だというのです。また、再生方法の規格が変わっていく可能性もあって、今の映像を保存するには、媒体だけでなく再生装置も一緒に保存しておかなかければならないのでそうです。逆の例ですが、1980年代に製作されたミュージックビデオの中には、媒体はあっても再生機がないので、見られないものがかなりあるようなのです。デジタル化によって映像の保存問題は解決したわけではないというところは発見でした。

デジタル化に関するインタビューで構成されていて、知った名前がいろいろと登場し、その発言には興味深いものが多かったです。でも中にはロビイストのように「この波に乗り遅れるな」みたいなことを言う人もいまして、それぞれの思惑やらバックがありそうでした。だとしても、やはりデジタル化は避けられないことです。そもそもカメラやフィルムがなくなっちゃったら他の手段で撮影せざるを得ないですからね。映画はその現実を見せたというところを見せますが、それ以上のコメントは避けているようです。

私も観客として、フィルムからデジタルへの過渡期に立ち会っているわけですが、CGとかカラー補正された映像にはあまり魅力は感じません。それは私が古い世代だからかもしれません。マットペインティングやモデルアニメ、アニマトロニクスになじんできた目は、CGに違和感を感じてしまうのですよ。また、1980年代のミュージックビデオを見てきたことから、色をいじくりまわした映像に安っぽさを感じてしまうってところがあります。きっと若い人の方が、デジタル化を素直に受け入れることができるのでしょうね。シネコンができはじめたころ、従来の映画館になれていた私は、シネコンでの映画鑑賞になじむまでに時間かかりましたけど、若い人は生まれた時からシネコンですから、違和感を感じる余地がなくて最初からこういうものだと思ってシネコンを使っている。デジタル化も昔を知らない若い人ほど馴染むのが早いってことになるのでしょうね。

この映画はあくまで作り手目線で構成されていまして、興行側や観客側の視点は入ってきていません。例えば、デジタル上映設備の投資が難しい弱小劇場が危機に瀕している実態ですとか、観客側がデジタル映像の画質の劣化をどう見ているのかは語られません。ラストで、今や映画はパソコンやスマートフォンで観る時代になったとちょっとだけ触れられているのですが、映画館へ足を運んでいる観客目線のコメントがなかったのはちょっと残念でした。

「もうひとりのシェイクスピア」は、大河ドラマでもあり、ダメダメな人たちの群像劇でもあります。


今回は、日比谷のTOHOシャンテシネ1で新作の「もうひとりのシェイクスピア」を観て来ました。初日の初回でしたけど劇場は半分も埋まってませんでした。IDカードつけた配給会社の人と思しきみなさんもいましたが、ちょっと気の毒かな。まあ、雨降ってて、寒いから出足が悪いってこともあるのでしょうが。

時は16世紀末のロンドン、女王エリザベス一世(ヴァネッサ・レッドグレーブ)の宰相セシル卿が権力をふるい、偶像崇拝にあたるとして詩や戯曲などの芸術を弾圧していました。貴族オックスフォード伯エドワード(リス・エヴァンス)は、若い頃から文才があり、詩や戯曲を書くことに喜びを感じていましたが、義父のウィリアム・セシル卿(デビッド・シューリス)や妻からは疎んじられていました。ある日、不敬の戯曲を書いたとして捕らわれた劇作家のベン(セバスチャン・アルメストロ)に、自由の身にするから、自分の作品をベンの名前で発表しろと持ちかけます。ベンは、他人の作品に自分の名前をつけることはプライドが許さず、匿名作家としていたのですが、エドワードの作品の舞台が大好評となり、観客が作家は誰だと呼びかけたとき、お調子者の俳優ウィリアム・シェイクスピア(レイフ・スポール)が書いたのは自分でございと名乗りをあげてしまいます。かくして、エドワードの思惑とは裏腹に、彼の戯曲は、シェイクスピアの作品として名を上げることになります。一方、エリザベス一世の後継者問題で、セシル卿と息子のロバートはスコットランドのジェームズ一世を英国王にしようと目論んでいましたが、エリザベス一世はたくさんの隠し子がいるようで、その有力候補であるエセックス伯を国王にしようというサウザンプトン伯は、セシル卿親子と反目していました。また、この親子は市民にも評判が悪いようで、芝居でよく笑いものにされていました。この後継者問題にもエドワードは首を突っ込まざるを得なくなります。それは若かりし頃、彼はエリザベス女王と恋に落ち、彼女が妊娠した時に別れさせられていたからでした。

シェイクスピアにまつわる映画というと「ハムレット」「オセロ」「十二夜」「タイタス」「恋に落ちたシェイクスピア」なんてのを観ていまして、文庫本も数冊読んだ程度なので、それほどの思い入れはないのですが、とりあえずすごい人だったらしいというくらいの認識です。この映画は、シェイクスピアの自筆原稿が発見されていないことと当時の歴史情勢から、「もしシェイクスピアにゴーストライターがいたら?」という歴史ifモノの一編です。そのゴーストライターであるオックスフォード伯エドワードが主人公でして、シェイクスピアは脇役扱いです。さらに、物語の軸は、エドワードとエリザベス一世との関係の方にありまして、ジョン・オーロフの脚本は大河ドラマ風のつくりで、単なるゴーストライターのお話と思っていると、王家のお家騒動に発展していきます。「インデペンデンス・デイ」「2012」など、大味だけどスケールの大きなお話を作るのが得意なローランド・エメリッヒ監督が歴史ドラマとして仕上げています。時間軸があっちこっち行ったり来たりするお話をきちんとわかりやすく整理してまとめているあたりのうまさは見事でした。

シェイクスピアのゴーストライターのお話は、貴族の立場で、自分の名前では作品を発表できないエドワードがベン・ジョンソンという若手劇作家を使って、彼の名前で戯曲を世に出そうとするというもの。匿名作家の劇は大評判になるのですが、それを自分の作品だと観衆の前で名乗り出ちゃったのがシェイクスピア。さらに、シェイクスピアは、ジョンソンを尾行して、エドワードの家に乗り込み、金出さないとホントのことバラしちゃうぞと脅しにかかります。まあ、クズなシェイクスピアなんですが、それに金を出しちゃうエドワードもエドワードです。この主人公のエドワードという男は詩や文学を愛する貴族ではあるんですが、政治力とか実務能力がないもので、家は経済状態は最悪。いわゆる趣味人というのでしょうか、文学的センスはあるのですが、それは彼に要求されるスキルではなく、ただの道楽オヤジになっちゃっています。この映画では、当然その才能を肯定的に描いているのですが、実際のところ、今でいうオタクが先祖代々の遺産を食い潰した話にも見えますので、家族にしてみれば迷惑なオヤジだったのではないかしら。まあ、そこんところは当人も認識していたようで、「オレはダメだなあ」って嘆くあたりの情けなさが妙なおかしさを運んできます。

それでも、エドワードは、エリザベス女王に近い立場にいたのですが、実は若い頃エリザベス女王と恋に落ちたことがあり、彼女を妊娠させて別れさせられたという過去がありました。若いエリザベス女王を演じるのは、ヴァネッサ・レッドグレーブの実の娘ジョエリー・リチャードソンでして、若いエドワードにとって年上の女性を演じて魅力的でした。政治と結婚した女として「エリザベス」なんかでも描かれていたエリザベス一世ですけど、この映画では、結構やることやってますというキャラになっていたのが面白かったです。

