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「故郷よ」は、不吉な空気と漂う人々の想いが胸を打ちます。


今回は新作の「故郷よ」を静岡シネギャラリー2で観てきました。DLPの画質はややシャープネスが不足で、もう少しきれいな絵で観たいと思わせるものでした。ここは、静岡で映画ファンの給水所みたいなちっちゃな映画館。「世界でひとつのプレイブック」もここで上映なんて、静活やシネセブンももう少しやる気出して欲しいわあ。

1986年4月26日はチェルノブイリ原発の事故の起こった日。その日、隣町のプリピャチ市では、アーニャ(オルガ・キュリレンコ)がピョートルと結婚式を挙げていました。しかし、ピョートルは森林火災が発生したからと、結婚式中に呼び出されて帰ってきません。黒い雨が降り、魚、そして小動物が死に、木が枯れます。発電所の技師アレクセイは、発電所で事故があったことを知り、事を公にできないまま妻と息子のヴァレリーだけを逃がすのでした。翌日になってもピョートルは帰ってこず、病院で彼が大量の放射線を浴びて隔離されていることを知ります。アレクセイは雨の中、通りかかる人に傘を配り歩きます。そして次の日、プリピャチ市民は全員、強制退去させられるのでした。それから、10年後、アーニャは月の半分をプリピャチでチェルノブイリツアーのガイドをしていました。フランス人のパトリックという恋人もいましたが、一方で発電所と石棺づくりをしているディミトリが彼女に言い寄っていました。ヴァレリーは行方不明の父親アレクセイのことを気遣いながら、別の町で暮らしています。アレクセイはプリピャチへ向かう列車をさがして彷徨い続けていました。プリピャチ市には、制限区域でありながら、発電所で働く人々、そして避難をしなかった者、避難したが戻って来た者、さらに、よそから移り住んできた人々が生活しているのです。

チェルノブイリの原発事故は世界に衝撃と恐怖を与えました。この事件を題材にしたドキュメンタリー「チェルノブイリ・ハート」がありましたが、今回の「故郷よ」は、実際にチェルノブイリの制限区域でロケをしたこの事件の後日談的なお話です。イスラエル出身のミハル・ボガニムとアントワーヌ・ラコンブレ、アン・ウェイルが共同で脚本を書き、ボガニムがメガホンを取りました。彼女にとっての初の長編劇映画になります。ドラマは2部仕立てで、事故の起きた前後と、その10年後が描かれます。

事故の日は、断続的な雷雨が続いていて、そんな中で、アーニャの結婚式があげられます。その傍らの川では魚が浮き上がっています。ヴァレリー少年が植えたリンゴの木は枯れていました。そんな不吉な予感をボガニム監督は見事に描ききっています。観客はそこで何が起きているのか知ってるわけなのですが、映画の登場人物は技術者のアレクセイ以外、誰も気づいていません。でも、何か見えない不吉なものが画面をおおっていく、その怖さがひしひしと伝わってきます。ソ連軍の不穏な動きも描かれて、不安な空気を盛り上げていくのですが、降ったりやんだりを繰り返す雨がすごく怖いのですよ。結婚式なのに、呼び出されちゃう花婿は翌日も帰ってきません。そして、軍によって追い立てられる市民たち、彼らには得体の知れない不安こそありましたが、原発事故の恐怖の実感はなかったようです。森林警備員のニコライは避難命令を無視して隠れてそこに住み続けることになります。開園寸前の遊園地の観覧車がどこか非現実な空気をかもし出し、見えない恐怖の存在感を失わせます。不吉なものが、具体的な感触を感じさせないまま、画面全体を覆っていく様を描いた演出が見事です。ガイガーカウンターを首にかけたアレクセイが、そこにあるったけの傘を買い、雨の中歩いている人に配って歩きます。リアリティよりもイメージを優先させているボガニムの演出は、チェルノブイリで実際に何が起こったのかを絵解きするのではなく、そのあったであろう不吉な空気を描くことに重心を置いています。

事故から10年後、事故の遺族による慰霊の集まりがプりピャチで行われ、そこにはアレクセイの妻とヴァレリーの親子の姿も見えます。ヴァレリーは父親の死を納得できず集団から抜け出し、自分のもといた家に帰り、父親へのメッセージを書き残します。一方、アレクセイは、列車の中で、プリピャチ行きへの切符を出して、車掌にどやされています。もう、プリピャチに止まる列車なんかないのに。このプリピャチの周囲をさまよっているアレクセイは、幽霊なのか実在しているのかが曖昧な描き方をされており、故郷への想いが募る一方で、その故郷が実体のない幻へと化している様を表現しているようです。息子のヴァレリーは、形が残っているのに、存在していないかのような故郷への複雑な思いが、苛立ちとして表に出てきます。

アーニャは、チェルノブイリツアーのガイドをしています。時間を制限して、防護服を着てのツアーです。そんな制限区域の中で、発電所で作業している人々がいます。食堂に勤める女性の娘が廃墟のような町をさまよう様には不思議な美しさがあり、ここが現実と幻の狭間にあるような気にさせます。廃墟ツアーのようなところに突然馬の群れが現れたり、そこに住んでいるニコライがリンゴをツアー客に勧めたり、生活感のあるものが挿入されることで、ここが世界のどことも違う場所なのだということが伝わってきます。アルバニア難民が空家に住み着いていて、「放射線よりも人間の方が恐ろしい」というエピソードも印象的です。

アーニャに言い寄るディミトリは石棺作りの仕事をしています。プリピャチから離れることができない人間の一人です。彼はアーニャに「おまえもきっとまたここへ帰ってくる」と断言します。アーニャは、離れた都市に住む母親と一緒に住み、そこにパトリックという恋人がいるのに、ディミトリとも寝てしまいます。彼女もまた、プリピャチの周囲をさまよう人々の一人でした。髪が抜け始めていて、放射線が彼女の体を蝕みつつあることは間違いないのですが、それでも、そこを離れられない。見えない不吉なものは、まだそこに存在しているのに、それを実感できないまま、死の予感だけが漂っている、そんな不確かな世界の中をただよっているように見えるアーニャの姿は儚げでありますが、チェルノブイリが実在するという現実に向き合うとき、うかつな同情を許さない重さがあります。

実際にプリピャチでロケされた映像は、原発事故現場のリアリティよりも幻想的な空気を運んできます。その中で、故郷に対する人々の想いが、柔らかく儚げに、そして重く描かれていきます。事故の原因や、ソ連政府の対応を糾弾する映画ではなく、失われた故郷への想いを美しさと切なさで紡ぎ出しています。同じような制限区域になっている福島原発の周辺との比較もできるのかもしれませんが、それができるようになるには、もう少し時間が必要だと感じました。福島原発を、こういう描き方をするには、今はまだ生臭すぎると思ったのですが、これは表現が不適切かもしれませんね。

ロシア語やウクライナ語での会話がメインですが、アーニャによるナレーションは、パトリックに語りかける形でフランス語です。ヨーロッパの映画には、このように複数の言語が混在しているものが結構あるのですが、上映にあたっては、上映国にあわせて吹き替えになっているのかしら。演技陣は個々がそれぞれ存在感を示し、ヒロインのオルガ・キュリレンコは、不確かな故郷を断ち切れないヒロインの漂泊感を熱演しています。また、後半でプリピャチへの道を探しながらさまようアレクセイを演じたアンジェイ・ヒラの儚げな存在感が印象的でした。

題材がフクシマに直結することから、うかつな事を語れないなと思うものの、この映画には視覚的な美しさと映画的興奮があり、大変見ごたえのあるものに仕上がっています。すべての人にオススメできる映画で、個人的には、今年のベストテン入り確定です。

ポーランドのジャズピアニストのレシェック・モジジェルが、この映画の音楽を担当しましたが、この音楽が素晴らしい。ヒロインがバンドをバックに歌う「百万本のバラ」も印象的なのですが、ピアノやバンドネオンによるモジジェルのジャズが、リアルとは一線を画した映像を見事にサポートしています。サントラ盤が出ていないのが残念。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



パトリックから、フランスへ帰りたいから一緒に来てほしいとプロポーズされたアーニャは、迷った末にその申し出を受けます。本当は母親を一人置いていくには忍びないけど、でも、ここから離れたいという気持ちもあったのです。二人でまずオデッサまで出かけるのですが、結局彼女だけ、プリピャチへと帰っていきます。学校では、故郷への想いを語るヴァレリー。実は、あの日、ヴァレリーはアーニャの結婚式を見ていたのです。二人がバス停ですれ違います。そして、プリピャチでは日々の暮らしが続いていくのです。

ラストのアーニャとヴァレリーがすれ違うシーンで、なぜか泣きそうになってしまいました。故郷というものが、人をどのように縛り、支え、潤しているのかを考えさせられました。チェルノブイリのような特殊な状態に置かれた故郷だからこそ、その価値と意味が浮かび上がってくるのでしょう。原発の恐怖を謳う映画ではありませんが、そのもたらすものの重さは感じ取ることができます。
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「キング・オブ・マンハッタン」は大物の割に普通に情けない主人公が面白い


今回は新作の「キング・オブ・マンハッタン」をヒューマントラストシネマ有楽町1で観てきました。ここはフラットな座席でスクリーンが低めなので、前に座高の高い人が座ると画面の下側が隠れちゃう。座って背伸びするってのも限界あるから、困っちゃうよなあ。

投資会社のオーナーで大富豪のロバート(リチャード・ギア)は、慈善事業でも有名な人。妻のエレン(スーザン・サランドン)は慈善事業に熱心で、娘のブルック(ブリット・マーリング)とピーターは投資会社の重役です。今、彼は自分の会社と銀行の合併を進めていましたが、帳簿の4億ドルの穴を埋めるために、知人から借金をしているという綱渡り状態。一方で、ロバートは美術品ディーラーのジュリー(レティシア・カスタ)と愛人関係にありました。彼女主催の展覧会の日、仕事で行くのが遅れたロバートは、彼女のご機嫌を直すために別荘に出かけることにします。しかし、彼女の車を運転していたら、路側帯に接触し車は横転、ジュリーは死亡。ロバートも軽傷を負いますが車から脱出し、かつての部下の息子ジミー(ネイト・パーカー)に公衆電話から連絡し、迎えにきてもらいます。この事故の捜査にあたったブライヤー刑事(ティム・ロス)は同乗者が居たことをつきとめ、付近の公衆電話の発信記録からジミーを特定し、ロバートに疑いの目を向け始めます。一方、会社ではブルックが帳簿の4億ドルの穴に気づき、ロバートに事実なのか問いただしてきます。公私ともに崖っぷちに立たされたロバートですが、この危機を乗り切ることができるのでしょうか。

新鋭のニコラス・ジャレッキーが脚本を書き、メガホンも取った、ミステリー風ドラマの一遍です。大富豪で社長のロバート・ミラーという男が、赤字の損失補填のために銀行との合併を目論むのですが、その帳簿の穴を娘に指摘されちゃうわ、愛人とドライブしてたら自損事故を起こして愛人はしんじゃうわでどんどん追い詰められていっちゃうというお話。色々なことをやって財を成してきた主人公のようなんですが、それほどの守銭奴ではないようで、そこそこの責任感と倫理感を持っているものですから、それなりに葛藤しちゃうわけです。ストーリー的には波乱万丈とは言いがたい渋い展開なのですが、ジャレッキーの演出は手堅く物語を語っていくので、いつの間にか画面に引き込まれていました。エンタテイメントとしてよくできた映画だと思います。

ロバートは、何とか自分の会社を高値で銀行に売って、損失の穴埋めをしてから引退したいと考えています。しかし、合併相手のトップであるメイフィールドはなかなか彼の前に姿を現さず、話が先に進みません。そんなところに降ってわいたジェリーの事故死。死んだジェリーを見捨てて、警察も呼ばずにそこからずらかろうとして、かつての部下の息子で、弁護士の世話をしたこともある黒人青年ジュリーに助けを求めます。絶対に手がまわることはないと思っていた矢先、公衆電話の通話記録からジュリーが割り出されて逮捕されてしまうのです。ジェリーはロバートが恩人ということもあって、黙秘を続けるのですが、このままだと10年は刑務所暮らしだと言われ、司法取引をちらつかせる検察側に、持ちこたえられなくなってきます。しかし、ここで、愛人を事故死させたというスキャンダルは、会社合併に大きなブレーキとなり、4億ドルの穴の回収もできなくなっちゃうのですから、ジェリーに本当のことを言わないでって頼むしかありません。このあたり、投資会社のトップの大富豪という割には、ロバートがオタオタしちゃうのがおかしかったです。警察や検察は、大物の犯罪を有罪にすることにかなり熱が入るのですが、それほどの大物感がないのがこの映画の面白さなのかもしれません。そもそも、事故が起きたとき、かつての部下の息子に助けを求めるってのは、彼の周囲に信用できる人間がいないってことですから、その孤独な状況はお気の毒とも言えます。奥さんとベッドに入ってから、夜中にそっと抜け出して愛人に会いに行くというまめなところも、何か小物感がありありなのですよ。リチャード・ギアは、胡散臭い大物のようで、実は小物っぽいキャラを熱演していまして、そのギャップが楽しめると結構点数高い映画かも。メイフィールドとの直談判で、思ったいたより会社に高い値段がついてウキウキしちゃうあたりのおかしさは劇場でご確認ください。

一方、帳簿を調べていて、4億ドルの穴を見つけてしまった娘のブルックは、それが父親の指示でされていたことに大ショック。ロバートを問い詰めます。投資会社なんて、どうせえげつないことしかしてないだろうというイメージしか、私にはなかったのですが、ブルックは意外や清廉潔白な心の持ち主らしいのが意外でした。これは、投資という事業の中で起こるべくして起こった不幸な事態なのだとロバートは説明しますが、ブルックはそれに納得することができません。「アナザー・プラネット」で不思議な透明感のある女性を演じたブリット・マーリングが、ここでも青い正義感を持ったお嬢様重役を好演しています。

意外と出番が多くて印象に残るのは、恩人のために車を運転しただけなのに、10年も刑務所に入れられそうになるジミーの存在です。何も悪いことはしていないのに、警察につかまって、それでも黙秘を通すあたりは、この一件の一番の被害者になっています。実は、彼は恋人とバージニアで事業を始めるつもりだったのです。そんな逆境でも義理を通そうするあたりは、ロバートの周囲にいる人間とは一味違うところがありまして、ネイト・パーカーの好演もあって、見事にキャラが立っていました。

4億ドルの損失補填は成功するのか、過失致死は立証されてしまうのか、この二つのサスペンスを軸に展開していきます。ミステリーとしても面白い作りになっているのですが、ロバートが2時間ドラマの素人探偵みたいに警察の捜査の穴を見つけるあたりは、ちょっとやりすぎかなあ。でも、その展開の中で、どこか情けない主人公に共感しちゃうのは演出のうまさなのでしょう。自分の事故のことや、帳簿の穴は、隠しておかなくちゃいけないとロバートは娘に向って言います。今、合併を成功させないと、多くの出資者や関係者を裏切ることになる、そんなことはできない。でも、合併が成功したら、事故の件は自首するとも絶対に言わない。結局は自分が一番かわいいってのが、簡単に透けて見えてくるあたりの凡人ぶりが情けなくも納得しちゃうところがあります。



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検察がジミーを有罪にするために提出したのは、事故当日、彼の車が高速の料金所を通過したという写真でした。ジミーはロバートの指示通り高速を使わずに彼を迎えに行ったはずなのですが、どこかで写真が撮られていたことになります。ロバートはあることに気づいて、弁護士にその写真を捕られたという料金所を通過してもらい、その写真を入手して、証拠の写真を比べてみたところ、ナンバープレートの画素数が明らかに違うこと判明。証拠写真は検察側がでっちあげたものだったことがわかり、ジミーは無罪放免で、この件で証言を求められることも一切なくなります。一方、合併の話は、ロバートがメイフィールドとの直談判で、結構いい値段で合意して、損失補填も何とかなりそう。全てがうまく行ったかに見えたのですが、そこに立ちはだかったのが、妻のエレン。彼女は事故当日、ロバートが夜中に外出して明け方帰ってきたことを知っていました。そして、ロバートの全ての資産を慈善基金に入れる書類にサインしろと迫ります。さもなければ、事実を警察に話すと。その晩、病院の慈善パーティにロバートとエレンがそろって出席しています。ブルックの紹介を受けて登壇するロバート、そして彼のアップで暗転、エンドクレジット。

投資会社の合併という題材を扱っていながら、裏切りというものが一切出てこないのが、意外だったのですが、ラストで一番身近だったはずの奥さんからしっぺ返しを食らうこととなります。とは言え、エレンがそれほどの腹黒い女性というわけではありません。考えてみれば、人一人死なせているロバートの罪が一番重いわけですから、それに比べたら慈善事業への投資を強要したって大したことありません。そう考えると生き馬の目を抜くような投資の世界の割りには、この映画の登場人物はワルでも非情でもないのは面白いと思います。普通の人間が想定しうる範囲の中で、意外な展開をするドラマということも言えましょう。普通の人間が思ったり感じたりすることが、大富豪の身に起きたという感じなのです。まあ、お金持ちの世界もやること考えることは庶民と大差ないってことかもしれません。その結果、ドラマとしては、より感情移入しやすくなり、娯楽度も増したのではないかしら。

クリフ・マルチネスが、全編をアンビエント音楽を鳴らしていますが、前半は徹底してクールで非情な感じを出しつつ、ドラマが進むにつれて、やや暖かめのエモーショナルな味わいを増していくところがうまいと思いました。

「シャドー・ダンサー」はIRAを舞台にしたサスペンスで面白く見応えもありますがラストがなかなか。


今回は、新作の「シャドウ・ダンサー」を川崎チネチッタ3で観てきました。小さめの映画館で、ここもスクリーンの中心と座席の中心がずれています。ただチネチッタの座席表はスクリーンの正面のところに縦線が入っていて、ベストポジションが探しやすくなってます。後、チネチッタはスケジュールの上映開始時間きっかりにCM予告編が始まるのはマル。TOHOシネマズみたいな、時間前からダラダラを映像を流しているのは、どうも好きになれません。

アイルランド人でシングルマザーのコレット(アンドレア・ライズブロー)は、兄のジェリーやコナーと共にIRAの一員として、テロ活動を行っていました。1993年、イギリスとアイルランドの間で協定が結ばれ、IRAの組織内部からも活動方針の変更の声が上がっていました。地下鉄で爆弾テロを実行しようとしたところで、コレットは英国情報部の拉致され、捜査員マック(クライブ・オーウェン)のもとに連行されます。マックは、このままだと刑務所行きだが、ジェリーの情報をこちらに流せば見逃してやると言われ、彼女はその条件を飲みます。家に帰ったコレットは刑事襲撃の話を聞き、そのことをマックに報告します。そして、襲撃は失敗、実行犯は狙撃されて死亡します。組織のケビン(デビッド・ウィルモット)は、何者かの密告があったと思い、コレットにも尋問しますが、彼女はそこをうまく切り抜けます。しかし、もし密告が露見したら、彼女の命はありません。一方、マックは、このままコレットが疑われたままでは彼女の生命が危ないと何とか彼女を救おうとするのですが、自分が情報部の中で情報をオミットされていることに気づきます。コレットを密告者として使うことは、単に彼女から情報を聞き出すためだけではなかったのです。コレットもマックも組織の中で孤立してしまいます。果たして、二人に待ち受けている運命とは?

IRAを扱った映画はこれまでにも何本か観たことがあります。この映画も、1993年というイギリスとアイルランドの間で和解政策が取られていたころのお話です。トム・ブラッドビーの原作を本人が脚色し、ジェームズ・マーシュが監督しています。IRAの活動員として、コレットは電車に爆弾を仕掛けていました。ただ、起爆装置を停止させた爆弾を置いていくという犯行は過激度としてはおとなしめな方なのでしょうか。そんな彼女が、子供と離れて刑務所に行くかと言われて、密告者になってしまうあたりは、なるほどと納得できるものがありました。しかし、彼女のいる組織を裏切ったことがばれたら、それは死を意味していました。最初の密告で、刑事暗殺は阻止されるのですが、その現場にコレットは居合わせていました。逮捕されてもされなくても彼女に疑いはかかってしまうのです。案の定、組織の内務班らしきケビンという嫌われ者が彼女に疑念を抱いて尋問し、監視するようになります。

マックはこれまでにも密告者を使ってきましたし、その密告者を死なせないできた自負があるようです。そんな彼が、特にコレットのことを気にかけ、身の安全をはかろうとするのは、多少なりとも男女の感情があったからのようです。コレットにしてみれば、息子との生活を守るために選択した密告屋が、簡単に自分の命の危険につながってしまったことで大きく動揺します。情報提供の場所である海岸の散歩道で二人が衝動的に抱き合ってキスをするシーンがあります。ドラマの流れとしてはかなり意外でびっくりだったのですが、そのシーンの意外性がこの映画全体を支配しているのが、ラストまで行くとわかるようになっています。組織も個人も憎悪と疑惑に満ちた世界の中では、どんなこともできるし、論理では割り切れない行動だってとってしまう。そこにこの映画の面白さと苦さがあります。

冒頭で少女のコレットが、父からおつかいを弟に下請けに出すシーンが登場します。弟がおつかいに出かけてしばらくすると、弟が血だらけで担ぎこまれてきます。呆然するコレット。彼女はこの弟に死についてずっと負い目を感じているようなのです。マックに「私はもう死んでるの」と言うシーンもあり、彼女が引きずってきたものの重さが垣間見えます。一方コレットの兄ジェリーは組織の中でもかなりの過激派で、イギリスとの協定など、敗北だと思っています。殺し合いの積み重ねが彼にそう思わせているのでしょうが、殺人に対する感覚がマヒしていく過程は、平和に暮らしている自分には想像が追いつきません。

映画は、ドラマチックな展開をはらみつつも、意外と淡々と進んでいきます。その中から見えてくるのは、組織というもの、そして組織を前面に出してくる人間の非情さです。ドラマの中に人間としての情感というものがほとんど見えて来ないのです。唯一、マックがコレットの命を救いたいと思っているところが、人間の感情と言えるもので、それ以外の感情が入り込まないドラマ作り、それがラストへと収束している怖さも含めて、映画として一本筋の通ったものになっています。ジェームズ・マーシュは、コレットとマックの二人を丁寧に描くことで、そこに組織と個人の関係を浮き彫りにし、さらにラストでIRA問題の根深さを見せることになります。幼い頃から、IRA側の人間として生きてきたことで育まれた意識は、コレットの人生の根幹になっていました。一方で、マックは仕事とは言え、利用した人間を見殺しにすることを潔しとしません。そんな二人の行動が何を招くのか、映画は予断を許さない展開となります。