お家騒動の方は、アイルランド王ジェームズ一世を次期国王にしようとするセシル卿親子と、それを快く思わないサウザンプトン伯とのいさかいになるのですが、その父親セシル卿が亡くなり、その遺志を継いだ息子のロバートは、宰相として策を弄し、サウザンプトン伯とエセックス伯の失脚を企みます。彼は庶民からも嫌われているらしく、彼を笑いの種にする喜劇で観客はどっと湧きます。この映画のうまいところは、本当のところはよくわからないけど、セシル卿親子を悪役に仕立てているところです。歴史に疎いのでよくわからないのですが、彼らが悪役でいるおかげで、このドラマは成り立っているのです。確かにエドワードやサウザンプトン伯を暗殺しようとするあたりは悪いやつなのでしょうけど、政治的にひどい奴だったのかどうか、実務に無能なエドワードに比べてひどいやつだったのかどうかは微妙な感じです。ロバートはせむしで、自分が世間から嫌われ者であることを認識していました。映画の後半では、本当にこいつは悪い奴なのかと思わせる展開となるのが、面白いと思いました。後半で、エドワードは、ロバートの言葉にだまされている(らしい)エリザベス女王をいさめるべく、彼女と直談判しようとします。その時、ロバートを悪役にした芝居「リチャード三世」で民衆を焚きつけてて、群集を味方にして、女王の目を覚まさせようとするわけです。このあたりの展開はなかなかにサスペンスフルでエメリッヒの盛り上げ演出が成功しています。ある意味ハッタリも効かせたエメリッヒの演出は快調でして、エンタテイメントとして楽しめる映画でオススメできます。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



エドワードが「リチャード三世」の芝居で何かを企んでいることは、ベンの密告によりロバートに筒抜けでした。ロバートは当日に橋を封鎖し、群集の侵入を阻止。一方、同時に女王に談判に行こうとしていたサウザンプトン伯とエセックス伯を城壁の中へ誘い込み、謀反人として逮捕してしまいます。女王はエセックス伯が自分の子供だと知っていました。また、エドワードは自分と女王の間に生まれた子がサウザンプトン伯であることを知ります。さらに、ロバートの口から驚くべき事実を知らされます。それは、エドワードもエリザベス女王の16歳の時の子供だというのです。セシル卿は、エドワードを自分の義理の息子にして、彼を次期国王にしようと企んでいたのです。しかし、エドワードはセシル卿が期待するような人間にはなりませんでした。エセックス伯は断頭台の露となりますが、エドワードが女王を説得、サウザンプトン伯は釈放されます。そして、床に伏せるようになったエドワードがジョンソンを呼び寄せ、自分の作品をどう思うか問いかけ、ジョンソンは「この時代に生まれたことを誇りに思う」と答えます。そして、ジョンソンはエドワードから、彼の書いたものを託されるのですが、エドワードの妻の密告からロバートに追われることになります。その追跡の途中で追手によって劇場は焼き払われ、ジョンソンはロバートに捕まってしまいます。ロバートはジョンソンが隠し事をしていないことを見抜き、彼を釈放します。ジョンソンは劇場の焼け跡のトランクから焼失を免れた原稿を発見します。これで、シェイクスピアの作品は後世に伝えられたのでした。おしまい。

エリザベス女王が複数の男性との間に隠し子をもうけてきたというのは、ケイト・ブランシェット主演の「エリザベス」シリーズで観てきたイメージとはずいぶん違うのですが、これは有力説なのかしら。ともあれ、そのお盛んの結果、自分の息子のとの間に子供つくっちゃうっていうのは、時代劇ならギリシャ悲劇とかになるのかもしれませんが、今なら横溝正史の因縁話かヤリマンビッチかという展開ですから、かなりびっくりです。そんな事実を聞いてもエドワードは「ああ、やっぱりオレはだめだなあ」ってため息つくばかりなのが、悲劇的な展開なのですが、視終わった後、思い返すとちょっとおかしい。エメリッヒのパワフルな演出で、観ている間は悲劇のドラマに引き込まれてしまうのですが、よく考えてみるとエドワードって、気難しいのに優柔不断だよなって気づかされます。まあ、物書きとしては天才だけど他のことはダメだよねって言われると納得しちゃうのですが、そのおかしさが後からじわじわきいてくるってところがこの映画の面白さだと思いました。この映画に登場してくるエドワード、エリザベス女王、ジョンソン、シェイクスピアとみんなどこかダメなみなさんなのですよ。そんな中で、最後までダメさを見せないのが、宰相のセシル卿親子。悪役なのですが、やってることにポリシーがあるし、自分の信念に忠実です。特に、この物語の父親のセシル卿は、少ない出番ですが、この物語の黒幕になっています。デビッド・シューリスがちょっとだけ出てくるのには、ちゃんと意味があったわけですが、もうちょっと扱いが丁寧でもよかったかなって気がしちゃいました。

SFXによる、当時のロンドンの空撮ショットやCGとセットの合成などが効果をあげていまして、当時の時代色を出すことに成功しています。昔なら、固定ショットでマットペインティングによる合成でしか表現できなかった昔の町並みが、空撮の移動ショットで組み立てられるようになったのですから、技術の進歩はすごいです。

「二つの祖国で 日系陸軍情報部」は、太平洋戦争をある側面から描いた記録映画として見応えがあります。


今回は、関内の横浜ニューテアトルで新作の「二つの祖国で 日系陸軍情報部」を観て来ました。日曜日の初回なのに、お客さんが7,8人なのが残念。ここはなくなって欲しくない映画館なので、もっとお客さんに来て欲しいわあ、たくさんの人に観ていただきたい映画ですし。

第二次大戦が始まり、アメリカ軍は対日戦に備えて、陸軍情報機関MISを設立し、そこへ日系米軍兵士を集め、情報収集のための教育を始めます。ほぼ、時を同じくして日本はアメリカに宣戦布告し、さらにMISのメンバーは増員されます。日系と言っても、その中は2つの分けられていました。アメリカで生まれた日系アメリカ人の子である「二世」とアメリカで生まれたが日本で教育を受けた「帰米」です。日本語や日本文化に長けていたのは「帰米」であり、「日系」は英語面でのサポート要員だったようです。彼らの任務は、日本語の資料、記録の翻訳が主体でしたが、戦況が日本に不利になってくると、日本軍捕虜の尋問も担当するようになります。そして、沖縄戦などでは、民間人の投降のために働き、戦後は、日本の民主化のための日米の橋渡し的な役割も担ったのでした。しかし、彼らの中には、アメリカでも日本でも差別を受けた者もいれば、兄弟が日米双方に分かれて戦うことになった人もいます。そんな彼らの存在を記憶し語り伝えることで、二度と戦争を起こさないことを胸に刻む必要があるのです。

「442日系部隊 アメリカ史上最強の陸軍」に続き、すずきじゅんいち監督が脚本も兼任したドキュメンタリーです。過去の記録映像を合間に挟みながら、かつてのMISのメンバーへのインタビューという構成をとっています。かつてMISにいた方々がこんなに存命だったとは驚きでしたが、みんな80代後半から90代だというのにお元気なのにまたびっくり。彼らの力強い言葉を聞くと、第二次大戦の記録映画をまだ作れるんだなって実感しますが、十年後には作れないだろうなあという限界を感じる映画でもありました。

映画は時系列で、太平洋戦争直前から戦後の赤狩り時代まで描いていますので、個々のエピソードを深く掘り下げることはせず、淡々と並べているという印象ですが、それがイデオロギー抜きの記録映画を作ろうとしていることを感じさせました。歴史の中であまり語られることがなかったMISという存在にスポットライトをあてたということがこの映画の存在意義になっているのです。彼らは、アメリカの敵国である日本の情報を集めるために尽力します。それは、アメリカ人としてアメリカのために働くというのがまず前提にあります。しかし、その相手が、同じ民族であったことから、単なる敵国人に対する以上のシンパシーを日本人に感じていました。彼らの基本的なメンタリティはアメリカ市民であるのですが、他の米軍兵とは異なる視点を持っていたようです。それでも、日本軍を倒すために、日本の情報を翻訳し、捕虜から軍の情報を引き出しています。アメリカ軍の情報戦に日本が敗れたことがよくわかる展開になっていまして、彼らは、日本兵士の日記や給与明細などから、部隊の配置、作戦計画を割り出していたというのですから、すごいというかえげつないというか。その一方で、日本軍の情報管理の甘さがわかってしまうわけです。また、兵士の尋問のくだりでは、よく言われていることなんですが、日本の兵士は捕虜になったとたん、アメリカ軍に協力的になり尋問にもすらすらと答えてたというところが印象的でした。日本では、戦陣訓に「生きて虜囚の辱めを受けず」というところまでは厳しく書かれているのに、捕虜になったらどうしろという教育ができていなかったというのです。そこで、日系米軍の日本語による尋問に、情の部分から崩れていったようなのです。なるほど、戦争のある一面を垣間見ることができる意味でもこの映画を観る意味はあると思います。