演技陣は各々の立場を熱演しており、過激派のリーダー格にいるジェリーを演じたエイダン・ギレンと、非情な情報部のトップにいるジリアン・アンダーソンが印象的でした。アンドレア・ライズブローは幼い頃の弟の死から感情を殺してしまった女性を見事に演じきりました。結局、組織の中枢にはなれないマックを演じたクライブ・オーウェンの、こういう仕事に向かない人情味が、皮肉な後味を残します。



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マックは上司のケイト(ジリアン・アンダーソン)がもう一人、別の情報提供者を持っていることを知ります。ケイトは、この程度の情報で、コレットの救出から隠れ家から経済援助まで準備できる予算はないと言い切ります。ひょっとして、コレットはその情報提供者シャドーダンサーを守るためのスケープゴートにされているのではないかと気づき、情報部とは離れて何とか彼女を救おうとし、コレットに月曜に落ち合って逃げようと言います。一方でマックは、過去の出金情報と捜査記録から、シャドーダンサーがコレットやジェリーの母親であることをつきとめます。マックは母親に電話して「あんたの代わりにコレットが消される」と告げます。そして、母親のもとにケビンが訪れ、その後、母親は死体で発見されます。そして、待ち合わせの場所でコレットを待つマックですが、そこに彼女は現れません。自分の車に戻ってみると車内で電話が鳴っています。そして車に乗り込もうとすると爆発。コレットは学校へ息子を迎えにきます。息子にこれから旅に出ると告げるコレット。車を運転するのは兄のコナーでした。車に揺られるコレットのアップから暗転、エンドクレジット。

えー、そうなるのかよという流れは私には結構意外性がありました。結局、母親が密告者だったわけで、その結果、IRAによって母親は殺されます。それに対する報復行為だったのかどうかまではわかりませんが、マックに呆気ない死が訪れます。裏切りと憎悪は肉親の間にも及び、その入り組んだ悪意の構図が、IRA問題の縮図であるかのように見せる構成が見事でした。その負の連鎖を断ち切ることが現在もできていないのです。ただ、最初にも書いたように、幼い頃から平和の中で暮らしてきた自分には、それを理解することができないし、知ったような顔をしちゃいけないのですが、こういう娯楽映画の中でその一端を知ることは、それなりに意味のあることかなって思います。ラストは意外でそして悲しいものですが、映画としての見応えはありました。

「偽りなき者」は冤罪を作り出すプロセスが怖い。


今回は、新作の「偽りなき者」を、109シネマズ川崎10で観てきました。小さい劇場で、画面が右に寄っているので、中心からかなり右に席を取らないとスクリーン正面の場所がとれません。他の劇場でやっている座席表の中心線を書くってのを早く取り入れて欲しいわあ。

ルーカス(マッツ・ミケルセン)は、学校の先生をしていましたが、そこが廃校となり、職を失った挙句に離婚。神権も奥さんにとられちゃってます。それでも、幼稚園の教師(保育士になるのかな)の職を得て、何とか暮らしをたてています。そんなある日、園児の一人、親友テオの娘クララがルーカス先生に贈り物をしてきたり、唇にキスしてきたりというおませさんぶりを見せます。ルーカスは、そんなことしちゃダメだよってやさしく注意します。そしたら、園長先生の前でクララが、「ルーカスって大嫌い。ルーカスのちんちんビンビン。」なんて口走ったものだから、さあ大変。再度、クララに質問したら、クララがうんうんってうなづいたものだから、ルーカスがクララにモノを見せたってことになっちゃいます。ルーカスの知らないところで、父母会にも公表され、警察にも通報されちゃいます。小さな田舎町のことで、ルーカスのことは町の人全員の知るところとなり、誰もルーカスの言い分を聞かず、「ルーカス=性犯罪者」が既成事実のようになってしまいます。せっかく、息子と一緒に暮らせる段取りがついたのに、それもお流れとなり、スーパーでも物を売ってくれなくなり、町中の人が彼から目を背けるようになります。果たしてルーカスはこの冤罪を晴らすことができるのでしょうか。

「光のほうへ」のトマス・ヴィンターベア監督の新作です。トビアス・リンホルムとヴィンターベアが共同脚本を書いています。「光のほうへ」ではある兄弟が希望を抱きながらもどんづまりの方へ流れて行ってしまう様をリアルに見せていましたが、今回は平凡な男が冤罪によって人生そのものを否定されてしまう恐怖を描いています。

性的異常者のレッテルを貼られてしまったルーカスが、コミュニティの中で完全孤立していく様も怖いのですが、冤罪のできあがるプロセスがすごく怖いものがあり、そうか、こういうことが盲点になっているんだと、勉強になるところ多かったです。クララは最初から「ルーカスにちんちん見せられた」と言っているわけではないのです。「ルーカスのちんこビンビン」という単語のレベルから、園長先生がそういうことがあったんだと判断し、その判断をもとに確認の質問をクララにしたら、クララがうなづいたという流れです。「ちんこビンビン」の言葉は、クララの兄がインターネットの画像を見て言った言葉の受け売りでしかないのですが、そのあたりの事情を知らない園長は、これは事実だわと確信しちゃいます。そこから先がひどい話なんですが、当のルーカスを蚊帳の外に置いて、クララの両親に「クララが性的ないたずらをされた」と話してしまい、父母会では「こういうことがあったので、他の子供も同じ目に遭っていないか注意して欲しい。」なんてことを通達しちゃうのですよ。言われた親からすれば、ルーカスがクララに性的いたずらをしたということは既成の事実になっちゃうのですよ。何しろ、自分の子供がいたずらされてるかもしれないから、気をつけてね、って言われたら、その前提を疑う人はいないでしょう。

また、クララの父親テオは、ルーカスとは親友だったのですが、「娘が嘘をついたことはない。お前は何てことをしたんだ。」とルーカスを非難します。クララが母親に「ほんとはそんなことなかったの」と母親に告白しても「いやな記憶は忘れ去ろうとするものよ」とまともにとりあわず、「ルーカス=性犯罪者」という事実は揺らぎません。というより、世間には「ルーカス=性犯罪者」という言葉しか流れないので、それを否定することを考える人はほとんどいません。猟友会の友人であるブルーンはルーカスの無実を信じてくれていますが、それはごく少数でしかありません。

クララの事件が公になってから、園児たちから同じような目に遭ったという証言も出てきたようなのですが、それは根も葉もないことだと証言の内容から判明します。クララの件だけは、なかなか反証材料が見つかりません。「子供が嘘をついても何の得にもならない」「子供が嘘をつくはずがない」そんな先入観があったであろうことは、映画の中でも示されます。特に興味深いのが園長の態度。初めて、クララの言葉を聞いて、それを性犯罪と結びつけて、自分の中で反復してるうちに、それが彼女の中で事実になっちゃう。別の教師がクララに質問しているのを聞いて、その質問の言葉を事実の裏づけのように思って、ルーカスが性的異常者だと確信してしまう。自分が言いだしっぺのくせに、いつの間にか、誰かからそれを聞いたかのように思い込んじゃう。ルーカスが事情を聞きにくると外に逃げ出して、あんたとは話すことがない、この犯罪者って言っちゃう。この映画の中には、ルーカスに暴力を振るったり、嫌がらせをする人間はいろいろと登場するのですが、たちの悪さでは、この園長が筆頭。なまじ、子供を守る立場にいて、子供のためとか思っているので、誰も彼女を疑ったり責めたりしないのですよ。こういう人の言うことを真に受けないってのは、すごく難しいだけに、その言葉の重みを認識してもらわんとたまらんよなあって思いましたです。子供相手なので、一度言ったことをひるがえすこともあるって言うんですが、最初の一言を疑わないってのは、フェアじゃないように思います。

子供が嘘をつかないってことはないです。子供はそれでなくても豊かな想像力がありますから、そこに変な情報を入れられると、想像力によって、おかしなことを言い出すこともありましょう。今回の場合は、兄がエロ写真を見て口走った「ちんこビンビン」がそれにあたるのですが、残念ながら、クララのらしからぬ言動や連想を、いい年した園長が全面的に真に受けただけでなく、自分の大人の想像力を加えて、そこに性的犯罪があったと決め付けてしまったのです。この思い込みが悪意がないところが怖いところでして、その誤った思い込みを訂正する力が働かないのです。人間が犯す過ちの中でもかなりたちが悪いものの一つと言えましょう。

ルーカスに貼られた、幼児に性的行為を行った変質者というレッテルは容易に剥がされるものではありません。友人たちも自分の言い分は聞いてくれません。スーパーで食料を売ってくれず暴力まで振るわれてしまいます。そこに居合わせたテオはルーカスが気の毒になってきます。ルーカスの息子マルクスはテオの家に押しかけクララに「なぜ嘘をつくんだ」と詰め寄って、追い出されてしまいます。クララにしてみれば、すでに「実は何もなかった」と告白した後なので、嘘をついているわけではないのです。また、彼女は自分の言ったことが大事になっていることは理解していて、彼女なりに胸を痛めていました。彼女が本当のことを言っても、誰も本当だと思ってくれないという点では、彼女も大人の思い込みの被害者なのかもしれません。一度は逮捕されたルーカスですが、釈放されて家に戻ってきます。しかし、ルーカスに対する嫌がらせはエスカレートし、家には石が投げ込まれ、飼い犬が殺されてしまいます。

小さなコミュニティだからかもしれませんが、ルーカスに対する風当たりは強いです。それが事実ならば、オミットされちゃうのも仕方ないのなかって気がしますが、そのやり口のストレートさはデンマークというお国柄があるのかもしれません。確かに幼児への性的行為というのは、事実だとすれば社会的な制裁を受けるのはやむを得ないところがあります。一度、そういうことに手を染めた人間がどう更生するのかは、大きな問題であるのですが、この映画とは別の話です。

主演のマッツ・ミケルセンは国際俳優という地位を得ていますが、ここでも、普通の男が追い詰められていく様をリアルに熱演しています。テオを演じたトマス・ボー・ラーセンが、主人公の親友と性的犯罪の被害者の父親という二つの顔を持つ難しい役どころを、節度ある大人として演じきって大変見事でした。



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思いつめたルーカスは、クリスマスミサに教会を訪れます。そこにはテオもクララもいました。子供たちの歌う賛美歌に感極まったルーカスは、テオに向かって「何で、こんなに俺を苦しめるんだ」とくってかかります。そのクリスマスイブの夜、テオはクララの口から、性的いたずらなどなかったと知らされ、ルーカスの家に行き、彼とともにクリスマスの朝を迎えるのでした。そして、半年後、また猟友会のみんなが集まります。みんな、ルーカスと普通に接していて、かつてのわだかまりはなくなったように見えます。そして、みんなで猟に出て、ルーカスが鹿を見つけて狙いをつけようとすると、何者かの銃弾が彼の頭をかすめます。その方向を見てみれば、逆光に銃を構えた男の姿がありました。その男が姿を消し、暗転、エンドクレジット。

ラストで周囲の人間と打ち解けているように見えるルーカスに、どう和解したんだろうと思っていたら、命まで狙われてしまうところにびっくり。単に脅しをかけたのか、本気で狙ったのかはわかりません。でも、コミュニティに再び受け入れられるのは大変なことでしょう。ルーカス、テオ、クララといった当事者は色々な事実を知ることで、ルーカスへの疑いが冤罪であったことを知ることができます。でも、それほど付き合いの深くない人間に見える範囲は、幼児へ性的行為を行ったルーカスが逮捕されたが証拠不十分で釈放されたというレベルでしょう。それでは、彼に貼られた性的異常者のレッテルをはがすことは難しいでしょう。人の噂も七十五日とはよく言いますし、その諺にはいくばくかの真実も含まれてはいるのですが、実際はそうもいかないのだと思います。身近な人間ではなく、ある程度の距離感の人間ほど、一度貼られたレッテルを払拭するのは難しいのだと思います。