戦場では、常に米兵が一緒に着いてまわったそうで、米軍から誤射されないためと、日本軍側に有利な行動を取らないかどうかの監視のためと二つの理由があったそうです。日本の敗色が濃くなってから、日本兵への宣伝ビラや、短波放送の日本語訳もやるようになります。この戦争は無益だからやめましょうっていう宣伝を最前線の日本兵に向かったやるわけです。それがどれほどの効果を生んだのかはわかりませんが、空襲前にその場所を放送したり、沖縄戦の時に民間人向けにも行われたそうです。そして、日本の敗戦後、GHQの一員として活躍したというところも描かれます。アメリカの新聞記者の通訳として原爆投下後の広島を訪れたときは、そのあまりの悲惨さに、意気込んで取材しにきた記者たちが言葉を失ってしまうというエピソードが印象的でした。また、GHQが日本を民主化するにあたって、手紙の検閲を行い不穏分子をチェックしていたという話も登場します。そういった場でも日本語や文化に強いMISのメンバーが活躍したのだそうです。

日本の戦争中から戦後に至るまで、MISはアメリカのために働いてきました。もちろん彼らがアメリカ市民だったから当然のことなのですが、日本人としてもアメリカ人としても差別された経験が彼らのアイデンティティに傷を残していることも語られます。老人たちは、淡々と自分の記憶を語るのですが、中には感極まって涙ぐむ人もいます。死んだ日本兵のアルバムから彼の家族の写真を見つけたというエピソードや、尋問中に逆上した日本兵がMISの兵士の目の前で撲殺されるというエピソードは、語る方にとっても辛い戦争の本質を見せ付けます。

この映画では、特別に何かのエピソードに重きを置いて語っているわけではないので、その淡々とした語り口は、散漫な印象を与える一方で、戦争についての様々な視点に気づかせてくれる映画でもあります。そこから見えてくるのは、戦争ってのはやってはいけないということ。例えば、沖縄戦に従軍したMISの兵士は、自分が一発の銃弾を撃つこともなかったこと、自決寸前の一般市民を投降させて命を救ったことを自慢げに語ります。でも、その裏にあるのは、沖縄戦でどれだけの兵士と一般市民が殺し殺されたかということです。

戦争であったことは、本人が墓場まで持って行ってしまうこともかなりあるようです。これまでも、元兵士のインタビューをまとめた記録映画を何本か観ましたが、「どうしても言えない」とカメラの前で宣言する人もいるくらいですから、語られない、語れない事実というのは、まだまだあるのだと思います。それでも、その時代の証言を聞きだして、記録に残すことは歴史を学ぶ上で重要なことです。この映画も、なかなか語られることのなかった日系アメリカ兵の記録を残したということで意義のあるものだと思います。

この映画のナレーションは英語でして、インタビューもほとんどが英語でなされています。日本人が作った日系アメリカ兵の映画としてはとっつきが悪いなあと思ったのですが、英語で語られることで、ある種の距離感が生まれ、MISについて客観的に見ることができたという点では、英語版でよかったのかなって気がしました。それは、彼らがアメリカ市民であり、アメリカへの愛国心を持ったアメリカ兵だということを再認識させてくれるからです。彼らは、日本人とは異なるメンタリティを持ったアメリカ人なのです。でも、そんな中に、大和魂を誇らしく思ったりする日本人としての血が感じられるのが、不思議な気がしました。単一民族国家としての日本と、多民族国家のアメリカの違いなのかもしれません。

「フランケンウィニー」はゾンビ犬スパーキーのかわいさを楽しむのが正解かなあ


今回は、川崎のチネチッタ10で新作の「フランケンウィニー」を観てきました。この映画館では3Dの上映はないということで、2Dの字幕版の鑑賞となりました。

ニューオランダという郊外の町、あまり友達がいなくて、科学と映画作りの好きな少年ヴィクターは愛犬スパーキーと大の仲良し。学校の科学展が近づいていて生徒たちは、発表の準備をしていました。ある日、スパーキーが交通事故で亡くなってしまいます。傷心のヴィクターですが、理科の授業でジクルスキ先生の電気と神経の話を聞き、雷を使ってスパーキーを生き返らせることを思いつきます。嵐の夜、屋根裏部屋に、スパーキーの死体を運んできて、凧を使って落雷させると、奇跡が起こり、死んだスパーキーはよみがえります。ヴィクターは、スパーキーを屋根裏部屋に隠しておくのですが、昼間外に抜け出したスパーキーを同級生のエドガーに目撃され、死んだ犬がよみがえった秘密を教える羽目になります。死んだものを生き返らせるというのは、科学展の発表にするのにふさわしいネタです。そして、エドガーやトシアキたちが、各々に死んだ動物を落雷によって蘇らせようするので、ところがその結果モンスターが生まれてしまい、町のお祭り「オランダ・デー」の夜、町は大混乱に陥ってしまうのでした。

「アリス・イン・ワンダーランド」「シザー・ハンズ」など、ファンタジックでオタクチックな映画をたくさん撮ってきたティム・バートン監督の最新作です。今回は、モノクロの人形アニメでして、3D化も監督が意識したことらしいのですが、まあ追加料金をケチるオヤジには2Dで十分な内容でした。元ネタになっているのは、フランケンシュタインでして、その他、ホラー映画や怪獣映画などのエッセンスをいっぱい盛り込んだ内容になっています。ホラーベースのせいなのか、登場人物もかわいいというよりは不気味系、アダムスのお化け一家みたいなみなさんです。人形アニメがメインのようですが、あまりカクカクした動きになっていないのは、CGによる補正が入っているのかもしれません。

物語は、死んだ愛犬を生き返らせたら、それを真似した連中がとんでもないことになるというもの。バートンの演出は、ストーリーを語る部分をあっさりと流しているので、ドラマ性は弱めです。その一方で、スパーキーの描写はすごく丁寧で、ゾンビ化しても愛嬌たっぷりのスパーキーのかわいさが際立ちました。死んだものを蘇らせるお話なのに、映画では科学への信頼をストレートに語っているところがおかしかったです。そして、科学というのは単なる知識や技術だけでなく、心が伴わないとうまくいかないということも言ってきます。つまり、後半で、同級生たちがヴィクターと同じ事をやってモンスターを生み出してしまうのは、そこに愛がないからということになるのでしょう。なんとなく納得しちゃうところもありますが、死者を蘇らせるってことは、生命の尊厳に踏み込む重大事なのに、そのこと自体への突っ込みはありません。本家のフランケンシュタインには、死んだ人間を蘇らせることで、様々な倫理的な葛藤が出てくるのですが、この映画では、死んだ人間にまで手を広げないことで、そのヘビーな部分は迂回している(つもりの)ようです。

この映画では、色々なホラー映画へのオマージュが入っているようで、登場人物の名前ですとか、ドラマの展開に元ネタが色々と盛り込まれています。個人的には、ヴィンセント・プライスそっくりのジクルスキ先生と、スパーキーのガールフレンドの犬のヘアスタイルがお気に入りなんですが、今のアメリカでは、フランケンシュタインってそんなにメジャーなのかなってところが気になりました。この映画、初日の初回を観たのですが、まるでお客さんが入っていませんでした。子供には、結構怖いシーンもある映画ですし、大きいお友達にしても、どれだけの人がパロディを楽しめるのかなって気がする内容なのですよ。バートンの演出は、ストーリーを語るよりも、スパーキーのかわいらしさとか、パロディの趣向の方を見せたいようなのです。でも、そのパロディの部分がわかるのは、日本だとほんの一部のコアなファンだけでしょう。その結果、一見さんにとってのエンタメ度が低くなっちゃったように思うのです。アメリカでは、この映画、たくさんのお客さんの支持を得られたのかなあってところが気になっちゃいました。いわゆる、元ネタへの思い入れが強すぎるというか、オマージュだけで作り手が満足しているように見えちゃうのです。この題材なら「マチネー」や「グレムリン2」の実績があるジョー・ダンテあたりが監督したら、もっと娯楽度の高い、そして若干の毒を持ったカルトな映画になったのではないかしら。

とはいえ、この主人公のスパーキーがかわいいんですよ。人間っぽさがない、あくまで犬キャラで、何も考えてないようなバカっぽさがまたいい。ゾンビになってからも、生きてたときのまんま。ちょっと派手に動くとしっぽとか耳とか飛んじゃうところとか、水飲むと体から噴水になっちゃうというギャグも笑えました。そのゾンビスパーキーを見て、ヴィクターの同級生がそれをマネしようとするのですが、やっぱりうまくいかなくて、大騒動になってしまいます。

この映画で、面白いと思ったのは、舞台となるニュー・オランダという町。高台には風車小屋があり、大きなペットセメタリーがあり、毎晩のように雷雨があって、学校の教室ではやたら死に関わる話題が日常的に登場します。町全体がちょっと不思議な雰囲気なのですよ。また、パソコンの話が出てくるのに、車のデザインは1960年代で、子供たちが8ミリカメラで撮影しているという時代がよくわからない設定になっています。でも、雰囲気は昔のアメリカの郊外の町ということのようで、その空気感は「スーパー8」を思い出させます。あの時代への憧憬が今のアメリカにはあるのかしら。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



科学展の発表のために、ヴィクターの同級生たちは自分のペットの死体に落雷させて、生き返らせようとするのですが、カメは巨大なガメラみたいな怪獣になり、ネズミは巨大化し、コウモリは落雷時に飼い猫と合体した怪物となり、シーモンキーは半魚人の群れとなり、町の人間に襲い掛かります。カーニバルの町は大混乱になってしまいますが、ヴィクターの活躍でモンスターは電流を使って退治されます。でも、唯一残ったコウモリネコが同級生のエルザをつかまえて風車小屋にさらっていきます。町の人々は最初はスパーキーがエルザを殺したと思って、スパーキーを松明を持って追いかけるのですが、風車小屋の風車にぶら下がるエルザを発見します。ヴィクターが風車に上ってエルザを救おうとするのですが、市長の持っていた松明が風車小屋に引火してしまいます。ヴィクターがエルザを救い、燃える小屋の中に飛び込んだスパーキーがヴィクターを引きずり出します。しかし、コウモリネコがスパーキーを再度燃える小屋に引きずり込みます。そこへ燃えた梁が落ちてきてコウモリネコを刺し貫きます。そして、燃え尽きた風車小屋からスパーキーの遺体が見つかります。町の人々が自動車を集め、そこから電線をつないで、スパーキーに電気を流すとスパーキー復活。ヴィクターにしっかりと抱きかかえられるスパーキー。めでたしめでたし。

フランケンシュタインは悲劇的な結末でしたけど、この映画はハッピーエンド。まあスパーキーのかわいさに免じて大抵のことは大目に見ましょうという気分にさせられます。死んだものを生き返らせることの是非については、この映画は是という立場を取っちゃいました。それが、ブラックな笑いでなく、ハートウォーミングな大団円になっているところが微妙な後味を残していますけど。私は、最後はスパーキーは死んじゃうんだろうなと思っていただけに、ラストで再度生き返ったのにはびっくりでした。クライマックスに登場するモンスターのみなさんはそれほどのインパクトがなくって、ドラマを盛り上げるに至らなかったのはちょっと残念。ガメラの登場も面白いのですが、怪獣映画のオマージュしました以上のプラスアルファがなかったって感じでした。とはいえ、やっぱりスパーキーが全部さらっちゃうし、スパーキーだけで、モトの取れる映画には仕上がっています。でも、大人向けなのか子供向けなのかよくわからない映画ではありました。盛り込んだ趣向は大人向けなのですが、ラストで生き返ってめでたしめでたしにしちゃうあたりは子供向けなのですよ。

「砂漠でサーモン・フィッシング」は面白い設定なんだけど、どっか惜しい。


今回は、新作の「砂漠でサーモン・フィッシング」を川崎のチネチッタ5で観てきました。昨日観た日劇1に比べたらスクリーンもキャパも小さいのですが、大画面を堪能できるポジションがこの映画館の方がたくさんあります。スクリーンの高さとか座席の配置で、そこそこのキャパでも高い満足感が得られるんだなあって、改めて感心。

投資コンサルタントのハリエット(エミリー・ブラント)は、顧客であるイエメンの大富豪シャイフ(アマール・ワケド)から、イエメンでサーモン・フィッシングをやりたいという申し出を受けて、漁業省のジョーンズ博士(ユワン・マクレガー)に相談をかけます。そのタイミングでアフガニスタンでモスク爆破事件が発生していて、中東絡みの何か明るいニュースはないかと探していた広報担当官マクスウェル(クリスティン・スコット・トーマス)の目に留まります。首相に話したら、是非そのプロジェクトを進めるようにとの一声。あまりのばかばかしい話に相手にする気もなかったジョーンズもお上の意向で、無理やり、このイエメン・サーモン・フィッシング・プロジェクトに参加させられることになります。何から手をつけていいものかというジョーンズとハリエットですが、水源を確保するためのダムはあるらしいし、単に暑いだけじゃないらしいし、鮭の運搬方法、飼育方法などが固まってくると、なんとなく実現できそうな感じになってきます。その一方で、従軍していたハリエットの恋人ロバートが作戦中に行方不明となってしまいます。絶望的になるハリエットですが、ジョーンズが彼女を励まし、ついに現地へと向かいます。鮭の確保でトラブルが起こりますが、天然物を我慢して養殖の鮭を使うことで何とか解決し、いよいよ鮭の放流の日がやってきます。妻とうまくいっていなかったジョーンズはいつしかハリエットを愛するようになり、ハリエットも彼に心惹かれるようになっていました。そこへいいニュースが舞い込んでくるのです.....が。

「ショコラ」「サイダーハウス・ルール」のラッセ・ハルストロム監督の新作です。最近は「ホークス」「HACHI 約束の犬」「親愛なる君へ」などの小品で、職人的なうまさを見せていたのですが、今回はイギリス映画でして、作家性か職人芸かどっちに転ぶのか興味ありました。ポール・トーディの原作を、「フル・モンティ」「スラムドッグ&ミリオネア」のサイモン・ビューフォイが脚色しています。

冒頭で、イエメンでサーモン・フィッシングをしたいという話が出てきて、本気でやるのか、どうやってやるのかという展開は、コミカルなセリフの応酬もあって快調なテンポで進みます。砂漠に鮭を放流して釣りをしたいというのは、いかにも男の子っぽい夢で、その邪念のなさがいいなあって思います。お話のポイントをここだけにしぼってくれれば、夢のあるファンタジーとして楽しめたかなと思うのですが、このメインのそれをやろうってのは、砂漠の大富豪シャイフ。どーせ、石油成金の道楽オヤジだろうと思っているとこれが若いイケメンで、でも言う事にいちいち含蓄があるなかなかに奥の深い人物として登場します。なるほど、とてつもないことをやろうという人は、普通の価値尺度では測れないところがあるなあって納得しちゃいました。アマール・ワケドの好演もあって、情熱を秘めた物静かな風流人ぶりが大変魅力的でした。