映画としての面白さはありますし、問題提起としても見応えがありました。ラストはなかなかにショッキングでして、結局すっきりできない結末は狙ってやっているようです。色々と考えさせられるところが多かった映画でしたが、私は、冤罪が作られる過程、特に園長先生の思考の流れが印象的でした。人間は、知らずに嘘をついてしまうことがあり、別の人がその嘘を口にするを聞いて、その嘘を真実だと確信してしまうのです。善意の思いやりに対して懐疑的に接するというのは、大変ですし、自分のイメージを悪くしちゃうからやりたくないのですが、思いやりは思い込みの形を変えたものだと考える必要がありそうです。

「愛、アムール」は色々なことを考えさせられますが、当事者でない自分がうかつにものが言えないって思うところあって。


今回は、新作の「愛、アムール」を川崎チネチッタ4で観てきました。ここはそこそこ大きめの劇場で、こういうミニシアター系の映画を大きいスクリーンで観られるのはうれしい限り。ただ、日曜初日にしてはお客さんがあまり入っていないのが残念。確かに客層がつかみにくい映画なのでしょうけど。

パリの古いアパートで暮らすジョルジュ(ジャン・ルイ・トランティニアン)とアンヌ(エマニュエル・リヴァ)の老夫婦は、それなりに幸せに暮らしていました。ある朝、突然アンヌがフリーズしたように無反応になり数分後に元に戻るという事件が起きます。病院へ行くと、喉の動脈瘤ということで、手術を受けることになります。そんなにリスクはない手術のはずだったのですが、結果はうまくいかず、アンヌは右半身不随になってしまいます。アンヌは車椅子でアパートに帰ってきて、ジョルジュの介護で、2人の生活が再開します。彼女は自分を病院へ戻すことはやめてくれと強くジョルジュに訴えます。彼女の病状は徐々に悪化し、ジョルジュ一人では大変になり看護師を雇うようなり、アンヌは言葉も不自由になり、ボケも進んでいきます。離れて暮らす娘のエヴァ(イザベル・ユペール)はもっと何とかできないのかとジョルジュに言いますが、どうすることもできない日々を続けるしかないとジョルジュはこたえます。そして、アンヌは自分の状態やジョルジュを認識できなくなり、ベッドで生きているだけの状態となっていくのでした。

「白いリボン」に続いてカンヌ映画祭のパルムドールを受賞し、さらにアカデミー外国語映画賞を受賞した、ミヒャエル・ハネケ監督の新作です。ハネケが脚本も書いています。私は彼の映画は「ピアニスト」と「白いリボン」を観ているのですが、どこかアートしている映画を作る人という印象があります。この「愛、アムール」は老いた夫婦の奥さんが病魔に蝕まれていく様子をエピソードを重ねていくことで淡々と描いています。2時間7分ということで退屈するかなって危惧もあったのですが、すっと画面に引き込まれて、最後まで一気に観てしまいました。私は介護経験もありませんし、介護を間近に見る機会もなかったので、それほどの切実感は感じなかったのですが、介護を経験してきた方には見ていてきつい内容ではなかったかしら。変に愛情を前面に出すこともせず、ドラマ的な作りを排しているので、編集したドキュメンタリーを観るような趣もあり、特にラストの処理は、肉親を介護して看取った方にはどう映ったのか気になりました。

映画の冒頭、アパートに警察の人間が突入してきます。マスクをかけた人間もいて、どうやらひどい悪臭で、警察が呼ばれたようです。中の部屋の一つは目張りがしてあり、そこを空けてみたところ、ベッドに老女の遺体が横たわり、周囲に花が散らされていました。他には誰もいないようです。こうして、アンヌの遺体が見つかったところから、お話は遡っていきます。遺体の近くに、ジョルジュの姿はありませんでした。彼はどこへ行ったのでしょう。

ジョルジュはインテリらしく、アンヌはピアニストだったようで、冒頭の遺体発見シーンに続くのは、彼女の弟子の若いピアニストのコンサートのシーンです。その翌日、朝食の最中、アンヌがフリーズしてしまいます。一体、何が起きたのか、彼女は覚えていませんでした。それが喉の動脈瘤が原因とわかって手術したものの失敗、右半身不随になってしまいます。病院を退院してきたアンヌは、ジョルジュに絶対に病院へ戻すことはしてくれるなと懇願します。その思いつめた様子に困惑するジョルジュですがとりあえず彼女の言うことを聞いておきます。別にボケているわけでもなく、車椅子の暮らしではありますが、ジョルジュの介護により、平穏な暮らしになります。しかし、病状はどんどん悪化していきます。支離滅裂なことを口走るようになり、週に3日は介護師を雇うようになります。(日本で言うデイケアサービスみたいな感じでしょうか。)娘のエヴァが何とかしなくちゃと言うのに対し、ジョルジュは静かに最後まで見守るしかないと言います。日々の介護がどんなに過酷なものかは直接は描かれないものの、疲れきったジョルジュの表情がそれを物語っています。

映画は、病状が悪化していく様を小さなエピソードを積み重ねることで描いていきます。その淡々とした語り口は、「愛、アムール」という題名にしては、ドラマチックな要素が少ないです。アンヌが「もう終わりにしたい」と言うところも、さらりと流していまして、ハネケの演出はアップの表情を捉えながらもどこか一歩退いた視点から、二人の愛のドラマを静かに描いていきます。そんな中で、ジョルジュが新しい看護師をクビにするエピソードが印象的でした。それなりのベテラン看護師らしいのですが、患者の扱いがひどいとジョルジュは憤るのです。介護疲れの夫が、理不尽にかんしゃくを起こしているように見えるところがリアルな介護の実状を語っているように思いました。後、アンヌが食事中に突然アルバムを見たいと駄々をこねるところも印象的でした。若い頃の写真を貪るように見るアンヌは、だんだん自分の意識が失われてつつことを知っているかのようでもありました。

だんだんとアンヌは自分に戻る時間も少なくなり、「ママー、痛いよー」を繰り返すようになります。もうジョルジュのこともわからないみたいです。それでも、ジョルジュはアンヌを入院させようとはしません。彼女の願いを最後までかなえたいと思ったのか、夫としてのプライドが妻を他人任せにすることを拒否したのか、純粋に妻を愛する気持ちからだったのか、色々なことが考えられますが、そこをジョルジュははっきりとは語りません。こういう映画ですと、会話でない一人語りで、自分の心情を吐露するシーンとが出てきそうなものですが、そういう説明的なシーンを一切排した作りになっているので、ある程度、観客にその解釈はゆだねられているように思います。

主演の二人は、現実にそこに老夫婦がいるかのようなリアルな存在感を見せてくれています。二人とも実年齢が80を越えているので、体力的にも大変だったと思いますが、特に、ボケちゃうアンヌを演じたエマニュエル・リバは、精神的にも体力的に大変な演技だったろうと察せられます。ジャン・ルイ・トランティニアンは気丈に振舞おうとしている夫を丁寧に演じていまして、それでもどこかに迷いのようなものを感じさえるあたりが見事でした。直近の未来に死が見えてしまったとき、人はどういう生き方を選ぶのだろうと、考えさせられる映画でした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



アンヌは食事も水も満足の取らないようになり、ベッドで「ママー、痛いー」を繰り返すだけです。そんなアンヌの手を握り、なんとか彼女の気を鎮めるジョルジュでしたが、そんな彼女に枕を押し付けて、その呼吸を止めてしまいます。場面が変わり、朝食の準備をしているアンヌがジョルジュに声をかけます。二人は上着を着てどこかへ出かけます。そして、がらんとした部屋の中にいる娘のエヴァの姿になり、暗転、無音のエンドクレジット。

最後にジョルジュがアンヌを殺めてしまうまでを、かなり長い時間をかけて見せます。もう昔のアンヌではなくなった彼女を生かしておくのはかわいそうと思ったのか、このままでは自分が彼女を看取れないと思ったのか、はっきりとしたことはわかりませんが、ジョルジュのアンヌへの愛がなくなったわけではないことは、エンディングからもうかがえます。ただ、それが究極の愛の姿かと言えば、もっと生臭い、ありがちなものではないかと思わせるところがあります。先日も、日本でも、老いた妻を介護していた夫が殺すという事件がありましたから、こういうケースが極めて稀ではないような気がするからです。「愛、アムール」という題名は、特別な愛の姿ではなく、どこにもある普遍的な愛の姿なのかなと思わせる結末とも思えました。とはいえ、これはあくまで、部外者の視点であって、当事者からすれば、とんでもない話の映画なのかもしれませんけど、死をどうやってむかえるかという課題に対して、愛という視点からの一つの解なのかもしれないと思ってしまったのでした。と、言いつつ、シングルオヤジとしては、こういう死に方よりも孤独死の方が直近の問題ではあるのですが。

「マーサ、あるいはマーシー・メイ」は怖い題材を不安なまま見せますからご注意。


今回は新作の「マーサ、あるいはマーシー・メイ」を横浜シネマジャックで観て来ました。ブルーレイ上映なので、ビスタサイズのスクリーンに上下黒枠のシネスコサイズの上映でした。仕方ないとは言え、シネスコサイズの映画はシネスコサイズのスクリーンに上映して欲しいわあ。

農場のような場所で、若い男女が共同生活を送っています。ある朝、そこから一人の若い女の子が抜け出します。彼女、マーサ(エリザベス・オルセン)は姉ルーシー(サラ・ポールソン)に電話をして迎えにきてもらいます。ルーシーは建築家のテッド(ヒュー・ダンシー)と結婚したばかりで、今は休暇で貸し別荘にきていました。2年間連絡のなかったマーサにルーシーは努めてやさしく接しようとしますが、マーサは心を閉ざしたように、自分のことを語ろうとしません。彼女は、パトリック(ジョン・ホークス)という男が率いるカルト教団で暮らしていたのです。彼女の回想から、カルト教団での生活が見えてきます。父親に捨てられた彼女がわりと軽い気持ちで共同生活に入ってしまうのですが、浄めと称して薬を飲まされてパトリックとセックス。そして、若者同士でのセックス。そして、農場経営で生計を立てると言いつつ、行商で稼いだり、ついには集団窃盗団になってしまいます。そして、ある日、盗みに入った家で家人にみつかり、彼を殺してしまいます。とうとう、そこにいることに耐えられなかったマーサは農場から逃げ出します。そんな事情を一切、ルーシーたちに話さない一方で、姉夫婦のベッドに入り込んできたり、パーティでわけのわからないことを言い出したり、見た目にも正常とは思えないマーサ。あきらかに病的な彼女の様子に、もう扱いきれないとルーシーは彼女を病院に入れることにするのでした。

この映画で長編デビューとなったショーン・ダーキン監督が脚本も書いた心理スリラーの一編です。カルト集団から逃げ出して、姉夫婦の家に身を寄せた主人公が、カルト集団での経験の呪縛からなかなか抜け出すことができない様子を描いています。サンダンス映画祭で監督賞も受賞したそうですが、新人監督らしい、ある意味とんがった作りの映画になっていまして、過去と現在が交錯する構成ですとか、シネスコ画面でのアップの繰り返し、わざとピントを一箇所にしか合わせない不安定な画面など、凝った見せ方をしています。カルト教団によって、洗脳されてしまったヒロインが、どうやってそれを克服できるのかという視点はなかなか鋭いものがありまして、それをスリラー仕立てに見せたあたりもうまいと思いました。最近、日本でも新興宗教が高校生以下の若者へ、勧誘の手を広げつつあるらしいですから、この映画の題材は対岸の火事ではありません。

ここに登場するカルト教団は小さなコミュニティを形成しているレベルのもので、支部とかを抱える大組織ではありません。若者の集団への取り込み方は、よくあるパターンのものなのですが、まず仲間がたくさんいることを強調して、緊張を解いて安心させます。そして、イニシエーションの儀式があり、コミュニティの中での役割が固まっていきます。いつの間にか、集団にきっちりと組み込まれた後は、その集団から逸脱することの恐怖を植え付け、その集団に縛りつけようとします。この映画でも、その過程が描かれています。マーサには新しい名前マーシー・メイが与えられることにより、別の自分に生まれ変わったという印象付けがされます。そして、マーシー・メイは集団の中でもパトリックのお気に入りとなり、彼とセックスし、そして、新しく来た女の子の教育係になり、その女の子の浄めの儀式の段取りもするようになります。

このあたりまでは、なるほどそういうふうにカルト教団に取り込まれちゃうんだなあって納得しながら、観ていたのですが、後半になるにつれ、教団の行動は反社会的になっていきます。窃盗集団として、盗みは当たり前となり、その挙句に居合わせた家人を殺してしまいます。パトリックは「死は純粋な愛だ」というわけのわからない理屈で、マーシー・メイを納得させようとします。実際、そこに居合わせた他の若者は、その殺人に対して何の感情も持っていないように見えます。パトリックが、若者たちに銃の練習をさせるシーンも不気味でして、最初はビンの的だったのが、最後には生きている猫を撃ち殺せと言い、それをためらうマーシー・メイに失望したと言うあたり、依存と恐怖を巧みに使った恐ろしいマインドコントロールになっているのです。

姉との生活では、精神が不安定なマーサの様子が描かれます。生活のリズムもおかしいし、自分のことを一切話そうとしないし、何かを始めようとするわけでもない。そんな様子にさすがに義兄のテッドも文句の一つも言うのですが、「あんたは何もわかってない。」と逆上するマーサ。そりゃ、自分のことを何も話さなければ、相手は理解しようもないのですが、彼女の経験してきた異常な体験を相手に理解させることができるのかというとこれがすごく難しいことだとわかってくると、マーサの苦悩が見えてきます。カルト教団であったこと、パトリックや若者たちとのセックスから、外界と遮断された暮らし、窃盗集団になってしまっていたこと、そして殺人。普通に生きてる人の常識から逸脱していることばかりを、他人に筋道だてて話せるのかなって思うと、とてもじゃないけど、普通の精神状態でだって難しいでしょう。カルト教団での出来事が隠蔽されてしまうのは、確かにマーサがマインドコントロールされているということもあるのでしょうが、マーサの心の闇を聞きだすことの難しさもあるのだと気付かされました。そういう意味では、最後にルーシーの選んだ、マーサを専門家に任せようという選択は冷たいようでいて、実は最善唯一の方法なのです。普通の常識でものを考える人間が、マーサから本当のことを聞き出すことの困難さを思うと、彼女の社会復帰のハードルの高さを実感します。

映画は、幻想的なカットを織り込みながら、今と過去のマーサを交互に見せていきます。あまりストーリーが動く映画ではなく、マーサとマーシー・メイがどういう人間かがわかってくるという構成になっています。マーサは一度農場に電話をかけてしまいます。何も言わずに切ってしまうのですが、彼女は自分の居場所を知られたのではいかと、疑心暗鬼にとりつかれ、あらぬことを口走ってしまうのですが、ルーシーにもテッドにもそれが何を意味しているのかわからないこともあって、マーサはますます不安と疎外感にとりつかれてしまうのです。この感情の負のスパイラルを切り崩すことができないという描き方をしていますので、映画には常に重苦しい空気が流れています。その空気感のまま、映画は最後まで突っ走るので、後味はかなりヘビー。マーサに感情移入してしまうと、得体の知れない不安を抱いたまま映画を観終えることになります。



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マーサは病院に行くことになり、その朝、湖へと泳ぎに出かけます。すると向こう岸にパトリックがいるではありませんか。そして、病院へ向かう車の中のマーサ、すると道路に止まっていた車がマーサの乗る車を追跡してきます。車が追いつきそうになったとき、暗転、エンドクレジット。

ラストは、マーサの抱えていた不安が具現化したようにも見えますし、単に彼女の思い過ごしだけど、ずっと心は教団に捕らわれていることを念押ししているようにも見えます。どっちにしても、彼女が教団の呪縛から逃れるのは難しいという結末になっていまして、後味はかなりヘビー。もともとは自分の選択でそのカルト教団に入ったのですから、自己責任なのかもしれませんが、一度そこへ迷い込んだら抜け出す選択ができなくなるという事実からすれば、外部からの支援、マインドコントロールからの解放が必要になります。この映画は、その問題提起をしているという見方もできますが、そういう社会派映画ではなさそうでして、むしろ、この特異な題材をベースに自分の表現方法を試しているという感じです。でも、その題材の面白さと、妥協のない描き方で、見応えのある映画になっています。救いもカタルシスもない映画ですが、それでも映画としての面白さがここにはあります。

「バチェロレッテ あの子が結婚するなんて!」は、女性監督がやりたい放題やってますって印象で、ちょっとついていけない


今回は、新作の「バチェロレッテ あの子が結婚するなんて」をヒューマントラストシネマ有楽町2で観てきました。ここはとにかくちっちゃな映画館。でも有楽町駅の目と鼻の先にこういうミニシアターがあるってのはなかなかいい感じなんです。

高校時代の仲良し4人組の中から、おでぶちゃんであんまり恋愛に縁がなさそうなベッキー(レベル・ウィルソン)が結婚することになりました。他のメンバーからしてみれば、えー、私たちを差し置いて先にいくのー?という突っ込みはあるけど、レーガン(キルスティン・ダンスト)は前夜祭から結婚式までの幹事を引き受けます。子供のホスピスの仕事をしている彼女は、研修医の彼氏がいるんだけど、なかなか結婚への道が見えてこなくてちょっと不満。ジェナ(リジー・キャプラン)は、学生時代の彼氏クライド(アダム・スコット)との間にできた子供を中絶した過去があり、そのクライドが結婚式にくるので心おだやかではありません。有名ショップの店員ケイティ(アイラ・フィッシャー)は、快楽優先、クスリに依存しちゃってるちょっと危ない感じの子。結婚式の前夜祭パーティの後、ふざけて花嫁のドレスを着込んだレーガンとケイティがドレスを破ってしまったから大変。明日の式までに何とか直さないとと、3人は夜中のニューヨークを右往左往することになります。一方の花婿のバチュラーパーティと合流して、ドレスそっちのけラブラブ展開やら、やけぼっくいに火がついたりとか。夜が明けてもまだドレスは修復しておらず、結婚式をとりおこなうことができるかどうかのドタバタは式直前まで続くのでありました。

結婚式の前日、女の子の仲良しグループのドタバタというと昨年の「ブライズ・メイズ」を思い出します。この映画は、もともとは過食をテーマにした戯曲がもとにあり、それがコメディとして好評だったことから、結婚式前夜のドタバタを中心にリライトしたものを、原作者のレスリー・ヘッドランドが脚本化しメガホンも取りました。プログラムにインタビュー記事によると「ブライズ・メイズ」や「ハングオーバー」みたいな男目線のドラマとは違うのよと、かなり気にしてるみたい。以前「ブライズ・メイズ」の記事に「SEX AND THE CITY」「ヤング・アダルト」を引き合いに出して、似たような映画だと書いたのですが、この映画もそんな感じでした。女性監督らしい、登場人物への辛らつで容赦ない描き方をどう受け取るかでこの映画の評価がわかれると思います。男性監督が、こういう女性を描いたときは、毒を盛り込んでも、そこに一歩引いた視点のクッションを入れて、娯楽映画として丸く収めようとしているところがあるのですが、そのあたりが、この映画はやりたい放題の感がありまして、ちょっと引いちゃうところがありました。

アメリカでは、結婚式の披露宴や前夜祭でえげつないことを言うのが当たり前なのかなあってのが、最初に気になったところ。私のような日本人の感覚では、公の場で他人の過去やセックスの話を大っぴらに言うってのは、全然共感できないというか、ゲスの極みなんですが、それが結構あちこちに登場します。また、一見、堅そうなレーガンが、簡単にプレイボーイ風の男とトイレでセックスに及ぶところとか、コカインをバリバリに決めまくるシーンなど、何のフォローもなく、そういうシーンを見せられると、作り手が無駄にとんがってないかって思ってしまいます。何と言うか、コメディとしての設定を笑い飛ばすだけの余裕が作り手にないような気がするのですよ。これがオンナの子の本音よって見せ方をしたいのはわからなくもないのですが、娯楽映画を作るときは、ちゃんと観る方の呼吸、笑いのツボみたいなものを押さえて欲しいかなって気がします。この映画が、アメリカで大爆笑をとっているのであれば、それはもう文化の違いかもしれませんけど。私が観た映画館の中にオヤジは3人、後は割りと若い女性が多かったのですが、最初の方はそこそこ笑いがもれていたのが、後半はシーンとなっちゃってましたから、やはり、日本人にはなじまない映画なのではないかしら。

ベッキーのウェディングドレスを破いちゃったというあたりはまだ笑えなくもないのですが、その後始末のドタバタがどうにも共感を呼ばないのですよ。3人とも自分勝手なことを言いつつ、ドレス修復作業は他人任せだし、余計目に汚しちゃったりとか、ひどい連中だなあって思うのですが、ちゃんとそのことに反省する場面とか、ベッキーに謝る場面とかないんですよね。実際に、こういう事態になったら、結果オーライなら、ま、いいかになっちゃうのはあることなのでしょうが、娯楽映画にまとめたいなら、ベッキーとの和解シーンをきちんと押さえておいて欲しいのですよ。「SEX AND THE CITY」はその辺りのフォローに抜かりはないです。リアルと言えば、リアルなんでしょうけど、リアルに徹すると笑えないのですよ。何と言うか、ヒロインたちが薄汚れているように見えちゃうと言ったら、言い過ぎかしら。

女性陣の描き方が共感を呼ばないっては、この映画の弱点だと思うのですが、一方の男性陣の描き方も容赦ありません。プレイボーイ野郎のトレバー(ジェームズ・マースデン)はやりたいだけの男ですし、ダサ男として登場するジョー(カイル・ボーンハイマー)もクスリで女の子を釣ろうとします。ちょっとはマトモかに思えたクライドも、披露宴の席で、ジェナとのセックスした話から彼女に愛の告白をするという、ワケのわからないことをしてのけます。映画の中にはやな奴が登場することはよくありますが、それが映画の面白さを損ねるわけではありません。そいつらを笑い飛ばしたり、けちょんけちょんにしたりすることで、娯楽映画として楽しませてくれます。例え、そういう連中が結局おいしいところを全部持っていったとしても、他のところで楽しませてくれる映画もあります。で、今回の場合なんですが、出てくる連中がみんな不愉快なキャラばかりなのに、普通のコメディをやっていると、共感できない笑えない、だから楽しめないってところに落ち着いちゃうのです。

演技陣は自分の与えられたパートを的確に演じていることは伝わってきます。ただ、それほど面白くならないのですよ。もともとは、レーガンが過食症だったのが、ベッキーが身代わりになり、デブの過食症として学校で有名になったというエピソードなんか、もっと広げれば結構面白くなったかもしれないのに、そのあたりを昔こういうことがあったよねでおしまいにしているのはもったいなかったかも。



この先は結末に触れますのでご注意ください。(といってもほとんど書いちゃいましたけど)