さて、ここまでが、サーモン・フィッシングに関わるお話なんですが、この映画には、もう一本のストーリーがありまして、それは、ジョーンズ博士とハリエットの恋模様。登場シーンでジョーンズ博士には奥さんがいます。二人の生活はラブラブとは言えないけど、破局寸前には見えません。ハリエットには会って3週間の軍人の恋人ロバートがいます。それに、ジョーンズ博士は女性の扱いがうまいようには見えません。そこに事件が発生、ハリエットの恋人が戦場で作戦中に行方不明になっちゃいます。仕事にも出てこなくなり、ひたすら彼についての新しい情報を待ち続けています。ジョーンズ博士はそんな彼女をサンドイッチを持って訪れます。これって一見遠回しなアプローチではないかい? とにかく、そのサンドイッチのおかげもあってか、ハリエットは仕事に復帰、ジョーンズ博士と一緒にイエメンに飛びます。砂漠の中のダムにびっくり、そして砂漠の砂利は産卵に最適、井戸の水は冷たい、とうれしい発見が重なって、気分的にも盛りあがった二人はいい雰囲気になります。そのころには、ジョーンズ博士と奥さんの関係は冷え切っていましたから、博士としては、ハリエットへの一本釣り状態。一方のハリエットは、ニュースでアフガンである作戦に向かった兵士が死んだことを知って号泣します。もう、ロバートに会えない、ジョーンズ博士なら、会える、という事実に、ハリエットの心も整理がまだついてないけど、それでもジョーンズ博士に惹かれはじめるのでした。恋人が戦争に行ってるすきに他の男に惹かれてしまったというわけです。見ようによってはすごくヘビーに展開しそうな話なのですが、ハルストロムの演出はすごく普通に撮っています。全てのエピソードが極端に走らないで、どこか至近距離に落とす演出なので、よく言えばまろやか、ぶっちゃけると山のないドラマということになります。とはいえ、戦場に行った恋人から身近な男に行っちゃうってのは結構重いお話でして、砂漠で鮭釣りしようっていう、のどかなお話と並べると、恋愛話の方が目立ってしまうのですね。せっかくの視点の面白い題材が、戦争絡みのラブストーリーと並べられると霞んでしまうのは、何かもったいない。狙っているのか、計算違いなのかはわかりませんが、やっぱりタイトルになってるネタをメインにして欲しかったわあ。

サブプロットとして登場する、このプロジェクトを使って政府のイメージアップを図ろうとする広報担当官のコミカルな狡猾さと、シャイフの未来を見据えた誠実さがうまい対照をなしていまして、風刺的な味わいもある映画に仕上がっています。また、砂漠で鮭釣りをするという夢みたいな話を実現することの価値を感じられれば、ある種の感動もあります。そういう意味では盛りだくさんな内容の映画ではあるのですが、ハルストロムの演出はどの切り口も同じ温度で描いているので、どの視点が気に入っても、物足りなさを感じてしまうところがあります。そのバランス配分を演出の妙と受け取るか、虻蜂取らずと思ってしまうかで、この映画への評価は変わってくると思います。個人的には、突出したラブストーリーをもっと後ろに引っ込めて欲しいかなって思っちゃいました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



いよいよ、鮭が放流される日がやってきます。その直前、死んだと思っていたロバートが無事に発見されるのですが、マクスウェル広報担当官はそのことを隠しておきます。一方、イエメンの現地では、そんなこととは知らないジョーンズ博士はハリエットに不器用ながら想いを伝え、彼女もそれをまっすぐ受け取ります。そこへヘリでロバートがやってくると、ハリエットびっくり、ジョーンズ呆然。この奇跡の生還と鮭の放流を絡めてメディアに売り込もうというのが、マクスウェルの作戦だったのです。そして、鮭の放流が始まります。養殖の鮭が、果たして川をのぼっていくのかどうかが不安だったのですが、鮭は上流へ泳ぎ始めます。しかし、シャイフのこのプロジェクトをよく思わない連中が、上流のダムを放水したため、鮭も人も水に押し流され、鮭は全滅、死人まで出てしまいます。やった連中を逮捕すべきだというジョーンズ博士に、シャイフは彼らの理解を得られなかったことが残念なのだと言います。

ハリエットには彼氏が戻ってきたし、嫁さんと昔の関係には戻れないジョーンズ博士は、サーモン・フィッシング・プロジェクトをイエメンで続けることにします。ハリエットたちがイギリスへ戻る日、ハリエットがジョーンズ博士に向ける視線を見て、ロバートは「自分で選択しろ」と言い、最終的にハリエットはジョーンズ博士と一緒にイエメンでプロジェクトを続けることにするのでした。おしまい。

死んだと思っていた恋人が生きて帰ってくるという展開は、そのネタだけで映画が一本作れるお話なのですが、それと、鮭放流を一緒に描いてしまったので、どっちがメインの話かよくわからなくなってしまいました。ジョーンズ博士が、ロバートに向かって「僕は彼女を愛してるんだ」と言っちゃう、空気の読めなさといったところは、リアルなキャラクター作りとしてはありなのですが、感情移入できなくなっちゃうところは残念。ハリエットがジョーンズ博士に惹かれたのは、サーモン・フィッシング・プロジェクトでの仲間意識が愛情に変わってしまったもので、スキー場の恋みたいなところもあって、ホントにこの二人大丈夫かなあって思わせる結末でした。ジョーンズ博士がそれほどの男じゃないという描かれ方をしていることもあって、ハッピーエンドと素直に喜べませんでした。

サーモン・フィッシング・プロジェクトは、砂漠に水をひき、農業を興すことを目的としているものでした。映画の中では失敗に終わっちゃうのですが、ラストではまだ生き残った鮭がいることで、希望を感じさせてくれます。寓話のような映画ではあるのですが、そのやわらかな味わいと、ラブストーリーや風刺劇のリアルな空気感が、多少ぎくしゃくしちゃったところもあります。でも、その目のつけどころはなかなか面白いので、全体の評価としては、どっか惜しいってところに落ち着いちゃいます。コミカルな部分とか前半のテンポのよさとかは好きなんですが。

「007 スカイフォール」は大型娯楽アクションを期待すると、地味で大味な映画って感じになっちゃう


今回は、新作の「007 スカイフォール」をTOHOシネマズ日劇1で観てきました。でかいスクリーンの大劇場ではあるのですが、大画面を堪能できるベストポジションが意外と少ないんですよね。大画面を堪能するには、それなりの作りになっていないといけないってことなのでしょうか。

007ジェームズ・ボンド(ダニエル・クレイグ)はNATO諸国の秘密諜報員のリストを盗んだ男を追跡していましたが、列車上で犯人ともみ合いになったとき、狙撃手の銃弾がボンドに当たり、彼は鉄橋から下の川に落ちてしまいます。その直後、ロンドンのMI6本部がハッキングされた後、爆破事件が発生し6人が死亡します。そのやり口からして、MI6のトップであるM(ジュディ・デンチ)に個人的に恨みがあるみたいです。Mのパソコンにハッキングしメッセージを出した後にリストの5人をインターネットにばらまきます。その結果、3人のエージェントが殺され、Mは責任を問われることになります。一方、瀕死の重傷から復帰したボンドは、Mの命令を受けて事件の捜査に着手します。まず、リストを盗んだ男を追って上海に向かい、彼が狙撃を行ったところで黒幕を聞き出そうとするのですが、男はビルから落下していきます。その男が持っていたカジノのチップから、マカオに向かい、そのカジノでチップを出すと400万ドルに換金されます。そんなボンドに近づいてきたのがセヴリン(ベレニス・マーロウ)という女、彼女はどうやら黒幕につながっているようです。彼女のヨットに乗って向かった先は廃墟の島デッド・シティ、そこでボンドを待ち受けていたのは、元MI6の敏腕エージェントでMの部下だったシルヴァ(ハピエル・バルデム)でした。ボンドの目の前でセブリンを殺すシルヴァ。しかし、そこへMI6のヘリが現れ、シルヴァは逮捕されMI6本部に監禁されます。しかし、シルヴァは用意周到にトラップを仕掛け、プログラムウィルスを使って、システムに侵入して脱出。さらに、追ってきたボンドを地下鉄で殺そうとし、審問会に乗り込んで証言中のMを殺そうとするのでした。