敗れたドレスを修復すべくウロウロする3人ですが、バチェラーパーティの男性軍に誘われてストリップバーに行っちゃって、酔っ払ったケイティはジョーにお持ち帰りされ、レーガンはトレバーとつるんでしまい、ジェナはドレスを抱えてクライドと一緒に彼の家へと行きます。ケイティはジョーと事を及ぼうとするのですが、ジョーは酔った成り行きで関係を結ぶのはいやだと言われちゃいます。レーガンは、トレバーとトイレでセックス中にベッキーから電話で呼び出され、二人で昔話で夜を明かします。ジェナはドレスの修復をクライドのママにお願いして、自分はクライドといい感じになってベッドイン。夜が明けて、結婚式の準備にかかろうとしたら、ドレスはない、ジェナとケイティは行方不明。事が露見しそうで、レーガンはブチ切れ寸前。ケイティはトレバーの持っていたドラッグを飲みすぎて動けなくなっていましたが、レーガンが口に指突っ込んで全部戻させて復活。修復したドレスを持ったジェナは式場にぎりぎりで間に合い、無事に結婚式は執り行われるのでした。めでたし、めでたし。

ラストはハッピーエンドになるのですが、監督はハッピーエンドにはあんまり興味がないように見えます。そこにいたるまでの、ヒロインたちの暴れっぷりを見せたいようで、とってつけたような結末はあんまり印象に残りませんでした。原作、脚本、監督のレスリー・ヘッドランドがやりたい放題やったんだろうなという後味の映画でした。こういう形のコメディには、やはり娯楽としての観客へのサービスが欲しいと思う私としては、物足りなさが残ってしまいました。主人公にペーソスとかシンパシーを一切感じないあたり、私はこの映画との相性がよくなかったみたいです。

「逃走車」はなぜか「リミット」と比較しちゃうんですよ、悪いけど。


今回は新作の「逃走車」を109シネマズ川崎9で観てきました。ここは小さいスクリーンでかつ座席に対して、スクリーンが左に寄ってるつくりなので、スクリーンの真正面の席を選ぶときは要注意です。最近の座席表は中心線を引いたものが多いので、ここもそうしてくれないかなあ。

大使館に勤める元妻に会うために保護観察期間中なのに、南アフリカのヨハネスブルグまでやってきちゃったマイケル(ポール・ウォーカー)。レンタルした車がセダンのつもりがミニバンだったのですが、とりあえず乗って妻のもとへ向かいます。ところがダッシュボードの中には携帯電話が入っていて変なメールが届いています。さらに、座席の隙間から拳銃が出てきて、何かやばいことになってきます。さらには、後部座席の後ろのトランクからさるぐつわされた女性が出てきて、さらにびっくり。かかってきた電話に出れば、相手は警察で、潜入捜査のための車と入れ替わったので、車を取替えに指定の場所へ来てくれと言います。一方、気がついた女性の話を聞くと、彼女は検事のレイチェル(レイチェル・シャバング)で、警察署長の汚職を告発しようとしたら、誘拐されたのだというのです。警察との待ち合わせ場所へと行ってみれば、突然銃撃され車に追跡されます。何とか逃げ切ったものの、レイチェルは流れ弾に当たってしまいます。虫の息の彼女は、法廷のための証言をマイケルの携帯に録音し、これを裁判所のいるムズカ検事に渡してくれと言い、息を引き取ります。とんでもないことに巻き込まれてしまった主人公は果たしてどう出るのでしょうか。

南アフリカ出身のムクンダ・マイケル・デュウィルが脚本を書き、監督もした、サスペンススリラーの一遍です。離婚した妻に会うために南アフリカへやってきた主人公が、おかしなレンタカーを借りたばっかりにとんでもない事件に巻き込まれ、警察に追われる身になってしまうというもの。全編に渡ってドラマは車の中で展開するってのが、ある意味、この映画のこだわりになっています。派手なカーチェイスもあるのですが、引きの絵がほとんどなく、車載カメラからの絵ばっかりなので、迫力はあっても、どこがどうすごいのかよくわからなくて、もっと絵をちゃんと見せろと言いたくなる映画でもあります。カメラがある場所から出ないというと、棺おけの中でお話が展開する「リミット」を思い出すのですが、携帯電話で外界とやりとりしているところですとか、主人公のアップがやたら多いところ、主人公が車に閉じ込められたのと同様のシチュエーションになっているなど、似たような雰囲気を持っています。主人公が車の中から色々なアイテム(携帯電話、拳銃、さるぐつわの女性)を発見するというのも、「リミット」に通じるところがありますし、このストーリーはそのままアドベンチャーゲームに使えそうな感じです。

初めて来た外国で、言葉もあまり通じない孤立無援の主人公が、たまたま乗ったレンタカーのせいで、どんどん状況が悪化していって、命も危なくなってくるという展開はなかなかにスリリングです。マイルス・グドールの撮影もわざと異国情緒を狙った絵作り色作りをしていまして、ヨハネスブルグの街のインサートカットをたくさん入れたデュウィルの演出も、そんな異国の地での主人公の孤立感を表現しようとしています。85分という短めの時間、そして、異国という主人公にとっての閉鎖空間での巻き込まれサスペンスと、面白くなる要素満載な筈なんですが、見終わってみれば、うーん、そこそこかなあって後味になっちゃったのが意外でした。

やっぱり主人公のアップばっかりってのは、ポール・ウォーカーのファンならいざ知らず、普通の観客にはしんどいんですよ。後、意外とお話の展開がたるいというか、遅いのも残念。場面がずっと車の中なんだから、もっと色々なネタを盛り込んで、シャキシャキ進んでいただきたいと思うのですが、デュウィルの演出は、ちょっと普通すぎ。車の中だけで展開するという制約を設けた時点で、それなら普通以上にネタを盛り込まないと絵の単調さで退屈しちゃうってところまで気が回らなかったのかなあ。普通の展開にするなら、敵方とか奥さんとか車外のドラマもきちんと描いてくれたら、もっと面白くなったと思うのですよ。変に、気取ったワンシチュエーションドラマにしようとしたけど、それを仕上げるパワー不足といったら酷かしら。でも、そんな感じなんですよ。本当なら、ずっと緊張した空気感で引っ張れる、引っ張るべき話なのに、なーんかノンビリと観ちゃったのは、悪い意味で意外でした。また、引き合いに出して申し訳ないのですが、「リミット」はそのあたりがすごくよくできていたのですよ。また、この映画がどうも「リミット」の影響下にあるのではないかと思うくらい、似ているところが多いので、つい比較しちゃいますが、動き回れる車を舞台をしたドラマにしては、棺おけを舞台にした「リミット」ほど動きがないのです。

そうは言っても、つまらない映画でもありませんし、ひどい映画でもありません。ノンビリ観るには結構楽しめる映画には仕上がっていますし、ラストにきちんとカタルシスもあります。設定、ストーリーなんかを見る限りでけなす要素はないですし、それをきちんと映像化しています。比較するなら、セガール映画よりもちゃんとしてますから、娯楽度はあります。ただ、華はない映画ですし、そうお金もかかっていません。昔で言うなら2本立て映画の、併映の方だと言ったら、その感じ伝わりますでしょうか。



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マイケルは、レイチェルの死体を置いて、車を裁判所へ走らせるのですが、彼はいつの間にかレイチェル殺しの犯人として指名手配されてしまいます。ムスカ検事に電話がつながるのですが、マイケルには射殺命令が出ているから、裁判所は危険だと警告されちゃいます。その警告を無視して、裁判所に向かうマイケルですが、パトカーやヘリの追跡を受けて、裁判所の手前で追い詰められます。そこを強行突破して、裁判所の前にいたテレビレポーターを人質に取るマイケル。警察は彼を逮捕しようとしますが、そこへ現れた検事が彼を殺そうとします。しかし、レポーターのマイクを通して、レイチェルの証言が放送されて、マイケルは検事の銃で撃たれたものの一命をとりとめ、一躍英雄となるのでした。そして、例のバンはまたレンタカー置き場に並べられるのでした。おしまい。

結局、何がどうなって、マイケルのレンタカーに、銃と携帯とレイチェルが入っていたのかは最後まで説明されませんでした。そのあたりの大雑把さはまあ許容範囲ではあるのですが、ラストはちょっと都合よすぎという感じでした。普通の主人公が外国でとんでもない事件に巻き込まれるまではありなんですが、ラストで義憤にかられて命がけで裁判所へ突っ込むというのは、やりすぎだよなあ。普通なら、元妻が大使館員なんだし、行くところはアメリカ大使館でしょと思うのですが、そこまで気がまわらなかったってことなのかなあ。ポール・ウォーカーもキャラが曖昧なせいか、感情移入するまでには至らなかったのは残念でした。最初の設定で期待させるところが多かっただけに、もう一声って感じの後味になってしまいました。

「フライト」から垣間見える神の意志がなかなかあなどれない


今回は、新作の「フライト」を銀座丸の内ピカデリー2で観て来ました。ここは大きなスクリーンで真正面は2階席という作りになっています。TOHOシネマズみたいな変なミニドラマやらないのはありがたい。

酒浸りの旅客機パイロット、ウィップ(デンゼル・ワシントン)は、3日間飲み続け、その日の朝も酒とコカインを決めて朝のフライトに臨みました。その日は悪天候で離陸早々乱気流にみまわれますが、それを余裕で乗り切ったウィップ。しかし、到着直前に尾翼の異常から降下が止まらなくなり、やむなく機体を逆転させて高度を保つという荒業を見せ、飛行機は不時着したもの102人中96人の命を救い、彼は一躍ヒーローとなります。しかし、病院で血液検査がされ、その結果、アルコールとコカインが検出されたことから、彼は刑事訴追の危機に直面します。酒とコカインと事故の犠牲者の因果関係が立証されたら、彼は一生刑務所の中かもしれないのです。彼はマスコミから隠れるように、祖父の農場に移り、病院で知り合った薬物中毒の女性ニコル(ケリー・ライリー)と一緒に暮らすようになります。前日、ウィップとベッドを共にしたCAのカテリーナは事故で死亡し、その体からはアルコールが検出されていました。事故の公聴会を控えたデリケートな時期でありながら、ウィップは酒をやめることができません。どうみても立派なアル中です。会社からの弁護士の働きで、ウィップの血液検査には難癖がつけられて、証拠としての能力を失効していましたが、さすがに酔っ払って公聴会に出られても困るので、組合のチャーリーは彼を何とか助けようとするのですが.....。

「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のロバート・ゼメキス監督の新作です。ジョン・ゲイティンズが脚本を書き、ゼメキスにとっては「キャスト・アウェイ」以来の12年ぶりの実写ドラマとなります。デンゼル・ワシントン扮する機長が、旅客機事故での英雄的な行動で多くの命を救うのですが、その時、酒とクスリをやっていたことがわかり、その責任を問われそうになるというお話です。ワシントン扮する主人公だから、酒やクスリをやってはいても、それなりのポリシーと器を持った男かと思わせるのですが、さにあらず、酒に依存しきったダメダメな主人公を演じているのがまず意外でした。

オープニングの飛行機事故のシーンはゼメキス演出の緻密さもあった迫力満点。突然の降下、高度を維持するために背面飛行するシーンから不時着までをスリリングに描きます。その中でのウィップの行動は立派で確かに英雄的です。ここまで見ている限りは彼の行動が非難されることは想像がつきません。その事故と並行してカットバックで挿入されるのが、ニコルのエピソード。知り合いのヤクの売人のところへ行き注射してはいけないという強いクスリをゲットし、自分の部屋でつい見つけてしまった注射器で、それを注射し、救急車で運ばれてしまいます。見ていて、この女は誰だ?どう絡んでくるんだろうと思っていると、ウィップとニコルが病院で知り合い、その後、一緒に住むようになるのです。

飛行機が不時着して意識を失ったウィップが目を覚ましたのは病院でした。彼は負傷していましたが、何とか動ける状態でした。6人の死者が出て、そのうち2人が乗務員だったことにショックを受けるウィップでしたが、それでも自分がやったことはベストであり、他の人間にはできないことだという自負はありました。でも、自分から酒とコカインが検出され、下手をすると一生刑務所になることを聞いてかなり動揺。病院を出て、農場の家に行ったとき、家の酒を全部処分するんですが、いつの間にか、また酒を飲み始めています。見ていて、刑務所の話がショックで飲み始めたのかと思ったのですが、そのひたすらな飲みっぷりに、あまりよくないタイプの酒飲みだということがわかってきます。そして、酒を飲むのはよくないとわかっていつつやめられない、酒に依存してしまう、アル中の顔が見えてきます。彼には奥さんと子供がいたのですが、酒が原因で離婚しています。酔っ払った状態で飛行機を操縦したことについても、結果オーライなんだからということであまり罪の意識はありません。

物語が進んでいくにつれて、ウィップのダメな顔がどんどん画面に登場します。当日は酒の匂いをさせての搭乗でしたが、同僚のCAにいつもどおりの問題ない勤務状態だったと証言してくれと頼んだり、なんだか無様というか情けない。公聴会の前日も偶然隣室のドアが開いていたので、ルームバーの酒を全部空けてぐでんぐでん。公聴会に間に合わせるためにウィップの友人のヤクの売人を呼んで、コカインで目を覚まさせるなんてくだりが出てくると、もうこいつダメじゃんという感じです。全てが自業自得。最初はそれでも、無事に96人を生還させた英雄だという顔が前面に見えています。ところが後半は、ただの酔っ払いが自己弁護しているだけの図になっていきます。事故自体は機体の故障が原因であり、ウィップに事故の責任は問われません。後は彼と彼自身のプライドとの葛藤になっていくのです。

この映画の冒頭、ウィップの同僚のCAが熱心なクリスチャンであることが示されます。また、飛行機は教会のすぐ側に不時着し、信者が救出活動に当たっています。重傷を負った副操縦士は熱心なクリスチャンであり、死なずにすんだことを神のご意志だと言います。ウィップが病院で出会ったガン患者の男は、自分の病気と信仰にうまくおりあいをつけていて、ニコラとウィップが出会ったことも運命の一つなんだとウィップに説きます。このように、この映画には意外なほど神が登場してくるのですよ。クライマックスの葛藤で、ウィップも神にすがります。そして、この映画全体に神の意志が働いているのではないかと思わせるあたりが面白いと思いました。酒におぼれてダメになっていくウィップに、飛行機墜落を止める力を与えたのも神の意志なら、そんな彼に酒を飲ませ続けるのも神の意志。ニコルと出会い、クスリ中毒の彼女を助けようとすることで、自分の状況を変えよう思い始めるのも、そしてクライマックスで一つの決断をするのも神の意志ではないのかということです。世の中には偶然なんて何もない、全ては必然でそこには神の意志が働いているのだという見せ方なのです。信仰の薄い私にはピンと来ないお話なのですが、人間にはダメになるときがあって、そこから自分を救い出すためのきっかけや出会いがあり、それは偶然のようなただサイコロを振った結果でないのだというのは、人生の一つの向き合い方として、ありなんじゃないかと思いました。きっかけが神の意志であり、最終的な自分の選択も神の意志なのだというわけです。この映画のウィップはそう考えているわけではないのですが、この映画に登場する人物の何人かは、信仰によりそう思っています。そう考えると最後にウィップに質問する調査委員会のエレン(メリッサ・レオ)は審判を下す神であり、或いはウィップを正しい道へ導く天使のようにも思えてきます。

ゼメキスの演出は2時間以上の長めの尺を使ってウィップという人間を様々な角度から丁寧に描いていきます。また周囲の人間をきっちりと描くことで、彼は孤独ではなく、色々な人間の助けと善意によって支えられているということも見えてきます。最初、自分のことしか見えていなかった独善的な主人公も最後にそれに気づきます。酒やクスリのことではウソばかりついてきた、ウソつくことに慣れちゃってるから、何を言うにも罪の意識もない主人公は、公聴会も余裕でウソを突き通せる筈だったのです。



この先は、結末に触れますのでご注意ください。



公聴会の当日、二日酔いをコカインでスッキリさせて、ウィップは公聴会に臨みます。もともと、彼を糾弾するつもりはない調査団の質問は当たり障りのないものであり、彼にとっても楽勝のやり取りでした。彼は自分のプライドと嘘を守りきったように見えました。調査委員のエレンは最後の質問として、ドリンク禁止の機内のゴミ箱から酒ビンが見つかったことを指摘し、これは乗務員の誰かが飲んだものだと言い、検査結果からアルコール反応の出たのは死んだCAのカトリーナだけだったと言います。ウィップの検査結果は、弁護士がクレームをつけたおかげで判断不能とされ、証拠にされていませんでした。その上でエレンは、この酒はカトリーナが飲んだのだと思うか?と質問を投げかけます。回答に窮するウィップ、うめくように神に救いを求めた後、彼は答えます。「それは違う。私が飲んだものだ。私はアル中だ。」彼の告白に場内はどよめきます。そして、刑務所の中でこれまでの自分を省みながら、囚人たちの前で話すウィップ。その表情には安堵の情が見え、以前より自由になったと彼は語ります。刑務所に息子が面会に来ます。息子は受験の作文の題材に父親を選んだようです。そして、息子からの質問「Who are you?」。ウィップのアップから暗転、エンドクレジット。

ウィップが最後に神にすがった末の結論は嘘を止めることでした。前日、深酒をして、コカインで決めてから証言しようってのは呆れた奴です。弁護士も友人もあきれても立場上見捨てられないのが何だか気の毒に見えてきます。公聴会の最後の質問は、まるで神の審判であるかのように彼の胸をえぐります。ここにも神の意志が見え隠れするあたりが面白いと思いました。そこまでの積み重ねがまるで神の導きであったかのように、彼は最後の最後で本当のことを言います。私のような、特に信仰のない人間に、神の意志なんてものを感じさせるのですから、なかなかに巧妙なドラマ作りだと思いました。主人公は弱い人間として描かれます。酒の誘惑には勝てない、ウソをつくことに良心が痛まない、人並みの自己保身はする。そんな人間が、ぎりぎりのところでする選択が、神の意志によるものなのかもしれないって思わせるのです。それを人間の良心と呼ぶこともできましょう。でも、ひょっとしたら、その良心のよりどころが神なのかもしれないと思わせる瞬間がこの映画にはあります。でも、そういうよりどころを心に持つことで正しい行いをする人間ってのは、やっぱり賢いんだなあとも思わせる映画でした。

「世界でひとつのプレイブック」はいい話なんだけど、意味不明な邦題で損をしてると思う


今回は新作の「世界にひとつのプレイブック」をTOHOシネマズ川崎5で観てきました。ここはこのシネコンで最大のスクリーンで、ゆったりとした大劇場のつくりになっています。そんな大きい劇場で、この地味なを上映してるってのはかなり意外。お客さんもそんなに入ってなかったし。

もともと躁うつ病を持っていたパット(ブラッドリー・クーパー)は、妻が同僚教師と浮気している現場に遭遇、逆上して相手をボコボコにしちゃって、強制入院。8ヵ月の入院の後、母親(ジャッキー・ウィーバー)の奔走もあって何とか退院したものの、妻、職場には接近禁止中、情緒不安定で、やっぱりこいつ治ってないなあって日々を送っています。友人の家に食事に招かれた夜、そこで奥さんの妹ティファニー(ジェニファー・ローレンス)に紹介されます。彼女は、警官のダンナを事故で亡くすは、失業しちゃうは、散々な状況で、カウンセリングにも通っています。食事の帰り道に、彼女の方から寝ようとアクションかけられ、いや妻帯者だしと拒否するパット。それからは、パットのジョギングコースにストーカーのように現れるようになるティファニー。一方のパットは、ティファニーが妻と会う機会があることから、接見禁止の元妻に手紙を送ってもらおうということで、彼女に接近します。手紙を渡す条件にティファニーが提示してきたのは、パットと一緒にダンスコンテストに出ること。ティファニーの家で練習開始、最初は気乗りがしなかったパットでしたが、だんだんとやる気が出てきます。一方、パットの父親(ロバート・デ・ニーロ)がフットボールの賭けで大金を失い、さらに倍の賭けとして、フットボールの試合とダンスコンテストの得点のダブル賭けを受けてしまい、パットとティファニーのダンスにパットの家の全財産がかかってしまうのでした。果たして、ダンスコンテストと二人の関係はどうなるかしら。

アカデミー賞で8部門ノミネートされ、ジェニファー・ローレンスが主演女優賞を受賞した、一捻りしたラブストーリーの一編です。マシュー・クイックの原作を、「ファイター」「スリー・キングス」のデビッド・O・ラッセルが脚色し、メガホンを取りました。ラッセルの映画は「スリー・キングス」と「ハッカビーズ」しか観たことがないので、どこか斜に構えた映画を撮る人という印象がありました。この映画も、冒頭からちょっと普通でないところから物語が始まるので、オフビートなコメディなのかなと思いながらスクリーンに臨みました。

主人公のパットは、暴力事件を起こし、躁うつ病で8ヵ月も入院していました。奥さんとはまだ愛し合っていて、関係の修復は可能だと思いこんでいるあたりは、病気以前に性格としての問題がありそうです。家に帰っても、感情がうまくコントロールできなくて、常人とは違う行動をとってしまうパット。正直言ってあまり係わり合いになりたくない人であるパットですが、病人と変わり者のやや病人寄りのポジションにいるあたりのリアリティが結構痛いです。そんな彼がダンナと死に別れたティファニーと知り合うわけですが、これがまたかなりの変人キャラ。ダンナを失ってから、会社の連中みんなと寝てその結果クビになったというのですから、不幸とビッチは紙一重です。そんな二人はいがみあってるけどつるんでるという、日本の昔ながらのラブコメみたいな関係になります。通常のラブコメパターンをちょっとひねったら、日本のツンデレラブコメのパターンになるんだというのは意外な発見でした。

そんな二人を取り囲む面々がそれぞれ印象的に描写されているのも好印象でした。パットの両親は、パットに劣らぬ変わり者で、息子とキャラではいい勝負をしているのですが、その一方で、細やかな人間味も見せてくれています。ロバート・デ・ニーロ演じるフットボールファンの父親が精神病院に入院した息子に対する負い目を吐露するシーンはホロリとさせるところがありましたし、ジャッキー・ウィーバー演じる母親の、いつも周囲にはらはらしているリアクションのおかしさが楽しかったです。その他にも、友人のロニー(ジョン・オーリッツ)とヴェロニカ(ジュリア・スタイルズ)夫婦、カウンセラーのクリフ医師(アヌバム・カー)、パットの兄のジェイク(シェー・ウィガム)、病院で一緒だったダニー(クリス・タッカー)といった面々がドラマの中で、生きた人間としての息遣いを感じさせてくれます。周囲の人間をきちんと描くことで、変わり者の主人公二人をうまーく普通の人間のドラマに溶け込ませることに成功しています。そして、そういう人間の群像ドラマが展開することで、主人公二人のいいところ、憎めないキャラが浮き上がってくるのが見事でした。最初は二人に拒否反応を感じていたのですが、だんだんと応援したくなってきちゃうのは、演出のうまさなのだと思います。