今回はこの映画、結構けなしていますので、そういうのがお嫌いな方はパスしてください。



007シリーズも今年で50周年だそうです。まあ、スタッフ、キャストがどんどん入れ替わってきているので、寅さんシリーズのような感慨はないのですが、それでも長寿シリーズであることは間違いありません。そして、ボンドがダニエル・クレイグになってからは3作目です。今回の監督は「アメリカン・ビューティ」「レボリューショナリー・ロード」などのシニカルな人間ドラマで定評のあるサム・メンデスがメガホンを取りました。前作のマーク・フォースターもアクション畑の人ではなかったのですが、今回もドラマ系の人を監督に持ってくるあたり、プロデューサーの意図がよくわかりかねます。どうも、ダニエル・クレイグがボンドになってから、変化球の007ばかりという印象でして、今回もまた、王道の娯楽映画ではない、007の番外編みたいな映画に仕上がっています。そろそろ、大型娯楽路線にシフトチェンジしてもいいんでないかい?というか、定番の豪華娯楽アクションが観たい私にとっては、前作に続いて期待外れの映画になってしまいました。特に、今回は変化球度が大きいので、そこにはまれば素直に堪能できる映画だと思います。つまり、変化球の007映画としては大変よくできていると思います。そこにはまれないと、何だか地味で大味な映画だなあという印象が残ってしまうのですよ。

今回は、アバンタイトルでボンドはMI6のイヴ(ナオミ・ハリス)の誤射で、銃弾を浴びて川に落ちてしまいます。そして、リストを盗まれたことでMの立場が危うくなり、新しいMの上司マロリー(レイフ・ファインズ)がやってきて、MI6の本部がハッカーと爆弾で大変なことになっちゃうというところでボンドが復帰してきます。銃弾を受けてどうやって助かったのかとか、どうやって死んだことにして、どうやって身を隠していたのかといったことは一切示されません。まあ、そのへんの細かいことはいいんだよ、という大雑把なところは、これまでの007らしくて悪くはないのですが、その後のシリアスな展開と、大雑把さがうまく溶け合っていないのですよ。このミスマッチ感は映画のラストまで続きまして、地味でシリアスな展開をしているのに、要所要所が大味というか大雑把。この地味でシリアスな展開は、ボーンシリーズをマネたようなところもあって、そこはご愛嬌とも言えるのですが、ボーンシリーズにあった緻密な展開の部分が追いついていなくて、大型娯楽アクションの大らかさが前面に出ちゃうという感じでして、そこがやはりアクション映画に不慣れなんじゃないかという気がしてしまいました。

登場人物の掘り下げという部分では、サム・メンデスの演出は快調でして、負傷して肉体的にも精神的にも不完全なボンドをダニエル・クレイグは好演していますし、敵役のハピエル・バルデムも身を削って復讐に燃えるやり手スパイを熱演しています。今回は扱いの大きいジュディ・デンチの凄みですとか、レイフ・ファインズの意外なかっこよさなと、脇役の見せ方も見事でした。しかし、ドラマの中心に、Mへの復讐を置いてしまったことで、お話がお家騒動というか内輪もめになってしまい、007らしいスケールの大きさが出なかったのは痛かったと思います。中盤、監禁されたシルヴァが本部を脱出して、地下鉄の駅に向かい、さらにそこから審問会に向かってMを襲うという展開は、サスペンスフルではあるのですが、ボンドを殺すために地下鉄を脱線させたり、警官に変装したシルヴァがたった3人で審問会の場に直接乗り込んでいくのは、緻密なプランで動いているとは思えない大雑把さでして、お気楽娯楽アクションの悪役がやるのなら、OKなのですが、リアルなドラマの上に大味なアクションを乗せちゃうのは、どこかすわりが悪いという印象になってしまいます。

要所要所を人間ドラマに絞り込んだ見せ方をしたいという意図はわかるのですが、それならば、もっとアクションシーンもリアリティのある見せ方をして欲しいという気がしちゃいました。クライマックスへの向けての展開で、ボンド、シルヴァ、Mの3人のドラマをきちんと見せようとしているのは伝わってくるのですが、その分、サスペンスアクションが手抜きに見えちゃうのが今イチなのですよ。私個人の希望なのですが、どうせなら、派手な大味アクションをたっぷり見せて、ドラマ部分もそれに合わせてちゃっちゃとさばいてくれた方がうれしいのです。もっと画面の隅々まで火花とかエキストラを配して、派手な見せ場をドッカンドッカンやってほしいのですよ、007映画なのですから。そうじゃなくて、シリアスなドラマをやりたいのであれば、サスペンスアクションの部分はもっと緻密に丁寧に作って欲しかったなって気がしました。

ロジャー・ディーキンスの撮影ですとか、トマス・ニューマンの音楽など、曲者を集めているのはわかるのですが、彼らの曲者っぽさは意外と薄められていて、オーソドックスな絵作り音作りになっています。映画の軸足が、シリアスドラマと大味アクションの間を行ったり来たりしていて定まらないから、そこそこのところに落ち着いたといったら、ひどい言い方になっちゃうのかしら。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



審問会の乗り込んだシルヴァたちを追ってボンドもやってきて銃撃戦となります。何とかMを救出したボンドは彼女を誘拐したという態で、イギリスからスコットランドの自分の故郷へと向かいます。かつて子供の頃がボンドの住んでいた屋敷の名前がスカイフォールというのですよ。そこへ着いたボンドとMを迎えたのは、ボンド家のかつての使用人だったキンケイド(アルバート・フィニー)でした。3人で武器やトラップを準備し、シルヴァたちを待ち構えていると、そこへ自動車でシルヴァの部下たちがやってきます。用意した銃やトラップで彼らをやっつける3人ですが、そこへヘリでシルヴァと部下が乗りこんできます。Mとキンケイドを屋敷の地下道から外へ逃がし、ガスを爆発させてヘリを吹き飛ばすボンド。しかし、逃げるMとキンケイドを見つけたシルヴァは、彼らを追い、古い教会にいるMに銃を突きつけます。そこへ間に合ったボンドの投げたナイフでシルヴァは絶命。しかし、Mは既に被弾していて、ボンドの腕の中で息を引き取ります。MI6に戻ったボンドは、イヴの名字がマネーペニーだと知り、そして新しいMとなったマロリーから指令を受け取るのでした。おしまい。

この映画では、Qも復活しますし、やっと007の体制が整ったところで終わりとなり、これで、番外編は打ち止めで、次からは王道の007になるのかなという予感で映画は終わります。とは言っても、「カジノ・ロワイヤル」の結末も、「これで番外編終わりだよ」という見せ方になっていましたから、まだ、番外編をやるかもしれないという危惧は残る結末でもありました。

映画の冒頭では、MI6の本部とボンドが会話しながら、かつボンドの位置を本部が追跡しながらアクションを繰り広げるというものでした。クライマックスの前では、本部のQがシルヴァにもわかる痕跡を残しながらボンドの位置をトレースしています。これだけ、手の込んだことをできるMI6なのですが、スカイフォールでのシルヴァの襲撃に対して、007に何のバックアップもしないというのが、すごく不自然でした。ボンドの居場所を知らない筈はないのに、孤立無援の戦いをさせて、Mを死なせてしまうのは、MI6にとってよっぽどMが邪魔だったのか、或いは脚本家がクライマックスをボンドとシルヴァとMだけにしたかったのかどっちかでしょう。このあたりの詰めの甘さが、シリアスドラマなのに大味だなあって印象につながってしまいました。シルヴァやMが死ぬシーンを丁寧に演出しているあたり、メンデス監督が狙っているドラマチックな見せ方は成功しているとは思うのですが、スパイアクションとしては粗っぽすぎる展開になっちゃっています。スパイアクションの枠を借りて、マザコン兄弟の一本立ちを2パターンで見せましたというのであれば、それはそれでありかもしれません。そういうシニカルな視線の方が、サム・メンデス監督の得意分野だとも思いますし。

また、王道アクションの007のファンとして言わせていただくと、クライマックスでのボンドの相手役がオバアちゃんでは色気なさすぎて、盛り上がらないです。「カジノロワイヤル」のエヴァ・グリーンみたいなきれいなオネエさんだからこそ、007映画は盛り上がるのだと思います。いや、これはそういう映画じゃないんだと言われてしまうと返す言葉はないのですが、何かねー、007に期待しちゃうのは、きれいなオネエさんをめぐって、007と悪い奴がドンパチやるっていうわかりやすい話なのですよ。今回のシルヴァみたいに、変に復讐にこだわる悪役よりは、私利私欲のために悪いことに精を出す悪役のほうがわかりやすいのですよ。そういうわかりやすさを007に期待しちゃいけないのだとしたら、長年のファンとしてはちょっと残念なのであります。