物語の中盤までなかなかラブストーリーの展開になってきません。二人きりでダンスコンクールの練習をするという時点で、物理的にはものすごく接近するのですが、お互いに対する感情がドラマの前面には出てきません。秘めた想いはありそうなんですが、パットはあくまで妻との関係修復が主眼のようです。ティファニーの方は明らかにパットが好きみたいで、そのツンデレぶりがかわいくもあるのですが、素直になれないのがやや気の毒でもあります。恋愛の紆余曲折を見せるのではなく、恋愛モードに入るまでを見せるお話なので、普通のラブコメの呼吸とは違っています。そこが他の映画とはちょっと違う味わいになっていると言えますが、ツボのはずし方がラッセルらしさなのかなと思いました。

主演の二人はオスカー候補になるだけあって、ブラッドリー・クーパーは独善的なアブナい奴から、だんだんといい男に見えてくるのを巧みに演じています。ジェニファー・ローレンスは普段が仏頂面という変わり者ヒロインに普通の人間の血を通わせることに成功していて見事でした。躁うつ病の主人公という設定は前半で使い切って、後半は不器用な二人のラブストーリーへとシフトしていくのですが、その切り替えの巧さもあって、精神の病を持った人間が普通の恋愛を成就させるまでがコミカルに共感できる形で描かれています。また物語としての起伏の少ないストーリーで、2時間ちょいの時間をだれることなく楽しませる職人的手腕も点数高いと思います。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



父親が家財をすっかり賭けるというのに呆れたパッドは、ダンスコンテストには出ないと宣言します。でも、ティファニーは彼の妻が見に来るからと言いくるめて、彼をコンテストに引っ張り出すことに成功します。そして、コンテストの日、フットボールの試合は、父が賭けたチームが勝利を収めます。後は、コンテストでパットとティファニーのペアが10点満点の5点以上を取れば、賭けに勝てるのです。もともと、素人に毛が生えた程度の二人では、プロもエントリーしているコンテストで優勝なんてとんでもない、ビリにならなきゃラッキーというレベルでした。ところがそのコンサート会場にパッドの妻がやってきているではありませんか。それを見たティファニーは「ありえない」と逆上、コンテスト前にウォッカをあおっちゃいます。それでも二人の順番となり、何とか最後まで踊るのですが、一生懸命練習した大技は失敗しちゃいます。で、得点が出たら、ギリギリの5.0。とにかく賭けには勝ったので、関係者大喜び。周囲は怪訝。妻のところへ言って言葉を交わすパット、一方ティファニーは一人で会場を後にします。ティファニーの後を追ったパットは彼女をつかまえて手紙を渡します。そこにはパットからの愛の告白がしたためられていました。抱き合う二人、でめでたしめでたし。

コンテスト会場に現れたパットの妻を見たティファニーのぶち切れぶりがおかしかったのですが、そこでコンテストをばっくれるかと思いきや、そうはならずにきちんとやることはこなします。ティファニーは最初から、パッドのことが好きだったのに、奥さんとの橋渡しをやるって時点でかなり屈折してはいるのですが、その屈折ぶりに対し、パットはあくまで奥さんとの元さやを望んでいたので、二人の恋愛感情がはっきりしないまま、最後でやっとお互いの想いが通じ合うあたりは、ある種のカタルシスがありました。

二人がラブラブになったところでおしまいという結末は意外とあっけないかなとも思ったのですが、脇役も含めて丁寧な人物描写もあって、映画としてのボリュームは十分でした。前半で、主人公をあえて社会不適合者として描いておいて、後半でそのキャラを膨らませる中で、共感を呼ぶようにする構成はうまく、その演出に演技陣も見事にこたえていたように思います。

ところで、この邦題はさっぱり意味がわかりませんでした。映画の内容も想像できないし、日本ではプレイブックというものが知られていませんもの。こういうときはもう少し映画の内容が想像できる邦題をでっち上げてくれないものかしら。精神障害者を主人公にしているから、内容を反映した邦題を付け直すことに腰が引けちゃったのかな。いい映画なのに、少なくとも題名だけだと全然食指が動きませんもの。

「レッド・ライト」は題材は面白いし、意外な展開を見せるけど、何かカタルシスがないような


今回は、新作の「レッド・ライト」をTOHOシネマズみゆき座で観てきました。TOHOシネマズの予告前に上映されるミニドラマがものすごくうざくてかなわないのです。(今回のバージョンは偉そうなオヤジがムチャ不愉快)映画を観る意欲が減退するくらいイラっとくるのですが、そう思うのは私くらいなのかしら。

大学の物理学の講義をもっているマシスン博士(シガーニー・ウィーバー)とバックリー博士(キリアン・マーフィ)は超自然現象の研究も行っていて、そういう話があると調査に赴くのですが、ホンモノの超自然現象に当たったことはまだありません。警察と一緒になってサギ超能力者を告発する手伝いもしています。そんな時、1970年代に超能力者として一世を風靡したサイモン・シルバー(ロバート・デ・ニーロ)が30年以上の沈黙を破って、表舞台に返り咲いてきます。マシスン博士には4歳の時から事故でこん睡状態の息子がいました。1970年代にマシスンとシルバーの対談番組があり、シルバーに息子のことを言い当てられたマシスンは何も言い返せずに苦い思いをしたという過去がありました。バックリーは、シルバーはペテン師に違いないと、調査しようと言うのですが、マシスンは彼には近づくなとバックリーを止めます。それでも、バックリーは彼の調査のために劇場の隠し部屋でシルバーを監視しようとするのですが、そこで機材や舞台装置が爆発、やっぱりシルバーの超能力はホンモノなのかしら。

「リミット」という大層面白いサスペンススリラーがあったのですが、その「リミット」のロドリゴ・コルテス監督の新作です。今回は、彼が脚本も書いています。「リミット」は限定空間で登場人物一人というある意味飛び道具の映画だったのですが、今回はまともな構成のスリラーになっていまして、コルテス監督の真の力量がわかる企画となっています。映画の冒頭は、超常現象が多発するという家にマシスンとバックリーが調査にやってきます。主人と妻、そして娘の住む家にいろいろな現象が起こるというので、そこには霊媒が来ていて交霊を行うことになります。しかし、それは全て娘のやったこととマシスンは見抜き、霊媒の起こしたテーブル浮遊も絵解きして見せます。なるほど、この映画は、科学者の視点を軸に動いていくんだなあと思ったのですが、お話が進むに連れて、その軸足が不安定になっていくところが、意外な展開でした。でも、それはストーリーの流れがスムースでなくなるということも意味していまして、ケレン味たっぷりのホラーショック演出が出てくると、この映画はどこに行くのだろうという気分になってきます。観客をぐいぐい引っ張っていくというよりは、不安にさせて興味をつなぐという演出は、お気楽娯楽映画を楽しみたい私には、今一つでしたが、ラストに向かうに連れて、それが必要だったことがわかってきます。

この映画のカギになっているのは、サイモン・シルバーの超能力がホンモノかペテンかというところ。それに対峙する、マシスンとバックリーのスタンスが丁寧に説明されているところは評価できると思います。彼らは超自然現象の存在を否定していません。ですが、実際の事例を調査してみるとホンモノには出会ったことがありません。意図的なペテンもあります。例え話として映画の中で語られる「母親が胃の調子が悪いから、超能力者に透視してもらったら何ともない言われて安心したけど、実は胃がんだった」という話は耳を傾けるに値します。ペテンを信じ込むことによるリスクは思っている以上に大きいのです。また、インチキ超能力者のトリックも見せてくれます。会場の前で入場を待っている人たちをチェックし、話を立ち聞きして、そのネタから、初対面の観客のプライバシーを当ててみせるというもの。トリックとしては超原始的なんですが、その効果は抜群で多くの人がペテン師を超能力者だと思い込んでしまうのです。この映画では、そういうくだりを丁寧に描いていまして、そこが面白いと思ったのですが、ミスリードの道具にも使っているのは、微妙な後味になってしまいました。

リアルさとケレン味がごっちゃになっているところは、人によって好き好きが分かれると思います。二転三転するストーリーを堪能すると言う意味では、この胡散臭さが面白さになっていると思います。一方、前半のドラマのスタンスを足元からひっくり返す展開は、期待の斜め上を行ってる感じで、どこかすっきりしないところもあります。冒頭では主人公みたいに登場するシガーニー・ウィーバーが実は脇役で、脇役と思っていたキリアン・マーフィが後半に主役になるという展開も意外性を狙ったと言う点では成功しているのですが、若干の置いてきぼり感も感じてしまうのですよ。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



シルバーの公演中、調査機器のスイッチを入れた途端に機器や舞台の機材が爆発、ほうほうのていで研究室に戻るバックリー。そこにはマシスンが倒れていました。病院へ送られるのですが、搬送先でマシスンは死亡。それからというもの、彼の周囲で不可思議な現象が起こるようになります。バックリーの勤める大学で、シルバーの超能力の実験が行われることになり、彼は強引にメンバーに紛れ込んで実験を監視します。そこでは、うまくいったものもあり、うまくいかなかったものもあったものの、うまくいったものについては超能力としては認めざるを得ない状況でした。そして、シルバーは最後の公演を行うことになり、その夜、大学としての公式見解を出すことになっていました。バックリーは、実験の映像から何かをつかもうとするのですが見つけることができないまま、シルバーの公演会場へと向かいます。実験映像の解析を任された学生ベンとバックリーの恋人サリー(エリザベス・オルセン)は、テレパシー実験の映像から、試験者とシルバーの時計が秒針まで一致していることを発見します。その秒針の位置によって、情報を伝えることが可能だったのです。シルバーのテレパシーはインチキだったのです。一方、バックリーは公演の休憩中のトイレでシルバーの部下の男にボコボコにされてしまいます。それでも、バックリーは公演中のシルバーの前に現れ、彼を挑発します。すると、舞台に異変が起こり、シルバーはバックリーに向かって叫びます。「どうやったんだ?」実は超能力者はシルバーではなく、バックリーの方だったのです。それまでにバックリーの周囲で起こった不可解な現象は彼自身が起こしていたのです。唖然とするシルバーや観衆を後に、バックリーは会場を去っていくのでした。

バックリーが超能力者であることの伏線はあちこちに登場していましたが、私は最後まで気付きませんでした。それは、この映画が超能力について懐疑的な立場を取っていると思い込んでいたからです。前半の振りがラストへのミスリードだとわかったときは「ありゃあ」という気分になっちゃいました。映画の中盤まで行かないうちにマシスンが死んじゃうとか、色々な意外性を持った展開で見せる映画ではありましたが、それが娯楽映画としてのカタルシスにつながっていないように思いました。中盤は、ホラー映画のショック演出を多用したり、シルバーが個人向けの施術をしているといったエピソードがあったり、観ているほうを混乱させる趣向が多すぎたのではないかしら。

結局、ペテンだと判明したシルバーの超能力はテレパシーだけで、スプーン曲げは判断がつかず、念写は一応の成功をしています。ホントのところはよくわからないということを言いたかったのかしら。それとも、テレパシーがウソだから他も全部ウソだということにしちゃったのかなあ。マシスン博士のスタンスからすれば、インチキだと判明するまでは、その可能性を否定しないのではないかと。そこは、超能力への向き合い方として重要なところなので、曖昧にして欲しくなかったです。

「リミット」でもこの監督と組んでいるビクトル・レイスの音楽が重厚なオーケストラ音楽を鳴らして、ドラマの重しになっていました。
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einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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