「三人の女」の観客への挑発度がお見事、結局どういう意味だったのかしら。


今回は、pu-koさんのブログに紹介されていた「三人の女」をDVDで鑑賞しました。1977年に公開されていたことは知っていたのですが、まさかこんな映画だったとは思いもしませんでした。

リハビリセンターにピンキー(シシー・スパセック)という女の子が介護士として入所しました。先輩のミリー(シェリー・デュヴァル)から仕事の手ほどきを受けるのですが、ピンキーはミリーのことがすごく気になるみたいで、彼女がルームメイトを募集しているのを知り、彼女と同居することになります。彼女の行きつけのお店の主人エドガーは、二人の大家さんでもあり、エドガーの奥さんウィリー(ジャニス・ルール)は臨月のお腹を抱えながら、不思議な半獣人の絵ばかり描いています。ミリーは自意識が強くて、仕事場でもアパートの住人の間でもちょっと浮いちゃってますが、本人はそのことに気がついていないみたい。そんな彼女でも、ピンキーはある種の憧れを抱いているようです。ミリーが主催したパーティが相手の都合でキャンセルされて、その原因がピンキーであるかのように責められてしまいます。それが原因だったのか、アパートにあるプールに階上から飛び込んで昏睡状態になっちゃいます。ミリーは彼女を両親に何とか連絡を取って呼び寄せるのですが、ピンキーは訪れた両親を知らないと拒否しちゃいます。それでも、何とか退院して療養期間に入るピンキーですが、それまでのオドオドした態度が一変、ミリーにもきつい言葉を使うし、アパートの住人とも仲良くなるし、エドガーともねんごろになっちゃいます。一方で、ミリーはピンキーが自殺した以降、妙に神妙でオドオドした感じになってきちゃいます。何だか、妙な感じになってくる二人なのですが、この先、ウィリーも巻き込んで奇妙なドラマにオチがつくわけですが。

ロバート・アルトマンが製作、脚本、監督の3役をこなした1977年の作品です。ピンキーとミリーという二人の女性を軸に、物語は展開するのですが、その流れの中でウィリーの半獣人の絵といった不思議なインサートショットが交錯し、全体を何か悪い夢を見ているかのような雰囲気が漂います。夢をベースに作った物語だと、DVDのライナーには書いてあったのですが、夢判断したくなるような要素が映画の中に多数登場します。何だか薄気味悪い双子の看護士ですとか、廃墟になったミニゴルフコース、半獣人の絵が描かれたプール、リハビリセンターの温水プールですら何やら異様な空気を運んできますし、いったいこいつら何者なんだろうと思わせるピンキーの両親も悪夢の一部のように思えてきます。そこから見えてくるのは、存在の曖昧化ということになるのでしょうか。ピンキーは、だんだんとミリーに同化しようとしているように見えます。自殺未遂事件の後は、一時的記憶喪失のような症状で、彼女のアイデンティティは壊れていってしまいます。それとシンクロするかのようにミリーの性格もこれまでとは別人のようになり、ミリーのアンデンティティも壊れ始めます。理由も何もわからない、そもそも一体二人に何が起こっているのかすら、エピソードの中から推察するしかありません。ピンキーは間違えてミリーのタイムカードを押した。ピンキーはミリーと同じ鍵付きの日記帳をつけ始めた。ピンキーはミリーと同じようにエドガーとねんごろになった。ただ、それらを結ぶ一つの線のようなものがなかなか見えてこないのですよ。さらに、タイトルが「三人の女」なのですが、ウィリーの存在感が希薄なことも不可解です。ウィリーはプールの底で不気味な半漁人の壁画を描き続けます。そして、彼女は臨月のお腹を抱えています。何かが生まれるという前兆なのでしょうか。確かに、ピンキーとミリーの間に、二人が出会う前にはなかった何かが生まれつつあるのは事実でしょう。ひょっとして、ウィリーがその発端になっているのかもと受け取れるところがあります。

全てがあやふやとした展開は、ピンキーの両親はおろか、ピンキーやミリーという女性が本当に存在したのかどうかもよくわからなくなってきます。そして、この映画全体が一つの夢、あるいは一つの生き物のように見えてくるのです。冒頭も半獣人の絵にもやもやがかかっている画面で、この時点で、すでに映画は現実世界を離れているのかもしれません。その挑発的な作りに、うまく突っ込みが入れられることができれば、この映画に乗ることができますが、何も引っかかるところがなければ、お手上げということになりましょう。私は、この映画の展開に何じゃこりゃと思いながらも、引きこまれて観てしまいました。ストーリーは変なんだけど、演出と役者のうまさが観ていて退屈させないのですよ。登場人物の一挙手一投足が思わせぶりで、何かあるんじゃないかと思わせる。はっきりとはわからないけど、何かある、そう感じさせるあたりにアルトマンのうまさを感じました。他人の夢の話を聞かされるってのはものすごく退屈なのですが、この映画は他人の夢の話みたいなのに飽きさせない展開で目が離せなくなります。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



退院後、すっかり人格が入れ違ったようなピンキーとミリー。ある夜、悪夢にうなされたピンキーがミリーに一緒に寝て欲しいと言ってきます。その後、エドガーが部屋に忍び込んできます。ウィリーが産気づいたというのですが、放っておいてきたというエドガーに腹を立てたミリーはピンキーを連れて、ウィリーの家へと急ぎます。ミリーはピンキーに医者を呼んでくるようにと言って、ウィリーのそばにつきますが、どうすることもできないまま、赤ん坊は生まれてしまいます。その子供が冷たくなっているのに驚くミリーが外へ出てみれば、そこには呆然と立ち尽くすピンキーがいました。医者を呼んできてと言ったのにと怒ったミリーがピンキーをなぐりつけると、ミリーの手についた血で、ピンキーの顔は血に染まります。そこで、場面が変わって、ウィリーのドライブインへ業者がドリンクを運んできます。カウンターでは、何だか若くなったように見えるピンキーが雑誌を読んでいます。そして、そこへママと呼ばれた女性がなんとミリー。ミリーが店から離れた家に行くと、老け込んだウィリーがいました。ミリーのダンナは銃の暴発事故で死んだらしいということがわかり、3人は落ち着くべきところに落ち着いたらしいというところでおしまい。

ラストで、ピンキーはあきらかに小娘になっちゃってますし、ウィリーは老婆化しています。最初はバラバラだった3人がまとまったのか、それとも同じ人格だった3人がバラバラになっていたのか、そのあたりは色々と解釈ができるところですが、映画はどうとでもとれるような作りになっています。観る人によって、気になるところも色々だと思いますが、私には、ピンキーの周囲に死のイメージが垣間見えるところが印象的でした。特に、ピンキーの悪夢の中に彼女が殺されているカットがあり、ひょっとして、ピンキーはプールに落ちた時点で死んでいて、この世にいないんじゃないかと思ってしまいました。そして、ウィリーも死産のときに死んでしまい、全ての人格を引き受けたミリーが、一人三役になって生き残ったのかなって解釈しました。宣伝文句だと「1人の女が2人に、2人の女が3人に、そして、3人の女が1人になった」とありますから、自分の解釈もそう的外れではなさそうです。このあたりははっきりしたことは全然わからないのですが、わけわからないくせに映画は観客を挑発してくるので、何か自分なりのストーリーを見つけないと気がすまないようにできているのですよ。気になるパズルのピースとして登場するピンキーの両親の意味は、彼女の存在がこの世にいないことを示すためのものだったのかも。

演技陣では、カンヌで主演女優賞を取ったというシェリー・デュヴァルが微妙に人格が変化していくのを熱演していまして見事でした。シシー・スパセックの年齢不詳ぶりのキャラはこのピンキーという役にピタリとはまりました。場面場面によって別人に見えるピンキーを統一感を持たせて演じたのは見事でした。

「桃さんのしあわせ」は人生の幕引きを淡々とみせる映画です。


今回は静岡シネギャラリー2、東京では公開済みの「桃(タオ)さんのしあわせ」を観て来ました。ここは会員になると、ウィークデーは1000円、週末でも1400というレディースデーのないオヤジにはうれしい映画館です。後はDLPの画質がもうちょっと上がるといいのですが。

桃さん(ディニー・イップ)は広東省出身で、香港の梁家の使用人として、60年も勤め上げてきました。今、梁家で香港に残っているのは、映画プロデューサーのロジャー(アンディ・ラウ)だけでしたが、食事から何か全て家のことは桃さんが仕切っていました。そんな彼女がある日脳卒中で倒れてしまいます。退院後もリハビリが必要で、もう家の仕事を十分にできないと、桃さんは自分の蓄えを使って老人ホームへ行くと言い出します。桃さんの施設探しをするロジャーは元俳優のバッタ(アンソニー・ウォン)の紹介で香港の家の近所を紹介してもらい、そこへ桃さんは入所することになります。そこは、きっちりと暮らしてきた桃さんにはあまりにも雑然としたところではありましたが、彼女はそこの暮らしに慣れようとつとめ、友人もできていきます。そんな桃さんのもとに息子のように通うロジャー。日々が過ぎ、リハビリを耐えて杖なしでも歩けるようになる桃さん。しかし、老人施設の時間は、いくら過ごしよくても時の流れは残酷です。友人だったガムさんが急に倒れ帰らぬ人となり、桃さんも胆管の炎症で入院、手術は無事に乗りきったものの、老いは桃さんの体の自由を奪い、言葉の自由を奪い、それはロジャーにもどうすることもできなかったのでした。

実在の映画プロデューサー、ロジャー・リーの実話をスーザン・チャンが脚本化し、「女人四十」の女流監督アン・ホイがメガホンを取りました。ロジャー・リーとアン・ホイはプロデューサーとしても参加しています。私は、アン・ホイという名前は聞いたことはあったのですが、彼女の映画は観たことがなくて、今回が初めての鑑賞となりました。桃さんという老女の晩年を描いたドラマなのですが、その描き方はまことに淡々としたもので、細かいエピソードを紡いでいくという構成で、ドラマチックな山場を排してしているのですが、そのドラマの密度は濃く、映画としての見応えは十分でした。英語題が「Simple Life」というのですが、こちらの方が素直に受け止められる内容になっています。「桃さんのしあわせ」という邦題だと、「しあわせ」の意味を考えさせる映画なのかと思われそうですが、そんな主観的な問題よりも、よりシンプルな一女性の人生の幕引きを描いているのです。

桃さんという人がきちんと生身の人間として描かれている点がまずこの映画の大きなポイントだと思います。決して我が強いわけじゃないけど、どこか頑固なところがある、気難しくなっちゃう時もあるけど、人にやさしくなれる時もある。そんな、よくいるオバちゃんの人生を、ほんの少しの時間に垣間見せるあたりは演出のうまさなのでしょう。ドキュメンタリータッチではあるのですが、人情コメディのようでもある、そのあたりのさじ加減が見事だったと思います。演者であるディニー・イップという女優の存在を少しも感じさせない演技もすばらしかったです。一方のアンディ・ラウはどこかお坊ちゃん風でとても映画プロデューサーには見えないロジャーを控えめに演じています。実は、アンディ・ラウもこの映画が初めてなのですが、桃さんとの関係を説得力ある演技で見せてくれています。でも、海千山千の映画プロデューサーのいかがわしさはあまり感じられませんでしたので、そこはリアルよりドラマを優先したのかも。

香港における老人ホーム事情が垣間見られるのも面白かったです。桃さんの入った老人ホームは、通りを隔てて入ってすぐのロビーが食堂でもあり、歓談室でもあります。個室というふれこみですが、大部屋に仕切りがついただけの作りで、食事もあまりよくなさそう。人口密度もかなり高くて、ゆったり快適な老後というわけにはいかないようです。でも、お金が払えない人には政府からの援助が出るようで、身寄りのない老人が見捨てられることはないみたい。それでも、出せるお金によって、部屋とか介護人のランクが決められていて、そのあたりの格差はシビアなようです。老人ホームのシーンで登場するお年寄りはかなりリアルで、元気な人もいれば、ただそこにいるだけの人もいます。入った当初は、桃さんも元気な人の一人だったのですが、映画のラスト近くで、言葉のろれつがまわらない人になっちゃっていまして、痛々しくもあるのですが、最後に誰も通るところなんだなあって納得しちゃうところもありました。自分もこれから通る道だとして、どういう通り方ができるんだろうって考えてしまいます。

脳卒中で倒れ、体がうまく動かなくなり、老人ホームに入り、リハビリしながら、毎日を過ごしていくというのは、それまでバリバリ働いてきた人にとっては、ものすごいカルチャーショックでしょう。リハビリを頑張って、体が動くようになっても、今度は別の病気で手術をしなくちゃならなくなる。手術を乗り切っても、老いは止められない。そんな残酷な過程をリアルに描いているのですが、そんな人生に対して作り手の視点は肯定的です。肯定的というと大げさかもしれませんが、少なくとも、誰もが通る道として描いています。特別じゃない人の晩年ってのはこんな感じなんだろうなあって感じなんです。桃さんは家族もいない孤独な人なんですが、そこを前面に出しては来ません。ロジャーの家はすごい金持ちで、映画界という華やかな仕事もしているのですが、それも前面に出してはきません。特別な部分をできるだけ背景に押しやることで、普遍的な女性の晩年のドラマに仕上がったのだと思います。

桃さんの状態が悪化して、ロジャーは延命処置を止めることを決断します。桃さんが息を引き取るシーンは描かれず、桃さんの葬式になるのですが、そこへ施設で彼女に金をたかっては風俗通いしていたキンさんが現れ、花束を置いて深々と頭を下げるのがラストシーンとなります。ロジャーとの関係とは異なる、キンさんとの関係というか縁が示されることでドラマに奥行きが出ました。この映画は、人の縁を描いたドラマなんだなって気づかせられる結末でもありました。ロジャーと桃さんの関係は、ロジャーの生まれた時に既に決まっていました。その当たり前の主従関係が、何のご縁か、親子みたいな関係になっちゃいます。ロジャーにしてみれば、特にドラマチックな展開があったわけではないのに、桃さんのホームでの費用を支払ったり、しょっちゅう訪問しては彼女の様子をみてあげたり、そうなっちゃうことがすごく自然な流れの中で描かれていまして、ロジャーはその流れに身を任せているように見えます。その関係ってのは、やっぱり縁なんだろうなって思いました。でも、その縁を大事にするに越したことはないよねっていう見せ方に、この映画のメッセージがあるような気がしました。

脳卒中で倒れる前の、桃さんとロジャーの関係は必要最低限のコミュニケーションで成り立っていたようなのですが、老人ホームに入ってからの、桃さんとロジャーの会話はどこか楽しそうで屈託がありません。実際の母親よりもずっと親しげで、旧来の友人のようです。この映画には、アメリカに住んでいるロジャーの母親も登場するのですが、ロジャーと母親の会話と、ロジャーと桃さんの会話を対比させることで、二人がまるで恋人同士であるかのようにも見えてきます。どちらかが或いは二人が望んだ関係ではなく、なぜかそんな感じになっちゃった、それが縁ということになるのでしょう。

色々なことを考えさせられる映画ではあるのですが、その語り口はきわめて穏やか。そして、施設に同居する老人たちや、スタッフのチョイ主任(チン・ハイルー)、ロジャーの友人たちといった面々の描き方が細やかで、全体に丹精さが感じられる作りになっています。特に、正月、行き場がなくて施設で年越しすることになった桃さんとチョイ主任がテレビを見ながらまったりしている感じ、桃さんに家族のことを聞かれて、その質問を無視するチョイ主任の感情の揺らぎが印象に残りました。また、友情出演として、ツイ・ハーク、サモ・ハン、レイモンド・チョウといった香港の映画人が実名で登場していまして、そのさりげない扱いも好感度上がりました。ロー・ウィンファイの音楽が、フランス映画に中国的音を交えたような音作りで、控えめな鳴り方ではありますが印象的でした。
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einhorn2233

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Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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